留学を考える その19 デラウェア州—The First State

私の趣味の一つはアメリカの自動車のライセンスプレートを蒐集することです。プレートのデザインやモットーが好きなのです。ですがすべての州を回って探したわけではありません。合衆国の歴史について小学校の時から興味があった私にはどうしても取り上げたい州があります。それがデラウエア州(Delaware)です。

デラウェア州は合衆国の歴史では、13の植民地の中で最初に憲法を批准した州として知られています。それによって、ライセンスプレートには「The First State」と書かれています。独立戦争の頃、英国と戦ったのは13の植民地の人々です。独立戦争は合衆国の明暗を分けたドラマチックな戦いです。

デラウエア州は、ロードアイランド州(Rhode Island)に続き二番目に小さい面積の州です。北はペンシルバニア(Pensilvenia)、東はニュージャージー(New Jersey)、西はメリーランド(Maryland)に隣接しています。州都はドーバー(Dover)です。大西洋に面しているので、古くから移民が植民地として開拓してきたところです。

デラウェアに移住してきたのは、スウェーデン人といわれています。それは1638年頃で、デラウェア湾河口に初めての植民地を築きます。ヨーロッパ諸国とは違ってインディアンから土地を買い上げ、この入植地を「ニュー・スウェーデン(New Sweeden」と名付けて開拓地を広げていきます。やがて、オランダからの入植者とのいざこざがあり、スウェーデン人は数に勝るオランダ人から追い出されていきます。

人口の比率ですが、黒人、アイリッシュ、ドイツ、イングリッシュ、そしてイタリアンの順で占めています。意外と多いのはユダヤ系の人々です。沢山のシナゴーグ(Synagogue)が点在する州でもあります。合衆国におけるユダヤ人の活躍は政治、経済、科学、文化で目覚ましいものがあります。

デラウェア州のサイトを調べますと、主要な農業製品としては鶏卵、大豆、酪農製品、そしてコーンとなっています。小さい州ですが、工業では、化学製品、自動車、食品加工、製紙、ゴムやプラスチック製品などが知られています。一般に他の州よりも生産高の割合は高い水準にあります。

大学ですが、デラウェア大学(University of Delaware)の本校がNewarkにあります。デラウェア大学はDover校、Wilmington校,、Lewes校、Georgetown校からなります。創立は1743年に遡る伝統校です。 現在の上院議員で副大統領であるバイデン(Joe Biden)が学んだ大学です。

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留学を考える その18 コネチカット州—Constitution State

コネチカット(Connecticut)。実にいい響きです。ライセンスプレートには「Constitution State」とあります。最初の憲法の基となった州ということです。合衆国の北東部、北大西洋岸は、前にも紹介したように、ニュー・イングランド(New England)と呼ばれています。ここに小さな州がいくつかあります。その内の一つがコネチカット州です。首都はハートフォード(Hartford)となっています。東にはロードアイランド州(Rhode Island)、北にはマサチューセッツ州(Massachusetts)、西にはニューヨーク州(New York)と隣接しています。

コネチカットは英国の統治時代、13の植民地の一つでした。1639年に植民地としては最初の「基本法規」(Fundamental Orders)というのを制定します。これはやがてコネチカットで最初の憲法となります。この憲法は合衆国の初代憲法に大きな影響を与えます。コネチカットは英国から独立を宣言する最初の13州の一つとなります。

コネチカットへのヨーロッパからの植民はオランダから来たといわれます。ピューリタン(聖教徒)の人々です。やがてアイルランド、イングランド、フランス、ドイツ、ポーランド、イタリア、ポルトガルなどから移民が押し寄せます。その後プエルトリコ(Puerto Rico)などからも人々がやってきます。その中で、ポーランド系やアイリッシュ系の人々が多いのが特徴となっています。

産業ですが、農業はもとより酪農、製造業、漁業も盛んな州です。ロブスターや貝も知られています。ジェット機エンジン、ヘリコプターや航空機の部品、素材産業、原子力潜水艦の建造と関連の軍事産業、精密機械、化学薬品の製造が盛んです。企業ではスポーツ放送のESPN、ボーイングとエアバスのエンジンを開発するゼネラル・エレクトリック(GE)、シコルスキーヘリコプター(Sikorsky Aircraft)本社などがあります。

大学は、1881年創立のコネチカット大学(University of Connecticut)。発足当時は農学の研究と人材養成が主でした。州内にはStamford校、Avery Point Waterbury 校、Torrington校といった分校もあります。

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留学を考える その17 コロラド州—Centennial State

コロラド(Colorado)は山岳地帯の州です。南北にロッキー山脈(Rocky Mountains)が貫き、州全体の平均標高が合衆国で一番高いところです。州の東側は大平原: グレートプレーンズ(Great Plains)が広がります。州都であり最大の都市はデンバー(Denver)です。

デンバーは標高が約1マイル(約1,600メートル)なので、マイル・ハイ・シティー(Mile High City)の愛称で呼ばれています。 デンバー市内には多くの日系人が住んでいます。その数、約1万4千人。 「ロッキー時報」という日本語の新聞が発行されているのもうなずけます。

コロラド州の商業や経済は多様です。金融センターであるデンバーを中心に、科学研究及びハイテク産業が集中しいます。他の産業は食品加工、輸送設備、機械、化学製品、稀少資源の開発そして観光業となっています。

州都デンバーから車で一時間ほど南に下ると、ロッキーでも一段と高く聳える「パイクスピーク(Pikes Peak)」がみえます。その山麓の台地には、アスペン(Aspen)などの綺麗な街並みが広がります。コロラド・スプリングス(Colorado Springs)も全米で知られる町です。ここは都市の規模に比べて物価が安く、アメリカでも最も住みやすい町の一つとなっています。

この住み心地の良さを支えるのは、巨大な国防総省の施設によってもたらされる経済効果です。空軍士官学校や共同防衛組織があります。ロッキーの山中には、北米航空宇宙防衛軍や軍事衛星による監視や弾道ミサイル防衛を担う戦略基地が掘られています。

私は小さいとき、進駐軍の放送から「コロラドの月(Moonlight on the Colorado)」というアメリカ歌曲をしばしば聞いたことがあります。ネット上で歌詞を調べると次のようにあります。今思えばませた曲を聴いていたものです。

「コロラドの月の夜に
想い出は いやます
恋の日の しのばれて
さびしさに 涙す
むすびし 恋も
あだに 君はいずこぞ
コロラドの 月の夜に
なれも 我をば待てる」

という恋歌です。当時はそんなことを知るべくもありませんでした。そして私がデンバーを訪ねたのは学会発表の1987年です。デンバー大学(University of Denver)の看護学科の准教授の案内で市内の学校を見学しました。この准教授を国立特殊教育総合研究所に案内したことがきっかけでした。最も規模の大きい大学はコロラド大学(University of Colorado-Boulder)です。留学生活をおくるには快適な土地といえます。

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留学を考える その16 カリフォルニア州—The Golden State

日本人に最も馴染みのある州の一つ、カリフォルニア州(California)は南北に長い形をしていて、北はオレゴン州(Oregon)に東はネバダ州(Nevada)、アリゾナ州(Arizona)に、最南端のサンディエゴ(San Diego)からはメキシコと国境を接しています。長い海岸線や高低差によって、海岸と内陸ではかなり気温や気候が異なります。この気候は地中海性気候といわれています。降雨量が少ないのと急激に人口が増えたために水資源の不足がしばしば取りあげられています。

州都はサクラメント(Sacramento)です。サンフランシスコ(San Fransisco)を北上しブドウ畑が広がるナパ・バレー(Napa Valley)から東へ向かうとサクラメントに着きます。西部開拓時代の街角のOld Townは保存されていて当時の開拓時代の気分を味わえます。

カリフォルニアといえばロサンゼルス(Los Angels)やサンフランシスコ、サンディエゴなどの大都市ですね。ロサンゼルスはハリウッド(Hollywood)を抱え娯楽産業の世界的中心となっています。サンフランシスコを中心とするベイエリア(Bay Area)は、シリコンバレー(Silicon Valley)をはじめ、全米で最も経済的に進んだところです。農業が盛んなのは中部です。サンディエゴは気候が温暖でアメリカで最も住みよい町といわれています。どこもメキシコの雰囲気が横溢しています。

この州はアメリカでも先進的な行政をするところで知られています。例えば、大気汚染などの問題でメーカー等の産業廃棄物処理・排水規制などの法律が制定されていた。また排気ガス規制など環境関連の規制が全米で最も厳しい州といわれています。ところが財政は厳しいのでアーノルド・シュワルツェネッガー(Arnold Schwarzenegger)前知事も頭を痛めました。彼は経済の低迷や私的な出来事で知事を辞任しました。

メキシコからの移民でヒスパニック系の人口は34%を占めています。ですからメキシコ料理はどこででも楽しめます。またイタリア料理、中華料理、ベトナム料理なども美味しいところです。サンフランシスコの中華街は世界一といえる賑やかさです。

カリフォルニアはハワイと並んで、多くの日本人が移住したところです。1920年代の移民を禁じる排日移民法が制定され、太平洋戦争によってさらに差別や隔離政策が進みます。日系人は土地や財産を没収さながらも子どもを教育し、現在の地位を獲得した苦労話が幾多きかれます。私の知人であるチャールズ・コバヤシ氏(Charles Kobayashi)もそうです。苦労して州判事まで上り詰め、今はサクラメントで成長したお子さんやお孫に囲まれて引退生活を楽しんでいます。

カリフォルニア州の大学機関ですが、スタンフォード大学(Stanford University)、カリフォルニア工科大学(California Institute of Technology: Caltech)は私立大学。カリフォルニア大学ロサンゼルス校 (University of California, Los Angeles: UCLA )、カリフォルニア大学バークレー校(University of California, Berkeley)など世界のトップをいく研究で知られるところです。産業や経済、科学技術、、、、なんでも全米一、世界一を誇りたくなるような雰囲気がこの州にはあります。カリフォルニア工科大学のNASAの技術開発に携わるジェット推進研究所 (Jet Propulsion Laboratory: JPL) が知られています。

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留学を考える その15  アリゾナ—Grand Canyon State

アリゾナ州(Arizona)はニューメキシコ州(New Mexico)、ユタ州(Utah)、ネバダ州(Nevada)、コロラド州(Colorado)、カリフォルニア州(California)と隣接しています。さらに、南はメキシコと長い国境を有しています。今もナバホ(Navaho)、アパッチ(Apache)、ホピ(Hopi)などの部族の居留地が点在しています。サボテンや椰子など砂漠の風景で有名です。州の北部と中央部は松など常緑樹で覆われた高地でもあり、大渓谷(Grand Canyon)の大自然が広がります。地球の裂け目といわれる標高差1.6キロの谷底は観光客を魅了します。

州都はフェニックス(Phoenix)。非常に暑い夏と温暖な冬として知られています。1990年6月に最高気温摂氏50度を記録したこともあるとか。フェニックスから車で北に走ること2時間。セドーナ(Sedona)に着きます。青空を背にそびえ立つ不思議な形の赤い岩山、その前を流れる渓流。数多くのハイキング・トレイル。赤い岩の山は鉄分を多く含んでいます。その独特の景観からセドーナ一帯は「レッド・ロック・カントリー(Red Rock Country」と呼ばれています。セドーナはフェニックスに来たら必ず寄る価値がある所です。

私は、かって兵庫教育大学の大学院生とフェニックスの学校を視察しました。ちょうど客員研究員として招いていたハワイ大学(University of Hawaii)の教授がアリゾナ州立大学(Arizona State University)で研究したことがあったので、セドーナを紹介してくれました。友人からの紹介は心強いものです。アリゾナ大学(University of Arizona)の本部はツーソン(Tucson)にあります。先端技術産業の集積地であるアリゾナバレー(Arizona Valley)において、中核的な役割を果たす機関であり、NASAとの共同研究が活発だといわれています。研究資金が相当あるものと予想されます。

ライセンスプレートには「Grand Canyon State」とあります。最近のものには、「環境を護ろう」(Protect our environment)というフレーズも入っています。

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留学を考える その14 アーカンソー州–Natural State

私はこの州を訪れたことがないので、この州を紹介しずらいことをお断りしておきます。アーカンソー州といえば、かつてのビル・クリントン(Bill Clinton)大統領の出身地です。合衆国の州に昇格したのは1836年。南北戦争(American Civil War)では南部連合(Confederate States of America)に味方する州となります。通常は南軍と呼ばれ、北軍(Union)と対峙した合衆国でした。

南部と北部における経済・社会・政治には大きな違いがあったといわれます。互いに対立するようになります。南部は農業中心の州で構成され、黒人奴隷労働に依存したプランテーションが盛んでした。とりわけ綿花の生産が盛んで、多くの黒人奴隷が働いていました。綿花はヨーロッパに輸出していました。特にイギリスを中心とした綿花の輸出は南部の利益だったのです。さらに自由貿易を唱え、北部とは大きな対立点でもありました。

他方、北部では急速な工業化が行われており、農業と違って黒人奴隷を労働力として必要としていませんでした。さらに近代化し都市化する北部が人口の面でも政治・経済・文化の面でも南部を圧倒し、やがてアメリカが北部中心の国となっていきます。それとともに奴隷制廃止などに対する南部の抵抗も広がります。そして1861年に南北戦争(American Civil War)が勃発します。戦争は4年間に及びます。

20世紀になると、黒人の人権問題が大きく燃焼し、首都であるリトルロック(Little Rock)などではしばしば白人と黒人の対立が先鋭化していきます。1954年のブラウン対教育委員会裁判(Brown v. Board of Education)によって、それまで行なわれていた公立学校における白人と黒人の分離教育が違憲となります。1957年にリトルロック・セントラル高校の分離教育化が決定すると、当時のアーカンソー州知事は州兵を学校に送って黒人学生の登校を阻止します。アイゼンハワー(Dwight Eisenhower)大統領は遂に陸軍の空挺師団の部隊を派遣し黒人学生を登校させるという事態に発展していきます。

アーカンソー州は別な意味で日本と深いつながりがあります。フルブライト奨学金(Fulbright Fellowships)の創立者フルブライト(James William Fulbright)の出身地だからです。1939年には34歳の若さでアーカンソー大学(University of Arkansas)学長に任命されます。アメリカ合衆国内最年少の学長といわれています。1945年に世界大戦が終わると、上院議員となったフルブライトは、アメリカと世界各国との教育交流の計画を議会に提出します。そして国務省教育文化局(Bureau of Educational and Cultural Affairs)の出資により、フルブライト奨学金を設立します。現在もフルブライト・プログラムとして多くの優秀な若者に奨学金を提供し、日本やアメリカに留学生をおくっています。

アーカンソー大学(University of Arkansas)の旗艦校はフェイエットビル校(Fayetteville)です。フェイエットビル校を含め州内には五つのキャンパスがあります。車のライセンスプレートには「The Natual State」とあります。

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留学を考える その13 アラスカ—The Last Frontier

昔、羽田からアメリカやヨーロッパへ行く便は、アラスカ(Alaska)最大の都市アンカレッジ(Anchorage)で給油していたものです。アンカレッジはヨーロッパやアメリカに飛ぶときは最短距離の航路にあたりました。給油の間、ターミナルで待つのは過去の話となりました。

アラスカは面積においてアメリカ最大の州です。それに引きかえ、最も人口過少の州です。州都はジュノー(Juneau)。2008年の大統領選挙で共和党の副大統領候補に州知事だったMs. Sara Palinが指名さたのは驚きでした。

アラスカは1867年にロシアから720万ドルで購入した歴史があります。今で言えばアメリカは安い買いものをしました。ですが当時は「巨大な冷蔵庫を買った」などと非難されたとか。地下資源、森林、漁業資源などが豊かなところです。それにもましてアメリカにとっては国防、軍事上の重要な位置にあるのがアラスカです。そのためか、大地の65%が連邦政府の管理にあります。ほとんどが不毛の地ですから、埋蔵量が豊富な原油の採掘地帯以外は誰も所有しないのです。

人口比率として白人が70%。その大半はアイルランド、ノルウエーからの移民とされています。以外と少ないのがネイティブ・アメリカンやアラスカ・ネイティブ、通称イヌイット(Inuit)で15.6%を占めています。原油の採掘については、アラスカ・ネイティブの間で開発容認派と反対派の賛否両論で部族村落が対立していることが多いとされています。

アラスカ大学フェアバンクス校(University of Alaska, Fairbanks)は、アラスカ大学の基幹大学です。豊かな海洋など自然科学を中心に様々な研究が続けられ、スーパーコンピュータ、北極圏の生物,地球や天体物理,先住民の研究は世界的に評価されています。アラスカ大学はアンカレッジ校のほかサウスイースト(Southeast)校で構成されています。

UAA_-_Providence_Dr_Entry_Sign_003  アラスカ大学アンカレッジ校CAM-10-2867-27c アラスカ大学フェアバンクス校

留学を考える その12 アラバマ– The Heart of Dixie

しばらく、アメリカの各州を紹介しながら、大学の特徴を記していくことにします。アルファベット順に州を訪ね歩きます。

最初はアラバマ州(Alabama)です。アラバマ州は合衆国の南部に位置します。西はミシシッピ州(Mississippi) 、北はテネシー州(Tennessee)、東はジョージア州(Georgia)と接し、南はフロリダ州(Florida)と境をなしています。州都はモンゴメリー(Montgomery)。他にバーミングハム(Birmingham)や、宇宙ロケットセンターで知られるハンツビル(Huntsville)といった都市もあります。筆者は1994年に調査でタスカルーサ(Tuscaloosa)にあるアラバマ大学(University of Alabama)を訪ねたことがあります。

州の東側はアパラチア高原(Appalachian Plateau)となっていて、鉱物資源が豊富です。ですが主要な産業は農業といえます。生産品は家禽及び卵、牛、植物苗床品目、落花生、綿、トウモロコシ及びモロコシ等の穀物、野菜、大豆、桃となっています。かっては 「綿花の州」(The Cotton State)とういニックネームがこの州についていたほどです。

アラバマ州の歴史で忘れてはならないのが、公民権運動の展開です。黒人差別が厳しい州であったからです。「ジム・クロウ法」(Jim Crow)という人種分離法がつくれていて、交通機関、駅、トイレ、映画館、学校や図書館などの公共機関、ホテル、レストラン、バーなどで白人と有色人種(the colored)を分離することが正当化されていました。

1955年州都モンゴメリーで起こったローザ・パークス(Rosa Parks)逮捕事件が公民権運動の口火を切ったとされます。彼女は当時、白人専用のバスに乗り込んで逮捕されます。これをきっかけに、キング牧師らがモントゴメリー市民に対するバス・ボイコットの運動へ広がります。運動は全米に反響を及ぼし、1956年には合衆国最高裁判所が「バス車内における人種分離(白人専用及び優先座席)を違憲とする判決を出します。そしてようやく、1964年7月に公民権法(Civil Rights Act)が制定され、長年続いてきた法の上での人種差別は終わりを告げます。

アラバマ州の大学ですが、アラバマ大学の本部がタスカルーサにあります。アラバマ大学バーミングハム校、アラバマ大学ハンツビル校があります州立大学は、州内に分校があってリベラルアーツ教育を広く展開し、基幹大学が大学院での研究を担っています。アラバマ大学のフットボールは強豪として知られています。ポール・ベア・ブライアント(Paul “Bear” Bryant)というヘッドコーチのもとで、史上最多の計15回にわたり全米チャンピオンとなっています。1994年に制作された映画、「フォレスト・ガンプ/一期一会」(Forrest Gump)はアラバマ大学フットボール部がモデルとなっています。トム・ハンクス(Tom Hanks)が主演していました。

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留学を考える その11  アーミッシュ その2 メノナイト

アメリカは多民族の社会である。留学先の大学には、恐らく20か国以上の国からの留学生がいるに違いない。アメリカ人といってもロシア系(Russian)、ドイツ系(German)、スカンジナビア系(Scandinavian)、アフリカ系(African)、中東系(Middle-East)などまるで「人種のるつぼ」(melting pot)である。こうした人々との出会いも留学の貴重な賜物である。

ウイスコンシンにもアーミッシュ(Amish)と呼ばれる主としてドイツ周辺から移民してきたキリスト教徒が住んでいる。ウイスコンシンは、オハイオ(Ohio)、ペンシルベニア(Pennsylvania)、インディアナ州(Indiana)についで、アーミッシュが四番目に多い州である。

前回少し触れたが、アーミッシュとはメノナイト(Mennonite)と呼ばれるキリスト教集団から分かれたグループのことである。メノナイトの一人、ヤコブ・アマン(Jacob Amman)はキリストの教えの純粋さを保つために、メノナイトのグループから離れて一派をつくる。アマンの名前からこの派の人たちのことは、通常アーミッシュと呼ばれる。メノナイトもアーミッシュも基本的信条は同じで、一括りにしてアーミッシュと呼ぶ人もいる。

アメリカに最初に入植してきたのが、オランダにいたメノナイトの一部の人々、清教徒といわれる。1680年代といいるから、メイフラワー号(Mayflower)でやってきたピルグリム・ファーザーズ(Pilgrim Fathers)から60年後くらいである。さらに、スイスやドイツのメノナイト、その後、ロシア革命前後の迫害(Pogrom)を受けたロシアからのメノナイトがアメリカ大陸にやってくる。なお、メノナイトに似た教義や信条を大事にする宗教集団にクエーカー(Quakers)がいる。平和、男女や民族の平等、質素な生活などを強調する福音主義を信奉している。ブリザレン(Brethren)という一派もある。兄弟団教会(Brethren in Christ)と呼ばれていて、田舎での伝道、厳格な聖書の実践、信仰共同体の形成ということに特徴がある。

キリスト教の宗派の多くは神学、信条、聖書解釈、教会の規律、政治や社会への関わり等についての意見の相違によって作られている。メノナイトの信条は聖書の教えに厳格に従うこと、暴力や戦争を禁じ平和を大切にする非暴力主義を信奉することが特徴である。やがて、トルストイ(Leo Tolstoy)、ガンジー(Mohandas Gandhi) ルーサーキング(Martin Luther King Jr.)らの思想と行動に大きな影響を与える。

Wikipediaによれば、18世紀、ドイツからペンシルベニア・ダッチ(Pennsylvania Dutch)と呼ばれるが人々がペンシルベニア州に移民してくる。この中で約2,500名はメノナイト、500名はアーミッシュだったといわれる。アーミッシュはより安い土地である同州のランカスター地方(Lancaster)を選ぶ。そのため、ランカスターは合衆国でアーミッシュが最も集中する郡といわれている。

アーミッシュの信仰のあり方である。彼らは集落に専用の教会堂を持たない。集まりは各家が持ち回りで行い、そこで聖書を読み神に祈る。これは純粋な宗教儀式のみを大事にする習慣によるといわれる。子供の教育だが、地元の公立の学校へ子供を行かせない。すべて村落内で教育する。教師は村落に住む未婚の女性がなり、教育内容はペンシルベニアドイツ語と英語、聖書と算数が教えられる。村落での教育は8年間で、聖書の教えや信仰、神への感謝がしっかりと教えられるようである。

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留学を考える その10 アーミッシュ その1 プレーン・ピープル

留学というのは、専攻分野だけを学ぶのではない。他文化とか多文化に親しむ絶好の機会でもある。人々と直に対話したり生活様式に触れるには、中小都市のリベラルアーツの大学で学ぶことを勧める。

2014年の夏、久しぶりでウィスコンシンの田舎をドライブした。マディソンから北へ100マイル、160キロにあるスティーブンスポイント(Steavens Point)という町に行くときであった。途中は見渡すばかりのトウモロコシと馬草畑。雨が少なく穀物の価格が高騰していた。巨大な散水機がトウモロコシ畑に水を撒いている。ウィスコンシン川(Wisconsin River)は満々と水が流れていり。だが、それを汲み上げて畑に散布するには足りなく、農家は地下水を汲み上げている。都市部でも地下水に頼っている。そのため地盤の沈下が懸念されているとか。

北上するにつれて、ネイティブアメリカンの地名が標識に現れてくる。彼らの多くは、特別な居留地に住んでいる。民族は棲み分けるのが常。例えば、ノルウエイ系(Norway)、ユダヤ系(Jewish)、アーミッシュ系()、ベトナム系、中国系という具合である。もちろん大多数は混ざり合って住んではいる。大きな街では、少数民族、特にアジア系の人々が棲み分けるのが普通である。司馬遼太郎は、「街道をゆく」というエッセイで、この状態をモザイク状と呼んでいる。民族の融合には何百年という時間がかかるようである。

棲み分けの特徴は、少数民族の文化が継承されることである。言語、習慣、宗教、生活様式がそこに残ることである。マディソンの動物園で孫達と遊んでいるとき、アーミッシュかメノナイト派(Mennonite)と思われる家族の一行に出会った。家族全員が麦わら帽子をかぶり、黒と白の質素な服装をしている。父親は髭をはやし、母親は白いキャップをかぶっている。子どもは5〜6名という構成。キリスト教と共同体に忠実な信条に生きる人々とされ、清貧な生活を旨とするのでプレーン・ピープル(plain people)とも呼ばれている。

夏の週末、野菜の露天マーケットへ行くと、バギー(buggy)と呼ばれる馬車をひいたアーミッシュが野菜やパンを売りに来る。車を使わない習慣を今も続けている。畑仕事は馬が中心である。子どもたちも農作業を手伝う。そういえば動物園で会った家族も全員日焼けしていた。

棲み分けで気になること。それは孤立とか目に見えない偏見を生むのではないかということである。しかし、アーミッシュらしき一行を見ながら家族の強い絆のようなものが伝わってくる。決して孤立しているのではないのだろうと思われる。彼らは孤立を苦とせず、むしろそれを大切にしているようである。なにか、孤高の生活を誇りにしているようにも見受けられる。

アーミッシュは幾分保守的な服装を続け、テレビやラジオを遠ざけ、他の技術は慎重に受け入れるメノナイトと考えられている。アーミッシュは単一の集団ではない。「質素」な生活様式には、伝統的な信仰と習慣に対する批判が起こるにつれて時代遅れだ、といわれることもある。しかし、奴隷制度に対する反対、公的教育に対する抵抗、国家と宗教の分離、良心的兵役拒否など毅然とした信条は実に革新的な姿勢だと思うのである。

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留学を考える その9 感謝祭(Thanksgiving)の由来

苦しい留学生活にもつかの間の寛げる時がくる。9月に始まった学期に一息つける時である。勉強に相当疲れた頃にやってくるのがThanksgiving(感謝祭)の休暇である。11月の最終木曜日。今年は11月27日である。翌日はBlack Friday。大抵の州ではこの週末は4連休となる。

1598年に今のテキサス州(Texas) のエルパソ(El Paso)でThanksgivingが祝われたといわれる。1619年には、ヴァージニア植民地(Virginia Colony)でThanksgivingが執り行われたという記録がある。1621年には前回少し触れたが、マサチューセッツ(Masachusettes)のプリマス(Plymouth)という港町で収穫に感謝する祝いが開かれた。これが現在のThanksgivingの原型だといわれる。

しかし歴史家には別の主張をする者もいる。1623年の植民地に干ばつが長く続いた。その後に雨が降り、幸い作物を収穫できたことを人々は感謝したという。そして祝いの宴(feast)ではなく感謝の礼拝(worship service)が行われたのが原型だというのである。これもなるほどと頷ける。

11月最終木曜日が国民の祝日となったのは1789年である。そのときの大統領は初代のジョージ・ワシントン(George Washington)。すべての州がThanksgivingを祝日としたのは1863年である。

しかし、国民誰もがThanksgivingを祝うわけではない。1970年以降、一部の先住民族であるネイティブアメリカン(Native American)とその支援者は、この日を「全米哀悼の日」(National Day of Mouring)として抗議の日としている。プリマスにあるプリマスロック(Plymouth Rock)の前で記念式典を開いている。また、この日は「アメリカインディアン遺産記念日(American Indian Heritage Day)」ともされている。伝統文化や言語の遺産を再認識する日としている。Thanksgivingはアメリカにおける人種差別の歴史を振り返る時でもある。

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留学を考える その8 感謝祭と植民地

Thanksgivingの頃、中西部(Midwest)やボストン(Boston)あたりのNew England地方の気候は誠に寒々としている。木々の葉はすっかり散り、雪が冷たい風に吹かれて舞う。それだけにThanksgivingでは、人々の高揚した雰囲気は格別なものがある。祝いの飾り付けも綺麗だ。家の主人はエプロンを着て張り切っている。留学して初めてのThanksgivingを経験すると「ついにアメリカに来たか、、、」という感慨に襲われるに違いない。

マディソンにいた頃、ミルウォーキー(Milwaukee)に住むかつての宣教師ご一家の晩餐に招かれたことがある。インターステート90(Interstate 90: I-90)を車で飛ばしていった。I-90は、シアトル(Seattle)からボストン(Boston)に至る4,990キロの全米で最も長い州間高速道路である。途中、シカゴ(Chicago)やクリーブランド(Cleveland)、シラキュース(Syracuse)などを通過する。道路際の至るところに「鹿に注意」の看板がでている。

午前中は教会でThanksgivingの礼拝が執り行われる。説教の題となるキーワードは平和、愛、捧げ、喜び、感謝、恵みなどである。例えば詩篇(Psalm)106章の1節では、「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」
“Give thanks to the Lord, for He is good. His love endures forever.” と読み上げられる。

ボストンの南東にある半島は(Cape Cod)と呼ばれる。ヨーロッパからの漁民が鱈を求めてきたところのようである。そこに移民しようとした人々は、砂地で水がないことからケープコッドをあきらめプリマス(Plymouth)のあたりにコロニーをつくったとある。1620年頃、メイフラワー号(Mayflower)でこの地に上陸したのが清教徒と呼ばれる人々である。移民の中には干ばつや飢饉により多数の餓死者がでるほど、苦しい生活を強いられたようである。それだけに豊穣な収穫に対する感謝がThanksgivingにつながったといわれる。

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留学を考える その7 そろそろ感謝祭が

念願の留学が叶ったとしよう。授業や課題、そしてテストの準備で忙しくてびっくりするに違いない。少し生活が落ち着いた頃、最も喜ばしくも楽しい暦の祝日、感謝祭(Thanksgiving)が近づく。感謝祭は11月の最終曜日、キリストの降誕を祝うクリスマス(Christmas)と並ぶ四日間の休日である。

この祝いを楽しく過ごすには普段から心掛けておくことがある。例えば大学の寮などで生活しているときは、米国人の学生らと親密になっておくことである。彼らは感謝祭の週末には親の元に帰って過ごす。友達づきあいをしておくと、必ず「一緒に家族のところに行かないか、、」と誘ってくれる。

もし普通のアパートを借りていても隣近所の人々と仲良くしておくことだ。一緒にパーティをしたりBBQなどの会合には顔を出して会話することを心掛けておくことが大事だ。またキリスト教会などの礼拝に出席していると、必ず声をかけてくれる。日頃から積極的に自分から活動に飛び込んでおくのである。求めると与えてくれるのである。毎日、独りぼっちで勉強ばかりする生活はいけない。

感謝祭は、人々が最も旅行する時期である。道路も空港も大混雑する。だが市営バスは本数を減らして運行する。学校、官庁、会社、その他の機関も4日間の休みとなる。多くの町や村ではパレードが行われる。子供も大人にも楽しみな行事である。家族や親戚、友人が集まって宴の晩餐を囲む。

感謝祭の料理の中心は七面鳥(turkey)である。そのほか、グランベリーソース(cranberry sauce)、パンプキンパイ(pumpkin pie)、ジャガイモ(potatoes)、スタッフィング(stuffing)、グレービー(gravy)が卓上に並ぶ。マッシュポテトに肉汁、グレイビーをかけたものはアメリカ料理の定番のようだ。鳥肉料理にも欠かせないソースである。

宴の前には、必ず家の主が感謝の祈りを捧げる。そして七面鳥にナイフをいれる。招かれた者は勝手に皿をとって料理に手を伸ばしてはいけない。テレビでは寒さのさなか、フットボールが中継されている。感謝祭が終わるとクリスマスの待降節ーアドベント(Advent)が始まる。皆懸命に勉強に集中する。

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留学を考える その6 米国大学への留学生の増加

アメリカのシンクタンク(think tank)、国際教育研究所(Institute of International Education: IIE)が発表した2013〜14年度のアメリカの大学や大学院への留学生の統計は興味深い。国際教育研究所はフルブライト財団の支援によるFulbright Programを主宰したり、国内外の留学生を支援する、いわばアメリカにおける国際交流教育の旗艦組織である。

この統計によるとアメリカの大学への留学生の数は、前年度と比較して8.1%増の約88万6千人で、総数は1,107万5千人であるという。アメリカは留学生で支えられているといってよいほどの数字である。率直にいってアメリカの大学への留学はやはり高い人気があるという印象である。

国別の留学生の数だが、第1位は5年連続して中国人で、27万4千人とあり、これは前年の16.5%の伸びで留学生全体の31%を占めた。第二位はインド(Inidia)で10万3千人の6.1%の伸び、第三位は韓国となっている。日本からは1万9千人。前年度より6.2%減っている。この減少は9年連続して続いている。1990年後半が留学生のピークだった頃と較べで半減してしまった。

留学生の増加の伸びでいえば、最高はサウジアラビア(Saudi Arabia)からの留学生の伸びが21%で5万4千人となっている。ブラジル(Brazil)、クエート(Kuwait)からの留学生も大幅に増えている。この理由は国費留学生の増加であるという。

アメリカの大学で留学生が増加する第一の理由は、優れた高等教育を受けられる環境があるからである。留学中に学位を取得すれば、自国に帰ったときその身分が優遇され、地位や高所得が約束されている場合が多い。今もアメリカの大学への留学は大きなステイタスとなっている。

第二は派遣先の国内で、高等教育機関を十分な早さでつくれないなど、人材養成が追いつかず、そのために留学生が増えているという状況である。若者の向学心を満たす教育や研究環境が不十分ということだろう。

第三はアメリカは伝統的に留学生の出身国がどこであれ歓迎するという姿勢をとっていることである。中国やインドだけでなく、アメリカとの外交関係が緊迫した状態にあるイラン、ベネズエラからもたくさんの留学生を迎え入れている。キューバはアメリカとの外交関係が修復しつつあり、留学生の数はふえるであろう。留学生の受け入れは大学にとっては大事な収入源となっている。

だが最近の日経のニュースでは、アメリカの小さな規模のリベラルアーツ大学は国内での学生の減少に悩み、廃止や合併が起こっているようである。私立に比べ授業料が比較的安い州立大学へ進む傾向がある。

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留学を考える その5 リベラルアーツ教育とサービス・ラーニング

最近の大学におけるリベラルアーツ大学のカリキュラムをみていると、バイリンガルな人材の養成、留学体験による多文化理解、あるいは他文化理解、そしてグローバルな資質の養成などなっている。そのために、多文化理解科目の設置や英語による授業、留学生との交流、留学の推進などを掲げている。一体そんな環境で国際的に活躍できる人材が育つのか?

筆者は、留学とは学位を獲得する修学形態と定義している。英語研修とかホームステイによる異文化体験ということではない。ところが多くの大学が学生を仲介するのは、一週間とか二週間の英語研修である。そのため保護者も我が子のために数十万円の出費を強いられる。学生といえば、全くの海外旅行気分である。事前研修というのがある。小遣いはいくら位とか、パスポートの期限は大丈夫か、英語会話の練習とか、ホームステイの心構えとか、、、、まるで小学生の修学旅行の事前準備のようだ。

最近は語学研修からボランティア体験が脚光を浴びているようだ。大学側もその準備のために相当な努力を強いられている。まずは、ボランティアを受け入れてくれるパートナー機関を探すことから始まる。機関は大学であったり現地のNPO法人であったり、政府関連機関であったりする。ボランティア体験は、主として現地での活動の観察や交流、各種の体験、話し合いなどとなる。

しかし、ボランティア体験だけではグローバルな人材を育てることには限界があることが、ようやく認識されてきた。それはボランティア活動の計画がすべて機関間で周到にお膳立てされ、学生の側の声やニーズが届いていなかったことである。受け身の姿勢からは学ぶことの果実は少ない。そこから「サービス・ラーニング(Service Learning)」という新しい発想が生まれてきた。

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留学を考える その4 国際リベラルアーツ

「国際リベラルアーツ」という名称は比較的新しい。このカリキュラムであるが、原則英語での授業、国際教養科目の充実などを強調している。また外国人留学生との交流とか留学を義務付けるというのもある。これといって珍しいことではない。国際リベラルアーツは、今日の大学改革、とりわけ国立大学法人に対して求められている再編成の圧力が強まっていることもみのがせない。人文・社会科学系学部再構築は、世界の政治や経済、文化を学べるコースを用意し、国際的に活躍できる人材を育てる拠点にするというのが主流のようである。

なぜこのような様相になってきているかである。それは国の指針「グローバル人材育成戦略」があり、大学はそれに沿って学部を新設しようとしている。我が国を取り巻くグローバル化は急速に進展しているといっても、1990年後半からの海外留学生数の減少、海外勤務を希望しない内向きの学生の増加が報告されてきた。そのため、政府もこのような状況を危惧し「グローバル人材育成推進会議 審議まとめ」を発表した。「高校・大学、企業、政府・行政、保護者等が積極的に若い世代を後押しする環境を社会全体で生み出すことが不可欠」と提言している。これが文部科学省の「スーパーグローバル大学創成支援事業」につながっている。

2014年には、長崎大学が「多文化社会学部」を設置している。「長崎という地域の窓を通して、多文化が触れ合い、せめぎ合い、そして協働する国際社会と向き合う学部」とある。同じく2014年には山梨学院大学が「国際リベラルアーツ学部」をつくっている。専任教官の8割以上が外国人といううたい文句である。だが国際系学部は過当競争に陥りつつある。筆者には大学間の差別化が難しくなっているように思える。そこには学生募集に奔走している姿が映る。大学が新しい学部をつくりグローバル化の牽引役になろとしても、そうたやすく事が運ぶものではないはずである。

ipad_intersectionA5E9A5D5A5A1A5A8A5EDA4CEB4D6A1D6A5A2A5C6A5CDA4CEB3D8C6B2A1D7 システィーナ礼拝堂

留学を考える その3 リベラルアーツ教育と国際基督教大学

リベラルアーツ教育(Liberal Arts Education)を強調する大学が日本でも増えている。特に「国際リベラルアーツ」を掲げる学部の新設が相次いでいる。こうした学部のカリキュラムを「国際系リベラルアーツ」と呼ぶのだそうだ。我が国のリベラルアーツの雄は国際基督教大学( University: ICU)といえよう。だが大学の性質からみればInternational Christian Collegeと名付けるのが正しい。単科大学であるからだ。

ICUはベラルアーツ・カレッジとして「平和」、「学術基礎」、「専門知識」を統合しながら、バイリンガリズムによる世界基準の「全人教育」という理想を掲げて1949年に創立された。「国際的社会人としての教養をもって、神と人とに奉仕する有為の人材を養成し、恒久平和の確立に資することを目的とする」とある。アメリカの長老派教会によって支援され、財界からの寄付を受けて、リベラルアーツ・カレッジの形式を踏襲している。

ICUはもともと人文科学科、社会科学科、自然科学科の3学科から始まり、その後は教育学科・語学科・国際関係学科の設置で6学科となる。卒業要件単位の組み合わせについて自由度が高く、知識の統合と専門分野を超えた交流が学科間で行われることに特徴がある。これはアメリカ型のベラルアーツ教育を受け継いだものといえる。第二代学長の鵜飼信成はICUを名実ともにベラルアーツ・カレッジとして発展させた。

かつて筆者も北海道大学の教養部で1年半を過ごした。東京大学にも教養学部があった。リベラルアーツ教育が重視されていた。だが、教養部の勉強は高校の延長のような内容であった。目新しいことといえば、ドイツ語とフランス語のいづれかが必須であったことだ。ウィリアム・クラーク(William Clark)や内村鑑三の本を読めたのがよかった。今思えば、筆者も海外で学ぶ機会を得たのは、この教養部時代からなんらかの影響を受けたといえる。

Ukai_Nobushige  鵜飼信成icu 国際基督教大学

留学を考える その2 リベラルアーツの伝統

一体、なにを学びたいのかをおぼろげながらに考えることから大学選びが始まる。といっても専攻を決めることは若い人にとっては難しい。多くの読者は、周りの人からきいて大学を考え、将来の専攻を決めていくのではないか。専攻を考えるためには、幅広い基礎的な知識や教養が求められる。

ウィスコンシン大学(University of Wisconsin, Madison)とかUCLA(University of California, Los Angeles)とか、ミシガン大学(University of Michigan)、さらにはスタンフォード大学(Stanford University)などの名前を知っているだろう。こうした州立や私立の大学は超難関の研究中心の総合大学である。だが規模は小さくても将来役に立つことを学べる大学はいろいろとある。

「多様性」はアメリカの大学の特徴である。アメリカの大学はもともとは単科大学であるカレッジ(college)として創設された。例えば聖職者を養成し、町や村のリーダーを養成することを主たる目的として定めた。そのために教養を幅広く身につけ、決断力を養い、リーダーシップをとれる人間になる基礎教育をするようになった。これをリベラルアーツ教育(Liberal Arts Education)といい、ここにリベラルアーツ・カレッジ(liberal arts college)が誕生する。1636年に創立した牧師養成の機関がハーバード大学(Harvard University)がそうである。ハーバードはアメリカ最初のカレッジといわれる。やがて新しい専門分野を加えていきながら、大学院レベルの研究に力を入れている総合大学として発展して世界で最も入学が難しい。

アメリカには州立、私立を含めて4,000以上の大学がある。その中心は小さなカレッジであることを知っているだろうか。繰り返すがカレッジとは単科大学のことだ。いわば4年制のリベラルアーツの大学である。少人数のコミュニティのゆえ、手厚い指導のもとで幅広い知識を習得できる。アートや音楽の専門大学や、コンピュータ操作、歯科技工、機械、教師養成、軍の士官養成大学などもある。あえて大きな総合大学を選ばずこうしたカレッジで勉強し、総合大学の大学院へ進む者が多いのがアメリカのカレッジの特徴といえる。どうしても職業技術を身につけたい者には、コミュニティ・カレッジ(Community College)を選び最低限の教育や職業訓練を受けることができる。コミュニティ・カレッジは中小都市には必ずある。語学研修でここを選ぶのもよい考えである。

リベラルアーツ・カレッジなど多くのアメリカの大学は、多様性を重視している。できるだけバラエティの富んだ学生たちを入学させようという観点から入学審査を行う。たとえばエッセイでユニークなことを書いているとか、推薦状の内容が秀でているなど、テストや高校の成績からだけではうかがえない資質を見いだそうとする。総合大学は別として、カレッジではテストや高校の成績が少しくらい低くても、エッセイや推薦状などで自己アピールすれば入学のチャンスを得られる可能性がある。リベラルアーツ・カレッジで有名ところは極めて授業料が高い。そのため高所得者の子弟が多い。

madisonclg_logo_hrz_2c 1ef95d33fb25dbbc56e83717c430aac3 College of Holy Cross, MA

留学を考える その1 アメリカの大学への留学説明会

今回から「留学を考える」という話題で一緒に考えていくことにします。

先日、横浜市にある聖光学院高校でのアメリカの大学への留学説明会ーCollege Fairでボランティアして、母校ウィスコンシン大学のリベラルアーツ教育や大学院教育の内容を説明してきました。このCollege Fairは神奈川県内の私立高校が主催するものでした。聖光学院の大講堂がほぼ埋まるほど、生徒、保護者、そして進路担当の教師がやってきました。

私は、この説明会ではじめて聖光学院高校が有数の進学校であることを知りました。Fairの盛況、会場で案内を担当していた高校生の態度にそのことを感じました。思わず一緒に写真を撮りたくなって、側にいた教師にシャッターを押して貰いました。

定年退職者の私には時間があります。と同時に出会った若者や教師に語れるなにかしらの知恵もあります。「自分の息子が留学したいといっているが、高い学費や生活費をだせるかどうか心配している」という保護者がブースにきました。私は自分を含め三人の子供をウィスコンシン大学で学ばせたこと、それで退職金を使いスッカラカンになったこと、教育への投資のリターンは何十杯にもなったことを語り、悩める保護者の背中を少し強めに後押ししました。

Fairの後の親睦会で、進路指導を担当する三十代後半の教師から話しかけられました。「なんとか自分ももう一度大学に戻って研究者の道を考えたい」というのです。私は43歳で大学院を出たことも語りました。教師の方々で新たなキャリアを模索している人は沢山いるようです。少しでもお役に立てたいです。

IMG_1144  聖光学院高校

ウィスコンシンで会った人々 その120 囲碁噺 「笠碁」

昔の道楽といえば、「呑む」「買う」「うつ」。その内最もタチの悪いのが「うつ」、博打である。身代を持ち崩し、家族が崩壊することが多かったようだ。道楽ならぬ「道落」といわれる所以である。現代の「打つ」の代表は囲碁や将棋といえよう。

囲碁は筆者の趣味の一つ。毎週二回は囲碁例会の会場予約や親睦のお世話をしている。囲碁にはいろいろな人物や話題が登場する。いくつかの囲碁にまつわる演目があるが、大抵はヘボ碁やザル碁を笑うもので、どれも江戸時代が舞台となる。

「笠碁」という演目がある。竹馬の友で碁敵の美濃屋の隠居とある旦那の噺。この二人、今日も「待ったなし」という約束で打ち始める。中盤までスラスラと何事もなく進むのだが、途中、旦那のいつもの癖がでる。「済まん、待ったさせてくれ!」どちらも棋力は二級から初段くらいのようだ。

美濃屋の隠居は「約束は約束!」とどうしても引き下がらない。そのうち旦那は、三年前の借金の話を引き合いにして、返済を待ったしてやったという。だが、隠居は「お金はお金、囲碁は囲碁」と一蹴する。そのうち、売り言葉に買い言葉になって対局はおじゃんとなる。

隠居 「借金の恩義があるから大晦日には、手伝いに行ってやれば蕎麦一杯も出さねえ、このしみったれのヘボ野郎」
旦那 「帰れ、帰れ、このザル野郎め!」
隠居 「金輪際、来るもんか!」

翌日から旦那は孫を連れて上野界隈をブラブラするのだが、退屈でしようがない。「碁敵は憎さも憎し懐かし、」。喧嘩で啖呵を切ったことを悔やむ。それを見かねた番頭が云う。

番頭 「旦那様、碁会所でも行ってはいかがですか?」
旦那 「あんなとこ行ったかて相手はいない、、」
番頭 「相手が。え? 相手が弱すぎて?」
旦那 「強すぎるんや、皆目歯が立たんのや」

美濃屋の隠居もとうとう退屈さに耐えかねたのか、旦那の店の前をウロウロし始める。丁度雨の日。それを旦那が呼び止める。

旦那 「やいやい、ザル野郎!」
隠居 「なに、どっちがザルだ、このヘボ野郎!」
旦那 「ヘボかヘボでねえか、一番やるか!!」

こうして目出度く仲直りをし再び碁盤を囲む。果たして「待った」が飛び出すのか、出さないか。サゲは「笠碁」を聴いてのお楽しみ。

 

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Memorial Union © UW-Madison News & Public Affairs  608/262-0067 Photo by:  Jeff Miller Date: 1995     File#: color slide

Memorial Union
© UW-Madison News & Public Affairs 608/262-0067
Photo by: Jeff Miller
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ウィスコンシンで会った人々 その119 へべれけ噺 「替り目」

徹宵して、ぐでんぐでんに酔っぱらった亭主が、女房が寝てしまったと思って「女房は生きた弁天様だ」とか言いながら帰ってくる。人力車を頼むがそこは自宅の前。それを起きていた女房に聞かれてしまった。弁天様だが、七福神の中で唯一の女性の福の神。また歌舞音曲を司る女性の守り神ともされる。

女房は車夫に謝り亭主を入れると、亭主はまた寝酒といって所望する。そのうち、肴がないかとねだるが残り物がない。丁度おでん屋が近くにあるので、女房におでんを注文させる。女房はなにを見繕ってくるかと訊く。

亭主 「俺の好きなものは”焼き”」
女房 「焼きって何ぃ?」
亭主 「焼き豆腐のことだ。や・き・ど・う・ふ、と言っていたら舌を噛む」
亭主 「江戸っ子は”焼き”と言えば焼き豆腐だとピンとくるんだ」
女房 「それから?」
亭主 「”がん”だ」
女房 「鳥の雁だね」
亭主 「間抜け、ガンモドキだ」

女房 「それなら”ペン”もいい?」
亭主 「”ペン”ってなんだ?」
亭主 「ハンペンのことよ、、」
女房 「ついでに”ジ”もどお?、」
亭主 「なんだ、ジって、、」
女房 「スジのことよ、、」
女房 「”ブ”もいい?」
亭主 「”ブ”ってなんだ、」
女房 「昆布だよ、お前さんの好きな、」
亭主 「変な詰め方するな、早く買ってきな!」

おでんを買いに行った留守にうどん屋が家の前を通りかかる。亭主はうどん屋を呼び止めて、冷や酒の徳利を出してお燗をしてもらったが、うどんは嫌いだからとかいって、うどん屋を追い払ってしまう。女房が帰ってくるとお燗があるのできくと、うどん屋に燗してもらったが、うどんを注文しなかったという。女房、うどん屋が可愛そうだから、何か注文しようとうどん屋を呼んだ。ところがうどん屋は知らん顔。近くにいた客が、呼んでいるよと教えると、「だめだよ。丁度今がお銚子の替わり目だ」。

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ウィスコンシンで会った人々 その118  富くじと火事噺 「富久」 

目蒲線目黒駅のそばに急な坂がある。有名な行人坂である。なぜ有名かというと坂の途中に大円寺があるからである。この寺は明和9年(1772年)の大火の火元となり、江戸八百八町のうち、六百三十町をなめ尽くした。火事は日本橋あたりまで延焼し、多数の死者も出たという記録がある。大円寺はお咎めを受けて、その後70年間再建が禁止されたという。

大火によって多くの寺社仏閣が焼失した。その復興のために、寺社奉行は富くじを認め、復興資金集めを許した。富くじ興業はその後、娘を売ったり人を殺めて金を工面するなど、射幸心を煽るという理由で次第に自粛され中止となっていく。「富久」は火事と酒、そして宝クジにまわつる演目である。

日本橋の花柳界に久蔵という太鼓持ちー男芸者がいた。いわゆる幇間である。性格はよく如才ないのだが酒を呑むと喧嘩をふっかける。酒乱が元ですっかり客がつかなくなり仕事にあぶれ、こ汚い長屋に住んでいる。そこに湯島天神の富くじを売って歩く男がやってきて、残り物のくじを一本を買わされる。それを大事に大神宮のお宮にしまう。

半鐘の音で起こされた久蔵、火事場にかけつけて手伝うように差配の旦那に言われる。急いで消火を手伝い、その甲斐あって用意された酒を徹宵して飲てみ寝込む。その夜、また半鐘が鳴る。なんでも自分の長屋のあたりから出火したと言われる。かけつけると長屋はすっかり焼け落ちている。とぼとぼと旦那の所に戻る途中、大勢の人だかり。その日は湯島天神の境内で富の開帳があるという。

やがて、目隠しをした坊主が富の番号を読み上げる。

坊主 「鶴の1555番! 鶴の1555番!」
聴衆 「あっ残念、もうちょっとの違いだ、、」
別な聴衆 「2,3番の違いか?」
聴衆 「500番違いだ、、」

久蔵 「あ、たった、、あ、たった、、、、」 と久蔵は座ってしまう。
聴衆 「富の開帳には、こんな男が必ず出てくるんだ、、、」

千両と引き換えに富札を求められた久蔵だが、火事で札が無くなったことに気づきガックリ。だが、近所の者が大神宮の神棚を持ち出してくれていたので富札は無事久蔵のもとにかえり千両を手にするという噺である。

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ウィスコンシンで会った人々 その117  人情噺 「火事息子」 その2 火事と喧嘩

さて、本題の火事と喧嘩である。神田は質屋伊勢屋の一人息子の藤三郎。なぜか小さいときから火事が好きでしょうがない。いってみれば火事道楽である。やがて町火消しになろうとして町内の鳶頭のところへ頼みに行くが断られる。藤三郎は体中に刺青をしたりして素行がよくないので、家からは勘当されている。

鳶頭は町火消という民間の消防団の頭もしていた。藤三郎は別の町火消のところへ行っても、すでに鳶頭から回状がまわっていて断られる。火消しになるためには厳しい条件があった。藤三郎はそれに合わず、仕方なく火消屋敷の人足になる。

ある北風が強く日。伊勢屋の近くから火事が出た。質蔵の目塗りをしようと左官の親方に頼むが、手が回らないという。さいわい質蔵は風上であるが、それでも、質蔵に火が入っては一大事と質蔵に目塗りをすることになった。主人は高い所を怖がる番頭を蔵の屋根へ上げ、丁稚の定吉に土をこねさせ屋根へ放り上げる。だが番頭は片手で半てんを押さえている。怖がって土を上手く受けとめれない。顔に土が当たって顔に目塗りをしている有様だ。

これを遠くから見ていた一人の火消しのような者が屋根から屋根を伝わってきてくる。そして番頭の帯を折れ釘に結ぶ。これで番頭は両手が使えるようになる。ようやくのことで目塗りが終わる。幸い風が止んで鎮火。そこに火事見舞いの人たちが入れ替わり立ち替わり伊勢屋にやってくる。火事見舞いではササが振る舞われる。

火事見舞いだが、紀伊国屋からは風邪をひいた旦那の代わりに倅もやって来た。伊勢屋は自分の息子と比べ羨ましく、思わず自分の息子の愚痴も出る。そこへ番頭がさっき手伝ってくれた火消しが旦那に会いたいと言っていると取り次ぐ。旦那は店に質物でも置いてあるのだろうと思い質物を返すようにと言うが、番頭は口ごもってはっきりしない。

よくよく聞いてみると火消しは勘当した倅だというのだ。もう赤の他人なんだから会う必要はないという旦那を、番頭は「他人ならお礼を言うのが人の道ではないか」と諭され、それも道理と一目会って礼を言おうと台所へ行く。

かまどの脇に短い役半てん一枚で、体の刺青をだした息子の藤三郎がいる。お互いに他人行儀のあいさつを交わすが、息子の刺青を見て、折角大事に育てた親の顔へ泥を塗るような姿だと嘆く。

旦那 「お引取りを、、」
藤三郎 「それではこれでお暇を」
と言うが二人を番頭が引きとめ、おかみさんを呼ぶ。奥から猫を抱いたおかみさんが出てくる。火に怯えずっと抱いたままだという。

番頭 「若旦那がお見えでございます」 
おかみさん「猫なんか焼け死んだって構やしない」

と猫を放り出す。せがれの寒そうななりを見たおかみさん、蔵にしまってある結城の着物を持たせてやりたいと涙ぐむ。

旦那 「こんな奴にやるくらいならうっちゃってしまったほうがいい」
おかみさん 「捨てるぐらいならこの子におやりなさい」
旦那 「だから捨てればいい、わからねえな、捨てれば拾って行くから」
おかみさん 「よく言っておくんなさった。捨てます、捨てます、たんすごと捨てます」

おかみさん 「この子は粋な身装も似合いましたが、黒の紋付もよく似合いました」
おかみさん 「この子に黒羽二重の紋付の着物に仙台平の袴をはかして、小僧を伴につけてやりとうございます」
旦那 「こんなヤクザな奴にそんな身装をさしてどうするんだ」
おかみさん 「火事のおかげで会えたから、火元に礼にやりましょう」

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ウィスコンシンで会った人々 その116  人情噺 「火事息子」 その1 江戸の華

「火事と喧嘩は江戸の華」といわれた時代があったようである。江戸は大火が多く、火消しの働きぶりが華々しかったともいわれる。江戸っ子は気が早いため派手な喧嘩が多かったらしい。「江戸っ子は五月の鯉の吹き流し、口先ばかりで腑はなし」という言葉すらある。

当時はどの家屋も木造。一端火事が起きると、材木や大工、左官、鳶職人などの建築に従事するものの仕事が増えた。中には火事の発生を「待望する」者もいた。火消人足の中にも、本業である鳶の仕事を増やそうと、強い風を利用し、「継火」という他の家屋などに延焼させる犯罪行為をする者も現れた。

こうした江戸に町人による火消の組織ができる。「町火消」である。今の消防団である。幕府の直轄の火消しとして「定火消」ができる。旗本がその役にあたる。今の消防署である。火の見櫓を備えた商家や武家屋敷も江戸の生活を描いたものに見られる。

現在も東京には「上野広小路」、名古屋や京都には「広小路」通」などの地名が残っている。札幌の大通り公園も広小路である。広小路は大火事から生まれたものである。延焼を防ぐための広場や空地である火除地なのだ。

火除地や広小路ができる前に、そこに住んでいた者達は移住を命じられ江戸の外縁部や埋立地が与えられる。隅田川をはさんだ右側、東西の流れる北十間川、北東に伸びている曳舟川付近が移住先として選ばれた。こうして江戸は街が拡大し発展していく。歌川広重の「名所江戸百景」にも火の見櫓や火除地が描かれ広々とした空間が特徴となっている。

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ウィスコンシンで会った人々 その115 幽霊噺  「お化け長屋」

肝試しやお化けが話題となる季節は去った。秋のお彼岸も終わり、霊も幽霊も暫く静かな時を過ごしているのではないか。だが幽霊やお化けは人間にとって永遠の話題である。なぜなら、皆等しく幽霊になる可能性があるからだ。祭りなどで「ひょっとこ」や「おかめ」が登場したり、縁日でお面をかぶる姿は、ハロウィーン(Halloween)の仮装とも合い通じるものがある。死んでから自分に似せた面をカメの前に架けておけば、家が富み栄えるという昔話もある。人はあるものに変身したいという潜在的な憧れがあるようだ。

ある長屋に一軒の空き家がある。そこを長屋の連中は、物干しにしたり物置として使っている。家主はこの物置を空き部屋として貸そうとする。長屋に古くから住んでいる通称、古狸の杢兵衛が物置が無くなると大変だと一計を案じる。借り手が訪ねてきたら、家主は遠方に住んでいるので自分が長屋の差配をまかされているといって杢兵衛の家へ来させて、借り手を脅して空き家に借り手がつくのを防ごうという算段だ。

早速、借り手が杢兵衛のところへ来る。杢兵衛は怪談じみた話を始める。3年程前に空き家に住んでいた美人の後家さんのところへ泥棒が入り、あいくちで刺され後家さんは殺された。空き家はすぐに借り手がつくが、皆すぐに出て行ってしまうという。後家さんの幽霊が出るという話を借り手に披露する。

借り手が恐がりなのを見透かした杢兵衛は、身振り手振りを加え怪談話をする。恐がってもうわかったから止めてくれという借り手の顔を、幽霊の冷たい手が撫でるように濡れ雑巾で撫でると借り手は大声を出して飛び出して行ってしまう。大成功だ。借り手の坐っていたところを見るとがま口が忘れてある。成功、成功と拾ったがま口を持って仲間と寿司を食いにいく。

次に来たのが威勢のいい職人風の男。前の男を恐がらせて追い返した杢兵衛、自信たっぷりで怪談話を始めるが、こんどの男は一向に恐がらず、話の間にちょっかいを入れて混ぜっ返す始末だ。困った杢兵衛さん、最後に濡れ雑巾で男の顔をひと撫でしようとすると、男に雑巾をぶん取られ、逆に顔中を叩かれこすられてしまう。男はすぐに引越して来るから掃除をしておけと言い残して帰ってしまう。そこへ長屋の住人が様子を聞きに来る。

杢兵衛 「あいつはだめだ、全然恐がらねえ、家賃なんかいらないって言ってしまったからお前と二人で出そう」
長屋の住人 「冗談じゃねえ、がま口なんか、置いて行かなかったのか?」
杢兵衛(あたりを探して) 「さっきのがま口持って行っちゃった、あの野郎!」

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ウィスコンシンで会った人々 その114  読み書き噺 「七の字」

江戸時代には読み書きできる者はかなりいたらしい。それは寺子屋の普及にあるようである。寺子屋は読み書きソロバンなど基礎的なことを教えていた民間の施設である。道徳なども教えていたとWilipediaにある。寺子屋が一般庶民の間に定着し、それによって識字率がかなり高くなったようである。

街頭で読み上げながら売り歩いた「読売」を競って買い求める庶民が多かった。「読売」は瓦版ともいわれ、かなり娯楽志向のガセネタもあったようだ。文字通り「人騒ガセのネタ」だ。タブロイド紙である。裏を返せば、読み書きができる庶民が多かったということである。苗字帯刀がご法度の頃である。

「読売」についてもう一つ。佐伯泰英の時代小説「酔いどれ小籐次留書」や「吉原裏同心」、「古着屋総兵衛」などでは、犯人の動きを探ったりおびき寄せるために、意図的にガセネタを「読売」で流す。現代も政治や経済の世界ではもこうした手法は使われる。

さて、演目「七の字」である。貧乏長屋の紙屑屋、七兵衞は「くず七」というあだ名で知られていた。家族がいなかった叔父が亡くなり、くず七は財産を相続してたちまち金持ちになる。そこで長屋を引き払い、一軒家に移って悠々と暮し始めた。それまで仲良くしていた住人との付き合いをぷっつりやめる。長屋の住人には歯牙にも掛けず、尊大な振る舞いで周りの者を呆れさせる。性格がすっかり変わってしまった。

ある日、くず七が床屋の前を通りかかると、床屋にたむろしていた長屋の太助と源兵衛がくず七を見付ける。二人が呼び入れて見ると、くず七は腰に筆と筆壺の矢立を差しているので、二人は問い詰める。

太助 「くず七、てめえ矢立なんぞ腰にさして、、長屋にいた頃は、自分の字も書けなかったはずだ」
くず七 「いいや、長屋にいた頃はあえて書かなかっただけだ。叔父が死んでから書き始めた」
源兵衛 「じゃ、ここで自分の名前の七って字を書いてみろ」
くず七 「書けたらいくら出すか?」
太助 「いやなこというな、、いくらでもやるよ。一文でも二文でも」
くず七 「さすが貧乏人だ。付き合いたくないな。一両出すなら書いてやら、、」
源兵衛 「今は一両を持ってねぇから、これから集めてくる。昼過ぎにここへこい!」

一両の工面に太助と源兵衛は床屋を飛び出す。他方、くず七は「さて、さて誰に字を教わろうか」と町内の手習いの師匠の所へやってくる。師匠の女房がいて教わることになった。「わかりやすく、この火箸を使い横に一本、縦に一本置いて、かかしにします。足を右に折って曲げれば七になります」と教わり、くず七もなんとかやってみて納得する。

くず七は勇んで床屋に戻ってきた。源兵衛と太助も一両集めてきて待っていた。くず七はもどかし気に、横に一本、縦に一本置いてかかしをつくる。二人は「こりゃ書けそうだ。一両取られる」と驚いて頭を下げて謝った。

太助 「勘弁してけれ。確かに書けるようだ。謝るからこの一両はなかったことにしてくれ」
くず七 「いいや。そうはいかない。この足を…………」
源兵衛 「わかったよ。右に曲げるんだろう?」
くず七 「いいや。左に曲げるのさ」

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ウィスコンシンで会った人々 その113 酒噺 「禁酒番屋」

「人、酒を呑み、酒、酒を呑み、酒、人を呑む」という教訓めいた言葉がある。酒は百薬の長であり、依存症やアルコール性肝障害にもなりうる。日本人の半数は遺伝的にアルコールを分解する力が弱いといわれる。そのあたりの按配を考えて酒を嗜みたい。

ある藩で月見の宴席が開かれた。そこで酒の上の刃傷沙汰が起き若侍二人が死ぬ。それ以来殿、様から禁酒令が出た。主君自身も酒を断つことを宣言した。しかし、なかなか禁令が行き届かず、チビリチビリやる者が続出する。これでは駄目だと門の脇に番屋を建てて、飲酒の点検と酒の持ち込みを厳しく取り締まった。いつしか人呼んで禁酒番屋といわれるようになった。

酒好きな近藤という侍が贔屓の酒屋を訪れ、五合升で2杯を平らげた。さらに何とか工夫して番屋をかいくぐり、自分の小屋まで寝酒として一升届けてくれと頼む。酒の配達が露見すれば営業停止にもなりかねない。店の者は仕方なく、小僧の一人に知恵をつけて酒を届けさせることになった。徳利を下げては門をくぐれない。最近売り出された”カステラ”を買ってきて、五合徳利2本を入れ替えて持ち込めば分からないと言い出した。小僧は菓子屋のなりをして番屋にいく。

番兵 「その方は何者だ!」
小僧 「向こう横町の菓子屋です。近藤様のご注文でカステラを持参しました」
番兵 「近藤は酒飲みだが菓子を食べるようになったのかな? 間違いがあっては困る、こちらに出せ」
小僧 「お使い物で、水引が掛かっています」
番兵 「進物か。それなら通れ」、「アリガトウございます。ドッコイショ」
番兵 「待て!今『ドッコイショ』と言ったな」
小僧 「口癖ですから」
番兵 「役目の都合、中身を改める、そこに控えておれ、、」

番兵が風呂敷をとくと徳利が出てくる。

番兵 「徳利に入るカステラがあるか!」
小僧 「最近売り出された”水カステラ”でございます」

番兵は、水カステラといわれた徳利を口にしそれを全部飲んでしまった。そして、”この偽り者”と叫んで小僧を追い返してしまう。店に帰って相談し、今度は油屋に変装して”油徳利”だと言って通ってしまうと支度を整えて出かける。

小僧 「お願いでございます」
番兵 「通〜れェ」 先程と違って役人は酔っている。」
小僧 「油屋です。近藤様のお小屋に油のお届け物です」
番兵 「間違いがあっては困る、こちらに出せ。水カステラの件があるから一応取り調べる」
番兵 「控えておれ、控えておれ。今油かどうか調べるから、、」
番兵 「なんだこれは! 棒縛りだ、この偽り者! 立ち去れ!」

またもや失敗。都合二升もただで飲まれてしまった。腹の虫が収まらない酒屋の亭主。そこで若い衆が、今度は小便だと言って持ち込み、仇討ちをしてやろうと言いだす。正直に初めから小便だと言うのだから、こちらに弱みはない。皆で小便を徳利に詰め番屋に出かける。

小僧 「近藤さまに小便をお届けにきました」
番兵 「なに、小便と? 初めはカステラと偽り、次は油、またまた小便とは、、、」
番兵 「これ!そこへ控えておれ。ただ今中身を取り調べる」
番兵 「今度は熱燗をして参ったとめえるな。けしからん奴。小便などと偽りおって、」
番兵 「手前がこうして、この湯のみへついで…………ずいぶん泡立っておるな、」
番兵 「ややっ、これは小便。けしからん。かようなものを持参なして、、、」

小僧 「ですから、初めに小便と申し上げました」
番兵 「うーん、ここな、正直者めが、いや不埒なものを、、、」

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ウィスコンシンで会った人々 その112 洒落噺 「洒落番頭」

洒落と駄洒落の違いと訊かれてもすぐに答えは出ないが、洒落は「オシャレ」、駄洒落は「オヤジギャグ」としておくのが相応しいようである。ややこしい定義よりもフィーリングでつかむほうがよさそうだ。

「洒落番頭」という演目を紹介する。さる商家の旦那、女房に「うちの番頭は洒落番頭と言われるほどの洒落の名人だ」と聞かされたので、番頭を呼んで「洒落をやってみせておくれ」言う。番頭が「ではお題をいただきます」と言うので、「庭の石垣の間から蟹が出てきた。あれで洒落を」と旦那は頼む。番頭は即座に「にわかには(急には)洒落られません」という。

洒落のわからない旦那は真面目に受けて「できないなら題を替えよう。孫が大きな鈴を蹴って遊んでいる。あれでどうだ」と言う。番頭、すぐに「鈴蹴っては(続けては)無理です」。旦那は「洒落られません、無理ですって、なにが名人だ!」と本当に怒ってしまう。

番頭は慌てて部屋から退いて、「旦那の前では二度と洒落はやるもんか」と捨て台詞。旦那は女房にその話をすると、女房は「それは洒落になってます」。

旦那 「できません、無理ですって断わるのが洒落かい」
 女房 「洒落になってますよ。番頭は洒落の名人なんですから」
 女房 「番頭がなんか言ったら、うまい、うまいって褒めてあげなさいよ。それを怒ったりしては、人に笑われますよ」
 旦那 「じゃあ、番頭を呼んで謝ろう」

呼ばれた番頭は旦那に謝られて盛んに恐縮する。

旦那 「機嫌を直して、もう一度、洒落をやっておくれ」
 番頭 「いえ、もう洒落はできませんで」
 旦那 「やぁ、番頭。うまい洒落だ」

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ウィスコンシンで会った人々 その111 Intermission ラグビーとスコットランド

「ラグビー・ワールドカップ2015」で日本代表の初戦の活躍が光った。強豪南アフリカ(South Africa)を破ったことにある。だが、第二戦はインターセプトなどの判断ミスから失トライ重ね、後半失速しスコットランド(Scotland)に敗退した。

スコットランドといえば、ゴルフ発祥の地としても知られ、セント・アンドルーズ(St. Andrews)は聖地と呼ばれる。またカーリング(Curling)もスコットランドが発祥とされるため、国際大会の前にはスコットランドの歌「Flower of Scotland」が演奏される。国民的にはサッカーが最も人気のあるスポーツであるが、ラグビーも非常に強いことが先日の対戦で知らされたところである。
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復習のようであるが、スコットランドは独立国家ではなく、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland: UK)を構成する4つの国の一つである。2014年9月、スコットランドの独立を問う住民投票が実施されたが否決されたのは目新しい。そのような訳で、スポーツなどの国際大会で演奏される「Flower of Scotland」は国歌ではない。

筆者も、誠に細いつながりがスコットランドやイングランド(England)とにある。数少ない友や知人を通して学校を視察したこと、障がい児教育の現場を見せてもらったことも忘れられない。ヨーロッパの歴史を表層的に学んだこと、特に幕末から明治にかけてのスコットランド人(Scots)の日本での活躍、日露戦争前後の日本とイギリスの関わりは記憶に残る知識だ。それとルター(Martin Luther)と宗教改革がスコットランドに与えた影響、改革の意義を説教や勉強会で教えられたことも心の糧となっている。こうしたスコットランドと日本の関係にはついては、このブログ上で24回にわたり綴ってきた。

全世界の産業革命の先駆的な出来事は、蒸気機関の発明である。蒸気機関は工場や機関車に応用された。その発明家ジェームズ・ワット(James Watt)は、グラスゴー大学(University of Glasgow)で機械工学を学び、その後技術者として知られ、産業革命の発展に多大な貢献をした。オックスフォード大学(University of Oxford)やケンブリッジ大学(University of Cambridge)が、主に官僚を養成することを重視したが、グラスゴー大学や実学を強調した。その違いはきわめて鮮明である。

スコットランド人は理論を実践に移し、ものづくりに傾注することの重要性を深く認識していたようだ。多くの技術が実用化され、スコットランドはやがて産業革命の中心地としての地位を確立し、「大英帝国の工場」と呼ばれた時期もあったようである。今も鉄道、鉄鋼、機械、石炭、畜産、綿織、海運、造船などが盛んである。

スコットランド人の気質としては、独創性、独自性が豊かだといわれる。それを起業精神につながると指摘する識者もいる。スコットランドの自然と経済環境の厳しさにも由来するとされる。1701年にイングランド王国に併合されると、スコットランド人の就労の機会は先進地域のイングラントや海外への植民地へと向かっていく。
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多くのスコットランド人が1800年代に北アメリカ大陸に渡っていった。アメリカの鉄鋼王と呼ばれたアンドリュ・カーネギー(Andrew Carnegie)もスコットランド人である。1848年にアメリカに移住した。カーネギーはU.S. スティール会社(U.S. Steel Corporation)などを創設し莫大な資産を残す。それを基金としてカーネギーメロン大学(Carnegie Mellon University)、世界の音楽の殿堂といわれるニューヨークのカーネギーホール(Carnegie Hall)などの建設に使った。偉大な篤志家ともいわれる。道産子の小生には、開拓時代にスコットランド人の実業家や研究者が北海道の農業や酪農、畜産業などの分野で大きな貢献をしたことも忘れられない。エドウィン・ダン(Edwin Dun)はその代表である。

スコッチ・ウイスキーは定義上スコットランド産である。スコットランドには、100以上もの蒸留所があり、世界に愛好家が多い。ニッカウヰスキーの創業者竹鶴政孝もグラスゴー大学で応用化学を学びやがて、北海道の余市においてウイスキー蒸留所を建てる。

1960年代に北海油田が開発されると、漁港アバディーン(Aberdeen)は石油基地として大きな発展をとげた。石油資源の存在はスコットランド独立派の強みとなっている。UK唯一の原子力潜水艦の基地がスコットランドのクライド(Clyde)にある。

スコットランドの公用語は英語とゲール語(Gaelic)である。消滅危険度評価で「危険」水準にあることから、スコットランドでは、2005年からゲール語を公文書で使うことが決められた。なおゲール語ではスコットランドをAlbaと表記する。
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さてラグビーに戻り第三戦だが、一勝一敗の日本はサモアと、二勝のスコットランドは南アフリカとの対戦である。期待しよう。

ウィスコンシンで会った人々 その110 ヤブ医者噺 「薮医者」

小石川養生所ができたのが1722年。質素倹約を推奨していた八代将軍徳川吉宗、直々の命で建てた医療、福祉施設とされる。困窮者救済が主たる役目だった。もともと幕府の薬草栽培施設だったのが小石川御薬園。低地と湿地のためいろいろな薬草も繁茂していたという。そこに養生所を建てたのである。都心にあって静けさが横溢し緑が滴るところである。小石川は台地や傾斜地となっていて、泉水が豊富に湧き出すなど地形の変化に富んでいる。今も養生所で使われていた井戸が残されている。現在は東京大学小石川植物園となっている。

山本周五郎の「赤ひげ診療譚」は、長崎で修行した医師保本登、その師匠の赤ひげによる不幸な人々の救済物語である。「譚」とは物語という意味。落語などで登場する藪医者は、「藪井竹庵」。藪医者をなぞらえて用いられる。主人や旦那のもとで働く人物の代表は権助で、演目でしばしばでてくる。

はやらない藪医者の藪井竹庵。あまりにも患者が来ないので考えたあげくに、奉公人の権助をサクラに使うことを思いつく。権助に玄関前で患者の使いのふりをさせて「こちらの先生はご名医という評判で……」と大声を張り上げれば、評判が立つだろうという計画だ。正直な田舎者の権助は、間違って患者が来たら可哀そうだとこの計略に乗り気がしない。だが計画の練習が始まる。

「お〜頼み申しますでのう」と玄関先で大声をはりあげる権助に藪医者は「どおれ、いずれから?」と応対する練習である。

権助 「(普通の声で)はい、お頼み申します、お頼み申します」
藪医者 「それじゃぁ、聞こえない、」
権助 「えっ?」
藪医者 「聞こえないよ」
権助 「聞こえねぇことなかんべ」
権助 「おめぇ様、そこに居るでねぇか」
藪医者 「いや、あたしに聞こえても駄目だ、外へ通る人に聞こえなくちゃいけない」
藪医者 「大きな声で、ひとつ、やってみてくれ」

藪医者は権助に、どこからやってきて何をしているかを指南する。

権助 「お頼み申します、お頼み申します」
藪医者 「大きな声で何屋何兵衛だといえ」
権助 「お頼み申します、何屋何兵衛という、、」
藪医者 「そうじゃない。伊勢屋九兵衛という酒屋からまいりましたか、とかなんか言ってみろ」
権助  「繁盛しそうな名だ」

藪医者と権助の練習は続く。

権助 「神田、三河町、越中、源兵衛ちゅう、米屋からめいりました」
藪医者 「なるほど、うまいな、声も大きい」
権助 「どうだ、うまかんべぇ」
藪医者 「はい、神田三河町、越中屋源兵衛という米屋さんですか、」
藪医者 「して、何のご用で?」
権助 「先月のお米の勘定を、もれぇに来た」
藪医者 「冗談、言っちゃぁいけない」

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ウィスコンシンで会った人々 その109 放蕩息子噺 「六尺棒」

放蕩息子といえども、すごすご家から出て行く者だけでない。したたかさもあり頼もしいところがある。夜遊びとか博打、吉原通いといった江戸庶民の楽しみを描く演目に放蕩息子がでてくる。大抵は二代目の倅の浮かれ姿であり、お決まりのように啖呵をきって出ていく。そして「札付きのワル」として大抵はとどめを刺す。それをにぎにぎしく思う親父の混迷振りが伝わる。

「六尺棒」という演目である。堅気の商人の若旦那、幸太郎は夜遊びが激しい。毎晩のように深夜の帰宅。いつも親父がうるさいので、戸をそっと叩いて番頭や小僧を呼び家に忍び込もうとする。

生憎、親父が起きていて、戸を開けてくれない。挙げ句の果てに、『幸太郎のお友達ですか?よく訪ねてくださいました。「幸太郎は親類協議の上、勘当しました」と幸太郎にそうお伝え願います』などと、一向に家に入れようとしない。

幸太郎は家に入れてもらえそうもないので「この家に火をつけてやる」と穏やかでない。慌てた親父、六尺棒を持ってひっぱたきに飛び出てくる。幸太郎のほうが脚力があるから、どんどん逃げる。親父は捕まえることはできず、とうとう諦めて家に戻る。

戻ると家の戸が閉まっている。幸太郎が先回りをして家の中に入って錠をおろしてしまった。どんどん戸を叩くと、中の幸太郎はさっき親父にやられた通り真似をして『ああ、親父のお友達ですか?よく訪ねてくださいました。「親父は親類縁戚で相談の上、勘当した」と、親父にそうお伝え願います』などとやり返す。

怒った親父 「そんなに俺の真似がしたかったら、六尺棒を持って、追っかけて来い」

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ウィスコンシンで会った人々 その108 丁稚噺 「藪入り」

江戸時代の藪入りは1月16日と7月16日。女中や丁稚小僧などの奉公人、嫁が実家へ帰ることのできた貴重な休日である。さぞかし皆が待ち焦がれていたと思われる。こうした商家を中心に広まった藪入りの伝統と名残りは、現代の正月や盆の帰省に引き継がれている。

商家に奉公している亀吉が三年ぶりに実家へ帰る藪入りの前日の夜である。息子の帰りを待ちきれない父親は「あいつの好きな熱いご飯と納豆、ウナギを食わしてやりたい。寿司や汁粉、それから天ぷら、刺身、おでん、、、」と女房に用意するように言いつける。「そんなに食べられやしませんよ、」とたしなめられる。夜中、まんじりともせず亀吉の帰りを待っている。

「今日は亀を湯に行かせたら、浅草の観音様に連れて行きたい。ついでに品川で海を見せて、羽田の穴守稲荷様に寄って、川崎の大師様にお詣りし、横浜、江の島、鎌倉。ついでに名古屋のシャチホコを見せて、伊勢の大神宮様にお参りしたい。そこから京大阪を回って、讃岐の金比羅様を一日で、、」女房は呆れてものがいえない。

当日。亀吉は丁重に両親に挨拶をする。身長が伸びた息子を見て両親は涙を流す。湯屋に出かけた息子の荷物を母はがなにげなく見ると、財布に紙幣が入っている。奉公先の給金を貯めたとはいえ、母親は「亀吉が何か悪事に手を染めたのでは」という疑念を抱く。父親は気を落ち着かせて待とうとするが、苛立ちがつのる。

帰ってきた亀吉に対し、父親は「このカネは何だ」と問い質す。亀吉は、「人の財布の中を黙って見るなんていけませんよ」と言い返したので、父親は殴り飛ばしてしまう。母親は父親を制止し、「じゃあ、どうやって手にしたおカネなのか」と泣きながら問いただすと、亀吉は「そのおカネは、店で捕まえたネズミを警察に持って行っていきました。そのネズミの懸賞が当たって、店のご主人に預けていたものです。今日の藪入りのために返してもらってきました」と答える。

両親は安心するとともに、我が子の徳と運をほめる。父親はバツが悪るそうに「これからもご主人を大事にしろ」と亀吉に次のように言う。

「これもご主人への忠(チュウ)のおかげだ」。

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ウィスコンシンで会った人々 その107 泥棒噺 「転宅」

間抜けな泥棒としっかり者のお妾さんとの噺である。侵入してきた泥棒から手練手管を使って金を巻き上げる。どうも落語の世界では女性は優位、男性は誠に情けない有様だ。

とある妾宅である。旦那が二号のお梅に金を渡し、お梅に送られていく。それを泥棒が聞きつけ妾宅に忍び込む。泥棒、残り物をムシャムシャ食っている。そこにお梅が帰って鉢合わせ。泥棒、お決まりのセリフですごんで見せるが、お梅は驚かない。

お梅は泥棒に身のうちを明かす。「あたしも実は元は同業で、とうに旦那には愛想が尽きている」、「あたしみたいな女でよかったら、一緒になっておくれでないか」言いだしたから、泥棒は仰天。泥棒は舞い上ってとうとう夫婦約束の杯を交わす。

そう決まったら今夜は泊まっていくと図々しく言いだすと「あら、今夜はいけないよ。二階には旦那の友達で柔術をやる用心棒がいるから駄目。明日のお昼ごろ来てね。合図に三味線でも弾くから」。明朝忍んでいく約束をしながら、「亭主のものは女房のもの。このお金は預かっておくよ」と泥棒は稼いだ金をお梅に巻き上げられる。

翌朝。うきうきして泥棒が妾宅にやってくると、あにはからんやもぬけのカラ。慌てて隣の煙草屋のお爺に聞くと、「いや、この家には大変な珍談がありまして、昨夜から笑い続けなんです」、「女は実は、元は旅稼ぎの女義太夫がたり。方々で遊んできた人だから、人間がすれている」、「女の家というのは平屋、二階なんてありませんよ。そろそろ間抜けな男が現れる頃、一緒に笑ってやりまひょう、」、「お後が怖いというので、明け方のうちに急に転宅してしましたよ」

間抜け泥棒 「えっ、引っ越した。義太夫がたりだけに、うまくかたられた(騙された)」

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ウィスコンシンで会った人々 その106 「近日息子」

この演目にでてくる倅は、放蕩息子までとはいかないが、かなりのぼんくら。放蕩息子といえば、新約聖書のルカによる福音書15章11節に登場する「The Parable of the Lost Son」と決まっている。

親父が倅に「もうちょっと落ち着いて考えろ、、!」と説教している。そして「芝居の初日がいつ開くか見てきてくれ」と頼む。帰ってきた息子が明日だと言う。そこで楽しみにして出かけてみると「近日開演」の札が立っている。

 親父 「馬鹿野郎、近日てえのは近いうちに開けるという意味だ」
 倅 「だっておとっつぁん、今日が一番近い日だから近日だ」

なにしろ普段から、気を利かせるとか、先を読むということをまるで知らない。「おとっつぁんがきせるに煙草を詰めたら煙草盆を持ってくるとか、えへんと言えば痰壺を持ってくるとか、鼻水がでそうになったら紙を持ってくるとか、それくらいのことをしてみろ」、「そのくせ叱るとふくれっ面ですぐどっかへ行っちまいやがって」、とガミガミ言っている。そのうちおやじ、トイレに行きたくなったので、紙を持ってこいと言いつけると、出したのは便箋と封筒。

また小言を言うと、倅はプイといなくなってしまった。しばらくして医者の錆田先生を連れて戻ってきたから、わけを聞くと「お宅の息子さんが『おやじの容態が急に変わったので、あと何分ももつまいから、早く来てくれ』と言うから、取りあえずきてみた」「えっ? あたしは何分ももちませんか?」「いやいや、一応お脈を拝見」というので、診ても倅が言うほど悪くないから、医者は首をかしげる。

それを見ていた息子、急いで葬儀社へ駆けつけ、ついでに坊さんの方へも手をまわす。長屋の連中も、大家が死んだと聞きつけて、「あの馬鹿息子が早桶担いで帰ってきたというから間違いないだろう、そうなると悔やみに行かなくっちゃ」と相談する。説教の薬が効きすぎたようだ。

そこで口のうまい男が口上を宣もう。「このたびは何とも申し上げようがございません。長屋一同も、生前ひとかたならないお世話になりまして、あんないい大家さんが亡くなるなんて、、、」……言いかけてヒョイと見上げると、ホトケが閻魔のような顔で、煙草をふかしながらにらんでいる。

 口のうまい男 「へ、こんちは、さよならっ」
 大家 「いい加減にしろ。おまえさん方まで、ウチの馬鹿野郎と一緒になって!」
 大家 「あたしの悔やみに来るとは、どういう料簡だっ!」
 口のうまい男 「へえ、表に白黒の花輪、葬儀屋がウロついていて」
 口のうまい男 「忌中札まで出てましたもんで」
 大家「え、そこまで手がまわって……馬鹿野郎、表に忌中札まで出しゃがって」
 大家 「へへ、長屋の奴らもあんまし利口じゃねえや」
 大家 「よく見ろい、忌中のそばに近日と書いてあらァ」

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ウィスコンシンで会った人々 その105 舞台噺 「音曲長屋」

落語の中には、音曲を取り入れたものも多くある。楽屋連中の踊り、歌・物真似が飛び出す歌舞伎仕立ての構成で、これを舞台落語と命名された。演者には相当な芸が要求されたといわれる。噺家の中でも舞台で披露する人がいる。実に可笑しい。

三味線や歌、踊りといった音曲の好きな旦那がまた新しい長屋を建てた。入居者募集には「芸の心得のある者」という厳しい条件をつけ、その手見せ(オーディション)を開いた。

常盤津、踊り、義太夫、落語、手品、物真似、皿回し、長唄、剣術、川柳・狂歌、所作指南など芸の持ち主がやってきては、自分の素人芸を披露した。長屋の主人は、応募者一人ひとりに「ええですな、是非とも入居を」とほめると、「お前さんはこの長屋に入るのは五十年早いな」などと冷やかしながら入居者を決めていった。

最後の男が都都逸を唄うと、その声に長屋の旦那はすっかり惚れぼれしてしまう。都都逸は、三味線と共に歌われる俗曲。主として男女の恋愛を題材とした。これを音曲師が寄席や座敷などで演じる出し物である。

▽この酒を 止めちゃ嫌だよ 酔わせておくれ まさか素面じゃ 言いにくい
これは、五・七・七・七・五の音数律となっている。

▽あついあついと 言われた仲も 三月せぬ間に あきがくる
こちらは七・七・七・五の形式である。

 長屋の旦那  「大変結構、結構。あなたは店賃はいりません。」
 長屋の旦那  「その代り、毎日、あたしの所へきて都都逸を聞かせてくださいな」
 応募者  「いくらなんでも毎日聞いてたら、飽きやぁしませんか?」
 長屋の旦那  「あたしは家主。空家(飽きやぁ)は禁物です」

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ウィスコンシンで会った人々 その104 泥棒噺 「鈴ヶ森」

新米泥棒を親分が実地教育するという噺である。ドジで間抜けな新米。泥棒といってもねずみ小僧次郎吉や稲葉小僧、石川五右衛門といった暴利を貪る商人や威張っている侍を狙った「義賊」ではなく、新人泥棒の噺である。舞台は大森海岸沿。東海道は鈴ヶ森である。

親分 「出掛けるから、にぎりめしの風呂敷を担げ。お前が食べるんじゃ無いぞ。舅に食べさせるんだ」
新米泥棒 「舅って連れ合いの親ですよね」
親分 「何にも分からないのだな」
親分 「舅とはウルサいだろ。だから犬のことだ!」
新米泥棒 「では猫は小舅ですか」

親分 「ドスを差して行けよ!」
新米泥棒 「何でドスと言うのですか」
親分 「うるさいな。ドッと刺して、スッて抜くからだ」

親分 「表へ出ろ。戸締まりはしてきたか。世の中物騒だからな」、新米泥棒 「大丈夫です。物騒なのが二人出てきましたから」
新米泥棒 「暗いですね」
親分 「俺たちは暗いから仕事になるんだ」
新米泥棒  「恐いから、もっと明るい吉原に行きましょうよ」
親分 「歩くと、もっと暗いとこに行くぞ。鈴ヶ森で追い剥ぎだ」新米泥棒 「鈴ヶ森はよしましょう。しょっ引かれて首を刎ねられそう」

鈴ヶ森にやってくると、親分は旅人にどのような口上をいって金をせびるかを新米泥棒に教える。二人は口上の練習を始める。

親分 「おーい、旅人、おらぁ〜頭の縄張りだ」
親分 「知って通れば命は無い、知らずに通れば命は助けてやる!」
親分 「その代わり身包み脱いで置いて行け!」
親分 「イヤとぬかせば二尺八寸段平物をてめえの腹にお見舞え申す」

口上を新米泥棒が言うと親分が後ろに回って仕事をすることを確認する。

新米泥棒 「親分、その口上はアッシが言うんですか。それは無理です。紙に書いて下さい」
親分 「暗闇で書けるか」
新米泥棒 「アッシも読めませんから、相手に見せて読んでもらいまひょう」

真っ暗な中、鈴ヶ森に着く。新米泥棒がモタモタしている内にカモがやって来た。親分に押されて飛び出して、旅人を呼び止めた。だが新米の口上はさんざんで旅人に馬鹿にされる始末。

旅人 「二尺七寸段平物と言ったが、それを言うのだったら二尺八寸段平物と言え。一寸足りないぞ」
新米泥棒 「一寸先は闇でござんす、」

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ウィスコンシンで会った人々 その103 手討ち噺 「たけのこ」

春は芽、夏が葉、秋は実、冬は根をいただくのが日本の食文化である。竹冠に旬と書いて「筍」。たけのこである。まさに旬の食材。なんともいえない趣のある漢字である。今春、奈良の友人からいつものように筍が送られてきた。隣近所にお裾分けをし、ご相伴にあずかってもらった。食感といい香りといいたまらない春の食材である。落語にも筍が登場する。

ある武家屋敷である。田中三太夫が殿様にお目通り。三太夫とは家老とか執事という役職である。

三太夫 「実は、お隣の筍にございます」
殿様 「隣の筍ぉ?」
三太夫 「はっ、隣の筍が塀越しにこちらの庭先に顔を出しました」
三太夫 「それを密かに殿に差し上げる所存でございます」
殿様 「たわけっ。何を申すか、その方は。その方なぁ、」
殿様 「武士たる者が、隣のものを黙って食らうとは、何事だ」

殿様は云う。町人なれば誤って事も済むだろうが、武士たる者、事と次第によっては、腹を切らぬければならんと。

殿様  「もそっと、もそっと、前へ出ぇ。かよう盗人同然の者をのぉ、この屋敷において、養うことはまかりならん。もそっと、前へ出ぇ。筍の前にその方の首を落としてつかわす」

三太夫 「ちょちょちょ、ちょ、ちょちょっ、ご勘弁願います。いや、いやいや、旦那様、落ち着いてくださいまし。あたくしが悪うございました」

三太夫 「いやっ、旦那様、しばらく、しばらくっ」
三太夫 「いやっ、まだ、あのぉ、筍は盗った訳ではございませんので」
殿様 「盗っておらんー? では、はよぉ盗ってまいれ。」

三太夫は殿の命令に驚く。殿様は、筍が育ちが早いのですぐ硬くなることを知っている。盗ってはならんというのは表向きの言葉。隣の爺が憎らしいのである。その爺の筍を食らって溜飲を下げようという趣向である。

三太夫はびっくりしていると、殿が許せ、許せ、といいながら爺に断りを入れるように三太夫に申しつける。

三太夫 「はっ、何と申しますか?」

殿様は、けしからん筍は既に当方において手討ちにしたこと。そして遺骸は手厚く腹の内へと葬ったこと。そして筍の形見として皮を持ってきたこと。このとおり可愛いや(皮嫌)、、といいう口上となる。

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ウィスコンシンで会った人々 その102 泥棒噺  「釜泥」

泥棒といえば義賊といわれた石川五右衛門やネズミ小僧次郎吉、そしてアルセーヌ・ルパンが知られている。実在といわれた五右衛門や次郎吉は浄瑠璃や落語にも登場する。こうした泥棒を扱った作品では、それを書いた作者の想像力と創作意欲をかき立てたようで、古今数多くのフィクションが生み出された。

五右衛門の手下だったという男二人。親分が京の市中を引き回され釜煎りにされ、自分たちも捕まって天ぷらにされるのが心配になった。そこで、親分の供養と将来の備えのために、世の中にある釜という釜をかたぱっしから盗み出し、ぶち壊してしまおうという計画を立てた。さしあたり、大釜を使っているのは豆腐屋。そこを狙おうと相談がまとまる。

やがて豆腐屋ばかりに押し入り、金も取らずに大釜だけを持ち去る盗賊が世間の評判になる。豆腐業界は大騒ぎとなる。何しろ新しい釜を仕入れてもすぐかっさらわれるのだ。

ある小さな豆腐屋。爺さんと婆さんの二人で、ごくささやかに商売をしていた。この店でも釜を盗まれた。爺さんは頭を悩ませ、何か盗難予防の工夫はないかと婆さんと相談した結果、爺さんが釜の中に入り、酒を飲みながら寝ずの晩をすることになった。ところが、いい心持ちになり過ぎてすぐに釜の中で高いびき。

そこに現れたのが例の二人組み。この家では先だっても仕事をしたが、またいい釜が入ったというので、喜んでたちまち戸をひっぱずし、釜を縄で縛って、棒を通してエッコラサ。「ばかに重いな」「きっと豆がいっぺえへえってるんだ」せっせと担ぎ出す。

釜の中の爺さんが目を覚まして「婆さん、寝ちゃあいけないよ」とつぶやく。泥棒達は変な声が聞こえるなと担ぎ続ける。また釜の中から「ほい、泥棒、入っちゃいけねえ」泥棒、さすがに気味悪くなって、早く帰ろうと急ぎ足になる。釜が大揺れになって、爺さんはびっくりし「婆さん、婆さんや、地震か?」

その声に二人は我慢しきれず、釜を下ろして蓋を開けると、人がヌッと顔を出したからたまらない。「ウワァー」と、おっぽり出して泥棒は一目散。一方、爺さん、まだ本当には目が覚めず、相変わらず「婆さん、婆さん、地震だ、起きろ!」

そのうちに釜の中に冷たい風がスーッ。やっと目を開けて上を向くと、空はすっかり晴れて満点の星。「ほい、しまった。今夜は家を盗まれた」というサゲとなる。

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ウィスコンシンで会った人々 その101 ヤブ医者噺 「熊の皮」

いろいろな医者の中で滑稽いなのが「手遅れ医者」。やって来る患者には、まずは言う。「手遅れですな、、、」。「先生、なんとか助けてください。どうすれば良くなりますか?」。「病気になる前に連れてこなくちゃあかん、、」 たまに重病人がよくなると「手遅れ医者」も名医と呼ばれたとか、、。

横丁のヤブという評判の医者から祝い事があったからと、多賀が緩み加減の甚兵衛の家に赤飯が届けられる。そのお返しに行かなければということで、女房は亭主の甚兵衛に口上を教える。

女房が亭主に指南した口上は次のようなことだ。
「先生はご在宅でございますか、、うけたまわれば、お祝い事がありましたそうで、おめでとう存じます。先日はお寒い中、そしてお門多い中、手前どもまで赤飯をお届けくださりありがとう存じます。女房からくれぐれもよろしくと申しておりました」

そして女房は「おまえさんはおめでたいから、決して最後の口上を忘れるんじゃない。それからあの先生は道具自慢だから、なにか道具の一つも褒めといで」と注意されて送り出される。

おなじみの与太郎に似て頓珍漢な口上を始める。「ありがとう存じます」まではなんとか言えたが、肝心の「女房が、、、、」以下をきれいに忘れてしまった。「はて、まだ何かあったみてえだが……」座敷へ上げてもらっても、まだ首をひねっている。

甚兵衛 「……えー、先生、なにかほめるような道具はないですか」
ヤブ医者 「ナニ、道具が見たいか。
ヤブ医者 「よしよし、……これはどうだ」
甚兵衛 「へえ、こりゃあ、なんです?」
ヤブ医者 「珍品の熊の皮の巾着だ!」

なるほど本物と見えて、黒い皮がびっしりと生えている。触ってみると、丸い穴が二か所開いている。鉄砲玉の痕らしい。甚兵衛、感心して毛をなでまわしている間に、ひょいとその穴に二本の指が入った。

甚兵衛 「あっ、先生、女房がよろしく申しました!」

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ウィスコンシンで会った人々 その100 医者噺 「代脈」

以前、藪医者の演目の一部を紹介した。http://naritas.jp/wp1/?p=2045
江戸時代の医者は、徒弟制度で世襲制であった。それゆえ極端にいえば誰でも医者になれた。そうした医者を揶揄して、ヤブ医者の他にヘボ医者、雀医者、葛根湯医者、手遅れ医者などたくさんいたようである。教習もなければ資格もなかった。ただ医者になると姓を名乗り小刀を腰に差す事が許されたという。山本周五郎の「赤ひげ診療譚」は、長崎で修行した医師保本登と赤ひげの物語。彼らは不幸な人々の救済にあたった本物の医師だったようである。医師が免許制となったのは明治9年になってからである。

今は八重洲通りである中橋広小路に尾台良玄という医者がいた。彼には銀南という弟子がいた。良玄のお得意に伊勢屋があった。そこの綺麗な娘が向島の寮で療養中だった。そろそろこの銀南を代脈に行かせようと良玄は考えた。代脈とは主治医に代って患者を診察することである。銀南は少々虚けのところがあるので良玄は、初めての代脈の作法を指南する。

良玄 「向こうに着いたら、番頭さんがお世辞にも『これはこれは、ようこそ』と迎えてくれる」
良玄 「そして奥の6畳に案内してくれる。座布団が出るから静かに堂々と座る」
良玄 「次にたばこ盆が出る。さらにお茶とお茶菓子が出る」
銀南 「お菓子は何が出ます?」
良玄 「いつもは羊かんが9切れ出るな」
銀南 「では、片っ端からパク付いて」
良玄 「品が無いな。食べてはいかん。羊かんは食べ飽きている、と言うような顔をする」
良玄  「どうしてもと言う時は一切れだけ食べても良い」
銀南 「残りの8切れは?」
良玄 「お連れさんにといわれたら、紙にくるんで貰って良い」

良玄 「それから奥の病間に通してくれる。丁寧に挨拶して、膝をついて娘さんに近づき”銀南でございます”と挨拶をする」
良玄 「脈を診て、舌を診て、胸から小腹を診る。この時左の腹にあるシコリには絶対触ってはならない」
銀南 「何でですか?」
良玄 「私も何だろうと思って軽く触れたら、びろうな話だが、放屁が出た」
銀南 「ホウキが出たんですか」
良玄 「いや、オナラだ」
銀南 「綺麗なお嬢さんがオナラをするはずがないでしょう」
良玄 「出物、腫れ物はだれにもあるから仕方がない」
良玄 「お嬢さんも真っ赤な顔をした。お前だったら何という?」
銀南 「や〜、綺麗な女のくせしてオナラをした〜」
良玄 「そんな事言ったら、お客様を一軒しくじる」
良玄 「わしはその時、掛け軸を観ていて聞こえない振りをして『この二.三日、耳が良く聞こえん』と頓知を働かせた」
良玄 「するとお嬢さんの顔色が元に戻った。決して左の腹を触るでないぞ」

銀南は師匠の着るものや道具箱を借りて伊勢屋へ出かける。駕籠に初めて乗るので舞い上がっている。頭から乗ろうとして上手く乗れず「キャー」っと声張り上げ、道行く人に笑われる。駕籠に乗っているうちイビキまでかき始めた。

伊勢屋での出迎えはご老母。娘に挨拶をし、脈を取って驚いた。痩せて毛むくじゃらな娘だと思ったら横で寝ていた猫であった。お腹を拝見とばかり、触るとシコリを発見する。そっと触わるようにと言い含められたのだが、銀南グイッと押したからたまらない。特大のオナラが出て銀南はビックリ。

銀南 「ご老母さん、この二.三日陽気の加減で耳が遠くなっています。何か用事があったら、大きな声でおっしゃってください」
老母 「先日、大先生も同じ事言われましたが、若先生もお耳が遠いのですか」
銀南 「えぇ、遠いんです。安心なさい、今のオナラはちっとも聞こえませんでした」

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