ヨーロッパの小国の旅 その三十九 オランダ東インド会社と日本

リーフデ号(De Liefde)は1600年4月、九州の豊後に来航します。といってもようやく辿り着いた航海だったようです。同船を含む5隻の船はマフ船団と呼ばれたようです。司令官はヤックス・マフ(Yax Muff)という人の名をとっていました。船団は1598年6月ロッテルダム(Rotterdam)を出航したのち、大西洋を南下し、南米最南端の難所マゼラン海峡をとおり太平洋へはいります。リーフデ号には後に江戸幕府の外交顧問になったヤン・ヨーステン(Jan Joosten)やウイリアム・アダムス(William Adams)乗り組んでいました。ヨーステンは「八重洲」という地名の語源となった人物で、アダムスは後に三浦按針と名乗ります。

なぜ、オランダの商船が日本を目指してきたかということです。16世紀後半、オランダはスペインと対立し、同国と八十年戦争を行っていて貿易制限、船舶拿捕などによって経済的に打撃を受けていたといわれます。当時、東南アジアの香辛料取引で強い勢力を有していたポルトガルは1580年にスペインに併合され、オランダはリスボンなどを通じた香辛料入手も困難になっていました。そのため、オランダは独自でアジア航路を開拓し、スペインに併合されていたポルトガルに対抗する必要がありました。こうして、大航海時代のヨーロッパ勢力が香辛料貿易の利益を求めて東南アジアにあらわれるようになります。

イギリスやポルトガルが、東南アジアとの取引を本格化させるとともに、香辛料購入価格が高騰していきます。商社同士が価格競争を行ったため売却価格は下落していきます。ホラント州(Holland)のオルデンバルネフェルト(Johan Oldenbarnevelt)というやがて共和国の宰相となる政治家が中小の貿易会社を統一しオランダ東インド会社(Holland East India Company)を発足させ、諸外国に対抗しようとします。これが1602年3月の東インド会社の設立です。通称VOC(Verenigde Oost-Indische Compagnie)といわれました。

東インド会社は、世界初の株式会社といわれます。本社はアムステルダム(Amsterdam)に設置され、支店の位置づけとなるオランダ商館は、やがてジャワや平戸などに置かれます。会社といっても商業活動のみでなく、条約の締結、軍隊の交戦権、植民地経営権など諸種の特権を与えられた専売会社です。アジアでにおける帝国主義は植民地政策であり、その前身となる組織です。オランダは長くインドネシアを植民地とします。戦時中、日本がインドネシアを占領したことは、オランダからの独立を促す契機ともなったといわれます。インドネシア独立戦争は、1945年から1949年まで続きます。

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ヨーロッパの小国の旅 その三十八 オランダ東インド会社

私がオランダへ行ったのは、兵庫教育大学に客員研究員として招いたオランダ人との付き合いからです。彼はオランダの東、ドイツ国境に近いい街、エンシェンデ(Enshande)にあるトゥウェンテ大学(Twente University)の教育工学専門の教授でした。首都アムステルダムに一緒に行った友人は兵庫教育大学の教授です。彼は、アムステルダム(Amsterdam)にはかつてのオランダ東インド会社の本社があったと言っていました。

世界初の株式会社といわれたオランダ東インド会社の設立の経緯です。1596年6月、インドネシアにやってきたのがオランダの探検家ハウトマン(Frederik de Houtman)が率いた艦隊です。この航海の成功に勢いづけられて、オランダでは対アジアの貿易会社が林立しました。1601年末までに15の船団からなる65隻の船が東洋に派遣され、香辛料を満載にして戻ってきたといわれます。

その結果、競争が激化。東アジアでの仕入価格は高騰し、逆にヨーロッパでの販売価格は下落しました。利益確保のため、オランダの連邦議会ではこれらの貿易会社を統合する必要性が論じられました。これに先立つ1600年、北海を隔てた隣国イギリスではエリザベス1世により勅許会社イギリス東インド会社が設立されていました。このこともオランダ人の危機感を煽りました。1602年3月、中小の貿易会社が統一され、「オランダ東インド会社(通称:VOC)」が設立されました。

オランダ、ヨーロッパ最古の大学にライデン大学(Leiden University)があります。日本との間にあらゆる分野の学生や研究者の交流を行っています。アインシュタイン(Albert Einstein)や国際法「自然法の父」グロチウス(Hugo Grotius)、現在の国王ウィレム・アレキサンダー(Willem Alexander)、10人のオランダ首相をはじめ数多くの指導者を輩出する大学です。

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ヨーロッパの小国の旅 その三十七 「世界は神が作ったが、オランダはオランダ人が作った」

オランダ(Holland)とネザーランド(Netherlands)という使い分けから始めます。公式にはネザーランド王国(Kingdom of the Netherlands)というのが正しい国名です。チューリップと水車の国とも呼ばれています。

オランダが国を樹立したのは、いろいろな地域や都市を併合して1579年にスペインからの独立を宣言したときです。 その一つがオランダ(Hollands)という地域でした。Hollandsの歴史は12世紀に遡ります。ローマ帝国の支配にあった頃です。今の首都アムステルダム(Amsterdam)やロッテルダム(Rotterdam)、ハーグ(Hague)といった都市はオランダ地域の中にあります。こうした地域は、政治や経済の中心となり、対外的にはオランダ(Hollands)と呼ばれるようになります。

ところでNetherlandsとは「低い土地」、Hollandとは「森林地帯」という意味です。中世以来の伝統を引き継ぎ、12の郡から構成されています。オランダの自治領としてカリブ海のオランダ領アンティル(Antilles)、サバ(Saba)、シント・マーテン(Sint Maarten)などがあります。

オランダは極めて平坦な国土で、湖、川、そして運河が広がります。6,500 平方キロが干拓によって造られてきました。水の管理の伝統は中世から始まり今に至っています。新しい土地はほとんどが干拓地で、今も排水が続いています。もともとは人力や馬によって排水作業がされていました。

「世界は神が作ったが、オランダはオランダ人が作った」という諺があります。オランダは国土の大部分が低湿地帯です。干拓によって人の住める場所を広げてきました。さらに13世紀には風車を利用するようになり、風を動力として活用する技術を蓄積していました。電気モーターやディーゼルに代わったのは20世紀になってからです。キンデルダイク(Kinderdijk-Elshout)という水車小屋が並ぶ光景はユネスコの世界遺産として登録されています。

風車の発明や改良などにより、大航海に耐える帆船を作るのに充分な技術が生まれます。そして大西洋やインド洋へ乗り出すのです。

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ヨーロッパの小国の旅 その三十六 オセロとシャイロック

デンマークから少し南下してイタリアのヴェニス(Venice)に行きましょう。といってもヴェニスの街ではありません。シェイクスピアが描く「オセロ(Othello)」、副題は「ヴェニスのムーア人」(The Moor of Venice)という悲劇です。今回はオセロと「ヴェニスの商人」(Merchant of Venice)に登場するシャイロック (Shylock) という劇の主人公を比較し、キリスト教社会と人種差別を話題にしてみようというのが本題です。

ベニス共和国(Republic of Venice)に仕えるムーア人(The Moor)でアフリカ系黒人の将軍オセロは、元老院議員の白人娘デスデモーナ(Desdemona)と深く愛するようになり,周りからの反対にあいながらも結ばれます。カトリック教会が定着するイタリアのヴェニスで、高官の娘を妻にしたオセロに対して、彼の部下が嫉妬を抱くという舞台設定です。

来襲するトルコ軍と戦うためにやってきたキプロス島(Cyprus)で,オセロはかねてより彼に恨みを持つ旗手イアーゴの奸計に乗せられます。奸計とは自分をさしおいて昇進した同輩でオセロの副官キャシオー(Cassio)がデズデモーナと密通しているとオセロに讒言するのです。イアーゴはオセロに言うのです。「お気をつけ下さい、将軍、嫉妬というやつに」

オセロは、デズデモーナとキャシオーへの疑念に取りつかれます。そうして二人の不義を密告した忠実で正直な旗手イアーゴを自分の副官に任命し、キャシオーも殺そうと決意するのです。イアーゴの悪巧みによってデズデモーナの不貞を確信したオセロは、彼女を絞殺するのです。しかし、その直後に妻デズデモーナの貞淑(honesty)や真実を知ってオセロは自害するのです。

「ヴェニスの商人」の主題の一つが人種差別です。ユダヤ教徒への偏見を描いた小説といわれます。貿易で栄えたヴェニスが舞台です。ユダヤ人で強欲な高利貸しシャイロックから貿易商人であるアントーニオ(Antonio)は友人のために金を借りるのです。そして指定された日までに金を返すことが出来なければ、自分の肉1ポンドを与えるという契約に合意します。

「オセロ」では、黒人を主人公として肌の色の違いによる人種差別が描かれています。「白」と「黒」という対照です。白は純粋とか純真、正直、正義、神聖といったイメージを持っています。他方、黒は権威、破壊、詐欺、闇といったイメージもあります。二つの単語は肯定的な面と否定的な意味を包含しています。シェイクスピアは、ステレオタイプ的なユダヤ人のシャイロックを虐げられた民族として描いているようです。

ヨーロッパの小国の旅 その三十五 ハムレットとデンマーク

デンマーク皇太子ハムレットの悲劇」(The Tragedy of Hamlet, Prince of Denmark)は文字通りデンマークが生んだ伝説の人物を主人公にしています。1599年から1601年にかけて書かれたとあります。ハムレット(Hamlet)という名は、Wikipediaによりますと、中世デンマークの歴史家であったサクソ・グラマティクス(Saxo Grammaticus)によって書かれたデンマークの歴史書に残る伝説の英雄「アムレート」(Amleth)に由来するとあります。

 シェイクスピア(William Shakespeare)の四大悲劇「ハムレット」、「マクベス」(Macbeth)、「オセロ」(Othello)、「リア王」(King Lear)の中で、最も長いのが「ハムレット」です。この物語はデンマーク皇太子ハムレットが、父(King Hamlet))を殺し母ガートルード(Gertrude)を奪い王位に就いた叔父クローディアス(Claudias)を討ち、復讐を果たす物語です。

 劇の最初ではハムレットは、父ハムレット王の死、叔父の王位継承、さらに母の早すぎる再婚という堕落ぶりにひどく憂うつになってしまいます。ある夜、父の亡霊がハムレットの前に現れ、クローディアスが王位を強奪するためにハムレット王を殺したことを告げます。そしてハムレットに父の死の復讐をするように命令するのです。

 ハムレットはクローディアスが有罪かどうかを確かめるために、宮廷劇を企画します。そのために役者の一団を雇います。王の殺人劇を見せてクローディアスの反応を試すのです。そして家来であり腹心の友であるホレイシオ(Horatio)にクローディアスの反応を探らせるのです。クローディアスは劇の途中で罪悪感に耐えられず、途中で劇を中断するように命令します。クローディアスが酷くとり乱し観衆の前から立ち去ると、ハムレットは亡霊が言っていたことは正しかったことを確信するのです。

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ヨーロッパの小国の旅 その三十四 デンマークとアンデルセン童話

中世期頃からのデンマークの歴史です。11世紀初頭の30年間にはクヌート大王(Knut I the Great)が北海帝国(North Sea)として、デンマークとイングランドを統治します。1397年にデンマーク王母のマルグレーテ(Margrete I)によって、デンマーク・ノルウェー・スウェーデンの3ヶ国による、デンマークを盟主にしたカルマル同盟(Kalmaru Union)が結ばれます。

やがて海軍も強化し、宿敵であったハンザ同盟(Hanseatic League)を破って、バルト海の盟主にもなるのがデンマークです。ハンザ同盟とは、中世後期の北ドイツの都市による都市同盟で、バルト海沿岸地域の貿易を掌握し、ヨーロッパ北部の経済圏を支配していました。こうして、デンマークは北海からバルト海をまたぐ超大国となります。

第一次世界大戦ではデンマークは中立を維持しますが、第二次世界大戦では1940年にナチス・ドイツによって宣戦されると、国王クリスチャン10世(Christian Carl Frederik)は即座に降伏を選び、デンマークはドイツの占領下に置かれることになります。初期はモデル被占領国と呼ばれますが、クリスチャン10世は反ナチ運動家を保護し、民族主義およびナチス支配へのレジスタンス運動を支援し、したたかな政治家であったと後に評価されています。

アンデルセン童話(fairy tales)でおなじみのアンデルセン(Hans Christian Andersen)の母国としてなじみがあります。「マッチ売りの少女」「みにくいアヒルの子」などの作家です。また、コペンハーゲンの有名な遊園地チボリ公園(Tivoli)は倉敷駅の北側に造られるほどです。

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ヨーロッパの小国の旅 その三十三 デンマーク

デンマーク(Kingdom of Denmark)という国から何を思い浮かべるでしょうか。政治や経済に関心のある人にはノルディック・モデル(Nordic Model)の高福祉高負担国家を、文学の好きな人にはアンデルセン童話やハムレット(Hamlet)となるでしょうか。国土は、北海の400以上の島々を含むユトランド半島(Peninsula of Jutland)が3/4を占め、首都はコペンハーゲン(Copenhagen)です。

 デンマークは、フェロー諸島(Faroe Islands)というスコットランドのシェトランド諸島(Shetland Islands)、およびノルウェー西海岸とアイスランドの間にある北大西洋の諸島、そしてグリーンランド(Greenland)を自治領としています。国土の大きさからすると大国ということでしょうか。

 ノルディック・モデルから始めましょう。ノルディックとは「北欧」を指します。ノルディック諸国は、高い税金によって、公共サービス、多数の社会事業、そして比較的手厚い失業給付金制度を提供するというのが特徴です。充実した育児休暇制度が女性の高い就労率を支えていることもモデルの一つです。

 デンマークでは女性の国会議員は現在67人で37.43%を占めます。女性が出産する場合、100%給与が保障される出産休暇を取得することができます。フィンランドの内閣は18人の閣僚のうち12人が女性であることも既に述べました。女性の社会参加は育児休暇制度が支えています。デンマーク市民の生活満足度は高く、2016年の国連世界幸福度報告(World Happiness Report)では第1位でした。日本は53位です。

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ヨーロッパの小国の旅 その三十二 スウェーデンと人々の暮らし

北欧の国々は国土の面積や人口をみると大国とは言えないようですが、それでも超先進国と表現して間違いありません。スウェーデンの1人あたり国民総所得(GNI)は5万8,00ドルで、世界第7位の高所得国となっています。税金は所得の50%にもなっています。社会保障、健康保険、失業保険なども整備されているので、「高福祉高負担」の社会モデルが注目されてきました。近年その影には移民政策による歪みが拡大しているといわれます。

 第二次大戦後、仕事を求めて多くの人々が南部の都市に移動します。そのため過疎化が発生し、海外からの移民を受け入れてきました。そのため、犯罪や事件がなどが発生します。2018年には過去5年間の強姦犯の58%が外国生まれの移民であり、その多くが非欧州からの移民だという統計が公表されています。寛容な移民受け入れ政策を続けるのがスウェーデンの大きな悩みのようです。

 スウェーデンの産業は農業や林業、畜産業や漁業です。農業でいえば、年間日照時間は南部で240日、北部ではたったの120日となっています。小麦や大麦の栽培が中心です。国土の1/10が農耕に利用されています。国土の約3/4が森林地帯となっています。建材やパルプに用いられる常緑針葉樹(spruce)は約50年で伐採されて利用されます。漁業では鮭や海老の養殖が盛んに行われています。

 福音ルーテル教会がスウェーデン国教会となっています。人口の6割がルーテル教会に所属しています。国教会とは国が主体となって運営を行っているキリスト教の教会のことです。国民からは教会税を徴収し、洗礼を住民登録に代え、教会での結婚式を正式な結婚の手続きとして扱ったりします。このような手続きは北欧諸国、イギリス、ドイツなどにも残っています。

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ヨーロッパの小国の旅 その三十一 スウェーデン

スウェーデン(Kingdom of Sweden)へ移りましょう。スウェーデンはノルウェーと同じように北欧の小国とはいえないほど、先進的な国といわれます。国家元首である国王は国家の象徴であり、立憲君主制(constitutional monarchy)を敷く国です。 首都はストックホルム(Stockholm) です。私はこの国を旅したことがありません。

 スウェーデンは昔から大国の侵略を経験してきました。そのために、国策として掲げるのは専守防衛とか中立政策です。軍事同盟でなく自国の軍事力のみで達成するために、陸海空軍を備え国防への注力は怠ってはいません。特に空軍の戦力は非常に高いといわれます。世界情勢については大国の中に入り、平和中立外交で役割を果たしてきたのがスウェーデンです。

 中立政策ゆえに重化学工業や精密機械工業を担う大企業はスウェーデンの軍需産業ともなっています。例えば、航空機メーカーのサーブ(Saab)は優秀な戦闘機を製造しています。自動車メーカーのボルボ (Volvo) 、通信機器メーカーのエリクソン(Ericsson)、プロ用カメラ・レンズ製造のハッセルブラッド(Hasselblad)、世界最大の家具量販店のイケア(Ikea)など伝統的に製造業が盛んな国です。世界中からスウェーデンにやってくる人々の足はスカンジナビア航空(Scandinavian Airlines)でしょう。この会社は、スウェーデン、デンマーク、ノルウェーで運航されています。

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ヨーロッパの小国の旅 その三十 ノルウェーの地理やサーミ民族

ノルウェーの地図を見ますと、多くのフィヨルド(Fjord)を持った国であることがわかります。フィヨルドは、氷河による侵食作用によって形成されたU字形の複雑な入り江のことです。ノルウェーの西部・北部にあるトロンハイム(Trondheim)やガイランゲル(Geiranger)フィヨルドは特に美しい景観といわれます。いわゆるリアス式海岸です。この海岸線には5万以上の島々が点在しています。首都はオスロ(Oslo)です。

 ノルウェーの大きな都市は海岸線に発達し、人口が集中しています。ベルゲン(Bergen)やトロンハイムです。昔からノルウェー漁業や林業、農業が盛んです。これはヴァイキング(Viking)の時代からです。ヴァイキングはイギリスはもちろんロシアの海岸線まで進出しました。そしてアイスランド(Iceland)やグリーンランド(Greenland)を植民地化します。北アメリカの海岸も探検したという記録があります。ヴァイキングの精神はナンセン(Fridtjof Nansen)、アムンゼン(Roald Amundsen)、そしてヘイエルダール(Thor Heyerdahl)といったノルウェーの探検家であり人類学者、生物学者などに引き継がれていきます。

 ノルウェーは伝統的にデンマークやスウェーデンの植民地でありました。1905年にようやく独立を果たします。交易が盛んとなり造船業などでも繁栄していきます。1970年代になると原油や天然ガスの発掘が始まり主要な産業となります。1990年代では主要な原油の輸出国ともなります。ノルウェーは地政学的にヨーロッパ大陸の外側に位置しているので、固有の生き方や文化を保持してきました。20世紀後半には、南ヨーロッパや南アジアからの移民がオスロ周辺に定住しますが、大多数の国民はノルディック(Nordic)です。

 ノルウェーの北部にはフィンマーク高原(Finnmark Plateau)が広がり、そこにはサーミ(Sami)とかラップ( Lapps)と呼ばれる先住民族が住んでいます。サーミ民族は、スウェーデンやフィンランド、ロシアのコラ半島(Kola Peninsula)にもまたがっています。 主として林業や漁業、皮革業などですが、カリブー(caribou)やトナカイ(reindeer)の遊牧業も盛んです。サーミ民族は、北ヨーロッパ系の特徴である金髪で碧眼のゲルマン系といわれます。

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ヨーロッパの小国の旅 その二十九 ノルウェーとアムンゼン

スカンジナビア半島(Scandinavian peninsula)の西に位置するのがノルウェー(Norway)です。私にとってのノルウェーという国は、二つの思い出があります。第一は、中学生のときに、探検家アムンゼン(Roald Amundsen)の南極探検記を読んだことです。イギリス海軍のスコット(Robert Scott)と人類初の南極点到達を競います。

 南極点一番乗りを目指す「世紀の大レース」は、1911年12月に犬ゾリを駆使したアムンゼン隊の勝利に終わります。スコット隊が極点に到着すると、そこにはノルウェーの国旗が立てられ、極点から3km程離れた場所にテントが設営され、食料や防寒具、そしてメモが置かれていたといわれます。

 その帰途、スコット隊は全員が死亡します。南極点でアムンゼン隊が残したメモを所持していました。このメモは、アムンゼン隊が帰途に全員遭難死した場合に備え、到達証明書として持ち帰ることを依頼し書かれたものでした。スコット隊がメモを所持していたことにより、アムンゼンの南極点到達は証明されます。「自らの敗北証明を持ち帰ろうとした」としてスコット隊の名声は後に高まるのです。

 ノルウェーについての第二の思い出は、1965年に神戸にある西日本福音ルーテル教会にて3ヶ月聖書を勉強したときです。その時、この教会はノルウェー・ルーテル伝道会(Norwegian Lutheran Mission)によって設立されたことを知りました。伝道会は1949年に日本での宣教を始めるのです。ノルウェーからの宣教師は、戦前は中国大陸で宣教活動をしていましたが、国共内戦により引き揚げを余儀なくされ、日本にやってくるのです。その宣教の拠点は西日本の岡山、鳥取、島根、兵庫といった地域です。

 ノルウェー・ルーテル伝道会とは、18世紀にノルウェーの農民の子で商人であったハウゲ(Hans Nielsen Hauge)という人によって設立されます。当時、ハウゲは最大の福音伝道者であったといわれます。その教えの中心は霊的覚醒運動(Spiritual arousal)とか信仰復興(Norway Revival)ということです。後にオーレ・ハレスビー(Ole Hallesby)とかカール・ヴィスロフ(Carl Wisloff)といったルター派の神学者を生みます。二人ともナチス・ドイツに抵抗して職を追われたり投獄されたりします。

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ヨーロッパの小国の旅 その二十八 スナフキン

ムーミンの本は、日本では始めて1964年に講談社から出版されます。1969年に日本でアニメ『ムーミン』が放映されます。さらに1990年にアニメシリーズ「楽しいムーミン一家」として、暖かく親しみのある主題曲とともにテレビ放送が開始されます。

 ムーミン谷に住むスナフキン(Snufkin)についてです。彼がムーミンと家族に出会うのは、1946年に出版された第2作となる「ムーミン谷の彗星」(Comet in Moominland)です。スナフキンは主人公ムーミントロールの親友であり、芸術家であり哲学者のような孤高の存在で描かれることが多いようです。嫌いなものは「~禁止」の看板です。スナフキンは、暖かい季節には川辺にテントを張って暮らし、秋が来るとムーミン谷の住人たちが冬眠に入る11月頃に南へと旅立ちます。春が来ると皆が冬眠から目覚めるのです。そしてスナフキンはムーミン谷へ戻ってきます。

 いつも灰色でつばの長い帽子を被り、古びたコートをまとっています。月の明るい夜に1人で徘徊する時が好きです。思索を好む放浪者です。人との交わりは避けることはないのですが、1人で考え旅することをこよなく愛します。作者のヤンソン(Tove Jansson)も自由と孤独に向き合い続けた芸術家だったといわれます。1914年、彼女は彫刻家の父と挿絵画家の母のもとに生まれます。幼少期は第1次世界大戦の渦中で、弱冠14歳で雑誌のイラスト掲載でデビューします。そして、1945年にムーミンシリーズの最初の物語「小さなトロールと大洪水」(The Moomins and the Great Flood)を発表します。

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ヨーロッパの小国の旅 その二十七 ムーミン・トロール

 「ねえ ムーミンこっちむいて はずかしがらないで モジモジしないで、、」 この歌をご存知の方は童心に溢れる方です。フィンランドで忘れられないものに「ムーミン」(Moomin)という童話といいますか、児童小説があります。主人公は「ムーミン・トロール」(Moomintroll )。トロールは北欧の民間伝承に登場する妖精の一種です。一見するとカバ(hippopotamus)に似ています。

 ムーミンの物語に登場するトロールは、作者トーベ・ヤンソン(Tove Jansson)が独自に創造した架空の生き物で、男の子という設定です。人形の登場人物も人間ではなく、架空の小人の一種のようです。『ムーミンパパの思い出』に登場するミムラねえさん(Mymble)やミイ(Little Me)らが住む丸い丘の国のに済みます。そして自由に旅することをこよなく愛し、物を所有することや何かを禁止されたり、命令されたりするのを嫌うスナフキン(Snufkin)は人間の格好をしています。

 ムーミン達が住むところはムーミン谷(Moomin valley)と呼ばれます。谷の東には「おさびし山」(Lonely Mountains)がそびえ、その麓から川が流れています。川にはムーミンパパ(Moominpappa)の作った橋がかかっていて、その橋の先に「ムーミン屋敷」があります。ムーミンパパが設計図を書いて建てた理想の家です。ムーミン屋敷の北側にはライラックが咲いています。西は海に面しています。

 ムーミンパパとムーミンママ(Moominmamm)は、作者ヤンソンの両親を投影しているといわれます。とりわけムーミンママの言葉と行いはヤンソンの母親の生き写しだったといわれます。1945年の第一作である「大きな洪水と小さなトロール」(the Great Flood)では、トロールたちは人間と同じ世界で共存しますが人間には感知されない存在として描写されています。

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ヨーロッパの小国の旅 その二十六 フィンランド その2 歴史

フィンランド共和国の歴史です。首都ヘルシンキ(Helsinki)は1894年1月に締結された露仏同盟以来、ロシアの主要都市であるサンクトペテルブルク(St. Petersburg)方面へ西側諸国が投資や往来をするための前線基地となってきました。同じく近くに位置するヴィボルグ(Vyborg)はフィンランド湾に面していて、ロシアと欧州諸国の間にある地政学的な重要性から、たびたび勢力争いの舞台や戦場になりました。ヴィボルグは今はロシア連邦の一部です。

人口や経済規模は大きいとはいえないのですが、一人当たり国内総生産-GDP(Gross Domestic Product)では豊かな国となっています。2014年の経済協力開発機構(OECD)の報告書では「世界でもっとも競争的であり、市民が生活に満足している国の一つである」と報じられたほどです。フィンランドは雇用や所得、住宅環境、保健衛生、社会保障、育児や教育、地方分権、生活の質(QOL)、個人の安全、主観的幸福の各評価において、すべての点でOECD加盟国平均を上回っているのです。2019年の幸福度調査(Happiness Survey)で156カ国・地域のうち世界第1位、日本の順位は58位とあります。

第二次大戦後、フィンランドの親ソ路線は外交政策の基本となります。それは、中立外交という政策です。大国ロシアと約1,300キロにわたり直接国境を接しているため、国家の安全を確保するための中立外交を貫いてきたのです。これが同国の「軍事的非同盟政策」といわれるものです。この外交政策は、フィンランドが今も北大西洋条約機構(NATO)に加盟しないことにも現れており、伝統的中立政策を維持していることを示します。大国に翻弄されてきた歴史の知恵ともいえましょう。しかし、ソ連の崩壊を機にフィンランド外交は西ヨーロッパと連動しています。EUには加盟していますが、NATOには当面加盟しないとの方針を堅持しています。

フィンランドは原子力の分野で先進的と言われています。国内には原子力発電所があり、高レベル放射性廃棄物を半永久的に地中に埋める最終処分場の建設がオルキルオト(Olkiluoto)という人口が極めて過疎の地域にある島で造られています。ただ最終処分場の建設反対運動も続いているようです。

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ヨーロッパの小国の旅 その二十五 フィンランド その1 スオミ

一挙にバルカン半島を離れ、バルチック海を渡りましょう。私にとってのフィンランド(Finland)とは、1952年のヘルシンキオリンピック(Helsinki Olympic)の想い出です。戦後日本が最初に参加した夏季オリンピックです。この大会で石井庄八がレスリングフリースタイルで優勝したことが報じられます。新聞やラジオで大きく報じられ、敗戦に打ちひしがれた国民に希望を与えるような快挙でした。さらにチェコスロヴァキア(Czechoslovakia)のエミール・ザトペック(Emil Zatopek)が、長距離種目の5,000メートル、10,000メートル、マラソンで金メダルを獲得する大会です。

フィンランドに関する2つ目の思い出です。1977年に国際ロータリー財団から奨学金を頂き、アメリカ南部ジョージア州(Georgia)の小さな大学に海外からの奨学生50名ほどが集まったときです。フィンランドからきた金髪の女性がいました。親睦パーティのとき彼女に「シベリウス(Jean Sibelius)のフィンランディア(Finlandia)が大好きだ」というと涙をながさんばかり喜んでいました。思いがけない会話だったからでしょう。この曲は交響詩と呼ばれ、交響組曲レンミンカイネン組曲(Renmin Kainen Suite)などとともにシベリウスの代表作といわれます。

フィンランドに関する3つ目の思い出です。1985年7月に国際精神遅滞学会(International Association on Mental Retardation)がヘルシンキでありました。そのとき論文を投稿し発表する機会に恵まれました。幸い二番目の娘もヘルシンキにやってきました。このときついでにフェリーでエストニア(Estonia)のタリン(Tallinn)へ渡りました。

フィンランドは、「フィン人の国」という意味で、フィンランドの人々は自分たちをスオミ(Suomi)と呼んでいます。国土の約70%が森林、約10%が湖沼や河川に覆われているので「森と湖の国」が代名詞となっています。北極圏内にある国土の4分の1はラップランド(Lappland)と呼ばれ、約6,000人の先住民族のサーメ(Sami)がトナカイの放牧などで暮らしています。神話や伝説が沢山あるところといわれます。神秘的なオーロラを見ようと観光客で賑わうそうです。

ヨーロッパの地図をみると、フィンランドはスカンジナビア(Scandinavia)半島の北東部に位置し、通常は北欧と呼ばれています。北側はノルウェー、西側はスウェーデンと国境を接しています。西はボスニア湾(Gulf of Bosnia)、南西はバルト海(Baltic Sea)、南はフィンランド湾(Gulf of Finland)に面しています。スカンジナビアは別名ノルディック(Nordic)とも呼ばれます。スカンジナビア諸国というときはデンマーク(Denmark)も含まれます。

フィンランドはもはやヨーロッパの小国ではありません。1980年代以降、農林水産業の経済から、携帯電話の生産量が世界1位になるなどハイテク産業を基幹とする工業先進国へと大きな変化を遂げたのがフィンランドです。その代表といえば、ノキア(NOKIA)やOSのリナックス(Linux)でしょうか。

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ヨーロッパの小国の旅 その二十四 ルーマニアとチャウセスク

バルカン半島の中央部に位置するルーマニア(Romania)に移ります。 首都はブカレスト(Bucharest) で国の人口は1,930万人とあります。北はウクライナ(Ukraine)、東は黒海(Black Sea)とモルドヴァ(Moldova)、南はブルガリア(Bulgaria)、西はセルビア(Serbia)、ハンガリー(Hungary)に囲まれています。

ルーマニアの地理をおさらいします。国土の1/3は山、1/3は森林地帯で残りが丘陵や平野となっています。平野が広く農業や酪農が盛んで。天然資源に恵まれ、原油、金銀などの採掘が行われています。多くの川では水力発電が盛んで、黒海沿岸は貿易やリゾートとしても賑わいます。

ルーマニア人の祖先はローマ時代に遡るとされます。9世紀から10世紀に侵入したマジャル人(Hungarians)、そのほかにトルコ人、ゲルマン人などの混血や同化によって、重層的に形成されたとされる説もあるようです。ルーマニア人を「Romani」、ロムニとも呼ばれ、ルーマニア人の9割を占めるといわまれます。

現代史を要約してみます。1939年8月に独ソ不可侵条約(German-Soviet Nonaggression Pact )により、ルーマニアはイギリスやフランスとの集団的安全保障(collective security)を求めます。1940年第二次世界大戦が始まると、ソ連はルーマニアの一部を占領します。列強の領土割譲要求にたいして、ルーマニアはドイツにつき枢軸国側として参戦します。ドイツの敗退により再度ソ連に侵攻され連合国側につき、国内のドイツ軍を壊滅させたあとにチェコスロバキアまで侵攻し対ドイツ戦を続けます。ルーマニアは1944年にソ連軍に占領され、1948年にはソ連の衛星国(Satellite of the Union of USSR)となります。

1948年からルーマニア社会主義共和国の指導者となったチャウセスク(Nicolae Ceausescu )は、書記長として長年にわたり独裁政権を維持します。他の東側諸国とは一線を画して、「一国共産主義」を唱え西側との結びつきも強めたのが特徴といわれます。独裁政権の最大の罪は「知識層を庶民の敵とみなして排除したこと」といわれます。1989年12月のルーマニア革命(Revolution of Romania)によりチャウセスクは逮捕後処刑されます。そして1990年に自由選挙が行われます。2004年には北大西洋条約機構(NATO)に、2007年に欧州連合(EU)に加盟します。

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ヨーロッパの小国の旅 その二十三 ユーゴスラビアとチトー

私には、セルビアという国名よりも「ユーゴスラビア」のほうが親しみがあります。この理由はなんといっても強力な指導者であったチトー(Josip Broz Tito)という人の存在があります。丁度冷戦の時代、新聞やラジオで彼の名前はしばしば登場していました。そこにアジア、アフリカの第三世界と呼ばれた国々の指導者、たとえばエジプトのエジプトのナセル大統領(Gamal Abdel Nasser)、インドのネール首相(Jawaharlal Nehru)らが現れ、冷戦の緩和に役割を果たしていく頃です。

 チトーが登場したのは、1941年から1945年にわたりナチスドイツなど枢軸国(Axis units)と戦った人民解放軍(パルチザン:Partizan)の総司令官を務めたときです。その間、民主的な臨時政府の設立を宣言するのです。ドイツの敗戦により、チトーはユーゴスラビア社会主義連邦共和国首相兼国防相に就任します。1946年1月、新しい憲法によって、6つの構成共和国が定められ、ユーゴスラビア連邦が誕生します。その初代首相に選ばれるのです。6つの構成国とは、セルビア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツゴビナ、クロアチア、スロバニア、そして北マケドニアです。

 チトーは、ソ連からの自立を意図し距離を置いていきます。そのため、ソ連によるユーゴスラビアの衛星国化を目指していたスターリン(Joseph Stalin)はユーゴスラビア社会主義連邦共和国を「共産党・労働者党情報局」、別名コミンフォルム(Comin form)から除名します。その後、チトーはソ連型社会主義と対峙し続け、1948年にはスターリンと断絶し、独自の政治路線を敷いていきます。チトーは1953年から1980年まで大統領を務めます。その間、企業における労働者による自主管理によって資本は労働者所有となり、経営者は労働者が選ぶとか、各共和国に大幅な自治権を与えるといったユーゴ独自の自主管理社会主義を建設していきます。これがチトー主義(Titoism)と呼ばれる考えです。

 チトーは国内では新聞などによる体制批判を認め、言論の自由をある程度認めるのです。国内のインフラ整備を推し進めて、年率6%の経済成長を達成していきます。医療費はすべて無料とし、識字率は91%まで向上させるのに貢献したといわれる指導者でした。「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」という多様性を内包する国を治めるのは容易なことではなかったと思われます。

 チトーが大統領になっていた時には大きな民族問題が起こることはなく、1984年のサラエボ(Sarajevo)オリンピックが終わるまでは共和国体制を維持することができます。これもチトーのカリスマによって成り立っていたといわれます。1991年にユーゴスラビア紛争が勃発し血みどろの内戦に突入します。

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ヨーロッパの小国の旅 その二十二 セルビアとユーゴスラビア

バルカン半島の地図を見ますと、セルビア(Serbia)は8つの国に囲まれています。すなわち北はハンガリー(Hungary)、東はルーマニア、ブルガリア、南は北マケドニア(North Macedonia)、コソボ、西はモンテネグロ(Montenegro)、ボスニア・ヘルツゴヴィナ(Bosia & Herzegovina)、そしてクロアチア(Croaia)となっています。首都は国際都市といわれるベオグラード(Beograd)で、ドナウ川(Danube)とサバ川(Sava)の合流地点に位置します。

セルビアは1920年代の頃、ユーゴスラビア(Yugoslavia)の一部でありました。ユーゴスラビアは、「南スラブの地」(Land of the South Slavs)と呼ばれ、セルビア、スロベニア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツゴヴィナ、クロアチア、北マケドニアを含む国でありました。長らくオスマン帝国やオーストリア-ハンガリー帝国の支配にありましたが、こうした国々は1918年に「セルブ・クロアート・スロヴェーン王国」(Kingdom of Serbs, Croats, and Slovenes)を結成し、南西スラヴ人の統一国家が誕生します。1929年にセルビア王のアレクサンダル1世(Alexander I)がクーデターを起こしユーゴスラビア王国として多民族国家が生まれます。

ユーゴスラビアといえば、長年大統領として政治的な手腕を発揮したチトー(Josip Broz Tito)を思い出します。今日も優れた政治家として知られています。第二次大戦後、チトーはユーゴスラビア社会主義連邦共和国の大統領となります。ユーゴスラビア共産主義者同盟の指導者でもあり、憲法改正によって各共和国や自治州の自治権を拡大するなどして連邦にありながら、国の自治に腐心します。ソ連のスターリンとも距離を置く共和国でした。

アメリカやソ連ソ中立的なユーゴスラビアは「第三世界」(Third World)の国といわれたこともあります。中立的な立場から国際連合平和維持活動にも参加します。労働者自主管理とか市場社会主義、非同盟外交などの独自の社会主義思想によるチトーの政治姿勢は「チトー主義」(Titoism)と呼ばれました。

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ヨーロッパの小国の旅 その二十一 コソボと紛争

コソボ(Kosovo)という国は、1990年代に新聞やテレビで内戦の悲惨な状況が報道された国です。「ヨーロッパの火薬庫」という代名詞のいわば中心ともいえる国です。人々の苦悩が詰まった国の一つといえるでしょう。小国が「ひしめく」バルカン(Balcan)半島の歴史は、島国にはない紛争と戦-いくさの歴史のような印象を受けます。

コソボは、バルカン半島にある小さな領土の国です。2008年に独立を宣言し、アメリカやヨーロッパ諸国はそれを認めるのですが、ロシアや中国、さらにEU諸国の一部、たとえばスペイン、セルビア(Serbia)、ギリシャやモンテネグロ(Montenegro)は独立を認めていません。2010年に国際司法裁判所(International Court of Justice)はコソボの主権を認める判決をだします。しかし、国際連合(UN)の安全保障理事会常任国であるロシアや中国の反対で国連への加盟は果たしていません。

コソボという呼び名は、セルビアで使われる「黒鳥の住む草原」(Field of Blackbirds)に由来します。中世期までセルビア帝国の支配にありましたが、コソボは15世紀中期から20世紀の初頭までオスマン帝国の支配下にありました。こうしてイスラム圏の拡大により、アルバニア人の人口が増えます。20世紀前半よりコソボはセルビアの一部となり、その後ユーゴスロバニア(Yugoslavia)に編入されます。イスラム教徒は東方正教会の人口を上回り、しばしば民族間の緊張が高まります。

コソボでは1991年、コソボ共和国としてユーゴスラビア連邦共和国からの独立を宣言します。ですが国際社会からはコソボは独立国と見なされず、ユーゴスラビア連邦の一自治州と見なされました。1998年にアルバニア人で結成された「コソボ解放軍」が反乱を起こし、コソボ紛争と呼ばれる内線に突入します。北大西洋条約機構(NATO)が介入しセルビア地区の空爆が実施され、セルビアによる統治はコソボから排除されていきます。

1999年のコソボ紛争後に採択された国連安全保障理事会決議にもとづきセルビア人部隊はコソボから撤退し、代わって国連コソボ暫定統治機構(UN Interim Administration Mission in Kosovo: UNMIK)の暫定統治下に入ります。2008年2月にコソボ自治州議会はセルビアからの独立宣言を採択し憲法を発布します。しかし、前述のようにロシアや中国が独立を認めず、バルカン半島における民族自決を掲げる少数民族国家、コソボのセルビアからの完全な分離独立は未だに不明な状況です。

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ヨーロッパの小国の旅 その二十 ボヤナ教会のフレスコ画 

ヨーロッパの小国巡りをしています。ところが小国とはいえ、大国にない素晴らしい文化があることに驚きます。多様な民族、交易による人の交流、紛争、そして宗教心が民族の独自性を維持する力になったようでもあります。

ブルガリアの首都ソフィアから南西に8km。ヴィトシャ山(Vitosha)の麓に建つ小さな教会がボヤナ教会(Boyana Church)です。ブルガリア正教会(Bulgarian Othodox Church)の礼拝堂です。2階建ての教会は、10世紀後半に建てられ、その後13世紀と19世紀に増築されます。ブルガリア正教会は東方正教会(Eastern Orthodox Church)の一員です。

この教会が世界的に有名なのは、礼拝堂や拝廊の内部に描かれているフレスコ画です。現存するのは、古くから描かれていたフレスコ画の上に上書きされたもののようです。礼拝堂の壁画には、240人の人物像があり、89の聖書の箇所が展開されています。東ヨーロッパの中世美術の中でも、最も保存状態の良いものとされています。

礼拝堂へつながる廊下、拝廊にある18場面は聖ニコラオス(St. Nicholas)の生涯を描いています。「海での奇跡」という画面では、船と船乗りの帽子がイタリアのヴェネツィア(Venice)の船を思わせるといわれます。「アドリア海の女王」とか「水の都」と呼ばれたヴェネツィアからの影響だろうと察せられます。

教会の北壁には、教会を巨額の浄財によって支えた有力な信徒や貴族たちの肖像画群となっています、教会のフレスコ画の中でも最も印象的で迫真的な作品とされます。その肖像画には、貴族カロヤン(Sebastocrator Kaloyan)とその妻デシスラヴァ(Desislava)、あるいはブルガリア皇帝のコンスタンティン1世(Constantine I)や皇妃イリーナ(Queen Irina)などが描かれています。

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