日本にやって来て活躍した外国人 その十九  ジョシュア・コンドル

品川区の五反田にある旧島津家本邸であった清泉女子大学本館や、台東区池之端にある旧岩崎邸庭園は、見事な西洋建築の建物です。イギリスの建築家ジョシュア・コンドル(Josiah Conder)の設計による建物です。ロンドン大学(University of London)で学び、ビクトリア時代の芸術的なゴシック建築の権威、バージェス(William Burges)の設計事務所で腕を磨きます。そして明治10年、日本政府の招聘を受け24歳で来日します。

やがて現・東京大学工学部建築学科の前身、工部大学校の教授となります。工部省に属して上野の博物館や鹿鳴館など政府関係の諸施設を設計していきます。明治23年にはコンドルは三菱の顧問になり、丸の内にロンドンのような近代的ビジネス街を建設することになります。工部大学校時代の教え子を招き、三菱の管事らとで丸の内オフィス街の基本構想し、約15メートルの三階建て赤煉瓦造りとし、その上に急勾配のスレート葺き屋根を付けることになります。三菱一号館は明治27年に竣工し、以後、二号館、三号館と続き、一丁倫敦と呼ばれるロンドン風のオフィス街が形成されていきます。三菱一号館は、老朽化のために昭和43年に解体されましたが、平成22年にコンドルの原設計に則って復元されます。明治期の設計図や解体時の実測図の精査に加え、各種文献、写真、保存部材が使われたといわれます。

コンドルはその後、神田のニコライ堂、横浜山手教会、港区三田の三井家迎賓館(現綱町三井倶楽部)、北区古河虎之助邸(現古河庭園)などを手掛け、岩崎家ないし三菱関係のものも数多くの建物を設計します。

日本の近代建築に果たしたコンドルの足跡は図りしれませんが、その最大の功績は工部大学校での教育・人材育成といわれます。日本銀行本館や東京駅、奈良ホテル本館、みずほ銀行京都中央支店、大阪市中央公会堂などを設計した辰野金吾、赤坂の迎賓館、奈良国立博物館本館、京都国立博物館特別展示館、鳥取の仁風館などを設計した片山東熊、慶応義塾大学図書館や長崎造船所の迎賓館「占勝閣」を手掛けた曽根達蔵などそうそうたる建築家を育てていきます。

日本にやって来て活躍した外国人 その十六 ヨーゼフ・ローゼンシュトック

日本で活躍した外国人にポーランド人が何度も登場します。今回もそうです。日本のクラッシク音楽界で忘れてはならない指揮者がいます。ポーランドに生まれ、ドイツとアメリカ、日本で活動した指揮者のヨーゼフ・ローゼンシュトック(Joseph Rosenstock)です。私もラジオから流れる音楽演奏のときに、この指揮者の名前が放送されていたのをよく覚えています。

最初にローゼンシュトックを紹介するならば、NHK交響楽団の基礎を創り上げたユダヤ系の指揮者ということです。彼は、後に「斎藤メソッド」のモデルとなった指揮者の一人ともいわれます。「斎藤メソッド」とは、指揮者で音楽教育者として活躍した音楽家の齋藤秀雄の指導法のことです。日本のクラシック音楽を伸ばすためには、科学的根拠に基づく子どもたちへの早期教育のように基礎知識を施すしかないと主張した音楽家です。弟子の一人に小澤征爾がいます。

今や日本を代表するのはNHK交響楽団ですが、その前身は、新交響楽団と呼ばれ近衛秀麿が育ててきました。後任となる常任指揮者の候補に挙がったのがローゼンシュトックです。1936年頃のことです。ヨーロッパにおけるナチス・ドイツの台頭により、ユダヤ系の音楽家や芸術家はヨーロッパを離れて、安全な国へ移住しようとしていました。招聘を受けてローゼンシュトックはシベリア鉄道を経由して、1936年8月日本にやってきます。新交響楽団による歓迎演奏会を開いた後、同交響楽団の170回から第232回までのすべての定期演奏会を一人で指揮します。

ローゼンシュトックは、新響の楽員に基本的な奏法を中心とする厳しいトレーニングを徹底的に課したようです。楽員をして「過酷」と言わしめつつ、半アマチュア気分が抜けていなかった楽員の力量を向上させます。戦後は、日本を離れ、ニューヨークなどで演奏します。そして1951年5月にアメリカの音楽使節として再来日します。新交響楽団は日本交響楽団と改名し、さらにNHK交響楽団となっていきます。やがてローゼンシュトックはNHKから名誉指揮者の称号を贈られます。

日本にやって来て活躍した外国人 その十六  マクシミリアン・コルベ

Encyclopedia Britannicaから引用します。1894年、ポーランド(Poland)のツズンスカ・ボラ(Zdunska Wola)に生まれます。信心深いポーランド家庭で育ったコルベ(Maksymilian Kolbe)は、少年の頃から通う教会内部の柱に常に聖母マリアの姿を見ていたといわれます。そしてイエズス会(Societas Iesu)付属の学校に通います。

1910年、彼は修練院に入ることを許され、翌年の1911年に初誓願をたて、マキシミリアンの名前を与えられます。1912年、彼はクラクフ(Krakow)に送られ、そしてローマへの留学生に選ばれます。ローマで彼は哲学、神学、数学および物理学を学びます。1915年に教皇庁立であるグレゴリアン大学(Pontifical Gregorian University)で哲学の博士号を、そして1919年に教皇庁立聖ボナベントゥラ大学(Pontifical Bonaventura University)で神学の博士号を取得します。

やがて日本の地に宣教師として赴きカトリック信仰の布教を終生の願いとするようになります。当初は中国での布教活動を考えていたコルベ神父ですが、阿片戦争(Opium War)など、政情の不安定さを心配した友人の提案で上海を経て日本に向かうことになります。

1930年4月長崎に上陸したコルベ神父は、翌月には大浦天主堂下の西洋館に聖母の騎士修道院を開き、印刷事業を開始します。カトリック司祭であった早坂久之助司教に『無原罪の聖母の騎士』の出版許可を願います。司教はコルベが哲学博士号を持っていることを知ると、教区の大浦神学校で哲学を教えることを条件に出版を許可します。1931年に「無原罪の聖母の騎士」日本語版を一万部発行し翌年には聖母の騎士修道院を設立します。神学校で教鞭をとりながら聖母の騎士誌の発行と布教活動に専念します。

1938年にポーランドに戻ると、カトリック教会出版部の責任者となります。カトリックのラジオ局も立ち上げます。しかし、1941年にコルベ神父は、ユダヤ人や地下運動を支援したというかどでワルシャワ(Warsaw)で逮捕され、その後アウシュビッツ(Auschwitz)強制収容所に収監されます。囚人の身代わりを申し出て1941年8月に亡くなります。アウシュビッツにおけるコルベ神父の態度は長く言い伝えられています。

日本にやって来て活躍した外国人 その十五  お雇い外国人のこと

これまで14人の「日本にやって来て活躍した外国人」を紹介してきました。さらに紹介していきますが、一旦休憩して「お雇い外国人」のことに触れてみます。日本の近代化において、「お雇い外国人」と呼ばれた宣教師、技術者、外交官、役人、商人、芸術家、ジャーナリスト、学者等の果たした貢献は、形容し難いほどすぐれたものです。私の出身、北海道開拓の歴史を振り返りますと、大学の開校、鉄道の敷設、道路建設、農業技術の普及、水産加工の伝播、アイヌ文化の研究などで活躍した外国人のことを忘れるわけにはいきません。

私個人、北海道大学の教養部時代にHerr Orpitzというドイツ人からドイツ語を学ぶことができました。ドイツ語の授業のことです。札幌の郊外に手稲山という低い山あります。Orpitz先生は、山のことを「Berg」という説明がありました。私はBergとはヨーロッパのアルプスのような高い山だと思ったので、「Hugelではないでしょうか」と反論しました。 Orpitz先生は、手稲山はBergであるという答えでした。今も忘れられない授業の思い出です。

明治当初、ヨーロッパに派遣されていた留学生は、日本の「近代化」の必要性を感じて帰国します。そして、積極的にアメリカやヨーロッパ諸国から様々な分野の専門家を日本に招くことを政府に進言します。当時の日本人にとっての近代化とは西洋化のことであったのはやむを得ないことでした。1868年から1898年くらいまでの間にイギリスから6,177人、アメリカから2,764人、ドイツから913人、フランスから619人、イタリアから45人の先生や技術者の「お雇い外国人」を招くのです。開拓が必要だった北海道から日本全国にわたり、こうした外国人は日本のあらゆる分野で献身的に活躍するのです。

主にイギリスからは鉄道開発、電信、公共土木事業、建築、海軍制を、アメリカからは外交、学校制度、近代農事事業・牧畜、北海道開拓などを、ドイツからは医学、大学設立、法律など、フランスからは陸軍制、法律を、イタリアからは絵画や彫刻といった芸術がもたらされます。キリスト教の布教のために医学や農学、工学を専門とする人々もやってきました。教育や福祉の発展に寄与した人々のことも忘れることができません。日本を海外に紹介するため取材に訪れたジャーナリストは、やがて日本文化をヨーロッパに紹介し、日本学という学問分野を紹介していきます。

日本にやって来て活躍した外国人 その十四 ゼノ修道士

広島県福山市沼隈町に社会福祉法人「ゼノ少年牧場」があります。障がいのある子どもたちの楽園をつくろうとゼノ・ゼブロフスキー(Zenon Zebrowsk)が呼びかけてできた施設です。ゼノは、ポーランド出身のカトリックの修道士です。後に「蟻の街の神父」として知られ、戦後、戦災孤児や恵まれない人々の救援活動に力を入れます。日本人から「ゼノ神父」と呼ばれていたようです。実際は司祭(神父)ではなくコンベンツァル聖フランシスコ修道会(Ordo Fratrum Minorum Conventualium)の修道士です。

ゼノは1925年5月に聖フランシスコ修道会に入会し、1928年に修道誓願を立てゼノ修道士となります。1930年4にマキシミリアン・コルベ(Maksymilian Kolbe)神父ら共に来日します。長崎でコルベ神父らとともに、布教誌「聖母の騎士」の出版と普及に力を入れます。ゼノ修道士は全国各地に赴いていきます。長崎市で活動を続けていたとき被爆します。

戦後は戦災孤児や恵まれない人々の救援活動に尽くし、東京は浅草の「蟻の街」の名で知られるバタヤ街で支援活動を行います。口癖は「ゼノ死ヌヒマナイネ」。愛嬌のある白ひげ顔とユーモラスな人柄で、宗派を問わず多くの人に親しまれたようです。献身的な社会福祉活動に、1969年に勲四等瑞宝章、1979年に吉川英治文化賞が贈られます。1981年2月に来日したポーランド出身教皇ヨハネ・パウロ2世(John Paul II)は、ゼノ修道士の入院先を訪問します。そして教皇はポーランド語で語りかけ、長年の活動に敬意を表します。

ゼノ修道士に影響を受けた女性で、貧者への献身的な活動に身を投じて若くして散った「アリの街のマリア」と呼ばれた北原玲子がいます。ゼノ修道士を介して隅田川の言問橋周辺、現在の隅田公園の界隈にあった通称「蟻の町」のことを知ります。「蟻の町」とは廃品回収業者の居住地のことです。自らが汗を流して貧者と共に労働をし生活し助け合うことを実践していきます。ゼノ修道士や彼女らの行動によって1951年5月に「蟻の街の教会」が建てられます。教会を拠点として、「蟻の町」の子どもたちの教育環境は段々と整えられていくのです。

日本にやって来て活躍した外国人 その十三 マシュー・ペリー

横須賀は久里浜海岸にペリー(Matthew Perry)提督上陸の碑があります。1852年11月にペリーは、東インド艦隊司令長官に就任し、日本開国へ向けて交渉するようにとの指令を与えられます。合衆国大統領ミラード・フィルモア(Millard Fillmore)の親書を携えてバージニア州(Virginia)ノーフォーク(Norfolk)を出航します。

1853年7月8日(嘉永6年)、浦賀に艦隊は入港します。7月14日、幕府側が指定した久里浜に護衛を引き連れ上陸します。浦賀奉行であった戸田氏栄と海防掛であった井戸弘道に大統領の親書を手渡します。浦賀では具体的な協議は執り行われず開国の要求をします。ペリーは、幕府から翌年まで回答の猶予を求められ、食料など艦隊の事情もあって琉球へ寄港します。

1854年2月に、ペリーは旗艦サスケハナ号(Susquehanna)など7隻の軍艦を率いて現在の横浜市の沖に停泊し、早期の条約締結を求めます。サスケハナ号は「黒船」という呼ばれます。木造の船体に塗られた防水・腐食防止用のピッチが黒色だったからです。3月31日に神奈川で全12ヶ条からなる日米和親条約を締結します。下田と函館を開港し、アメリカは食料や燃料などの物資供給を受けることができるなどが定められます。日米和親条約は後に不平等条約と呼ばれるように、アメリカの都合のよい条約内容となっています。

日米和親条約の目的です。アメリカは太平洋航路を開拓し、東アジアとの貿易の拡充を狙っていました。そこで燃料の補給のため、日本の港が必要だったのです。そしてもうひとつの理由として、アメリカが北太平洋で捕鯨をおこなっていたことがあります。産業革命によりアメリカ国内では機械の潤滑油やランプなどに使用するクジラの油が大量に必要だったのです。

日本にやって来て活躍した外国人 その十二  ジェームス・ヘボン 

明治時代、宣教師で医者として活躍したヘボン(James C. Hepburn) は、ヘップバーンと呼ばれるべき人です。当時の人は、親しみをこめてか聞き違えて「ヘボン」と呼んだのだろうと察します。ペンシルヴァニア州(Pennsylvania)で生まれ、やがてプリンストン大学(Princeton University)で修士号を、その後1836年にペンシルヴァニア大学(University of Pennsylvania)で医学博士号を取得し、クリニックを開業します。

ヘボンは長老派教会(Presbyterian Mission)の医学宣教師として中国を目指します。しかし、阿片戦争(Opium War)などにより上海などの街は閉ざされて外国人の入国ができなくなります。シンガポールで2年間布教活動を行い、1845年にニューヨークに戻り再び医院を開業します。1859年に長崎に到着するや横浜に居を移し、1861年4月、宗興寺に神奈川施療所を設けて医療活動を開始します。横浜近代医学の歴史が始まったといわれます。ヘボンはアメリカ公使のタウンゼント・ハリス(Townsend Harris)のお抱え医師ともなります。

妻クララ(Clara)とともにヘボン塾(Hepburn School)を開設します。この学校はやがて明治学院大学へと発展していきます。ヘボン塾からは、ジャーナリストで政治家となる沼間守一、洋学者で軍人となる古屋佐久左衛門、第20代内閣総理大臣となる高橋是清らが育っていきます。日本語の英語辞典を作るという功績も残します。

ヘボンの専門は脳外科であったようですが、当時眼病が多かった横浜などはその治療で名声を博したようです。横浜の近代医学の歴史はヘボン診療所によって始まったといわれ、横浜市立大学はその功績を称えています。ヘボン塾の卒業生らによってフェリス女学院の母体ができることになります。

日本にやって来て活躍した外国人 その十一 ウイリアム・クラーク

北海道開拓の歴史で、「この人をおいて他になし」といわれるのがウイリアム・クラーク(William S. Clark)です。北海道開拓時代に活躍した「お雇い外国人」の1人です。札幌農学校の初代教頭でもありました。北海道の人々、道産子は「クラーク博士」と親しみと尊敬を込めて呼んでいます。

マサチューセッツ農科大学(Massachusetts Agricultural College)の第三代学長であったクラーク博士は、1876年7月に来日します。この農科大学は、現在はマサチューセッツ大学アマースト校(University of Massachusetts Amherst)と改称されています。日本に滞在していたのは1877年4月までの約8ヶ月と短い期間でありました。その間、諸科学を統合した全人的な言語中心のカリキュラム(Liberal Arts)を導入します。キリスト教を土台としたピューリタン教育(Puritanや、英語での自然科学教育を行うのです。

ウィリストン神学校(Williston Seminary)で基礎教育(Liberal Arts)を受け、1844年にアマースト大学に入学します。そこでギリシア文字協会(Phi Beta Kappa)と呼ばれる教育・法律・医学などの専門職に就くことを目的とする団体会員となります。1848年に同大学卒業後、1850年までウィリストン神学校で化学を教えます。化学と植物学を学ぶべく、ドイツのゲッティンゲン大学(Georg-August-Universität Göttingen)へ留学し、1852年に同大学で化学の博士号を取得します。

帰国後、クラーク博士は母校アマースト大学で教鞭をとります。同大学初の日本人留学生に、後に同志社大学の創始者となる新島襄がいました。明治政府は、新島襄の紹介により、クラーク博士に札幌農学校教頭として招聘するのです。赴任したのは1876年7月でありました。

クラーク博士はマサチューセッツ農科大学のカリキュラムをほぼそのまま札幌農学校に移植して、諸科学を統合した全人的な言語中心のカリキュラムを導入します。明治政府は欧米の大学と遜色ないカリキュラムを採る札幌農学校に、国内で初めて学士の称号を授与する権限を与えます。

日本にやって来て活躍した外国人 その十 鑑真

中国、唐代の高僧、鑑真の日本に与えた影響について振り返ります。世界大百科事典によりますと、14歳で出家し洛陽の都長安で修行を積み、713年に故郷の大雲寺に戻り、やがて江南第一の大師と称されていきます。742年の第9次遣唐使船で唐を訪れていた留学僧・栄叡から、朝廷の「伝戒の師」としての招請を受け、鑑真は渡日を決意します。5回の渡航の試みの後、753年に6回目にして沖縄を経由して南さつまに漂着します。このとき一緒に航海していた吉備真備も唐より帰国します。

平城京に到着した鑑真は、聖武上皇や孝謙天皇らから歓待を受けたといわれます。鑑真が行ったのは、戒律を伝えることでした。戒律とは、僧が守るべき仏教の大切なきまりです。生き物を殺さないこと、物をぬすまないことといった戒律です。鑑真は、戒律を守らせることで、仏教を正しく理解する多くの僧を育てていきます。この仏教の宗派は律宗と呼ばれます。戒律の研究と実践を行うのです。

鑑真により伝えられた戒律思想は,東大寺、薬師寺(下野)、観世音寺(筑前)において僧侶に戒律を授ける壇(三戒壇)の成立によって授戒制度が整備され,天平仏教に点睛を加えたといわれます。仏に帰依する人を育てる、弟子を育てる、後継者を育てるという信念は多くの人々に受け入れられたのです。

759年。鑑真は、さらに僧を育てるため、戒律の根本道場唐招提寺を都に開きます。律宗の総本山となります。僧の修行の場だった講堂をはじめ、仏像が並ぶ金堂などは、奈良時代に作られた貴重な建物として世界遺産に登録されています。国宝となっている鑑真和上像は、わが国に現存する最古の肖像彫刻といわれます。「招提」とは私寺という意味だそうです。唐招提寺の金堂は2000年から「平成の大修理」が行われ、2009年11月に落慶行事が行われました。

日本にやって来て活躍した外国人 その九 トーマス・グラバー

幕末から明治初期にかけ、日本の産業革命の推進に寄与した人物の1人に、長崎で活躍したスコットランド人貿易商トーマス・グラバー(Thomas Blake Glover)がいます。世界文化遺産の対象となった長崎の「旧グラバー住宅」、小菅修船場跡、高島炭坑などはグラバーが設立や建設にかかわったものです。

グラバーが持ち込んだ西洋からの最新技術、招かれた技術者や専門家によって、日本の造船、製鉄、石炭産業分野の近代化は急速に加速していきます。商業鉄道が開始されるよりも前に蒸気機関車の試走を行い、長崎に西洋式ドックを建設し造船技術を持ち込みます。日本人が技術者として育っていくのは、グラバーらの尽力によることが多かったようです。わずか50年あまりで日本は世界有数の近代産業国家に変身していきます。日本の産業化中興の祖(Founding father of Japan’s economic growth)と言われることもあります。

長崎観光の人気スポットとなっている「グラバー園」には、居留地時代のレトロな洋館が建っています。グラバーが長崎港や長崎製鉄所を見下ろす高台に「旧グラバー住宅」を建てたのは1863年です。木造のL字型バンガローで、扇型屋根、それにコロニアル風の大型窓などが特徴です。最初の和洋折衷建築で現存する最古の洋風木造建築となっています。

グラバーは流暢な日本語を操り、薩摩藩の依頼で外国船輸入の斡旋にかかわったことから、薩摩、長州、土佐などの西南雄藩への船舶、武器、黒色火薬などの密貿易を行いました。グラバーは討幕派を支援し、密貿易だけでなく、当時の国禁を犯して薩長両藩の武士たちの海外渡航に協力します。

1863年に横浜から長州藩の5人の若者の英国渡航を手助けます。この5人は、初代首相の伊藤博文、初代外相の井上馨、日本工業の祖、山尾庸三、造幣局長となった遠藤謹助、鉄道庁長官となった井上勝です。1865年には、やがて大阪経済界に君臨する五代友厚が率いる薩摩藩士19人の訪英も手助けするのです。こうした海外渡航によって明治の政界や経済界に指導者が育っていきます。

日本にやって来て活躍した外国人 その八 ウィリアム・アダムス

1598年6月、イギリス人ウィリアム・アダムス(William Adams)は、オランダのロッテルダムを出港したガレオン(Galleon)船五隻の船団の一隻リーフデ号(De Liefde)に航海士として、「新航路発見」の航海に出ます。ガレオン船とは大型の帆走の砲艦のことです。船団は大西洋を南下し、南アメリカの先端、マジェラン海峡(Strait of Magellan)を通過し太平洋に出ます。

嵐やスペイン・ポルトガル船の襲撃にあい、東洋までたどりついたのはリーフデ号のみでした。22カ月に及ぶ長い航海の末に、アダムスの乗ったリーフデ号は、日本の豊後の臼杵に漂着します。リーフデ号には船長クワケルナック(Jacob Quackernack)やヤン・ヨーステン(Jan Josten)がいました。

アダムスらは、やがて徳川家康に謁見します。家康はリーフデ号が日本に運んできた19門の大砲をはじめとする武器・弾薬を使い、日本を統一することができると考えに違いありません。後に大砲が威力を発揮したのが大阪夏の陣です。家康はアダムスらリーフデ号の乗員の話を聞くことで、南蛮諸国の勢力図や優れた技術ばかりか、ポルトガル人などの南蛮人の目論見や企ても知ることになります。

船大工としての経験をも買われ、家康の命により120トンの洋式帆船を日本で初めて建造します。こうしてアダムスは、家康の信頼を得ていき、やがて外交顧問として取りたてられます。江戸日本橋按針町屋敷を与えられます。家康が亡くなると、幕府は交易を長崎県平戸のみに制限し、鎖国体制を敷きます。そのためアダムスは不遇となり横須賀の逸見を離れ平戸へ向かいます。オランダ、イギリスが通商を許され、平戸に商館を設置するようになります。

日本にやって来て活躍した外国人 その七 ヤン・ヨーステン

ヤン・ヨーステン(Jan Josten)はオランダの商船リーフデ号(De Liefde)に航海士として、航海長ウイリアム・アダムス(William Adams)らとともに実権を握っていた徳川家康にヨーロッパ事情を伝えた人物です。家康の命で大坂に召し出され、その知識により重用されることになります。

そして朱印状を与えられて活躍する貿易商でもあったようです。中部ベトナム、タイマライ半島、中部カンボジア、北ベトナムなど各地に手広く貿易を営んでいきます。1614年オランダ商館が平戸に開設されてから,幕府と商館の仲介役としても活躍します。砲術顧問として、土地や屋敷を与えられ、日本人女性とも結婚します。与えられた土地は、ヤン・ヨーステンの名前から八代州海岸と呼ばれ、現在の東京都中央区八重洲の名の由来となっています。

ポルトガル人との貿易が豊臣氏や西国大名に握られ、またイエズス会が深く介在していたため、彼ら以外との海外貿易の開始を求めて、オラン人のヤン・ヨーステンやイギリス人のウィリアム・アダムスらを召し抱えたようです。 

日本にやって来て活躍した外国人 その五 シーボルト

シーボルト(Philipp Franz von Siebold)は名前から分かるようにドイツ人で、江戸末期に長崎出島のオランダ商館に医師として来日します。正確なドイツ語の発音は「ジーボルト」なのですが、一般にシーボルトと呼ばれています。シーボルトの日本における活動は特筆すべきことがたくさんあります。西洋人として初めて出島外に鳴滝塾という私塾を開校し、日本人に最新の医学を教えた貢献は、偉大なものがあります。

1823年3月にインドネシア(Indonesia)のバタヴィア(Batavia)近郊にあった砲兵連隊付軍医に配属され、東インド自然科学調査官も兼任します。バタヴィアは、首都ジャカルタのオランダ植民地時代の名称です。1823年6月末にバタヴィアを出て8月に来日し、鎖国時代の日本の対外貿易窓であった長崎の出島のオランダ商館医となります。シーボルトの医師としての活躍は、南蛮医学とかオランダ医学として、多くの日本人が彼の下で学びます。彼やその弟子の手によって多くの命が救われていきます。彼は当時の西洋医学の最新情報を日本へ伝え、国内の医学は飛躍的に発

彼は医学のみならず、生物学、民俗学、地理学など多岐にわたる事物を日本で収集し、オランダへ発送します。幕府天文方高橋景保は、伊能忠敬が作製した日本および蝦夷の地図を写してシーボルトに贈ったりします。シーボルトは、国禁であったこうした品の国外持出しをはかりますが、それが発覚して多くの幕吏や鳴滝塾門下生が処罰されます。これが1828年に起こった洋学者弾圧のシーボルト事件です。シーボルトはこれによって国外に追放されますが、多くの標本などを持ち帰っていきます。この資料の一部は今もオランダのライデン(Leiden)、ドイツのミュンヘン(Munich)、オーストリアのウィーン(Wiena)に残されている

シーボルトの薫陶により杉田玄白、前野良沢、中川順庵などの蘭方医が育ちます。彼らの業績に『解体新書』の翻訳がつとに知られています。ドイツ人医師クルムス(Johann Adam Kulmus)の解剖学書の(Anatomische Tabellen)のオランダ語訳書「ターヘル・アナトミア」(tafel anatomie)がそうです。

日本にやって来て活躍した外国人 その四 ルイス・フロイス

次は、ルイス・フロイス(Luis Frois)のことです。彼は1532年、ポルトガルの首都リスボン(Lisbon)で生まれです。16歳の若さでイエズス会に入り、その後インドのゴアに行きます。当時のゴアはイエズス会の伝道の拠点になっていた所です。ここでフロイスはザビエルに出会います。29歳のときに叙階されて司祭となります。彼の筆力と語学の才能は高く評価されて、本国と布教先との連絡役を任されます。そして31歳のとき、ついにフロイスは日本へ布教をしに行けることになります。

フロイスは1563年(永禄6年)に今の長崎長崎県の西海市付近に上陸します。フロイスは語学の才能を活かし布教のために日本語や日本の風習を学び始めます。「パン」や「カステラ」など日本語に浸透したポルトガル語があるように、当時フロイスも「日本語はポルトガル語に少し似ている」ことを学んだようです。1565年1月に京都に入り、他の宣教師や日本人の修道士とともに布教活動を始めます。

1569年、将軍の足利義昭を擁して台頭していた織田信長と二条城で初めて対面します。既存の仏教界に不信感を抱いていたのが信長です。フロイスは信長の信任を獲得して畿内での布教を許可され、イタリア人宣教師のオルガンティノ(Organtino Gnecchi‐Soldo)などと共に伝道活動をし多くの信徒を得ていきます。オルガンティノは30年間を京都で過ごし信長や秀吉などの時の権力者とも知己となるという人物です。

フロイスは、その後は九州において活躍しますが、1580年の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano)の来日に際しては通訳として視察に同行し、安土城で信長に拝謁します。巡察師とは伝道管区における布教状態を調べ宣教師達に助言を与えるとともに、本部に報告する役割を持ちます。フロイスは日本におけるイエズス会の活動記録を残すことに専念するよう命じられます。以後フロイスはこの事業に精魂を傾け、その傍ら全国をめぐって見聞を広めていきます。この記録が後に「日本史(Historia de Iapam)」と呼ばれることになります。

当初、秀吉は信長の対イエズス会の布教政策を継承していましたが、やがてその勢力拡大に危機感を抱くようになります。そして、1587年7月には伴天連追放令を出すに至り、フロイスは畿内を去り大村領長崎に落ち着きます。

1590年、帰国した天正遣欧使節を伴ってヴァリニャーノが再来日すると、フロイスは同行して聚楽第で秀吉と会見します。1592年、ヴァリニャーノとともに一時マカオに渡りますが、1595年に長崎に戻ります。そして 1597年には『二十六聖人の殉教記録』を文筆活動の最後に残し、7月大村領長崎にあった聖職者育成の学校、コレジオ(collegio)にて没します。

日本にやって来て活躍した外国人 その三 ザビエルと琵琶法師ロレンソ

サビエルは山口の街角では毎日二回説教し、神の福音を説いていきます。集まった者から宗教以外の色々の質問にも答えたいわれます。サビエルは修道院でいろいろな学問を修めていたので、自然界のこと、例えば地球の形、太陽の動き、雷や稲妻、雪、雨等の天文や気象に関するもの、自然科学に関する問いに答えたようです。

布教を通して有力な信者を得ていきます。そのうちでも盲人の琵琶法師は最も知られています。山口の街角でザビエルに出会い、自身の疑問をぶつけザビエルの回答を聞く中で、キリスト教の教えを理解し、やがてロレンソ(Lorenzo)という洗礼名を受けます。ロレンソは後に京阪神方面で活動し、織田信長や豊臣秀吉にも福音を説き、やがて高山右近等の名高いキリシタン大名を得ていきます。サビエルの生涯で、ロレンソなどの弟子を育てた山口での伝道活動は最も充実していたようです。

1551年11月に鹿児島のベルナルド(Bernard)、マテオ(Matthew)、ジュアン(Juan)、アントニオ(Antonio)という洗礼を受けた日本人青年4人を同行させ、ザビエルはトーレス(Tores)神父とフェルナンデス(Fernandez)修道士らを残して日本を離れます。神父というのはトリック教会の司祭で、修道士とは清貧や貞潔、服従の誓いをたてた者です。

日本にやって来て活躍した外国人 その二 フランシスコ・ザビエル

「日本史において活躍した外国人?」といえばどうしてもフランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier)を第一番に挙げたくなります。天文18年といえば1549年ですが、我が国に最初にキリスト教を伝えたことで知られています。ザビエルはスペイン人宣教師です。私は津和野を訪ねてから山口市に立ち寄ったことがあります。ザビエルのことを少し学んでいたからです。山口サビエル記念聖堂を訪ね、そこで観光客を案内していたスペインからの神父さんと会話したのを思い出します。

ポルトガル王ジョアン3世(Joao III)は、イグナチオ・デ・ロヨラ(Ignacio Lopez de Loyola)がイエズス会(Society of Jesus or Jesuit)という新修道会を創設したことを知り、ポルトガル植民地内の異教徒へキリスト教を布教する宣教師を派遣するようにロヨラに依頼します。ロヨラが推薦したのが、フランシスコ・ザビエルとシモン・ロドリゲス(Simon Rodríguez)です。こうしてザビエルは東方伝道の命を受けインドのゴア (Goa)に派遣されます。ザビエル最初に日本に上陸したのは鹿児島です。

ザビエルは、平戸に置き残していた献上品を携え1551年4月下旬、周防に向かいます。それまでの経験から、貴人との会見時には外観が重視されることを知っていたザビエルは一行を盛装させて、守護大名、大内義隆に謁見し珍しい文物を献上します。これらの品々に喜んだ義隆はザビエルに宣教を許可し、信仰の自由を認めます。

大内義隆は、廃寺となっていた山口の大道寺をザビエル一行の住居兼教会として与えます。これが日本最初の常設の教会堂となります。南蛮寺の第一号のようなものです。ザビエルはこの大道寺で説教を行い、約2ヵ月間の宣教で獲得した信徒数は約500人にものぼったとあります。日本で初めてのクリスマス行事もここで行われたと記録にあります。現在の山口カトリック教会サビエル記念聖堂の落成献堂式は1952年1月、1991年9月に焼失しますが、1998年4月に再建されます。

日本にやって来て活躍した外国人 その一 西洋言語の到来

この稿からしばらく、日本で活躍した外国人の歴史を取り上げいきます。大勢の外国人が日本にやってきました。こうした人々は高い識見や知識、あるいは東洋に深い関心や興味を持って、何千マイルの彼方からやったきたのは間違いないことです。

こうした外国人は、主として交易や布教などを目的としてやってきたことが伺えます。後に食糧や水の供給、教育の普及を求めてきます。いわば探検家や開拓者のような人々です。

最初に日本にやってきた人々は、主にカトリックの聖職者でした。彼らは、神学校などにおいて哲学や自然科学、医学、工学などを学んでいましたから、当時の日本人、とりわけ大名や武士には、その知識は驚きをもって迎えられたに違いありません。

聖職者らは、数々の献上品を持参していました。その中には親書や聖書、世界地図、地球儀、望遠鏡、洋琴、置時計、ギヤマンの水差し、鏡、眼鏡、書籍、絵画、その他小銃など日本には無かった品々が含まれていました。

そしてなによりもポルトガル語、スペイン語、オランダ語、英語などをもたらします。言語は知識を伝播する源となります。日本が文明開化していくのは西洋の言語を学び、さまざまな知識を吸収していく過程といえましょう。

アジアの小国の旅 その九十三 カンボジア

カンボジア(Kingdom of Cambodia)の話題です。南はタイランド湾(Thailand Bay)に面し、西はタイ、北はラオス(Laos)、東はベトナム(Vietnam)と国境を接します。国民の90%以上が、クメール語(カンボジア語)(Khmer)を話します。首都はプノンペン(Phnom Penh)となっています。

ベトナム戦争が北の勝利で終結することが間近となった1975年4月17日、カンボジアではクメール共和国が打倒され、民主カンプチアを樹立した政治勢力のクメール・ルージュ(Khmer Rouge)が政権につきます。その指導者はポル・ポト(Pol Pot)です。政権はシハヌーク(King Sihanouk)国家元首に推戴するも、実権はポル・ポトが掌握します。1979年までポル・ポト政権は原始共産制の実現を目指すクメール・ルージュの政策により飢餓、疫病、虐殺などで100万人から200万人以上とも言われる死者が出ます。教師、医者、公務員、資本家、芸術家、宗教関係者、その他イデオロギー的に好ましくないとされる階層のほとんどが捕らえられて強制収容所に送られます。

強制収容所の俗称は「Killing Fields」と呼ばれました。正確な犠牲者数は判明しておらず、現在でも国土を掘り起こせば多くの遺体が発掘されるといわれています。トゥール・スレン(Tuol Sleng)という収容所が最も悲惨なところといわれ、今はトゥール・スレン虐殺犯罪博物館(Tuol Sleng Genocide Museum)となっています。

1,000以上の寺院があるアンコールワット(Angkor Wat)は平和なたたずまいを見せています。ワットとは寺院にことです。仏教国のカンボジアでなぜ大量虐殺が行われたかは、大国の後ろ盾などがあったことも判明しています。

成田滋のアバター

綜合的な教育支援の広場

アジアの小国の旅 その九十二 ミャンマー

ミャンマー(Republic of the Union of Myanmar)とききますと、私の世代ではビルマ(Burma)がぴんときます。 1885年から続いたビルマという国名は1989年にミャンマーと改名します。首都名も1948年から1989年まではラングーン(Rangoon)でした。1989年にヤンゴン(Yangon)となり、現在の首都はネーピードー(Nay Pyi Taw)となっています。

諸部族割拠時代を経て11世紀半ば頃に最初のビルマ族による統一王朝のパガン王朝(Pagan Kingdom)が成立します。その後、モンゴルの侵入(Mongol invasions)があります。モンゴルが去るとタウングー王朝(Taungoo dynasty)、コンバウン王朝(Konbaung dynasty)が生まれ、1886年にイギリス領インドに編入されます。戦後の1948年1月に民主国家としてビルマが独立します。

1962年3月にネ・ウィン(Ne Win)将軍に率いられたクーデター(coup detat)が起こります。それ以来ミャンマーは軍部によって支配されていきます。ミャンマーは多くの部族を抱え、部族間の対立や内紛が続いています。2015年11月に行われた総選挙アウン・アウン・サン・スー・チー (Aung San Suu Ky)議長率いる National League for Democracy:NLDが大勝し、側近のティン・チョウ(Htin Kyaw)を大統領とする新政権が発足します。スー・チー氏は,国家最高顧問,外務大臣及び大統領府大臣に就任します。

ミャンマーにおいて約半世紀ぶりに国民の大多数の支持を得て誕生した新政権は,民主化の定着,国民和解,経済発展のための諸施策を遂行します。しかし、依然として軍部の後ろ盾による政権が続きます。2018年8月,ラカイン州(Rakhine)北部における治安拠点への連続襲撃事件が発生します。その後の情勢不安定化により,70万人以上のロヒンギャ(Rohingya)部族の避難民がバングラデシュ(Republic of Bangladesh)に流出します。ミャンマーはロヒンギャ民族の市民権を認めていません。世界中から人権問題として非難されています。スー・チー氏のノーベル平和賞受賞についても疑問が高まっています。

成田滋のアバター

綜合的な教育支援の広場

アジアの小国の旅 その九十一 モルドバ

モルドバ(Republica Moldova)は東ヨーロッパに位置する共和制の国です。国土は九州よりやや小さい内陸国であり、西にルーマニア(Romania)と他の三方はウクライナ(Ukraine)と国境を接しています。旧ソビエト連邦を構成していた国家の一つとしてモルドバ-ソビエト社会主義共和国(Moldavian Soviet Socialist Republic)でしたが、1991年のソ連の崩壊によりドニエストル川(Dniester River)西岸地域を領有し独立します。首都はキシニョフ(Chisinau)となっています。

モルドバ人は言語的、文化的にルーマニア人との違いはほとんどなく、歴史的には中世のモルダビア公国以後、トルコとロシアならびソ連、ルーマニアの間で領土の占領・併合が繰り返された地域です。

ソ連が崩壊した際、「モルドバ共和国」として独立を宣言しますが、ニストリア川(Niestria River)沿岸であるウクライナ国境に住む約50万人のロシア系及びウクライナ系住民がこれに反発し、1992年には本格的なトランスニストリア紛争(Transnistria War)という武力紛争に発展します。現在は停戦状態にあります。2014年6月、モルドバとEUとの連合協定が締結され、全ての締約国による批准が完了します。

成田滋のアバター

綜合的な教育支援の広場