木枯らしの季節 その四 情報収集の貧困さ

大統領選挙後の話題は尽きません。テレビや新聞に登場する「評論家」、「有識者」はこぞって「こんなはずではなかった、、」と歯切れが悪いコメントです。「トランプさん、どうして勝ったんですか?」と困惑しているかのようです。

20141208201915 18005378_bg2 26b78ca89dbcfeb091c506fb416b3a1eこうした予想はずれは、外国の報道ソースに頼る現地の日本人特派員や日本大使館などから伝わる情報を鵜呑みにしていた結果です。特に責任を問われるのが日本大使館の情報収集の貧困さ。駐米大使は更迭されても仕方ありません。

オハイオ州やミシガン州は工業の盛んなところ、ウィスコンシン州やペンシルバニア州は農業が主要な産業です。いずれも労働者が多いのです。特派員や記者は自分の足で周りの人々の意見を集めなければならなかったのです。

ハイテクが盛んなカリフォルニアは単純労働者の雇用を奪っているといわれます。農業には多数の人出が必要なのです。フロリダも農業が中心の州です。多くの高所得者が退職して暖かい土地で余生を送る州でもあります。65歳以上の人々はトランプに投票しています。南部諸州はカトリック教会やプロテスタント教会の信者が多く、聖書地帯 (Bible Belt)と呼ばれています。伝統的保守主義(Traditional conservatism)が強いのです。

現在のアメリカの経済状況のことを多くの経済学者が「ああだ、こうだ」と指摘しています。日本車の優秀さは30年以上前から認められています。韓国の高い技術や中国の低賃金による生産性はアメリカの脅威となり、多くの雇用を国内で失ってきました。アメリカの劣等産業に従事する労働者は自由貿易に耐えられなくなっているのです。

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木枯らしの季節 その三 ”Stunning Upset”

大統領選挙後の話題を有力紙や放送局のヘッドライン (Headline)から考えてみました。私の大分錆び付いた英語の勉強にもなります。

Republican vice-presidential nominee Gov. Mike Pence, right, and Democratic vice-presidential nominee Sen. Tim Kaine speak during the vice-presidential debate at Longwood University in Farmville, Va., Tuesday, Oct. 4, 2016. (Andrew Gombert/Pool via AP)

Republican vice-presidential nominee Gov. Mike Pence, right, and Democratic vice-presidential nominee Sen. Tim Kaine speak during the vice-presidential debate at Longwood University in Farmville, Va., Tuesday, Oct. 4, 2016. (Andrew Gombert/Pool via AP)

249902cd-s img_0f23d60eaed166b1481db8676a1dd87139624最初はNew York Times紙です。開票結果の終盤では次のような見出しとなっています。
Trump is closing in on a stunning upset.

“Stunning” とは、「気絶させる」とか「ぼうっとさせる」、「唖然とさせる」という強い調子の単語です。続いて“Upset”が続きますが、「予想を覆す」とか「転覆する」、「気が動転する」という意味です。“Upset”は怒る、という意味で使われることが多いですが、この場合はその意味ではありません。とまれTimes紙の編集等らも開票結果に相当驚いたことが伺えるような表記です。

次にWashington Post紙です。
Clinton, Obama urge backers to accept Trump’s victory.

トランプ(Trump) の勝利を潔く受けとめよう、というニュアンスです。結果が出た以上それに従うのが民主主義というわけです。

ニュース専門放送局であるCNN (Cable News Network)は次のように報じています。
Hillary Clinton lost the election but is winning the popular vote.

クリントン(Clinton) は獲得選挙人数では破れたが一般投票の総得票数では勝ったという意味です。勝者総取り方式(Winner-take-all)という選挙方法では、こうした逆転現象が起こります。2000年の選挙でも民主党候補のゴア(Al Gore)が総得票数で共和党のブッシュ(George Bush)に勝ったのですが、獲得した選挙人数では足りませんでした。

今日のTimes紙の見出しは次のようです。
Clinton and Obama Plead for Unity as Trump Gets to Work.

クリントンとオバマは、新しい大統領の始動のために協力しようと呼びかけています。”Plead”とは擁護するとか弁護するという意味です。

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木枯らしの季節 その二 大統領選挙の主人公

ウィスコンシン大学時代、奨学金も底をつき、蓄えが少なくなってきたのでいろいろなアルバイトをして糊口を凌ぐことになりました。

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会話といっても実に他愛のない内容です。卑猥な言葉、汚いスラング、人種差別語が混ざる全く歯牙にかけない話題ばかりです。海外から来る院生に対しての羨望や引け目などもあるようでした。

さる10月26日に「常民」という話題を掲載しました。知識人とか文化人とは対極的な生活様式をもつのが「常民」。一般に庶民、民衆という意味です。文化の基底を担う人々の意を込めて柳田国男は「常民」を用いたといわれます。「常民」とは普通の人、エリートでない人という意味です。

今や大卒といっても安泰な地位を維持できるわけではありません。レイオフが待っています。今度の大統領選挙の主人公はこうした「労働者」とか大卒の経歴がありながら仕事を失い木枯らしにさらされるアメリカの多くの「常民」です。「常民」が大富豪を大統領に選ぶところにアメリカという国の不可思議な一面があります。

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木枯らしの季節 その一 山口誓子

300px-battle_of_sakhalin tomariorutantetu 一段と寒くなってきました。

海に出て木枯らし帰るところなし

この句は詩集「遠星」に所収されている山口誓子の作品です。昭和19年11月に作られたとあります。太平洋戦争は敗戦が濃厚になり、日本軍は特攻とか回天といった命を犠牲にする無残な攻撃を始めます。今のIS (Islamic State)と同じ戦法です。二度と帰ることのない若者の命を歌ったのがこの句といわれます。誓子のぎりぎりの反戦的な態度だったのでしょう。

誓子の作品に「凍港」という樺太の情景を叙情的に詠んだ詩集もあります。
   探梅や遠き昔の汽車にのり
   氷海や月のあかりの荷役そり

200px-yamaguchi_seishi私は樺太の真岡生まれですが、樺太生活や風景になんの記憶もありません。誓子の句から成田家が過ごした樺太という風土の想像を巡らすだけです。

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文化の日を考える その十四 ムーミン谷の人々

読書の秋、食欲の秋、旅行の秋、運動会や文化祭の秋といった文化が日本にあります。「天高く馬肥ゆる秋」は漢書を原典とする故事とありますが、、秋は馬で敵が襲ってくるから警戒せよという意味だそうです。四季の移ろいを楽しむのは日本人も中国人も同じです。

秋の夜長に読みたい本にムーミン (Moomins) の童話があります。フィンランドの女性イラストレータであり作家であるトーヴェ・ヤンソン(Tove Jansson)の作です。この童話シリーズはスウェーデンとフィンランドで1945年頃から1993年にかけて出版され、世界中で読まれています。童話は九冊の本から成ります。我が国で紹介されたのは1969年頃といわれます。私がムーミンを知ったのはテレビ番組です。

fd68c403474ed85292db3856a0c4a1ea 9780312608897_Web.pdf c52365f8d62eace6899d1b7c266bd335主人公は、MumintrollとかMuumiと呼ばれます。一般にはムーミンと呼ばれる「男の子」です。頬が膨らんで白く丸い体をしていて動物のサイにそっくり。妖精のような生物で人間と呼んでよいかどうか、、、そんなことはどうでもいいのが童話の世界です。

ヤンソンは祖先がボヘミヤ(Bohemia)。今のチェコの中部と西部のあたりを指すようです。自然に恵まれ多様な民族との交流があったところといわれます。ヤンソンはそうした風土の影響を受けて創作活動をしたことがうかがわれます。今もフィンランドはヨーロッパで最も深い森に包まれた国といわれます。

ムーミンの家族らはフィンランドのとある谷、ムーミン谷 (Moominvalley)と呼ばれるところに住んでいます。森があり灯台や小劇場もある村です。とても安全な谷なのですが、いろいろハラハラする冒険を子供たちが引き起こします。

Moomintrollです。好奇心が強くやる事なす事話題となります。誰とも仲良くし、ときに勇ましく振る舞い両親をハラハラさせます。丸高帽子をかぶっているのがMoominpappa。子供のように冒険好きなお父さんです。豊かな教養がありいつもきちんと子どもを諭し、教えを授けています。物事をしっかりと考えて家族を育てます。次ぎにMoominmamma。いつもエプロンをして家庭を安全で暖かいところにする優しいお母さんです。誰かの誕生日を知っていてデザートをつくってやるという気の遣いようです。みんなが幸せになるように願っています。

登場人物には、ときに詩的な台詞や哲学的な発言をさせています。その代表がSnufkin。ハーモニカを吹いては思索する孤独な旅人です。子供には理解できるのかと思われるような台詞を語ります。しかし、人生を簡素に、ものごとを楽天的にとらえ、そこに自分の喜びを探求してムーミン谷の人々から信頼と尊敬を集める哲学者です。子供といえども大人の素養が備わっている、だから大人に向けに語られるような深い意味の言葉は子供にも理解できるのだという信念がヤンソンにはあるようです。

本稿で「文化の日を考える」シリーズは幕とします。

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文化の日を考える その十三 エストニアの文化と民謡

エストニア(Estonia)はラトビア (Latvia)、リトアニア(Lithuania)とともにバルト三国 (Baltic states)を形成しています。バルト三国といえば意外と我が国とは結びつきが深いところです。日露戦争で1905年2月にバルチック艦隊 (Baltic Fleet) がウラジオストック (Vladivostok) に向けて航海したところ、さらに第二次世界大戦中、杉原千畝氏がリトアニアのカウナス (Kaunas)にあった日本領事館で外務省の訓令に反しておよそ6,000人のユダヤ系難民に通過ビザを発給しその命を救ったことなどが知られています。

sugihara_b aa74d34d75649cc8e17574865a3d5517 _dsc9089ヴァイキング(Viking)の時代から中世を経て今日まで、長い歴史を有しています。中世時代にはドイツ、スウェーデン、ロシアの貿易商らの商人の祖先が定住したところといわれています。エストニアは豊かな自然と相まって多民族が織りなす異教徒の精神とヨーロッパ人の精神の有り様とされる考え方や言動のさま、そのメカニズムを受け継ぎ、現在はEUやNATOの加盟国となっています。

紀元前9000年頃に氷河期が終わるとエストニア人がバルト海(Baltic Sea)の沿岸に定住します。紀元後800年頃までは、エストニアの町や村が形成され自治を始めていきます。古代エストニアから今に至る最も特筆すべき文化は詩と歌にあるといわれます。特にエストニアの伝統音楽とされる民謡(folk song)は同一旋律の多人数による歌唱、斉唱 (unisonまたは monophonic) が特徴です。古代民謡は、「runo-songs」とか「runic songs」と呼ばれ、古代北欧風民謡ともいわれます。

ニューグローヴ世界音楽大事典 (New Grove Dictionary of Music and Musicians)によりますと、「Runo songs」の特徴は、もともと死の悲しみや嘆きを表すことにあります。死者を弔うのが民謡であったようです。エストニアは世界で最も民謡の数が多いことで知られ、その数133,000余りが記録として残されています。豊かな自然に対する畏敬の精神が民謡に示され、エストニアの歴史と文化の源となっているといわれます。木や大地は生命力を象徴し大事に保護されています。森は命の源泉として崇められ、聖なる所、霊が宿るところとされています。

Britannicaによれば、ソ連の占領下ではエストニアの民謡を歌うことは禁止されていたとあります。しかし、1988年9月にタリン近郊の野外コンサート会場「歌の原」に約30万人が集まり独立への機運が高まります。そして1991年に独立を達成します。このことからエストニアの独立は後に「歌による革命」と呼ばれたようです。五年に一度のエストリア最大の祭りでは歌と踊りが「歌の原」で開かれます。エストニアは今も「歌の国、Singing nation」と呼ばれています。

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文化の日を考える その十二 広場と市民と文化

一度、娘とエストニア(Estonia)の首都タリン(Tallinn)を訪れたことがあります。ヘルシンキからフェリーでバルト海峡を三時間。ソ連崩壊後の1991年に独立を宣言した新しい国です。ドイツ、ロシア、デンマーク、スウェーデンなどに翻弄された独立に至る長い歴史があります。

url beograd-talin-avio-karte imagesタリンの街には古い教会が建ち並び、城壁で囲まれた広場があります。タウンホールといういわば役場が広場の一角にあり、説明書きによるといろいろな集会が開かれたとあります。さらに広場には、商工組合の原点とされるギルトのあった建物があり、政治とは切り離された独自の商行為をしていたことがうかがわれます。その建物は歴史博物館となっています。

広場が文化の形成にどのような役割を果たしたかを考えています。人との出会いの場、それが広場の役割です。「人」と「もの」と「情報」が混じり合うのが広場です。今でいうファーズマーケット(Farmer’s Market)が何世紀にもわたって開かれたところです。「情報」とはものの値段を決めるものです。こうした人々の行動を左右するのが文化の総体ということのようです。

文化を生み出した広場の歴史は、赤の広場 (Red Square)、天安門広場、トラファルガー広場 (Trafalgar Square)、シャルル・ド・ゴール広場(Place Charles-de-Gaulle)など人間のエゴがプンプン臭うようです。魔女狩りが行われ、火あぶりやギロチンなどのみせしめの処刑が行われ、国威高揚のような戦車やミサイルのパレードが繰り出すところです。広場の所産ともいえる文化の一面です。

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文化の日を考える その十一 広場と市民の生活

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ヘルシンキ市内の大きな広場にやってきます。側にある案内板には、古今、政治も経済も祭りごとなど貴族や庶民の生活は、この空間で繰り広げられたと記されています。議会が開かれ、政治が語られ、裁判も行われ、処刑者へのとりなしの礼拝が行われたとあります。いわば神も市民もこの広場に集まっていたようです。

中世に勃興した自治都市の成立と発展は広場とともにあるようです。広場に立ちながら、しばし広場が市民の生活や文化の形成にどんな役割を果たしたのだろうと考えます。

街の賑わいは広場にあることです。どこの広場もこと食べ物に関しては、例外なく賑わいが演出されています。毎日早朝から市場が広場にできます。近隣の農家が競って新鮮な野菜や果物を山のように並べます。広場は、生活の場。そういえば、マーケット広場とかマーケット通りという地名が必ずといってよいほど大きな街にはあります。ここヘルシンキも、あとで訪れることになるタリン(Talin)も例外でなはありません。広場は食の交流の場のようです。

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文化の日を考える その十 ヘルシンキ・オリンピック

フィンランドの思い入れの話題です。ヘルシンキの街中に立ったときです。それは北海道の片田舎で小さな私が経験した興奮の瞬間のような時です。ラジオや新聞で初めて文化の祭典、オリンピックに接したのです。

paavonurmi_500 856fd60a03dba893ea4c4b8ece2153d8404683ca 20150727-3-emilこのとき私は10歳。新聞やラジオからのオリンピックの話題はひとつも漏らさず、今も鮮明に記憶にあります。戦後の日本にとって、フィンランドは記憶に残る国です。それは1952年にヘルシンキで開かれた夏季オリンピックです。その前の1948年のロンドン・オリンピックには戦争責任のために日本は参加できませんででした。フィンランドは第二次世界大戦後初の夏季オリンピックへの復帰です。

復興しはじめた日本が国際舞台で再出発する大きな転機となります。聖火を点火したのは、パーヴォ・ヌルミ(Paavo Nurmi)。1920年から1928年の間、オリンピックで陸上の中長距離で合計9個の金メダルを獲得した彼は今も国民的な英雄です。

新聞で大賑わいだったのが、チェコスロヴァキア(Ceskoslovenska)のエミール・ザトペック (Emil Zatopek)です。ヘルシンキでは陸上競技長距離種目で3つの金メダルを獲得したのです。彼はそれまで「人間機関車」というニックネームがつくほどの驚異的なランナーでした。5,000m、10,000m、マラソンでの優勝は前人未踏の偉業となりました。

それにもまして、日本人を驚喜させた活躍が選手がいました。唯一の金メダルを獲得したのが、レスリングバンタム級の石井庄八でした。決勝戦の相手は、優勝確実との下馬評の高いソヴィエトの選手。フィンランドの選手らは雑巾のように叩きつけられたと報じられました。

その他、水泳1,500m自由形の橋爪四郎が銀メダルをとります。彼のライバルは古橋廣之進。「フジヤマのトビウオ」の異名で世界中の水泳界で知られ、1,500mで泳ぐたびに世界新記録を塗り替えてきました。ロンドンオリンピックに出場していれば、金メダル確実といわれました。古橋はヘルシンキ五輪ではすでに峠を越えていました。
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文化の日を考える その九 鰊漬けと馬鈴薯

ヘルシンキでの二日目の朝。宿の朝食では沢山の種類の鰊漬けが並んでいました。マリネとどう違うのかは分かりませんが、鰊漬けをたらふく食べたのは稚内時代以来のことでした。

81cc6cda1849d5c2562eb78a9468947c-608x456 123c13c9a4da4e853b050c55475f81f8 dee61c9f914f1727efb233ba17a712b2街頭に繰り出しました。時折、地図やガイドブックを手にする地元の人を見かけるだけです。多分田舎から汽車でやってきたかと思われる家族連れなどに出会います。身なりが質素なのと、なんとなく酪農や畑仕事を生業とする風情が感じられる旅人です。ダウンタウンにはこうしたお上りさんやまわりの国からの旅人が行き交っていますが、東洋からの若くて元気の良いギャルの群は見かけません。

通りに面したカフェやレストランは、競うように色鮮やかなパラソルをひろげ、テーブルや椅子を並べて客を迎えています。丁度待ちに待ったつかの間の夏。街のあちこちに広場があります。大道芸人のアクロバットや道化師のパントマイム(pantomime) 、弦楽三重奏をかなでるアマチュア音楽家、そうした芸術を楽しむ通りがかりの人々がいます。

野外のマーケットがあり、数時間前に掘り出したかのように土がべっとりとついている馬鈴薯を人々はせっせと買っています。日本人では米のない食生活が考えられないように、北欧諸国は馬鈴薯なしに食文化は語れないようです。アメリカも馬鈴薯が主食のようなところがあります。

そして白夜という舞台が用意されています。なんとも贅沢な光景です。

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文化の日を考える その八 ヘルシンキの白夜

1985年7月のことです。タラップを下りるとオランダ (Netherlands) 最大の都市アムステルダム(Amsterdam) の空港でした。乗り換えのためです。初めてのヨーロッパでした。静かな緊張が襲ってきました。田舎者の気分です。それを鎮めようと、空港のカフェに入りました。これからフィンランド(Finland) のヘルシンキ(Helsinki) へ向かうつかの間の待合時間です。田舎者を気づかれまいとして、できるだけのんびりと振る舞おうと気取るさもしい自分を感じました。会計を済ますと金髪の店員が「お金を落としましたよ」と英語で呼び止めてくれた。笑顔が印象的で、なにかこの旅はいいことがありそうな気がしました。

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ヘルシンキで泊まったのはダウンタウンに近い三流ホテル。カウンターには若い女性一人がテキパキと客をさばいています。ここには客の荷物を無理に運ぼうとするいんぎんなホテルボーイなどは宇なせん。部屋に入りテレビをつける。ポルノビデオをやっていました。この類のテレビ番組はアメリカでも見たことがありません。フィンランドとはこれほど性表現が自由な国なのかと考えました。

白夜 (White Nights) というものを始めた経験することになりました。シベリウス (Jean Sibelius) とフィンランディア (Finlandia) のことが思い浮かんできました。なにせ午後11時になっても外は明るいのです。窓からサッカーをする人を眺めながら、睡魔がくるのを待ちました。

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文化の日を考える その七 文化とルース・ベネディクトと土居健郎

今も昔も、日本人論とか日本文化ということが内外の識者によって語られています。アメリカで最初に日本文化を論じた人にルース・ベネディクト(Ruth Benedict)がいます。彼女の文化観を考えることにします。

ruth-benedict-1-728 camp3candy 933-1ベネディクトは、共同体それぞれ文化に基準があり、他の価値や伝統という尺度からは文化の意味を理解することが困難だと主張します。ベネディクトの文化のとらえ方は、「日本人」とか「日本文化」でくくられる狭い意味の文化論とも違うようで、生活や環境全体を意識する見方のようです。彼女の文化観は、文化というものは相対的なもので、共同体に独自の規範があり、それを理解していくと文化の比較は生産的でないと主張します。つまり共同体の文化は、意味や価値を有しておりそれを標準化するような性質のものでないという立場なのです。

ベネディクトは日本で研究したことはないのですが、戦時中日系アメリカ人や日本人捕虜との接触から日本文化を調べ、「菊と刀」(The Chrysanthemum and the Sword: Patterns of Japanese Culture)という著作をあらわします。そして日本人の心性とか人間関係の基本が「恥の文化」(Shame Culture)にあるという仮説をたてるのです。

日本人捕虜との遭遇から一つのエピソードがあります。戦時下ではアメリカの捕虜は尋問に際して、敵方の軍事情報は決して明かさず、故郷や家族のことを語るの対して、日本人捕虜は軍事作戦に関することは白状しても家族のことは決して語らなかったいうのです。家族に捕虜になったことを知られたくなかったといいます。ベネディクトはそうした精神を「恥の文化」と呼んだわけです。「罪の文化」 (Sin Culture)というキリスト教のとらえ方と対峙させたのです。「罪」というのは内に感じて外に向かい、恥というのは外に感じて内に向かうと一般にいわれます。

日本人の人間関係を「他人依存的自分」、あるいは「受身的愛情希求」としてとらえるのが精神科医師の土居健郎です。その著作「甘えの構造」 (英訳:The Anatomy of Dependence)の中で、日本人は周囲の人に好意を持ってもらいたいとか、他者に対して「好意を持って優しくして欲しい」という他者依存があると主張します。内と外という関係に登場するのが「遠慮する」という考え方です。遠慮がない身内は文字通り内であるが、遠慮のある義理の関係は外であると規定します。「遠慮」とは「美徳」だというのです。人間関係を円滑にする大事な手段と考えます。内的な良心を意識する「罪の文化」とか「近代的自我の欠如」の態様が「恥の文化」であるととらえるベネディクトの主張に対して、「そうではない、甘えという美徳が行動の規範なのだ」というのが土居の文化観です。

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文化の日を考える その六 不条理という文化

誰かが「自分は異邦人であり、よそ者であるという視点から物事を見つめることが大事だ」といっています。この稿を書きながら、集団の規範や組織のしきたりに疎かった自分を振り返えると、この言葉になんとなく共感を覚えます。

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img_0アルベール・カミュ(Albert Camus)の小説に「異邦人」というのがあります。アルジェリア(Algeria)に住むムルソー (Meursault) が主人公です。養老院での母親の葬儀に参列するのですが、ムルソーは深い悲しみを押しとどめるかのよう無表情です。周りは不思議がります。

あるときムルソーはトラブルに巻き込まれ、アラブ人を射殺します。裁判では、肉親がが死んでからも普段と変わらない行動を問題視されます。人間味のかけらもないと糾弾され死刑を宣告されます。懺悔を促す司祭を獄から追い出し、人々から罵られながら処刑されます。なんとも「不条理」な生き様です。

不条理 (absurd, absurdity)とは馬鹿げているとか滑稽だ、という意味です。人とうまく調和しないこととか、常識を外れた行動または思想といわれる有り様のことです。それは周りに「耳をかさない」孤高の姿のようです。普遍的とか普遍性とは相容れない考えのようです。しかし、そうした生き方もあるのが人生です。不条理とは「文化」の一部なのかもしれません。ナチズムや国粋思想を振り返りますと、そこには高い教育を受けた者が「明晰な理性を保ったまま世界に対峙するときに現れる不合理性」(Wikipedia) という側面があるのに気がつきます。

今も「極端」というか「過激」な自文化中心主義(ethnocentrism)が幅をきかせています。国際関係における紛争や対立は、表現や報道の自由、難民対策、薬物対策などをめぐる人権問題、サイバー攻撃といった目に見えない紛争となっています。弱者を蔑視する猟奇的なヘイトクライムも身近に起こる時代です。

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文化の日を考える その五 「文化鍋」とは?

img_04111 11121442_50a08c3a4f826 rdn_50d155c1cd90f前回は佐伯泰英の時代小説から「文化」の一面を考えました。吉原という共同体は固有の生活様式で統合されており、他の文化からの基準ではこの共同体を理解することは困難だということをいいたかったのです。相対化という視点でこの共同体における生活内容や人々の行動様式を問うていく必要があるように思えます。ですがこれが結構難しい話題です。

文化には二つの意味がありそうです。第一は優れた芸術、学問、技術、それが醸し出す上品な雰囲気のようなことです。広辞苑によれば「人間が自然に手を加えて形成してきた物心両面の成果、衣食住、技術、学問、道徳、宗教、政治など生活形成の様式と内容」とあります。文化とは概して好ましいもの、望ましいものと考えられてきました。

その例として、以下のように「文化」がつく単語があることです。文化国家、文化庁、文化勲章、文化都市、文化村、文化村通り、文化広場、文化センター、文化功労、文化の日、文化映画、文化遺産、文化財、文化保存、あげくは文化住宅、文化風呂、文化食品、文化鍋、文化包丁などです。実にうさんくさい響きの語に「文化人」というのもあります。

広辞苑はさらに、文化に対峙する単語は「自然」としています。なるほど、ドイツ語の Kultur や英語の culture は、本来「耕作」、「培養」、「洗練」、「教化」、「産物」という意味であり、人間が自然に手を加えて形成してきたものです。

文化の第二の意味です。すべての文化が人間を幸せにしたということではありません。人は文化によって苦しみ、虐げられ、死に追いやられてきた事実も限りなくあります。戦争、武器、原発、偏見や差別なども文化の所産です。「文化大革命」もありました。

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文化の日を考える その四 時代小説から

oiran_with_yarite_and_kamuro_1 img_0 z0164-168「吉原裏同心」という佐伯泰英のシリーズものがあります。この小説の舞台は江戸の葦の原ー吉原です。吉原に暮らす人々の欲望と夢、汚れさと純真さ、嫉妬と愛憎、生と死などが描かれています。

天下御免の色里、吉原の頂点にいるのが花魁です。一見華やかな太夫、花魁の世界。その背景には、売られ買われる女性がいます。それを取り巻く大勢の人が吉原で暮らします。例えば、吉原の秩序を保つ江戸町奉行の役人、廓内での騒ぎをまとめる頭取や小頭、さらに医者、仕出し屋、読売屋、三助、職人、商人、船頭、幇間と呼ばれる太鼓持ち、芸者がいて吉原という集団を形成しています。

幕府公認のこの色里には廓内の決まりがあります。所司代の元にある与力という下級役人の下で警護を司るのが用心棒の裏同心です。裏同心らの働きによって自治や治安が保たれるという不思議な世界です。ヤクザが秩序を保っているといえばわかりやすいです。

筆者がこの時代小説に惹かれるのは、吉原という共同体に受け継がれる行動のパタンやその背後にある価値観という文化です。吉原という「場」を色街とか色里という固定観念でとらえると、花魁がなぜ客をもてなすために古典や書道、和歌、誹諧、茶道、箏、三味線などの芸事に修行したのかが分からなくなります。そしてなぜ裏同心とか遊女に読み書きを教える者が存在が吉原に必要だったのかは、「おもてなしの文化」とか秩序とか決まりを維持するためであることが首肯できます。

江戸文化というと一見、茫漠としていますが、それは人々が手を加えて形成してきた衣食住をはじめ、歌舞音曲、作法、詩歌など生活様式と内容という総体のこと、それが江戸文化といえます。この総体を意識すると、吉原に暮らす人々の日常性のなかに少々大袈裟ですが、なにか原理的な意味を見つけられるような気がしてきます。
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文化の日を考える その三  「土人」と「常民」

z6blsbel_20161022223331 20140731_2609673 436px-yanagiwara_byakuren先日、沖縄県の米軍北部訓練場のヘリパッド移設工事をめぐって、現場を警備する機動隊員が反対派住人を「ボケ、土人」呼ばわりをして話題となりました。当の隊員は懲戒処分になったようです。

昭和42年発行の第二版広辞苑で「土人」の定義を調べてみると 「その土地に生まれ住む人、土着の人、原始的生活をする土着の人種」とあります。さらに第六版の広辞苑では、第二版の説明の他に「未開の土着人、軽蔑の意を含んで使われた」とあります。大修館発行の大漢語林では「土人」を「原始的な生活をしている土着の人」と定義しています。土着の人を略した語が「土人」なようです。

「土人」という語から「常民」という語を連想します。「常民」とは一般に庶民、民衆という意味です。狭義に「日本民俗学において民俗文化や民間伝承の担い手の総称として用いられる概念」といわれます。水田稲作を基盤とする定住農耕民のことで、柳田国男が提唱したとされます。知識人とか文化人とは対極的な生活様式をもつ「常民」を研究することで、伝承される文化の総体が理解されるというのです。

柳田との出会いから民俗学に傾倒した人に渋沢敬三がいます。彼もまた日本文化の基底を担う人々の意を込めて「常民」を用いたといわれます。「常民」は平民とか庶民とほぼ同義といわれます。普通の人、エリートでない人という意味です。日本銀行総裁でもあった渋沢は、後に民俗学者である、今西錦司、江上波夫、梅棹忠夫、宮本常一、中根千枝らの海外での現地調査に多大な資金援助をしたことでも知られています。財界人であった渋沢が常民の思想に関心を示したということは興味あることです。

常民の他に「平民」という語があります。「平民」は明治2年に新設された族称の一つといわれます。公家や大名家等は華族、士分の地位にあった武士は士族、足軽等の下級武士が卒族です。それ以外の者は全て「平民」という族称がつけられます。当然、華族や士族の下位に置かれます。通常の民衆よりも下位に置かれた者は旧賤民と呼ばれた「穢多」や「非人」などです。

「平民」は、その原義から派生した俗用として、最下位の人々として土着の人とか、文化的に洗練されていない者といったように華族や士族からは軽蔑されたようです。なお、昭和22年まで華族制度は続きます。

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文化の日を考える その二 「文明と文化」

thumbnail-image-shashinkan-rakuten-co b4716daccd1ba16dfbcf 617hscgfbpl-_ac_ul320_sr226320_私は「空海の風景」など司馬遼太郎氏の作品を読んだ一人です。その中で印象に残るのが「街道をゆく」という43冊のシリーズものです。「街道」とか「みち」という交通の視点から歴史や文化、風俗を考察しているのが特徴です。司馬遼太郎は「もしも後に、私の仕事で残るものがあるとするならば、それは『街道をゆく』かも知れない」といわしめるほど、思い入れの多い内容となっています。国内はもとより、アメリカ、アイルランド、モンゴル、オランダ、スペイン、中国、台湾、韓国などを紀行しながら「日本人とは何か」「国家、文明、文化、民族とは何か」を思索しています。

上は国家から下は町内会まで人は多くの集団の中で暮らし、秩序づけられ安らげて生きています。それを支えるのが文明とか文化であるというのが司馬史観といえる考え方です。文明といえば世界四大文明とか、文明開化といったように否定できないような「普遍的」なものとか合理的なものという意味合いで使われます。「普遍的」とは国境とか民族の垣根を超えて通用する価値ということです。

他方、文化ではこちらはむしろ不合理なものであり、特定の集団、たとえばある民族においてのみ通用する特殊なもの、他に及ぼし難いものといえそうです。例えば箸と茶碗をもって食するのは、アジア人に見られる食生活です。あるいは婦人が襖をあけるとき、両ひざをついて両手で開けるのも日本独特の所作です。結婚式は教会で行い、子供ができると神社で七五三を祝い、病気になるとお寺のお百度参りをするのも文化。忠臣蔵の忠義心も文化です。独特ですが普遍性はありません。以上の脈絡からすれば、キリスト教も仏教も神道もイスラム教もいろいろな民族がいろいろな様式で信仰している文化の様式ということになります。

文化に合理主義は成立しにくい、というテーゼに対して反論したくなりそうなのですが、そうした問いはさておいて説明しにくいほど美しさとか雅さとか、安堵したり落ち着いた気分になれるのが文化です。司馬遼太郎は「不合理さこそ文化の発光物質なのである」といっています。永遠に光り輝くものではないという意味にもとれます。

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文化の日を考える その一 文化の定義とは

be14a071-396a-892f-0fa3-5722fc7d7fd0siba meiji_emperor sim「文化の日」が近づいています。再び「文化とは」ということを考えたくなる候です。文化とは誠に味わいのある言葉です。紛争や事件が耐えない今日、武力や刑罰などの権力を用いず、学問や教育によって人々を導くことが「文」。学芸は諸文物が進歩し、世の中が発展することが文明開化と呼ばれます。人間の理想の実現のために果たしてきた精神的な活動とその所産の総称が「文」といわれます。

「文化とは」を考える切り口は人によって違うでしょうが、私は愛読する佐伯泰英の時代小説と司馬遼太郎の「アメリカ素描」に書かれてある「文明」と「文化」の定義、そしてルース・ベネディクト(Ruth Benedict)の文化観に切り口を求めたくなります。

昨年、八王子にやってきた娘婿や孫娘らと会話しながら、日本とアメリカの公的祝日が話題となりました。もっとも日本はアメリカに比べて祝祭日が多いということが話題の端緒でした。建国記念日や天皇誕生日、憲法記念日などは彼らには納得できます。アメリカにも似たような歴史的なことを記念する祝日があるからです。私はさらに、日本には成人の日、春分の日、秋分の日、みどりの日、文化の日などが祝日になっていることを説明しました。

娘婿が興味を示したのは文化の日です。実は筆者も文化の日を説明するのに窮したのです。「日本の文化を大事にすること、学問に励むこと、ノーベル賞をもらった人々に勲章を与える」などと説明したのだが、娘婿の顔は得心するものではありませんでした。これではいかんと思い文化の日の謂われを調べました。もともとの文化の日の制定は、明治天皇誕生日である1852年11月3日に由来するとあります。そういえば戦後しばらくの間、両親らが文化の日を明治節とか天長節と呼んでいたのを思い出しました。

みどりの日、昭和の日などを天皇の誕生日を記念する日であることも娘婿に説明しました。すると彼が、「日本は新しい天皇が生まれるたびに祝日が増えるのか?」と誠に答えにくい質問をしてきました。このままでは、何十年後毎に祝日が増えるわけです。
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アメリカの学校は今 その三十三  Mount Olive Lutheran Church School

mtolive75years_f eastsidhe-school-1939 clc-logo-explainedMt. Olive Lutheran Church(マウント・オリーブ・ルーテル教会)はマジソン市の落ち着いた住宅街にあります。会衆の数は2,000人くらいで、多くは大学、州政府、企業などに働く人々です。3分の2以上が家族ぐるみで礼拝に出席します。研究者や大学院生も多く教育には熱心です。スタッフは牧師が2名、オルガニストが1名、そして事務長、用務員が各1名となっています。オルガニストは教会教育の長や聖歌隊(Choir)の指揮を兼ねています。もちろんオルガンがあって日曜日の二度の礼拝で賛美歌が演奏され、会衆はオルガンの伴奏で歌います。このときはなんとも気持が高揚するものです。

教会学校は毎週日曜日の2回の礼拝の間に開かれます。幼稚部、小学部、中学部があります。会衆の中から選ばれたリーダーが指導します。教える内容は聖書の教えです。保育所も開設し専従の保育士や職員も働いています。障害のある子どもも小集団で学びます。夏はキャンプやハイキングがあり、体と心の成長を助けます。中学生は、特に大人の仲間入りに備えて、キリスト者としての信条(Creed)や教理問答(Catechism)など集中して学びます。そして14歳になると堅信礼(Confirmation)という成人として認められる儀式が礼拝の中で執り行われます。

教会は会衆の献金によって支えられます。十一献金といって収入の1/10を目安に献金しています。1/10を満たせない人は、諸々の奉仕活動に参加することで献金に代えることになります。例えば教会学校の教師として教える、聖歌隊で歌う、週報の印刷手伝いをする、お年寄り家族を訪問したり病人を見舞いをするなどです。どのような形でも自分のタラントを捧げることができればよいのです。

Mt. Olive Lutheran Churchは地域に住む障害者の職業訓練をも引き受けています。平日、ジョブコーチと呼ばれる訓練士に引率されて、教会の印刷物を折りたたんだり、封筒詰めをしたり、宛先のシールを貼ったりします。こうしたスキルを教会で学ぶのです。マジソン市との障害者訓練の地域連携事業にMt. Olive Churchも参加しています。

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アメリカの学校は今 その三十二 教会立学校

stanthonysparochialschool 515213688 parochial_2多くの信徒を有するキリスト教会、特にカトリック教会(Catholic church)はParochial school と呼ばれる教会立の学校を運営しています。その運営母体は教会の会衆です。会衆による献金や寄付によって教会は成り立ちます。教会は大きく分けて旧教と呼ばれるカトリック教会と新教と呼ばれるプロテスタント教会(Protestant church)があるのはご承知のとおりです。どちらも聖書教育や情操教育には力を入れています。これが使命、ミッションと呼ばれるものです。教育活動は、長い歴史を有する教会の堅固な伝統となっています。

我が国にもいわゆるミッション・スクールがあります。多くはヨーロッパや北米の教会から派遣された宣教師と呼ばれる人々がその礎を造った歴史があります。創立の精神(Ethos)は、聖書の教えにそってキリストの弟子として生きるという考えです。真理を追究し人格を高め社会と人々に奉仕するという精神です。ミッション・スクールの中には、宗教教育の色彩が薄れ、進学校とか有名校といった世間の期待に迎合するかのような校風も感じられます。

ウィスコンシン州都マジソンにあるMt. Olive Lutheran Churchの学校を中心に、教会立の学校の特徴を2回に分けて紹介しましょう。この教会はその名の通りルーテル系です。マルチン・ルターという神学者が興した教会です。ルターは「Luther」と綴ります。Lutheranとはルター派の人々という意味です。ウイスコンシン州にはたくさんルーテル教会が存在します。1800年代に北欧やドイツなどからの移民がこの大陸の東海岸や中西部(Midwest)にやってきます。アイオワ(Iowa)、イリノイ(Illinois)、インディアナ(Indiana)、ミネソタ(Minnesota)、ミズリー(Missouri)、ミシガン(Michigan)、ネブラスカ(Nebraska)、オハイオ(Ohio)などには、特にルーテル教会が目立ちます。

Midwestの別称は「America’s Heartland」。アメリカの心臓部とでも呼んでおきましょう。工業、農業、商業の中心です。その代表がデトロイト(Detroit)、セントルイス(St. Louis)、シカゴ(Chicago)、ミネアポリス(Minneapolis)などです。こうした都市に人と金と物、そして情報が集まるのです。

とまれ話がそれたので元に戻ります。ルーテル教会とは、聖書に基づいて三位一体の存在を信じ、すべての会衆が祭司として社会で役割を有するという教えが基本にあります。恩寵によって救われ、聖書の言葉に信仰の基盤を置いています。カトリック教会とは教理とか教義において違うところがあります。

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アメリカの学校は今 その三十 一  子供を虐待から守る

dva_social_fs chinese_american_fishermen_b portland_oregon_in_1890今回も日本にはない学校を紹介しましょう。それは、父親から暴力を振るわれた子供が学ぶ学校です。最近日本でも家庭内暴力(Domestic violence: DV)によって子供が亡くなる悲しい出来事が報道され心が痛みます。アメリカでもこうした事例は多いのです。

西海岸オレゴン州(Oregon) のポートランド(Portland) という町で教育関係の会議がありました。1900年代、ポートランドのあたりは多くの日本人や中国人が入植したところです。漁業や林業に従事しました。ダウンタウンに近い河岸に、移民して活躍した日系アメリカ人を顕彰する立派な公園があります。

その会議の日程に地元の学校訪問が組まれていました。ある小さな学校に行きますと教室に案内されました。そこは家庭内暴力や虐待を受けた子供が学ぶところでした。すでに子供は帰ったあとでした。父親の暴力から母親と子供守るためにDVシェルター (DV Shelter) という特別の施設があるそうです。その場所は、父親にわからないような配慮がされているとのこと。子供たちも特別な車で送迎されています。

今も家庭内暴力は白人、黒人の別なく起こっています。地域の人が暴力の疑いがあるという通報をすると警察が調べに入ります。そして子供の安全のために隔離するのです。児童相談所の仕事ではありません。母親と共に安全に保護された子供は、父親にはわからないような学校で学習を始めるのです。こうした都市の学校は多様なニーズを有する多くの子供を教育しています。校長も教職員も大変な毎日のようです。

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アメリカの学校は今 その三十 矯正教育の教室

bn-ed714_fergus_g_20140818114648 and_376621 phoenix-skyline-arizona日本にはあまりない教育の実践を紹介しましょう。それは、犯罪を犯した生徒の矯正を目指す教室です。アリゾナ(Arizona)の州都フェニックス(Phoenix)に行ったときです。

フェニックスは砂漠の真ん中に形成されていてサボテンが各所で見られます。20世紀前半からニューディール (New Deal) 政策によるコロラド川(Colorado River)の電源開発、フーバーダム(Hoover Dam)やグランドクーリーダム (Grand Coulee Dam) の建設によって、豊富で安価な電力が確保され軍事産業などが発展し、今は半導体などのエレクトロニクス産業が中心となっています。さらにグランド・キャニオン国立公園 (Grand Canyon National Park) などの観光産業でも盛んです。

職業訓練を中心とした学校を紹介されて兵庫教育大学院生とで出かけました。3名の生徒が英語や数学を勉強していました。教師は数名いたでしょうか。事前に、私はそこの生徒は犯罪の経歴があることを聞いていました。銃を保持していた白人女性、ドラッグを売っていた黒人男性、車を盗んだ黒人男性です。いずれも高校生です。

教師は、私たちが生徒に声をかけてよいといいました。「将来どんな進路を考えているのか」と聞きますと、「大学へ行って技術を身に付けたい」と黒人高校生が答えてくれました。女性は看護師になりたいというのです。そのために、教科の勉強をしているようでした。彼等は裁判所から一年間の保護観察を言い渡され、職業訓練などの矯正教育を受けているのです。それにしても見知らぬ訪問者に生徒との会話を許すなんて驚きでした。

心配なのは、犯罪が悪化し刑罰が厳しくなっていることです。ある州では、検察官が事件を少年裁判所に送るか、刑事裁判所に起訴するかを判断する裁量を有するというのです。しかし、特に少年の犯罪においては、厳罰化を持って処するよりも教育的支援でもって更正させるべきだというのは、フェニックスで経験した矯正教育が示しています。厳罰化する事が、必ずしも社会にとっていい影響を与えるとは限らないという考え方もアメリカには根強くあります。

勉学の態度が改善されれば、矯正教育を受ける生徒はやがて通常の高校に戻ります。生徒を地元の高校に戻すことが望ましいという考え方が前提にあるのは興味あることです。
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アメリカの学校は今 その二十九  Haggerty Elementary School

ma_cambridge06 episcopal_divinity_school_cambridge_ma harvard_square_in_cambridge_massachusettsアメリカの東海岸にマサチューセッツ州 (Massachusetts)があります。州都はボストン (Boston) です。このあたりには有名な大学がいくつかあります。ハーヴァード大学(Harvard University)、マサチューセッツ工科大学 (Massachusetts Institute of Technology:MIT)、ボストン大学(Boston University)、タフツ大学 (Tufts University)、ノースイースタン大学 (Northeastern University)、どれも超一流の研究中心の大学です。ボストン音楽院 (Boston Conservatory)での学びに憧れるのはビオラを弾く私の孫息子です。

今回の学校は、ハガティー小学校(Haggerty Elementary School)です。この学校はハーヴァード大学のあるケンブリッジ (Cambridge)という町にあります。このあたりはニューイングランド (New England) と呼ばれ、植民地時代の建物が煉瓦造りで残っています。高い建物は規制されています。ハガティー小学校はDaniel A. Haggertyという軍人の名前をとっています。この人は1846年のメキシコ戦争 (Mexican War)で最初の犠牲者となった人といわれています。学校などにはその町が輩出した有名な人の名前がつけられるのをしばしばみることができます。

メキシコ戦争は別名、 Mexican-American WarとかInvasion of Mexicoともいわれます。メキシコがスペインから独立したのが1821年。アメリカとメキシコには領土をめぐる覇権争いが始まります。独立間もないメキシコはアメリカに敗れ、カリフォルニアがアメリカに割譲され、リオ・グランデ川 (Rio Grande)が国境となります。

ハガティー小学校のモットーは“While Everyone is Different, Everyone Belongs.”(みんなが違っても、みんなが参加できる)。民主主義の考え方です。学校創設の原点は市民の参加、税金でつくるのです。国には頼ることはありません。ハガティー学校もそうです。教室の中は実に明るく、本やコンピュータ、教材が所狭しと並んでいます。どの教室にもラグが敷かれ、子供は腰を下ろして授業に参加します。壁には子どもの作品がかけられているのは日本の学校と似ています。

日本の教室の造りと大きく違うのは、教室が小さい衝立で仕切られていることです。島がつくられて、グループでの指導が中心なのです。習熟度の違いがグループ分けの基本です。同じ内容による一斉の指導はあまり見られません。

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アメリカの学校は今  その二十八  George F. Kelly School

cpslogofloatleftc bridgesm guildford_1831ボストン(Boston)にあるローガン国際空港 (Logan International Airport) のあたりは住宅地です。ここからダウンタウンの高層ビルが湾の対岸に見えます。このあたりはChelseaという町です。チェルシーと呼びます。いい響きの町ですが、アパートが建ち並び、勤労者が住んでいます。その多くはヒスパニック系 (Hispanic) の住民です。ボストンの町中まで地下鉄で5分くらいの便利さです。

またまた私事ですが、長男はChelseaのアパートからケンブリッジ(Cambridge)にあるハーヴァード大学(Harvard University)に通っていました。嫁はChelseaの小学校一年の担任をしていました。これがGeorge F. Kelly Schoolです。彼女はウィスコンシン大学でスペイン文学の専攻でしたのでバイリンガルです。以前、チリ(Chile)の首都にあるサンティアゴ大学 (University of Santiago) にも留学したことがあります。今は教師をしながら児童文学分野で著作活動をしています。

学校のあたりは、中の下といった大分くたびれた町並みです。ですが学校の建物は真新しく周りと不調和です。学校のモットーは、「未来への架け橋 Bridge to Success」。教室に入ると授業はスペイン語で行われています。彼女のクラスはすべてヒスパニック系の子ども達です。メキシコやプエルトリコ、キューバなど中南米のスペイン語圏諸国からアメリカに渡ってきた移民の子孫というわけです。

午前中はすべてスペイン語で、そして午後は英語での授業です。午前中は、ヒスパニックの助手(Teacher Aid)がいて授業を助けています。クラスには、学習困難な子供も見かけます。助手は主にこうした子供もの勉強をみてやっています。44名の教員のうち10名が特別支援の教員となっています。そのほか、矯正体育、ソーシャルワーカー、言語治療士も常駐しています。教師陣の名前とEmailが公表されているのは、 George F. Kelly Schoolも例外ではありません。

メディアセンターの充実さはコンピュータの数や司書の存在で伺えます。Mac, PCの両方があります。生徒の学習として、Mac上の教材が整っているというのが我が国と違うところです。どのコンピュータもネットにつながっているのは言うまでもありません。個々の子どもにあった勉強では、コンピュータやネットワーク上の教材を使うことが必要だからです。今はiPadが普及しています。

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アメリカの学校は今 その二十七 無料の学校給食から考えること

lunch-serving school20lunch 5987336849_c33b99f38cダウンタウンの学校を訪ねて驚くことの一つは、子供が無料の朝食からその日の学校生活が始まるのを見ることです。貧しい家庭の子供は、家で朝ご飯を食べてこないのです。こうした子供は、無料の昼食も学校で支給されます。この二食でその日に必要な栄養がとれるというわけです。

私の三人の子どももウイスコンシン州(Wisconsin)のマジソン市の学校で無料の給食を受けました。私が無収入の大学院生だったからです。私はアルバイトで懸命に家族を支えていました。税金も払いません。定職がないことを申告すると教育委員会から無料の給食券(lunch coupon)が送られてきます。どんな国籍の子どもでも貰えるのです。この昼食券を手にしながら「この国は、なんとおおらかなのか、、、」と感じ入ったものです。

長男が五年生になったとき、「自分でランチを買いたい」と言い始めました。給食券では、片身が狭く感じるような年齢に達したようです。他の友達のように、自分のお金でランチを買いたくなったのです。アメリカの学校の昼食は、カフェテリアに子どもが集まってきて皆で食べます。自分の好きなものをトレイにとります。今、このランチは2〜3ドルくらいです。ランチのメニューは数は多くはありませんが、栄養がたっぷりです。子供は持っているお金と相談して好きなものを選べるようになっています。

学校での給食風景は、アメリカという国が国境を越えてやってくるすべての子供を平等に扱うという、友愛に満ちたところであることを感じさせてくれます。無料の給食は、連邦政府の初等中等教育法 (Elementary and Secondary Education Act: ESEA)にある「Title I」という低所得者家庭の子弟を支援するプログラムによります。

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アメリカの学校は今 Intermission その二十七 Cultural Studies

_mg_0145 landscape-1464097810-bob-dylan-jerry-schatzberg a8fbef631640965b845ac4e3cd88f747あまり聞き慣れない研究の分野に「Cultural Studies」というのがある。文化学研究とでもいえようか。「地域へと広まっていった文化一般に関する学問研究の潮流を指している」 とある。ハイカルチャーだけでなくサブカルチャー(大衆文化)の研究を重視するようだ。

サブカルチャーという用語を最初に使ったのはアメリカの社会学者のデイヴィッド・リースマン(David Riesman)である。彼は「孤独な大衆」(The Lonely Crowd)という著作の中で、社会的性格は伝統指向型から内部指向型とか他人指向型へと変化すると論じている。リースマンは、伝統指向型の社会的性格は、はっきりと慣習が伝統によって体系化されているため、恥に対する恐れによって人々の行動は動機付けられると考える。

さらにリースマン曰く。内部指向型や他人指向型の社会的性格では、人は行動の規範よりもマスメディアを通じて、他人の動向に注意を払う。彼らは恥や罪という道徳的な観念ではなく不安とか寂しさによって動機付けられるのだと。この考えは仮説だろうと察するが、一考に値する。

ハイカルチャーを享受するには相応の教養や金と時間が必要であった。だが、大衆が実力を持つのは20世紀。大衆社会においては、高等教育を受けた人々が増加し、ハイカルチャーも一般の人々が楽しむことができるようになった。絵画であれば、美術館に足を運ばなくとも美術書などで見られるし、音楽も演奏会に行かなくともラジオ・テレビ・CD・インターネット上で気軽に楽しむことができるようになった。現代は、いわばハイカルチャーの大衆文化時代といえる。要は、Cultural Studiesとは以上の現象をもっと難しく研究する分野のようだ。

Bob Dylanの歌詞は大衆文化の典型のように分かりやすい言葉を使っている。だが、その歌詞の意味は誠に深い。ノルウェー・ノーベル委員会はそれを評価したのだろう。

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アメリカの学校は今 Intermission その二十六 文化の回帰ということ

hqdefault p01gd62s imgres images4Bob Dylanの話題から、過去のブログで綴った「文化の回帰」という拙文を読み起こしています。以下は2014年8月に掲載した駄文であります。ご笑覧くだされば幸いです。

大衆文化と呼ばれるサブカルチャーのメインカルチャーへの挑戦は至るところに現象として現れた。1960年代である。当然のようにメインカルチャーと考えられた歴史とか古典に対する強い関心と畏敬は、サブカルチャーの側からすると一種の審美的文化観とされて、時に「マニア」、「おたく」といった独特な行動様式として揶揄されることもある。しかし、おたくの本人は「伊達や酔狂」と自負するようなところがあって、こうした人々はむしろ孤高のような存在感を楽しむようなところもあるようだ。

サブとメインの境界が曖昧になったということは、その逆転現象がうまれてきたということかもしれない。例えば、活字文化は今もそうかもしれないが、メインカルチャーの旗頭であった。だが、なにもかも電子媒体としてメディア界に急速に広がるのが現在。書籍の売り上げた伸びないのは、電子媒体の流通と普及と逆相関があるようだ。多くの書類、卒業論文、研究論文は電子媒体で提出しなければならない。悔しいことだが、手書きの論文は受け付けてくれない。

「子供たちは夏目漱石や森鴎外を読まないのではない。読めないのだ」ともいわれる。漢字能力の低下が一因だというのである。手書きできない。それで電子辞書を使い携帯電話サイトから「ケータイ小説」を作る。「書く」のではない。漢字が書けなくても小説が書けるという時代になった。「話し言葉が中心なので親近感があり、一文一文が短く読みやすい」という新しい文化観もそこにある。

技術革新に伴う諸々の変化は、もはや後戻りができない。革新が続くだけだ。だが、電子媒体にも寿命がある。記録したデータを保持できる期間は有限である。読み込みの処理がなくとも経年により媒体は劣化していく。そしてデータが読めなくなったり消失したりする。自分もその苦い経験はある。もっとも機械的な寿命の問題だったが、、、、

活字文化がサブカルチャーか、メインカルチャーかという議論はなにか不毛な感じもする。だが分かっていることは、サブとメインの逆転、そのまた逆転も起きうることである。今や「アングラ」も「ヌーヴェルヴァーグ」という表現に出会うことはない。文化の論争は意味がなくなっているからだろう。文化の回帰現象は、統計で使うように平均とか元の状態に近づく、あるいはそれを繰り返すということであるようだ。

活字文化プロジェクトが各地で盛んになり、活字文化推進会議とか活字文化推進機構もできた。電子媒体文化とのせめぎ合いのようだが、両者が共存することも文化ではないかと思うのである。
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アメリカの学校は今 その二十五 Intermission サブカルチャー

NOVEMBER 1961:  Bob Dylan recording his first album, "Bob Dylan", in front of a microphone with an acoustic Gibson guitar and a harmonica during one of the John Hammond recording sessions in November 1961 at Columbia Studio in New York City, New York. (Photo by Michael Ochs Archives/Getty Images)

NOVEMBER 1961: Bob Dylan recording his first album, “Bob Dylan”, in front of a microphone with an acoustic Gibson guitar and a harmonica during one of the John Hammond recording sessions in November 1961 at Columbia Studio in New York City, New York. (Photo by Michael Ochs Archives/Getty Images)

250px-joan_baez_bob_dylan2014年8月11日のこのブログで「文化を考える その4 サブカルチャー」と題する駄文を掲載しました。次のような内容でした。

1960年代のサブカルチャーを誘因する大きなきっかけとなったのは、ベトナム戦争である。既成の体制やハイカルチャーに対して主として若者が怒りだす。主流の文化であるメインカルチャーの地位が揺るぎ出すのである。それまでサブカルチャーとして卑下されがちであった現象が次第にそ認知されていく。このことはメインとサブの境界を曖昧にしていくことを意味する。

音楽の世界ではビートルズのジョン・レノン(John Lennon)、ボブ・ディラン(Bob Dylan)、ジョーン・バエズ(Joan Baez)、ピーター・ポウル・メアリー(Puter, Paul & Mary-PPM)などである。彼らの、自由と平和を訴えるメッセージは若者だけでなく広く大衆に受け入れられていく。映画の世界でも芸術性の高い作品に混じって、大衆娯楽に徹するものとが共存していく。「ヌーヴェルヴァーグ」と呼ばれる”新しい波”の映画も制作される。大島渚の「愛のコリーダ」は既成の概念を打破するような演出だ。演劇もそうだ。アンダーグラウンド(Underground-culture)とかカウンターカルチャー(Counter-culture)と呼ばれ、反権威主義的な文化の芸術運動が広まった。それまで認知度が低く、水面下での活動がやがて社会的な地位を確立していく。

漫画やアニメはかつてはサブカルチャーだったが、今やすっかりメインカルチャーとして不動のものとなった。ビデオ・オン・デマンド(VOD)が有線テレビジョン(CATV)で提供されている。「一億総白痴化」 、「駅弁大学」といった造語の大家、大宅壮一には今の社会状況がどのように写るのかは興味ある話題である。彼が生きていれば一体どんな流行語を使うだろうか。

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アメリカの学校は今  その二十四  Shorewood Hills Elementary School

6393805-unitarian_church-0 65443863 horse-kids-1 mcgruff-cycle-2この学校は私の三人の子供が卒業した小学校です。ウイスコンシン州(Wisconsin) マジソン市(Madison) の隣にあります。学校は、Village of Shorewood Hillsというれっきとした自治体の中にあります。閑静で高級な住宅街で、理事会 (Board of Trustees) がこの村を運営しています。村税、警察、道路、公園、水道、清掃などの業務です。その隣にはウイスコンシン大学の外国人研究員住宅地、そして大学院生の家族世帯が住む地域が広がります。Shorewood Hillsの子供はこの三つの地域から通ってきます。

この学校には非英語圏の国々からきた家族の子供が大勢学んでいます。大学院生の多くは外国からです。ですから地元Shorewood Hillsに住む子供は、いわば少数民族、というわけです。この学校にはニックネームがついています。それは「小さな国際連合- Small United Nation」というのです。子供の国籍や民族がさまざまなのです。40以上の国々から生徒はやってきます。ほとんどの子供の親は、研究者か大学院生です。

多様な背景を有する子供を指導する先生はさぞかし大変だろうと思いきや、スタッフは長年、こうした子供の指導に慣れています。当たり前のように子供達を上手に扱っています。非英語圏の子供に英語を教えるプログラムも優れています。スタッフは、子供の家庭が教育に対して熱心なことを知っています。Shorewood Hillsの住民も、自分の子供が異なる国々から来る子供たちと学ぶのはとてもよいことだと考えています。それに大都会の学校とは違って実に安全な学校です。

保護者は自分の担任の先生を選ぶことができます。校長に対して、「Smith先生に担任をお願いします」という具合です。大抵は希望どおりに先生をつけてくれます。私も、周りの人から指導に熱心なある先生のことを聞いていたので、三人の子供がこの先生から指導を受けることができました。この先生は二年生の担任でした。一度お礼を兼ねて自宅に招き食事をしたこともあります。

アメリカの学校は今  その二十三 Keaukaha Elementary School

webster5 keaukaha webster3 map_hawaiiハワイ最大の島ハワイ島(Hawaii Island)にある小学校を紹介します。今回は、Keaukaha Elementary Schoolです。呼び方は「キウカハ小学校」とでもしておきましょう。これまでハワイの私立学校を三つ紹介しました。ですがハワイの大多数の学校は公立学校です。

ハワイ島は通称Big Islandと呼ばれ、ホノルルから飛行機で50分位のところに位置する火山の島です。ここには、4,200メートルのマウナケア (Mauna Kea)という山頂に各国の機関が設置した天体観測所があります。我が国も国立天文台ハワイ観測所に有名な大型光学赤外線望遠鏡の「すばる」を建設して星の誕生や死、銀河の衝突、宇宙の膨張などの現象を調べています。この島は、日系人によって開拓された島で、ヒロ市内にHawaii Japanese Centerがあり、開拓の歴史が展示されています。

キウカハ小学校はハワイ島の中心ヒロ (Hilo)にあります。ハワイ島のどの学校も気候に合わせているせいか、廊下は吹きさらしになっています。キウカハ小学校もそうです。建物の多くは木造です。教室内はもちろん冷房が効いています。校庭は椰子の木がそびえています。教職員の服装はムームー (muumuu)やアロハ(aloha) 姿です。そして名前からして日系の職員が目立ちます。

この小学校は幼稚部から6年生までの学校です。訪問したときの校長はMs. Katherine Websterという女性でした。彼女から、一緒に訪問した障害児教育専攻の教師6名に対してハワイの障害児教育の講義を受けました。通常、小学校の校長は障害児教育にはあまり詳しくはないのです。Ms. Websterは違いました。全障害児教育法(Education for All Handicapped Children Act of 1975)や指導法に至るまで、その博識に驚きました。

外は暑いので子どもの姿は見かけません。校庭は広くはありません。冷房が効いた体育館での運動が中心です。コンピュータは実に素晴らしく完備されていました。多くの島から成り立つ州だけに遠隔教育とか遠隔学習が盛んなのです。
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アメリカの学校は今  その二十二 スクールバス

tumblr_lylzltkjmc1qewb27o1_1280 school_main school-bus-car-that-didnt-stopアメリカやカナダの多くの子供達もスクールバスを利用します。バスは目立つ黄色で大分古そうなデザインの車体です。これがとても丈夫に作られています。高校の校区は広いのでスクールバスの路線もいろいろあります。始業前、放課後、そしてクラブ活動終了後に生徒を送迎します。

ほとんどのバスのエンジンは前方にあり、車体は高くてどこからみてもすぐわかります。運転手は手動でぐいとレバーを回してドアを開けます。スクールバスでの生徒の乗り降りには、生徒を護るために厳しい規則があります。このバスを見かけたときは、他の自動車は注意しなければなりません。生徒が乗降中は、運転席上部と後部のライトが点滅します。バスの両側には【STOP】と書かれた赤い八角形のサインボードが出ます。この間、後続の車はバスを追い越してはいけません。中央分離帯がない場合は、対向車も停止して生徒の乗り降りを待たなければなりません。バスの後部には「Don’t Pass When Signals Flashing」というサインがついています。

こうしたスクールバスを利用する者の安全を護る規則をがいろいろとあります。1939年にU.S. Federal Motor Vehicle Safety Standardsという規則が定められます。これを少し紹介します。なんといっても車体の頑丈さが要求されます。他のバスは黄色を使ってはならないこと、万一の事故で横転しても車体がクラッシュしないこと、横転したときなど、窓枠から生徒が投げ出されないこと、非常ドアが閉まっていないときはアラームが鳴ること、座席の間隔を狭めること、夜間のために蛍光色のテープを貼ることなどです。

最も歴史が古いバスの製造会社はWayne Corporationという企業です。1837年に最初のスクールバスを製造し、今や北米最大の製造会社となっています。この黄色いバスは、遠足や社会見学などでも生徒を運びます。またスポーツ活動でも選手らを運ぶのに使われます。どの州でも郡でもスクールバスは民間の会社が経営しています。

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アメリカの学校は今 その二十一  Assets School

0 img_5680-e1435167747649 paul-and-volunteers再び、ホノルル市内の学校の紹介です。ホノルル国際空港や真珠湾(Pearl Harbor)の近くにあるアセッツ・スクール (Assets School) を紹介します。この学校も「Kamehameha」 と同様に私立学校です。特に書字や読字に困難を抱える生徒が多数学んでいます。興味あることに英才児もいます。こうした生徒が普通の生徒と一緒に学ぶ授業のことを一体化教育ーインクルーシブスクール(Inclusive school)といいますが、この学校は一体化教育を地でいくところに特徴があります。

もともとこの学校は真珠湾にある基地に住む子供たちの学校でした。やがて誰もが入れる学校となりました。この学校には幼児教育から高校までの課程があります。このことを略して「K-12」、つまり幼稚園から高校までということです。生徒全員で350名の小さな学校です。

この学校のマスコットは海亀(honu)です。広い海を悠々と優雅に泳ぎ、あくせくしないで、いつも冷静に行動しようとする亀に学ぼうとする姿勢を意味しています。

小さい学校であるが故に、学校経営には企業や団体、同窓生、保護者などからの寄付が大事です。寄付の呼びかけには、「車を提供してください」、「コンピュータを寄付してください」というのもあります。学校を支えるのは地域であることは、校庭に現れています。「この木なんの木、気になる木、、、」というコマーシャルソングにあるガジュマルのような大木の下にすばらしい木製の遊具施設が並んでいます。校庭はもちろん全面芝生です。

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アメリカの学校は今  その二十   Elizabeth Hall International School

franken2 reading_circle img_1146_2Elizabeth Hall International Schoolは、ミネアポリス(Minneapolis)のダウンタウンの近くにある典型的な小学校です。典型的という意味は、多様な人種の子供が学ぶこと、その多くは経済的に恵まれない子供が多いということです。全児童の7〜8割をアフリカンアメリカン(African Americans)で占めています。

学校のスタッフは、子供の家庭状況などを反映して教師の他に言語治療士、(Occupational therapist: OT)、Physical therapist: PT)、音楽、学校心理士、矯正体育教師、メディアスペッシャリスト (Media specialist)がそれぞれ1名、ソーシャルワーカー(Social worker)が2名常駐しています。

不適切な行動や言語の問題を引き起こす児童もいます。私どもがこの学校を訪問したとき、事務室の前で2名の男児が立たされていました。後で理由を尋ねると女性教師に対する侮蔑的な発言をしたとのことでした。

そうした児童を一時待避させるタイムアウト室 (Timeout)もあります。タイムアウト室とは珍しいです。この教室の大きさは、幅と奥行きが3m*10m位です。窓が1箇所あり室内の中央に児童用の椅子が1脚置いてありました。ここで「しばし心を静め反省、、」させられるというわけです。

教師の不足が続き、介助教師 (Teacher aids)を雇っています。その数は11名でこれは全教職員の1/3にあたるそうです。3-4年生の混合クラスの授業では4人の教師(主1、サブ3)で7人の児童を指導しています。特別支援教育用の教室には教師の他に介助教師が1人、言語療法士も1人常駐しています。

時間割の中に「Rules」という科目もあります。日本でいう「基本的生活習慣」に相当するようです。社会的スキルの指導が目的のように感じられます。日本の道徳教育とは、質的に異なるようでした。ソーシャルワーカーは、子どもの不適切な行動に対する停学通知書の作成なども行うというのですから、随分と我が国とは事情が異なるものです。

児童の指導で苦心している学校のようですが、最近、国際理解教育の活動が活発となり、国際バカロレアプログラムを実施するという教師の努力が伝わる話題で注目されています (International Baccalaureate Primary Years Programme: IB-PYP) 。学校の新しい試みは生徒のダイヴァーシティによってできるのでしょう。

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アメリカの学校は今  その十九 Hiawatha Community School

mrt cargill-1459773566 ty8431926040023ミネアポリス市(Minneapolis) はミネソタ州(Minnesota)一の大都市。隣が州都セントポール市(St. Paul)でこれを併せて双子の町(Twin Cities)と呼ばれています。プロ野球のチーム名がTwinsですね。昔の氷河でできた多くの湖が点在しています。湖が多いので蚊が無数に飛んでいます。そんなわけで、「」ミネソタの州鳥はモスキートだ」という冗句があります。

ミネアポリスはミシシッピー川(Mississippi River)とミネソタ川(Minnesota River) が合流し、昔から穀物の交易で栄えてきました。この町はかってのノースウエスト航空 (Northwest Airline)や精密機械のハネウエル(Honeywell)等の本社がありました。ノースウエスト航空はデルタ航空(Delta Airline)となりアトランタ市(Atlanta) に本社があります。ミネアポリスはデルタ航空のハブ空港となっています。ハネウエル本社はニュージャージー州(New Jersey)に移りました。今は、穀物市場で有名やカーギル (Cargill)の本社がミネアポリスの郊外にあります。

町の中には大きな製粉工場などが目立ちます。1860年頃から主に北欧からの移民がやってきます。気候が似ていたからです。そのほか、オランダやドイツ、イタリアなどからも多くの移民が定住して発展してきました。その後アフリカ系やアジアの人々も職を求めて定住しました。

Hiawatha Community Schoolの話題です。「Hiawatha」は先住民族の一つであるモホーク族(Mohawk)の言葉で「戦士」という意味です。モホーク族は農耕民族ともいわれ、モホーク刈りと呼ばれる独特の髪型をしていたようです。さて、学校には幼稚部から5年生約300名が学んでいます。学校のあたりは、いろいろな民族の人々が住んでいます。貧しい家庭の子どもたちは、朝食と昼食の無料給食サービスを受けています。私たち見学者も朝食をいただく機会に恵まれました。大きなハンバーグ、フレンチフライ、牛乳です。ケチャップの袋が山盛りになっています。子供たちには、まずは腹を満たしてから学習させようとするのです。子供の中には白人もいます。服装も貧しく髪をとかしていないためか、すさんだ印象を受けました。
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アメリカの学校は今 その十八 サクラメントの学校(2) A. Warren McClaskey Adult Center

mcclaskey_0 delta-king-old-sacramento static1-squarespaceカリフォルニアの州都サクラメント (Sacramento) の人口は47万くらい。中都市といった規模です。ここの学校区教育委員会はUnified School Districtと呼ばれています。周辺の小さな町を統合して教職員、施設設備、予算を管轄しています。今回紹介するサクラメント市内の学校は発達障害者の成人教育機関、「A. Warren McClaskey Adult Center」です。恐らく、Warren McClaskeyという市民が教育委員会に多額の寄付をして造られたものと思われます。

このセンターは教育委員会が運営する発達障害者の職業訓練教育機関です。高校教育の延長となっていて、生涯教育施設ともいわれています。アメリカでは幼児教育から職業訓練にいたる教育は全て教育委員会の管轄です。ほとんど無料で職業訓練のサービスを受けることができます。

障害のある生徒も通常の高校で学習するのですが、それだけでは職業上の自立に至らない場合が多いのです。そのためにこうした訓練機関が存在します。一市民として地域社会で生活するためのスキルを身につけ、仕事について自立的な生活ができるように支援されるのです。

センターではいろいろな訓練プログラムを観察できます。例えばレストランのウエイターやウエイトレスになるための訓練です。清潔な服装、テーブルの用意、あいさつの仕方、座席への案内、注文の取り方、サービスの声かけ、チップの受け取り方、レジの扱い方などなど興味ある訓練を受けています。私たち教員一行もテーブルに座らされて訓練に参加し、おかげで無料の昼食をいただきました。訓練の成果でしょうか、生徒の対応も堂に入っておりました。チップも渡しました。

訓練の合間に余暇時間を過ごす空間があります。センターの側にある住宅を借りています。生徒は三々五々集まっては、珈琲を飲んだり、本を読んだり、ゲームをして余暇を楽しみます。そこの事務室には、訓練生一人一人の訓練プログラムのファイルがあります。個別の就労計画といった内容です。複数の教職員が訓練生の能力やスキルに合ったプログラムを作りそれに基づいて指導しています。ジョブコーチ (Job coach) はこうしたセンターでは欠かせない存在です。
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アメリカの学校は今  その十七 サクラメントの学校(1)

b95ac3fa61460082b560e1ba0bb8cf3cbcf487ba_600 maxresdefault sacramentoサンフランシスコ (San Francisco)から車で金門橋 (Golden Gate Bridge)を渡り北上するとブドウ畑が広がるナパ・バレー(Napa Valley)があります。景色は素晴らしくワインも美味しいです。そこから東へ向かうと州都のサクラメント(Sacramento)に着きます。サクラメントは元々ゴールドラッシュで人々が集まって発展したといわれます。穀物の集散地としても栄え、今も教育、文化、商業の中心となっています。西部開拓時代の街角は保存されていて、そこの店に入ると映画の世界のような気分を味わえます。

サクラメントの学校を兵庫教育大学の教師である大学院生10名とで訪問したことがあります。お世話になったのはカリフォルニア州最高裁の判事をしていたチャールズ・コバヤシ(Charles Kobayashi)という方と奥様です。お二人とも日系2世です。

西海岸に移民した日本人は皆懸命に働き、子どもたちに教育を授けて今の地位を獲得したことが伺えます。コバヤシ氏はその見本のような方です。今も多くの日系アメリカ人が活躍しています。コバヤシ氏はサクラメントの日系メソジスト教会 (Sacramento Japanese United Methodist Church) の長老をされたり、日系人のためのグループホームの建設で尽力されていました。奥様の兄弟は、かつてヨーロッパ戦線でハワイの日系アメリカ人で構成された第442連隊戦闘団(442nd Regimental Combat Team)にて活躍したそうです。

コバヤシご夫妻の娘であるLaura Ashizawaさんは、かって私が勤めていた国立特殊教育総合研究所を訪ねてこられたことがあります。それから今までご両親とも交際が続いています。彼女は隣の郡の特別支援教育の教師をしていました。お二人の息子さんが発達障害の診断を受けています。

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アメリカの学校は今  その十六  フェアファックス学校区

special-needs the-long-history-of-fairfax-county-public-schools-bojbakg still0706_00017_1467848904722_1518378_ver1-0首都ワシントンDC(Washington D.C.)の西南を流れるポトマック川 (Potomac River) を渡るとヴァジニア州(Virginia)に入ります。ポトマック川はチェサピーク湾 (Chesapeake Bay) に流れます。ヴァジニアの州都はリッチモンド(Richmond)といいます。もともとアメリカ南部連合 (Confederate States of America), 南軍の首都です。ヴァジニア州最大の学校区フェアファックス郡(Fairfax County Public School: FCPS)の学校が今回の話題です。

フェアファックス学校区の生徒数は186,000人。全米の学校区で12番目に大きな規模です。生徒の人種背景ですが、白人とそれ以外の民族は約半々となっています。28%の生徒が無料か割引の給食を、17%の生徒が英語補助授業を、13%が特別支援教育を受けています。矯正教育を含むオータネティブ・スクール(Alternative schools)が3カ所、そして特別支援教育センターが8カ所あります。

首都の隣だけにフェアファックスには、日本企業も沢山進出しています。そのせいか日本語教育も盛んに学校で行われています。時には、企業からの寄付がこうしたプログラムを支えています。企業や地元の団体などから金品の寄付を受けて、学校のプログラムを展開するのはアメリカの学校の特徴の一つです。校長の役割も大です。校長というのは、校務の統括の他に地域にある企業、ライオンズ(Lion’s Club)やロータリークラブ(Rotary Club)などをまわって学校の活動を紹介し寄付を集めるのも大事な仕事です。

どの学校にもコンピュータは整備されて、授業や個々の生徒の学習に使われています。しかもあらゆるコンピュータも無線ランでつながっています。電子黒板やプロジェクタを使うのも日常的な姿です。どのクラスにも電子黒板が設置されているのは、この機器の効用を教育委員会は知っているからです。黒板がコンピューターのタッチパネルとなるのですから便利です。

校長などからの連絡は、メールや電子掲示板でやってきます。いつもネット上での記事を確認するのがフェアファックスの教師です。職員室というのはありません。

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アメリカの学校は今  その十五 ニューヨーク市立第165小学校

report-complaints-about-violence-in-new-york-schools-are-at-an-all-time-high larger 1280px-friends_meeting_house_-_new_york_city兵庫教育大学にいたとき、教員の大学院生を連れて北米のいろいろな学校を視察してきました。ニューヨーク市にも行きました。ニューヨーク市立大学 (Queens College of The City University of New York: CUNY) の近くにある市立第165小学校が今回の話題です。

ニューヨーク市は、「4人に3人が移民であり2人に1人が英語を母国語としない」といわれています。その大半は移民がです。ニューヨーク市は、アメリカ最大の生徒数を擁する巨大な学校区 (New York City Department of Education: DOE)です。学校は小学校から高校まで1,800校位あります。ニューヨーク市教育委員会のサイトは12か国語で作られています。日本語のはありませんが、、、

第165小学校は塀に囲まれ、警官が常時巡回しています。このような光景は珍しくはありません。大都会のダウンタウンにある学校はたいていの場合、公立学校です。そして多くの子どもは複雑で貧しい家庭環境にあるようです。

ほとんどの小学校で英語の補習授業プログラムが用意されています。第165小学校もそうです。アメリカ社会で最低限必要とされる基礎能力を習得させるためです。そのための予算や教員の確保がいつも話題となります。学校内にはネットワークに接続されたコンピュータが揃っています。ITリテラシーは小学生にも強調されるカリキュラムです。どんなに貧しい子どもが通っている学校でもIT関連の設備はしっかりしています。ITのスタッフも必ず常駐しています。それと図書館の充実も目立つことです。

第165小学校の生徒数は760名。教師と生徒の割合は10対1。アジア系が53%, ヒスパニック系が19%となっています。無料か割引の給食を受ける生徒は69%とあります。教師も様々な民族の背景を有しています。案内してくれた一人の教師は自信に溢れた態度でした。このとき残念ながら生徒の姿は写すことができませんでした。

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アメリカの学校は今  その十四 チャーター・スクール(Charter Schools)

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WASHINGTON, DC - FEBRUARY 20:   (FILE PHOTO)  Shannon Woisnet, 7-years-old, from Cleveland, Ohio, holds up a sign in support of school vouchers in front of the U.S. Supreme Court February 20, 2002 in Washington, DC. The U.S. Supreme Court, in a 5-4 ruling, upheld the Cleveland, Ohio school voucher program June 27, 2002 which allows families to use publicly financed vouchers to send children to religious schools.  (Photo by Mark Wilson/Getty Images)

WASHINGTON, DC – FEBRUARY 20: (FILE PHOTO) Shannon Woisnet, 7-years-old, from Cleveland, Ohio, holds up a sign in support of school vouchers in front of the U.S. Supreme Court February 20, 2002 in Washington, DC. The U.S. Supreme Court, in a 5-4 ruling, upheld the Cleveland, Ohio school voucher program June 27, 2002 which allows families to use publicly financed vouchers to send children to religious schools. (Photo by Mark Wilson/Getty Images)

charter 08charter-600今回は、幼児から15才の児童生徒を対象とした教育をしているチャーター・スクール(Charter Schools)のことです。チャーター・スクールというのは、いわば半官半民のような運営の学校です。民間の人々が学校の設立に関わり、州政府がこれを認可するのが普通です。カリキュラムは独自で特色のあるものとするのが売りです。州政府が決める教育課程や規定に拘束されないという特徴があります。いわば特区の学校といえます。「Charter」とは「契約」といったような意味です。

コロラド州にあるNew Visions Charter Schoolのモットーは「Chance to Grow」。成長への挑戦とでもいいましょうか。現在は州からの援助を受けています。公立学校の場合、生徒一人当たりの州からの補助は9,000ドル、チャーター・スクールの場合は6,000ドルあまりとなっています。従って、多くのチャーター・スクールは地元からの寄付にも頼っています。この学校の授業料は幼稚園を除いて無料となっています。カリキュラムに特色があるために、公立の校区にあってもこの学校を選ぶ市民多く、入学はくじ引きとなっています。

この学校のカリキュラムは、子供に高い学力をつけさせるということに尽きます。そのため、Core Knowledgeというアメリカ史を中心としてアメリカの地理、歴史、文化を系統的かつ総合的に教えることを謳っています。しかも一クラスサイズは20名以下で運営されています。市民の学校に対する期待も高く、ボランティアも多く学級に入っています。自分たちで創った学校という市民の意識の高さが感じられます。

通常、チャーター・スクールは3年毎に教育成果が評価されます。成果の評価は、教職員に対して、教育の質の向上という動機を与えています。評価が低いと州からの補助が減らされたり改善勧告がでたり、廃止に追い込まれたりします。

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アメリカの学校は今  その十四  Queen Lydia Lili’uokalani Elementary School

big_thumb titlei 220px-liliuokalani_holding_parasol_at_washington_placeハワイの州都はホノルル(Honolulu)。オアフ(Oahu)島にあります。ホノルルの東郊外にある公立学校、Qween Lydia Liliwakalani Elementary Schoolが今回の話題です。ハワイ王朝のかつての女王Lydia Liliwakalaniという人が寄付して1912年に創立されたとあります。この学校の付近はやや寂れた感じがするところです。

もともと貧しい家庭の子供に対する教育、という理念をこの女王は抱いてきたといわれます。今日、こうした子供への教育は連邦政府が膨大な資金を各州に提供しています。このプログラムを通称「Title I 」(タイトル・ワン)と呼びます。全米の90%以上の学校がこの支援を受けています。例えば、移民の子供への英語教育、障害が予想される、あるいは障害がのある子供への教育や給食サービス、虐待を受ける子供への支援、未婚の母親教育などがこの基金によって支えられています。Qween Lydia Liliwakalani Elementary Schoolもこの「Title I 」によって教育サービスを受ける子供が大勢います。

現在Qween Lydia Liliwakalaniでは120名くらいの子供がが学んでいます。そのうちハワイアンの子供がが80%を占め白人が13%という構成になっています。全生徒の45%が無料あるいは減額費用での給食サービスを受けています。教師と生徒の割合ですが、正規教員一人あたり平均12名となっています。ハワイ全体の平均は16名ですから結構いい割合です。手のかかる生徒が多いのが少人数学級の理由と考えられます。ワイキキ・ビーチ(Waikiki Beach)やアラモアナ・ショッピングセンター(Ala moana Shopping Center)の賑わいの陰に、貧しい家庭の子どもが学ぶ姿が隠れています。

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