旅のエピソード その28 「万里の長城と検閲」

北京と上海にそれぞれ一度行きました。同窓生である留学生のSHさんを頼っての研修旅行です。こうしたコネクションによって、旅は円滑につつがなく進むものです。留学生は富山大学を卒業後、兵庫教育大学院を修了し、広島大学院博士課程を終えた異色の中国人です。今は成都市の大学で教えています。

SHさんですが留学中はあちこちで中国語を教え、生計を支えていました。ご家族とで兵庫県の加西市に住んでいました。中国人の奥様はアパレル関連の会社に入り、社長の秘書として頻繁に北京や上海を行き来していました。ご子息は加西市の小学校に入り、その優秀さは抜きんでていたようです。

北京にいきますとSHさんが空港に迎えにきてくれました。ミニバンをチャーターしてくれてホテルに向かいましたSHさんのお父さんは、かつては中国政府の経済担当の上級公務員であったようです。高度経済成長の最中、日本にたびたびやってきては日本の経済成長の姿を調べていたというのです。鉄鋼会社やその工場をまわり経営の実態をつぶさに視察したそうです。

SHさんのお父さんが我々一行を夕食会に招待してくださいました。紹興酒を何度も酌み交わしました。北京ダックも食卓に並びました。今は引退されて年金で悠々自適の生活を送っていると話されていました。日本での調査のことについてもエピソードを語ってくれました。

翌日、ミニバンに乗って万里の長城へ向かいました。到着すると警察が車を一台一台調べているのです。許可をもらって万里の長城に来たかを調べているのです。そこに日本人学生を乗せた別のミニバンが来ました。その運転手は許可をもらっていなかったようです。多額の罰金を科せられるそうです。SHさんは我々のためにきちんと許可をもらっていたので、なんのお咎めもありませんでした。中国の検閲体制を垣間見た旅でした。

周りに観光客がいないのを見計らい万里の長城の上を、100メートルほど走ってみました。長城のもう一つの思い出といえば素朴なトイレでした。同行していた家内ら女性は面食らったようです。

旅のエピソード その27 「ハワイの日系アメリカ人」

日系アメリカ人の活躍は前々回に少し述べました。ハワイに移民した最初の人々は一世(Issei) 、そして今や四世(Yonsei)から五世(Gosei)へと受け継がれます。ちなみに、こうした単語はすっかり英語として定着しています。

日系アメリカ人は、長い間偏見と差別に苦しみました。そのために生活も苦しかったようです。懸命に働き、教育を大事にし、善良なアメリカ市民になろうと努力しました。ハワイ大学より兵庫教育大学に客員研究として招いたカーティス・ホー(Dr.Curtis Ho)教授は、中国人と日本人との間に生まれた方です。小さな島で育ち、やがて奨学金をもらい本土の大学で学び、研究者となりました。父親は厳しい労働に従事し、稼いだお金を彼の教育のために注いだそうです。

日系人がアメリカ社会での地位を確立するには、「勤勉な働き者」「清潔好き」「礼儀正しい」「約束をきちんと守る」といった矜持の定着が必要でした。こうして日系人は確実に善良な市民としてのイメージをアメリカ社会に定着させていきます。

日系人の活躍です。1963年にダニエル・イノウエ氏(Daniel Inoue) が初の日系上院議員となります。ジョージ・アリヨシ氏(George Ariyoshi) が1974年に第3代ハワイ州知事に就任することで、日系人の地位や役割が不動のものとなります。1978年 エリソン・オニズカ氏(Elison Onizuka) が日系人として初の宇宙飛行士に選ばれます。ですが、乗り込んだチャレンジャー(Challenger) が爆発し亡くなります。1988年には、第40代のロナルド・レーガン(Ronald Reagan)大統領が、大戦中に人種差別政策により日系人を強制収容所に連行した歴史に謝罪し、一人につき2万ドル(約200万円)を補償したのは目新しいことです。

旅のエピソード その26 「マウナ・ケア山とすばる」

ハワイ島は火山の島です。そこには広大な国立公園があり、沢山のハイキングコースがあります。その総延長は150マイルといわれています。230キロくらいでしょうか。今も火山が活発に活動しています。噴火の跡の溶岩(ラーバ)はまだ弾力があって、足の裏に伝わってきます。風で運ばれた種が育ち、あちこちに草木が地面を覆っています。ビジターセンタを訪れると、大噴火のすさまじさが映像と写真で紹介されています。最近の大噴火は1984年に起こりました。

ハイキングコースを歩きますと、噴煙や蒸気が沸き上がっています。歩く途中では、水平線から水平線にまたがる完全な半円形をした虹をみることができます。日本では見られない光景です。

島最大の街ヒロ(Hilo)から四輪駆動のワゴン車を借りて、島の最高峰マウナ・ケア山(Mauna Kea)4200メートルに向かいました。マウナ・ケアの山頂付近は天候が安定し、空気が澄んでいます。晴天日は年間300日にのぼるといわれます。世界11ヶ国の研究機関が合計13基の天文台を設置しています。日本の国立天文台が1999年に設置した光学赤外線望遠鏡の「すばる」もここにあります。天文台からのデータは、山裾にある研究施設に送られ分析されています。

事前に三鷹にある国立天文台から見学許可をもらい、兵庫教育大学の院生らとでこの国立天文台を見学する機会を得ました。中の施設に案内されたのですが、同行した院生には理科の教師がいて、天文台の偉容に圧倒されたようでした。

旅のエピソード その25 「日系アメリカ人の博物館」

1885年1月、最初の日本人移民944人が農業労働者としてハワイに到着します。その後沖縄も含めて各県から多くの日本人がハワイにやってきます。ハワイ島は別名Big Island。ホノルルから飛行機で1時間のところにあるハワイで最大の島です。この島で一番大きな街がヒロ(Hilo)です。ハワイ島もまた日系人が開拓したところといわれています。

ヒロの街の中に日系アメリカ人が建てた小さな日本人センター(Hawaii Japanese Center)があります。人々が持ち寄った貴重な品々、写真などが展示されていて、小さな歴史博物館ともなっています。山本五十六連合艦隊司令官が率いる艦船が寄港したときの写真、第二次世界大戦中、合衆国陸軍に志願し、ヨーロッパ戦線で勲功をあげた日系アメリカ人のみで編成された442連隊のメンバーの写真などが飾られています。

太平洋戦争によって大多数の日系アメリカ人は、アリゾナ州(Arizona)やワシントン州の僻地に建てられた収容所に移されます。442連隊のメンバーもこうした収容所から志願してヨーロッパ戦線に向かいます。戦後、日系アメリカ人はアメリカ社会の中に日本に対する信頼を築く役割を果たします。日系アメリカ人の政治家、実業家などが輩出していきます。その一人が、ハワイ選出の上院議員、ダニエル・イノウエ(Daniel Inoue)です。戦場で負傷して片手を失う経験もします。

こうした人々の働きが、高度経済成長期期における日本企業のアメリカ市場への進出に大きく貢献することになります。アメリカの国勢調査によると、日系人の特徴として「高所得」、「高学歴」、「低失業率」、「低貧困率」が挙げられています。このうち所得と学歴については、白人の平均や全米平均よりは明らかに高く、貧困率については全人種の中でも低いといわれています。

博物館の話題に戻ります。ここには歴史のある貴重な本や昔の新聞、写真などがたくさんあります。展示物の中に歴代天皇の写真があります。明治天皇や昭和天皇の写真に混じって、神武天皇の写真もあるのです。日系アメリカ人の日本に対する想いと天皇に対する深い畏敬の念をこの写真から感じたものです。

旅のエピソード その24 「マウントバーノン」

「マウントバーノン」。なんとものんびりする響きです。英語ではMount Vernonというスペルです。全米各地にマウントバーノンという街が沢山ありますが、その中でも最も知られているのが、ワシントンDCの南、車で1時間のバージニア州(Virginia)のアレクサンドリア(Alexandria)にあるマウントバーノンです。

マウントバーノンは、合衆国初代大統領ジョージ・ワシントン(George Washington)の農場(Plantation) や邸宅があります。邸宅は、新古典主義ジョージア調建築様式と呼ばれる木造の建物です。ジョージア調建築とは、建物がシンメトリー(左右対称)を基本としていることです。その東側にはポトマック川 (Potomac River) が控え、周りは広い農場が広がります。いまは国が定めた歴史的建造物として保存され、全米からの観光客が訪れるところです。

マウントバーノンは年中無休。祝日やクリスマスでも開放されています。わたしたちはワシントン家の邸宅、納屋、物置、奴隷用宿舎、台所、厩、温室など見てあることができます。案内人がついています。この農場内の庭園や森の小道を散策することができます。当時は100人あまりの黒人奴隷が働いていて、この農場を開拓したことがわかります。

ここにワシントン夫妻の墓所があります。奴隷の記念碑や墓地もすぐそばにあります。2度目にこの墓所を訪ねたときです。なにか、得体の知れない匂いがこのあたりに漂っていました。もしかして、ワシントンのお墓から、、、などという不遜なことを考えました。実のところ、この匂いは農場に撒いている鶏糞かなにかの腐った匂いなのです。

旅のエピソード その23 「ミニットマンとチップ」

ボストン(Boston) の西20kmにレキシントンとコンコード(Lexington-Concord)という街があります。周りは静かな農村地帯です。この小さな街で1775年の4月に独立戦争(Independence War)における最初の大規模な戦いが植民地軍とイギリス軍とで繰り広げられます。植民地軍は正規の兵士と民兵によって組織されていました。民兵の多くは農民です。農作業や狩猟をしながら、召集されると数分(minute)で駆けつけるというので、ミニットマン(minute man)と呼ばれていました。民兵には狩猟をしていた者が多数いたので、狙撃手としても活躍したようです。

毎年7月4日の独立記念日や夏の週末になると、レキシントンとコンコードのあちこちで観光客を相手にしたツアーがあります。地元の高校生がミニットマンに扮して、観光客をガイドします。こうした高校生は、歴史を学びスピーチの仕方を覚え、やってくる人々をもてなす術を学び観光客に披露します。観光客をいかに話に乗せるか、これが勝負所です。まさにエンターテイナー(entertainer)です。その演技の出来ばえはすぐに表れます。

ミニットマンのスピーチや演技に皆引き込まれていきます。ツアーの最後には、「我々に自由と独立を、そして勝利を!」と皆で絶叫し、かぶっていた帽子をとって観光客の中に回すのです。人々は皆ニコニコして1ドルから10ドル札のチップ(tip)を入れて帰ります。チップを渋る観光客はいません。実に秀逸で飽きを感じさせない、なんとも気持ちの良いツアーです。

旅のエピソード その22 「ボストン・ティーパーティ」

ボストン(Boston) は味わい深い町です。アメリカの短い歴史にあって、歴史が始まった場所でもあります。ボストンには「Freedom Trail」という市内の歴史的な建造物や場所を訪ね歩くコースがあります。自分で地図を見ながら歩いて市街を巡るのです。

ダウンタウンのど真ん中には、グラナリー墓地(Granary Burying Ground)があります。政治家のサミュエル・アダムス(Samuel Adams)、コモンウェルスの初代知事となったジョン・ハンコック(John Hancock)らが眠っています。その隣にある公園がボストン・コモン(Boston Common)という広大な公園です。多くの人々が散歩しています。小高い丘、バンカーヒル(Banker Hill) は、1775年6月に起こった植民地軍とイギリス軍の戦跡です。植民地軍は激戦の末に敗れるのですが、そこでの頑強な抵抗精神はその後の戦いに受け継がれていきます。
ボストン・コモンから歩いて10分位のところにボストン・ティーパーティ(Boston Tea Party)が起こったという波止場にきます。1773年12月に、地元の人々がアメリカ・インディアンに扮装して、港に停泊中のイギリス船に侵入し、イギリス東インド会社の船荷であった紅茶箱をボストン湾に投棄した事件です。いわば独立戦争前のゲリラ戦で、アメリカ独立革命の象徴的な出来事とされています。

ティーパーティの場所には小さな船が係留されていて、そこで入場料を払って乗り込みます。案内の人は、観光客に対して当時の人々が紅茶を投げ捨てるという演技を求めます。「イギリスは出て行け!」、「われわれのお茶を盗むな!」、「われらに自由を!」こうしたスローガンを大声で叫びます。そしてお茶箱にみたてた袋を海に投げ捨てるのです。このように観光客に歴史の瞬間に引き戻そうとする趣向と仕掛けは、どの観光地でも見られることです。

旅のエピソード その21 「プリマスとメイフラワー号」

ボストン(Boston) の南東、車で1時間のところにプリマス(Plymouth)という街があります。港町です。ここには1620年にイギリスのブリンハム(Bringham)という港から大西洋を渡ってきたメイフラワーII(Mayflower)号のレプリカ(replica)が停泊しています。

メイフラワー号にある説明によると、清教徒(Puritan)らが長く苦しい航海を続けて、やってきたことがわかります。ヨーロッパでの宗教的な迫害を逃れて新大陸を目指した人々の心意気も伝わる船です。

このプリマスから5キロのところにプリマス・プランテーション(Plymouth Plantation)という開拓村が保存されています。1627年に人々が入植した場所です。インディアンの攻撃から護るために作られた木の柵で囲まれた広大な部落です。住居、ベーカリー、鍛冶屋、店、教会、学校、畑が点在しています。

ここで働く人々は開拓当時の服装といういでたちです。この開拓村はすべて1600年代という設定なのです。使っている道具、家財も当時を復元しています。ですから、観光客もその時代に遡って、そこで働く人々と会話することが期待されます。

「このお土産品は何ドルですか?」と観光客がたずねます。そうすると店員は「ドルって何ですか?」と逆にきくのです。さらに客が「私は日本からきた」とか「このプランテーションをインターネットで知ってやってきました。」というと店員は「日本ってどこにあるのですか?」「インターネットって何ですか?」と惚けるのです。そこで始めて観光客は、「ああそうか、、ここは1600年代なんだ、、」とわかるのです。珍妙な会話が楽しめるところでもあります。

旅のエピソード その20 「フットボールは情報合戦」

秋にアメリカへ行くときは是非カレッジ・フットボール(college football)を観戦していただきたいです。週末はかならずといってよいほど、どこかで試合をやっています。入場料は20ドルくらいです。

スタジアムへ行きますと、駐車場ではグリルでハンバーグやホットドックを焼いて景気をつける人々がいます。学生寮の側を通ると、ラジカセやCDプレーヤーのボリュームを一杯に上げて試合前の雰囲気をあおっています。学業からしばし解放された若い学部生がなにかを叫んでは気勢を上げています。いやがおうでも興奮が高まります。

フットボールは情報合戦のスポーツです。高いスタンドには偵察チームが陣取り、攻撃や守備のコーチに相手チームの弱点や強みを無線で教えるのです。戦争でいえば衛星を使って戦場を監視するようなものです。ラン(run)でいくかパス(pass)でいくか、キック(kick)で陣地を挽回するか、あるいはギャンブルするかなどの決定に必要な情報を与えるのです。

クォーターバック(QB)はチームの司令塔、いわば前線の指揮官です。それを動かすのが偵察チームからの情報であり、それに基づいてQBにプレイを指示するのが攻撃(offece)コーチや守備(defence)コーチです。一つひとつのプレイについて、コーチからの指令を受けたQBは円陣を組んで選手にそれを伝えます。この円陣のことをハドル(huddle)といいます。

選手は勝手な行動は許されません。一つ一つのプレイがこうした偵察チームからの情報によって決められます。戦争遂行の作戦と同じです。プレイのパタンはさまざま。それを組み合わせるのです。相手チームも同じように作戦を立てます。いかにして相手の裏をかくか、意外なプレイをするかをスタンドで予測するのがフットボールの醍醐味といえます。

成田滋のアバター

綜合的な教育支援の広場

旅のエピソード その19 「フットボールとビジネスモデル」

アラバマ州(Alabama)の小さな街タスカルーサ(Tuscaloosa)にアラバマ大学(University of Alabama)の本校があります。1831年に創立された州立の総合大学です。タスカルーサのあたりは、南部の南部、Deep Southと呼ばれます。街を歩くと白人はあまり見かけません。なんとなく寂しさが漂う街です。「南部に来た」という気分になります。

アラバマ大学はカレッジ・フットボールでは強豪として知られています。かつてポール・ブライアント(Paul Bryant)というヘッドコーチ(監督)の指揮により、計13度にわたり全米チャンピオンとなっています。このコーチのニックネームは「ポール・ベア(Paul Bear)」として親しまれました。トム・ハンクス(Tom Hanks)主演の映画「フォレスト・ガンプ(Forrest Gump)/一期一会」はアラバマ大学フットボール部がモデルとなっているほどです。

アメリカのカレッジ・スポーツでは、フットボールが稼ぐ収入と貢献度は突出しています。多くの大学では全スポーツからの収入の6割前後をフットボールで占めるくらいです。収入の多いスポーツとしてはバスケットボール、アイスホッケーなどが続きます。それだけにフットボールのヘッドコーチの年収も桁外れです。その額は大学の総長をはるかに凌ぎます。

フットボールチームのコーチで最も高い契約金をもらっているのが、アラバマ大学のニック・セイバン(Nick Saban)で約8億5000万円、第二位はミシガン大学のジム・ハーボー(Jim Harbaugh)で約8億4000万円をもらっています。大学で最もスポーツからの収入が多いのはテキサス大学で約98億円、第五位のウイスコンシン大学も約77億円の収入があります。これが収入のない他のスポーツ活動の運営を支えています。選手達の奨学金にも振り分けられています。

カレッジ・フットボールは全米に放映され、その広告料は膨大なものです。フットボールは大学のビジネスモデルの典型です。「”ポール・ベア”・ブライアント」はビジネスモデルを全米に知らしめた偉大なコーチとして今も語り草になっています。

旅のエピソード その17 「真っ青になった経験とスリ」

私も忘れ物で真っ青になったことが二度あります。大学の同僚とでバージニア州(Virginia) の学校や教育委員会を回り、ある調査を依頼したときです。調査のほうは幸い先方が極めて協力的で、質問紙を丹念に検討してくれて 「これでいいだろう」 ということになりました。

翌日は気分良く電車に乗って、ワシントンDCのモール(Mall)にあるスミソニアン(Smithonian)の博物館巡りにでかけました。スミソニアン協会は17の直営博物館や美術館を運営する世界一の組織です。いくつかを回り終えて、おしまいはアメリカ・インディアン博物館(American Indian Museum)へ入りました。そこの小さな講堂でビデオを観ての帰り、椅子にパスポートやカード、現金、カメラをいれたバックバックを置き忘れました。忘れ物に気がついたのは博物館をでて30分くらいです。その瞬間、目の前が真っ白になりました。急いて戻り、係員にきくと預かっているというのです。

二度目は台北に行ったときです。ホテルの食堂でビュフェスタイルの朝食をとり、手洗いにいきました。パウチをはずしてフックにかけ用をたしたのです。そして部屋に戻りましたが、キーがないのに気づきました。その間5分くらいでしたが、、急いで戻るとトイレにパウチがありません。受付にありました。掃除婦が届けてくれたというのです。その方にお礼を渡そうとしましたが、受け取りません。持ち物は、椅子に置いてはいけない、肌身外さず持て、という教訓でした。

持っていたパウチは、スペインのバルセロナの電車内でスリ(Pickpocket) に遭いそうになりました。腰の辺りで変な感覚がしたので、見ると隣の男の指がパウチのジッパーをはずそうとしていました。ズボンのジッパーでなくてよかったです^_^; 平和や安全ぼけは日本にいる間だけ通用するようです。

旅のエピソード その16 「州の鳥はモスキート」

旅のエピソードにはこのジョークやユーモアを何度も取り上げています。アメリカ人との会話では、ジョークが頻繁にでてきます。

ミネアポリス(Minneapolis) には頻繁に行きました。必ずなにか話題が生まれるところです。実は、私に洗礼を授けてくれたルーテル教会の牧師先生がミネアポリスの郊外に住んでいました。かつて札幌で長く働いていた方で日本語もたいそう流暢です。一度家族でこの方を訪ねました。1980年頃です。夕食でいただいたのは初めてのラザーニア(Lazanya)でした。

道で立ち話をしていると蚊にバンバンくわれるのです。実はミネソタ州には11,000以上の湖があるのです。氷河が残したのです。自動車のナンバープレートには”The Land of 10,000 Lakes”と印字されているくらいです。道路はそのため湖を巻くように走ります。迂回せざるをえないのです。この大小たくさんの湖が蚊を「育てている」のです。

始終手で蚊を追い払わなければなりません。ミネソタ州の鳥は「蚊:モスキート」であるというジョークを教えてもらいました。どこにでもいて、いつでもみられる最も厄介なものというのを皮肉っています。

旅のエピソード その15 「ルートビアと長男の誕生」

私が始めて海外に行ったのは1968年5月。マレーシア(Malaysia)のクアラルンプール(Kuala Lumpur)です。ここでキリスト教の学生会議がありまして、幸い派遣されて出かける機会を得ました。生まれてはじめてパスポートをとり、 東京のマレーシア大使館でビザをもらいました。

宿舎となったのは、クアラルンプール郊外のペタリンジャヤ(Petaling Jaya) という地区にあったセミナーハウスでした。宿舎の郊外にA&Wという、いわゆるファーストフードのレストランがありました。ここで始めてハンバーガーを知りました。飲み物ででたのは「ルートビア」(Root beer)です。これは、アルコールは含まれておらず、約14種類以上のハーブを原料としたドリンクです。正露丸に似たような実に不思議な飲み物だな、と思いました。今飲んでみますと、コーラとクリームソーダを足したような味がします。

3日間の会議は、今もってなにを討議したのかは覚えていません。会議の内容を理解するには英語力が低すぎました。討議に参加するどころではありませんでした。しかし、この会議を機に英語の理解力をつける必要があることを痛感して帰りました。これが唯一のお土産です。

マレーシアからの帰り際に、北海道で地震があったことを報道で知りました。家内が臨月だったのでどうなったかが心配でした。札幌に戻りますと長男が無事生まれていました。忘れられない海外初旅行です。

旅のエピソード その14 「簡易トイレ」

オランダ(The Netherland)はアムステルダム(Amsterdam)での話題です。中央駅を中心に市内に網の目状に運河が広がります。17世紀の豪商の邸宅などが運河に沿って並びます。アンネ・フランク(Anne Frank)の隠れ家が今は博物館となっています。中央駅から徒歩5分にある飾り窓(Red-light zoon)も運河に沿いにあります。

オランダは自転車の国です。アムステルダムの中央駅付近には巨大な駐輪場があります。車道と歩道の間に自転車専用路が設けられています。アムステルダムでは、約50%の市民が自転車で通勤通学するのだそうです。エコを最も先取りしている国の一つといえましょう。

オランダといえば東インド会社 (East India Company) が知られています。創立は1602年。世界初の株式会社といわれています。東インド会社の発展によってオランダ本国は17世紀に黄金時代を迎えます。日本でも長崎において交易を許されていたのはご存じの通りです。しかし、欧米の国々がアジアに次々と進出するにつれてオランダの影響は衰退していきます。17世紀には3回にわたるイギリスとの戦、フランスとの戦いで国力を消耗していきます。第二次大戦中、ジャワ諸島は日本に占領されオランダは撤退します。しかし、オランダは戦後は再びインドネシアに侵攻してインドネシア独立戦争を仕掛けますが、敗れてアジアから完全に手をひくという歴史をたどります。

前置きが大分長くなりました。「簡易トイレ」の話題です。アムステルダムのダウンタウンで夕食をして、広場をブラブラしていました。そこに警察らが簡易トイレを設置していくのです。男性用だけです。四角い形をしていて四人が小用を足すことができるものです。ところが扉はなく、周りから丸見えなのです。これも文化なのだなーと、同行者とで変に感心することしきりでした。

旅のエピソード その13 「自転車と雨」

かつて兵庫教育大学で外国人研究員としてお世話をしていた方の大学を訪ねて、オランダのトエンテ(Twente)という街へ行きました。このときも大学院生が加わっていました。トエンテは首都アムステルダム(Amsterdam)から電車で2時間、ドイツの国境近くにあります。

オランダはネーデルラント(Netherland)とも呼ばれます。「低地地方」という意味だそうです。俗にダッチ(Dutch)とかホランド(Holland)という呼び方もされます。13世紀頃から干拓が始まり、今や海面下にある面積は国土の1/4といわれます。オランダは早くから世界へ進出し、特にアジアとの関わりはジャワ島(Java Island)を中心とするオランダ領東インドネシアの支配や日本との交易などに伺われます。その中心は東インド会社(East India Company)です。江戸の鎖国下で唯一外交関係を結んでいた国です。オランダからもたらされた学問や技術は蘭学と呼ばれました。

アムステルダムといえば、大戦中にフランク一家らがナチスから逃れて、隠れ家で潜行する姿を記録した「アンネの日記」を思い出します。ゴッホ(Van Gogh)やルーベンス(Rubens)などの画家を輩出し、その美術館も素晴らしいものです。

トエンテの街に着いて気がついたのが自転車が多いことです。子どもも結構なお年寄りも自転車に乗っているのです。そして自転車道がどこにもあるのです。かつての研究員とで夕食をすることになりました。レストランはダウンタウンにありました。その日は雨です。ややして、その方の家族がやってきました。二人の小学生の娘も一緒です。雨合羽を着ています。家から自転車でやってきたというのです。

オランダで自転車の人気が高い理由です。国土は平坦でそれほど体力を使わずにすみます。市街地は多くの場合、自転車の利用者と歩行者が自動車よりも優先されるようになっているのも興味あります。人口1人あたりの自転車台数は1台で、移動の際に用いられる交通手段としてのシェアは27%を占めるというのも、利用者への手厚い対策によるものでしょう。雨でも晴れでも安全に自転車に乗ることができる文化があるようです。

旅のエピソード その12 「グアムと食堂の青年」

私はどこへ行っても人に話しかける癖があります。道を聞くとき、安くて美味しい食堂を探すとき、他愛のない会話をしたいとき、英語を使いたくなるとき、なにかの評判が確かかを調べるとき、などです。

グアム(Guam)に始めて行ったとき、レンタカーで島をぐるりとまわりました。ダウンタウンから西へ走ると 太平洋戦争国立歴史公園 (War in the Pacific National Historical Park)という歴史記念公園があります。そこのビジターセンターに立ち寄りました。旧日本軍の潜水艦や魚雷が庭に展示されています。大戦開始前にはアメリカの統治下にあったのを日本軍は1941年から1944年までグアムを占領します。元日本兵横井庄一さんがグアムのジャングルで発見されたのが、氏が戦地グアムに送られてから約28年後の1972年でした。

ビジターセンターの受付で「このあたりで地元の美味しい料理を食べれるところはないか」と聞きました。「あそこの観光地はいい」とか「そこは行ってもつまらない」、といって親切に教えてくれるのです。ここのビジターセンターにはあまりに日本人観光客はやってこないのだそうです。

案内された食堂はど田舎にありました。素朴な格好をした一人のグアムの青年が調理しています。そこに友だちの若者がやってきて、屋外に並べられている食卓を一緒に囲みました。一人目は数ヶ月後にアリゾナで兵役につくこと、二人目はグアム大学(University of Guam) で農業を勉強し始めること、三人目はこの食堂を継ぐというのです。皆それぞれ自分の目標をもっていて好感がもてました。このような会話は田舎でしか出来ません。

旅のエピソード その11 「ボディは部厚く」

アメリカのジョージア州(Georgia) に2か月生活したことがあります。ローターリークラブ(Rotary International) からの奨学生としてそこで英語の研修を受けたときです。マスターズ・ゴルフコース(Masters Golf)のあるオーガスタ(Augusta)の東、車で1時間のところにある小さな街ステイトボロ(Stateboro)です。

1978年の7月と8月。家族との始めてのアメリカ生活です。この街にきて驚いたの、富める人と貧しい人が住み分けしていることでした。車で走ると街のたたずまいや雰囲気がはっきり違うのがわかります。富裕層と貧困層、白人と黒人の対照がはっきりしています。

日本車はほとんど目にしない時代でした。日本の製品は「安かろう、悪かろう」という言葉が流布する頃です。走っていた車のほとんどは大型のセダンです。かつて日本で働いていた宣教師から譲ってもらったGMの車はシボレーシェベル, マリブ(Chevrolet Chevelle Malibu) というのでした。ボディは部厚く、押してもボコボコしないのです。こうした車は当時「タンク」と呼ばれていました。燃費などは話題視されないほどガソリンが安い頃でした。ボンネットを開けると地面が見えるほどエンジン部分がすかすかしているのです。ですから、自分で部品交換などメインテナンスができるのです。「Do It Yourself -DIY」(自分のことは自分でやる)というフレーズを知ったのもこの頃です。

旅のエピソード その10 「座席のダブルブッキング」

たまにあることですが、空港のカウンターでチェックインをしようとするとき、ダブルブッキング(Double Booking)があります。最近このようなことを聞かないのは、予約システムの高性能化によるようです。こうしたトラブルがなくなると、少し淋しい気にもなります。

これまでダブルブッキングを3度経験しました。さもしい性格のせいか忘れられません。最初はバンクーバー(Vancouver)に行くとき、2度目はミネアポリス(Minneapolis)へ、3度目はバンコック(Bangkok)へ行くときです。バンクーバーへは、院生と一緒でした。満席なので、別の会社の4時間後の便に乗ってくれ、というのです。ファーストクラス(First Class)というので喜んで申し出を受けました。しかし、院生は先に行くことになりました。私がいないと困るという院生もいましたが、ホテルで会おうと言って別れました。

ファーストクラスに乗るのは始めてです。離陸前からワインやビールがテーブルに置かれます。実に快適な待遇に感心しました。フライトアテンダントは、長年勤めるベテランです。対応ものんびりして落ち着いた立ち居です。エコノミークラスのフライトアテンダントとは大違いです。「シニョリティ」(Seniority)という年功序列があって、長年勤めた者がファーストクラスを担当するのです。

2度目は、ミネアポリス行きのときです。このときはエギュゼキュティブ(Executive)の座席で、同行の教師と隣り合わせになりました。この教師は機内で美味いものを沢山食べたせいか、ホテルに入ると歯が痛い、歯が痛いというのです。ダブルブッキングではこういうエピソードも生まれるのですから面白いです。

3度目は香港からバンコックへ行くときです。チエックインをするとき、「あなたは2時間の王様です」といって、にっこりしてくれました。ジョークがうまいですね。王様です、という表現に気に入りました。ファーストクラスでは至れり尽くせりのもてなしを受けるという意味です。「旅はダブルブッキングに限る」です。

旅のエピソード その9 「ワインと運転」

北島と南島から成るのがニュージーランド(New Zealand) です。年間の旅行者が240万人以上という観光立国です。友人を訪ねて北島の南端近くにあるパーマストン(Palmerston) という町へ行きました。その友人はインド系の研究者で、兵庫教育大学で客員研究員としてお世話した方です。

休日を利用して車で北島の最南端に位置する首都ウェリントン(Wellington)の観光に出かけました。落ち着いた港町です。観光後、カーフェリーで南島にわたり、クライストチャーチ(Christchurch)にある約140年の歴史を誇るカンタベリー大学(University of Canterbury)を訪れました。2011年の大地震が起こる前です。23人の日本人も亡くなる出来事でした。

クライストチャーチでホエールウオッチング(whale watching) ができるという情報を得ました。1泊がてら鯨が出るという湾のある町に車をとばしました。観光船に乗ると数頭の鯨が湾を回遊しているのが見えます。説明では年中この湾に住み着いているそうで、地元の人は親しみをこめて鯨に名前までつけています。

帰りのドライブは快適でした。ブドウ畑が道の両側に広がります。ワインを飲みたくなる光景です。休憩がてらワイナリーに立ち寄りますと、旅行者らしき一行8名がワインを楽しんでいます。店の人に聞くと看板を指してくれました。それには次のように書いてあります。「運転手はグラス2杯までは飲んでよい」。なんと粋な計らいなのだろうと感心しました。帰り道に車から降りて、満天の星空に浮かぶ南十字星(Southern Cross) に家内とで見とれました。

旅のエピソード その8 「フライトアテンダントに声をかけては、」

どんな職業も楽なものはありません。職業を大まかに分けると主に体を動かすもの、頭を使うもの、その組み合わせのもの、というように分類されるかもしれません。国際線のフライトアテンダント(Flight Attendant)の仕事はどうでしょうか。毎回乗る人は異なりますが、仕事は主に食事の配布と片付けなどが中心です。満員のジャンボジェット内では、大変な重労働だと察します。あまり頭を使わなくてよい仕事かもしれませんが、疲れは相当でしょう。おまけに時差がつきまといます。体調の管理をどうしているのかが気になります。

アメリカでの学会発表に行くときです。機内で英語での発表資料を点検し、原稿を暗記しようとしていました。発表はできるだけ聴衆を見ながら、適度に身振り手振りで発表します。原稿の棒読みはいけません。発表の仕方は、「トーストマスター」(Toast Master)という大勢の人前で話すスキルを高めるクラブで学んだことがあります。何度も冷や汗をかきながら自分の発表の練習をしたものです。

座席で懸命に練習をしていると、女性のフライトアテンダントがやってきたので、「これから学会にいくのだ」と原稿を見せながら声をかけました。学会が開かれる町や学会の特色を説明し、たどたどしく学会発表の概要を話すと「頑張ってね」と声をかけてくれました。ややして彼女は白いフキンに包んだワインのボトルを持ってきて「グッドラック」と激励してくれ、そのワインをくれました。少々びっくりしましたが、なにか良い旅が待っているような心持ちになりました。

機内では、フライトアテンダントも乗客も退屈なので、なにかしら会話をしたいと思っています。機内でもちょっとしたことで、必ず一つや二つの楽しい思い出ができます。会話で避けたいことは、何度も「ビールを持ってきて欲しい」とか「コーヒーをお願いします」と頼まないことです。アテンダントに嫌がれます。なにか欲しい時は、自分でキャビンに行って頼むのです。