車社会の風景 その二十三 国鉄とモータリゼーションと路面電車

「車社会の風景」の最終回です。北海道育ちの私には自動車よりも鉄道に思い出が多くあります。親父が長年国鉄に勤務し、鉄道官舎での生活が続きました。官舎といっても長屋のようなものです。共同浴場には毎日行きました。美幌はそうでした。旭川鉄道管理局の大半が赤字路線となり次々と廃線に追いやられます。相生線が最初です。JR北海道に転換後も、深名線、天北線、名寄線、羽幌線、美幸線が廃止となります。最近では、留萌駅~増毛駅間が廃止となり、やがて留萌線が全線廃線となります。

地方の鉄道の衰退は「モータリゼーション」(motorization) によります。「車社会化」とか「自動車化」と呼ばれる現象です。モータリゼーションにはその下敷きとなった国有鉄道経営の実態があります。赤字経営のため度々運賃が値上げされますが、他方では労使対立による現場の綱紀の乱れやストライキや遵法闘争が起こります。それによって運行の不安定化を招き客の足が遠のくのです。親父は組合との交渉で相当苦労したようです。

こうして、地方における鉄道機関の衰退は加速します。鉄道は路線バスに替わります。タクシー業者は存在するものの、規模が小さく営業時間が短いという実情から日常の足として使用するには不便です。地域の公共交通機関において貴重な収入源となる生徒や学生ですらも、公共交通機関ではなく、身内や知人の車による送迎に頼ることになります。通勤や買い物もそうです。

私がかつて働いていた大学は、兵庫県の真ん中より少し南にありました。公共交通機関はJR加古川線ですが、無人駅から大学までは8キロもあり、1時間に鈍行が2本しか運転しません。学生の円滑な登下校には全く役立ちません。大学は広い無料の駐車場を用意し自動車による通学を認めています。そうでないと学生は集まりません。

このように過度に車社会化の進んだ地域では精力的に道路が整備されたにもかかわらず、通勤や帰宅ラッシュ時、登下校時間帯は道路の混雑が慢性的に発生しています。そのため路面電車が各地で復活しています。

車社会の風景 その二十二 「遊び」と「あそび」

人の一生は「遊び」に始まり「遊び」に終わります。誰も子供の頃は、ごっこ遊び、ビー玉、面子、パッチをしました。やがてサッカーや野球、スキーなどのスポーツをします。大人になると麻雀やパチンコ、飲酒や喫煙をし、高齢化すると囲碁や将棋で余暇を楽しみます。私は今、囲碁にはまっていて、八王子市内の二つの小学校で子供に囲碁の手解きをし、さらに二つのシニア囲碁クラブをお世話しています。

「遊び」を「あそび」と表記すると別な使われ方となります。それは「ゆとり」となります例えば、私たちが毎日乗る車にも「あそび」が組み込まれています。エンジンのスイッチから、ハンドルやブレーキ、アクセルの「あそび」です。急に曲がったり急に停まらないように、少しのゆとりが設定されています。自転車もそうです。この「あそび」は、命にかかわるほど大事な設計となっています。

ロジェ・カイオワ (Roger Caillois)という人が「遊びと人間」という本を書いています。この本には、「遊び」を面白く分かりやすく説明しています。カイオワは「遊び」は自由な活動であるといいます。誰かに強制されれば、遊びはたちまち魅力的で愉快な楽しみというものを失ってしまうのです。

「遊び」では先に結果が分かってはならないといいます。勝ち負けは時の運であり、やってみなければわからないところに「目眩」や興奮があるのです。「遊び」の中には参加者の創意や工夫があり、こうした自由が必ず参加者になければならないのです。

さらに「遊び」とは仕事とか職業ではないことです。パチンコをして少しは儲けても、それによって財産やお金を貯えても失ってもならないのです。「遊び」を商売とするのはいけないのです。ただ、カルタやビー玉のように参加の間で物が行き交うのは認められます。

おしまいに「遊び」は規則とかルールのある活動のことです。約束ごとに従うのが大事なのです。規則とは、いつ始まっていつ終わるとか、参加者になにかの役割があったりそれを交代するといったルールです。参加者は誰もが支え合っていくことによって遊びが成り立ちます。

車社会の風景 その二十一 自分でメインテナンスを

アメリカに車検制度はありません。そのせいでしょうか、走っている車には大分くたびれているのを見受けます。車というのは資産でなく、足だと考え走りさえすればよいのですから、自分でメインテナンスしたくなります。彼らは代々、自分で車の整備をやってきたので、その仕方を教わっています。オイルやエレメント、ラジエータ液の交換は初歩的なこと。ブレーキシュー (brake shoe) まで取り替える人もいます。当然ですが、整備の道具はガレージに備えてあります。古いオイルはサービスステーションで捨てることができます。

車の生命線ともいうべきブレーキのことです。ブレーキは「ドラム式ブレーキ」と言い、そこに装着されているブレーキパッドを「ブレーキシュー」と呼びます。ドラムブレーキは、ブレーキパッドをタイヤと一緒に回転するドラムの内側から油圧で押し付けることで減速します。長い間運転したり、高速時に急激にブレーキをかけたりすると摩滅します。このパッドを買って自宅で取り替えたり、ブレーキオイルを交換するというのですから相当のマニアです。この交換作業では二人がかりでやります。一人は運転席でブレーキを踏み空気を抜き、もう一人は車体の下にもぐり油圧ボルトを締めるのです。実に器用です。

自分でこうした作業をすることを「Do It Yourself (DIY)」といいます。自動車に限らず、家の内装や外装、配管、配線まで、できることは自分でやるというのが伝統なのです。ですから工具の種類と数は驚くほどです。ホームセンターの一つ、「Home Depot」という会社は住宅リフォーム、建設資材、工具類を販売しています。その規模は驚くほどです。自分で何かを作るとか修理する能力は非常に高いのは羨ましいことです。

車社会の風景 その二十 「ねずみとり」とワイン

交通違反の取り締まりはどの国でも似たようなものです。どこかで違反車を待っています。これは通常「ねずみとり」(mousetrap)です。速度の出やすい路線で物陰に隠れて速度測定を計るいわば罠を張る交通取り締まりの俗称です。八王子市内では、間違って車線変更しやすい箇所で警官が堂々と待っています。黄色線で車線変更禁止のところです。これも「ねずみとり」ですね。

高速道路 (Interstate) では、この「ねずみとり」を見たことがありません。ただし、一般道では路肩や道脇で待機して獲物を待つパトカーを何度も見たことがあります。彼らはスピードガンで待ち構えています。

アメリカの話です。酒場(saloon)の駐車場にパトカーが停まっています。しかし、酒場からでてきた者が運転するのを取り締まることはありません。速度違反や事故などを起こさない限りOKなのです。よく小さな街には酒場がありますが、車でないと酒場までこれないのです。いわば商売が成り立たないので警察も大目にみているふしがあります。どうして家で飲まないのか?という疑問ですが、酒場には常連客がいて会話を楽しめるからのようです。

ニュージーランドでのエピソードです。ホエールウオッチング(Whale watching)帰りのドライブは快適でした。葡萄畑が道の両側に広がります。ワインを飲みたくなる光景です。休憩がてらワイナリーに立ち寄りますと、旅行者らしき一行がワインを楽しんでいます。店の人に聞くと看板を指しました。それには次のように書いてあります。「運転手はグラス二杯までは飲んでよい。」 なんと粋な計らいなのだろうと感心しました。

車社会の風景 その十九 前向き駐車

アメリカで駐車場を見回してみると気付くことに、99%の人が前向きで駐車していることです。「前進しながら駐車する」のが前向き駐車です。前向き駐車は、多くの場合住宅地にある駐車場で義務付けられています。アメリカ人は後ろ向き駐車をする概念が無いのです。逆に日本では大半の人が後ろ向き駐車です。外国人は、ほとんどの車が後ろ向きで駐車場に駐車していることに驚いています。これも文化の違いです。

後ろ向き駐車には次のような事情があります。
第一は、駐車スペースが広く、頭から進入しやすいこと、さらにバックでの出庫に十分なスペースがあるです。第二は後ろ向き駐車には手間がかかります。基本的に面倒なことは嫌いなのがアメリカ人です。第三は、食料品などの買い物量が多いので、カートで運んでトランクに詰め込みやすいのです。第四に、後ろ向き駐車は植栽や建物に排気ガスがかからないからです。第五は後ろ向きの駐車は衝突しやすことです。車や建物を傷めがちです。第六は免許の教習では後ろ向きの駐車練習がないことです。

「郷に入っては郷に従え」。外国では前向き駐車を心掛けるべきです。

車社会の風景 その十八 自転車専用レーンが危ない?

1月31日の新聞記事からです。都内の各地に自転車専用レーンがつくられています。国土交通省もこの設置を後押ししています。東京オリンピックとパラリンピックが近いことも自転車専用レーン設置の追い風となっています。

ところがこの自転車専用レーンが自転車を運転する人も歩行者にも危ないというのです。自転車専用レーンに車が止まり荷物の積み卸しをするからです。そのために、自転車は歩道や車道に入り歩行や車の運転の妨げになるのです。この荷物の積み卸し停車は、都会の日常化した情けない有様です。

自転車専用レーンは通勤や通学のために利用されるのが期待されます。従って朝は7時から9時まで、夕方の4時から7時までは停駐車禁止といった規則を作る必要があります。反則した人には切符を渡すのです。河川敷や海岸に自転車専用がレーンつくられていますが、今後も自転車専用レーンのさらなる延長と罰則規定を設けることです。

車社会の風景 その十七 コンバーティブル

1870年代、最初に造られた自動車は蒸気自動車で、基本的にすべて屋根がありませんでした。いわばオープンカー (open car)です。Open carは和製英語です。正しくはコンバーティブル(convertible)となります。

当時の主たる乗りものは馬車でした。やがて幌が付き始めます。自動車も同様で箱型の客室ではなく、後部座席のうしろに幌がつきはじめます。この理由はエンジン出力にまだ制約があったために重量の少ない簡単な幌が採用されたようです。自動車の育ての親はヘンリー・フォード (Henry Ford) 。1908年に最初に発売されたのが「T型フォード」(Ford Model T)という水冷式のものです。

やがてエンジンの性能が上がり必要なだけの馬力とスピードが確保できるようになります。そして車内の居住性にも配慮できるようになり、頑丈なフレームの屋根で被われた箱形が車の主流となります。一般家庭にも自動車が普及することになります。

自動車が普及するにつれて、さまざまな車種が登場します。コンバーティブルもそうです。贅沢品としての車です。雨が少ないカリフォルニアとかハワイ、アリゾナ、ニューメキシコなどでは、真夏に屋根のない車を運転するのはさぞかし爽快なはずです。一種の社会的なステータスを謳歌する気分だろうと察します。

私が始めて乗ったコンバーティブルはホノルル市内です。院生等と学校視察で出掛けたときです。二台のレンタカーに分乗しました。私は通常のセダンを運転し、院生の一人がコンバーティブルを運転しました。学校から宿に戻る途中、スコールがやってきました。私はバックミラーでコンバーティブルを確認していました。院生等は幌を広げようと苦心しているようでした。幌の広げ方やたたみ方をショップで確認しなかたったのがミスでした。しばらく雨の中を苦闘し、ようやく閉じてはしゃぐ様子が伝わりました。

車社会の風景 その十六 Sedonaへの旅

アリゾナ(Arizona)の州都で最大の都市がフェニックス (Phoenix) です。半導体産業や観光、保養都市として発展しています。この街の学校を5名の院生とで訪問したことがあります。学校の訪問には、必ず誰かの紹介で出掛けます。アメリカもコネが大事な国なのです。アリゾナ州立大学(Arizona State University) で学位をとった友人を頼ってフェニックスの学校区へと出掛けました。この人は今はハワイ大学の教授となっています。名前はCurtis Ho氏です。

さて、仕事は学校視察なのですが、当然ながら週末には日帰りの観光を旅程に組み込みます。フェニックスから車で片道三時間のところにセドーナ(Sedona) があります。もちろんCurtis Ho氏から強く奨められていた観光地です。

一口にセドーナといえば、砂漠と奇岩と峡谷の観光地といえましょう。響きの良いセドーナという名は1800年代後半にやってきた最初のキリスト教会牧師、Theodore C. Schnebly師の夫人であったSedona Schneblyをとったとされます。その経緯はわかりません。

1300年代に最初にセドーナにやってきた放浪者 (Nordic) は、ヤヴァパイ(Yavapai)とかアパッチ(Apache) などの部族です。乾燥した灼熱の岩山を好んで根城にし野生の動物などを食料にしていたようです。テーブル状の台地、メサ (mesa)に住む平和の民と呼ばれるホピ族 (Hopi)、アドビ (Adobe)と呼ばれる日干しレンガで作られた家で知られるプエブロ族(Pueblo)もアリゾナに今も多く住んでいます。

セドーナではヴァーデ峡谷(Verde Valley)に代表され、鉄分を含んだ砂岩でつくられた一大景観を楽しませてくれます。グランド・キャニオン(Grand Canyon) の南部に位置するセドーナには、沢山のハイキングコース、マウンテンバイクのコースがあります。Cathedral Rockという巨大な奇岩の間にそびえるのが1956年に建てられたChapel of the Holy Crossです。

車社会の風景 その十五 高齢者の運転

アメリカは高齢者の運転が目だちます。日本のように「免許状の返納を!」といったかけ声は聞いたことがありません。「余計なお世話はするな、!」という気分なのです。自分のことは自分で責任をとるという気概が感じられます。

運転していると、ドライバーが高齢者かどうかが大体分かります。大抵は長閑と運転するせいか、スロウなのです。こういう場合は、後ろにつかないことです。何が起こるかわかりません。相手も後ろにつかれないほうが安心するはずです。急いだり、急かしたりしてはいけないのです。

アメリカには高齢運転者標識のシールなどもありません。電車にも高齢者や障害者の優先席のシートもありません。日本はなんて親切で気配りのある国かと感じるときです。しかし、考えてみますとこうした標識がまだまだ必要なところにこの国の未成熟な一面が現れているともいえます。本当に高齢者や障害者を大事にしているのかといえば、混雑する電車内を見渡すと決してそうではありません。中には若者がデンと坐わり、大人が眠ったふりをして坐っています。

車社会の風景 その十四 運転手との対話は大事

イェロー・キャブ(Yellow cab)はアメリカ代表の一つ。スクールバスと同じ、黄色い車体のです。中はゆったりしているのですが、座席にはテープが貼ったりして、なんとなく汚れているような感じです。ビシッとあつらえた背広をきめているときは、乗ろうか乗るまいか躊躇します。

タクシーの運転手はアフリカ、中近東、中南米、東南アジアの人が多いです。何度も乗りましたが、ほとんどがそうなのです。話しかけると、今日は夜勤だとか、子どもは3人にいるとか、エジプトから移民してきた、などと答えてくれます。表情や話す英語で、ある程度どこから移民してきたかがわかります。「あんたは中国人か?」と聞いてきます。そんな時は「東京からきた田舎者だ」と答えることにしています。こんな会話から運転手も大分心を開いてくれます。「こいつはチップをはずんでくれそうだ、」と感じるのでしょう。そこで私は「おれはビジネスマンではない」といって煙幕をはります。

アメリカやイギリスのタクシーは自動ドアではありません。乗るときも降りるときも自分で開閉します。イギリスのは、なんとなくボックス型のようですが、内部は結構の空間があります。運賃ですが、もし空港からホテルなどに向かう時は、案内所で前もって運賃を聞いておき、運転手と交渉するのがよいでしょう。帰りの空港までのタクシーの運賃はある程度わかっていますから、再度交渉できます。

「あまりお金がないので15ドルで行ってくれないか」と交渉してみてください。このときはわざとたどたどしい英語で尋ねるのはいいようです。「チップをあげるから、」と付け加えると、大抵は「OK, OK」といってメーターを倒してくれます。

車社会の風景 その十三 粋な言葉「兄弟よ、、」

ニューメキシコ州 (New Mexico) のアルバカーキ(Albuquerque) の学校を訪問したときの話題です。アルバカーキは同州最大の商工業都市。文字通りメキシコと国境を接していて、スペイン文化を色濃く残すオールドタウン (Old Town) が観光客をよんでいます。一帯には多くの文化施設やカフェ、土産物店が軒を並べます。近郊にはアメリカン・インディアンのプエブロインディアン文化センター(Indian Pueblo Cultural Center) もあります。首都サンタフェ(Santa Fe)には日干しレンガであるアドビ(adobe)で造られた白い積層集落が独特のたたずまいをみせています。サンタフェからさらに北へ一時間ほど運転すると最初の原爆 (Little Boy) を製造したロスアラモス国立研究所 (Los Alamos National Laboratory) があります。

アルバカーキといえば、1975年にビル・ゲイツ (William Gates)が同僚と共にマイクロソフト社(Microsoft) を創業したところでもありす。当時は、BASICという言語を開発していました。この街はIT技術でも先端的なところです。2004年6月にはアルバカーキ国際空港内でWi-Fiをとりいれたというのですから相当早い頃です。

さて、先ほどのプエブロインディアン文化センターを訪ねたときです。館内で一行の一人の院生が「パスポートが無い、」といって慌てました。あちこち探しましたが出てきません。仕方なく館内の案内所で、落とし物の届けはないかをきくと、届いていないとの返事。対応してくれたのは明らかにプエブロインディアンの方です。こちらに同情したのか「兄弟よ、パスポートが無かったら、この国に留まってもいんだ」と慰めてくれるのです。「兄弟よ、、」という言葉が心に響きました。

車社会の風景 その十二 長距離バスの運転手と仮眠 

「バス運転手が仮眠室で眠り込み乗客が8時間閉じ込められる」というニュースがありました。少し可笑しいなと思いました。なぜ乗客は8時間も黙っていたのかということです。恐らく彼らも眠りこけていたのだろうとは察しますが、、

報道によりますと1月21日早朝、広島県呉駅発、大阪駅行きの中国JRバスの乗客から、「運転手が戻ってこない」と110番通報があったというのです。警察官が福山市のサービスエリアに駆けつけ、運転手を探したところ、バスの下部にあるトランクルーム横の仮眠室で、38歳の男性運転手が寝ているところを発見したとのこと。

運転手は走行中に体調が悪くなり、会社には連絡しないまま眠り込んだというのですが、誰でも体調不良はあることです。こうした健康状態が不良のときの対応が不十分だったことがうかがえます。目覚まし時計をセットして仮眠するとか、乗客に説明して休憩させてもらうとか、会社に連絡して指示を待つとか、、、ただ、呉から大阪までの距離はさして長くはありません。運転手の体調管理か規律の緩みの問題だったのでしょう。

車社会の風景 その十一 カーシェアリング

カーシェアリング (car-sharing)の発祥地はわかりませんが、恐らくはヨーロッパではないかと思われます。なぜなら昔から公共交通機関や自転車が発達していたこと、国土が狭く大気汚染に敏感なことが指摘されます。広大なアメリカでしかも石油の産出国ですから、この地でカーシェアリングが起こったとは考えにくいです。

1978年に始めてアメリカに出掛けたとき、ガソリンは1ガロンが1ドル以下でした。1ガロンは3.79リッターですから、中型車や大型車がバンバン走っていた頃です。私の最初の車は、中古車でしたがシボレー・マリブ (Chevrolet Malibu)。当時は手ごろな値段で中型のファミリーカーといわれていました。でもガソリンを相当食う車「gas-guzzler」でした。

アメリカ人は、車を財産や資産として所有するのではありません。単なる足と考えていますから、車の手入れは杜撰なようです。走っている車は大抵はどこかに傷やへっこみがあります。それと自動車を保有する費用が安いことも車社会を形成する理由です。自動車取得税とか自動車重量税はありません。車検もありません。大抵の家には2台分のガレージがあり、簡単な整備、例えばオイルやエレメントの交換、ラジエータの洗浄などは自分でやりますから、費用があまりかからないのです。カーシェアリングなどの概念が浮かばなかったと考えられます。

ですが、アメリカではレンタカーが発達しました。空港まで自分の車ででかけ、そこで預けて到着地でレンタカーを利用するのです。そして今はカーシェアリングがアメリカの大都会の周辺でも非常に普及しています。アメリカ人の車を利用する意識が変化してきたのです。それにはガソリン代の高騰や交通渋滞、駐車場探しの難しさなどがあるようです。我が国も三大都市圏や政令指定都市でカーシェアリングは都会で非常に盛んになりました。公共交通機関網が張り巡らされているのですが、利用のつど鉄道、バス、タクシー等の乗り換え、運賃という煩雑さの要因がカーシェアリングを押し上げてきたようです。

車社会の風景 その十 複数乗車だけの都心への乗り入れ

15年ほど前に、カリフォルニア(California)の州都サクラメント(Sacramento) からサンフランシスコ(San Francisco)空港に向かうとき、高速道のInterstateを使いました。引率していた院生と一緒です。標識をみると単独乗車か複数乗車によってレーンが違いました。複数乗車優先のレーンがあって渋滞を緩和する措置のようでした。単独運転を減らすための措置でもあります。

ヴァージニア州(Virginia) のフェアファックス郡(Fairfax County) から高速道でワシントンDCに向かう時も、複数乗車だけの車の乗り入れが許されていました。DCの交通渋滞をなくすこと、排気ガスを減らすことが狙いです。通勤の交通機関, Metro があるのでドライバは駅付近の駐車場に停めてそこから通勤する仕組みです。もう一つ、同じ企業や政府機関に働く人には、公用車の利用を認め3人から5人が集まり、週ごとに運転を交代して通勤することが奨励されていました。

運転手になった人は、家をまわって同乗者をピックアップし帰りも同じよう降ろします。こうした複数乗車、カープール (car pool) は始業時間と終業時間が決まっている人には便利な方法です。最初は面倒だったという声も多数あったようです。それが定着すると多くの人がカープールを利用するようになったといわれます。

首都ワシントンDCからその西にあるダレス国際空港 (Dulles International Airport) までの高速道路, Dulles Toll Road には途中に出入り口がありません。渋滞の心配は全くありません。

車社会の風景 その九 交差点の光景

我が国のいろいろな法律や制度は、整合性とか均一性を大事にする性質があります。平等を強調し例外を認めないのです。最近は、特区という仕組みを作り地域の活性化に新しい試みを育てるというようになってきています。

私が言いたいのは、車の左折ということです。現在、赤信号では歩行者がいようといまいと左折できません。歩行者がいないときは、左折を認めることを提案したいのです。

歩行者がいなく、右から車がこないのに左折したいドライバーはじっと信号が変わるのを待つのは非合理的ではないかと主張したいのです。すべて信号に頼るのはいかがなものでしょうか。歩行者もそうです。赤信号なのに車が両側から来ないときは渡ってよいはずです。それをきまじめに青信号を待つのは違和感があります。外国ではそんなことは「ありえなーい」のです。歩行者が優先だからです。

次ぎに、交差点で歩行者が足早に渡る光景です。なぜ小走りに急がなければならないかです。ゆっくり落ち着いて渡ることです。歩行者がなによりも優先されるということをドライバーに教育することです。

車社会の風景 その八 信号のない交差点

ヨーロッパやニュージーランド、オーストラリアなどで気がつくのは円形型のロータリー状交差点があることです。信号はなく、車は右折だけの運行ですから、ぐるぐる回っています。ロータリー交差点は入口の部分で一時停止のサイン(Stop)とか、歩行者を渡らせる信号があります。こうした交差点は環状交差点 (Roundabout) と呼ばれています。

信号のない直角の大きな交差点には、四つ角に一時停止のサイン(Yield)があります。Yieldとは譲り合うという意味です。全ての車が一時停止し、交差点に入った車から順々に通ります。自分はどの車の次に発進するかを判断します。日本でこのYieldの交差点を見たことがありません。交差点での譲り合いという文化が根付いていないからでしょう。

日本はいかなる場合も「停止せよ」、「発進せよ」ということが信号で決められる風土です。ですから左折しようとするとき、右から車が来ない場合も信号の変わるのを待たなければなりません。右側通行のアメリカでは、交差点で左から車が来ないとときや歩行者がいないときだけ右折できるようになっています。歩行者優先は大原則です。

車社会の風景 その七 相乗りの奨励には

「相乗りなんか面倒だ、、」という文化はどの国にもあります。ましてや見知らぬ人と一緒など、、と敬遠されがちです。同じ地域に住むとか同じ職場で働くといったときは、バスや車で一緒することがあるでしょう。

本来、車内とは個人の唯一の個室のような雰囲気があります。だれにも拘束されず自由な空間というわけです。タバコを吸っても昼寝をしても、本を読んでも、弁当を食べてもいいところです。日本では車は財産の一部と考えられていますから、外側も内側も綺麗に保たれています。靴を脱いで運転する人も結構います。それに対して外国の車は足ですから、車の清掃はあまりしません。汚いことこの上ないです。

この綺麗さを乱されるという不安が相乗りを敬遠する理由の一つです。車は財産とか車内は綺麗にといった意識を変えない限り、相乗りとかカープール (carpool) という文化が根付かないような気がします。車内では飲食しないというのが、カープールの際の当然の礼儀となります。

文化は新しくつくるものです。

車社会の風景 その六 スクールバスの特徴

北米における子供の安全管理について取り組む姿から学ぶことが多くあります。とりわけスクールバス関連の安全規定は非常に厳格です。

公道上での安全優先権は高く設定されています。車体上部には赤と黄色の点滅灯があり、車体の左側には一時停止標識が設置されています。スクールバスが停車する直前、後方の車両に注意を促すために黄色いランプが点滅し、完全に停車しドアを開くと赤いランプが点滅し、一時停止標識STOPが開きます。

スクールバスの後方を走る車は黄色灯が出た時点で減速し、車線の数にかかわらず追い越しをしてはなりません。対向車も中央分離帯がない限りは同様で、スクールバスが対向車線に停まっている場合、スクールバスより先へ進んではならない規則となっています。

スクールバスは大柄な車体のために、運転手から見て乗降客や周囲の歩行者を危険にさらすような死角も多いのです。こうした状況を改善するために、設計や規格では客席窓、フロントガラス、車体、ミラーなどといったものは出来るだけ大きなものを取り付けられました。更に、スクールバスの車体はいくつかの非常口が備え付けられ、衝突や横転時にも車内を守るロールケージ構造となっています。ロールケージとは車の中を張り巡らせる鉄の柱のことです。万が一の場合でも速やかに車外へ避難できるようになっています。

スクールバスは一般の車両とは大きく違った車体ミラーの装備を有す。スクールバス設計において死角の減少は最重要課題であり、年式が新しい車両ほど窓やミラーは大きく、死角は少ない傾向にあります。他車からの視認性を高めるために、スクールバス車体後部に反射テープを貼るよう取り決めをしている州もあります。その他、バンパーに遮断機が取り付けられたスクールバスやイギリスでは、スクールバスに監視カメラやGPSのトラッキング装置が取り付けられたスクールバスもあります。

車社会の風景 その五 子供の安全とスクールバス

日本では子供の多くは歩いて学校に行きます。全校生徒が歩いて通学というの日本だけかもしれません。子供だけで登下校ができる日本の治安の良さは、外国人には驚きです。もっとも交差点などには親が順番で旗振りなどをしなければなりませんが。

北米、ここではアメリカとカナダでは、徒歩通学の生徒もいますが、スクールバスの利用者が一番多くなっています。北米では、地下鉄やバスが発達している地域に住んでいたとしても、子供が1人で交通機関を利用して通学することはできません。12歳以下の子供は、必ず保護者同伴という決まりがあります。

北米のスクールバスは通学や郊外活動の際に生徒を乗せることを目的として設計・生産されたバス車両のことをいいます。「夕暮れや早朝でも最も見やすく、車体のレタリングとの対比も容易な色」として黄色が選ばれました。「スクールバス・イエロー」として北米スクールバスの標準色となっています。

ちなみに米国内の約40%の校区は、スクールバスを代理運行する民間会社のスクールバス・コントラクター(School bus contractor)に運行委託しています。スクールバスは通学下校だけでなく、遠足や音楽会、対外試合などの運送でも使われます。

アメリカ連邦政府はスクールバスに関する多数の安全規定として「スクールバスのための連邦自動車安全規格 (Federal Motor Vehicle Safety Standards) を設けています。これにより、スクールバスの設計が見直されることとなりました。その最たるものでは、車体の板金を衝突安全性を考えてより丈夫なものとすることや、背もたれを高くし詰め物を増やすという改良がなされます。万一の衝突の際の衝撃を減らすためです。

車社会の風景 その四 運転のマナーとサンキューホーン

始めて韓国第三の都市大邱に行ったときです。大学の先生が車で駅まで迎えにきてくださいました。市内に入ると大渋滞です。驚いたことに、その先生はクラクションを鳴らし、「そこどきなさいよ」、と叫ぶのです。バンパーは傷だらけです。バンパーは車体を保護する緩衝装置ですから、傷つくのも当然です。以前の車のバンパーには、ゴムやぎざぎざがついていました。

私は運転するのはあまり好きでも得意でもありません。高速道路では大抵は法定速度プラス15キロ程度で走ります。姪を乗せて運転するとき、彼女は「もっとスピードをだしなさい!」と余計な注意をしてくれます。私の信条として車間距離もたっぷりとるので、すぐ割り込まれます。割り込んでもお互いに目的地に到着するのは同じ時刻だろうと思うのですが、、、、

左折しようとする車に進入を譲ると、大抵は短くピッとサンキューホーンを鳴らすのが日本の運転手。私の意見ですが、無理にお礼はしなくて良いと思います。夜間や雨の日は、サンキューハザードくらいでOK。それも一瞬です。長々すれば、周りにも迷惑になります。自分から親切にしておいて「譲るけど、挨拶せーよっ」とむっとするのも変です。

アメリカではサンキューホーンはなしです。警笛の目的外使用を禁じているからです。サンキューハザードもなしです。

車社会の風景 その三 自転車天国

最近、駅前などにレンタル自転車置き場を見かけるようになりました。近くにある川越市自転車シェアリングもそうです。最初の40分はただ、一日借りても200円です。

自転車は大変普及していますが、自転車のための道路が誠に貧弱なのが日本です。そのためにどうしても歩道を自転車で通ることになります。さすがにサイクリングをする人は車道を走っていますが、子供の送迎で忙しい母親は歩道を走っています。歩行者もうかうかできません。スマホを操作する歩行者にも困惑します。

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長く住んでいたウィスコンシン(Wisconsin) の州都マディソン(Madison) のメインストリートに内側から歩道、バスレーン、自転車レーン、自動車レーン、そして反対側に自動車レーン、自転車レーン、バスレーン、歩道となっています。娘婿も毎日ヘルメットを被り片道40分の自転車通勤をしています。自転車専用道路が完備しているからです。

オランダのアムステルダム(Amsterdam) に行ったときに、雨の中をペダルをこぐ人が多いのに驚きました。ダウンタウンでの夕食で友人家族も招待しました。彼らは雨の中を自転車でやってきました。海洋性のため、夏は暑すぎず、冬は寒すぎることがない国です。坂がないので自転車は楽です。山もないので天気予報が難しいいわれます。雨が多く運河の発達した国柄、自転車専用レーンの完備は自転車の普及をこうまで広げているのかと感心したものです。

車社会の風景 その二 バスとタクシーの利用

後期高齢者に運転免許状の返納が推奨されています。高齢者の運転事故の件数が増えているからだといわれます。事故の増加は当たり前です。高齢者人口が増えているからです。正しくは、高齢者による事故の割合は以前と変わらないというべきです。単に母数が増えたのです。

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免許状の返納は悪くはないとしても、都会や田舎で車を必要とするのは高齢者です。そうした人々の足を確保することと並行して、返納を呼びかけるべきです。都内を歩くと公共のミニバスが目だちます。値段も通常のバスと変わらないとか、好きなところで乗降できるのもあるそうです。

多くの自治体は、障害者手帳によって福祉タクシー券発行しています。年間28,800円位です。電車共通カードやタクシー利用券を70歳以上の人々に発行する自治体もあります。東京都は、交通機関のうち東京都の区域内の停留所や駅相互間に限り、電車やバスを利用できるシルバーパスを貰えます。納税者の場合は20,510円となっています。頻繁に電車やバスを利用する人には便利でしょうが、、

こうした公共交通機関を利用できる高齢者は、まだまだ足腰がしっかりしているということです。日頃から足腰を鍛えておかないと買い物も余暇も楽しむことができません。車ばかり利用しているとどうしてもバスや電車を使うことは億劫になりがちです。高齢者を問わず、若い人も車の利用は控えめにして、歩いたり自転車に乗って健康の増進をはかることが大事です。

車社会の風景 その一 雪道とライト

しばらく、日常のどこにでもある話題を考えることにします。車と生活のことです。先日の日本海側の大雪のニュースを見ながら思ったことです。しとしと降る雪の中をヘッドライトを点灯しない車が結構走っていました。スモールランプだけをつけているのもあります。雨降りや夕方の道路でもライトをつけないドライバーも結構います。こうした光景は欧米では珍しいことです。

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夕暮れ時はもちろん、トンネルを走る時などにはヘッドライトは義務づけられています。スモールランプは、車幅灯、クリアランスランプとも呼ばれ、停車中に自分の車の存在を周りに知らせるために使用するライトです。多くのドライバーは走行中に周りが薄暗くなった時にスモールランプを使うと思っている多いようです。そうではないのです。暗くなり始めたときはヘッドライトを使うのがよいのです。

アメリカの路上で気がつくことに、昼間点灯して走るのを見受けることでます。夕方となるとほぼ全部の車が点灯しています。私の住む八王子市内を点灯して走るとライトの消し忘れと思われて、「点いてるよ」、という「点灯助言」がされます。常時点灯は「おもいやりライト運動」の一環ともいわれますが、私は自分を守るためにも点灯運転を心掛けています。オートバイは既に常時点灯なのは自分の安全のためです。「みられるための光」です。

常時点灯したからといって、バッテリーの寿命が極端に短くなるわけでもありませんし、ライトバルブを頻繁に交換しなければならないわけでもありません。自動車教習所や運転免許試験場、警察はドライバーに早めのヘッドライト点灯を指導すべきです。

「アルファ碁」(AlphaGo) その十八 本筋と俗筋

碁では普通良いとされる着手は「本筋」といわれます。本筋とは条理とか道理とも呼ばれ、理(ことわり)にかなった手なのです。本筋は最も正統的かつ正しく打つ形ということになります。「美しい形」という表現もあります。お手本となるべき手ということです。「本寸法」という用語もそのことを意味します。

その対比となるのが「俗筋」です。異筋とも呼ばれ、大抵は良くない手です。「筋が悪い」手ともいわれます。プロが最も敬遠する石の運び方です。異筋は石の働きの効率が悪いのです。その例は「車の後押し」、「空き三角」、「ケイマの突き出し」といった手です。こうした異筋は、一見先手をとっているようですが、将来起こるかもしれない劫とか味などの後続手段を消してしまう手なのです。後の打つ楽しみを残すように我慢して打つのがよいのです。俗筋は我慢できなかった手といえましょう。

碁には棋理があります。碁の理、理論のことです。長い碁の歴史で育まれた経験値が棋理を作り上げてきました。「本筋」を含めて棋理を勉強しないと上達はおぼつきません。

「アルファ碁」(AlphaGo) その十七 戦いか宥和か

碁で難しいのは、局地戦で相手とどのように折り合いをつけるかを見極めることです。自分の石が強いときは、相手を睥睨したり圧迫することです。逆の場合は一旦引き下がり守りにはいることです。

しかし、石の強弱がお互いに拮抗しているときです。そのときどのような戦術をとるかです。私の提案は宥和とか融和しないことと申し上げておきます。宥和とは相手に妥協したり譲歩することです。相手は本当はびくびくしているのに強がりを主張することがあります。それをこちらが見破れるかです。

翻って今の世界の政治状況をみてみましょう。日本と韓国、日本と中国、日本とアメリカ、日本とロシアの関係です。日本と韓国、中国は対等に渡り合っています。慰安婦問題、尖閣諸島問題、南シナ海の安全などで日本政府は妥協していません。こうした主張ができるのはアメリカの後ろ盾があるからです。現に次期トランプ政権の国務長官に指名されたレックス・ティラーソン(Rex Tillerson)は中国に対し、南シナ海の航行の安全や尖閣諸島問題は日米安保の対象となると警告しています。

日本とロシアの関係では、どうも日本政府は宥和政策に終始している感があります。そのため北方四島の帰属と平和条約締結は大分先送りされている印象があります。日本はトランプ政権の外交政策に期待しているようですが、アメリカとロシアはお互いに宥和しようとしています。従って北方四島の交渉は長引くだろうと予想されます。

宥和政策の失敗は、先の大戦直前のイギリス政府の政策に現れています。ミュンヘン会談 (Munich Conference)においてイギリス首相チェンバレン (Neville Chamberlain)は、ナチス・ドイツの領土拡張要求を小国の犠牲もやむをえないとして認め、イギリスの防衛を図ったのです。小国とはポーランド(Poland) やオーストリア(Austria)、チェコスロバキア(Ceskoslovakia)などの国々です。

碁では自分の石が強いときは決して宥和してはなりません。徹底抗戦に終始するのです。置き碁ではなおさらです。もし作戦が失敗したら白旗を上げましょう。

 

「アルファ碁」(AlphaGo) その十六 碁盤と小宇宙

碁盤は、広大な宇宙を二次元で投影したものと言われています。宇宙の縮図というと大言壮語かもしれませんが、黒石という「陰」と白石という「陽」で勝負を競うのです。ですが、小宇宙といわれるだけあって、あまりにも計算できない要素が多いのが碁です。「陰」と「陽」の勝負に運が入り込む余地は無く、ほとんど芸術にも似た石の配置と形ができ上がります。盤上では、俗に「感性七割計算三割」などと言われるほど、対局者の想いが表現されます。

「陰陽思想」と碁との関連を調べてみます。ここは森羅万象の世界。すべての物質や道理は「陰」と「陽」に分けられるという中国の思想だそうです。大雑把に言うと「陰」は「物質的かつ大きく冷たくて動かない」、「陽」は「非物質的で小さく温かくて動きがある」と分類されます。二つは表裏一体。互いに影響し合い、あくまでも相対的な関係にあるというわけです。

韓国の国旗にも「陰陽思想」が表されています。赤と青を組み合わせた円が太極といわれ、太陽と月、天と地、善と悪、男と女というように、二つのものが合わさって調和を保つという中国古来の易学の宇宙観を表しています。「宇宙の万物が陰陽の相互作用によって生成し発展する、という大自然の真理を形象化したもの」が韓国国旗、別名太極旗といわれます。

碁盤ですが、九つの星があります。その中心は天元と呼ばれ大極を表します。大極はなにものも定まっていない状態です。天元を拠点として四季の回転を意味するように東から西へ、立春から大寒へと二十四節気を示します。「黒石」と「白石」の順番で打たれます。最初に現れたのが陰。陽はその後に現れたものとされています。陰のほうが尊いとされているために、黒が先に打たれると考えられます。碁を打つことは宇宙を創造すること、といったら大分大袈裟になりますね。

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「アルファ碁」(AlphaGo) その十五 囲碁の世界における「考えることと思うこと」

今日はアメリカ新大統領の就任式。18か月前では「ありえなーい、考えられなーい」ことでした。話題は「考えること」と「思うこと」です。

八王子市内小学校での囲碁教室では、子供達につい「よく考えなさい」という言葉を使ってしまいます。恐らく子供は「考えよ」、といわれてもチンプンカンプンなのかもしれません。局面から一手を考えるとは、手順を考えることです。これは「読み」といわれます。碁の初心者に「読む」ことを期待するのは、少々高望みかもしれません。

私たちが行動するときは、将来の何らかの成否とか損得の見込みをたてています。「なぜ?」というよりはむしろ「いかに、」という過程や成果の見通しをたてます。なぜそこに打つのか、というよりはいかにしてそこに打つか、そのことを言葉で表すことができればかなりの棋力といえます。

碁は将棋やチェスと異なり、置いた石を動かすことができません。その石自体も、王将と歩兵といった役割とか機能を持たない全く無性の存在です。しかし、その石が捨て石となったり種石となるのですから、石に価値が付与されてくるという不思議なゲームです。極端にいえば無限の可能性を秘めているのです。

私たちは因果関係という言葉をしばしば使います。デカルト流にいえば、因果関係と考られる世界を「説明できることが科学だ」とする傾向があります。そこには数字が登場します。数字は、政治の世界でもビジネスの世界でも学問の世界でも幅をきかしています。会社で売り上げ予測の数字が示されれば企画書が採用されたり、当選何回ということで大臣に抜擢されたり、統計的に有意であるとして研究仮説が採用されます。すべて数字のなせる業といえそうです。

しかし、「思う」とか「想う」ということは、因果律では説明できない心の働きです。碁では、「どうしてそこに打ちましたか?」と周りが棋士に聞いても「そこが一番良さそうな、感じの出た手だと思いました」というでしょう。「思うだけでは科学的でない」といわれても仕方ありません。確かに科学の見方からすれば極めて旗色が悪いコメントです。ですが、石同士の関係性とか意味といった気分の世界があるのです。囲碁の面白さと難しさはここらあたりにありそうです。

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「アルファ碁」(AlphaGo) その十四 悪手が悪手を

大概のアマチュア、それも低段者は石が取られるとそれで戦意を喪失しがちです。悪手によって石がお陀仏になったときです。まだ抵抗できる碁を駄目にしがちなのが悪手です。

悪手を打ったときは、冷静さを保つことです。もう一度局面を見渡し、正しく形勢を判断するとまんざら悪くはないことが多々あるのです。悪手に気がついたとき、余裕を持って全局を眺めるなら、勝負はこれからということがあるのです。特に置碁のときは、まだまだ有利で先が長いのです。

悪手を打つのは誰にもあることです。悪手で怖いのはその連鎖反応ともいうべき悪手の連続です。最初の悪手は軽傷か重傷かもしれませんが、まだ致命傷にはならないのです。局地での争いですから挽回の余地があるのです。土俵を割っていないのです。命取りになるのは、悪手が悪手を誘うことです。相撲でいえば引いて叩くことです。二つの悪手を続けて打つなら、碁も相撲も勝ち目はないでしょう。

「しまった、、」というのはよくあることです。心の動揺が起きます。それが悪手を連発するのです。深呼吸をして一旦頭を冷やして盤上をみてみましょう。「アルファ碁」ならどうすのでしょうかね、、、
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「アルファ碁」(AlphaGo) その十三 呉清源九段と定石

超一流の棋士は自分だけの「悟り」があるといわれます。その一つが「いかに打つか?」と自問することだといいます。自らこの疑問を抱かないと創造力が生まれないというのです。「悟り」とは個性から生まれるのかもしれません。

「いかに?」という質問をするのが大切だという常套句は誰にもあてはまる格言です。興味とか関心は「いかに?」という問いが育むものです。碁に関していえば、ただ強い人の手を真似ても強くなれないし、勝つことは難しいのです。碁で上手になるための敵は自らの固定観念に捕らわれることだ、とよくいわれます。自分の形に執着し、その殻から抜け出せないということです。相手は、こちらが覚えている形とか定石にそって打ってはくれないのです。定石の変化を勉強していないと、間違った手を打ちがちです。

呉清源九段は、昭和の日本の棋界を風靡した偉大な棋士といわれています。氏曰く「定石は50覚えれば十分」といった名句を残しています。陰陽思想を取り入れ、「碁盤全体を見て打つ」ことを提唱します。「森羅万象のありとあらゆる物は、相反する陰と陽の二気によって消長盛衰し、陰と陽の二気が調和して初めて自然の秩序が保たれる」というのです。陰は黒石、陽は白石を表します。

定石という知識はいわば碁でいえば常識です。定石を増やすことによって、打ち方の対応が柔軟にできるのです。しかし、定石という知識は浅いとすぐ失われます。新しい定石にとって代わられる可能性があるのです。定石はしっかりと学んでさらに進化した定石を勉強することです。

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「アルファ碁」(AlphaGo) その十二 碁の心理と「コウ」

囲碁の高等戦術は「コウ」でしょう。コウは漢字では「劫」と書きます。大辞林によれば劫とは、もともとインド哲学の用語で、「極めて長い宇宙論的な時間の単位」、あるいは日本大百科全書では、サンスクリット語で「非常に長い時間」といわれています。「未来永劫」という四文字熟語があります。

囲碁では、相手と自分とが互いに一目の石を取ったり取られたりすること場面が劫です。取られたあとすぐに取り返せない約束となっています。一手、他の方面の急所に打つことを劫立てといい、それに相手が応じたあと、一目を取り返して劫争いが起こります。劫は碁を複雑で面白いものにします。たまに三劫ができて双方が譲らないときがあります。その場合は引き分け、無勝負となります。

自分が不利な形勢のときや、双方の石の死活に関わる時に仕掛けるぎりぎりの手段がコウです。時にコウは起死回生の戦術ともなります。その時コウを解消することを振り替わりといいます。自分も損はするが相手も損をします。その時どちらが損の具合が大きいかを目算してコウを続けるか解消するかを決めます。

コウは最初の段階では、つぐことによって解消してはならないといいます。コウが続くと段々コウ材が少なくなりますが、石の形がきまり安定はするものです。碁は段々と打つ場所が減ってきて必ず終局するという原理があります。

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「アルファ碁」(AlphaGo) その十一 碁の心理とヤキモチ

碁でも「ヤキモチ」はしばしば登場します。相手の地が大きく見えたりしてついつい深入りするのです。土足で他人様の庭に侵入するようなものです。少しは遠慮がちに入ったらどうかと、観戦者はハラハラします。

この言葉で思い出すのは先の戦争で米軍がとった作戦です。日本軍は北はアッツ島から南はニューギニアまで大東亜共栄圏を拡大していました。米軍は輸送船を攻撃し兵站を絶ちながら防衛戦の弱いところからじわりじわりと攻略していきます。そして最後は沖縄に上陸します。深入りはせずじっくりと戦機を待っていたのです。

囲碁は戦争と同じく戦術の勝負です。あせることなくじっくり攻めては守るという繰り返しです。ところが、大模様の布石には必ず弱い所があるのです。腰が伸びた所といってもよいでしょう。こうした箇所からじわじわ攻められると必ずといってよいほど破綻して、大きく囲ったはずの箇所がぼろぼろになるのです。

「ヤキモチ」は相手の陣内に深入りすることです。応援が続かず七転八倒して逃げ回るか、大石が召し捕られることさえあります。囲碁の四文字熟語の一つに「入界宣緩」というがあります。これは相手が強い所「界」には「宣」しく「緩」かに入りなさいという意味だそうです。深入りを慎むべきなのです。「ここはあなたの地としても結構です。その代わり私はこちらの地をいただきます。」という気分で打つことが大切なのです。

「アルファ碁」(AlphaGo) その十 碁の心理と「ハレ」

アマチュアの実戦心理の続きです。話題は「ヤキモチ」です。正月は餅ををいただきました。焼き餅は香ばしいものです。ところで文化人類学の用語に「ハレ」と「ケ」があります。「ハレ」は非日常、「ケ」は日常という意味です。昔は、「ハレ」の日には普段食べない餅や赤飯を食べました。私も戦後間もなく、正月には「白米」を食べてその香りと甘さに驚きました。この頃は「銀飯」と呼んでいました。新しい食器、服装などで気持ちを新たにしていたようです。晴れ着、晴れ舞台、晴れ晴れなどの言葉の由来が「ハレ」です。

「ケ」ですが、気枯れというように病気とか死を表す日常生活の「ケガレ」のことです。「ケジメ」をつけて「ハレ」を迎えるために清めとか祓いをする風習が残りました。秋田のなまはげもそうです。「誰にも生活の中に光と影の部分があります。「ハレ」と「ケ」はワンセットです。この概念を提起したのは柳田国男といわれます。

さてお隣、韓国の大学修学能力試験(修能ー수능)は11月にあります。この時期になると、街頭に合格祈願グッズが出回ります。餅や飴などの粘り気があって張り付くものが目だちます。「付く」という意味の韓国語「붙다」には「合格する」とか「志望校に受かる」という縁起が込められています。「ゲンがいい」のが餅なのです。「ハレ」の習俗は韓国でも同じです。

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「アルファ碁」(AlphaGo) その九 碁の心理とキキ筋

アマチュアの実戦心理にはいろいろありまして、私の苦い経験といいますか、癖がでがちな「利かし」と、高段者が楽しみにする「フクミ」についてお話します。アマチュアの癖がでるのが利かしです。例えば、ノゾキとかアテなどです。むやみにアタリをかけたりノゾキやアテを打つことで相手の石を強め、固めるという場面です。こんな手を打っていると、後ほど説明する「コウ」が発生したとき劫材がないといったことになります。

「利かし」とは、もともとは先手で打てる手で、しかもなんらかのプラスにこそなれ損のない手です。先手であることは大事なのです。相手はそれを手抜きすることができないからです。「利かし」を打つことで何らかの利益が見込まれることが期待されます。ただ先手で打てるのですが、将来の利益や手段を失うマイナスの方が大きい場合もあります。このような利かしのことを「味消し」といいいます。

次に「フクミ」(含み)です。「フクミ」とは将来いろいろな味があって狙いを含んでいる状態のことです。「アヤ」ともいわれ、ほとんどの場合、こちらに有利に展開する可能性のある石の形です。高段者はこの「フクミ」を睨みながら打ちます。低段者はそのことに気がつかないことが多いのです。そして、局地戦が一段落すると「フクミ」に対して手を付け地を少しずつ広げてはヨセていきます。「フクミ」とは「キキ筋」といって自分のほうに少しは有利に働く石の形です。例えば石を取る手といったことです。「キキ筋」に対して、俗な手を打つとなんの儲けにもなりません。

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「アルファ碁」(AlphaGo) その八 碁の心理と目算

碁の楽しみの一つに目算があります。対局の中盤や後半で自分は優勢か劣勢かを振り返るときです。自分と相手の地を数えて形勢判断することです。転じて、目論見や見込み、計画を立てることが目算です。

アマチュアには目算することが好きな人と全く目算には無頓着な人の二つのタイプがあります。私は後者に近いようです。原則、私は目算はしないことにしています。特に、自分のほうに弱い石がなく、相手を攻めているときです。攻めながら自分の地を稼ぐのですからこんなに気持ちの良いことはありません。明らかに優勢な場面となっています。

目算とは、強い石か弱い石を抱えるかによって必要かどうかが決まるのです。弱い石を抱えると逃げる一方で、一向に地は増えないのです。こうした形勢では目算は不用です。もっとたちの悪いのは、大勢がほとんど決まっているのに、目算をする人がいることです。弱い石を二つも抱えているとか、種石を取られているとか、あちこちに味の悪い箇所を持っているとかの場面です。味悪とは相手に付けいられる可能性を残している状態のことで、将来どんどん侵入されたり荒らされたりする危険があります。

目算は、自分を楽観視したり悲観視する場合にしばしば起こる心理でもあります。楽観視しすると打ち手が緩むことが往々にして起こります。逆に悲観視すると勝負手を放ったりしがちです。勝負手とは形勢を挽回しようとする無理がちな手のことです。

形勢がどうであれ、その場その場で最善の手を探すことがよいようです。これは大変難しいのですが、無理をせずじっと我慢してヨセで追いすがることが肝要といえるでしょうか。

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「アルファ碁」(AlphaGo) その七 英語の囲碁用語

チェス(chess)からきた用語を囲碁でも使います。例えば、チェック (check) があります。自分の駒を利かせて取ろうとする手のことです。囲碁では「アタリ」にあたります。

「打って返し」という技があります。これは「snap back」といいます。打って返しとは、駄目が詰まってしまい、逆に即とられることをいいます。こんなポカをしてはいけません。ちなみにポカの英語は「blunter」といいます。もともと「鈍い」という単語がからきています。

何度も出てきた「定石」のフレーズは 「a set of sequence」。両者が最善を尽くして打ってできる形、という用語が sequenceです。取れた石、「アゲハマ」の単語は「prisoner」。文字通り捕虜です。終局なると、「アゲハマ」を相手の陣地に埋めて小さくすることができます。「アゲハマ」を沢山持つと有利です。囲碁には「味」とか「味悪」という用語があります。相手を攻める余地がある、あるいは攻められそうな余地があることです。「味」は英語で「potential」、「味悪」は「bad potential」といいます。なにか危険な兆候があるという意味です。

「ナダレ」という戦術があります。これは、盤上の中央を重視し相手の石を隅に封じ込める定石です。これを英語では「small avalanche」大ナダレ、とか「large avalanche」小ナダレと呼びます。ところで「avalanche」とは雪崩のことです。中央を重視する戦術は宇宙流といわれますが、中央をまとめるのはとても難しいことではあります。

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「アルファ碁」(AlphaGo) その六 「詰め碁」と「手筋」

碁の能力は棋力と言われます。棋力をいかにつけるかはいろいろな本で指南されています。中でも「詰め碁」を解く練習は、囲碁の上達には欠かせない挑戦といわれます。

「詰め碁」とは石の死活を調べることです。詰め将棋と同じです。どのように打てば自分の石を活きにもちこめるか、または相手の石を殺すことができるか、すなわち死活を考えるものです。黒番で黒の石を活かす場面は「黒番、白死」という問題です。逆にいいますと「白番、白活き」ということです。パタンを覚えれば、実戦に類似した形が生じた場合に短時間で活き死に対応できるようになります。また、読みの力を養う絶好のトレーニングにもなるともいわれます。

次に「手筋」です。本には「接近戦において石の効率が最もっとも良よい打ち方、最善手のこと」とありますが、わかりやすくいいますと、「魔法のような手」のことです。死活に関係なく、局所的ながら得を図るような手といってもよいでしょう。「ゲタ」や「オイオトシ」などの比較的わかりやすい手から、「サガリやオキ」、「二目にして捨てる」、「鶴の巣ごもり」…などの高度な ”魔法の手筋” へと進んでいきます。手筋は、別名「筋」とか「形」ともいわれます。手筋を知り、実戦で使いこなしていければ、より高次元の碁の面白さを体験できます。

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「アルファ碁」(AlphaGo) その五 囲碁とチェス

囲碁は世界中で楽しまれています。最近はヨーロッパでも盛んになっています。チェス (chess) が広まっている欧米では囲碁の普及はさほど障壁とはならないようです。というのも、チェスは「スポーツ」とか「芸術」、「科学」と呼ばれることもあります。囲碁も頭のスポーツであり芸術であります。

囲碁とチェスはどう違うかです。囲碁は黒と白の石だけであり、種石となったり捨て石となったりして固定した役割はありません。他方チェスや将棋は駒にそれぞれの役割があり、それは変わりません。

両者が類似する点の一つに中央志向があります。盤面の中央を支配することによって陣地が広がるのです。地よりも中央での展開を重視した大模様作戦は、「宇宙流」と呼ばれます。この独特の感覚からの打ち方を編み出したのが武宮正樹九段です。

「大局観」または戦略(Strategy) とは、局面を正しく評価すること、長期的な視野に立って計画を立てて戦うことでです。「手筋」または戦術(Tactics)とは、より短期的な数手程度の作戦のことで、優位に立とうする打ち方です。

囲碁では原則的にどこへ石を置いても構いません。もちろん石を働かせるためや地を確保するためには、石を打つ箇所が決まってきます。高段者は石の効率を考えるのに秀でているので、無駄な所に石を持っていくようなことはしません。

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「アルファ碁」(AlphaGo) その四 人間と介護ロボット

今、介護ロボットの開発が急がれています。人工知能 (AI) を備えたロボットです。近い将来、人間の介添えをしたり相談相手になることが期待されています。どうしてかというと、感情や心理を読み取る能力を有するようになると予想されるからです。こうしたロボットは人の悩みの相談相手になれるはずです。相当な精度で言葉を理解し、対話の間合いや空気を読み、適切な言葉を返してくるようになるかもしれません。

カウンセリングは、悩みを訴える人の相談に応じて助言や指導をすることです。日常生活や職場生活において、心にため込んでしまった気持ちを誰かに聴いてもらいたい、誰かに自分を理解してもらいたい、寂しいので誰かと会話をしたいという場面が生まれます。愚痴を聞いてもらいたいときもあります。カウンセラーは悩める人の側に立ち、聴き手になったり伴奏者となったりして、悩みの解決へと導きます。

もし、人工知能を備えたロボットが人の心理や感情を理解することできるようになれば、介護ロボットとして人間の代用をすることは十分に考えられます。カウンセラーとして最善の対応ができるようになるかもしれません。このように、人工知能を備えたロボットがさまざまな分野で登場することが予想されます。自動運転もそうです。ですが人間が介護ロボットにとってすべて代わられるような事態にならないように、人間もまた進化しなければなりません。

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「アルファ碁」(AlphaGo) その三 人間の対戦心理

私は数字の裏に隠された事実を探すことを研究の対象としてきました。調査や測定の結果を分析することです。このとき統計の技法を使います。統計には記述統計と推測統計の二種類があります。記述統計は、収集したデータの平均や分散などから分布を明らかにすることです。例えば子供の習熟度についての傾向や性質を知るものです。他方、推測統計は採取した標本データから全体の母集団の性質とか将来の傾向などを確率によって推測するものです。投票所前での投票調査による結果の予測もその一例です。

「アルファ碁」という本によりますと、アルファ碁が打ち手を決めるのは膨大な過去の対戦棋譜に基づくデータであるとあります。この棋譜が多ければ多いほど、どのような手を打つのが最善なのかを確率的に予想するのです。

アルファ碁は、過去の棋譜から学んだことを復習するのです。復習するのは、覚えるためではなく新しい新しい手を発見するというか予測するためです。棋士もまた「定石を覚えたら忘れて」新しい定石を探す努力を続けているはずです。アルファ碁が世界のトップ棋士に勝利しているのは、棋譜というデータの集積を分析する能力に長けているからです。その能力は疲れを知らないというとてつもない性能から生まれています。

人間の人間たる所以は、勢いに乗ることができることです。勢いがつくと自信がでてきて普段の力よりさらに良い方向へ引き上げてくれます。学習すれするほど知識が増して、試験の結果がよくなり、自信がついてきます。このときは、まだ疲れを知らない状態です。しかし、逆に追い詰められると心理的に打撃を受けて自信がぐらつきます。碁でいえば対戦心理とやらでポカをしたり一手パスをしてしまう状態です。今のアルファ碁には勢いとか自信とかはないはず。ポーカーフェイスとか冷静なのです。

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「アルファ碁」(AlphaGo) その二 人間の実戦心理

人工知能囲碁プログラム「アルファ碁」(AlphaGo)の登場には棋界が驚きました。韓国の一流の棋士を四勝一敗で破って一躍注目を浴びました。今年は、井山裕太本因坊が挑戦するようです。「アルファ碁」が本因坊に挑戦するようです。済みません、間違えました。

「アルファ碁」は、一手を打つのに平均30秒から2分間の考慮時間を使うそうです。その間、過去の膨大な棋譜に基づくデータから最善の手を探すといわれます。最善の手を打てばアルファ碁が勝つ確率は53%とか次の最善の手は48%ということになるそうです。アルファ碁はたった僅かの時間内での計算によって、こうした確率をだすのです。まさに「電子計算機」の真骨頂が盤上に示されるといえます。アルファ碁の着手は確率、つまり「偶然性を持つある現象について、その現象が現れることが期待される割合」です。凄いことです。

理論的にいいますと、計算によって着手が決まっているので人間の考える着手とは無関係といえます。ところがです。人間は着手をあれこれ考えるうちに疲れるのです。ところが人工知能は疲れという概念は存在しません。実戦の心理状態という概念もありません。人間は疲れるから人間の価値がでてくるのです。感情があるから人間なのです。もし人工知能が感情や心理を有するようになると、人間と同じように間違って手を打つことが考えられます。より人間に近い「存在」となるはずです。そうなれば、碁を打ちながらミスも生まれるでしょう。感情や心理を持たないから棋士に勝てるのが人工知能なのです。人工知能の研究者にはジレンマに陥るような未来の対局の姿です。
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