旅のエピソード その40 「成熟と運転」

だんだん齢を重ねるにつれ、周りから「車の運転に注意しなさい」と言われるようになります。おまけに、「免許証を返上しては」というお節介が入ります。記憶が少しずつ衰え、反射神経と動作が鈍くなるからでしょう。しかし、運転技能というのは若いときの運転と比べて上達するということを言いたいのです。それはどういうことかといいますと、運転というのは単なる車の操作技能だけではないということです。

多くの車の事故はスピードの出し過ぎ、脇見運転などの不注意によるものです。運転中の事故は24歳までの初心者ドライバーに多いことも報告されています。運転手はたいがい、自分の車の空間が外界とは隔離した自由な世界だという錯覚に陥りがちなのです。ですから、運転中の車線の変更などで、周りからみていると危なかしく、まるで傍若無人のような追い越しをするのです。実に迷惑このうえない運転です。

アメリカには、高齢者のドライバー用のクローバーマークやシルバーマークなどはありません。運転する時、前方の車両の動作を見ながら「あの運転手はお年寄りだな、」と感じ、余り側に寄らないとか、ゆっくりついていくという運転をします。それと、サイドミラーやリアミラーを頻繁にみながら、状況を把握するように努めるのです。

サイドミラーとリアミラーに後ろの車全体が写ったときは、車間距離をとっている状態です。このとき、車線変更をするのです。これはマナーというよりも安全運転の大事な原則です。アメリカで免許をとるとき、このことをきちんと教えられました。若いときにくらべて、危機を予測できるという成熟による智恵がついています。私は自分の運転は若いときに比べて格段に向上していることを断言できます。

旅のエピソード その39 「車がスピンした朝」

ウィスコンシンの2月は真冬の真っ盛りです。高速道路を運転していたときです。路面が凍結している時間帯でした。アメリカの高速道路は、大きく分ければインターステイト (Interstate) とUSハイウエイ(US Highway) の二種類があります。USハイウエイは、通常四車線で広い中央分離帯があります。

速度は40マイルですから60キロを少し超えた程度です。突然車がスピンしてブレーキが効かなくなりました。強く踏みすぎたためです。そのときスピンした方向とは逆にハンドルを回した記憶があります。路上で一回転してようやく停まりました。幸い前後に車はありません。心臓が止まるほどの経験です。気持ちを切り替えてゆっくりと車を回転し、その場を離れることができました。

こうした冬の運転の反省ですが、第一は冬の路上は凍結していることを忘れないことです。道路管理局は、夜中に砂と塩化カルシウムの混じった融雪剤を散布します。それでも体感温度(Wind Chill)が低くなって路上が凍結するのです。

第二は制限速度より20%下げて運転することです。スピードの出し過ぎほど怖いものはありません。スノータイヤでも凍結している路上ではどうにもならないのです。

第三はブレーキをこまめに踏むことです。これによって滑りを防ぐとともに、ブレーキランプで後方車に自分の位置や車間距離を知らせるのです。

第四は昼間でもライトをつけて走ることです。バッテリーは走行中に充電されるので、節約する必要は全くありません。夜、交差点でライトを消す習慣はアメリカにはありません。車社会のアメリカから今も学ぶべきことは沢山あります。

旅のエピソード その37 「ドルの話 その二 100ドル札」

那覇東ローターリークラブの国吉昇氏は、私をロータリーインターナショナルの奨学生に推薦してくれました。そのお陰で約1万ドルの奨学金を貰うことができました。1977年頃ですから200万円くらいです。それと共に嘉手納基地の米軍将校夫人クラブからも1,700ドルの奨学金が提供されました。これにはルーテル教会の宣教師が仲立ちしてくれました。勉強してから沖縄の幼児教育に寄与することが期待されたようです。お陰で1978年に家族を連れてアメリカに向かうことになりました。

この頃になると、為替レートは円高へと進みました。沖縄の物価はどんどん上がっていきました。復帰前にフィレ(Filet Mignon) の部厚いステーキが4〜5ドルくらいで、1,300円くらいでしょうか。復帰後はあっというまに2,000円、3,000円へ値上がりしていきました。沖縄の人は長い間ドルで生活していたので、所持していた相当のドル預金が目減りしたのです。それを回避しようとして物価が急に上昇したのです。住んでいたアパートの家賃も2倍に上がりました。

沖縄の人々は、「本土復帰とは一体なんだったのか」という疑問を投げかけ始めました。しかし時既に遅しです。復帰によって本土からさまざまな人と物、法律や組織が入ってきました。中央省庁から役人がやってきて、沖縄は完全に本土並となりました。国家権力がいかに凄いか、恐ろしいかを思い知ったといわれました。

ドルの話の続きですが、国吉氏は私の渡米を前に100ドルの餞別をくださいました。始めて見る100ドル札でした。アメリカに行きまして、あるとき買い物の際にこの札を女性のキャッシアに渡すと、彼女はそれを事務所へ持っていきました。100ドル札を見たことがないのか、偽札を心配したのかです。通常買い物で100ドル札を出す人は全くいません。皆小切手を使います。大学の授業料を支払うときも現金は受け付けません。わたしの現金と小切手の見方が変わった出来事といえます。

成田滋のアバター

綜合的な教育支援の広場

旅のエピソード その36 「ドルの話 その一 1ドルが360円」

始めて沖縄に行ったのは本土復帰の2年前、1970年です。那覇市内で幼児教育の一環として幼稚園を開設する仕事を命じられました。まだパスポートと予防注射が必要なときでした。1ドルが360円のときです。

当時琉球政府のお役人とで、幼稚園作りのためになんども打ち合わせをやりました。幸い、幼児教育の必要性が高い沖縄でしたので、設置基準を満たさないことに目をつむってくれ、設置にこぎ着けることができました。1972年に本土復帰を果たし、1ドルが300円となりました。

園児を募集すると障害のある二人の幼児がやってきました。この幼児を担当するのが私の仕事ともなりました。みよう見真似で懸命に指導したのですが、やがてもっと障害児教育を学ぶ必要を感じてきました。ひよんなことで、ロータリーインターナショナル(Rotary International) という国際組織が、障害児教育の勉強で奨学金を出していることを知りました。ロータリーの会員はロータリアンと呼ばれます。ロータリアンは、それぞれの地域社会および世界社会において、人々の生活の向上を計るためにボランティアとして奉仕することを求められています。

沖縄には1966年に設立された那覇東ローターリークラブがありました。そこでの奨学金を担当している国吉昇氏と出会いました。この方は、沖縄戦のときまで沖縄地方気象台に勤務されていて、気象情報を軍に提供するという仕事をされていました。九死に一生を得たご体験の持ち主です。ロータリアンとして50年以上も毎週の例会に欠かさず出席する熱心な会員でした。今は、那覇市内の高齢者施設で暮らしています。2020年1月に国吉氏を訪ねることが出来ました。コロナ感染が広まる前でした。

旅のエピソード その35 「教育委員会の金曜日の午後」

旅には食べること、飲むことにまつわるエピソードが多いようです。旅先で1日中調査をしながら歩き回わるとおなかはペコペコになります。なにを食べようか、これがその日のご褒美です。特に夕食の楽しみは格別です。

同行した京都の校長先生とでシカゴ・オヘア空港側にある教育委員会で教育長にインタビュをしました。それが終わって地元の学校に案内されました。どの学校も自分たちのカリキュラムはいかに優れているかを自信たっぷりに語ります。自分たちはNO1だといってはばからないのがアメリカの校長です。その点、日本の校長は自分の学校が他の学校に比べて優れているなどと言わないのとは対照的です。

昼食時になり、教育長は近くのレストランに連れていってくれました。そこには、12名くらいの部下や管理職の教員が待っていました。ワインも飲んでいます。昼間からワインを飲むのは決して珍しいことではありません。午後の仕事に差し障りがあるのではと心配するのが日本人のサガのようなものです。

昼食が終わったのが午後2時過ぎ。その日は金曜日でした。気分はすでに週末の休暇が始まっています。”Thank God, it is Friday:TGIF”(神様、ようやく楽しみな金曜日がきました)という台詞があります。アメリカ人の間で金曜日に使われるフレーズです。それにしてもゆとりのある教育委員会の面々だな、と感心しました。管理職はいかに平日は懸命に働くかということを示すエピソードです。

旅のエピソード その34 「楓と中禅寺湖」

立春が過ぎたばかりなのに、楓の話をするのは少々気が引けます。紅葉はまだまだ先の話ですが、今回はこれを話題とします。ただぶらぶら歩いたり山歩きの好きなわたしには紅葉がたまりません。今まで訪れたことのある京都の東福寺、友人に案内してもらった滋賀県の永源寺、和歌山県の高野山、そして地元高尾山、、。国中が紅葉に包まれるのが日本です。

以前の職場にミネソタ大学(University of Minnesota-Twin Campus)から3名の教授を招いたときです。障害児教育のセミナーを開き、それが終わってから日光に案内しました。もちろん中禅寺湖にも足を伸ばしました。丁度紅葉が盛りなので、遊覧船で沖にでました。実に繊細な紅色が小さめの楓の葉に広がるのが日本の紅葉の特徴です。標高2,500m位の男体山を背景に湖面に映る真っ赤な楓に、さすがのミネソタの客人も感嘆していました。

ミネソタは中西部の北、カナダに面します。中西部の秋は短く冬の足音がかけっこのようにやってきます。ウイスコンシン、イリノイなどもそうです。中西部の紅葉は、日本のそれとは趣が異なります。大地一面が黄色がかった紅に染まるのです。その理由は、カナディアンメープル(Canadian maple)の葉は日本の楓と違い大きいのです。

冬を前に紅葉はあっという間にやってきます。紅葉がひときわ鮮明なのはカナディアンメープルです。カナダ国旗の中央に楓の葉があしらわれています。年に1度だけ、この自然からの贈り物を楽しまない手はありません。大自然に抱かれるような気持ちに浸りながら心ゆくまで歩く。こんな贅沢を楓は運んできてくれます。

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旅のエピソード その33 「塾の加熱ぶり」

韓国の受験対策は、日本からすると尋常ではないほど過熱しているようにみえます。このブログで登場しているソウル在住のユ・キム夫妻の娘さん、名前はキリヨン(키리욘)の受験生活を紹介することにします。キリヨンはかつて兵庫教育大学附属小学校に一年間勉強したことがあります。キム氏が同大の客員研究員として滞在していたときです。彼女はそのため日本語が達者で、日本語検定試験の3級に合格しています。

彼女はソウル市内の公立の高校で学びました。普段は3時まで学校で授業を受けます。一度家に帰り、一時間くらいの午睡をとりそれからお手伝いさんの作る夕食を食べます。そして塾(アカデミー)に迎えのバスで通います。授業は10時まで続きます。平日はこのような日課なのですが、土曜日と日曜日は午前中、時に午後も塾に通います。夜10時頃になると、塾の前は沢山の送迎バスが並びます。

韓国はご存じ、日本以上に学歴社会の国です。中国の科挙の影響です。科挙は、中国の6世紀頃から始まった高級官僚の登用試験です。ヨーロッパでは、貴族の世襲が当たり前だったの対して、中国は優秀であれば官僚になれたのです。その点では誰もが官僚になれる優れた制度だったようです。韓国人から「どんな大学をでましたか?」と何度も聞かれたことがあります。どの大学を卒業したかによって、わたしの能力を確かめるのですね。

さて韓国の受験の仕組みですが、まずは大学修学能力試験(수능-スヌン)というセンター試験のようなものがあります。韓国ではどの大学に入れるかはスヌンの成績で決まります。内申書および2次試験と合わせて総合評価をしますが、大学修学能力試験が最大の比重を占めるのです。スヌンが終わると国公立、私立、一つずつ受けることがでます。スヌンは入学前年11月中の木曜日に設定されて1日で終わります。一時、慶応大学への留学も考えていたキム夫妻のキリヨンですが、結局韓国外国語大学校に入学し、日本語や英語に磨きをかけたようです。

旅のエピソード その32 「宮廷料理と失敗」

またまた、銀行の重役をしている柳(유-ユ)さんとの話題です。奥様は何度も紹介していますが、大邱教育大学校の英語学のキム・ヨンスク(김영숙) 教授です。

いつか宮廷料理を一度試食したいと思っておりました。「チャングムの誓い」(대장금)をずっと観ていた影響もあります。宮廷料理はこの韓国ドラマでしばしばてきました。水剌間(수라간-スラッカン)で女官のチャングムが卓越した料理の腕を振るうという話しです。水剌間とは厨房のことです。そして私がユさんに、主演女優のイ・ヨンエ(이영애-李英愛)氏に会いたいのでアポをとってもらえないだろうか、という難題を出しました。彼は苦笑いをしていました。

そんなこともあってかソウル滞在中、ユ・キム夫妻に宮廷料理に招待されました。ヨンスーサン(영스산) というレストランです。光化門駅から徒歩5分位のところにあります。チラシには、韓國の料理の古來の正味と伝統を受け継いでいるとあります。ユさんは一番高いコースの14品とデザートがついた定食を注文しました。 一人150,000ウォン、14,000円位だったはずです。

ご存じの通り、韓国料理では器を手に持って食しません。テーブルに並ぶ品を皆で手を伸ばしていただきます。はじめの内は違和感があるかもしれません。手で直接掴んだり、ペチャクチャと音を立てるのは不作法とされています。

後でわかったのですが、私はこの席で失敗をしてしまいました。食事のペースは、年配者に合わせることを知らなかったのです。ユさんが先に食事をし終わったのですが、私は食事を続けたのです。年配者が食事を終えたら、その時点で食事を終わるというのがマナーだというのです。私のほうが年配なのですが、ユさん私の「先輩」であり「ホスト」なので彼の動作に沿うべきでした。韓国では、ホストの所作を観察しながら食べるのが大事なようです。

旅のエピソード その30 「南山公園でのバトミントン」

大邱教育大学校のキム・ヨンスク教授のご主人柳(ユ)さんは銀行の重役をしています。重役室に招かれると客がいて、紹介されました。その方に私が「ユよさんは私の先輩です」といいますと、「先輩」という言葉は最近あまりきかなくなった」、というのです。私は親しみを込めて重役のユさんを先輩と呼びます。ハングルの発音も「ソンペ」(선배 )です。

韓国語(-朝鮮語)には、固有語と漢字語があります。漢語(한자) の使用頻度はあまり高くなく、通常はハングル (한글) のみで表記され、今の韓国では漢字語のみに漢字が使われるようです。1970年から始まった漢字廃止政策の結果だといわれています。ちなみに、ハングルのハンは偉大な、クルは文字という意味です。我が国のひらがな、カタカナにあたります。

ユさんはスポーツが好きです。朝、ソウル市民の憩いの場、南山公園(ナムサンコンウォン–남산공원 )に案内してくれました。ソウルのランドマーク、ソウルタワーもここにあります。南山公園を楽しめるハイキングルートはいくつかあります。

そこをユさんと一緒に20分ほど走りましたが、大柄なユさんについて行くのは大変でした。公園の一角にバトミントンをするグループがいまして、ユさんがそこにも案内してくれました。一緒にやろうというのです。彼はこの同好会に入っていて、毎週仲間とやるのだそうです。会員は40代から50代の人です。

しばらくすると鍋が運ばれてきて、チゲ(찌개)が振る舞われます。当番になった仲間が作ってくるそうです。「たくさん食べてください」 と声をかけられて嬉しくなりました。汗をかいたあとのチゲは格別です。味がよいのです。スポーツは韓国でも中年以上の人々にも浸透していることを感じたものです。

旅のエピソード その29 「カメラの置き忘れ」

ソウル(서울)の北70キロくらいのところに1992年に開館した烏頭山(オドゥ山)統一展望台(오두산 통일전망대) があります。臨津江(イムジン川-이무진강 )を隔てて北朝鮮と向かい合っています。板門店-판문점 や非武装地帯 (DMZ) とは異なり、外国からの観光客も韓国人も自由に訪ねることができます。この展望台は、漢江(ハンガ-한강 )と臨津江が合流する地点にあり、北朝鮮の農村地帯を展望することができます。ここを2度訪ねたのですが、最初は客員研究員でお招きしたソウル教育大学校のチョウ先生、そして2度目は大邱教育大学校のキム先生がそれぞれ案内してくださいました。

統一展望台から見える北朝鮮の農村ですが、かなり立派なアパート群が建ち、公民館、小学校なども見えます。しかし、夜になると電気はつきません。韓国からの脱走者を受け入れる宣伝に造られているのだそうです。望遠鏡で眺めてみましたが、人一人見当たりません。

面白いことに、この展望台の売店では北朝鮮名産の高麗人参酒や北朝鮮の切手、工芸品などのお土産も買うことができます。わずかながら、南北間で貿易も行われていることがわかります。しかし、展望台への道の海側には鉄条網が延々と続き、厳重に警戒されています。そしてところどころに歩哨が立つ小屋があります。

展望台の売店で家内がカメラを手洗いに忘れました。気がついて戻りましたが見あたりません。すぐ数名の警備員に連絡して探してもらいました。先を歩いていたグループの人々を追いかけるのですが、すでにバスは出発したあととのことでした。カメラを紛失し大事な想い出をなくして残念でしたが、親身となってくれた韓国人警備員と触れた旅となりました。お土産を残したと思えばと家内を慰めましたが、、、

旅のエピソード その28 「万里の長城と検閲」

北京と上海にそれぞれ一度行きました。同窓生である留学生のSHさんを頼っての研修旅行です。こうしたコネクションによって、旅は円滑につつがなく進むものです。留学生は富山大学を卒業後、兵庫教育大学院を修了し、広島大学院博士課程を終えた異色の中国人です。今は成都市の大学で教えています。

SHさんですが留学中はあちこちで中国語を教え、生計を支えていました。ご家族とで兵庫県の加西市に住んでいました。中国人の奥様はアパレル関連の会社に入り、社長の秘書として頻繁に北京や上海を行き来していました。ご子息は加西市の小学校に入り、その優秀さは抜きんでていたようです。

北京にいきますとSHさんが空港に迎えにきてくれました。ミニバンをチャーターしてくれてホテルに向かいましたSHさんのお父さんは、かつては中国政府の経済担当の上級公務員であったようです。高度経済成長の最中、日本にたびたびやってきては日本の経済成長の姿を調べていたというのです。鉄鋼会社やその工場をまわり経営の実態をつぶさに視察したそうです。

SHさんのお父さんが我々一行を夕食会に招待してくださいました。紹興酒を何度も酌み交わしました。北京ダックも食卓に並びました。今は引退されて年金で悠々自適の生活を送っていると話されていました。日本での調査のことについてもエピソードを語ってくれました。

翌日、ミニバンに乗って万里の長城へ向かいました。到着すると警察が車を一台一台調べているのです。許可をもらって万里の長城に来たかを調べているのです。そこに日本人学生を乗せた別のミニバンが来ました。その運転手は許可をもらっていなかったようです。多額の罰金を科せられるそうです。SHさんは我々のためにきちんと許可をもらっていたので、なんのお咎めもありませんでした。中国の検閲体制を垣間見た旅でした。

周りに観光客がいないのを見計らい万里の長城の上を、100メートルほど走ってみました。長城のもう一つの思い出といえば素朴なトイレでした。同行していた家内ら女性は面食らったようです。

旅のエピソード その27 「ハワイの日系アメリカ人」

日系アメリカ人の活躍は前々回に少し述べました。ハワイに移民した最初の人々は一世(Issei) 、そして今や四世(Yonsei)から五世(Gosei)へと受け継がれます。ちなみに、こうした単語はすっかり英語として定着しています。

日系アメリカ人は、長い間偏見と差別に苦しみました。そのために生活も苦しかったようです。懸命に働き、教育を大事にし、善良なアメリカ市民になろうと努力しました。ハワイ大学より兵庫教育大学に客員研究として招いたカーティス・ホー(Dr.Curtis Ho)教授は、中国人と日本人との間に生まれた方です。小さな島で育ち、やがて奨学金をもらい本土の大学で学び、研究者となりました。父親は厳しい労働に従事し、稼いだお金を彼の教育のために注いだそうです。

日系人がアメリカ社会での地位を確立するには、「勤勉な働き者」「清潔好き」「礼儀正しい」「約束をきちんと守る」といった矜持の定着が必要でした。こうして日系人は確実に善良な市民としてのイメージをアメリカ社会に定着させていきます。

日系人の活躍です。1963年にダニエル・イノウエ氏(Daniel Inoue) が初の日系上院議員となります。ジョージ・アリヨシ氏(George Ariyoshi) が1974年に第3代ハワイ州知事に就任することで、日系人の地位や役割が不動のものとなります。1978年 エリソン・オニズカ氏(Elison Onizuka) が日系人として初の宇宙飛行士に選ばれます。ですが、乗り込んだチャレンジャー(Challenger) が爆発し亡くなります。1988年には、第40代のロナルド・レーガン(Ronald Reagan)大統領が、大戦中に人種差別政策により日系人を強制収容所に連行した歴史に謝罪し、一人につき2万ドル(約200万円)を補償したのは目新しいことです。

旅のエピソード その26 「マウナ・ケア山とすばる」

ハワイ島は火山の島です。そこには広大な国立公園があり、沢山のハイキングコースがあります。その総延長は150マイルといわれています。230キロくらいでしょうか。今も火山が活発に活動しています。噴火の跡の溶岩(ラーバ)はまだ弾力があって、足の裏に伝わってきます。風で運ばれた種が育ち、あちこちに草木が地面を覆っています。ビジターセンタを訪れると、大噴火のすさまじさが映像と写真で紹介されています。最近の大噴火は1984年に起こりました。

ハイキングコースを歩きますと、噴煙や蒸気が沸き上がっています。歩く途中では、水平線から水平線にまたがる完全な半円形をした虹をみることができます。日本では見られない光景です。

島最大の街ヒロ(Hilo)から四輪駆動のワゴン車を借りて、島の最高峰マウナ・ケア山(Mauna Kea)4200メートルに向かいました。マウナ・ケアの山頂付近は天候が安定し、空気が澄んでいます。晴天日は年間300日にのぼるといわれます。世界11ヶ国の研究機関が合計13基の天文台を設置しています。日本の国立天文台が1999年に設置した光学赤外線望遠鏡の「すばる」もここにあります。天文台からのデータは、山裾にある研究施設に送られ分析されています。

事前に三鷹にある国立天文台から見学許可をもらい、兵庫教育大学の院生らとでこの国立天文台を見学する機会を得ました。中の施設に案内されたのですが、同行した院生には理科の教師がいて、天文台の偉容に圧倒されたようでした。

旅のエピソード その25 「日系アメリカ人の博物館」

1885年1月、最初の日本人移民944人が農業労働者としてハワイに到着します。その後沖縄も含めて各県から多くの日本人がハワイにやってきます。ハワイ島は別名Big Island。ホノルルから飛行機で1時間のところにあるハワイで最大の島です。この島で一番大きな街がヒロ(Hilo)です。ハワイ島もまた日系人が開拓したところといわれています。

ヒロの街の中に日系アメリカ人が建てた小さな日本人センター(Hawaii Japanese Center)があります。人々が持ち寄った貴重な品々、写真などが展示されていて、小さな歴史博物館ともなっています。山本五十六連合艦隊司令官が率いる艦船が寄港したときの写真、第二次世界大戦中、合衆国陸軍に志願し、ヨーロッパ戦線で勲功をあげた日系アメリカ人のみで編成された442連隊のメンバーの写真などが飾られています。

太平洋戦争によって大多数の日系アメリカ人は、アリゾナ州(Arizona)やワシントン州の僻地に建てられた収容所に移されます。442連隊のメンバーもこうした収容所から志願してヨーロッパ戦線に向かいます。戦後、日系アメリカ人はアメリカ社会の中に日本に対する信頼を築く役割を果たします。日系アメリカ人の政治家、実業家などが輩出していきます。その一人が、ハワイ選出の上院議員、ダニエル・イノウエ(Daniel Inoue)です。戦場で負傷して片手を失う経験もします。

こうした人々の働きが、高度経済成長期期における日本企業のアメリカ市場への進出に大きく貢献することになります。アメリカの国勢調査によると、日系人の特徴として「高所得」、「高学歴」、「低失業率」、「低貧困率」が挙げられています。このうち所得と学歴については、白人の平均や全米平均よりは明らかに高く、貧困率については全人種の中でも低いといわれています。

博物館の話題に戻ります。ここには歴史のある貴重な本や昔の新聞、写真などがたくさんあります。展示物の中に歴代天皇の写真があります。明治天皇や昭和天皇の写真に混じって、神武天皇の写真もあるのです。日系アメリカ人の日本に対する想いと天皇に対する深い畏敬の念をこの写真から感じたものです。

旅のエピソード その24 「マウントバーノン」

「マウントバーノン」。なんとものんびりする響きです。英語ではMount Vernonというスペルです。全米各地にマウントバーノンという街が沢山ありますが、その中でも最も知られているのが、ワシントンDCの南、車で1時間のバージニア州(Virginia)のアレクサンドリア(Alexandria)にあるマウントバーノンです。

マウントバーノンは、合衆国初代大統領ジョージ・ワシントン(George Washington)の農場(Plantation) や邸宅があります。邸宅は、新古典主義ジョージア調建築様式と呼ばれる木造の建物です。ジョージア調建築とは、建物がシンメトリー(左右対称)を基本としていることです。その東側にはポトマック川 (Potomac River) が控え、周りは広い農場が広がります。いまは国が定めた歴史的建造物として保存され、全米からの観光客が訪れるところです。

マウントバーノンは年中無休。祝日やクリスマスでも開放されています。わたしたちはワシントン家の邸宅、納屋、物置、奴隷用宿舎、台所、厩、温室など見てあることができます。案内人がついています。この農場内の庭園や森の小道を散策することができます。当時は100人あまりの黒人奴隷が働いていて、この農場を開拓したことがわかります。

ここにワシントン夫妻の墓所があります。奴隷の記念碑や墓地もすぐそばにあります。2度目にこの墓所を訪ねたときです。なにか、得体の知れない匂いがこのあたりに漂っていました。もしかして、ワシントンのお墓から、、、などという不遜なことを考えました。実のところ、この匂いは農場に撒いている鶏糞かなにかの腐った匂いなのです。

旅のエピソード その23 「ミニットマンとチップ」

ボストン(Boston) の西20kmにレキシントンとコンコード(Lexington-Concord)という街があります。周りは静かな農村地帯です。この小さな街で1775年の4月に独立戦争(Independence War)における最初の大規模な戦いが植民地軍とイギリス軍とで繰り広げられます。植民地軍は正規の兵士と民兵によって組織されていました。民兵の多くは農民です。農作業や狩猟をしながら、召集されると数分(minute)で駆けつけるというので、ミニットマン(minute man)と呼ばれていました。民兵には狩猟をしていた者が多数いたので、狙撃手としても活躍したようです。

毎年7月4日の独立記念日や夏の週末になると、レキシントンとコンコードのあちこちで観光客を相手にしたツアーがあります。地元の高校生がミニットマンに扮して、観光客をガイドします。こうした高校生は、歴史を学びスピーチの仕方を覚え、やってくる人々をもてなす術を学び観光客に披露します。観光客をいかに話に乗せるか、これが勝負所です。まさにエンターテイナー(entertainer)です。その演技の出来ばえはすぐに表れます。

ミニットマンのスピーチや演技に皆引き込まれていきます。ツアーの最後には、「我々に自由と独立を、そして勝利を!」と皆で絶叫し、かぶっていた帽子をとって観光客の中に回すのです。人々は皆ニコニコして1ドルから10ドル札のチップ(tip)を入れて帰ります。チップを渋る観光客はいません。実に秀逸で飽きを感じさせない、なんとも気持ちの良いツアーです。

旅のエピソード その22 「ボストン・ティーパーティ」

ボストン(Boston) は味わい深い町です。アメリカの短い歴史にあって、歴史が始まった場所でもあります。ボストンには「Freedom Trail」という市内の歴史的な建造物や場所を訪ね歩くコースがあります。自分で地図を見ながら歩いて市街を巡るのです。

ダウンタウンのど真ん中には、グラナリー墓地(Granary Burying Ground)があります。政治家のサミュエル・アダムス(Samuel Adams)、コモンウェルスの初代知事となったジョン・ハンコック(John Hancock)らが眠っています。その隣にある公園がボストン・コモン(Boston Common)という広大な公園です。多くの人々が散歩しています。小高い丘、バンカーヒル(Banker Hill) は、1775年6月に起こった植民地軍とイギリス軍の戦跡です。植民地軍は激戦の末に敗れるのですが、そこでの頑強な抵抗精神はその後の戦いに受け継がれていきます。
ボストン・コモンから歩いて10分位のところにボストン・ティーパーティ(Boston Tea Party)が起こったという波止場にきます。1773年12月に、地元の人々がアメリカ・インディアンに扮装して、港に停泊中のイギリス船に侵入し、イギリス東インド会社の船荷であった紅茶箱をボストン湾に投棄した事件です。いわば独立戦争前のゲリラ戦で、アメリカ独立革命の象徴的な出来事とされています。

ティーパーティの場所には小さな船が係留されていて、そこで入場料を払って乗り込みます。案内の人は、観光客に対して当時の人々が紅茶を投げ捨てるという演技を求めます。「イギリスは出て行け!」、「われわれのお茶を盗むな!」、「われらに自由を!」こうしたスローガンを大声で叫びます。そしてお茶箱にみたてた袋を海に投げ捨てるのです。このように観光客に歴史の瞬間に引き戻そうとする趣向と仕掛けは、どの観光地でも見られることです。

旅のエピソード その21 「プリマスとメイフラワー号」

ボストン(Boston) の南東、車で1時間のところにプリマス(Plymouth)という街があります。港町です。ここには1620年にイギリスのブリンハム(Bringham)という港から大西洋を渡ってきたメイフラワーII(Mayflower)号のレプリカ(replica)が停泊しています。

メイフラワー号にある説明によると、清教徒(Puritan)らが長く苦しい航海を続けて、やってきたことがわかります。ヨーロッパでの宗教的な迫害を逃れて新大陸を目指した人々の心意気も伝わる船です。

このプリマスから5キロのところにプリマス・プランテーション(Plymouth Plantation)という開拓村が保存されています。1627年に人々が入植した場所です。インディアンの攻撃から護るために作られた木の柵で囲まれた広大な部落です。住居、ベーカリー、鍛冶屋、店、教会、学校、畑が点在しています。

ここで働く人々は開拓当時の服装といういでたちです。この開拓村はすべて1600年代という設定なのです。使っている道具、家財も当時を復元しています。ですから、観光客もその時代に遡って、そこで働く人々と会話することが期待されます。

「このお土産品は何ドルですか?」と観光客がたずねます。そうすると店員は「ドルって何ですか?」と逆にきくのです。さらに客が「私は日本からきた」とか「このプランテーションをインターネットで知ってやってきました。」というと店員は「日本ってどこにあるのですか?」「インターネットって何ですか?」と惚けるのです。そこで始めて観光客は、「ああそうか、、ここは1600年代なんだ、、」とわかるのです。珍妙な会話が楽しめるところでもあります。

旅のエピソード その20 「フットボールは情報合戦」

秋にアメリカへ行くときは是非カレッジ・フットボール(college football)を観戦していただきたいです。週末はかならずといってよいほど、どこかで試合をやっています。入場料は20ドルくらいです。

スタジアムへ行きますと、駐車場ではグリルでハンバーグやホットドックを焼いて景気をつける人々がいます。学生寮の側を通ると、ラジカセやCDプレーヤーのボリュームを一杯に上げて試合前の雰囲気をあおっています。学業からしばし解放された若い学部生がなにかを叫んでは気勢を上げています。いやがおうでも興奮が高まります。

フットボールは情報合戦のスポーツです。高いスタンドには偵察チームが陣取り、攻撃や守備のコーチに相手チームの弱点や強みを無線で教えるのです。戦争でいえば衛星を使って戦場を監視するようなものです。ラン(run)でいくかパス(pass)でいくか、キック(kick)で陣地を挽回するか、あるいはギャンブルするかなどの決定に必要な情報を与えるのです。

クォーターバック(QB)はチームの司令塔、いわば前線の指揮官です。それを動かすのが偵察チームからの情報であり、それに基づいてQBにプレイを指示するのが攻撃(offece)コーチや守備(defence)コーチです。一つひとつのプレイについて、コーチからの指令を受けたQBは円陣を組んで選手にそれを伝えます。この円陣のことをハドル(huddle)といいます。

選手は勝手な行動は許されません。一つ一つのプレイがこうした偵察チームからの情報によって決められます。戦争遂行の作戦と同じです。プレイのパタンはさまざま。それを組み合わせるのです。相手チームも同じように作戦を立てます。いかにして相手の裏をかくか、意外なプレイをするかをスタンドで予測するのがフットボールの醍醐味といえます。

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旅のエピソード その19 「フットボールとビジネスモデル」

アラバマ州(Alabama)の小さな街タスカルーサ(Tuscaloosa)にアラバマ大学(University of Alabama)の本校があります。1831年に創立された州立の総合大学です。タスカルーサのあたりは、南部の南部、Deep Southと呼ばれます。街を歩くと白人はあまり見かけません。なんとなく寂しさが漂う街です。「南部に来た」という気分になります。

アラバマ大学はカレッジ・フットボールでは強豪として知られています。かつてポール・ブライアント(Paul Bryant)というヘッドコーチ(監督)の指揮により、計13度にわたり全米チャンピオンとなっています。このコーチのニックネームは「ポール・ベア(Paul Bear)」として親しまれました。トム・ハンクス(Tom Hanks)主演の映画「フォレスト・ガンプ(Forrest Gump)/一期一会」はアラバマ大学フットボール部がモデルとなっているほどです。

アメリカのカレッジ・スポーツでは、フットボールが稼ぐ収入と貢献度は突出しています。多くの大学では全スポーツからの収入の6割前後をフットボールで占めるくらいです。収入の多いスポーツとしてはバスケットボール、アイスホッケーなどが続きます。それだけにフットボールのヘッドコーチの年収も桁外れです。その額は大学の総長をはるかに凌ぎます。

フットボールチームのコーチで最も高い契約金をもらっているのが、アラバマ大学のニック・セイバン(Nick Saban)で約8億5000万円、第二位はミシガン大学のジム・ハーボー(Jim Harbaugh)で約8億4000万円をもらっています。大学で最もスポーツからの収入が多いのはテキサス大学で約98億円、第五位のウイスコンシン大学も約77億円の収入があります。これが収入のない他のスポーツ活動の運営を支えています。選手達の奨学金にも振り分けられています。

カレッジ・フットボールは全米に放映され、その広告料は膨大なものです。フットボールは大学のビジネスモデルの典型です。「”ポール・ベア”・ブライアント」はビジネスモデルを全米に知らしめた偉大なコーチとして今も語り草になっています。