懐かしのキネマ その30 【ミュージック・オブ・ハート】

音楽が子ども達にもたらす素晴らしさを伝える映画(Music of Heart)です。製作は1999年で舞台はニューヨーク(New York) の東ハーレム(Harlem) 地区にある荒れた小学校です。この映画は、実在の人物であるロベルタ・ガスパーリ(Roberta Guaspari)を映画化しています。ロベルタを演じるのメリル・ストリープ(Meryl Streep)です。

夫と別居し実家のニュージャージー(New Jersey)に戻ってきたロベルタは、友人のアドバイスでヴァイオリンの特技活かしてハーレム地区の荒れた小学校でヴァイオリン・クラスの臨時教員となります。初めは誰も真剣でなかった子どもたちで、ロベルタは荒れた子ども達に悪戦苦闘します。ですが徐々に子ども達もヴァイオリンを楽しむようになりロベルタの熱心な指導でみるみる上達していきます。当初約50人の子供たちに教えていたのが、好評になり10年後には同じ地区内の3つの小学校の生徒全員で150人ほどに教えるようになります。

子ども達の演奏会を開き、結果は大成功。校長や親達から絶賛されます。教育を通じロベルタも自立した強い女性へと成長していきます。それから10年間、ロベルタの授業は続きますが、市の予算の都合でロベルタは解雇勧告され、ロベルタのクラスが閉鎖されることになります。そこからクラス継続の市民運動が始まります。ロベルタはクラスを存続させるためチャリティーコンサートを開くことを決意。一流のヴァイオリニストなど様々な賛同者の協力を得てカーネギー・ホール (Carnegie Hall) でのコンサートを成功させます。

ロベルタを演じたメリル・ストリープの熱演と彼女のヴァイオリン演奏の演技が見所です。ヴァイオリニストのアイザック・スターン(Isaac Stern)も登場します。演奏シーンはカーネギー・ホール(Carnegie Hall)が使われています。学校は教師の情熱で成果を生み、それに揺り動かされる市民で支えられるというテーマです。

懐かしのキネマ その29 政治体制への批判と音楽 【Le Concert】

人種偏見や迫害を描く映画は残酷なイメージを抱きがちですが、必ずしもそうではありません。ユーモアとエスプリ(esprit)が効いた体制批判の映画もあるのです。それが2009年にフランスで製作された「コンサート」【Le Concert】です。ユダヤ系ロシア人が音楽を通じて長い厳しい道を歩みつつ、なお弛まなく挑戦する姿を描いた名作です。音楽好きな人も映画が好きな人にも是非観てもらいたい作品です。

映画【Le Concert】の荒筋を紹介します。舞台はモスクワ(Moscow)のボリショイ(Bolshoi Theater) 劇場です。かつてボリショイ歌劇場交響楽団(Bolshoi Theater Orchestra) で世界的な指揮者「マエストロ」といわれたアンドレ・フィリポ (Andrey Simonovich Filipov) は、今は同劇場の掃除夫として働きアル中になっています。アンドレは30年前に、当時のブレジネフ政権(Leonid Brezhnev)によるユダヤ人楽団員の排斥に抵抗したために、チャイコフスキー(Tchaikovsky)のヴァイオリン協奏曲ニ長調を演奏中に秘密警察、KGBのエージェントであるイワン・ガブリロフ(Ivan Gavrilov)によって中止させられ、団員とともに楽団を解雇され掃除夫となっています。

アンドレが劇場支配人の部屋を掃除しているとき、一枚のファックスが出てきます。アンドレはそれを手にとって読むと、パリの有名なシャトレ劇場(Chatelet Theatre)からのもので、ロサンジェルス交響楽団(Los Angeles Philharmonic Orchestra)の代わりにボリショイ楽団にパリで演奏してもらいたいという招待状なのです。アンドレはそのファックスを手にして、かつての団員に呼びかけオーケストラを組織し、ボリショイ楽団になりすましてパリで公演しようと画策するという奇想天外な展開です。

アンドレは、古いユダヤの音楽やジプシー音楽を弾いているかつての団員など、追放された仲間に声をかけてチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲をシャトレ劇場で演奏しようと持ちかけるのです。この曲はKGBによって中止に追い込まれた怨念の曲でありました。なりすましのボリショイ楽団はパリ公演のためにパスポートを業者に偽造させたり、楽器は借り物、演奏会用の洋服や靴をそろえるなどドタバタが続きます。そしてパリにやってくるのです。だが団員は物見遊山ツアー気分で、パーティを楽しんだり、持参したキャビア(caviar)を売ったり、タクシーの運転手などをして金儲けを始める有様です。そんな状態で団員は集まらずリハーサルは流れてしまいます。

パリに在住するヴァイオリニストのアンマリー・ジャケ(Anne-Marie Jacquet)は、ヴァイオリン協奏曲の演奏者として出演を依頼されます。彼女は、ロシア以外でも有名だったアンドレと一緒に演奏したかったので申し出を引き受けます。かくしてパリでの公演の幕が上がります。ですが練習不足やリハーサルなしのぶっつけ本番で、調子っぱずれの演奏が始まるのです。聴衆はざわつき始めます。それでも、自主的にハーモニーを引きだそうとする団員の気持が浸透し、だんだんとオーケストラも調子がでてきます。アンマリーの類い稀なるヴァイオリン独奏の技巧にも聴衆は魅了されていきます。パリ公演は大成功裏に終わり、その後この楽団はアンドレを指揮者とする「アンドレフィリポ・オーケストラ」として再出発します。世界各地での演奏会にはアンマリーがいつも独奏者として同行するというストーリーです。

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懐かしのキネマ その28 「手錠のままの脱獄」

これまで人種偏見や差別を主題とした映画を紹介しています。1958年制作の【手錠のままの脱獄】(The Defiant Ones) は手錠で互いに繋がれた黒人と白人の囚人が、激しく反目し合いながらもやがて絆を深めていくストーリーです。主演はシドニー・ポワチエ (Sidney Poitier) とトニー・カーティス(Tony Curtis)。監督はスタンレー・クレーマー (Stanley Kramer)です。人種差別が激しい1950年代に製作されたところに意義がある名作といえましょう。

囚人護送車がサウスカロライナ(South Carolina) の田舎町を移動中に、真夜中に転落事故を起こしてしまいます。事故のどさくさに紛れて囚人のジャクソン(Jackson) とカレン(Cullen)の二人が脱走します。ジャクソンは白人、カレンは黒人で、お互い50cmの長さの手錠で繋がれています。二人は川を渡り、北部を走る鉄道を目指し逃亡を試みます。逃げた直後から2人の意見がまったく合いません。ジャクソンが「南へ逃げよう」と言えば、黒人カレンは「南へ行ったら黒人は酷い目に合わされるから北へ逃げよう」と言うのです。

そんな二人が手錠でつながったまま逃亡する途中、人に見られそうになって大きな穴に飛び込むのですが、その穴は粘土堀りの穴だったので二人は出ようとしますが滑り落ちを繰り返します。人種偏見からたびたび反発し合う2人ですが、追っ手から逃げるためには助け合うしかありません。どう猛なドーベルマン2頭を含む警察犬も動員され雨中の山狩りが始まります。2人の囚人は増水した谷河を渡り、崩れ易い採掘坑に身をひそめ、沼地で食用ガエルをとり、必死の逃走を続けます。鎖で繋がれた2人は心ならずも協力しなければならないのですが、互いの憎悪はつのる一方です。

夫に捨てられ、子どもと2人で暮らしてきたという女が、北に逃げたいというカレンに沼地を抜ける近道を教えます。しかし、カレンが発った後、それが流砂に埋まる死の道だと知ったジャクソンは、女を振り切って憎みあっている筈の黒人のあとを追い、カレンを助けます。しかしその時少年の撃ったライフルの弾丸がジャクソンの胸を貫きます。追手は銃声で迫り、警察犬の吠え声がします。鉄道線路にたどりついて2人は、通過する列車に飛びつきます。しかし、先にはい上がったカレンの手をジャクソンがつかみながらも、力つきた2人は車外に転落してしまいます。捜索隊が追いついた時、虫の息ながら微笑みするジャクソンを膝に、追っ手に追い詰められぐったりする2人です。黒人のカレンはジャクソンを腕に抱いて静かに民謡を口ずさむのです。

懐かしのキネマ その27 「アラバマ物語」

2020年は「Black lives matter.」(黒人の命は大事だ)というスローガンが全米に広がりました。アメリカにおける根深い一連の人種差別事件が基で起こった現象です。人種差別撤廃運動というのは公民権とか人権の回復ということです。「アラバマ物語」(To Kill a Mockingbird)は、1962年に作られた映画です。奴隷制度が廃止された1865年から100年以上も経てもなお続く社会問題を取り上げています。この映画の題名は、原題とは似てもにつかないものです。題名ををつけるのは難しいことは想像できます。

映画の舞台は、1920年代の大恐慌時代です。南部アラバマ州(Alabama) の小さな街メイコム(Maycomb)です。当時のアメリカ南部では、「ジムクロウ法」(Jim Crow Laws)という人種差別的内容を含む南部諸州の州法がありました。その法律のスローガンとは、「分離すれども平等 (separate but equal)」というもので、多くの人種隔離策が合法とされていました。とりわけアラバマ州は全米で最も人種差別が激しい州でした。

弁護士アティカス・フィンチ(Atticus Finch)は、白人女性への性的暴行容疑で逮捕された黒人青年の弁護を引き受けます。やがてフィンチは自身だけでなく家族まで迫害を受ける羽目に陥ります。裁判では陪審員は全員白人で、到底被告側に勝ち目はありません。ですがフィンチは自分の良心に従って弁護に臨むのです。その姿を通じて、子どもたちも身近な社会に存在する不平等や不正義について、「正義は必ずしも報われない」ということを学んでいきます。このことはフィンチの娘の視点で描かれています。

この映画の原題「To Kill a Mockingbird」の Mockingbirdとは、物まねをする鳥、マネシツグミのことですが、映画では社会的な弱者、黒人を指す喩えとなっています。主演のグレゴリー・ペック(Gregory Peck)は、この映画でアカデミー賞・最優秀男優賞を受賞します。生涯の俳優として、本当の当たり役がこの弁護士アティカス・フィンチだといわれるほどの名演技です。アメリカンヒーロー(American Hero)は誰か、と問われると、並みいるヒーローに交じって必ずフィンチの名前が挙げられるほどです。アメリカ人が理想とする「アメリカの良心」とか「アメリカの美徳」というような、なにかアメリカへの肯定的な賛歌が感じられる映画です。

懐かしのキネマ その26 「招かざる客」

アメリカにおける人種差別問題は奥深いものがあります。今も続く社会問題です。3月にはアジア系人種を狙った殺人事件もありました。人種差別を正面から取り上げた映画も沢山あります。前回は【夜の大捜査線】を取り上げました。今回は【招かざる客】(Who’s Coming to Dinner)という1967年の作品です。この作品は、白人と黒人の結婚観を肯定的に扱った作品の一つです。1967年といえばベトナム反戦運動が高まり、公民権運動が最高潮に達した時期です。

サンフランシスコ空港(San Francisco)に降りたった30代後半の黒人男性と20歳位の白人女性のカップルが人目を引きます。通りすがりに眉をしかめる者さえ見受けられます。男性の名は、ジョン・プレンティス(Dr. John Prentice)といい、聡明で優秀な医師です。女性の名はジョアンナ(Joanna)で大新聞編集主幹のマット・ドレイトン(Matt Drayton)の娘です。ジョアンナはジョンを連れて両親の邸宅にやってきます。2人は両親に結婚の意思があることを告げます。ドレイトンは、人種差別反対のキャンペーンなどをおこなってきた筋金入りのリベラル派です。妻のクリスティーナ(Christina)も進歩的な考えの持ち主なのですが、娘の結婚話に驚きその心中は複雑です。

そんな中、ジョンの両親も、息子のフィアンセにいち早く会いたいと、サンフランシスコへとやって来ます。しかし息子の相手が、白人の若い女性だと思ってもいなかったため大いに困惑するのです。ジャーナリストのマットの親友で、やはり進歩的な考え方を持つ神父が、「リベラルの化けの皮が剥がれたな」などと、マットをからかいます。マットは、理想を掲げて長年戦ってきたジャーナリストです。己の内部にもある差別心に真摯に対峙せざるを得なくなるのです。

「招かざる客」の監督は社会派といわれるスタンリー・クレイマー(Stanley Kramer)、主演はスペンサー・トレーシー(Spencer Tracy)、シドニー・ポワチエ(Sidney Poitier)、キャサリン・ヘップバーン(Katharine Hepburn)です。クレイマーは「渚にて」(On the Beach)、「ニュールンベルグ裁判」(Judgment at Nuremberg) 、「手錠のままの脱獄」(The Defiant Ones) を手掛けています。

懐かしのキネマ その25 人種差別と「夜の大捜査線」

ミシシッピ州(Mississippi)の小さな町スパルタ(Sparta)に夜行列車から一人の黒人が降り立ちます。フィラデルフィア(Philadelphia)市警殺人課の敏腕刑事ヴァジル・ティッブス(Virgil Tibbs)です。彼は、人種偏見と差別が厳しい小さな町スパルタで起きた殺人事件に偶然捜査に加わることになります。捜査で対立する白人の人種差別的な警察署長との緊張を描いたサスペンス映画が「夜の大捜査線」(In the Heat of the Night)です。

スパルタで有力者の殺人事件が発生します。うだるような熱帯夜のなか、巡回していたパトカーの警官が死体を発見します。人種偏見の強い町の駅待合室にいた「よそ者」刑事ヴァジルは警官によって容疑者として連行されます。白人警察署長ジレスピ(Chief Bill Gillespie)の前に突き出されてしまいます。

滅多にない殺人事件に手を焼く署長ジレスピは、地元市長からの圧力もあって、屈辱感を覚えつつも都会のベテラン刑事ティッブスに捜査協力を依頼します。署長はもともと頑固な差別主義です。人種偏見が根強い町であるために、捜査は暗礁に乗り上げます。ですが次第にティッブスの刑事としての能力に署長も一目置くようになります。ティッブスと署長との間には奇妙な友情のようなものが生まれます。ティッブスが町を去る日、駅には彼を晴れやかな表情で見送る署長の姿があります。

懐かしのキネマ その24 黒人俳優と「野のユリ」

読者にいつかは是非観ていただきたい作品に「野のユリ」(Lilies of the Field)があります。1963年の社会派作品です。黒人青年のホーマー・スミス(Homer Smith)はアリゾナ(Arizona) の砂漠を放浪していました。車の故障で砂漠の一軒家にたどり着きます。そこには東ドイツからの亡命者である5人の修道女が住んでいます。ホーマーを見た修道女マリア院長は、ホーマーを「神が遣わした者」と信じ込み、この砂漠の荒れ地にある思いを抱きます。

屋根の修理だけを引き受けることにしたホーマーですが、院長はいっこうに賃金を支払おうとしません。食事も誠に質素でホーマーの腹を満たすことはありません。それどころか、マリア院長は無理やりホーマーに教会堂(chapel)の建設を手伝うように迫るのです。ホーマーは聖書の一節を引用して、自分は正当な賃金を貰えるのだ、と主張します。マリア院長はルカによる福音書12章27節の【野のユリはいかにして育つかを思え、労せず、紡がざるなり。されど、我汝らに告ぐ、栄華を極めたるソロモンだにその装い、この花の一つにも及ばざりき】と読み上げ、不満を言ってはならないと講釈するのです。この画面は実に秀逸です。

夕食が終わると、ホーマーは修道女に英語を手解きし、唄を教えます。それが「Amen」です。ホーマーは嫌々ながらも修道女たちに協力するようになっていきます。建築仕事に自信のあるホーマーはプライドを刺激され、教会の建設に執念を燃やし始めます。ホーマーは自分の作品として独りで建設することにこだわり、町の人々の協力を断わります。ですが次第に考えを改めて、町の人々と協力して教会の建設を進めるようになります。

マリア院長と修道女たちは、慈善団体に手紙を出し、寄付金を募り、地元の建設会社に資材の提供を頼み込みます。彼女たちの熱意にほだされた社長はとうとう建設資材を寄付することを申し出ます。紆余曲折、マリア院長の望んだ教会堂は奇跡的に完成します。ホーマーは自分の名を鐘の尖塔に刻みます。教会堂完成のお祝いが終わった夜、ホーマーは翌日の献堂ミサに出席することもなく、車で放浪の旅に戻ってゆきます。最後のシーンには「Amen」というテロップが流れます。

ホーマーを演じたのは、黒人俳優としては初めてアカデミー主演男優賞を受賞したシドニー・ポワチエ(Sidney Poitier)です。ハリウッド映画(Holleywood)における黒人俳優の地位を向上させた先駆者的な名優です。1968年『招かれざる客』(Who’s Coming to Dinner)、『夜の大捜査線』(In the Heat of the Night)でも主演し、社会的かつ人種差別問題に真正面から取り組んでいます。

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懐かしのキネマ その23 アクション映画「ダーティ・ハリー 」

1971年製作でクリント・イーストウッド(Clint Eastwood) が演じる「ダーティ・ハリー」 (Dirty Harry)は現代の西部劇のようなアクション映画です。ハリー・キャラハン(Harry Callahan) 刑事は、職務遂行のためには暴力的な手段も辞さなく、しかも組織と規律から逸脱していくアウトロー的、かつ直情径行で信念を貫徹する性格です。それゆえ仲間からは【汚い損な役回り】、ダーティ・ハリーと呼ばれています。キャラハンはアイルランド系の刑事。アイルランド人の国民性として、直情的とかおしゃべり好き、負けん気が強い、褒め言葉を素直に受け入れない、などが特徴だといわれます。少々ステレオタイプの響きがありますが、、、

ベトナム帰還兵の偏執狂的連続殺人犯との攻防を繰り広げるのが「ダーティ・ハリー」です。 その後次々とシリーズ化され、『ダーティ・ハリー2』 、『ダーティハリー3』、『ダーティ・ハリー4』、『ダーティ・ハリー5』と続きます。その後に撮影されたアクション映画にも影響を及ぼします。アウトローな性格ながら、警察規則と信念との狭間で正義を貫く様が映画ファンを魅了してきました。

主人公キャラハン刑事の使用している銃は、この映画で有名になったといっても過言ではない凄い威力の拳銃『44マグナム』です。本来は狩猟用に開発されたものといわれ、象すら倒すといわれ装填される弾丸は.44マグナム弾です。「ダーティ・ハリー」で一気に人気がでた拳銃です。

サンフランシスコで狙撃殺人事件が発生します。スコルピオ(Scorpio)と名乗る犯人は警察に対し、10万ドルを支払わなければ、次の犠牲者として黒人か神父を狙うと予告してきます。キャラハンは新しい相棒と共に、犯人の要求通り金を用意しますが、公衆電話を使った犯人の要求に振り回されます。何とか犯人を逮捕するのですが、証拠が認められずに、犯人は釈放されてしまいます。ここからハリーとスコルピオの闘いが再開です。

懐かしのキネマ その22 マカロニ・ウェスタンと日本映画

マカロニ・ウェスタンは日本でも大層な人気を集めました。主演俳優の個性的な演技が大いに受けたものです。ジュリアーノ・ジェンマ(Giuliano Gemma)、フランコ・ネロ(Franco Nero)、クリント・イーストウッド(Clint Eastwood)といったキャラクターです。3人とも視聴者に強烈な印象を与えました。『荒野の1ドル銀貨』、『南から来た用心棒』、『星空の用心棒』。どれも流れ者が用心棒となって悪を懲らしめるのです。勧善懲悪映画の【真髄】ともいえましょうか。

日本では1970年代からマカロニ・ウェスタンの影響を強く受けた時代劇が制作されていきます。テレビドラマでは笹沢左保の時代小説『木枯し紋次郎』、池波正太郎の『必殺仕掛人シリーズ』、小池一夫の『子連れ狼』、『御用牙』、子母澤寛の『座頭市と用心棒』などです。悪を退治するだけでなく、権力者の弱みを握って己の正義を貫くという主張です。どの作品もマカロニ・ウェスタンのスタイル、演出、音楽などの要素を取り入れたものとなっています。

マカロニ・ウェスタンでは、「既成のヒーロー像の逆をいく」というのが基本コンセプトなので、『続・荒野の用心棒』のような強烈なインパクトのあるアンチヒーロー像が必要でした。その要求を満たすため様々な主人公が登場しました。聖職者のガンマン、棺桶を引きずったヒーロー、盲目のガンマンなどです。やがてガンマンという主人公のアイデアが枯渇し、1970年代に入るとそのブームは失速していきます。原作者がシナリオを作っても、興行的な見通しが立たなくなったのです。マカロニ・ウェスタンの復活は1971年の「ダーティハリー」(Dirty Harry) や1982年の「ランボー」(First Blood)まで待つことになります。

懐かしのキネマ その21 荒野の用心棒

セルジオ・レオーネ(Sergio Leone)監督の元祖マカロニ・ウエスタンが「荒野の用心棒」です。黒澤明の傑作「用心棒」に着想を得て製作した作品です。テレビ西部劇「ローハイド」(Rawhide) で人気が出ていたクリント・イーストウッド(Clint Eastwood) は、本作の成功で映画スターとしてブレイクします。その後、「夕陽のガンマン」、「続・夕陽のガンマン」の2作で主演し、俳優としての地位を確立していきます。

アメリカとメキシコ国境にある小さな町サン・ミゲル(San Miguel).に、葉巻をくわえ薄汚いポンチョをまとった流れ者のガンマン・ジョーが(Gunman Joe) 現れれます。ジョーは酒場のおやじから、この街では二人の保安官の2大勢力が常に縄張り争いをしていること、今やサン・ミゲルの街は荒廃しきっていて、その挙げく儲かっているのは棺桶屋だけだと聞かされるのです。ジョーはからんできたゴロツキ4人をたった1人で早撃ちで瞬殺し、スゴ腕ぶりを見せつけます。そして用心棒として雇われるのです。そして、両陣営を争わせ共倒れさせようと密かに計略をめぐらします。

マカロニ・ウエスタンの人気は、アメリカにおける大ヒットから生まれます。暴力的なシーンを多用した乾いた作風や激しいガン・ファイト(Gun fight)が、それまでのアメリカで西部劇の価値観を大きく変えたと言われています。「映画は娯楽」を徹底的に追求した新しい映画のジャンルといえましょう。

懐かしのキネマ その20 七人の侍

1954年に製作された「七人の侍」は、黒澤明が監督した上映時間3時間27分という名画です。後に「日本映画史上空前の超大作」と呼ばれます。アメリカの西部劇映画 「荒野の七人」(The Magnificent Seven)の下敷きとなります。「荒野の七人」は西部開拓時代のメキシコに移して描かれます。

戦国時代後期、戦に敗れた野武士が悪辣な群盗と化します。あちこちの山間に繰り返し出没し、農村を襲撃しては掠奪を欲しいままにしていました。そこで思い余った農民が野武士を撃退すべく、貧しい浪人を雇うことにします。浪人へのご褒美は腹いっぱいの白米を食べさせるという条件です。農民たちは宿場町に出て腕の立ちそうな侍を探し、村の防衛を懇願します。侍探しは難航しますが、才徳にすぐれた勘兵衛という侍に出会います。勘兵衛のもとに個性豊かな七人の侍が集まります。最初は侍を恐れる村人達ですが、いつしか団結して戦いに挑むことになります。

土砂降りの雨の中、野武士との泥まみれになる戦闘は熾烈を極めます。戦闘が終わると七人の侍のうち、四人が討ち死にします。辛くも生き残った勘兵衛ら三人は、小高い丘に並んだ四つの土饅頭の墓を見上げて、「今度もまた、負け戦だったな、勝ったのはあの百姓たちだ、我々ではない」としみじみ呟くのです。主演は三船敏郎と志村喬、その他津島恵子や島崎雪子、東野英治郎、山形勲、左卜全が共演しています。今では、皆懐かしい俳優です。

懐かしのキネマ その19 マカロニ・ウェスタン

日本だけの呼び名で知られる西部劇映画に「マカロニ・ウェスタン」(Macaroni Western)があります。イギリスやアメリカではスパゲッティ・ウェスタン(Spaghetti Western)と呼ばれます。1960年代前半から、イタリアの映画製作者が主にスペインの荒野で撮影した西部劇のことです。1964年に作られた「荒野の用心棒」 (A Fistful of Dollars)が大ヒットして世界中にマカロニ・ブームが巻き起こります。

マカロニ・ウェスタン映画が作られた場所は、スペインのアルメリア(Almería)の荒野です。数は多くないもののこの地でドイツやイギリス製の西部劇が作られていました。イタリアだけでなく、本場スペインも独自の西部劇を作るようになりました。こうした「ヨーロッパで作られた西部劇」は、「ヨーロッパ製ウェスタン」(European Western)と呼ぶようです。

「スパゲッティ・ウェスタン」と最初に呼んだのは、映画評論家で知られた淀川長治といわれます。少々小馬鹿の気分でつけたのかもしれません。なぜなら、アメリカ人が本場ハリウッドで作られる西部劇に対して「スパゲッティ・ウェスタン」はニセモノ西部劇だと蔑んでいたからです。1960年代には日本ではパスタ(pasta)というマカロニ(macaroni)、スパゲッティ(spaghetti)、ラザニア(Lasagna)どの食品の総称の呼び名は誰も知りませんでした。もっぱらマカロニかスパゲッティが人気の食品でした。

1965年、「荒野の用心棒」が製作されます。監督はセルジオ・レオーネ(Sergio Leone)、主演はクリント・イーストウッド(Clint Eastwood)です。この映画の下敷きは、1961年に作られた黒澤明が監督した「用心棒」です。時は世界中が激動していた頃。イギリスからはビートルズ(The Beatles)が、フランスには「新しい波:ヌーベル・ヴァーグ」(Nouvelle Vague)が、アメリカでは人種差別撤廃やベトナムの反戦運動が盛んな頃です。そんな時に、純粋な娯楽として作り出されたイタリア製ウェスタン映画が世に送りだされます。ハリウッドが作り続けてきた正統派ウェスタンへの一種の挑戦です。歴史観とか正義感、ヒューマニズムなどの教科書的なテーゼへのアンチというわけです。純粋に面白ければ良し、という娯楽アクション西部劇の元祖がマカロニ・ウェスタンです。

懐かしのキネマ その18 太平洋戦争を描いた映画

去る大戦で多くの人々が傷つき犠牲になりました。「挙国一致」、「堅忍持久」といったスローガンにより、誰一人勝つことしか信じない時代がありました。戦意昂揚、生活統制、精神動員などの標語が映画を通しても大衆に浸透していきます。こうした歴史からの深い反省を込めた映画が戦後に作られるようになりました。どの作品も戦場という異常な空間で極限状態に追い込まれた人々が描かれています。そのいくつかを紹介します。

まずは、1956年に作られた「ビルマの竪琴」です。原作は、竹山道雄が執筆した児童向け文学を基に描かれた作品です。終戦直前のビルマ(Burma)、現在のミャンマー(Myanmar) の戦線が舞台となっています。イギリス軍に追い詰められ、日本軍は中立国のタイ(Thailand)を目指して撤退します。その途中で、小隊が降伏し捕虜となります。やがて戦線で命を落とした大勢の日本兵を残して帰国することになります。それに耐えられず、竪琴をひきながら彼らを供養するため僧となった旧日本兵・水島上等兵の姿が描かれます。監督は市川崑でした。

次ぎに1959年に製作された「野火」です。小説家、大岡昇平のフィリピン(Philippines) での戦争体験を基に書かれたものを映画化しています。監督したのは、同じく市川崑です。舞台は日本軍の敗北が濃厚となった第二次大戦末期のフィリピン戦線です。結核を患った田村一等兵は部隊を追放され、野戦病院へと送られる。しかし、野戦病院では食糧不足を理由に田村の入院を拒否します。再び舞い戻った部隊からも入隊を拒否されてしまうのです。空腹と孤独と戦いながら、レイテ島(Leyte)の暑さの中をさまよい続ける田村は、かつての仲間たちと再会するのです。そこで彼が目の当たりにしたのは、孤独、殺人、人肉食への欲求、そして同胞を狩って生き延びようとするかつての戦友です。ことごとく彼の望みは絶ち切られ、遂に狂人化していくのです。

1983年に作られた「戦場のメリークリスマス(Merry Christmas, Mr. Battlefield)」は異色の映画です。日本、英国、オーストラリア、ニュージーランドの合作です。ジャワ(Java) 山中の日本軍捕虜収容所という、極限状況のもとで出会った男たちの抑えた友情の物語です。二・二六事件の決起に参加できずに死に遅れたエリート武官のヨノイ、彼の部下の単純で粗暴な軍曹ハラ、ハラと唯一心の通うイギリス軍中佐との友情が描かれています。東洋と西洋の宗教観、道徳観、組織論が違う中、当時の日本軍兵士の敵国捕虜の扱いや各国の歴史的な違いを大島渚監督がしっかりと描き出しています。

2006年に作られた「硫黄島からの手紙」 (Letters from Iwo Jima) は、第二次大戦における硫黄島の戦いを日米双方の視点から描いた「硫黄島プロジェクト」で日本側の視点による作品です。クリント・イーストウッド(Clint Eastwood) が監督を務めています。1944年に本土防衛最後の砦として硫黄島に降り立ったのが栗林忠道陸軍中尉と日本兵たちです。圧倒的に不利な戦況、絶望の中で、家族の元に生きて帰りたいと願いながら死闘を繰り広げた兵士がいます。届けられることのなかった家族への膨大な手紙やそこに込められた兵士一人ひとりの姿と、戦線の壮絶な戦いを描いた作品です。

懐かしのキネマ その17 映画音楽の多様化

無声映画の撮影中にムードを醸し出し場面を盛り上げるために、音楽がしばしば演奏されていました。専属の楽団を持っていたところもあります。フル・オーケストラの演奏とともに撮影されたともいわれます。やがて、音楽をあらかじめ録音しておき、それを撮影中に流すことによって、シーンのムードを高め、サイレント時代の音楽による演出方式を再現する試みが定着していきます。

トーキーの時代になると、1933年にハリウッドの音楽監督の草分けといわれたマックス・スタイナー(Max Steiner)の「キングコング」(King Kong)が音楽を担当し、この作品を皮切りに映画音楽の一般的なパタンが作り出されます。オープニングで音楽が映画のムードを醸し出し、その後は監督の意図や嗜好によって、音楽がサウンドトラックに見え隠れし、アクションを高めるのです。映画音楽は、ヴィクター・ヤング(Victor Young)、ディミトリ・ティオムキン(Dimitri Tiomkin)、ヘンリー・マンシーニ(Henry Mancini)、モーリス・ジャール(Maurice Jarre)といった作曲家に受け継がれていきます。

映画音楽も多様化していきます。大編成のオーケストラ演奏によるドラマチックな音楽が世界的に定着する一方で、チターやギターだけの独奏で新鮮な効果を醸し出すことに成功していきます。英国映画「第三の男」、フランス映画「禁じられた遊び」のような名作も生まれます。1950年代には雅楽や能、謡いを絡ませた黒澤明監督の「羅生門」、「七人の侍」、「用心棒」なども生まれます。独特の響きが画面上の臨場感を高めるの一役かっています。

エニオ・モリコーネ(Ennio Morricone)という作曲家も従来の音楽のスタイルを一変させます。その音楽の使い方は革命的ともいわれます。マカロニ・ウエスタ(Spaghetti western)映画で響いたシンプルで記憶に残るメロディが特徴です。アコースティックのリズムに、強い口笛が重なり、銃声や馬の蹄の音、教会の鐘、そしてひときわ激しいギターの調べなど予想外のサウンドが彩を加えています。「続・夕陽のガンマン」(For a Few Dollars More)では、ハーモニカ、コヨーテの遠吠え、ヨーデル、口笛、鞭を鳴らす音が鮮烈な雰囲気を生んでいます。映画の重要なシーンも音楽のお陰で臨場感や迫力が生まれてきます。

懐かしのキネマ その16 映画の宣伝力

「映画は芸術であろうと、商品であろうとその特徴は大衆性にある」と言われています。絵画や建築物と違い、「同時的、集団的観賞の対象」であることです。本来は、一人で静かに観賞するものではないということらしいです。映画館でも家で1人で観てもよいのでしょうが、、。

この集団的同時性を最初に活用したのが社会主義国や全体主義国家、そして新興国です。国の宣伝に映画を利用するのです。「十月革命」の発祥地、ロシアでは「最も大切なものは映画であり、ニュースである」と位置づけます。こう叫んだのは革命指導者のレーニン(Nikolai Lenin) です。北朝鮮からのニュースでも大衆を動員した集団的な構図の動画が流れてきます。大群衆が一斉に行進したり拍手をしたりして、指導者への忠誠を誓います。

ナチスドイツも映画を戦争宣伝の道具とします。宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルス(Joseph Goebbels)は、映画局を設置し、大衆の戦争精神の昂揚のために、効果的に映画を使います。1938年のベルリンオリンピックを通してナチスの力を誇示したオリンピックの記録動画「オリンピア」(Olympia)、別名「美の祭典」という映画もそうです。この作品を監督したのは、レニ・リーフェンシュタール(Leni Riefenstahl)という女性です。ナチス党大会の記録映画「意志の勝利」 がナチスによる独裁を正当化し、国威を発揚させるプロパガンダ映画として知られています。ヒットラーをして彼女を「ドイツ女性の完全な典型」と呼ぶほどでした。

懐かしのキネマ その15 休憩—Intermission

奇跡のような出来事の話題です。私の長男は家族とボストンから西へ60マイルくらいのプリンストン(Princeton)という田舎町に住んでいます。彼はマサチューセッツ州(Massachusetts)第二の都市ウースター(Worcester)にあるイエズス会系の大学で教えています。嫁のケート(Kate)は近くの小学校で教師をしながら童話を書いています。長男夫婦には2人の息子がいて、その長男はボストンの大学の2年生、次男は9月からウースターの工科大学で学びます。この次男に起こった話です。

彼は、週末に近くのスーパーマーケットでアルバイトをしています。先日サービスステーションで車にガソリンを入れて帰りました。家に戻ってから財布がないのに気が付きます。財布には現金、運転免許証、デビッドカード、COVID-19ワクチン接種証明などを入れていました。急いでサービスステーションに戻り、事務所に届け物がないかを確かめましたがありません。

それから暫くして、1人の男性が次男の家にこの財布を届けにきました。免許証の住所から辿ってきたのです。男性は、ハイウエイの出口にこの財布が落ちていたのに気が付いたというのです。次男は、ガソリンを入れるとき、財布を車の上に置き忘れたのです。暫くそのまま走り、ハイウエイの出口のカーブで財布がずり落ちたようです。この男性は、「MAPFRE INSURANCE」という保険会社の社員で、たまたま通りがかりで次男の財布を見つけたというのです。

このエピソードを嫁のケートは、先日Facebookで紹介します。そうするとこの男性の行為に53のコメントが書き込まれ、どれも驚きの感想となっています。私もコメントをすべて読んで、即座に「アーメン、この男性はアメリカの良心だ」と書き込みました。男性の写真を紹介しておきます。他のコメントの中に、15年前に落とした財布を150マイルも運転し届けてくれた人がいた、というのもありました。

懐かしのキネマ その14 プロデューサーと監督

映画の上映初頭には題名の後に「Produced by 」というテロップが流れます。制作者(プロデューサー) という意味です。映画製作の実権を握るのが製作者です。ハリウッドでは全権を持ち、最終的な編集権すら持ちます。プロデューサーによって、監督の意図に反した作品が勝手に作られた歴史もあります。自らプロデューサーとなって自分の映画を作ることに成功した監督といえば、チャーリー・チャップリン(Charles Chaplin)、セシル・デミル(Cecil DeMille)、ジョン・フォード(John Ford)、ビリー・ワイルダー(Billy Wilder)、ケビン・コスナー(Kevin Costner)等がいます。

プロデューサー制度の成立のことです。初期の映画プロデューサーは、いずれも小規模な会社を持ち、資金を用意し、企画を定め、制作にあたりました。スタッフの中で最も発言力のあったのが撮影技師です。動く画に撮影するということが最も重要な仕事なっていたからです。次ぎに、監督の者が映画の仕組みが複雑になっていくので発言力を持っていきます。それでも企画と資金の面でプロデューサーという立場は絶対的な権威をがあり、監督は映画を作るために現場的にも重要でありました。ですが最終の決定権はプロデューサーであるという伝統は今も変わりません。

懐かしのキネマ その13 無声映画と有声映画

映画フアンには「トーキー」(talkie)という言葉は懐かしいのではないでしょうか。トーキーとは映像と音声が同期したものです。「talkie」はもともと「Talking picture」から生まれています。その後「Moving picture」という用語が使われ、そこから「movie」となります。

昔の映画はサイレント映画でした。無声映画です。その対義語は有声映画とか「発声映画」といわれました。映画のはしりは、1900年代にパリで始まります。1920年代の後半に無声映画が誕生します。1928年に「サウンドトラック」を最初に用いたのがウォルト・ディズニー(Walt Disney)です。1930年代になるとロサンジェルス(Los Angels)のハリウッド(Hollywood)が映画文化の中心となり、「トーキー」が一役を買います。

日本では、活動弁士が無声映画に語りを添える上映形態が主流でした。楽士の奏でる生演奏の音楽とともに独自の“語り”で作品を盛り立てました。活動弁士は通称「カツベン」と呼ばれていました。そのためか「トーキー」が根付くには時間がかかったといわれます。作家や俳優であった徳川夢声は1913年に活動写真(無声映画)の弁士となったようです。東京を代表する弁士として人気を博します。しかし、昭和の時代になって、トーキーが登場すると夢声ら弁士の出番はなくなり、やがてラジオで活躍します。吉川英治の『宮本武蔵』の朗読などで有名となり、テレビ創成期の立役者の一人となります。

懐かしのキネマ その12 娯楽映画の傑作

子どもも大人も掛け値なしに楽しんだ映画といえば、E.T.(Extra-Terrestrial)の右に出る作品はないでしょう。1982年公開のSF映画です。当時、映画史上最大の興行収入を記録した作品です。

とある杉の森に球形の宇宙船が着陸し、中から小さな宇宙人が数人出てきます。彼らの目的は地球の植物を観察し、サンプルを採集することです。その内の1人は宇宙船から遠く離れ、崖の上から住宅地の灯の海を見て驚きます。その時、宇宙船の着陸を察知した人間らが車で近づいてきます。宇宙船は危険を察知して離陸しますが、遠くにいた宇宙人1人は地上にとり残されてしまいます。取り残された宇宙人は叫び、近づいてくる人間から逃げ出します。10歳のエリオット(Elliot)はその宇宙人を目撃します。エリオットがポーチで見張っていると、ついに宇宙人が彼の前に姿を現わします。やがて2人は心が通い合うようになります。

1975年制作のジョーズ(Jaws) スティーヴン・スピルバーグ(Steven Spielberg)監督の出世作となります。ある避暑地の海辺の町において巨大な人食いホオジロザメが海水浴客を襲います。警察署長と若い海洋生物学者、プロのサメハンターの3人がホオジロザメ狩りをする海洋アクション・スリラーです。

1990年に制作された「ジュラシック・パーク」(Jurassic Park)です。コスタリカ(Costa Rica)沖の孤島につくられたテーマパーク「ジュラシック・パーク」。そこでは太古の琥珀に閉じ込められたDNAを使い、恐竜たちを蘇らせていた。前代未聞の夢の大テーマパークになる予定でしたが、ある夜、安全装置が解除され、恐竜たちが柵の外へ脱走、次々と人間たちを襲っていきます。島に残された人間は、島からの脱出を目指すのですが、、、、SFエンターテイメント作品の傑作といわれます。この映画の全体を通しての背景には「生命倫理や生命の進化・歴史」「テクノロジーの進歩と過信」に対する哲学的テーマが込められているという高い評価がなされています。

成田滋のアバター

綜合的な教育支援の広場

懐かしのキネマ その11 障害を扱う名作『レインマン』

アメリカ映画には、心身に障害のある人々に焦点を当てた作品がいろいろとあります。本稿ではそれを紹介することにします。1988年に公開された映画『レインマン』。主演にトム・クルーズ(Tom Cruise) とダスティン・ホフマン(Dustin Hoffman)が登場しています。この作品は、自由奔放な弟チャーリー(Charlie)とサヴァン症候群 (savant syndrome) の自閉症である兄レイモンド(Raymond) の交流です。実業家のチャーリーは、絶縁していた父の訃報が届きます。彼は父親の遺産を手にするために故郷に帰ります。しかしチャーリーは父親の遺産が全てサヴァン症候群を持つ兄レイモンドの信託財産として運用されることを知るのです。

何とか遺産を手に入れたいチャーリーはロサンゼルス (Los Angels) まで旅行に行こうとレイモンドを施設から連れ出します。レイモンドは自閉症のために、普通にコミュニケーションをとることはできませんが、並外れた記憶力を持っていました。金欲しさに、父親の遺産相続人である自閉症の兄を施設から連れ去った弟が、兄と旅をしていくうちに本来あるべき兄弟の絆を取り戻していくのです。

もう一つの障害者が主演となる作品に「フォレスト・ガンプ(Forrest Gump)」があります。「Gump」とは、うすのろという意味です。アラバマ州に生まれたフォレストは、生まれつき背骨が曲がっており、脚装具がなければ歩けませんでした。また彼はIQ75の知能しかなかったため、学校の先生にも養護学校への入学を進めらられます。しかし、フォレストを女手一つで育てる母親は、彼を普通の子として育てるため公立学校へ進学させるのです。

登校初日、スクールバスで他の子からいじわるされるフォレストを同じ座席に座らせたのは、心優しい女の子ジェニー(Jenney) です。2人は仲良くなり、ある日いじめっ子から逃げるためジェニーが「走って、フォレスト」と呼びかけたことを機に、フォレストは脚装具をはじき飛ばして走り出します。誰も追いつけない走りの才能が開花したフォレストは、やがてその才能を見出されてアラバマ大学(University of Alabama) に入学します。アメフトの試合で大活躍し、全米代表チームに選ばれます。その後、兵役に就きベトナム戦争での激戦中に戦友を助け出し勲章を貰います。時の大統領ジョン・F・ケネディ(J.F. Kennedy)とホワイトハウスで面会するのです。