ユダヤ人と私 その31 ユダヤ教の主な儀礼  過越しの祭

奴隷状態にあったユダヤ民族のエジプト脱出を記念するのが「過越しの祭(Passover)」です。旧約聖書の出エジプト記(Book of Exodus)12章に記述されています。それによりますと、エジプトに避難していたイスラエル人は奴隷として虐げられていました。神は、指導者モーセ(Moses)に対して民を約束の地カナン(Cannan)へと導くようにいいます。エジプト君主のファラオ(Pharaoh)がこれを妨害しようとします。そこで神は、エジプトに対して災いを臨ませます。

その災いとは、人間から家畜に至るまで、エジプトの「すべての初子を撃つ」というものでありました。神は、門口に仔羊の血が塗らねていない家にその災いを臨ませることをモーセに伝えます。このように、仔羊の血が門口にあったユダヤ人の家だけは悪霊が過越したという故事にちなむのです。 悪霊が通り過ぎるのを願ったのです。

聖書の命令に従って、ユダヤ教では今日でも過越祭を守り行っています。 このユダヤ暦によれば春分の日の後の最初の満月の日からの一週間はペサハ (Pesach)と呼ばれるユダヤ教の祭りのひとつです。過越しの祭では、マッツァ(Matzah)と呼ばれる酵母なしのパンを食します。酵母を混ぜて膨らむのを待つだけの時間の余裕がなかったのでパンをそのまま食べたといわれます。3月末から4月はじめの1週間、ユダヤの人びとは、エジプトを脱出した時の記憶を忘れないように酵母でふくらませたパンを食べないのです。過越祭のことを除酵祭とも呼ばれています。

ユダヤ人と私  その30 ユダヤ教の主な儀礼 安息日と割礼

ユダヤ人にとって最も大事な儀式は、シャバト(Shabato)と呼ばれる安息日をまもることです。正確には金曜日の日没から安息日が始まります。土曜日はいかなる労働も行わないことを求められます。「安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ」という教えです。このフレーズは旧約聖書の出エジプト記(Book of Exodus)20章8節にあります。3世紀頃から安息日を花嫁と呼ぶ習慣もあります。金曜日は日が落ちる頃、ラビは戸外に出て安息日の正装をし「花嫁よ、来たれ」と言ったそうです。なお、「Shabato」は 英語では「Sabbath」で安息という意味です。

シャバトのいわれは創世記(Genesis)にあり、神が6日かけて世界を作った後、7日目に休んだことに由来します。これが現在世界中で使われるカレンダーが週で区切られ、特定の日を休みとする習慣が広がったいわれです。ユダヤ人のコミュニティでは、学校や職場は金曜日は午前中までで、日没後は商店などを閉め公共の交通機関も止まってしまいます。家事をすることもできません。主婦は安息日のため金曜日に週末の食事を用意するので忙しく振る舞うことになります。

もう一つの儀式は、生後8日目の男子に施される割礼(circumcision)です。男性器の包皮を切りとる儀式です。これはヘブル名の命名式も兼ねていて、家族や親戚、友人などを沢山招いた中で盛大に祝います。割礼の記録は、創世記(Book of Genesis)17章9-14節にあり、アブラハム(Abraham)と神の永遠の契約として割礼を行うことが定められています。Wikipediaによりますとキリスト教圏、例えばアメリカでは5割の子供が割礼をするとあります。衛生上の理由などで割礼が行われているようですが、さほど一般的ではないようです。

ユダヤ人と私  その29 ユダヤ教の主な儀礼 バア・ミツヴァ

ユダヤ教にはいくつかの教派があります。ユダヤ教保守派(Conservative Judaism)‎、ユダヤ教正統派‎(Orthodox Judaism)、ユダヤ教改革派(Reform Judaism‎)などです。ユダヤ人とはユダヤ教を信じる人々です。ですから日本人もロシア人もアメリカ人もユダヤ教で信仰告白をすればユダヤ人となります。ユダヤ人とは多民族、他文化、多言語の人々の集まりです。こうした教派に共通な人生の節目に行う主な儀礼について述べることにします。私が私淑し尊敬する外科医師、Dr. Robert Jacobs氏から伺ったことがある儀式です。

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 実は、かつてJacobs氏からご子息の成人の祝いの案内を頂戴したことがあります。ユダヤ教徒には、男子が13歳、女子が12歳になるとそれぞれバア・ミツヴァ(Bar Mitzvah)、バト・ミツヴァ(Bat Mitzvah)という儀式があります。ヘブル語でBarは息子、Batは娘という意味です。男女ともこの儀式によって、ユダヤ法に従う宗教的で社会的な責任があるとみなされます。ちなみにプロテスタントのキリスト教会では堅信礼(confirmation)とか成人祝福式といわれます。日本における元服にあたります。

男子はこの年齢になるまでに、ヘデル(cheyder)という寺子屋のような学校でヘブル語(Hebrew)やモーセ五書といわれるトーラー(Torah)、さらにユダヤ教徒の生活や信仰の基となるタルムード(Talmud)を勉強します。こうしてバア・ミツヴァ儀式で祈祷の朗誦ができるようになるのです。

この儀式を経るとユダヤ社会では大人として認められ、それまで免除されていた断食を初めとするすべての戒律の順守、倫理観に基づいた生活習慣の実践、責任ある行動などが要求されます。コミュニティの一員として儀式や礼拝への参加も正式に認められます。

ユダヤ人と私 その28 ユダヤ教とメンデルスゾーン

前回、ユダヤ人哲学者のモーゼス・メンデルスゾーン(Moses Mendelssohn)に触れました。長い間、ユダヤ人はドイツに背を向け思想的に閉ざしていたとわれます。メンデルスゾーンはユダヤ人にドイツの文化を理解し交流を深めることを推奨し、それと同時にドイツ人に対してユダヤ人の文化も理解してもらおうと努力した人です。ドイツの社会を受け入れ、それにユダヤ人も同化していこうという姿勢でありました。

メンデルスゾーンは、ユダヤ人の思想的な解放の先頭に立ち、ユダヤ人啓蒙のためにドイツ語教育学校を興し、同時にユダヤの伝統文化や遺産の継承を重視します。さらにユダヤ教内部における近代ヨーロッパ文化の影響とそれに対する啓蒙主義運動であるハスカーラー(Haskalah)を提唱します。キリスト教社会に広く流布していたユダヤ教への偏見やユダヤ人への理由なき誹謗や中傷など反ユダヤ主義(Antisemitism)の修正を求めることにも腐心します。ユダヤ教徒にも人間の権利として市民権が与えられるべきことを訴えるとともに、自由思想や科学的知識を普及させたといわれます。

ドイツもスペインもユダヤ人に改宗を迫った歴史があります。 こうして反ユダヤ主義も高まり、社会の抱えている問題をすべてユダヤ人に押し付けてしまう風潮も起こります。その例が、ユダヤは世界を征服しようとしているといったユダヤ陰謀説(Jewish plot)という荒唐無稽な風潮です。

他方でメンデルスゾーンらの同化思想は根本的な問題を生み出します。同化を推し進めることによってユダヤ人のアイデンティティとはなにかという問いが盛んになったのです。ユダヤ教という中核的な教えがあり、そうした要因にがユダヤ人の心の拠りどころとなっています。それがやがて伝統的なユダヤ教や宗教シオニズム運動(Zionism)を促進することになります。

モーゼの律法はユダヤ人たちのアイデンティティを維持する強固な役割を果たしてきました。同時に世俗に照らしてそれは遵守されるべき法ではありますが、徐々に人間の内的精神が自発的に従うべき道徳的基準に過ぎなくもなりました。つまり人間としての権利を獲得し義務を遂行できるためには、「国家と宗教」という市民的秩序、「世俗のことと教会のこと」という社会説という支柱を相互に対置させ均衡がとれるようにすることをメンデルスゾーンは叫ぶのです。

もう1人のユダヤ人哲学者にハーマン・コーエン(Hermann Cohen)がいます。メンデルスゾーンと同様に同化思想を唱道します。パレスチナにユダヤ人国家を建設しようというユダヤ民族運動にも反対します。ユダヤ主義とは本質的に歴史発展または伝統とは無関係であり、霊的で道徳的な使命を帯びているのであって、民族国家の建設を超越した思想であると主張します。偏狭になりがちな民族運動にくぎを刺したのがコーエンです。

ユダヤ人と私 その27 ユダヤの哲学について

ユダヤ人は古代ギリシャ人のような厳密な意味での哲学の概念を持っていたのか、というのが本文のテーマです。相当難しい課題です。

ギリシャ哲学は、百科事典などによりますと非常に大雑把にいって自然や宇宙、万有がいかにして生じ、なにを原理として成り立っているか、人間の道徳と実践という知に対する尊厳を追求します。古代ギリシャの哲学者は人間にとって「徳」とはなんであるかよりも、魂や精神の卓越性を知として追求してきたようです。ロゴス(logos)が世界原理であるとした哲学者はヘラクレイトス(Herakleitos)といわれます。ロゴスとは概念、理論、論理、理由、思想などの意味です。

本題のユダヤ人の哲学観についてです。旧約聖書には、神、人間、自然などについての哲学的関心を示す多くの思想が見いだされます。その目的は諸概念を知的対象として究明するのではなく、むしろそこに啓示されたモーゼの律法を絶対的なものとして受けとめ、それをいかにして具体化するか、という信仰的な実践の問題であったようです。ユダヤ人が哲学に対する関心を示したのは、異質な外来思想と接触し、彼らの伝統的な教えとの矛盾を感じ、それらについて懐疑し始めたからだといわれます。この外来思想とはギリシャ思想であり、近代の啓蒙哲学です。

ギリシャ思想とユダヤ思想との調和という課題をとりあげた最初のユダヤ人哲学者にフィロン(Philon Alexandrinus)がいます。フィロンは紀元前30年頃活躍したようです。豊かなギリシア哲学の知識をユダヤ教思想の解釈に初めて援用したことで知られています。フィロンはロゴスに新しい観念を与えます。それは、この世に実在するのは、可知の世界といわれるイディア(Idea)であり、イディアの創造を行うのは神の精神であるというのです。旧約聖書の神の愛ついては、「我々の心の平和のなかに神を見いだすためには身体や感覚、あるいは語るということからさえ離れて、魂のなかにのみ生きることを学ばねばならない」とします。ロゴスが神の言葉であるという思想は、後にキリスト教において、イエスが天地の創造に先立って存在したというの思想と結びついていきます。

しかし、ユダヤ教の内部でいかにしてモーゼの律法を彼らの現実社会に適用するという課題が論議されます。これをまとめたのがタルムード(Talmud)と呼ばれる口伝です。別名口伝律法といわれ、五世紀頃までに編集されます。しかし、フィロンの思想は伝統的なユダヤ教の人々からは受け入れられませんでした。

近世になり、ユダヤ人はヨーロッパのキリスト教国に居住し、その国々の文化に同化するようになります。ユダヤ思想もまた、近代の啓蒙哲学の影響を受け新たな局面を迎えます。ユダヤ教の特徴を抑えて普遍的な理性原理の上で確立することが提唱されていきます。その代表的なユダヤ人哲学者がモーゼス・メンデルスゾーン(Moses Mendelssohn)とハーマン・コーエン(Hermann Cohen)です。

ユダヤ人と私  その26 アメリカの大学とユダヤ系

アメリカの大学の発展、とくに超一流大学といわれる大学経営の充実にはユダヤ系の資産家が深く関わっています。多くの総合大学にはヒレル・インターナショナル(Hillel International)という団体があります。ユダヤ系の学生や留学生を支援しています。 Hillel とは1世紀頃のパレスチナにおけるユダヤ議会(The Jewish Sanhedrin)の議長であり霊的指導者の名前です。

Hillel Internationalが設立されたのは1923年で、イリノイ大学アーバナ・シャンペン校(University of Illinois, Urbana-Champaign)です。創立したのはバーナイ・ブリス(Bnai Brith)という資産家です。翌年、ウィスコンシン大学のノーマン・ナサク(Norman De Nosaquo)という学生がHillel Internationalに手紙を書き、それがきっかけでUW-Madison内にヒレルの組織ができます。

1937年にリー・レビンジ(Lee Levinge)というユダヤ人の研究者が「The Jewish Student in America」という論文を書き、その中で1,400の大学でユダヤ人が学んでいることを報告しています。1939年になるとHillel Internationalは全米の12大学で財団を組織し、その他18大学に支部組織をつくります。その後、オハイオ州立大学(Ohio State University)、ジョージ・ワシントン大学(George Washington University) などにその組織が広がっていきます。

今や、ほとんどの大学でユダヤ系アメリカ人が学んでいます。一流大学の1/4がユダヤ人で、1/5がアジア系の学生が占めるといわれています。こうした学生は学費の全額を払うので、私立大学では大いに歓迎されています。学費の納入が困難な学生を救うために、州立大学ではアファーマティブ・アクション(Affirmative action)があって黒人やヒスパニックの学生を優先的に受け入れる枠を設けています。

大学教官の採用でもアファーマティブ・アクションが働いています。適度な資質又は研究成果があったとしても、マイノリティ及び女性の組織内での昇進を妨げる見えないが打ち破れない障壁があるといわれてきました。特に女性のキャリアを阻む障壁のメタファー(metaphor)が「ガラスの天井(glass ceiling)」といわれるものです。「ガラスの天井」は男女を問わずマイノリティの地位向上を阻む壁としても用いられるようになりました。ただ大学の研究と教育の質を維持するために、アファーマティブ・アクションに対して疑問視する人々が大勢いるのも事実です。

一流大学の学長や理事にはユダヤ人が多くいます。特に第二次大戦後はそうです。この現象は、ロックフェラー(Rockefeller)、JPモルガン(J.P. Morgan)、ハリマン(Brown Brothers Harriman)、メロン(Andrew Carnegie)、ロスチャイルド(Rothschild)といった資産家がこぞって大学に多額の寄附ををすることに現れます。大学は財団をつくり、大学経営の財源とするのです。このように大学経営には資産家からの寄附が欠かせません。そのために理事会(Board of Regents)は資産家や銀行家などで組織し、学長(president)選びなどで巨大な権限を有するようになりました。現職の教職員は理事にはなれません。アメリカの大学で一番偉いのは学長ではなく理事会なのです。これがアメリカの大学のガバナンスです。

ユダヤ人と私  その25 アメリカのインターネットと金融界とユダヤ系人

ンターネット関連の業界をみると、オラクル(Oracle)の創始者ラリー・エリソン(Larry Ellison) 、フィイスブック(Facebook)の創始者マーク・サッカーバーガー(Mark Zuckerberg)、デル(Dell)のマイケル・デル(Michael Dell)、グーグル(Google)のラリー・ペイジ(Larry Page)など蒼々たる人材がユダヤ系です。恐らくこうした起業家は多くの投資をユダヤ人から受けたのではないでしょうか。例えば投機家であり投資家であるジョージ・ソロス(George Soros)。彼もユダヤ系アメリカ人です。世界最大級の投資銀行であるゴールドマン・サックス(Goldman Sachs)の創始者はマーカス・ゴールドマン(Markas Goldman)。彼もユダヤ系です。

リーマンブラザーズ(Lehman Brothers)の創業者は、ドイツ南部から移住したアシュケナジムユダヤ系移民、ヘンリー(Henry)、エマニュエル(Emmanuel)、マイヤー(Myer)のリーマン兄弟(Lehman Brothers)です。1850年に創立されアメリカで第4位の規模を持つ巨大証券会社でした。2008年9月に破産し、その影響は「リーマンクラッシュ(Lehman Crash)」と呼ばれました。 財閥のロスチャイルド家(Rothschild)もアシュケナジムです。

しかし、ユダヤ系の人々が世界の金融や資本を支配しているというのは言い過ぎです。世界経済のほんの一握りの影響です。なぜかユダヤ人の活躍が話題となりがちですが、それはたまたま彼らの家庭環境や受けてきた教育、所属していたコミュニティの影響が大きいと思われます。金融界どの人物にも共通するのが、超一流の大学で高等教育を受けてきたことです。そして全員上昇志向であるのは頷けます。「成功の半分は忍耐だ」というユダヤ人の格言もあります。

現在のニューヨーク・タイムズ(New York Times)の社主はアーサー・サルツバーガー(Arthur Sulzberger Jr.)でユダヤ系です。この新聞の伝統はリベラルな論調で知られています。多くのユダヤ人はこの新聞を読んでいます。議論好きだからだでしょうか。

ユダヤ人と私  その24 世界経済とユダヤ人

新聞紙上などでアメリカの経済界の人物を見渡しても、ユダヤ系アメリカ人の活躍は抜きんでています。アメリカ中央銀行である連邦準備制度理事会(Federal Reserve System:FRS)の第15代議長はジャネット・イエレン(Janet Yellen)です。史上初の女性議長です。副議長はザンビア出身のスタンレーフィッシアー(Stanley Fischer)。彼は2013年にまでイスラエル中央銀行総裁です。イエレンの前任者のベン・バーナンキ(Ben Bernanke)。さらにバーナンキの前任者は、アラン・グリーンスパン(Alan Greenspan)です。偶然かどうか分かりませんが全員ユダヤ系です。特にグリーンスパンは四代の大統領に仕えた人です。

ユダヤ系の経済学者のことですが、クリントン(William Clinton)政権での財務長官はローレンス・サマーズ(Lawrence Henry Summers)です。かれはハーヴァード大学の学長を歴任した経歴があります。女性は統計的にみて数学と科学の最高レベルでの研究に適していないといった発言などによって学長を辞任し、さらに連邦準備制度理事会(Federal Reserve Board: FRB)議長候補として有力視されましたが辞退します。FRBは七名の理事で構成されますが、一時は五名までがユダヤ系の人であったことがあります。ドナルド・コーン(Donald Kohn)もイエレンとともにFRBの理事でした。

世界銀行 (World Bank: WB)と国際通貨基金(International Monetary Fund: IMF)があります。いずれもワシントンDCに本部があり、共に国際金融秩序の根幹を占めています。二つともアメリカが実質的な拒否権を持っています。世界銀行の出資額の 16%、IMFの出資額の18%がアメリカであるからです。第10代世界銀行総裁だったのがポール・ウォルフォウィッツ(Paul Wolfowitz)です。彼もユダヤ系アメリカン人です。アメリカが金融の中心であるのは世界銀行と国際通貨基金をいわば抑えており、その出資はユダヤ系の金融資本といわれます。

ユダヤ人と私 その23 タルムードとベーグル

なんともとぼけたようなタイトルですが、ユーモアは人間味と笑いとペーソスに溢れ、知的で機知に富んでいるものです。ユダヤ人は交渉や商談商談の最中にジョークを盛んに活用するといわれます。辛辣なジョークもユーモアとともに相手を丸め込む手段となります。ユダヤ人は話術を磨くことで難局を切り抜け、3000年の歴史を歩んできたのでしょう。

ユダヤ人のユーモアの起源は、紀元前10世紀にイスラエルを統治したソロモン王が記したとされる旧約聖書の「箴言(Book of Proverbs)」といわれます。この書には3,000あまりの格言があるといわれます。ユーモアがもたらす効用を熟知するのはこうした書物に辿ることができます。

以下の名句の中に差別用語がでてきますが、原典からの引用なのでそのまま使っています。

●ベーグルを全部食べてしまったら、穴しか残らない。
とぼけたようなジョークです。ベーグル(bagel)は真ん中に穴のあいた歯ごたえのあるパン。大事なものは残しておくべきということでしょうか。「五円玉使ったら穴しか残らない」。

●アイディアに税金はかからない。
なににでも税金がかかる時代です。合法的な税金逃れが提案されています。寄附をするとか、ふるさと納税とか、医療費控除とか、「知らない人は損をして、知ってる人が得をする」のがアイディアということでしょう。

●10回尋ねるほうが迷うよりまし。
あれこれと迷うと良い考えが浮かびません。周りに助言をもらったり提案してもらうことがよいようです。解決方法を探すには尋ね歩くことです。

●返答しないのも立派な返答である。
これは難しい名句です。あまり喋りすぎると矛盾が生じることがあります。言い訳しないで黙り込む。短く要領よく答えるのが大事なようです。

●バカとは決して商売をするな。
商売相手を見極めよ、という警句です。たとえ儲かっても相手によってはうしろめたさが残ることもあります。

●バカに決して腹を立ててはならない。
バカに旗を立てるのがバカ、ということです。笑ってやりすごすこと、無視することです。

●もっともバカなのは、自分を賢いと思い込んでいるバカだ。
皆、「自分を賢い」と密かに思っています。これが「バカ状態」です。バカにつける薬はない、というフレーズもあります。

●学習を怠る人はすべてに欠ける。
なんともいえないいい響きの言葉です。努力とか精進とかを欠かしては成長がないということです。歩きながら、自転車に乗りながらスマホを操作する人は学習を怠っている証左です。

●無知な人には老年は冬だが、学習を重ねた人にはそれは収穫期だ。
励ましになるような、同情をかうような言葉にも響きます。無駄に時をつかい、歳をとってはならないことです。老年は意味ある時代です。

●学べば行動したくなる。
学ぶことは好奇心があるからです。学んで実行したくなるのは、真の学びといえるのではないでしょうか。行動するとまた学びに返ってくるものです。

●口数を少なくして行動せよ。
冗長で話をくどくどとする人は周りから嫌われます。誰も耳を傾けないのです。行動したり実践することが雄弁に語るのです。

●時間ができたら勉強をする、と言っていたのでは、いつまでたっても時間はできない。
勉強する人は時間を惜しんでも勉強します。時間を作る人のことです。暇になったらなにかをしようではなく、今の時を将来のために有益に使うことを示唆しています。

素のベーグルはたまらないですね。暖めてクリームチーズを塗るのが定番の食べ方。厚くハムをはさむのもええです。

ユダヤ人と私 その22 タルムードからの名句

トケイヤー師は、「タルムード(Talmud)」からいろいろな名句や言葉を紹介しています。タルムードユダヤ教徒の生活や信仰の基となっている聖典です。いくつかの本からその一部を紹介することにします。「本日、「いいかげん」日和:そのまんま楽しく生きる一日一話」、「ユダヤ人5000年のユーモア―知的センスと創造力を高める笑いのエッセンス」は笑えて考えさせられます。また烏賀陽正弘著の「ユダヤ人ならこう考える」からも引用します。

一人の古い親友は、新しくできた10人の友人よりも大事だ。
友達の大切さを強調しているのですが、とりわけ親友はなににもまして代え難い存在であることです。友人をつくり親友を探すことを勧める名句です。

豚は食べ過ぎる。苦しんでいる人間は話し過ぎる。
食べ過ぎるとブヨブヨに太り病気になりがちです。話が冗長になるのは苦しんでいるか、困っているために、言葉を探そうとするからなおさら話が長くなるのです。国会の答弁のようです。

ロバは長い耳によって見分けられ、愚か者は長い舌によって見分けられる。
饒舌で長い演説をするもの、国会で長々と答弁する大臣がいます。「そもそも」とか「いずれにせよ」など余計なフレーズで言い訳や説明をすることへの警鐘の言葉です。

貧しい者は僅かな敵しかいないが、金持ちは僅かな友しかいない。
金持ちは孤独になりがちで、貧しい者のほうが生きていくうえで幸いであるということです。何が大事かと言えばそれは友ということでしょう。

人から秘密を聞き出す事は易しいが、その秘密を守る事は難しい。
森友学園や加計学園をめぐる土地の売却や認可の過程にある秘密のことをこの名句は指摘しているかのようです。名句の真骨頂といえるでしょう。公文書管理の難しさを指摘しています。

三つのものは隠す事が出来ない。恋、咳、貧しさ。
恋は誰かに感づかれ、咳は隠しようもなく、貧しさは周りの者から見破られます。自然に振る舞うのがよいようです。隠せば隠すほどぼろがでます。学校設立認可を巡る官庁間の鬩ぎ合いもそうです。

侮辱から逃げろ。しかし名誉を追うな。
周りから蔑まれても落ち込むことなく静かに勇気をもって退く。だが名誉は追っかければ追っかけるほど逃げていく。それは名誉を求めるのは愚かな行為であるというのです。

ユダヤの名句やジョークは知的なものが目だちます。長く苦しい歴史が生んだ智恵といえるでしょう。馬鹿馬鹿しいギャグやコントの比ではありません。

ユダヤ人と私 その21 タルムードの教えから

一般には、旧約聖書を分かり易く解説したものが「タルムード(Talmud)」だと言われています。このことに関してラビであるマーヴィン・トケイヤー師(Marvin Tokayer)は「タルムード的」という言葉を頻繁に使い、しきりに賞賛しています。ユダヤ教の霊的な指導者ですから当然のことといえます。トケイヤー師は在日米空軍の従軍牧師(chaplain)として日本に滞在し、退役後は日本ユダヤ教団に勤務し1976年まで日本に滞在しています。その間日本語で20冊の本を著しています。

「タルムード」は素晴らしい書物といわれていますが、全巻を日本語に翻訳されて出版されていません。書店が日本語に翻訳する許可を求めても、発行元はそれを許可しないといわれています。 どうしてかといいますと、ユダヤ以外の民族、いゆる異邦人にとって不快感を抱くに十分な内容もそこに書かれているからだといわれていますが、真偽は定かではありません。

「タルムード」は「口伝律法」と呼ばれています。文字通り古代から言い伝えられてきた教えです。口伝律法が必要だったのは、現実の状況に適合する規定をつくるために成分律法と直接関係のない広範囲な権威を認めなければならなかったからです。

平凡社の「世界大百科事典」によりますと「タルムード」は三つの内容となっています。第一はミドラッシュ(Midrash)です。これはモーセ五書であるトーラ(Torah)本文分の講解や解釈です。第二はハラハ(Halakhah)と呼ばれ古から受け入れられてきた慣習や権威ある律法学者の判定や裁定のことです。Halakhahの原意は「歩き方」といわれています。第三はハガダ(Haggadah)です。これは説話や民話、伝説など基づく教えのことです。

旧約聖書に書かれていない物語や様々な逸話は、ユダヤ教のあり方、思想、歴史、生活、人物などに及びます。こうした逸話の概念用語は「アガダ(Aggadah)」と呼ばれ、その意味は「語り」といわれます。口伝律法はユダヤ教の口伝えの伝統を示すといえます。

ユダヤ人と私 その21 「学びの宗教」

このシリーズの[その1]でミルウォーキーの近くに住む医師で熱心なユダヤ教徒であるDr. Robert Jacobs一家のことに触れました。国際ロータリークラブの会員で地域貢献活動にも極めて活発な方です。Jacobs氏はユダヤ系といってもアシュケナジム(Ashkenazim)です。ドイツ系ユダヤ人のことです。国際ローターリークラブ奨学生であった私のスポンサーでもありました。

アシュケナジムのユダヤ人は子供の教育を大事にしています。週2回、子供達をシナゴーグ(Synagogue)での教典の勉強会に通わせています。神と人間との関係を定めた「トーラ」(Tola)」、慣習や倫理、専門知識など、より具体的に人間同士の関わりについて定めた「タルムード」(Talmud)を学ばせ、大人への仲間入りを準備させるためです。Jacobs氏は子供にヘブライ語も学ばせていました。近くにユダヤ人学校がないために公立学校で勉強させ、下校後シナゴーグで勉強させていたといいます。

ユダヤ教は、経典を学習する「学び」の宗教であると主張する学者がいます。この学者によればタルムードの解釈をめぐっては、先人たちの考えを決して鵜呑みにしないのだそうです。今の時代に合わせて教えが妥当するのかを検証します。そして様々な新しい視点を取り入れて議論しながら、幅広い知識を身につけるのユダヤ人の学習スタイルだといわれます。

特にアシュケナジムのユダヤ人には、教育は投資であるという徹底した考え方があります。彼らの多くは公教育のレベルが非常に高い地域や名門私立校のある街を選んで暮らします。たとえその街の固定資産税が高くても、自分の子供にとってベストな環境を選ぶといわれます。子供達に高い望を期待するのがユダヤ人です。学力のみならず、道徳的な基盤となる人格形成もユダヤ人の教育機関が担っています。

ユダヤ人が集まった街があちらこちにあります。その代表的がイリノイ州(Illinois)のスコーキー(Skokie)です。1960年代には40%の人口がユダヤ系だったそうです。2009年には、イリノイ・ホロコスト博物館兼教育センター(Illinois Holocaust Museum and Education Center)がスコーキーに造られます。いうまでもなくユダヤ人の浄財によるものです。

ユダヤ人と私 その20 セファルディムとミズラヒム

第一次大戦前のオスマン帝国(Osman Empire)時代のパレスチナにおけるユダヤ教徒の状況は、イスラエルの建国後とは全く異なっていたようです。セファルディムがパレスチナ(Palestina)での実権を握っていたのです。というのはスペインがレコンキスタ(Reconquista)という国土回復運動を完了したとして、1492年のユダヤ人追放令によって、多くのユダヤ人、セファルディムがイベリア半島からオスマン帝国領に避難してきます。オスマン帝国は、ミレット制(millet)といわれる保護と支配を兼ねる特殊な宗教自治体を設け、各宗教や宗派の宗教的な自治を認めてきました。ユダヤ教徒ではその自治を担ってきたのがセファルディム系でした。彼らはオスマン帝国によって庇護されてきたのです。

Petty Officer 2nd Class Bridget Shanahan, a corpsman with Shock Trauma Platoon, 2nd Combat Logistics Battalion, and Lance Cpl. Michael Johnson, a wireman with Communications Platoon, Headquarters and Service Company, 2nd Battalion, 25th Marine Regiment, Regimental Combat Team 5, hand out stuffed animals to a second grade student at Houran Primary School in Rutbah, Iraq, Dec. 2. Not only was this the first time most of the children at Houran had ever interacted with Coalition forces, but it was an education in the integral role that females serve in the U.S. military.

しかし、第一次大戦後はイギリスによるパレスチナの委任統治が始まると情勢は一変します。19世紀末からユダヤ国家建設運動であるシオニズムが台頭するにつれて、国家建設を主導しパレスチナへの移民し入植していきます。その中心がアシュケナジムです。そのため建国後政治や社会、経済や文化といったあらゆる面でセファルディムに代わって権力や影響力を握ることになります。

ナチスの露骨な反ユダヤ主義的な政策のために、パレスチナへの移民の中心となったユダヤ人はドイツやポーランドなど中央ヨーロッパの出身者です。こうした移民の特徴は、資産家というカテゴリに属する人々です。イギリスによる委任統治政策は1,000パレスチナ・ポンド以上の資産を有するユダヤ人に限り、無制限にパレスチナへの入国を許可します。ドイツ系ユダヤ人はパレスチナに膨大な資本と技術をもたらし、経済の再生産を促すことになります。こうしたユダヤ人はアシュケナジムです。ドイツ系ユダヤ人を受け入れることで、パレスチナは経済的に自律的な社会の成長をとげていきます。

もう一派のユダヤ系の人々のことです。1948年のイスラエルの建国後、アシュケナジムに加えてアラブ諸国やイスラム世界からユダヤ人が増加します。こうした人々は伝統的なアラブ世界やイスラム教が多数派の社会のユダヤ人で「ミズラヒム(Mizrachim)」と呼ばれました。「ミズラハ Mizrach」 とはヘブル語で「東」を意味し、文字通り中東やモロッコ(Morocco)から移住してきたユダヤ人です。「ミズラヒム」の人々は、イスラエル建国への反発から生まれたイスラム世界におけるユダヤ人迫害が強くなり、イスラエルに移住を余儀なくされた人々のことです。こうした東方系のユダヤ人は、セファルディムとしてくくられているようです。

以上の考察から、イスラエルという国は、人種のるつぼであり多民族で他文化の国であるということがわかります。

ユダヤ人と私 その19 アシュケナジムとセファルディム

イスラエルの民族や文化の理解のためには、ユダヤ人の内部のエスニックな事情を知っておく必要があります。といいますのは、イスラエル人とは曖昧な総称であり、その解釈は様々で時に誤解が生まれるからです。

ユダヤ人は大きく二つに分類される人種といわれます。その第一がアシュケナジム(Ashkenazim)、第二はセファルディム(Sephardim)です。前者は一般にドイツ系ユダヤ人であり、後者はスペイン系ユダヤ人といわれます。

アシュケナジムは、もともとドイツのライン川(Rhine River)流域や北フランスに定住していたユダヤ人とその子孫です。その後東ヨーロッパやロシアへ移住していきます。ユダヤ系のディアスポラ(diaspora)と呼ばれてもいます。白系ユダヤ人ともいわれます。ドイツ語に似たイディッシュ語(Yiddish)を使っていました。アシュケナジムの語源は、旧約聖書におさめられた創世記(Book of Genesis)10章3節ならびに、ユダヤの歴史書である歴代誌(Books of Chronicles)上1章6節に登場する男性の名前です。

他方、セファルディムは中世にスペイン、ポルトガルが位置するイベリア半島(Iberial Peninsula)に住んでいたユダヤ人の子孫です。ユダヤ系スペイン語である「ラディノ語(Ladino)」を使っていました。セファルディムは有色人種、南欧系及び中東系ユダヤ人を指す語として大雑把に使われています。セファルディムの意味はヘブル語でスペインを意味します。この二つの民族が今日のユダヤ社会の二大勢力となっています。

ユダヤ人は当初は、ヨーロッパとイスラム世界とを結ぶ交易商人だったといわれます。ヨーロッパとイスラム間の直接交易が主流になったこと、ユダヤ人への迫害により長距離の旅が危険になったことから定住商人となり、キリスト教徒が禁止されていた金融業等へと進出していきます。

ユダヤ人と私 その18 ユダヤ人と日本とのつながり

ユダヤ人と日本人は世界史の中で寄り添うような関係を持ったことがあります。日露戦争の経緯にその関係がうかがわれます。

戦争の遂行のために日本は膨大な戦費を必要としていました。そのために国債を発行し外貨を得ようとします。当時の日本銀行副総裁、高橋是清はそのための外貨調達に非常に苦心したといわれます。投資家からは日本の敗北予想、国債支払い能力の不安などで外貨調達は困難を極めます。

高橋らの努力で、帝政ロシアを敵視するユダヤ系のアメリカ人銀行家ジェイコブ・シフ(Jacob H. Schiff)は、500万ポンドの外債を引き受け、その後も追加の融資をします。融資の理由はロシア国内での反ユダヤ主義(Antisemitism)に対するシフらユダヤ人の抗議であったといわれます。反ユダヤ主義の例は、ポグロム(pogrom)というユダヤ人への集団迫害です。

日本は3回にわたって7,200万ポンドの公債を追加募集します。シフはドイツのユダヤ系銀行やリーマン・ブラザーズ(Lehman Brothers)などに呼びかけ、この募集も実現するという幸運に恵まれるのです。日本はシフなどのユダヤ系投資家によって軍費を調達し日露戦争を遂行できます。日露戦争は、帝政ロシア崩壊のきっかけとなったといわれます。

シフは実業家として成功します。同時に彼は寄附や慈善とか形で同胞に貢献します。ヘブライ・ユニオン・カレッジ(Hebrew Union College-Jewish Institute of Religion)の創立に援助します。このカレッジは、聖職者を養成するユダヤ教改革派の神学校です。その他、コロンビア大学(Columbia University)とかイスラエル工科大学(Israel Institute of Technology)などにも多額の資金を提供したことで知られています。

今もアメリカにあるまざまなユダヤ人の団体、例えばアメリカシオニスト機構(Zionist Organization of America: ZOA)とかアメリカ・イスラエル公共問題委員会(American Israel Public Affairs Committee: AIPAC)アメリカとイスラエルの関係を維持する強力ななロビイスト団体であると同時にイスラエルに多額の支援をしています。

ユダヤ人と私 その17 ユダヤ人の日本とのつながり ヨセフ・トランペルドール

マーヴィン・トケイヤー師(Rabbi Marvin Tokayer)は著者の中で、日本とユダヤの関係は、日本がユダヤから影響を受けるだけでなく、日本がイスラエルに大きな影響を与えたこともあったというエピソードも紹介しています。

Die sogenannten “Hep-Hep-Krawalle” in Frankfurt am Main, Antisemitische Ausschreitungen in Deutschland 1819; Radierung, zeitgenössischOriginal: Frankfurt am Main, Historisches MuseumStandort bitte unbedingt angeben!;

日露戦争で捕虜となったヨセフ・トランペルドール(Joseph Trumpeldor)のことです。数千人のロシア兵捕虜の一人として大阪は堺市の捕虜収容所で暮らします。彼は収容所での親切な扱いに感激し、日本のような小さな国がどうして大国ロシアに勝てたのかと考え、「日本を手本としたユダヤ人国家を建設する」と誓ったとか。収容所内でユダヤ人に関する新聞を発行し、小さな教室を開いて歴史や地理、文学に関する講義をしたようです。後にトランペルドールはシオニスト運動に加わり英国軍とパレスティナの各地で戦いイスラエルの建国に尽くします。

少し遡りますが1848年には、那覇にユダヤ系で当時はイギリス国籍であった医師兼プロテスタント宣教師のバーナード・ベッテルハイム(Bernard Bettelheim)とその家族がやってきます。本土でユダヤ人共同体が構成されたのは万延元年の1860年頃といわれ、開港間もない長崎の外国人居留地にコミュニティがつくられます。横浜の外国人居留地には、幕末の時点で50家族のユダヤ人が住んでいたとあります。横浜は山手の丘の上にある外国人墓地では、ユダヤ教の象徴である「ダヴィデの星」の墓碑をみることができます。

1861年には、ロシアやポーランドで集団的迫害であるポグロム(Pogroms)を受けたユダヤ系の難民が長崎に上陸します。さらに1894年頃、長崎に日本初の礼拝所であるシナゴーグ(Synagogue)がつくられます。このシナゴーグは別名ケヒッラー(Qehillah)と呼ばれるユダヤ教徒のコミュニティのことです。技術者、船員、商人が多く、シナゴーグと宗教的指導者であり学者でもあるラビ(rabbi)をおいて、学校もつくったといわれます。こうした記録は墓銘などから分かっています。ユダヤ人にとって宗教的な教育は大事な活動だったことが伺われます。

ユダヤ人と私 その16 ユダヤ人の日本とのつながり マーヴィン・トケイヤー

ユダヤ人の渡来はヨーロッパ人の渡来と同じ時期だったようです。ポルトガル人の渡来が1543年ですが、それに続くヨーロッパ人の中に「マラノス(Marannos)」と呼ばれた表向きはキリスト教への改宗者が渡来者に多数交じっていたようです。「マラノス」は秘かにユダヤ教を守り続けた者でもありました。14世紀や15世紀になるとイベリア半島(Iberian Peninsula)ではユダヤ教を信奉することが強く非難されるようになりました。「Marannos」という単語の他に、改宗者という意味の「Converso」という単語もスペイン(Spain)やポルトガル(Portugue)にあります。

大航海時代の船員や乗組んでいた医師や商人のなかにユダヤ系の名前がでてきます。渡航者の中では、フランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier)はスペインのバスク(Basque)出身のユダヤ人でありました。さらに同行した医師兼通事であったルイス・アルメイダ(Luís de Almeida)が「マラノス」であったという記録があります。アルメイダは豊後府内にて私財を投じて乳児院や日本初の総合病院を建てます。九州全域をまわって医療活動を行いながら、医学教育も始め医師の養成にもあたったという人です。

ラビ(rabbi)であったマーヴィン・トケイヤー(Marvin Tokayer)が著した「ユダヤ製国家日本」には日本におけるユダヤ人の活躍が書かれています。種子島に鉄砲をもたらした初頭期の人の中に、フェルナン・メンデス・ピント(Fernao Mendes Pinto)がいました。彼もまた改宗者となった「マラノス」でした。ピントは膨大な旅行記も書いたそうです。また、明治期のお雇い外国人の二割ぐらいはユダヤ人であり、大日本帝国憲法の起草に大きな影響を与えたアルバート・モッセ(Albert Mosse)や、日本における歴史学の父で東京帝国大学史学科で教えたルートヴィヒ・リース(Ludwig Riess)らもユダヤ人でありました。

ユダヤ人と私 その15  ユダヤ教とキリスト教の論争

19世紀に入り、近代化の流れの中でヨーロッパに政治運動としてのシオニズム(Zionism)が台頭します。その理由は、ナポレオン一世(Napoleon Bonaparte) が征服した国々の中でユダヤ人の平等視を命じたことにあります。こうして一方でヨーロッパでユダヤ人が政治的に解放されていくにつれ、他方でユダヤ教の民族性脱却の考え方への不満を反映していく機運が高まっていきます。これがシオニズム運動です。

のような経緯かといいますと、伝統的なユダヤ人とユダヤ教がローマ・カトリック教会(Roman Catholic Church)やプロテスタント教会(Protestant Church) と同じように民族性を越えた信仰者の団体であるべきことを確信するユダヤ人との間で激しい論争が交わされていたことです。この論争を終息させたのは、皮肉にもナチス時代の迫害でありました。

ユダヤ教の立場からは、キリスト教はユダヤ教の異端の一つであるという見方です。この二つの宗教の確執は2000年にもわたります。キリスト教の側は、キリスト教が契約の真に成就した教義として宣言します。しかし、両者の新しい和解の芽生えが1993年のヴァチカン(Vatican)とイスラエル(Israel)との外交関係の樹立です。単に政治的な関係の改善だけでなく、和解という宗教的な意味を持つできごとでした。

和解の具体的なこととして、両者がパレスチナ(Palestine)の重要な役割を認識すること、ユダヤ人コミュニティの教会的な定義づけが歴史に公正な判断を下すことにならないこと、ユダヤ教が観念的な教義で成り立つと見なすことは神学的に健全でないこと、反ユダヤ主義や人種差別と対決すること、礼拝の自由を擁護し、ユダヤ教、キリスト教の聖地を尊重することなど、政治的な内容を越えたものが盛り込まれます。

ユダヤ人と私 その14 アーリア人と「自民族中心主義」

エスノセントリズム(ethnocentrism)は、「民族」を意味するギリシャ語エトノス(ethnos)が語源とされています。巷で使われる単語に「ethnic」があります。民族的とか少数派民族、などという意味です。エスノセントリズムは「自民族中心主義」といわれます。古代のギリシャやローマ人は仲間以外のすべてを「野蛮人」と呼んだ歴史があります。「中華思想」は「華夷思想」とも呼ばれ、漢民族の居住する黄河下流と中原とし、それ以外の地、辺境に住む民族を「夷狄」とし文化程度の低い蛮族と見なしてた時代がありました。日本でも北海道は昔は「蝦夷」と呼ばれました。異端視した呼称です。「夷」えびすとも呼ばれ、岩波の国語辞典によれば「東方の未開人」とあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 
自民族中心主義といえば、アーリア人種論(Aryan)を取り上げる必要があります。Encyclopaedia Britannicaによりますと、アーリア人はもともと古代「インド・ヨーロッパ語族」と呼ばれ、先史時台はイランや北インドに定住した人々といわれます。やがて南ロシア地方に居住し牧畜を営んだ民族の一つであると考えられています。体ですが色は白く、背が高く、鼻は真っ直ぐに高く、容姿が整い、使われていた言語は現代ヨーロッパ諸民族の古語であるゴート語(Gothic)、ケルト語(Celtic)、ペルシャ語(Persian)などと同一系といわれます。

1853年にフランスの文人で外交官であったアーサー・ド・ゴビノー(Arthur Comte de Gobineau)が『諸人種の不平等に関する試論』という本を書き、そのなかで中で白人至上主義を提唱し、アーリア人を支配人種と位置づけます。この本をきっかけに、アーリア人種のことが神話のように広ろがります。そして「金髪、高貴で勇敢、勤勉で誠実、健康で強靭」というアーリア人種のイメージは彼らの理想像となり、アーリア人種論はヒトラーの思想形成にも影響を及ぼしたといわれます。アーリア人種はドイツ民族と同義語になり、ドイツ民族こそがアーリア人種の理想を体現する民族であると謳歌するのです。この人種至上主義はドイツのナショナリズムを統合する精神となっていきます。

ユダヤ人と私 その13 エスノセントリズムとホロコスト

ユダヤ民族の悲劇は第二次大戦中のホロコスト(Holocaust)です。Encyclopaedia Britannicaによりますと「Holocaust」は「神への焼かれた生けにえ」という意味のギリシャ語を語源とする言葉といわれます。ホロコストは、生けにえを捧げる儀式「燔祭」から由来し、後にナチスが組織的に行った大量虐殺のことです。旧約聖書の「創世記」(Book of Genesis)には、年老いたモーゼ(Moses)と不妊の妻サラ(Sarah)との間にもうけた一人息子イサク(Isaac)を生けにえとして捧げるよう、モーゼが信じる神によって命じられるという試練の記述があります。

エスノセントリズムの代表例がホロコストです。自分の属する内集団と,属さない外集団との差別を強く意識し,内集団には肯定的服従的態度を,外集団には否定的敵対的態度をとる精神的傾向を指します。これが極端になるとユダヤ人迫害のホロコストにみられるような極端な排外主義になります。アングロサクソン(Anglo-Saxons)を含むゲルマン(Germanic peoples)民族の選民思想や人種思想を標榜したのがナチスドイツでありました。

ワシントンD.C.のモール(Mall)の一角にホロコスト記念博物館(Holocaust Memorial Museum)があります。1993年4月に開館した比較的新しい博物館です。ついでながら、この博物館で私の国際ロータリー奨学金のスポンサーであるDr. Robert Jacobsの名前が寄付者の碑にありました。

 

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ユダヤ人と私 その12 選民思想と「エスノセントリズム」

反ユダヤ主義者(anti‐Semites)は、「ユダヤ教は強烈な選民思想であり、民族や人種の文化を基準として他の文化を否定的にとらえる自民族中心主義である」などと主張します。それはユダヤ人への偏見と憎悪に満ちた見方であります。ユダヤ人は散らされた民であるがゆえに、共同体をつくり、知恵を絞り懸命に働いて財をなし、生き延びなければならなかった歴史があります。

4月14日、最近になって顕在化する反ユダヤ主義的な言動は、一時的な苛立ち、それとも無理解、あるいは単なる無知からくるものなのだろうか。写真は2014年9月、ベルリンで行われたユダヤ人差別に反対する大規模集会の開始を待つ男性(2017年 ロイター/Thomas Peter)

ユダヤ人は、神が選びだして聖なる使命を与えた民族であり、神との間に特別な「契約」を結んだ民族であるということを信じています。ユダヤ人は選ばれた民族であることを誇りにしますが、理不尽に他を排除することはありません。ですが安全保障を脅かす者に対しては,武力などあらゆる手段を講じます。その例は三度にわたる中東戦争であり、エルサレム(Jerusalem)のユダヤ化政策であり、分離壁の建設です。この意味で、現在のイスラエルは軍事国家といえるのです。

選民であるという思想は、しばしばエスノセントリズム(ethnocentrism)と関連しています。エスノセントリズムは、自文化中心主義ともいわれ、自己の属する集団のもつ価値観を据えて,異なった人々の集団の行動や価値観を評価しようとする見方や態度を指します。キリスト教での定義では「選ばれた」という状態は自らを卑下する思想とされます。この考え方は他者よりも多くの責任を負い、ときに自分を犠牲にするという姿勢です。ユダヤ教の選民思想とは異なります。

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ユダヤ人と私 その11 「戦場のピアニスト」

映画は、私たちが文字で学ぶ歴史を可視化してくれる不思議なメディアです。歴史の場にいなくても歴史の事実を追体験させてくれ、我々の知性や悟性を大いに刺激してくれます。

「The Pianist」という映画がありました。ここに登場するのは、第二次大戦のポーランド・ワルシャワ(Warsaw)と苦悩する市民です。破壊尽くされた街を一人の男がとぼとぼと食料かなにかを求めて歩いています。これが有名なピアニスなどとは誰も想像できません。戦争は人間を貴賤の別なく、哀れな存在としておっぽり出すのです。栄光も名誉もかなぐり捨てて食べ物をあさる人々がそこにいるのです。

「The Pianist」は、ポーランドに住み、ピアニストとして活躍していたユダヤ人ウワディスワフ・シュピルマン(Whadyshaw Szpilman)の生き様を描いています。シュピルマンは、廃墟でピックルス入りの缶詰を拾い、それを開けようとします。そこにドイツ軍将校が立っています。「お前は誰か?」、「お前の職業はなんだったのか?」とシュピルマンにきく。

シュピルマン:「ピアニストだった。」
将校:「では弾いて貰おうか。」

半信半疑の将校は、ピアノのある部屋にシュピルマンを案内します。こうしてシュピルマンはピアノに向かってしばらく沈黙し、そして意を決して弾き始めます。曲はショパン(Frederic Chopin)のバラード一番、ト短調(Ballade NO.1, G minor)。戦争の最中、将校は至福の時間を過ごすかのように聞き惚れるのです。

弾き終わると自分のマントを寒さにあえぐシュピルマンに与えます。その時からピアニストに食料を届けるのです。将校の名はウィルム・ホーゼンフェルト(Wilm Hosenfeld)。弾く者と鑑賞できる者に国籍はいりません。この瞬間に二人には戦争もありません。

ユダヤ人と私 その10 「シンドラーのリスト」

「シンドラーのリスト」(Schindler’s List)という映画には、見応えのある印象的な手法が随所に散りばめられています。監督スティーヴン・スピルバーグ(Steven Spielberg)がいかに創造的な映画制作者であるかを考えさせられる作品でもあります。

登場するシンドラー(Oskar Schindler)はドイツ人の実業家です。ドイツ軍への食器類を製造しています。決して死の商人ではなく、ドイツ人将校を賄賂で手玉にとり、ビジネスを発展させるのです。ですがユダヤ人に対するナチスの苛酷な対応に次第に疑問を持ち、少しでも彼らを救おうと決心します。シンドラーの改心ともいえるところがこの映画の一つの見所です。

シンドラーは、ポーランドのクラカウ・プラショフ(Krakow-Plaszow)という街で琺瑯食器工場を造り、軍に納めるのです。そこで闇マーケットで活躍するスターン(Itzhak Stern)というユダヤ人を会計士として雇い、ビジネスを展開します。シンドラーとスターンは工場経営のために、いろいろなところから融資を受けます。そして多くのユダヤ人を工員として採用するのです。これによって強制収容所行きを免れるのです。

クラカウ・プラショフ強制収容所の所長としてエーモン・ゲート(Amon Goeth)という将校が赴任すしてきます。残忍な手法でユダヤ人を苦しめるのですが、シンドラーは巧みに振る舞い、賄賂によってゲートからいろいろな譲歩を引き出します。シンドラーはゲットーや収容所での恣意的な拷問や殺害を目撃します。一人の少女が赤い服を着てナチスから逃れようします。だが、シンドラーはやがてこの赤い服を着て冷たくなった少女が手押し車に積まれて運ばれるのを目撃するのです。

ユダヤ人と私 その9 Hannah Arendtと「凡庸な悪」

アドルフ・アイヒマンの裁判は1961年4月にエルサレムで開始されます。この様子は世界中に報道されます。罪状は「人道に対する罪」や「ユダヤ人に対する犯罪」ということです。

ユダヤ系のアメリカ人であるハナ・アーレント(Hannah Arendt)は、原告と被告とのやりとりを傍聴し、その記録を精査しながら、1961年に雑誌「The New Yorker」において、「エルサレムにおけるアイヒマン:凡庸な悪」と題して投稿します。その中で、被告は思考を停止した「凡庸な悪(Banality of Evil)」を実行した人物であり、命令を忠実に実行し、その行為と結果になんらの評価もせぬ一凡人であり、弾劾するに値しない人物だと看破するのです。

この裁判は、世界中の人々の監視にさらすことで公正な裁き期そういう意図ですが、アーレントはセンセーションを煽るようなこのような裁判に疑問を投げかけます。こうして彼女は、ホロコストの犠牲者に対する冷酷で憐れみのない人間として、同胞やの友人から強い批判を受け、教鞭をとっていたニューヨーク市内のThe New Schoolからは辞職を勧告されます。だが彼女の信念は揺るぎません。

「人間は人道的、技術的な知力を身につけるにつれ、行動の結果を制御する能力がなくなくなるパラドックスに直面する存在である」とアーレントはいいます。このパラドックスは現代においても私たちを脅かし続けています。例えば、核開発競争と平和運動であり、自由貿易主義と保護貿易主義のせめぎ合いといったことです。

ユダヤ人と私 その8 映画「Hannah Arendt」

映画「Hannah Arendt」を観た方はいるでしょうか。2012年のドイツとフランス合作の伝記ドラマ映画です。この映画のテーマは、ドイツ系ユダヤ人の哲学者であり政治理論家であったハナ・アーレント(Hannah Arendt)の「人間の知性には限界がある」という主張です。どいうことかを2回に分けて説明します。

映画はアーレントがアドルフ・アイヒマン(Adolf Eichmann)の裁判を傍聴するところから始まります。ナチスドイツの親衛隊中佐(SS)としてホロコスト(Holocaust)に関わったアイヒマンは、1960年に逃亡先のブエノスアイレス(Buenos Aires)でイスラエル(Israel)の諜報特務機関であるモサド(Mossad)によって逮捕されます。

この裁判は1961年4月、イスラエルのエルサレム(Jerusalem)で開始されます。アイヒマンは「人道に対する罪」、「ユダヤ人に対する犯罪」、および「違法組織に所属していた犯罪」などの15の犯罪で起訴されるのです。その裁判は世界に報道され国際的な注目を浴びました。多くの証言によってナチスによる残虐行為が語られ、ホロコストの実態がいかに醜いものであったか、ナチスの支配がいかに非人道的であったかを世界中に伝えられることになります。

裁判を通じてアイヒマンはナチスによるユダヤ人迫害について遺憾の意を表しながらも、自らの行為については「命令に従った」と主張します。さらに「戦争では、たった一つしか責任は問われない。命令に従う責任ということだ。もし命令に背けば軍法会議にかけられる。そうした状況で、命令に従う以外には何もできなかった。」と陳述するのです。そして「自分の罪は命令に従順だったことだ」とも弁明します。こうして、かつての親衛隊員に対して怨嗟していた傍聴者や報道機関を戸惑わせたといわれます。

ユダヤ人と私 その7  KosherとHalal

ユダヤ教では、食べてよいものと食べてはならないものの掟があります。旧約聖書のレビ記(Book of Leviticus)や申命記(Book of Deuteronomy)にその記述があります。この食事規定のことはヘブル語(Hebrew)でカシュルート(kashrut)とかユダヤ人食事法(Jewish dietary law)と呼ばれます。「kashrut」とはヘブル語で「相応しい状態」という意味です。

レビ記は清浄と不浄などを規定し、献げ物や動物の扱いに関しても定めています。レビ記はユダヤ教における律法の中心となったと神学者はいいます。申命記はモーゼが死海 (Dead Sea)の東岸にあるモアブ(Moab)の荒野で民に対して行った3つの説話から成り、十戒が繰り返し教えられています。食のタブーは宗教や民族によって異なる厳格なルールです。

食べてよいものは一般にコーシャ(Kosher)と呼ばれます。ユダヤ教に掟にそって作られたものです。マーケットにいくとコーシャ食品と名のつくものが時々目につきます。例えば、ピクルス(pickles)にも塩にもKosherというのがあります。コーシャの意味は「適正だ」(fit)とか「浄い」ということです。イスラム圏では、ハラル(Halal)がありイスラム法上で食べることが許されている食材や料理を指します。

ユダヤ人にとって宗教的に不浄な食物の例に豚肉があります。食事の作法も律法で規定されています。手を洗うこと、食卓に就いて感謝の祈りを捧げること、そして食後の感謝の祈りがあります。神が命じたことを守るという習慣と行為は、食事にはっきり示されています。食事が宗教儀式となっているといえます。

ユダヤ人と私 その6 「栄光への脱出」

映画好きの私は、ユダヤ教やキリスト教関連のフィルムの場面を想い出すことができます。「十戒」もそうです。この映画の舞台は旧約聖書時代です。時代を経て現代の作品となりますと1960年制作の『栄光への脱出』(Exodus) となります。この映画は、シオニズム(Zionism)を信奉するユダヤ人たちのイスラエル建国までの苦闘を描いた物語です。『栄光への脱出』は、アメリカ人歴史小説家、レオン・ユリス(Leon Uris)の作品「Exodus」に基づいています。

監督は、オーストリアーハンガリー(Austrian-Hungary)帝国生れのオットー・プレミンジャ(Otto Preminger)、憂愁に満ちたテーマ音楽を作曲したのはアーネスト・ゴールド(Ernest Gold)。二人ともユダヤ人です。サウンドトラックの演奏はHenry Manciniで知られている映画です。「Exodus」とは「大量脱出」とか「集団逃亡」という意味です。「Exodus」のもともとの出典は、旧約聖書の「出エジプト記」です。

祖国を失っていたユダヤ人がキプロス島(Cyprus)に集まります。しかし、英国による対アラブ諸国への政策によって拘留されます。英国は、アラブ諸国を刺激させないため、そのような措置をとっていたといわれます。アリ・ベン・カナン(Ari Ben Canaan)をリーダーとするユダヤ人地下組織がキプロス島に潜入し、収容されている同胞を貨物船エクソダス号で脱出させる計画を実行します。

1947年11月、国連はパレスチナ分割を可決し、翌年ユダヤ人の国イスラエル共和国が誕生します。しかし、その独立によってユダヤ人とアラブ諸国の争いが本格化することになります。元ナチ将校らに指揮されたアラブ人たちはユダヤ人地区を襲撃し地下運動家らを殺すのです。双方が多くの犠牲者を出すなかで、それを埋葬するアリはやがてユダヤ人とアラブ人が平和に暮らせる努力をすることを誓うのです。

第二次世界大戦以前、多くのユダヤ人はシオニズムを非現実的な運動と見なしていたといわれます。ヨーロッパにいたユダヤ人自由主義者の多くは、ユダヤ人が国民国家に忠誠を誓い、現地の文化に同化した上で完全な平等を享受すべきと説きます。そうしたユダヤ人には、シオニズムがユダヤ人の市民権獲得の上で脅威に映ったようです。ハナ・アーレント(Hannah Arendt)もそうした思想家の一人です。

ユダヤ人と私 その5 世界に散ったユダヤ人とシオニズム運動

紀元前11世紀頃、古代イスラエル(Israel)王国が誕生します。王国の混乱により紀元前722年にアッシリア(Assyria)によって陥落し、メソポタミアと古代エジプトを含む世界帝国、いわゆるペルシア帝国(Persian Empire)の時代となります。ペルシアとは現在のイランの古名です。ペルシア帝国は紀元前4世紀にギリシャのアレクサンダー大王(Alexander the Great)によって滅ばされるまで続きます。

イスラエル王国は滅亡しますが、地中海世界の諸都市にはユダヤ人共同体が多く存在したといわれます。人や物資が地中海世界を自由に往来する中で離散したユダヤ人は活躍し、そこで定着し永住します。そしてコミュニティをつくるのです。

世界に散ったユダヤ人(Diaspora)がイスラエルの地に国を造ろうとした運動は、シオニズム(Zionism)と呼ばれます。宗教的、文化的復興を目指す近代化運動のことです。民族主義の昂揚とか祖国回復の運動ともいわれます。今のイスラエルはもともとエルサレム(Jerusalem)の歴史的地名であるシオン(Zion)から由来しています。イスラエルの地全体への形容詞がシオンであり、シオニズムの語源となっています。

ヤコブ・ラブキン(Yakov Rabkin)というモントリオール大学の教授は次のようにいいます。
「シオニズムとは、もともと宗教的共同体だったユダヤ人社会に欧州のナショナリズムを当てはめたものだという見方もある。ヘブライ語を持つ国民、民族として「ユダヤ人」を位置づけ、彼ら自身の国民国家を持つべきだという新しい考え方だった。」

ラブキンはさらにいいます。
「中東紛争はイスラム教徒とユダヤ教徒との宗教紛争ではない。実際には、両者は何世紀にもわたって共生、共存してきた。一握りのシオニストが武力を行使して、そこに居住していたパレスチナ人を彼らの意思に反して、家から追い出した。」

こうしたシオニズムの批判が予言するように、イスラエルは建国の長い経緯をとおして、パレスチナ人およびアラブ諸国との間にパレスチナ問題を抱えてきました。ユダヤ人共同体は一枚岩ではなく、集団内外でも文化に融合し、多民族と共存し平和的な国造りをしようとする人々など異なる考えがあります。

ユダヤ人と私 その4 「お前はユダヤ人か?」

自分は紛れもなく国籍は日本人ですが、一度だけ「お前はユダヤ人(Jew)だろう」と揶揄されたことがあります。ウィスコンシン大学で苦学し、懸命にアルバイトをしていたときに一緒に働いていた大学の職員から掛けられた言葉です。相手も半分、冗談にいったに違いないのです。

本当に経済的に苦し時代でした。子供は大きくなり、家内も懸命に働いていました。博士課程の授業料も堪えました。そんな理由で毎日、大学構内の芝刈りや木の剪定作業、そして週末は院生宿舎の管理人室で仕事をしていました。私のそんな働きぶりをみて、ユダヤ人ではないかと思われたらしいのです。実をいうと「お前はユダヤ人だろう」などと言うことは、働き過ぎで金儲けに走っているなど、人種差別や偏見を示唆するステレオタイプば表現です。戦前、勤勉な日系アメリカ人が卑下されて「ジャップ(Jap)」といわれたのと同じ感覚なのです。

古代ローマのエルサレム総督(Governor General)のピラト(Pontius Pilatus)はユダヤ人でした。イエス・キリスト(Jesus Christ)は彼によって殺されたと信じられています。キリストを金で売って裏切ったイスカリオットのユダ(Judas Iscariot)がユダヤ人への偏見や憎悪につながっているともいわれます。

ユダヤ人に対する偏見は世界中にあります。シェークスピア(William Shakespeare)も「ヴェニスの商人」(The Merchant of Venice)でユダヤ人を主人公にしています。ユダヤ人金貸し、シャイロック(Shylock)です。強欲で金儲けが上手くてずる賢いというイメージをこの作品は広めたようなところもありますが実はそうではありません。シャイロックの無念さを思いながら、迫害されてきたユダヤ人が現在の国際金融を作り出してきた源泉がシャイロックの生き様にあると考えたくなります。

ユダヤ人と私 その3 唯一の神、ヤハウェと十戒

Jacobs氏一家は敬虔なユダヤ教徒です。ユダヤ教(Judaism)がキリスト教と一線を画する点は、新約聖書(New Testament)イエス・キリスト(Jesus Christ)の誕生には言及しないことです。ユダヤ教は旧約聖書(Old Testament)における唯一の神、ヤハウェ(Yahwe)を拠りところとします。ヤハウェは全世界の創造神とされています。

新約聖書では、ヤハウェはジェホバ(Jehovah)というように使われています。「Jehovah」の語源は、ヘブル語の「havah」(to be, being )、つまり、存在するという意味です。出エジプト記の3章14節には、「神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」God said to Moses, “I am who I am.”  アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神がジェホバということです。

モーゼ(Moses)が記したといわれる旧約聖書の最初の5つの書のことをトーラ(Tolah)と呼びます。トーラは教えとか律法という意味です。ユダヤ人は、モーゼがエジプトでの奴隷状態から脱出して、シナイ山(Mt. Sinai)にて50日間修行しているとき与えられた教えと信じています。その教えの中心が十戒(Ten Commandments)です。

さて、礼拝所シナゴーグには十字架ではなくユダヤ教あるいはユダヤ民族を象徴するダビデの星(Star of David)が飾られています。二つの正三角形を逆に重ねた六角星、ヘキサグラム(hexagram)といわれる形をしています。イスラエルの国旗にも描かれているエンブレムです。ダビデの星がシンボルとして使われたのは比較的歴史が浅く17世紀のヨーロッパで広がっていきます。礼拝所で目だつものに七本のロウソク立てー燭台(candelabrum)があります。これはメノーラ(Menorah)と呼ばれて西暦70年頃から使われていたという記録があります。メノーラもまたユダヤ教の象徴的存在です。

ユダヤ人と私 その2 シナゴーグとタルムード

大分話は遡ります。1977年にウィスコンシン大学に入って早々、Jacobs氏はマディソン(Madison)までワゴン車で留学生を迎えにきてくれました。所属されていた地元のロータリクラブが我々をもてなす活動を主催したのです。私はJacobs氏宅で生まれて初めてのホームスティを楽しむことになりました。

その時、ご自身が長老をされているユダヤ教の礼拝所、シナゴーグ(Synagogue)に連れて行ってくれました。礼拝所に入る前にヤマカ(yamaka)という皿に似た帽子をかぶります。シナゴーグは、礼拝や結婚、教育、文化行事などを行うコミュニティーの中心的場所です。丁度、ユダヤ教典であるタルムード(Talmud)の学習会がひらかれ、信徒の人々がラバイ(rabbi)と呼ばれる教師を中心に学んでいました。タルムードはユダヤ教徒の生活や信仰の基となっている教典です。

「Jacobs」という名前はヘブライ語起源の人名です。旧約聖書の創世記(Book of Genesis)12章以下に記されています。ユダヤ教の始祖といわれるアブラハム(Abraham)と妻サラ(Sarah)から生まれたイサク(Isaac)の息子がJacobです。ユダヤ人の祖とも称されています。Jacobはヤコブという慣用表記で使われています。創世記には、大洪水(great flood)やノアの箱舟(Noah’s Ark)の物語、バベルの塔(Tower of Babel)の話が登場します。

ユダヤ人と私 その1 Dr. Robert Jacobs

なぜか、私はユダヤ人の方々やユダヤ教(Judaism)から薫陶を受けてきました。その体験を記すのがこのシリーズです。だた人種や宗教は微妙な話題でもあります。複雑な歴史的背景と人々の異なる信条や思想も織りなっているので細心の注意を払っていくつもりです。

私のかけがえのない恩師、先輩、友人にアメリカ人外科医師がいます。専門は足や足首の診断と治療である足病治療(podiatry)です。足の外科学というのでしょうか。「ミルウォーキー(Milwaukee)の近くでクリニックをひらいています。この方の名前はDr. Robert Jacobs。敬虔なユダヤ教の信徒です。医者としての仕事はもちろん、地域や国際的な医療奉仕活動にもつとに熱心な方です。

国際ロータリインターナショナル(Rotarty International)から奨学資金をいただき、ウィスコンシン大学(University of Wisconsin-Madison) に留学したとき、ロータリが推薦するスポンサーとなってくれたのがJacobs氏です。国際ロータリは、世界各地のロータリクラブを会員とする連合組織です。201カ国と地域に34,558のクラブがあり、会員総数は1,220,000人といわれます。日本国内のロータリクラブ数は2,287、会員数は88,300人とあります。私は那覇で幼児教育に携わっていたとき、那覇東ロータリクラブの推薦を受けてロータリインターナショナルから奨学資金を受けることができました。1977年のことです。

認知心理学の面白さ その四十九 アイゼンクの人格説

遺伝か環境かの論争の話題は「天才」とか「狂気」についてもつきまとっています。レオナルド・ダ・ビンチ (Leonardo da Vinci)やモーツアルト (Wolfgang Amadeus Mozart) など天才といわれ芸術家の物語もそうです。古代ギリシアの哲学者アリストテレス(Aristoteles)の時代から天才は本性的に遺伝とみなされてきたようです。

多くの心理学者が人格の特性を測定し定義しようとしてきました。既に述べた古代ギリシャのヒポクラテス(Hippocratesやガレヌス (Claudius Galenus)もそうでありました。記述しましたが、ガレヌスは、人格のタイプは人体を流れる体液のタイプの増減に応じて出現すると考えられ、気質には多血質、胆汁質、粘液質、憂うつ質の四つがあるとしました。

ガレヌスの生物的アプローチに、ドイツ生まれでアメリカで活躍した心理学者のアイゼンク(Hans Eysenck) は共鳴したようです。アイゼンクは気質を心理的、遺伝的に決定されたものと見なします。アイゼンクは二次元からなる人格の円状の形をする「特別因子」の測定法を考案します。それは、「神経症」<ーー>「情動的安定」、「内向的」<ーー>「外向的」という縦と横の軸としてその間にさまざまな心理的な特徴を列記します。

神経症的な人は共感の閾値 (threshold)が低く、狼狽しがちなこと、情動的安定している人は信頼度があり、落ち着いていること、内向的な人は人見知りで物静かで、平穏と孤独を求め注意深く自己管理ができている、外向的な人は他人との間にさらなる刺激を求めて自らを鼓舞しがちなこと、快活で屈託がないといった特徴があるといいます。以上の記述は広く知られていることですが、実はアイゼンクの研究が基になったものなのです。「認知心理学の面白さ」のシリーズは今回で終わりとします。

認知心理学の面白さ その四十八 ジェーン・ドー裁判

1984年に6歳の女児の父親が、母親が女児を性的虐待をしたという訴えを起こします。「ジェーン・ドー 裁判(Jane Doe case)」と呼ばれてました。この裁判は子供を巡る複雑で数奇な展開をするので、全米の関心を集めました。後に映画にもなるほどでした。学校でも性犯罪の話題として教室で取り上げられました。

この裁判の中心課題は、はたして人間のトラウマのできごとについての記憶は正確なのか、何が真実なのかということであります。記憶の研究者であるエリザベス・ロフタスもこの事件に関わっているので、それを紹介することにします。

被害者とされたのは、ジェーン・ドー(Jane Doe)という仮名の女児です。母親がジェーンを虐待した、という父親の訴えです。11歳になったジェーンもまた虐待を受けたと証言していきます。例えば母親がぶったとか、髪の毛をひっぱったり、ストーブで足をやけどさせたといったエピソードです。母親は養育権を剥奪され、娘と定期的に会うことも禁じられます。その間、裁判所から鑑定をするように任命されジェーンの治療にあたったのは精神病理学者で性的虐待の研究者であるデビッド・コーウィン (David Corwin)という人です。コーウィンはジェーンと何度も会いビデオテープなどで面談の記録を残します。

ジェーンが17歳になると、父親が再婚した妻と別れるとジェーンは父親と一緒に住むことになります。父親が亡くなると後見人となった継母と生活します。さらに産みの母親とも再会するようになります。ジェーンはコーウィンとの面談を続けるのですが、以前コーウィンに語った母親による性的虐待のことは覚えていないというのです。ロフタスらは、ジェーンの記憶はトラウマ的なできごとゆえに、無意識のうちに抑圧された状態での記憶 (repressed memories)による証言だったと結論づけます。裁判が結審するとコーウィンやロフタスはこの事案の経緯を本に著します。

しかし、ジェーンは以前語ったような母親からの虐待はなかったと告白します。さらにコーウィンやロフタスは自分のプライベートなことを公にしたとして逆に訴えるのです。結局ジェーンは記憶に誤りがあり偽証ということで訴えは却下されます。

ジェーン・ドー裁判は、長い時間の経過のなかで偽った記憶の再生が周りの人々を混乱させ、ジェーン自身もまた精神的な傷を負うという結果となります。性的虐待というトラウマ的なできごとの再生や証言は正確だ、と本人も周りの人も思い込むという事例であります。

認知心理学の面白さ その四十七 偽りの記憶の研究

ロフタス(Elizabeth Loftus)の記憶に関する研究では、「心のどこかに過去の体験の映像が確かな形で保存されているのではないか」という精神分析学における無意識の存在に疑問を提起することに始まります。

ロフタスがおこなった別の実験では、被験者に自動車事故の詳細に関して口頭で誤った情報、例えば現場付近に道路標識があったという情報が与えられたとします。すると大半の被験者はその情報がそのまま再現されたというのです。これによって当のできごとの起こったあとで与えられる示唆や誘導的な質問によって再生が歪められることが明らかになります。誤った情報が観察者の再生のうちに「植え付けられる」(inprint) ことがあり得るということです。

「植え付けられる」ことは法的審理において重要な意味を持ちます。目撃同定証拠の信頼できない性質は刑事上の正義、および陪審員裁判の経過において影響するのです。記憶はその後の示唆や誤情報によって持ち込まれる細部の不正確さによって歪められるばかりでなく、初めから誤っている場合すらありうるからです。

1987年にロフタスは、10万人のユダヤ人虐殺に加わったとして訴えられた被告の証人を依頼されます。ユダヤ人であるロフタスは記憶と目撃証言に関する研究の第一人者ですが、彼女は「被告人を有罪とする目撃者の記憶は科学的にいうならば確かとは言えない」というコメントを残して結局は証言しませんでした。与えられた情報などによって、偽りの記憶が生成されることを理解していたからだと考えられます。

「脳での記憶は見たもの、聞いたものという認知的事実が保存されているわけではない」、「記憶を思い出すことは、記憶を思い出す時に再構成されている」、「ほんの些細な暗示によって記憶が書き換えられてしまう」、「過去のできごとの映像がそのままの形で記憶のなかに保存されているなどということはまったくあり得ない話である」とロフタスは指摘します。精神分析学への痛烈な反論です。

認知心理学の面白さ その四十六 ロフタスの記憶の研究

フロイド(Sigmund Freud) は、心には受け入れられない、もしくは苦痛をもたらす考えや衝動を「抑圧」という無意識のメカニズムとして説明します。このメカニズムによって自覚されない領域に隔離することで自分自身を守ろうとする傾向があると主張します。こうしたトラウマ的なできごとの記憶が意識的な再生の手の届かないところに貯蔵される、つまり抑圧されたという見解は多くの人に受け入れられました。

しかし、戦後のいわゆる「認知革命」によって、脳がどのように情報を記憶へと処理するかについて新しいモデルを示唆するような研究が進みます。すでにこのブログで取り上げたシャクター(Daniel Schacter)の記憶(memory)と忘却(amnesia)に関する研究もそうです。

エリザベス・ロフタス(Elizabeth Loftus)という研究者を紹介します。彼女はアメリカの心理学者です。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)で数学と心理学の学士号を得、その後スタンフォード大学 (Stanford University)で学位を取得します。彼女の研究ですが、それまで主流とされた抑圧された記憶の回復ということに疑問を持つようになります。

彼女は記憶の再生への誤りについていろいろな実験をします。例えば、自動車事故の動画を見せて、目撃証言の正確さを調べます。その結果、判明したことは被験者がどのようなできごとを報告するかは、実験者からどのような言い方で問いかけられるかによって重大な影響を受けるということでした。「事故を起こした車の速度はどの位だった?」と尋ねられるとしますと、問う言葉の中に事故を形容する「ぶつかった」、「衝突した」、「大破した」などの言葉が使われたかによって、答えに大きな幅があることが判明し、さらに被験者に「事故のあとにガラスの破片はあったか?」と尋ねられます。ここでも車の速度を問うのにどのような単語が用いられたかに応じて答えは違ったのです。

認知心理学の面白さ その四十五  生成文法とチョムスキー

言語とか言葉の発達については、オペラント条件付け (operant conditioning) によっては言語の生成とか創出、ましてや独特の発達過程は説明することが困難です。子供を育てた方なら、子供の意外な言語の発達には驚いたはずです。それは子供による自発的な文法とか単語の理解などをいつのまにか習得するその技能です。それまで学んだことも耳にしたこともないルールを説明できないことや、個々の単語の意味をきちんと理解していなくとも、文全体の意味を理解してしまう子供の示す能力も説明するのは困難です。

先日マンションの自転車乗り場で会ったコウキ君という5歳の子供との会話です。
筆者 「昨日保育園でどんな遊びをしましたか?」
コウキ 「ブロックであそんだ」
筆者 「ブロックでなにをつくったの?」
コウキ 「しんかんせん」
筆者 「凄い、天才やな、、」
コウキ 「うん、てんさい、」

会話から、「てんさい」の意味を推測できていることが伺われます。たいした能力だと思いました。

チョムスキーの言語発達の考えは実に革新的な発想です。言語能力は人間に生得的なもので、言語器官はどの身体器官とも同じように成長するというのです。確かに子供を取り巻く環境が言語の内容を刺激し導くが、子供が使う文法それ自体は、もともと備わっている生得的に決定された人間的能力だというのです。チョムスキーは、子供の自発的な文法規則の発現を生成文法 (generative grammar)と呼びます。

チョムスキーは自身の論点を説明するために人間の能力の別の側面を引き合いにだします。例えば、思春期の始まりは「言語器官の成長」と似た人間の成長の過程の一側面であるといった説明です。それは遺伝に基づく必然の結果なのだという前提です。

ところで、言語獲得が学習ではなく、生得的なものであるとはどのように証明されるのかです。チョムスキーは生成文法がその土地の人々のネイティブな言語に応じた多少の修正は受けるものの、生成文法は世界中で観察されると主張します。それはどんな言語の獲得に際しても土台として機能するあらかじめ定められたメカニズムから生まれるというのです。このことは全ての子供が自分に提供されるどの言語も同等に学習していくという事実によって証明されるいいます。この事実は、一連の同じ言語の特徴が言語器官のうちに遺伝的に組み込まれていて、そこには文法や意味、発語といった要素が含まれていることを示唆します。

子供には言語についての生得的な知識があり、子供は言語を学べるようにできている、という考え方は広く受け入れられているのですが、言語の発達は養育者からはさほど影響を受けないという見解には多くの異論もあります。

認知心理学の面白さ その四十四  ノーム・チョムスキーと反覇権主義

アメリカの言語学者にして哲学者であるノーム・チョムスキー(Noam Chomsky)は心理学者でもあります。ペンシルヴァニア州(Pensilvania)でユダヤ人の両親のもとで生まれます。両親は、もともとはロシア帝国支配下のウクライナ (Ukraine) の出身だったのですが、迫害(ポグロム: pogrom)や戦乱を避けて1913年にアメリカへ移住します。

チョムスキーは子供時代、ユダヤドイツ語とも呼ばれるイディッシュ語 (Yidish)を使い、ユダヤ教の教えを受けたといわれます。やがて労働シオニズム(Labor Zionism) という建国思想に傾倒していきます。労働シオニズムとはユダヤ人がパレスチナ(Palestine)に入植し、農村部のキブツ (Kibbutz) などにおけるユダヤ人共同体の進歩主義的な社会を創り上げようとする思想です。

やがてペンシルベニア大学 (University of Pennsylvania)で言語学の博士号を取得します。その後、マサチューセッツ工科大学(MIT)の言語学および言語哲学の研究所教授 (Institute Professor) 兼名誉教授となり、その業績は言語学分野にとどまらず、政治・マスメディアなどに関する100冊以上の著作を発表します。

現代言語学の父の一人ともいわれたりしますが、政治的反体制者にして急進主義者ともいわれ、アメリカの外交政策に対する激しい批判を展開します。特にヴィエトナム戦争反対運動は有名です。

認知心理学の面白さ その四十三  「自閉症・うつろな砦」とその批判

「自閉症・うつろな砦(Empty Fortress)」は広く読まれた臨床記録書です。この本の出版社であるみすず書房は今も哲学・思想、宗教、心理、社会科学、教育、歴史、文学、芸術、自然科学の分野における老舗の出版社です。どの本も表紙は白を基調としています。

ブルーノ・ベッテルハイムは長年自閉症の治療も手がけてきましたが、その考えは自閉症というのは、養育者の態度などの後天的な原因で発症するという説、いわゆる「冷蔵庫マザー」(refrigerator mothers)ということを強く主張するのです。やがてこの主張は精神医学界から大きな反撃を食らうことになります。

「冷蔵庫マザー」という養育者の育児態度に関する見解については、自閉症に関する研究で知られるレオ・カナー (Leo Kanner)の影響があったと思われます。カナーは1943年に書いた「情動的交流の自閉的障害」(Autistic Disturbances of Affective Contact)という著作で、冷えきった感情のこもらない子育ての結果ではないかと示唆していたからです。

ベッテルハイムの、「自閉症の原因は養育者の背景や責任にある」という説に対して、児童精神医学会から強い批判が起こります。その旗頭ともいえるリムランド (Bernard Rimland)は、自閉症とは神経発達上の障害 (neurodevelopmental disorder)であるとして、自閉症の「養育態度説」を論破します。

認知心理学の面白さ その四十二  自閉症研究とブルーノ・ベッテルハイム

ブルーノ・ベッテルハイム(Bruno Bettelheim)は、小児自閉症(infantile autism)の研究で知られた心理学者です。1960年代には日本でも多くの学者や教師が影響を受けました。私もみすず書房から出版された『自閉症・うつろな砦(Empty Fortress)』という専門書を購入したものです。しかし、後年はその学説が否定されて不遇な生涯を送ります。

ベッテルハイムはオーストリア(Austria)生まれ。最初はウィーン大学(University of Vienna)で カント哲学 (Immanuel Kant)を学びます。しかし、ユダヤ系オーストリア人だったため、1938年にダッハウ(Dachau)強制収容所、そしてブーヘンヴァルト(Buchenwald)強制収容所に送られます。ですが戦争勃発前の1939年、ヒットラーの誕生日である4月20日に特赦を受けて解放される幸運に恵まれ、同年12月にアメリカに移住します。その後、1944年にアメリカに帰化してからは、シカゴ大学 (University of Chicago)で教鞭をとり1973年まで心理学教授として働きます。

ベッテルハイムはシカゴ大学の知的障害児の訓練教育施設の所長や情緒障害児のホームの世話をしながら、健常児や障害児の心理学についての彼の数多くの著作をあらわし、その道の権威として知られてきました。我が国でもそうでした。しかし、彼は、やがてさまざまな批判を受けるようになります。まず、彼はウィーン大学での経歴についてです。彼はきちんとした訓練を受けてきたと主張しますが、不幸にもナチスが大学の記録を破棄していたため、その経歴詐称の確証がなかったようです。彼のクライエントに対する問題行動の数々が明るみに出されます。