心に残る一冊 その4 「時代精神の病理学」 

原題は「Pathology Des Zeitgeistes」とい日本語訳では「時代精神の病理学」となっています。「Zeitgeist」とは「その時代のエートス」といった意味です。ヴィクトール・フランクル(Viktor Frankl)は、フロイド(Sigmund Freud)やアドラー(Alfred Adler)の薫陶を受けた精神医学者です。後年はこの二人と袂を分かち、精神医学界にロゴテラピー(Logotherapy)という療法を創始していきます。その背景には、アウシュビッツ(Auschwitz)強制収容所の経験が基にあるといえそうです。

この著作は五年間にわたるラジオ番組での講演が下敷きとなっています。「精神医学の啓蒙という問題」、「老化の精神衛生」、「中年の精神衛生」、「不安神経症」、「宿命論的態度」、「睡眠障害」、「自分自身に対する不安」など、現代的な心理学や精神医学のテーマを取り上げています。大変わかりやすい内容であるのが特徴です。「科学者には表面的に分かりやすく書くか、または判りにくければ基本から書くの二つに一つしかない」というアルバート・アインシュタイン(Albert Einstein)のフレーズを引用しています。

こうした講演の基調にあるのは、これまでの精神医学や精神分析学(Psychoanalysis)、個人心理学に対する強い疑念です。個人心理学は人間をただの自然物と考え、人間の精神性を見逃していると主張します。人の行動は無意識によって左右されるという基本的な仮説を退け、人間には衝動があるといっても、人間の最も本質的なものは衝動からは説明できないと看破するのです。

心に残る一冊 その3 「夜と霧」 

この著作は、私はこれまでいろいろな機会で紹介してきました。それほど強烈な印象を受けた一冊です。

第二次世界大戦中、何百万人というユダヤ人がナチスによって強制収容所に送られました。その一人が精神病理学者のヴィクトール・フランクル(Viktor Frankl)です。収容所体験をもとに書かれたのが「夜と霧」です。原名は「強制収容所における一心理学者の体験」となっています。この本は、日本語を含め17カ国語に翻訳され多くの人々に読み継がれています。

私がこの本を読んだのは、フランクルが編み出した「ロゴテラピー(Logo Therapy)」という心理療法に関心をもったからです。彼は、収容所のなかでユダヤ人が生と死の狭間のなかで、生きていくことの意味を考えます。希望を持ち続けた者が生き延びることができたのを観察します。いうなれば、人間は様々な条件や状況の中で自らの意志で態度を決める自由を持っていると主張します。誰かが運命を決めるという決定論を否定するのです。人間は生きる意味を強く求める存在であることも強調します。意味への意志を持つ存在だ、というのです。そして、それぞれの人間の人生には独自の意味や価値が存在しているということです。

フランクルは次のように訴えます。

「人間の実存は本来決して現実に無意味になりえないことが明らかになる。すなわち、人間の生命はその意味を「極限まで」保持しているのである。従って人間が息をしている限り、また彼が意識をもっている限り、人間は価値に対して、少なくとも態度価値にたいして、責任を担っているのである。人間は意識存在をもっている限り、責任性存在をもっているのである。価値を実現化するという彼の義務は、人間をその存在の最後の瞬間まで離さないのである。」

“Say Yes to Life” それでも人生に意味がある、というのです。

心に残る一冊 その2 「三太郎の日記」

大学に入ると、周りの者がなにか変な思想にかぶれているように感じられました。先輩は「あれを読め、これを読め」といってせかすのです。1960年安保闘争後のことで、左翼といわれる学生が盛んにアジをとばしていました。立看が林立し学生による政治闘争がくすぶるキャンパスでした。そんな中で受験からの解放感も手伝って、手にした一冊が「三太郎の日記」です。

読んでいくうちに「三太郎」に託して語る著者、阿部次郎の内省が語られるのに新鮮さをおぼえました。主人公の三太郎は、自己を確立していく難しさを語ります。回りくどく、時に屈折している文章は青年のみずみずしい感受性や、思索のなかで迷う阿部次郎の姿そのもののようです。

「何を与えるかは神様の問題である。与えられるものをいかに発見し、いかに実現すべきかは人間の問題である。」

「弱い者は自らを強くするの努力によって、最初から強い者よりも更に深く人生を経験することができるはずである。」

「弱者の戒むべきは、その弱さに耽溺することである。自らを強くするの要求を伴うかぎり、われらは決して自己の弱さを悲観する必要を見ない。」

18歳の私には誠に新鮮な内容に思え、食い入るように読みました。

心に残る一冊 その1 定年退職後の読書

定年退職から十数年が経ちます。退職を機に持っていた本を整理しました。移り住むことになった東京の住み家がコンクリートの長屋なので、保管する場所があまりありませんでした。以前は研究室という誠に都合の良い保管場所がありました。

研究室を去るにあたり二つのことを考えました。「専門書は棄ててまだ読んでいない本を残す」、「学生時代に心に残った本を読み直す」ということです。いわゆる専門書のほとんどは、回収業者のところに持っていきました。中には学生時代に購入した岩波書店のものもたくさんありました。岩波書店には絶大な信頼を置いていました。

高校時代に、一教師より「沢山の小説を読むように」と言われたのが私の読書のきっかけとなります。この教師は英語の担当でした。それ以来、受験勉強の傍ら、大学での予習復習の合間に随分読むことができました。

大分すっきりした本棚には、また新しい本や書類が雑然と積まれています。捨てなかった大事な本ももちろんあります。ところで私の父も本の虫でした。定年後は部屋に閉じこもってはむさぼるように本に食い入っていたようです。そして、「”ユリシーズ”はなんど読んでもわからない」とか「”戦争と平和”はすごいけど、誰が誰だったかがわからなくなる」などといっていました。確かに、ロシア人の名前は似たところがあります。父がこんがらかったのも無理はありません。

”ユリシーズ(Ulysses)”はアイルランドの作家ジェイムズ・ジョイス(James Joyce)の小説。”戦争と平和”はロシアのレフ・トルストイ(Lev Tolstoy)の作品です。

アメリカ合衆国とニックネームの由来  その62  北マリアナ諸島

本稿で合衆国とニックネームの旅は終わりです。北マリアナ諸島自治連邦区(Commonwealth of the Northern Mariana Islands)は、ミクロネシアのマリアナ諸島のうち、南端のグアム島を除く、サイパン島(Saipan Island)やテニアン島(Tinian Island)、ロタ島(Rota Island)などの14の島から成るアメリカ合衆国の自治領です。主都は、サイパン島(Saipan)のススペ(Susupe)となっています。


北マリアナ諸島は、1919年から1945年まで日本が委任統治していました。日本からの移民は主にサトウキビやヤシを栽培していました。最盛期には3万人の日本人が生活していたといわれます。戦後、アメリカの信託統治を経て、現在は米国領の中でもコモンウェルス(commonwealth)という政治的地位にあり、北マリアナ諸島の住民は、アメリカ合衆国の市民権を有しています。他の州とは異なり連邦税の納税義務を有しない代わりに、アメリカ合衆国大統領選挙の投票権がありません。2008年よりオブザーバーの資格でアメリカ合衆国下院の委員会に代表委員を送ることが認められるようになりました。

「北マリアナ諸島連邦」と日本語訳されることがあるりますが、北マリアナ諸島は連邦制(confederation)をとっておらず、アメリカ合衆国と連邦の関係にあるわけでもありません。この連邦とは、コモンウェルス(commonwealth)とよばれる自治の形態で、他の国々と政治的、経済的につながりを持つことができます。このような扱いから準州(territory)とも呼ばれています。

北マリアナ諸島のニックネームはいろいろな資料を調べましたが見つかりません。「太平洋の真珠」(Pearls of the Pacific)とでもしておきましょうか。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その61 ヴァージン諸島

アメリカには今も海外に自治的な未編入領域 (unincorporated area) という領有地があります。既述したグアム、プエルトリコもそうです。今回はヴァージン諸島(Virgin Islands)のことです。

1493年11月、クリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)は最初にヴァージン諸島のセント・クロイ島(St. Croix Island)に到達し、やがてサンタ・クルース(Santa Cruz)と名付けます。その後、セント・ジョン島(St. John)、セント・トマス島(St. Thomas)にも到達し命名していきます。

ヴァージン諸島の先住民、アラワク族(Arawak)はかつては南米からカヌーでカリブ海の島々に渡り住んで民族です。1625年には、イギリス、フランス、オランダ、スペイン、デンマークが入植を始めます。クロイ島に入植しアラワク族を使って農業を始めた入植者達にとっては、収穫は少なく生活は豊かではなかったようです。疾病や過酷な奴隷制度でアラワク族は1600年代後半までには滅亡し、わずかなカリブ族(Caribs)しか生き残らなかったといわれます。

殆どの入植者達は島から去り、1650年にはイギリス人だけが残ります。その後、新大陸に注目していた、デンマークが1666年にセント・トーマス島とセント・ジョン島の領有権を得ます。1673年、アラワク族がいなくなると、黒人奴隷が初めて島に連れてこられます。デンマーク統治下の各島では、こうした奴隷を使ってサトウキビやタバコ農園が経営されます。後に珈琲や砂糖も生産されるようになります。

デンマークは、1733年にはフランスよりセント・クロイ島を買収し領有権を得ます。その後、デンマーク領西インド諸島と称し、デンマーク国王に任命された総督によって統治される体制となります。デンマークの王妃、シャーロット・アマリー(Charlotte Amalie)にちなみ、1691年に王妃名がつけられて主都となります。1764年にシャーロット・アマリーは自由港として公認され、西インド諸島における交易の中心地として栄えます。デンマークは三角貿易を推進し、デンマーク海上帝国の黄金期を迎えます。

三角貿易とはヨーロッパ、西アフリカや西インド諸島、およびアメリカ大陸の三カ所を結ぶ大西洋上の貿易のことです。奴隷貿易ともいわれます。その後ナポレオン戦争(Great French War)でフランス側で参戦したデンマーク王国は破れ、大西洋の貿易圏はイギリスに侵害されていきます。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その60 Island of Enchantment

プエルトリコ自治連邦区(Commonwealth of Puerto Rico)も合衆国の一部です。私はこの島を旅行したことはありませんので、ブリタニカ世界大百科事典などで調べたことを記してみます。

Bright, pastel colors of houses in a neighborhood of San Juan, Puerto Rico

プエルトリコは、カリブ海北東に位置するアメリカ合衆国の自治的・未編入領域であり、コモンウェルスという政治的地位にあります。プエルトリコ本島やいくつかの島々から構成され、モナ海峡(Canal de la Mona)を隔てて西にドミニカ共和国(República Dominicana)やハイチ共和国(Republic of Haiti)と隣接しています。ニックネームは「魅惑の島々(Island of Enchantment)」というものです。

プエルトリコの国土の大きさは四国の約半分です。本島は山がちで丘陵地帯がひろがり、海岸は平野となっています。主都はサン・フアン(San Juan)。住民の大半は、スペイン系の白人やアフリカ黒人の血をひいています。文化的にはスペイン植民地時代からの伝統が色濃く残っています。公用語はスペイン語と英語ですが、住民のほどんどは日常生活ではスペイン語を使っています。カリブ海の島々にいた先住民はタイノ人(Taíno)で、彼らの呼び名はではプエルトリコではボリケン(Boriken)とも呼ばれています。現在、約300万人のプエルトリコ人はアメリカ本土で暮らしています。

プエルトリコの歴史です。1493年11月にイタリアのクリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)がやってきます。プエルトリコの本格的な征服は、コロンブスによる発見から15年の経過した1508年にスペインから総督としてやって来たフアン・ポンセ・デ・レオン(Juan Ponce de Leon)らのコンキスタドール(Conquistador)と呼ばれた探検家とか征服者よってなされます。3万人ほどいたといわれているタイノ人は征服され、スペインからプエルトリコへの本格的な入植がはじまります。

スペイン語の Puerto Ricoは「豊かな港」「富める港」という意味です。当初、プエルトリコ島は「聖ヨハネ島(St. John)」と呼ばれていました。やがて商人や島を訪れる人々は島そのものをプエルトリコ島と呼ぶようになり、一方でサン・フアンは港と主都を指すようになりました。

16世紀から18世紀にはイギリスやオランダの海賊の攻撃を受けますが、襲撃は失敗に終わり、プエルトリコは一貫してスペインの植民地が続きます。1898年に勃発した米西戦争で同年8月にはアメリカ軍に占領されその後はスペインからアメリカに割譲され、戦争終結のパリ条約によりアメリカ合衆国の領土となります。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その59 Land of the Chamorro

合衆国は本土の外に、未編入領域を有しています。グアム(Guam)がその一つです。太平洋上マリアナ諸島(Mariana Islands)南端の島。1521年にポルトガル(Portuguese)の探検家、フェルディナンド・マゼラン(Ferdinand Magellan)がヨーロッパ人として初めてグアム島に到達したという記録があります。1565年にフィリピン諸島を征服し初代フィリピン総督となったレガスピ(Legazp)が来島してスペインの領有を宣言し植民地となります。フィリピンのマニラとメキシコのアカプルコ(Acapulco)を結ぶ三角形のような航路が1568年に開かれ、スペインの大型帆船であるガレオン船(Galleon)が太平洋を往来するようになります。そして先住民チャモロ(Chamorro)と物々交換を行います

1668年にスペインのカトリック教会使節サン・ヴィトレス(St. Vitress)を中心としたイエズス会が先住民はチャモロ人に対して布教活動を始めます。チャモロは祖霊崇拝を始めとする伝統的な習慣や文化を有していましたが、教会はこうした風習を禁止します。不満を持つチャモロ人によって1669年にスペインに対する反乱が起きます。争いは20年間にわたりますが、スペインはそれを武力で弾圧します。さらにスペイン人が持ち込んだ天然痘により推定5万人近くのチャモロ人が死亡したともいわれます。この争い以降は目立ったチャモロの反抗はなく、キリスト教文化が定着するようになります。

1898年の米西戦争(Spanish–American War)後に締結されたパリ条約により、グアム島はフィリピン、プエルトリコ(Puerto Rico)とともにアメリカ合衆国に割譲され、植民地支配下におかれます。第二次世界大戦下では、日本軍が一時グアムを占領し「大宮島」と呼ばれたこともあります。
現在は、日本など海外からの外国人観光客や米軍最大のアアンダーセン空軍基地(Andersen Air Force Base)からの収入が重要な位置を占めています。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その58 The Equality State

ワイオミング州(State of Wyoming)の簡単な歴史です。北にモンタナ(Montana) 、北東にサウスダコタ(South Dakota),東にネブラスカ(Nebraska)、南にコロラド(Colorado) 南西にユタ(Utah)、西にアイダホ(Idaho)に囲まれています。「ワイオミング」という言葉はマンシー族(Munsee)の言葉で「大きな河床」を意味します。州都はシャイアン(Cheyenne)となっています。

1770年代に現在の州南西部はスペイン帝国の領土となり、後にはメキシコのアルタ・カリフォルニア(Alta California)の一部となります。さらに同年代後半にはケベック(Quebec)やモントリオール(Montreal)からフランス系カナダ人の猟師が入ってきて、ティトン(Teton)、ララミー (Laramie)などフランス語を語源とする地名を残します。アメリカ・メキシコ戦争(Mexican-American War)が終わった1848年、合衆国がこれらの地域をメキシコから譲り受けます。

同州と周辺州にまたがる「イエローストーン国立公園(Yellowstone National Park)」には現在、バッファロ(buffalo)が多数繁殖飼育され、多くの観光客を呼び寄せています。バッファロー・ビル(Buffalo Bill)という伝説的な人物もいました。 本名はウィリアム・コディー(William Cody)。ガンマンであり興行主として活躍します。バッファロー・ビルは1880年ころからカウボーイの拳銃さばきや駅馬車襲撃などを実演してショー化した「ワイルド・ウェスト・ショー」(Wild West Show) を立ち上げ大人気を博します。

1869年12月、準州知事ジョン・キャンベル(John Campbell)が普通選挙法に署名して、投票権が女性に拡大されます。その後、女性陪審員や治安判事、女性知事が登場します。これら女性に与えられた権利の故に、ワイオミング州は「平等の州」 (The Equality State)とか「参政権の州」(The Suffrage State)と呼ばれるようになります。またの名を「カウボーイ州 」(Cowboy State)ともいわれています。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その57 America’s Dairyland と共和党誕生の地

ウィスコンシン州は内陸のために寒暖の差が激しいことで知られています。夏は30度以上になるとおもえば、冬は零下20にもなります。いつでしたが、私は歯茎の治療が終わり自転車で帰ろうとしましたら、歯科医師が「この寒さでは危ないから送ってあげる」というエピソードもあります。降った雪は風で吹き飛ばされることが多く、そう厚くは積もりません。雪が降ると道路には塩化カルシウムの交じった融雪剤を撒きます。これは凍結防止にもなります。ですが、車体の下は真っ白くなり錆がつきやすくなります。

ライセンスプレートには「アメリカの酪農の地」(America’s Dairyland)と記されています。そして納屋とサイロが描かれています。実に綺麗なデザインです。乳製品で有名な州です。2010年度の第45回スーパーボウル(Super Bowl)を制したグリーンベイパッカーズ(Greenbay Packers)の本拠はウイスコンシン。そのときファンがかぶったのがチーズヘッド(cheese head)というチーズをかたどった帽子でした。乳製品が州の主たる産物です。その他製紙や情報産業、そして観光業が州の経済を支えています。

州都マディソンと最大都市ミルウオーキーの丁度真北の三角の頂点にリポン(Ripon)という人口7,700人くらいの街があります。なんとこの街は1854年の2月に共和党(Republican Party)の最初の集会をしたところです。それで「共和党誕生の地(Birthplace of the Republican Party)」と呼ばれています。この集会が開かれた建物は「Republican Schoolhouse」と呼ばれ、今は史跡建造物として博物館となっています。共和党は漫画化した「象」を党のマスコットとしています。ちなみに民主党のマスコットは「ロバ」。象とロバのたたかいを表すユーモアです。

ウィスコンシン州民は「Wisconsinites」と呼ばれるのですが、もともと共和党の地盤であったのがウィスコンシン州です。事実、2016年の大統領選挙ではドナルド・トランプ(Donral Trump)がヒラリー・クリントン(Hillary Clinton)を破ります。その差は25,000票で.8%という僅差でした。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その56 The Badger State

ようやくウィスコンシン州のニックネームを語る番です。「バッキー・バジャー」(Bucky Badger)で知られるウィスコンシン大学マディソン校のマスコットが登場したのは1940年といわれます。「バジャー」とはアナグマと呼ばれています。狸の仲間です。全長が50cm前後。首は長く顔の正面から背中にかけて白い縞模様が走ります。黒と白の縞模様の顔はやや平たく、胴体や足は短く耳も小さいのが特徴です。性格は狸と同様に温厚かつ臆病で人里で見かけることはありません。昆虫やミミズなどを主食とし、鳥や卵も大好きなようです。また果樹や野菜も食べる雑食種です。

Wisconsin Badgers Kelly Jaminski (7) with mascot Bucky Badger during an NCAA college women’s hockey game against the Minnesota Golden Gophers Friday, February 14, 2014 in Madison, Wis. The Golden Gophers won 3-2. (Photo by David Stluka)

Wisconsin Badgers mascot Bucky Badger poses during the 2012 Rose Bowl NCAA football game against the Oregon Ducks in Pasadena, California on January 2, 2012. The Ducks won 45-38. (Photo by David Stluka)

1940年以来いろいろなデザインの「Bucky」が作られます。「Bucky」という名称が決まるまでは、「Benny」, 「Buddy」, 「Bernie」, 「Bobby」,「Bouncey」というのが候補にのぼります。そして1940年10月に「Bucky Badger」が誕生します。「Bucky Badger」という名称は連邦議会図書館(Library of Congress)に登録されます。

バジャーはかつて毛皮として珍重された時代があります。しかし動物虐待禁止法( Cruelty to Animals Act)が1835年に制定され、さらにバジャー保護法(Protection of Badgers Act) が1992年に作られることにより、狩猟は全面的に禁止されます。バジャーに似ているのが「ラクーン」(raccoon)と呼ばれるアライグマです。こちらはより雑食で畑の作物などを好んで食べます。人里に現れては人家に侵入し食べ物を探したり、水辺で獲物を捕るという行動もとります。人から食べ物を貰う人なつこさもあります。

バジャーは北米大陸やイギリス、アイルランド、さらにスカンジナビア半島に多く生息しています。バジャーの仲間は中国や日本、インドネシアなどにもいるといわれますが、、、

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その55 Wisconsin Birds

ウィスコンシンで生活して感じることの一つが野鳥や動物を当たり前のように見かけることです。野鳥の特徴といえば、色が赤だったり青だったり、巣を近くで見かけることです。

ウィスコンシンの州鳥アメリカン・ロビン(American robin)は日本ではコマドリといわれています。雄は色彩に富んでいます。頭と羽を除き、お腹は赤く実に姿勢が良いのです。雌は少々地味な色です。餌ですが芝をつっついて虫やミミズを引っ張りだすのが観察されます。庭のどこでも見かけられるので「backyard bird」ともいわれるほどです。

ロビンは、厳しい冬に終わりを告げる二月末から三月にかけて戻ってきます。人々の待ち焦がれていた春がロビンで運ばれてくるかのようです。それでロビンは「春を告げる鳥」、「春の使者」(spring heralder)といわれるほど愛されています。鳴き声も綺麗なのです。ロビンは北米大陸に広く生息しています。大陸の南部と北部を行き来する渡り鳥で、夏はカナダにも飛来していきます。

アメリカン・ロビンに似た鳥にフィンチ(finch)がいます。こちらは色とりどりで華やかな姿をしています。カーディナル(cardinal)もトサカがぴんと立って体全体が赤く誠に綺麗な鳥です。紅冠鳥とも呼ばれています。ウィスコンシンでもなじみ深い鳥ですが、私は日本ではこの三羽をまだ見たことがありません。ウィスコンシンが州鳥を決めるとき、1926年から1927年にかけて小学生が投票で決めたという記録が残っています。 子供に州鳥を決めさせるという発想がいいですね。

「ジェイジェイ」と鳴くのがブルージェイ(blue jay)です。日本語ではアオカケスと呼ばれています。カナダはオンタリオ州を代表する鳥とされ、トロントに本拠を占めるメジャーリーグの球団名がブルージェイ「Blue Jays」です。ウィスコンシン州の中央部にアダムス郡(Adams County)があります。そこにピーテンウエル湖(Petenwell Lake)の側を走ると電柱のてっぺんにカサゴ(Osprey)の巣を見かけます。

秋になると、頭上をカナダ雁(Canada goose)の群れが見事な編隊を組み、それも猛スピードで南下していくのを見かけます。「ツーン、ツーン、、」と鳴きながら次々と群れが通るのです。高度200メートルから500メートルを保ち、V字型を形成して飛翔します。春先には北に向かう素晴らしい光景が見られます。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その54 Wisconsin Sausage

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その54 Wisconsin Sausage

ウィスコンシンのグルメ(Gourmet)の続きです。アメリカの手軽な食事といえば「ハンバーガ(hamburger)」や「ホットドッグ(hot dog)」です。ハンバーガはドイツ第二の都市Hamburgから由来します。こうした食べものは、一般に「ジャンクフーズ(junk food)」(ひどいくらいまずい食べ物)と呼ばれています。でも意外や意外とハンバーガやソーセージ(sausage)は美味しいのです。特に、挽肉だけのハンバーガは涎がでるほどです。ソーセージでは太い「ブラッッ(brats)」が有名です。スパイスのきいたもの、スモークのものなど実に美味しいです。日本で売っているハンバーガは、余計なものが交じっていて肉の感触が伝わりません。

所変われば品が変わるで、あちらこちらを旅するといろいろな料理に出会います。ニューヨークといえはBBQをいただかないといけません。串焼きの別名はシシカバブ(Shish Kebab),中近東地方の肉料理の総称、ケバブ(Kebab)ですが、とても知られています。ギリシャ料理で羊肉を鉄の棒の周りに固め、それを焼きながら肉をそいで食べる「ギロス(Gyros)」も美味いです。ステーキといえばカンザス(Kansas)です。アメリカ各地に1800〜1900年代に各地から移民してきた人々が定着したところがミズリ(Missouri)であり、ネブラスカ(Nebraska)であり、カンザスです。こうした州の大平原に牛が放牧されているさまは壮観です。

アメリカ土着の人は、「ネイティブ・アメリカン(Native american」とか「アメリカン・インディアン」と呼ばれています。彼らも固有の料理を大事にしています。一度、ウィスコンシン大学のアパートで隣同士だったインディアンの方より黒い米を貰ったことがあります。料理の仕方をきくと、3日ほど水でうるかすのだそうです。混ぜご飯を作って美味しくいただきました。その方が退去して、次ぎにやってきたのは韓国人でした。この家族より韓国料理をいただきました。二階に住んでいた方はニュージーランド人。夫人はハープを弾いていました。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その53 Wisconsin Gourmet

ウィスコンシン州の大抵の街は小さな田舎町です。人々は衣食住の伝統を引き継いでいます。母国の独立記念日を今でも祝っています。たとでば、ノールウェイの子孫が住む街があります。マディソンの南一時間のところにあるストートン(Stoughton)がそうです。住民は5月の第二日曜日は独立を祝います。町全体がお祭りで、スカンジナヴィア(Scandinavian)料理がふるまわれるのです。ジャガイモを中心とした料理でスモアガスボード(smorgssbord)といいます。テーブルに料理を数多く並べて相伴する形式で、スモークサーモンや鰯、オリーブ油がたっぷり入ったニシンの漬け物も美味です。

ウィスコンシンの最大の町はミルウオーキー(Milwaukee)。その街中や郊外にもポーランドやイタリア人が住み着きました。ソーセージは大きくて種類が多く、スパイスも効いていてそれはそれはご馳走です。一本食べるとお腹がかなりふくれます。パンもパスタ同様。種類とスパイスが違います。ドイツ系の地ビールも種類が多く安いのがいいです。

ここ50年くらいに東南アジアからの移民も増えています。カンボジア、ベトナム、タイ料理など、どこにいってもこうした食べ物を賞味できます。白人はこうしたエスニックな料理を箸を器用に使って食べ歩いています。安くて美味しいせいか、レストランは家族連れなどでいつも満員。多様性を感じさせてくれます。

アメリカで食事をすると、ヨーロッパやアジアを旅行している気分になります。「アメリカの料理はまずい」というのは大変な間違い。通り一辺の旅ではこうした勘違いや誤解をして、その国の印象を決めがちです。誠に気の毒で哀れなことです。このような旅をしてはいけないのです。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その54 Communities in Wisconsin

ウィスコンシンには、今でも沢山のヨーロッパ系や中東系のコミュニティがあります。北欧や東欧に似た風土なので、初代の移民はこの地を選び定住したのは容易に理解できます。酪農や小麦、トウモロコシ、馬鈴薯の耕作に適しています。今もウィスコンシンは一歩郊外へ出ると、牛から発散される「田舎の香水」がぷんぷん臭います。

移民がつけたと思われる地名や町名はこの州には沢山あります。大きく分類しますと西ヨーロッパ系、東ヨーロッパ系、地中海系、中東系などです。中には「Eureka」という地名もあります。ギリシャ語で「見つけたぞ!」という感嘆詞です。移民した人々が叫んでつけたのだろうと察します。

まずは国名や首都をもじった地名があります。地名などが沢山できてきて少々辟易するかも知れませんがご勘弁を。国名ではBelgium、Denmark、Holland、Jordan、Lebanon、Norway、Peru、Poland、Sweden、Swissなどがそうです。北欧全体を指すScandinaviaもあります。次ぎに首都がついた地名です。アルファベット順にBerlin、Brussels、Lisbon、London、Moscow、Ottawa、Rome、Wausauなどです。

地名の由来は各国の言葉から容易に理解できます。フランス系のはDe Pere、Eau Claire、Fond du Lac、Lac La Belle、La Crosse、La Follette、Marquette、 Monroe、Prairie de Chien、Prairie du Sac などです。イタリア系ではGenoa、Monticello、Naples、Seneca、Veronaなどです。次ぎにドイツやオーストリア系では、Germantown、Hamburg、New Berlin、New Glarus、New Munster、Rhine、Rhinelander、Sheboygan、Vienna、Wittenbergなど多士済々です。

イギリス系は沢山ありすぎて網羅できないほどです。New Holstein、New London、 Walesなどが代表でしょうか。アイルランド系では、 McAllister、McFarland、McNaughtonなどMcから始まる地名でわかります。その他のヨーロッパ系としてはHollandale、New Amsterdam、Pulaski、West Swedenです。ノールウエイ系ではBergenもあります。

中東系では聖書的な地名として、Jericho、Juda、Old Lebanon、 Zionといったところです。スペイン系としてEl Paso という地名もあります。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その53 マッカーシズムとローゼンバーグ事

本題からは少しはずれますが、 マッカーシズムの影響がアメリカの苦悩を物語る話題です。ソ連が1949年に原爆実験に成功します。翌年、アメリカで第二次大戦中に原爆開発であるマンハッタン計画(Manhattan Project)に関係していたドイツ出身でイギリス人の核物理学者、クラウス・ヒュークス(Klaus Fuchs)がソ連のスパイとして逮捕されます。同年、電気技術者であったジュリアス・ローゼンバーグ(Julius Rosenberg)とその妻エセル・ローゼンバーグ(Ethel Rosenberg)も原子力機密をソ連への漏洩に協力したかどで逮捕されます。これがローゼンバーグ事件(Rosenberg Case)です。

Michael Rosenberg, 10, right, and his brother, Robert, 6, sons of atom spies Julius and Ethel Rosenberg, read June 18, 1953 that their parents had one day more to live. The boys were at the home of friends in Toms River, N.J. The Rosenberg’s execution date had been delayed by a last-minute appeal to the U.S. Supreme Court, which turned a stay down. (AP Photo/Daily News)

夫妻は戦時中はニューメキシコ(New Mexico)のロスアラモス(Los Alamos)の研究所で勤務していました。エセルの弟、グリーングラス(David Greenglass)や化学者であったゴールド(Harry Gold)を通じて、夫妻は機密を入手したといわれます。グリーングラスとゴールドは裁判中にローゼンバーグ夫妻に機密を渡したと証言するのです。

しかし、ローゼンバーグ夫妻は一貫して犯行を否認するも1951年4月に死刑判決を受けます。その間、この事件は政治的なでっち上げとする助命運動が国際的に広がります。夫妻が獄中から幼い2人の息子に送った書簡集は大きな反響を巻き起こします。このニュースは連日新聞で報道されますが、1954年6月に処刑されます。裁判から処刑にいたる過程にマッカーシズムという共産主義者摘発運動が深く影響していた事件です。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その52 Wisconsin and McCarthyism

ウィスコンシンは時に意外な人物を輩出するところでもあります。1950年から1954年にかけて、アメリカで反共主義を標榜する政敵攻撃が起こります。国務省内(State Department )で205名の職員が共産主義のスパイ網を組織したとか、陸軍にも共産主義者のシンパが存在するなど、具体的な証拠を欠く中傷や個人攻撃が行われるのです。この中心となったのがウィスコンシン州選出の共和党員ジョセフ・マッカーシ(Joseph McCarthy)です。この共産主義者摘発運動は「マッカーシズム」(McCarthyism)と呼ばれます。

当時、ソ連の原爆開発や中国の共産党政権の誕生など、冷戦初期の国際政治の動向に不満や不安がアメリカに起こります。ヒス事件(Hiss Case)やローゼンバーグ事件(Rosenberg Case)などのスパイ事件の相次ぐ摘発に苛立つアメリカ国民の心理に、反共思想は強く訴えたのだろうと察します。

1952年にマッカーシは上院議員に再選されます。1953年には共和党のアイゼンハワー(Dwight Eisenhower)が大統領となり、反共主義を掲げるリチャード・ニクソン(Richard Nixon)を副大統領に指名します。マッカーシズムとは「赤狩り」と呼ばれ共産主義者やそのシンパを攻撃の対象としていきます。赤狩りは広がり、一時は大統領に匹敵すると評される権勢を振るいます。

ですが1954年、マッカーシの主張の虚偽性や野蛮な中傷の手法が衆目にさらされ、非難を受けながら政治的な影響力は急速に衰えていきマッカーシズムは終焉します。冷戦下の国際的な緊張の高まり、朝鮮動乱(Korean War)の勃発、反ラディカリズム(Anti-radicalism)や反共の伝統、さらにはアメリカ社会の統合過程に常に付随する孤立や排外主義の傾向が、マッカーシズムを生んだといわれます。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その51 Wisconsin Idea

アルファベット順に各州を回って、ようやくウィスコンシン州(The State of Wisconsin)に辿り着きました。ウィスコンシン名の由来ですが、 アルゴンキン族(Algonquian)が「川の集まるところ」と呼んでいたことによります。1673年にこの地を調べたフランスの探検家、マーケット(Jacques Marquette)が「Ouisconsin」という呼び名に直したとあります。州都はマディソン(Madison)。四つの湖をまわりにして州議事堂や大学がどっしりと構えています。人口がたったの20万あまりのまさに大学街です。今私の長女、次女そして彼らの家族が住んでいます。

ウィスコンシン州の発展には2人の人物を紹介する必要があります。1人は、チャールズ・ヴァン・ハイス、(Charles Van Hise)、もう1人はロバート・ラフォレ(Robert La Follette)です。ヴァン・ハイスはエヴァンスビル(Evansville)というウィスコンシンの片田舎の農家に生まれます。神学校で学びウィスコンシン大学マディソン校で機械工学で学士と修士号を得て、その後生物学の博士号を取得し校内で研究と教育にあたります。大学理事会(Board of Regents)を経て1903年から1918年まで総長を歴任します。

ヴァン・ハイスの言葉に「I shall never be content until the beneficent influence of the university reaches every family of the state.」があります。大学の研究と教育の恩恵が1人ひとりの家族に及ばなければならない、という意味です。公教育を州民に普及するために、社会人教育や公共奉仕の分野に最も早くから取り組み、今日のアメリカの公立大学の原型をかたちづくった大学として知られています。大学拡張(University extension)プログラムの一環として公共放送である「Wisconsin Public Radio」、大学医学部の創設、市民講座の開設などに尽力します。こうした大学の方向性や使命の考え方が後年、「ウィスコンシン理念」(Wisconsin Idea)と呼ばれる哲学です。

もう一人の人物です。ロバート・ラフォレはヴァン・ハイスとは大学の同期でありました。彼は政治を志します。州知事となり、その後連邦議会の上院議員となります。州知事時代には、数々の進歩的改革を実行し、最初の労働災害補償制度、直接立法と市自治憲章、開かれた政府、開かれた予備選挙のしくみ、最低賃金制度、上院議員の直接選挙、女性参政権などを州内で実現していきます。1924年には進歩党からアメリカ合衆国大統領選挙に出馬することになります。

ラフォレに代わって共和党上院議員となったのは、ジョセフ・マッカーシ(Joseph McCarthy)です。やがてマッカーシイズム(McCarthyism)と呼ばれる反共目的の政敵攻撃が始まります。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その50 The Mountain State

ジョン・デンバー(John Denver)の代表曲の一つである「カントリ・ロード(Take Me Home, Country Roads)」の歌詞には繰り返しウェストヴァジニア州(The State of West Virginia)が登場します。同州の代名詞的な楽曲ともなっています。歌詞といい曲想といい、しびれそうな心持ちになる歌です。

ウェストヴァジニア州は日本人にはあまり馴染みの少ない州です。合衆国でも地味な州ではあります。州都および最大都市はチャールストン(Charleston)です。ウェストヴァジニア州の歴史は、その山がちな地形、広大な川の渓谷、豊富な自然資源というの産物の影響を大きく受けてきました。

アパラチア山脈(Appalachian Mountains)内部に位置している合衆国内で唯一の州であり、すべての地域が山岳内にあることから、「山脈の州」(The Mountain State)と愛称が付けられています。

アパラチア山脈の全域で、「硝石トレイル」があり、硝酸カルシウムを豊富に埋蔵する石灰岩が採掘されてきました。弾薬用になります。アパラチア炭田(Appalachian coal mine)からの石炭も重要なウェストヴァジニア州の経済を支えています。石油や天然ガス、その他森林資源にも恵まれているのですが、人々の所得や失業率などの指標からすると、経済的に最も脆弱な州の一つといわれています。

ウェストバージニア州で最も知られている場所は、有名なアパラチアン・トレイル(Appalachian National Scenic Trail)の途中のポトマック川(Potomac River)とシェナンドー川(Shenandoah River)が合流する美しい渓谷にあるハーパーズフェリー(Harpers Ferry)です。ここは、南北戦争における激戦地の一つとなり、ハーパーズ・フェリーの戦い(Battle of Harpers Ferry)として知られています。この戦いは南軍の勝利に終わります。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その49 Washington D.C.

首都「ワシントンD.C.」とは正式には「Washington District of Columbia」。どの州からも独立した連邦直轄地の特別区です。世界でも数少ない計画都市で政府機関、各国大使館、記念碑的建造物、ナショナルギャラリーなどの美術館や博物館、全国的組織をもつ各種の専門機関や協会の本部があります。同時に長い間、連邦直轄地として住民の意向が行政に反映されなく、首都を代表する華麗な地区の背後に貧困と荒廃に瀕する地区もあります。

首都建設の歴史です。ワシントン大統領(George Washington)はフランス系の陸軍士官で技師であったピエール・ランファン(Pierre L Enfant)に設計を依頼します。ランファンはバロック(baroque)式造園法の影響を受けていたようです。設計案にはバロックの壮麗さが反映しています。1793年9月に連邦議事堂の礎石が据えられ、さらに大統領官邸(White House)などが続きます。

1800年10月にはフィラデルフィア(Philadelphia)から首都が移ってきます。初期のワシントンD.C.は荒野でありました。そこに首都を設置したので、当初はさまざまな困難が問題があったといわれます。当時ワシントンD.C.を訪れた人々からは「途方もなく間隔が広い街」(City of Magnificant Distances)とか「荒野の都市」、「みじめな小屋の都市」などと揶揄されたようです。蒸気機関車や電信が出現するまでは、遠くて不便であったという理由で首都の移転運動も起こったほどです。

ランファンの設計で中心となったのは連邦議事堂、モール(Mall)、大統領官邸、それを取り巻く建物群です。この二つの建物から放射状の大通りは議事堂を基点とする格子状の街路網と組み合わされています。東西方向に走る街路にはアルファベット文字が、南北方向の街路にはアラビア数字が、大通りには各州の名がそれぞれつけられています。公園も多く最大のものはロッククリーク公園(Rcck Creek ParK)で動物園もあります。

この特別区の住民には低所得者、障害者、高齢者がかなり含まれ、政府の援助を必要としています。その反面、多くの政府職員やサービス業者は郊外からメトロをつかって通勤しています。

有名な高等教育機関ですが、イエズス会系のジョージタウン大学(Georgetown University)、バプテスト系のジョージワシントン大学(George Washington University)、メソジスト系のアメリカン大学(American University)、アメリカ・カトリック大学(Catholic University of America )、黒人のためのハワード大学( Howard University)、聴覚障害のギャロデット大学(Gallaudet University)などがあります。

研究や科学調査の中心は、国立公文書館(National Archives and Records Administration, NARA)や議会図書館(Library of Congress)があります。議会図書館世界一の蔵書を誇ります。その他、スミソニアン協会(Smithsonian Institution)は自然科学や法律関連図書でこれまた世界最大の規模をもっています。英国の化学者スミソン(James Smithson)の遺贈した基金によって1846年に設立されました。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その48 The Evergreen State

ワシントン(The State of Washington)の州都はオリンピア(Olympia)。最大の都市はシアトル(Seattle)です。ワシントン州は、モミ(Douglas fir)、松(ponderosa)とか白松、トウヒ(spruce)、ヒマラヤ杉(cedar)など豊かな木材資源に恵まれています。ニックネームの「 The Evergreen State」は州議会で公式に承認されている名前ではありませんが、州の特色を的確に表しています。

日本から多くの移民が渡ったのがワシントン州です。1869年に旧会津藩の武士らがサンフランシスコ(San Francisco) に渡ったのをきっかけに西海岸への移住が始まったと記されています。シアトル(Seattle)、タコマ(Tacoma)両市への移民は1890年代から増え続け、1895年にはタコマ領事館が誕生します。広島、山口、熊本、鹿児島など各県からの移民たちは製材所や鉄道、農場,漁業、森林業など、過酷な労働に従事します。

当時は、人種差別が根深く広まっていた頃です。「ヒマラヤ杉に降る雪」(Snow Falling on Cedars)という小説が1995年に作られます。作家はデヴィッド・グターソン(David Guterson)。その内容ですが1954年の冬、日系アメリカ人漁師のカズオは同僚を殺害した第一級殺人容疑で罪に問われます。地元新聞記者は、カズオの容疑を晴らす可能性の高い証拠をつかみます。彼自身は、幼馴染でカズオの妻であるハツエとの過去の恋愛関係に対する感傷を抱いています。さらに日系アメリカ人への厳しい偏見と第二次大戦という時代背景によって、新聞記者は得た証拠をどのように扱うべきかを苦しみます。「Snow Falling on Cedars」は1995年のフォークナ(William Faulkner)賞受賞作品です。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その47 Old Dominion

ヴァジニア州(Commonwealth of Virginia)の歴史です。16世紀にスペインのイエズス会(Society of Jesus)などヨーロッパ人遠征隊の幾つかが、チェサピーク湾(Chesapeake Bay)を探検していたといわれます。1583年、イングランド女王エリザベス1世が、スペイン領フロリダより北の地域に植民地を建設する権利をウォルター・ラレイ卿(Sir Walter Raleigh)に与えます。1584年、ラレイは北アメリカの大西洋岸に遠征隊を派遣します「ヴァジニア」という名前は、生涯独身であったエリザベス1世の「ヴァージン・クイーン」(Virgin Queen)から由来します。

1608年,イギリス人が最初に建設した街がジェームスタウン(Jamestown),ウィリアムスバーグ
(Williamsburg)、ヨークタウン(Yorktown)などです。1699年にウィリアムズバーグ(Williamsburg)が植民地の首都となり、少しさかのぼり1693年には、ウィリアム・アンド・メアリー大学(College of William & Mary)が設立されます。

ヴァージニア州はイギリスから最初に独立した13州のうちの一つです。1861年4月17日、ヴァジニア州はアメリカ合衆国からの脱退を票決します。4月24日にはアメリカ南部連合国(Confederate States of America)に加盟し、リッチモンド(Richmond)がその首都に選ばれます。

アパラチア山脈(Appalachian Mountains)の一部の山々にあるのがシェナンドー国立公園(Shenandoah National Park)。ワシントンDCから最も近いところにある国立公園で多くの観光客で賑わいます。DCから南に車で一時間のところにあるマウント・ヴァーノン(Mount Vernon)はジョージ・ワシントン(George Washington)のプランテーション(Plantation)や邸宅で知られています。建物や墓地は国定歴史建造物に登録されています。開拓時代から独立革命にかけての史跡が多いのが特徴といえます。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その46 The Green Mountain State

ヴァモント州(State of Vermont)は、ニューイングランド(New England)に属し、フランス人が最初に入植した所といわれます。ヴァモント州のニックネーム「Green Mountain」は、フランス語の「Verd Mont」からきています。「Verd 」は緑、「Mont」は「Montagne」の接頭語で山という意味です。先住民はモホーク族(Mohawk)、アベナキ族(Abenaki)でありました。1756年から1763年にわたるフランスとイギリス連合との「七年戦争(Seven Years’ War)」でイギリスの植民地となります。イギリスの植民地化の成功は、「New England」とか「New Hampshire」、「 New York」といった地名に表れています。

Waits River village. Vermont, New England, USA

全米でもワイオミング州(Wyoming)に続いて人口が稀少なことで知られています。 州都はモンテピリエ(Montpelier)で人口はたったの7,900人余りとなっています。

独立戦争時代のことです。1775年、イギリスが守っていたタイコンデロガ砦(Fort Ticonderoga) を独立軍のイーサン・アレン(Ethan Alle)に率いられたグリーン・マウンテン・ボーイズ(Green Mountain Boys)など民兵隊が奪います。この砦で捕獲した大量の大砲と火薬は、手詰まりとなっていたボストン包囲戦を打開するきっかけになったといわれています。

全米一のメイプルシロップ(maple syrup)やメイプルシュガー(maple sugar)の産地となっています。酪農やリンゴの栽培が盛んです。林産も豊かで製紙や家具製造の原料を提供しています。花崗岩、大理石、スレートの産地としても知られています。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その45 The Beehive State

ユタ州(The State of Utah)の歴史といえば、1847年にブリガム・ヤング(Brigham Young)に率いられたモルモン(Mormonism)教徒が迫害から逃れ、入植したことで知られています。モルモン教会は、末日聖徒イエス・キリスト教会(Church of Jesus Christ of Latter-day Saints)といわれます。ユタの北西部は世界最大級の塩砂漠で、これは「Great Salt Lake Desert」と呼ばれています。州都はソールトレーク(Salt Lake)となっています。現在州民の70%がモルモン教徒です。

ヤングらのモルモン教徒は、乾燥した盆地に潅漑農業を興します。そして1849年にはその地をデゼレット州(State of Deseret)と命名します。「Deseret」とはモルモン教徒の言葉で「勤勉な蜜蜂」という意味だそうです。ニックネームにある「 Beehive」とは蜜蜂の巣という意味の単語です。

ヤングはモルモン教会の大管長などをつとめたのですが、最も著名なのが多重婚推進とか黒人教会員の聖職叙任の禁止とった議論を醸したことです。しかし、1890年に一夫多妻制度が廃止され、1896年にユタは連邦政府に加入します。

ユタの産業としては、石油、金、ウランなどが主となっています。世界最大の銅の露天掘り鉱山であるビンガム・キャニオン(Bingham Canyon Mine)もあります。

観光地としても知られています。西部劇のロケ地となった「 Monument Valley」があります。ここでジョン・フォード(John Ford)は「駅馬車 (Stagecoach)」や「捜索者(The Searchers)」を撮影しています。一帯は古くからのナバホ族(Navajo)居住地域で、今もナバホ族の聖地となっています。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その44 The Lone Star State

8月の終わりにハリケーン、ハーヴィ(Harvey)が南部テキサス州(State of Texas)に上陸し、最大都市であるヒューストン(Huston)は未曾有の水害に見舞われました。日本の国土の1.8倍、アラスカ州(Alaska)に次ぐ広さがあるのがテキサス州です。リオ・グランデ川 (Rio Grande) は州の北西から南東に流れメキシコ湾(Gulf of Mexico)に注ぎます。豊かな穀倉地帯を形成しています。Rioとはスペイン語で川を意味です。「Texas」はカド族(Caddo)の言葉である「 tejas」に由来し、「友」とか「仲間」を表します。

17世紀末、スペイン人がカド族、アパッチ族(Apache)、チョクト族(Choctaw)、トンカワ族(Tonkawa) などのテキサスの土地に進出し、18世紀にはサンアントニオ(San Antonio)などにスペインの布教砦や城塞がつくられます。その後合衆国によるルイジアナ購入による領土の拡大により、メキシコとの戦争が起こります。アラモ砦(The Alamo)などの戦闘の後に、1836年にテキサスは連邦に編入されます。こうした独立への強い気性を指して「テキサス魂(Texas In My Soul)」というフレーズもできます。

テキサス州のニックネームは「The Lone Star State」という少々変わった名称です。「テキサス魂」とか「アラモ砦の州」という名ではありません。テキサス共和国時代から使用されている白い星を一つあしらった州旗に由来しているとあります。州都はオースティン(Austin)、ヒューストン、サンアントニオ(San Antonio)が続きます。

経済は綿花、牧畜、石油が中心です。西部は鉄道の発達で牧畜業が急速に盛んになります。1901年、ビーモント( Beaumont)付近のスピンドルドック(Spindletop)という油田が発見され、全米一の産油地となっています。油田はメキシコ湾外沿いに多く、石油精製、石油化学を中心に多種の工業も盛んです。1956年に制作された映画「ジャイアンツ」(Giants)は牧畜と石油産出を巡るテキサスの発達や人種問題を扱った名画です。主演者にはロック・ハドソン(Rock Hudson) 、エリザベス・テイラー(Elizabeth Taylor) 、ジェームズ・ディーン(James Dean)がいました。日本でも知られた懐かしい俳優です

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その43 The Volunteer State

私がテネシー州(State of Tennessee)を知ったのは、1950年代のラジオや新聞でですテネシー川(Tennessee River)流域の総合開発という公共事業と「テネシーワルツ」(Tennessee Waltz)という歌がきっかけなんです

1929年からの世界恐慌(World Economic Crisis)のときに、失業者のための雇用を出す必要性があったので、ルーズベルト大統領(Frankline Roosebelt)が、世界恐慌の対策として実施したニューディール政策(New Deal)を打ち出します。その一環として、テネシー川が毎年春に洪水を起こしていたのを制御する必要性があったこと、さらにテネシー川の輸送容量を改善する必要性などによって、1933年にテネシー川流域開発公社(Tennessee Valley Authority:TVA)が設立されることになります。その結果、32個の多目的ダムなどの建設により雇用が拡大し、テネシー州は国内でも最大の電力供給州となります。

1948年にリリースされたのが「テネシーワルツ」です。1950年にパティ・ペイジ(Patti Page) が歌うと爆発的な人気を博します。日本にはジャズ系歌手である江利チエミが歌います。恋人とテネシーワルツを踊るという歌です。覚えている人もおられるでしょうか。

テネシー州には「志願兵の州」(The Volunteer State)というニックネームがついています。これは植民地戦争でインディアン諸部族やイギリスとの米英戦争のとき、特に1815年のニューオーリンズ(New Orleans)の戦いで、テネシー州の志願兵が傑出した働きをしたことでつけられたいわれます。最初2,800名の志願兵を募集したところ30,000名が集まったといわれます。

他にも「Mother of Southwestern Statesmen」という呼び名があります。テネシーから三名の大統領を送り出しているからです。第7代大統領のアンドルー・ジャクソン(Andrew Jackson)、第11代のジェイムス・ポーク(James Polk)、そして第17代のアンドルー・ジョンソン(Andrew Johnson)です。テネシー州の州都はナッシュビル(Nashville)、最大の都市はメンフィス(Memphis)です。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その42 The Palmetto State

サウス・カロライナ州(The State of South Carolina)南部の大西洋に面している温暖湿潤な気候の州です。州都及び人口最大の都市はコロンビア(Columbia)です。ニックネームは「ノコギリヤシの州」(The Palmetto State)です。

サウス・カロライナはイギリスから最初に独立した13州の中で、しかも最初に独立を宣言した植民地です。その植民地はイングランド国王チャールズ2世(Charles II)から、その父チャールズ1世の栄誉を称えて命名されます。なおチャールズ(Charles)のラテン語名はカロルス(Carolus)となっています。カロライナの名称の原型です。

大西洋に面した海岸平野(Coastal Plain)とローカントリー(Low Country)と呼ばれる海岸台地は古い歴史があり、イギリス人が建設したチャールストン (Charleston) があります。いまなお18〜19世紀の建物が連なっています。この街は「聖なる市」(The Holy City)としても知られています。低層の都市景観を形作る有名な教会があり、信教に対する寛容さを認めていた数少ない都市の一つだったという事実にもよっています。

多くのユグノー(Huguenot)と呼ばれたフランスにおける改革派教会(カルヴァン主義ーCalvinism)がチャールストンにやってきます。フランス絶対王政の崩壊に活躍し、迫害された者は列強各国へ逃れて、やがて亡命先となったサウス・カロライナの開発を著しく進めたといわれます。ユダヤ人にユダヤ教の布教を制限無しに認めた最初期の植民地都市がチャールストンともいわれます。

1860年12月20日、アブラハム・リンカン(Abraham Lincoln)が次期大統領になることが明らかになると、サウス・カロライナ州はアメリカ合衆国からの脱退を宣言した最初の州になります。そして1861年4月南軍がチャールストン港にあった合衆国軍のサムター砦(Fort Sumter)に対する砲撃を開始し南北戦争が激化していきます

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その41 The Mount Rushmore State

サウス・ダコタ州(State of South Dakota)の州都はピエール(Pierre)。最大の都市は、スーフォールズ(Sioux Falls)です。「ダコタ(Dakota)」という名前はインディアン部族のダコタ族(スー族;Sioux))の言葉「ダコタ(仲間)」に由来します。サウス・ダコタ州のニックネームはいくつかあります。「The Mount Rushmore State」、「Great Sioux Nation」、「The Coyote State」、「The Sunshine State」というフレーズです。

州の中央部にミズリー川(Missouri River)が流れ、南西部にはブラックヒルズ(Black Hills)と呼ばれる低木の松に覆われた山脈があり、スー族の聖地となっています。ここには4人の大統領の顔のモニュメントで有名なラシュモア山国立記念公園(Mount Rushmore National Park)があります。ジョージ・ワシントン(George Washington)、 トマス・ジェファソン(Thomas Jefferson)、 セオドル・ルーズベルト(Theodore Roosevelt) 、 アブラハム・リンカン(Abraham Lincoln)の巨大な彫刻です。

1868年の第二次ララミー砦条約(Treaty of Fort Laramie)によって、サウス・ダコタ州西半分がグレートスー居留地(Great Sioux)としてスー族に認めらたという事実があったにも拘わらず、1874年にカスター(George Custer)将軍の連隊がこの山地に派遣されます。そして金を発見し、ゴールドラッシュが始まります。1876年にスー族はブラックヒルズ内の土地や鉱業権を渡すことを拒み、坑夫や開拓者が地域に入るのを止めたために戦いが起きます。これが「 Great Sioux War」です。

ブラックヒルズにあるホームステーク鉱山(Homestake Mine)を中心とする金の採掘は全米一となっています。ステップ気候で夏冬の差が大きいので「太陽の輝く州」とも呼ばれます。「コヨーテの州」というフレーズからは、かつて人跡稀であった西部の州という印象を与えているのがサウス・ダコタ州です。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その40 The Ocean State

ロードアイランド州(State of Rhode Island)は、独立13州の一つです。全米の州で地理的に最も小さい州です。滋賀県や奈良県と同程度の面積で人口はたったの105万人。ちなみに滋賀県は140万人です。州都はプロビデンス (Providence)。「プロビデンス」とは「神の摂理」とか「神のみ業」を意味します。

当時この地域は二つの部族が住んでいた。西側にはナラガンセット族(Narragansett)、東側にはワンパノアグ族(Wampanoag)がいました。最初にこの地にやってきたのはクェーカー教徒(Quakers)です。その中にロジャー・ウィリアムズ(Roger Williams)がいました。 クェーカー教徒の組織は、「Religious Society of Friends」といいます。キリスト教徒の一派です。Wikipediaによると、ウィリアムズはマサチューセッツ湾植民地を追い出された神学者だったといわれます。信仰と政治の寛容さを求め、他の者達と共に自由な領主植民地としてナラガンセット湾(Narragansett Bay)に「プロビデンス・プランテーション」(Providence Plantation)という集落を建設します。この湾は、ロードアイランド海峡の北側に面した湾及び入り江です。

ウィリアムズはオランダから逃れてきたユダヤ人にも救いの手を差し伸べたとあります。こうした伝統は、オランダにユダヤ人が多く住み着いていたことがわかります。時代が経て、第一次、第二次大戦中も多くの「アシュケナジム」(Ashkenazim)と呼ばれたドイツ系ユダヤ人がオランダにいたことが知られています。

農産物はジャガイモ、トウモロコシ、鶏など家畜の飼育も盛んな州です。ニックネーム「Ocean State」とあるだけに海産物は日本と同じように豊富です。沿岸や沖合漁業も盛んです。ボストンの隣に位置しニューヨークも近く、アメリカ・メガポリスの一部で都市化が進んでいます。農海産物の大消費地に恵まれている州です。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その39 The Keystone State

ペンシルヴァニア州(Commonwealth of Pennsylvania)の歴史です。1643年、最初にペンシルヴァニアに入植したのはスェーデン人ですが、1656年にはオランダ、1664年にはイギリスへと支配が移ります。イギリスのチャールズ二世(Charles II)がクェーカー教徒(Quaker)の代表、ウイリアム・ペン(William Penn)にこの土地を与えたとあります。「Sylvania」とはラテン語で「森の土地」とあります。そのようなわけで「Pennsylvaniaは」「ペンの森」となります。

ウイリアム・ペンは敬虔なクェーカー教徒でした。植民以前は信仰の自由を訴え、イギリス国教会(Church of England)に異を唱えたために、一時ロンドン塔(Tower of London)に収監されたこともあります。イギリス国教会はイギリス聖公会(Anglican Churchi0とも呼ばれます。イングランドの統治者が教会の首長であるという政治的な意図にペンは我慢がならなかったのではないでしょうか。ペンは、植民地時代はインディアンとの友好関係を大事にした人物です。

イギリスからの独立後、1790年から1800年の間、連邦政府の首都となったのがフィラデルフィア( Philadelphia)です。現在も州で最大の都市です。現在の州都はハリスバーグ(Harrisburg)となっています。ペンシルヴァニアは全米屈指の製鉄業地帯です。ピッツバーグ(Pittsburgh)やベスレヘム(Bethlehem)が中心で、製鉄を支えるアパラチア(Appalachian)炭田があります。その他、粘土、石材、石油、天然ガス、亜鉛などの鉱産物でも知られています。

ところで「Pennsylvania Dutch」という言葉があります。信仰の自由を求めてペンシルヴァニアに移住したドイツ系移民とその子孫、あるいはその言語を指す言葉です。オランダの意味ではありません。宗教的にはモラビヤ派(Moravian)、メノー派(Mennonite)、特にアーミッシュ(Amish)に属する者が多く、移住後も伝統的な宗教、言語、風俗や習慣、教育を維持したので注目されました。アーミッシュの集落が多いことで知られる州です。

最後に、ペンシルヴァニア州のニックネーム「Keystone State」の由来です。13の植民地の真ん中に位置し、その後合衆国の経済や社会、政治の発展に大きな役割を果たします。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その38 The Beaver State

北海道大学時代に札幌の姉妹都市が、オレゴン州(State of Oregon)のポートランドであることを知ったのがこの州との出会です。オレゴン州といえばオレゴン街道(Oregon Trail)も知られています。州都はセーレム(Salem) 。最大の都市はポートランド(Portland)です。

太平洋岸にそったPacific Coast Rangesとカスケード山脈(Cascade Range)の間の平野に人口の9割が住み、そこに広がるウィラメットバレー(Willamette Valley)は農業が盛んです。フランスのボルドー(Bordeaux)地方とほぼ同じように葡萄の栽培に適した平野となっています。

1840年代に「オレゴン街道」を通って多くの植民がオレゴンに入植します。オレゴン街道はミズリー州(Missouri)のインデペンデンス(Independence)から大平原(Great Plains)、ロッキー山脈(Rocky Mountains)を越える路で全長3,200キロの行程です。移住には4か月から6か月かかったといわれます。途中にはララミー砦(Fort Laramie)やサウスパス(South Pass)といった重要な通過点がありました。 幌馬車隊の組み方、野営の方法、食料や飼料の補給、インディアンとの遭遇と対応などの経験がその後の移住を助けたといわれます。

Wikipediaによると、豊かな森林はレッドウッド(red wood)、トウヒ(spruce)、ダグラスモニ(douglas fir)などで覆われています。こうした資源により、製材、パルプ、合板、家具製造などが産業の中心です。ニックネームが示唆するように森林資源とビーバー(beaver)は切り離せないようです。19世紀初頭、ビーバーの毛皮帽子がたいそう流行したことがこのニックネームにつながったとあります。オレゴン内の河川には多くのビーバーが今も生息しています。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その37 The Sooner State

オクラホマ州(The State of Oklahoma)の州都で最大の都市はオクラホマシティ(Oklahoma City)です。名前の由来ですが、チョクト(Choctaw)インディアン語で「赤いーhumma, 人々ーokla」を意味します。この部族はミシシッピ川河口域に住んでいた農耕民族といわれます。

1803年にルイジアナ(Louisiana)購入の一部としてフランス領からアメリカ領となります。州の西部は大平原(Great Plaine)でアーカンソー川(Arkansas River)とレッド川(Red River)流域の平野、オザーク高原(Ozarks Mountain)が広がり、経済の中心となる農牧業が盛んです。小麦の生産は全米第二位、その他の産物として綿花、トウモロコシ、ピーナッツ、豆類が中心です。

1820年代以降、主要なインディアン部族はオクラホマの南部に移住させられます。次第に白人の投機家がやってきます。1899年に白人の入植が許可される直前に、「スーナ」(sooners)と呼ばれる抜け駆けの移住者が殺到し土地を占有していきます。こうした有様を形容して、オクラホマ州のニックネームは「The Sooner State」となります。

1930年代、南部を襲った大干ばつと砂嵐(Dust Bowl)により大量の農民や先住民がオクラホマからカリフォルニアに移住します。こうした人々は「Okies」と呼ばれました。その数、100万を越えたとあります。1939年にその姿を描いた小説がジョン・スタインベック(John Steinbeck)の「怒りの葡萄(The Grapes of Wrath)」です。機械化農法を導入する資本家と土値を追われ、カリフォルニアに移住した貧窮農民集団との軋轢闘争が素材となっています。小説の主人公はトム・ジョード(Tom Joad)は正義感にあふれ、不公正な社会に疑問を持つのです。スタインベックの祖父は多くの農地を所有したドイツ系移民です。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その36 The Buckeye State

オハイオ州(The State of Ohio)の 「Ohio」とは、インディアンのイロコイ族(Iroquois)の言語で、「美しい川」ないしは「偉大な川」という意味です。 イロコイ族が使っていた「ohi-yo」から派生したといわれます。この川はオハイオ川(Ohio River)のこと。オハイオ州はこの川とエリー湖(Lake Erie)との間に囲まれています。州都はコロンバス(Columbus)です。

これまで8人のオハイオ州出身が合衆国大統領となっています。ウィリアム・ハリソン(William Harrison)、ユリシーズ・グラント(Ulysses Grant)、ラザフォード・ヘイズ (Rutherford Hayes) 、ジェームズ・ガーフィールド(James Garfield)、ベンジャミン・ハリソン(Benjamin Harrison)、ウィリアム・マッキンリー(William McKinley)、ウィリアム・タフト(William Taft)、そしてウオレン・ハーディング(Warren Harding)です。グラントは浜離宮恩賜庭園で明治天皇に謁見したことがあります。1964年以降の大統領選挙では、オハイオ州で勝利した候補が大統領に当選しています。「オハイオ州を制するものが大統領選を制す」といういわれる所以です。ついでながら、1872年に最初の女性大統領候補になったのがオハイオ州から出馬したヴィクトリア・ウッダル(Victoria Woodhull)です。

オハイオは全米有数の工業州で、クリーブランド(Cleveland)、ヤングスタウン(Youngstown)の他、自動車用ガラスのオレド(Tredo)、自動車用タイヤのアクロン(Acron)がその中心です。プロクター・アンド・ギャンブル(Procter & Gamble)やグッドイヤー(Goodyear) の本社があります。オハイオ州は農業も盛んです。トウモロコシの生産は全米三位で大豆の栽培でも知られています。

州のニックネームは「Buckeye State」。「Buckeye」とは州内で豊富に繁茂し灰色の樹皮を持つトチノキのことです。もう一つのフレーズに「大統領を生んだ母」(Mother of Presidents)というがあります。前述した大統領を輩出したことを形容した言い回しです。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その35  The Peace Garden State

ノースダコタ州(State of North Dakota)は北はカナダ連邦のサスカチュワン州(Province of Saskatchewan)およびマニトバ州(Province of Manitoba)、西はモンタナ州(Montana)と、南はサウスダコタ州(South Dakota)と接し、東はミネソタ州(Minnesota)に接しています。州都はビスマーク(Bismarck)で、人口最大の都市はファーゴ(Fargo)となっています。「Dakota」という名称は、 アメリカ・インディアンのダコタ族が使っていた「仲間」の意味に由来します。

ノースダコタ州で原油の生産が開始されて60年余りといわれます。しかしバッケンエリア(Bakken area)のオイルシェールブーム(Bakken Oil Shale Boom)により国内有数の陸上産油地域となって、同州が米国第 4 位の石油産出州に浮上します。この間、わずか10年あまりのことでです。バッケンシェールオイル層(Bakken Shale Oil Layer)とその下部のシェールオイル層は、サスカチュワン州、マニトバ州、そしてモンタナ州、サウスダコタ州、ノースダコタ州を取り囲むように存在しているといわれます。掘削量の増大には、水平坑掘削技術や水圧破砕法などの技術革新が貢献しているようです。

オイルシェール田の開発はノーダコタの経済に大きく貢献していますが、ノースダコタ州は伝統的に複数の作物の生産で全国の首位に立っています。小麦は全米の58%、および硬質赤色の春小麦は全米の48%、各種小麦を合わせた量では全米の15%を占めるほどです。キャノーラ油で知られる菜種、大豆、ヒマワリなどの栽培も盛んです。

州のニックネームである「Peace Garden State」の由来です。長年、隣のマニトバ州との間で友好的な関係を維持しています。1932年に「International Peace Garden」がマニトバ州境に建設されたことからこのニックネームが採用されたとあります。他のニックネームとして「The Flickertail State」というのもあります。リスが多く生息しているか                     らです。「Flickertail」とはひらひらと持ち上がった尻尾という意味です。

上の建物はスカンディナヴィア歴史遺産公園にあるノールウェイの代表的な建物です。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その34 The Tar Heel State

ビジネス以外の日本人には少々馴染みの少ない州かもれしません。しかし、アメリカで非常に活気ある州がノースカロライナ州(The State of North Carolina)です。州都はラレイ(Raleig)、最大都市はシャーロット(Charlotte)です。1584年エリザベス1世が探検家ウォルター・ラレイ卿(Sir Walter Raleig)に現在のノースカロライナの土地の特許を与えます。州都名の由来となります。

1663年に国王チャールズ2世(Charles II)が、植民してきたイギリス人に北アメリカ大陸における新しい植民地を始めるための土地勅許を与えたことが、ノースカロライナの領域を定めた出来事です。チャールズ2世はその地を父のチャールズ1世の栄誉を称えて「カロライナ」と命名したとあります。

ノースカロライナ州は、過去50年間で農林業からバイオテクノロジーや金融分野など多様な経済に転換してきました。科学技術、研究調査、及び銀行業は特に合衆国でニューヨークに続き2番目に大きな金融センターとして地位を築いたのがシャーロットです。さらにラレイ、ダーム(Durham)、チャペルヒル(Chapel Hill)の三都市を中心にリサーチ・トライアングル(Research Triangle)地区を形成し、経済的に大躍進を遂げます。デューク大学(Duke University)、ノースカロライナ大学(University of North Carolina at Chapel Hill)、ノースカロライナ州立大学(North Carolina State University)の三つの大学と数十の民間や公営の研究機関からなる研究学園都市を形成しています。

ノースカロライナ州の農業生産品は家禽及び鶏卵、牛、タバコ、豚、牛乳、苗床、葡萄、並びに大豆などです。タバコの生産量は全米一となっています。ノースカロライナ州で忘れてはならないのがライセンスプレートに記される「First in Flight」のいわれです。1903年12月にノースカロライナ州のキルデビルヒルズ (Kill Devil Hills)でライト兄弟(Wilbur Wright and Orville Wright)が最初の飛行機を飛ばしたのです。

終わりになりましたがノースカロライナ州のニックネーム「Tar Heel State」について触れることにします。「Tar」とはタール、 「Heel」はかかとという単語です。ノースカロライナ州は松の木が豊富に獲れるところです。タールやテレピン油といったネバネバした液がでます。これがかつて大量に輸出された経緯があります。特に海軍からの発注が多かったといわれます。南北戦争の際、南軍兵士は連邦軍に対峙してかかとにタールが塗ってあるように、一歩も引くことがなかったという伝説です。これが「Tar Heel」を広めることになったようです。

 

成田滋のアバター

綜合的な教育の支援ひろば

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その33 The Empire State

1609年にイギリスの探検家、ヘンリー・ハドソン(Henry Hudson)が大西洋を渡り、今のハドソン川(Hudson River)として命名されます。もともとニューヨーク(New York)はオランダの植民地です。ニュー・ネーデルランド(New Netherland)となります。さらに1624年にオランダの西インド会社が今のマンハッタン島(Manhattan)にいた先住民族のアルゴンキン族(Algonquian)から同島を購入し、ニュー・アムステルダム(New Amsterdam)と名付けます。これがヨーロッパからの移民が定住する出来事です。1664年にイギリスは艦隊を派遣し、ニュー・ネーデルランドを無血占領して、北イングランドのヨーク公(Duke of York)にちなんでNew Yorkと名付けます。

ニューヨーク州の現在です。ニューヨーク市や五大湖沿岸の工業都市と中心とする商業、金融、保険、通信、輸送、公営事業、建設業、製造業など全米でも占める比重は大きいものがあります。ですが農業もまた肥沃な土壌と発達した交通機関、広大な市場に近い条件に恵まれていて、古くから農業州としても知られています。農業収入で酪農による所得が最も多く、州全体の収益の二分の一を占めています。次いで家畜、鶏卵などの畜産物、果実、野菜なも重要な産物となっています。

ニューヨーク市のことです。今は世界的な大都市として発展しています。発展の理由は文化的、人種的な多様性もさることながら、恵まれた自然条件にあるようです。古生代の岩盤のゆえに高層建築を可能としています。セントラルパーク(Central Park)には多くの岩盤が露出しています。さらにハドソン川は河口から200キロ上流まで川幅や深さが変わらないために、外洋船が遡行できる港湾都市となっています。

ニューヨーク州のニックネームは「The Empire State」となっています。少々いかつい印象を受けますが金融などで世界の中心ですから仕方ないですね。「The Excelsior State」という名もあります。「向上し続ける州」という意味です。「Knickerbocker State」というニックネームもついています。「Knickerbocker」とは「オランダ系移民の子孫」という意味だそうです。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その32  The Land of Enchantment

「魅了してやまない州」(The Land of Enchantment)というニックネームを持つのがニューメキシコ州(State of New Mexico)です。美しい風景や由緒ある歴史を意味し、この名称は1999年に議会によって正式に認証されます。

1608年頃、ロッキー山脈(Rocky Mountains)の南端にある支脈サングレ・デ・クリスト山脈(Sangre de Cristo Mountains)の麓にサンタフェ(Santa Fe)の町が設立されます。この町は地域内の開拓地の大半とともに、プエブロの反乱(Pueblo Revolt)の結果として、12年間スペインから見放されます。

その後、プエブロ(Pueblo)の指導者ポペ(Pope)の死後、ディエゴ・デ・バルガス(Diego de Vargas)がこの地域をスペインの支配下に戻します。サンタフェが交易の中心として発展する一方で、戻ってきた開拓者が1706年に既にあった周辺集落からアルバカーキ(Albuquerque)をつくります。アルバカーキという名前はヌエバ・エスパーニャの副王第10代アルバカーキ公爵(10th Duke of Alburquerque)フランシスコ・フェルナンデス・デ・ラ・クエバ(Francisco Fernández de la Cueva)にちなんで名付けられたものです。

ニューメキシコ州は、インディアンとスペイン系の植民者とラテンアメリカからの移民を合わせたヒスパニック(Hispanic)系の人口の最も多い州といわれます。また、ナバホ族(Navajo)やアパッチ族(Apache)、プエブロ族など「インディアン」として連邦認定されたインディアンたちの居留地が存在しインディアンの総人口に対する比率が高いことで知られています。

州都はサンタフェ、最大の都市はアルバカーキです。州北部のロスアラモス(Los Alamos)には、マンハッタン計画(Manhattan Project)で知られるロスアラモス国立研究所(Los Alamos National Laboratory)があります。物理学を専攻していた長男らとアルバカーキで会い、この国立研究所を見学したことがあります。院生らとも行ったのは1998年頃です。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その31 The Garden State

ニュージャージー州(State of New Jersey)の州都はトレントン(Trenton)で、最大の都市はニューアーク(New Ark)です。北大西洋岸に位置し、ニューヨークやフィラデルフィア(Philadelphia)大都市圏に近いのが特徴です。もともとイギリスから最初に独立した13州のうちの1つであり、州名はイギリス海峡に位置するチャンネル諸島Channel Islands)のジャージー島(Jersey Island)に由来するといわれます。

最初にニュージャージー地に足を踏み入れたのは故国イングランドを追われ、新大陸にやってきたクエーカー教徒(Quakers)です。教徒たちは1679年に植民地を建設します。1719年、町は周辺の大地主であったウィリアム・トレント(William Trent)で、その名から後にTrentonと命名されたとあります。クエーカー教徒の他に、ニューイングランドの福音主義者達、スコットランドの長老派教会員(Presbyterian)やオランダ改革派教会員(Dutch Reformed Christians)など多様な宗派が入植したのがニュージャージー州です。

北東部はゲイトウェイ地域(Gateway Areas)と呼ばれ、住人の多くがニューヨーク市(City of New York)に通勤しています。ニュージャージー州とニューヨーク市は多くの橋やトンネルで繋がれているからです。なかでもハドソン川(Hudson River)に架かる吊り橋のジョージ・ワシントン・ブリッジ(George Washington Bridge)は一日30万台の車が通る世界で最も忙しい橋といわれます。

発明家トマス・エジソン(Thomas Edison)はニュージャージー州で活躍した発明家です。ウエストオレンジ(West Orange)という街に研究所を有し1,093の特許を取得します。アメリカの産業革命にも影響を与えた稀有の発明家といえましょう。

「Garden State」というニックネームはニューヨークなどの大都市に野菜等を供給する農場を有していることから命名されたといわれます。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その30 The Granite State

ニューハンプシャー州(State of New Hampshire)はかつてイギリスの13の植民地の一つでありました。1623年にイギリス人がポーツマス(Portsmouth)近辺に漁業と交易のため入植し、 1641年マサチューセッツ湾植民地に編入し、1679年にイギリス王領植民地となります。

ニューハンプシャーは1776年1月にイギリスと訣別したイギリス領北アメリカ植民地として最初のものとなり、その6か月後には独立宣言を発して、アメリカ合衆国を構成した植民地の1つとなります。州都はコンコード市(Concord)で最大の都市はマンチェスター(Manchester)です。州のモットーは「自由よ、さらば死を。(”Live Free or Die”)」で、自動車のライセンスプレートにも表示されているフレーズです。

州域には花崗岩が広く分布しています。これがニックネームの由来です。氷食を受けた古期アパラチア山系の一部で,約 1,300の湖沼があり,平均海抜高度は約300mという平野がひろがります。

ヨーロッパ人が入ってくる以前、アルゴンキン語族の様々な部族、例えばアベナキ族(Abenaki,)、ペナコック族(Pennacook)などが住んでいいました。1600年から1605年にイングランド人やフランス人の探検家が訪れ、1623年にはイングランド人漁師がオディオーンズポイント(Odiorne’s Point) に入植します。最初の恒久的な開拓地は、現在のドーバー市(Dover)であるヒルトンズポイント(Hills Point)でした。

1905年8月、合衆国大統領セオドア・ルーズベルト(Theodore Roosevelt)の仲介により、ポーツマス(Portsmouth)の海軍造船所内で講和会議が開かれ、ポーツマス条約(Treaty of Portsmouth)が同年年9月5日に調印されます。この町の近くに長男の嫁の両親が住んでいたので、ポーツマス市内の小さな博物館で日本の全権大使である小村寿太郎やロシアの大使ウィッテ(Sergei Yuljevich Witte)の写真などを見たことがあります。この博物館にはポーツマス条約の展示物が沢山あります

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その29 The Silver State

1950年代、新聞やラジオで盛んに原爆実験が報道されていました。これが私がネバダ州(The State of Nevada)を知ったきっかけです。ラスベガス市の北西にあるネバダ核実験場(Nevada Test Site)で、地下実験を含める928回も行われたというのです。1954年3月に太平洋上マーシャル諸島(Marshall Islands)ビキニ環礁(Bikini Atoll)での水爆実験で、マグロ漁船の第五福竜丸が死の灰を浴びました。無線長の久保山愛吉氏が亡くなり大きな社会問題となりました。

ネバダ州とは、近くにあるシエラネバダ山脈(Sierra Nevada)からつけられます。「Sierra Nevada」とはスペイン語で「雪に覆われた山脈」を意味するといわれます。辞書には「Sierra」とはのこぎり状の山脈とあります。ネバダ州都はカーソンシティ市(Carson City)です。

最大の都市はラスベガス(Las Vegas)となっています。「Vega」とはスペイン語で「沖積平野 」を意味するとありますが、ラスベガスが不毛の地のように感じるのですが、、、主産業は合法化されたカジノ(casino)を代表とする娯楽産業と鉱業となっています。

ネバダ州のニックネームは「銀の州」(The Silver State)とあるように、昔からこの州は鉱業で発展した経緯があります。1859年に同州のバージニア・シティー(Virginia City)で最初の銀鉱石の大規模埋蔵が確認されると大勢の人々が発掘に従事します。坑夫の大半はコーンウォール人(Cornish)かアイルランド人(Irish)であったといわれます。

ネバダ州のニックネームは、ほかに「戦闘が生んだ州」(Battle Born State)があります。1864年の南北戦争でネバダ州は北軍と呼ばれた「連合軍」(Union)に加わったことからBattle Born Stateという名がつけられたようです。もう一つのニックネームとして不毛地に育つ植物「セージブラシュ」(Sagebrush)にちなんで「セージブラシュの州」(The Sagebrush State)というのもあります。