心に残る名曲 その五十二  チャイコフスキーと日本人 その四 弦楽四重奏曲第1番ニ長調 作品11

弦楽四重奏曲第1番ニ長調 作品11は、ロシアの作曲家チャイコフスキー(Peter Ilyich Tchaikovsky)によって、1871年2月に作曲された弦楽四重奏曲です。第2楽章「アンダンテ・カンタービレ(Andante cantabile)」の冒頭は有名です。いろいろな編曲家によって用いられムード音楽でも使われるくらい有名で親しまれています。「アンダンテ・カンタービレ」はチャイコフスキーがウクライナ(Ukraine)で聴いた民謡に題材を得ているとされます。

TCHAIKOVSKY
Pyotr Ilyich Tchaikovsky
7 May 1840 ? 6 November 1893
Russian composer of the Romantic era
Credit: Peter Joslin / ArenaPAL

第1に続いて第2の旋律も有名です。そして第1の旋律に戻ります。弦楽四重奏とはヴァイオリンが二台、そしてビオラとチェロ加わります。アンダンテ(andante)とは速度記号のことで、ゆったりとした歩くくらいの速度で弾かれます。カンタービレ(cantabile)とは「流れるように」という意味の音楽記号です。五分ほどの短い曲ですが、しみじみとした感傷が残る曲です。
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心に残る名曲 その五十三 チャイコフスキーと日本人 その四 交響曲第6番 「悲愴」

1893年に書かれたチャイコフスキー(Tchaikovsky)の最後の交響曲です。初演は1893年10月28日、作曲者自身の指揮によって演奏されたとあります。本人が語るように、レクイエム(requiem)的な暗さで序奏部が始まります。序奏部は主部の第1主題に基づいたものである。やがて第1主題がヴィオラとチェロの合奏でなされ、両パートの奏者の半分のみでどこか弱弱しく演奏されます。第1楽章はアダージョで始まり、暗いため息の序奏が流れます。その後速度を増して第1主題の切迫感を印象付けると、ゆるやかなテンポになり、美しい第2主題が登場する。チャイコフスキーの作品の中でも特に親しまれている名旋律の一つです。その第1句は五音音階による民族的な響きで、甘美でやるせなく、また切ない印象を与えます。

「悲愴」と「悲壮」は意味が違うようです。「悲愴」「悲しくも痛ましい」、「悲壮」は「悲しくも勇ましい」となるようで、フランス語「Simphonie Pathétique」から日本語「悲愴」への翻訳も適当なような印象を受けます。
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ヨセミテ国立公園での休暇 その10 ラフティング(Rafting)

川下りはラフティング(Rafting)と呼ばれます。ヨセミテ峡谷を流れるのがMerced Riverです。誠に長閑した流れで時速3キロくらいでしょうか。ラフティングの醍醐味は、周りの巨大な岩壁が次々に現れ、景色が大きくかわることです。ハーフドーム(Half Dome)、カトリック岩壁(Cathedral Rocks)、エルカピタン(El Capitan)、グレーシャポイント(Glacier Point)などが眼前にひろがります。

2人から4人がゴムポートに乗り込みます。4歳以下の子どもは乗れません。急流下りとは違い、静かな流れにまかせてゆっくり下っていきます。ボートはそのままではぐるぐる回ってしまいます。ときどきパドルで方向を操作します。約2時間くらいかけて4マイルくらいを下ります。途中にはキャンピングの家族らが水遊びをしています。ラフティングはその年の降雪量によって水かさが異なります。時々、浅瀬に乗り上げてそこから脱出するのに悪戦苦闘します。6月末から8月末までの二月がシーズンとなります。

ヨセミテ国立公園での休暇 その9 John Muir Trail

ジョン・ミューアトレイル(John Muir Trail)の紹介です。ミューアの偉大な貢献に対して付けられた名称です。アメリカなどは人名が場所、公園、建物などに付けられるのが目だちます。それから多額の寄附した人々に感謝して付けられることが多いです。

ジョン・ミューアトレイルの長さは、 211マイル(338キロ)。 ヨセミテ峡谷から端を発して、シエラネバダ(Sierra Nevada)山脈のホイットニー山(Mt Whitney) に至る遊歩道です。ホイットニー山の標高は4,418メートルあります。全米の最高峰といわれています。

ヨセミテ峡谷からジョン・ミューアトレイルを歩くには、入山日の24週間前までに許可を得なければなりません。これも自然保護や山火事予防のためとなっています。

ホイットニー山への指定区域内への日帰り登山にも人数制限がありあります。1日100人と定められていて、5月から10月の入山予約はその年の2月に応募が締め切られ、4月に抽選が行われます。自然は、人間のまえには極めて脆弱なのだ、という精神があります。

それでもミューアは云います。
“Climb the mountains and get their good tidings.”
山に登ることは、良い知らせをいただくことだ

ヨセミテ国立公園での休暇 その7 自然保護の父–John Muir その2 ヨセミテ峡谷の形成

話題は少し前後します。掲載の順序を間違えました。

ミューアは、金属部品工場で事故にあい、殆ど失明しそうになります。幸い治癒してから次のように怪我を述懐しています。
God has to nearly kill us sometimes, to teach us lessons.
「神は時として人々を殺めようとするが、同時に教訓を与えてくれる」

仕事を辞するとミューアは徒歩でインディアナポリスからメキシコ湾(Gulf of Mexico)へ向かいます。さらにブラジルのアマゾン川流域の熱帯雨林を目指そうとするのですが、病のため断念しニューヨークへ行きます。そこから船でパナマ(Panama)へ、さらに船と汽車でサンフランシスコ(San Francisco)にやってきます。

サンフランシスコでのエピソードです。一人の大工と出会い「このごみごみした街から逃れるにはどの道をいけばよいか?」と尋ねます。「どこへ生きたいのか?」と大工が云います。ミューアは「どこか自然の豊かな所だ、」と答えたといいます。

それから数週間をかけて歩きながら、見事な大自然と出会うのです。1868年、ミューアは始めてヨセミテを訪れます。一週間の滞在だったのですが、翌年再び訪れて林業の仕事を見つけます。さらにシェーラネバダ(Sierra Nevada) 山脈のふもとにあるトールムネ平原(Tuolumne Meadows)にて、月30ドルで2,000頭余りの羊の放牧を手伝います。その間、多くのスケッチ画を残し、”My First Summer in the Sierra”という最初の本を書きます。間もなく、ヨセミテ峡谷のヨセミテ滝の側にあった製材所で定職に就きます。それ以来、ヨセミテ峡谷の自然との生活が始まります。

当時の著名な地質学者達は、ヨセミテ峡谷は地震によって形成されたと主張していたのですが、ミューアは氷河によって削られてできたと反論します。この主張はやがて認められるという有名なエピソードが残っています。
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ヨセミテ国立公園での休暇 その8 自然保護の父–John Muir その3 国立公園に格上げ

ジョン・ミューア(John Muir)はヨセミテの大自然に魅了されたばかりでなく、自然の驚異と人間の営みについての原稿や著作を発表していきます。New York Tribune, Scribner’s, Harper’sといった出版社が原稿を引き受け、自然や環境についての著作が世の中にでるのです。科学界からも注目され、彼の出版物は世間でも広く読まれるようになります。著作はミューアが自分の足で歩き観察したことが題材となっています。

こうして作家、植物学、地質学にも精通したミューアは、シエラネバダ山脈の地形が氷河作用に深く関わっていることを発表します。1848年から1855年代ゴールドラッシュ(Gold rush)の頃で、西部開拓の人口が急増します。人々は、豊かな森に豊富な水をたたえたヨセミテの地で森林伐採やダム建設を計画していきます。ミューアはこうした世相の流れに真っ向から異議を唱えていきます。

1890年、イエローストーン(Yellowstone)が唯一の国立公園でした。そのころヨセミテ公園は州立公園だったのです。ミューアは、国立公園への格上げの運動を始めます。彼の著作が多くの人々の賛同を得ます。さらに支援団体が議会に対して格上げのロビー活動をしていきます。

他方、森林業の団体は、保護する資源は無駄遣いになっているとして格上げに反対するのです。こうした反対活動にもかかわらず、ヨセミテとセコイア(Sequoia)は国立公園として指定され、自然保護の対象となっていきます。

1901年には、ミューアは自然保護団体の人々とルーズヴェルト(Theodore Roosevelt)大統領にホワイトハウスの執務室(Oval Office)で会い、自然保護地域の拡大を訴えるのです。1903年にルーズヴェルトとミューアはヨセミテ峡谷でキャンピングをし、一帯の148ミリオンエーカー(6029平方キロ)の森を保護の対象とします。ルーズヴェルト政権下では全米の国立公園の数が二倍になるのです。国立公園の理念を確立させたのがルーズヴェルトといわれている所以です。
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ヨセミテ国立公園での休暇 その6 自然保護の父–John Muir その1 ウィスコンシン大学での学び

アメリカのナチュラリスト(naturalist)の草分けとか「自然保護の父」と呼ばれたジョン・ミューア(John Muir)を数回にわたり紹介することにします。

ミューアは、1838年にスコットランド(Scotland)のダンバー(Dunbar)という街で生まれます。後年、1892年、彼がンフランシスコ市に創設した「Sierra Club」という自然保護団体の資料によりますと、ミューアは幼少から冒険好きでいつも野外で遊んでいたといわれます。海岸沿いにあった小さな学校で学びます。

1849年に家族と共に移民としてアメリカに渡ります。落ち着いたところはウィスコンシン(Wisconsin)の真ん中あたりにあるポーテージ(Portage)の近くにあるHickory Hill Farmという小さな街です。

やがてミューアはウィスコンシン大学に入り、哲学、科学、文学などに触れることになります。丁度、その時代の思想家、哲学者であり作家、詩人であったエマーソン(Ralph Emerson)やソーロ(Henry D. Thoreau)から深い感化を受けます。しかし、学びでの途中でウィスコンシン大学を退学し、インディアナポリス(Indianapolis)にあった金属部品工場で仕事に就きます。その間の経緯はよくわかりません。

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ヨセミテ国立公園での休暇 その5 ヨセミテ渓谷の滝

ヨセミテ峡谷(Yosemite Valley)は、狭い地域に多数の滝が集まっているのが特徴です。なぜか滝は人々を惹き付けます。生き物のような姿だからでしょうか。

この峡谷はもとはといえば氷河でした。すり鉢のような渓谷です。そのため急峻な崖、氷河の段差、氷河の本流に向かって落ち込んでいる支流の谷などが多いのです。雪解けの4月から6月にかけては滝が生まれる条件が揃っていて、観光客を楽しませてくれます。

Nevada Fall

ヨセミテ渓谷にある739メートルのヨセミテ滝(Yosemite Fall)は、北アメリカで最も高い滝です。二つの滝からなり、Upper Yosemite Fall は436メートル、Lower Yosemite Fallは98メートルとあります。同じくこの渓谷にあるリボン滝(Ribbon Fall)は、落差は491メートルです、水が一気に垂直に落下する距離においては最も高い滝です。エルキャピタンの西にあり、落ち口はヨセミテ滝よりも60m高い所にあります。しかしこの滝の寿命は短く、たいてい7月上旬までには干上がるといわれます。

ヨセミテ渓谷の中でも有名なのが、ワウォナ(Wawona)トンネルの東出口のトンネル・ビューポイント(Tunnel Viewpoint9から見えるブライダルベール滝(Bridalveil Fall)です。落差188メートル で、1年中水が流れています。そのほか公園内には一時的に生まれて消える滝が何百とあるとパンフレットにあります。幻の滝というわけです。

ヨセミテ渓谷に住んでいたのは、アワネーチー族(The Ahwahneechee)という原住民です。人々は滝を意味する”Cholock”という表現を使っていました。アワネーチー族の一つの伝承(Ahwahneechee Legend)があります。滝壺にはいくつかの悪霊が住んでいて、Polotiと呼んでいました。あるときアワネーチーの女が川に水を汲みに行ったとき、悪霊がいるという滝壺の辺りに入り一匹の蛇を捕まえます。その夜、女の住む家がつむじ風で滝壺に巻き込まれ、女と乳飲み子も呑み込まれたということです。
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ヨセミテ国立公園での休暇 その4 多様な動植物の生息地

7月17日にヨセミテ国立公園周辺で発生した大規模な山火事は、狩りをしていたハンターが火をおこし、燃え広がったのが原因と発表されています。通常なら、夏の観光シーズンで世界から多くの人が訪れ、にぎわいを見せるこの国立公園が今、ほぼ無人化しています。観光客にも業者にも大打撃です。山火事による煙が、公園内の観光名所を覆っています。

山火事の被害は、動植物にも及びます。ヨセミテ国立公園は、シエラネバダ(Sierra Nevada )山脈の中で最大規模の、最もまとまった動植物の生息地で、生物の多様性を育んでいると案内書にあります。

以下、案内書の記述です。公園は高度600メートルから4,000メートルの地域を含み、大きく分けて次の5つの植生帯から成っています。それぞれ低木・オーク林帯 (chaparral/oak woodland)、低地・低山植生帯 (lower montane)、高地・低山植生帯 (upper montane)、亜高山帯 (subalpine)、および高山帯 (alpine) です。カリフォルニア州には7,000種の植物が見られますが、そのうちの50パーセントがシエラネバダ山脈にあり、20パーセント以上がヨセミテ公園内に見られるというのです。

さらに、160種以上の稀少植物の植生地域があり、その形成にはヨセミテのたぐいまれな地質学的な形成過程と特異な土壌が寄与しているとされます。また、アメリカグマ(Eastern black bear)や、アライグマ(Raccoon)などの哺乳類が約100種類以上生息しています。

ヨセミテ国立公園には、四季を通じておおよそ262種の鳥が住み着いたり渡ってきます。ロビン(American robin)、キツツキ(acorn woodpecker)、 黒鳥(red-winged blackbird)、フクロウ(great gray owl)、川ガラス(American dipper)、アメリカゴガラ(mountain chickadee)、 ゴジュウカラ(red-breasted nuthatch)、、ステラーカケス(Steller’s jay)の鳴き声はうるさいほどです。「ジェイ、ジェイ」と鳴くのでこの名がついています。ぴんと張った鶏冠が特徴です。別名、ブルージェイ(Blue jay)とも呼ばれます。

ヨセミテ国立公園での休暇 その3 「Giant Sequoias」

ヨセミテ国立公園は、合衆国国立公園局(National Park Service, NPS)が管理しています。Park Rangerというつばの広い帽子をかぶったガイドが働いているのをご存知の方が多いでしょう。私の家族は5日間過ごしたのですが、ほとんどの観光客は日帰りです。自動車で公園内に入るには一台20ドルの入園料を払います。一度支払うとその日だけですが、何度でも出入りできます。そして日帰の人たちは、車で簡単に行けるヨセミテ渓谷の主要ポイントだけを回るようです。

ヨセミテ渓谷では、駐車場所を確保するのは非常に難しいので、年間通して無料のシャトルバスが走っています。20分毎の内回りと外回りのバスは結構混んでいます。

ヨセミテ公園は1890年、イエローストーン国立公園(Yellowstone National Park)に次いでアメリカで二番目の国立公園に指定されます。1856年にヨセミテを訪れ住みついていたのが、ガレン・クラーク(Galen Clark) という人です。彼は住んでいたワオナ(Wawona)の近くでジャイアント・セコイア(Giant Sequoias)の森を発見、その後50年以上の人生すべてを熱心な保護活動に費やした人とあります。

セコイアはヒノキ科(またはスギ科)の樹です。平均的な樹高は80メートル、胸高直径5メートル、樹齢は400年から1300年ほどで、2200年のものが現在知られる最高齢とされています。厚さ30センチに及ぶ樹皮や芯材の色からレッドウッド(Redwood)とも呼ばれています。この樹皮と木質部はタンニンを多く含み、病原菌や白アリの侵入を拒んでいます。とても良い香りがします。

ヨセミテ国立公園での休暇 その2 「El Capitan」

MacintoshのOS Xは「El Capitan」 と呼ばれています。アップルが開発したOS Xシリーズの12番目のものです。実はこの名称は、ヨセミテ国立公園の代表的な花崗岩の巨大な一枚岩からつけられています。朝日があたるこの一枚岩の壁紙が画面を楽しませてくれています。

「El Capitan」 とはスペイン語「岩の族長」からとった名称です。この一枚岩は、ヨセミテ渓谷の北側にそそり立ち、渓谷の谷床からは約1,000メートルあります。世界一の大きさで、ロッククライミングの名所として知られています。登頂には、平均4日から6日がかかります。世界のより難しい山のクライミングに向けた格好の練習場所となっているとあります。

他に、花崗岩ドームとして知られるのがハーフドーム(Half Dome)です。渓谷の底から約1,470メートル、25キロから30キロの道のりで、健脚の人でも往復10時間から12時間位かかります。「午後3時まで頂上に達しないときは引き返しなさい」とパンフレットに書かれています。

「El Capitan」 を谷底から遠望すると豆粒のようなクライマーが登っています。ロッククライミングをしなくても、1日がかりで頂上まで歩いて行けるトレイルも整備されています。わたしたちは、あちこちのトレイルを歩きましたが、「El Capitan」 までは挑戦しませんでした。孫達は「El Capitan」 に登りたかったようでした。

ヨセミテ国立公園での休暇 その1 大規模な山火事が

「心に残る名曲」は少しお休みします。

今、カリフォルニア州の東側に広がるヨセミテ国立公園(Yosemite National Park)は、再び大規模な山火事に見舞われています。私は家族とでヨセミテ公園で一週間の休暇を楽しみました。山火事が発生する前の7月1日から6日の間です。この時期を選んだのは、ボストンにいる長男で、集まった13名の一族が生活するロッジを予約できたからです。ここで3食の食事を作り長閑と過ごすことができました。

ヨセミテ公園に行くにはサンフランシスコで車で4時間、ロサンゼルスからは約6時間のところにあります。マリポサ郡(Mariposa)及びトゥオルミ郡(Tuolumne)にある自然保護を目的とした国立公園です。ヨセミテ公園は、スペイン語で「雪の山脈」と呼ばれるシエラネバダ山脈(Sierra Nevada)の中央部に位置し、公園の面積は3,081平方キロメートル。ちなみに日本で最も広い大雪山国立公園は2,268平方キロメートルです。Yosemiteとはネイティブ語で「灰色熊」という意味だそうです。ここには年間350万人以上が訪れるのですが、そのほとんどが集まるのは、公園全体の1パーセントにも満たないヨセミテ渓谷(Yosemite Valley)です。私たちが泊まったロッジから車で一時間のところです。

1984年に世界遺産に登録され、急峻な白い花崗岩の絶壁、数百メートも流れ落ちる多くの巨大な滝、谷間を流れる澄んで冷たい大小の川、ジャイアントセコイア(Giant Sequoias)の巨木の林、生物の多様性によって、世界的に知られることとなります。公園全体の約95パーセントは原生地域に指定されています。

心に残る名曲 その五十 チャイコフスキーと日本人 その二 ロマノフ王朝

チャイコフスキーは、1860年代の革命思想の高揚の時代と、それに続く反動的な悲観的時代に生きた作曲家です。音楽院時代は、ルビンシュタインの家に寄宿し、ルビンシュタインが主宰する芸術家サークルを中心に、作家、詩人、音楽家、俳優、学者らと知遇をえます。彼の作曲の出版を引き受けたのがロシア最大のクラシック音楽の楽譜出版社ユルゲンソン(Pyotr Yurgenson)との出会いも幸いしたといわれます。

交響曲第4番と5番は「宿命」の主題に貫かれながらも、民族的な楽曲の喜びに達したといわれます。第4番の第一楽章(first movement)は暗さのなかにロシアの将来を暗示するかのような劇的が印象を与えてくれます。

晩年のチャイコフスキーは次々と作品を残します。1887年の組曲第4番、1888年の交響曲第4番、1889年の眠れる森の美女、1890年のオペラ、スペードの女王、1892年のくるみ割り人形、1893年の交響曲第6番「悲愴」などです。ロシア革命がひたひたと迫る頃です。

心に残る名曲 その四十九 チャイコフスキーと日本人 その一 音楽院時代

今回はロシアの作曲家チャイコフスキー(Pyotr Tchaikovsky)の話題です。チャイコフスキーといえば「白鳥の湖」とか「くるみ割り人形」、「眠れる森の美女」などのバレー音楽が知られています。明るく軽やかな印象を受ける曲です。それが日本人にはチャイコフスキーが親しみやすい作曲家として定着している理由でしょう。しかし、チャイコフスキーの曲想はバレー音楽のように華やかではありません。実は絶望と歓喜というロシア独特の風土によって揺れ動いた作曲家なのです。

小さいときから家庭教師について音楽を学び、ピアノと音楽理論に触れます。母親も美しい声の持ち主で、チャイコフスキーもピアノでの即興演奏を試みていたといわれます。

1852年にチャイコフスキーは、ロシア帝国の首都であったペテルスブルグ(St. Petersburg)の法律学校で学びます。卒業後は法務省の九等文官となります。1861年にロシア音楽協会が新設した音楽学校に第一期生となり、職業音楽家の道を歩み始めます。1863年に音楽学校は音楽院(Moscow Conservatory)として改組され、音楽院の院長はルービンシュタイン(Anton Rubinstein)というピアニストで作曲家でありました。

ルービンシュタインらからは管弦楽法を学びます。その後音楽院の教師となりハンガリーの作曲家リスト(Liszt Ferenc)やフランスのベルリオーズ(Louis Berlioz)などの影響を受け、大きな楽器編成の曲を作り始めます。しかし、あまりに異端的な技法であるとして、音楽院の教師らからは不評であったようです。まだ音楽院ではそうした技法は許されていなかったからです。

心に残る名曲 その四十八 「Blockflöte」

楽器の話題を取り上げます。ブロックフレーテ(Blockflöte)、フルート(Flute)などの呼び名の管楽器です。小学生も学校で学んでいるリコーダ(Recorder)のことです。私も下手ですが、リコーダを吹きます。

リコーダという楽器は西欧諸国、特にルネッサンスからほぼ18世紀中期まで重要な位置を占めていました。フルートと比較して違う点は、全面に7つ、背面に1つの指孔数があることです。

私の使うリコーダの管材はローズウッド(rosewood)です。他に楓、ツゲが多く用いられます。梨、杏、桜、りんご、さらにポプラなど緻密で硬質の木材も用いられます。バロック以降は、象牙、ガラス、べっこう、大理石で作られたリコーダもあります。

一般のリコーダは、バロック型といって全体を3分して作られたものです。大小さまざまなリコーダがありますが、大雑把には4種類といわれます。ソプラノ(デカント)、アルト、テナー、そしてベースです。楽譜ですが、テナー以上は高音部記号を、ベース以下は低音部記号を使います。持ち方と運指ですが、左手が上方、右手が下方と固定されています。

リコーダにはタンギング(double and triple tonging)という技術があります。「ティキティキ、、」という具合に文字通り舌の使い方のことです。これは舌と指の使い方により、いろいろな音を作る「アーティキュレーション(articulation)」といわれます。リコーダは強弱や音質変化の幅が限られています。従って、アーティキュレーションのニュアンスは他の楽器に以上に重要な意味を持ちます。

 

成田滋のアバター

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心に残る名曲 その四十七 「Sheep May Safely Graze」

このバッ(J.S. Bach)の作品は、「心に残る名曲 その十七」でも取り上げました。「楽しき狩りこそわが悦び BWV208」の中の一曲がこの作品で、英語のタイトルとして「Sheep May Safely Graze」とつけられ”羊は憩いて草を食み”と訳されています。もともとこの曲の作詞家はSalomon Franckによって書かれました。ソプラノが詠唱(aria)したり、オーケストラでも演奏されたりします。「Graze」とは味わい深い単語です。

「Jesu, Joy of Man’s Desiring BWV 147」と同様に結婚式などの祝いの宴で使われます。もとはヴァイセンフェルス公であるクリスティアン(Christian von Sachsen-Weissenfels)の誕生を祝う曲としてバッハは作曲したといわれます。

ヨーロッパの文化に羊はすっかり溶け込んだ家畜です。その出典とは旧訳聖書詩編 23:1(Psalm)にあります。ダビデの賛歌といわれ、「主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われる」と記されます。​主は羊飼い、イスラエル​人​は​​羊​の​群れということです。ヨハネによる福音書10:11には、「わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる 」とあります。

心に残る名曲 その四十六 ヨハネス・ブラームス(Johannes Brahms) その二  民謡的色彩

ブラームスの声楽曲はもとより、器楽曲の多くの主題やモチーフの中に民謡的な性格が見いだされると指摘されています。例えばヴァイオリンソナタ第一番ト長調と第二番イ長調に、自作の「雨の歌」、「歌の調べのように」が転用されています。管弦楽曲や室内楽曲が複雑で精緻な構造を持っているにも関わらず、きわめて自然で親しみやすいのは、このような主題やモチーフの有する民謡的、歌曲風な性格に由来しています。

AUSTRIA – JUNE 23: Johannes Brahms (1833-1897) and his wife, Adele Strauss (1856-1930) eating breakfast in Bad Ischl, Austria. Vienna, Haydn-Museum (Photo by DeAgostini/Getty Images)

ブラームスの作品の特徴ですが、劇音楽や交響詩が少ないこと、器楽曲と声楽曲が同じ程度なのですが器楽曲では室内楽が圧倒的に多いことです。管弦楽曲でも伝統的な形式を重んじ、重厚で壮大かつ精緻な印象を受けます。

ブラームスの民謡との関わりです。フランス革命とナポレオン(Napoleon Bonaparte)の出現による各国での民族意識の高揚と自国の文化遺産の再発見がその理由といえそうです。ナポレオンの勢力はイギリス・スウェーデンを除くヨーロッパ全土を制圧します。イタリア・ドイツ西南部諸国・ポーランドはフランス帝国の属国に、そしてドイツ系の残る二大国、オーストリア・プロイセンも従属的な同盟国となります。独裁や圧政から独立を獲得するためには、こうした民族意識は欠かせない要因です。

心に残る名曲 その四十五 ヨハネス・ブラームス(Johannes Brahms) その一ドイツ民謡の精神的風土

ブラームス(Johannes Brahms)といえば、我が国でも非常に人気の高いドイツの作曲家です。その理由は、作品の楽風にあるような気がします。ソナタ、変奏曲、室内楽曲、交響曲などの古典的な形式を蘇生し、復活しようとしたといわれます。

Johannes Brahms
Capriccio, Op. 76, no. 1
Music Deposit 17 (formerly known as Ma21 B73 op.76 no.1)
Page 4
Gilmore Music Library, Yale University

ブラームスは父からヴァイオリンとチェロの手ほどどきを受け、私立学校にはいります。そこで聖書を愛読したといわれます。やがてピアノも学び、バッハやベートーウェンのドイツ古典主義の精神を学んだようです。

中世の「教会旋律」、「ネーデルランド(Netherland)楽派のカノン(Canon)」、「パレストリーナ様式(Palestrina)」、「フーガ(Fuga)」、「パッサカリア’Passacalia)」、「無伴奏モテット(Motteo)」、「コラール(Chorale)」など、遠く中世やルネッサンス時代にまでさかのぼる遺産を復活させた作曲家です。

教会旋律とはグレゴリア聖歌の分類に使われる終止音によって四つに分類されます。終止音から高く上がり下がりします。カノンとは、複数の声部がおなじ旋律を異なる時点からそれぞれ演奏されます。「主よ、人の望の喜びよ」とかパッヘルベル(Pachelbel)のカノンにみられる様式です。パレストリーナ様式とは、滑らかな旋律の流れ、豊かな和音の連続による完璧な和声、厳格な対位法、などルネッサンス音楽の様式のことです。フーガとは模倣対位法といわれ遁走曲といわれます。パッサカリアはスペインとイタリアで盛んになった遅い三拍子の舞曲のことです。モテットとは声楽曲のジャンルの一つです。中世末からルネッサンス音楽にかけて発達しました。

心に残る名曲 その四十三 「エグモント序曲」 Egmont Overture

ベートーヴェン(Ludlich van Beethoven)作曲の劇付随音楽です。現在では序曲(Overture)のみが単独で演奏されることがほとんどです。「エグモント(Egmont )」とはゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)の戯曲「エグモント」を題材としていて、16世紀のフランドルの軍人で政治家であったラモラール・ファン・エフモント(Lamoraal van Egmont)のことといわれます。

ネーデルラント(Netherland)諸州がスペインに対して反乱を起こしたのが八十年戦争といわれます。その指導者がエフモントでした。これをきっかけに後にオランダが誕生したため、オランダ独立戦争と呼ばれています。なおフランドル(Flandern)とは今のオランダの南部、ベルギー西部、そしてフランス西部地域を指します。

エフモントが圧政に対して力強く叛旗を翻したことにより、やがて逮捕され死刑に処せられます。その男の自己犠牲と英雄的な行為に基づいてベートーヴェンが作曲したといわれます。荘厳さ、力強さ、雄渾多感さなど「皇帝」や「英雄」を想起させるような旋律も登場します。

心に残る名曲 その四十三 シューベルトと「シューベルティアーデ(Schubertiade) 」

シューベルト(Franz Peter Schubert)は、早くから楽才を示し、11歳のとき王室礼拝堂の少年聖歌隊に採用されます。その後国立神学校で音楽教育を受けます。その頃から演奏や作曲に腕をふるいます。17歳で交響曲第一番ニ長調を作曲し、1814年には「野薔薇」、「魔王」、「たゆみなき愛」、等のドイツリート(Lied)を作ります。「美しき水車小屋の娘」、ピアノ独奏曲「楽興の時」など、良く歌う旋律、リズム、豊かな音色や鮮やかな転調などによって特色づけられている交響曲、室内楽曲、即興曲やピアノの作品を次々と作ります。

1820年頃には、彼の作品を聴くための芸術的なくつろいだ集まりができます。これはシューベルティアーデ(Schubertiade)と呼ばれました。音楽協会の名誉会員に推挙され、その返礼に作ったのが「未完成交響曲」といわれます。第二楽章で終わる有名な曲です。

確かにシューベルトは歌曲を始め交響曲などをたくさん作ったのですが、教会音楽の作曲家としても忘れてはならないことです。それは教育を受けた神学校においてカトリシズム(Catholicism)の影響を受けたからだろうと容易に考えられます。ミサ曲を6曲も作っています。最初の4曲は、明るい叙情、流麗な旋律で古典派音楽の伝統を踏まえた形式を備えています。ミサ曲第二番のト長調(Mass No. 2 in G Major) は、壮麗さや輝かしさに満ちています。ソプラノの独唱も交じったキリエ(Kyrie)、グローリア(Gloria)、クレド(Credo)、サンクトス(Sanctus)、ベネディクトス(Benedictus)、アニュデイ(Agnus Dei)が合唱と共に響きます。

心に残る名曲 その四十二 「ロザムンデ序曲」

中学や高校の音楽室にはなぜか、年代順に歴代の有名な作曲家の絵がかかっていました。シューベルト(Franz Peter Schubert)もそうです。シューベルトは各分野に名曲を残しますが、とりわけドイツ歌曲(Lied)において功績が大きいので「歌曲の王」と呼ばれています。短命の作曲家たちに比べても最も短命でその一生は31年。その間、シューベルトは600曲以上の歌曲作ったといわれます。「野薔薇」、「冬の旅」、「魔王」はなんども歌い、「鱒」はよく聞かされました。ピアノ五重奏曲にも「鱒」というのがあります。

「キプロスの女王ロザムンデ』(Rosamunde)作品26はシューベルトが同名のロマン劇のために作曲した劇付随音楽とあります。音楽事典によりますと、劇付随音楽とは劇の台本や進行に合わせ作曲された音楽だそうです。劇や芝居を盛り上げ、様々な効果を作り出すために創作され、序曲、間奏曲、挿入曲などから成るとされます。

ロザムンデ序曲は、アンダンテの序奏と「アレグロ・ヴィヴァーチェ(Allegro vivace)」という楽曲のハ長調の主部からなり、序奏の部分は少々劇的に暗いのですが、一変して叙情的でロマン的な旋律の美しさへと移ります。アレグロ・ヴィヴァーチェとは「生き生きと」の意味で,快活で速く明確なアクセントをもつ旋律のことです。主部はソナタ形式による単純な形をとっていますが、親しみやすい楽想を有しています。ロマン的とは「ロマンティックな音楽」とでも云えます。やわらかく夢見がちな雰囲気を連想させるような音楽という意味で使われています。

心に残る名曲 その四十一 「ピアノ協奏曲第五番 変ホ長調ー皇帝」

ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)の名曲の一つです。骨太で男性的な雰囲気のする旋律で横溢しています。なるほどこの曲には「皇帝」の通称がついています。皇帝とはいったい誰なのかが気になります。まさかナポレオン(Napoleon Bonaparte)ではないでしょうが、、当時のオーストリア皇帝フランツ二世(Franz II)かもしれません。その時代はフランスとオーストリア帝国、ハプスブルク帝国らが盛んに覇権争いをしていました。

ベートーヴェンはバッハ(Johan Sebastian Bach)等と並んで音楽史上幾多の名曲を作ったことで知られています。「楽聖」という称号のようなものが与えられています。晩年は耳が遠くなったということを小学校の音楽の時間にきいたことがあります。

この協奏曲は、全3楽章構成となっており、第2楽章と第3楽章は続けて演奏されます。全曲にわたって雄渾壮大とか威風堂々といった旋律が続きます。管弦楽とピアノのまさに競演が最後まで続きます。ときに第二楽章では幽玄な風情の旋律を弦がおごそかに奏でるのも印象的です。第三楽章はソナタ形式で、同じ主題が何度も弾かれ、ロンド形式の風体を示しています。快活なリズムで始まり、最後はティンパニが同音で伴奏する中で、ピアノが静まっていきます。

心に残る名曲 その四十 「クラリネット協奏曲 イ長調」  K.622

モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart)が協奏曲のジャンルで残した最後の作品であり、クラリネットのための唯一の協奏曲といわれています。復習ですが協奏曲とは別名コンチェルト(Concerto)、管弦楽団を従えて独奏するような形式です。管弦楽は黒子のような存在なのですが、この協奏曲を聴いているまるでクラリネットと競争するかのような、掛け合いのようなすばらしい協演を聴かせてくれます。

第一楽章はアレグロ(allegro)とあります。音楽用語ですが、イタリア語本来の意味は「陽気な、快活な」だそうですが、まさにそんな感じのする楽章です。歌劇「魔笛」の一部を編曲したような快活な楽章です。色彩豊かな旋律で満ちています。

第二楽章は、アダージョ(adagio)、つまり遅い速度で書かれた楽章です。なんともやるせないというか、切ないというか、なんともとろけるクリームが口のなかに広がるみたいな感じです。

第三楽章はロンド(rondo)とあります。踊り手がまるい輪をつくって踊るかのような雰囲気です。ロンドとは舞踏歌とか輪舞曲ともいわれています。同じ旋律を幾度も繰り返す形式の楽章です。なまめかしく色っぽいさま、男の気をそそるさまを「コケティッシュ(coquetry)」というのだそうですが、この楽章はそんな雰囲気が横溢しています。

心に残る名曲 その三十九  「弦楽四重奏曲第ヘ長調 アメリカ」 

1893年に作曲された弦楽四重奏曲です。ヴァイオリン二台、ヴィオラ、そしてチェロで演奏されます。この四重奏曲は、後期ロマン派におけるチェコ(Czech)の作曲家で国民楽派を代表する作曲家であるドヴォルザーク(Antonin Dvorak)がアメリカ滞在中に作曲した作品で、彼の室内楽作品中、最も親しまれている作品の一つといわれます。ヴィオラの響きが特に心地良く伝わります。

 

 

 

 

 

各楽章の特徴を記してみます。

第1楽章 Allegro ma non troppo
ヘ長調のソナタ形式(sonata)です。ソナタ形式とは、二つの主題が交互に再現される楽曲の形式のことです。第1主題は五音音階によるどこか懐かしい雰囲気の旋律で、ヴィオラにより演奏されます。第2主題はイ長調で第1ヴァイオリンが演奏します。

第2楽章 Lento
ニ短調で三部形式の感動的な楽章となっています。Lentoとは、ゆるやかにゆっくりという形式のことです。ヴァイオリンが黒人霊歌風の歌を切々と歌い、チェロがこれを受け継ぎます。中間部はボヘミア(Bohemia)の民謡風の音楽となり、郷愁を誘うようです。

第3楽章 Molto vivace
ヘ長調のスケルツォ楽章(scherzo)です。スケルツォとは、イタリア語で「冗談」を意味し特定の形式や拍子テンポに束縛されないという特徴があります。中間部はヘ短調で、主部から派生した主題を用いて構成されています。

第4楽章 Vivace ma non troppo
ヘ長調のロンド。ロンド(rondo)とは同じ旋律である旋律を何度も繰り返す形式のことです。主題は快活な性格の主題だが、第2副主題はこれとは対照的にコラール(Chorale)風なもので、美しく対比されています。

心に残る名曲 その四十 「弦楽四重奏曲第ヘ長調 アメリカ」 

心に残る名曲 その四十 「弦楽四重奏曲第ヘ長調 アメリカ」

1893年に作曲された弦楽四重奏曲です。ヴァイオリン二台、ヴィオラ、そしてチェロで演奏されます。この四重奏曲は、後期ロマン派におけるチェコ(Czech)の作曲家で国民楽派を代表する作曲家であるドヴォルザーク(Antonin Dvorak)がアメリカ滞在中に作曲した作品で、彼の室内楽作品中最も親しまれている作品の一つといわれます。ヴィオラの響きが特に心地良く伝わります。各楽章の特徴を記してみます。

第1楽章 Allegro ma non troppo
ヘ長調のソナタ形式です。ソナタ形式とは、二つの主題が交互に再現される楽曲の形式のことです。第1主題は五音音階によるどこか懐かしい雰囲気の旋律で、ヴィオラにより演奏されます。第2主題はイ長調で第1ヴァイオリンが演奏します。

第2楽章 Lento
ニ短調で三部形式の感動的な楽章となっています。Lentoとは、ゆるやかにゆっくりという形式のことです。ヴァイオリンが黒人霊歌風の歌を切々と歌い、チェロがこれを受け継ぎます。中間部はボヘミア(Bohemia)の民謡風の音楽となり、郷愁を誘うようです。

第3楽章 Molto vivace
ヘ長調のスケルツォ楽章です。スケルツォとは、イタリア語で「冗談」を意味し特定の形式や拍子テンポに束縛されないという特徴があります。中間部はヘ短調で、主部から派生した主題を用いて構成されています。

第4楽章 Vivace ma non troppo
ヘ長調のロンド。ロンドとは同じ旋律である旋律を何度も繰り返す形式のことです。主題は快活な性格の主題だが、第2副主題はこれとは対照的にコラール(Chorale)風なもので、美しく対比されています。

第3楽章の主題は、ドヴォルザークがチェコからの移民が多く住んでいたアイオワ州スピルヴィル(Spillville, Iowa)を訪ねたときに、森で聴いた鳥のさえずりを下敷きとしたとされています。Spillvilleの街のサイトへ行きますと、ドヴォルザーク一色の説明や写真がでています。

 

心に残る名曲 その三十八 「魔弾の射手」

ウェーバ(Carl Maria von Weber)といえば、我が国では「魔弾の射手(Der Freischütz)」が最も親しまれているように思われます。ドイツの民話を題材とし、魔の潜む深い森や、封建時代の素朴な中にも良き生活を描いたこの作品序曲は特に有名です。その冒頭部分は讃美歌285番「主よ御手もて引かせ給え」として歌われています。

1813年にプラハ歌劇場の芸術監督に就任し、オペラの改革に尽力し、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart)の「ドン・ジョヴァンニ(Don Giovanni)」上演以後、低落していた歌劇を再興させたといわれます。

1817年には、ザクセン(Saxony)の宮廷楽長に任命され、ドレスデン(Dresden)歌劇場に移ります。当時宮廷ではイタリア・オペラが主流であったが、ウェーバは自身のドイツ・オペラをひっさげて登場します。結果は成功し、ドイツ・オペラを根付かせることに成功します。作曲家だけでなく、当時最高のピアニストとしてヨーロッパ各地で演奏を行ったとあります。

魔弾の射手が初演されたのは1821年。ベルリンで大反響を呼び、ドイツ国民オペラの金字塔を打ち立てのがこの曲です。後に大作曲家となる多くの人物、例えばワーグナー(Richard Wagner)やベルリオーズ(Louis Hector Berlioz)がこの魔弾の射手を観て作曲家を志したとも言われます。

ともあれ、11歳で初めてオペラを作曲し、魔弾の射手の他に「オベロン(Oberon)」などのオペラのほか、「舞踏への勧誘(Aufforderung zum Tanz)」などの器楽曲も残しています。この曲も日本でも広く演奏されています。指揮棒を初めて用いた作曲家としても知られています。

心に残る名曲 その三十七 「フィンランディア」 Finlandia

フィンランド(Finland)の別名は「スオミ(Suomi)」です。Suomiとはフィンランド語とかフィンランド民族を表す語です。この国の首都はヘルシンキ(Helsinki)。戦後日本が最初のオリンピックに出場したのが1952年にヘルシンキで開かれた第十五回オリンピックです。私がヨーロッパへ最初に行った国もフィンランドでした。

フィンランドは東部のロシアとの国境地方において絶え間ない戦乱に悩まされてきました。17世紀にロシア帝国のピュートル(Pyotr)大帝はフィンランドを幾度もせめたて、女帝のエリザベート(Elizabeth)はロシアの宗主国のもとにフィンランドを別個の国家としたりします。次いでロシア皇帝アレクサンドル1世(Aleksandr I)はフィンランドに侵入し併合します。やがてロシアの宥和政策によりフィンランドは自治を有する大公国として憲法や国会を持つことが許され、フィンランドの民族意識が高まっていきます。

民族意識の高まりを広げた代表はエリアス・リョンロート(Elias Lennrot)の編集する偉大な民族叙事詩「カレワラ(Kalevala)」で、この公刊によって民族精神が高揚されていきます。「Kalevala」とは「英雄の地」の意味です。民間説話からまとめられ、フィンランド語の文学のうち最も重要なもののうちの一つとされます。1917年のロシア帝国からの独立に導くのに多大な刺激を与えた文学作品といわれています。

フィンランドを代表する作曲家といえばシベリウス(Jean Sibelius)でしょう。1892年にカレワラに基づくクレルボ交響曲(Kullervo)や有名な交響詩フィンランディア(Finlandia)を作曲したことで知られています。特にフィンランディアは8曲からなる管弦楽組曲で、その最終曲を改稿して独立させたものが「フィンランドは目覚める」という曲です。フィンランドの国歌は「我等の地」ですが、それに次ぐ第二の愛国歌として広く歌われています。別名は「フィンランディア賛歌(Finlandia-hymni)」とも呼ばれ、文字通り讃美歌としても世界中で歌われています。

シベリウスの作風は、チャイコフスキー(Pyotr Tchaikovsky)、グリーク(Edvard Grieg)、ドヴォルザーク(Antonín Dvorak)などの国民楽派の影響を受けたといわれます。この辺りの事情は私には勉強不足でよく理解しておりません。

心に残る名曲 その三十六 Robert Shaw ChoraleとChanticleerとNorman Luboff Choir

アメリカの合唱団の話題です。ロバート・ショウ合唱団(Robert Shaw Chorale)は、1948年から1965年にアメリカを中心に活躍した男声合唱団です。合唱団が歌うレパートリーはバッハから民謡、そしてブロードウエイ(Broadway)で歌われるミュージカルに至る幅広い曲目です。アメリカ国務省(Department of State)主催の文化交流プログラムによって、ヨーロッパ、中東、南アメリカ、ソビエトなどを演奏旅行しています。

合唱団のメンバーの多くはニューヨークにある世界で最も優秀な音楽大学の中の1つ、ジュリアード音楽院 (Juilliard School)や他の音楽大学の卒業生から選ばれました。統一された声量、パート間の調和、優雅な音質や旋律など絶妙なハーモニーで知られました。

次ぎに、チャンティクリア(Chanticleer)というグループです。サンフランシスコに拠点を置く男声アンサンブル(ensemble)グループです。まるで「声楽のオーケストラ(An Orchestra of Voices)」と呼ばれるほど、深く太い和声の響きにほれぼれとします。

1978年に創立され、12名のカウンターテナー(countertenor)からバス(bass)で構成され、中世ルネッサンスの音楽から宗教曲、民謡まで幅広いレパートリーを持つことで知られています。歌う形式は、ほとんどア・カペラ(a cappella)という伴奏をつけない歌い方です。2008年には、Musical Americaという雑誌で、アメリカで最高のアンサンブルグループとして評価されます。

次ぎにノーマン・ルボフ合唱団(Norman Luboff Choir)の紹介です。ルボフはシカゴ生まれ。やがてノーマン・ルボフ合唱団を創立しその指揮者、編曲家とし活躍します。主に1950年代から1970年代にアメリカを中心に、やがて世界中で演奏会を催します。75のアルバムを出版しますが特にクリスマス歌特集は有名で、1961年にはグラミー賞(Grammy Award)を受賞します。

心に残る名曲 その三十五 「ウ・ボイ(U Boj, U Boj!)」

クロアチア(Croatia)の愛国歌といわれる勇壮な男声合唱曲です。意味は「戦へ、戦へ」。ザイツ (Ivan Zajc) によって1866年に書かれました。作詞はマルコヴィッチ (Franjo Markovic)で、1876年に作曲した歌劇の終幕の一節としても歌われてきました。

クロアチアは、東ヨーロッパ、バルカン(Balkans)半島に位置する共和制の国です。この半島でクロアチアは、西にスロベニア(Slovenia)、北にハンガリー(Hungary)、東にボスニア・ヘルツェゴビナ(Bosnia and Herzegovina)、セルビア(Serbia)と国境を接しています。南はアドリア海(Adriatic Sea)に面し対岸はイタリア、東にモンテネグロ(Montenegro)と接しています。首都はザグレブ(Zagreb)です。

ヨーロッパの火薬庫と呼ばれた、第一次世界大戦勃発の原因も財政問題と関連したバルカン半島の民族問題にありました。1990年代以降にユーゴスラビア(Jugoslavija)紛争が発生します。その端緒、1991年にクロアチアはそれまで連邦を構成していたユーゴスラビア社会主義連邦共和国から独立します。しかし、民族紛争は2001年まで続きます。

ブリタニカ大百科事典によりますと、1991年にクロアチアがユーゴスラビア社会主義連邦共和国から独立する前は、セルビア語(Serbia)と同一の言語だったようです。現在のクロアチア語ではもっぱらラテン文字を使用しています。

前置きが長くなりましたが、「ウ・ボイ(U Boj, u boj!)」はザイツが作曲した歌劇にでてきます。1566年頃にハプスブルク帝国(Habsburgisches Reich)に攻め入るトルコ軍と要塞を守るクロアチア太守をめぐるもので,最後に彼と兵士たちがトルコ軍めがけて突撃する場面で歌われたようです。

心に残る名曲 その三十四  「My Old Kentucky Home」

「アメリカ音楽の父」とか「19世紀の最も優れたソングライター」と呼ばれるのがスティーブン・フォスタ(Stephen Foster)です。「スティーブン」という名前は「ステファン」とか「ステパノ」とも呼ばれます。キリスト教会最初の殉教者がステパノで、石打ちの刑にあったことが使徒行伝6章8節にその記述があります。ちょっとした余談です。

フォスタはペンシルヴァニア州(Pennsylvania)のアテネ(Athens)という小さな町で生まれます。このあたりにはヨーロッパからの移民が定住し、イタリア、スコットランド、アイルランド、ドイツ系の人々がいてフォスタは彼らの歌を聴く機会に恵まれたといわれます。

フォスタが最初に作曲したのは14歳のときです。その曲名は「Tioga Waltz)」、そして発表した曲集は「Open thy Lattic Love」というものです。1844年のことです。フォスタは正式な音楽教育を受けていません。それでもクラリネットやヴァイオリン、ギター、フルート、ピアノなどを弾いていました。作曲活動は、ドイツからきたHenry Kleberという楽譜購入者に師事しています。初期の作品は酒場で歌うような歌をつくります。「Mr & Mrs Brown」というのがそうです。さらにフォスタは教会讃美歌も書きます。「Seek and ye shall find」、「All around is bright and fair, while we work for Jesus」、「Blame not those who weap and sigh」といった曲です。南北戦争に関する曲も書いています。「The Pure, the Bright, the Beautiful」、「Over the River」、「Give Us This Day」、「My wife is a most knowing woman」といった曲です。

フォスタは通常手書きした楽譜をそのまま出版社に渡したようです。出版社はそれをフォスタに戻すとか図書館へ寄贈するのではなく、売り渡してしまったようです。手書きの楽譜は個人のコレクションになったりします。幸いにいくつかの楽譜はアメリカ議会図書館(Library of Congress)に保存されているということです。

一般にフォスタの曲の歌詞や旋律は出版社や演奏家によってアレンジされています。例えば「My Old Kentucky Home」はケンタッキーの州歌となります。「Old Folks at Home」はフロリダ州の歌ともなりました。フォスタ記念財団はこうした変更を承認してきました。フォスタの歌がこうしてさらに広まることになりました。

心に残る名曲 その三十三  「ラプソディー・イン・ブルー」 (Rhapsody in Blue)

ユダヤ系ロシア移民の息子として、ニューヨークのブルックリン(Brooklyn)に生まれたジョージ・ガーシュイン(George Gershwin)は、ポピュラー音楽・クラシック音楽の両面で活躍しアメリカ音楽を作り上げた作曲家といわれます。

独学でオーケストレーションを学び、いくつかの管弦楽作品を残します。例えば1928年に発表した「パリのアメリカ人」(An American in Paris)、黒人コミュニティの風俗をリアルに描いたフォーク・オペラ の「ポーギーとベス」( Porgy and Bess)などです。この曲は全3幕のオペラです。有名なアリア「サマータイム(Summer Time)」がこの中で歌われます。このオペラは初演時は反響は得られなかったのですが、後日高く評価されることになります。

「ラプソディー・イン・ブルー」 はピアノ協奏曲といってよいのでしょうか。クラリネット(Clarinet)の酔いしれる感じの音が大人っぽく、美しい音色、Jazzというジャンルに入るような曲です。この曲を調べますと、「シンフォニック・ジャズの代表的な成功例」として世界的に評価されるようになります。アメリカ音楽の古典としてその地位を確立します。

ガーシュインが作曲活動に入った20世紀の初期のころは、フランスの作曲家で「ボレロ(Bolero)」を作ったラベル(Maurice Ravel)に影響を受けたといわれます。ラベルもまた「ラプソディー・イン・ブルー」のジャズ風のリズム、メロディに心酔したという記録があります。

「ラプソディー・イン・ブルー」を聴きますと、ジャズとクラシックを両方楽しむような気分になります。最終部に入る前の哀愁的なメロディはグローフェ(Ferde Grofe)の組曲「大峡谷」を思わせるようです。

心に残る名曲 その三十二  ピアノ協奏曲第2番ハ短調 (Piano Concerto No 2 in C minor)

作曲家でピアノ奏者、そして指揮者であるラフマニノフ(Sergei Rachmaninoff)は1873年に生まれ、ペテルスブルグ音楽院やモスクワ音楽院でピアノを学びます。

作品は主情的で色彩的、技法も長短調半音階和声の枠をでない19世紀後期ロマン派の様式や音楽感を温存しています。「チャイコフスキー(Peter Ilyich Tchaikovsky)にかえれ、」という音楽運動の主導者でもありました。それだけに聴衆に親しみやすく、ピアノの作品にその特徴が現れています。

一時、神経衰弱で創作活動を中断します。家族や友人から心理療法(psychotherapy)や催眠療法(hypnotherapy)を勧められて回復します。1917年にロシア革命が勃発します。ラフマニノフはストックホルムに居を移します。さらにアメリカに渡りピアノと管弦楽のための「パガニーニの主題による狂詩曲」などを作曲します。

「ピアノ協奏曲第2番ハ短調」は1901年に叔父のシロティ(Siloti conducting)が指揮し、ラフマニノフのピアノ演奏で披露されます。 この曲はラフマニノフの最高傑作の一つといわれ、協奏曲の作曲家として名声を確立したといわれます。

第一楽章は、Moderatoのソナタ形式で、主題に先駆けて、ピアノ独奏がロシア正教の鐘を模してゆっくりとしてクレシェンドし続けながら和音連打を打ち鳴らします。そして導入部が最高潮に達したところで主部へとうつります。

第二楽章は、Adagio sostenutoとあります。「sostenuto」とは「音を十分保持して、速度を抑え気味に弾く」という音楽用語です。神秘的なピアニッシモで始まります。弦楽合奏の序奏は、ハ短調の主和音からクレシェンドしながら4小節でホ長調へ転調しピアノ独奏を呼び入れます。

第三楽章は、Allegro とあります。「scherzando」とは「戯れ気味な演奏」といわれます。イタリア語で「冗談」を意味します。抒情的な第1、第2主題が交互に現れ、後のピアノの自由に即興的な演奏の後に管弦楽とピアノが盛り上がるシーンは圧巻です。

心に残る名曲 その三十九 「ドイツ人の歌」(Das Lied der Deutschen)

現在のドイツの国旗は黒・赤・金から成ります。ドイツの歌詞は、権威主義的な諸邦を倒して君主制下での自由主義的な統一ドイツをもたらそうとした1848年のドイツ三月革命のシンボルとなったといわれます。ドイツ帝国崩壊後のヴァイマル共和国(Weimarer Republik) 時代に正式に国歌として採用されます。1990年11月のドイツの統一後、歌詞の3番のみをドイツ連邦共和国の国歌とすることが確定しました。作曲したのはフランツ・ヨーゼフ・ハイドン(Franz Joseph Haydn)です。作詞者は、アウグスト・ファラースレーベン(August Heinrich Hoffmann von Fallersleben)で作ったのは1841年です。

この作詞には次のようなエピソードが伝えられています。反体制的な詩集を発行したということで、ファラースレーベンは教鞭をとっていた大学から追放されます。まだ英国領だった北海のヘルゴラント島(Heligoland)へ向かう船に、偶然フランスと英国の軍楽隊が同乗し、英国国歌『女王陛下万歳』(God Save the Queen)とフランス国歌『ラ・マルセイエーズ』(La Marseillaise)を演奏していたのです。当時ドイツという国はなく、「ドイツ連邦」というものがあるだけで、統一国家も国歌もなかったため、彼は大きなショックを受けたといわれます。

そこで、ファラースレーベンはヘルゴラント島でドイツ民族の統一を願ってこの歌詞を作詞し、その後ハンブルクの出版社フリードリヒ・カンペ(Friedlich Kampe)が初版を出します。題名は、「ドイツの歌」(Das Lied der Deutschen)と云います。

この歌詞の三番にはドイツ民族の統一に対しての展望が書かれています。歌詞の中にある「Einigkeit und Recht und Freiheit; 統一と正義と自由」は、ドイツ連邦共和国の標語となっています。統一とは団結、正義とは法と権利ということです。

 

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心に残る名曲 その三十八  トランペット協奏曲変ホ長調 (Trumpet Concerto in E flat major)

フランツ・ヨゼフ・ハイドン(Franz Joseph Haydn)は、古典派を代表するオーストリア(Austria) の作曲家です。108の交響曲、102の弦楽合奏曲、56のクラヴィア独奏用ソナタを作曲しそれゆえに「交響曲の父」、「弦楽四重奏曲の父」と呼ばれています。

ハイドンの活躍は、当時のオーストリアやハンガリーの金持ちといわれた伯爵や公爵に召し抱えられたことにもよるようです。例えば、モルツィン伯爵(Karl von Morzin)、エステルハージ公爵(Nikolaus Esterhazy)といった人々です。いずれも宮廷楽長として迎えられるのです。主に管弦楽の指導とか楽譜や楽器の管理、人選などを担当します。当時の管弦楽といえば12〜13名の楽団員で構成されます。

ハイドンは「聖譚曲」と呼ばれるオラトリオ(oratorio)も作曲します。1600年代のバロック音楽を代表する楽曲形式がオラトリオです。「天地創造」がその代表です。

トランペット協奏曲変ホ長調のことです。作曲されたのは1796年。長年の友人でトランペット奏者であった Anton Weidingerの要望に応じて作曲したといわれます。あまたのトランペット協奏曲でも最も選れた曲で、ハイドンの最高傑作ともいわれるほどです。なお1830年代になり、今のようなピストンとかバルブ方式のトランペットができたようです。

この曲は協奏曲のスタイルである三楽章から成ります。第一楽章のAllegro (sonata)は長いオーケストラの前奏に続いてトランペットの独奏、そしてサックスやフルートとの掛け合いが続きます。第二楽章のAndanteは4分の3拍子ワルツの優しいメロディ。オーケストラとの音の受け渡しは絶妙です。第三楽章のAllegro (rondo)は4分の2拍子の溌剌とした曲想で華やかさで満ちます。

 

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心に残る名曲 その三十七  「Go tell it on the mountain」

この曲もまた、アフリカン・アメリカンのスピリッチュアルソングです。ジョン・ワーク(John Wesley Work)という人が1865年頃に採譜したといわれます。それ以来、ゴスペルシンガーや歌手によって歌われレコーディングもされてきました。この曲は歌詞の内容からしますとキリストの誕生を祝うものですから、クリスマスキャロル(Christmas Carol)というジャンルに入れてよいようです。

Go tell it on the mountain
Over the hills and everywhere
Go tell it on the mountain
That Jesus Christ is born halleluya
The sheppard kept their watchin
All over the sheep
He hold the light from heaven
That shone a holy light, everybody

1963年にはPeter, Paul and Mary(PPM)が “Tell It on the Mountain”と言い換えて歌い始めます。この頃は公民権運動が高まった時代で、出エジプト記(Exodus)にある「Let my people go」 ”我が民を脱出させよ” をもじって黒人の人権回復を叫ぶ歌となります。そしてその主張は広く受け入れらるのです。

宗教学者で公民権歴史の研究家であるCharles Marshという人によれば、公民権運動の指導者の一人、Fannie Lou Hamerが”Tell It on the Mountain”の歌と同じく霊歌である”Go Down Moses”を結びつけ、最後の歌詞にある”Let my people go”を “Go Tell It on the Mountain”に置き換えるように編曲したということです。人々の間で幅広く歌われた音楽であることを物語る話です。

 

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心に残る名曲 その三十五  ゴスペル音楽 「Oh Happy Day」 「Amazing Grace」 「Stand by Me」

ゴスペル音楽の起源は、キリスト教の誕生に遡ることができます。その音楽の創造、意義、そして定義は文化や社会の状況によって変容してきました。ゴスペル音楽は審美的な好みや宗教的な行事、そして演奏や出版に関わる興行から生まれてきました。ゴスペル音楽は通常は、ボーカルによる合唱を強調しキリスト教の歌詞があてられて発展してきました。

ゴスペル音楽の発展は17世紀に遡ることができます。黒人の歌いの伝統から生まれます。讃美歌や聖歌はしばしば先導と応唱との繰り返しが特徴です。リズムをとるきは、手を叩いたり足で床をタップして調子を求めます。たいていの場合、歌はアカペラで歌われました。

「ゴスペルソング」が最初に世の中に広まったのは1874年のことといわれます。もともとのゴスペルソングは、ルート(George F. Root)、ブリス(Philip Bliss)、ガブリエル(Charles H. Gabriel)、ドアン(William Howard Doane)、そしてクロスビー(Fanny Crosby)といった人々によって作曲されます。

やがてゴスペル音楽の出版社が各地にできます。1920年代にラジオが普及するとゴスペル音楽は急激に愛好家を増やします。第二次大戦後ゴスペル音楽は大劇場で歌われるようになり、コンサートも洗練されていきます。

ゴスペル音楽は多種多様なものがあります。ゴスペルブルース(Gospel Bruce)も生まれてきます。ゴスペル音楽がブルース調となりギターと福音的な歌詞の組み合わせとなります。南部のゴスペルは男性によって歌われ、テノール二人、バリトン、バスのカルテットで演奏されます。カントリーゴスペル音楽といわれるクリスチャンカントリー音楽は、もともとカントリーミュージックの感覚を伴ったゴスペル音楽から生まれてもので、1960年代に大ヒットをします。

ブルーグラス・ゴスペル音楽(Bluegrass gospel music)のことです。アメリカのアパラチア山脈地帯(Appalachian Mountains)で歌われた音楽を基にして生まれたジャンルです。ケルト・ゴスペル音楽(Celtic gospel music)もあります。ケルト文化の要素を濃厚に反映する音楽でアイルランドで非常に人気があります。「Amazing Grace」は世界中で歌われるケルトの音楽です。英国のブラックゴスペル音楽(British black gospel) も有名です。 散らされたアフリカの人々(diaspora)から生まれた音楽です。先日の英国ローヤルウエディングで歌われた「Stand by Me」はその代表といえましょう。

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心に残る名曲 その三十四 「Joshua Fought The Battle Of Jericho」 その2 ゴスペルソング

この歌は奴隷であった人々が自由を渇望して、約束の地、カナン(Canaan)にやってきたイスラエル人と重ね合わせて歌う内容となっています。

黒人霊歌の題材は主として旧約聖書からとられ、哀愁を帯びたものが多いといわれます。リズムは欧米の民謡と異なり、シンコペーション(syncopation)が多いのが特徴です。シンコペーションとは、拍節の強拍と弱拍のパターンを変えてリズムに変化を与える手法です。民俗音楽の研究から、アメリカの黒人は、彼らの音楽に対する嗜好を新大陸に移ってから得た宗教的な素材と結びつけていった、というのが一般的といわれます
旋律自体の構成は比較的短く、一つか二つの音節の単純な繰り返しが多いのですが、あまり長いものではありません。この曲もそのような構成となっています。

奴隷解放後は黒人の意識が変化するにつれ、次第にスピリチュアルは影がうすくなります。スピリチュアルは南部の保守的な教会に残るのですが、都市の会衆の間では次第に廃れ、それに代わって黒人の新しい意識を反映したゴスペルソング(Gospel Songs)が優勢となります。

心に残る名曲 その三十三 「Joshua Fought The Battle Of Jericho」 その一 ヨシュア

この曲もまた19世紀アメリカで生まれた伝統的なスピリチュアルソングです。作曲したのは奴隷の人々だったと云われています。歌の下敷きになっているのは旧約聖書のヨシュア記(Book of Joshua)です。

エジプト脱出(Exodus)のあと、モーゼ(Moses)とその一行は、「乳と蜜の流れる地」(Land flowing with milk and honey), カナン(Cannan)を目指します。しかし、その旅は難航をきわめ、イスラエルの民は40年間荒野を彷徨います。(Joshua 6:15-21)

モーゼの後継者となったヨシュア(Joshua)はさらにカナンを目指します。難関はヨルダン川を渡ることでした。エリコ(Jericho)という街の近くまでやってきます。エリコは当時、世界で最も古い街の一つといわれていました。幸い水のない河床を渡り城壁に囲まれたエリコを望みます。神がエリコに指示した占領方法は奇妙なものでした。イスラエルの兵士全員がエリコの城壁の周りを七周するように命じられたことです。エリコらは指示に従うと城壁は崩れるのです。

多神教の国エジプトでは奴隷の身分であり、今は同じく多神教のカナンに定住しようとするイスラエルの民にとって偶像礼拝は強い魅力だったようです。主なる神に加えて他の神々を崇拝していた人々と大勢いました。ですがヨシュアは民の前で「わたしとわたしの家は主に仕えます」と宣言するのです。(Joshua 24:15)

エリコを探るためにヨシュアは二人の斥候をだします。街の衛兵がやってきたとき、ラハブ(Rahab)という娼婦と家族は斥候を亜麻の束の中に入れてかくまいます。やがてヨシュアはラハブと結婚し、エレミヤ(Jeremiah)、デボラ(Deborah)などの有名な預言者の先祖となります。

この唄の歌詞は次のようなものです。

They tell me, great God that Joshua’s spear
Was well nigh twelve feet long
And upon his hip was a double edged sword
And his mouth was a gospel horn
Yet bold and brave he stood
Salvation in his hand
Go blow them ram horns Joshua cried
‘Cause the devil can’t do you no harm

イスラエルの民は云う、ヨシュアは長い槍を構え
腰には二本の刀を携え、その口からは福音の音が響く
勇猛果敢に立ち向かい、神の救いはヨシュアの手にある
さあ、羊の角笛を吹きならせ
ヨシュアは叫ぶ 「悪魔は民に危害を加えることはできない」

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心に残る名曲 その三十二「Swing Low, Sweet Chariot」

このスピリッチュアルは、テネシー州(Tennessee)ナッシュビル(Nashville)のフィスク大学(Fisk University)で1870年代に活動していたアフリカ系アメリカ人グループ「ジュビリー・シンガーズ(Jubilee Singers)」によってアメリカ各地に広められた霊歌です。「Jubilee 」とは祝祭とか記念祭という意味です。

アメリカ南北戦争(Civil War)後に米国南東部のミシシッピ州(Mississippi)、アラバマ州(Alabama)、ルイジアナ州(Louisiana)にいた先住民チョクトー族(Choctaw)の奴隷が歌っていたのを採譜されたといわれます。作詞・作曲者は不明ですが、素晴らしい内容の歌です。

題名にはチャリオット(Chariot)とあります。チャリオットとは、兵士を乗せ馬に引かせる戦闘用馬車を指します。太古の時代、シュメール(Sumerian)、ヒッタイト(Hittite)、アッシリア(Assyrian、古代エジプト、ローマ、ペルシア(Persia)、古代中国、古代インドなどで戦闘用に使用されました。

Chariotに乗って天国へ昇る描写が旧約聖書にあります。列王記(Books of Kings)21章27-29節に登場するユダヤ人の預言者エリヤ(Prophet Elijah)が火の馬が曳く日の戦車に乗って天に昇っていく、という記述です。

なお、19世紀初頭のアメリカで南部州から黒人奴隷を北部州に逃亡させる活動をしていた秘密組織「地下鉄道(Underground Railroad)」を「チャリオット=北部州への亡命」という意味で使われたと指摘する説もあります。