囲碁にまつわる言葉 その19 【碁所】

現在、八王子に数カ所の碁会所があります。2000年代ごろからはネット碁の普及が進み、碁会所に行かず対局相手を探すことが容易になりました。碁会所にとっては厳しいライバルとなっています。店主は席亭と呼ばれ、来客者の棋力の認定とマッチメイキングが主たる仕事です。2010年ごろには「囲碁ガール」という言葉も生まれ、女性向きの雰囲気の碁会所や、囲碁喫茶・囲碁カフェなどもできてきました。多様な碁会所の在り方が模索されています。2008年には、フリーペーパー「碁的」という囲碁ガールのための無料の雑誌が刊行されます。囲碁のお堅いイメージを避け、「囲碁メン 恋の徹底攻略」「碁クササイズ」といった女性ファッション誌のような内容となっています。

—–【碁所】——–
碁所(ごどころ)のいわれは、1588年に豊臣秀吉が時の第一人者であり名人の呼称を許されていた本因坊算砂に20石20人扶持を支給したことに始まるといわれます。役職となって碁打が召し抱えられるのです。徳川家康が囲碁を愛好したことなどから、江戸幕府でも役職の一つとされて、寺社奉行の管轄下で、その職務は御城碁の管理、全国の囲碁棋士の総轄などといわれました。1668年に幕府により安井算知を碁所に任命したのが始まりといわれます。各藩においても、碁技により禄を受けた者を碁所と呼ぶこともあったようです。

本因坊記念館

碁所の定員は1名で50石20人扶持をもらっていました。囲碁家元である本因坊家、井上家、安井家、林家の四家より選ばれ、就任するためには名人の技量を持っていることでした。各家元はこの碁所の地位をめぐって争碁、政治工作などを展開します。水戸藩主徳川斉昭、老中松平康任、寺社奉行なども巻きこんだ本因坊丈和、井上幻庵因碩による抗争は有名であり、「天保の暗闘」として知られています。

日本の政治家の中にも碁を好んでいる人がいます。民主党代表の小沢一郎とか、亡くなりましたが自民党の与謝野馨が有名です。二人は長年の碁敵で対局はしばしば行われたようで、対局直後に自民党と民主党の大連立構想が持ち上がったといわれます。2011年の菅第二次改造内閣では与謝野は、内閣府特命担当大臣〔経済財政政策、少子化対策、男女共同参画〕に就任します。野党議員と碁を打って対立色をほどき、互いに無理をのみ合うことがよくあったようです。

囲碁にまつわる言葉 その18 【御城碁】

「ボケ防止のための啓発囲碁大会」は後に「活きいき囲碁大会」に改名されます。ボケ防止大会は4月より毎週のように、寿同好会の持ち回りで開かれます。さぞかし、参加申し込みの受付や対戦組み合わせなどで忙しかったろうと察します。それ以上に大会会場に碁盤や碁石を運ぶ手間も大変だったはずです。八王子市、八王子教育委員会、日本棋院の他に、町会総連合会、住民協議会などの後援を得て大会を開いています。この後援を得る努力にも敬服します。

京都、寂光寺

—–【御城碁】——–
江戸時代に囲碁の家元四家の棋士により、徳川将軍の御前にて行われた対局が「碁城碁」です。寛永3年とありますから1626年頃に始まり、毎年1回、2、3局が打たれ、1864年に中止となるまでの230年余りに渡って続いた御前対局です。御城碁に出仕することは、家元の代表としてであり、当時の棋士にとって最も真剣な対局でありました。また碁によって禄を受けている本因坊家、井上家、安井家、林家の家元四家にとっては、碁の技量を将軍に披露することの意味もあり、寺社奉行の呼び出しによる形式で行われたようです。実際に将軍が必ず観戦したかどうかは分かりませんが、老中などが列席したこともあったようです。

御城碁は数日に及び、対局者は外出を禁じられました。外出によって仲間による対局の検討がなされるのを避けるためです。その後「碁打ちは親の死に目に会えない」という言葉が生まれたといわれます。徳川家康も碁を好み、文禄から慶長にかけて京都や周辺の碁打ちや将棋指しをしばしば招くようになったようです。また時に御所である禁裏に出掛けることもあったという記録があります。

日海–本因坊算砂

本因坊秀策は「碁聖」の名でも知られていますが、「碁聖」と呼ばれる棋士がもう一人います。第四世本因坊道策がその人です。段位制やを整え、優秀な弟子を数多く育てるなど、元禄時代の囲碁の興隆を支えたといわれます。

囲碁にまつわる言葉 その17 【寝浜】

八王子が輩出したアマチュア棋士の三浦浩氏は、日本アマチュア本因坊決定戦全国大会で最初の優勝を果たします。昭和46年の17回大会でした。この大会の特徴は選手の年齢が大幅に若くなったことで、前回の16回大会では37.5歳、17回大会は30.8歳というそれまでにない若々しい大会だったといわれます。24歳という少壮気鋭の三浦氏が初出場で初優勝という栄冠を獲得します。そして、平成11年の第45回同アマ本因坊決定戦で5度目の優勝を飾ったとき、25歳の対戦相手をして「昔の自分を見るようでした、若さの勢いを感じました」と対局を振り返っています。五強といわれた村上文祥、平田博則、菊池康郎さんらを破っての優勝です。

—–【寝浜】——–
戦国武将が碁を好んだことは知られています。武田信玄は大の囲碁好きだった記録があります。信玄の配下には優れた武将が多かったことで知られています。武田四天王の一人高坂晶信、またの名を弾正も碁に強かったようです。『囲碁百科辞典』の囲碁年表に、「長遠寺に於いて、武田信玄、高坂弾正と対局す」とあります。高坂昌信は、しばしば信玄の相手をしたようです。その棋譜が残っています。

信玄の死により家督を相続したのが武田勝頼です。勝頼は、強硬策を貫き領国拡大方針を継承しますが、1575年の長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍に敗退します。その戦では、騎馬隊という特殊な兵力を持つ武田軍を信長の鉄砲隊という新たな兵力で打ち破ったといわれます。鉄砲隊が騎馬隊に勝ったとする図式をして、勝頼は、「碁に寝浜(ねばま)をして勝ちたるに同じ」と慨嘆したというのです。
 
「寝浜」とは、囲碁で打ち始める前に、相手の石を隠し持って、作り碁の時に出す悪質な行為を指します。信長の鉄砲隊を「寝浜」であると揶揄するのですが、負けは負けです。「甲陽軍鑑」という信玄と勝頼の2代にわたる武士道、治績,合戦,戦術,刑法等が記された書籍があります。高坂弾正昌信の遺記を基に、後の人々が編纂したらしいです。この中に「寝浜」がでてくるようです。

囲碁にまつわる言葉 その16 【真田昌幸】

平成3年碁老連囲碁大会では、「参加申し込み者は135名に過ぎなかった」とあります。当初は150名から160名を期待していたようです。今の八碁連の大会の参加者数からすればたいした参加者数です。「碁老連顧問会」とか「碁老連研修会」が開かれています。特に、研修会は技術指導員の資質と力量を高めるのが趣旨だったようです。

—–【真田昌幸】——– 

   真田昌幸


戦国武将は好んで囲碁をたしなんでいたことが記録されています。戦に備えて碁を打ち、英気を養い作戦を考えていたに違いありません。真田昌幸のその一人です。NHK大河ドラマ「真田丸」では昌幸の息子、信繁(幸村)が主人公でした。この二人の囲碁対局のシーンがよく登場したのは記憶に新しいところです。

真田昌幸は、「第一級の武将」「理性に富んだ武将」と讃えられることが多く、戦では「勝つ戦略よりも負けない戦略」を信条としたと伝えられています。策略に長けていたともいわれます。昌幸は、元々は武田信玄の側仕えである近習の一人です。昌幸には信繁の他に信之という息子がいました。関ケ原での合戦が近くなると、東軍につくか西軍につくかを選ぶ時、真田の家を絶やさぬため、信之には徳川方、信繁には豊臣方につくようにさせたという逸話があります。犬伏の地で行われたので「犬伏の別れ」といわれています。

囲碁にまつわる言葉 その15 【大局観】

碁老連だよりには、「ボケ防止のための囲碁大会」のための八王子全市の町会、団地自治会、及び老人会などに回覧用チラシ約13,000枚を配付して啓発運動を展開したとあります。特に級位者の参加者が非常に少なかったので、その対策を考えていたようです。本来なら、囲碁人口としては一番多いはずなのは級位者の人たちです。しかし、級位者は碁を打つ機会がなかったようです。その理由を、会長の熊沢正一氏は次ぎのように述べています。
1 現在、町会や団地内の囲碁部では参加者が有段者中心となっており、このクラスになると敬遠されるようだ
2 町会や団地内で碁を打っていても、若い人たちはどんどん昇格するが老人は取り残されてしまいがちなので、厭になってやめてしまう者が多い
3 以前は各地で老人同好者が集まり、碁会を開いていたようだが、最近ではゲートボールに走る者が多い
4 勤務先の職場で碁を打っていた人たちは、退職後、教授値では碁の相手がみつからない
5 碁会所では、級位者は相手に選ばれないので、気落ちしてしまい永続しない

以上のような分析は、今の八王子囲碁連盟の現状にもあてはまります。

大局観

—–【大局観】——– 
囲碁、将棋、チェスなどのボードゲームで、的確な形勢判断を行う能力が大局観です。部分的なことに囚われずに全局的な視点から判断するということです。囲碁は他のゲームに比べて大局観で次の一手を決める割合が高いのです。常に全体を見て総合的に判断できる人が囲碁の強い人といわれます。

大局観を育てるためには、5つの要諦があるといわれます。1つは、方針となる理念・信条を確認すること、2つには、方向を示す具体的目標であるビジョンを描くこと、3つには、ビジョン達成の行く手を阻む変化を適確に予見し、精査すること、4つには、目標達成のために必要な戦略を練り上げていくこと、そして5つには、状況によってシナリオからはずれた場合、何らかの対応策を用意すること、といわれます。

大局観を育てるには、「鳥の目」、「魚の目」、「虫の目」といわれる3つの目をも持つことだともいわれます。鳥の目とは、高所から広い範囲を見渡すこと、すなわち「鳥瞰」することです。マクロな視点ともいわれます。次ぎに魚の目というのは、物事の流れや変化といった「動き」を捉える視点のことです。虫の目とは、細部に注目するミクロな視点でみる、ということです。物事の全体を見るという用語に「俯瞰する」とか「俯瞰像」がありあます。大局観と同義です。英語で大局観は「perspective、strategy 、tactics」ということになります。

囲碁にまつわる言葉 その14 【檀那】

八碁連の前身、碁老連のニュースレターでは、なかなか興味のある話題を提供しています。「ボケ防止のための啓発囲碁大会」の開催に関する町内会に配付するチラシには、申し込み段級位について、「通常使用している段級位を原則とする」としていました。「大会用として特別な段級位で申し込みをした場合、異議の申し立てがあったときは失格となりうる」とも記載しています。この措置は、過去の各種大会において段級位を下げて参加するという悪弊を排除し、正常な大会として運営するためとしています。段級位を下げると優勝する可能性が高くなるのです。

それにも関わらず、このような悪習が毎回見られ、参加者間に「またか、という軽侮の念が広がり、大会の雰囲気を味気ないものにした」ようです。「嘘をついてまで勝ちたいのだろうか」と慨嘆しています。極端に段級位を下げて申し込まれた人に対しては事前に「参加拒否」として連絡したようです。

—–【檀那】——– 
「布施」を意味するサンスクリット語(Sanskrit)(梵語)の「dana」から由来したのが、「檀那」又は旦那です。サンスクリット語はインドの公用語の1つで文学、哲学、学術、宗教などの分野で使われています。「dana」とは「執着を捨てて、金品を与えたり、施したりする行為」である財施を意味します。

江戸時代になると賭碁を生業とする者が現れます。賭碁で稼がせてくれる人は「檀那」と呼ばれました。檀那碁という用語があります。これは、ふだんは勝っても、賭碁になると負ける碁のことです。金品を賭けて打つ碁のことです。囲碁で賭けが行われるのも古来から行われていました。江戸時代の賭碁師の中では、享保・文政期に三千両を稼いだと言われる淡路出身の「阿波の米蔵」が知られています。

囲碁にまつわる言葉 その13 【タケフ】

大会開催を案内すると、次のような質問が寄せられます。それに対して碁老連会長だった熊崎正一氏は次のように答えています。

質問1:「碁会所では初段(免状所持)で打っているが、同好会では二段で加入していおります。大会申し込みは初段でよろしいでしょうか」
熊崎会長:会員ですから当然二段で参加して頂きます。初段での参加は認められません。
質問2「現在碁会所では2級でうっているが、会社の囲碁部では日本棋院より初段の免状を頂戴しております。大会ではどちらで参加したらよいでしょうか。」
熊崎会長:どちらでも結構です。ご自分の判断で決めて下さい。
熊崎会長:以上のような照会は、同好会に加入された場合、数多く見られる現象ですが、老人の集まりですから「勝負にこだわらないで、碁を楽しむことに重点をおいてください」と申し上げております。
熊崎会長:碁老連関係の会員は、町の囲碁界より段位が甘いようです。それは、若い人たちと張り合っても所詮無理な話で,老人は老人同士、気楽にやりましょうという環境がそうさせているのでしょう。

—–【タケフ】——–
石を分断する手筋に「出切り」があります。相手の石を連結させない手です。それを防ぐのが【タケフ】です。漢字では「竹節」、中国では双関となります。連結した二子が平行に並んでいる形で、確実な連絡形として用いられます。出切りを防ぐのです。形が竹の節に似ていることから「竹節」となりました。

囲碁にまつわる言葉 その12 【筋】

平成3年になると碁老連にはいくつかの試練がやってくるようです。1つ目は、市民センターの対局が20名が限度で、会員数が30名位が限度であるという状況です。そのため会員募集をやめた同好会がでてきたことです。2つ目は2つの同好会でトラブルが生じ、規約が厳しすぎて感情的な行き違いが生じ、全員退会という憂き目にあったようです。

同年4月に開かれた「ボケ防止のための啓発囲碁大会」は大和田寿同好会が主催となります。「丁度地方議員選挙日と重なったためか12名の棄権者を数え、散々な状態だった」という会長の談話が掲載されています。「元八寿同好会主催の大会は5月5日に開かれ、会員の10名が棄権し、会員以外の参加も少なく、予想外の最悪状態となった」という述懐に似たコメントも投稿されています。主催者としては、予想外の結果になるとなんとも言えぬ気分になります。

黒が一間にとんで割り込むのが手筋

—–【筋】——–
「石の働きが能率よくムダがないように打つには、筋(すじ)に石がいかなくてはならない」といわれます。筋とは、急所のことです。形は守りの急所であるのに対して、筋は攻めの急所と言い換えることができます。碁では、味方の石同士が盤上の線を通じて、どのように連携を取っているのかを考えていきます。ということは、相手の石の連携を、どのようにして断つのかという戦術にもつながります。

味方の石同士が盤上の線で連携をとっている状況が筋です。こうしたときの着手点が「手筋」です。手筋をおおまかに分類しますと、連絡の手筋と石を取る手筋があります。「筋が悪い」とは、味方の石同士の連結が不十分な手を打つこと、相手に石の連絡を絶たれそうな着手のことを指します。手筋は英語では「 a clever move」といいます。

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囲碁にまつわる言葉 その11 【呼吸点】

かつてウィスコンシン大学(University of Wisconsin-Madison)で研究していたとき、メモリアルホール(Memorial Hall)という学生会館の片隅で中国系か韓国系の院生が碁盤を囲んで対局していたのを覚えています。私は貧乏院生でしたので、碁を勉強するゆとりと時間はありませんでした。碁を学ぶ機会を失ったのですが、学位はなんとか貰い帰国して、国立特別支援教育総合研究所に職を見つけることができました。このとき、かつての宣教師でスタンフォード(Stanford)日本人会の会員の紹介で研究職を見つけられたことは幸運でした。

呼吸点の数は石が3つ並んだほうが多い

—–【呼吸点】——–
碁で大事なことは、「石の強弱の見分け方」といわれます。それを示すのが呼吸点がいくつあるかです。呼吸点とは、ある石に隣接した空点のこと、又は逃げ道のことです。逃げ道の少ない石や、眼のない石のことを弱い石と呼びます。反対に呼吸点の多い石や二眼以上ある石は強い石となります。

ただ、呼吸点よりも大事なのが「根拠」とか「眼」です。囲まれた石には逃げ道はありません。呼吸点が塞がれた状態です。周りが強くなるとその中で生きることを考えなければなりません。このような状況では、形勢はただならぬと考えられます。

囲碁にまつわる言葉 その10 【相場】

現在の八王子囲碁連盟の前身は「碁老連」と「碁楽連」です。平成元年に名称が変わったのです。実は、その前に八王子囲碁連盟は存在していました。昭和45年に元の「八王子囲碁連盟」が結成されたのです。この連盟は、日本棋院八王子支部、同東部支部から成り、その後高尾支部と元八支部が加入します。しかし、会員の高齢化や減少によって運営が困難になり、すでに結成されていた碁楽連と平成19年に合併し、「八王子囲碁連盟」は無くなります。

お互いにいい分かれ

—–【相場】——–
【相場】とは、ある物事についての世間一般の考え方や評価、または世間並みと認められる程度のことです。互いに納得できることです。

精選版 日本国語大辞典には、興味ある説明があります。室町時代の中頃より、売買の仲立ちをする商人である「牙儈(すあい)」が出現するようになり、仲介者が取り決めた価格によって売買が行なわれることが多くなります。「牙儈」とは、物品売買の仲介を業とする者や、その仲介料を指します。牙儈の価格はもともと「すあい」の集合する場、すなわち「すあい場」で成り立っていたところから次第に協定価格そのものを意味するようになります。やがて転化して「あい場」というようになり、それに「相場」の文字をあてたところから「そうば」の語が生じたという説です。

囲碁にまつわる言葉 その9 【結局】

碁老連の相談役として三浦浩氏が活躍されます。「八王子に生まれ、八王子で育ち、八王子で住んでいた」八王子の囲碁界にとって忘れられない存在です。日本アマチュア本因坊決定戦全国大会での最初の優勝は1971年の17回大会です。この大会の特徴は選手の年齢が大幅に若くなったことで、前回の16回大会では37.5歳、17回大会は30.8歳というそれまでにない若々しい大会だったといわれます。24歳という少壮気鋭の三浦氏が初出場で初優勝という栄冠を獲得します。そして、1999年の第45回同アマ本因坊決定戦で5度目の優勝を飾ったとき、25歳の対戦相手をして「昔の自分を見るようでした、若さの勢いを感じました」と対局を振り返っています。

五強といわれた村上文祥、平田博則、菊池康郎氏らを破っての優勝です。その後、アマ六強といわれるようになります。2014年9月29日、享年68歳でお亡くなりになります。八王子の囲碁界にとって誠に惜しまれる逸材です。この大会後のコメントが振るっています。
 ・三浦浩氏:「相手が石音大きく着手してきたら、それにつられないで、そっと石を置くのも冷静な気合いだ」

—–【結局】——–
碁の対局で一局打ち終わるとか、ひと勝負が終わることが「結局」です。終局ともいいます。「結」は物事のしめくくりのこと。「吉」には「引き締まる」様子を表現しています。「糸」を組み合わせて「糸をしっかりと引き締める→繋ぎ合わせる」ということです。「努力が実をむすぶ」という意味につながります。「局」は勝負や回数という意味で、転じて物事のなりゆきや様子のことです。

囲碁にまつわる言葉 その8 【根拠】

平成2年9月に開かれたNTT主催の碁老連敬老囲碁大会は、参加者がおよそ100名という盛況ぶりだったようです。その年、世界アマ選手権日本代表となった三浦浩氏による大盤解説が大好評だったとあります。

NTT囲碁全国大会には、碁老連から10名の観戦招待者が参加されます。NTTは、まだまだ羽振りが良かったようです。この頃から、「ボケ防止のための啓発囲碁大会」から日本棋院や八王子市の後援を得ていきます。当時の碁老連と現在の八碁連会員の名簿を比較しています。当時の碁老連会員は今年の八碁連会員の名簿には見当たりません。時の流れを感じます。

—–【根拠】——–
「根拠」という手は盤上最大の手になる事が多いのだそうです。生き死にかかわる手は、根拠となる手のことですから、盤上で最大の手となるのは頷けます。「根拠を持つ」ということは、単に生きることとはまた違います。「生きる」ということと「逃げる」ということを見合いにする状態が「根拠を持つ」ということです。しかし、取られなければ平気と思っていると、後々逃げ回ってしまう羽目になります。

根拠を確保した展開

スポーツならフォーム、歌なら姿勢、芸術ならイメージ力、論文ではデータが根拠にあたるものです。それらの基本があるからこそ柔軟に対応したり、論理を展開することができるのです。根拠のある強い石の例は、二間ビラキや星の形をした姿です。

囲碁にまつわる言葉 その7 【一目置く】

平成3年の碁老連ニュースには、日本棋院が発行していた「囲碁新聞」の「ボケ防止と囲碁」という記事を掲載し始めます。もちろん棋院より記事の転載許可を得ています。東大医学部教授の折茂肇氏と石倉昇七段の共同執筆です。脳の老化の仕組みとか、病的な老化や生理的な老化、といったことが解説されています。囲碁の効用のなかで、「碁を打っているとぼけない」というのが決め台詞のようです。

—–【一目置く】——-
「大辞林」によれば、【一目置く】とは、「自分より優れていることを認めて敬意を払う、一歩譲る」とあります。一目置くは囲碁から生まれた言葉で、一目は一個の碁石のことです。囲碁ではハンディとして、弱い方が先に石を一目置いてから対局を始めます。 通常の対局では「弱い方が先に石を置く」のです。なぜかと言いますと、盤上ゲームは基本的に先手の方が有利だからです。そこから、【一目置く】は、相手の実力を認め敬意を払う意味となります。

「一目置く」の強調した言い方には、「一目も二目も置く」という表現があります。注意すべきことというか、意外なことは「一目置く」は自分より目上の人に対しては使わないということです。「一目置く」には「相手を評価する」という意味も含まれているので、基本は目上の人が目下の人に対して使う言葉となります。世間での「一目置く」の使い方は逆のような感じがします。

囲碁にまつわる言葉 その6 【八百長】

八王子囲碁連盟の前身、碁老連はその大会への参加条件は60歳以上の市民と会員で、段位を持っていること必要でした。しかし、世の中の変化のせいでしょうか、その後の大会では級位者も参加できるようになります。碁の人口を掘り起こしたり、広げるために順当な判断だった思われます。

碁老連ニュースはなぜか第10号から手書き刷りとなります。それでも相変わらず記事は大会開催の案内や大会記録に終始しています。この理由は、ニュースは全く会員だけに配付され読んで貰う方針だったからだと思われます。しかし、ニュースというのは組織の顔にあたります。対外的な読者もいることを念頭におく必要があります。注目したい記事は、NTT敬老囲碁大会の対局の棋譜が掲載されていることです。八碁連だよりもこうした棋譜を載せて読者を楽しませることです。

—–【八百長】——–
広辞苑二版には、「明治初年、通称八百長という八百屋が、相撲の年寄伊勢ノ海五太夫と常に碁を囲み、すぐれた技倆をもちながら、巧みにあしらって一勝一敗になるようにした」とあります。この場合、年寄は相手は手加減の技倆を理解できていなかったようです。両国にあったある碁会所の来賓として招かれたのが16世・20世本因坊秀元です。八百長は秀元との対局で本気を出して勝負したことでその実力がばれたようです。以後わざと実力を出さないことを“八百長”と呼ばれるようになります。ただ、話が上手すぎるという印象もありますが、、、

八百長相撲

八百長の意味は、内々にしめしあわせておいて、なれ合いをすることとあります。相撲でも政治の世界でもみられることです。「おもねる」「へつらう」は、気に入られようとする下心のことです。ネガティブな脈絡でつかわれる言葉です。

2017年の新語・流行語大賞となったのが「忖度」。「他の人の気持ちを推し量ること」という意味」だそうです。「こびるとかへつらうというような下心はない」と辞書にはあります。ですが、報道されてきた忖度の用法は、どうも「おもねる」のニュアンスが感じられます。英語では「flattering」が相当します。

囲碁にまつわる言葉 その5【棊子麺】

八碁連の前身である碁老連は、同好会同士の囲碁対抗戦をやっていました。各同好会より6名の代表を選んで開いたようです。さらに新春囲碁祭りを2日間に渡って行ったというのですから、その元気さが伺えます。平成2年の大会には、今もかくしゃくとしておられる信江峻氏のお名前もあります。平成4年くらいまでは、ニューズレターは大会記録や碁楽連の規約、内規を満載です。

平成2年には、電話100年事業の一環としてNTT八王子支店が敬老囲碁大会を主催しています。大会参加者多数のために、予選会を実施するという盛況ぶりです。このときの弁当は,海苔巻き、いなり詰め弁当で300円とあります。ニューズレターには、駄句という断りながら、【碁敵は憎くも、愛し燕来る】【目を余して優勝ビール冷ゆ】という名句が掲載されています。

棊子麺

—–【棊子麺】——–
「棊」とは、碁や将棋の競技などの意味で、他の盤上遊戯の駒や碁石、その盤を意味します。「棊」は「棋」の以前に使われていた字です。棊は棋の異体字というわけです。江戸時代後期の有職故実の随筆『貞丈雑記』では、棊子麺は「小麦粉をこねて薄くのばし、竹筒で碁石の形に打ち抜き、ゆでてきな粉をかけた食べ物」との記述があるようです。原型は麺でなく碁石型だったというのですから面白いことです。現在は「ひもかわ」とも呼ばれ、平打うどんが通称になっています。

棊子麺の名称は、紀州の人々が食していた平打ち麺で、紀州麺から転じた用語という説があります。別の説もあります。信長の時代に『日葡辞書』というポルトガル語辞典がイエズス会から出版されます。その中に「Qiximen」という項目があり、「Qiximen.キシメン(棊子麺) 小麦粉で作った食べ物の一種」という記述があるようです。囲碁とは全く関係がなさそうですが、、、

囲碁にまつわる言葉 その4【玄人と素人】

八碁連の会長は長年にわたり1年任期が続きました。それだけ会長になれる沢山の人材がいたのか、はたまた2年、3年の任期では弊害が起こるのではないかという懸念があったからでしょうか。しかし、1年任期では相応の仕事ができるのかという疑問が生まれます。私の短い経験からしますと1年任期では中期的な仕事はできないという結論です。

政界をみますと、菅総理大臣も1年で退陣を表明しました。以前、宇野宗佑、羽田孜という首相はたったの2か月で辞めました。細川護熙も9か月という短命の首相でした。権力闘争や連合や連立といった内部における意見の対立によって、国民が期待する成果を挙げることができませんでした。

—–【玄人と素人】——–
玄人(くろうと)・素人(しろうと) という言葉です。黒石と白石から生まれた言葉が玄人であり素人です。「黒うと」「白うと」という表記はありません。でもおかしいな、という疑問が生まれます。対局するとき、碁の強い人が白を持ち、弱い人が黒を持ちます。もって平安時代では強い人が黒を持って対局をしていたといわれます。玄人とは、その道に熟達した人、特別の能力を究めた人です。そのために大いなる「苦労をした人」かもしれません。語呂合わせの印象もありますが、、、、

「玄」という漢字には〈黒い〉とか 〈微妙で深遠な理〉 という意味があります。老荘の道徳における微妙な道ともいわれます。他方「素」 の漢字には,〈色をつけてない〉 〈加工や装飾していない〉 という意味があります。「素のまま」とか「素っぴん」という用語がそれを表しています。

囲碁にまつわる言葉 その3 【先手と後手】

八王子囲碁連盟の前身、碁老連の趣旨が少しずつ変わります。「ボケ防止のために、老人囲碁同好者の誰もが碁を楽しむことができるように機会と場所を確保する」というユーモラスな表現となっていきます。惚けとか痴呆、認知症という用語が広まってきたことがその背景にあるようです。高齢化社会がますます進行する時代です。「ボケ防止」はどうしたら実現するのか。「どしどし囲碁を打とうよ!」というのはあながち間違いではなさそうです。

しかし、碁を打っていればボケは防げるというのは、少々うさんくさい感じがします。近所に読書が好きで、俳句を作る90歳のお婆さんがいます。俳句の会にも参加しているのです。要は趣味を楽しむこと、人と会話すること、適度に運動すること、規則正しい食生活をすること等々、なんらかの姿勢や生き甲斐を持っていることが大事なようです。

—–【先手と後手】——–
将棋は指す、囲碁は打つ、と言います。逆の表現はありません。囲碁では先手が黒石を持ち、後手が白石を持ちます。棋力が拮抗している者の対局では、先手と後手を決めるとき、ニギリが行われます。囲碁では先手が有利なため、後手に一定量の地を「コミ」として六目半を加算します。江戸時代にはコミがなかったといわれます。そのため、石を交代し2局を打ったたようです。「先手必勝」とはよくいわれますが、「先手必敗」という言葉は聞かれません。

対局において、盤上のある箇所に打つと大きな得をする手段が残る場合があります。通常相手はそれに受けます。そうしないと大損をするからです。先の対局者の着手を先手といいます。相手は、先の対局者に得をさせない着手で応じます。この着手を後手で受けるといいます。「先手をとる」とか「後手をひく」などの言葉ですね。前者は「機先を制す」「先に動く」、後者は「先を越されて受身になる」などの意味となります。

石を取るか取られるかの戦いなどの場合、互いに手を抜けずに相手の着手の近くに着手することを繰り返します。その最後の着手を「後手を引く」といいます。先手を打たれても、大きな損をしないと判断すると「手抜きする」こともできます。この場合は、「手を抜く」ともいいます。
”後手”、”後手をひく”は英語では「defensive hand」「lose the initiative 」「passive move」などといいます。先手に対して堂々と受けて、じっと先手を待つのが碁の要諦のようです。

囲碁にまつわる言葉 その2【白黒】

前回、八王子囲碁連盟(八碁連)の前身は、「八王子の碁を楽しむ老人連合」(碁老連)であることを申しあげました。碁老連ニュース第1号は、ガリを切り謄写版で刷っていたのです。ガリを切りは、結構職人がたきのような技能を要します。力を入れすぎると原紙が切れたりするのです。特に線を引くときは注意がいります。印刷ではインキのつけ具合が大事です。しばしば手が汚れたことを思い出します。

ガリ版刷り

 ガリ版が姿を消したのはワープロ専用機の登場です。昭和60年に日本語ワープロ専用機の先駆け的存在である「Rupo 」がでます。その後、「書院」「OASYS」「文豪」と続き、文書作りが一段と楽になります。

 碁老連を形成した頃の寿同好会の会員は有段者で、163名の会員数となっています。初心者や級位者は入会できなかったようです。ちなみに現在の八碁連の会員数は303名で級位者も含めた数です。碁老連の運営は、8つの寿同好会からの「上納金」や「寄付金」を充てるとあります。上納金とは面白い表現です。活動はもっぱら同好会の対抗囲碁大会、名人・王座・天狗戦大会の開催が中心だったようです。当時、初心者の育成とか子どもへの囲碁の啓蒙や普及活動などは視野に入っていません。

—–【白黒】——–
 碁石の大きさは、黒石が直径22.2ミリ、白石は21.8ミリです。錯覚で白い色は膨張して見えるので、同じ大きさで作ると白い碁石のほうが大きく見えてしまいます。見た目で同じ大きさに感じるよう、若干白石を小さくしています。対局のために、碁笥には黒石の数は181個、白石は180個が用意されます。
 物事には白と黒、表と裏、陰と陽があります。物事の是非・真偽・善悪などを決めるのが「白黒つける」です。その語源は、囲碁の碁石から由来します。物事をはっきりさせることです。人間の心理とし、「負ける・弱い」ことよりも「勝つ・強い」ことを前提にしがちです。ですから「黒白をつける」とはいいません。
 犯罪捜査や裁判のときも、白、黒が使われます。「事件の真相に白黒つける」という表現です。黒は否定的、白を肯定的と捉えられる傾向があります。黒という色は、高級、強さや権威、神秘的な雰囲気を感じさせる色です。高級車は黒、「偉い人」の背広や靴は黒です。ですが黒は他の色に比べて負のイメージが潜在的にあります。ちなみに英語の表記では「Black and White」が一般的です。

囲碁にまつわる言葉 その1 【盤石】

私は、八王子囲碁連盟(八碁連)の会長を務めて今年で3年目となります。昨年、今年とコロナ禍のためにいろいろな大会が開くことができず、市内にある10の同好会が市民センターなどで定例会を開いたり、閉じたりといった有様でした。この同好会が集まって八碁連を形成しています。

 八碁連の歴史ですが、平成元年に結成されます。「八王子の碁を楽しむ老人連合」といい、略称は碁老連といわれていました。市内の8つの「寿囲碁同好会」で結成されました。碁老連の趣旨は「碁を楽しむための機会と場所を確保する」とあり、さらに「碁を通じてより良き福祉社会の建設に貢献する」という高邁な精神も掲げています。

碁盤と碁石

 八碁連の歴代の会長は皆さん高段者でした。会長というのは暗黙の了解で高段者が会長を務めるという慣行ができていたようです。しかし、私は例外で四段で会長になりました。なぜ会長になれたのかは、平成30年、会長に就任した第20代の会長吉澤實八段の推薦があったからです。吉澤八段の下で副会長を仰せつかりました。副会長は会長になるという慣行があります。それまで八碁連の会長は規約によって1年任期でした。吉澤会長らは、会長職が1年というのは対外的にも対内的にも短すぎるとして、総会において3年任期とすることになりました。そして私が第21代の会長に指名されたのが平成31年4月です。規約の改正により、私の会長職の任期は令和4年3月までです。

—–【盤石】——–
 広辞苑(第二版)によれば、盤石とは「大きな岩、いわお、極めて堅固なこと、安定して動かないこと、とあります。稀に「バンセキ」ともいわれるとあります。元もと【盤石】は「不動明王が坐している土台」で、土台は金剛石でできているのです。囲碁は、碁石、碁盤、碁笥から成ります。【盤石】とは切っても切れないご縁があります。碁では「盤石の構え」を相手が攻めようとしてもびくともしない、という状況をさします。「盤石の基礎を築く」「盤石の体制で挑む」などのように、きわめて堅固な状態を指す表現です。ちなみに【盤石】にあたる英単語は「robust」とか 「solid」があたります。

懐かしのキネマ その117 【日曜洋画劇場と淀川長治】

そろそろ「懐かしのキネマ」のネタも切れようとしています。どうして自分は映画が好きになったのか考えています。振り返れば、それなりに理由が浮かんできます。そしてその原因や背景、人との出会いなども心に浮かんできます。それを記すことにします。

小さい時、北海道の美幌に進駐軍がやってきました。チューインガムやチョコレートをねだりました。それは初めての「外人」との出会いでした。アメリカの軍人です。親父が美幌駅で働いていたとき、将校が宿泊する列車が停まっていて、ときどき将校からレーション(ration)と呼ばれる食料などの配給品が入った缶詰を貰ってきました。アメリカ軍の野戦食です。甘い物が少ない時代でしたのでその美味しいことといったらありませんでした。

父の転勤で美幌から名寄に移りました。名寄中学校では始めて英語を習いました。今の子どものように幼稚園から英語を勉強するなんて考えられない頃です。幸い私は良い先生に出会いました。この先生の名前は藤田??。髭と眉が濃く声はバリトンでした。藤田先生の発音は、まるで真っ白の紙に滴が垂れるように、私の耳には実に新鮮でズンズンと伝わってきました。使った教科書は「Jack and Betty」。不思議と文章がスラスラと頭に入りました。

父が転勤で稚内駅勤務となったときです。市の突端ノシャップ岬に米軍の電波基地がありました。一度そこに稚内中学の英語の先生に連れられて基地に入りました。そこで出された黒い飲み物の味を覚えています。コカコーラでした。そこで出会った軍人さんとペンパル(pen pal)となりました。この方は退役してからウィスコンシン州のオコノモウォック(Oconomowoc)という街にあったカトリックの神学校を修了し神父となります。彼はその後、横浜の教会で宣教のために働きます。私がこの神父の活動を知ったのは2005年でした。今もFacebookでやりとりしています。

稚内にいたとき始めて洋画をみました。父親に連れられて観たのが「戦場に架ける橋」です。実は私の父親も大の洋画好きでした。稚内高校で合唱団に入り、NHK唱歌ラジオコンクールの予選に出場するために旭川に行ったとき、スカラ座という映画館で友達と観たのが「八十日間世界一周」という作品です。なぜか、その映画で執事役で出演したカンチンフラス(Cantinfla) というメキシコ人喜劇俳優が今も記憶に残っています。

外国に憧れるようになったきっかけの一つが、中学生のときヨーロッパの地理を学んだことです。イギリスやフランス、ドイツの白地図をノートに書く時間がありました。フランス、ブルターニュ半島(Bretagne)の形を今も覚えています。第二次世界大戦でのD-デイ(D-Day)のとき連合国軍の上陸拠点に近いところです。地理の勉強は世界の地図や地形、首都などを覚えるのにとても役立つものです。普仏戦争での敗戦によってプロイセン(Prussia)の領土となったアルザス(Alsace)の学校で、フランス語に基づく愛国心を描いた「最後の授業」という短編小説があります。アルフォンス・ドーデ(Alphonse Daudet)の作品で、これを読んでフランスとドイツの歴史を学んだことも懐かしい思い出です。いつかはこうした国を訪ねたいという願望をかき立ててくれたものです。

映画といえばテレビの影響を忘れることができません。『日曜洋画劇場』、『ゴールデン洋画劇場』、『金曜ロードショー』などの番組です。『日曜洋画劇場』の冒頭では淀川長治が「ハイ皆さん、こんばんは」から始まり、解説の締め括りに「さよなら、さよなら、さよなら」で終わるあれです。『水曜ロードショー』や『金曜ロードショー』番組では、水野晴朗が「いやぁ、映画って本当にいいもんですね~」という決め台詞がありました。『シェーン』(Shane)を観たのはこの番組のお陰です。

最近、ビデオ・オン・デマンドで戦前や戦後の名作映画を観ることができるようになりました。Youtubeでも広告なしで観ることができます。ただ、近年は昔作られたような名作に接する機会がないような気がします。莫大な制作費や興行上の必要性から,ほかの芸術に比較して産業としての性格が著しく強いのが映画です。テレビに押され固定の映画劇場が少なくなり、映画産業が下降しているのは時代の流れといえるようです。それでも「アナと雪の女王」や「鬼滅の刃」の記録的なヒットは意外でした。