心に残る名曲 その九十三 ヴェーバー その1 対位

カール・マリア・フォン・ヴェーバー(Carl Maria von Weber)は 1786年生まれで、ドイツのロマン派初期の作曲家、指揮者、ピアニストです。我が国でもたいそう知られた作曲家です。

 ヴェーバーの生い立ちからです。通常、貴族の姓の前につけられるのが「von」ですが、しかし、父祖は製粉業とか農業など地味な家柄だったようです。虚弱な体質で、幼少から座骨を患い、終生足が不自由でありました。父は音楽教育に熱心で、各地で有名な音楽家に息子を師事させていました。10歳にしてすでにハイドン(Franz Haydn)から対位法(counterpoint)を学んでいます。

対位法とは、主旋律に対して和音で伴奏をつけるのですが、伴奏部分も主旋律にすることです。心地良いハーモニーを追求していく中で生まれた理論ともいわれ、基本は3度と6度の和音を使います。旋律と旋律を重ねる方法でもあります。

ヴェーバー家はモーツアルト家と縁戚関係にあったことも幸いしています。17歳でブレスラウ(Breslau)の歌劇場で指揮者兼作曲家として赴任し、音楽家として独立します。1813年にはプラハ(Prague)市立劇場で指揮者となり、さらに1817年にドレスデン(Dresden)宮廷劇場の音楽監督となります。そして1821年にベルリンの王立劇場のこけら落しで、歌劇「魔弾の射手」(Der Freischutz)を自ら指揮をします。そして万雷の喝采を浴び、演奏は大成功だったと記録されています。

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心に残る名曲 その九十三 グノーと「アヴェ・マリア」

チャールス・グノー(Charles Gounod)の二回目です。ローマ留学を終えて、グノーはパリに戻ります。そして国外伝道会教会の合唱長・オルガン奏者に就任します。宗教音楽の敬虔さと抒情的な表現の調和を込めた沢山の宗教曲を作ります。宗教音楽とはカトリック教会の典礼音楽のことです。

グノーはオペラ「ファウスト」(Faust)も作曲します。この曲はやがてフランスオペラの代表といわれるほど名声を博します。しかし、ドイツではゲーテ(W. Goethe)の劇詩から離れているという理由で「マルガレーテ」(Margarethe)と呼ばれるようになります。

「ファウスト」は5幕からなり、老学者ファウストが自分の書斎で、人生をかけた自分の学問が無駄であったと嘆くのです。そこに悪魔メフィストフェレスが現れ、 ファウストの望みを聞くき、美しい娘マルガレーテの幻影を見せます。「金の子牛の歌」、「宝石の歌」が有名です。「兵士の合唱」は北大男声合唱団にいたとき私も歌ったことがあります。

結びに、グノーといえば「アヴェ・マリア」です。この曲は、バッハの平均律クラヴィーア曲集第一巻の前奏曲第一番ハ長調の伴奏を用いています。 その他、「ロミオとジュリエット」(Romio and Juliet)という作品もあります。音楽事典には「幻想交響曲のベルリオーズ(Hector Berlioz)によって敷かれた音楽復興の基礎を新たな軌道に載せたフランス楽派の祖」といわれます。

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に残る名曲 その九十二 グノーとパレストリーナ

フランスの作曲家の続きです。今回はチャールス・グノー(Charles Gounod)です。1818年生まれ。1836年にパリ音楽院に入学し、対位法や作曲法を学びます。太陽王といわれたルイ14世(Louis XIV)が1663年に創設したローマ大賞(Prix de Rome)を受賞し、ローマに3年間留学します。ローマ大賞は、芸術に励むフランス人の若者に対してフランス政府が授与していた奨学金制度で、各部門若手芸術家の登竜門となっていました。

 グノーは、カトリックの宗教曲を多く残し「教会音楽の父」と呼ばれていたパレストリーナ(Giovanni Pierluigi da Palestrina)に強く惹かれます。少なくとも100以上のミサ曲、250以上のモテットを初めとする数多くの教会音楽を作曲し、イタリア人音楽家として大きな名声を得たのがパレストリーナです。ローマ滞在中はサン・ピエトロ大聖堂(Basilica di San Pietro)北隣に位置するシスティナ礼拝堂(Cappella Sistina)の礼拝にもにも参列したとあります。

ローマでの作品は宗教曲と歌曲です。合唱とオーケストラのミサ曲も作ります。グノーは聖職者をめざし神学校で聴講しています。その間宗教曲だけを作っていたという記録があります。ライプツイッヒ(Leipzig)の聖トマス教会(Thomaskirche)でメンデルスゾーン(Mendelssohn)のオルガン演奏を聴いたグノーは、深い印象を受けたといわれます。

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心に残る名曲 その九十一 サンサーンス その1 オルガン奏者

フランスの作曲家、オルガン奏者、ピアノ奏者がサンサーンス(Charles Saint-Saens)です。生まれは1835年。2歳半のときからピアノ奏者だった大伯母からピアノの手解きをうけ、5歳のときには、ハイドンやモーツアルトのソナタを弾くまで成長したようです。

Charles Camille Saint-Saens, French composer and music critic, 1835-1921, Portrait (Photo by Popperfoto/Getty Images)

 サンサーンスは音楽と並んでラテン語を学び、ラテン文学の黄金期を築いたラテン語詩人の一人であるウェルギリウス(Publius Vergilius Maro)などの古典を親しんだといわれます。ウェルギリウスは紀元前70年の頃の人で、ローマで修辞学、弁論術、医学、天文学などの教育を受けたといわれます。サンサーンスはそうした影響を受けて、数学や天文学にも関心を持ちます。広範囲の勉学が広い視野と豊かな知識をもたらしたようです。

10歳のとき、公開演奏会を開き、モーツアルトやベートーヴェンのピアノ協奏曲を全曲暗譜で演奏し聴衆を驚かせたといわれます。そのころ同じくフランスの作曲家グノー(Charles Gounod)と知り合い、13歳でパリ音楽院に入学し、作曲活動に入ります。1857年に教会用大合唱作品「荘厳ミサ」を初演します。同年、パリのマドレータ教会(Madreta Church)のオルガニストに就任するのですが、この地位はオルガン奏者にとって羨望の的であったといわれます。「Madreta」とは聖母マリアのことです。

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心に残る名曲 その九十 ドビュッシーと「月の光」

クロード・ドビュッシー(Claude Achille Debussy)は, 1862年生まれのフランスの作曲家です。早速ですが、ドビュッシーの音楽といえば、誰もが「月の光」(Clair de Lune)というピアノ独奏曲を想い浮かべるだろうと察します。

 ドビュッシーは、パリ郊外の農村で生まれます。家庭は代々農業や手工業に従事した庶民のこです。経済的にも情緒的にも貧しい少年時代をすごしたようです。パリに移ると家にあった旧いピアノの前で夢想に耽ったとか。

1872年にパリ音楽院に入学し10年余りをすごします。「牧神の午後への前奏曲」という10分ほどの管弦楽品を書きます。それが出世作となります。1884年にフランスの奨学金付留学制度「ローマ賞(Prix de Rome)」を受賞し、イタリアのローマへ1885年から2年間留学しています。「月の光」は「ベルガマスク組曲 」(Suite Bergamasque)の中の第3曲です。「Bergamasque」とはイタリア北部のベルガモ地方のことのようです。

その他、代表作に交響詩の「海」という海の情景を表した標題音楽もあります。「夜想曲」(ノクターン)などにみられる長音階や短音階以外の旋法など、伝統になかった音を生みだそうとしています。「牧神の午後への前奏曲」ホ長調もそうです。その曲想は、印象主義音楽といわれ、自然を音で象徴しようとする音楽の絵画のような雰囲気をかもしています。「印象派」と呼ばれたドビュッシーは、19世紀後半から20世紀初頭にかけて最も影響を与えた作曲家といわれてます。

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心に残る名曲 その八十九 交響曲第8番ロ短調

シューベルトの交響曲第8番は、通常「未完成交響曲」(Unfinished Symphony)と呼ばれ、しばしば演奏されています。

 この交響曲は1822年に作曲されます。シューベルトが亡くなる6年前の作品です。交響曲というのは通常4楽章から成ります。シューベルトはグラーツ音楽協会(Graz Musical Society)のためにこの曲に着手し、第一、第二楽章の楽譜を自分が信頼していた友達のフーテンブレンナ(Anselm Huttenbrenner)に託します。どういうわけか、フーテンブレンナは音楽協会に渡さなかったのです。

シューベルトは1828年に亡くなります。それでもフーテンブレンナは楽譜の存在を明らかにしません。76歳になったフーテンブレンナは、1865年にその楽譜のことを指揮者であったヘルベック(Johann von Herbeck)に明かすのです。フーテンブレンナが亡くなる3年前です。ヘルベックは1865年12月に2つの楽章をウィーンで演奏します。

音楽史家は、この交響曲についてさまざまに調べ上げ、この二つの楽章で終曲しており、第三楽章や第四楽章は存在しないと結論づけます。19世紀のクラッシック音楽の傑作であり最も親しまれた作品であるともいわれます。

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心に残る名曲 その八十八 歌曲にはドイツ語がぴったり

フランツ・シューベルト(Franz Schubert)は「歌曲の王」と呼ばれています。「水車小屋の娘」、「魔王」、「白鳥の歌」、「冬の旅」、「糸を紡ぐグレートヒェン」などがしばしば歌われます。「冬の旅」の第5曲目が「菩提樹」、「白鳥の歌」の最後の曲が「影法師」です。「野薔薇」もいい曲です。

 シューベルトの歌曲の特徴といえば、旋律の美しさや詩に含まれる言葉の抑揚やリズムが心地良く響くことです。それにはドイツ語に関連しています。ドイツ語には母音の数が少ない、綴り字と発音が割合に規則的に対応している、アクセントは原則として第1音節にあるなどの特徴があります。単語はおおよそローマ字通りに読むとよいのです。英語に比べると発音がずいぶん簡単なのです。アクセントによって勇ましい感じになるのもドイツ語です。

Sonne、sehen、 singenという単語の母音をみてみましょう。まず母音の前の 「s 」は「ザ、ジ、ズ、ゼ、ゾ」のように濁ります。次ぎに「 ch 」は a, o, u, au の後では、喉の奥をかすらせる音「ハ、ホ、フ」になります。Bach、doch、Buch は、バッハ、ドッホ、ブッフと発音します。

「ウムラウト」(Umlaute)もドイツ語の特徴です。ウムラウトとは変母音と呼ばれ、アクセントのある母音が、後続の i、e 等の前舌母音の発音に引きずられて e に近い発音になることです。例えば、Köln はドイツの都市名ですが、「コロン」に近い発音です。日本語風に「ケルン」と呼ぶのは間違いです。たいした間違いではないのですが、別の意味となります。

私が言いたいことは、歌曲にはドイツ語があっていることです。英語の歌詞で歌うとその違いがわかりますが、、、この辺りは文章で読者に説明するのが難しいです。お許しください。

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心に残る名曲 その八十七 「ロザムンデ間奏曲」第三番

「キプロスの女王ロザムンデ(Rosamunde, Queen of Cyprus)」は11曲からなる劇です。その中に「間奏曲第3番変ロ長調」があります。この間奏曲はたったの3分ほどの曲です。さらっとした曲なのですが、静かで癒されるような美しい小品です。アンダンティーノ(Andantino)というアンダンテ(Andante)よりもやや速めに奏でられる印象的なヴァイオリンの主旋律は親しまれています。

 間奏曲の構成はきちんとしたロンド形式(ABACA)です。最初のAの部分は変ロ長調で始まります。シューベルトはこのメロディーがよほど好きだったらしく、最晩年のピアノ独奏曲『4つの即興曲』第3曲にも用いられているほどです。Aの部分は、四拍子で4小節づつ16小節で終わります。

次はト短調のBに移ります。少し変わった調子ですがこれもありでしょう。最後にニ短調に転調するところはより格調が高くなります。この部分は木管楽器の掛け合いが見事です。Bの後半でオーボエ(oboe)とクラリネット(clarinet)が互いに対話するように競演します。こうした演奏は云うことがないほど聞き惚れます。シューベルトの作品には、オーボエとクラリネットがしばしば登場するような気がします。そしてAの主旋律に戻って終曲となります。

 

 

 

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心に残る名曲 その八十六 「キプロスの女王ロザムンデ」序曲

フランツ・シューベルト(Franz Schubert)は、日本で最も根強い人気のある作曲家の一人といってよいでしょう。たった31歳の生涯で、歌曲、室内楽、交響曲、そして劇付随音楽といわれる作品を600曲以上作ります。その半数が歌曲だったと音楽事典にあります。

ベルリン出身の女流作家ウィルヘルミネ・フォン・シェジー(Wilhelmine von Chezy)の戯曲『キプロスの女王ロザムンデ(Rosamunde, Queen of Cyprus)のために作曲されたのがこの曲です。シューベルトは付随音楽として序曲の他にも劇に沿った音楽をいくつか作曲していたようです。ですがこの序曲のみが演奏されることが多いようです。

 「ロザムンデ」のあら筋です。貧しい田舎町で育った少女ロザムンデ(Rosamunde)でしたが、実は地中海の王国キプロスの王女だったことが分かります。王国に戻り王位を継承してロザムンデが女王に即位すると、王宮では王女の権力を狙って求婚する者が現れたりします。それを嫉んで毒殺を企てたりする者まで現れ、王女は命を狙われるようにもなります。そこへ、若き青年が現れ王女の危機を救い、二人はめでたく結ばれるというお話。

この序曲は、低音から迫るトランペットと弦楽器の演奏から始まります。フルートとオーボエが弦楽器の静かなメロディに合わせて静かに曲が続きます。そして、トランペットが数回響き、曲が静かになります。この序奏が終わると、弦楽器が明るく爽やかな調子に変わります。賑やかで明るいフレーズが軽快に聴こえてきます。軽快なリズムに乗ってティンパニが轟くと迫力も伝わってきます。途中ではオーボエやフルート等の管楽器がやわらかく聴かせる部分をなんどか繰り返し、トランペットやトロンボーンが高らかに響いて終曲となります。演奏時間は約9分位です。

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心に残る名曲 その八十五 ジョン・フィリップ・スーザ その二 「雷神」

19世紀のマーチングバンド(Marching Band)の音楽に貢献したのがジョン・スーザです。父親はポルトガル系、母はドイツ系です。周りの音楽好きの人々に囲まれ、スーザは自然に音楽と親しむようになります。7歳のとき音楽の勉強を始め、父親の紹介で13歳のときに大統領直属のワシントン海兵隊楽団に入団します。そこでトロンボーン奏者となります。

United States Marine Band at Albany, New York, 1888. John Philip Sousa, Leader.

 海兵隊楽団に5年間在籍し、それを退団して各地のオーケストラやバンドを転々とします。1880年に古巣のワシントン海兵隊楽団から指揮者に指名され楽団に復帰します。「ワシントン・ポスト(Washington Post)」や「雷神(Thunderer) 」はこの時期の作品といわれます。

1892年、スーザが36歳のとき「スーザ吹奏楽団(Sousa’s Band)」を結成し、9月にニュージャージー州で第1回の公演を行います。その後全米各地への演奏旅行に出掛けます。ヨーロッパにも数度の演奏旅行に出掛けます。当時はラジオやテレビがないので、演奏会はどこも満員だったといわれます。

スーザ吹奏楽団は金管や木管楽器、打楽器による大編成だったので、まるで「軍楽隊オーケストラ(military orchestra)」とも呼ばれました。多くの団員を擁していたので、野球チームを作ったようです。投手はもちろんスーザでありました。

「雷神」は華やかで軽やか、浮き浮きするようなメロディです。この作品は、スーザが最も早い時期に作曲しアメリカらしいサウンドの行進曲と呼ばれています。この行進曲は、スーザの他の曲と同様の標準的な形式(AABBCDCDC)をとっています。Bセクションの反復部では、対位法的旋律が導入されています。

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心に残る名曲 その八十四 ジョン・フィリップ・スーザ その一スーザフォーン 

北海道の名寄南小学校で低学年を過ごしました。そのとき、学校に吹奏楽部がありました。そこで聴いたのが行進曲です。後でその曲がスーザ(John Philip Sousa)というアメリカの作曲家であることを知りました。道立旭川西高校でも吹奏楽部があり、街の祭りでは他の学校に交じって行進していました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

スーザは元アメリカ海兵隊(United States Marine Corps-USMC)の音楽隊隊長で「行進曲の王様(March King)」と呼ばれたようです。「ワシントン・ポスト(Washington Post)」など100曲を超えるマーチを作曲します。「常に忠誠を(Semper Fidelis)」という曲は、海兵隊の正式行進曲として知られています。1987年12月に合衆国の「国の公式行進曲」(National March)に制定されたのが、「星条旗よ永遠なれ(Stars and Stripes Forever)」です。

吹奏楽部というのは、別名マーチングバンドなどと云われます。そこで用いられるマーチング用チューバのスーザフォーン(sousaphone)です。この楽器はスーザの考案によって命名されます。マーチングバンドの後方から放たれる重低音は、行進曲に重厚感を与えます。その巨大な姿による圧倒的な存在感を観衆に示す楽器でもあります。

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心に残る名曲 その八十三 メンデルスゾーン その3 ピアノ協奏曲第1番

メンデルスゾーンはバッハの音楽の復興、ライプツィヒ音楽院(Hochschule für Musik und Theater)の設立など、19世紀の音楽界に大きな影響を与え一人です。1901年に瀧廉太郎がこの音楽院に留学しています。「ヴァイオリン協奏曲」「無言歌集」など今日でも広く知られる数々の作品を生み出しています。

ベルリンにおいてバッハの「マタイ受難曲(Matthaw Passion)」を編曲し、自らの指揮によりこの曲の復活を果たします。1750年にバッハが没してから初となるこの演奏の成功は、ドイツ中、そしてついにはヨーロッパ中に広がるバッハ作品の復活につながる重要な出来事だったといわれます。この公演は、バッハのマタイ受難曲が難解であることに加えて、慈善公演として成功させます。当時「世界で最も偉大なキリスト教音楽をユダヤ人が復興させた」と評されたほどです。ルーテル派に改宗したメンデルスゾーンは、マタイ受難曲を「この世で最も偉大なキリスト教音楽」と考えていたといわれます。

1826年に作曲したシェイクスピアの劇作「真夏の夜の夢(A Midsummer Night’s Dream)」の序曲、「結婚行進曲(Wedding March)」なども知られています。ついでですが、祝婚曲といえばワーグナー(Richard Wagner)のオペラ「ローエングリン(Lohengrin)」の中の「婚礼の合唱」も有名です。

メンデルスゾーンはピアノ奏者でもあったので、曲には技巧を誇示するような華やかな雰囲気を感じさせてくれます。これは楽想は「カプリチオ的(Capriccio)」といわれ、形式にとらわれず生気のある楽曲です。ピアノ協奏曲第1番ト短調やヴァイオリン協奏曲ホ短調も管弦楽の序奏がなく、主題の展開で活き活きした着想と機知に富んだ点が目だちます。

メンデルスゾーンはまた多くの歌曲も作っています。ハイネ(Heinrich Heine)の「歌の本(Buch der Lieder)」の詩からとった「歌の翼に」や無言歌集第30番の「春の歌」も親しみのある旋律で有名です。

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心に残る名曲 その八十二 メンデルスゾーン その2 交響曲第2番「賛歌」 

メンデルスゾーン(Felix Mendelssohn) は、ドイツ・ロマン派の作曲家、指揮者、ピアニスト、オルガニストです。1809年生まれです。父Abraham Mendelssohnは銀行家、有名な哲学者Moses Mendelssohnの次男です。母Leaはプロイセン(Prussia)宮廷の宝石細工の娘でした。3歳のときベルリンに移住し、両親の慎重な教育計画にそって育てられます。9歳のときにすでにピアノ奏者として公衆の前で演奏し、神童の一人とも云われていたようです。

 メンデルスゾーンの家には、詩人、音楽家、哲学者、科学者が集まり、私的な音楽会を開いたり、芸術論をたたかわせるサロンのような状況であったようです。こうした環境でメンデルスゾーンは音楽や文芸的な素養が育まれたと考えられます。1816年に家族全員が改宗しルーテル教会信徒となります。ユダヤ系ドイツ人としての葛藤があったようです。1819年に1821年にはワイマール(Weimar)でゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)にも会います。1829年にイギリスを訪問し、イギリスの聴衆がメンデルスゾーンの音楽に対して共感を示します。旅先で「フィンガルの洞窟」を作曲します。

1830年からヨーロッパ中を駆け巡る旅が始まります。ミュンヘン、ウィーン、ナポリ、ローマ、パリ、ロンドンなどの都市で演奏します。その頃、ベルリオーズ(Louis Berlioz)やリスト、ショパンなどと知遇をえます。交響曲「スコットランド」、「イタリア」などの着想を得たといわれます。後に「宗教改革(Reformation)」と呼ばれる交響曲第5番を作曲します。数多い詩篇やカンタータではバッハの手法を学んでいます。オラトリオ「聖パウロ(St. Paul)」、「エリア(Elijah)」ではヘンデルから影響を受けたようです。聖歌のモチーフを使用し、宗教への関心の深さを示しています。交響曲第2番「賛歌」の終楽章では声楽を用い、ベートーヴェンの合唱付きの影響を受けたことがわかります。

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心に残る名曲 その八十一 メンデルスゾーン その1 Symphony No. 4 in A Major

「 交響曲イタリア」と呼ばれるこの曲は、明るく伸びやかな音色、親しみのある旋律で知られています。A Majorとはイ長調ということです。長調は長音階に基づく調べの意味で、音楽の世界では、ドイツ語でのA Durと呼ぶのが一般的のようです。

「交響曲イタリア」は、 1833年3月にロンドンで初演されたとあります。作曲したのはドイツの作曲家、メンデルスゾーン(Felix Mendelssohn)です。16の交響曲や交響詩を書いています。彼の交響曲では最も知られた曲といわれます。イタリアの風景や調べに満ちていることからこのニックネームが付けられたようです。

メンデルスゾーンは、初期ロマン派の音楽家で作曲、指揮、教師として活躍します。ロマン派音楽とは、バロック音楽や古典派音楽から受け継がれた和声語法を言い表します。和声の流麗さ、長く力強い旋律、表現の基礎としての詩情とか文学との融合など、音楽の「調性」という概念が確立したものがロマン派音楽と呼ばれています。

ロマン派音楽は「ロマンティックな音楽」といった雰囲気を連想させますが、むしろオーケストラの規模を拡大し、ソナタ形式の伝統に基づく音楽です。ソナタ形式の音楽は、 序奏部、 展開部、再現部、結尾部といった楽曲から成ります。「交響曲イタリア」を聴くとロマン派音楽をほうふつとさせます。

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心に残る名曲 その八十 ショスタコーヴィチ その3 「交響曲第5番」

本日、ミルウォーキの近く住む、かつての国際ロータリークラブのスポンサーから手紙がきました。ユダヤ暦の新年の挨拶、ロシュ・ハシャナ(Rosh Hashanah)と住所変更の知らせでした。ショスタコーヴィチがユダヤ音楽に造詣が深いことを考えていたので、少々驚きでした。

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 ショスタコーヴィチがユダヤ音楽の主題を使った歌曲集「ユダヤの民俗詩から」を作曲したのが1948年です。ブリタニカによると、ピアノ三重奏曲第2番の最終楽章のユダヤ旋律が明瞭に引用されているというのでYouTubeで聴いてみました。預言の音楽,祈りの歌,労働歌,典礼の音楽,哀歌といったものが複雑に混ざった印象を受けます。

ショスタコーヴィチの経歴や作曲歴を音楽事典から引用してみます。
1906年 9月25日、ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクで誕生
1915年夏、母親から初めてのピアノのレッスンを受ける
1916年 グリャッセール音楽学校に入学
1919年 ペテルブルク音楽院に入学
1929年 交響曲第3番
1937年 交響曲第5番
1941年 交響曲第7番
1944年 ピアノ三重奏曲第2番
1945年 交響曲第9番
1948年 アンドレイ・ジダーノフ(Andrey Zhdanov)がショスタコーヴィッチはじめ著名な文化人や知識人に対する抑圧政策を主導
1948年 ヴァイオリン協奏曲第1番
1949年 弦楽四重奏曲第4番
1951年 24の前奏曲とフーガ
1962年 交響曲第13番
1971年 交響曲第15番

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心に残る名曲 その七十九 ショスタコーヴィチ その2 「ユダヤ音楽への傾倒」

フィンランドのシベリウス(Jean Sibelius)、ロシアのプロコフィエフ(Sergei Prokofiev)と共に、マーラー(Gustav Mahler)以降の最大の交響曲の作曲家といわれているのがショスタコーヴィチ(Dmitrii Shostakovich)です。交響曲だけでなく、多くの弦楽四重奏曲を残し、20世紀最大の作曲家の一人という評価を受けています。「交響曲第5番ニ短調」など、曲全体が暗く重い雰囲気のものが多い印象を受けます。

それでも、交響曲 第7番 ハ長調 作品60「レニングラード」は、第二次大戦中にナチスドイツがレニングラードを包囲したそのさなかで作曲され、ファシズムに対する戦いと「宿命的勝利」が表現されています。明るい未来や希望を託したような印象を受ける曲です。

ショスタコーヴィチは、マーラーへの興味をはじめとして 交響曲第5番などでユダヤ教会での典礼の詠唱の旋律を引用したりしています。ユダヤ音楽へ傾倒していたことが伺われます。例えば、交響曲第7番の第1楽章終わりでは、クレズマー旋律(Klezmer)が使われています。クレズマー旋律とは、イディッシュ(Yiddish)とよばれる東欧系ユダヤ、アシュケナジム(Ashkenazim)の民謡をルーツに持つ音楽ジャンルのひとつです。19世紀後半からアシュケナジムの移民と、第二次世界大戦前後に東欧やドイツを逃れたユダヤ人らが婚礼などの儀式を通して継承してきた音楽のことです。

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心に残る名曲 その七十八 ショスタコーヴィチ その1 交響曲の作曲家

ロシアの作曲家、音楽家といえば19世紀のチャイコフスキー(Pyotr Tchaikovsky)、そして20世紀はショスタコーヴィチ(Dmitrii Shostakovich)といえるでしょう。もちろん他にも民族主義的な芸術音楽の創造を志向した「ロシア5人組」といわれた音楽家がいます。リムスキー・コルサコフ(Nikolai Rimsky-Korsakov)もその一人です。民族色豊かなオペラとか色彩感あふれる管弦楽曲を数多く作曲しています。音楽の特徴として、反ヨーロッパ、反アカデミズムを標榜したとされます。それは、ロシアの地からの題材やロシア民謡の要素に基づき親しみやすい作品を書くといった考えです。

ショスタコーヴィチは1919年にペテログラード音楽院(Petrograd Conservatory)に入学します。そこでピアノを学ぶと同時に作曲学の講義を受けます。1927年にはショパン国際コンクール(Chopin International Competition)で高い評価を得ます。しかし、ピアノ奏者としてではなく、作曲活動に邁進していきます。

1937年にはレニングラード音楽院(Leningrad Conservatory)で作曲部門の教師となります。1941年にドイツ軍に包囲されているレニングラードで交響曲第七番を作曲します。一時レニングラードを脱出し、そして1943年にモスクワに居を構えて本格的な作曲活動に入ります。モスクワ音楽院(Moscow Conservatory)とレニングラード音楽院の教師として復帰します。

しかし、作曲活動は容易ではなかったようです。それはソビエト政府が決める音楽のスタンダードに添った作品を書かなければならなかったからです。それでも15の交響曲、多くの室内楽曲や協奏曲などを書いています。

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心に残る名曲 その七十七 グスタフ・マーラー その3 「1,000人の交響曲」

オーストリアの作曲家グスタフ・マーラー(Gustav Marhler)の三回目です。アメリカには大勢のユダヤ系の人々が住んでいました。ヨーロッパからのユダヤ系の移民も多かったからです。皆、反ユダヤ主義の迫害を逃れてきた人々です。マーラーにとって異国とはいえ、安らぎを覚えた国であったに違いありません。

 マーラーの作品は交響曲と歌曲に二分されます。テノールとアルトのための歌曲集と云われるのが「大地の歌」です。これはマーラーの晩年の傑作で6つの楽章から成るものです。

さらにマーラーは後年、10の交響曲を作曲します。交響曲第2番から4番では独唱や合唱、そして管弦楽のための大カンタータを作曲します。交響曲第8番変ホ長調ではオーケストラに加えて2つの混声合唱団、児童合唱団、8人の独奏者、そしてパイプオルガンが加わります。その規模を指して「1,000人の交響曲」とも呼ばれています。1時間半の「半端ではない」演奏です。

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心に残る名曲 その七十六 グスタフ・マーラー その2 反ユダヤ主義の台頭

オーストリアの作曲家グスタフ・マーラー(Gustav Marhler)の二回目です。1880年頃から指揮者としてチェコの地方劇場で演奏します。得意のレパートリーとしていたのがワーグナー(Richard Wagner)やモーツアルト(Wolfgang Amadeus Mozart)です。1891年にはハンブルグ市立歌劇場(Hamburgische Staatsoper)の首席指揮者となり、ハンブルグ管弦楽団(Philharmoniker Hamburg)を率いて演奏します。さらに1897年には、ウィーン国立歌劇場(Wiener Staatsoper )の総監督に就任。ヨーロッパ音楽界の最高の地位に就きます。

その頃からヨーロッパでは反ユダヤ主義が急成長していきます。反ユダヤ主義者がウィーン市長になると、マーラー批判を繰り広げていきます。マーラーはユダヤ人であることを意識しながら、ワーグナーの反ユダヤ主義の政治思想から距離をとっていきます。そして、ユダヤ教からカトリックに改宗するのですが、反ユダヤ主義者は、「ゲルマン文化の冒涜者」としてマーラーをウィーン宮廷歌劇場の総監督の座から下ろすのです。

マーラーは後年、10の交響曲を作曲するのですが、どれもウィーンの古典派の伝統に基づきながらも、その伝統を新しい角度から見直して斬新な音楽の世界を開拓するという意図が反映されているといわれます。交響曲第8番はその代表です。「1,000人の交響曲」とも呼ばれています。しかしながら、芸術上の冒険をあまり好まないウィーン市民の気質との確執で、マーラーはウィーンを離れることを決心したようです。

反ユダヤ主義者に攻撃されたマーラーは、1907年12月にニューヨークへ渡ります。そしてメトロポリタン歌劇場(Metropolitan Opera House)やニューヨークフィル(New York Philharmonic)の指揮者として活躍し始めるのです。

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心に残る名曲 その七十五 グスタフ・マーラー その1ユダヤの家系

オーストリアの作曲家にグスタフ・マーラー(Gustav Marhler)がいます。1860年生まれです。20世紀初頭にかけてヨーロッパやアメリカで活躍した指揮者であり作曲家です。

オーストリア帝国に併合されていたボヘミヤ(Bohemia)の寒村カリステ(Kalischt)で、ブランデーの製造を営むユダヤ人家庭で育ちます。4歳のころからピアノを学び音楽の才能を示します。その後、イグラウ(Iglau)tという街にあるギムナジウム(Gymnasium)に入学します。ギムナジウムというのは中高一貫校のようなものです。

その頃から、彼は、もともとチェコ人(Czech)でありながらドイツ語を話し、国籍がオーストリア人でありながら、ユダヤ人であるという人種の葛藤を経験します。それが後の作曲活動や作品にも影響を与えることになります。

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心に残る名曲 その七十四 アントニエッタ・ステッラと二人のライバル 

ステッラは、1950年代から1960年代に活躍したイタリアの代表的な歌手です。彼女の活躍した時代には、二人の巨星といわれるソプラノ歌手がいました。マリア・カラス(Maria Callas)とレナータ・テバルディ(Renata Tebaldi)です。少し割を食ったのが、ステッラを含めた同じ世代のソプラノ歌手といえそうです。ステッラは、NHKイタリア歌劇団公演で3度にわたり来日しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

女性の声の種類は、ソプラノ、メゾソプラノ、そしてアルトに分けられます。ソプラノにはいくつかの種類があります。よく聞くのがコロラトゥーラ(coloratura)で、歌いが速くコロコロと転がすような装飾が付くのが特徴です。もう一つはスピント(spinto)といって、情熱的で激しい感情をあらわす声のソプラノです。スピントのソプラノ役柄は例えば、「カヴァレリア・ルスティカーナ」(Cavalleria Rusticana)、「トロヴァトーレ」(Trovatore)、「ドン・カルロ」(Don Carlo)といった歌劇でしょう。

ステッラもマリアカラスもスピントの歌手といえそうです。19世紀中頃からのロマン派オペラから多く現われています。ヴェルディ(Giuseppe Verdi)やプッチーニの歌劇での歌唱で知られています。

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心に残る名曲 その七十三 歌手アントニエッタ・ステッラ

1960年代の学生時代に僅かの小遣いを使って、中古のLPレコードを始めて買いました。手にしたのが、『ラ・ボエーム』(La Bohème)という歌劇のレコードです。ジャコモ・プッチーニ(Giacomo A. Puccini)の作曲した4幕オペラで、最もよく演奏されるイタリアオペラです。ジャケットに美しい女性が載っていました。それがイタリアのソプラノ歌手アントニエッタ・ステッラ(Antonietta Stella)です。

 19世紀、パリのカルチェラタン(Latin Quarter)には、貧しい学生や芸術家が多く住んでいます。主人公のミミ(Mimi)もその一人です。貧しいお針子(seamstress)です。そこのアパートに一緒に住んでいたのが詩人・ロドルフォ(Rodolfo)です。彼も貧しく火の気の無い部屋で仕事をしています。暖炉に入れて売れ残りの原稿をくべて寒さに耐えています。二人ともボヘミア(Bohemia)からの移民のようです。 「Bohème」とはボヘミア人という意味です。

あるときミミがロウソクの火を借りにロドルフォの部屋のドアをたたきます。ロドルフォが開けると、ミミはめまいがして床に倒れ込むのです。介抱されたミミは火を借りて礼を言い、戻ります。そのときミミは鍵を落としたことに気がつき戻ってきます。戸口で風がローソクの火を吹き消してしまいます。暗闇で二人は鍵を探すのです。ロドルフォが先に見つけそれを隠してミミに近寄ります。それから彼女の手を取り、はっとするミミに自分のことを詩人だと云って聞かせるのが「」冷たい手を(Icy cold hand)」です。続いてミミも自己紹介をして歌うのが「私の名はミミ(They Call Me Mimi)」です。

やがて二人の愛情のこもった二重唱で幕がおります。

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心に残る名曲 その七十二 グリークと「ピアノ協奏曲イ短調」

グリーグによる唯一のピアノ協奏曲(Concerto in A minor)です。1868年デンマークのSollerodに訪問している時に作曲されたグリーグ初期の傑作といわれます。たった一曲のピアノ協奏曲とは珍しいことです。我々日本人の琴線に触れる旋律がこの曲にはあります。色彩豊かな旋律、金管楽器の壮麗な演奏、ピアノ奏者でもあったグリークは繊細なメロディをピアノに添えています。

第一楽章 Allegro molto moderatoは、やや早めの楽想です。ティンパニーに続いてピアノが響き、そして管弦楽でテーマが演奏されます。ソナタ形式のよりテーマが繰り返されます。甘い旋律のテーマはしびれる程です。第一楽章は12分の演奏です。第二楽章Adajoは北欧の自然や村、フィヨルドを思い起こさせるような優雅な曲です。第三楽章Prestは、文字通り軽快で速い演奏です。終章には新たな抒情的なテーマ曲がピアノで演奏されます。管弦楽が国歌とも思えるメロディを奏でて終わります。

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心に残る名曲 その七十一 グリークと「抒情小曲集」

グリークはライプツイッヒ音楽院での留学後、帰国してベルゲン(Bergen)でピアニストや作曲家として活躍します。次第にドイツやデンマークのロマンティックな語法から離れ、やがてノルウェーの国民主義的形式に向かいます。故郷の民俗音楽的要素に基づく作曲活動をしていきます。ノルウエーの民俗音楽に創作の原典を見いだし、やがて種々の編曲を通じて国民的な音楽の基礎を築きます。そして母国の民謡や舞曲を芸術的なものに高めるのです。

 グリークは1871年に音楽協会を設立します。グリークの作曲の特徴は、小規模な歌曲やピアノ曲において最も発揮されているようです。1867年から1903年にかけて作曲した全66曲からなる「抒情小曲集」第3集があります。その中の「春に寄す」という曲は、春の息吹とノルウェーの美しい情景が目に浮かぶ抒情的な作品です。「2つのノルウェー民謡による即興曲」、「ノルウェーの踊りと歌」といったピアノ独奏曲もあります。歌曲では「山とフィヨルドの思い出」、合唱曲アルバムでは「ノルウェー民謡による12曲」が知られています。

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心に残る名曲 その七十 グリークとドイツロマン派音楽 

先日、鬼籍に入った囲碁仲間がいます。入院している病院に見舞いに行ったところ、前日の早朝に亡くなられたとか。もう少し早めに見舞うべきでした。

ペール・ギュント(Peer Gynt)の物語に放蕩息子を溺愛する母親オーゼ(Ase)の死の曲があります。管弦楽の荘重な響きが悲しみを伝えています。葬送曲といえばいろいろなジャンルがあります。代表的なものはレクイエム(Requiem)がです。鎮魂歌ともいわれ、死者の安息を願うミサ曲です。モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart)の「レクイエム ニ短調」が有名です。葬送行進曲もあります。葬儀に死者を運ぶときに使われます。ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)の交響曲第3番「英雄」の第2楽章が知られています。

さて、グリークの作品の特徴です。彼の両親はスコットランド系とドイツ系で、母親はピアノを弾いていたのでその薫陶を受けます。1858年にライプチッヒ音楽院(Hochschule für Musik und Theater)に4年間留学します。この音楽院は、メンデルスゾーン(Felix Mendelssohn)によって創立されたとあります。そこで和声対位法、作曲法などを学び、特にシューマン(Robert Schumann)らのドイツロマン派音楽の影響を受けます。1868年、グリークがデンマークで25歳のときに作曲した「ピアノ協奏曲イ短調作品16」はロマン派音楽の香りが濃く漂います。

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心に残る名曲 その六十九 グリークと「ペール・ギュント」

主人公のペール・ギュント(Peer Gynt)の物語です。彼は嘘つきで仕事嫌い。おまけに妄想好きです。父親は道楽者で散財して臨終となります。ただ息子を溺愛する母親オーゼ(Ase)と貧しい2人暮らしです。

ペールにはソルヴェイグ(Solveig)という村の結婚式で出会った恋人がいます。知り合いのイングリッド(Ingrid)を結婚式でさらい山の中へ逃走します。嘆き悲しむイングリッドに飽きて、放浪し続けた先で山の魔王といざこざを起こし家に帰ります。ちょうど母親オーゼが死ぬ間際です。彼女は最愛の息子に看取られながら亡くなります。

その後、ペールはアフリカに渡って一人前のペテン師になって大もうけし、モロッコ(Morocco)でベドウィン (Badawin)の部族に迎えられます。酋長の娘アニトラ(Anitra)を誘惑したつもりですが、逆に騙されたあげく財産を全て取られてしまいます。その後、また大金持ちになり帰郷するのですが、途中で船が難破。命からがら帰り着いたペールは、彼を待ち続けていたソルヴェイグと再会します。彼女は彼を許し子守歌を歌い、ペールはその安らぎの中で息絶えるという筋です。

ペール・ギュントの破天荒な生き方を組曲で表現したのがグリークです。グリークは数度に渡って組曲を入れ替えています。1891年に編曲された第1組曲では次のような曲となっています。まだ「ソルヴェイグの歌-Solveig’s Song」(イ短調)は入っておりません。

第1曲「朝」(ホ長調)Morning Mood
第2曲「オーセの死」(ロ短調)The Death of Ase
第3曲「アニトラの踊り」(イ短調)Anitra’s Dance
第4曲「山の魔王の宮殿にて」(ロ短調)In the Hall of the Mountain King

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心に残る名曲 その六十九 グリークと「ペール・ギュント」 

主人公のペール・ギュント(Peer Gynt)の物語です。彼は嘘つきで仕事嫌い。おまけに妄想好きです。父親は道楽者で散財して臨終となります。ただ息子を溺愛する母親オーゼ(Ase)と貧しい2人暮らしです。

ペールにはソルヴェイグ(Solveig)という村の結婚式で出会った恋人がいます。知り合いのイングリッド(Ingrid)を結婚式でさらい山の中へ逃走します。嘆き悲しむイングリッドに飽きて、放浪し続けた先で山の魔王といざこざを起こし家に帰ります。ちょうど母親オーゼが死ぬ間際です。彼女は最愛の息子に看取られながら亡くなります。

その後、ペールはアフリカに渡って一人前のペテン師になって大もうけし、モロッコ(Morocco)でベドウィン (Badawin)の部族に迎えられます。酋長の娘アニトラ(Anitra)を誘惑したつもりですが、逆に騙されたあげく財産を全て取られてしまいます。その後、また大金持ちになり帰郷するのですが、途中で船が難破。命からがら帰り着いたペールは、彼を待ち続けていたソルヴェイグと再会します。彼女は彼を許し子守歌を歌い、ペールはその安らぎの中で息絶えるという筋です。

ペール・ギュントの破天荒な生き方組曲で表現したのがグリークです。グリークは数度に渡って組曲を入れ替えています。1891年に編曲された第1組曲では次のような曲となっています。まだ「ソルヴェイグの歌-Solveig’s Song」(イ短調)は入っておりません。

第1曲「朝」(ホ長調)Morning Mood
第2曲「オーセの死」(ロ短調)The Death of Ase
第3曲「アニトラの踊り」(イ短調)Anitra’s Dance
第4曲「山の魔王の宮殿にて」(ロ短調)In the Hall of the Mountain King

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心に残る名曲 その六十八 グリークと「北欧のショパン」

私は1971年に家族とともに沖縄に出掛けました。そして那覇で「丘の上幼稚園」を開設しました。本土復帰の翌年の1973年のときです。幼稚園は那覇市外を見下ろすことのできる上之屋というところにありました。園庭の隣りには市の泊浄水場がありました。

那覇は、赤いデイゴやハイビスカスと紺碧の空、そしてエメラルドの海で朝が始まります。幼稚園の朝はいつも同じ音楽を流しました。それがグリーク(Edvard Hagerup Grieg)の有名な組曲「ペール・ギュント(Peer Gynt Suite)」の第一曲である「朝(Morning Mood)」でした。オーケストラの伸びやかで爽やかな旋律が園庭に広がりました。

「北欧のショパン」と呼ばれるのがノルウェー(Norwegian)の作曲家グリークです。数多くのピアノ小品を残したからです。1843年にベルゲン(Bergen)生まれます。やがて壮大なクラシック音楽の数々を世に送り出していきます。本人も卓越したテクニックのピアニストとしても著名で、沢山の自作をヨーロッパ各地で演奏したようです。

「ペール・ギュント」は、数あるグリーグの作品の中で最も知られています。同じノルウェーの劇作家ヘンリク・イプセン(Henrik Johan Ibsen)の戯曲が「ペール・ギュント」です。グリークはその付随音楽として作曲します。

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心に残る名曲 その六十七 チャイコフスキーと日本人 その十三 ドン・コサック合唱団とアメリカ

ドン・コサック合唱団の名称は、ドン川からつけられています。この川はモスクワの南東から始まり、南西へと向かい約2,000kmを流れる大河です。ところでコサックの生き方を題材とした「静かなるドン」があります。ミハイル・ショーロホフ(Mikhail Sholokhov)の作品です。彼はソビエトを代表する作家といわれます。ロシア革命に翻弄され、黒海沿岸のドン地方に生きるコサック達の物悲しい生きざまを描いています。

ソフィア(Sofia)からオーストリア(Austria)の首都ウィーン(Vienna)へと演奏の旅を続けます。1923年7月にウィーンで開いた演奏会は大賛辞をもらい、その後一万回の演奏会へ続きます。1926年にはオーストラリア(Australia)での演奏旅行をし、そのときサーヴァ・カマラリ(Savva Kamaralli)というリードテナー(lead tenor)がオーストラリアに定住することを決意するという出来事もあります。1930年にはアメリカでの演奏旅行を始め、1936年には団員全員がアメリカの市民権を取得することになります。

ドン・コサック合唱団の指揮者はセルゲイ・ジャーロフ(Serge Jaroff )です。腕を少し動かし、手の平と指で団員に指示を与えます。指揮者にありがちなダイナミックな指揮と違い、少しも派手ではありません。団員一人ひとりが豊かな声量を有しているので大袈裟な身振りは必要がなかったようです。

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心に残る名曲 その六十六 チャイコフスキーと日本人 その十二 ドン・コサック合唱団

第二次大戦後、日本にも何度も訪れ演奏会を開いたドン・コサック男声合唱団のことです。この合唱団はいわば男声合唱の世界では先駆的なグループといえるでしょう。その後、ロバート・ショウ合唱団(Robert Shaw Chorale)、ロジェ・ワグナー合唱団(Roger Wagner Chorale)、ノーマン・ルボフ合唱団 (Norman Luboff Choir)などが結成されます。ドン・コサック合唱団は1930年代から50年代にかけてアメリカで人気を得ます。コサックの衣装をまといロシアの聖歌やオペラ曲、軍歌、民謡などをアカペラで歌いました。

歴史を1920年代に戻しましょう。コサック隊は帝政ロシアの側について農民運動などを鎮圧していくのですが、内紛でボルシェビキによって組織された赤軍との争いでコサック隊は完全に制圧されます。そのため隊員は各地に逃れていきます。コサック隊員はイスタンブールの近くにあったシリンジア(Cilingir)というトルコの捕虜収容所で合唱団を組織するのです。これがドン・コサック男声合唱団の始まりです。そして教会での礼拝で歌い、やがてギリシャのレムノス島(Lemnos)という淋しい街に移動します。その島を領有していたのはイギリス軍ですが、野外コンサートでは大変な人気を得ます。その合唱団の指揮をしていたのが元ロシア帝国軍人、セルゲイ・ジャーロフ(Serge Jaroff)です。

その後、ドン・コサック男声合唱団はブルガリア(Bulgaria)のバーガス(Burgas)という街に移ると、そこでロシアの公使から教会附属の合唱団になるように勧められます。教会は貧しく、テント生活をしていた隊員を十分に支えることができませんでした。隊員は歌う傍ら働くことを余儀なくされます。そして、首都のソフィア(Sofia)でようやく宿舎が与えられるのです。1923年6月にソフィアの大聖堂アレキサンダー・ネフスキ教会 (Alexander Nevsky Cathedral)で公のデビュを果たすのです。

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心に残る名曲 その六十五 チャイコフスキーと日本人 その十一 ボリシェヴィキの一党独裁

ロシア帝国は官尊民卑の風潮が強く、至るところで官等、制服、勲章がものをいう時代だったと云われます。身分制度による差別がやがて農民や労働者の蜂起につながっていきます。運動はさらに内戦状態へと移ります。

多数派と呼ばれたボリシェヴィキは、戦時共産主義と呼ばれる極端な統制経済策をとります。この理由はこの内戦を戦い抜くためという大義がありました。あらゆる企業の国営化、私企業の禁止、強力な経済の中央統制と配給制、そして農民から必要最小限のものを除く、すべての穀物を徴発する穀物割当徴発制度などから成っていました。

この政策は戦時の混乱もあって失敗に終わります。ロシア経済は壊滅的な打撃を受け、農民は穀物徴発に反発して穀物を秘匿し、しばしば反乱を起こします。また都市の労働者もこの農民の反乱によって食糧を確保することができなくなり、深刻な食糧不足に見舞われるようになります。1921年には、工業生産は大戦前の20%、農業生産も3分の1にまで落ち込んだと云われます。

この内戦と干渉戦はボリシェヴィキの一党独裁を強めていきます。ボリシェヴィキ以外のすべての政党は非合法化されます。レーニンによって十月革命直後の1917年12月に人民委員会議直属の機関として設立された秘密警察組織チェーカ(Cheka)は裁判所の決定なしに逮捕や処刑を行う権限を与えられます。1918年8月には左翼社会革命党の党員がレーニンに対する暗殺未遂事件を起こします。これをきっかけに革命勢力や反政府勢力、共産主義政府が起こすテロである「赤色テロ」を宣言して対抗します。他方、復古勢力や政府が起こすテロは「白色テロ」と呼ばれました。秘密警察組織

退位後監禁されていたニコライ2世とその家族は、1918年7月、反革命側に奪還されるおそれが生じたために銃殺されます。ロマノフ王朝の完全な消滅です。

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心に残る名曲 その六十四 チャイコフスキーと日本人 その十 ステンカ・ラージン

ロシアの工業も農民の労働力に大きく依存していました。農民は、工場に買われた占有農民、工場に編入された編入農民に分かれます。いずれもほとんどが出稼ぎ農民だったといわれます。19世紀末にも工業や建設の労働者の大半は出稼ぎ農民でありました。やがて重工業の熟練労働者を中心に完全な都市労働者の階層がうまれ、労働運動に影響を及ぼしていきます。

農民運動は民族運動と結びつき、大量の農民逃亡が起こります。それを押さえ込むために、帝政ロシア政府は各地で暗躍し始めたコサック兵(Cossacks)の取り込み政策を行い成功していきます。コサックとは、没落した欧州諸国の貴族、逃亡した農奴、遊牧民の盗賊で形成された独特の軍事的共同体のことです。18世紀以降から帝政ロシアによる自治剝奪後に国境警備や領土拡張の先兵、国内の民衆運動や革命の鎮圧などを行っていきます。

日本でも知られるロシア民謡に『ステンカ・ラージン(Stenka Razin)』があります。コサックの指導者の一人で、モスクワの総主教や金持ちの商人の積荷を積んだ船団を撃破するなど、農民だけでなく下層階級の支持を受けるようになります。やがてステンカ・ラージンは、帝政に対して蜂起し、ロシアの貴族や官吏を追放し、階級の存在しない平等な「コサックの国」の樹立を宣言します。カスピ海にも乗り出したステンカ・ラージンは、ペルシアの沿岸を荒らしていきます。そして遂にはペルシア艦隊を撃滅し、いわばステンカ・ラージンは手のつけられない存在となっていきます。ステンカ・ラージンは反政府の武装蜂起を公然と開始します。

ドン・コサック(Don Cossacks)のことです。はロシア帝国の軍隊として働き、数々の戦争に参加しし、露土戦争やクリミア戦争での活躍が知られています。名称は、根拠地を流れるドン川に由来するといわれます。祖国戦争でも7万のドン・コサック兵がナポレオン軍と闘います。モスクワ総主教がラージンを破門したと聞いたドン・コサックもラージンに叛旗を翻します。

ドン・コサックは、軍役のほかに警察業務を担当していたことから、体制派とか帝政派の支持者、民衆の弾圧者、また革命への反逆者というイメージが強く形成されたようです。ロシア内戦期にも、ドン・コサック軍は皇帝への忠誠を守り、その結果、ボリシェヴィキとの戦争で赤軍に敵対します。そのため、革命時期には内紛によりドン・コサックは白軍と赤軍に分かれ、白軍は敗れていきます。白軍には革命への反逆者としての汚名が残ります。

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心に残る名曲 その六十三 チャイコフスキーと日本人 その九 身分制度と農奴

ロシア革命の歴史を辿りますと、この国の複雑な身分制度が大きな要因になっていることがわかります。ロシア帝国は住民の身分的な編成を特徴としています。農村共同体の維持や強化、身分別選挙なで身分差別は維持されていました。

2924369 01.06.1974 “Наказание крепостного батогами дворового в присутствии семьи помещика и дворни.” Гравюра Х. Гейслера. Конец XVIII века. РИА Новости/РИА Новости

人頭税の導入も特徴といわれます。ロシア社会は大きく二つに分けられます。僧侶と貴族、名誉市民は人頭税と徴兵を免除されていました。19世紀末には、人口の7割以上がロシア教会に所属していました。独身の黒僧(修道士)と家族持ちの白僧に分かれ、主教などの教会上層部は黒僧によって占められていました。貴族は世襲貴族と一代貴族があり、後者は軍隊や官庁で一定の官位に昇進した者です。さらに上位に昇進すると世襲貴族となります。

ロシア帝国は農業国です。人頭税もはじめは都市住民が3%、残りの97%は農民が負担していました。農民の2割は国有地で、3割は教会領に住んでいました。国有地の農民は自由農でこれに対して貴族所領の農民は「農奴(serf)」と呼ばれていました。農奴制は18世紀になると強化拡大され、世紀末には農民の6割、総人口の約55%が農奴でありました。領主による扱いも家畜並みだったようです。

19世紀後半には、人口の増加で土地が不足が深刻化し、農業危機が起きます。農村の過剰人口はシベリアなどの辺境や国外へと大量に移住していきます。やがて農民運動が起きるのです。

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心に残る名曲 その六十二 チャイコフスキーと日本人 その八 ロシア革命と僧侶ラスプーチン

ロシア革命の経過は、調べれば調べるほど複雑です。革命と新しい国作りには産みの苦しみがあるということでしょう。現在放映されている大河ドラマ「西郷どん」もそうです。国を愛し、故郷を愛し、人を愛し続ける闘士が登場します。たくましさと生命力がいずれの革命の指導者に感じられます。チャイコフスキーはこうした思想の変化をどのように感じていたでしょうか。

ロシアでは内戦中が起こります。覇権争いです。ロシアの反革命分子の政府も宣言されます。旧軍の将校が各地で反革命軍として軍事行動を開始します。総称して白軍と呼ばれます。複雑なのは緑軍のように、多数派と呼ばれたボリシェヴィキにも白軍にも与しない軍も生まれるのです。ソヴィエト政府はブレスト=リトフスク条約(Treaty of Brest-Litovsk)締結後に軍事人民委員となっていたトロツキー(Lev Davidovich Trotsky)は赤軍を創設して戦っていきます。

臨時政府は、ケレンスキ(Aleksandr Kerenskii)が法相として入閣し、自由主義者中心の内閣となります。臨時政府から退位を要求されたニコライ2世は、弟のミハイル・アレクサンドロヴィチ(Mikhail Aleksandrovich)大公に皇位を譲ったものの、ミハイル大公はこれを拒否し、皇帝(ツァーリ)につくものが誰もいなくなります。皇帝夫妻に取り入って権勢をふるっていた伝説的な僧侶、ラスプーチン(Grigorii Rasputin)が皇族や貴族のグループによって暗殺されたりします。そしてロマノフ(House of Romanov)朝は崩壊します。

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心に残る名曲 その六十一 チャイコフスキーと日本人 その七 交響曲第4番ヘ短調作品36

チャイコフスキーの作品に戻ります。交響曲第4番ヘ短調です。最初の金管楽器によるファンファーレのような響きが、この交響曲の素晴らしさを暗示しています。曲頭のホルンとファゴットのファンファーレのモチーフは全曲の主想旋律となります。このファンファーレは運命のファンファーレとも呼ばれ、本楽章の展開部以降にしばしば登場します。楽章終盤では立て続けに登場し、楽章終結に向けて大いに曲の緊迫感を高めます。また第4楽章の終盤にもそっくり再来して曲の雰囲気を一転させることになります。

序奏部のあとは、暗く悲劇的な第1主題が弦で提示され提示部が始まります。ムラビンスキ指揮の(Evgeny Mravinsky)レニングラード・フィルハーモー交響楽団、現在のサンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団(Saint Petersburg Philharmonic Orchestra)の演奏は聞き応えがあります。

ムラビンスキは1903年、帝政期サンクトペテルブルクにて、非常に高い地位を有する貴族であり法律家の父と、歌手であり音楽に対し造詣の深い母との間にうまれます。また、父方の伯母も有名な歌手であった。6歳の時からピアノを学びはじめます。しかし1917年の ロシア革命により一家は財産を没収され、アパート一室での雑居生活を強いられたようです。1924年にレニングラード音楽院、今のサンクトペテルブルク音楽院(St Petersburg Conservatory)に入り直し、作曲と指揮を学び才能を開花していきます。

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心に残る名曲 その五十九 チャイコフスキーと日本人 その五 ロシア革命とシベリア出兵

ニコライ2世は軍にデモやストの鎮圧を命じ、特に帝政期の国会であったドゥーマ(Duma)には停会命令を出します。しかし鎮圧に向かった兵士は次々に反乱を起こして労働者側につきます。1917年2月、労働者や兵士は、民主主義革命をめざすべきであると主張する少数派のメンシェヴィキ(Men’sheviki)の呼びかけに応じてペトログラード・ソヴィエト(Petrograd Soviet)を結成し、ドゥーマの議員は国会議長である十月党のもとで臨時委員会をつくって新政府の樹立へと動きます。

Constituent Assembly propaganda in Teatralny proezd.


メンシェヴィキという穏健派に対抗したのが、ボルシェヴィキ(Bol’sheviki)です。その指導者はレーニン(Vladimir Lenin)です。ボルシェヴィキとは多数派という意味です。ボルシェヴィキは、暴力革命を主張し、徹底した中央集権による組織統制を叫びます。その伝統は、やがてソビエト連邦共産党へと引き継がれていきます。

1918年5月、捕虜としてシベリアにとどめおかれていたチェコスロバキア(Czechoslovakia)軍団が革命軍に対して反乱を起こします。これに乗じてアメリカや日本がシベリアに出兵します。日本は。12,000名の将兵をウラジオストクに派遣します。「囚われたチェコ軍団を救出する」という大義名分だったのですが、ロシア革命に対する干渉戦争でもあり、社会主義を封じるという狙いもあったようです。ですが実際には帝国時代の外国債券や露亜銀行などのさまざまな外資を保全する狙いがあったのがシベリア出兵でした。

【ウラジオストックでの連合軍の行進ーシベリア出兵】

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心に残る名曲 その五十八 チャイコフスキーと日本人 その四 ロシア革命と領土拡大政策

ロシアの歴史です。広大な国土、さえぎるもののない平原、長くゆったりと流れる大河、厳しい気候と国民性は関連しています。音楽もそうだろうと思われます。

1991年に解体したソビエト連邦は地球上の全陸地面積の1/6を占め、アメリカの1.8倍、世界一の広さです。8割はウラル山脈(Ural Mountains)の東側、シベリアと極東です。ウラル山脈によって東西に分かれ、この国が広いユーラシア平原(Eurasian Steppe)にまたがることが異民族との絶えざる戦争を引き起こしてきました。18世紀末にはアリューシャン列島(Aleutian Islands)からアラスカ(Alaska)まで領土を拡大します。

ロシアが世界の大国として登場するのは、18世紀前半のピュートル1世の時代です。北欧の雄、スエーデンを破りロシアは帝国となり、バルト海のほかにサンクト・ペテルブルグ(Sankt Peterburg)を築いて、念願であった海への出口を獲得するのです。

18世紀後半には、エカチェリーナ(Ekaterina)2世の時代に、クリミア(Crimea)半島にあったモンゴル地方政権のクリム・ハン国(Krym Khanstvo)を滅ぼし、さらにポーランドの分割を行い領土を拡大していきます。19世紀初めに、世界最強を誇ったナポレオンの大軍を破りヨーロッパの列強に加わります。

しかし、膨大な軍備への支出にあわせ、国民の中に食糧不足への不満を背景とした「パンをよこせ」という要求やデモが盛んになり、各地でストライキが起こります。1917年2月にはペトログラード(Petrograd)で国際婦人デーにあわせて女性労働者がストライキに入り、デモを行います。他の労働者もこのデモに呼応し、数日のうちにデモとストは全市に広がります。デモ隊の要求も「戦争反対」や「専制打倒」へと拡大していくのです。革命はすぐそこに迫ってきます。
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心に残る名曲 その五十七 チャイコフスキーと日本人 その三 ロシア革命と講和条約

日露両国はアメリカの第26代大統領のセオドア・ルーズベルト(Theodore Roosevelt)の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年9月5日ポーツマス条約(Treaty of Portsmouth)に調印し講和します。講和の結果、ロシア領の南樺太は日本領となり樺太庁が設置されます。ロシアの租借地があった関東州については日本が租借権を得て、関東都督府が設置されることになります。

ロシア帝国はヨーロッパ各地でも領土の覇権を巡る戦いを続けています。日露戦争は極東におけるいわば小さな戦いともいえるものでした。しかし、満州や朝鮮、南樺太の利権を手放し、海軍の弱体化と相まって、帝国の衰退が始まるのです。革命への機運が労働者や農民の中から高まっていきます。

1912年4月、バイカル(Baikal)湖北方のレナ(Rena)金鉱でストライキが起こり、労働者に対して軍隊が発砲し、多数の死者がでます。レナ金鉱事件と呼ばれました。全国に抗議ストが広がり、労働運動は活性化していきます。1914年7月に第一次世界大戦が勃発すると愛国主義が高まり、弾圧も強まって労働運動はいったん収まるのですが、戦争が生活条件の悪化をもたらし始めると労働運動は復活していきます。

復習ですが、ロシア革命とは1917年にロシア帝国で起きた2度の革命のことを指す名称とされます。特に史上初の社会主義国家樹立につながったことに重点を置く場合には、十月革命のことを意味し、広義には1905年のロシア第一革命も含めた長期の諸革命運動を意味するとブリタニカ国際百科事典にあります。
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心に残る名曲 その五十六 チャイコフスキーと日本人 その二 ロシア革命と日露戦争

日露戦争は、1904年の2月から1905年9月に、大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部、及び日本海を主戦場として起こった当時としては未曾有の大戦争です。

新生日本にとっては、のるかそるかの戦いだったのですが、ロシアにとってはアジアの片隅で起こった領土争いという意識だったようです。その裏側では、戦争遂行に膨大な物資の輸入が不可欠であった明治政府の厳しい苦悩がありました。なぜなら、日本の勝利を懐疑的に見守る当時の国際世論の下にあって、戦費となる外貨調達に非常に苦心したのです。調達に奔走したのは日本銀行副総裁の高橋是清です。

先の日清戦争によって、多くの戦費を使い海外に流失します。戦争ほど金のかかるものはないのです。この時点で日銀の保有正貨は5千2百万円であり、約1億円を外貨で調達しなければならなかったといわれます。外国公債の募集には担保として関税収入を当てることにします。期間10年据え置きで最長45年、金利5%以下の条件で公債の募集を始めます。当時は、世界中の投資家が、日本の敗北を予想して資金が回収できなくなると判断したようです。

こうした苦境のなかで、額面100ポンドに対して発行価格を93.5ポンドまで値下げるとことし、日本の関税収入を抵当とする好条件でイギリスの銀行家たちから外債引受けの成算をえるのです。さらに、帝政ロシアを敵視するアメリカのドイツ系ユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフ(Jacob Henry Schiff)の知遇を得て、ニューヨークの金融街から500万ポンドの外債引き受けに成功します。

ロシア国内では、反ユダヤ主義(Antisemitism)が高まっていきます。そのことによってユダヤ系の人々への大迫害ーポグロム(pogrom)が吹き荒れます。帝政ロシアにおける組織的なユダヤ人の大虐殺の事態をシフは知ったようです。
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心に残る名曲 その五十五 チャイコフスキーと日本人 その1 ロシア革命と「坂の上の雲」

「まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている」 司馬遼太郎の「坂の上の雲」は、この文章で始まります。日本とロシアの関係を調べるとき、日露戦争は日本の近代国家の形成にどのような影響を与えたかを知る貴重な材料となります。

「坂の上の雲」は、日露戦争の開戦から講和にいたる歴史小説です。司馬が云うのですが、明治の時代は日本がまだきわめてまともな時であったと書いています。明治維新から日露戦争までの30余年を「これほど楽天的な時代はない」とも評しています。近代化によって日本史上初めて国民国家が成立し、「庶民が国家というものにはじめて参加しえた集団的感動の時代」とさえ司馬は云うのです。

「坂の上の雲」の主人公は、日本陸軍の騎兵部隊の創設者である秋山好古、その実弟で海戦戦術の創案者である秋山真之、真之の親友で明治の文学史に大きな足跡を残した俳人正岡子規の3人です。3人とも四国は松山の出身であります。秋山兄弟や子規に代表される若者達は新興国家の成長期に青春時代を送ります。なんとかして高等教育を受け、「個人の栄達が国家の利益と合致する昂揚の時代」に生きるのです。

維新から日露戦争までの30余年を「これほど楽天的な時代はない」と云ったのは、若い人々が、血縁や身分や貧富の差に縛られることなく、自らが国家を担う気概を持ち、政治や軍事、学問など各々の専門分野において邁進できた時代です。
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