以前、この欄で「大統領令と連邦教育省の閉鎖」という話題を取り上げました。このようにトランプ政権やその他の保守派政治家が「アメリカ連邦教育省(Department of Education)の廃止」を謳っていますが、結論からいえば大統領が単独で教育省を廃止することはできません。これは、連邦議会(Congress) の承認が必須だからです。連邦教育省は、1979年に制定された連邦法(Department of Education Organization Act)に基づいて設立されました。この法律を変更または撤廃しない限り、教育省を廃止することはできません。教育省の設立は法律に基づくものであることです。教育省を廃止するには、以下のようなプロセスが必要です。
特別支援教育の分野でに有名な立法は「障がい者教育法 (Individuals with Disabilities Education Act: DEA)」です。通称、「Public Law 94-142」といわれています。障がいのある生徒一人ひとりのニーズを満たすために特別にデザインされた教育で、無償で提供されています。次にタイトルIXとは、1972年に制定されたアメリカの連邦法で、連邦政府から財政援助を受ける教育機関における性別に基づく差別を禁止するものです。具体的には、教育プログラムや活動への参加を性別を理由に排除したり、その恩恵を拒否されたり、差別を受けたりすることを禁じています。
日本とギリシャの財政事情の共通点は債務の大きさです。経済協力開発機構(Organisation for Economic Co-operation and Development: OECD)によれば、日本の債務は国内総生産(gross domestic product: GDP)の240%相当といわれます。ですが日本はドイツに次ぐ債権国で、資産から負債を引くと、対外純資産は543兆500億円となっています。総資産は1京3288兆円であり、政府の純資産は潤沢なのです。現在の日本国債が抱える問題は、需要と供給の不均衡にあります。財政投資が少ないために増税によって政策経費を賄おうとし、資金が市場に出回らず、個人の所得も増えないのです。政府の財政状況は、貸借対照表の資産と負債との対比で把握すべきなのですが、首相のように国債とGDPとの対比だけで説明するのは間違いなのです。国際通貨基金(IMF)の資料では、日本の財政状況を資産と負債でみれば、G7の中で2番目に良いと発表されています。ちなみに貸借対照表から見える財政状況が最も良い国はカナダ、次に日本、ドイツ、アメリカと続きます。
2000年に連邦議会は国民追悼の法(National Moment of Remembrance Act)を可決し、午後3時に立ち止まって追悼するよう人々に呼びかけました。Memorial Dayの日には、国旗が掲揚され、正午まで厳粛に半旗に下げられます。その後、その日の残りの時間は全譜面に掲げられます。国立メモリアルデー・コンサートNational Memorial Day Concert は、合衆国議会議事堂(Capitol)の西芝生で開催されます。これは必見ものです。是非クリックして楽しんでください。
街の通り沿いにや家には星条旗が掲げられ、商業施設の広告にも「Memorial Day Sale」の文字が見えます。報道では、退役軍人のインタビューや追悼関連の特集が組まれます。「Remember and Honor(戦没将兵を忘れず敬意を表しよう)」というメッセージが多く見られます。このようにアメリカでは、戦没者の追悼が社会的に“見える形”で行われます。日本とは違い、軍服を着た人が日常に溶け込んでいます。さらに退役軍人が地域のヒーローのように扱われます。学校でも子どもたちは、国旗の意味や国家への忠誠心を学んでいます。小学生から国歌を教えられます。
Memorial Dayは他方で、アメリカでは夏の始まりを告げる祝日でもあります。家族親戚が集まってバーベキューを楽しむ「家族で過ごす週末」としての意味合いも強いです。この「国のために戦った人への敬意」と「家族や日常の自由を大切にすること」が同居しています。「祈り」と「自由を楽しむ」ことが矛盾ではなく、「自由には代償がある」という歴史的な意識が根付いているのかもしれません。
2010年、カリフォルニア州のポスドク研究者は、差別やセクハラの疑いがある場合に、正式な苦情処理手続きを通じて苦情を申し立てる権利など、より良い労働条件を確保するため、「UAW Local 5810」という労働組合を結成します。カリフォルニア州では、新規ポスドクは少なくともアメリカ国立衛生研究所(National Institutes of Health: NIH)のポスドク最低賃金(2019年時点で5万ドル)を受け取り、多くのポスドクはNIHのガイドラインにそって年間5%から7%以上の昇給を受けています。
今アメリカの大学は夏休み。そこに降ってわいたようなニュースです。数カ月後に授業が始まるまで、入学が許可された海外からの新入生や留学生は、トランプ政権によって「留学生受け入れ資格を取り消されるかもしれない」という事態です。特に、ハーヴァード大学はその騒ぎの渦中にあります。ハーヴァード大学に在籍する留学生は約6,800人。在学中の留学生は転校しなければ、アメリカでの滞在資格を失うかもしれないようです。それに対してハーヴァード大学は5月22日に国土安全保障省(Department of Homeland Security)が出したビザの剥奪?という措置が合衆国憲法修正第1条および適正手続きの権利などを侵害しているとして、マサチューセッツ州の連邦地方裁判所(連邦地裁)に訴状を提出しました。
少し遡って4月14日にトランプ政権は、ハーヴァード大学に対して、多様性重視のプログラム(Diversity, Equity & Inclusion:DEI)の廃止を迫っています。これは、ハーヴァード大学やコロンビア大学の多様性を重視した学生選抜、反ユダヤ主義の活動に関与した学生への処分を求め「学生・交流訪問者プログラム」(Student and Exchange Visitor Program)の認定の取り消しを伝えるのです。すでに130以上の大学で1,000人以上の留学生のビザが取り消しにあっているという報道もあります。
ハーヴァード大学の研究に対する政権の圧力は酷いものがあります。ハーヴァード大学に対して、トランプは22億ドル(3,200億円)の助成金を凍結し、マサチューセッツ州の医療研究向けの助成金10億ドル(1,400億円)の差し止めも検討しています。科学誌ネーチャー(Nataure)によりますと、研究プロジェクトが停止されれば、研究者の約1,600人の75%が海外への移動を考えているとあります。さらにアメリカ航空宇宙局(NASA)に対して研究予算の半減を提示しています。海洋大気庁 (National Oceanic and Atmospheric Administration: NOAA)の職員を20%削減する計画も発表されています。そうした事情を背景としてか、ヨーロッパ連合(EU)の委員長を務めているウルズラ・フォンデアライエン(Ursula von der Leyen)は、5億ユーロ(8億1,000万円)という科学者を招聘するパッケージを発表しています。アメリカの有名大学などで働く研究者を招こうという意図です。
北海道大学男声合唱団は好んで「恋人」や「愛」を取り上げた曲を歌いました。「恋人」や「愛」に関する曲はドイツロマン主義音楽に共通したモチーフのようです。特に18世紀後半から19世紀初頭にかけて確立し、ロマン派時代に興隆を迎えたといわれます。こうした曲の歌詞はドイツ語を学ぶ者には格好の材料となります。ドイツ語特有の品詞の変化が見られるからです。名詞には男性、女性、中性の3種があり、定冠詞もそれに対応して変化します。動詞も現在不定詞、過去原形、過去分詞という三つの基本形があります。ここで紹介する「Warum bist du so ferne? 」(どうしてあなたは、遠くにいるの?)という曲は、ドイツ語文法の基本となる好例です。それについて紹介します。
ドイツロマン主義の文豪
曲の歌詞はもちろん詩ですから、短縮形や倒置法が使われています。「O mein Lieb! 」がその例です。「Sterne」は星で女性名詞です。「Mond」は月で男性名詞、「Mondenschein」は月の光で、こちらも男性名詞です。3格なので、「dem Mondenscheine」と表記されています。「lieb 」はもともとliebは愛しいとか大好きなという意味です。名詞化されて使われて「愛しい人」という意味で使われています。名詞化された形容詞は頭文字を大文字化します。比較級は lieber, 最上級は am liebstenとなります。
「Warum bist du so ferne? どうしてあなたは、遠くにいるの」という曲の歌詞です。
Warum bist du so ferne? どうしてあなたは、遠くにいるの O mein Lieb! 私の愛しい人よ Es leuchten mild die Sterne あなたは星のように輝いて O mein Lieb! わたしの愛しい人よ Der Mond will schon sich neigen 月はすでに傾いて In seinem stillen Reigen. 静かに回っている Gute Nacht, mein süßes Lieb, おやすみ、甘美な愛しい人よ O mein Lieb! 私の愛しい人よ
Es rauschen sanft die Wogen 波は柔らかく寄せてくる O mein Lieb! 私の愛しい人よ Gleich ihnen fortgezogen, 波は遠ざかっていく Bist du Lieb! あなたは愛そのもの Ich wandle stumm im Haine 私は木立のなかを静かに歩む Und klag’s dem Mondenscheine. そして月の光は訴えている Gute Nacht, mein süßes Lieb! おやすみ、甘美な愛しい人よ O mein Lieb! 私の愛しい人よ
このような詩は、ロマン主義の疾風怒濤(Sturm und Drang)期の作品としては、少々こそばゆい感じがしないでもありません。畏れ多いですがドイツ語の復習材料としては良いとしましょう。
これから暫くドイツ語の文法をおさらいしていきます。品詞といえば名詞が代表でしょう。名詞に付随して性、数、格を表すのが冠詞です。他の品詞を名詞化する働きもあります。定冠詞、der は元来指示代名詞から生まれ、不定冠詞 ein は数詞から転化したものです。定冠詞は種属全体を表す普遍的用法で、不定冠詞は個々の事物を指示する個別的用法があります。以下その例です。
普遍的用法:Der Mesch is sterblich. 人間は死ぬ存在である。 Ein Mensch lebt night ewig. 人間は永遠には生きない。 個別的用法:Dort liegt ein Buch. そこに本がある。 Wem gehort das Haus? その家は誰のものか。
定冠詞は次のように変化します。格はそれぞれ1格、2格、3格、4格があります。 1格 der Vater 父は die Mutter 母は das Buch 本は 2格 des Vaters 父 der Mutter 母の des Buch 本の 3格 dem Vater 父に der Mutter 母に dem Buch 本に 4格 den Vater 父を die Mutter 母を das Buch 本を
「ドイツ国民に告ぐ(Reden an die deutsche Nation)」という有名な講演をしたのがヨハン・ゴットリープ・フィヒテ(Johann Gottlieb Fichte)です。この講演では、フランス文化に対するドイツ国民文化の優秀さを説き、また、ドイツ国民の統一、ドイツ人の内的自由、商業上の独立を主張し、ドイツ国民精神を発揚しドイツの解放戦争を準備する力となったといわれます。彼の国家哲学には、ドイツ民族の独自性を強調する側面があり、後のナショナリズムの発展に影響を与えたとされています。フィヒテは「ユダヤ人から身を守るには、彼等のために約束の地を手に入れてやり、全員をそこに送り込むしかない」とも講演しています。この思想は後のドイツのナショナリズムに大きな影響を与えたとされます。政治学者の今野元は、著書「ドイツ・ナショナリズム:「普遍」対「固有」の二千年史」で 「ドイツ・ナショナリズムとは、ドイツへの帰属意識を前提に、ドイツ的なものの維持・発展を望む思想」と指摘しています。
もう一人のドイツの哲学者にゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegelがいます。彼の哲学も後のドイツ観念論に大きな影響を与えましす。ヘーゲルは国家を「理念の実現」と捉え、歴史を通じて国家が発展していくという思想を展開しました。一部の解釈では、これがナチズムの全体主義的な国家観に利用されたといわれます。ある解釈ではユダヤ人に対する否定的な見解が含まれていると指摘されています。
終わりにカール・シュミット(Carl Schmitt) という20世紀の法哲学や政治哲学のことです。1933年からナチスに協力し、ナチスの反ユダヤ的な法学理論を支えナチス政権下で活動します。第二次世界大戦後に逮捕され、ニュルンベルク裁判(Nuremberg Military Tribunals)で尋問を受けますが不起訴となります。
ドイツの大哲学者であり文豪にゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)がいます。 「ギョエテとは俺のことかとゲーテいい」と明治時代の小説家、斎藤緑雨は述べたといわれます。斎藤は、Goetheを「ギョエテ」と発音したようです。「ギョエテ」と発音したのは、ドイツ語の発音の特徴である「ウムラウト」(Umlaut)にあります。ウムラウトとは、母音が後続の母音の影響で変化する現象のことです。その変化した母音を表記するために用いる記号が「¨」です。
Johann Wolfgang von Goethe
それはさておき、ドイツはゲーテの他に、フリードリッヒ・ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche)、ヘルマン・ヘッセ(Hermann Karl Hesse)、トーマス・マン(Paul Thomas Mann)いった文豪を輩出した国です。 これらの偉人がその哲学や思想をぴったりと表現してきたのがドイツ語だと考えられます。
18世紀後半、ヨーロッパ全体に広がっていた啓蒙主義(Aufklärung)は、「理性」、「秩序」、「普遍性」を重視するものでした。しかし、ドイツではこの理性という主義に対し「人間の感情」や「想像力」、「個性」などが抑圧されていると主張します。ドイツでロマン主義(die deutsche Romantik)が生まれたのは、ドイツ各地における自由都市や小国の存在、哲学的な思索、啓蒙主義への反発、そして「現実を超えた理想」を追い求める文化的土壌があったからだといわれます。
私たちが嗜むクラシック音楽は、ドイツ・オーストリアの作曲家のものが多いといえます。例えば、バッハ(Johann Sebastian Bach)、楽聖と呼ばれたベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)、ブラームス(Johannes Brahms)です。この三人は「ドイツ三大B」と呼ばれています。その他、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart)、ワーグナー(Wilhelm Richard Wagner)、シューベルト(Franz Peter Schubert)、シュトラウス二世(Johann Strauss II)といった著名な作曲家・演奏家を輩出し、クラシック音楽の中心を支えています。ベートーヴェンの第九交響曲ニ短調(d-moll) の「歓喜の歌」(An die Freude) の特徴は、管弦楽と合唱を統合したことにあります。交響曲の歴史で初めて声楽を導入したのです。最後の第4楽章はもちろんドイツ語で歌われています。
Johann Sebastian Bach
何故、ドイツから有名な作曲家や音楽家が生まれたのでしょうか。第一の理由は音楽教育の充実にあります。ドイツには優れた音楽教育機関が数多く存在します。例えば、ライプツィヒ音楽院(Hochschule für Musik und Theater)やベルリン芸術大学(Universität der Künste Berlin)など、多くの作曲家が学び、育ってきたのです。これにより次世代の音楽家たちが育成されました。1843年にフェリックス・メンデルスゾーン(Jakob Ludwig Felix Mendelssohn)によって「ライプツィヒ音楽院」が設立されます。ドイツで最初の重要な音楽大学であり、初代院長にはメンデルスゾーンが就任します。1901年に瀧廉太郎がこの大学に留学しています。
Wikipediaによりますと、ニーチェもワーグナーとの交流があり、音楽を「人間の精神の最高の表現」(Musik ist der höchste Ausdruck des menschlichen Geistes)とさえ述べています。このようにドイツの哲学者たちは、音楽が人間の感情や精神に深く作用すると考え、作曲家もそうした精神に支えられて活動できたようです。
合唱曲のことですが、音名とか音階なども、アルファベットのアー(a)、ベー(b)、ツェー(c).を使うのです。中心となる主音をハ(C・ド)とした長音階で作られている楽曲は『ハ長調』(ツェーヅア: c dur)となります。 ハの短音階で作られている楽曲は『ハ短調』(ツェーモル: c moll)となります。長音階は長調とも呼ばれ明るい感じ、短音階は短調で暗い感じがします。なぜか、練習では英語ではなくドイツ語が飛び交うのです。
合唱の練習が終わると、必ずドイツ民謡の「Muss i denn」ームシデンーという曲を歌います。ある若者が仕事の修行のために、町から町へと辿るのですが、ある娘と恋仲になり、彼女にさよならと別れを告げながら、また君のところに戻ってくるからね、という内容の恋歌です。
Muss i denn, muss i denn zum Städtele hinaus, Städtele hinaus, Und du, mein Schatz, bleibst hier? 「僕は、どうしてもどうしても、この町を去らねばならないが、いとしい君には、ここにいてほしい。
もともとは、ドイツ南西部にあるシュヴァーベン地方のシュヴァーベン語(Schwäbisch)による民謡で、歌詞は兵士が愛する女性を後にして出征して、また故郷へ戻ってくる時には結婚しようという内容といわれます。職人修行に出るため故郷を離れる若者が、恋人へ別れを告げる内容だという別説もあります。ドイツでは、軍艦が港を離れて航海に出るときや兵士たちの別れの際にも使われる歌です。いわば定番の別れ歌だそうです。合唱団の練習は週一。練習が終わると「Muss i denn」を歌い、そして一週間後にまた練習のために団員は部室に集まってくるのです。
合衆国の公的医療保険制の最後の稿です。「オバマケア(Obama Care)」という言葉がしばしばニュースとなりました。通称アフォーダブルケア法(Patient Protection and Affordable Care Act: ACA)と呼ばれ、合衆国第111議会で制定され、2010年3月にバラク・オバマ大統領(Barack Obama) によって署名された合衆国の連邦法のことです。2010年修正の医療・教育改革法(Health Care and Education Reconciliation Act of 2010)と合わせて、1965年にメディケアとメディケイドが可決されて以来、合衆国の医療制度において最も重要な内容の見直しと適用範囲の拡大を意味する医療保険制度です。
保険によるカバーが増えたことは、メディケイドの加入資格の拡大と個人保険市場の変化を伴っています。両者ともに新たな支出をし、その財源は新たな税金とメディケア・プロバイダー料金とメディケア・アドバンテージの削減の組み合わせで賄われています。行政管理予算局(Office of Management and Budget) の報告書によると、この法律は主に高額所得者の上位1%に課税し、所得分布の下位40%の家族に平均で約600ドルの給付金を提供することで所得の不平等を削減しようとするものです。
2 保険が標準でカバーしなければならない保障範囲(Essential health benefits)が定められました。被雇用者保険、メディケア、メディケイド、その他の公的制度でカバーされない無保険者は、承認を受けた民間保険に加入するか、罰金を払わなければなりませんでしたが、2019年以降は廃止されました.。これは歳入庁の定めによる金銭的困難者、宗教団体の一員ならば除外され、低収入者には補助金を給付できる条項が定められています。
公的医療保険制度の関心は、なんといっても貧しい家庭の子どもたちの健康保障です。合衆国の子ども医療保険プログラム(Children’s Health Insurance Program: CHIP)は、各州が主体となって低所得世帯の19 歳以下の子どもに対し、無料または低コストの医療を提供する公的医療保険制度です。合衆国には、前述してきたように低所得者に対する公的医療保険のメディケイド(Medicaid)がありますが、メディケイドに加入するには所得基準が高すぎ、民間の医療保険に加入する余裕がない低所得者も多く存在します。CHIPはメディケイドの加入資格基準を満たさない低所得世帯の子どもに対する公的医療保険となっています。
合衆国では1970年代から1980年代初めに、連邦貧困水準以下の低所得世帯の子どもの無保険率が上昇し問題となっていました。そのような状況の中で、CHIPはソーシャルセキュリティ法(Social Security Act)の新たな権利として、共和党及び民主党の支持の下、クリントン(Bill Clinton)政権下の1997年均衡予算法(Balanced Budget Act of 1997)によって設立されます。2015会計年度におけるCHIPの加入者数はおよそ840万人となりました。
少し遡りますが1997年当時、1,000万人の子どもが医療保険に加入しておらず、その大半は州のメディケイドの加入資格基準を僅かに上回る所得の勤労者世帯の子どもでした。CHIPは無保険の子どもを減らすことを目的とし、10年間に約200億ドルが連邦予算に計上されます。CHIPが制定された当初、州がどの程度CHIPに対応するかが懸念されたのですが、2000会計年度までには、ワシントンDCを含む全州と全準州がCHIPを設立しています。その後、2009年にオバマ大統領(Barack H. Obama)が子ども医療保険再認可法(Children’s Health Insurance Program Reauthorization Act of 2009: CHIPRA)に署名し、CHIPは名実共に子ども医療保険制度となります。
州のメディケイドと密接に連携する連邦政府の保健福祉省(Department of Health and Human Services)内のメディケア・メディケイドサービスセンター(Center for Medicare & Medicaid Services)は、メディケイドとともにCHIPを管轄し、州が連邦規則に従って加入資格や医療サービスの内容、保険料などを独自に立案した上でCHIPを運営しています。CHIPはメディケイドに比べて立案の上で州の裁量が大きいのですが、州のメディケイドと密接に連携しているのが特徴といえます。
合衆国の公的医療保険制度の3回目です。貧富の差が激しいアメリカ市民の姿が医療保険の実態から理解できる話題です、1970年代に始まった健康維持機構との連携は、1997年にビル・クリントン大統領(Bill Clinton) の下でメディケア・パートCとして正式に認められ拡大されます。 2003年、ジョージ・ブッシュ大統領(George W. Bush) の政権下で、ほぼすべての自己投与処方薬をカバーするメディケア・プログラムがメディケアパートDとして可決され、2006年に発効します。
パートAの入院および高度看護の保険は、主に雇用主と労働者がそれぞれ1.45%を負担し、合計2.9%の給与税収入によって賄われます。1993年12月までは、社会保障給与税と同様に、メディケア税が年間に課される給与額の上限が法律で定められていました。1994年1月以降、この給与額の上限は撤廃されました。自営業者は、従業員と雇用主の両方であるため、自営業の純収入にかかる2.9%の税金を全額計算する必要がありますが、所得税の計算において、その半分を所得から控除することができます。2013年以降、個人の場合年収20万ドル、夫婦合算申告の場合は25万ドルを超える稼得所得に対するパートA税率は3.8%に引き上げられました。これは、医療費負担適正化法(Affordable Care Act)で義務付けられているメディケア非加入者への補助金費用の一部を賄うためです。
これらの財政的課題に対応するため、議会は2010年の医療保険改革法(Patient Protection and Affordable Care Act:PPACA)と2015年のメディケアアクセス、無料または低コストの医療保険を提供する公的児童医療保険プログラム(Children’s Health Insurance Program: CHIP)を提出します。こうして医療提供者、主に急性期病院と熟練看護施設への将来の支払いを大幅に削減し、メディケア支出をさらに安定化させるため施策が講じられます。
合衆国における「メディケア」という名称は、もともと1956年に制定された扶養家族医療法(Dependents’ Medical Care Act)に基づき、軍務に就く人々の家族に医療を提供するプログラムを指していました。ドワイト・アイゼンハワー大統領(Dwight D. Eisenhower ) は1961年1月、ホワイトハウスで第1回高齢者問題会議を開催し、社会保障受給者のための医療プログラムの創設を提案しました。
しかし、1964年の選挙後、メディケア推進派は下院で44票、上院で4票を獲得します。1965年7月、リンドン・ジョンソン大統領(Lyndon B. Johnson) のリーダーシップの下、議会は、社会保障法の第18条に基づき、収入や病歴にかかわらず65歳以上の人々に医療保険を提供するメディケアを制定します。元大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)とその妻で元ファーストレディのベス・トルーマン(Bess Truman) がこのプログラムの最初の受給者となりました。
筋萎縮性側索硬化症がルー・ゲーリック病と呼ばれるようになった経緯です。1920年代から1930年代にかけてニューヨーク・ヤンキース(New York Yankees)で活躍したのが(Lou Gehrig)です。三冠王をはじめ、打撃タイトルを多数獲得し、史上最高の一塁手と称されていました。1939年、体調異変により欠場し、輝かしい記録は途切れます。その後筋萎縮性側索硬化症と診断され、ゲーリッグは引退を決意します。このような経緯でアメリカでは、この病気は「ルー・ゲーリッグ病」と呼ばれるようになりました。発症率は10万人に一人くらいという神経性疾患です。根治的な治療法は確立されていないのですが、複数の薬剤により病状の進行を遅らせることが可能となっています。