世界を旅する その十二 アイルランド その1 St. Patric Day

今年はアイルランド(Ireland)に行きそびれました。長男の家族4人、そして嫁さんの両親が7月上旬にアイルランドの西海岸方面で避暑を楽しんだようです。彼らの結婚50周年記念の旅でした。嫁の母親、Dianeはアイルランド系で、この旅はいわばセンチメンタル-ジャーニー(sentimental journey)というわけです。言い忘れるところでしたが、私はまだアイルランドを旅したことがありません。

家族等が滞在したのは、アイルランドの西海岸にあるゴールウェイ(Golway)という街です。名前の由来は、ガリヴ (Gallibh)という外国人という意味のアイルランド語であるといわれ、今は「外国人の町と呼ばれているようです。アイルランド語は、ゲール語(Gaelic)とも呼ばれ、アイルランドにおける第一公用語となっています。

私とアイルランドのちっとしたつながりです。ルーテル教会の礼拝にいったときです。親しくしていた夫人からキスをされました。たまたま私は緑の服装をしていました。「今日はセント・パトリック・デイ(St. Patric Day)だというのです。」 私はそんな風習を知りませんでしたが、心地良い気分になりました。そういえば、周りの信者さんは緑色の物を身につけていました。アイルランドにキリスト教を広めた聖人、聖パトリックの命日、3月17日がSt. Patric Dayとなったとあります。アイルランド共和国の祝祭日となっています。

世界を旅する その十一 ポーランドと日本の移民の歴史

19世紀中葉にかけては、アメリカ合衆国への移住者が最も多い時期です。英語以外の言語を母国語とする人々のうち、ドイツ系、イタリア系の人々に次いで多いのがポーランド移民です。1960年代には637万人がポーランド系と推定され、そのうち75万人がポーランド生まれといわれます。

こうした移民の特徴は、ポーランドにおける政治や経済の不安定、農業形態や経済構造の変化にともなう農村部を中心とする余剰労働力の増加という事情が指摘されています。ポーランドからの海外への移動は「出稼ぎ」ではなく「定住」という移民形態でありました。それゆえ家族を同伴した移動が主流でありました。

我が国における移民の歴史にも触れることにします。最初の移民は、1868年で、当時スペイン領であったグアム島(Guam)へ農業移民42人が渡ります。これは「出稼ぎ」でありました。ハワイへ(Hawaiʻi)の移民も1868年に始まります。横浜在住のアメリカ商人で元駐日ハワイ総領事のバンリード(Eugene Van Reed)が斡旋した「出稼ぎ移民」で150人の日本人労働者をハワイのサトウキビのプランテーションへ送りだします。

1885年には、ハワイ王国(Kingdom of Hawaiʻi)との間で 結ばれた「移民条約」によってハワイへの移民が公式に許可され、946人の日本人が移民します。さらに沖縄からは、1899年に26人がハワイのサトウキビ農場へ「出稼ぎ移民」として渡ります。

少しさかのぼり、1880年代よりカリフォルニア(California)に日本人移民が渡り、 1900年代に急増します。1905年には 約11,000人がハワイへ、1920年に 6,000人がアメリカへ移住します。日米開戦当時、アメリカ本土には日系1〜3世含めて約128,000人が住み、そのほとんどがカリフォルニア州を中心にオレゴン(Oregon)、ワシントン(Washington)といった太平洋岸の州に住んでいました。

世界を旅する その十 ポーランド人の移民

私がウィスコンシン(Wisconsin)の州都マディソンに住んでいたとき、ポーランドの地名や市町村名が地図に沢山あることに気がつきました。その代表はPoland, ワルシャワ(Wausau)、ワーケシャ(Wauksha), ワーパカ(Waupaca)、ワーノキ(Waunakee)、ワートマ(Wautoma)、ポーテジ(Portage)といった町です。

1900年代のStevens Point

1857年に最初のポーランド人がウィスコンシン州の東部から中西部にかけて移植してきます。南北戦争が始まる以前です。ウィスコンシンで最初のポーランド人コミュニティが形成されたところがポーテジとかスティーブンスポイント(Stevens Point)です。その定住地、コロニーは「Polonia」と呼ばれます。

ウィスコンシン州にやってきたポーランド人は、ポーランドの西部地方である「Kaszuby」付近からやってきたといわれます。「Kaszuby」はバルト海(Baltic Sea)に面するグダンスク(Gdansk)のあたりです。ウィスコンシンを選んだのは、気候や土地が母国と似通っていたことが主たる理由です。ポーテジ郡のあたりには、ドイツやアイルランドの移民もすでにいて、農地に適した肥沃な土地はすでに耕されていたようです。ポーランド人は、氷河が残した岩や石が混ざる土地を選ばざるをえませんでした。農地の開墾は、岩や石を取り除く作業から始まります。やがて、教会堂や学校をつくっていくのです。

世界を旅する その九 ポーランドと日本 魂の救済

上皇上皇后両陛下がポーランドを訪問したとき挨拶の中で、2人のカトリックの聖職者と日本との関わりを語っています。その人とは、ポーランド人のコルベ神父(Maksymilian Maria Kolbe)とゼノ修道士(Zenon Zebrowski)です。この2人が日本でどのように活動したかを紹介します。

コルベ神父

1930年にフランシスコ修道会(Franciscan Missionaries)のコルベ神父がゼノ修道士らと長崎に到着します。コルベ神父は哲学博士号を有する学者でもありました。早速長崎教区に対して『無原罪の聖母の騎士』という布教誌の出版を願い出ます。教区はそれを認め、コルベ神父は教区の神学校で哲学を教えることになります。翌月の5月には、長崎の大浦で日本語版の布教誌を出版し、長崎の本河内に「聖母の騎士修道院」を設立します。現在は「聖コルベ記念館」となっています。1936年にポーランドに帰国したコルベ神父は、ユダヤ人をかくまった罪でナチスに逮捕さrれ、アウシュビッツ(Auschwitz)で餓死刑を受け、47歳で死去します。この惨い出来事はいろいろな本やサイトで紹介されています。

ゼノ修道士

もう1人のポーランド人の聖職者、ゼノ修道士のことです。本名の綴りは前述した「Zenon Zebrowski)」ですからゼブロフスキーと読んだ方が正確です。ですが日本では「ゼノ神父」として慕われていたといわれます。1945年8月9日に長崎で被爆する体験をします。戦後は戦災孤児や恵まれない人々の救援活動に尽くし、特に浅草のバタヤ街など全国各地で支援活動を行うのです。「バタヤ」とは鉄や銅くず、縄くず、紙くず等を拾い集めて回収する日雇い労働者のことです。当時廃品回収や仕切りをする「蟻の会」という労働者の生活協同体があり、そこで人々を支援します。魂の救済活動です。それ故「蟻の街の神父」と呼ばれたようです。

世界を旅する その八 ポーランドと日本 日本文化研究

2002年7月に、現在の上皇上皇后両陛下がポーランドを訪問したとき、ポーランド大統領夫妻主催の晩餐会でなされた挨拶は、ポーランドと日本の関係を示す貴重なものです。その中で、ワルシャワ大学東洋学部日本語学科の教授をしていたコタンスキ(Wieslaw Kotanski)教授のことに触れています。コタンスキ教授は日本語や日本文化研究者で「古事記」の研究を始め,雨月物語、雪国、日本文学集などをポーランド語で紹介しています。1957年以来何度も来日し、日本における宗教発展の概要についての著作もあります。

上皇上皇后両陛下は、同じく挨拶の中でアンジェイ・ワイダ(Andrzej Wajda)を中心として両国の多くの人々の協力によって,古都クラクフ(Krakow)に設立された「日本美術技術センター」のことにも触れています。1987年にワイダは稲盛財団による京都賞の思想・芸術部門で受賞します。「人間の尊厳と自由精神の高揚を力強く訴えてきた」というのが受賞の理由です。ワイダは賞金を全額寄附し「京都クラクフ財団」をつくります。そしてクラクフで日本美術技術センター設立のために動きます。日本ではそれに呼応して、放送作家であり映画プロデューサで岩波ホール総支配人の高野悦子が5億円の寄付活動を始めます。日本政府もその企画を支援し、1994年に日本美術技術センターが完成します。

ワイダ夫妻や高野悦子氏ら

センターにはヤシェンスキ(Felix Yaschenski )というポーランドの美術品コレクターが集めた15,000点に及ぶ日本美術のコレクション(Felix Yaschenski Collection)が展示されて、両国の文化交流の一つの中心としてその役割を果たしているといわれます。ポーランドを訪ねたときは、是非立ち寄ってみたいところです。

クラクフの日本美術技術センター

世界を旅する その七 ポーランドと日本 「灰とダイヤモンド」

この映画は、アンジェイ・ワイダが1958年に制作した作品です。ポーランドは地政学的に近隣諸国から翻弄された歴史があります。123年にわたる分割占領から独立を回復したのが1918年。しかし、第二次大戦によって再び大国の支配に蹂りんされます。戦後は、ソ連の手先である統一労働者党が実権を握り、一党独裁の社会主義国家となります。そして1989年に大統領制が復活し、自由な選挙により新しい国家、ポーランド共和国ができます。

「灰とダイヤモンド」はポーランドが社会主義政府支配のもとで作られた映画です。言論が統制されていた時代です。ワイダをはじめ文化人らは、厳しい検閲などに注意を払いながら作家活動を続けたことが容易に伺えます。

「灰とダイヤモンド」は1945年5月数日のポーランドが舞台です。ポーランドのロンドン亡命政府派は、ソ連の手先である労働者党県委員会書記のシュチューカ(Szczuka)の暗殺を指示します。亡命政府派のゲリラであるマチェク(Maciek)がそれを引き受けます。誤って別人を暗殺し、人民軍によって射殺されます。この映画でワイダは、青年マチェクのポーランド独立への心意気や苦悩を下敷きにしたようです。

世界を旅する その六 ポーランドと日本 アンジェイ・ワイダ

先日 秋篠宮ご夫妻がポーランドを親善訪問されたというニュースがありました。両国は国交樹立100周年を迎えたとのことです。私は両国がそんなに長くから国交があったことを始めて知りました。1919年が国交樹立の年となります。1919年といえばソビエトが社会主義共和国が樹立し、朝鮮半島では三・一独立運動が起こり、 ガンディが非暴力・不服従運動を開始し、ヴェルサイユ条約が締結され、日本はロシア革命への干渉としてシベリアに出兵し、中国山東省のドイツ利権を日本が取得するなど、内外の情勢が緊迫する時代です。

Andrzej Wajda

今回はポーランドを代表する映画監督アンジェイ・ワイダ(Andrzej Wajda)のことです。私はこの監督がメガホンをとった二つの作品を観ています。一つは1956年制作の「地下水道(Kanal)」、もう一つは1958年制作の「灰とダイヤモンド(Ashes and Diamonds)」という映画です。ワイダは戦時中、対独レジスタンス運動に加わった経歴があるといわれます。この二つの作品は、そうした経験とは切り離せないようなポーランド人の苦悩とともに不屈の精神を描いています。

PHOTO: EAST NEWS/POLFILM KANAL; CANAL; THE LOVED LIFE; PRODUKCJA: ZESPOL FILMOWY KADR; 1956; REZYSERIA: ANDRZEJ WAJDA; SCENARIUSZ: JERZY STEFAN STAWINSKI; ZDJECIA: JERZY LIPMAN

「地下水道」の舞台は、1944年のワルシャワです。ポーランド国内軍は占領していたドイツ軍に武装蜂起を起こすのです。しかし、銃火器で有利な攻撃で追い詰められ、ワルシャワの地下水道から市の中心部に出て活動を続けようとします。夜になって隊員は地下水道に潜っていきますが、やがて皆は離ればなれになり、ある者は暗闇と悪臭に耐え切れず、マンホールから外に出るのです。それをドイツ軍に発見され射殺されるのです。

世界を旅する その五 ポーランドと日本 分割から連帯へ

1500年代、ポーランドはヨーロッパで最も大きく強大な国家でした。1772年から1918年まで、ロシア、プロイセン(Prussia)、オーストリアといった絶対主義体制の国々が台頭します。ロシアはロマノフ家(Romanov)、プロイセンはホーエンツォレルン家(Hohenzollern)、オーストリアはハプスブルク家(Habsburg)が統治した国です。ポーランドはこの三国によって分割・併合され、ポーランドという国家が消滅するという歴史もあります。

こうした困難な時代にあってもポーランドの文化や芸術は豊かだったといわれます。思想的にもパルスキ(Kazimierz Pulaski)やコシスコ(Tadeusz Kosciuszko)といった愛国指導者が現れます。この二人の思想はやがてアメリカの建国やフランス革命にも受け継がれていきます。1791年にポーランド憲法が制定されます。この憲法はヨーロッパで最も古いものといわれます。こうした思想家の思想が国民に広く理解されるとともに、1918年に国家が再興されます。

ポーランドは二つの大戦で翻弄されます。第二次大戦は特にポーランド人民に過酷な試練を与えます。その代表はユダヤ系ポーランド人に対するホロコスト(Holocaust)で、これに並ぶ悲劇的な歴史はないと思われます。数百万人の非ユダヤ系ポーランド人も犠牲となります。ナチスの支配が終焉するとポーランドは共産圏の衛星国としてソビエトの支配下におかれます。

こうして半世紀にわたる共産主義体制での統治が続く中で、労働者やカトリック教会は、共産主義支配の経済の失敗を叫けんでいきます。1970年代後半、レフ・ワレサ(Lech Walesa)らが率いる独立自主管理労働組合「連帯」が結成され、民主化運動が全国に広がります。そして1989年にポーランドは共産主義体制から民主主義体制へとなります。

世界を旅する その四 ポーランドと日本 「戦場のピアニスト」

忘れられない映画に「戦場のピアニスト」という戦時中のポーランドの首都ワルシャワ(Warsaw)を舞台とした作品があります。監督は多くの人道的な映画を作ったポランスキ(Roman Polanski)です。ワルシャワの放送局でピアニストをしていたユダヤ系ポーランド人、シュピルマン(Władysław Szpilman)が映画の主人公です。

ドイツによる空爆の後に、ワルシャワは占領されシュピルマンと家族はユダヤ人居住区であるゲットー(ghetto)に移住させられます。やがて家族は大勢のユダヤ人とともに強制収容所行きの汽車に乗せられのですが、シュピルマンは知人の計らいで脱出します。その後友人等の助けによって工場で働くのですが、そこも追われ廃墟と化した街を転々と身を隠すのです。ワルシャワ蜂起(Warsaw Uprising)という抵抗運動が起こるのですが、鎮圧されてしまうのを目の当たりにします。

半壊したような建物に潜みながら、そこにあるピアノの前に坐り、音をたてないように鍵盤を弾き始める動作をするのです。建物の中で見つけた缶詰をあけようとするところに、ドイツ将校ホーゼンフェルト大尉(Wilm Hosenfeld)に見つかります。名前や職業を訊かれ、ピアニストだったと答えます。ホーゼンフェルトはシュピルマンになにか曲を弾くように命じます。彼はショパンのバラード第1番ト短調(Ballad I G Minor)を静かに弾き始めるのです。

それからホーゼンフェルトは寒さに震えるシュピルマンに自分のマントを与えたり、食糧を届けるようになります。ソ連軍が侵攻してワルシャワは解放され、よれよれの姿でシュピルマンも廃墟からでてきます。ホーゼンフェルトと兵士らは捕虜となり、周りを通りかかるポーランド人からののしられるのです。

世界を旅する その三 ポーランドと日本 コペルニクスと地動説

ポーランドが輩出した科学者で右の横綱といえばコペルニクス(Nicolaus Copernicus)、左の横綱はキューリ夫人(Maria Curie)でしょう。カトリック教会が支配していた宇宙論は、もちろん天動説(Ptolemaic theory)です。地球が宇宙の中心に位置するという説です。それを覆す地動説(Geodynamic theory)を提唱したのがコペルニクスです。

コペルニクスの地動説は、宇宙は神聖かつ普遍であって、生成消滅するこの世の世界とは本質的に異なるという考え方です。当時、神学や哲学、さらには常識の根底にまで浸み込んだ天動説に真向から対立するものでした。

当時の神学者らは、観測事実を証明するのに不自然な手練手管を使っていたようです。そうした状態に疑問を抱いていた天文学者がいたのです。而、実用天文学上の観点からも根本的に変える考え方が醸成していたといわれます。「コペルニクス的転回」という言葉があります。 見方や考え方が正反対に変わることのたとえのことです。この言葉を使ったのがドイツの哲学者、カント(Immanuel Kant)です。

世界を旅する その二 ポーランドと日本 ヨハネ・パウロ二世

私はポーランドを旅したことがありません。ですがなんとなく親近感を覚える国です。なぜかといいますと、音楽家のショパン(Frederic Chopin)やピアニストのルビンシュタイン(Arthur Rubinstein)などの名前を知っているからかもしれません。

Arthur Rubinstein

まずはヨーロッパの地図を見ながらポーランドのおさらいです。北はバルト海に面し、東はベラルーシ(Belarus)とウクライナ(Ukraine)、北東はロシア連邦、南はチェコ(Czech)とスロバキア(Slovenska)、西はドイツと国教を接しています。このように中央ヨーロッパの国ポーランドは、歴史上さまざな困難に遭遇してきました。戦争によって国が翻弄されてきた歴史です。調べれば調べるほど頭が混乱しそうになるくらい、複雑な政治事情がうかがい知ることができます。

日本人にとってポーランドはどのようなイメージを描くでしょうか。前回、自由化と民主化に偉大な寄与をしたレフ・ワレサのことに触れました。ポーランド人の98%はカトリック教徒です。ポーランドカトリック教徒の誇りは、1978年に第264代のローマ教皇となったヨハネ・パウロ二世(John Paul II)です。ワルシャワの出身です。史上初のスラブ系教皇としても知られています。母国ポーランドを初めとする民主化活動の精神的支柱としての役割も果たします。

長崎にて

1981年2月にヨハネ・パウロ二世は広島と長崎を訪問します。広島において「平和アピール」を発表します。「戦争は人間の生命の破壊である、戦争は死である」というのです。ヨハネ・パウロ二世は、他宗教や他文化間の対話を呼びかけたことでも知られています。エキュメニズム(Ecumenism)というキリスト教を含む諸宗教間の対話と協力を目指す運動のリーダーでもありました。

世界を旅する その一 ポーランドと「連帯」

先日、山友と近くの山登りを楽しみました。比較的緩やかな登りなので、会話も楽しめました。きつい登りですと黙々と歩き続けます。今回は違いました。友達がポーランド(Poland)を旅したということから会話が進みました。私は、外国の歴史や文化、人物などに興味ありますので、会話は途切れることはありませんでした。これからしばらく私が習った人々を中心に外国旅行をすることにします。

Lech Walesa

さて、ポーランドのことです。「Poland」とはポーランド語(Polish)で「平らな国」という意味のようです。山友は首都ワルシャワ(Warsaw)、クラクス(Krakau)、ヴロツワフ(Breslau)などの都市のほかに、アウシュヴィッツ=ビルケナウ(Auschwitz-Birkenau)強制収容所などを訪ねたようです。二度と同じような過ちが起こらないようにとの願いを込めて、ユネスコ(UNESCO)が1979年に世界遺産リストに登録したところです。

山友が私に「ポーランドで思い出す人はだれか?」と尋ねました。私は、即座に「連帯を支援したワレサ」(Lech Walesa)と答えました。グダンスカ(Gdanska)というバルト海に面した港町で労働者を組織し、1980年に独立自主管理労働組合「連帯」のリーダーとしてストライキに始まる連帯運動を推進し、当時の共産主義政府を批判します。投獄などを経験し、やがてポーランドの自由化と民主化を遂げる人です。1983年にノーベル平和賞を受賞します。

Andrzej Wajda

キリスト教音楽の旅 その31 日本のキリスト教と音楽  「教会福音讃美歌」

日本福音ルーテル教会の教会讃美歌委員会が編纂した「教会讃美歌」は、長い歴史があります。特にご年配の方には凝縮された古語の歌詞を懐かしく感じて歌っておられるようです。前回とりあげましたが、今は教会の礼拝様式や歌い方が変わりつつあります。それは現代的というか、コンテンポラリーな讃美歌、創作的な曲、さらに黒人霊歌などを取り入れ、しかも合唱、独唱、バンド演奏などさまざまなスタイルで歌われるようになりました。

歌詞のなかの言葉の意味をよく知らないまま讃美歌を歌っている方が大勢います。私もそうです。特に初めて教会に来る人にとっては、賛美が古臭いとか、長閑しすぎた歌い方だと思う人もいるでしょう。もっと活気のある礼拝にするために、さまざまな工夫がされています。それは讃美歌自体を見直すという試みです。

こうした教会の動向にそって、創作讃美歌を多数収録した歌いやすい讃美歌集『教会福音讃美歌』が2015年に作られました。全部で506曲の讃美歌集です。インマヌエル讃美歌、聖歌の他に海外の優れた讃美歌、現代日本の創作讃美歌を多数収録したものです。その中のひとつ、「一つのもとい、ただ主に置き (The Church’s one foundation)」という歌詞は次のようなものです。

  一つのもとい ただ主に置き
    水とことばで 建て上げられ
     十字架の血にて 贖われた
      主の教会は 主の花嫁

キリスト教音楽の旅 その30 日本のキリスト教と音楽  讃美歌の変遷

教会や礼拝で歌われる讃美歌の傾向を取り上げます。「主よ 御許に近づかん(Nearer, My God, to Thee)」は、クラッシック讃美歌320番です。歌詞を紹介しましょう。

 主よ御許に近づかん
  登る道は十字架に
   ありともなど悲しむべき
    主よ御許に近づかん
  Nearer, my God, to Thee, Nearer to Thee!
   Even though it be a cross That raiseth me;
  Still all my song shall be,

この讃美歌の歌詞は大分意訳されています。死の絶望に直面した人に力を与える讃美歌として歌われるものです。日常会話では使われない古い言葉や造語があります。「御許」、「ありとも」、「悲しむべき」といった表記です。讃美歌271番では、「勲なき我を 血をもて贖い」という歌詞となっています。キリスト教の専門用語も含まれています。意味が分からないで歌う人々もいます。

そこで歌いやすく理解しやすい讃美歌をという声が生まれます。それがポップス讃美歌を使い青少年や家族向けで人気を集める礼拝が行われるきっかけとなります。その一つの例が映画「天使にラブ・ソングを」(Sister Act)で歌われる聖歌隊の曲です。主演はメアリーを演じたウーピー・ゴールドバーグ(Whoopi Goldberg)。指揮をしていたメアリーは、退屈な聖歌をモータウン(Motown)の楽曲の替え歌にアレンジして派手なパフォーマンスを繰り広げ、厳格な修道院長と対立します。ですがモータウン風の歌は、一躍町中の人気者になります。初めは疎んじていた院長やシスターらも、若い者が教会にやってくると音楽の意義を認めポップス讃美歌に賛同していくのです。実に楽しい映画でした。

今、多くのルーテル教会はポップ讃美歌をどんどん取り上げて礼拝で歌っています。時代の変化が教会にも大きな影響を与えているのです。教会は音楽の流行を生み出すところともいえます。

キリスト教音楽の旅 その29 日本のキリスト教と音楽 ミズリー派ルーテル教会

ミズリー・シノッド・ルーテル教会(The Lutheran Church–Missouri Synod: LCMS)は, しばしばミズリー派ルーテル教会と呼ばれます。保守的で伝統的な教義と実践の一致を大事にする教会といわれます。シノッドとは「会議」という意味です。ドイツからの移民を吸収して1847年にシカゴで結成され、ドイツ福音ルーテル教会としてミズリー州、オハイオ州、ウィスコンシン州、ミネソタ州、イリノイ州などで急速に成長し地域教会を設立していきます。国内で200万人の信徒を擁しアメリカではアメリカ福音ルーテル教会(Evangelical Lutheran Church in America)に次ぐ規模といわれています。

St. Peter–Immanuel Lutheran Church and School, Indiana

ミズリー派教会の憲章によりますと、教会は宣教における調和を重んじ讃美歌や音楽、礼拝そして宣教を重視します。讃美歌は聖書や信仰告白に基づく歌詞として位置づけられます。礼拝は、式文や讃美歌を用い、奏楽にはオルガンやピアノを用います。賛美歌集は「Lutheran Hymnal 」、式文は「Lutheran Worship」と呼ばれ、伝統的な儀式を受け継いでいます。「Lutheran Confessions」という信仰告白書も用意されていて整然とした礼拝様式を守り続けています。聖書とルター派信仰告白を厳密に解釈するために、しばしば他のルター派諸教会とも衝突してきました。

しかし、20世紀にはいり、多くのミズリー派教会の地方教会は新しい礼拝形式を取り入れていきます。たとえば、青少年が好むより現代的なポップス的な曲とかギターやバンドを使い賛美するやり方です。伝統的な讃美歌はあまり歌わないようになります。危機感を抱いたミズリー派教会の本部は、声明をだし伝統的な音楽と現代的な音楽との共存を指摘しつつも、ルーテル教会は会衆による賛美と聖歌隊による歌を継承すると表明します。新しい教会の運動に対して、保守的な姿勢にしがみつくことが困難になってきたからです。多くのルーテル教会は毎月一度は、こうしたポップス的スタイルの礼拝を採用して若者や家族が一緒に礼拝に参加できるように配慮しています。

キリスト教音楽の旅 その28 日本のキリスト教と音楽 ノルウェー・ルーテル伝道会

日本におけるルーテル教会の宣教が始まったのは1949年です。ノルウェー・ルーテル伝道会(Norwegian Lutheran Mission-NLM)のルーテル教会は1891年に中国伝道会を設立し、同年8名の宣教師を中国に派遣したことから始まります。ノルウェーではルーテル教会は国教です。人口500万人余りの国がアジアに宣教師を送ることは、なんという心意気なのかと感じ入ります。

Hans Nielsen Hauge

第二次大戦を経て、中華人民共和国が成立するとNLMの宣教師は大陸からの退去を余儀なくされます。その後、アメリカを経て1949年6月に宣教師は日本に到着します。そのとき西明石に住んでいた賀川豊彦師の別荘で最初の伝道の働きを始めるのです。やがて神戸で聖書学院を創設するために2人の引退牧師ウィンテル師(Rev. Jens Mikael Winther)、スタイワルト師(Rev. A.J. Steiwalt)に指導を依頼するのです。そのときウィンテル師は75歳、スタイワルト師は70歳でありました。このお二人は聖書学院の働きで計りがたい貢献をされます。

ノルウェー・ルーテル伝道会(NLM)は、日本の農村での伝道を重視します。この理由は、NLMの創始者であったハンス・ハウゲ(Hans Nielsen Hauge)は農民の子であったことが影響しているといわれます。宣教師たちは1950年頃から松江で働きを始めます。岡山の蒜山高原などで酪農も奨励していきます。ルーテル伝道会は、信者の一人一人が積極的に教会に関与することを大事にし、素朴で熱心な敬虔主義 (Pietism)の流れを伝統としています。

蒜山高原

キリスト教音楽の旅 その28 日本のキリスト教と音楽 長老派教会

長老派教会のことです。長老派はカトリック教会の教皇権や聖職制度を認めず、聖書を重視するという広い意味で、宗教改革にも貢献した清教徒(ピューリタン, Puritan)の一派とされます。イングランドのチャールズ1世(Charles I)の専制政治に反対したクロムウェル(Oliver Cromwell)らが、議会派を勝利に導く清教徒革命の担い手としても知られる人々です。

Oliver Cromwell

長老派教会(プレスビテリアン)では、一般信者で経験の深い指導者として宣教長老を選び、教会を運営すべきであるという長老主義を主張します。長老と代表信徒の合議で教会を運営するのです。これは長老制度と呼ばれます。プレスビテリアンは特にスコットランドのプロテスタントに多かったようです。その指導者はスコットランド人のノックス(John Knox)です。チューダー王朝(Tudor dynasty)でメアリー (Mary I of England)が王位に就くと、彼女はローマ・カトリックを再建します。そのためノックスは大陸に亡命を余儀なくされます。

John Knox

ノックスははジュネーヴ(Geneva)でカルヴァンに学び、改革派神学と長老制の体験と知識を得て、新しい礼拝式文も作成していきます。やがてその式文はスコットランド宗教改革の教会において採用されていきます。16世紀から17世紀にかけてピューリタン運動の主力となる神学を形成したのがノックスといわれます。清教徒は新大陸に渡り、その後アメリカ各地でキリスト教の布教に大きな役割を果たしていきます。

Sausalito Presbyterian Church, San Francisco

キリスト教音楽の旅 その27 日本のキリスト教と音楽 カルヴァン主義

カルヴァン(Jean Calvin)は宗教改革初期のフランスの神学者です。神の主権を強調する神学体系を提唱し、クリスチャン生活の実践を指し示す考えを提唱した指導者です。改革派神学(Presbyterian Theology)と呼ばれるカルヴァンの教えでは、礼拝を儀式とせず、聖書の解き明かしを中心とする簡素な様式に改め、またラテン語を使わず自国語を使うことです。伝統的な礼拝形式や教会暦をやめるのも特徴となっています。

ルター派のコラールのような会衆歌唱の重要性を認めますが、聖書尊重の立場から創作讃美の使用も避けるという徹底さです。礼拝ではフランス語韻文訳の詩編歌のみを使用することとし、1539年に最初の詩編歌集を出版するほどです。カルヴァンはルターに比べ、芸術とか文化に関心が低かったようで、音楽そのものも改革派の教会では広がらなかったといわれます。

カルヴァンの名声によって、改革派教会の教理はカルヴァン主義(Calvinism)と呼ばれるようになります。カルヴァン主義者はフランスではユグノー(Huguenot)、オランダではフーゼン(Fusen)、スコットランドでは長老派、プレスビテリアン(Presbyterian)と呼ばれ広くヨーロッパに浸透していきます。

キリスト教音楽の旅 その26 日本のキリスト教と音楽 聖公会

以前、ロシア正教会の歴史や音楽などに触れました。キリスト教音楽は教派の執り行う礼拝形式と深い繋がりがあることにも触れました。例えばルーテル教会の礼拝では個人の信仰を重視し、それに表現を与えることに熱心でした。それがコラールを生むことにつながりました。音楽を尊重したことから、16世紀から18世紀にかけてコラールの聖歌隊用の編曲が無数に作られました。後年のブクステフーデ(Dietrich Buxtehude)、パッヘルベル(Johann Pachelbel)、クーナウ(Johann Kuhnau)らの作曲家です。こうした音楽家の業績はバッハ(Johann S. Bach)によって集大成され、テレマン(Georg Telemann)によって近代的に味付けられたといわれます。

ルーテル教会と同様に、比較的ローマ・カトリック教会に近いといわれる聖公会の音楽はどうでしょうか。聖公会は英国国教会(The Church of EnglandとかAnglican Church)といわれます。アメリカでは監督派教会、The Protestant Episcopal Churchと称します。ただ、監督派は必ずしもこの教派だけの呼び名ではありません。The Church of Englandはイギリスにおける宗教改革に端を発して英国国教会となった経緯があります。ローマ教会に対する国民的な反感が起こります。ただ、教理上ではローマ教皇の権威を認めないことを除けば、カトリック教会の教理を継承しています。

聖公会は、ローマ教会、ルーテル教会、東方正教会と同様に成文祈祷や典礼書が備わっていて、教理、信仰、典礼、音楽に関してはローマ教会に近く、他の要素ではプロテスタント教会に近いのも聖公会の特徴といえます。例えば典礼では自国の言葉を使うのもそうです。ローマ教会はラテン語を使用します。

キリスト教音楽の旅 その25 日本のキリスト教と音楽 讃美歌

教会の会衆によって神への感謝や祈り、癒し、励ましなどの意味がこめられた歌の総称です。自分の信仰を告白し、民衆への証し的な性格が歌詞に埋め込まれています。特にプロテスタントを中心として、西ヨーロッパに広がり成長したキリスト教諸教派で用いられる宗教歌が讃美歌(hymn, anthem)です。

新約聖書のマタイによる福音書26章30節では、最後の晩餐の光景が記されています。晩餐の後「一同は賛美歌を歌うとそこを出て、オリーブ山に向かいました」とあります。この時の讃美歌は日々の糧への感謝です。使徒パウロは、新約聖書エペソ人への手紙5章15-21節で「霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」と説いています。ここでの「詩」とは詩篇(Psalm)、「賛美」は詩篇以外の旧約の歌、そして「霊の歌」は初代教会の信徒よって作られた讃美歌というように分類されるのが定説のようです。初代教会では、自分たちの信仰体験を表明するために讃美歌を創作していたといわれます。

讃美歌の分類には、霊歌とかスピリチュアル(spiritual)もあります。黒人奴隷の中に広がったキリスト教から、アフリカ独特の音楽的な感性が融合して生まれた歌、黒人霊歌を指すこともあります。教会讃美歌にくらべて、より生活に根ざした歌詞が歌われます。スピリチュアルに似たのが「ゴスペル」(Gospel)です。ゴスペルとは福音とか良き知らせという意味です。これも黒人教会文化が生んだ魂の歌ともいわれ、教会で会衆が総立ちになり、手を叩いたりステップを踏み体を揺らして歌うのです。

「ゴスペル」にはハーモニーやリズム、インプロといった特徴があります。もとの故郷アフリカの文化が色濃く反映されているようです。聖書の言葉に自分たちなりの意味を持たせて歌ったのでしょう。聖書には「自由」「解放」という言葉が多く出てきますが、これは彼らにとって「奴隷制からの解放」を意味し、自由をもとめて仲間と共に歌うことで悲惨な境遇を耐え忍んだのでしょうか。
“Let Us Break Bread Together”


キリスト教音楽の旅 その24 日本のキリスト教と音楽 ミッション・スクール

明治時代に再来したカトリック教会は、新しく布教を開始したプロテスタント教会に比べて聖歌集の数が少ないといわれます。それには理由があります。もともとカトリック教会では、ミサで聖歌を歌うのは司祭および聖歌隊など特定の人でありました。会衆は静かにそれを聴いていたのです。外国人宣教師の中に聖歌集の編纂に携わるに音楽家はいなかったことにも原因していたようです。

Nichole Barre

他方、プロテスタント教会ですが、16世紀の宗教改革運動は、ドイツ語聖書と信仰問答書と讃美歌によって進められたともいわれます。ルター(Martin Luther)から始まるコラール(Choral)という会衆賛美歌が礼拝で歌われるようになり、バッハ(Johann S. Bach)をはじめ有名な作曲家によって数々の宗教音楽が作られ今に至っています。そこから会衆が歌うという伝統がつくられたのです。会衆が歌うことによって多くの歌が生まれ、宗教的な民謡の普及も広まり、19世紀以降の讃美歌は、聖書的表現と伝統的な教理を結びつけることにより歌詞が福音的な内容になっていきます。

Isaac Ferris

カトリック教会では日本語聖歌がミサの中心となることはありませんでした。ただ歌によるミサが行われたのは都市部の限られた教会で、ミサ以外では集会や日曜学校で歌われたようです。通常、朗誦ミサがほとんどを占めていたのが日本とカトリック教会です。西洋の音楽を日本人が習得するまでに、またカトリックの作曲家を生むまでにかなりの時間を要したようです。日本人によるカトリック聖歌が現れたのは、昭和初期時代になってからといわれます。時代を経て1970年代に入って新しい聖歌集「典礼聖歌」を作ます。そしてプロテスタント教会の賛美歌のように会衆も歌うようになります。

キリスト教音楽の旅 その23 日本のキリスト教と音楽 「Jesus loves me」

キリシタン禁制の高札が撤去される前年の1872年に聖書翻訳委員会を設置しようとして、第一回プロテスタント宣教師会議が横浜の居留地にあるジェームス・ヘボン(James Curtis Hepburn)宅で開かれます。当時来日していた宣教師たちが日本伝道の方策を練り、教派間の友好協力を深めるための集いです。ヘボンはアメリカの長老派教会の医療伝道宣教師で、後に明治学院大学を創立した人です。ラテン文字を使って日本語を書き表す方法のヘボン式の提唱者としても知られています。

会議には長老派、改革派、会衆派、バプテスト派、聖公会、ユニオン・チャーチ、日本基督公会からの宣教師が参加します。この会議では、各教派の違いを乗り越えてプロテスタント教会の設立を提唱した宣教師もいました。しかし、各教派宣教師の主張が激しく対立したといわれます。

明治学院大学ヘボン館

この会議で、改革派教会のバラ(James H. Ballagh)という宣教師により日本語に翻訳された讃美歌が披露されます。これが英語による讃美歌の初めての日本語訳といわれます。その一つは“Jesus loves me, this I know”です。当時アメリカの日曜学校で歌われていた讃美歌です。日本基督公会の信徒によって訳されたもので「主われを愛す」という題名で、その後最も愛唱された賛美歌です。こうした翻訳を契機に英語の讃美歌の日本語翻訳や編集、出版が始まったといわれます。

Jesus loves me! This I know,
 For the Bible tells me so;
   Little ones to Him belong,
   They are weak but He is strong

キリスト教音楽の旅 その22 日本のキリスト教と音楽 キリスト教信仰の回復

日本におけるキリスト教信仰の自由が回復すると、カトリック教会と正教会、そしてプロテスタントの諸教会の多くの宣教師たちが続々と来日します。改革派、会衆派、長老派、バプテスト、聖公会、ユニオン派、フレンド派などです。宣教師はまずは学校作りなどの教育活動を始めて、人々の信頼を得ていきます。西洋文明を日本に伝え、だんだんと聖書と聖歌および讃美歌を日本人に伝えていこうとしました。

パリ外国宣教会は慈善事業や社会福祉事業に力を注ぎ、貧しい人々への宣教活動をしたことで知られています。御殿場に療養所を設立し、ハンセン氏病患者を収容します。熊本にも同じような療養所をつくります。1880年に孤児院を開設したのもパリ外国宣教会です。長崎の西出津町に女子救助院というのを設立して授産活動を始めます。そこに修道女となった者は、フランスからのもたらされた技術によって織布、編物、そーめん、マカロニ、パン、醤油の製造などを行い自給自足をしていきます。こうした働きの中心に立ったのは、マルク・マリー・ド・ロ(Marc Marie de Rotz)という宣教師です。

Marc Marie de Rotz

1888年には築地教会の近くに後の雙葉学園の前身となる高等仏和女学校が開かれます。プティジャン司教は、フランスの女子修道会からも修道女の派遣を依頼し、来日した修道女らは1877年には、神戸で後の大阪信愛女学院となる孤児院と学校を創設します。

キリスト教音楽の旅 その21 日本のキリスト教と音楽 オラショと津和野

潜伏キリシタンは、仏教や神道などの信者として振る舞いながら、祈祷を意味する「オラショ」(Oratio)を密かに伝承していたといわれます。しかし、踏み絵を踏んだ者や密偵などによりキリシタンの存在が密告され、捕縛された事件は「浦上一番崩れ」とか「四番崩れ」と呼ばれ、捕縛されたキリシタンには弾圧は拷問や磔、流刑が待っていました。例えば、島根県の津和野の町です。長崎からキリシタン153名がこの町に流刑され改宗が強要されて、そのうち37名が殉教した地です。津和野は文豪森鴎外の出生地で静かな谷間にある町です。どうしてこの地にキリシタンが送り込まれたのかは、私は訪れた時に調べませんでした。

キリシタンが歌ったオラショは、土着の風俗や習慣と混ざり正統的な聖歌ではありません。オラショを唱えるのは禁制だったので、本などの形にするのははばかられ、ほとんど口伝えでありました。キリシタンは聖母マリアやイエス・キリストをはじめ、聖女などが彫られた様々なメダイ(medalha)とかアヴェ・マリアを繰り返し唱える際に用いる数珠状の祈りの用具ロザリオ(rosario)、聖像聖画、十字架クルス(Cross)を秘蔵していました。

潜伏キリシタンは、やがてパリ外国宣教会によってカトリック教徒として復帰します。宣教師プティジャン(Bernard-Thadee Petitjean)らが執り行ったミサでは、また、新しく入信したカトリック信者は、馴染みのない西洋の音階による歌を歌うのが難しかったようです。そこで宣教師たちは正統的な聖歌を伝えるために、旋律を伴わない朗誦によってミサを唱えたといわれます。朗誦は、オラショに似た響きがあり、祈祷であると同時に神との対話であったといったほうがよいでしょう。オラショを聴きますと、長らく禁制の下で堂々と唱えることはできなかったことがその響きから伝わります。

津和野の街

キリスト教音楽の旅 その20 日本のキリスト教と音楽 大浦天主堂

久しくカトリック聖歌の声が消えて200 有余年、鎖国時代が終わります。禁教、海禁体制の終わりです。しかし、明治新政府は文明開化を目指しながらも、キリスト教禁止政策を継承します。長崎では肥前浦上信徒らへの激しい弾圧を続けます。これは「浦上教徒事件」といわれました。こうした弾圧に対して外国使節団は激しく抗議し、また1871年の岩倉具視らの遣欧使節団から、この弾圧が不平等条約改正の障害となっていることを指摘されます。1873年に新政府はキリシタン禁制高札を撤去し、西日本諸藩に送り込んだキリシタンを帰村させます。

少し時を遡り、禁教令の廃止に至る歩みです。19 世紀に入るとローマ・カトリック教会を母体としてアジアおよびアメリカ大陸で宣教活動を展開します。それまでキリシタン時代を築いたイエズス会に代わり、パリ外国宣教会(Missions Etrangeres de Paris)が東洋布教の任務につきます。その理由はイスパニアやポルトガルの衰退による列強からの脱落です。東洋布教を主導した同宣教会は、日本上陸と再伝道の準備を始めます。

日本へは1844年にフランス人宣教師フォルカード(Theodore Augustin Forcade)らがフランス軍艦で琉球に到着します。1858年に日仏修好通商条約が締結されます。1859年にはジラール(Prudence Seraphin Girard)がフランス総領事一行とともに、禁教以後はじめての公認されたカトリック宣教師として江戸に入ります。1862年にはプティジャン(Bernard-Thadee Petitjean)などが開港地の長崎や横浜に来航します。1862年、横浜には在日居留外国人のための横浜天主堂が、1865年には長崎にはフランス人と日本二十六聖人たちに捧げるために大浦天主堂が建設されます。その中心となった宣教師がプティジャンです。大浦天主堂の正式名は「日本二十六聖殉教者天主堂」といいます。1953年、国宝に指定された歴史的な建造物です。

大浦天主堂

キリスト教音楽の旅 その19 日本のキリスト教と音楽 その4 天正遣欧使節のもらたらしたこと

天正遣欧使節は、正使が 13歳の伊東マンショ、13歳の千々石ミゲル、副使が13歳の原マルチノ、そして14歳の中浦ジュリアンです。こうした名前は洗礼名です。セミナリオでの成績が優秀で、音楽にも長けていたことが想像されます。宣教師ヴァリニャーノらに付き添われて1582年2月に長崎を出航します。風向きを考慮してこの時期を選んだものと思われます。旧ポルトガル領であったマカオ、マラッカ、インドのゴア(Goa)を経て、南アフリカ最南端の喜望峰を回り、1584年8月ポルトガルのリスボン(Lisbon)に到着します。帆船による2年以上の船旅は若者には大変辛い経験だったろうと察します。なにせ風任せの航海です。船員の中には病気による死者もでたとあります。

遣欧使節の航路

天正遣欧使節は1584年11月にスペインの首都マドリードでスペイン国王フェリペ2世(Felipe II)に、1585年3月にはローマでローマ教皇グレゴリウス13世(Gregorius XIII)に謁見するという光栄に浴したようです。グレゴリウスはグレゴリウス暦を制定したといわれます。4人は日本の正装でローマ教皇に会見し、ラテン語で大友宗麟ら大名の親書を読み上げたということが宣教師の記録にあります。

ローマ教皇謁見の絵

1587年に秀吉は筑前箱崎にて「伴天連追放令」を出してキリスト教の禁止に転じます。ポルトガル語で「神父」を指す「padre 」から、伴天連とかバテレンが生まれます。秀吉は宣教師の退去と貿易の自由を言い渡します。1590年7月に一行は 長崎に帰港し、翌年3月聚楽第において豊臣秀吉の前でジョスカン・デ・プレ(Josquin Des Prez)の曲を演奏します。彼らが伴天連追放令の解除を願い出るも、やがて一行をはじめ信徒は過酷な運命をたどります。伊東マンショは宣教師となるも若くして病死、千々石ミゲルは棄教、原マルチノはマカオに追放、中浦ジュリアンは殉教します。

グレゴリウス13世

キリスト教音楽の旅 その18 日本のキリスト教と音楽 その3 セミナリオと音楽

1605年に長崎で「司祭用サクラメンテ」(Sacramenta Ecclesiae Ministranda)という司祭によって執り行われる典礼の解説書が出版されます。ここには各典礼で用いられる聖歌が指示されています。五線譜(ネウマ)付きのグレゴリオ聖歌19曲が納められています。これは日本最古の洋楽譜ともいわれ、キリシタン音楽を語る唯一の資料といわれます。「サクラメンテ」とはカトリック教会では秘跡とか聖礼典と呼ばれています。

「司祭用サクラメンテ」に収録されるグレゴリオ聖歌19曲のうち、13曲は葬儀用となっています。日本人が葬儀を大事にしていたことを伺わせるものです。残りの6曲は各地を訪問するときの行列や典礼の入場のときに歌う曲といわれます。

有馬のセミナリオ

少し遡りますが、1551年にザビエルが周防山口で大内義隆に献じた土産品に鍵盤楽器があります。13本の糸が張られた楽器です。これは「Cravo」とか「Clavicordia」と呼ばれていました。オルガンが普及する前はこのCravoが典礼で使われていました。1580年、島原の有馬と近江の安土にセミナリオが開かれます。セミナリオは日本人聖職者を養成する神学校です。ラテン語、日本文学、キリスト教教義のほか音楽や工芸なども教え,修学期間は3〜4年であったといわれます。

セミナリオの課程にある音楽とは、「唱歌と音楽」のことで、生徒の中には「Cravo」や「Clavicordia」を学ぶ者もいたようです。典礼では音楽は欠かせない要素ですから、音楽に力をいれたことは容易に想像されます。1558年、織田信長が安土のセミナリオを訪問したことが、臣下であった太田牛一の記した「信長公記」にあります。音楽で信長をもてなしたかもしれません。

キリスト教音楽の旅 その17 日本のキリスト教と音楽 その2 アレッサンドロ・ヴァリニャーノ

ポルトガルから1554年にやってきた第三次宣教師団にはルイス・フロイス(Luís Frois)の他に、コレジオ(collegio)と呼ばれる聖職者育成の神学校から聖歌に熟練した5人の青年神学生が含まれていました。その一人に、アイリス・サンシエス(Iris Sanchez)がいて、聖務日課や単旋律聖歌などを携行していました。豊後府内、今の大分の信徒は聖週間になると「Miserere mei, Deus」、”神よ憐れみ給え”を歌い、11月の死者の記念日には連祷(Litany)を歌ったといわれます。

ルイス・フロイス

1560年以降、西日本各地の教会には附属する初等学校ーセミナリオ(seminario)が作られます。生徒らは祈りや聖歌をラテン語や日本語で歌いこなし、ミサ仕えをするほどになったといわれます。サンシエスは天草の志岐、島原の口之津にも少年少女聖歌隊を組織し、「その発音も歌唱力もきわめてすぐれ、楽曲および歌唱を相当会得した」と記しています。1565年頃、府内ではモテットなど多声楽も歌いことなすようになります。1579年にはアレッサンドロ・ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano)がやってきて、布教活動は活発になります。1580年頃には島原の有馬と安土にもセミナリオが開かれます。

アレッサンドロ・ヴァリニャーノ

フロイスは、織田信長や豊臣秀吉らと謁見しその信任を得て畿内での布教を許可されます。主に安土の付近での宣教活動です。ヴァリニャーノの通訳として視察に同行し、安土城で信長に拝謁します。既存の仏教界のあり方に信長が反感を持っていたのも幸いしたようです。フロイスはその後、聚楽第で秀吉と会見したとも記録されています。この頃が日本おけるイエズス会の最も盛んで安定した宣教状態でありました。

安土のセミナリオ址

キリスト教音楽の旅 その16 日本のキリスト教と音楽 その1 フランシスコ・ザビエル

日本に西洋音楽が入ってきた時代をとりあげます。キリシタン音楽ともいわれます。キリシタンとはポルトガル語の「Crista」、「キリスト教徒の」という意味の言葉を転訛したものです。漢字では切支丹とか吉利支丹という表記となります。現在はクリスチャンというのが一般的です。

キリシタンの日本伝道は、イエズス会(Societatis Iesu)の宣教師フランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier)が来日した天文18年(1549年)に遡ります。最初、ザビエルは周防山口で大内義隆に謁見します。その時、ザビエルは礼儀を失して義隆から冷たくあしらわれたと云われます。天文20年にザビエル再び義隆に引見します。その時一行をは珍しい文物を義隆に献上したようです。献上品にはポルトガル(Portugue)のインド総督とゴア(Goa)司教の親書のほか、望遠鏡・洋琴・置時計・ガラス製の水差し・鏡・眼鏡・書籍・絵画・小銃などがあったといわれます。そして義隆はザビエルに対して布教の許可を与えるのです。ここで「洋琴」という献上品が入っていたことに注目したいです。恐らく弦楽器のことです。

大内義隆

宣教師が伝道するにあたっては、音楽を用いたことは容易にうかがわれます。例えば行列のときに音楽を奏でたり、後に典礼のなかでグレゴリア聖歌を唄ったということも想像できます。日本で西洋音楽をもたらしたのはイエズス会の宣教師ということになります。ミサ典礼は周防山口で降誕祭で始めて行われたといわれます。その歌ミサは邦人信徒に喜ばれます。ザビエルは来日前に、ゴアでグレゴリオ聖歌を中心とする典礼が異教徒を惹き付けることを知っていたようです。

ザビエル記念聖堂

キリスト教音楽の旅 その15 グレゴリオ聖歌とビザンツ聖歌

キリスト教伝統の聖歌の2回目です。東方の雄をビザンティン聖歌(Byzantine Chant)とすれば,西方教会を代表するものがグレゴリオ聖歌(Gregorian Chant)です。グレゴリオ聖歌は正式にはローマ典礼聖歌と称されます。第64代ローマ教皇グレゴリウス1世 (Gregorius I)が集大成したといわれます。これには異論があるようですが,770年ごろからグレゴリオ聖歌とよぶ習慣となります。古代ユダヤの詩篇唱や賛歌が母体になり、大部分はラテン語聖書からなる典礼文を歌詞とします。全音階的な教会旋法にもとづいて歌われる単旋律の聖歌です。リズムや拍子を有する西洋音楽の源泉となった音楽といわれます。

Portrait of Pope Gregory I — Image by © Bettmann/CORBIS

他方、ビザンチン帝国における音楽はビザンツ聖歌を指します。単旋律で主に全音階で自由なリズムである点などはグレゴリオ聖歌と多くの共通点を有しています。違いといえば、直接聖書からとった歌詞でないことや、ミサに比べて聖務日課のほうが入念につくられていることが特徴とされます。最も初期の聖歌は4~5世紀頃に起こったトロパリオン(troparion)というもので,「詩篇」(Psalm)の各節の朗読の間に歌われます。6世紀頃から,短い導入部と繰返しを持つ同じ構造の節で成り立つコンタキオン(kontakion)が盛んになります。さらに7世紀頃からはカノン(canon)という楽曲が生まれます。カノンは9部分から成る非常に長い詩で、それぞれ数行から成るトロパリオンから成り立ちます。ビザンチン教会ではギリシア語が用いられたといわれます。ユダヤ(Judea)やシリア(Syria)の東方典礼の中の聖歌に基づいて生まれた音楽です。

誠実な十字架 グレゴリオ聖歌

キリエ エレイソン ビザンツ聖歌



キリスト教音楽の旅 その14 ビザンツ聖歌

ロシア正教の音楽のことです。330年にコンスタンティノープル(Constantinople)がローマ帝国東方領の行政首都となります。現在のイスタンブールです。ビザンチン帝国(Byzantine)ともいわれます。この地で広まったのが東方教会です。1453年に滅ぶまで、東地中海のギリシア語圏を中心に発展した帝国です。東方教会の音楽、あるいはビザンティン音楽の中心は聖歌です。広義にはビザンティンの典礼に添う教会の伝統が込められています。特にギリシアとギリシア系の教会の伝統を継承して発展します。ドイツ語読みでのビザンツ(Byzanz)音楽ともいわれます。

ビザンツ聖歌(Byzantine Chant)は、古典時代およびヘブライ(Hebrew)音楽が組み合わされ、その芸術の産物によって成立し、徐々に発展していったといわれます。初期ビザンツ聖歌は会衆の歌であり、口伝承であったために記譜されなかったようです。実際にどのように歌われていたかはYoutubeでの歌唱を聴くと少しは伝わります。

9世紀頃になると「ネウマ音楽記譜」(neumatic notation)が現れます。聖書朗唱の節回しをエクフォネシス(ekphonesis)といい、棒読みではなくほんの少し音高や読み方を変える歌い方です。キリスト教が国教になるとエルサレム(Jerusalem)やコンスタンティノープルには大聖堂が建てられます。前回引用したハギア・ソフィア(Aagia Sophia)がその代表です。巨大なドームでの礼拝にふさわしい厳粛な儀式が執り行われ、新しい聖歌が次々と作られていきます。

正教会の礼拝は歌によって始まり、歌によって終わるといっても過言ではありません。説教以外に読誦はありません。祈祷書のテキストはさまざまな段階の音楽に乗せて歌われます。歌には祈りの共同体性を強め、教えを記憶に留める効果があります。歌では伴奏となる器楽は一切使われません。ユダヤ教礼拝堂シナゴーグ(synagogue)で器楽が用いられなかったことによるといわれます。「みことば」による礼拝が重視されてきたからです。

ビザンティン・チャント
ロシア正教チャント
ロシア正教賛美歌14
ロシア正教賛美歌アレルヤ
ユダヤ教の礼拝


キリスト教音楽の旅 その13 東京復活大聖堂とロシア正教会

先日、淡路島からきた友人と都内を散策しました。丁度日よりも良く20,000歩ほど歩きました。最後に回ったのが神田のニコライ堂です。正式名は、日本ハリストス正教会(Orthodox Church in Japan)「東京復活大聖堂」(Holy Resurrection Cathedral in Tokyo)とあります。この教会はロシア正教会と思っておりましたが、調べてみると間違っておりました。

現在のロシア、ウクライナ(Ukraine)、白ロシアの祖先である東アラブ族が統一国家をつくったのは9世紀後半といわれます。980年頃、ウラジミール1世(大公)(Vladimir)がギリシャ正教を国教と定めます。ウラジミール1世はビザンチン皇帝(Byzantine)の妹を妻として自らもギリシャ正教に改宗します。この時からロシア正教の公式な歴史が始まるといわれます。一般大衆は農耕と結びついた自らの宗教である太陽神を中心とした多神教を信じ、ロシア正教と原始宗教との抗争が続きます。結局はキリスト教のロシア化という形で原始宗教の諸行事がキリスト教の中に取り入れられていきます。

正教会が広まった地域がビザンチン(Byzantine)です。ビザンチン帝国、別名東ローマ帝国の首都であったコンスタンチノポリス(Constantinople)の旧名、ビュザンチオン(Βυzanνtiοv)を語源とするといわれます。コンスタンチノポリスは今のイスタンブール(Istanbul)です。ビザンチンは東ローマ帝国及びその文物を指す名称です。

正教会は一つの国に一つの教会組織を置くことが原則とされます。ギリシャ正教会、ロシア正教会、ルーマニア正教会、ブルガリア正教会、日本正教会といった具合です。ことなる教義を信奉するのではなく、同じ信仰を有しています。神田のニコライ堂はロシア正教会の司祭ニコライ(Nicholas)によって正教の教えがもたらされ、日本ハリストス正教会の設立となります。

キリスト教音楽の旅 その12 オルガニスト 秋元道雄氏

私が最初にオルガン演奏を聴いたのは1965年です。札幌ユースセンター教会というルター派の教会でのことです。北海道で最初のオルガンです。演奏者は秋元道雄東京芸術大学教授でした。

秋元氏は東京芸術大学のオルガン科卒業後、ライプツィヒ=ベルリン楽派のヴァルター・フィッシャー(Walter Fischer)教授の門下生であった真篠俊雄教授に師事します。真篠教授にはオルガン奏法、楽典、オルガン教科書などの著作があります。やがて、秋元氏はイギリスとドイツに留学します。1955年にロンドン市立ギルドホール音楽演劇学校(Guildhall School of Music and Drama)より全英最優秀音楽留学生賞である「サー・オーガスト・マン賞」(Sir August Mann)を受賞します。

その後、パリのノートルダム寺院(Cathedrale Notre-Dame)での演奏会を含め数多くの演奏会活動を行います。プラハの春(The Prague Spring)国際オルガンコンクールなど多くの国際コンクールの審査員をつとめた経歴を有しています。東京芸術大学教授をしながら日本キリスト教団富士見町教会のオルガニストもつとめました。2010年1月に生涯を終えられました。

アトランティックシテイ、ボードウォークホールのオルガン

キリスト教音楽の旅 その11 オルガンの音楽

オルガンのことを話題にしますといろいろなことが思い出されます。オルガンを組み立てる行程を間近で見学できたこと、その組み立てを担当した日本で最初のビルダー辻宏氏のこと、そのオルガンの柿落で演奏を聴いたこと、そのときバッハのトッカータとフーガ ニ短調(Toccata e Fuga BWV 565)を始めて間近で聴いたこと、、、

オルガンの音楽には三つの種類があるといわれます。今回はそれを取り上げます。最初はオルガン・コラール(Organ Chorale)です。これはコラール旋律を基にしたオルガン曲の総称です。単に会衆のコラール歌唱を支えるための四声部編曲は除き、ポリフォニ(Polyphony)に作ったものというのが原則です。ポリフォニもすでに何度も説明しておりますが、多声部音楽のことで、各声部が独立した旋律とリズムを持ち、それらが調和している音楽のことです。フーガ(Fuga)はその代表といえましょう。

第2のオルガン曲はオルガン・ヒム(Organ Hymns)です。グレゴリオ聖歌の旋律を基にするオルガン曲のことです。典礼中の歌唱をオルガンの奏楽で代行するものです。マニフィカート(Magnificat)、ミサの式文の大部分がオルガンで奏されます。グレゴリオ聖歌をモテット(Motet)の作曲技法で編曲したものも指します。モテットとは、聖句を歌詞とする中世の無伴奏多声合唱曲のことです。プロテスタント教会の礼拝で歌われる讃美歌もそうです。ルター派の教会はオルガンと讃美歌なしではあり得ないことです。

第3のオルガン曲はオルガン・ミサ曲(Organ Mass)です。ミサ通常式文の各段に対応する多声的オルガン曲です。通常のミサ曲が式文の歌唱を中心とするのに対し、オルガン・ミサはオルガンによる独奏曲です。会衆が式文を唱えるのと並行して奏せられることもあります。グレゴリオ聖歌などを基にしたフーガ、モテット形式の曲が多いのも特徴です。

キリスト教音楽の旅 その10 オルガンの歴史 その4 足の技法

オルガンには足で操作するいくつかの装置が備わっています。足で鍵盤(ペダルボード)を押すのです。そこで足の技法が要求されことになります。重要なのは足鍵盤をひく足さばきです。オルガンでは足は単なる手の補助ではありません。手と同等の運動性が奏者に要求されるのです。

足鍵盤もまた、単旋律だけでなく対位法的に書かれた二重声部を奏する場合もあるのです。今はつま先とかかとを同時に用いて奏する四声部の曲もあります。対位法とはこのブログのどこかで何回か取り上げましたが、「同時に響く幾つかの旋律を、ある規則体系にしたがって組み合わせる方法」というものです。西洋音楽の根幹をなす作曲技法です。

足鍵盤

足の動きに対して坐り方も大事だといわれます。初心者はしばしばベンチに深く坐りがちのようです。そうではなく、ベンチのあまり後方ではなく、かかと足鍵盤に接する位置に坐ります。ペダルを見ずに正確に演奏するには相当の練習が要求されます。例えば、足を嬰ニ(D)と嬰ヘ(F)の間におき、黒鍵の側面に軽く触れながら隣あわせのホ(E)、ヘ、ト(G)の白鍵に正確に到着できることです。オルガン演奏には脚の長さも有利に働くかもしれません。

キリスト教音楽の旅 その9 オルガンの歴史 その3 演奏の仕方

演奏者は鍵盤の前に坐り、手と足で音色を決定するストップ(stop)と呼ばれる音栓と音高を決める鍵盤によって、風箱にある二十の弁を開閉して任意の音を得ます。鍵盤上の音域は4オクターブか5オクターブが主です。作曲者はそのオクターブで曲を作りますが、ときに11オクターブに達する曲を作ることもあります。

音色は、ストップをいくつか組み合わせてつくられます。ストップレバーは鍵盤の左右に数個から数十個も配置されているので、奏者が、演奏中に組み合わせを変えるのは大変です。そのため、以前はストップの操作のために助手が付いていました。両足を使うのは、低く太い音を出す大きな木管や金管から発音させるときです。そのために靴も特別です。奏者は木製の長いベンチに坐ります。木製なので腰を左右に移動するのが容易になります。

ふいごで風を送る姿

今日、音楽ホールや大聖堂などに設置されるオルガンは、鍵盤を弾きながら弁を自在にコントロールしている感覚がします。タンギング(tonguing)のような感じなのです。tongueとは舌のことです。リコーダーでは吹き口に舌を当てて一音一音区切るように音を出す奏法があります。空気の流れを一時的に中断し、各音の出始めを明確にするのです。オルガンのタンギングは指先で行っているといえます。

オルガンの管理ですが、パイプの内部に入ったほこりで音がよく響かなくなります。空気と接する振動面が音を放出するのを溜まったほこりが妨げるからです。そのため掃除は10年に1回位で行われます。パイプを分解して修理するオーバーホールもあります。ビルダー(builder)という職人がやる仕事です。オルガンは温度や湿度にも敏感です。礼拝前や演奏前は通常は空調を入れておきます。

オルガンビルダー

オルガンのような機能を持つ楽器は他にありません。強いていえば管弦楽くらいものです。管弦楽はそれぞれの個性をもつ一つひとつの楽器、それを一人ひとりの演奏者が奏するアンサンブルといえます。オルガンは一人の演奏者による総合楽器とでもいえます。オルガニストは奏者でありながら、音楽全体を統括する指揮者でもあるのです。

キリスト教音楽の旅 その8 オルガンの歴史 その2 その種類

15世紀頃からローマカトリック教会では、オルガンミサ曲、オルガンヒム(organ hymns)が作られていました。こうした楽曲は本来声で歌われるグレゴリオ聖歌を定旋律として用いられ、オルガンによって歌唱が交互に奏せられるようになりました。これが今日の礼拝の形式となっています。

バロック時代には使徒書(Apostle)と福音書(Gospel)との間でトッカータ(toccata)が演奏されました。トッカータはオルガンによる即興的な楽曲で、技巧的な表現が特徴の音楽です。英国国教会でも礼拝の前後に奏楽され、会衆の歌のための前奏曲(hymn prelude)が即興で演奏されます。プロテスタント教会も礼拝ではこうした奏楽形式を採用しています。

オルガンは鍵盤楽器のなかでは最も歴史が古いものです。その大きさもひざの上にのるポルタティーフ(portative)と呼ばれる左手でフイゴからパイプに空気を送り、右手は鍵盤でメロディを奏でるもの、やや大きいポジティフ(positive)という据え置き型のもの、そして礼拝堂に組み込まれる巨大なものまであります。大オルガンの場合、その複雑な構造は楽器の中では他に類をみないものとなっています。

オルガンの構造は、ふいご、あるいは送風機で起こる風、それを空気タンクで調節して一定の風圧にして送風管に送るのです。直接音を出すのは管(パイプ)です。一管で一つの音のみを発音し、音階や音程を変えることができません。それだけにオルガンは多数の管を必要とします。管は音の高さにょって並べられ、単一の音色をもつ一列だけでも楽器として成り立ちます。例えば、スズと鉛の合金で作られる金管や木管だけのものもあります。金管は二つの金属の含有量によって音色が変わるといわるほど微妙な楽器なのです。通常は金管と木管の組み合わせによって、音色や音量を得るのです。それにより多様きわまりない変化が可能となるのです。まさに楽器の王様といえるえしょう。

キリスト教音楽の旅 その7 オルガンの歴史 その1

教会で用いられる器楽の代表はなんといってもオルガンということになります。歌や合唱を支えたり、単独でも演奏されるのがオルガンです。ルター派の教会では、オルガン奏者が歌詞の意味を汲んで、各節ごとに伴奏の和声を変えることがしばしばあります。典礼におけるオルガンと奏者の役割は誠に大きいといえます。

バロック時代(baroque)ではオルガンではなく、ハープシコード (harpsichord)や弦楽合奏がみられました。現代ではピアノやギター、ドラムなども使われます。その変遷は各教派によって異なります。

ルター派教会立バルパライソ大学の礼拝堂

多くの教派のうち、オルガン音楽に重きを置いたのはルター派です。特にバロック時代ではコラール旋律を定旋律として用いたオルガンコラールが多数作曲されます。コラール前奏曲はコラール歌唱に結びつき、まさに礼拝音楽といえるものです。コラール・フーガ(coral fuga)、コラール・ファンタジア(coral fantasia)は礼拝の前後や中盤で奏せられます。こうした音楽は会衆の信仰的な情動を呼び覚ます役割もあるといえそうです。

キリスト教音楽の旅 その6 キリスト教的芸術音楽

基督教徒にとって礼拝はとても重要で、そこでは個人の信仰心が深められ、魂の成長が促される機会ともなります。教会音楽はそのためにも役割を果たします。同時に芸術的な音楽も個人の慰めや憩いの役割をもっています。キリスト教芸術もそのために作られています。

キリスト教的芸術音楽は3つに大別されると云われます。第1は例とは無関係の音楽です。たとえばオラトリオ(oratorio)をはじめ、聖句,その他、道徳的な歌詞をもつ大小の楽曲です。第2は受難曲(passion)、教会カンタータ(cantata)、モテット(motet)などの楽曲です。本来ならば典礼音楽に準じるものです。第3は本来の典礼音楽の流用ともいえるものです。たとえば大型のミサ曲(mass)、レクイエム(requiem)、聖書日課の詩篇(psalm)などの全曲、あるいは一部です。その他にも讃美歌、コラール(coral)などもそれにあたります。バッハやモーツアルトなどの大家が多くの作品をかいています。

キリスト教音楽の旅 その5 典礼的教会と音楽

典礼的教会(Liturgy church)は、礼拝の普遍性を重んじます。カトリック(Catholic)とは「あまねく」という意味ですから。従って礼拝は公式行事の中心となります。教会は、個々人の信仰を包みつつ、個人の信仰をいわば「止揚」するという考え方に立ます。祈祷、賛美の言葉は思いつきで行ってはならないのです。それらは式文や成文として礼拝式に包含されるのです。

ローマ式典礼には、長い間ラテン語(Latin)が用いられました。ラテン語は西洋文明の古典の根幹にありました。学問の世界でもそうです。従ってラテン語が礼拝で使われていたのは、教会の普遍性を示していたといえます。ローマ教会のミサ(mass)、東方教会の聖体礼儀(divine liturgy)、ルター派の聖餐式(sacrament)、英国国教会の早祷(Matins)、晩祷(Vesper)などの儀式の音楽は式文によって進められます。そこで使われるのは云うまでもなく典礼音楽のことです。

様式的にはローマ教会のグレゴリオ聖歌(Gregorian chant)のような単旋律、無伴奏のものも用いられる音楽は典礼の中で不可欠な要素であり、訓練された聖歌隊の役割が大きいのです。典礼が複雑かつ高度であるため、会衆は受動的になりがちです。そこで典礼の間に会衆の信仰心を励まし、高めるために全員で唱和する讃美歌が選ばれます。

詩篇(Psalm)、賛歌(Praise)、聖体降福式(Benediction)における聖歌、英国国教会のアンセム(anthem)やルター派のカンタータ(cantata)等は聖歌隊の分担となります。こうした音楽も会衆に理解し、歌えるような曲が用いられるのが普通です。