ウクライナの歴史から学ぶ その十 ウクライナのポグロム

Pogrom in Ukraine

やがて愛国主義者の間で対立が始まります。アントノビッチは、専制ロシアと貴族制ポーランドに挟まれたウクライナは真の民主政治を代表しているとし、クリッシュは、コサックは民主的というよりは、無政府的であると主張します。1876年、ロシアは再び学校教育、新聞、書物の印刷にウクライナ語を用いることを禁止します。1876年以降、リビュはウクライナ民族運動の中心となります。リビュはウクライナ南西部ガリツィア地方の中心地です。東ガリツィアは、農村の住民の多くはルーシ人、別名ルテニア人でした。アントノビッチの弟子、ミハイル・グルシェスキー(Mikhail Gruchesky)は「ウクライナ・ルーシの歴史」という書物を出版し、その中でキーウ・ルーシこそがウクライナ・ルーシであると主張します。さらにモスクワの周辺は、ロシア諸国家の中心に過ぎないとも叫びます。

Jewish in Pogrom

1881年頃、オデーサ(Odessa)などユダヤ人入植者への不当な待遇が起きてきます。この不満が拡大し、ウクライナとロシア南部で広範囲に反ユダヤ暴動が始まります。やがて集団的な略奪や虐殺行為に発展し、この行為はポグロム(Pogrom)といわれます。ポグロムとはロシア語で「破滅させる、暴力的に破壊する」という意味です。ポグロムは、1881年のロシア皇帝アレクサンドル二世暗殺の衝撃が直接の契機とされますが、農奴解放後の農民の土地不足や貧困、激化する階級対立、ロシア人の宗教的偏見が土台となり、ユダヤ人がスケープゴートとされた悲劇ともいわれます。

成田滋のアバター

綜合的な教育支援の広場

ウクライナの歴史から学ぶ その九 ウクライナのルネッサンス

ウクライナの民族主義が文芸復興–ルネッサンス(Renaissance)により台頭します。ウクライナはロシアの一部族とか小さなロシア人(Little Russians)とみなされていました。ウクライナの良心を喚起したのは画家で詩人のタラス・シェヴェチェンコ(Taras Shevchenko)です。その詩の内容は、民謡のバラードやロマン主義的なコサックの栄光を謳ったものです。そして、ウクライナの自由で民主的な社会を求め、その後の政治思想に大きな影響をもたらしていきます。

Zhovkva Castle in Lviv

1798年に、詩人・作家であるイヴァン・コトリャレーウシキー(Ivan Kotliarevsky)が、ウクライナ語の口語で書かれたパロディー叙事詩「エネイーダ」(Eheida)を刊行します。この書物は、近代ウクライナ文学の基盤となり、後に「ウクライナ学大事典」とも呼ばれていきます。1846年、ウクライナの愛国主義者がキーウで秘密結社、キュリロス・メトディオス協会(Brotherhood of Saints Cyril and Methodius)を結成します。その指導者は、歴史家のニコライ・コストマロフ(Nikolay Kostomarov)、パンテレイモン・クリッシュ(Pantelejmon Kulisch)やウクライナを代表する詩人で前述したタラス・シェフチンコらです。彼らは社会運動家で農民の啓蒙と革命運動への組織化を促進するナロードニキ(Narodniks)とも呼ばれました。

Renaissance in Ukraine

1861年、クリッシュやウラジミール・アントノビッチ(Vladimir Antonovich)は、ペテルブルグ(St. Petersburg)でウクライナ語の定期刊行誌「オスノバ」(Osnova)を発刊します。オスノバとは「出発」という意味です。1863年には、ロシア王朝内務大臣のピョートル・ヴァルフ(Pyotr Valuev)は、ウクライナ語の出版物や演劇活動などを禁止します。学校教育でもウクライナ語の使用は禁止となります。しかし、農民の間における運動や1853年のクリミア戦争の敗北により、ロシアの影響が弱体化します。それでも農民からの土地略奪や過重な賦役は、農民を苦しめます。

成田滋のアバター

綜合的な教育支援の広場

ウクライナの歴史から学ぶ その八 ロシア皇帝とレーニンの登場

ロシアは1775年、コサックの本拠を襲いコサックを武装解除し、ロシア・ウクライナを三分割します。1793年のポーランド分割でウクライナは再び統合されます。然してウクライナの政治的自治権ばかりか、その名称さえも消滅します。1764年から1781年に、エカチェリーナ2世(Yekaterina II) は中央ウクライナをロシア帝国に編入します。その頃になるとコサック族やその本拠であったシーチは滅亡しています。1783年にクリミア半島を併合し、ロシア人によって ノヴォロシア(Novorossiya)という街が造られます。ノヴォロシアとは「新しいロシア」という意味です。

Ukrainian Ukraine Flag Danube Swamp Ukrainian Flag

ロシア皇帝ツァーリ (Tsarist) の支配が及び、ロシア化が進み、ウクライナ語の使用は禁止され、ウクライナの国民性は封印されていきます。現在のウクライナの西側は、ロシアとオーストリアのハプスブルグ王家 (Habsburg)の支配に置かれ、1795年のポーランド・リトアニア公国の消滅まで続くのです。ハプスブルグ家は、神聖ローマ帝国皇帝に選ばれた名門で、オーストリアを領有しカール五世(Karl V)のとき、スペイン王をかねて「日の沈まない世界帝国」と呼ばれるほど、ヨーロッパ最大の勢力となります。

Green Ukraine

19世紀になると、ロシア帝国の奥地にウクライナ人の移民が始まります。1897年の統計によれば、223,000人のウクライナ人がシベリアへ、 102,000人が中央アジアへ移民しています。レーニン(Vladmir Lenin)が率いた左派のボルシェビキ(Bolsheviks) が極東共和国を建設しようとします。1906年のシベリア鉄道の開通によって、その後10年間に1,600万人のウクライナ人が極東へ植民します。アムール川(Amur River)から太平洋岸までのロシア極東におけるウクライナ人の植民地は、「緑のウクライナ」(Green Ukraine)と呼ばれるようになります。しかし、「緑のウクライナ」と呼ばれる国家の建設運動は失敗します。

成田滋のアバター

綜合的な教育支援の広場

ウクライナの歴史から学ぶ その七 ウクライナのコサック

15世紀になるとウクライナに新しい軍事社会が起こります。トルコ・カザック系のコサック(Cossacks)です。ウクライナの南部草原地帯を開拓してきます。コサックは、主として狩猟や漁業、養蜂などを営みます。コサックは、冒険人とか自由人と称しながらも賦役が課せられていました。彼らは戦士としての誇りから農奴という扱いを受けたくないという信念を持っていました。ザポリージャ(Zaporozhia)という開拓地に逃れてきたコサックは、領主からみれば反逆者のような存在で、領主はコサックに隷従を強いていき、コサックの反感をかっていきます。こうした反目には、領主、代官、地方長官がほとんどローマカトリック教徒であるという宗教的な敵愾心から生まれるものでした。こうして次第に民族の分離運動が起こります。

Cossacks

ローマ・カトリック教会とギリシャ正教会の合同によって、ウクライナ人は三つの宗教集団に分かれます。ラテン語の典礼を行うポーランド人のローマ・カトリック教徒、東方カトリックとよばれる合同派カトリック教徒、そしてギリシャ正教徒です。1578年からポーランド軍に服従するコサックの小常備軍がつくられます。コサックを従属させるために、ポーランドは草原地帯にクダーク(Kudak)要塞を構築します。コサックの将軍ボダン・フメリニッキ(Bohdan Khmelnytsky)は領袖として、数千人にコサック兵を率いてクダーク要塞を破壊し、ポーランド軍を破ります。その間、領主、カトリック僧侶、ユダヤ人の虐殺が行われます。

Bohdan Khmelnytsky

フメリニッキらは、キーウ、チェルコブフ、ブラック地方の公国側の人々をギリシャ正教徒に帰依させる協定を結びます。これに対して、ポーランド側や地方貴族らも反対します。貴族層はポーランド国境内に自治のウクライナ公国が成立することに反対し、コサックはポーランド人領主が復帰することにも不満でありました。フメリニッキが率いるコサックのラーダ(Rada)と呼ばれる評議会は、シーチ(Sich)に軍事、行政の本拠を置きます。やがてコサックは劣勢に陥るにつれて、評議会は1652年にロマノフ朝(Romanov Dynasty)の二代目アレクセイ一世(Aleksei I)に保護を求めることを決めます。アレクセイ一世はキーウ・ルーシを奪還する好機と捉え、1653年にロシアはフメリニッキの要請を受けてポーランドに宣戦します。ロシア・ポーランド戦争は、スウェーデン人(Swedish)の侵入により複雑化し、1656年に休戦となります。

フメリニッキの死後、イワン・ヴィゴフスキー(Iwan Vygovsky)がコサックの領袖となり、1658年、ポーランド、リトアニア、ウクライナによる連邦国家の結成が調印されます。ウクライナはドニプロ川を境にポーランド・ウクライナとロシア・ウクライナに分割されます。ヴィゴフスキーは、わずか2年間の首長でしたが、彼はウクライナを自立させるために大規模な戦争、新しい条約の締結、モスクワとワルシャワの外交作戦などを遂行していきます。

次ぎにコサックの領袖となったのは、ペトロ・ドロシェーンコ(Petro Doroshenko)です。彼は、ウクライナをオスマン帝国の属国となる構想を抱きます。そして1668年、スルタン(Sultan)のメフメット四世(Mehmed IV)はウクライナを保護下におきます。1672年、オスマン軍はポーランドに進攻し、ドニプロ川右岸のポーランド・ウクライナはオスマン帝国の宗主権下に入ります。ポーランドのヤン三世(Jan III Sobieski)は1683年のオスマン帝国による第二次ウィーン包囲(Vienna Siege)で勝利し、1688年、ポーランド・ウクライナからトルコ人を駆逐して英雄として名を馳せます。

ウクライナの歴史から学ぶ その六 宗教的な発展

リトアニアとポーランドにおけるウクライナ人の社会的な地位が次第に低下するにつれ、ルテニア貴族へも波及していきます。ローマ・カトリック教会が次第にウクライナに浸透するにつれ、ギリシャ東方正教会に対して、治世や法的な優越性を示していきます。外側からの圧力や規制によって、ルーシー・カトリック教会(東方カトリック教会)は次第に衰えていきます。16世紀中盤から、カトリック教会と活力を取り戻したポーランドにおけるイエズス会、そしてプロテスタント教会が、ルーシー・カトリック教会を脅かしたのです。

ウクライナ東方カトリック教会


ルーシー・カトリック教会の再興を期して16世紀の終わり頃、教会は結集し始めます。1580年には、コンスタンチン・オストロズキ皇太子( Konstantyn Ostrozky)が西ウクライナのヴォルィーニ(Volhynia)地帯やオストロ(Ostroh)等の街を建設し、そこを文化の中心にしようとします。学校や出版社をつくり、当時の有名な学者を招聘したりします。その成果はスラヴ語(Slavonic)による聖書の出版として現れます。リビュや近郊の街では信徒や市民によって教会が維持され、学校を運営し出版を行い慈善活動もやっていました。こうした人々は、しばしば正教会の階級制度と対立し、制度の改革を要求していきます。

マロン典礼カトリック教会

1596年10月にはベラルーシ南西部にあるブレスト・リトフスク(Brest-Litovsk)において急進的な宗教改革が起こります。キーウ近郊の大司教らがローマ・カトリック教会とギリシャ正教会の合同を発表します。この行為によって東方カトリック教会は、ローマ教皇権の承認、ギリシャ正教会やスラヴ語による典礼の維持により、地方教会の自治や伝統的な教理、そして聖職者の婚姻を認めていきます。こうして教会の合同によりローマ・カトリック教会との対等な地位を得ていきます。

成田滋のアバター

綜合的な教育支援の広場

ウクライナの歴史から学ぶ その五 リトアニアとポーランドの統治

3世紀にわたるリトアニアとポーランドの統治17世紀中頃のウクライナは大きな変容を遂げていきます。キーウ公国に端を発する王侯による支配階級の一族は、リトアニアとポーランド統治によって特権を得ていきます。東方正教会やルテニア言語によって、ポーランド文化化(Polonization)がルテニア貴族の間に浸透していきます。これは、イエズス会(Jesuits) の学校やローマ・カトリックの影響によるものです。

ウクライナ西部の街や周辺での貿易が盛んになり、中産階級(burghers)が社会的な階層となってきます。ギルト組織や宗教や民族という2つの階級に分かれていきます。13世紀以来、ポーランド人、アルメニア人、ゲルマン人、ユダヤ人(Jewish)が都会に定住するとともに、ウクライナ人は少数派となっていきます。

中産階級は、ウクライナ社会で主だった役割を発揮しますが、法律上の不平等から非カトリック教徒にとってはマグデブルク法(Magdeburg Law)によって、地方の自治や政治には限られた参加しかできませんでした。マグデブルク法は、神聖ローマ帝国の初代皇帝のオットー1世(Otto I)により作られた地域の支配者による市や村の統治に関する法律です。

ポーランドの支配下で中産階級は次第に没落していきます。自由な農民は存在はその力が増していき、小作人は農奴への賦役の対応に苦慮していきます。16世紀の終わり頃には、東ウクライナでは農民が反乱を起こし始めます。人口が希薄な地帯がポーランドの領土となり、ヨーロッパの食糧市場の要求にそって、大きな農村地帯が形成されていきます。こうした農業地帯に必要な労働者を惹き付けるために、農民には期限付きながら納税などの賦役が免除されます。

しかし、納税義務が失効し、賦役が再度課せられにつれ、自由を求める農民は荒野といわれていたウクライナの東方や南方の草原地帯へと移動していきます。次第に農民の緊張は悪化していきます。農民はウクライナ人や東方正教会の信徒であり、領土の持ち主はポーランド人やローマカトリック教徒でありました。無人の土地を耕していたのはユダヤ人(Jewish) でした。こうして、社会的な不安を抱いた人々は絆を強めながら、宗教的な角逐に直面していきます。

ウクライナの歴史から学ぶ その四 キーウ・ルーシ公国

ペチェネグが10世紀から11世紀にかけて南ウクライナを統治しますが、ダッタン人(Polovtsian) によって征服されます。こうした遊牧騎馬民族の侵略により、クリミア半島のケルソネソス・タウリケといったギリシャ植民地は脅かされます。スラブ人やバルカン人は草原地帯を占拠し、今の西部や中央部、南ベラルーシを占領し、やがて北部、北東部へ侵攻し、モスクワを中心とするロシア帝国の礎を築いていきます。東スラブ人は農業や畜産を営み、衣料、陶器作りを営みながら、植民地を要塞化して、重要な商業や政治の中心地としていきます。その例はドニプロ川の西岸に造られたキーウ(Kiev)です。キーウ公国は9世紀に始まります。

世界遺産 ペチェールスカ大修道院

この公国はキーウ・ルーシ(Kiev-Rus)と呼ばれ、バリヤーク(Varangians)出身の公を宗主とします。ルーシは国際貿易を促進し、ドニプロ川によってバルト海から東ローマ帝国といわれるビザンチンを結んで発展します。その戦略的拠点となったのがキーウです。こうした征服者はやがてスラブ化し、ビザンチンからキリスト教を受け容れていきます。ウラジミール一世(Vladimir I)はバリヤークの王ではなく、スラブ公となります。首都のキーウは、東方正教会の統治化になり、スラブ公は、コンスタンチノープルの総司教によって任命されます。ウラジミール一世の息子、ヤロスラブ(Yaroslav)の治世下で、建築、美術、音楽、旧教会スラブ語(Old Church Slavonic)などが広がり、文学や芸術が発展していきます。ヤロスラブは、ヨーロッパ諸公との姻戚を広げ、友好関係を結んでいきます。さらに現在のベラルーシ、その中心であるポラック(Pololsk)は非常に発展していく地帯となります。ノヴォゴロド(Novgorod)も同様に発展し、やがて北東にあるウラジミール・スーズダル(Ulagimir-Suzdal)という都市が形成され、12世紀からはロストフ・スーズダル(Rostov- Suzdal)公国となります。後にモスクワ(Moscow)へと発展し、後のロシア連邦の中心都市となります。


ボルイン地方(Volhynia)のボルドミヤ(Volodymyr II Monomak)とドニエストル川(Donestre River)の沿岸にガリツィア(Galicia)という2つの公国がありました。ボルドミヤのロマン公(Prince Roman)は、両国を統合し、ガリツィア・ボルドミヤ公国を創始します。そのとき造られた新しい都市がリビュ(Lviv)です。リビュはポーランド、ビザンチン、ハンガリーとの貿易で栄え、大きな富を蓄えていきます。こうして、ウクライナ領内には、ルーシとガリツィア・ボルドミヤ公国が発展し、重要な大都市圏となります。このように11世紀から12世紀にかけて2つの公国は西方や北方へと拡大していきますが、1240〜1241年のモンゴル・タタール(Mongol-Tatar)遊牧騎馬民族の侵略によって滅びます。このモンゴル遊牧政権は「Tatar Golden Horde」と呼ばれ、別名「ジョチ・ウルス」と名乗ります。ローマ帝国終焉の1340年までさまざまな角逐が続きます。

ペチェールスカ大修道院

リトアニア(Lithuania)は14世紀末までに東方と南方に急速に勢力を拡大し、現在のベラルーシ全域、ウクライナ全域、ポーランドの一部、ロシアの一部を領土とする、ヨーロッパ最大の国家となっていきます。その勢力は、ウクライナ全土におよび、その勢力は草原地帯から黒海にまで及んでいきます。ウクライナ人とベラルーシ人による東スラヴ系のルテニア(Ruthenian)は自治を維持していました。ルテニアは、西ウクライナのウクライナ人の古称です。ウクライナ人は東方正教会へと帰依していきます。1386年にポーランド・リトアニア両王朝は合体し、ウクライナはポーランド人進出の舞台となります。ポーランド国境は、広大で人口が希薄なウクライナを東進していきます。農民は新たな領主により賦役を課せられ、東南方へと逃れる農民も多く、このような逃亡農民がやがてコサック(Cossacks)となります。コサックとはトルコ語で「自由人」とか「無法者」という意味です。コサックの脱出地はドニェプル川下流の広大な無人の原野で、そこにザポリージャ(Zaporizhazia)という開拓地が生まれます。

16世紀初頭、ポーランドの諸公やモスクワの大公はタタール民族の侵入を防ぐために、コサックを屯田兵化します。16世紀末にはザポリージャ・コサック(Zaporizhzhya Cossacks)もドン・コサック(Don Cossacks)も土地を所有し定住生活に入ります。1569年、ポーランドとリトアニアは合体し、ウクライナはリトアニアから分離されポーランドへ編入されます。

成田滋のアバター

綜合的な教育支援の広場

ウクライナの歴史から学ぶ その三 民族の流入

紀元前7世紀から6世紀になると、多くのギリシャ植民地(Greek Colony)が黒海北岸、クリミア半島(Crimean Peninsula)、アゾフ海岸 (Sea of Azov) 沿いにつくられます。こうした地帯はギリシャの軍事上の前哨地帯となり、やがてローマ帝国(Roman Empire) の統治下となります。紀元前1世紀ころ、草原の後背地はキンメリア人(Cimmerians)やスキタイ人(Scythians)、サルマート人(Sarmatians)によって占領されます。こうした民族はイラン人(Iranian)の祖先で、ギリシャ植民地とともに商業や文化を発展させていきます。

紀元後200年頃、民族の大移動が始まり、バルト海(Baltic)地帯からゴート人(Goths)がウクライナに流入し定住します。ゴート人はサルマート人を追放しますが、375年にアジアの遊牧民フン族(Hun)によって追われます。5〜6世紀にかけてブルガリア人(Bulgars)やアヴァール人(Avars)というコーカサス(Caucasus)民族によってフン族は征服されます。やがてゲルマン民族(Germanic)の移動とともに、5世紀から6世紀にかけてカルパティア山脈(Carpathians)地帯に住んでいたスラブ(Slavic)民族の西への移動が始まります。その一部はバルカン半島へと向かいます。バルカン半島の西部や南部に移動するスラブ人の他に、別のスラブ人は今のウクライナの西部や中央地域の森林・草原地帯や南部ベラルーシ(Belarus)を占領していきます。

クリミア半島の正教会寺院

7世紀から9世紀にかけて、ウクライナの草原地帯にテュルク系民族のバザール(Turkic Khazar)商業帝国が誕生します。ボルガ川(Volga River) 下流の中央地帯です。9世紀になるとマジャル人(Magyars)と呼ばれるハンガリア民族によってバザール帝国は駆逐されます。8世紀から9世紀にかけて、ペチェネグ(Pechenegs)というカスピ海(Caspian Sea)北の草原から黒海北の草原で形成された遊牧民の部族が支配しますが、10世紀になるとダッタン人(Polovtsian)にとって代わります。遊牧農耕民族の侵入がありますが、ビザンチン帝国(Byzantine Empire)の庇護下でクリミア半島南端のケルソネソス・タウリケ(Tauric Chersonese)といったギリシア植民都市は維持されます。ビザンチン帝国とは首都をコンスタンティノープル(Constantinople)とする東ローマ帝国のことです。

成田滋のアバター

綜合的な教育支援の広場

ウクライナの歴史から学ぶ その二 地名と地理

ウクライナという名称は「辺境」を意味するクライ(Krai)という語から由来し、12世紀頃から使われるようになります。先史時代から今日までのウクライナは、地理的に北西から南東に向かって三つの重要な土壌帯に分かれています。北西部の砂質のポドゾル(podzol)という強酸性土壌地帯、中央部のチェルノゼム(chernozem)という黒色草原土地帯、そして南東部の栗色土・含塩土地帯です。中央部の草原土地帯はウクライナ全土の48%を占め、黒土は最高16%までの腐植土を含み、その土の厚さは1.5mから2mで世界有数の肥沃な土壌となっています。それ故、小麦の生産が盛んです。

Ukraine on Europe outline map with borders. Political map with Black Sea region and territory of Russia, Crimea, Belarus, Poland and other countries. Earth silhouette isolated on white background.

以上、3つの地帯の地理についてです。ポドゾル土壌地帯は黒海(Black Sea)の北側地帯です。現代の地中海(Mediterranean)の軍事・海防力地域となっています。チェルノゼム黒色草原地帯は、広大な草原(Steppe)で東側から中央部へと広がり、ドニプロ川(Dnieper River)に沿ってヨーロッパへの玄関口となり、ウクライナの穀倉地帯となっています。トリッピリア文化(Trypillya)という東ヨーロッパの考古文化が紀元前3世紀位まで栄えたところです。この草原地帯は、何世紀にもわたり、軍事衝突の場となり、同時に文化の交流の場ともなります。栗色土・含塩土地帯は、中央アジアからの騎馬遊牧民族がやってきたところです。ここから北部、中央ヨーロッパへと河川が通じています。

成田滋のアバター

綜合的な教育支援の広場

ウクライナの歴史から学ぶ その一 はじめに

今般、世界情勢の中心となっているウクライナ(Ukraine)は、私たちにとって別の世界の国ではありません。日本とも深い繋がりがあります。ウクライナ国の生い立ちや発展の過程は、地政学上の位置により多民族の交流、近隣諸国からの侵略や戦争などによる誠に激動の歴史です。ここではブリタニカ国際百科事典(Encyclopædia Britannica)や平凡社の世界百科事典からの資料などを通して、ウクライナの歴史を振り返ることにします。本稿では、正確を期すために最初に登場する国名や地名、氏名その他文化や宗教などの固有名詞はすべて英語でも表記します。これまでロシア語読みによる表記でキエフなどとして使われていた地名は、本稿では「キーウ」のようにウクライナ語読みによる表記とします。

Map of Ukraine

1991年12月のソビエト連邦(ソ連邦)(Soviet Union)の崩壊に至る前には、ロシア(Russia)もウクライナもソ連邦を構成する15の共和国の1つでありました。人口や経済的重要度において旧ソ連邦中、ロシアに続いて第二位です。ロシアを除けば、国土面積ではヨーロッパ最大で、人口はドイツ、イギリス、フランス、イタリアに次いでいます。

ウクライナの西部諸州では、ロシア系住民は10%以下、東部や南部諸州では10%〜50%を占めます。クリミア半島では70%に及ぶといわれています。ウクライナ西部は、かつてオーストリア(Austria)・ハンガリー(Hungary)帝国に帰属し、宗教もローマカトリック教会(Roman Catholic Church)、東方正教会(Greek Orthodox Church)、超正統派ユダヤ教(Hasidism)、イスラム教(Islam)の影響が残っていて、ロシアからの独立志向が強い地域であります。

これから考察していきますが、ロシアはウクライナに対して「同じルーツを持つ国」という意識を強く持っていています。様々な根深い要素があって今やウクライナはロシアの侵攻を受けています。その経過をこれから詳しく調べることにします。

本稿では、ウクライナの歴史を次のような目次で辿っていくこととします。
・地名と地理
・民族の流入
・キーウ・ルーシ公国
・リトアニアとポーランドの統治
・宗教的な発展
・ウクライナのコサック
・ロシア皇帝とレーニンの登場
・ウクライナのルネッサンス
・第一次世界大戦とロシア革命
・第二次世界大戦とスターリン
・ペレストロイカ
・オレンジ革命とマイダン革命
・ロシアによるウクライナ侵攻

成田滋のアバター

綜合的な教育支援の広場

ナンバープレートを通してのアメリカの州  その五十九  ヴァージン諸島

この稿をもちまして、「ナンバープレートを通してのアメリカの州」の紹介は終わりです。ご笑覧やコメントをありがとうございます。

ヴァージン諸島(Virgin Islands of the United States)は、西インド諸島にあるアメリカ合衆国の自治領です。40位の島々はほとんどが無人島です。住民がおり、一般の観光客が訪れる主要な島はセント・トーマス島(Saint Thomas)、セント・クロイ島(Saint Croix)、セント・ジョン島(Saint John)の3島で、主都はセント・トーマス島のシャーロット・アマリー(Charlotte Amalie)となっています。シャーロット・アマリーは、デンマークの王妃の名前にちなみます。なおヴァージン諸島の東側はイギリス領ヴァージン諸島となっています。

1493年11月、クリストファー・コロンブスは最初にセント・クロイ島に到達し、サンタ・クルース(Saint Crus)と名付けて上陸します。その後、セント・トーマス島、セント・ジョン島と命名していきます。1625年には、イギリス、フランス、オランダ、スペイン、デンマークがセント・クロイ島に入植し農業を始めます。しかし、収穫は少なく、病気と過酷な奴隷制度により、わずかなカリブ族(Caribbean)しか生き残らなかったという記録があります。

1733年にデンマークはフランスよりセント・クロイ島を買収し領有権を得ます。その後、デンマーク領西インド諸島 (Dansk Vestindien) と称し、デンマーク国王に任命された総督によって統治される体制となります。その後、1764年に自由港として公認され、西インド諸島における交易の中心地として栄えます。

デンマーク統治下の各島では、インディアン奴隷がいなくなったため、アフリカ人奴隷が初めて島に連れて来られます。デンマーク統治下の各島では、こうした奴隷を使ってサトウキビとタバコ農園が経営されます。後にコーヒーや砂糖も生産されるようになります。

やがてデンマークは、植民地としての関心を失い、20世紀初頭にアメリカ合衆国が買収します。すなわち、第一次世界大戦が勃発すると、合衆国はパナマ運河をドイツ軍から防衛するためにこの地を求め、1917年にデンマークから 2,500 万ドルで購入します。それにより、島民は合衆国の市民権と自治政府、投票権を得ます。しかし未編入領域であるため、現在もアメリカ領ヴァージン諸島の人々は合衆国の大統領には投票できません。

ナンバープレートを通してのアメリカの州  その五十八  北マリアナ諸島(Northern Mariana Islands)

サイパン島(Saipan Island)やテニアン島(Tinian Island)、ロタ島(Rota Island)などの14の島から成るアメリカ合衆国の自治領が北マリアナ諸島 (Commonwealth of the Northern Mariana)です。主都はサイパン島(Saipan)のススペ(Susupe)となっています。グアム島と北マリアナ諸島は別の行政区となっています。

 マリアナ諸島には、先住民のチャモロ人(Chamorro)とカロリニアン人(Carolinian) の2つの民族がいます。チャモロ人は東南アジア方面から、カロリニアン人はカロリン諸島から渡って来たとされています。1521年にフェルディナンド・マゼラン(Ferdinand Magellan) がこの島々を発見します。マゼラン隊はこの島に立ち寄った直後にチャモロ人といざこざを起こし、報復行為として彼らを虐殺したという記録があります。

 北マリアナ諸島の歴史です。1565年には、スペインがサイパンの領有を宣言し、以後約300年に渡りスペインの統治が続きます。1898年に米西戦争でスペインが敗れたためサイパンをドイツに売り渡します。1914年に第一次世界大戦が勃発し、連合国側についた日本軍はドイツ領マリアナ諸島に侵攻し実効支配します。その後発足した国際連盟において、マリアナ諸島は日本の委任統治領と認められ、サイパン島を中心に日本人による殖産興業が進められていきます。

 プランテーションにおける労働力、港湾荷役労働者、貿易商として、主に沖縄県出身者や台湾、朝鮮からの移民が定住していきます。サトウキビやコーヒーなど農産物が栽培され、ススペはその集散地となると共に、南洋群島有数の貿易港として発達していきます。太平洋戦争末期の1944年6月に連合国軍がサイパンに上陸し、アメリカ軍の軍政下に置かれます。

­Old Shrine Gate

 カロリニアン文化はチャモロに比べると「自分たちはカロリニアン人である」という民族としての独自性が強いといわれ、今でも伝統舞踊、機織りや工芸、カヌー作り、海洋技術といった古来の伝統文化を受け継いでいます。

ナンバープレートを通してのアメリカの州  その五十七 グアム–Gateway to Micronesia

グアム(Guam)は、太平洋にあるマリアナ諸島南端の島でアメリカ合衆国の準州となっています。1898年のアメリカとスペインの間で勃発した米西戦争によって合衆国の海外領土となります。主都はアガーニャ(Hagatna)で、公用語は英語、チャモロ語です。

 大航海時代の1521年に、ポルトガル出身のスペインの航海者マゼラン(Ferdinand Magellan)がヨーロッパ人として初めてグアム島に到着します。マゼランの探検は、ヨーロッパからアフリカ南岸を経てインドへ航海したポルトガル人ヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gam)の影響を受けています。ガマの大航海によってポルトガルは当時の海上帝国を築いたといわれます。

 グアムの現地の人々、チャモロ族(Chamorro) は、約3500年前にグアムにやって来たようです。ミクロネシア(Micronesia)のマリアナ諸島(Mariana Islands)の先住民といわれます。スペインがグアムを植民地化したのは1668年です。16世紀から18世紀にかけてグアムは、大型帆船にとってスペインとフィリピンを結ぶ大事な寄港地となります。

 1944年にアメリカ軍が日本軍を追放し、アメリカの統治化となります。それ以降、この島の経済は、巨大な空軍基地からの投資によって潤います。観光業、農業、漁業が主要な経済基盤ですが、近年は観光業が産業の大部分を占めています。

 チャモロ文化の中にはチャモロ語の他、チャモロ料理、チャモロ音楽、チャモロダンスなどがありますが、代表的な遺物といえば「ラッテ・ストーン」(Latte Stones)です。グアムやサイパンなどの北マリアナ諸島に残されている巨大石柱群です。ラッテ・ストーンの遺跡が島々にあります。大昔、チャモロ族が柱の上に家を建て、そこを人々の集会所にしたという説や、人々の埋葬の場所としていたという説もあります。後者の証拠として、動物の骨、魚、壺などが発見されたことです。

 チャモロ料理の代表的なものは、レッドライスやケラグエン(Shrimp Kelaguen)とか、ココナッツミルクを使った料理も多くあります。甘さ・辛さ・酸っぱさのいずれかが濃厚に現れているのがチャモロ料理の特徴です。大家族社会であるグアムでは、各料理は大量に作って各自で分ける大皿料理スタイルが主流となっています。バーベキューとともにローカルのパーティーには必ず登場するのが大皿料理です。

主都アガーニャには、チャモロ・ビレッジ(Chamorro Village) があります。チャモロ文化を紹介するために作られた街です。スペインの植民地時代に持ち込まれた赤レンガの屋根に白壁の建物が並び、チャモロ料理のお店やお土産物屋が揃っています。是非立ち寄りたいところです。

横井庄一氏の帰国

 1972年1月に、28年間に及ぶグアム島のジャングルで生きていた横井庄一氏が発見されました。満57歳で日本に帰還したのは大きな話題となりました。

 

ナンバープレートを通してのアメリカの州  その五十六 プエルト・リコ–Island of Enchantment

カリブ海(Caribbean Sea)に浮かぶ複数の島で構成されるプエルト・リコ(Puerto Rico)は、「富める港」という意味だそうです。かつてはスペインの植民地でしたが、現在はアメリカ合衆国の自治領となっています。マイアミから飛行機でわずか 2 時間のところにあります。鹿児島県と同じ面積です。西に80キロの海峡を隔ててハイチ(Haiti)、ドミニカ(Dominica)共和国があります。他のカリブ海の島々に比べて奴隷制が拡大しなかったので、白人の割合が多いのがプエルトリコです。主都はサンフアン(San Juan)です。

 1493年にコロンブス(Columbus)が島に上陸します。そしてサンファン・バウティス島と名付けます。先住民族はインディヘナ(Indígena)、またはインディオ(Indio)と呼ばれています。やがて奴隷として連れてこられたアフリカ系黒人、ヨーロッパ系白人、中国人などの血が混ざっていきます。インディオはスペイン系征服者たちにより長年呼ばれてきたために階級的劣位者あるいは卑俗な民というニュアンスで用いられることが多いようです。現在はスペイン系が約76%を占め、通称プエルトリカン(Puerto Rican)と呼ばれます。

 1898年にアメリカ合衆国とスペイン帝国の間で起きた争いは米西戦争と呼ばれます。パリ講和条約によって敗れたスペインはプエルト・リコをアメリカに渡し、1917年には住民もアメリカ市民としての権利を得ます。そして1952年、憲法によりアメリカの自由連合州として内政自治権を獲得して以来、アメリカとの半独立関係を保持しています。

 プエルト・リコは知事を合衆国大統領が任命する直轄領となります。アメリカ合衆国の領土となったプエルト・リコでは主権を求める完全独立派、アメリカ合衆国を構成する一州への51番目の州昇格派、現状のまま自治権の拡大を求める自治権拡大派が対立しています。しかし、独立派は少数となっています。

ナンバープレートを通してのアメリカの州  その五十五 ワシントンD.C. コロンビア特別区–Taxation without Representation

 プレートには「Taxation without Representation」とあります。このフレーズですが、ワシントンD.C.は他の州とは違って、住民には連邦上院や下院への議員を選ぶ権利がありません。にも関わらず高い住民税を払っています。これまで何度も議会に抗議したり訴訟を起こして、選挙権の獲得運動がありました。しかしいまだに実現していません。そこでD.C.はナンバープレートに抗議のフレーズを入れているのです。「税金払えど選挙権なし」という意味が込められています。他の州には、このような主張を込めたものは見当たりません。興味あるナンバープレートです。

 ワシントンD.C.は計画都市です。1791年に都市建設計画のコンペに当選し、基本計画案を作成したのはピエール・シャルル・ランファン(Pierre Charles L’Enfant)というフランス生まれの建築家・技師です。ランファンはバロック様式を基に基本計画を作成しし、環状交差路から放射状に広い街路が伸びて、開かれた空間と景観作りを最大限に重視したといわれます。

ワシントンD.C.(Wikipediaより)

 ヴァジニア州やメリーランド州などと隣接するこの街は世界の政治の中心の一つです。国権の最高機関である大統領府(White House)、連邦議会議事堂(Capitol)、連邦最高裁判所(Supreme Court)や中央官庁などの行政機関が集まるほか、国立公文書館、日本銀行にあたる連邦準備制度理事会(FRB)、世界銀行(WB)や国際通貨基金(IMF)の本部、各国の大使館などが置かれています。

 街の中心はナショナル・モール(National Mall)と呼ばれています。モールの中心にはワシントン記念塔があります。モールの両端にはリンカーン記念館と連邦議会議事堂が鎮座しています。スミソニアン協会(Smithsonian Institution) が運営する多くの博物館や美術館がモール内にあります。どれも質・量ともに世界一であります。加えて、多くの国立記念建造物や碑が建てられています。例えば、第二次世界大戦記念碑、朝鮮戦争戦没者慰霊碑、硫黄島記念碑、ベトナム戦争戦没者慰霊碑、アルバート・アインシュタイン記念碑など数えられないほどです。

 スミソニアンの博物館の中でも最も来場者が多いのが国立自然史博物館といわれます。子ども達に人気なのが国立航空宇宙博物館でしょう。いつも家族連れや団体で一杯です。。このほかに国立アメリカ歴史博物館、国立アメリカ・インディアン博物館、国立アフリカ美術館、ハーシュホーン博物館と彫刻の庭、芸術産業館などです。是非訪ねていただきたいのはユダヤ人の虐待とその歴史を遺品や写真などで紹介するホロコスト博物館です。どの館も安い入場料あるいは無料で見学できます。午前と午後に一つずつ見学しても一週間はゆうにかかります。

 モールのすぐ南にタイダル・ベイスン(Tidal Basin)という池があります。ここにはかって日本から贈られた桜並木があります。3月末は花見客で一杯となる合衆国で有数の桜の名所となっています。今年の桜のピークは4月1日と予想されています。日本とアメリカの友好の歴史を物語る場所でもあります。

ナンバープレートを通してのアメリカの州  その五十四 ワイオミング州–Equal Rights

車のナンバープレートに印字される州のモットーを取り上げてきました。このモットーからそれぞれの州の歴史や特徴が分かってきます。今回はワイオミング(Wyoming)州です。北にモンタナ州、東にサウスダコタ州とネブラスカ州、南にコロラド州、西にユタ州とアイダホ州と境をなしています。州都はシャイアン市(Cheyenne)です。全米で最も人口が少ない州都でもあります。

 ワイオミング(Wyoming)とはインディアンの言葉で「大平原」を意味するそうです。州の東側3分の1はハイプレーンズと西側3分の2はロッキー山脈東部の山岳地帯と丘陵の牧草地帯が広がります。州の主要な産業は鉱業と農業。鉱業ではウラニウム、天然ガス、メタンガス、農業では小麦や大麦、馬草、サトウキビが主たるものです。

ワイオミング州のエンブレム

 イエローストーン国立公園(Yellowstone National Park)がこの州の北西部に広がります。年間600万人が訪れます。合衆国で最古の国立公園で、シンボルになっている間欠泉や温泉の見所で有名です。同じく最初の国定記念物として指定されているのが、デビルスタワー(Devil’s Tower)です。アメリカ先住民族から神聖視される岩山で登ることができます。

Shane(Wikipediaより)

 州のモットーは、「Equality State」という少々地味な名称です。1869年に合衆国の地方議会で最初に女性に参政権 (Suffrage) が認められます。ほどなくして1870年2月に、エスター・モリス(Ester H. Morris)が州判事に任命されます。ララミー(Laramie)という街で、参政権によって最初に投票したのは、ルイザ・スエイン(Mrs. Louisa Swain)です。1894年には、エステル・リール(Estelle Reel)がアメリカで最初の州教育長官(State Superintendent of Public Instruction)になります。さらに、1924年にネリー・ロス(Nellie T. Ross) が合衆国で最初の女性知事として選ばれます。男女同権を意味するのが「Equality 」です。

成田滋のアバター

綜合的な教育支援の広場

ナンバープレートを通してのアメリカの州  その五十三 ワシントン州 「ヒマラヤ杉に降る雪」(Snow Falling on Cedars)

この小説の作家はグッターソン(David Guterson)というアメリカ人です。これを今回は紹介します。小説の舞台はワシントン州北西部の小さな湾のジュアン・デ・フカ(Strait of Juan de Fuca)に浮かぶ、人口5千の移民の島サンペデロ島(San Piedro)です。1954年12月、日系アメリカ人漁師のカブオ・ミヤモトは、同僚カール・ハイン(Carl Heine)を殺害したとして第一級殺人容疑で罪に問われます。カールは強い絆で結ばれる人々の中で慕われていた漁師でありました。カールの死体は漁網の中で発見され、彼の腕時計は午後1時47分を指していました。島全体を包む吹雪の中、戦争後の反日感情が広がっている時代です。

Ishmael & Hatsue

裁判を取材するのは、元海兵隊軍人であるイシュマエル・チェンバース(Ishmael Chambers)です。彼は、地元新聞サンペデロレビュー紙(San Piedro Review)の記者です。戦争中は激戦地タラワ島(Tarawa Island)で同胞の死に遭遇しています。幼い頃、イシュマエルは、高校時代にハツエという日系女性と同級で、ヒマラヤ杉の洞で愛を育くみます。青い目のイシュマエルと黒髪の美しいハツエは、密かに情を交わす関係にあったのです。しかし、二人の関係は太平洋戦争の勃発と共に打ち砕かれてしまいます。

 検察側は、刑事のモーガン(Art Moran)と検察官のフックス(Alvin Hooks)です。カブオを擁護するのはグッダモドソン(Nels Gudmondsson)という老練弁護士です。何人かの証人の中でカブオが犯人であると主張するのがカールの母親のエッタ(Etta) で、人種差別や偏見の強い人物です。

 裁判では、他に検死官(coroner)のワリー(Horace Whaley)やカールにイチゴを売る老人のジャーゲンセン(Ole Jurgensen)らです。裁判ではイチゴ畑が争点ともなります。この畑はもともとカールが持ち主でした。この土地に住んでいたのはミヤモトという一家で、ハイン家の人々にイチゴを売っていました。カブオとカールは幼馴染みでした。カブオの父親は、広いイチゴ畑を購入したいとハイン家に持ちかけます。しかし、エッタは反対しますが、カールは売ることに賛成します。支払いは10年間払いというものでした。最後の支払いが近づいた頃、真珠湾攻撃により大戦が勃発します。島に住んでいた日系人は強制収容所行きとなります。

 1944年、カールの父親は心臓麻痺で亡くなります。エッタはジャーゲンセンにいちご畑を売却します。カブオが収容所から解放されて帰ると、エッタが土地を他人に売ったことを知り、酷く怒ります。ジャーゲンセンが脳卒中で倒れると、カブオが土地を買い戻そうとする前に、カールは土地を購入したいと申し出ていたのです。裁判ではこうした土地を巡る家族や住民の間の確執が、カブオに対する殺人の容疑の背景となります

 記者のイシュマエルは、カブオの容疑を晴らす可能性の高い証拠をつかみます。しかし、カブオの妻であり彼自身の幼馴染のハツエとの間の過去の恋愛関係に対する感傷の想いが断ち切れないでいます。また、日系アメリカ人への厳しい偏見と大戦という厳しい出来事によって、成就できなかった自分達の関係についてイシュマエル自身は心が整理できないでいます。彼がつかんだカブオが犯人でないという証拠をどのように扱うべきかで悩んでいたのです。

 イシュマエルはポイントホワイト (Point White) という灯台付近で、午前1時42分頃、カールが釣りをしていたこと、丁度その頃、付近に大きな貨物船が通りかかったことをつかみます。カールの時計が指していたのは1時47分でした。カールの小舟が貨物船の航跡を受けて沈没したことを知ったのです。カールは小舟のマストに登り、灯を降ろそうとしたとき、貨物船の波で倒れてきたマストに頭を打ち、海に投げ出されたことも判明します。幼馴染のハツエにふられたイシュマエルは、カブオへの容疑が晴れる証拠をつかんでいたのです。

 カブオは無罪として釈放されます。カブオと結婚していたハツエは、昔の恋人だったイシュマエルに、無実の証言をしてくれたことに感謝するのです。イシュマエルは、自分の不可解な感情が無神論者であったためだと考えるのです。

ナンバープレートを通してのアメリカの州  その五十二 ルイジアナ州—-クレオール

ルイジアナ州の特徴ある文化のことです。クレオール(Creole)と呼ばれる人々と文化です。クレオールとは、フランス人・スペイン人とアフリカ先住民を先祖に持ち、ルイジアナ買収以前にルイジアナで生まれた人々とその子孫、また彼らと関わりのある事物のことです。文化人類学では、人種を問わず植民地で生まれた者をクレオールと呼んでいます。フランスやスペインからの移住者は祖国で受けた教育や財産のほかに、料理人達も連れてきたので、独特の食文化も発展したともいわれます。

 クレオールの原義は「育てられた人々」という意味だそうです。もとは16世紀に新大陸で生まれた純粋のスペイン人を指します。やがて他国出身者でも新大陸に定着した者を指すようになります。アフリカからの奴隷として連れてこられた黒人と区別するために、新大陸で生まれた黒人もクレオールと呼ばれました。

 アメリカでは、ルイジアナ地方に植民したフランス人やスペイン人、及びその血を純粋に受け継ぐ者もクレオールと呼ばれます。後に1755年のフレンチ・インディアン戦争(French-Indian War)でフランス領カナダのノバスコティア地方(Nova Scotia)を追われてきたケージャン(Cajun) と本来の植民者を区別する言葉として用いられました。しかし、クレオールという言葉はしばしば誤用され、フランス系やスペイン系と黒人との混血を意味するようになります。アメリカ人が大量に進出し、クレオールは次第に少数派となりますが、自己保存的な努力によって、文化的優越を守ろうと務めてきたといわれます。

Creole Family

 我が国でもクレオール文化は盛んに研究されています。その背景としてはヨーロッパを相対化する脱ヨーロッパ中心主義的な思想があるからだといわれます。多文化研究の潮流は今も続いています。例えばクレオールの民族音楽についてです。フランスやスペインによる植民地支配のルイジアナの農園から生まれます。その音楽の特徴は、アフリカ由来の切分法とよばれるシンコペーション(syncopation)のきいたリズム、スペイン語のハバネラ・アクセント(Habanera accent)、フランス由来の四角になって踊る歴史的なダンスのテンポにあります。

ナンバープレートを通してのアメリカの州  その五十一 ワシントン州–Evergreen State

ワシントン州(Washington)の最大都市はシアトル(Seattle)、州都はオリンピア(Olympia)です。このあたりは West Coast(西海岸)とも呼ばれています。日本人にはなじみのある州です。

 入り江と呼ばれるフィヨルド群(Fjord)からなるピュージェット湾(Puget)の東部には、シアトル、タコマ(Tacoma)、エヴェレット(Everett)などの大都市が連なります。プロ野球のマリナーズ(Mariners)の本拠地、マイクロソフト(Microsoft)の本社も近くにあります。航空機会社のボーイング(Boeing)の本社と工場があります。

ワシントン州のエンブレム

 州都オリンピアは兵庫県の田舎町、加東市とも姉妹都市です。誠に不釣り合いです(^^) シアトルから生まれたのがStarbacks珈琲ですね。これを始めて飲んだときは、そのコクと香りに驚いたものです。ワシントン州は製材、製紙業のほか、アルミニウム、食品加工が盛んでもあります。大豆、トウモロコシ、ジャガイモなどの栽培でも知られています。

 ワシントン州の歴史ですが、日本との関係が深いのをご存じですか。戦前、日本から沢山の移民がこの地にやってきたのです。戦前、戦後、日系アメリカ人は辛い生活を余儀なくさせられます。そのことを記した小説に「Snow Falling on Cedars–ヒマラヤ杉に降る雪」 というのがあります。舞台は戦前で、ワシントン州の島における日系アメリカ人に対する人種差別を題材としています。この小説は、1995年にウイリアム・フォークナー賞(Faulkner Awards)をもらいます。この賞はアメリカの主要な文学賞の一つで、毎年優れた小説作品に贈られます。フォークナー(William C. Faulkner)はアメリカを代表する小説家です。

 ワシントン州は雨が多いところです。松などの常緑樹が多いみごとな森林が発達しています。全米有数の林業の州です。ナンバープレートには「Evergreen State」とあります。Evergreenとは松の木のことで、別名クリスマスツリー(Christmas Tree)とも呼ばれます。

成田滋のアバター

綜合的な教育支援の広場

ナーンバープレートを通してのアメリカの州 その五十 ルイジアナ州–Sportman’s Paradise

ルイジアナ州(Louisiana)の名は、フランス王ルイ14世(Louis XIV) にちなんでつけられています。1541年にスペイン人の探検家、デ・ソト(Hernando de Soto) がやってきます。1682年にはフランス人、ラ・サール(Sieur de La Salle) がルイジアナ一帯をフランス領と宣言します。さらに、1803年にアメリカがルイジアナをフランスから購入します。これによりミシシッピー川(Mississippi River)の航行権を確保し、将来における西部への拡大や発展を可能にします。

ルイジアナ州のエンブレム

 1803年にアメリカはフランスからニューオーリンズを含むルイジアナ領を購入します。1809年から1810年に欠けて、西インド諸島から10万人の人々がニューオーリンズへ渡ってきます。大多数は、フランス領であったハイチからで、フランス語を使う人々でした。そのうち3千人は奴隷から解放されて者だったようです。

 ルイジアナ州はミシシッピー川河口の三角洲を中心とする低平な州で湿地が多いところです。ルイジアナの州都はベイトンルージュ(Baton Rouge)、最大の都市はニューオーリンズ市(New Orleans)です。メキシコ湾に通じる重要な港湾都市で、工業都市・観光都市としても発展しています。

 「ビッグイージー(Big Easy)」という愛称で知られるのがニューオーリンズです。ジャズ、クレオール料理、南部なまり、多文化のルーツ、そして世界的に知られるのがマディ・グラ(Mardi Gras Festival)です。ニューオーリンズのフレンチ・クオーター(French Quarter)と呼ばれる地区には、今なおフランス植民地帝国時代の雰囲気を残していて、大勢の観光客を招いています。2005年8月にハリーケーン・カトリーナ(Hurricane Katrina)がフロリダ州の南部先端に上陸、ニューオーリンズ市は、フレンチ・クオーターなど陸上面積の8割が水没しました。今はすっかり復旧し賑わいを取り戻しています。

 ルイジアナは元々フランスの植民地でした。ルイジアナの南部に永住した人々はケイジャン(Cajun)と呼ばれました。もともとは祖先がカナダ南東部のノバスコシア(Nova Scotia)のアカディア地方(Acadia)に移住してきたフランス人の直系で、英国人によってノバスコシアから追放されルイジアナにやってきたのです。今も、一部の住民が話すフランス語はケイジャン・フレンチ(Cajun French)と呼ばれています。

成田滋のアバター

綜合的な教育支援の広場