60年間の避難生活を経て、オハイオ川の向こうに住むデラウェア州の人々は部族同盟を再燃させ、イロコイ族からの独立を主張し、進入してくる入植者に抵抗していきます。彼らはフレンチ・インディアン戦争(Frenchi-Indian War)でイギリスの将軍エドワード・ブラドック(Edward Braddock)を破り、当初は独立戦争では北軍を支援するのです。1795年のグリーンビル条約(Treaty of Greenville) で、彼らはオハイオ州の土地を譲渡し種族の多くは散り散りになります。1835年までに一部はカンザスに再び集ますが、ほとんどは186 年にオクラホマ州に移されます。21世紀初頭のデラウェア州の子孫の数は16,900人以上でした。
デラウェア最初の白人定住地は、1638年にスウェーデン人がフォート・クリスティーナ(Fort Christina)、現在のウィルミントン(Wilmington)に築きます。1655年にニュー・スウェーデン(New Sweden)は、ニュー・アムステルダムのオランダ軍(Dutch of New Amsterdam)に、1664年にはイギリス軍に占領されてしまいます。その後、デラウェアは1682年にウィリアム・ペンに割譲されるまでニューヨークの一部でした。
デラウェア州で有名なのは、大財閥企業デュポン・ド・ヌムール社(DePont de Nemours)であす。フランスの貴族ピエール・デュポン(Pierre DePont)が州最大の都市ウィルミントンに火薬工場を作り、やがてアメリカ有数の化学企業となります。ついでに「Pierre」とはギリシャ語で「石」という意味です。英語ではPeter、スペイン後ではPedroと発音されます。
テネシー州(Tennessee)のナンバープレートには「Volunteer State」とあります。米英戦争の時代、1815年のニューオーリンズの戦い(Battle of New Orleans)で志願兵が傑出した働きをしたと記録されています。この戦いでイギリス軍を破り、ルイジアナやテネシーが植民地から解放されていきます。「Volunteer State」のフレーズはそれに由来しています。
さらにTVAによってもたらされた豊富な電力を活かしたマンハッタン計画(Manhattan Project)が推進されます。東テネシーは核分裂中性物質の生産と分離を行う拠点となります。その場所としてオークリッジ(Oak Ridge)が選ばれ、オークリッジ国立研究所(Oak Ridge National Laboratory)が 建設されます。この研究所では、基礎研究から応用の研究開発まで、多方面にわたって活動が始まります。クリーンで豊富なエネルギーの研究、自然環境の保全の研究、安全保障に関する研究などです。そのお陰でオークリッジの町は経済や文化で重要な役割を果たしています。
アパラチア山脈を中心とするグレート・スモーキー山脈国立公園(Great Smoky Mountains National Park)は、ハイカーが押し寄せるところです。公園の95%は森で、その1/4は原生林といわれます。生物相が極めて豊かで、112キロのアパラチア自然歩道やハイキングコースが整備され、年間900万の人々がここで休暇を楽しむようです。
私にとってのテネシーはナッシュビルにあるバンダービルト大学(Vanderbilt University)を数回訪れたことです。ここにあるピーボディ教育学部(Peabody School of Education)は研究と教員養成でアメリカ有数の大学として知られています。 (投稿日時 2024年2月26日)
1836年、テキサス人はメキシコからの独立を宣言すると、メキシコ共和国軍とテキサス分離独立派(テキサス反乱軍)の間で戦争が始まります。その最も激しかったのがアラモの戦い(Battle of the Alamo)といわれます。1836年2月23日から3月6日の13日間にテキサス側の拠点とされ戦闘の舞台は、アラモ伝道所(Fort Alamo)です。
大統領兼将軍であるサンタ・アナ(Antonio Santa Anna)の部下であったマルティン・デ・コス(Martín Perfecto de Cos)はサンアントニオ包囲を命じられます。テキサス反乱軍はアラモの任務を防衛の根拠地を強化していきます。テキサス正規軍の部隊はウィリアム・トラヴィス大佐(William Travis)が指揮し、ジェームズ・ボウイ大佐(James Bowie)が守備側の最大の分遣隊である民兵を指揮します。約150人の兵士と約20門の大砲からなる部隊がメキシコ軍の進軍を待っていました。
テキサス州は国内のどの州よりも農場が多いことで知られます。東テキサスの肥沃な土地は、南北戦争前に綿花農家を惹きつけ、南北戦争後の数年間、綿花は州の主要作物となります。機械化農業が発展するにつれ、綿花生産はテキサス州西部のハイプレインズ(High Plains) へと移り、灌漑と肥料が豊作をもたらし、綿花生産におけるテキサス州の全国的な地位を不動のものとします。ときには、干ばつによる不作が続き、作物の多様化が進んでいきます。灌漑の導入により、リオ・グランデ・バレー下流(Rio Grande Valley)では大規模な野菜と果物の生産が行われるようになります。20世紀半ば以降、テキサスはソルガム(sorghum)、ピーナッツ、トウモロコシの主要生産地ともなります。
ジョージア州(Georgia)のナンバープレートには桃(peach)がデザインされています。この州はスイカ、メロンなどの果物が多いのです。特に桃は有名なので「Peach State」、「桃の州」と呼ばれています。ここの桃は、日本の桃とは違い、少し堅めの肉感がします。甘みも結構ありますが、日本の桃とは比べられません。そのかわり安価で助かります。ナンバープレートのデザインは明るくのどかなものです。ジョージア州のモットーに「南部の帝国」(The Empire of the South)というのもあります。
ジョージア州名は、植民地設立の勅許をイギリスの軍人ジェームズ・オグルソープ(James Oglethorpe)に与えたイギリス国王ジョージ二世(George II)に由来します。悲劇もあります。1830年、アンドリュー・ジャクソン大統領(Andrew Jackson)がインディアン移民法に署名します。そして東部にいた多くのインディアンを現在のオクラホマ州にあった居留地に移住させる決定をします。これにはジョージアにいた全ての部族も含まれていました。1835年にチェロキー族(Cherokee)連合に対して行われた強制移住です。約15,000名のチェロキーのうち4,000から5,000名が途上で死亡したといわれます。この逃避行は「涙のトレイル」(Trail of Tear)と呼ばれました。その途中でインディアンは「Amazing Grace」という讃美歌を歌って気分を高めたともいわれます。
ジョージア州は映画の舞台でもあります。「風と共に去りぬ」(Gone with the Wind)を書いたマーガレット・ミッチェル(Margaret Mitchell)の記念館-The Margaret Mitchell House-がダウンタウンにあります。マーチン・ルーサー・キング(Martine Luther King Jr.)牧師が説教していたエベネゼル・バプティスト教会(Ebenezer Baptist Church)、そして師の功績を称えるThe King Center博物館は必ず立ち寄るべきところです。政治では第39代大統領となったジミー・カーター(Jimmy Carter)がでたところです。
私は、アメリカ留学のために英語の研修を2か月受けました。その場所はジョージア州のステイトボロ(Stateboro)という小さな町にあるカレッジです。家族を引き連れての2か月の滞在でした。国際ロータリー財団(Rotary International Foundation)からの50名くらいの奨学生と一緒に、短期間でしたが南部の人々の親切さ(Southern Hospitality)と温暖な気候を満喫しました。
アメリカ独立戦争の間、いくつかの軍事作戦がサウスカロライナで戦われました。イギリスから最初に独立した13州のうちの一つがこのサウスカロライナ州となっています。1788年にサウスカロライナは合衆国憲法を批准した8番目の州となり、1860年には連邦から離脱した最初の州となりました。1860年に共和党のリンカーンが大統領となります。そして黒人差別の撤廃政策などを訴えます。それに反対したサウスカロライナ州は連邦から離脱し、アメリカ連合国(Confederate States of America: CSA)を結成します。これに賛同した州はミシシッピ州、フロリダ州、アラバマ州、ジョージア州、ルイジアナ州、テキサス州です。そして南北戦争(Civil War)が始まります。
デンバーは標高が約1マイル(約1600メートル)なので、マイル・ハイ・シティー(Mile High City)の愛称で呼ばれています。デンバー市内には多くの日系人が住んでいます。その数、約1万4千人といわれ、 「ロッキー時報」(Rocky Times)という日本語の新聞が発行されているのもうなずけます。
この住み心地の良さを支えるのは、巨大な国防総省の施設によってもたらされる経済効果です。ロッキーの山中には、北米航空宇宙防衛軍(North American Aerospace Defense Command: NORAD)や軍事衛星による監視や弾道ミサイル防衛を担う戦略基地が掘られています。北米航空宇宙防衛司令部とアメリカ宇宙コマンド(US Space Command) は、ピーターソン空軍基地(Peterson Air Force Base)に本部を置いています。近くのシャイアンマウンテン(Cheyenne Mountain)の空洞化した内部には、NORADや他の機関の指揮統制施設があります。1966年以来、ここは航空宇宙防衛と軌道天体の追跡のための主要基地となっています。ランパート山脈(Rampart Range)を背景に米空軍士官学校(U.S. Air Force Academy)もあります。
多分最もよく知られているのは、ミスティック(Mystic)にあるミスティック・シーポート博物館(Mystic Seaport Museum)でしょう。この博物館は、ミスティック川(Mystic River)沿いにある19エーカーの敷地にあり、再現されたニューイングランドの海岸沿いの村、稼働中の造船所、展示ホール、最先端の工芸品保管施設が含まれています。博物館には、国定歴史建造物(National Historic Landmark)に指定されている4隻の船舶を含む500隻以上の歴史的な船舶が収蔵されており、特に現存するアメリカ最古の商船である1841年の捕鯨船チャールズ W. モーガン号(Charles W. Morgan)がその代表です。ここには、ニューイングランドの小さな港が、すべての船や店舗とともに再現されています。
コネチカット州はアウトドア愛好家にはたまらない地です。何マイルにもわたるトレイルをハイキングしたり、合計約650平方キロメートルにわたる30か所の州立森林または90か所の州立公園でキャンプをしたりできます。色鮮やかな紅葉は、コネチカット州とその他のニューイングランド地方に多くの観光客を惹きつけます。ロングアイランド湾(Long Island Sound)ではスポーツフィッシング、特に青魚釣(bluefish)りが人気です。
1701年の植民地時代にイェールカレッジ(College of Yale)が創設されます。コネチカット州ニューヘイブン(New Heaven)に本部があります。もともとは教会の牧師や公務員を養成するのが目的でした。現在のイェール大学(Yale University)です。合衆国で植民地議会に認可を受けた大学としては、ハーヴァード大学、ウィリアム・アンド・メアリー大学(College of William & Mary)に次いで3番目に長い歴史を持ちます。私にとってのコネチカットは、ハートフォードに出掛けて教育とテクノロジーの学会で研究発表したことです。 (2024年2月22日)
彼は生前に約200曲を残しています。ほとんどの曲は、自分で歌詞と音楽の両方を書いています。最も人気のある曲の中には、「Old Black Joe」、「Jeanie with the Light Brown Hair」、「Come Where My Love Lies Dreaming」、「Beautiful Dreamer」などがあります。さらに賛美歌も作曲しています。彼は「アメリカの音楽の父」と呼ばれています。
「My Old Kentucky Home」の一節です。 Oh, the sun shines bright in the old Kentucky home ’Tis summer, the darkies are gay The corn top’s ripe and the meadows in the bloom While the birds make music all the day
ケンタッキー州政府は、南部の心の温かさという概念に基づいて、他から州内により多くの人々を惹き付けようと考え、「こんなに友好的だ」(”It’s that friendly”)というスローガンを提唱したこともあるようです。州境地域にある「ケンタッキー州にようこそ」(Welcome to Kentucky)という看板に、(Unbridled Spirit)「自由奔放な精神」というフレーズも印字されています。
カンザス州はかつて国内で最も共和党的(Republican)な州として知られていました。1861年に最初の議会が女性に学校選挙で投票する権利を与えたのもカンザス州です。カンザス州では1912年に普通選挙が認められました。カンザス州は、公職に就いている女性の割合が各州の中で上位にランクされています。州の著名な共和党員には大統領も含まれています。ドワイト・アイゼンハワー(Dwight D. Eisenhower)や、かつて大統領候補だったアルフ・ランドン(Alf Landon)知事とボブ・ドール(Bob Dole)上院議員がいました。同州には現在、かなりの数の民主党支持者が存在し、無所属票も増加しています。
1950年代には、アメリカの15の州で学校の隔離が義務付けられていました。しかし、カンザス州はこれらの州の一つではなかったのです。その代わりに、学校の隔離は地域の裁量で小学校のみで許可されていていました。こうした事情で、差別反対の裁判が起こります。1896年のプレッシー対ファーガソン裁判(Plesy v. Ferguson)です。この裁判では隔離は認められますが、黒人と白人は平等に施設が利用できるようにすべきだと裁決されました。
さらに裁判が続きます。リンダ・ブラウンとその家族は、カンザス州トピカの教育委員会を訴えます。ブラウン対トピカ教育委員会裁判(Linda Brown v. Board of Education of Topeka)という裁判です。この裁判でブラウンは勝訴し、判決はプレッシー対ファーガソン判決を覆すものでした。この事件は、公民権運動における画期的な事件として多くの人から賛同を得ます。
カリフォルニア(California) のナンバープレートには「The Golden State」とあります。西部開拓時代のゴールド・ラッシュ(Gold Rush)に由来しているようです。持っている一枚のナンバープレートには「Prison Made」と印字されたのもあります。恐らくは有名なアルカトラズ島ザ(Alcatraz)で作られたものかもしれません(^^) ザ・ロック(The Rock)、囚人島、監獄島などと呼ばれています。「Museums Are for Everyone」というフレーズもあります。博物館はどこにもあると訴えたいのでしょう。
20世紀初頭になると、特にアジア人に対する民族差別が強まります。アジア人による土地所有を阻止することを目的とした外国人土地法(Alien Land Law)は、1952年にようやく違憲との判決がでるほどでした。法廷での中国人の証言が無効と宣言されたこともあったようです。アジア人向けの学校は 1936年まで法律で認可されており、中国人排除法が議会によって廃止されたのは1943年のことでした。
高等教育面ですがスタンフォード大学(Stanford University)、カリフォルニア工科大学(California Institute of Technology)、カリフォルニア大学-ロサンゼルス校(University of California, Los Angels: UCLA)など世界のトップをいく研究は知られるところです。産業や経済、科学技術などなんでも全米一、世界一を誇るようで、中西部や東部の人々から羨ましがられるような雰囲気があります。 (投稿日時 2024年2月17日)
オレゴン名の由来です。1765年にロバート・ロジャーズ少佐(Major Robert Rogers)がイギリス王国に宛てた請願書の綴りが「Ouragon」となっていて、これは西部のコロンビア川(ColumbiaRiver)を指していたという説です。別の説はフランス語の「Ouragan」という暴風、又はハリケーンを意味している言葉からきたという説です。第三の説はスペイン語の「Ouragano」という州の南部で育つ植物の名前から由来したというものです。
オレゴンはスペインの探検家によって最初に発見され、1579年にフランシス・ドレイク(Francis Drake)が、1778年にはジェームズ・クック(James Cook)が訪れます。1792年にロバート・グレイ少佐(Capt. Robert Gray)がコロンビア川を探検し、アメリカがこの地域の領有権を獲得しますが、この地域には多くのネイティブ・アメリカンが居住していました。
1805年頃、広大な西部に足を踏み入れた者の一人がフランス系カナダ人で猟師兼探検家のトゥーサン・シャルボノー(Toussaint Charbonneau)でした。彼とショショーニ族(Shoshone)の妻サカガウィア(Sacagawea)は、ルイス・クラーク探検隊(Lewis and Clark Expedition)の重要なメンバーでした。この探検隊は、連邦政府によるオレゴンを体系的に探索し、地図を作成し報告する任務を帯びていました。
オハイオ州(Ohio)のナンバープレートに関する話題です。州の大都市デイトン(Dayton)は、ライト兄弟(Wright Brothers)が初めて有人動力飛行機を組み立てたところで知られています。そのために、ナンバープレートには「Birthplace of Aviation」(飛行機発祥の地)とあります。別名「バッカイヤ州」(Buckeye)とも呼ばれています。
Ohio License Plate
初期のヨーロッパ人探検家たちは、この地域にマイアミ族(Miami)、ショーニー族(Shawnee)、その他のインディアンたちが住んでいるのを発見します。フレンチ・インディアン戦争(French and Indian War)の後、この地域はフランスからイギリスに割譲されます。やがて1803年に17番目の州となります。19世紀には、その立地、輸送施設、石炭、石油、天然ガスなどの天然資源により、最初の大工業州のひとつとなります。製造業が最も重要な経済活動ですが、州の3分の2近くは依然として農地となっています。
しかし、1903年12月17日にライト兄弟がノースカロライナNorth Carolinaで初めて飛行を行って以来、ノースカロライナは航空発祥の地であると主張したのです。ノースカロライナは「ファースト・イン・フライト」(First in Flight)をのフレーズを導入し、そう主張したのです。これが州のナンバープレートとなります。オハイオ州は数年後に「航空発祥の地」(Birthplace of Aviation)というプレートを導入し、これに対抗します。ライト兄弟はデイトン出身で、その飛行機を自分たちの自転車屋で製造したのです。議会は2003年にオハイオ州がノースカロライナ上空の航空発祥の地であると宣言し、この論争に終止符を打ちます。造った所と飛ばした所が違うというのが両方の主張のようです。どちらが元祖かは、いろいろな話題で論争しあいますが、このようなライト兄弟の飛行話も可笑味があります。
1995年4月19日にオクラホマ・シティ(Oklahoma City)をテロが襲い、トラック爆弾が爆発してダウンタウンにあるアルフレッド・P・ムラ連邦ビル(Alfred P. Murrah Federal Building)の一部が破壊され、168 人が死亡、500 人以上が負傷するという惨事が起こりました。 (投稿日時 2024年2月14日)
ウェストヴァジニアといえばジョン・デンバー(John Denver)を取り上げたいです。カントリーポップでシンガー兼ソングライターの彼は、好きな山々と素朴な田舎暮らしについての歌を歌います。そして1970 年代半ばに商業的な成功を収めます。彼の最大のヒット曲「Take Me Home, Country Roads」や「Rocky Mountain High」、「Sunshine on My Shoulders」は、フォーク、カントリー、ロックの要素を組み合わせて明るい景色を歌で表現します。
私のウェストヴァジニア州ですが、家族と2か月の英語研修を受けていたジョージアからウィスコンシンへ移るとき、Interstate 79を通り、モーガンタウン(Morgantown)という町を通りかかりました。州立総合大学、ウェストヴァジニア大学(University of West Virginia)が本部キャンパスを置く大学町となっています。 (投稿日時 2024年2月13日)
酪農の地であるので乳製品で有名な州です。1997年のスーパーボウル(Super Bowl)を制したグリーンベイパッカーズ(Green Bay Packers)の本拠はウィスコンシン。そのときファンがかぶったのが「チーズヘッド」(Cheesehead)というチーズをかたどった帽子でした。「チーズヘッド」という言葉は、部外者が「アメリカの酪農場」の人々をからかう愛称として使用していましたが、ウィスコンシン州の人たちにはそれが流用され、誇りを持って受け入れられています。ゴム製のチーズハットは、スポーツイベントで名誉のバッジとして着用されています。
テリヤキ・ソースといえば、キッコーマン(Kikkoman Foods)の工場がウィスコンシンのウォルワース(Walworth)にあって、ここのソースが全米の市場を席巻しています。この工場は、1973年に作られます。キッコーマン社がこの地を選んだのは、原料穀物の産地に近く良質の水に恵まれ、空港、鉄道、道路など物流・交通の便もよく、地域の人々の勤勉な労働力も期待できたからといわれます。それ以来「Products of USA」として、世界中のどの施設よりも多くの醸造醤油やソースを生産しています。
州内では、毎年多くの民族グループがお祭りを開催しています。ニューググレラス(New Glarus)のスイス人によるウィリアム・テル・ページェント(William Tell Pageant)では、フリードリヒ・フォン・シラー(Friedrich von Schiller)の戯曲『ヴィルヘルム・テル』(Wilhelm Tell)が上演されます。ノルウェー系の人々が多く住むストートン(Stoughton)では、ノルウェー憲法記念日である5月17日にシュタンデマイ(Syttende Mai)フェスティバルを開催し、マウントホレブ(Mount Horeb)の近くのマウンドの洞窟でノルウェーの歌を披露します。ミルウォーキー(Milwaukee)の毎年恒例のフェスティバルとしては、サマーフェスト(Summer Fest)、ジャーマン・フェスト(German Fest)、ポーランド・フェスト(Polish Fest)、そして国内最古にして最大の多民族フェスティバルであるホリデー・フォーク フェア(Holiday Folk Fair)などがあります。
ウィスコンシン州フェア(Wisconsin State Fair)は、ミルウォーキー郊外のウェストアリス(West Allis)で8月に開催されます。アルトゥーナ(Altoona)のシンダー・シティデイズ(Cinder City Days)からポトシ(Potosi)の消防士ナマズ・フェスティバル(Firemen’s Catfish Festival)まで、ほぼすべての都市で毎年少なくとも1つ以上のフェスティバルが開催されます。
ウィスコンシンは共和党の発祥の地といわれます。1854年3月20日、ウィスコンシン州リポン(Ripon)という小さな街のリトルホワイトスクール(Little White School)で、約30人が参加する最初のアメリカ合衆国共和党郡大会が開催されたのです。ウィスコンシンは共和党と民主党がしのぎを削る州の一つといわれます。南北戦争の時代のウィスコンシン州は共和党を支持する州でした。19世紀後半には民族と宗教の問題で短期間ながら共和党が割れたことがあったようです。20世紀前半はロバート・ラフォレット(Robert La Follette)らが共和党を支配していましたが、後には民主党となる進歩党を復活させます。1945年以後は共和党と民主党が拮抗しています。
マッカーシーは、「裏切り者」のリストにドワイト・アイゼンハワー(Dwight D. Eisenhower)大統領を含めるなど、徐々に民主主義の大義に悪影響を及ぼした扇動者として非難されるようになります。中間選挙後、彼は小委員会の委員長を解任され、政界から追われて「魔女狩り」も終焉します。憲政史上悪夢の時代といわれました。。
インディアナ(Indiana)の州都はインディアナポリス(Indianapolis)。ちょうど鉄道や沢山のインターステイツ(Interstates)が交差するところにあります。また「ユニオン・ステーション」(Union Station)が最初に建てられたところとしても知られています。そのため、ナンバープレートには、「アメリカの交差点」という意味の「The Crossroads of America」と印字されています。合衆国の大きな駅はユニオン・ステーションと命名されているのをご存じでしょうか。
北にミシガン州、東にオハイオ州、東にケンタッキー州そして南と西にイリノイ州と接しています。北西部はシカゴ市の巨大な都市圏となっていて、産業が盛んです。その中心がゲーリー市(Gary)です。インディアナポリス市内と周辺では様々な高規格の州間道路(Interstate)が交差し、昔から主要鉄道や州を横切っていた運河の中継点になっているので、まさにアメリカの交差点(The Crossroads of America)が州のモットーの由来になっているわけです。
インディアナ州の簡単な歴史です。かつて考古学者(archeologist)たちは、インディアナ州の南西部にあるエンジェル・マウンズ(Angel Mounds)で、インディアナ地方最古の住民遺跡を発見します。インディアナにはもともと、マイアミ族、ポタワトミ(Potawatomi)、デラウェア族(Delaware)などのアルゴン語(Algonquian languages)を話すインディアンが住んでいました。1679年、フランスの探検家(Sieur de La Salle)はこの地域に入った最初のヨーロッパ人となります。その後、フランスはこの地域を領有しますが、1763年に1763年にグレート・ブリテンに領土を譲渡します。その後 アメリカは1783年の独立戦争終結時にこの土地を獲得します。
Map of Indiana
インディアナにおけるアメリカ最初の入植地は1784年に設立されます。白人入植者たちが自分たちの土地に侵入してきたため、この地域の先住民たちは北西部同盟(Northwest Indian Confederation)と呼ばれる同盟を結成します。1790年代初頭、マイアミ族(Miami)の酋長リトル・タートルLittle Turtleは、同連盟を率い アメリカ軍に勝利します。しかし、1794年に北西部同盟はオハイオ州フォールン・ティンバーズ(Battle of Fallen Timbers)の戦いで敗北してしまいます。もともとインディアンの襲撃を恐れて、入植者たちは長年この地域から遠ざかっていた経緯があります。
1800年にインディアナ準州が誕生します。初代知事ウィリアム・ハリソン(William Harrison)は、この土地を入植地として開放するために大いに貢献します。1811年、彼は インディアンの一団をティピカノー(Battle of Tippecanoeの戦いで破ります。そしてインディアナは1816年に州となります。その後、南北戦争中を通してインディアナでは産業が成長し始めていきます。
インディアナ州を飛行機の窓から見たことがあります。まるで真四角に区切られたコーン畑が広がっています。氷河作用を受けなかった部分のようで、肥沃な流域平野と速い水流で特徴づけられています。ホワイトウォーター川(White Water River)の流域平野の土壌は肥沃であり、特にホワイトウォーター・バレー(White Water Valley)は優れた農地で知られています。
研究開発の中心は、インディアナ大学(Indiana University)、インディアナ州立大学(Indiana State University)、パデユ大学(Purdue University)、ボール州立大学(Ball State University) などの大学です。プロスポーツもカレッジスポーツも全米で強いところです。
さて、リンカーンのことです。アメリカ第16代の大統領です。その功績は人種差別運動の先駆者ともいうべき人と言われています。その運度の伏線には、ハリエット・ストウ(Harriet E. Stowe)という小説家が書いたUncle Tom’s Cabinがあります。この作品で、当時の黒人の生活と差別の実態が全米の人々に知れ渡ることになります。差別への関心がやがて、アメリカを二分する南北戦争へ突入していきます。
州名の由来は、バスク語(Basque)で「樫の木のある場所」(place of oaks)を意味するとする学者もいれば、トホノ・オダム(パパゴ)(Tohono O’odham -Papago)インディアンの言葉で「若い、または小さな泉のある場所」(place of the young or little spring).を意味すると主張する学者もいます。
アリゾナの簡単な歴史です。1539年から1542年にかけて現在のメキシコであるヌエバ・エスパーニャ(Nueva Espana)副王領からスペイン人の探検が行われます。1539年、フランシスコ( Francesco)会宣教師マルコス・デ・ニサ(Marcos de Niza)がこの地域を探検します。1692年にはエウセビオ・キノ神父(Eusebio Francisco Kino)が訪れ、1700年に聖ザビエル伝道教会を設立しインディアンに宣教活動を行い、18世紀初期までに一連の伝道所が設置されインディアンの多くをキリスト教に改宗させます。
州都はフェニックス(Phoenix)です。非常に暑い夏と温暖な冬として知られています。1990年6月に最高気温摂氏50度を記録したこともあるとか。フェニックスから車で北に走ること2時間。パワースポットといわれるセドーナ(Sedona)に着きます。青空を背にそびえ立つ不思議な形の赤い岩山、そこに立つ教会堂、その前を流れる渓流。数多くのハイキング・トレイルで知られています。赤い岩の山は鉄分を多く含んでいます。その独特の景観からセドーナ一帯は「レッド・ロック・カントリー」(Red Rock Country)と呼ばれています。フェニックスに来たら必ず寄っていただきたい所です。「Sedona」とはイヌイット(Inuit)神話に登場する海の女神という意味だそうです。
アラバマ州の原住民にはチェロキー族(Cherokee)、チカソー族(Chickasaw)、チョクトー族(Choctaw)、クリーク族(Creek)が含まれています。エルナンド・デ・ソト(Hernando de Soto)はこの地を旅し、フランス人は1702年にフォート・ルイ(Fort Louis)に入植地を築きます。1817年にアラバマ準州が誕生し、1819年に合衆国の州として承認されます。しかし、アラバマ州は1861年に連邦から離脱し南部連合(Confederacy)の一部となりますが、1868年に再統合されます。
1955年州都モンゴメリーで起こったローザ・パークス(Rosa Parks)逮捕事件が公民権運動の口火を切ったとされます。彼女は当時、白人専用のバスに乗り込んで逮捕されます。これをきっかけに、キング牧師(Martin Luther King)らがモントゴメリー市民に対するバス・ボイコットの運動へ広がります。運動は全米に反響を及ぼし、1956年には合衆国最高裁判所が「バス車内における人種分離(白人専用及び優先座席)を違憲とする判決を出します。そしてようやく、1964年7月に公民権法(Civil Rights Act)が制定され、長年続いてきた人種差別は法の上で終わりを告げます。
1962年にアラバマ州知事に就任したジョージ・ウォレス(George Wallace)のことです。このときウォレスが掲げたスローガンは「今ここで人種隔離を!明日も人種隔離を!永遠に人種隔離を!」(I say segregation now, segregation tomorrow, segregation forever)という人種差別主義的なものでした。1963年には2人の黒人学生のアラバマ大学(University of Alabama)への入学を阻止するために、自ら大学の門の前に立ちはだかります。これに対してジョン・F・ケネディ大統領(John F. Kennedy)は黒人学生を保護するために州兵を派遣する事態となります。
人種的不公正という深刻な社会問題を扱った演劇作品、「アラバマ物語」(原題:To Kill a Mockingbird)がブロードウェイで大ヒットしました。人種差別が根強く残る1930年代のアラバマ州南部の町モンロービル(Monroeville)で、白人女性への性的暴行容疑で逮捕された黒人青年の事件を担当する弁護士アティカス・フィンチ(Atticus Finch)の物語です。女性作家ハーパー・リー(Harper Lee)による1960年出版の小説を原作とした作品です。1961年にはフィクション部門でピューリッツァー賞(Pulitzer Prize)を受賞します。
アメリカ本土やカナダから大勢の観光客が訪れるのがアラスカ州(Alaska)です。西南のアラスカへクルージングでやってくるのです。300万以上の湖が点在し、動物も植物も手つかずの大自然のままです。ナンバープレートには「The Last Frontier」(最後の秘境)とあります。「North to the Future」というフレーズのもあります。かつては「The Great Land」とも呼ばれたようです。灰色熊のグリズリー(grizzly bear)が描かれていて、私には喉から手が出そうな一枚です。まだ持っていないのです。
アラスカ州の南側は、地球上で最も活発な地震帯のひとつである環太平洋地震帯となっています。アラスカには130以上の活火山があり、そのほとんどはアリューシャン列島(Aleutian Islands)と隣接するアラスカ半島にあるといわれます。1964年3月27日にアラスカ中南部で発生したのがアラスカ地震(Alaska earthquake)で、その規模はマグニチュード9.2といわれます。1906年のサンフランシスコ地震の少なくとも2倍のエネルギーが放出されたと記録されています。人口が過疎のため犠牲者は131人といわれます。コディアック島(Kodiak Island)からプリンス・ウィリアム湾(Prince William Sound)にかけて、局地的に25メートルの高さまで地塊が突き上げられた大規模な地震だったといわれます。
アラスカは面積においてアメリカ最大の州です。それに引きかえ、最も人口過少の州です。州都はジュノー(Juneau)。1906年までは、シトカ(Sitka)が州都でした。 最大の都市はアンカレッジです。かつてアンカレッジは日本からヨーロッパやアメリカに飛ぶときは最短距離の航路にあたりました。航空機の性能で給油のために立ち寄った懐かしいところです。給油の間、ターミナルで待つのは過去の話となりました。最近では2008年の大統領選挙で共和党の副大統領候補に州知事だったMs Sara Palinが指名されました。
ロシアの軍艦、聖ピーター号(St. Peter)に乗ったビタス・ペーリング(Vitus Bering)が1741年7月15日、現在のシトカあたりの陸地を発見したといわれます。その後アメリカは1867年にロシアから720万ドルで購入した歴史があります。当時の国務長官スワード(William H. Seward)はロシアからの買い取りを提案したのです。当時は「巨大な冷蔵庫を買った」とか「スワードの愚行(Seward’s Folly)」と蔑称されるなどと非難されたとか。今で言えばアメリカはロシアから安い買いものをしたものです。領土は決して売ったりするものではないのです。地下資源、森林、漁業資源などが豊かなところです。それにもましてアメリカにとっては国防、軍事上の重要な位置にあるのがアラスカです。そのためか、大地の65%が連邦政府の管理にあります。ほとんどが不毛の地ですから、埋蔵量が豊富な原油の採掘地帯以外は誰も所有しないのです。1968年に油田が発見され、1977年トランス・アラスカ・パイプライン(Trans Alaska Pipeline)が完成すると原油生産による収入で人口が増加に転じ、インフラ整備が進みます。