アメリカの文化 その21 車社会のあれこれ

車社会の話題です。アメリカ人は、車に資産価値があるという意識は薄いようです。車とは移動手段だと割り切っています。その現れの一つは、洗車の習慣がないことです。アメリカ人は自宅で洗車し綺麗に磨くなどはしません。車内の中も相当汚れています。しかも犬を乗せて移動するとなれば、車内の中は汚くなるのは当たり前です。車検もないので、少々の傷などは問題視しません。バンパーは傷だらけです。車体を保護するためにパンパーがあるという考え方です。

ぼろぼろのしかもアンティークの車が時々走っています。見ると運転する側の床に大きな穴があいています。地面がみえ、空気が入ってきます。運転手にきくと、この穴に足を突っ込んでブレーキをかけるのだそうです。「これが本当のフットブレーキ(foot break)だ、」と笑い飛ばすのです。

フリーウェイには複数人乗っている車が優先的に走行できるレーンがあります。「Carpool」または 「High Occupancy Vehicle:HOV〕Lane」といいます。 道路に菱形のマーク(◇)がついています。通勤の際の一人乗りの車は渋滞の原因になるのです。同じ職場で働く者に相乗りを奨励する会社や役所があります。会社所有の車を提供して相乗りを奨めるのも珍しくありません。運転は相乗り仲間で週や月極で交代するのだそうです。

フリーウェイや道路が交差する地点に「YIELD」 という標識もあります。これは「譲れ」という意味です。左側から来る車が優先です。「ALL STOP」という標識は、交差点に先に入った車から通過せよという標識です。慣れるのに少々体験が必要です。このマナーを忘れると叱られます。

アメリカの文化 その20 オルガンビルダーと森 有正

パイプオルガンの話題です。北海道大学のクラーク会館に設置されるオルガン以前のことです。1965年に札幌ユースセンター教会が、ミズリー派(Missouri Synod)ルーテル教会から400本のオルガンの寄贈を受けます。オルガンの製作会社はアメリカのWalkerという会社でした。オルガンの組み立てを担当したのは、日本で最初のビルダーで鵠沼めぐみルーテル教会員の辻宏氏です。その組み立て行程を間近で見学できたのは幸いでした。このオルガンは北海道で最初に献納されたオルガンとなります。

オルガンが完成し、その柿落で招かれた演奏者は秋元道雄東京芸術大学教授です。そのときバッハ (Johann Sebastian Bach) のトッカータとフーガ ニ短調(Toccata und Fuge in d-Moll) を始めて間近で聴きました。秋元氏は東京芸術大学のオルガン科卒業後、ライプツィヒ=ベルリン (Leipzig-Berlin) 楽派のヴァルター・フィッシャー(Walter Fischer) 教授の門下生であった真篠俊雄教授に師事します。やがて、秋元氏はイギリスとドイツに留学します。そしてロンドン市立ギルドホール音楽演劇学校 (Guildhall School of Music and Drama)より全英最優秀音楽留学生賞である「サー・オーガスト・マン賞」(Sir August Mann Award)を受賞します。

その後、パリのノートルダム大聖堂 (Cathédrale Notre-Dame de Paris) での演奏会を含め数多くの演奏活動を行います。「プラハの春・国際オルガンコンクール」など多くの国際コンクールの審査員をつとめた経歴を有しています。芸大で教えながら、飯田橋にある日本キリスト教団富士見町教会のオルガニストも務めました。我が国でもオルガン科を有する大学が増えてオルガニストが養成されています。秋元氏に師事した人々が活躍しているようです。2010年1月に生涯を終えられました。

欧米では教会の大小に関わらず必ずオルガンがあります。教会堂の大きさによってオルガンも大型になります。小さな教会のオルガンは、会衆から見えるように前面や側面に設置されています。コンサートホールでは、装飾を兼ねて前面に配置されるのですが、それよりもはるかに多くのパイプが聴衆から見えない所に配置されています。その数は数千本から数万本に及びます。音階をなす数十本の笛が1組となって使われます。金管、木管の組み合わせです。この一組はストップと呼ばれます。

札幌ユースセンター教会で奉仕していたとき、哲学者でフランス文学者だった森有正が「オルガンを弾かせて欲しい」と教会を訪れたことがありました。森は明治時代の政治家森有礼の孫です。オルガンを演奏し、特にバッハのオルガン曲の奏者として優れた仕事を残し、レコードを出すクリスチャンでもありました。パリ大学東洋語学科で日本語や日本文化を教えた経験をもとに、晩年に哲学的なエッセイを多数執筆します。私も『遥かなノートルダム』という著作を持っています。「言葉と経験」という思想を『バビロンの流れのほとりにて』、『アブラハムの生涯』という本の中で強調しています。オルガンと秋元道雄、森有正をつなぐのはノートルダムのようです。

アメリカの文化 その19 Daylight Saving Time

イースターが過ぎると急速に日が長くなる気がしてきます。ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)という政治家で著述家、物理学者をご存知と思います。この人はアメリカの100ドル紙幣に印刷されています。凧を用いた実験で雷が電気であることを明らかにしたことでも知られています。意外なことに彼は、現在140か国で採用されている「サマータイム」(Daylight Saving Time: DLS)の創案者なのです。今回の話題はこの「サマータイム」です。

DLS は世界中の40%位の国々で使われています。日本は1948年に一度採用されますが、1951年に廃止となります。DLSの趣旨は、夏の太陽–日照時間をより有効に活用しようということです。アメリカでは、毎年3月14日に時計を1時間進め、11月7日に1時間戻すことになっています。最初にDLSを取り入れた国はドイツです。1916年4月30日に時間を進めたのです。それを遡る1908年に、カナダのオンタリオ州(Ontario)にあるサンダーベイ(Thunder Bay)の街でDSLを取り入れたという記録があります。

ベンジャミン・フランクリンがDSLの概念を提案したのは、1784年といわれます。アメリカの独立宣言から8年後のことです。現在使われているDSLの正式な提案は1895年になされます。その間、ニュージーランドのジョージ・ハドソン(George Hudson) という昆虫学者が2時間の時刻を早める提案をします。そしてアメリカでは1918 年に国としてDLSを採用することになります。だた、今もってアリゾナ州(Arizona)の一部やハワイ州(Hawaii)は珍しくDLSを採用しない州となっています。

DLSの評価についてです。日付けを1時間早めることにより、夕方に消費する燃料を節約できるといわれます。しかし、この考え方は見解が分かれています。さらに DLSは車を運転する時間中の交通事故や怪我を減らせることができるという研究もあります。DLSの採用によって、人によっては健康を害するという研究もあります。なんとも悩ましいDLSという慣行です。

アメリカの文化 その18 Easterと卵

「イースター」(Easter)は復活祭のことです。十字架にかけらたイエス・キリスト(Jesus Christ)が3日後に復活したことを祝う祭りです。 復活祭は年によって日付が変わる移動祝日です。基本的に「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」とされ、今年は本日4月4日となります。ドイツでは「オースタン」Osternと呼ばれています。イースター」も「オースタン」もゲルマン神話の春の女神「Eostre」やゲルマン人が用いた春の月名である「Eostremonat」に由来しています。

ギリシャ正教(Greek Orthodox)やロシア正教(Russian Orthodox)、日本正教会では復活祭のことを「パスハ」(Paskha)と呼んでいます。カトリック教会やラテン系の国では「パスカ」(Pascha)、スペインでは「パスクワ」(Pasqua)と呼ばれています。こうした語は「過越の祭り」(Passover)を意味するヘブライ語(Hebrew)が語源となっています。キリスト教における復活祭は旧約聖書時代の過越の祭りを雛形にした祝日とも推測されます。

ヨーロッパや北アメリカは、長く寒い冬が終わり、キリストの復活祭とともに春の到来を祝うのがイースターです。イースターのシンボルは生命の誕生と再生の象徴である卵と繁殖力の高いウサギ (イースターバニー Easter Bunny) です。イースターエッグが良く知られています。色とりどりの卵が店で売られ、自宅でも色づけした卵を子ども達に分け与えて祝います。

世界中の多くの教会で特別な礼拝が行われます。食事やイベントなどさまざまな習慣や風俗があります。イースターの個性的なイベントといえば、最もファッショナブルで知られるニューヨークのイースターパレードがあります。意匠をこらした帽子を被り、奇抜な衣裳を身に着けた人々が歩行者天国を練り歩きます。ドイツ人は、イースターではこれでもか!というくらい呑んで食ってのお祭りとなります。とことんまでやる真面目な国民性が反映しているといわれます。

アメリカの文化 その17 メディケアとオバマケア

メディケア (Medicare) とは、アメリカでの65才以上の高齢者と障害者のための国が運営する保険制度です。メディケアを受給できるのは下記の条件を満たす人です。
・65才以上で、アメリカ居住5年以上のアメリカ市民権または永住権保持者
・65才未満の身体障害者で一定の資格を満たす人
・末期の腎臓病またはルー・ゲーリック(Lou Gehrig)病(筋萎縮性側裂索硬化症)の人

低所得者や障害者には、メディケイド (Medicaid) という制度もあります。メディケイドは、連邦および州両方の税収入によって運営され、実際に管理運営しているのはそれぞれの州です。2010 年にオバマ大統領が署名して発効した医療保険制度改革法(Patient Protection and Affordable Care Act)があります。通称「オバマケア」(Obama Care) と呼ばれ、メディケイドの枠が拡大され、多くの州では65才未満の低所得者のメディケイドへの加入資格がそれまでよりも緩和されました。

オバマケアによりますと、保険にはカバーしなければならない最低基準があります。保険の補償内容である保険プランは、ブロンズ、シルバー、ゴールド、プラチナの4つのレベルに分けられます。ブロンズは保険料が一番安く、プラチナが一番高いレベルです。ブロンズは医療費の約6割を保険がカバーするプラン、シルバーは 7割、ゴールドは8割、プラチナは9割となっています。保険料が高ければ補償の額は高くなるのは当然です。

保険料負担が所得に応じて一定の割合以下になるように、補助金制度が設けられています。保険料の補助を受けることができる条件は主に次の通りです。
・アメリカで所得税を納税していること
・家庭の所得が、貧困レベルの40%以内であること
・勤務先で団体保険の提供がないこと
アメリカの医療保険や健康保険の制度は複雑です。貧富の格差が大きいことも制度をわかりにくくしています。

アメリカの文化 その16 ベーグル

ベーグル(Bagel) は、小麦粉に水や食塩を加えて練った生地を発酵させ、細長くのばしリング状にしたものを茹でてから焼き上げるパンです。外側はカリッと焼き上げられ、内側はもっちりと詰まった歯触りになります。東欧系ユダヤ人であるアシュケナジム(Ashkenazim) のパンといわれます。

最初のベーグルはポーランドのクラクフ(Krakow) でユダヤ人コミュニティーから発祥したともいわれます。円形や製法は、もとはユダヤ人が中世の頃、南ドイツからポーランドに製法を持ち込んだプレッツェル(pretzels)から着想したようです。確かにベーグルはプレッツェルとそっくりです。ベーグルの定番の食べ方といえば、クリームチーズを塗るやつです。スモークサーモンやチーズ、トマト、タマネギなどをスライスしたベーグルにはさんで食べるときは涎がでます。

ニンニクや芥子の実、ゴマ、刻みタマネギやそれらを混ぜ合わせたものなどもあります。また、生地にシナモンとレーズンやリンゴ、ブルーベリー(blueberry)、クランベリー(cranberry)、ライ麦のプンパーニックル(pumpernickel)といったベーグルも美味しいです。

アメリカの文化 その15 大学の雇用

かつて勤めていた関西のとある大学で、『これぞ日本の蛸壺』というような姿を目の当たりにしました。学長選びのことです。教職員には、どこどこの大学を出たかによる鉄の団結のような組織があります。派閥というかマフィアのような存在です。マフィアは学長選挙の時に動き出します。かつて学長は選挙権のある教授の投票によって決められました。選対事務所のような所から盛んに電話などで勧誘がきます。私は一匹狼。派閥には属していませんでした。党派党略から独立すべき教員集団にも関わらず、選挙になるとがぜん派閥が元気が出るのは不思議でした。

このような大学での鉄の団結は、教員採用の時にも威力を発揮します。選考委員会のメンバーの多くはこうした派閥が占めます。表向きは公募ですが、書類選考の段階から内定者がいるようなものです。学閥の人脈を使い、教職を探す後輩などに連絡してあるのです。ですから一匹狼は、よほど傑出する業績や経歴を有しないと採用されません。

アメリカでの教員になるための応募手続きです。はじめは、募集している大学に自分の研究業績のレジュメ(resume)を送ります。研究業績にはポスドクの経歴ももちろん大事な要素です。この書類審査によって3名くらいが最終候補に選ばれます。候補者は大学での人事選考の面接に招かれます。この時の旅費は招く側が負担するのです。ここが日本と違うところです。首尾良くポジッションを得たにしても、大抵は3年の雇用契約です。ここから終身雇用身分であるテニュア(tenure)への途が始まります。雇用契約が切れ更新がないとまた仕事探しを始めます。その間業績を増やす努力を続けるのはいうまでもありません。

アメリカの文化 その14 フードスタンプ

私の3人の子どもはマディソン市(Madison) の小学校にいるとき、「フードスタンプ」(food stamp)という食料交換クーポン券を貰いました。私には収入が全くなかったので、学校に申請するとフードスタンプがすぐ認められました。アメリカには1960年代から貧困層にクーポン券を配布する食料費補助政策が実施されます。学校給食にも「無料―割引給食プログラム」ができました。

フードスタンプは「食べ物は心と体をつくる大事なもの、人間の基礎であり国にとっては財産である」という考え方が前提にありました。当たり前のことです。しかし、今も大勢の貧困家庭で育つ子どもがいます。無料の給食が必要なのです。一度ミネアポリス(Minneapolis)の小学校を院生3人とで訪ねたとき、朝食を食べてこない子どもに給食が振る舞われていました。ハンバーガーとミルク、そして山積みになったケチャップがありました。私たちも無料の朝食に預かりました。ハンバーガーは通称ジャンクフード(junk food)と呼ばれます。「Junk」とは屑とかがらくたという意味です。高カロリーですが、栄養価のバランスを著しく欠いた調理済み食品を指します。他の栄養素であるビタミンやミネラルや食物繊維があまり含まれない食べ物ともいわれます。

かつては学校は自前で給食を作っていました。ところが教育予算が削減されるにつれ、給食を作れなくなり、経営が苦しい学校にファーストフード企業(catering)が入ってきます。大量に安く給食を提供できるという宣伝が効いたのです。給食のコスト減とともに給食の質が下がっていきます。ファーストフードの提供するメニューによって、栄養の偏った肥満児童が増えていきます。大人の肥満も目立ちます。いまアメリカ人の死因の多くは肥満による心疾患や脳卒中、そしてガンです。人口10万人当たりの死亡数は日本の2倍という数字です。特に心臓病や高血圧は4倍から6倍も多いのです。

アメリカの文化 その13 Black Friday

ブラックフライデー(Black Friday) とは、アメリカの11月第4木曜日の感謝祭(Thanksgiving) の翌日のことです。この日は正式の休暇日ではありませんが、この日を含めて4日間の休暇となります。Black Fridayでは、小売店などで大規模な安売りが実施され手賑わいます。なぜかといいますと、感謝祭プレゼントの売れ残り一掃セールが行われるからです。アメリカの小売業界では1年で最も売り上げを見込める日とされています。クリスマスに向けた歳末商戦の幕開けを告げるイベントとしても知られています。

Black Fridayは、1961年ごろからフィラデルフィア(Philadelphia)で始まり、1975年にはかなり広まった比較的新しい言葉です。Black Fridayと名付けたのはフィラデルフィアの警察といわれ、市内は買い物客で道路が混んだことに由来します。警察官にとっては仕事が増え「真っ暗な金曜日」と呼んだそうです。その後、フィラデルフィアの新聞が「小売業者が儲かって儲けになる」と発表してからは、Black Fridayが定着します。

ついでながら、1987年10月19日は世界的株価大暴落の開始日で「Black Monday」と呼ばれています。2008年9月15日は証券第4位のリーマン・ブラザーズ (Lehman Brothers) の経営が破綻した日です。Black Fridayは、日本語では「黒字の金曜日」と訳されていますが、ほとんど定着していないフレーズです。

アメリカの文化 その12 Downtown

都会の中心街を指して「downtown LA」、「downtown San Francisco」、「downtown Cleveland」と人々は呼びます。ダウンタウン(downtown) は我が国でも広く使われるようになりました。通常は、繁華街の中心といったニュアンスです。東京の「downtown」と言えば、新宿、銀座、渋谷を連想するでしょう。

たまに、「downtown」は「下町」として訳されていますが、下町のイメージと「downtown」のイメージは全く違います。下町は伝統的な雰囲気があるところで、それに対して「downtown」は現代の雰囲気があるところです。東京の下町は、浅草でしょう。京都などでいえば、町屋が広がるあたりがそうです。

イギリスでは、「downtown」はあまり使われていません。代わりに、「city centre」と言います。イギリスでは、「center」のスペルは「centre」ですね。でも、「city centre」は「downtown」ほど面白い言葉ではなく、少しフォーマルな言葉で、若者が使うより、お役人さんが使うような殺風景な響きがあります。「Inner city」というのは、下町ですが、社会経済的に恵まれない人々が住む地域となります。どや街もそうです。

アメリカの文化 その11  都市のニックネーム

アメリカの文化をいろいろな角度から取り上げています。文化を表すのはなんといっても言葉です。今回は、都市についている面白いニックネームから文化を考えていきます。ニックネームには謂われや歴史があります。

私の第二の故郷であるマディソン(Madison) は、ウィスコンシン(Wisconsin)の州都で大学街でもあります。大勢の若者が学び暮らしています。政治や経済、スポーツに敏感な世代ですから、気にくわないことあると怒り(mad)を露わにしがちです。そんなことから「MadCity」というニックネームがついています。人種差別や女性蔑視などが話題となるとヒートアップします。今回の大統領選挙でも、「America First!」などと叫ぶものなら、いっぺんに叩かれてしまいます。大きなデモが大学へつながる大通りでひらかれると、店やレストランは板で窓をふさぐほどです。時に学生が時に怒りを発散して暴徒化することもあるからです。

ウィスコンシン州全体では農村地帯が広がり、保守的な人々の暮らすコミュニティが多いので共和党支持者が多いです。カトリック教会やルーテル教会の信徒も多く、伝統的な信条を大事にしています。しかし、マディソンやミルウオーキー(Milwaukee)といった都会の住民は違います。伝統にあまりとらわれない進歩的というかリベラルで民主党が強いところです。

ニューヨーク(New York) のニックネームはご存知「The Big Apple」です。この名称はいくつかの説があるようですが、人気のあるのは、かつてイブ(Eve)という有名な娼婦がいたというのです。旧約聖書に禁断の実であるリンゴを食べたイブから由来しています。その他に、ジャズメンたちがの間で、もしニューヨークでデビューすれば、ご褒美としてリンゴをかじることができる (a bite of the apple)、つまり成功の機会がえられるということから「The Big Apple」と呼ばれるようになったという説です。

シカゴ(Chicago)のニックネーム「Windy City」です。ミシガン湖からの風を指すようです。冬は寒いですが、夏は涼しく過ごせる、という宣伝文句ともなっているようです。「Windy」には「口うるさい」「おしゃべりな」という意味もあります。シカゴ出身の政治家を揶揄する言葉ともいわれます。

ラスベガス(Las Vegas) のニックネームは「 Sin City」。さしずめ「罪深い街」とでもいったところです。ネバダ州の最大都市です。カジノが並びギャンブルで有名です。全米から観光客がやってきては一時の大当たりを楽しむのです。私はまだ楽しんだことがありません。ちなみに「Vega」 とはスペイン語で「肥沃な土地」を意味する女性名詞です。24時間営業のレストランなども全てのホテルにあり、「眠らない街」ともいわれます。「Sin City」にぴったりです。

アメリカの文化 その10 テニュア

アメリカの大学では、身分保障を得られれば定年はありません。建前上は死ぬまで働いてもよいのですが、研究費をとれるという条件です。これは終身身分保障によるもので、「テニュア」(tenure)、あるいは「テニュアトラック」(tenure-track) と呼ばれます。

大学教員になるには、学位は必須です。博士号を取得すると任期付きの講師(lecturer)、ポスドク(post doctor)研究員、そしてテニュアが期待される助教授(associate professor)のいずれかのポジションを取得することになります。大抵は3年の雇用契約です。ここから終身雇用身分であるテニュアへの途が始まります。雇用契約が切れ更新がないとまた仕事探しで、渡り鳥のように転々と教職を探すのです。テニュアというのは、優秀な研究者に与えられる身分保障制度のことで、これによって学問の自由が保障されると同時に、経済的に安定した生活も保障されるのです。

professors work hard to stay on track

どの大学でもテニュアになるための基準があります。テニュアの審査応募資格としてはテニュアのポジションに在籍していること、審査期間の5年間に優れた研究業績があること、しっかりした学生指導の実績があること、学部の教務に精励していること、助教授(assistant professor) の肩書きを持っていることなどです。テニュアをとろうとする助教授は、いくつかの学内委員会の審査を通過して、大学の理事会が承認するのです。このように研究活動、教育活動、教務活動の全てにおいて優れていることが要求されます。

研究活動においては査読付き学術論文を複数発表していることも要求されます。審査付学会報告などを複数持っていないとテニュアの取得は困難といえます。テニュアをとると海外などでのサバティカル(Sabbatical leave)という自由な研究活動が与えられます。欧米では広く普及している休暇制度です。テニュアを得た教授は、大抵は5年毎に休暇を貰えます。休暇の期間は半年か1年です。半年の場合は給与は半額が支給され、一年の場合は無給というのが一般的です。

アメリカの文化 その9 スパムとポーク・ランチョンミート

スパム (spam)とは、インターネット上で「無差別かつ大量に一括してばらまかれる」メッセージとかメールのことです。通常「迷惑メール」といわれます。「受信者や媒体の意向を無視して流す」のはスパム行為ともいわれます。八王子囲碁連盟のWebサイトにもスパムがやってきます。「お問い合わせ」というページを作っていますが、そこからスパムがやって来ます。その対策は講じているのですが、時々その対策をかいくぐってスパムが届きます。

本稿は迷惑メールの類のスパムではなく、缶詰のことです。1970年に沖縄に赴いたとき、この缶詰が山のように売られていました。しかも沢山の種類があるのです。沖縄ではこの缶詰を「ランチョンミート」(luncheon meat)とか「ポーク・ランチョンミート」(pork luncheon meat)と呼ばれていました。ランチョンミートが最初に作られたのは1937年頃です。ホーメル・コーポレーション(Hormel Cooperation) が製造し始めます。優れた保存性から米軍のレーション(ration) に採用され、やがてヨーロッパやアジアで世界的に広まります。このもともとの商品名はHormel Spiced Ham(スパイスド・ハム)といわれました。それが「SPAM」(スパム)に改名されます。

沖縄県とスパムの関係です。元々沖縄には、豚肉を好んで利用する食文化があります。お祝い事には豚の丸焼きがテーブルに並べられます。1945年3月に始まった沖縄戦は6月23日に終結します。それ以来豚肉が全く手に入らなくなります。そして終戦直後には米軍から沖縄県民に配給物資としてスパムが提供されます。米軍の内部で消費していたスパムの一部が、保管期限切れの払い下げや物資横流し等で市場に出回ったのです。

手軽で保存性の高い缶詰の豚肉は県民に広く受け入れられます。スパムを含む缶詰のランチョンミートはやがて大量に輸入されるようになり、沖縄の家庭料理に欠かせない食品となっています。沖縄では、スパムを使ったゴーヤチャンプルーが最も親しまれている料理です。ニガウリと豚肉のハムが絶妙に合います。

アメリカの文化 その8  The Beltwayとメタファー

アメリカではいろいろな慣用句が使われます。その一つを紹介しましょう。首都ワシントンDCの周りにはインターステイト495(I495) と呼ばれる高速道路が走っています。495号の一部はインターステイト95と重なっています。首都の周りの環状線というわけです。首都には政府の沢山のオフィスや大使館、会社などが集中しているので、当然交通ラッシュが起こります。そのようなわけで、テレビなどでは「This morning, traffic is very heavy inside the Beltway」といった交通情報が流れます。

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アメリカの他の都市も「beltway」とか「beltline」という都市の外側を回る環状高速道路があります。「inside the Beltway」は通常ワシントンDCのみの高速道路を表すフレーズなのです。ですから頭文字が大文字の「Beltway」になります。この場合、「Beltway」は「首都ワシントンにおける政治」という意味でも使われます。「霞ヶ関」といえば中央官庁を指し、「永田町」といえば、国会や官邸の暗喩(メタファー: metaphor)として使われるのと似ています。

「White House」といえば大統領官邸とかそこで働く中枢のスタッフ、 「Pentagon」 といえば国防総省の建物です。五角形の多層リング上となっています。「10 Downing Street」はイギリスの首相官邸の代名詞。「221B Baker Street」はシャーロック・ホームズ (Sherlock Holmes)の住居のことです。ハリウッド(Hollywood)といえばアメリカ映画、「クレムリン」(Kremlin) といえばお分かりですね。このように、事象をより具体的にイメージできるものに置き換えて、相手の理解をくすぐるメタファーは修辞法(rhetoric)の一つです。

アメリカの文化 その7 スクールバス

アメリカの道路は右側通行。欧米各国やお隣韓国もそうです。琉球も本土復帰前は右側通行でした。英国は日本と同じ左側通行です。日本の運転免許証でなぜかカリフォルニア州やハワイ州、グアム、そしてドイツとスイスでも運転できます。どうしてなのかまだ分かりません。

アメリカでは信号が赤であっても、交差点で一番右側の車線を走っている場合は、左側から車が来なく、歩行者がいないときは右折することができます。右折禁止になっていない交差点で、止まったままになっているとクラクションを鳴らされます。日本はその点、厳格に「赤は停まる、青で進む」という精神が徹底していますね。

踏切がある道路では、トラックやバスなどの大型車を除いて、踏切を横断する際の一時停止は不要です。踏切の手前で一時停止してしまうと追突事故の恐れがあるため、踏切を通過する際は減速せずにそのまま通過するのです。線路といっても貨物車や汽車は一時間に一本通るかどうかです。一時停止は無意味なのです。

本題のスクールバスの話題です。スクールバスは全州で黄色で統一されています。このバスが停車してSTOPという標識とランプが点灯している場合、STOPのランプが消えるまで後続車も必ず停車しなければなりません。片側二車線でも停まるのです。このとき対向車も停まらなければなりません。スクールバスを追い抜くことは重大な違反になります。児童生徒の飛び出し防止のためです。スクールバスは追突や事故から子ども防ぐために、安全基準に基づいた頑丈な車体となっています。

スクールバスは、1886年頃スクール馬車が作られたことに始まるといわれます。国が広大なので、このバスは都会であろうと、ど田舎であろうと走っています。スクールバスは授業開始の前、授業終了後と部活が終わる時間の3回走ります。社会見学や遠足などにもこのルバスが使われます。スクールバスを運営する会社は全米でいくつかあります。

アメリカの文化 その6  洗濯物の外干し

アメリカでは景観の保護や放火・窃盗などの防犯を理由に、洗濯物を外に干さないのが一般的です。また、州によっては法によって外干しが禁止されている場合もあります。そのため、賃貸の物件には、乾燥機が必ず備え付けられています。ウィスコンシン大学の院生の家族寮では、外におしめを干しているアメリカ人家族を見かけました。太陽にあてると殺菌され乾燥機よりは清潔だといっていました。確かに寮の洗濯機や乾燥機は、大勢の人によって使われるので気になる人もいます。

我が国でも高層マンションなどのベランダには洗濯物を見かけなくなりました。布団干しも厳禁です。私のように布団干しを趣味とするような者には、誠に気の毒に思えます。北京オリンピックなどのときも、政府は期間中は干し物を禁止したとか、の話をききました。美観のためなのでしょう。東京オリンピックの期間中は、どうなるのでしょうか。外干しは日本の文化だと思うのですが、、、、

最近ではアメリカ国内でもアジア圏の文化が浸透しつつあり、家の中で靴を脱ぐ家庭も増えてきています。アメリカ人に招待されたときなどは、玄関で靴を脱いだ方がよいようです。そのほうが清潔であることがアメリカの家庭でも行き渡っています。

アメリカの文化  その6 ハグされた思い出

今日3月17日はセイント・パトリックス・デイ(St. Patrick’s Day)です。この日は本題と関係があります。アメリカではハグ (hug) はアメリの文化だけでなく、世界中の文化といってよいほど広く行き渡る行為です。日本でも、若者を中心にハグは当たり前のようになってきました。家族や友人・恋人同士など親しい間柄でのハグは見ていてほほえましいものです。 会ったとき、別れるときなどのタイミングにです。 お互いアイコンタクトをとり、両手を広げてやさしく抱きしめポンポンと軽くたたいたりします。 相手との関係によって肩や背中をぎゅっと抱きしめたりします。一般的には、さらっと終わらせるのがちょうどよいようです。

アメリカではハグは頻繁に行われます。 ですがそれにもエチケットやマナーがあります。まずは避けたいハグです。男性から女性に対してハグをするのは基本的にNGです。男性の方は気を付けるようにしましょう。女性からであれば男性でも女性でもハグをしても問題ありません。このあたりが、ジェンダーの話題として微妙なところです。

次ぎに、初対面でハグをするというのは大きな間違いです。全く知らない人にハグをする習慣はどこにもありません。どんな場合でもそうです。ビジネスの場面では、男女間でも握手のほうが挨拶としては使われます。 はじめのうちは慣れなくておどおどしてしまうかもしれません。 しかしこれは相手を傷つけてしまう可能性があるので、恥ずかしがらずに笑顔で対応するようにしたいものです。

Hug me for luck. Funny St. Patrick’s day saying for t-shirts and cards. Brush lettering design with clovers.

ハグは「大きな愛」という意味もあります。 相手への感情を伝えるコミュニケーションの手段です。相手への気持ちをこめて行うことがよいようです。頬と頬をくっつけるチークキス(cheek kissing)もあります。親しい友人や親せきなど、基本的には仲の良い人に対して行いう挨拶の仕方です。

アメリカの文化 その5 セイント・パトリックス・デイ

アメリカの代表的な祭りの一つにセイント・パトリックス・デイ(St. Patrick’s Day)があります。毎年3月17日となっています。ニューヨーク(New York) やボストン(Boston)、ウィスコンシンなど、アイルランド系移民の多い地域や都市で盛大に祝われます。ウィスコンシン州のニューロンドン(New London)という小さな街は、アイリッシュ系が多く、この期間中だけ町名が「ニューダブリン」(New Dublin)に変更されるほどの思い入れです。人口はたったの人口7,300人です。ダブリンはアイルランドの首都ですね。人口は139万人です。

セイント・パトリックス・デイには、いたるところで三つ葉のクローバーのデザインを目にします。これは「シャムロック」(shamrock) と呼ばれ、アイルランドの国花となっています。聖パトリックという伝道師が、がこのシャムロックをエンブレムとして用いて三位一体(Trinity)を説き、キリスト教を広めたと言われています。三位一体とは、父なる神c(God)、その子イエス(Jesus) 、そして精霊(Holy Spirit) のことです。

セイント・パトリックス・デイで有名なのは、ハウスの噴水が真緑になるのです。シカゴ川の水も真緑になります。この日のお祝いはただ事でないことがわかります。もう一つの伝統は、毎年アイルランドの首相からアメリカ大統領にシャムロックが贈られることです。実に興味あることです。ユーモアすら感じます。

アメリカでは、セイント・パトリックス・デイに食べるものといえば、コーンビーフ( Corned beef)とキャベツの付け合わせです。本場のアイルランドでは、「シェファーズ・パイ」(Shepherd’s Pie)です。羊の肉を使います。シェパードとは羊飼いのことです。それに「ラムシチュー」(Lamb stew)で「 Irish stew」とも呼ばれるようです。私はいただいたことがありません。なぜ「コーンビーフとキャベツ」がセント・パトリックス・デイに食べられるものという通説が広まったのでしょうかね?手ごろに用意できる食べ物だからでしょう。緑色のビールが食卓に並ぶのかもしれません。

アメリカの文化 その4  「Groundhog Day」

世界の各地にはいろいろな占いや伝承行事があります。豊作や大漁を占う行事が我が国にもあります。「占いなんて非科学的だ」といって否定するのはユーモアのセンスが足りないような気がします。時に占いをして笑うのもいいのではないでしょうか。

アメリカでは2月2日はキャンドルマス(candlemas 聖燭節)といって聖母マリアを清める日とされます。この日は、春の訪れを予想する天気占いの行事にグラウンドホッグデー(Groundhog Day)ともいわれています。冬眠から目覚めたマーモットの一種であるグラウンドホッグ(groundhog) が自分の影を見れば冬はまだ長引くと占われるのです。グラウンドホッグは、リス科マーモット属に分類されています。グラウンドホッグデーの風習は、ドイツやオーストリアで2月2日に行われ、アナグマがこの日に出て陽を浴びると4週間冬が長引くという天気占いが行われました。時に、動物はクマやキツネであったようです。本来はクマなのですが、数の減少とともに他の冬眠動物に代用されたとされます。

19世紀になると、グラウンドホッグデーはアメリカのドイツ系移民の間で始まったといわれます。ドイツではこの動物をグラウンドホッグに代用し、4週間を6週間としたのがドイツ系アメリカ人版というわけです。ペンシルベニア・ダッチ(Pennsylvania Dutch)と呼ばれるドイツ系移民は、グラウンドホッグのことを、母国語で「アナグマ」という意味の「ダックスdachs)」と呼んでいたようです。

アメリカの文化 その3 多宗教の国

アメリカのキリスト教徒の半数弱がプロテスタント系(protestant)の宗派に属しており、ほかのキリスト教の宗派も合わせると、アメリカ人の約50%がキリスト教徒です。断っておきますが、こうした人々の大半は定期的に礼拝に出席しているとは限りません。プロテスタント系に属する人が多い理由は、ノルウェー人(Norwegian)やアイリッシュ(Irish)、オランダ人(Netherlander)などのように、宗教的な弾圧を避けてアメリカに渡ってきた人々にプロテスタント系の清教徒(Puritan) が多かったためです。

アメリカには約600万のユダヤ系の人々が住んでいます。世界中には約1,400万人のユダヤ人がいるといわれます。ユダヤ教徒は神による天地創造から始まる旧約聖書のみを聖典としています。トーラー(Torah)と呼ばれるモーセ五書がそうです。ユダヤ教は3大宗教の一つとして数えられていますが、キリスト教やイスラム教のように民族や時代を超えて信仰されているいわゆる「世界宗教」とはいわれていません。ユダヤ民族のための「民族宗教」であると考えられています。そのため、信徒が少ないとも言われています。

安息日(シャバット-Sabbath)はユダヤ人の生活の中心です。土曜日は休息の日として「何も行ってはならないと定められた日」とされています。家事を含め日中は一切の労働を行わないという習慣です。キリスト教徒は、土曜日ではなく日曜日を安息日として教会の礼拝にでかけます。

ユダヤ人の他に中東アジア、東南アジアからのイスラム教徒が多いのもアメリカです。全米における人口でいえば、アラブ系は400万人、イスラム教徒は700万人といわれています。こうした人々はモスクを造り礼拝しています。9.11同時多発テロ事件の直後、不幸にしてアラブ系やイスラム教徒への強い反発(バックラッシュ)が高まりました。憎悪犯罪(ヘイトクライム)の対象ともなったのがこうした人々です。

イスラム教の特徴は、他の宗教と以下の点で大きく異なります。イスラム教徒の行為とは、単に宗教上の信仰生活のみを要求するだけでなく、イスラム国家の政治のあり方、教徒間や異教徒の間の社会関係にわたるすべてを定めていることです。このことからイスラム教は、教徒の信仰と社会生活のすべての側面を規定するともいえる宗教といわれます。

アメリカの文化 その2 「選ばれた民族」

アメリカの政治や経済に大きな影響を持つのがユダヤ系アメリカ人です。約600万人を数えます。ユダヤ人の生き様の歴史は紀元前に遡ることができます。時代を経て1800年代に起こったのが反ユダヤ主義(Antisemitism)です。ユダヤ教においては、ユダヤ民族が選民であると示します。ユダヤ人が神と特別な契約を結ぶ唯一の人々であり、その契約を守っていくことによって終末において救われるという考えです。この選民思想とは、旧約聖書の『出エジプト記』に登場する民族指導者モーセ(Moses)の戒律から生まれます。こうした教えにユダヤ人は従わなければならないことを指しています。自分たちの進むべき道が神より示されたのは、ユダヤ人に特別に与えられた恩寵であると解釈されています。この選民思想が後の迫害行為にもつながるといわれます。

東ヨーロッパやロシアで起こった迫害はポグロム(Pogrom)と呼ばれます。『屋根の上のヴァイオリン弾き』(Fiddler on the Roof)は、帝政ロシア領となった村に暮らすユダヤ教徒の生活を描いたものです。「牛乳屋テヴィエ」(Tevye)を原作としています。テヴィエ家族などユダヤ人に対して行なわれた集団的迫害行為が下敷きになっています。ちなみに「ポグロム」とはロシア語で「破滅させる、暴力たで破壊する」という意味です。

ユダヤ系アメリカ人は、大きく三種類に分けられます。 1900年代に中央ヨーロッパや東ヨーロッパから移民してきたユダヤ人は「アシュケナジム」(Ashkenazim)と呼ばれます。彼らの言語はイディッシュ語(Yiddish)として知られています。第二のユダヤ人は「セファルディム」(Sephardim)と呼ばれ、主に トルコや北アフリカ からやってきた人々です。セファルディムのユダヤ人は、スペイン語等を話していました。第三のユダヤ人は「ミズラヒム」(Mizrachim )と呼ばれ、イスラム教が多数派な中東のアラブ世界からアメリカにやってきたユダヤ人です。多くのユダヤ人コミュニティはその独自性を今なお保持しており、その宗教のみならず他のヨーロッパ系とは異なる文化を形成しています。

モーセの十戒は知られていますが、もう一つの律法による「口伝律法」があります。これは「タルムード」(Talmud)と呼ばれています。ヘブル語の原意は「学習」という意味です。タルムードの一つは「ハラハー」(Halakhah)と呼ばれ「歩き方」という意味ともなっています。古代から受け入れられてきた習慣や権威ある律法学者の判定が網羅されています。ユダヤ人の共同体成員の正しい「歩き方」を示しています。

アメリカの文化 その1 多言語、多文化の国

今回から「アメリカの文化」というテーマでいろいろな話題を提供してみます。とはいっても原稿は私の狭い経験によるものばかりです。

アメリカは英語を話す国というのは当たり前ですが、アメリカには法によって定められた公用語は存在しません。アメリカ国籍の90%以上が、英語を使用しており事実上の公用語となっています。ですからビジネスや学校では英語を使用しています。驚くなかれ、アメリカ国内では300種類以上の言語が使用されていると言われています。それだけにアメリカは多言語とか多民族国家の代表といえます。英語に続いて使われるのがスペイン語、フランス語、アラビア語、中国語などとなっています。

民族ですが、ドイツ系アメリカ人 (German American)が最も多くを占めています。ドイツ(Germany) およびオーストリア(Austria)、スイス(Switzerland) 、リヒテンシュタイン (Liechtenstein)、ルクセンブルク(Luxembourg)、アルザス=ロレーヌ(Alsace-Lorraine)などのドイツ語圏に住んでいた者やその国籍所持者、またはその子孫のことです。今でもドイツ語での礼拝が行われるほど、ドイツ人としての思い入れは深いといえます。

私がかつて住んでいたウィスコンシン(Wisconsin)のマディソン(Madison) には、ノルウェー人(Norwegian)を祖先に持つ者が住んでいます。現在、全米には450万人以上もいるといわれ、その55%が中西部のミネソタやウィスコンシンに住んでいます。ノルウェー人の北米への組織的な移住は1825年に始まります。その理由や、母国におけるクエーカー(Quaker)及びハウゲ運動(Haugean) に対する宗教弾圧から逃れてきたのです。最初に北米にやってきた人々のことを「ノルウェーのメイフラワー号」と呼ぶこともあります。ノルウェー系アメリカ人のコミュニティが各地にあり、母国の独立記念日を祝う集いを続けています。

旅のエピソード その52 「謝ることと保険」

以前、ニューメキシコ州(New Mexico)のアルバカーキ(Albuquerque)で、院生が運転中にマイルとキロを勘違いして捕まり、平謝りして許してもらったことを披露しました。この場合は、運転手の運転ミスでしたから、弁解の余地はありません。しかし、謝るという行為は、状況によって使い分けるのが大事だというのが今回の話題です。

例を挙げましょう。たまたま車の事故を起こしてしまったとしましょう。自分には9分、相手には1分の責任がある例です。車間距離をとらなかったために、前方車が急ブレーキをかけたために自分がバンパーにぶつけたという想定です。車間距離に関わることですから、双方に責任が生じてきます。

事故を起こしたとき、事故にであったときは保険会社に電話して解決してもらいます。自分が相手の運転手やパトカーの警官に謝ってはいけません。そうした行為は、「自分の非を認める」 ことであり、あとの補償にも響いてきます。保険会社も困るのです。

第三者である双方の保険会社が仲介するのが、事故を円滑に解決する最善の方法なのです。これが保険にはいる者が心得るべき車社会の鉄則です。オリンピック中止保険もあって然るべきですが、失業保険とか休業保険があるのですから、コロナ保険もあってよいでしょう。紛争保険とか戦争保険というのはどうでしょうか。

旅のエピソード  その51 サラダの注文とチップ

旅の楽しみはなんといっても夕食の時間です。一行の大学院生とで何を食べようか、どこの店に入ろうかと相談します。宿のフロントでいくつかの店を紹介してもらいます。宿の近くにはこじんまりとしたレストランがあるものです。さしずめファミリーレストランのような雰囲気です。いわゆる典型的なアメリカンフードを提供する店です。値段も安く安心して入れます。

アメリカンフードに定義はありません。西部にいきますとメキシコ料理、東部ではイタリア料理、南部ではフランス料理という具合に、多様な食文化が定着しています。共通しているグルメといえばサンドイッチとかハンバーガーでしょうか。サンドイッチは、トーストしたパンにたっぷりの具材を挟んだクラブハウスサンドが一般的です。3枚のパンを使い、具材を二段重ねにするのが主流で、崩れないよう上から爪楊枝などで留めるほど分厚いのが特徴です。ハンバーガーは、肉は牛肉100%と決まっています。あとは好みでチーズやレタスなどの野菜をのせて食べるのが一般的です。

次ぎにステーキです。アメリカのステーキは価格も手頃でカジュアルに食べられるお店が多いのが特徴です。観光客でも気軽にステーキを楽しめます。またアメリカの牛肉は脂質が少なく、日本の肉ほど胃もたれせずにすむのも特徴です。付け合わせにポテトや蒸し野菜をのせるでけでも十分なボリュームです。

さて、レストランでの一つのエピソードです。店に入るとウエイトレスがにこやかにやって来て席に案内してくれます。そしてやおら、メニューを一人ひとりに渡し、しばらくして注文をとりにやってきます。一緒の院生の一人は50歳くらいの方で、英語は苦手のようです。ウエイトレスは、「本日のお勧めは、、、、」といって説明してくれます。この説明は微に入り細に入りで、私でも全部を理解できないくらいです。この院生は「もう一度お願いします」と頼みます。ウエイトレスは、初めから詳細に説明してくれます。こちらの英語の理解力などは無視して、早口なのです。院生は再度「済みません、もう一度ゆっくりとお願いします」。

ウエイトレスは客に親切に対応しないと食事後のチップに響きますので、三回目の説明を始めます。そこで私の出番で通訳するとようやく注文ができます。前菜はサラダです。ドレッシングはなににするのかで、またまたちんぷんかんの対話となります。種類が多いのでなにがよいかがわからないのです。まさか「和風ドレッシング」というわけもいかず、知っていたイタリアン、フレンチということで落着します。ステーキの焼き具合には上手く対応できて、やれやれとなります。アメリカは「サラダボウル」とも形容されるほどです。

旅のエピソード その50 「モスクワの空港と税関」

イタリアへ始めて行ったときです。成田空港とローマ(Rome)の郊外にある国際空港、フィウミチーノ空港(Fiumicino) を往復しました。この空港は、イタリアのフラッグキャリアであるアリタリア航空(Alitalia)の本拠地です。しかし、私と家内は安い料金を選んだのでアエロフロート航空(Aeroflot)としました。成田からモスクワ(Moscow) のシェレメーチエヴォ国際空港(Sheremetyevo)、そしてローマのフィウミチーノ国際空港という航路です。この選択は間違ったことを後で知りました。

まずは、機内の飲み物と食事などです。ジュースは氷もなくぬるいのがきました。珈琲も熱くないのです。ビールは有料です。食事は可もなく不可もなくといったところです。フライトアテンダントは誠にぶっきらぼうです。

シェレメーチエヴォ空港では、ローマ行きへの乗り換えに2時間半ありました。珈琲を頼むと5ユーロ取られました。フィウミチーノ空港に着いたのは夜の9時頃です。そこには長男が迎えにきているはずです。しかし、持参した2つの大きな荷物が出て来ないのです。1時間あまりターンテーブルのところで待ちました。待つのを諦めて係員に翌朝に再度来るといって荷物を保管してもらうよう頼みました。その間90分くらいかかり、待ち合わせ場所にいくと長男はいません。タクシーで空港近くのホテルに行くと、すでに到着していた長男夫婦が 「待っても来ないので、明日来るのだろうと思った」 というのです。

翌朝空港に行くと家内のスーツケースが届いていましたが、わたしのは行方不明です。調べてもらうと、まだモスクワにあるというのです。一緒に来ていた孫に持ってきた土産が渡せません。荷物が届いたのは3日後のフィレンツェ(Florence)のホテルでした。

思い出深い中部イタリア旅行を楽しんだのですが、帰りローマからの経由地モスクワのシェレメーチエヴォ空港でまた嫌な思いをしました。購入したトスカーナワイン(Toscana Wine)の免税品証明書が袋から剥がれてないのです。税関の女性職員が、厳しい顔をして 「ワインをゴミ箱に捨てなさい」と、頑として持ち出しを許しません。再三懇願しましたが、結局没収となりました。税関職員があとでそのワインを楽しんで仕事の疲れを癒したはずです。

旅のエピソード その49 「北投温泉とカラオケ」

旅の楽しみは、地元の人としばし語らう体験です。国内でも海外でも同じです。今回は台北でのエピソードです。かつて沖縄にいたとき、台北と台中に旅行したことがあります。台湾は街が清潔だという印象を受けました。

どうしても1度は台北の郊外にある温泉に行ってみようということになりました。満員の電車に乗り、地図を見ながら連れ合いとでどこで降りて、どの温泉に入ろうかと立ち話していました。すると前の座席に坐っていたお年寄りが、「日本のどこからきましたか?」と声を掛けてきました。台北の小学校時代に日本語で授業を受けていた、というのです。懐かしそうに授業の様子を語ってくれました。その方の担任だった先生は練馬区に住んでいて、練馬では校長先生として活躍したのだそうです。この恩師を毎年台北に招待して、同窓会をやっていると嬉しそうに語っていました。こちらも思わず良い心持ちになりました。

温泉地は「北投(べいとう)」というところです。台北から電車で30分位です。電車を降りると硫黄の匂いが漂います。北海道の登別や箱根の温泉地に来たような気分になりました。しばらく歩くと、ラジカセをベンチにおいてカラオケを楽しむ一団に出くわしました。聞くとすべて美空ひばりの曲を歌っているとのこと。沢山のカセットを見せてくれるのです。まさか、美空ひばりの歌を聞くとは驚きでしたが、地元のお年寄りがいかに日本の歌謡曲に親しみ、人生を楽しんでいるかにも驚きました。

北投で温泉を発見したのはドイツ人といわれます。1895年の下関条約により台湾は日本に割譲され、日本の温泉文化が始まります。1896年に大阪出身の平田源吾により、北投に台湾初の温泉旅館「天狗庵」が建てられます。北投温泉の大きな特徴のひとつは、3種類の泉質のお湯を楽しめることです。白硫黄泉、青硫黄泉、そして鉄硫黄泉です。私ども夫婦が楽しんだところは公衆浴場の「瀧乃湯温泉」。創業は1907年頃で台湾最古クラスの公衆浴場とあります。強酸性のかなり熱い湯です。日本円で350円位です。

台湾人と日本人の共学制が採用された1929年で、初等教育において民族による区分が廃止され「日本語を常用する児童」が小学校で学びます。教育面でいいますと1943年では台湾の子どもの就学率71%とアジアでは日本に次ぐ高い水準に達していたといわれています。台湾における日本統治時代への評価は朝鮮に比べて肯定的で、特に日本統治時代を経験した世代の人々は、その時代を懐かしみ評価する人々も多いようです。

旅のエピソード その48 「ジョージアからウィスコンシンへ」

U-Hallに10個位のスーツケースを載せてウィスコンシンへ向かう途中のエピソードです。車はGM製のシボレーマリブ(Chevrolet Malibu)という中型の中古車です。ジョージア(Georgia) にいた元宣教師さんから譲り受けました。中型のセダンといっても日本では大型車のようにゆったりしています。長距離運転にはたいそう楽です。

インターステイト(Interstate) という州を結ぶ高速道路を走り、テネシー州(Tennessee)やケンタッキー州(Kentucky) の景色も楽しみました。インディアナ州(Indiana) に入ったとき、車の調子がおかしくなりました。高速道路から外れて、小さな街に入りそこのサービスステーションで具合を調べてもらいました。トランスミッションの部品を交換する必要があるというのです。部品を取り寄せるので、修理は翌日となるとの見立てです。街にはモーテルはありません。

仕方なく従業員に頼んで持参していたテントを駐車場に張らせてもらいました。そこで野宿となりました。クーラーに詰めてあった食糧や飲み物で夕食をとっていると、不審者だと思ったのかパトカーがやってきて、「どうしたのか」と尋ねるのです。事情を説明すると「気をつけなさい」 という言葉です。日本人の家族がテントを張っているのは、この街では始めてではなかったでしょうか。

この経験から学んだことは、サービスステーションは給油だけでなく、車も修理をする所だということでした。従業員は車のことを熟知しているのです。このマリブは20万マイルも走って大分疲れていたようでした。32万キロという距離です。後に車輪のベアリングが摩滅して動かなくなったり、バッテリーが破損するなどのトラブルに見舞われました。アメリカで最初に乗った車でしたので、自分でも見よう見まねで簡単な修理をしました。エンジンオイル、トランスミッションオイル、スパークプラグなどの交換、ラジエーター液やフィルターの交換などの作業です。450ドルで手放すときは少々しんみりしたものです。

旅のエピソード その47 「U-Hall」

U-Hall。ユーホールと発音するこの単語は、登録商標でもあります。引越の際は、車で引っ張るトレーラーに家財道具を積んで目的地に向かいます。このトレーラーの代名詞がU-Hallです。移動が好きなアメリカ人にはU-Hallは馴染みのものです。

U-Hallの大きさは様々です。今もU-Hallをとりつける連結器がついた大型のセダンを見かけます。田舎を走るピックアップトラックには必ずといってよいほどついています。U-Hallの事務所は小さな街にも必ずあります。このトレーラーを借りて自分で引っ越しするのです。そういえば専門の引越業者のようなものはアメリカには珍しいのです。U-Hallには車の電源から流れて点滅するテールランプが付いています。

大型のU-Hallは自分で運転して家財を運びます。このとき、大型U-Hallに自分の車を取り付けて移動するのをよく見かけます。運転手が一人ですむという案配です。U-Hallをつけてバックするときは少し経験が必要です。駐車するとき、ハンドルを右に切るとU-Hallは左側に回ります。ハンドルとは逆にU-Hallは回るのです。慣れると面白いように操作できます。引越の途中はもちろんモーテルを利用します。移動や引越にU-Hallは切っても切り離せません。自分のことは自分でやる(Do It Yourself: DIY)という考えがU-Hallの発展にみられます。

旅のエピソード その46 「ニシンと窓口のイチゴ」

私が10歳のときです。「ヘルシンキ・オリンピック」(Helsinki)の様子がラジオや新聞で報道されていました。1952年に開かれた第15回オリンピックです。日本にとっては、敗戦から立ち直りつつある時代です。ヘルシンキはフィンランド(Finland) の首都です。フィンランドのフィンランド語での正式名称はスオミ(Suomi)。語源は「湿地」を意味する「suomaa」です。フィンランドは湖や森に覆われているのでこの語源も頷けます。

このオリンピックでは石井庄八という選手が、レスリングのフリースタイルバンタム級にて戦後初の金メダルをとります。このときの報道はすごかったのを覚えています。もう一つ、当時のチェコスロバキア(Ceskoslovensko)のエミール・ザトペック(Emile Zatopek)という選手が陸上競技で3つの金メダルをとります。その頃、彼は「人間機関車」と呼ばれていました。

私にとっては、ヨーロッパを知ったきっかけはこのオリンピックであり、ザトペックであり、ヘルシンキなのです。どこの街よりも思い出に残る地名です。そして、1995年頃学会の発表でこの街を訪れることになりました。ダウンタウンにある小さなホテルを宿にしました。丁度7月で白夜でした。午後11時になっても、外では若者がサッカーをするのが見えました。

宿の朝食にはニシンのマリネが並んでいます。稚内の生活時代、ニシンは飽きるほど食べていましたが、その後ニシンはぷっつりと獲れなくなり、長い間食べていませんでした。懐かしくて毎食マリネをたらふくいただきました。

ヘルシンキでは学校や障害者施設を訪ねました。どこへ行っても受付のカウンターにはイチゴがバスケットに盛られています。もちろん訪問者をもてなすためです。市場では山のように並べられたイチゴが売られています。イチゴがこんなに採れるものとは知りませんでした。フィンランドの豊かさの一端を味わったときです。今や通信設備メーカーのノキア (Nokia)や航空会社のフィンエア(Finnair)が国の代名詞になっているようですが、豊かな教育や福祉の水準もそれに劣りません。この国の豊かさは、バスケットに盛られたイチゴにあるのではないかと感じるくらいです。

旅のエピソード その45 「ロンドンの駅にて」

ロンドン中心部の少し北にユーストン(Euston)という主要な鉄道駅があります。ロンドンで6番目に乗降客数が多いといわれるターミナル駅です。この駅は、ロンドンからウェスト・ミッドランド(West Midland)、ウェールズ(Wales)、そしてスコットランド(Scotland) への向かう際の玄関口です。別名、頭端式ホームといわれるように発着駅であり終着駅です。「東京駅」とは違い「ロンドン駅」というのはありません。ロンドン駅グループの一つがユーストン駅です。この駅には16のトラックがあります。

ユーストンからバーミンガム(Birmingham) へ向かうときです。バーミンガム市の小学校を見学にいくことになっていました。そこで案内してくれるのはバーミンガム大学(University of Birmingham)の先生です。バーミンガムは人口100万人ほどの工業都市です。首都ロンドンに次ぐ第2の大都市です。最初の蒸気機関を発明したジェームズ・ワット(James Watt)の出身地です。

ユーストン駅には切符売り場があちこちにあります。鉄道会社がいくつかあるからです。運賃は乗り降りする時間帯によって違います。ラッシュアワーが最も値段が高く設定されています。切符を購入して目指す電車に乗ろうとして改札口へいきますと、大勢の乗客が出発時刻表を眺めています。皆、自分が乗る電車がどのホームに入ってくるかを注目しているのです。ようやくホームの番号がでると、人々は小走りにホームに向かいます。もちろん座る席を確保するためです。我々はグリーン車に近い切符を買っていたのでゆっくりと歩きだしました。

乗りたい電車が何番ホームに入るかは、出発直前になるとわかることを始めて経験しました。通常、どのホームからはどの路線の電車がでる、という習慣で育ってきたからです。しかし、空いているホームに電車が入って出て行くという合理的な考えに納得したものです。

旅のエピソード その44 「天井画から考えたこと」

人間が創造したものとは思われない絵画、彫刻、建物を目の前にして、くらくらするような体験をしました。茫然自失というのはこうした状態なのか、と思いました。ヴァティカン美術館 (Musei Vaticani) のシスティーナ礼拝堂(Sistine Chapel)での出来事です。まさに神がかりとしかいいようがない作品で一杯です。一体、なぜ、どのようにして、人間はこのような造形物を思いついたのか。床に座ってじっと30メートルは続くような天井画を眺めます。いつまでも飽きない時間が過ぎます。そして自問自答をしました。

「自分が絵画に惹きつけられるのでなく、絵画が自分を惹きつける」。天井画の画家は、不自然な姿や格好で何年も何年も描き続けたにちがいない。横に寝そべって描いたのではないだろうか。パレットの絵具を筆につけ、頭を持ち上げる、絵を描く、それを繰り返し繰り返しやったのだろう。いや、もしかしたら地上でパネルに描いてそれを組み合わせて完成させ、それを天井に張り付けたのかもしれない。しかし、天井画のどこを眺めても張り合わせたような痕跡は見つからない。とすれば、やはり寝そべって完成させたのか。

もう一つの憶測。それは大勢の画家が分業して完成させたのかもしれないということだ。ある画家は女性だけを描き、他の者は男性だけを描き、別な者は静物などの背景を描く。そうすれば絵全体の調和はとれるはずだ。しかし画家はそんなことをするだろうか。一人の画家が一つの作品を作るのが普通だろう。一つの絵画に複数の画家の名が並ぶ話はきいたことがない。だが、天井画には画家の名前は見あたらない。もしかして、画家は誰にも見えない箇所に、しかも小さな文字で「Michelangelo」と書き残したのかもしれない。自分の命は絶えても、誰もが名前を残したくなるものだから。
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旅のエピソード その43  「シカゴ美術館で知人とばったり」

2010年秋に横浜美術館でドガ展(Edgar Degas)が開催されました。ドガで思い出すのは、娘たちとパリのオルセー美術館(Muse’e du Orsay)、ロンドンのテート美術館(Tate Britain)を訪れたとき、そしてシカゴ美術館(The Art Institute of Chicago)に立ち寄ったときです。それまでは絵画の鑑賞にはあまり興味が無かったのですが、だんだん美術館に惹かれるようになりました。ですが私には絵の鑑賞眼などは未だにありません。

シカゴのダウンタウン、ミシガン通り(Michigan Avenue)にシカゴ美術館があります。隣は美しいグランドパーク(Grand Park)があり、その東にミシガン湖(Lake Michigan) が広がります。そこから少し南に下がるとシカゴ・ベアーズ(Chicago Bears)の本拠地ソルジャー・フィールド(Soldier Field)があります。

ネットでこの美術館を訪ねると、印象派作品が充実しているとあります。モネ(Claude Monet) の「睡蓮」連作は大きさも種類も充実しています。ゴーギャン(Eugene Gauguin)、セザンヌ(Paul Cezanne)、ルノワール(Pierre-Auguste Renoir) などの作品が多いようです。シカゴ美術館は全米の3大美術館の一つといわれます。ニューヨークのメトロポリタン美術館(Metropolitan Museum of Art)、そしてボストン美術館(Museum of Fine Arts, Boston)です。アメリカの美術館には、日本から購入した多くの古典作品が所蔵されています。残念ながら明治時代に日本から流失したものです。

ドガは、印象派の画家といわれています。アトリエの中で制作した裸婦像や家族などの作品から、劇場の舞台の踊り子や歌い手、パリの町中の人々、田舎で描いた馬など親しみのある作品で知られています。それぞれの一瞬の動きを切り取っています。日本人に好まれる印象派の特徴である明るく詩情あふれる世界がカンバスに展開しています。

シカゴの郊外で長男の結婚式があり、その帰りにシカゴ美術館を訪ねたくなりました。看板では、毎週木曜日の午後5時以降は入場無料と書いてあります。通常は18ドルですから、なかなかのサービスではあります。ドガ展を観てからショップでドガのポスターを3枚購入しました。よく知られる踊り子や女性像などのものでした。ふと目を上げると、かって飯田橋のルーテル教会で一緒に活動した家族が居るではありませんか。お互いにぽかんとしてしばし見つめ合い、そして「ヤア、ヤア、、」です。そして、「ポール、こんなところで会うなんて、、、」、「シーボ、元気か、、」とお互いの名前がすぐ浮かんできました。

旅のエピソード その42 「空が広い」

旅の楽しみ一つは景色と空気です。特に田舎へ行くと景色とともにその薫りも漂ってきます。今回はイタリア中部の話題です。周りをぐるりと見渡すと日本の景色と違うことに気がつきます。空が違うのです。どこへ行っても空は同じはずです。しかしどこか広いのです。

車で田舎道を走るとなだらかな丘陵にぶどう畑とオリーブ畑が見渡せます。その間に背の高い松が並んで植えられています。「これがローマの松(Pini di Roma)か」とブツブツつぶやきながら、「さて”ローマの松”の作曲家は誰だったっけ、、」 それを考えるのですがなかなか思い浮かびません。1時間くらいでようやく思い出します。レスピーギ(Ottorino Respighi) です。

イタリア中部のオルヴィエート (Orvieto) やサン・ジミニャーノ( San Gimignano) は城塞に囲まれた街です。教会の尖塔に混じって四角な塔のような建物が林立しています。大勢の観光客とともに大きな門をくぐると、「中世ってこんなところだったのか」という思いがこみあげてきます。狭い道と石畳、石造りの建物がぎっしり並んでいます。ところどころの窓際に洗濯ロープが向かいの建物の窓にむすばれ、洗濯物がぶら下がっています。花のポットもつり下げられています。時間がゆったりと流れるような風情です。

中世では明かりをオリーブ油でとっていたことがわかります。今も街には電柱は一本もないのです。この街には電気はきているのか、そんなことを考えながら小高い丘のてっぺんから緑のしたたる景色をぼんやりと眺めます。不思議ですが、どこを見渡しても高圧線や電信柱はないのです。空が広く感じたのはそのせいです。昔から下水道が発達していたので、電線は地下を走っているのです。

旅のエピソード その41 琉球と風疹の流行

幼児教育を始めるようにとの指示で、私が沖縄に派遣されたのは本土復帰の2年前の1970年でした。まだ、パスポートと予防接種が義務づけられていました。沖縄が琉球と呼ばれていた頃です。

琉球にやって来て知ったことの一つに「風疹 (rubella)」が流行り、聴覚障害の子どもが多く生まれていたことでした。私はそれまで免疫のない妊娠初期の女性が風疹にかかると、聴覚や視覚に障害のある子どもが生まれることは知りませんでした。

風疹は「先天性風疹症候群」という長い名前ですが、「3日ばしか」とも呼ばれています。私も小さい時に「3日ばしか」にかかったことを親から教えてもらいました。今は1歳の時と小学校に入学する前年度の2回、ワクチン予防接種を受けることが決められています。

琉球で風疹が大流行したのは1965年です。続々と聴覚障害の子どもが生まれ、1968年は沖縄小児科専門医会と那覇保健所が九州大学との協力で風疹の発生調査をします。すると琉球本島と石垣島、西表島で282人の子どもになんらかの聴覚障害があることをつきとめます。琉球政府は日本政府に援助を要請し、1969 年より日本と琉球政府による調査・医療・教育対策が開始されます。風疹によると思われる疑いのある子どもの実態調査の結果、出生数の2%にあたる408人が聴覚障害と診断されます。その後、難聴および白内障、そして心臓疾患が風疹による三大症状であることが明らかになります。

風疹の被害が世の中に知られるのようになったのは、「風疹による聴覚障害児を持つ親の会」が結成されてからです。1969年には沖縄県内各地に風疹難聴学級として幼稚部学級が開設されます。本土復帰後、沖縄県は当時の風疹障害児のための学校を新設することを計画します。さらに、風疹障害児のために独立した学校を新設することを計画し、1978年に沖縄県立北城ろう学校、分校である宮古分校、八重山分校を設立します。1984年3月に全生徒が北城ろう学校を卒業し当校は役目を終えて、今は沖縄県立沖縄ろう学校となっています。

北城ろう学校は甲子園とのつながりがあります。高校野球にあこがれる生徒が困難を乗り越え硬式野球部を作り、甲子園を目指します。ところが、都道府県の高等学校野球連盟に加入できなかった北城ろう学校は、甲子園への道を阻まれるのです。これを取り上げた映画が「遥かなる甲子園–聴こえぬ球音に賭けた16人」です。高校野球に熱い夢を賭ける生徒と教師の姿を描いています。

旅のエピソード その40 「成熟と運転」

だんだん齢を重ねるにつれ、周りから「車の運転に注意しなさい」と言われるようになります。おまけに、「免許証を返上しては」というお節介が入ります。記憶が少しずつ衰え、反射神経と動作が鈍くなるからでしょう。しかし、運転技能というのは若いときの運転と比べて上達するということを言いたいのです。それはどういうことかといいますと、運転というのは単なる車の操作技能だけではないということです。

多くの車の事故はスピードの出し過ぎ、脇見運転などの不注意によるものです。運転中の事故は24歳までの初心者ドライバーに多いことも報告されています。運転手はたいがい、自分の車の空間が外界とは隔離した自由な世界だという錯覚に陥りがちなのです。ですから、運転中の車線の変更などで、周りからみていると危なかしく、まるで傍若無人のような追い越しをするのです。実に迷惑このうえない運転です。

An positive older woman sitting in a car showing a thumbs up

アメリカには、高齢者のドライバー用のクローバーマークやシルバーマークなどはありません。運転する時、前方の車両の動作を見ながら「あの運転手はお年寄りだな、」と感じ、余り側に寄らないとか、ゆっくりついていくという運転をします。それと、サイドミラーやリアミラーを頻繁にみながら、状況を把握するように努めるのです。

サイドミラーとリアミラーに後ろの車全体が写ったときは、車間距離をとっている状態です。このとき、車線変更をするのです。これはマナーというよりも安全運転の大事な原則です。アメリカで免許をとるとき、このことをきちんと教えられました。若いときにくらべて、危機を予測できるという成熟による智恵がついています。私は自分の運転は若いときに比べて格段に向上していることを断言できます。

旅のエピソード その39 「車がスピンした朝」

ウィスコンシンの2月は真冬の真っ盛りです。高速道路を運転していたときです。路面が凍結している時間帯でした。アメリカの高速道路は、大きく分ければインターステイト (Interstate) とUSハイウエイ(US Highway) の二種類があります。USハイウエイは、通常四車線で広い中央分離帯があります。

速度は40マイルですから60キロを少し超えた程度です。突然車がスピンしてブレーキが効かなくなりました。強く踏みすぎたためです。そのときスピンした方向とは逆にハンドルを回した記憶があります。路上で一回転してようやく停まりました。幸い前後に車はありません。心臓が止まるほどの経験です。気持ちを切り替えてゆっくりと車を回転し、その場を離れることができました。

こうした冬の運転の反省ですが、第一は冬の路上は凍結していることを忘れないことです。道路管理局は、夜中に砂と塩化カルシウムの混じった融雪剤を散布します。それでも体感温度(Wind Chill)が低くなって路上が凍結するのです。

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This image provided by the Iowa Transportation Department from a traffic camera shows a massive pileup on Interstate 80, west of Newton, Iowa. A snowy section of Interstate 80 was closed Thursday afternoon in central Iowa, after the massive crash involving roughly 40 vehicles. Iowa authorities closed the eastbound lanes of the interstate west of Newton after the chain-reaction crash
Interstate Pileup Iowa, Newton, United States – 04 Feb 2021

第二は制限速度より20%下げて運転することです。スピードの出し過ぎほど怖いものはありません。スノータイヤでも凍結している路上ではどうにもならないのです。

第三はブレーキをこまめに踏むことです。これによって滑りを防ぐとともに、ブレーキランプで後方車に自分の位置や車間距離を知らせるのです。

Cross-country skier skiing along snowy 1st Avenue in downtown Seattle, Washington State, USA, Seattle_Snowfall-36

第四は昼間でもライトをつけて走ることです。バッテリーは走行中に充電されるので、節約する必要は全くありません。夜、交差点でライトを消す習慣はアメリカにはありません。車社会のアメリカから今も学ぶべきことは沢山あります。

旅のエピソード その37 「ドルの話 その二 100ドル札」

那覇東ローターリークラブの国吉昇氏は、私をロータリーインターナショナルの奨学生に推薦してくれました。そのお陰で約1万ドルの奨学金を貰うことができました。1977年頃ですから200万円くらいです。それと共に嘉手納基地の米軍将校夫人クラブからも1,700ドルの奨学金が提供されました。これにはルーテル教会の宣教師が仲立ちしてくれました。勉強してから沖縄の幼児教育に寄与することが期待されたようです。お陰で1978年に家族を連れてアメリカに向かうことになりました。

この頃になると、為替レートは円高へと進みました。沖縄の物価はどんどん上がっていきました。復帰前にフィレ(Filet Mignon) の部厚いステーキが4〜5ドルくらいで、1,300円くらいでしょうか。復帰後はあっというまに2,000円、3,000円へ値上がりしていきました。沖縄の人は長い間ドルで生活していたので、所持していた相当のドル預金が目減りしたのです。それを回避しようとして物価が急に上昇したのです。住んでいたアパートの家賃も2倍に上がりました。

沖縄の人々は、「本土復帰とは一体なんだったのか」という疑問を投げかけ始めました。しかし時既に遅しです。復帰によって本土からさまざまな人と物、法律や組織が入ってきました。中央省庁から役人がやってきて、沖縄は完全に本土並となりました。国家権力がいかに凄いか、恐ろしいかを思い知ったといわれました。

ドルの話の続きですが、国吉氏は私の渡米を前に100ドルの餞別をくださいました。始めて見る100ドル札でした。アメリカに行きまして、あるとき買い物の際にこの札を女性のキャッシアに渡すと、彼女はそれを事務所へ持っていきました。100ドル札を見たことがないのか、偽札を心配したのかです。通常買い物で100ドル札を出す人は全くいません。皆小切手を使います。大学の授業料を支払うときも現金は受け付けません。わたしの現金と小切手の見方が変わった出来事といえます。

旅のエピソード その36 「ドルの話 その一 1ドルが360円」

始めて沖縄に行ったのは本土復帰の2年前、1970年です。那覇市内で幼児教育の一環として幼稚園を開設する仕事を命じられました。まだパスポートと予防注射が必要なときでした。1ドルが360円のときです。

当時琉球政府のお役人とで、幼稚園作りのためになんども打ち合わせをやりました。幸い、幼児教育の必要性が高い沖縄でしたので、設置基準を満たさないことに目をつむってくれ、設置にこぎ着けることができました。1972年に本土復帰を果たし、1ドルが300円となりました。

園児を募集すると障害のある二人の幼児がやってきました。この幼児を担当するのが私の仕事ともなりました。みよう見真似で懸命に指導したのですが、やがてもっと障害児教育を学ぶ必要を感じてきました。ひよんなことで、ロータリーインターナショナル(Rotary International) という国際組織が、障害児教育の勉強で奨学金を出していることを知りました。ロータリーの会員はロータリアンと呼ばれます。ロータリアンは、それぞれの地域社会および世界社会において、人々の生活の向上を計るためにボランティアとして奉仕することを求められています。

沖縄には1966年に設立された那覇東ローターリークラブがありました。そこでの奨学金を担当している国吉昇氏と出会いました。この方は、沖縄戦のときまで沖縄地方気象台に勤務されていて、気象情報を軍に提供するという仕事をされていました。九死に一生を得たご体験の持ち主です。ロータリアンとして50年以上も毎週の例会に欠かさず出席する熱心な会員でした。今は、那覇市内の高齢者施設で暮らしています。2020年1月に国吉氏を訪ねることが出来ました。コロナ感染が広まる前でした。

旅のエピソード その35 「教育委員会の金曜日の午後」

旅には食べること、飲むことにまつわるエピソードが多いようです。旅先で1日中調査をしながら歩き回わるとおなかはペコペコになります。なにを食べようか、これがその日のご褒美です。特に夕食の楽しみは格別です。

同行した京都の校長先生とでシカゴ・オヘア空港側にある教育委員会で教育長にインタビュをしました。それが終わって地元の学校に案内されました。どの学校も自分たちのカリキュラムはいかに優れているかを自信たっぷりに語ります。自分たちはNO1だといってはばからないのがアメリカの校長です。その点、日本の校長は自分の学校が他の学校に比べて優れているなどと言わないのとは対照的です。

昼食時になり、教育長は近くのレストランに連れていってくれました。そこには、12名くらいの部下や管理職の教員が待っていました。ワインも飲んでいます。昼間からワインを飲むのは決して珍しいことではありません。午後の仕事に差し障りがあるのではと心配するのが日本人のサガのようなものです。

昼食が終わったのが午後2時過ぎ。その日は金曜日でした。気分はすでに週末の休暇が始まっています。”Thank God, it is Friday:TGIF”(神様、ようやく楽しみな金曜日がきました)という台詞があります。アメリカ人の間で金曜日に使われるフレーズです。それにしてもゆとりのある教育委員会の面々だな、と感心しました。管理職はいかに平日は懸命に働くかということを示すエピソードです。

旅のエピソード その34 「楓と中禅寺湖」

立春が過ぎたばかりなのに、楓の話をするのは少々気が引けます。紅葉はまだまだ先の話ですが、今回はこれを話題とします。ただぶらぶら歩いたり山歩きの好きなわたしには紅葉がたまりません。今まで訪れたことのある京都の東福寺、友人に案内してもらった滋賀県の永源寺、和歌山県の高野山、そして地元高尾山、、。国中が紅葉に包まれるのが日本です。

以前の職場にミネソタ大学(University of Minnesota-Twin Campus)から3名の教授を招いたときです。障害児教育のセミナーを開き、それが終わってから日光に案内しました。もちろん中禅寺湖にも足を伸ばしました。丁度紅葉が盛りなので、遊覧船で沖にでました。実に繊細な紅色が小さめの楓の葉に広がるのが日本の紅葉の特徴です。標高2,500m位の男体山を背景に湖面に映る真っ赤な楓に、さすがのミネソタの客人も感嘆していました。

ミネソタは中西部の北、カナダに面します。中西部の秋は短く冬の足音がかけっこのようにやってきます。ウイスコンシン、イリノイなどもそうです。中西部の紅葉は、日本のそれとは趣が異なります。大地一面が黄色がかった紅に染まるのです。その理由は、カナディアンメープル(Canadian maple)の葉は日本の楓と違い大きいのです。

冬を前に紅葉はあっという間にやってきます。紅葉がひときわ鮮明なのはカナディアンメープルです。カナダ国旗の中央に楓の葉があしらわれています。年に1度だけ、この自然からの贈り物を楽しまない手はありません。大自然に抱かれるような気持ちに浸りながら心ゆくまで歩く。こんな贅沢を楓は運んできてくれます。

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