文化を考える その9 見捨てられた人々 その2 棄民

戦後、外地に取り残された人々は「棄民」と呼ばれた。成田家はすべての財産を失い「引揚げ者」、あるいは「引揚げ民」として北海道の稚内に上陸した。筆者3歳の時である。親戚の反対をよそに移住したのが樺太であった。そのような経緯で引揚げというのは、親戚に顔を会わせにくいという心情があったようだ。

満蒙開拓団のことに戻る。もともと開拓団は関東軍の保護の元に開拓に従事するはずであった。しかし、ソ連の参戦によって残りの兵隊や関係者はいち早く満鉄を利用し、ハルビンや長春、大連などへ撤退し始めた。置き去りにされた開拓団は自力で逃避行をせざるを得なくなった。開拓団の逃避行の有様は、いろいろな手記に残されている。山崎豊子の小説「大地の子」にも記述されている。

棄民は満蒙開拓団だけでない。戦前、ブラジル、メキシコ、ドミニカなどの中南米諸国へ移民した人々もそうだ。移民の募集要項を信じて、親族の反対を押し切って一切の財産を処分し、こうした国々に移住していった。ところが、入植地としてあてがわれのは、未耕地で開墾作業から始めたという。多くの者は開拓を断念し帰国したが、もはや安住の場所は少なかった。

戦後、全国各地の農村で「引揚者村」と呼ばれた移住用集落がつくられた。割り当てられた所は痩せた土地が多かった。千葉県成田市の三里塚にも引揚げ者村がつくられた。元満蒙開拓団員も三里塚にやってきた。1966年、佐藤内閣は閣議で成田空港の建設地として三里塚、芝山地区を決定する。国の土地強制収容に反対する三里塚闘争が始まる。国策で欺された元満蒙開拓団員は「怨念」のプラッカードを掲げ、長い闘争に参加した。

女性も国策によって看護婦として満州に送られ、中にはシベリア抑留を強いられた。ソ連兵に連れ去られ暴行された者もいた。そのドキュメンタリーが数日前に放映された。やがて故郷へのダモイー帰還がやってくる。だが抑留という過去の経験を親戚や知人が嫌がるのではないかと思い巡らし、帰国はつらいものとなったようだ。誰も尋ねない誰にも語れない、深い傷を背負った帰還となった。

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文化を考える その8 見捨てられた人々 その1 満蒙開拓民

当たり前だが、不思議なことにまた8月15日がやってきた。筆者がいつも思い起こすのは「国策としての移民」、そして「棄民」という言葉だ。私の親たちは敗戦の日、樺太と満州にいた。幸い帰国を果たしたのだが、兄弟がシベリアに抑留され、かれこれ1955年頃に外務省から死亡通知書が届いた。父は半信半疑だった。死亡地はクラスノヤルスクとあった。恐らく金鉱山で働いたか、水力発電所の建設に従事したようだ。

悲惨だったのは、国策によって満州に向かった「満蒙開拓民」の農業従事者と家族である。開拓団とか移民団と呼ばれたが、実は対ロシア防衛を目的とした「満州開拓武装移民団」であった。彼らは満州への出発前に簡単な軍事教練を受けた。

開拓団の人々は25万人とも30万人ともされる。20の都道府県から約300の開拓団が組織されたという。その中には地縁と血縁でつくられ、集落全員で組織されたのもある。最も開拓民が多かったのが長野県であった。1932年から満州への入植が始まった。割り当てられた所は今の満州吉林省である。

戦局の悪化により、満州に駐屯していた関東軍は南方へ移動する。こうしたなか、兵力を補うために14歳から17歳までの男子が青少年義勇兵として訓練を受け、開拓民団に配属された。武装農民であった。満州の邦人女性も看護婦見習いになる訓練のために赤紙を受けとる。

1945年8月9日、ソ連が日本に参戦し開拓民の大半はソ連との国境付近に取り残され、年寄りや老人は置き去りという長い辛い逃避行が始まる。助かった者の多くは抑留される。

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文化を考える その7 Cultural Studies

聞き慣れない研究の分野に「Cultural Studies」というのがあるのを最近知った。「地域へと広まっていった、文化一般に関する学問研究の潮流を指している。」とある。ハイカルチャーだけでなくサブカルチャー(大衆文化)の研究を重視するようだ。

サブカルチャーという用語を最初に使ったのはアメリカの社会学者のデイヴィッド・リースマン(David Riesman)である。彼は「孤独な大衆」(The Lonely Crowd)という著作を書き、その中で社会的性格は伝統指向型から内部指向型とか他人指向型へと変化すると論じている。リースマンは、伝統指向型の社会的性格は、はっきりと慣習が伝統によって体系化されているため、恥に対する恐れによって人々の行動は動機付けられると考える。

さらにリースマン曰く。内部指向型や他人指向型の社会的性格では、人は行動の規範よりもマスメディアを通じて、他人の動向に注意を払う。彼らは恥や罪という道徳的な観念ではなく不安とか寂しさによって動機付けられるのだと。大衆文化とはこのようにして広まるという。この考えは仮説だろうと察するが、一考に値する。

ハイカルチャーを享受するには相応の教養や金と時間が必要であった。だが、大衆が実力を持つのが20世紀。大衆社会においては、高等教育を受けた人々が増加し、ハイカルチャーも一般に楽しめれるようになる。絵画であれば、美術館に足を運ばなくとも美術書やパンフレットなどで見られる。音楽も演奏会に行かなくともラジオ・レコード・テレビで気軽に楽しむことができるように変容していった。今は電子媒体で安価で広汎に普及している。現代は、いわばハイカルチャーの大衆文化時代といえる。要は、Cultural Studiesとは以上の現象をもっと掘り下げて”難しく”研究する分野のようだ。

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文化を考える その6 文化の日のエピソード

誰かが「自分は異邦人であり、よそ者であるという視点から物事を見つめることが大事だ」といっている。この稿を書きながらこの指摘を考えている。アルベール・カミュ(Albert Camus)の小説に「異邦人」というのがあるが、こちらは「明晰な理性を保ったまま世界に対峙するときに現れる不合理性」(Wikipedia)というように、文化の話題からすこしそれる。だがなぜか「異邦人」という言葉に惹かれる。

ルース・ベネディクト(Ruth Benedict)の文化観が我々にとって身近になるような気がする。それは、共同体それぞれ文化に基準があり、他の価値や伝統からでは意味を理解することが困難だ、ということである。日本人論とか日本文化ということが内外の識者によって語られるのを読むことがある。そこでの文化のとらえ方は、「日本人」とか「日本文化」でくくられる狭い意味の文化論ではなく、生活や環境全体を意識しながら重層的にとらえる見方である。徹底的にエスノセントリズム(ethnocentrism)という自文化中心主義を排除していることでもある。

先日、孫娘や娘婿らと会話しながら、日本とアメリカの公的祝日について話題となった。建国記念日や天皇誕生日、憲法記念日などは彼らには納得できる。だが、日本には成人の日、春分の日、秋分の日が祝日になっていること、みどりの日、文化の日などがあることに興味を示した。

筆者が特に説明に窮したのは文化の日の意義である。「日本の文化を大事にすること、学問に励むこと、ノーベル賞をもらった人々に勲章を与える」などと説明したのだが、得心する顔ではなかった。これではいかんと思い調べると、もともとの文化の日の制定は、明治天皇誕生日である1852年11月3日に由来するというのだ。確かに、戦後しばらくの間、両親らがこの日を「天長節」と呼んでいた。明治天皇は国民にとって偉大な存在だったようである。

みどりの日、昭和の日などを天皇の誕生日を記念する日であることも説明した。すると娘婿が、「日本は新しい天皇が生まれるたびに祝日が増えるのか?」と誠にこちらを困らせる質問をしてきた。

Meiji_tenno1 文化の日

文化を考える その5 サブカルチャーの回帰

サブカルチャーのメインカルチャーへの挑戦は至るところに現象として現れた。当然のように文化と考えられた歴史とか古典に対する強い関心と畏敬は、サブカルチャー(大衆文化)の側からすると一種の審美的文化観とされて、時に「マニア」、「おたく」といった独特な行動様式として揶揄することもある。しかし、おたくの本人は「伊達や酔狂」と自負するようなところがあって、むしろ孤高のような存在感を楽しむようなところもあるようだ。

サブとメインの境界が曖昧になったということは、その逆転現象がうまれてきたということでもある。例えば、活字文化は今もそうかもしれないが、メインカルチャーの旗頭であった。だが、なにもかも電子媒体としてメディア界に急速に広がるのが現在。書籍の売り上げた伸びないのは、電子媒体の流通と普及があるともいわれる。多くの書類、卒業論文、研究論文は電子媒体で提出しなければならない。悔しいことだが、手書きの論文は受け付けてくれない。

「子どもたちは夏目漱石や森鴎外を読まないのではない。読めないのだ」ともいわれる。漢字能力の低下が一因だというのである。手書きできない。それで電子辞書を使い携帯電話サイトから「ケータイ小説」をつくる。「書く」のではない。漢字が書けなくても小説が書けるという時代になった。「話し言葉が中心なので親近感があり、一文一文が短く読みやすい」という新しい文化観もそこにある。

技術革新に伴う諸々の変化は、もはや後戻りができない。革新が続くだけだ。だが、電子媒体にも寿命がある。記録したデータを保持できる期間は有限である。読み込みの処理がなくとも経年により媒体は劣化していく。そしてデータが読めなくなったり消失したりする。自分もその苦い経験はある。もっとも機械的な寿命の問題だったが、。

活字文化がサブカルチャーか、メインカルチャーかという議論はすまい。だが分かっていることは、サブとメインの逆転、そのまた逆転も起きうることである。今や「アングラ」も「ヌーヴェルヴァーグ」もという表現も目にすることはない。文化の論争は意味がなくなっているからだろう。

活字文化プロジェクトが各地で盛んになり、活字文化推進会議とか活字文化推進機構もできた。電子媒体文化とのせめぎ合いのようだが、両者が共存することも文化ではないかと思うのである。

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文化を考える その4 サブカルチャーの台頭

1960年代のサブカルチャーを誘因する大きなきっかけとなったのは、ベトナム戦争である。既成の体制やハイカルチャーに対して主として若者が怒りだす。主流の文化であるメインカルチャーの地位が揺るぎ出すのである。それまでサブカルチャーとして卑下されがちであった現象が次第に認知されていく。このことはメインとサブの境界を曖昧にしていくことを意味する。

音楽の世界ではビートルズのジョン・レノン(John Lennon)、ボブ・ディラン(Bob Dylan)、ジョーン・バエズ(Joan Baez)、ピーター・ポウル・メアリー(Peter, Paul & Mary-PPM)などである。彼らの、自由と平和を訴えるメッセージは若者だけでなく広く大衆に受け入れられていく。映画の世界でも芸術性の高い作品に混じって、大衆娯楽に徹するものとが共存していく。「ヌーヴェルヴァーグ」と呼ばれる”新しい波”の映画も制作される。大島渚の「愛のコリーダ」は既成の概念を打破するような演出だ。演劇もそうだ。アンダーグラウンド(Underground-culture)とかカウンターカルチャー(Counter-culture)と呼ばれ、反権威主義的な文化が芸術運動が広まった。それまで認知度が低く、水面下での活動がやがて社会的な地位を確立していく。

漫画やアニメはかつてはサブカルチャーだったが、今やすっかりメインカルチャーとして不動のものとなった。ビデオ・オン・デマンド(VOD)が有線テレビジョン(CATV)で提供されている。大宅壮一には今の社会状況がどのように写るのかは興味ある話題である。どんな流行語を使うだろうか。

alg-peter-paul-and-mary-jpg Peter, Paul & Maryimg_0愛のコリーダから

文化を考える その3 ハイカルチャーとサブカルチャー

文化の語源を調べているが、cultureを誰が文化と訳したのか分からない。中江兆民とか福沢諭吉などかもしれない。そもそも文化とは、その時代の主流な文化とされるハイカルチャー(high-culture)を意味した。知識階層に欠かすことができない素養として、古典とか歴史、文学に精通していること、それがハイカルチャーということのようだ。

ハイカルチャーは、学問、芸術、演劇、美術、音楽といった「教養ある人々、あるいは知識人」に支持されたもので、それを享受するにはある程度の知識や素養を要求された。一般芸能などを卑下し排除したりする時代精神があった。しかし、社会が大衆化するにつれて、やがてこうした文化観は変容していく。

前々回、江戸の吉原という集団の特徴について少し触れた。花魁を頂点とする遊里には、独特のしきたりに沿った秩序があった。客をもてなすために、花魁はかなりの教養や技能、所作が求められた。そのために、若い花魁に読み書きや所作を教授する者もいた。「吉原裏同心」の小説では主人公の神守幹次郎の妻、汀女がその役を担っていた。粋もいれば無粋もいる。客を飽きさせないために、繊細な知識や技能が花魁に求められたという次第だ。吉原というところは、ハイカルチャーな世界だったことが伺い知ることができる。

時代小説はさておき、1960年代に盛んにサブカルチャー(sub-culture)という言葉が広まった。その意味は、その時代の「主流文化」、別称メインカルチャー(main-culture)とは異なる、あるいはそれに反するといった文化観である。マジョリティの価値観から逸脱する思想や行動様式、言葉などを指すのがサブカルチャーであった。こうして文化の定義が難しくなっていく。

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文化を考える その2 文化とは

前回は佐伯泰英の時代小説を読みながら「文化」の一面ということを考えた。吉原という共同体は固有の生活様式で統合されており、他の文化からの基準ではこの共同体を理解することは困難だということをいいたかった。相対化という視点でこの共同体における生活内容や人々の行動様式を問うていく必要がある。だが結構難しい話題である。

文化の定義めいたことである。文化には二つの意味がありそうだ。第一は優れた芸術、学問、技術、それが醸し出す上品な雰囲気のようなことである。第二は受け継がれていく人間行動のパタンや価値観としての文化ということである。広辞苑によれば「人間が自然に手を加えて形成してきた物心両面の成果、衣食住、技術、学問、道徳、宗教、政治など生活形成の様式と内容」とある。文化とは概して好ましいもの、望ましいものと考えられてきた。その例として、以下のように「文化」がつく単語がある。

文化国家、文化庁、文化勲章、文化都市、文化村、文化広場、文化センター、文化功労、文化の日、文化映画、文化財、文化革命、文化圏、文化保存、あげくは文化住宅、文化風呂、文化食品、文化鍋、文化包丁などである。うさんくさい響きの単語だが「文化人」というのもある。

広辞苑はさらに、文化に対峙する単語は「自然」とある。なるほど、ドイツ語の Kultur や英語の culture は、本来「耕作」、「培養」、「洗練」、「教化」、「産物」という意味であり、人間が自然に手を加えて形成してきた成果といえる。

人が作ったものが文化だとして、すべての文化が人間を幸せにしたということではない。人は文化によって苦しみ、虐げられ、死に追いやられてきた事実も限りなくある。原発、武器、戦争なども文化そのもの、あるいは文化の所産といえまいか。

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文化を考える その1 時代小説から

佐伯泰英の時代小説に「吉原裏同心」というシリーズものがある。この小説の舞台は江戸の吉原である。ここに暮らす人々の夢と欲望、汚れさと純真さ、嫉妬と愛情などが描かれている。

天下御免の色里、吉原の頂点にいるのが花魁である。一見華やかな太夫、花魁の世界。その背景には、売られ買われる女性がいる。それを取り巻く大勢の人が吉原で暮らす。例えば、吉原の秩序を保つ江戸町奉行の与力や同心、廓内での騒ぎをまとめる頭取や小頭、さらに医者、仕出し屋、職人、商人、芸者がいて吉原という集団を形成している。

愛欲が渦巻く遊里にはいろいろな事件が起こる。しかし、幕府公認のこの色里には廓内のきまりがあり、それによって自治や治安が保たれるという不思議な世界である。

筆者がこの時代小説に惹かれるのは、吉原という共同体に受け継がれる行動のパタンやその背後にある価値観という文化なのである。この文化を考えるには、その文化に縛られる吉原という場を設定する必要がある。そうでなければ、吉原という「場」をステレオタイプ(固定観念)でとらえてしまう。この観念に対抗する視点を持たなければ、なぜ裏同心という存在が重要になるかがわからない。

江戸文化というと一見、茫漠としているが、それは人々が手を加えて形成してきた衣食住をはじめ、歌舞音曲、作法、詩歌など生活様式と内容という総体のことである。この総体を意識すると、吉原に暮らす人々の日常性のなかに少々大袈裟であるが、文化ということになにか原理的な意味を見つけられるような気がしてきている。

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手書き その20 漢字を覚える方略–とりへん・ひよみのとり

漢字の偏を取り上げ、漢字を覚える方略を考えるこの拙稿も今回が「トリ」である。

とりへん・ひよみのとりは酉部と呼ばれる。十二支のとりである。とりへんの漢字を調べると、発酵にかんするものが目立つ。酒や酢、醤油など調味料などである。

醸造の歴史は深いようである。紀元前5000年頃のバビロニア(Babylonia)ですでに存在していたとある。酒の醸造と同じ時期に酢も作られるようになったと考えられている。酢は食品に酸味をつけたり増強し清涼感を増す。夏のおかずに酢は欠かせない。バルサミコ(Balsamico)酢はブドウの濃縮果汁から作られる。昔から葡萄はワインの醸造とともになくてはならないものだったに違いない。

毎年、ウィスコンシンに住む末娘には何種類かの麹を送っている。麹を入れた料理は亡くなった母親から教わったようだ。孫娘にも受け継いで欲しいものだ。日本酒、味噌、食酢、漬物、醤油、焼酎、泡盛などに麹が使われる。

「醍醐」は、牛乳からのほのかな甘味と濃厚な味わいのあるジュースのようなもの。醍醐味とはそんな味なのだろう。仏教用語でも使われるとWikipediaにある。飲むヨーグルトやチーズに近いようだ。筆者も365日、欠かさず自家製のヨーグルトをいただいている。

晩酌はもっぱらお湯割り焼酎。夕方5時くらいから手書きしたこの原稿のワープロ作業をしながらチビチビやるのが楽しみだ。酩酊することはないが、ちょっぴり量が増えてはいるので気をつけている。

「配」はとりへん、「酒・酔」はひよみのとり、とあるがその違いは分からない。「醜」という漢字と酉部の関連も残念ながら調べる時間がなかった。
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手書き その19 漢字を覚える方略–いぬ・けものへん

四足歩行する哺乳類に関する漢字につくのが「けものへん」とか「いぬへん」。犬に始まり、猫、狐、狸、猿、猪、狼など。「狗」とは犬のこと。まわしものとか間諜を意味する。羊頭狗肉という四文字熟語もある。

獣の性質を示すのが狂や猛。しかし、獣は本来は穏やかな性質ではないのか。子を守る本能が狂や猛に見られる。最近、子殺しとか女性の殺傷事件が報じられる。獣でもしないようなこうした行為に暗たんたる想いがする。現代の狼藉者である。こうした者は、独、狭、犯といった漢字から連想される生活をしているのだろうか。

狩りは獣を狙い捕獲となる。献は差し出すとか献上すること。「猶」とは以前の状態がそのまま続くこと。猶予という熟語がそれを示す。

「夷狄」という異民族を野蛮人といった蔑称に用いた熟語もある。民族間の根深い対立には優位、劣位の意識がある。戦争にはこうした誤った「大義」を国民に植えつける教育がある。

八王子の郊外にある高尾山には、天狗の言い伝えがある。もともとは慢心の権化とされ鼻が高いのが特徴。山伏姿で赤ら顔をしている。だが高尾山とか他の霊山では山の神として人々の信仰の対象となっている。

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手書き その18 漢字を覚える方略–ころもへん

「ころもへん」は衣服や布製品などを示す漢字が多い。衣装とか衣裳、袈裟はその典型である。「衣」には「裂」や「裁」のように下部に置かれるときはそのまま「衣」が使われる。「表」や「褒」などは漢字の下に同じく変形してつけられる。「初」や「袖」、「補」のように左の偏の位置に置かれるときも衣の変形が使われる。

敷き布団のことは「褥」。「褥そう」という熟語があるが、これは英語では”Pressure sore”。圧迫されて痛むこと、となる。英語のほうがわかりやすくてよい。

最近「褌」が男女に人気が出ていると報じられている。親父もつけていた。これは簡単でよい。衣服を脱ぐことは裸。筆者は「袴」を持っていない。袴をつけるという精神と経済面の余裕がなかったからだ。奈良の友人へ「一着いただきたい」と申し入れているが、背丈が違うといって断られている。

「襖」や「衾」もある。そういえば佐伯泰英の時代小説にはこの二つの漢字がしばしば使われる。「同衾」もそうだ。舞台は江戸。深川、浅草、吉原など下級武士や庶民の生活の場である。

片寄らないことは「衷」。心の中という意味もある。それが衷心である。折衷も納得できる熟語である。

我々はいつまでも若くはない。やがて衰え「喪」がやってきて次世代に役割を譲る。「禅譲」というと大袈裟だが、いつまでも先輩ぶらないで静かに舞台から退いていくのがいい。

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手書き その17 漢字を覚える方略–のぎへん

国語辞典と広辞苑を長く使っているが、いずれも岩波から出版されている。なぜか昔から信頼が置ける出版社という観念がある。大学で使った参考書などずいぶんお世話になった。新書も充実している。「広島ノート」、「憲法とはなにか」など忘れられない。

「のぎへん」である。穀物の総称とか代表して使われたとある。後々、稲を意味するようになった。

家の近くにある和食堂の名前が「穣」。毎日のように通りすがるので漢字を覚えて書けるようになった。「豊穣」という熟語は米のなり具合を農民が喜ぶ様を示すようだ。画数も多いが大事な漢字だ。

「私」とか「和」は画数が少ない。「禿」とくると少々辛い気分だ。

穀物を意味するだけあって、「租」、「税」という漢字も関連している。「租」はもともと「みつぎ」という意味である。米で年貢を払っていた。土地の大小、年貢の量などは日本の封建制度を支えていた石高と関連している。玄米の収穫量のことが石高。

「稽古」という熟語は穀物と関連はないようだ。「稽」という漢字を調べると、「考える」、「比較する」という意味もある。「とどこおる」ともあって少々驚く。毎日囲碁の稽古に余念がないのだが、上達への「径」は厳しいものがある。

穀物に戻るが、今春は稀代の大雪が見舞ったので水は十分だと思うが、、穏やかな秋になって稲穂が垂れるのをみたい。

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手書き その16 漢字を覚える方略–みみへん

耳偏の漢字はそうは多くない。

「聞く」と「聴く」の使い方について時に考え込むことがある。ただ、熟語にするとその意味が違うことがわかる。静聴、拝聴、傾聴などの熟語がそれを物語る。最近、大学にでかけて聴講する機会がない。

教会などで聖職者を呼ぶときのことを「招聘」という。「聘」とは賢者を招くという意味らしい。このことを文書化したのを招聘状という。「是非おこしいただきたい、そしてお働きいただきたい」という書類である。英語でいえばCalling(招き、天職)である。

口偏かみみへんかは分からぬが、「囁」は誠に当を得た漢字だ。
「”まったく下々の事情をよ、ご老中はわかっていねえぜ”と江戸の町々でこんな会話が囁かれていた。」と佐伯泰英の時代小説にでてくる。天保の改革で、江戸の町と民を疲弊させいく様子を描いている。

「耽溺」は一つのことに夢中になること、他を顧みないことである。ときにこうした状態にふけったりのめり込むのも悪くはない。耽美主義(aestheticism)とか審美主義という熟語もある。伝統にとらわれない新しい芸術主義のようだが、退廃的な印象もあり筆者にはわかりにくい。

耳が聞こえないことは「聾」。以前、こうした生徒が学ぶところを聾学校といった。聴覚に障がいがある生徒の学舎である。

「聡」は、賢い、耳がよくとおる、すばやくわかる、わかりがよいとある。しばしば名前にも使われたが最近はあまり見ないのが寂しい。

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