ユダヤ人と日本人 その8 サルトルの反ユダヤ主義への批判
フランスの哲学者、サルトル(Jean Paul Sartre)は、「ユダヤ人」(岩波新書)の中でユダヤ人迫害の原因を指摘する。聖書に始まりホロコストに至るまで、反ユダヤ主義とか反セミティズム(Anti-semitism)は、すべての社会悪の責任をユダヤ人になすりつけ、選民的全体主義をつくる手段であるという。
「もしユダヤ人が存在しなかったなら、反ユダヤ主義者はそれに代わるものをつくりあげただろう。それは黒人であり有色人種であったりする」。そしてサルトルは、反ユダヤ主義にあっては、被害者側にはその理由は見あたらず、加害者側にあったことを断言する。
反ユダヤ主義に耽溺する者は、ユダヤ人から金銭と暗さを連想する。シェイクスピア(William Shakespeare)の「ヴェニスの商人」(The Merchant of Venice)に登場する守銭奴のシャイロック(Shylock)のような陰険な存在、フリーメーソン(Free Mason)をはじめとする秘密結社を結ぶ反社会的勢力と考えがちである。
呪われたユダヤ人は、呪われながらも欠くことのできぬ職業についていた。土地をもつことも軍隊に加わることもできなかった彼らは、金銭の取引を行っていたが、それはキリスト教徒が近寄ることのできぬ職業だったからである。伝統的な宗教的嫌悪という呪いに加えて、経済的な呪いが加わったのである。こうした金銭に関する職業という非生産的な職業についていることを反ユダヤ主義は軽蔑し非難するが、反ユダヤ主義者こそがユダヤ人に対して、全ての職業を禁じたからに他ならない。「キリスト教徒がユダヤ人を創造した」とサルトルは云う。
不幸にして、こうしたユダヤ人に対する否定的な概念は、物理学者のアインシュタイン(Albert Einstein)やオッペンハイマー(Robert Oppenheimer)、小説家のカフカ(Franz Kafka)、作曲家や音楽家のガーシュイン(George Gershwin)やスターン(Isaac Stern)、俳優や映画監督のチャップリン(Charles Chaplin)やスピルバーグ(Steven Spielberg)、哲学者アーレント(Hannah Arendt)といった輝かしい人物をもってしても拭い去ることは困難なほどである。
日本にまでこうした否定的な反ユダヤ主義が染み込んでいるのは、論理的、経験的な理由からではない。日本はどうか。戦争中、中国人や朝鮮人に対してどのような態度でどのように臨んだかを考えてみる。果たしてどのような根拠があって大東亜共栄圏なるものを作りあげたのか。決して反ユダヤ主義は人ごとではないことがわかる。反ユダヤ主義は理性的な思想とは全く別物である。むしろ情熱であるとサルトルは云う。 Jean Paul Sartre
ユダヤ人と日本人 その7 ユダヤ人の遍歴 その2
前回に続き、「ユダヤ人の遍歴その2」である。中世に追放されたユダヤ人の多くは東方へと移民した。ポーランド(Poland)、オーストリア(Austria)、ボヘミア(Bohemia)、モラヴィア(Morabia)などの地域へ拡散したことを記した。特にユダヤ人が多かったのがポーランドであった。
Wikipediaによれば、1025年から500年間続いたポーランド王国(Kingdom of Poland)は立憲君主制の先駆けといわれる。民族や宗教の多様性が顕著で、宗教的な寛容さが実現していたといわれる。その一例が「ユダヤ人の自由に関する一般憲章」発布である。これによってユダヤ人の安全と個人の自由を保障し、ユダヤ人らは安心して自分たちの信仰を守り、商売を行い旅行することができたといわれる。
その間、イスラム教徒(Muslim)によって「聖地」が冒涜されているとか、巡礼者への冷たい対応に対する救援を依頼するようになる。そこで異教徒より聖地を取り返すことを目的として二世紀の間、8回の十字軍(Crusade)が派遣される。キリストの流した血は、彼を殺したユダヤ人の血を流すことで仇討ちするということにも発展するのである。だが、イスラム教徒の攻撃により壊滅し逃走を余儀なくされたり、奴隷になったり死亡する者も大勢いた。異端への布教とか討伐という十字軍が失敗するのである。ユダヤ民族の殉教の時代を迎えるのである。
アーサ・ケストラー(Arther Koestler)の「ユダヤ人とは誰か」によれば、西ヨーロッパのユダヤ人が定住したのは、今のフランスとドイツにまたがるラインラント地域(Reinland)ある。だが第一次十字軍においては、ラインラントで多数のユダヤ人が十字軍運動に熱狂したドイツ人などにより虐殺されたと云われる。さらに1290年にはイングランドから、1394年にはフランスからユダヤ人が追放された。15世紀になるとドイツ諸邦でも、神聖ローマ帝国やドイツ騎士団、大司教などによってユダヤ人は迫害や虐殺されたりした。
ユダヤ人はヨーロッパとイスラム世界とを結ぶ交易商人だったが、ヨーロッパ・イスラム間の直接交易が主流になったこと、自分たちへの迫害により長距離の旅が危険になったことから、定住商人へ、さらにはキリスト教徒が禁止されていた金融業(銀行業)へと進出していく。キリスト教社会では、金融業は「身を汚さずには近寄ることもできない」卑しい職業=金貸しと見なされていたのである。やがて「ユダヤ人高利貸」というステロタイプな呼び方はこうして定着するようになる。
=
丹沢大山国定公園 大山 その1
ユダヤ人と日本人 その7 ユダヤ人の遍歴 その1
紀元前17世紀、アブラハム(Abraham)、イサク(Isaac)、ヤコブ(Jacob)などユダヤ民族の族長らがイスラエルの地に定住する。もともとユダヤ人は農耕や牧畜に従事していた。しかし飢饉によりユダヤ人はエジプトへの移住を余儀なくされる。
紀元前13世紀頃、イスラエルの民はモーセ(Moses)に率いられてエジプトを脱出しシナイ半島(Sinai)の砂漠を40年間流浪し、やがてイスラエルの地に定住しユダ王国(Kingdom of Judah)を建設する。首都はエルサレム(Jerusalem)、初代王はサウル(Saul)となる。このあたりは地中海とアラビヤの砂漠に囲まれた肥沃な土地であった。この史実は出エジプト記(Exodus)の1章から4章に詳しい。有名な十戒(Ten Commandaments)は同記20章に記述されている。
だが紀元前597年、ユダ王国がバビロニア(Babylonia)の王ネブカドネザル(Nebuchadnezzar)によって滅び、捕虜となったユダヤ人が現在のイラクの南部にあたるメソポタミア(Mesopotamia)に移住を強いられる。これがバビロン捕囚(Babylonian Captivity)である。エジプト脱出が序章とすればバビロン捕囚はユダヤ人流浪の第二章といってもよい。
時代は中世に移る。追放されたユダヤ人の多くは東方へと移民した。まずはオーストリア(Austria)、ボヘミア(Bohemia)、モラヴィア(Morabia)、ポーランド(Poland)などの地域へ移住する。ポーランド王国は1264年にポーランド中央部の都市カリシュ(Kalisch)において「カリシュの法令」、別名「ユダヤ人の自由に関する一般憲章」を発布してユダヤ人の社会的権利を保護した。こうしてポーランド地方はユダヤ人にとって非常に住みやすい国となった。彼らは後にポーランド・リトアニア(Lithuania)共和国の全地域へと拡散した。
こうして大きなユダヤの民族集団が東ヨーロッパや地中海を端から端まで移動することになるのだが、シースル・ロス(Cecil Roth)は「ユダヤ人の歴史」の中で「その特徴は自分たちの宗教だけでなく、自分の文明も一緒にもって移動することに成功した」と指摘する。この事実が、幾多の迫害を受けてきたにも関わらず、今に至るまで宗教的伝統や生活を高度に維持し、世界に存在感を示しているというのである。
ユダヤ人と日本人 その6 なぜユダヤ人に関心を抱くのか(2)
私がユダヤ人に関心を抱くきっかけとなったもう一つの理由は、その民族の不思議な歴史にある。これほど流浪を続け迫害を受けた人種はないであろうと思うほどである。旧約聖書にある出エジプト記にある「エクソダス」(Exodus)はユダヤ人の流浪の始まりである。そうして全世界に離散(diaspora)していく。
「エクソダス」は、旧約聖書の申命記(Deuteronomy)などで記述される「乳と蜜の流れる場所(a land flowing with milk and honey—the home of the Canaanites)」、「豊穣の地」、「 恩寵の地」、「安住の地」を求める旅である。神がアブラハム(Abraham)の子孫に与えると約束したカナン(Canaan)である。カナンは地中海とヨルダン川、そして死海に挟まれた地域といわれる。
離散された民、ディアスポラは離散先での永住と定着を示唆している。そこには偏見や差別に満ちた世界でもある。だが彼らは難民ではない。難民は元の居住地に帰還する可能性がある。ディアスポラにはそれがない。
近代の「エクソダス」は中東からヨーロッパへの大量移住がよく知られている。ユダヤ系のディアスポラのうちドイツ語圏や東欧諸国などに定住した人々とその子孫はアシュケナージム(Ashkenazim)と呼ばれる。語源は創世記10章3節に登場するノア(Noah)の子孫として「アシュケナズ」(Ashkenazi)である。
アシュケナージムの離散の歴史を調べると、まさに過酷さのそれといえそうである。その最たるものが、精神科医ヴィクトール・フランクル(Viktor Frankl)の「夜と霧」に記される強制収容所送りであろう。この体験記の翻訳はみすず書房から1946年に出版された。
ユダヤ人と日本人 その5 なぜユダヤ人に関心を抱くのか(1)
このシリーズの最初に記したが、私には留学中にお世話になったユダヤ系のアメリカ人がいる。現在、ミルウォーキー(Milwaukee)の郊外で整形外科の医師をしている。熱心なロータリークラブ(Rotary Club)の会員で週一の例会は欠かしたことがない。出張したときは、近くにある別のロータリークラブの例会に出席するのだそうだ。奉仕活動にも積極的に参加し、中南米の医療チームに加わったりした。
私は国際ロータリインターナショナル(Rotarty International)からの奨学金でウィスコンシン大学で学ぶことができた。そのスポンサーがこの人である。名前はDr. Robert Jacobsという。Jacobsとはユダヤ人の名、「ヤコブ」と日本語では表記される。
大学に入って早々、留学生を迎えるためにマディソンまでワゴン車で迎えにきてくれた。そしてご自宅にホームスティさせてくださった。その時、ご自身が長老をされているシナゴーグ(Synagogue)に連れて行ってくれた。礼拝所に入る前にヤマカ(yamaka)という帽子をちょこんと頭に載せた。Dr. Jacobsは熱心なユダヤ教徒である。
さてユダヤ教のことである。ユダヤ教がキリスト教と一線を画する点は、新約聖書(New Testament)イエス・キリスト(Jesus Christ)の誕生には言及しないことだ。旧約聖書における唯一の神、ヤハウェ(Yahwe)を拠りところとする。ヤハウェは全世界の創造神とされる。なお新約聖書では、エホバというように使われる。
ユダヤ人の精神性は二つの律法から形成されていると考えられる。一つはトーラ(Tola)である。モーゼが記したといわれる旧約聖書の最初の5つの書のことを指す。トーラは律法のことである。もう一つはタルムード(Talmud)である。ユダヤ人の生活、宗教、道徳に関する口伝で語り継ぐべき教えの集大成である。
Dr. Jacobs家の先祖は、第一次大戦後、東欧ポーランドのあたりから迫害を逃れアメリカ大陸に移民してきたのだそうだ。人種差別や迫害の歴史はユダヤ人のことであるといっても過言でないほど、翻弄されたものである。私はこのことをDr. Jacobsから教えられた。
ユダヤ人と日本人 その4 「Le Concert」から考える(4)
ユダヤ系ロシア人音楽家の苦悩と喜びを描いた映画「Le Concert」の大団円である。
———————————-
そして遂に公演の夜になる。パリ市内で好き勝手なことをしてた団員は、携帯電話からの連絡で公演がリアを追悼する演奏会であることを知らされ劇場に集まってくる。だが一度もリハーサルはしていなかった。
その間、ボリショイ劇場の支配人がたまたまパリに休暇にきていた。そして偽のボリショイ楽団の演奏会のポスターを目にする。あわてて演奏を中止しようとする。マネージャーのガブリロフは支配人を清掃具入れに押し込めて演奏中止を阻止する。
公演の幕が上がる。だが練習不足やリハーサルなしのぶっつけ本番で調子っぱずれの演奏が始まる。聴衆はざわつく。それでも、団員が自主的にハーモニーを引きだそうとするアンドレの演奏の理念を団員は知っていた。そして、アンマリーの類い稀なるヴァイオリン独奏の技巧は聴衆を魅了する。彼女の技巧は、実は母親であったリアが注釈をつけた楽譜から学んだものであった。
公演は大成功裏に終わり、その後この楽団はアンドレを指揮者とする「アンドレフィリポ・オーケストラ」として再出発する。世界各地での演奏会にはアンマリーがいつも独奏者として同行するのだった。
この映画は偏見と差別、迫害を描いて残酷である。ユダヤ系ロシア人は長い厳しい道を歩んできた。それでもなお弛まなく挑戦する姿に共感と感動を与えるのである。
ユダヤ人と日本人 その3 「Le Concert」から考える(3)
ソ連体制から”ユダヤ主義者は人民の敵”と称されたユダヤ系の演奏家の矜持を描いたフランス映画「Le Concert」の続きである。
————————————————-
いよいよ、なりすましのボリショイ楽団はパリ公演にでかける。パスポートを業者に偽造させたり、楽器は借り物、演奏会用の洋服や靴をそろえるなどドタバタが続く。そしてパリにやってくる。だが団員は物見遊山ツアー気分で、パーティを楽しんだり、持参したキャビアを売ったり、タクシーの運転手などをして金儲けを始める。団員は集まらずリハーサルは流れてしまう。
このような団員のプロ意識の低さやアンドレの音楽界復帰のチャンスという意図に嫌気をさしたアンマリーは出演を断る。それをきいたチェロ奏者のアブラモビッチは、彼女に対してこの公演はアンマリーの過去や未だに会ったことのない両親を思い起こす機会となるとして出演を説得する。アンマリーは、幼い頃から両親は科学者で、アルプスで亡くなったきかされていた。
アンドレと妻のイリーナ(Irina)はユダヤ人音楽家であったリア、イヤーク・ストルム夫妻( Lea and Yitzhak Strum)の親友であった。リアはヴァイオリン奏者で、KGBによって演奏を停止させられた時のヴァイオリン奏者であり、指揮者はアンドレであった。
二人は自由ラジオヨーロッパ局やアメリカラジオ局を通じてブレジネフ政権やKGBの圧政と弾圧に公然と批判する。KGBが二人を連行しようとしたとき、二人はフランスからモスクワに公演にきていた楽団で演奏していたギレーネ(Guylene)に乳飲み子を託し、ギレーネはその赤子をチェロのケースに隠してパリに逃れるのである。その赤子こそがリアの娘アンマリーであった。
ユダヤ人と日本人 その2 「Le Concert」から考える(2)
ソ連の政治体制への批判やユダヤ系ロシア人の気概がおかしみと真剣さを込めて描かれているフランス映画「Le Concert」の2番目のプロットである。
KGBのエージェントであったガブリロフ(Ivan Gavrilov)は、アンドレのパリ公演案を彼なりに注目し、一儲けをしようとしてアンドレのマネージャとなる。だがアンドレから公演を持ちかけられたかつての首席チェロ奏者アブラモビッチ・グロスマン(Abramovich Grossman)はこの計画に疑心暗鬼であったが、結局それに加わることにする。
ガブリロフとアンドレは、シャトレ劇場に対していろいろな要求をつきつける。パーティとかセーヌ川船上での夕食会などである。それは、ロスアンジェルス交響楽団を招くよりも費用が安いというのが要求の理由であった。また、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲の演奏者をパリに在住するアンマリー・ジャケ(Anne-Marie Jacquet)とすることも要求する。
ところがアンマリーはこの協奏曲を一度も弾いたことがなかった。だがボリショイ楽団と演奏したかったこと、さらにロシア以外でも有名だったアンドレと一緒に演奏したかったので、演奏依頼を引き受ける。
アンマリーの付き人であるギュレーネ・リビエラ(Guylene Riviera)は実はアンマリーの養母であった。彼女はこの演奏会にアンマリーが出演することにためらっていた。その理由は、ギュレーネがアンドレの過去を知っていたからだった。
さて、なりすましのボリショイ楽団は知名度の高かったマフィアのボスから支援を受ける羽目になる。このボスは自分も技術は酷いのだが舞台でチェロを弾きたいと願い出る。
ユダヤ人と日本人 その1 「Le Concert」から考える(1)
しばらく「ユダヤ人と日本人」というテーマを考えていく。私個人の留学におけるユダヤ系アメリカ人スポンサーとの交誼、戦前の杉原千畝氏の活躍や満州で近所に一緒に住んでいた白系ロシア人との付き合い、父や叔父が樺太で抑留されていたときのロシア人との交流、1970年頃読んだ「日本人とユダヤ人」と著者イザヤ・ペンダサンなどがこのテーマの下敷きになっている。
「Le Concert」という映画を観た。2009年にフランスで製作された。一見コメディ風だがロシアの政治体制や人種、マフィアなどへの風刺もきき、音楽の素晴らしさを交えながら、社会問題を掘り下げた味わい深い佳作である。特に体制への批判やユダヤ系ロシア人の気概がおかしみと真剣さを込めて描かれている。
さて本シリーズは、映画「Le Concert」のあらすじから始める。舞台はモスクワ(Moscow)のボリショイ(Bolshoi Theater)劇場である。かつてボリショイ歌劇場交響楽団(Bolshoi Theater Ochestra)で世界的な指揮者「マエストロ」といわれたアンドレ・フィリポ(Andrey Simonovich Filipov)は、今は同劇場の掃除夫として働きアル中になっている。
アンドレは30年前に、当時のブレジネフ政権(Leonid Brezhnev)によるユダヤ人楽団員の排斥に抵抗したために、チャイコフスキー(Tchaikovsky)のヴァイオリン協奏曲を演奏中にKGBのエージェントであるイワン・ガブリロフ(Ivan Gavrilov)によって中止させられ、団員とともに楽団を解雇され掃除夫となる。
劇場支配人の部屋を掃除しているとき、一枚のファックスがでてきた。アンドレはそれを手にとって読むと、パリの有名なシャトレ劇場(Chatelet Theatre)からのもので、ロスアンジェルス交響楽団(Los Angeles Philharmonic Orchestra)の代わりにボリショイ楽団にパリで演奏してもらいたいという招待状であった。アンドレはそのファックスを手にして、かつての団員に呼びかけオーケストラを組織し、ボリショイ楽団になりすましてパリで公演しようと画策する。
古いユダヤの音楽やジプシー音楽を弾いているかつての団員など、追放された仲間に声をかけてチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲をシャトレ劇場で演奏しようと持ちかける。この曲はKGBによって中止に追い込まれた怨念の曲であった。
無駄から「無」を考える その8 ゼロと帰無
「無駄から無を考える」シリーズの最後の稿となった。
我々が毎日使っているコンピュータは、電子計算機という別称のように計算が大得意である。電卓もそうである。だが計算は0,1,2,,,,9 という十個の数字による、いわゆる十進記数法そのままで行われるのではない。日常使う「十進法表記」をコンピュータ内部で「二進法表記」に書き換えた上で、加減乗除がなされ、その結果を十進法表記に書き戻している。
二進法表記とは、「0」と「1」という二つの記号だけであらゆる「自然数」を表す方法である。ここでも位取り記数法が使われ、十進法表記となんら変わりない。コンピュータでは、たったの二つの数字しか必要としない。「0」を「無い」、「1」を「ある」、あるいは0を「No」、「1」を「Yes」としている。「0」と「1」使う二進法の効用とは、あらゆる計算をこの二つの数字で行うことができることである。「0」がいかに重要な数字であるかをいいたいのである。
ゼロに似た語に「null」がある。英語では「ナル」と発音されるがこれは「何もない」という意味である。ラテン語で「無」を意味する「nullus」に由来し、ドイツ語でもnullは0を意味する。英語では、「null」 はzero または empty と交換可能である。例えば、零行列でいうnull matrix は zero matrix、空集合でのnull set は empty setという具合である。
統計学でも「null」が使われる。帰無仮説とされる「null hypothesis」である。帰無仮説とは、ある仮説が正しいかどうかの判断のために立てられる仮説のことだ。例えば、「男と女で読書時間に差はない」とか「二つの薬の効果は同じだ」といったことである。
帰無仮説は棄却されて始めて研究者の調査や実験の意図が達せられる。この意味で無に帰される仮説と呼ばれる。大抵、研究者は否定されることを期待する。だが帰無仮説が採択されたからといっても,必ずしも帰無仮説として立てられた内容が正しいことにはならない。確率と実際の事象には違いはある。従って「無に帰せられる」といってもゼロになるとは違う。ここが少々悩ましい。
無駄から「無」を考えてきたつもりだが、どうもテーマが複雑で筆者の理解はまだまだ十分ではない。多くの時間をかけて調べ、考えてきたことが無に帰するようなのだが、無駄ではなかったと振り返っている。
無駄から「無」を考える その7 「ゼロということ」
中国への仏教の伝来は一世紀頃と推定されている。仏教伝来以前の中国、紀元前六世紀頃は老子や荘子らの道家思想でいう「無」が広く受け容れられてきた。「無」とはゼロの観念とは異なり「無と有の中間の存在」と考えられたということが日本佛教文化辞典や諸氏百家にみられる。
仏教の根本問題である「空」との関連である。数学的には「0=ゼロ」を意味するのか? XとYという座標軸に沿っている記号を根源で支える点(原点)、ゼロ記号としてのこの支点がなければ、X軸もY軸も存在しない。ゼロは抽象的な形体や世界を指示するための象徴記号として作用している。この0の発見によって無限の数列が可能になった。このような考え方は、インド仏教の根底に流れる思想といわれる。
我々が通常使っている数字は算用数字。これはアラビア数字(Arabic numerals)のことだがもともと起源はインドにあり、インド数字(Indian numerals)とも呼ばれる。それに対してローマ数字(Roman numerals)は文字の組み合わせである。ローマ数字はラテン文字(Latin)の一部を用い、例えば I, II, III, Xという具合である。ローマ数字に「0」という文字はないのも特徴とされる。1000を超える数の表記法は複雑だった思えるが、それには大きな数を扱う機会が少なかったためという説もある。ともあれローマ数字は表記が長いので数字としては限界がある。
珠算というそろばんを使った計算は誰もが一度は経験したことである。そろばんによる計算は、縦の1列が十進法の1つの桁を表していて、上の桁から順次下の桁に降りて計算を行う。これは筆算と異なる点である。十進法であるから0は存在することになる。このとき、そろばんでも筆算でも、無意識のうちに位取りを使っている。
筆算のよいことは、位取りの位置が記録に残り、正否を確認できることだ。そろばんや電卓はそうした記数法は記録に残らない。「零の発見」(岩波新書)の著者は、「アラビヤ文字の占めてきた役割は主として記数数学としての役割だった。位取りの記数方法にまさる記数法は考えにくい」という。パピルス(papyrus)から始まるといわれる紙の上での記録が記数方法の重要さを物語る。
papyrus
無駄から「無」を考える その6 サンスクリット語の「シューニャ」
日本佛教語辞典によれば、「空」という語は、古代から中世にかけてインドで使われていたサンスクリット語(Sanskrit)の「シューニャ(Sunya)」ということである。真に実在するものではなく、その真相は空虚とされる。空なることは空性と呼ばれる。このような見方を空観と呼ぶ。サンスクリット語は今もヒンドゥー教(Hindu)や仏教における礼拝用言語である。
アラビア語で「sifr」: シフルという語があるという。その意味は「空」と翻訳されたとある。この「sifr」が、13世紀のはじめ、アラビア記数法、後のインド記数法が伝わったイタリアでラテン語化して 「zephirum」となったようだ。そして最終的には「zero」という語に変化した。一方、中世ヨーロッパの数学界では「ゼロ」をあらわすために、もとのアラビア語とほぼ同じ語である「cifra」(数字)を長く使い続けた。ゼロ、0といったアラビヤ数字を意味する英語は「cipher」という。「cipher」は、「sifr」とか「cifra」が語源であることがわかる。
サンスクリット語の「シューニャ(Sunya)」はなかなか興味深い。この語はやがてフランス語のシニフィエ「signifie」, とかsignifierなど「意味する」とか、「表している」という語に発展したとか。記号表現、記号内容といった使われ方をする。英語の「signify」とか「significant」にあたることはいうまでもない。「意味ある」ということを指す。
無駄から「無」を考える その5 「無私ということ」
「私」を無にすることは、無心になることであり、それは「私」を自然に近づけることであるとされる。自然に近づいた「私」が自我を離れた無心の自己になる。
無私とは心を「空」にすることでもない。心が初心であり続けること、いつも自然や他者と共鳴し続けることのできる「無心」の状態にあることである。これは漱石の文学観とも解されている「則天去私」の境地かもしれない。「天に則り私を去る」と訓読する。
総合佛教辞典によれば、仏教における空は、存在論的な虚無や空虚といったことを意味するものではない。存在と非存在、あるいは客体と主体といった二元論的な構図の中で、その一方を否定するものではない。
さらに佛教辞典によれば、事物の無常性、変化性、消滅性を表現するとき仏教では「色即是空」という。「色」とは法とか事物のことであり、それが無常であることを「空」という語によって説明している。法とは、制度、習慣、宗教、法律、道徳、正義といったことを示唆する。しかし、「空」はこの法の常性、永遠、持続の観念を否定したものではない。
佛教辞典は次のようにも云う。「法の空は、一切の現象を否定的に説明するための言表であるよりは、一切の現象を肯定的に説明するための象徴であるという順接の関係をいう。」一切の現象が有として存在するためには、空の構造において始めて可能になる、ということのようである。
無駄から「無」を考える その4 「無常ということ」
前回、自然のままで作為がないこと、因縁とか業によって生成されたものでないことが「無為」であるということについて考えた。それは、変化とか消滅を離れた永遠の存在、涅槃とか悟りの有り様であるらしい。仏教の説話が紹介されている今昔物語は「今となっては昔のことだが、、」で始まる。その中で作者は、「永く無為を得て、解脱の岸に至れり」と宣言している。
さて無常ということである。時の経過に伴って絶えず流動し変化するにつれて、あらゆる事もまた生滅流転する。すなわちこれが無常といわれる。このように無常観は単純にして明快な世界観のようである。
仏教文化事典によれば、日本人が無常観を受容していく過程には二つのタイプがあるといわれる。一つは自分の経験を積むなかで無常を身もって体験し認識することである。経験から帰納する認識である。二つ目は無常を絶対的な命題としてとらえ、それを無条件で受容することである。演繹的に無常を考えるのである
死とか滅亡という否定的な契機によって認識される帰納的な無常においては、無常は招かれざる客として消極的に享受される。体験という過去に注がれて感傷的な性格が顕著となる。だが、演繹的な考えでは、無常は進んで求めるべきという立場だ。なぜなら無常をテコにして将来の解脱が約束されると考えるからである。死を受容し残された時間を生きようとする態度にこの演繹的な無常観が表れている。
筆者の家族史にも、長年ガンと闘い死に向き合い死を受けとめた者がいる。
無駄から「無」を考える その3 「無為自然」
今回は、中国、老子の思想からである。「無為自然」という四文字熟語である。「無為」という言葉だが、文字通りなにもしない、という意味である。だが、無為とは「知や欲を働かせず自然に生きること」とある。
総合佛教辞典によれば、「無為」とは万有を生み出し万有の根源となるもの、有と無との対立を絶したものとされる。「全力を尽くすが、その先は天地自然、気の流れに任せるのがもっとも自然で最も幸福な生き方」これが老子らの教えといわれる。
貝塚茂樹の「諸子百家」(岩波書店)には「有と無の超越」という章がある。「道は常に無為にして、しかも為さざる無し」、「故に有の利たるは、無の用をなせばなり」とある。いよいよもって複雑である。さらに「無為自然」とは、「人間や政治の理想的なあり方」とか「万物が道に順って生きる基本となる立ち位置」と云われるのだが、、、
この地球という生命体が今危機に瀕しているという説が広く行き渡ることを勘案すると、「無為自然」は首肯できる概念といわざるを得ないのである。「万物が道に順って生きる基本」からはずれた人間と国のエゴイズムが地球体を危機に陥れているとも考えられるからである。我々の次の、そのまた次の世代に引き継ぐべき地球という共同体は「無為自然」に反する人間の勝手な行為によって危機を迎えているといわれる。
だが、「なにもしないことにも意味がある」というのが中国やインド哲学の神髄のような気がしてくる。有と無の論議は、宗教なのか哲学なのか、その境目は門外漢の筆者には全く分からない。
無駄から「無」を考える その2 「無」と「有」
無駄という語の他に、無学、無知、無言、無策、無頼、無礼、無粋、無情、無法、無恥、無理、無視、無能、無効、無死、無謀などの言葉を眺めてみる。「無」という漢字は、「否定や禁止を表す助字」(広辞林)とある。対立するかのような概念の「有」という助字の前にはどうも分が悪い。
だが、「無」の使われ方は必ずしも「有」に劣る概念ではないことがわかる。無欲、無性、無想、無念、無償、無益、無事、無私、無名、無常、無上などの語をよくみつめると、そこには人間の大事な生き方が現れているようにも思えるのである。「無」ということが意味のある概念であることだ。「無」が価値を有するということでもある。人間の品格を表す無垢という言葉もある。立派で並ぶものがないことを無二ともいう。
インド哲学によれば、「無」とは「存在しないこと」ではなく「無が存在する」ということらしい。単なる「non-being」ではなく絶対的な根源としての「無」があるというのである。この考えは、数学における「零0」の存在に通じるようである。「零0の発見」によって、数学において無を記述できるようになった。零0の存在は革命的ともいわれる。この零のことは後日取り上げる。
「無数」においても「countless」、「innumerable」というように、存在するが数えることはできないだけなのである。まさに無と有の対立を越えてそれを包括するような概念がここにあるように思える。無期とは有限の時間を表す。懲役100年でも200年も有期でも無期でもある。無と有は表裏一体のようである。
母校、北海道大学には宗教学インド哲学講座があるのを思い出す。
無駄から「無」を考える その1 人生は無駄の連続か
「人生を無駄に生きている」とか「生きることは無駄の連続だ」としばしば云われる。これも真実なのかもしれないと思うのである。誰もが、自分は有意義に生きているだろうか、なにかのために役立っているだろうかと振り返ることがある。
「無駄」を調べると「それをしただけのかいがないこと」という意味もある。だが、ここでの難問は「なにをしたのか」ということである。今回のISによる人質殺害事件では、K.G.記者の行為に「無謀」とか「無理」とか「蛮勇の行為」という意見もあれば、「無欲」とか「無償」、「無私」とかとらえる意見もある。K.G.氏は「無畏」という泰然として畏れのない境地を悟った人という見方もできる。
だが、あえて批判を甘受するならば「なにもしないことにも意味があるのではないか」とも考えられる。我々は得てして、行動とは目に見える業と考えがちである。しかし、人を思いやったり、祈ったり、瞑想したりすることも「なにもしないこと」のようであるが、実は意味あることだと思うのである。
「無駄」を「無」と「駄」に分解すると天と地ほどの違いがあることに気がつく。この気づきが今回のシリーズの主題である。「無」という漢字を広辞苑で調べると実に沢山の用語がある。どれも我々に生き方に関わることばかりである。「無」のことを探求するのは、泥沼の中に身をおくような気分になる。だがあえて暫くこの難題に挑戦することにする。
旅は道連れ世は情け その18 YESとNOの使い分け
「旅は道連れ世は情け」のシリーズは今回で最後とします。これまで大勢の優秀な院生と一緒に学んだり教えられたりしました。院生との思い出はいろいろありましたが、なんといっても毎年実施する海外研修旅行でした。海外での研修は半年前から先方と交渉を始めます。
研修では特に学校の訪問が主たる目的です。先方というのは、友人、知人、紹介された人です。このコネがないと訪問交渉はうまく進みません。こちらがなにを調べたいか、どんな人に会いたいか、どんな資料が欲しいか、などを先方に伝えることからスタートします。
通常、ゼミ生以外にも他の講座の院生に広く呼びかけて参加者を募ります。院生のほとんどは教師なので、研修費用には不自由はしません。しかも、大学院で研究する身分ですから時間はたっぷりあります。
研修旅行に際しては、私の役割は訪問日程を決めてから航空券やホテルを予約することです。院生のこまごました世話をあまりしません。ホテルのチェックインや相部屋の決め方、訪問先への道を尋ねることなどは院生にやってもらうことにしています。皆れっきとした大人。自分でやって貰いたいのです。英語というハードルはそこにはありますが、、、今回の話題は外国の空港での手荷物カウンターでのやりとりです。
手荷物を預けるとき、空港の検査官は、旅行者がなにか不審なものを持ち込まないかを調べるます。そこで簡単な質問をします。
検査官 「おかしなものを持っていないか?」
院生 「はい(Yes)」
検査官 「なにを持っているのか?」
院生 「いいえ(No)」
検査官 「??、、、、」
院生は、「はい、持っていません」と言ったのです。
検査官は、怪訝な顔をしてやおらスーツケースを調べ始めました。そしてビニール袋に入った白い粉のようなものをとり出しました。これで一大事です。Yesと言ってしまったからです。
検査官 「これはなにか?」
院生 「これはTop,,Top,,」
院生は粉石けんという単語を知らなかったのです。ソープではなく「ディタージェント(detergent)」という単語が正解です。Topとは洗濯石けんの名前です。院生は検査官と一緒に別室行きです。それを私たち一行はニヤニヤして見つめます。わたしもあえて院生に助け船を出すようなことはしません。
やがて院生が無事解放されてスーツケースと一緒に戻ってきました。しかし、再度の検査で別な検査官とまたYes, Noのやり取りをやってしまったのです。係官の表情がおかしかったです。「この人騒がせなジャップめ」とでも思ったのでしょう。