文化を考える その28 街角の風景 その8 「聴衆に視線を向ける」

なくて七癖とはよくいったものである。人それぞれに癖があるが、人前では、あまりよろしくない行為はなんとかしたいものだ。先日、図書館で調べものをしているとき、前に座った外国人から「足を振るわせないように」との注意を受けた。振動が伝わって不快な思いをさせたようだ。私は足をブラブラしたり貧乏揺すりをする癖がある。

人前で話をするとき、自分は「あー」、「えー」、「えーと」、「うーんと」などというつなぎがでてくるのを自覚している。文章の末尾に「、、、、と思います」というフレーズも多い。録音を聴きながら「、、、です」と直さなければとなんども言いかせた。だがなかなか改善しない。

以前、トーストマスター(Toastmaster)という団体に属したことがある。トーストマスターとは非営利教育団体で、座を和やかにする話し方、聴衆をひきつける話し方のスキルを高めることを目的とする。世界中にトーストマスターズ・インターナショナルの支部やクラブがある。月刊雑誌を出しているほど活動が活発で、日本にも支部がある。多くは英語圏の人で構成されている。

横須賀にいたとき基地内にある学校で、トーストマスターの例会に出席していた。この例会は英語で進められた。会員は、月に数回定期的に開かれる勉強会に出席することが求められる。会合の進め方だが、司会者からスピーカーや評価者などの役割を与えられる。会員は毎回持ち回りで司会を務める。

例会は時間厳守が求められる。参加者はマニュアルに基づいて準備されたテーマについてのスピーチ、即興スピーチをしなければならない。論評はスピーチの良かったことに対する「褒め」と、建設的な「改善点」の両方を述べることが要求される。私がしばしばこの例会で指摘された改善点である。それは、原稿に視線が向きすぎる、即興で与えられるテーマでしゃべる内容に精通していないこと、流れるようなスピーチの構成となっていないこと、言葉遣いで「ああ、、えーと、」が多いこと、ジェスチャーが不十分で訴える印象が薄い、声の抑揚が平坦であること、などが指摘された。

例会の終わりには、参加者全員による投票で最優秀スピーカー、優秀即興スピーカー、評価者などの賞が与えられる。講師は存在せず、会員同士による話し方のフィードバックによって、話し方を向上するために教育しあうことを活動の柱としている。

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文化を考える その27 街角の風景 その7 終身身分保障制度

アメリカの大学では、終身身分保障を得れば定年がない。研究費をとれるならば、建前上は死ぬまで働いてもよい。これを終身身分保障制度、英語でテニュア、あるいはテニュアトラック(tenure-track)と呼ぶことは前回記した。

アメリカの大学では、通常博士号を取得すると任期付きの講師、ポスドク研究員、そしてテニュアが期待される助教授のいずれかのポジションを取得することになる。基本的にはテニュアによって「審査期間を首尾良く経過し、正当なる理由があるときは、その地位が保障される」のである。テニュアというのは、優秀な研究者に与えられる身分保障制度のこと。これによって学問の自由が保障されると同時に、経済的に安定した生活も保障される。

どの大学でもテニュアになるための基準がある。テニュアの審査応募資格としてはテニュアのポジションに在籍していて、審査期間の5年間に優れた研究業績があり、しっかりした学生指導の実績があること、学部の教務に精励していること、助教授の肩書きを持っていることなどである。テニュアをとろうとする助教授は、いくつかの学内委員会の審査を通過して、大学の理事会が承認することになる。このように研究活動、教育活動、教務活動の全てにおいて優れていることが要求される。

研究活動においては査読付き学術論文を複数発表していることも要求される。審査付学会報告などを複数持っていないとテニュアの取得は困難である。テニュアをとると海外などでのサバティカルリーブ(Sabbatical leave)という自由な研究活動が与えられる。欧米では広く普及している休暇制度である。休暇の期間は半年か一年である。半年の場合は給与は半額が支給され、一年の場合は無給というのが一般的である。

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文化を考える その26 街角の風景 その6 研究者の招聘

今、ネブラスカ大学リンカン校(University of Nebraska at Lincoln)にいる友人のD.H.教授のことである。彼との付き合いからアメリカの研究者の異動についていろいろなことを知った。

彼は小さいとき、ネブラスカのど田舎の学校をでた。どこまでもトウモロコシ畑が広がる大平原の真ん中である。学校は複式学級だったそうだ。田舎だから複式は当たり前であった。その後イリノイ大学アーバナシャンパン校(University of Illinois at Urbana-Champaign)の教授になる。

彼がネブラスカ大学から招聘状がきたとき、イリノイ大学に残るかどうかを考えた。このような「一本釣り」されるような研究者は研究業績に優れ、名が知れている。なによりも研究費を獲得する実績がある。

引き抜くほうの大学は研究者の収入などを調べているので、現在の待遇以上の条件を提示する。例えば1.5倍の給料をだすとか、これこれしかじかの研究環境を用意するなどである。招聘状をもらう研究者は、提示された待遇、大学の研究設備、、同僚となるスタッフの研究状況、子どもの教育環境などを調べ、自分の研究にも家族のためにもプラスになるかなどを考慮する。

D.H.教授は、招聘状をもらったときイリノイ大学に残りたかったそうだ。なぜならシカゴやニューヨークなどに近く研究環境として恵まれていたからだ。そこで、学部長に会い「1.5倍の給料でネブラスカ大学からオファーがきているが、もしイリノイ大学が今の給料を上げてくれれば、残りたい、、、、」と交渉したという。

残念ながら学部長は「予算がないので、給料を上げるわけにはいかない」と言ったのでネブラスカ大学へ移ることにしたという。このような交渉ができるのが面白いところだ。また学部長も予算やスタッフの給料を決める権限があるのは興味深い。

長男が、かつてボストン郊外にある今の大学にレジュメ(研究業績一覧)を送ったときである。書類審査を通過し大学での選考委員会に招かれ面接を受けた。この時、旅費は大学が負担してくれたという。首尾良くポジッションを得て6年後にテニュアトラック(Tenure-track)と呼ばれる終身身分保障を得た。テニュアをとるためにあちこちの大学を渡り歩くことも多いのがアメリの大学である。

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文化を考える その25 街角の風景 その5 電信柱

イタリアの古い街を訪ねたとき感銘したことがある。それは空が広いということだ。オリーブや葡萄畑が広がり、ローマ(Rome)の松が並んでいる。そこを車でのんびりドライブすると、丘の上に造られた城塞都市が見える。オルヴィエート(Orvieto)サンジミニャーノ(San Gimignano)などががその代表的な街である。

オルヴィエートの城門を入るとそこは旧市街。劇場、美術館、聖パトリツィオ(Patrizio)の井戸、ドゥオーモ(Duomo)を持つ聖堂がある。また街の地中を掘り進むだけで遺跡が出てくるという。エトルリア人(Etruria)の墳墓もある。

細く古い石畳を歩くと突然広場がある。人々はのんびりと会話している。お年寄りも観光客も一緒だ。しばらくぼんやりしていると、電信柱がどこにもないことに気がつく。空が広いということは電信柱や電線がないことなのだ。

電線は水道とともに下水道のある地中に埋められているという。このような古い街並みに電信柱は全くそぐわない。洗濯物がひもに吊されて干されている。花の鉢も窓際にある。石造りの街並みは改築がほとんど行われないから電線は地中に埋め込みやすいといわれる。もともと下水道が発達したのがヨーロッパ。避難路としても役割を果たしていたようである。

我が国の観光地からもだんだんと電信柱がなくってきた。例えば滋賀県長浜市の駅前の黒壁のまちづくりにより、電信柱が地中に埋められている。地中化するには時間と費用がかかる。経済性、利便性、安全面などから電信柱がまだま多いのは確かだ。道路計画の当初から地中化する発想が必要だ。美観を台無しにしているのは電信柱である。都市の景観とか美にもっと関心を持ちたいものである。

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文化を考える その24 街角の風景 その4 ガレージセール

アメリカの風物詩にガレージセール(garage sale)とかヤードセール(yard sale)がある。週末になるとあちこちの家の側にガレージセールの立て看がでる。家庭で使わなくなった品物を安く、あるいは無料で車庫の前に沢山の品を並べ提供するという「催し物」だ。隣近所が一緒になって不用になった品を出し、客を呼び込んでいるのもある。

週末、ガレージセールを訪ね歩くのも楽しい。長い冬が終わったあと、あるいは秋に行われることが多い。クリスマスの贈り物をそのまま並べるのも珍しくない。家具、玩具、自転車、芝刈り機、本、大工道具、靴、家庭内雑貨などさまざまだ。T-シャーツなどの衣料品も多い。中には古いブラジャーもパンティもある。皆洗濯はされているが、、

街には家具や衣料のリサイクルショップが結構ある。どこに行っても物を大事に使おうとする気持ちはある。リユース(resuse)という運動である。大消費社会のアメリカだが、意外とリサイクルやリユースは根強い人気がある。家庭を覗いても、古い家具を大事に使っている。一枚板のものだからだ。材木が盛んにとれる国柄からだろう。

車に相乗りするカープール(carpool)も歴史が長い。通常、近所の人など、他人同士が一台の車に乗ることを指す。交通渋滞の緩和や環境対策などの目的で、相乗りで運転手以外に一定数以上の乗員がいると通行料金が無料になったりする。カープール車の優先レーンもある。これもアメリカの公共精神の現れか。

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文化を考える その23 街角の風景 その3 ゴミ処理

我が日本人が誇るべきことはたくさんある。その最たるものは、高い公共精神である。少々古くさいが公衆道徳心と言ってもよい。外国へ行ってみればそれがすぐわかる。パリの汚さ、喫煙者の多さには目を背けたくなる。東南アジアからくる観光客は、口を揃えて日本の街は綺麗だという。時に空き缶やゴミ、煙草の吸い殻が不用意に捨てられているのを目にする。だが総じて街は清潔さを保っている。公共施設、会社やレストラン、路上での禁煙が条例で定められたことも素晴らしい。

高い公共精神の象徴は、ゴミの分別廃棄にあるのではないか。このような徹底さは外国には希である。色の違うビンのまで分けられている。これほど細かく分別されている国は知らない。

私の住む八王子もそうだ。家庭から出る資源ゴミのうち、排出頻度が高い約980品目を50音順に掲載している。資源ゴミである空きびん、ペットボトル、空き缶、紙パック、紙製容器包装、プラスチック製容器包装などの回収日が決まっている。「燃やせるごみ」、「燃やせないごみ」、「大型ごみ」は有料。可燃ゴミの中に缶やビンが誤って混じっているときは、その袋は警告紙がついてそのまま玄関脇に放置される。

こんなことばアメリカにはない。アメリカはゴミ処理では大いなる後進国である。集荷日になるとビンや缶を除き、大きなプラスチックのゴミ箱を道路側にだす。それをダンプカーのようなトラックが来て、ゴミ箱を高々と持ち上げ空にしていく。

我が国のゴミ処理の課題は放射能で汚染された「指定廃棄物」にある。汚染水、焼却灰や汚泥や土壌などなど増え続けている。どこで誰が誰が引き受けるかとなると尻込みしたり反対する。公共精神も少々自信がなくなる。

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文化を考える その22 街角の風景 その2 コロニアル様式

現在放映中のテレビ小説「花子とアン」の冒頭に、広大な平原と澄みきった青空に帽子が飛んでいるさまがでてくる。そして丘に建つコロニアル様式(colonial style)の一軒家が登場する。このシーンを見るたびに、長男の家を思い出す。あまりにそっくりなのだ。「花子とアン」では、いよいよ暗い戦時下に突入だが。

このドラマの原作は「赤毛のアン(Anne of Green Gables」。 カナダはニューブランズウィック州(New Brunswick)のプリンス・エドワード島(Prince Edward Island)にあるキャベンディッシュ(Cavendish)という街が舞台である。地図で調べるとプリンス・エドワード島はセントローレンス湾(Gulf of St. Lawrens)にある。五大湖が大西洋に流れる出口だ。このあたりもニューイングランド(New England)と呼ばれる。「赤毛のアン」は、カナダの小説家、ルーシ・モンゴメリ(Lucy M. Montgomery)によって書かれた。

さて、コロニアル様式の家についてである。名前は17世紀から18世紀にかけてイギリスやオランダ、スペインで発達した建築様式である。その特徴は、切り妻の屋根、建物の正面にポーチがつき大きな窓とベランダがつく。煙突もある。中には暖炉があるからだ。建物は二階建てで白いペンキで覆われる。二階の屋根にはアーチ型の窓がつきでている。外側の柱はギリシャ様式のような飾りがつく。

コロニアル様式の建物は、アメリカ中西部やニューリングランド(New England)に多い。住宅やアパートだけでなく教会、集会所にもみられる。その最も知られる建物は首都ワシントンの郊外、マウント・ヴァーノン(Mount Vernon) にあるワシントン邸宅(George Washington Mansion)であろう。

マウント・ヴァーノンを訪ねたのは長男が7歳の時。彼はアメリカの歴史を勉強していた。彼の希望で第3代大統領を務めたトーマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson)の邸宅のあるヴァージニア州シャーロッツビル(Charlottesville)のモンティチェロ(Monticello)に行った。ヴァージニア大学(University of Virginia)もある。ここの建物はほとんどがコロニアル様式である。全米で最も美しいキャンパスといわれる。

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文化を考える その21 街角の風景 その1 郵便箱

街には色々な表情があるというのが話題である。長男の家は、ボストンの郊外、Princetonという人口3,400人位の街にある。州立公園ワチューセッツ山(Wachusette Mountain)の裾野にある。夏はハイカー、冬はスキーヤーで賑わう。

田舎住まいというのは、快適さとともに不便利さもある。庭が広いので春から秋まで1週間ごとに芝刈りをしなければならない。芝刈りによって芝の生育がよくなる。それに景観もよくなる。防犯対策にもなる。冬は車道まで除雪をしなければならない。そのためにワンサイクルエンジンの除雪機も持っている。

この小さな街には郵便局は一カ所ある。だがわざわざそこまで出掛けて投函することはない。家の前の車道の脇にかまぼこ型の郵便受けの箱を置いてある。家の番地もついている。この箱は新聞も入る大きさである。箱の脇に赤いバー(旗)がついている。この郵便受けは投函箱ともなる。出したい手紙を箱に入れ、バーを立てておく。郵便物があるという印である。これは田舎だけでなく、都会の一軒家のどこにもある光景である。

郵便車のハンドルは日本と同じく右側についている。配達人は車から降りず郵便箱の側に駐車し、立ててあるバーの箱を開き郵便物を集荷する。もし、切手を貼り忘れたまま投函しているときは、その場で郵便箱に返却される。一旦郵便局に集荷されてから返却されるまでの時間が節約される。郵便物を入れると配達人はバーを立てて新しい郵便があることを住人に知らせる。

アパートや分譲マンションに住む場合、curve-side mail stationと呼ばれる道路脇共同郵便受けがあって数軒の郵便受けが一カ所にまとめられている。建物の玄関にあるのが普通であるが。大きな郵便物は1Pと書かれた大ロッカーに保管される。自分の郵便受けにはその鍵が入っている。ここに入りきらない場合は家まで直接届けてくれる。書留の場合は不在票が挟まれる。大ロッカーの上にあるのは投函用のポスト。わざわざ投函のために出かける必要がない。

請求書がきたときは小切手を郵送するので、現金がなくなることはない。だが犯罪は時々起きる。

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文化を考える その20 それぞれの家族史 その12 心筋梗塞と食生活

心臓発作はアメリカでは年間100万人以上、日本では15万人以上が襲われるといわれる。遺伝の他、食生活の違いから肥満が多いのがアメリカである。人口の割合からしても日本のほうが発症率は低い。アメリカに行って驚くのは肥満の人が多いことではないか。子どもも例外でない。多くの教育委員会にはジャンクフード(junk food)といわれるハンバーガー(hamberger)などを安易に食べないよう指導しているところもある。

脂肪、カルシウム、蛋白質などが血管に付着、蓄積し動脈硬化などを引き起こす。血栓(crot)は血流をふさぎ、酸素が心臓に届きにくくなる。そして心筋の壊死(infarction)をもたらす。

心臓発作が起きる前兆はいくつかある。脈初の以上、胸痛、冷や汗や嘔吐、呼吸困難、倦怠感、などである。こうした状態は30分くらい続くといわれる。以上のような前兆なしに突然起きる心臓発作もある。これを”silent myocardial infarction”といわれる。長男の嫁の父親はこの種の発作だという。彼は私より若いが肥満だ。にも関わらず年間300回もゴルフをしている。私も何回かつきあわされた。山歩きも大変だが、ゴルフというのは意外と体力のいるスポーツだ、という印象である。

長男との会話による父親の術後の様態である。心筋梗塞の治療には8週間くらいかかるようである。治療後は心臓のポンプ力は低下するそうだ。なぜなら心筋は再生せず元通りにならないからである。

心筋梗塞はだれにでも起こりうる疾患といわれる。糖尿病の人に発生率は高いようだ。私も心臓内科の専門医であるホームドクターのところで毎年健康診断を受けている。心電図検査では、昔から不整脈の疑いが指摘されている。

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文化を考える その19 それぞれの家族史 その11 心筋梗塞

先日のことである。朝メールを開くと長男の嫁の父親が心臓発作(heart attack)で倒れ、救急車で搬送されたとあった。ニューハンプシャー州(New Hampshire)のハンプトン(Hampton)での出来事である。早速電話すると、時差の関係でまずはメールで知らせたとのことだった。応急措置をする間、三度も心拍が停止したようだ。

発作は家で起こり、すぐ病院に運ばれ処置が速かったので心臓は蘇生した。心筋梗塞(myocardial Infarction)によるものと診断され、致死的な不整脈(arrhythmia)である心房細動(fibrillation)が誘発されたようだ。

心臓発作の英語はheart attackであるが、心筋梗塞はmyocardial infarctionと呼ばれる。myoは筋肉、cardial は心臓、infarctionとは血流不足による心筋の梗塞とか壊死という意味である。血管に血栓(blood clot)ができて閉塞し、血流が途絶えたようである。

病院では、ステント(stent)の注入の手術が二度行われた。ステントととは、閉塞した冠動脈(coronary artery)の組織を広げる細長い網状の器具である。様々な病変にあうように長さや太さのものが使われる。カテーテル(catheter)によって挿入されるステントには小さなバルーンが取り付けられ、患部にくるとバルーンが開きステントも広がる。装着が終わるとバルーンは萎んでステントだけが残る。そしてカテーテルをとりだす。この手術はもうすでに10年以上前から使われているという。

幸い命はとりとめ、呼吸器がはずされ会話しサンドイッチをほうばるくらいに回復している。筆者も医学用語辞典をひきながら心筋梗塞の原因、前兆、症状、治療方法などを調べてはノートに筆記している。

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文化を考える その18 それぞれの家族史 その10 Social Security

先日、引き出しの中を整理するとアメリカで取得したソーシャルセキュリティ・カード(Social Security: SS)が出てきた。アメリカの社会保障とか年金の受給に必要なのがこのSSカードである。

SSカードは市民だけでなく、永住権を持つ者、外国人居住者、学生などにも発行される。9桁の番号となっている。SSカードは日常生活でも大変便利なもので、例えば口座の開設、公的書類の提出、就労の際に提示を求められる。運転免許状と同じく身分証明書の代わりとなる。子どもが生まれるとSSカードを作る。これは扶養控除の申請に必要となるからである。

アメリカのSSは、国民が全て社会保障に加入しなくてもよいことになっている。人々が将来、保障を受けるためには、労働による所得から税を支払うことである。社会保障局のパンフレットによれば、所得に応じて税率が決められ、雇用主と被雇用者の双方が納める平均的な利率は7.65%となっている。31歳から42歳の場合、就労期間は5年が必要であり、この場合20ポイントが与えられる。1ポイントあたり年間1,200ドル、最大4ポイントまで支給される。62歳になるまでは最低10年間の就労で40ポイントを貯めておく必要がある。

保障の内容であるが、まずは退職年金(Retirement benefits)である。62歳以降に支給される。次に医療補助(Medical insurance: Medicare)である。そして障がい年金(Disability benefits)である。

さてSSカードが出てきたのを機に、社会保障の恩恵を受けられるかを試すため、インターネット上で支給申し込みをした。受けようとしたのは退職年金である。数ページまたがる詳細な様式に記入して送信した。すると数日後に結果を知らせるというメッセージがでてきた。案の定、「受給資格は無し」という文書が郵送されてきた。もっともウィスコンシン大学時代はアルバイトばかりをして、税を全く納めていなかったから当然である。

年金を受給しようとする意図は全くなかった。ただ、社会保障局の対応がいかなるものかを知りたかったのだった。それと申し込み結果の通知が迅速だったことには満足した次第であった。

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文化を考える その17 それぞれの家族史 その9 司書の養成の違い

図書館法による司書及び司書補の資格は、第5条に規定されている。この資格は、図書館学関係の科目が開講されている短期大学や四年生大学で、要件とされる単位を修得して卒業するか、自治体に就職して3年以上図書館勤務になった者が司書講習を受講して得られることを前回触れた。

我が国の主要な司書養成機関についてである。1979年に国立図書館情報大学がつくば市に設置された。修士課程は1984年に、博士課程は2000年に設置された。だが2002年に図書館情報大学は筑波大学に統合され、図書館情報専門学群となっている。ここが我が国の司書を養成する最も整った大学なのだが、、、

さて、アメリカの司書養成の歴史である。1887年にはじめてコロンビア大学(Columbia University)にLibrary Schoolが設立される。アメリカの大学では学部をSchoolと呼ぶのが習わしである。その後多くの大学でLibrary Schoolができる。たとえば、1928年に全米最初の図書館学の修士課程がシカゴ大学に(University of Chicago Gradute Library Science)できる。これは図書館学(Library Science あるいはLibrary and Information Studies)と呼ばれるようになる。1931年、ノースカロライナ大学(University of North Carolina-Chapel Hill)などに図書館学の大学院が、さらに1948年にはイリノイ大学(Unversity of Illinois, Urbana-Champaign)に博士課程ができる。

こうした司書養成の大学のカリキュラムは、全米図書館協議会(American Library Association-ALA)が認定機関(Accreditation)となり、設置が認められる。アメリカの大学はこうした民間機関に所属することによって、修了者に資格を付与する権限が与えられている。このように司書になるためには、Master of Library Science-MLS、あるいはMaster of Library and Information-MLIという修士号が不可欠となっている。

我が国のどれだけの司書が図書館学の修士号や博士号を持っているだろうか。司書の世話になった者としてその資質と力量に大いに関心がある。

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文化を考える その16 それぞれの家族史 その8 司書の仕事

ウィスコンシン大学での苦節の6年あまり、図書館の専門職である司書(Librarian)にひとかたならぬお世話になった。その専門性には舌を巻いた事を前々回記した。

私は北海道大学と立教大学で学び、その後は国立特殊教育総合研究所と兵庫教育大学で仕事をした。それまで図書館の世話になった思い出は全くない。利用の仕方を知らなかったというべきか。振り返ると日米の大学の違いは、大袈裟にいえば図書館の置かれている地位と司書の専門性、そして図書館学の位置づけにあるのではないかと考える。

我が国とアメリカの司書養成の仕組みや内容を調べると、そこに大きな違いがあることがわかる。まず、我が国では司書となる資格は図書館法に規定する公共図書館の専門職員となるためとなっている。しかし、公共図書館の大部分では、司書の資格を取得した者を専門職として採用する人事制度がない。事務職員としての採用制度だからである。

司書資格の取得方法は二つある。大学の正規の教育課程の一部として設置されている司書課程と、夏季に大学で集中して行われる司書講習がある。大学の司書課程はそのための全国統一的なカリキュラムが、図書館法の制定以来、現在に至るまで作成されていない。専門性に必要な科目の単位数が少なく、司書講習に相当する科目の単位の認定を受けて、大学を卒業すれば司書資格を取得できてしまう。

次に司書講習である。本来現職の図書館職員向けのものとされているため単位認定が甘く、「暇と講習料さえあれば取得できる資格」といわれるほど講習内容が貧相でいい加減、おざなりな講習会といわれる。

我が国の司書に関する根本的な課題とは。それは司書の専門性と役割を重視しない風土、そして図書館学(Library Science)の未熟さである。このことをアメリカの大学で苦労した経験から学んだ。

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文化を考える その15 それぞれの家族史 その7 ガンと次女

次女の恵美はウィスコンシン大学で生物学を学び、卒業後首都ワシントンDCにあるジョージ・ワシントン大学(George Washington University)の大学院で公衆衛生学のMAをもらっている。そして今は、ウィスコンシン大学の看護学部(School of Nursing)でターミナルケアの看護師を目指しているところである。母親のターミナルケアに就いて、訪問看護師からいろいろな処置方法を学ぶうちに、自らも看護師を目指すようになったようだ。

乳ガンの手術を受けてから幾度となく小さなガンが発生し、その都度抗ガン剤の投与を続けて30年が経った。だが、ガン細胞の根絶にはいたらなかった。今、ガン研究の最前線は、胚性幹細胞というガン細胞を作る源を死滅させる薬の研究である。この胚性幹細胞は、Wikipediaによると自らと全く同じ細胞を作り出す自己複製能と、多種類の細胞に分化しうる多分化能というまことにやっかいな性質がある。現在の抗ガン剤は胚性幹細胞を根絶することができない。世界中の研究者がこの開発にしのぎを削っている。誰が最初に開発するかは問題ではない。人類の幸せに誰が最初に貢献するかである。

沖縄の生活に時間を戻す。1981年頃、教会がつくった幼稚園で恒例の健康診断が行われた。その結果、次女の血液型がRh- であることが判明した。少々驚いたのは、やがて彼女が結婚したとき、相手がRh+の不適合妊娠でも初回なら胎児への影響はないが、2回目以降の妊娠で母児血液型の不適合が起こりえる可能性があることであった。

大きくなって次女にはRh- のことを告げた。やがて彼女高校や大学で血液型については学んだようで、今の旦那と結婚し二人の娘を育ている。旦那もRh-だから孫娘のRh-である。老婆心ながら、怪我の場合の輸血などを考慮すると、小さいときから血液型は教えておくようにと伝えている。次女の飽くなき学びの意欲には、母親の30年間のガンとの闘いという後押しがあるからだと思っている。

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文化を考える その14 それぞれの家族史 その6 闘いの始まり

家内の治療にあたる主治医は同じく地元ロータリークラブ会員であるウィスコンシン大学病院のDr. George Bryan教授であった。化学療法であるガン治療をChemotherapyという。この治療法について丁寧に説明してくれた。

それによると、抗ガン剤はたくさんの種類があり、それを組み合わせて治療すること、患者の様態をみながら薬の配合を変えるなどとのことだった。これを多剤併用療法という。こうした多剤併用による治療の効果は、前回触れた全米の病院を網羅するネットワーク上のデータベースによってわかるのだという。

手術後にすぐ、病院の廊下を歩くことが医師に勧められた。そして一週間後に退院。患者によっては、病室よりも家庭のほうが治りが早いという。Dr. Bryan教授は私が苦学生であることを知っていたので、高い入院費のことを心配してくれ、自分が受ける報酬を返上してくださった。幸い私は家族の保険に入っていたので、診断から治療まで保険でカバーされた。一セントも払う必要がなかった。保険がなかったら大変な事態になっていた。

抗ガン剤が処方され治療が始まった。投与のたびに頭髪が抜けた。小学生の次女はそれが因で登校できなくなった。母親との離別を恐れたようだ。その年、30日間不登校が続いた。我が家、最大の危機の年であった。

手術後、大学病院のチャプレンと呼ばれる牧師、そして乳ガンを患ったという女性ボランティが病室にやってきて家内を激励してくれた。ボランティアが病院にいるのもこのとき始めて知った。家内は治療が落ち着いてくると、近くのサンドイッチ店でアルバイトを再開した。母親が仕事に出かけると次女も学校へ行き始めた。私も博士論文の仕上げやアルバイトで急がしかった。

今、当時の子どもたちの心情を思い起こしている。

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文化を考える その13 それぞれの家族史 その5 次女

次女の名は恵美・ライナー(Emi Reiner)。8年ほど前にアメリカ国籍を取得した。今、マディソンで11歳と9歳の娘を育てている。長女と一緒の街に住む。旦那はドイツ系のアメリカ人で福音系のクリスチャン、連邦政府の材質研究所で研究員として働いている。

彼女は今大学に戻り、看護師になる勉強をしている。来年は念願の看護師になれると張り切っている。長い間乳ガンと闘ってきた母親を自宅で引き受けてきた。ターミナルケアである。孫娘らに看取られ一昨年の7月28日に昇天した。

母親のガンは1981年に見つかった。丁度沖縄に帰省していたときだ。すぐマディソンに戻り診察を受け、数日後に手術となった。私のロータリークラブのスポンサーであるDr. David Gilboe氏は大学病院の教授であった。その方の紹介で外科医を紹介してくれた。手術前に同意書に署名した。

手術の経過を聞くと、胸の周りにある12のリンパ腺に既にガン細胞が広がっていて全て除去したとのことだった。最悪のガンの一つで、術後一年内に死亡するのは50%だという。この数字は全米の大学病院や総合病院をつなぐネットワーク上のデータベースによってわかるのだそうだ。ガンの種類、人種、年齢、治療法などを組み合わせることによって、生存率がわかるということだった。

ネットワークといえば、論文などを書くとき、関連情報の検索によって主要な文献を集めたことである。この作業をしてくれたのが大学図書館の司書であった。いろいろなデータベースを次々と調べこちらが欲しい論文などを検索してくれる。その力量には驚いた。

ガン研究と治療もネットワークの進展に支えられている。

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文化を考える その12 それぞれの家族史 その4 ”Sage Ozawa”

長男の長男は今14歳。私の最初の孫である。今、ボストン交響楽団(Boston Symphony Orchestras)の下部組織、ボストン・ユース・オーケストラ(Boston Youth Symphony Orchestras-BYSO)に所属し、第一ヴァイオリンで弾いている。毎年、年長のオーケストラに入るためのオーディションがある。週末は、長男か嫁が自宅から1時間のところにあるボストン大学での練習に連れて行く。春や夏は集中合宿がある。長男も長らく個人レッスンを息子にしていたが、今は技能が追いつかないので別の人をレッスンに頼んでいる。費用も相当かかるようだ。この孫はボストン音楽院(The Boston Conservatory)への進学も考えているようだ。

ボストン交響楽団といえば、小澤征爾を知らぬ地元の人はいない。ボストン交響楽団の音楽監督を1973年からは2002年まで務めるというレジエンド(Legend)なのである。30年近くこのオーケストラを指揮してきたのは、小沢をおいて他にいない。彼の人気は今もボストンでは絶大である。

マサチューセッツ州西部バークシャー郡(Berkshire County)にタングルウッド(Tanglewood)という小さな街がある。長男宅から車で90分のところだ。そこでは毎年夏に世界的に有名な音楽祭、Tanglewood Music Festivalが開かれる。この音楽祭の中心はボストン交響楽団であり、小沢はその音楽監督にも就任した。その功績を記念して日系企業の寄付でSeiji Ozawa Hallというコンサート会場までつくられている。

ボストン交響楽団の指揮者では小沢を遡るが、1949年から1962まで指揮棒を振ったのがシャルル・ミュンシュ(Charles Munch)である。私が大学生のときであった。ミュンシュによってボストンやボストン交響楽団を知ったのである。忘れられない指揮者である。

Charles Münch Charles Munchseijix345 小澤征爾tanglewood Tanglewood Music Festival

文化を考える その11 それぞれの家族史 その2 サッカー

長男の次男は地元のボストンの郊外にあるサッカークラブに所属してプレイしている。長男によると、なんらかんらで年間の費用は20万円位となるそうである。今年の4月、チームはサッカーの本場スペインのバルセロナに遠征し、地元の少年チームと親善試合をしてきた。親が同行するという条件であった。すべて本人の負担であった。そこで筆者も援助を申し出、ついでに物見遊山で出掛けた。試合の前後は観光を楽しんだ。バルセロナの少年の力量は段違いで5試合すべて完敗した。

前回の女子ワールドカップの時である。決勝戦では、長男家族は嫁の実家に出掛けて試合を観戦した。試合は最後までもつれる好試合となった。アメリカがリードすると日本が追いつく白熱のゲームとなった。最後はPK戦となり日本の勝利となった。観戦中、アメリカを応援する孫たちを日本国籍の長男は黙って観察していたという。アメリカチームの敗北に、孫たちはがっかりしたようだ。そして長男に「日本へ戦争で仕返しする」と皆にきこえるように呟いたそうだ。

女子ワールドカップの敗北は、孫にはよっぽど悔しかったに違いない。スポーツと戦争は別次元の話だ。父と子が戦争に巻き込まれるなど想像するだけでも恐ろしい。だが、心置きなく冗談がいえ、腹蔵なく話せるのも親子だからだ。とはいえ長男には日米の決戦には複雑な思いで観戦したのではないか。こんなところにも国籍の違いや日米のことが話題となる。

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文化を考える その10 それぞれの家族史 その1 永住権

異文化体験については、さまざまなことが身の回りにある。成田家の歩みは、戦後の引き揚げを哀史を交えると史実になるような話題に満ちている。私小説が書けるくらいである。今それを真剣に考えている。

子ども3人はアメリカで育ち、教育を受け、仕事を得、家庭を持っている。長男が大学院時代、1990年8月湾岸戦争が起こった。その前月、選抜徴兵法が施行された。国民の男性と永住外国人の男性に連邦選抜徴兵登録庁への徴兵登録を義務化するものだった。彼は永住権を取得していたが、兵役に志願しなかった。それ以来、市民権の申請をためらってきた。幸い職に就き、結婚して家を持つことができた。

兵役に就くことは危険と隣り合わせではあるが、アメリカでの生活を円滑にするための有力な近道である。除隊後は大学で学ぶ奨学金(Pell Grant)が与えられる。経済的に貧しい階層の兵役志願率が高くなる。兵役は市民権を申請することのできる要件ともなる。

アメリカに住み仕事を得るには永住権が必要となる。通常であれば数年から10年くらいの時間と弁護士費用がかかる。ポートピープルなど人道上、配慮されるべき外国人は別である。さらにアメリカで多額の投資をする人々は優先的に永住権が所得できる。たぐいまれな頭脳の持ち主もそうだ。だが成田家はそのどれにも当てはまらなかった。

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文化を考える その9 見捨てられた人々 その2 棄民

戦後、外地に取り残された人々は「棄民」と呼ばれた。成田家はすべての財産を失い「引揚げ者」、あるいは「引揚げ民」として北海道の稚内に上陸した。筆者3歳の時である。親戚の反対をよそに移住したのが樺太であった。そのような経緯で引揚げというのは、親戚に顔を会わせにくいという心情があったようだ。

満蒙開拓団のことに戻る。もともと開拓団は関東軍の保護の元に開拓に従事するはずであった。しかし、ソ連の参戦によって残りの兵隊や関係者はいち早く満鉄を利用し、ハルビンや長春、大連などへ撤退し始めた。置き去りにされた開拓団は自力で逃避行をせざるを得なくなった。開拓団の逃避行の有様は、いろいろな手記に残されている。山崎豊子の小説「大地の子」にも記述されている。

棄民は満蒙開拓団だけでない。戦前、ブラジル、メキシコ、ドミニカなどの中南米諸国へ移民した人々もそうだ。移民の募集要項を信じて、親族の反対を押し切って一切の財産を処分し、こうした国々に移住していった。ところが、入植地としてあてがわれのは、未耕地で開墾作業から始めたという。多くの者は開拓を断念し帰国したが、もはや安住の場所は少なかった。

戦後、全国各地の農村で「引揚者村」と呼ばれた移住用集落がつくられた。割り当てられた所は痩せた土地が多かった。千葉県成田市の三里塚にも引揚げ者村がつくられた。元満蒙開拓団員も三里塚にやってきた。1966年、佐藤内閣は閣議で成田空港の建設地として三里塚、芝山地区を決定する。国の土地強制収容に反対する三里塚闘争が始まる。国策で欺された元満蒙開拓団員は「怨念」のプラッカードを掲げ、長い闘争に参加した。

女性も国策によって看護婦として満州に送られ、中にはシベリア抑留を強いられた。ソ連兵に連れ去られ暴行された者もいた。そのドキュメンタリーが数日前に放映された。やがて故郷へのダモイー帰還がやってくる。だが抑留という過去の経験を親戚や知人が嫌がるのではないかと思い巡らし、帰国はつらいものとなったようだ。誰も尋ねない誰にも語れない、深い傷を背負った帰還となった。

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