留学の奨め その11 リベラルアーツ教育と国際系学部の新設

リベラルアーツを標榜する大学が日本でも増えているようだ。特に「国際リベラルアーツ」を掲げる学部の新設が相次いでいる。こうした学部のカリキュラムを国際系リベラルアーツと呼ぶのだそうだ。だがリベラルアーツの雄は国際基督教大学(ICU)。1949年に創立され、「国際的社会人としての教養をもって、神と人とに奉仕する有為の人材を養成し、恒久平和の確立に資することを目的とする」とある。戦後間もなくのことである。

かつて筆者も北海道大学の教養部で1年半を過ごした。東京大学にも教養学部があった。リベラルアーツ教育が重視されていた。だが、教養部の勉強は高校の延長のようなところもあった。目新しいことといえば、ドイツ語とフランス語のいづれかが必須であったことだ。それから哲学入門とか人生論ノートなどの本がたっぷり読めた。今思えば、筆者も海外での学びに至ったのは、この教養部時代からなんらかの影響を受けたといえる。

国際リベラルアーツのカリキュラムであるが、原則英語での授業、国際教養科目の充実などを強調している。また外国人留学生との交流とか留学を義務付けるというのもある。これといって珍しいことではない。国際系学部は私立だけでない。長崎大学が新設を検討している人文・社会科学系学部の概要だが、世界の政治や経済、文化を学べるコースを用意し、国際的に活躍できる人材を育てる拠点にするのだそうだ。

なぜこのような様相になってきているかである。それは国の指針「グローバル人材育成戦略」があり、大学はそれに沿って学部を新設しようとしている。我が国を取り巻くグローバル化は急速に進展しているといっても、1990年後半からの海外留学生数の減少、海外勤務を希望しない内向きの学生の増加が報告されてきた。そのため、政府もこのような状況を危惧し「グローバル人材育成推進会議 審議まとめ」を発表した。「高校・大学、企業、政府・行政、保護者等が積極的に若い世代を後押しする環境を社会全体で生み出すことが不可欠」と提言している。これが文部科学省の「スーパーグローバル大学創成支援事業」につながっている。

最近の報道では、大阪や山梨の私立大も「外国語・国際系学部」(仮称)をつくろうとしているそうだ。だが国際系学部は過当競争に陥りつつある。筆者には大学間の差別化が難しくなっているように思える。学生募集に奔走している姿が映る。大学が新しい学部をつくりグローバル化の牽引役になろとしても、そうたやすくことが運ぶものではないはずである。

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留学の奨め その10 米国大学への留学生の増加

米国のシンクタンク(think tank)、国際教育研究所(Institute of International Education: IIE)が発表した2013〜14年度の米国の大学や大学院への留学生の統計は興味深い。国際教育研究所はフルブライト財団の支援によるFulbright Programを主宰したり、国内外の留学生を支援する、いわば米国における国際交流教育推進の旗艦組織である。

この統計によると前年度と比較して8.1%増の約88万6千人で、留学生の総数は1,107万5千人であるという。米国は留学生で支えられているといってよいほどの数字である。率直にいって米国の大学への留学はやはり高い人気があるという印象である。

国別の留学生の数だが、第1位は5年連続して中国人で、27万4千人とあり、これは前年の16.5%の伸びで留学生全体の31%を占めた。第二位はインドで10万3千人の6.1%の伸び、第三位は韓国となっている。日本からは1万9千人。前年度より6.2%減っている。この減少は9年連続して続いている。1990年後半の留学生のピークだった頃と較べで半減してしまったといわれる。

留学生の増加の伸びでいえば、最高はサウジアラビアからの留学生の伸びが21%で5万4千人となっている。ブラジル、クエートからの留学生も大幅に増えている。この理由は国費留学生の増加であるという。

米国の大学で留学生が増加する第一の理由は、優れた高等教育を受けられる環境があるからである。留学中に学位を取得すれば、自国に帰ったときその身分が優遇され、地位や高所得が約束されている場合が多い。今も留学は大きなステイタスとなっている。

第二は派遣先の国内で、高等教育機関を十分な早さで作れないなど、人材養成が追いつかず、そのために留学生が増えているという状況である。若者の向学心を満たす教育や研究環境が不十分ということだろう。

第三は米国は伝統的に留学生の出身国がどこであれ歓迎するという姿勢をとっていることである。中国やインドだけでなく、キューバやイラン、ベネズエラからもたくさんの留学生を迎え入れている。しかも留学生の授業料は高い。大学にとっては大事な収入源ともなっている。

米国との外交関係が緊迫した状態にある国からも米国には留学生が押し寄せている。国際間の緊張が続くとはいえ、留学生を受け入れる体制、例えば人権の尊重、政教の分離、安全が整っているからだと考えられる。

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ollege of Holy Cross                                                 小村寿太郎

留学の奨め その9 研究者の仕事探しと異動

今回はアメリカの研究者の異動に関する話題である。若手の研究者とって、大学での仕事探しはどこも大変なものである。 彼らは業績やキャリアが不足しているので、誰もが通過しなければならない難関である。大学におけるポストの空きの広告がでると、自分の研究分野をにらみながら応募することになる。

はじめは、自分の研究業績のレジュメ(resume)を大学に送る。研究業績にはポスドクの経歴も入る。この書類審査を通過すると大学での人事選考委員会に招かれる。この時の旅費は招く側が負担する。ここが日本と違うところだ。首尾良くポジッションを得るしても、大抵は3年の雇用契約である。ここから終身雇用身分であるエニュア(tenure)への途が始まる。雇用契約が切れ更新がないとまた仕事探しである。まるで渡り鳥のように転々とする。その間業績を増やしていく。米国にもコネ(old boy connection)が働く。

もう一つは、大学が特定の研究者に招聘状を出す場合である。招聘する側からの一本釣りである。こうした研究者は研究業績にすぐれ、名が知れた人達である。引き抜く方の大学はその研究者の収入などを事前に調べ、それ以上の条件を提示する。例えば1.5倍の給料をだすとか、という具合である。指名された研究者は、提示された待遇、大学の所在地の環境、同僚となるスタッフの研究状況などを調べ自分の研究にプラスになるかなどを考慮する。

このとき、研究者は自分の上司や学部長などに「他大学から1.5倍の給料でオファーがきているが、もし大学が今の給料を上げてくれれば残るが、、、、」と交渉するのである。学部長が「お前に残って欲しい。給料を上げよう」といえば、他大学からのオファーを断る。「予算がないので、給料を上げるわけにはいかない」といえば、移ることになる。このように交渉が可能なのが面白いところだ。また学部長も予算やスタッフの給料を決める裁量を持っているのも驚く。

総じて米国の大学における研究者の給与は高いが、雇用契約や安定度に関しては研究職は日本よりも厳しい市場である。

tenuretrackstructure_new tenure_cartoon  “一つの扉はテニュア、もう一つはマクドナルド行きの扉だ”

留学の奨め その8 学長選び

アメリカの大学ではいろいろなことが話題となる。学長(President or Chancellor)の発言が報道されることが多い。フットボールコーチのほうが学長より年俸が高いとか、リーダーシップが強過ぎるといったことも取り上げられる。特に学長選びは新聞紙上を賑わせる。大学運営で最も大事なことだからだ。

学長を選ぶのは大学の理事会(Board of Regents)である。学内での学長選挙などない。どんなに高名な教授でも学長にはなれない。理事会は候補者をいろいろな基準をあてて、全米から探す。そしてねらいを付けた数名の候補者を大学に招いてヒアリングをやる。ヒアリングは公開される場合もある。ヒアリングの後はパーティまで開いて候補者と理事、参加者が懇談するというあっけらかんさもある。

学長は研究者から選ばれる。研究業績、政府とのパイプ、学会活動、研究費の獲得などが選考の基準となる。そして、大学運営にかかわってきた経歴も重視される。ノーベル賞受賞が学長に選ばれるなどとはきいたことがない。ほとんどの場合彼らは大学運営では全くの素人である。

かつて兵庫の小さな大学で働いていたとき、3年ごとの学長選挙を経験した。以前は、教授に投票権があってそれ以外の教員は傍観する有様であった。選挙が公示されると立候補者の推薦陣営が水面下で運動をやる。陣営の活動は、出身大学を出たものが仲間を誘い込むというものである。筆者は、こうした地元の大学出身ではない、いわば地盤も看板もないアウトサイダーのような存在であった。それゆえ、立候補者の陣営から盛んに電話がかかってきた。

そして投票日。立会人は候補者の側から選ばれる。彼等は投票行動をじっと見つめる。筆者のような「無党派層」は特に注目される。「成田」というのと「朝野」というのが学長に立候補しているとする。記名するときは、後者のほうが時間がかかる。立会人はそれを見て、「誰それは誰に票を投じた」とわかるそうだ。まるで田舎の町長や村長選挙のようである。実にくだらない話しだが、こんな学長選びが10数年前まで行われていた。蛸壺の中のような大学運営であった。今は、理事会が実質的に決める。欧米にならった学長選びだ。

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North Carolina State University Chancellor, Randy Woodson

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University of Wisconsin Chancellor, Rebecca Blank

留学の奨め その7 Intermission 週末の学生生活

留学生の米国生活のことは、別に目新しいことではない。だが苦学した筆者には普段の院生の日課とはかけ離れた毎日だった。それは家族を抱えてアルバイトに専念しなければならなかったからだ。授業のない土日は家族を支える金子の稼ぎ時だった。

大学は日曜日の午後から始まる。週末をのんびりすごしたり、フットボールで浮かれた学生はぞくぞくと図書館にやってくる。アメリカの学部だが、授業に休講はない。基本的に詰め込みの連続である。大教室でも私語はない。出欠とりもない。だが教室は学生で一杯だ。試験が2回、そして小論文が一つ課されるのが普通である。そのために勉強は大変である。大学院も然り。授業時間は1日平均すると3時間程度、留学生であればその前に与えられるアサインメントのための予習、そして復習をこなすのに5、6時間はかかる。

学期は二期制。9月〜12月と1月〜5月である。学期の末には卒業式がある。それぞれ16週間の学期は各々独立していて異なる科目を履修する。7〜8週間ごとに中間と期末テストがあり、加えてそれぞれの科目について10枚くらいの小論文を提出しなければならない。だから金曜日になると、ヤレヤレという気持ちになる。この緊張のとけた空気のことを “TGIF(Thank God, it’s Friday)” と呼ぶ。”神様、ありがとう。ようやく金曜日が来ました ” という雰囲気である。金曜日の午後は授業はない。午後4時頃になると構内は閑散となる。学生はつかの間の羽目を外す時間がくる。

1学期、16週間という速いペースに馴れると、学生生活を楽しむことができるようになる。

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留学の奨め その6 図書館司書の優秀さ

筆者は北海道大学と立教大学で学び、その後はウィスコンシン大学で学位をとり、国立特殊教育総合研究所と兵庫教育大学で仕事をした。だが日本の大学の図書館で世話になったことは全くない。なんでも自分で検索などの作業をしなければならなかったからだ。有能な図書館司書(librarian)がいなかったということだ。

今回の話題は図書館司書の専門性と養成についてである。振り返ると日米の大学の違いは、大袈裟にいえば図書館の置かれている地位と図書館司書の専門性、そして図書館学(library of science)の認識にあるのではないかと考える。

ウィスコンシン大学では、オリエンテーションで図書館の利用方法を教えてもらった。そのお陰で専門職である司書にひとかたならぬお世話になった。そしてその専門性には驚いたものである。実に良く訓練されている。もっとも、司書は最低の条件として図書館学の修士号を有している。

我が国とアメリカの司書養成の仕組みや内容を調べると、そこに大きな違いがあることがわかる。まず、我が国では司書となる資格は図書館法に規定する公共図書館の専門職員となるためとなっている。しかし、公共図書館の大部分では、司書の資格を取得した者を正職員として採用する人事制度がない。事務職員としての採用制度だからである。公立、私立の小中高校に司書はいないのというのは誠に貧弱な体制だ。

我が国では、司書資格の取得方法は二つある。大学の正規の教育課程の一部として設置されている司書課程と夏季に大学で集中して行われる司書講習がある。大学の司書課程はそのための全国統一的なカリキュラムが、図書館法の制定以来、現在に至るまで作成されていない。専門性に必要な科目の単位数が少なく、司書講習に相当する科目の単位の認定を受けて、大学を卒業すれば司書資格を取得できてしまう。

次に司書講習である。本来現職の図書館職員向けのものとされているため単位認定が甘く、「暇と講習料さえあれば取得できる資格」といわれるほど講習内容が貧相でおざなりな講習会といわれる。我が国の司書に関する根本的な課題とは。それは司書の専門性と役割を重視しない風土、そして図書館学の未熟さである。ところで心配になったのだが、公立図書館や大学に司書の資格を持った者がいるのだろうか。

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留学の奨め その5 図書館の利用

アメリカの大学の特徴はいろいろとある。その一つは図書館サービスの充実である。図書館の利用は留学生には力強い味方となる。多くのアメリカの大学図書館は学外者に対しても広く門戸を開放している。自分がウィスコンシン大学に行っても、理由を説明しパスポートを見せると入館証を発行してくれる。図書館の開館時間は大学によって異なる。閉館は21〜22時というところが多い。試験期間中は通常24時間開いている。

私立のボストン大学(Boston University)は市中心部にあるので、地下鉄などを利用して家賃の安いアパートから通学する学生が多い。そうしたこともあって、この大学の図書館は地下鉄の終電に合わせて午前2時閉館となっている。地下鉄沿線に住んでいる学生は2時近くまで安心して勉強できる。ボストンの郊外、ケンブリッジ(Cambridge)にあるハーバード大学は、徒歩圏内に大学寮や学生向けのアパートがあるので、そこにいる人は深夜でも安心して図書館を使うことができる。人文社会科学の図書館であるLamont Libraryは24時間開いている。

もし図書館が24時間開館というのであれば、利用者はいつでも帰れるというのが開館の大きな前提となる。日本の大学で24時間開館という例は京都大学の一部を除き、きいたことがない。恐らく京大近辺は徒歩圏内に学生寮やアパートがたくさんあって、夜中でも人通りがあるという恵まれた条件があるからではないだろうか。

アメリカにおける大学図書館の地域住民への開放を促す歴史は古い。税金で賄われている大学図書館がその門戸を開くのは当然だという観念がある。大学図書館の地域開放は善意や地域社会との良好な関係を築くためではなく、行わなければならない義務であるという主張が高まったのである。だが人口の増加により公共図書館は、地域住民に対するサービスが不十分になってきたこともある。高等教育への関心が高まり、新しい大学が次々に設立され、その教育をサポートするだけの十分な資料がなかったことなどから、大学図書館はその専門的な情報の保存と発信基地として地域に貢献してきたのである。

図書館の開放によって大学は地域社会と良好な関係を作り上げてきた。それに至るまで、長年にわたって大学図書館の地域開放の長所や課題が議論されてきた。そうした歴史を踏まえ、アメリカの大学図書館の多くは開放という姿勢をとり続けている。個々の大学の発展だけではなく、アメリカ全体の教育や研究水準の発展を志向するからだろうと考えられる。

screenshot_118  New York City Libraryscreenshot_119 George Peabody Library

留学の奨め その4 入学審査

外国の大学にどのようにして入学するか。今回はアメリカの大学に限定してみる。学部も大学院も共通した手続きとなる。大学の入学係のサイトをみると、留学生向けの出願規定がでている。まずは入学試験というのはない。外国人学生は高校の成績証明書、英語力検定試験のTOEFLの結果の提出を求められるはずである。ウィスコンシン大学マディソン校(University of Wisconsin-Madison)では、その他に担任教師やスクールカウンセラーからの推薦状をつけるようにとある。こうした書類によって審査される。アメリカの学生は、SAT(Scholastic Assessment Test)という大学進学適性試験を事前に受けてその結果を提出する。

TOEFLの得点だが、学部一年に入るためには、ペーパーテストでは580ー620点、Web上での得点は95-105点が必要とある。もしこの通過点に達していなければさらに勉強して試験を受け直す。大学によっては留学生にはSATかACT(American College Test)が要求される。

IELTS(International English Language Testing System)も権威ある英語力検定試験である。アメリカ国内の3,000以上の大学や機関はIELTSを公式に認めている。IELTSで8.0-7.0をとっていれば入学を許可してくれるはずである。

大学の中には自分の簡単な履歴(resume)の提出を要求するところもある。この履歴には、自分の得意な科目、スポーツ、特技、課外活動、ボランティア活動、表彰歴、海外留学経験、リーダーシップの経験などを正確な英語で書くことが大事だ。このリーダーシップは特に審査員の目にとまるはずである。

エッセイ(小論文)の内容には創造性や独創性が要求される。しかも書いた内容の洞察力の鋭さや質の高さが求められる。推薦状においても学力、才能、人格、素養、課外活動のすべてにおいて秀でた個性が映し出され、できれば格調高い英語で表現されていれば万全である。エッセイは、英語学などで修士号を有し修辞に詳しいネイティブに点検してもらうことを勧める。そこらのALTではいけない。

大学には預金残高証明(Financial Verifiation)を提出することを義務づけているのもある。前回述べたように、大学で学ぶ資金がないと受け入れてくれない。はじめから奨学金を当てにして「行けばなんとかなるだろう」という考えは論外である。アメリカは高学歴が幅をきかす社会なので、ハイリターンには高額の投資が必要である。授業料はアメリカでも高騰してきている。貧しい家庭の子弟には苦しい状況である。

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北海道とスコットランド その24  スコットランド、イングランド、日本

朝ドラ「マッサン」はまだまだ続くが、この「北海道とスコットランド」シリーズはこの稿で終わりとする。

筆者も、誠に細いつながりがスコットランドやイングランドとにある。数少ない友や知人を通して学校を視察したこと、障がい児教育の現場を見せてもらったことも忘れられない。ヨーロッパの歴史を表層的に学んだこと、特に幕末から明治にかけてのスコットランド人の日本での活躍、日露戦争前後の日本とイギリスの関わりは記憶に残る知識だ。それとルターと宗教改革がスコットランドに与えた影響、改革の意義を説教や勉強会で教えられたことも心の糧となっている。

東大出版会の「日英交流史」は興味深い本である。幕末から維新、その後の日本の歴史において国家や社会の形成に最も影響を与えたのはイギリスだ、という主題で貫かれている。弱小国日本はイギリスとの交流なしに帝国海軍の近代化もあり得なかったし、日露戦争も戦えなかったほどである。その後の日本の国際社会への進出もなかったはずである。

▼司馬遼太郎は「坂の上の雲」で次のように書いている。
「まことに小さき国が開化期を迎えようとしている」
「勝利は不可能に近いといわれたバルチック艦隊を迎える作戦をたて、これを実施して撃破した」

イギリスは立憲君主制をしき、日本も天皇を頂点としながらも議院内閣制といった統治機構を有していた。日本は昭和の半ばまで議会選挙によって、まがりなりにも政党政治が行われていた。

イギリスはアフリカや中東、アジアに進出し、植民地を拡大していく。同時にインドへのロシアの進出を恐れていた。ロシアは清国政府を応援し、イギリスのアジアでの力を削ごうとしてきた。阿片商いの主導権争いでもあった。こうしてイギリスは長年ロシアと確執を続けてきた。日本もこうしたイギリスの動向から、その外交戦略を学んでいった。後の朝鮮や中国やインドシナへの進出もイギリス流の植民地主義の表れであろう。1902年の日英同盟はその結果といえるほどイギリスへの依存は高まる。

1921年には日英米仏の四カ国条約により日英同盟が廃止される。同年、皇太子裕仁親王のイギリスは訪問、続いて皇太子エドワードの訪日となる。1930年にロンドン海軍軍縮会議が開かれ、その結果を巡り海軍内部の対立と統帥権干犯問題が起きる。1937年の盧溝橋事件とともに日中戦争が激化し日本とイギリス、アメリカとの対立が決定的になる。イギリスとの不幸な時代が1945年まで続く。太平洋戦争の敗北は、単なる外交の失敗だけではないだろう。歴史や文化を学ぶことが欠けていたのではないか、科学技術の違いを認識できていなかったのではないかとも思うのである。

時代を経て1980年代には、首相マーガレット・サッチャー(Margaret Thatcher)の政策である「小さな政府」による電話、ガス、空港、航空、水道等の国有企業の民営化や規制緩和などの大胆な改革が日本に影響を与えた。そうした政策から我が国でも国鉄、通信、専売の3事業の民営化が断行される。

イギリスと日本にはいろいろな共通点がある。地理的な特徴だけでなく、行動面での特徴、たとえばマナーの重視、感情表現のつつましやかさなどである。科学技術への取り組みにも熱心である。日本人は幾多のスコットランド人医師、技術者、宣教師、教育者によって薫陶を受け国を発展させてきた。これからも両国の人々の交流が続くことを期待したい。

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北海道とスコットランド その23  スコットランド宗教改革の先駆者パトリック・ハミルトンとジョン・ノックス

「岩波キリスト教辞典」によるとスコットランドの宗教改革はパトリック・ハミルトン(Patrick Hamilton)を始めとして、本格的な宗教改革が進められたとある。しかし、ハミルトンは異端視されて処刑される。後にジョージ・ウィシャート(George Wishart)も宗教改革を実践し、カルヴァン(Jean Calvin)とフルドック・ツヴィングリ(Huldrych Zwingli)の信仰をスコットランドに広めたが、彼もハミルトン同様に1546年に処刑される。

既に述べてきたが、ウィシャートの弟子であったジョン・ノックス(John Knox)らにより長老派教会が形成され、スコットランド教会の宗教改革が進められた。ノックスは、スコットランドにおける教会はローマ教皇と決別し、カルヴァン派の信仰告白を採用すべきとした。スコットランド信条(Scottish Confession)は1560年にスコットランド全議会に提案され、神の誤りない御言葉に基づく教理として全議会の公開の投票によって批准される。この結果、カトリックのミサは非合法化され、改革派の教会が建ち上げられた。

スコットランド信条は、使徒信条(Apostles’ Creed)の構成順に25条からなる。使徒信条とは、信条が使徒たちの忠実な信仰のまとめとみなされていることによる。プロテスタント教会では、この信条は三位一体の信仰を強調しており、礼拝において唱えられている。

ドイツから始まりやがてヨーロッパ全体にひろがった宗教改革という運動は、カトリック教会の「堕落」に対する改革という側面がある。と同時に、ローマカトリック教会の呪縛や支配から訣別し、信徒の立場から聖書に基づく信仰を確立しようとしたノックスらの考え方と、それに共鳴した者たちによって新たな教会を設立しようとする運動でもあった。

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      Patrick Hamilton

北海道とスコットランド その22  宗教改革の聖書的根拠

前回、ルターが主張した信仰義認、すなわち人が救われるのは、その人の功徳でも免罪符でもなく信仰であり、その信仰の基盤は聖書にあるということに触れた。スコットランドの長老派教会もそれを受け継ぎ、現在の教会制度を維持している。

さて、この信仰義認はなかなか手強い思想である。それは、人は思いと言葉と行いとによって存在するものであり、自由な意志を授かっているからである。だが、生まれながらにしてその意志は薄弱なのである。なんとかして善行をして義とされたい、罪をおかさないようにしたい。こうした葛藤を抱え続けながら生きなければならない。

ルターは聖職者として、また神学者として同じような精神の苦しみ経てきた。それは、自分がいかなる行為によってこうした状態を克服できるかを模索する苦しみであったようである。しかし、彼はそうした葛藤が己の行為によって解決できるということをいわば諦めるのである。そして、罪深い人間の救いが聖書の教えのなかにあることにたどり着く。こうした結論を次のような聖書の解釈から導くのである。

第一は、エペソ人への手紙(Letter to the Ephesians)2章8節-9節である。そこには次のようにある。
▼「あなたがたの救われたのは、実に恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるものではない。」

第二は、ローマ人への手紙(Letter to the Romans)1章17節である。
▼「神の義はその福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。」

人間は善行でなく、信仰によってのみ (sola fide) 義とされること、すなわち人間を正しいものであるとするのは、すべて神の恵みであるという理解に達し、徹底的に聖書の教えの原点にかえることを説くのである。

このような信条はローマカトリック教会からは、教会の権威を失墜させるまやかしの神学であると断定され、ルターは異端者として破門される。そして1521年にヴォルムス帝国議会(Diet of Worms)にルターが召喚され尋問が始まる。

尋問の場面について、Wikipediaには次のようにある。「ルターは自分の著作が並べられた机の前に立った。ルターはまず、それらの著作が自らの手によるものかどうかを尋ねられ、次にそこで述べられていることを撤回するかどうか尋ねられた。ルターは自説の撤回を拒絶する。”聖書に書かれていないことを認めるわけにはいかない。自分は聖書に則る。それ以上のことはできない。神よ、助け給え”(“Here I stand. I can do no other.”)」

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北海道とスコットランド その21  宗教改革とマルチン・ルター

ルターは、罪の赦しが教会の権威によってなされること、そのために免罪符を買い求めることで救われるということに大いなる疑義を呈する。ルターはそれを質問状としてヴィッテンベルク(Wittenberg)城教会門に貼ったのが「95か条の論題(意見書)(The Ninety-Five Theses)」である。1517年のことである。これが宗教改革の発端とされている。この意見書とはカトリック教会への連判状のことであった。

免罪符を求めることによって罪は果たしてあがなわれるのか? ルターはそれに対して、人が救われるのは、その人の功徳でも業でも免罪符でもなく信仰によるのだ、と主張する。少し難しい言葉ではあるが、信仰義認(Justification by faith)である。そして信仰の基礎は聖書にあると説くのである。ローマカトリック教会は教皇を頂点とし、選ばれた司祭によって組織されていた。それに対してルターは、教会制度とは万人が司祭である共同体であるべきだ、という革命的な提言をするのである。

ルターは、いかなる信仰の問題に関して疑問を投げかけたかである。それは一言でいえば人間の罪からの救いはいかにして可能であるかということである。それには次の五つの信条にのみ(solas)あると主張する。▼第一は、「聖書によってのみ、 Sola Scriptura (by Scripture only)」、▼次に「恩寵によってのみ、Sola gratia(by grace only)」、▼さらに「信仰によってのみ、Sola fide(by faith only)」、▼「キリストによってのみ。 Solus Christus(by Christ only)」、▼そして最後に「神の栄光によってのみ、 Soli Deo gloria(by God glory only)」という宣言であった。このように、教会の権威や威光ではなく、徹底的に聖書の教えという原点に立ち返ることをルターは主張したのである。

カトリック教会は長い伝統と権威を有する教会であるが故に、こうしたルターの提言は異端であると断罪し弾圧を加え、血なまぐさい宗教闘争が始まるのである。

138267896807925369225_4496-131004-042  神はわが櫓Martin-Luther-Here-I-Stand マルチン・ルター

北海道とスコットランド その20  宗教改革と免罪符

外国を知るには、伝統や文化を形成した宗教の影響を考えるのが大事だとかねがね考えている。スコットランドも長い宗教の歴史がある。特に宗教改革(Reformation)が及ぼした運動がその後の国作りに反映していることが分かる。

宗教改革といっても一口で語るのは難しい。Encyclopædia Britannicaによれば、ローマカトリック教会の様々な縛りや制度に対する抵抗としてとらえるのが一般的である。抵抗の槍玉になったのが「免罪符」(indulgence)である。免罪符は、16世紀、カトリック教会が発行した罪の償いを軽減する証明書のことである。免罪符は罪の赦しを与えるとか、責めや罪を免れるものや行為そのものを指すこともある。

元来、キリスト教では洗礼を受けた後に犯した罪は、告解によって赦されるとされていた。一般に、課せられる「罪の償い」は重いものであった。ところが、中世以降、カトリック教会がその権威によって罪の償いを軽減できるという発想が生まれてくる。これが「贖罪」、いわば罪滅ぼしである。免罪符によって罪の償いが軽減されるというのは、「人間が善行や業によって義となる」という発想そのものであった。

前稿でも触れたことだが、教会の免罪符による赦免という世俗的な行為とその権威の失墜などに対して、改革の機運が生まれる。罪ある人間はいかに救われるのかという根源的な問いが広まる。それを世界に訴えたのが聖アウグスティン(St. Augustine)修道会の聖職者であり神学者であったマルチン・ルター(Martin Luther)である。

宗教改革という運動は、普遍的な教会とされたカトリック教会から訣別しプロテスタント教会(Protestant Church)という信徒の集まりをつくることになっていく。この改革運動から新しい教会が生まれただけでなく、既存のカトリック教会にも大きな影響を与え、その余波はヨーロッパ文化や思想にも及んでいく。

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北海道とスコットランド その19 スコットランド人の宗教 その2 John KnoxとJames Hepburn

スコットランド信条では、信徒や会衆がキリストの教えを伝える使命があるとし、誰もがあまねく祭司であるという立場をとる。万人祭司ということである。そこから会衆から選ばれたもの、長老による合議によって教会を運営する教会制度を取り入れるのである。こうした教会制度の理論的な指導者が前稿で紹介したノックス(John Knox)であった。

スコットランド信条であるが、神学的にはカルヴァン主義であるといわれる。Wikipediaでは、「すべての上にある神の主権を強調し、それに依ってキリスト者は実践する」とある。カルヴァン主義とはローマカトリック教会を改革し、新しい教会を樹立するという神学である。改革派教会とか長老派教会の思想的基盤である。カルヴァンは「聖書のみ」ということを強調したのに対し、ルターは「信仰のみ」ということを強調した。だが、互いに相反する教義ではなく聖書解釈の違いであり、二人の宗教改革の精神は共通していた。

やがて日本に最初の長老派の教会ができる。1877年に横浜に設立された日本基督一致教会である。その後、伝道者であり神学者であった植村正久が指導者として教会を発展させていく。米国長老派教会系医療伝道宣教師で医師であったジェームス・ヘップバーン(James Hepburn)も教会の発展に大きな貢献をする。ヘップバーンの祖先はスコットランドから北アイルランドへ移ったスコッチ・アイリッシュ(Scotch-Irish)である。しかし、ヘップバーンは日本人向けに「ヘボン」という名前を使った。そのために日本ではヘボンが広く知られている。ヘボンは英学塾「ヘボン塾」をつくり、それが明治学院大学へと発展していく。横浜のフェリス女学院大学もヘボン夫人が開いた家塾から始まった。興味深いことに、ヘボン式ローマ字の創始者としても知られている。

医師でもあったヘボンは横浜で医療活動を行った。横浜近代医療の歴史はこの活動に始まる。その功績を残すために、横浜市金沢区にある市立大学医学科講義棟の多目的ホールは、ヘボンホールと名付けられている。
James_Curtis_Hepburn James Hepburn romaji01 ヘボン式ローマ字john-knox  John Knox

北海道とスコットランド その18 スコットランド人の宗教 その1 長老派教会と宗教改革

仏教にいろいろな派があるように、キリスト教にもさまざまな教派(synod)がある。教派とは集まり(assembly)とか集会(meeting)という意味である。誰が教義をどこで広く宣布したかによっていくつもの組織ができた。そのため教派によって教義や強調点が違う。ルーテル教会、改革派教会、バプテスト教会、聖公会など微妙に教義や典礼が違う。

スコットランドの教会は伝統的に長老派教会(Presbyterian Church)である。長老派教会は新教の一つ、カトリックと相対する一派である。聖職者と信徒の代表である長老とが共同で教会を運営する仕組みである。長老は会衆によって選ばれた教会役員といってもよい。この制度は、各教区や各地の教会の代表が地域ごと、地方ごと、そして国全体で集まりその合議によって自律的に教会を運営していくというものである。長老とは年寄りのことではない。

本日10月31日は宗教改革記念日といわれる。神学者でもない自分だが、学んできた宗教改革の歴史を語ると長くなる。要は、それまで長い間、世界の政治と宗教を支配していたローマカトリック教会やローマ教皇が伝統的に保持してきた神学に異議を唱え、そこから新しい教会運動が起こった日である。その中心はマルチン・ルター(Martin Luther)であり、ジャン・カルヴァン(Jean Calvin)である。スコットランド人の信仰はこの宗教改革に依るところ大きい。

スコットランドの宗教改革に最も貢献したのはジョン・ノックス(John Knox)といわれる。1560年にスコットランド議会は、それまでのカトリック教会とそれを支える法を無効とし、カルヴァン主義(Calvinism)を基調とする信仰告白であるスコットランド信条(Scottish Confession)を採択した。スコットランドの信仰告白とは、キリストが唯一の教会の頭であり、「信仰義認」、そして万人祭司というものである。善行によって神は人を義とするというのではなく、信仰によってのみ人は義とされるというのが信仰義認である。

Luther Martin Luther

john-calvin  Jean Cavin

北海道とスコットランド その17 Intermission NO.3

日本人にはそれぞれ外国との相性というものがあるのではないか。相性とは憧れのようなものである。その憧れに強調されるのは、徹底した個人主義とか文化や伝統の深さとか、人々の考えの奥行き、さらに自然の素朴さであったりする。

カリフォルニアやニューヨークの自由さや競争の厳しさに共感する者もいる。ノーベル賞受賞者で青色発光ダイオードLEDの実用化に成功した教授がそうである。彼にはカリフォルニアの風土との相性が良かったのだろうと察する。

北欧の白夜やフィヨルド、ドイツの森に魅了される人、アフリカの朝の美しさ、アラブ人の義理堅さを指摘する人、韓国人の道徳への志向性にうなずく人、ロシアは好きではないが、ロシア人の底抜けの親切さや懐の深さに感じ入る人もいる。その他、理由はないが、なぜか相性が合う、波長が合うというかウマが合うこともある。こうしてみると人と国との間にも相性のようなものが確かにあるのは間違いない。

日本人がスコットランドに惹かれる理由っていろいろある。それは相性に近いものではないか。ある人にはタータン(tartan)やキルト(kilt)であったり、スコットランドのスピリットと呼ばれるウイスキーであったり、ゴルフでいえばセント・アンドルーズ(St. Andrews)であったり、小説であればウォルター・スコット(Walter Scott)の「アイヴァンホー(Ivanhoe)」、さらに詩であればロバート・バーンズ(Robert Burns) の「故郷の空」や「蛍の光」の歌詞や旋律であるかもしれない。

いろいろな資料、特に文化事典やキリスト教事典をとおしてスコットランドのことを調べている。だが、確かな洞察を得るには誠に不十分であることを認めざるをえない。また、短時間の旅から旅による経験でも、洞察にいたるには極めて足りない。本来なら定住して定点観測しなければものにならない。腰を落ち着ければおのずと周りの良さや醜さ、その背景やからくりがわかってくる。「スコットランドとはかくかくしかじか、、」などと託宣するのは実に危ういことだと気をつけている。文化を知るには時間をかけること、人との付き合いが大事であることを努々忘れてはならないとも思っている。

walter-scott  Walter Scottthe-swilcan-bridge-on St. Andrews

北海道とスコットランド その16  なぜスコットランド人が日本へ来たのか その3

イギリスの日本への関わりの続きである。日英同盟の締結は日本が世界の舞台に登場するきっかけとなった事件であった。それに先だつ激動の足跡を調べてみる。

1862年にはイギリス書記官アーネスト・サトウ(Ernest Satow)が来日する。彼の日本滞在は通詞としての1862年から1883年と駐日公使としての1895年から1900年に及ぶ。外交官としてその活躍は明治政府からも一目置かれたといわれる。

1862年に薩摩藩士によりイギリス人が殺害される横浜鶴見での生麦事件が起きる。イギリス公使代理のエドワード・ニール(Edward Neale)は、幕府との賠償や処罰などの交渉にあたる。1863年には井上聞多、伊藤俊輔、後の井上馨、伊藤博文など長州藩士5名が藩命としてイギリスへ留学する。サトウはグラバーらと共にそうした橋渡しもする。1863年には薩英戦争が起きる。この戦争の終結により英国が薩摩藩に接近することになる。

続いて1864年に下関戦争が勃発する。攘夷を唱える長州藩が関門海峡で外国船を砲撃し、報復でイギリス海軍がフランスなどと共に下関の砲台を占拠する。そして1868年の明治維新である。その年、明治新政府軍と旧幕府軍とで戊辰戦争が起きる。いわば日本の内戦である。そのとき、イギリス公使ハリー・パークス(Harry Parkes)は戊辰戦争で中立を装いながら、実質的に明治新政府を支援する。パークスは幕末から明治初期にかけ18年間駐日英国公使を務める。

その間、1872年には岩倉使節団によるアメリカやイギリス訪問がある。この一行はイギリスには4か月滞在したという。この使節団には大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、そして後年津田塾大学を作った津田梅子らも加わる。

日本はさらにイギリスとの関係の強化につとめる。そこには両国には共通の懸念、ロシアの拡張主義政策があった。この懸念が両国を結びつけていく。1902年に日英同盟ができる。1904年には日露戦争が勃発する。このとき戦費の調達のためにイギリスの銀行などが日本国債を購入するなど、日本はイギリスから支援を受けることとなった。1911年には日英通商航海条約の改正がなされ、条約上の不平等が解消される。さらに1914年には日英同盟に基づき、日本も第一次大戦に参加し、巡洋艦を地中海に派遣する。その年、ドイツの租借地であった清の青島をイギリス軍とともに占領する。

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    Ernest Satow          津田梅子

北海道とスコットランド その15 なぜスコットランド人が日本へ来たのか その2

今でも、日本からみるとスコットランドとかアイルランドは地の果てにあると思える。昔スコットランド人らも「日本に行かないか」と誘われたとすると、日本というところはどこにあるのか、辺境なところでないかと思ったに違いない。

幕末から明治維新の前後は、イギリス人の外交官の活躍が光る。維新政府との良好な関係を発展させるために、こうした外交官の働きはめざましいものがある。それらは初代イギリス駐日総領事ラザフォード・オルコック(Rutherford Alcock)、書記官アーネスト・サトウ(Ernest Satow)、公使ハリー・パークス(Harry Parkes)、公使代理エドワード・ニール(Edward Neale)である。オルコックは軍医でもあった。

こうした外交官らの尽力によって幕末の志士がイギリスに渡り、当時のイギリスの発展ぶりや科学技術、軍隊組織、イギリス憲法、王室制度などを学んで帰国する。イギリスの制度を取り入れたことの一つは、1870年に兵制改革により大日本帝国海軍が成立し、イギリス海軍を模範とした組織整備を進めたことである。イギリス海軍顧問団団長として来日したアーチボルド・ダグラス(Archibald  Douglas)は日本の海軍兵学校教育の基礎を築いた。日清戦争後、ロシア帝国に対抗するために日本海軍は軍備拡張政策を進める。1902年に戦艦三笠がイギリスで造られたのもイギリス海軍の影響である。明治政府の近代化政策とイギリス外交が折り合い、イギリスの先端技術を取り入れることによって明治政府は殖産興業に拍車がかかったといえる。

こうした外交を仲介したのが日本に滞在していたイギリスの政商とか実業家である。その中で最も活躍したのがトーマス・グラバーであることは既に述べてきた。もう一人、イギリスとの関係の樹立に貢献した人物にスコットランド人のアレキザンダー・シャンド(Alexander Shand)がいる。22歳の若さで当時、Chartered Mercantile of India, London & Chinaという貿易会社の一員として1866年に横浜にやってくる。維新政府は1872年に国立銀行条例をつくり、国立銀行の設置が決まる。シャンドはやがて大蔵太輔であった井上馨と雇用契約を結び、大蔵省紙幣頭付書記官になる。岩倉使節団に加わった木戸孝允と知遇を得たりする。

シャンドは帰国後、シティにあるアライアンス銀行(Bank of Alliance)やパース銀行(Bank of Perth)の支配人となる。彼は日本からの訪問客や留学生を手厚く世話したといわれる。日露戦争中は、日銀副総裁だった高橋是清のロンドンでの起債を仲介し、イギリスの銀行による国債引き受けなど、戦費調達の成功に導く。忘れてはならないスコットランド人の一人だと思うのである。

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                      Alexander Shand

北海道とスコットランド その14 なぜスコットランド人が日本へ来たのか その1

今回は、スコットランド人が何故日本にやってきたかである。決して偶然のでき事ではなく、そこには理由があるはずである。地味に恵まれているとはいえない耕作地、少ない人口、樹木が育ちにくい丘陵、、そうした風土から多くの冒険家や科学者、冒険家、経済学者が生まれた。そして海外へと渡っていく。だがスコットランドからすれば日本は辺境の地、辺鄙な地であったろうと察する。

スコットランド人は宗教や教育に熱心であった。宗教であるが、スコットランドは伝統的に新教の長老派教会(Presbyterian Church)である。上からの押しつけを嫌い、男女の違いを超えて自分たちで指導者を選ぶいわば草の根的な教会制度である。国王や女王が教会を支配する国教会のイングランドとは大きく異なる。そのため両者の間でたびたび宗教戦争が起こった。

アメリカやオーストラリア、ニュージーランドには、イングランドに抵抗した政治犯が流罪された祖先を有する者が多いといわれる。幸い行き着いた土地は肥沃で自由に満ちていた。それが伝統的に実学を重視するスコットランド人に海外への雄飛や移民への刺激を与えた。スコットランド人の日本への渡航と活躍は、徳川幕府と明治維新前後の歴史にそれが如実に描かれている。

日本とイギリスの関係は1840年のアヘン戦争に遡る。この戦争でイギリスが清朝に勝利し香港を獲得する。その結果に驚く幕府は、1825年に出していた異国船打払令を撤廃することになる。その後、遭難した船に限り補給を認めるという「文化の薪水給与令」を出す。1854年10月には、日英和親条約が調印される。翌1858年8月には日英修好通商条約が結ばれる。これも不平等条約の典型で、例えば関税自主権の制限や治外法権承認など、日本に不利な内容となった。この条約により、長崎英語伝習所が設立され英語通訳である通詞が養成される。

1859年7月、初代駐日公使ラザフォード・オルコック(Rutherford Alcock)により高輪の東禅寺に英国公使館が開設される。その年、ジャーディン・マセソン商会(Jardine Matheson Holdings)の代理人としてスコットランド人のトーマス・グラバー(Thomas Glover)が長崎へ来日し、その後幕末や明治政府と財界とに深く関わることになる。

pccross  Presbyterial Emblemtozenji  東禅寺

北海道とスコットランド その13  スコットランド人と「炎のランナー」

1924年のパリ・オリンピックの陸上競技での出場を目指す二人の青年を描いた映画「炎のランナー」を観た読者も多いだろう。主人公は、実在のスコットランド人である。原題は「Chariots of Fire」で1981年に製作された。

その一人は、スコットランド人で聖職者を目指し、神の教えを伝えようとする青年である。彼の名はエリック・リデル(Eric Liddell)。もう一人はユダヤ人青年で弁護士を志望しているハロルド・エブラハムス(Harald Abrahams)。二人とも俊足をかわれ、オリンピックでは短距離走者として出場する。

リデルは、400メートル予選が始まる日曜日が安息日であるという理由で棄権しようとする。他の種目でメダルを獲得した友人が別な予選枠をリデルに譲る。そしてリデルは見事に優勝する。

やがてリデルは選手生活を辞し、宣教師となって中国での布教活動に従事する。丁度日本が日中戦争に突入する頃である。ところが日本軍の捕虜となってしまう。リデルは収容所で会った宣教師の子供に「敵を赦すことの大切さ」を教える。その少年はやがて、かつての敵国、日本に宣教師として赴任する。中国や日本に宣教師団を送ったのは長老派教会(Presbyterian Church)である。長老派教会の歴史は宗教改革を絡めて後日取り上げる。

この映画が撮られた場所はスコットランドの海岸や田舎である。全英オープンで有名なセント・アンドルーズ(St. Andrews)やスコットランド最古の大学であるセント・アンドルーズ大学(University of St. Andrews)が登場する。ケンブリッジ公爵(Duke of Cambridge)であるウィリアム王子(Prince Williams)とケンブリッジ公爵夫人(Duchess of Cambridge)であるキャサリン(Princess Catherine)も卒業した由緒ある大学といわれる。

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