ウィスコンシンで会った人々 その117  人情噺 「火事息子」 その2 火事と喧嘩

さて、本題の火事と喧嘩である。神田は質屋伊勢屋の一人息子の藤三郎。なぜか小さいときから火事が好きでしょうがない。いってみれば火事道楽である。やがて町火消しになろうとして町内の鳶頭のところへ頼みに行くが断られる。藤三郎は体中に刺青をしたりして素行がよくないので、家からは勘当されている。

鳶頭は町火消という民間の消防団の頭もしていた。藤三郎は別の町火消のところへ行っても、すでに鳶頭から回状がまわっていて断られる。火消しになるためには厳しい条件があった。藤三郎はそれに合わず、仕方なく火消屋敷の人足になる。

ある北風が強く日。伊勢屋の近くから火事が出た。質蔵の目塗りをしようと左官の親方に頼むが、手が回らないという。さいわい質蔵は風上であるが、それでも、質蔵に火が入っては一大事と質蔵に目塗りをすることになった。主人は高い所を怖がる番頭を蔵の屋根へ上げ、丁稚の定吉に土をこねさせ屋根へ放り上げる。だが番頭は片手で半てんを押さえている。怖がって土を上手く受けとめれない。顔に土が当たって顔に目塗りをしている有様だ。

これを遠くから見ていた一人の火消しのような者が屋根から屋根を伝わってきてくる。そして番頭の帯を折れ釘に結ぶ。これで番頭は両手が使えるようになる。ようやくのことで目塗りが終わる。幸い風が止んで鎮火。そこに火事見舞いの人たちが入れ替わり立ち替わり伊勢屋にやってくる。火事見舞いではササが振る舞われる。

火事見舞いだが、紀伊国屋からは風邪をひいた旦那の代わりに倅もやって来た。伊勢屋は自分の息子と比べ羨ましく、思わず自分の息子の愚痴も出る。そこへ番頭がさっき手伝ってくれた火消しが旦那に会いたいと言っていると取り次ぐ。旦那は店に質物でも置いてあるのだろうと思い質物を返すようにと言うが、番頭は口ごもってはっきりしない。

よくよく聞いてみると火消しは勘当した倅だというのだ。もう赤の他人なんだから会う必要はないという旦那を、番頭は「他人ならお礼を言うのが人の道ではないか」と諭され、それも道理と一目会って礼を言おうと台所へ行く。

かまどの脇に短い役半てん一枚で、体の刺青をだした息子の藤三郎がいる。お互いに他人行儀のあいさつを交わすが、息子の刺青を見て、折角大事に育てた親の顔へ泥を塗るような姿だと嘆く。

旦那 「お引取りを、、」
藤三郎 「それではこれでお暇を」
と言うが二人を番頭が引きとめ、おかみさんを呼ぶ。奥から猫を抱いたおかみさんが出てくる。火に怯えずっと抱いたままだという。

番頭 「若旦那がお見えでございます」 
おかみさん「猫なんか焼け死んだって構やしない」

と猫を放り出す。せがれの寒そうななりを見たおかみさん、蔵にしまってある結城の着物を持たせてやりたいと涙ぐむ。

旦那 「こんな奴にやるくらいならうっちゃってしまったほうがいい」
おかみさん 「捨てるぐらいならこの子におやりなさい」
旦那 「だから捨てればいい、わからねえな、捨てれば拾って行くから」
おかみさん 「よく言っておくんなさった。捨てます、捨てます、たんすごと捨てます」

おかみさん 「この子は粋な身装も似合いましたが、黒の紋付もよく似合いました」
おかみさん 「この子に黒羽二重の紋付の着物に仙台平の袴をはかして、小僧を伴につけてやりとうございます」
旦那 「こんなヤクザな奴にそんな身装をさしてどうするんだ」
おかみさん 「火事のおかげで会えたから、火元に礼にやりましょう」

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ウィスコンシンで会った人々 その116  人情噺 「火事息子」 その1 江戸の華

「火事と喧嘩は江戸の華」といわれた時代があったようである。江戸は大火が多く、火消しの働きぶりが華々しかったともいわれる。江戸っ子は気が早いため派手な喧嘩が多かったらしい。「江戸っ子は五月の鯉の吹き流し、口先ばかりで腑はなし」という言葉すらある。

当時はどの家屋も木造。一端火事が起きると、材木や大工、左官、鳶職人などの建築に従事するものの仕事が増えた。中には火事の発生を「待望する」者もいた。火消人足の中にも、本業である鳶の仕事を増やそうと、強い風を利用し、「継火」という他の家屋などに延焼させる犯罪行為をする者も現れた。

こうした江戸に町人による火消の組織ができる。「町火消」である。今の消防団である。幕府の直轄の火消しとして「定火消」ができる。旗本がその役にあたる。今の消防署である。火の見櫓を備えた商家や武家屋敷も江戸の生活を描いたものに見られる。

現在も東京には「上野広小路」、名古屋や京都には「広小路」通」などの地名が残っている。札幌の大通り公園も広小路である。広小路は大火事から生まれたものである。延焼を防ぐための広場や空地である火除地なのだ。

火除地や広小路ができる前に、そこに住んでいた者達は移住を命じられ江戸の外縁部や埋立地が与えられる。隅田川をはさんだ右側、東西の流れる北十間川、北東に伸びている曳舟川付近が移住先として選ばれた。こうして江戸は街が拡大し発展していく。歌川広重の「名所江戸百景」にも火の見櫓や火除地が描かれ広々とした空間が特徴となっている。

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ウィスコンシンで会った人々 その115 幽霊噺  「お化け長屋」

肝試しやお化けが話題となる季節は去った。秋のお彼岸も終わり、霊も幽霊も暫く静かな時を過ごしているのではないか。だが幽霊やお化けは人間にとって永遠の話題である。なぜなら、皆等しく幽霊になる可能性があるからだ。祭りなどで「ひょっとこ」や「おかめ」が登場したり、縁日でお面をかぶる姿は、ハロウィーン(Halloween)の仮装とも合い通じるものがある。死んでから自分に似せた面をカメの前に架けておけば、家が富み栄えるという昔話もある。人はあるものに変身したいという潜在的な憧れがあるようだ。

ある長屋に一軒の空き家がある。そこを長屋の連中は、物干しにしたり物置として使っている。家主はこの物置を空き部屋として貸そうとする。長屋に古くから住んでいる通称、古狸の杢兵衛が物置が無くなると大変だと一計を案じる。借り手が訪ねてきたら、家主は遠方に住んでいるので自分が長屋の差配をまかされているといって杢兵衛の家へ来させて、借り手を脅して空き家に借り手がつくのを防ごうという算段だ。

早速、借り手が杢兵衛のところへ来る。杢兵衛は怪談じみた話を始める。3年程前に空き家に住んでいた美人の後家さんのところへ泥棒が入り、あいくちで刺され後家さんは殺された。空き家はすぐに借り手がつくが、皆すぐに出て行ってしまうという。後家さんの幽霊が出るという話を借り手に披露する。

借り手が恐がりなのを見透かした杢兵衛は、身振り手振りを加え怪談話をする。恐がってもうわかったから止めてくれという借り手の顔を、幽霊の冷たい手が撫でるように濡れ雑巾で撫でると借り手は大声を出して飛び出して行ってしまう。大成功だ。借り手の坐っていたところを見るとがま口が忘れてある。成功、成功と拾ったがま口を持って仲間と寿司を食いにいく。

次に来たのが威勢のいい職人風の男。前の男を恐がらせて追い返した杢兵衛、自信たっぷりで怪談話を始めるが、こんどの男は一向に恐がらず、話の間にちょっかいを入れて混ぜっ返す始末だ。困った杢兵衛さん、最後に濡れ雑巾で男の顔をひと撫でしようとすると、男に雑巾をぶん取られ、逆に顔中を叩かれこすられてしまう。男はすぐに引越して来るから掃除をしておけと言い残して帰ってしまう。そこへ長屋の住人が様子を聞きに来る。

杢兵衛 「あいつはだめだ、全然恐がらねえ、家賃なんかいらないって言ってしまったからお前と二人で出そう」
長屋の住人 「冗談じゃねえ、がま口なんか、置いて行かなかったのか?」
杢兵衛(あたりを探して) 「さっきのがま口持って行っちゃった、あの野郎!」

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ウィスコンシンで会った人々 その114  読み書き噺 「七の字」

江戸時代には読み書きできる者はかなりいたらしい。それは寺子屋の普及にあるようである。寺子屋は読み書きソロバンなど基礎的なことを教えていた民間の施設である。道徳なども教えていたとWilipediaにある。寺子屋が一般庶民の間に定着し、それによって識字率がかなり高くなったようである。

街頭で読み上げながら売り歩いた「読売」を競って買い求める庶民が多かった。「読売」は瓦版ともいわれ、かなり娯楽志向のガセネタもあったようだ。文字通り「人騒ガセのネタ」だ。タブロイド紙である。裏を返せば、読み書きができる庶民が多かったということである。苗字帯刀がご法度の頃である。

「読売」についてもう一つ。佐伯泰英の時代小説「酔いどれ小籐次留書」や「吉原裏同心」、「古着屋総兵衛」などでは、犯人の動きを探ったりおびき寄せるために、意図的にガセネタを「読売」で流す。現代も政治や経済の世界ではもこうした手法は使われる。

さて、演目「七の字」である。貧乏長屋の紙屑屋、七兵衞は「くず七」というあだ名で知られていた。家族がいなかった叔父が亡くなり、くず七は財産を相続してたちまち金持ちになる。そこで長屋を引き払い、一軒家に移って悠々と暮し始めた。それまで仲良くしていた住人との付き合いをぷっつりやめる。長屋の住人には歯牙にも掛けず、尊大な振る舞いで周りの者を呆れさせる。性格がすっかり変わってしまった。

ある日、くず七が床屋の前を通りかかると、床屋にたむろしていた長屋の太助と源兵衛がくず七を見付ける。二人が呼び入れて見ると、くず七は腰に筆と筆壺の矢立を差しているので、二人は問い詰める。

太助 「くず七、てめえ矢立なんぞ腰にさして、、長屋にいた頃は、自分の字も書けなかったはずだ」
くず七 「いいや、長屋にいた頃はあえて書かなかっただけだ。叔父が死んでから書き始めた」
源兵衛 「じゃ、ここで自分の名前の七って字を書いてみろ」
くず七 「書けたらいくら出すか?」
太助 「いやなこというな、、いくらでもやるよ。一文でも二文でも」
くず七 「さすが貧乏人だ。付き合いたくないな。一両出すなら書いてやら、、」
源兵衛 「今は一両を持ってねぇから、これから集めてくる。昼過ぎにここへこい!」

一両の工面に太助と源兵衛は床屋を飛び出す。他方、くず七は「さて、さて誰に字を教わろうか」と町内の手習いの師匠の所へやってくる。師匠の女房がいて教わることになった。「わかりやすく、この火箸を使い横に一本、縦に一本置いて、かかしにします。足を右に折って曲げれば七になります」と教わり、くず七もなんとかやってみて納得する。

くず七は勇んで床屋に戻ってきた。源兵衛と太助も一両集めてきて待っていた。くず七はもどかし気に、横に一本、縦に一本置いてかかしをつくる。二人は「こりゃ書けそうだ。一両取られる」と驚いて頭を下げて謝った。

太助 「勘弁してけれ。確かに書けるようだ。謝るからこの一両はなかったことにしてくれ」
くず七 「いいや。そうはいかない。この足を…………」
源兵衛 「わかったよ。右に曲げるんだろう?」
くず七 「いいや。左に曲げるのさ」

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ウィスコンシンで会った人々 その113 酒噺 「禁酒番屋」

「人、酒を呑み、酒、酒を呑み、酒、人を呑む」という教訓めいた言葉がある。酒は百薬の長であり、依存症やアルコール性肝障害にもなりうる。日本人の半数は遺伝的にアルコールを分解する力が弱いといわれる。そのあたりの按配を考えて酒を嗜みたい。

ある藩で月見の宴席が開かれた。そこで酒の上の刃傷沙汰が起き若侍二人が死ぬ。それ以来殿、様から禁酒令が出た。主君自身も酒を断つことを宣言した。しかし、なかなか禁令が行き届かず、チビリチビリやる者が続出する。これでは駄目だと門の脇に番屋を建てて、飲酒の点検と酒の持ち込みを厳しく取り締まった。いつしか人呼んで禁酒番屋といわれるようになった。

酒好きな近藤という侍が贔屓の酒屋を訪れ、五合升で2杯を平らげた。さらに何とか工夫して番屋をかいくぐり、自分の小屋まで寝酒として一升届けてくれと頼む。酒の配達が露見すれば営業停止にもなりかねない。店の者は仕方なく、小僧の一人に知恵をつけて酒を届けさせることになった。徳利を下げては門をくぐれない。最近売り出された”カステラ”を買ってきて、五合徳利2本を入れ替えて持ち込めば分からないと言い出した。小僧は菓子屋のなりをして番屋にいく。

番兵 「その方は何者だ!」
小僧 「向こう横町の菓子屋です。近藤様のご注文でカステラを持参しました」
番兵 「近藤は酒飲みだが菓子を食べるようになったのかな? 間違いがあっては困る、こちらに出せ」
小僧 「お使い物で、水引が掛かっています」
番兵 「進物か。それなら通れ」、「アリガトウございます。ドッコイショ」
番兵 「待て!今『ドッコイショ』と言ったな」
小僧 「口癖ですから」
番兵 「役目の都合、中身を改める、そこに控えておれ、、」

番兵が風呂敷をとくと徳利が出てくる。

番兵 「徳利に入るカステラがあるか!」
小僧 「最近売り出された”水カステラ”でございます」

番兵は、水カステラといわれた徳利を口にしそれを全部飲んでしまった。そして、”この偽り者”と叫んで小僧を追い返してしまう。店に帰って相談し、今度は油屋に変装して”油徳利”だと言って通ってしまうと支度を整えて出かける。

小僧 「お願いでございます」
番兵 「通〜れェ」 先程と違って役人は酔っている。」
小僧 「油屋です。近藤様のお小屋に油のお届け物です」
番兵 「間違いがあっては困る、こちらに出せ。水カステラの件があるから一応取り調べる」
番兵 「控えておれ、控えておれ。今油かどうか調べるから、、」
番兵 「なんだこれは! 棒縛りだ、この偽り者! 立ち去れ!」

またもや失敗。都合二升もただで飲まれてしまった。腹の虫が収まらない酒屋の亭主。そこで若い衆が、今度は小便だと言って持ち込み、仇討ちをしてやろうと言いだす。正直に初めから小便だと言うのだから、こちらに弱みはない。皆で小便を徳利に詰め番屋に出かける。

小僧 「近藤さまに小便をお届けにきました」
番兵 「なに、小便と? 初めはカステラと偽り、次は油、またまた小便とは、、、」
番兵 「これ!そこへ控えておれ。ただ今中身を取り調べる」
番兵 「今度は熱燗をして参ったとめえるな。けしからん奴。小便などと偽りおって、」
番兵 「手前がこうして、この湯のみへついで…………ずいぶん泡立っておるな、」
番兵 「ややっ、これは小便。けしからん。かようなものを持参なして、、、」

小僧 「ですから、初めに小便と申し上げました」
番兵 「うーん、ここな、正直者めが、いや不埒なものを、、、」

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ウィスコンシンで会った人々 その112 洒落噺 「洒落番頭」

洒落と駄洒落の違いと訊かれてもすぐに答えは出ないが、洒落は「オシャレ」、駄洒落は「オヤジギャグ」としておくのが相応しいようである。ややこしい定義よりもフィーリングでつかむほうがよさそうだ。

「洒落番頭」という演目を紹介する。さる商家の旦那、女房に「うちの番頭は洒落番頭と言われるほどの洒落の名人だ」と聞かされたので、番頭を呼んで「洒落をやってみせておくれ」言う。番頭が「ではお題をいただきます」と言うので、「庭の石垣の間から蟹が出てきた。あれで洒落を」と旦那は頼む。番頭は即座に「にわかには(急には)洒落られません」という。

洒落のわからない旦那は真面目に受けて「できないなら題を替えよう。孫が大きな鈴を蹴って遊んでいる。あれでどうだ」と言う。番頭、すぐに「鈴蹴っては(続けては)無理です」。旦那は「洒落られません、無理ですって、なにが名人だ!」と本当に怒ってしまう。

番頭は慌てて部屋から退いて、「旦那の前では二度と洒落はやるもんか」と捨て台詞。旦那は女房にその話をすると、女房は「それは洒落になってます」。

旦那 「できません、無理ですって断わるのが洒落かい」
 女房 「洒落になってますよ。番頭は洒落の名人なんですから」
 女房 「番頭がなんか言ったら、うまい、うまいって褒めてあげなさいよ。それを怒ったりしては、人に笑われますよ」
 旦那 「じゃあ、番頭を呼んで謝ろう」

呼ばれた番頭は旦那に謝られて盛んに恐縮する。

旦那 「機嫌を直して、もう一度、洒落をやっておくれ」
 番頭 「いえ、もう洒落はできませんで」
 旦那 「やぁ、番頭。うまい洒落だ」

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ウィスコンシンで会った人々 その111 Intermission ラグビーとスコットランド

「ラグビー・ワールドカップ2015」で日本代表の初戦の活躍が光った。強豪南アフリカ(South Africa)を破ったことにある。だが、第二戦はインターセプトなどの判断ミスから失トライ重ね、後半失速しスコットランド(Scotland)に敗退した。

スコットランドといえば、ゴルフ発祥の地としても知られ、セント・アンドルーズ(St. Andrews)は聖地と呼ばれる。またカーリング(Curling)もスコットランドが発祥とされるため、国際大会の前にはスコットランドの歌「Flower of Scotland」が演奏される。国民的にはサッカーが最も人気のあるスポーツであるが、ラグビーも非常に強いことが先日の対戦で知らされたところである。
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復習のようであるが、スコットランドは独立国家ではなく、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland: UK)を構成する4つの国の一つである。2014年9月、スコットランドの独立を問う住民投票が実施されたが否決されたのは目新しい。そのような訳で、スポーツなどの国際大会で演奏される「Flower of Scotland」は国歌ではない。

筆者も、誠に細いつながりがスコットランドやイングランド(England)とにある。数少ない友や知人を通して学校を視察したこと、障がい児教育の現場を見せてもらったことも忘れられない。ヨーロッパの歴史を表層的に学んだこと、特に幕末から明治にかけてのスコットランド人(Scots)の日本での活躍、日露戦争前後の日本とイギリスの関わりは記憶に残る知識だ。それとルター(Martin Luther)と宗教改革がスコットランドに与えた影響、改革の意義を説教や勉強会で教えられたことも心の糧となっている。こうしたスコットランドと日本の関係にはついては、このブログ上で24回にわたり綴ってきた。

全世界の産業革命の先駆的な出来事は、蒸気機関の発明である。蒸気機関は工場や機関車に応用された。その発明家ジェームズ・ワット(James Watt)は、グラスゴー大学(University of Glasgow)で機械工学を学び、その後技術者として知られ、産業革命の発展に多大な貢献をした。オックスフォード大学(University of Oxford)やケンブリッジ大学(University of Cambridge)が、主に官僚を養成することを重視したが、グラスゴー大学や実学を強調した。その違いはきわめて鮮明である。

スコットランド人は理論を実践に移し、ものづくりに傾注することの重要性を深く認識していたようだ。多くの技術が実用化され、スコットランドはやがて産業革命の中心地としての地位を確立し、「大英帝国の工場」と呼ばれた時期もあったようである。今も鉄道、鉄鋼、機械、石炭、畜産、綿織、海運、造船などが盛んである。

スコットランド人の気質としては、独創性、独自性が豊かだといわれる。それを起業精神につながると指摘する識者もいる。スコットランドの自然と経済環境の厳しさにも由来するとされる。1701年にイングランド王国に併合されると、スコットランド人の就労の機会は先進地域のイングラントや海外への植民地へと向かっていく。
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多くのスコットランド人が1800年代に北アメリカ大陸に渡っていった。アメリカの鉄鋼王と呼ばれたアンドリュ・カーネギー(Andrew Carnegie)もスコットランド人である。1848年にアメリカに移住した。カーネギーはU.S. スティール会社(U.S. Steel Corporation)などを創設し莫大な資産を残す。それを基金としてカーネギーメロン大学(Carnegie Mellon University)、世界の音楽の殿堂といわれるニューヨークのカーネギーホール(Carnegie Hall)などの建設に使った。偉大な篤志家ともいわれる。道産子の小生には、開拓時代にスコットランド人の実業家や研究者が北海道の農業や酪農、畜産業などの分野で大きな貢献をしたことも忘れられない。エドウィン・ダン(Edwin Dun)はその代表である。

スコッチ・ウイスキーは定義上スコットランド産である。スコットランドには、100以上もの蒸留所があり、世界に愛好家が多い。ニッカウヰスキーの創業者竹鶴政孝もグラスゴー大学で応用化学を学びやがて、北海道の余市においてウイスキー蒸留所を建てる。

1960年代に北海油田が開発されると、漁港アバディーン(Aberdeen)は石油基地として大きな発展をとげた。石油資源の存在はスコットランド独立派の強みとなっている。UK唯一の原子力潜水艦の基地がスコットランドのクライド(Clyde)にある。

スコットランドの公用語は英語とゲール語(Gaelic)である。消滅危険度評価で「危険」水準にあることから、スコットランドでは、2005年からゲール語を公文書で使うことが決められた。なおゲール語ではスコットランドをAlbaと表記する。
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さてラグビーに戻り第三戦だが、一勝一敗の日本はサモアと、二勝のスコットランドは南アフリカとの対戦である。期待しよう。

ウィスコンシンで会った人々 その110 ヤブ医者噺 「薮医者」

小石川養生所ができたのが1722年。質素倹約を推奨していた八代将軍徳川吉宗、直々の命で建てた医療、福祉施設とされる。困窮者救済が主たる役目だった。もともと幕府の薬草栽培施設だったのが小石川御薬園。低地と湿地のためいろいろな薬草も繁茂していたという。そこに養生所を建てたのである。都心にあって静けさが横溢し緑が滴るところである。小石川は台地や傾斜地となっていて、泉水が豊富に湧き出すなど地形の変化に富んでいる。今も養生所で使われていた井戸が残されている。現在は東京大学小石川植物園となっている。

山本周五郎の「赤ひげ診療譚」は、長崎で修行した医師保本登、その師匠の赤ひげによる不幸な人々の救済物語である。「譚」とは物語という意味。落語などで登場する藪医者は、「藪井竹庵」。藪医者をなぞらえて用いられる。主人や旦那のもとで働く人物の代表は権助で、演目でしばしばでてくる。

はやらない藪医者の藪井竹庵。あまりにも患者が来ないので考えたあげくに、奉公人の権助をサクラに使うことを思いつく。権助に玄関前で患者の使いのふりをさせて「こちらの先生はご名医という評判で……」と大声を張り上げれば、評判が立つだろうという計画だ。正直な田舎者の権助は、間違って患者が来たら可哀そうだとこの計略に乗り気がしない。だが計画の練習が始まる。

「お〜頼み申しますでのう」と玄関先で大声をはりあげる権助に藪医者は「どおれ、いずれから?」と応対する練習である。

権助 「(普通の声で)はい、お頼み申します、お頼み申します」
藪医者 「それじゃぁ、聞こえない、」
権助 「えっ?」
藪医者 「聞こえないよ」
権助 「聞こえねぇことなかんべ」
権助 「おめぇ様、そこに居るでねぇか」
藪医者 「いや、あたしに聞こえても駄目だ、外へ通る人に聞こえなくちゃいけない」
藪医者 「大きな声で、ひとつ、やってみてくれ」

藪医者は権助に、どこからやってきて何をしているかを指南する。

権助 「お頼み申します、お頼み申します」
藪医者 「大きな声で何屋何兵衛だといえ」
権助 「お頼み申します、何屋何兵衛という、、」
藪医者 「そうじゃない。伊勢屋九兵衛という酒屋からまいりましたか、とかなんか言ってみろ」
権助  「繁盛しそうな名だ」

藪医者と権助の練習は続く。

権助 「神田、三河町、越中、源兵衛ちゅう、米屋からめいりました」
藪医者 「なるほど、うまいな、声も大きい」
権助 「どうだ、うまかんべぇ」
藪医者 「はい、神田三河町、越中屋源兵衛という米屋さんですか、」
藪医者 「して、何のご用で?」
権助 「先月のお米の勘定を、もれぇに来た」
藪医者 「冗談、言っちゃぁいけない」

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ウィスコンシンで会った人々 その109 放蕩息子噺 「六尺棒」

放蕩息子といえども、すごすご家から出て行く者だけでない。したたかさもあり頼もしいところがある。夜遊びとか博打、吉原通いといった江戸庶民の楽しみを描く演目に放蕩息子がでてくる。大抵は二代目の倅の浮かれ姿であり、お決まりのように啖呵をきって出ていく。そして「札付きのワル」として大抵はとどめを刺す。それをにぎにぎしく思う親父の混迷振りが伝わる。

「六尺棒」という演目である。堅気の商人の若旦那、幸太郎は夜遊びが激しい。毎晩のように深夜の帰宅。いつも親父がうるさいので、戸をそっと叩いて番頭や小僧を呼び家に忍び込もうとする。

生憎、親父が起きていて、戸を開けてくれない。挙げ句の果てに、『幸太郎のお友達ですか?よく訪ねてくださいました。「幸太郎は親類協議の上、勘当しました」と幸太郎にそうお伝え願います』などと、一向に家に入れようとしない。

幸太郎は家に入れてもらえそうもないので「この家に火をつけてやる」と穏やかでない。慌てた親父、六尺棒を持ってひっぱたきに飛び出てくる。幸太郎のほうが脚力があるから、どんどん逃げる。親父は捕まえることはできず、とうとう諦めて家に戻る。

戻ると家の戸が閉まっている。幸太郎が先回りをして家の中に入って錠をおろしてしまった。どんどん戸を叩くと、中の幸太郎はさっき親父にやられた通り真似をして『ああ、親父のお友達ですか?よく訪ねてくださいました。「親父は親類縁戚で相談の上、勘当した」と、親父にそうお伝え願います』などとやり返す。

怒った親父 「そんなに俺の真似がしたかったら、六尺棒を持って、追っかけて来い」

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ウィスコンシンで会った人々 その108 丁稚噺 「藪入り」

江戸時代の藪入りは1月16日と7月16日。女中や丁稚小僧などの奉公人、嫁が実家へ帰ることのできた貴重な休日である。さぞかし皆が待ち焦がれていたと思われる。こうした商家を中心に広まった藪入りの伝統と名残りは、現代の正月や盆の帰省に引き継がれている。

商家に奉公している亀吉が三年ぶりに実家へ帰る藪入りの前日の夜である。息子の帰りを待ちきれない父親は「あいつの好きな熱いご飯と納豆、ウナギを食わしてやりたい。寿司や汁粉、それから天ぷら、刺身、おでん、、、」と女房に用意するように言いつける。「そんなに食べられやしませんよ、」とたしなめられる。夜中、まんじりともせず亀吉の帰りを待っている。

「今日は亀を湯に行かせたら、浅草の観音様に連れて行きたい。ついでに品川で海を見せて、羽田の穴守稲荷様に寄って、川崎の大師様にお詣りし、横浜、江の島、鎌倉。ついでに名古屋のシャチホコを見せて、伊勢の大神宮様にお参りしたい。そこから京大阪を回って、讃岐の金比羅様を一日で、、」女房は呆れてものがいえない。

当日。亀吉は丁重に両親に挨拶をする。身長が伸びた息子を見て両親は涙を流す。湯屋に出かけた息子の荷物を母はがなにげなく見ると、財布に紙幣が入っている。奉公先の給金を貯めたとはいえ、母親は「亀吉が何か悪事に手を染めたのでは」という疑念を抱く。父親は気を落ち着かせて待とうとするが、苛立ちがつのる。

帰ってきた亀吉に対し、父親は「このカネは何だ」と問い質す。亀吉は、「人の財布の中を黙って見るなんていけませんよ」と言い返したので、父親は殴り飛ばしてしまう。母親は父親を制止し、「じゃあ、どうやって手にしたおカネなのか」と泣きながら問いただすと、亀吉は「そのおカネは、店で捕まえたネズミを警察に持って行っていきました。そのネズミの懸賞が当たって、店のご主人に預けていたものです。今日の藪入りのために返してもらってきました」と答える。

両親は安心するとともに、我が子の徳と運をほめる。父親はバツが悪るそうに「これからもご主人を大事にしろ」と亀吉に次のように言う。

「これもご主人への忠(チュウ)のおかげだ」。

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ウィスコンシンで会った人々 その107 泥棒噺 「転宅」

間抜けな泥棒としっかり者のお妾さんとの噺である。侵入してきた泥棒から手練手管を使って金を巻き上げる。どうも落語の世界では女性は優位、男性は誠に情けない有様だ。

とある妾宅である。旦那が二号のお梅に金を渡し、お梅に送られていく。それを泥棒が聞きつけ妾宅に忍び込む。泥棒、残り物をムシャムシャ食っている。そこにお梅が帰って鉢合わせ。泥棒、お決まりのセリフですごんで見せるが、お梅は驚かない。

お梅は泥棒に身のうちを明かす。「あたしも実は元は同業で、とうに旦那には愛想が尽きている」、「あたしみたいな女でよかったら、一緒になっておくれでないか」言いだしたから、泥棒は仰天。泥棒は舞い上ってとうとう夫婦約束の杯を交わす。

そう決まったら今夜は泊まっていくと図々しく言いだすと「あら、今夜はいけないよ。二階には旦那の友達で柔術をやる用心棒がいるから駄目。明日のお昼ごろ来てね。合図に三味線でも弾くから」。明朝忍んでいく約束をしながら、「亭主のものは女房のもの。このお金は預かっておくよ」と泥棒は稼いだ金をお梅に巻き上げられる。

翌朝。うきうきして泥棒が妾宅にやってくると、あにはからんやもぬけのカラ。慌てて隣の煙草屋のお爺に聞くと、「いや、この家には大変な珍談がありまして、昨夜から笑い続けなんです」、「女は実は、元は旅稼ぎの女義太夫がたり。方々で遊んできた人だから、人間がすれている」、「女の家というのは平屋、二階なんてありませんよ。そろそろ間抜けな男が現れる頃、一緒に笑ってやりまひょう、」、「お後が怖いというので、明け方のうちに急に転宅してしましたよ」

間抜け泥棒 「えっ、引っ越した。義太夫がたりだけに、うまくかたられた(騙された)」

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ウィスコンシンで会った人々 その106 「近日息子」

この演目にでてくる倅は、放蕩息子までとはいかないが、かなりのぼんくら。放蕩息子といえば、新約聖書のルカによる福音書15章11節に登場する「The Parable of the Lost Son」と決まっている。

親父が倅に「もうちょっと落ち着いて考えろ、、!」と説教している。そして「芝居の初日がいつ開くか見てきてくれ」と頼む。帰ってきた息子が明日だと言う。そこで楽しみにして出かけてみると「近日開演」の札が立っている。

 親父 「馬鹿野郎、近日てえのは近いうちに開けるという意味だ」
 倅 「だっておとっつぁん、今日が一番近い日だから近日だ」

なにしろ普段から、気を利かせるとか、先を読むということをまるで知らない。「おとっつぁんがきせるに煙草を詰めたら煙草盆を持ってくるとか、えへんと言えば痰壺を持ってくるとか、鼻水がでそうになったら紙を持ってくるとか、それくらいのことをしてみろ」、「そのくせ叱るとふくれっ面ですぐどっかへ行っちまいやがって」、とガミガミ言っている。そのうちおやじ、トイレに行きたくなったので、紙を持ってこいと言いつけると、出したのは便箋と封筒。

また小言を言うと、倅はプイといなくなってしまった。しばらくして医者の錆田先生を連れて戻ってきたから、わけを聞くと「お宅の息子さんが『おやじの容態が急に変わったので、あと何分ももつまいから、早く来てくれ』と言うから、取りあえずきてみた」「えっ? あたしは何分ももちませんか?」「いやいや、一応お脈を拝見」というので、診ても倅が言うほど悪くないから、医者は首をかしげる。

それを見ていた息子、急いで葬儀社へ駆けつけ、ついでに坊さんの方へも手をまわす。長屋の連中も、大家が死んだと聞きつけて、「あの馬鹿息子が早桶担いで帰ってきたというから間違いないだろう、そうなると悔やみに行かなくっちゃ」と相談する。説教の薬が効きすぎたようだ。

そこで口のうまい男が口上を宣もう。「このたびは何とも申し上げようがございません。長屋一同も、生前ひとかたならないお世話になりまして、あんないい大家さんが亡くなるなんて、、、」……言いかけてヒョイと見上げると、ホトケが閻魔のような顔で、煙草をふかしながらにらんでいる。

 口のうまい男 「へ、こんちは、さよならっ」
 大家 「いい加減にしろ。おまえさん方まで、ウチの馬鹿野郎と一緒になって!」
 大家 「あたしの悔やみに来るとは、どういう料簡だっ!」
 口のうまい男 「へえ、表に白黒の花輪、葬儀屋がウロついていて」
 口のうまい男 「忌中札まで出てましたもんで」
 大家「え、そこまで手がまわって……馬鹿野郎、表に忌中札まで出しゃがって」
 大家 「へへ、長屋の奴らもあんまし利口じゃねえや」
 大家 「よく見ろい、忌中のそばに近日と書いてあらァ」

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ウィスコンシンで会った人々 その105 舞台噺 「音曲長屋」

落語の中には、音曲を取り入れたものも多くある。楽屋連中の踊り、歌・物真似が飛び出す歌舞伎仕立ての構成で、これを舞台落語と命名された。演者には相当な芸が要求されたといわれる。噺家の中でも舞台で披露する人がいる。実に可笑しい。

三味線や歌、踊りといった音曲の好きな旦那がまた新しい長屋を建てた。入居者募集には「芸の心得のある者」という厳しい条件をつけ、その手見せ(オーディション)を開いた。

常盤津、踊り、義太夫、落語、手品、物真似、皿回し、長唄、剣術、川柳・狂歌、所作指南など芸の持ち主がやってきては、自分の素人芸を披露した。長屋の主人は、応募者一人ひとりに「ええですな、是非とも入居を」とほめると、「お前さんはこの長屋に入るのは五十年早いな」などと冷やかしながら入居者を決めていった。

最後の男が都都逸を唄うと、その声に長屋の旦那はすっかり惚れぼれしてしまう。都都逸は、三味線と共に歌われる俗曲。主として男女の恋愛を題材とした。これを音曲師が寄席や座敷などで演じる出し物である。

▽この酒を 止めちゃ嫌だよ 酔わせておくれ まさか素面じゃ 言いにくい
これは、五・七・七・七・五の音数律となっている。

▽あついあついと 言われた仲も 三月せぬ間に あきがくる
こちらは七・七・七・五の形式である。

 長屋の旦那  「大変結構、結構。あなたは店賃はいりません。」
 長屋の旦那  「その代り、毎日、あたしの所へきて都都逸を聞かせてくださいな」
 応募者  「いくらなんでも毎日聞いてたら、飽きやぁしませんか?」
 長屋の旦那  「あたしは家主。空家(飽きやぁ)は禁物です」

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ウィスコンシンで会った人々 その104 泥棒噺 「鈴ヶ森」

新米泥棒を親分が実地教育するという噺である。ドジで間抜けな新米。泥棒といってもねずみ小僧次郎吉や稲葉小僧、石川五右衛門といった暴利を貪る商人や威張っている侍を狙った「義賊」ではなく、新人泥棒の噺である。舞台は大森海岸沿。東海道は鈴ヶ森である。

親分 「出掛けるから、にぎりめしの風呂敷を担げ。お前が食べるんじゃ無いぞ。舅に食べさせるんだ」
新米泥棒 「舅って連れ合いの親ですよね」
親分 「何にも分からないのだな」
親分 「舅とはウルサいだろ。だから犬のことだ!」
新米泥棒 「では猫は小舅ですか」

親分 「ドスを差して行けよ!」
新米泥棒 「何でドスと言うのですか」
親分 「うるさいな。ドッと刺して、スッて抜くからだ」

親分 「表へ出ろ。戸締まりはしてきたか。世の中物騒だからな」、新米泥棒 「大丈夫です。物騒なのが二人出てきましたから」
新米泥棒 「暗いですね」
親分 「俺たちは暗いから仕事になるんだ」
新米泥棒  「恐いから、もっと明るい吉原に行きましょうよ」
親分 「歩くと、もっと暗いとこに行くぞ。鈴ヶ森で追い剥ぎだ」新米泥棒 「鈴ヶ森はよしましょう。しょっ引かれて首を刎ねられそう」

鈴ヶ森にやってくると、親分は旅人にどのような口上をいって金をせびるかを新米泥棒に教える。二人は口上の練習を始める。

親分 「おーい、旅人、おらぁ〜頭の縄張りだ」
親分 「知って通れば命は無い、知らずに通れば命は助けてやる!」
親分 「その代わり身包み脱いで置いて行け!」
親分 「イヤとぬかせば二尺八寸段平物をてめえの腹にお見舞え申す」

口上を新米泥棒が言うと親分が後ろに回って仕事をすることを確認する。

新米泥棒 「親分、その口上はアッシが言うんですか。それは無理です。紙に書いて下さい」
親分 「暗闇で書けるか」
新米泥棒 「アッシも読めませんから、相手に見せて読んでもらいまひょう」

真っ暗な中、鈴ヶ森に着く。新米泥棒がモタモタしている内にカモがやって来た。親分に押されて飛び出して、旅人を呼び止めた。だが新米の口上はさんざんで旅人に馬鹿にされる始末。

旅人 「二尺七寸段平物と言ったが、それを言うのだったら二尺八寸段平物と言え。一寸足りないぞ」
新米泥棒 「一寸先は闇でござんす、」

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ウィスコンシンで会った人々 その103 手討ち噺 「たけのこ」

春は芽、夏が葉、秋は実、冬は根をいただくのが日本の食文化である。竹冠に旬と書いて「筍」。たけのこである。まさに旬の食材。なんともいえない趣のある漢字である。今春、奈良の友人からいつものように筍が送られてきた。隣近所にお裾分けをし、ご相伴にあずかってもらった。食感といい香りといいたまらない春の食材である。落語にも筍が登場する。

ある武家屋敷である。田中三太夫が殿様にお目通り。三太夫とは家老とか執事という役職である。

三太夫 「実は、お隣の筍にございます」
殿様 「隣の筍ぉ?」
三太夫 「はっ、隣の筍が塀越しにこちらの庭先に顔を出しました」
三太夫 「それを密かに殿に差し上げる所存でございます」
殿様 「たわけっ。何を申すか、その方は。その方なぁ、」
殿様 「武士たる者が、隣のものを黙って食らうとは、何事だ」

殿様は云う。町人なれば誤って事も済むだろうが、武士たる者、事と次第によっては、腹を切らぬければならんと。

殿様  「もそっと、もそっと、前へ出ぇ。かよう盗人同然の者をのぉ、この屋敷において、養うことはまかりならん。もそっと、前へ出ぇ。筍の前にその方の首を落としてつかわす」

三太夫 「ちょちょちょ、ちょ、ちょちょっ、ご勘弁願います。いや、いやいや、旦那様、落ち着いてくださいまし。あたくしが悪うございました」

三太夫 「いやっ、旦那様、しばらく、しばらくっ」
三太夫 「いやっ、まだ、あのぉ、筍は盗った訳ではございませんので」
殿様 「盗っておらんー? では、はよぉ盗ってまいれ。」

三太夫は殿の命令に驚く。殿様は、筍が育ちが早いのですぐ硬くなることを知っている。盗ってはならんというのは表向きの言葉。隣の爺が憎らしいのである。その爺の筍を食らって溜飲を下げようという趣向である。

三太夫はびっくりしていると、殿が許せ、許せ、といいながら爺に断りを入れるように三太夫に申しつける。

三太夫 「はっ、何と申しますか?」

殿様は、けしからん筍は既に当方において手討ちにしたこと。そして遺骸は手厚く腹の内へと葬ったこと。そして筍の形見として皮を持ってきたこと。このとおり可愛いや(皮嫌)、、といいう口上となる。

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ウィスコンシンで会った人々 その102 泥棒噺  「釜泥」

泥棒といえば義賊といわれた石川五右衛門やネズミ小僧次郎吉、そしてアルセーヌ・ルパンが知られている。実在といわれた五右衛門や次郎吉は浄瑠璃や落語にも登場する。こうした泥棒を扱った作品では、それを書いた作者の想像力と創作意欲をかき立てたようで、古今数多くのフィクションが生み出された。

五右衛門の手下だったという男二人。親分が京の市中を引き回され釜煎りにされ、自分たちも捕まって天ぷらにされるのが心配になった。そこで、親分の供養と将来の備えのために、世の中にある釜という釜をかたぱっしから盗み出し、ぶち壊してしまおうという計画を立てた。さしあたり、大釜を使っているのは豆腐屋。そこを狙おうと相談がまとまる。

やがて豆腐屋ばかりに押し入り、金も取らずに大釜だけを持ち去る盗賊が世間の評判になる。豆腐業界は大騒ぎとなる。何しろ新しい釜を仕入れてもすぐかっさらわれるのだ。

ある小さな豆腐屋。爺さんと婆さんの二人で、ごくささやかに商売をしていた。この店でも釜を盗まれた。爺さんは頭を悩ませ、何か盗難予防の工夫はないかと婆さんと相談した結果、爺さんが釜の中に入り、酒を飲みながら寝ずの晩をすることになった。ところが、いい心持ちになり過ぎてすぐに釜の中で高いびき。

そこに現れたのが例の二人組み。この家では先だっても仕事をしたが、またいい釜が入ったというので、喜んでたちまち戸をひっぱずし、釜を縄で縛って、棒を通してエッコラサ。「ばかに重いな」「きっと豆がいっぺえへえってるんだ」せっせと担ぎ出す。

釜の中の爺さんが目を覚まして「婆さん、寝ちゃあいけないよ」とつぶやく。泥棒達は変な声が聞こえるなと担ぎ続ける。また釜の中から「ほい、泥棒、入っちゃいけねえ」泥棒、さすがに気味悪くなって、早く帰ろうと急ぎ足になる。釜が大揺れになって、爺さんはびっくりし「婆さん、婆さんや、地震か?」

その声に二人は我慢しきれず、釜を下ろして蓋を開けると、人がヌッと顔を出したからたまらない。「ウワァー」と、おっぽり出して泥棒は一目散。一方、爺さん、まだ本当には目が覚めず、相変わらず「婆さん、婆さん、地震だ、起きろ!」

そのうちに釜の中に冷たい風がスーッ。やっと目を開けて上を向くと、空はすっかり晴れて満点の星。「ほい、しまった。今夜は家を盗まれた」というサゲとなる。

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ウィスコンシンで会った人々 その101 ヤブ医者噺 「熊の皮」

いろいろな医者の中で滑稽いなのが「手遅れ医者」。やって来る患者には、まずは言う。「手遅れですな、、、」。「先生、なんとか助けてください。どうすれば良くなりますか?」。「病気になる前に連れてこなくちゃあかん、、」 たまに重病人がよくなると「手遅れ医者」も名医と呼ばれたとか、、。

横丁のヤブという評判の医者から祝い事があったからと、多賀が緩み加減の甚兵衛の家に赤飯が届けられる。そのお返しに行かなければということで、女房は亭主の甚兵衛に口上を教える。

女房が亭主に指南した口上は次のようなことだ。
「先生はご在宅でございますか、、うけたまわれば、お祝い事がありましたそうで、おめでとう存じます。先日はお寒い中、そしてお門多い中、手前どもまで赤飯をお届けくださりありがとう存じます。女房からくれぐれもよろしくと申しておりました」

そして女房は「おまえさんはおめでたいから、決して最後の口上を忘れるんじゃない。それからあの先生は道具自慢だから、なにか道具の一つも褒めといで」と注意されて送り出される。

おなじみの与太郎に似て頓珍漢な口上を始める。「ありがとう存じます」まではなんとか言えたが、肝心の「女房が、、、、」以下をきれいに忘れてしまった。「はて、まだ何かあったみてえだが……」座敷へ上げてもらっても、まだ首をひねっている。

甚兵衛 「……えー、先生、なにかほめるような道具はないですか」
ヤブ医者 「ナニ、道具が見たいか。
ヤブ医者 「よしよし、……これはどうだ」
甚兵衛 「へえ、こりゃあ、なんです?」
ヤブ医者 「珍品の熊の皮の巾着だ!」

なるほど本物と見えて、黒い皮がびっしりと生えている。触ってみると、丸い穴が二か所開いている。鉄砲玉の痕らしい。甚兵衛、感心して毛をなでまわしている間に、ひょいとその穴に二本の指が入った。

甚兵衛 「あっ、先生、女房がよろしく申しました!」

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ウィスコンシンで会った人々 その100 医者噺 「代脈」

以前、藪医者の演目の一部を紹介した。http://naritas.jp/wp1/?p=2045
江戸時代の医者は、徒弟制度で世襲制であった。それゆえ極端にいえば誰でも医者になれた。そうした医者を揶揄して、ヤブ医者の他にヘボ医者、雀医者、葛根湯医者、手遅れ医者などたくさんいたようである。教習もなければ資格もなかった。ただ医者になると姓を名乗り小刀を腰に差す事が許されたという。山本周五郎の「赤ひげ診療譚」は、長崎で修行した医師保本登と赤ひげの物語。彼らは不幸な人々の救済にあたった本物の医師だったようである。医師が免許制となったのは明治9年になってからである。

今は八重洲通りである中橋広小路に尾台良玄という医者がいた。彼には銀南という弟子がいた。良玄のお得意に伊勢屋があった。そこの綺麗な娘が向島の寮で療養中だった。そろそろこの銀南を代脈に行かせようと良玄は考えた。代脈とは主治医に代って患者を診察することである。銀南は少々虚けのところがあるので良玄は、初めての代脈の作法を指南する。

良玄 「向こうに着いたら、番頭さんがお世辞にも『これはこれは、ようこそ』と迎えてくれる」
良玄 「そして奥の6畳に案内してくれる。座布団が出るから静かに堂々と座る」
良玄 「次にたばこ盆が出る。さらにお茶とお茶菓子が出る」
銀南 「お菓子は何が出ます?」
良玄 「いつもは羊かんが9切れ出るな」
銀南 「では、片っ端からパク付いて」
良玄 「品が無いな。食べてはいかん。羊かんは食べ飽きている、と言うような顔をする」
良玄  「どうしてもと言う時は一切れだけ食べても良い」
銀南 「残りの8切れは?」
良玄 「お連れさんにといわれたら、紙にくるんで貰って良い」

良玄 「それから奥の病間に通してくれる。丁寧に挨拶して、膝をついて娘さんに近づき”銀南でございます”と挨拶をする」
良玄 「脈を診て、舌を診て、胸から小腹を診る。この時左の腹にあるシコリには絶対触ってはならない」
銀南 「何でですか?」
良玄 「私も何だろうと思って軽く触れたら、びろうな話だが、放屁が出た」
銀南 「ホウキが出たんですか」
良玄 「いや、オナラだ」
銀南 「綺麗なお嬢さんがオナラをするはずがないでしょう」
良玄 「出物、腫れ物はだれにもあるから仕方がない」
良玄 「お嬢さんも真っ赤な顔をした。お前だったら何という?」
銀南 「や〜、綺麗な女のくせしてオナラをした〜」
良玄 「そんな事言ったら、お客様を一軒しくじる」
良玄 「わしはその時、掛け軸を観ていて聞こえない振りをして『この二.三日、耳が良く聞こえん』と頓知を働かせた」
良玄 「するとお嬢さんの顔色が元に戻った。決して左の腹を触るでないぞ」

銀南は師匠の着るものや道具箱を借りて伊勢屋へ出かける。駕籠に初めて乗るので舞い上がっている。頭から乗ろうとして上手く乗れず「キャー」っと声張り上げ、道行く人に笑われる。駕籠に乗っているうちイビキまでかき始めた。

伊勢屋での出迎えはご老母。娘に挨拶をし、脈を取って驚いた。痩せて毛むくじゃらな娘だと思ったら横で寝ていた猫であった。お腹を拝見とばかり、触るとシコリを発見する。そっと触わるようにと言い含められたのだが、銀南グイッと押したからたまらない。特大のオナラが出て銀南はビックリ。

銀南 「ご老母さん、この二.三日陽気の加減で耳が遠くなっています。何か用事があったら、大きな声でおっしゃってください」
老母 「先日、大先生も同じ事言われましたが、若先生もお耳が遠いのですか」
銀南 「えぇ、遠いんです。安心なさい、今のオナラはちっとも聞こえませんでした」

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ウィスコンシンで会った人々 その99 品川宿噺 「居残り佐平次」

品川は東海道の喉っ首。最初の宿である。四宿といわれた品川、新宿、千住、板橋の中でも一番の賑わい所だった。そのようなわけで庶民や旅人の岡場所ともなる。東海道を目指す旅人が品川でスッカラカンになり、家族や親戚に送ってもらった日本橋にすごすごと戻るという枕もある。

若い連中が遊廓で繰り込むことになったが、みんな金がない。そこで一座の兄貴分の佐平次が「土蔵相模」という有名な見世で乱痴気騒ぎをする。その夜、佐平次は仲間を集めて二円の割り前をもらい、「この金をお袋に届けてほしい、お前たちは朝立ちしてけえれ、、」、と申し伝える。

一同驚いて、「兄貴はどうするんだ」と聞くと、「体の具合がよくないので、医者にも転地療養を勧められている矢先。当分品川で海風を受けて、旨いものを食いのんびりするつもりだと言う。翌朝、土蔵相模の若い衆が勘定を取りに来ると、佐平次はなんだかんだいって煙にまき始める。まとめて払うからと言いくるめ、夕方まで酒を追加注文してのみ通し。蒲団部屋で居残りを決め込む。

夜になり見世が忙しくなると、酒肴の運びから客の取り持ちまで、手際よく手伝い始める。器用で弁が立ち、巧みに客を世辞で丸めていい心持ちにさせる。おまけに幇間顔負けの座敷芸まで披露する。幇間とは男芸者のこと。たちまち、どの部屋からも「居残りを呼べ!」と引っ張りだこになる。こうして佐平次はいつの間にか「居残り佐平次」と呼ばれるようになっていく。

ところが人気の出た居残りに面白くないのが他の若い衆。客は居残りに小遣い銭を渡すので「あんな奴がいたんでは飯の食い上げだ。叩き出せ!」と主人に直談判する。旦那も放ってはおけず、佐平次を呼び勘定は帳消しにするから帰れと言う。

ところが佐平次、「悪事に悪事を重ね、お上に捕まるとドテッ腹に風穴が開くから、もう少しかくまっててくれ」と、とんでもないことを言いだす。旦那は仰天して金三十両に上等の着物までやった上、ようやく厄介払いした。それでもあやつが見世のそばで捕まっては大変と、若い衆に跡をつけさせると、佐平次は鼻唄まじりでご機嫌。それを見た若い衆が問いただすと居直って、「おれは居残り商売の佐平次ッてんだ、よく覚えておけ!」と捨てぜりふ。それを聞いた旦那は地団駄踏む。

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ウィスコンシンで会った人々 その98 侍噺 「粗忽の使者」

「粗忽」。なんともとぼけたいい響きの言葉である。粗忽者は落語では一番人気の演題といえようか。町人にはこうした者が登場するが、侍の世界での粗忽は大変である。下手すると切腹を言い渡される。だが、酔狂な大名には、こうした粗忽者を可愛がるのもいたようだ。

ある大名の家臣に地武太治部右衛門という虚けの侍がいた。あだ名は「治部ザムライ」。驚異的な粗忽者だが、そこが面白いというので殿様に大層気に入られていた。

ある日、治部ザムライ大切な使者を仰せつかり、殿様の親類の屋敷に赴むこうとする。家を出る時、慌てるあまり犬と馬を間違える。馬に後ろ向きで乗ってしまい、「馬の首を斬って後ろに付けろ」と言ったりして大騒ぎとなる。

使者の間に通され、官房長官のような田中三太夫が使者の口上を問うが、治部ザムライどうしても思い出せない。思い出せないのでここで切腹すると言い出したが、三太夫が止める。幼い頃より父に居敷(尻)をつねられて思い出すのが癖になっているので、三太夫に居敷をつねるように頼む。

早速太夫が試したが、 今まであまりつねられ過ぎてタコになっているので、いっこうに効き目がない。「ご家中にどなたか指先に力のあるご仁はござらぬか」と尋ねても、指先の力は、、、と若い侍はみな腹を抱えて笑うだけ。

これを耳にはさんだのが、屋敷内で普請中の大工の留っこ。そんなに固い尻なら、一つ俺が代わってやろうと釘抜き道具を忍ばせた。三太夫に面会し、指には力があると云う。だが、大工を使ったとあっては大名家の沽券に関わるので、留っこを仮の武士に仕立て、チョンマゲも直し着物を着せる。留っこでは、しめしがつかないといって「中田留五郎」ということにし、治部ザムライの前に連れて行く。

三太夫が留五郎殿と何回呼んでも返事がない。やむなく”留っこ”と言うとすかさず返事が戻ってくる。 あいさつは丁寧に、言葉の頭に「お」、しまいに「たてまつる」と付けるのだと言い含められた留っこ、初めは「えー、おわたくしめが、おあなたさまのおケツさまをおひねりでござりたてまつる」などと言うので、三太夫は誠に当惑する。

早速、居敷をつねろうとして三太夫を次室に追い出す。留っこは治部ザムライと二人になると途端に職人の地がでて、「さあ、早くケツを出せ。なに、汚ねえ尻だナ。硬いな。いいか、どんなことがあっても後ろを向くなよ。さもねえと張り倒すからな」。

エイとばかりに、釘抜き道具で尻をねじり上げる。
治部ザムライ 「うー、キクー、・・・もそっと強く」
留っこ 「どうだこれで」、
治部ザムライ 「ウーン、あぁー、痛たタタ、思い出してござる」

すかさず次の間で控える三太夫が「して、ご口上は?」と質す。
治部ザムライ 「聞かずに参った」。

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