音楽の楽しみ その29 合唱曲の数々 「カチューシャ」

長女の旦那はロシア系アメリカ人。1990年代後半にモスクワからアメリカに移住したようです。モスクワ時代はソビィエト陸軍で兵役に就き、大陸間弾道弾の発射基地にいたことがあります。1976年9月に起こったMiG-25 (ミグ25) の函館空港着陸、ベレンコ中尉亡命事件も良く覚えているといっています。

時々会ってパーティをしたりして酔ってくると一緒に歌うのが「カチューシャ (Katyusha)」や「カリンカ (Kalinka)」です。この2曲も北大合唱団で歌いました。実はこの歌は、私の父親も酔うと良く歌っていました。1945年9月に樺太で2年間の抑留生活をおくります。そのとき、兵隊と一緒にウオッカを飲んでは歌ったのがこの曲だったようです。父は、ロシア語で簡単な会話ができたようで、兵隊は彼を「ケンゾー」と呼んでいたとか。発音しやすかったのでしょう。その当時、日本人はロシアの兵隊を「ロスケ」とか「露助」と呼んでいました。

「カチューシャ」とはエカテリーナ(Ekaterina)の愛称形だそうです。エカチェリーナとも表記されるエカテリーナという名前は、ロマノフ朝 (Romanov) 第2代の皇帝ロシアエカチェリーナ1世が有名です。ピョートル1世の后だったですが、夫の死後女帝になります。ロマノフ朝第8代ロシア皇帝エカチェリーナ2世もまた政治的にも私的生活においても話題の多かった女性といわれます。彼ら二人がカチューシャと呼ばれたかどうかは定かではありません。

さて、「カチューシャ」という曲は、娘が川岸で恋人を思慕する姿を描いた1938年頃の歌曲とされます。当初の歌詞は2番までしかなく、カチューシャの恋人が兵士として徴用されていることを示唆する内容となります。1938年10月にナチスがチェコスロバキア (Cesko-Slovensko)からズデーテン (Sudeten) 地方を割譲したり、日本軍による広東が占領され、ナチスのユダヤ人迫害が始まった年です。こうして不穏な世界情勢を反映して、国境の警備に当たる兵士が故郷の恋人を想うという設定で3番と4番の歌詞が書き足されたようです。

やがて1941年6月に独ソ戦といわれる大祖国戦争が始まります。それとともに戦場の兵士に広く愛されて歌われるようになり、代表的な戦時流行歌となったといわれます。戦後になっていわゆるロシア民謡を代表する一曲として、我が国でも「ともしび」などとともに、うたごえ運動で盛んにうたわれた曲です。

リンゴの花ほころび
 川面に霞たち
  君無き里にも
   春は忍びよりぬ

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音楽の楽しみ その28  合唱曲の数々 「ねんねこ しゃっしゃりませ」 中国地方の子守唄

子守唄はララバイ (Lullaby) といいます。子供をあやしたり寝かしつける時の歌です。ゆったりとしたテンポで長調の響きです。そのため揺籃歌ともいわれます。この響きは西洋音楽の特徴です。シューベルト (Franz  Schubert)、ブラームス (Johannes Brahms)、ショパン(Frederic Chopin) などの子守唄を聴くとそう思います。

他方、日本の子守唄はララバイ とはほど遠いほど寂しく悲しさが漂います。かつて貧しい農家の娘は7歳から8歳になると奉公に出され、主人の家で赤ん坊の世話をします。おんぶして子守をしたり寝かしつけるのです。

Wikipediaによれば、中国地方の子守唄「ねんねこ しゃっしゃりませ」は、岡山県の井原市高屋町が発祥の地とされます。この付近に伝わる古い子守歌を採譜し紹介して、1928年頃に広がり始めたということです。

ねんねこ しゃっしゃりませ
  寝た子の かわいさ
   起きて 泣く子の
    ねんころろ つらにくさ
     ねんころろん ねんころろ

  ねんねこしゃっしゃりませ
   今日は二十五日さ
    明日はこの子の ねんころろ 宮詣り
     ねんころろん ねんころろん

  宮へ詣ったとき
   なんというて拝むさ
    一生この子の ねんころろ まめなよに
     ねんころろん ねんころろん

「しゃっしゃりませ」は「なさいますように」というように解釈されます。早く寝付いてちょうだい、といった感じでしょうか。奉公する娘が赤ん坊に「つらにくさ」というこみ上げてくる憎らしさを表現しています。「宮へ詣ったとき、なんというて拝むさ」という歌詞には、詣でをしてもなんの役に立つのか、という皮肉るような心情をうたう箇所もあります。

日本の伝統的な子守歌は、「ララバイ」 とは発生の背景や思想が全然違うのです。

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音楽の楽しみ その27  合唱曲の数々 「竹田の子守唄」

子守唄のルーツや背景を調べるといろいろなことが分かります。この「竹田の子守唄」もそうです。子守の仕事を歌う「守り子唄」です。なぜこの名前がついたかです。Wikipediaによりますと京都市の伏見区に竹田という地区があります。この曲は、この地区に伝わる守り子歌といわれます。

1964年に作曲家の尾上和彦が竹田地区で収集した民謡を編曲しこの子守唄が生まれます。尾上は芸術座公演「橋のない川」の音楽担当でした。「取材した部落の地名を名付けて舞台で発表したのがこの歌が広まる契機となった」といわれます。それゆえ「被差別部落の子守唄」とも呼ばれたこともあるようです。

なぜこのような呼称がついたのかですが、歌詞に出てくる「在所」という言葉が一つの誤解を生んだ理由といわれます。「在所」という用語は、広辞苑によると、「田舎、在郷、都会を離れた地方」とあり、「部落」とか「被差別部落」などは一言もありません。京都でも大阪においても「在所」は必ずしも被差別部落だけを指すものではないといわれます。

1971年2月にフォークグループの「赤い鳥」はこの曲を3年間でミリオンセラーとします。ですが何か腫れ物にでも触るような守り子唄という噂、被差別部落絡みという噂が流れて、各地の放送局はこの曲を放送しなくなります。いわゆる「放送自粛歌」として長い間封印されます。音楽は時に偏った思想に翻弄されます。

仮に「在所」が被差別部落であったとしても、この素晴らしい歌を積極的に紹介し、部落の人たちの苦しみを訴えかけること、人権を尊重するのがメディアの役割であるべきです。時代と社会とメディアの中で生まれ、なぜか沈んでいったこうした歌を考えると、社会とメディアの不気味な本質を垣間見ることができます。民衆の歌であり搾取されていた人々に生まれた子守唄を「放送自粛歌」にしたとは誠に恥ずべき措置だったといわなければなりません。幸い1990年代に放送禁止の封印は緩和されます。

アメリカの音楽であるジャズやブルースの歴史に奴隷制度という文化があるように、守子唄にも苦難に生きてきた女性の文化があるということでしょう。

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音楽の楽しみ その26 合唱曲の数々 「五木の子守唄」

北大合唱団の大事なレパートリーに子守唄がありました。古今東西を問わず、各地に子守唄があります。世界的に有名な子守歌もよいのですが、熊本県は球磨郡五木村に伝わる「五木の子守唄」はしみじみとした哀愁のある曲です。一体どのような人々が歌詞を考え、旋律をつけたのかと感服したい程です。

Wikipediaによりますと、子守唄には二種類あって、第一は赤ん坊を寝かしつけるための子守唄、第二は子守り娘たちが仕事の辛さを歌った子守唄です。後者は「守り子唄」といって子守をする少女が、「自分の不幸な境遇などを歌詞に織り込んで子供に唄って聴かせ、自らを慰めるために歌った歌」とあります。「五木の子守唄」は守り子唄の代表のようなものです。

五木村の総面積の96%を山林が占めます。村人の多くは地主の下で林業に従事したり、借り受けた僅かばかりの土地で農業を営んだようです。家が貧しいために子供たちは口減らしのために、近隣の人吉や八代の豊かな商家や農家に奉公に出されました。

おどま盆ぎり 盆ぎり
   盆から先ゃ おらんど
    盆が早よ来りゃ 早よもどる

「おどま」は「私たちは」、 「盆ぎり」は「お盆まで」、「おらんど」は「いないよ」という方言です。「私は、盆までの約束で、この家で奉公をしています。盆が来れば、家に戻れます。早く盆よ、来てくれ」と家へ帰れる日を待つ気持ちを歌います。

おどま かんじん かんじん
   あん人達ゃ よか衆
    よかしゃ よか帯 よか着物

「かんじん」とは、小作人という意味で、ここでは「物乞い」という意味で用いられています。「よか衆」とは地主などの旦那衆を指します。「私は乞食のようなものだ。(それにくらべて)あの人たちはで、良い帯を締めて立派な着物を着ている」という歌です。

生活を見つめることによって、はじけるような心情を吐露しています。きっと苦労していたから、こうした名作が生まれたと信じたいです。作詞者はなんという素晴らしい感受性の持ち主ではないでしょうか。

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音楽の楽しみ その24  合唱曲の数々 「Oh Happy Day」

オー・ハッピー・デイ (Oh Happy Day) は、著名なゴスペルソングの一つ。ホーキンス (Edwin Hawkins) が1967年に作詞・編曲したものです。もともともは18世紀の賛美歌 (Hymnal)が元となっています。

この曲も高校を舞台とした青春映画「Sister Act 2」で、大変な人気となります。デロリスを演じるのは、もちろんウーピー・ゴールドバーグ(Whoopi Goldberg) 。則にのった演技で魅了します。ジェームス・コバーン (James  Coburn)も学校閉鎖を決める理事長として扮しています。しぶい演技をする懐かしい俳優です。

映画「Sister Act 2」です。社会奉仕先の高校で音楽担当として赴任したデロリスが、聖歌隊の活動を通して子供達を正しい道へ導いていきます。パフォーマンス付きのコーラスなどの場面が随所に登場するのも前作と同じです。

「Oh Happy Day」のメインヴォーカルを務めるのは、Ryan Toby 。ソロでオクターブの声を披露して聴衆を熱狂させます。彼はやがてソウルシンガー、作曲家として活躍します。この曲も大ヒットしますが、決して一過性に終わることなくゴスペルとして定着します。単純明快な歌詞と歌いやすい台詞が魅力です。

「Sister Act 2」の後半には、音楽コンクールがあります。デロリスが指揮する曲は、「Joyful, Joyful」。ベートーヴェン (Ludwig van Beethoven) の交響曲第9番第4楽章が主題となる曲です。この歌がゴスペルソングとして広まるとはベートーヴェンも意外だったでしょう。

Joyful, joyful, we adore thee,
  God of glory, Lord of love
   Hearts unfold like flowers before thee,

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音楽の楽しみ その23  合唱曲の数々 「Nobody knows the trouble I’ve seen」

Nobody knows the trouble that I’ve seen
 Nobody knows my sorrow
  Nobody knows the trouble that I’ve seen
   Glory Hallelujiah

この曲は、奴隷制度の時代の霊歌です。「誰も私の苦しみを知らない。でも主イエスはしっかりと分かっていてくださる。それゆえ心を強く持って苦しみや悲しみにも耐えていける、そしていつか主イエスの元へ旅立つことができる」という救いと希望のメッセージが込められる黒人霊歌です。

最初にこの曲が世の中に伝わったのが1867年といわれますから、まだ新しいといえます。広く歌われるようになったのは、歌手のマリアン・アンダーソン (Marian Anderson) やサム・クーク (Samuel Cooke)、トランペット奏者のルイ・アームストロング (Louis Armstrong)やハリー・ジェイムス (Harry James) などによって演奏されたことです。 特にアンダーソンのアルトの気高く清澄な旋律はしみじみと心に染み込むようです。1925年にアンダーソンが最初にこの曲をレコーディングして世の中に広まります。黒人のゴスペルグループである「Deep River Boys」が1958年にノールウェイのオスロ(Oslo)で録音されたという記録もあります。

この霊歌には「Glory hallelujah! 主に栄光あれ」という歌詞が何度も登場します。同じフレーズがアメリカ歌曲である「リパブリック賛歌 The Battle Hymn of the Republic」にも使われています。南北戦争 (Civil War) における北軍の行軍曲です。作詞したのは著名な奴隷制度廃止運動家として知られるジュリア・ハウ(Julia Ward Howe)という女性です。彼女はユニテリアン派教会 (American Unitarian Association) に所属し、その夫はなんとパーキンス盲学校 (Perkins School for the Blind) の初代校長サミュエル・ハウ (Samuel Howe)です。
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nobody knows the trouble i ve seen

nobody nobodys

音楽の楽しみ その22  合唱曲の数々 「Swing Low, Sweet Chariot」

Swing low, sweet chariot,
Comin’ for to carry me home;
Swing low, sweet chariot,
Comin’ for to carry me home.

邦題は、冗長なカタカナとなりますが、「スウィング・ロー、スウィート・チャリオット」とあります。黒人奴隷が、「ヨルダン河の向こうの故郷へと馬車で静かに運んでおくれ」という祈りの歌です。この黒人霊歌も北大合唱団のレパートリーでもありました。

もともとチャリオット (Chariot) とは、兵士を乗せる戦闘馬車を指します。ヒッタイト (Hittites)、アッシリア (Assyria)、古代エジプト (Egypt)、古代ローマ時代の戦争で使われました。チャリオットに乗って預言者エリヤ (Prophet Elijah) 天国へ昇る描写が旧約聖書 (Old Testament) にあります。そこには以下のように記述されています。

一台の火の戦車と火の馬とが現われ、このふたりの間を分け隔てエリヤは、たつまきに乗って天へ上って行った。 (列王記下2章11節)

「Swing Low, Sweet Chariot」という曲は、Wikipediaによるとアフリカ系アメリカ人グループである「フィスク・ジュブリー・シンガーズ(Fisk Jubilee Singers)」によってアメリカ各地に広められたとあります。このグループは、テネシー州 (Tennessee) のナッシュビル  (Nashville) にあるフィスク大学 (Fisk University) という黒人系の大学のアカペラ (a cappella) 合唱団で1871年に創設されます。団名にある「jubilee」とは喜び、歓喜という単語です。

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音楽の楽しみ その21  合唱曲の数々 「Black Spirituals」

合唱曲を紹介していますが、話題が前後してしまいます。既にBlack Musicを少しだけ取り上げております。どうかお許しを。

合唱曲には、霊歌(Spirituals)と呼ばれるジャンルがあります。霊歌は讃美歌より広い意味で使われています。その名称の由来は、新約聖書、エペソ人への手紙 (Ephesians 5:19) に「詩と賛美と霊の歌とによって主に感謝して、、、、」という聖句にあります。ここでは白人や黒人の区別ありません。一般に礼拝用讃美歌は「spiritual song」と呼ばれるようになりました。

今日「spiritual song」の代表が黒人霊歌(ニグロ・スピリチュアル: Negro Spirituals)といわれます。アフリカ大陸から強制的に連行され、奴隷となった黒人たちの生活の中で育まれ口頭で伝えられる歌であるという説のほか、白人の間の宗教歌が黒人に影響を与えて発生したのがNegro Spiritualsだ、という説もあります。今日、「ニグロ」という単語は蔑視的であるとして単独では使われません。そのため、黒人霊歌は「Black Spirituals」と呼ばれるようになりました。

奴隷の中にキリスト教が広まります。その人々の中に生きていた独特の音楽のリズムや旋律と賛美歌が融合したものが黒人霊歌と考えられています。プランテーション讃美歌 (plantation hymnals)とか奴隷の歌 (slave songs)、ゴスペル(Gospel) と呼ばれてきました。ちなみにGospelとは「キリストとその使徒たちの説いた教え」とか「救いと神の王国に関するよき便り」という意味です。

奴隷としての黒人は、新大陸で過酷な労働に生きます。その中で生まれた黒人霊歌は慰めや救いを求める証しとされます。北大男声合唱団で歌った曲の一部を紹介します。こうした曲の主題は旧約聖書の物語からとったものが多いことがわかります。

「スウィング・ロー、スウィート・チャリオット」(Swing Low, Sweet Chariot)
「深き河」(Deep River)
「行け、モーセ」(Go Down Moses)
「アメイジング・グレイス」(Amazing Grace)
「聖者の行進」(When the Saints Go Marching In)
「漕げよマイケル」(Michael Row the Boat Ashore)
「ジェリコの戦い」(Joshua Fit The Battle Of Jericho)
「ロック マイ ソウル」 (Rock My Soul)
「誰も知らない私の悩み」(Nobody Knows the Trouble I’ve Seen)
「クンバヤ  マイ ロード」 (Kumbaya My Lord)

「クンバヤ  マイ ロード」と「深き河」は前回と前々回に紹介しました。次回は「Swing Low, Sweet Chariot」を紹介することにします。

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音楽の楽しみ その20  合唱曲の数々 「深き河」

Black Musicの「深き河」の歌詞を見ますと、黒人の厳しかった現実と救いへの憧れが描かれています。

 Deep river, my home is over Jordan
  Deep river, Lord,
   I want to cross over into campground

歌詞にある「My home」とは、旧約聖書の出エジプト記3章8節 (Exodus 3:8)にある「乳と蜜の流れる地」、豊かなカナン (Canaan) の地を指します。地中海とガリラヤ湖 (Sea of Galilee) 、ヨルダン川(River Jordan)、死海(Dead Sea) に挟まれた地域一帯の古代の地名で、かつて住み慣れた彼らの故郷アフリカをも示唆しています。Campgroundは、ヨルダン川の西岸、現在のWest Bank のことです。

イスラエルの民族指導者モーゼ (Moses)に率いられた民がエジプトから逃れ、ヨルダン川にたどりつくのは40年目。洗礼者ヨハネ(John the Baptist)はこの川のほとりの荒野で「悔い改め」を人びとに伝え洗礼を授けていたことがヨハネによる福音書1章26節(Gospel according to John 1:26 )にあります。

「深き河」はヨルダン川だけではないようです。ノースカロライナ州 (North Carolina)には、「深き河」と同じ名前の「Deep River」があります。この川は、北部州と南部州の境界を縦断するように流れています。「南北戦争当時、奴隷解放を推進していたクエーカー教徒(Quaker) の組織が存在し、彼らによって「深き河」が作曲されたのではないかという説もあります。

ノースカロライナ州は、奴隷制の維持に賛成する南部諸州の一つとして北軍と戦ったのですが、既に自由な身分を保証されたアフリカ系アメリカ人も数多く存在していました。ですが、その暮らしは差別と搾取のために過酷であったようです。

このDeep Riverは、モーゼがヨルダン川を渡りカナンの地に落ち着いたように、自由と隷属、生と死の境として象徴的に解釈されてきたという川です。

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ca. 1920s-1930s --- Contralto Opera singer Marian Anderson, (1902-1993). Marian Anderson was born in Philadelphia, PA, and was the first African-American singer to sing at the New York Metropolitan Opera. Undated photograph. --- Image by © Bettmann/CORBIS

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音楽の楽しみ その19  合唱曲の数々 「クンバヤ マイ ロード」 (Kumbaya My Lord)」

ボースカウトや子供たちの夏のキャンプでは、焚き火を囲んでよく歌われるのが「クンバヤ  マイ ロード」です。もともとはBlack Spirituals の一つで、黒人奴隷が主イエスに救いを求める心情を歌っています。

「Kumbaya My Lord」の由来ですが、アフリカ系アメリカ人なまりの英語で「Come by here My Lord」 (主よ、私の側にきてください)ということからきています。

1927年にロバート・ゴードン (Robert Gordon) というカリフォルニア大学バークレ校 ( University of California at Berkeley) の英語学者がアメリカの民謡を編集しアーカイブ (archive) を作成します。それが「Folk-Songs of America: The Robert Winslow Gordon Collection, 1922」です。アーカイブの中に加えられたのが「Kumbaya My Lord」です。「Kumbaya My Lord」の歌詞ですが、奴隷達の絶望や悲嘆さに神の助けや恩寵を願う内容となっています。ゴードンはこの曲がH. Wylieという女性によって歌われていたのを記録します。それ以来、この霊歌は急速に広がっていきます。

時代が変遷して、1962年頃には、ジョーン・バエズ (Joan Baez) がこの歌を歌い、公民権運動やヴェトナム反戦運動に大きな影響を与えていきます。

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音楽の楽しみ その17  合唱曲の数々 「Shenandoah」

「シェナンド (Shenandoah)」は19世紀の初めにアメリカで歌われるようになったといわれる民謡です。タイトルの「シェナンド」の語源は、原住民のインディアンであるイロクオイ族 (Iroquois) の酋長 ”Sherando”の名とする説や、大草原を意味する言葉”Skahentowane”に由来するものなど諸説があります。元来はインディアンの間で語られていたシェナンド河 (Shenandoah River) 創造の伝説にある「星々の美しい娘」という意味を持つ言葉だといわれています。

「シェナンド」で歌われる「シェナンド河」は、アメリカのヴァジニア州 (Commonwealth of Virginia) とウェストヴァジニア州(West Virginia) を流れる川で、この川はポトマック川 (Potomac River) の支流であり、ヴァジニア州とメリーランド州 (Maryland)との州境近くでポトマック川に繋がっています。また歌詞に出てくる「ミズーリ川(Missouri River)」はアメリカの中部を流れる川で、ミシシッピ川 (Mississippi River) の最も大きな支流です。

「シェナンド」という合唱曲は多くの合唱団や歌手によって歌われています。たとえば、ロバートショウ合唱団 (Robert Shaw Chorale)やロジェワグナー合唱団 (Roger Wagner Chorale) は有名です。Robert Shawによってロバートショウ合唱団は1948年に結成され、力強くも艶やかな音色の男声合唱で世界中で演奏した合唱団です。ジュリアード音楽院 (Juilliard School) やニューヨークにある他の音楽大学 (conservatories) の卒業生で構成されました。

ロジェワグナー合唱団は、Roger Wagnerによってつくられ、カリフォルニアを中心に活動し、その後世界的な混声合唱団となりました。Wagnerは教会音楽や32年間もカリフォルニア大学ロサンゼルス校 (University of California, Los Angeles: UCLA)において大学教育にも携わり、UCLAの名誉教授の称号を得ています。

この二つの合唱団は1980年代に解散しますが、フォスター (Stephen Foster)の全曲を歌うなど、合唱音楽を世界に広める大きな貢献をします。

Oh Shenandoah, I long to hear you,
Way-hay, you rolling river
Oh Shenandoah, I long to hear you,
Away, we’re bound to go
cross the wide Missouri

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Images for travel story on Harper's Ferry, West Virginia by Sydney Trent. Harper's Ferry. WV from Maryland, Heights.

Images for travel story on Harper’s Ferry, West Virginia by Sydney Trent. Harper’s Ferry. WV from Maryland, Heights.

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音楽の楽しみ その16  合唱曲の数々 グレゴリオ聖歌

グレゴリオ聖歌 (Gregorian chant ) を取り上げます。もともとグレゴリオ聖歌は西方教会の単旋律聖歌(プレインチャント-plainchant)の中心に位置する聖歌で、ローマカトリック教会で使われる単旋律 (monophonic)、無伴奏の宗教音楽を指します。ミサ (Mass)や聖務日課の祈りの中で男性の聖職者によって歌われていました。グレゴリオ聖歌が男声合唱によって歌われることが多いのはそのためです。

教会の長い歴史では男声および少年合唱によって、また修道会では修道僧や修道女によってグレゴリオ聖歌は歌われてきました。スペインはカタルーニャ州 (Catalunya) のバルセロナ (Barcelona)近郊にあるモンセラート山 (Montserrat) に行ったことがあります。その山の中腹にネディクト会(Benedict) のサンタ・マリア・モンセラート修道院 (Santa Maria Monasterio de Montserrat)があります。そこにも少年聖歌隊 (Escolanía de Montserrat)がありました。

女子修道院(コンヴェント: convent)では、修業生活の一環として、ミサ及び聖務日課で歌うことが認められていました。聖歌隊に加わることは聖職者にのみ許される公的儀式とされていたため、一般の女性は聖歌隊で歌うことは認められていませんでした。しかし、教会の礼拝や音楽への女性の参加が一般的になるにつれ、今日ではグレゴリオ聖歌は女性を加えた混声合唱団によって演奏されることも多くなりました。それでもギリシャ正教会 (Church of Greece) 、あるいは東方正教会では今も男声が正教会聖歌の基本となっています。

現在では、世界の各地で聖歌やクラシックなどの曲を男声合唱団が歌っています。イギリスのキングズシンガーズ (King’s Singers)、アメリカのシャンティクリア (Chanticleer) などの男声合唱団はグレゴリオ聖歌から民謡、ゴスペル、ポピュラー音楽まで幅広く手がけ、カウンターテナー(countertenor) の響きも加えて癒しのブームにも支えられて高い評価を受けています。

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players

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Montserrat

The Monks of Norcia, a group of Benedictine monks in Norcia, Italy. The group's new Gregorian chant CD debuted at No. 1 on Billboard’s classical music chart last week (June 10, 2015). Photo by Christopher McLallen, courtesy of the Monks of Norcia
The Monks of Norcia, a group of Benedictine monks in Norcia, Italy. The group’s new Gregorian chant CD debuted at No. 1 on Billboard’s classical music chart last week (June 10, 2015). Photo by Christopher McLallen, courtesy of the Monks of Norcia

音楽の楽しみ その15  合唱曲の数々 「埴生の宿」

ここ数年、衛星放送などで名画劇場のような番組をとおして映画を楽しんでいます。そういえば「日曜洋画劇場」の淀川長治、「金曜ロードショー」の水野晴郎らの映画解説が懐かしいです。独特の言い回しで映画をかみくだき視聴者に映画の楽しみかたを伝えていました。そうしたキャラクターがいなくなりました。

映画には必ず音楽が登場します。既に取り上げた「戦場にかける橋」の「クワイ川マーチ」、永遠の名作といわれる「サウンドオブミュージック (Sound of Music)」の「すべての山に登れ (Climb Every Mountain)」、「渚にて (On the Beach)」の「ウォルシング・マチルダ (Waltzing Matilda)」、「ビルマの竪琴」で歌われる「埴生の宿」や「仰げば尊し」などはジーンときます。

音楽は人間と社会にどのような役割を果たしてきたかは、第二次世界大戦を扱った映画から考えてきました。今回は竹山道雄原作の「ビルマの竪琴」を取り上げます。「ビルマの竪琴」が映画化されたのは1956年。監督は市川崑、出演者は安井昌二(水島上等兵)、三國連太郎(井上隊長)、西村晃 浜村純などでした。第二作は同じく市川崑の監督で1985年に制作されます。中井貴一(水島上等兵)石坂浩二(井上隊長)、川谷拓三、小林稔侍らが出演しました。両作品にも北林谷栄が物売りの老婆役で出演しビルマの民衆の逞しさを演じていました。

井上小隊長はかつては音楽専攻で、小隊では隊員に合唱を教えます。やがて合唱が隊の規律と憩いをもたらします。水島上等兵は竪琴で伴奏するのです。戦いの前夜、「埴生の宿」を合唱すると敵陣のイギリスの部隊からも合唱が流れるという場面、僧侶となった水島上等兵が戦友とで捕虜収容所のわきで再会し「埴生の宿」と「仰げば尊し」を竪琴を弾いて別れを告げる場面があります。

「埴生の宿」は、もとはイングランド民謡で原題はHome! Sweet Home! です。

埴生の宿も  我が宿  玉の装ひ  羨まじ
       長閑也や 春の空  花はあるじ  鳥は友
      おお  我が宿よ  たのしとも  たのもしや

土間に筵を敷いて寝るような貧しい小屋 (広辞苑)、それが埴生の宿です。そんな家でも家族が結ばれて暮らしたことを思い、家族を心配し、国に帰りたい気持ちを表現していました。音楽は時に人の生きることの願望や憧れを最も強く伝えてくれる手段です。
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音楽の楽しみ その14  合唱曲の数々 「兵士の合唱」

男声合唱といえば「兵士の合唱 (Choeur des soldats) 」を忘れることができません。フランスの作曲家チャールズ・グノー (Charles Gounod) が作った全5幕の「ファウスト(Faust)」にでてきまます。「ファウスト」は、全5幕のオペラ。ドイツの文豪ゲーテ(Johann  Goethe) が書いた劇詩「Faust」題材にしているといわれます。

古典音楽はあまり聴かない方でも、どこかで聴いたことのあるメロディーです。まさに喜びに湧く勝利の歌の旋律は単純にして明快です。ヴェルディ (Giuseppe Verdi) の歌劇「トロヴァトーレ (Trovatore)」にも「兵士の合唱、兵士のラッパは高鳴り」がでてきます。

グノーは優れた曲を沢山作っています。れでも良く聴かれる「アヴェ・マリア (Ave Maria)」は有名です。この曲はバッハの「平均律クラヴィーア曲集(BWV846) 」第1曲の前奏曲を伴奏にして、ラテン語の聖句を歌詞に用いた声楽曲です。シューベルト (Franz Schubert)、モーツアルト (Wolfgang Mozart) のアヴェ・マリアと並ぶ名曲です。

グノーは知名度のわりに広く知られている旋律は少ないような気がします。ですが「ロミオとジュリエット (Romeo et Juliette)」、ヴァチカン国歌 (Anthem of Vatican City) なども作曲しています。是非一度お聴きください。

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音楽の楽しみ その13  合唱曲の数々 「狩人の合唱」

日本で大変人気のある作曲家にウェーバー (Carl von Weber) がいます。中学や高校の音楽鑑賞の時間にしばしば聴かされた曲があります。その一つが「魔弾の射手 (The Freeshooter)」です。序曲(Overture)や合唱がよく知られています。

この曲の舞台は1650年頃のボヘミアです。その地方の民話を題材とし、魔の潜む深い森や封建時代の人々の素朴な生活を描いています。この作品は、「歌劇におけるドイツ・ロマン主義(Romantic school) のを確立した記念碑的作品」と紹介されています。その伸びやかな音楽はその後ワーグナー (Richard Wagner) 、マルシュナー(Heinrich Marschner)、マイアベーア(Giacomo Meyerbee)、さらにやがて「ロシア五人組」の作曲家を育てたグリンカ (Mikhail Glinka)などにも大きな影響を与えたといわれます。

さて、「魔弾の射手」序曲は、荘厳な森の中の静けさの中に四本のホルンによって朝の情景が奏でられます。冒頭にでてくる旋律は、賛美歌285番「主よ御手もて 引かせ給え (Thy way, not mine, O Lord) 」として採用されています。賛美歌はいろいろな曲をアレンジして集められた聖歌集のことです。序曲全体は、穏やかな旋律で満ち、劇的な箇所も交えて聴いていて心地よさが伝わります。

あまたの男声合唱曲の中で「魔弾の射手」に登場する「狩人の合唱 (Huntsmen’s Chorus)」は、最も歌われているものです。

狩人の楽しみと比べられるものはこの世にはない
  狩人にこそ生命の杯はあわだちあふれる
   角笛の響きを聞いて緑に身を横たえ
    藪を抜け 池をこえて 鹿を追うのは
   王者の喜び 男子のあこがれ

狩人のマックス (Max) は恋人アガーテ (Agathe) を得るために百発百中の「魔弾」を手に入れて射撃大会に臨みます。
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音楽の楽しみ その11 合唱曲の数々  「カヴァレリア・ルスティカーナ」

男声合唱団のど素人にもかかわらず、一度だけ歌劇 (オペラ)に出演したことがあるのです。それは「カヴァレリア・ルスティカーナ (Cavalleria Rusticana) 」というピエトロ・マスカーニ (Pietro Mascagni) が作曲したものです。この歌劇は、シチリア (Sicilia) の田舎を舞台とした貧しい人々の暮らしぶり、三角関係のもつれから起きる男女の愛憎が主題となっています。華やかな舞台、衣装をまとった姿、大げさな演技、、、、ではなく、私は舞台裏で歌う出演?でした。用意されたテレビ画面には指揮者が写り、それに合わせて歌うというものです。

この歌劇では、幕間の休憩の後に演奏される間奏曲 (intermezzo) が良く知られています。物語が盛り上がり、いったん興奮を静めるかのようにオーケストラによる間奏曲が流れるのです。この間、主演者らは休憩をとります。歌劇のリハーサルを始めて経験し、オーケストラボックスでの演奏、舞台装置の複雑さ等に驚きました。

歌劇ですが、何世紀もの間イタリア歌劇が正統派歌劇の形式だとされてきました。特に18世紀においてもなお、イタリア音楽こそが最高のものであるという考えで、どこの宮廷でもイタリア人音楽家をこぞって重用したようです。その代表がジョアキーノ・ロッシーニ (Gioachino Rossini) 。「セビリアの理髪師 (Barber of Seville )」や「ウィリアム・テル (William Tell) 」、「アルジェのイタリア女 (Italian Girl in Algiers)」などで知られています。イタリアが生んだ歌劇の作曲家にジャコモ・プッチーニ (Giacomo Puccini) もいます。

2010年8月にトスカーナの州都フィレンツェ (Firenze-Florence) を訪ねる機会がありました。ロッシーニの像があちこちにありました。あとでわけを聞くと彼は晩年はフィレンツェで過ごしたということでした。メディチ (Lorenzo de’ Medici) 、ダ・ヴィンチ (Leonardo da Vinci)、ボッティチェッリ(Sandro Botticelli) も活躍したところです。

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音楽の楽しみ その12 合唱曲の数々 「カンタータ」

今年の「復活祭」、イースター (Easter) は3月27日。春分後、最初の満月のあとの日曜日と定められています。ですから毎年復活祭の日は異なります。このとき教会では特別な音楽が演奏されたり歌われたりします。カンタータ(Cantata-Kantate)もそうです。

カンタータというのは、器楽の伴奏に合わせて演奏される曲のことです。17世紀後半にイタリアで作曲されて広まります。バロック期 (Baroque) の作曲家、アレッサンドロ・スカルラッティ (Alessandro Scarlatti) がその基礎をつくります。やがて18世紀にはドイツにおいて、ルーテル教会などで演奏するために作曲されていきます。そのために、教会カンタータ (church cantata) と呼ばれるようになります。一般に演奏される世俗的なカンタータもあります。

主にプロテスタント教会 (Protestant Church) の礼拝用に書かれたのが教会カンタータです。オーケストラの伴奏による合唱 (コラール: Choral)と独唱(アリア: Aria) が交互に歌われます。合唱は礼拝に集う会衆がみんなで歌うものです。歌詞は聖書から引用されます。

教会カンタータの中でよく知られているのが、「目覚めよと呼ぶ声が聞こえあり (Awake, calls the voice to us) (Wachet auf, ruft uns die Stimme)」として歌われる「カンタータ140番」や「心と口と行いと生きざまもて(Heart and mouth and deed and life) (Herz und Mund und Tat und Leben) 」というカンタータ147番です。合唱と管弦楽の響きは素晴らしいものです。おそらく多くの人は、このいずれかをどこかで必ず聴いています。

数多くのカンタータを作曲したのはヨハン・セバスチャン・バッハ (Johann Sebastian Bach) です。その作品の主題目録番号はBWVと呼ばれています。BWV1から231は教会カンタータ、世俗カンタータ、そしてモテット (mottetto) から成ります。

「聖書の言葉を牧師が説明し、聖書の物語を音楽で再現する」ために、合唱と独唱を組み合わせたカンタータが広まったとされます。特に会衆みんなが歌うことを重んじた宗教改革者として知られるマルチン・ルター (Martin Luther) の考えに沿ったのがカンタータです。

今や多くのプロテスタント教会の通常の礼拝においても、カンタータは部分的ですが演奏されます。北大合唱団でもこの140番を取りあげました。その頃、私はこれが優れた宗教作品であることは理解できませんでした。私は信仰に対する畏敬の念や作曲家の想いへの理解がいかに浅薄であったかということです。

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音楽の楽しみ その10 合唱曲の数々 「巡礼の合唱」

男声合唱をやったことのある方が必ず歌うレパートリーに「巡礼の合唱: Pilgerchor」 があります。この曲は、「タンホイザー(Tannhaeuser) 」に登場する有名な合唱曲です。作曲はドイツの作曲家リヒャルト・ワーグナー(Richard Wagner)です。生まれはライプツィヒ (Leipzig)。この街は多くの作曲家や作家を生んだところといわれます。メンデルスゾーン (Felix Mendelssohn)もこの地の生まれ。ゲヴァントハウス管弦楽団 (Gewandhausorchester Leipzig) もあります。

歌劇タンホイザーですが、快楽の世界に溺れた中世の騎士であり吟遊詩人であるタンホイザーは、禁断の地で官能の時を過ごしていました。やがて人々は彼を国から追放せよと罵倒し、タンホイザーはローマへの巡礼に向かいます。その帰り、巡礼者の中にタンホイザーの姿を探すエリーザベト (Elizabeth)がいます。巡礼の列にはタンホイザーはいません。この歌劇は、エリーザベトとタンホイザーの愛や死、そして救済という概念が中心で、この作品を鑑賞するうえで大事な要素となっています。

ワーグナーは、後に「メンデルスゾーンなどはユダヤ人だから真の芸術の創造はできない」といった過激な発言をしたことも記録されています。それ故に、ヒトラーがワーグナーの信奉者(Wagnerian)であったことと相まって、はるか後にワーグナーの作品はナチスに利用されることとなります。

ワーグナーは楽劇(music drama)の王ともいわれます。歌劇や歌い手や舞台装置が中心ですが、楽劇は台本を重視し、台本にそった音楽の役割がはっきりしていて、音楽をより劇的に表現する楽曲といわれています。

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音楽の楽しみ その9 合唱曲の数々 「ラ・ボエーム(La Boheme)」

北大での生活が落ち着いた頃、僅かな小遣いをはたいて中古のレコードを買いました。当時はLPとかSPというレコードの時代です。一番最初に手にしたのLPでした。「ラ・ボエーム 」というなんとも甘美で切なさに満ちたオペラ(歌劇)です。ジャコモ・プッチーニ (Giacomo Puccini) の作曲した4幕オペラで、最も演奏されるイタリアオペラの一つといわれています。

主役はお針子のミミ (Mimi)と詩人のロドルフォ(Rudolfa)。二人はヨーロッパではジプシーと呼ばれていたボヘミアン(Bohemian)でパリの場末に住んでいます。ミミを歌っていたのはアントニエッタ・ステッラ (Antonietta Stella) というイタリア人のソプラノです。

ロドルフォのアリア「冷たい手を」、ミミのアリア「私の名はミミ」などの曲が知られています。以下ロドルフォとミミの二重奏の情景と台詞をWikipediaからの引用します。

ミミがカンテラの火を借りに来たのだが、めまいがして床に倒れ込む。ロドルフォに介抱されて落ち着いたミミは火を借りて礼を言い、立ち去る。しかし、彼女は鍵を落としたといって戻ってくるが、戸口で風が火を吹き消してしまう。再度火を付けようと、近寄ったロドルフォの持つ火もまた風で消えてしまう。しかたなく二人は暗闇で鍵を探す。ロドルフォが先に見つけるが、彼はそれを隠しミミに近寄る。そして彼女の手を取り、はっとするミミに自分のことを詩人らしく語って聞かせる「冷たい手を」。続いてミミも自己紹介をする「私の名はミミ」。

プッチーニはイタリア中部、トスカーナ地方 (Toscana) の生まれ。「ラ・ボエーム」に加えて「マノン・レスコー (Manon Lescaut)」、「トスカ (Tosca)」、「蝶々夫人 (Madama Butterfly 」でも知られています。クラシック音楽やオペラの初心者にとっても、プッチーニの作品は親しみやすく魅力的です。

アントニエッタ・ステッラがジャケットに載っていたのを忘れません。そして安い蓄音機で聴いたものです。オペラとか歌劇の中で歌われる合唱が身近になった曲、それが「ラ・ボエーム」です。

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