初めに言葉があった その44 デフレからの脱却  その6 「AD/HDは作られた病」

“注意欠陥多動障害(Attention Deficit/Hyperactive Disorder: AD/HD) の父”といわれるのが、アイゼンバーグ(Leon Eisenberg)という児童精神科医です。臨床心理学者でもあります。2009年に亡くなるまで、アメリカにおける児童精神医学界で活躍した人です。特にアメリカ精神医学会が発行している「精神障害の診断と統計の手引き(DSM)」や世界保健機関によるInternational Statistical Classification of Diseases and Related Health Problems(ICD-10)の作成にも貢献しました。

2013年5月にアイゼンバーグが「AD/HDは作られた病であることをAD/HDの父が死ぬ前に認める」という記事がでました。アイゼンバーグが亡くなってから4年後のことです。アイゼンバーグは、AD/HDの研究や過剰な診断と相まって薬の売上を増加させた、と述懐したとあります。注意欠陥多動障害もまたインフレを起こしていたのです。

アイゼンバーグは言います。「実際に精神障害の症状を示す子供は存在するものの、過剰な診断と製薬会社の影響とによってAD/HDの患者の数が急増している。」 AD/HD患者の数が急増しているのは、AD/HDは過小評価されて、小児科医、小児精神科医、保護者、教師たちに思い込ませた製薬会社の力と、それまでは正常と考えられていた多くの子供がAD/HDと診断されたことによるものであるという衝撃的な発言です。

アイゼンバーグは、アメリカでは、製薬会社と医者との良好な関係によって子供たちが流行のようにAD/HDと診断され、薬物治療を受けている」ことに警告したのです。彼は、「AD/HDとは虚構の疾病である (AD/HD is a fictious disease.)というのです。一つの疑問ですが、なぜ、著名な研究者が死ぬ前に過剰な診断と薬の処方の増加に警告しなかったのかということです。

何事も恣意的に引き起こされることは恐ろしいことです。輪転機を回してやみくもに紙幣を印刷することもそうです。いくらデフレからの脱却とはいえ、給料も上がらず物価が2%上昇してお金の価値が下がっては若年労働者や定年退職者には堪えます。診断のインフレとは、正常を疾病として薬の処方が増え、教育サービスが増え、障害年金が増え、製薬企業の利潤が増えることです。そしてなによりも恐ろしいことは、子供を薬漬けにすることです。双極性障害(躁うつ病)(bipolar disorders) で薬漬けになり命を絶った高校生を知っています。
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初めに言葉があった その43 デフレからの脱却  その5 「偽陽性と偽陰性」

自閉症の増加に関してです。端的にいえば、診断のインフレ現象には精神医学界と製薬業界との「癒着」に似たところがあります。この両者は昔から持ちつ持たれつの関係にあります。医者は薬物療法として疾病に効き目のある薬を必要とします。製薬企業は新薬とか特効薬の開発にしのぎを削っています。「新しい診断には新しい薬が必要になる」ということです。今も昔も製薬は巨大な産業です。

診断とは難しい行為だと考えられます。誤診は日常的にあるものです。二つの誤診という過誤があると思われます。偽陽性(false positive)と偽陰性(false negative)です。前者は、疾病でないにもかかわらず疾病だと診断し、何らかの治療をすることです。無実の人を有罪にすることもこれにあたります。後者は、疾病であるにもかかわらず診断を間違え処方しないことです。ガンの発見を見間違え、治療を怠ることです。真犯人を無罪にするのもこれにあたります。

さてどちらの誤りとして重大かということです。通常は、疾病でいえば後者の偽陰性がたちが悪いと思われます。犯罪でいえば前者のほうが重大な問題であるように思われます。「自閉症がふえている」という現象でいうならば、前者のほうにあたります。危ういものには小さ目の網をかけておいたほうがいいだろうという判断です。これは幾分とも納得いくことです。こうして正常を病的とみなすという診断のインフレ現象が起きるのです。

一度診断されると何からの処方が続きます。その例が薬の処方です。新しい診断には新しい薬が必要となってくるのです。製薬会社が強烈なマーケティングを行い、新しい患者向けの薬の導入を医師に促すのです。DSM-4はこうした診断のインフレを防止できなかったという反省が表明されています。そしてDSM-5へと改訂されていきます。

別な理由として自閉症の発生率が増加したのは、自閉症が特別な学校サービスを受けるための要件となったことにも理由があります。診断書を貰いやすいという噂によって、保護者が特定の医者を選ぶという事例もたくさんあります。担任教員を補助する加配の教員を配置するにも、個別の指導に対応するにも診断が基となるのです。
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初めに言葉があった その42 デフレからの脱却  その4 「特定不能の自閉症スペクトル 」

那覇の幼稚園で出会ったAという子供です。この子は発語や会話がありませんでした。話しかけても指示しても応対しないのです。ただ、視線は合う状態です。粗野や自傷的な行動はなく、周りに迷惑をかけることはありません。興味や行動は多岐にわたり、同じことを繰り返すということはあまりありません。むしろ何かを探しているという状態でした。暑い沖縄ですので水遊びが好きで、保護者の寄付で造った小さなプールに入ることもありました。プールの中で一緒に泳ぐとか練習するということは嫌がりました。私は素人なりに「この子は自閉症ではないか」と考えていました。

DSMの診断基準では、自閉症スペクトラム障害 (Autistic Spectrum Disorders: ASD)については次のような基準を挙げています。
1  コミュニケーションにおける質的な障害
2  意思伝達の質的な障害
3  同じような形で繰り返される行動・興味・活動

第一は、対人関係の形成が難しい「社会性の障害」ということです。他の子供や大人と関わりをもとうとしないことです。第二は、ことばの発達に遅れがある「言語コミュニケーションの障害」です。会話が成り立たないのです。第三は、変化を嫌う「想像力の障害」ということです。

A児は、今思えば、DSMの診断基準にある、三番目の常同的な行動や興味に集中するということはないので、果たして自閉症といってよいのかは分かりませんでした。今思えば、特定不能の自閉症スペクトル (Autistic Spectrum Disorders – Not Otherwise Specified )というところです。自閉という状態は多岐にわたり程度もさまざまであることを知りました。

もう一人のBという子供です。この子は、A児とは正反対に会話ができ、行動も活発で集団行動も上手な子供でした。視線がしっかりと合い、指示に従って動く子供です。しかし、好き嫌いがはっきりしていて、ときに教師の指示を嫌がることもありました。周りの同胞との遊びでは自発的な動きを好むために、いざこざが起こりました。自分の意志が通らないときは相手を叩いたりして咬んだりして叱られることがありました。「乱暴者」でした。今の呼び名では「広汎性発達障害」(Pervasive Developmental Disorders: PDD)という分類にはいる子供だったかもしれません。

B児の目の表情から怒りや寂しさが伝わってきました。周りから孤立しがちだったのです。「溶け込む」のが苦手なのです。うまく立ち回るスキルがまだ不十分だったのです。それと年齢相応の言葉の能力も未発達でした。自分自身に困り感があったはずです。母親は毎日幼稚園に送迎していました。家でのB児の様子などを報告してくれる暖かい母親という印象でした。兄弟もB児をかばうなど良好な兄弟関係がうかがえました。私はといえば幼稚園での生活で試行錯誤しながら、B児への指導のとっかかりを探す毎日でした。
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初めに言葉があった その41 デフレからの脱却  その3 「自閉症スペクトラム障害」

私が自閉症に出会ったのは沖縄の幼稚園で働いていたときです。不思議な行動をする幼児がやってきました。園児も少なかったので受け入れることにしました。それから私の勉強が始まったようなものです。石井哲夫氏の「自閉症児がふえている」という本を見つけました。1969年頃でDSMの第2版が出た頃です。この「自閉症児がふえている」というタイトルは、実は、DSM-2の診断基準によるところが大きかったことを後で知ることになります。

現在のDSM-5では、自閉症スペクトラム障害 (Autistic Spectrum Disorders: ASD)は、様々な神経発達症(neurodevelopmental disorders)の中で分類された一つとされています。これまでの広汎性発達障害 (pervasive developmental disorders) を再定義しています。このように精神医学者や心理学者の中で自閉症の定義が変遷してきたのですが、保護者や子供にとっては一体どのような恩恵があったのかと考えてしまいます。

全米精神衛生研究所 (National Institute of Mental Health: NIMH) の所長を13年間勤めたインセル (Thomas Insel) は次のようにいっています。 「NIMHはDSM-5の診断カテゴリを黄金律としては扱わない。むしろ症候を基準としたカテゴリとして援用する。」こうしたコメントに対して、アメリカ自閉症協会も非常な賛意を表明しています。インセルは、全国自閉症協議会 (Interagency Autism Coordinating Committee: IACC)の委員長としても活躍する人です。

国際的な診断がインフレに向かい始めたのは、DSMの広範囲な普及にあると考えられます。我が国もDSMの影響を受けて出版関係だけでなく、医療関係や製薬会社などに広く需要が拡大していきます。既述しましがた、50年位前、ASDは10,000人に3〜4人だと言われてきました。しかし今、日本では1,000人に1〜3人の割合で生じているといわれます。アメリカ疾病予防管理センター(Centers for Disease Control and Prevention: CDC)によれば、およそ68人に1人がASDであると確認されています。

発生率とは、どこまでをASDの範囲とするかによって違ってきます。それにしても発生率が増加してきたのは間違いありません。もし診断基準が拡大したのなら、なぜ以前はそんなに狭いものだったのか、という素朴な疑問が沸いてきます。疑わしきものは、何らかの診断をして処方するという機運が高まってきたのです。
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自閉症診断のグラフ

初めに言葉があった その40 デフレからの脱却  その2 「自閉症」

英国の精神医学者であるラター (Michael Rutter) は1972年頃に自閉症の発症率は10,000人に3〜4人 (.03%)だと主張しました。当時、自閉症は、虐待など母親の愛情が不足であったり、母親と分離したことが原因で発症するとされていました。

自閉症研究者として名が知られていたベッテルハイム (Bruno Bettelheim) が著書「自閉症・うつろな砦」(The Empty Fortress: Infantile Autism and the Birth of the Self) 等の著作で「冷蔵庫マザー説」 (refrigerator mother) を説き、養育者の態度などの後天的な理由で発症するということを強調します。ジョン・ボウルビィ (John Bowlby) という英国の精神科医も同様に「母性的養育の剥奪」(deprivation of maternal cares) といった愛着行動の不足が自閉症の根底にある課題だと主張します。こうした子供を取り巻く環境説が広く社会一般に信じられますが、やがて誤りであるとして否定されます。

おさらいですが、自閉症とは、1人遊びが多く、 特定の物に強いこだわりを示し、コミュニケーションのための言葉がでないといった状態です。関わろうとするとパニックになったりもします。前述したラターは、自閉症は兄弟間での出現率は.2%と発表し、遺伝ではないかという仮説をたてます。アメリカの発達心理学者、リムランド (Bernard Rimland) は自閉症は神経発達の不全により障害であると主張します。

リムランドは、アメリカ自閉症協会 (Autism Society of America)の設立に尽力します。この協会もアメリカ精神医学会 (APA) も自閉症は先天性の脳機能障害であるという立場にたっています。次回は「診断のインフレ」について考えます。

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Bruno Bettelheim
Michael Rutter
Bernard Rimland

初めに言葉があった その39 デフレからの脱却  その1 「診断のインフレ」

インフレーション (inflation)とは望ましい現象なのかを考えています。普通、インレーションとかインフレとかは、物価が上昇し通貨の価値が継続的に下がる現象といわれます。日銀券を大量に印刷すると物の値段が上がる、というように理解すればよいでしょうか。その逆がデフレーション (deflation) です。一体市場にどの位の貨幣を適量に流通させればよいかは、貨幣論者にお任せすることにします。

インフレは経済社会だけに見られる現象ではありません。精神医学の世界にもあるのです。アメリカ精神医学会 (American Psychiatric Association: APA)という学会があります。その創立は1844年とあるように伝統のある学会です。この学会が発行する本に「精神障害/疾患の診断・統計マニュアル」(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders-DSM) があります。DSMは日本でも翻訳されています。DSMの出版は厳格な著作権が管理され、年間500万ドルという収入を上げています。世界各国での翻訳や出版から得られる収入です。

このマニュアルの初版が出たのは1952年です。その後1968年、1974年、1980年、1987年、1994年、2000年と順次改訂が加えられ、2013年に出たのが現在のDSM-5です。一般的にアメリカでは病院やクリニック、さらに保険会社は患者を治療するためにDSMの診断を要求しています。このようにDSMは臨床面では広く用いられ、また研究目的のために患者の状態をカテゴリ化して診断基準が検討され改訂されています。

幾たびとマニュアルの改訂が続く歴史は何を物語るのかが私たちの関心をひきます。DSM-5は良くまとめられているという評価がある一方で、なお多くの懸念すべきことも多いといわれています。それは診断の基準が、なにが最も信頼性や妥当性を有するのかについて主観的な判断に頼っているといわるのです。診断の不一致をいかに収束するかということがマニュアルの改訂に現れていると思うのです。

私たちの心の発達にはいろいろな要因があります。生育史、両親との関係、心的外傷 (psychological trauma) 、人間関係のストレス、過労、睡眠不足などが発達に影響してきます。素人考えなのですが、精神的な疾患というのは、人間社会の規範にあった振る舞いや発言をしているかとか、日常生活に支障をきたすことがないといったことを手本として診断されるようです。多くの精神科の医師も発達の研究者も、個々人の心の発達の基底にあるものが多様なために診断に悩まされているのは容易に想像できます。そこで「精神障害/疾患の診断・統計マニュアル」といったものが広く出回るとことになります。

「デフレからの脱却」は、精神障害の現状になにをもたらしているかを数回にわたり取り上げます。

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初めに言葉があった その38  「思うようにならない」

昨日、親戚の七回忌法要にでかけた。僅かになった親戚縁者に会うのが楽しみであった。お寺は港区青山にある。寺名は徳川家康以来の家臣であった老中の側室の法名から名付けられたという曰わく付きのお寺である。

さて法要であるが、長い日本人の伝統というか文化に法る宗教行事であるのはわかるのだが、どうにも落ち着かない。その理由は有り難いはずのお経の意味がさっぱりわからないからである。サンスクリット語で読み上げられているようである。最初と最後のあたりで故人の戒名が読み上げられるのだが、あとはただ、じっと我慢して聴いている。こんな不遜な態度でいいのかと反省はするが猛省はしない。意味を知ろうと努力せよ、という声が聞こえてきそうだ。

お経は釈迦の教えを信者達に説くための「教典」とある。一体、この拙い記事を読んでいただく方で、お経の意味をどれくらいの人が理解され納得されておられるだろうか。こうしたお経を静かに我慢しながら聴くのは、恐らくは全く知らない外国語で演説や祈りを聴いているのと同じような気がする。意味がわからないことほど辛いことはない。時間の浪費ではないかとさえ思ってしまう。

さてお経が終わると法話となる。これはお経の時と違って、お坊さんとの対面の時である。法話の話題は「四苦八苦とは」ということであった。仏教における「苦」の分類によると、「思うようにならない」ということを意味するのだという。大変な苦しみということではなさそうである。人知ではどうにもならない現象のこと、それが「四苦」だそうである。あとの四つの苦とは、を知りたかったのだが、法話の時間が長くなったせいか、「愛別離苦」とかを簡単に触れただけで終わった。

思うようにならない「八苦」のうち、五つまで分かった。残りの三つは家で調べようと考えながら、法会から功徳を頂戴した気分で帰ってきた。

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初めに言葉があった その37 主観性と世界の理解 「間主観性とは」

ようやく、「間主観性」(intersubjectivity) とか「間主観 」というところにやってきました。英語の表記のほうは意味が伝わってきやすい用語です。自分と他者、自我と他我、主観と主観の関係性といった響きです。ブリタニカ国際大百科事典には「intersubjectivity」を「共同主観性」「相互主観性」と表記しています。

「間主観性」とは、前稿ででてきたフッサール ( Edmund Husserl) が使った用語のようです。どのようなことかといいますと、主観がそれぞれ単独で働いて外界に向かうのではなく、主観同士が互いに交錯しあいながら働き、「共に」機能し、共通な世界を成り立たせる、ということがらを言い表す用語のようです。間主観性という概念は、こうして、「単独の主観が信用を失い、客観性という概念が疑われる場面で登場する」という意味で使われます。

自我とか主観性が私の内面にある、私だけのものという考えを捨てない限り、「他我をいかに認識ないし経験できるのか」という行き詰まりは解決できない、そう考えてフッッサールは、主観性とか自我は私の内面にあるのではなく、私と他人、人間と人間の中間にあるのではないかと考えて「間主観性」という概念に至ったということです。そのようなわけで「間主観性」は「共同主観性」ともいわれます。

自我とか主観性は人間と人間の間にあるということは、それが人間関係に由来する、関係概念だということです。フッサールは人間と人間の間に間主観性があり、私とか他人の心はその間主観性の枝分かれしたもの、それを分かち持ったものと考えられるようになりました。

このような態度の下では、人間は自らを「世界の中のひとつの存在者」として認識するにとどまり、世界と存在者自体の意味や源泉を問題とすることができない。このような問題を扱うために、フッサールは、世界関心を抑制し、対象に関するすべての判断や思考を留保することを提案します。このような判断や思考を留保することをエポケー (suspension of judgment)と呼び、意識を純粋な理性機能として取り出す方法を提唱します。

周りの世界にあるいろいろな命題を「括弧に入れる」ことを意味するのが「エポケー」というのです。すなわち世界の外的現実についての自信の信念をいったん停止するのです。ただしこれは外界の存在を疑うという意味ではないとフッサールはいいます。

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初めに言葉があった その36 主観性と世界の理解 「科学的とか実証的とか」

主観に関して行動ということを話題としてみます。私たちの行動は、まだ幼い子供は別ですが、外在物や刺激によって直接引き起こされるのではなく、私たち自身がそれをいかに経験し知覚するかによって規定されています。

前回錯視を例にあげて、私たちが世界をどう見るかを考えました。「私にとっての見える世界と他者にとっての見える世界は同じ世界なのか? それとも二つの世界はまったく違う世界なのか?」という疑問を錯視の現象は問いかけています。ですがこの問いに誰もが納得する説明を下すことが困難なことも事実です。

この世界は、私にとってさまざまに絡み合って存在しています。世界のうちのある物事、たとえば一定の色や特定の音が独立しながら存在していることや、色が見えることと音が聞こえるということは、それぞれに「意味」をもっているともいえます。人によって視覚や音感が異なるからです。好みや嫌いという感覚もあります。

従って個人の行動の意味と原因を理解するためには、外的な要因を分析するだけでは不十分なのです。どういうことかといいますと、高齢者の徘徊も子供のいじめもガン患者の死への恐怖も、当事者が大事だと考えている状態、言い換えれば内的な準拠枠とは何だろうかということを理解する態度が必要なのです。年寄りだから徘徊は仕方ないと考えるのではなく、もしかして徘徊を楽しんでいるのではないかと考えてみるのです。自宅を出て電車に乗ってある駅で保護された認知症の人がいます。これは目的的な行動であり、徘徊といえるかどうかです。広辞苑によると徘徊とは「どこともなく歩きまわること」とあります。これは徘徊という行為を一面的にとらえた説明です。

エドムント・フッサール (Edmund Husserl) という哲学者が興味あることを曰っています。「19世紀の後半に近代人の世界観がもっぱら実証的学問によって規定され、その学問に負う繁栄によって眩惑され、他者による知覚や言動によって客観的世界の実在性を確信させ、世界に現実感を与えていることは明らかだ」というのです。徘徊という行為にも他者による知覚や言動によって規定され、本人は登場していないのが気になるのです。フッサールが言いたいことは、この世界があまりに客観的とか実証的といった「科学的態度」に価値を置きすぎているせいか、人間はそれを自明のこととしているということです。

フッサールはまた、日常的に私たちは、自分の存在や世界の存在をなぜ疑ったりはしないのか問いかけます。私たちは自分が「存在する」ことを意識しており、私の周りの世界もそこに存在していることを疑いません。フッサールは、この人間の自然な態度を以下の3点から批判します。

1 認識の対象の意味合いとか存在すること自体を自明としていること
2 客観的な世界の存在を不断から確信し、そうした関心の枠組みを暗黙の前提としていること
3 世界へ関心を向けることによって、意識の本来的機能である我を忘れるということが起こっていること

このフッサールが指摘した人間の態度は、ナチズムに心酔した指導者にも、現代の私たちにももしかして当てはまっているかのようです。

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初めに言葉があった その35 主観性と世界の理解 「錯視は知覚の多様性?」

私は先天赤緑色覚異常です。小学校低学年の時に色覚検査でそれがわかりました。当時は色盲検査と呼んでいたはずです。検査用紙の中に数枚判読できな数字があるのです。教師は驚いていたのを覚えています。これがもとで現在は差別用語である「カタワ」と呼ばれた経験もあります。将来就くことができない職業があるともいわれました。当時としては諍えない事実でした。現在、色覚異常で不便なことといえば、夕方西に向かって運転するとき信号機の色が弁別しづらいことがあります。幸い青色LEDの実用化で信号機が改善されてきています。

私は、色が満ちあふれるこの世界で大多数の人が見える現象が見えないことが多いのです。この見えないという現象は私にとって主観的であり客観的なのです。私には他の色は見えるという意味ある現象であり、私が意味を見いだしている世界ともいえます。検査する人が、私に向かって「この文字や数字が読めないのか?」というのは、検査者本人にとって意味あるものだけを自分の基本的な信念に合致するように認知しているからです。

こうした言動は外界の認知だけではなく、記憶についてもいえることです。私たちが想起する過去は、私たちの信念体系にとって意味あるものだけが選択され、しかも歪曲されています。個人は、往々にして自分が中心であるところの経験の世界に存在し、そうした場面で知覚するままに反応します。ですから色覚を検査する者は、「なぜ見えないのか、お前はおかしい」と呟いてしまうのです。

主観と客観の説明で用いられる目の錯視とか錯覚を取り上げみましょう。英語では「visual illusion」ですが、illusionとはいえ画像は迫真的なリアリティを有しています。錯視画像は数々あります。形をグラデーションや動きで変えると客観的世界の実在性に疑問を確信させ、目の前の世界に現実感を与えてくるのがわかります。物差しで測ってみて同じ長さであっても、私たちの目には長短があることが迫ってきます。見方によっては若い女性の横顔が年老いた女性にも見える錯視画像があります。100人が画像を見て、全員が若い女性というフラッグを上げ、全員が年寄り女性だというフラッグもあげることができるのです。ある壺には二人が向き合うように見えるのもあります。この事実はもはや「illusion」ではなく実在ではないでしょうか。これが「純粋な知覚や意識」といってよいのかもしれません。

錯視は錯覚はどう違うかはわかりませんが、錯視から言えること。それは個人に経験される世界は客観的で絶対的な実在の世界ではなく、各人によってさまざまに知覚される私的な現象的場 (phenomenal field) であるということです。どのように知覚されようと正しいとか誤りではないという世界があるのです。
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初めに言葉があった その34 主観性と世界の理解 「地球は平らか、」

私たちの日常には、不思議なことで満ちています。今暮らす地球のことから話を進めます。文字通り地球は丸いのですから、人が北極に立つとすれば南極では逆立ちしているはずです。ですがこの地球上で暮らしながら逆さまに立っているなんて想像することはまず好事家以外はありません。

地球が球体であることは紀元前にすでに信じられていたようです。宗教界では地球中心説が定着していました。中世期、地球中心説に対して太陽中心説を唱えたコペルニクス (Nicolaus Copernicus) 、地動説を称えたガリレオ (Galileo Galilei) 、天体の運行は楕円であると主張したケプラー(Johannes Kepler) など、地球は丸いと主張します。それまでは地球は平面だと誰もが教えられていました。地球平面説です。

少しくどくなりますが、誰かが「君はこの地球は丸く見えるか?」と、尋ねてみれば、相手は「あたり前じゃないか、ここ地球は丸くなくて何だと言うんだ」と、訝かりながら目の前の地球儀を指さすに違いありません。実際にそんな質問をしないにしても、私も他者も丸い地球が実在していることを自明なものとして把握している面があります。そういわれても、地平線は文字通り平らだという気がします。

逆に相手の人が「地球は丸いなら、地球の裏側では人は逆さまじゃないの?」などと言い始めたなら、あるいはあたかも逆さまに立っているかのような錯覚に陥っていると主張し始めたとしたら、知覚や本質の直観から地球は丸いと確信していたとしても、その確信はたちまち疑わしいものになります。そして球体性という理解は揺らいでしまうのではないでしょうか。このように他者の振る舞いというのは、地球の平面性にリアリティを与えていきます。

地球は丸いが逆さまに立っているなんて誰もが感じられないはずです。このように少し考えてみると、私たちの行動を促したり決定するものは、「客観的な世界」そのものではなく、「客観的な世界」を主観的にどのように認知するかである、という考えに立つということです。
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初めに言葉があった その33 「われは満ち足れり」

一体、誰がこのように宣言ができるのでしょうか。私たち一人ひとりはそれぞれの家族に生まれ、育てられ、教育を受け、生きています。「満ちたれる」とは一体どのような有り様なのでしょうか。自分を振り返るとき、恐らく誰もが反省とか後悔とかが先に立つのではないでしょうか。私たちはなんらかの理想を目指し、それを求めて懸命に努力し歩んでいます。しかし、その理想は高みにそびえ、その何合目かにいます。人知では到底計り知れない境地が先にあることを知らされています。

バッハ (Johann Sebastian Bach) の作品でもよく知られるのがカンタータ (Cantata) です。その第82番(バッハ作品番号ーBWV82)は「われは満ち足れり」(Ich habe genug) (I have now enough) と名付けられています。バッハのカンタータの中でも純粋な器楽伴奏付きのバス独唱の作品の一つとされています。この独唱とか朗唱は「レシタティーヴォ」(Recitativo) と呼ばれ、組曲形式の作品の中に現れる歌唱の一様式となっています。チェンバロやリコーダが伴奏となり、柔らかい雰囲気や感情などを静かに表現していきます。詠唱 (aria) などの旋律的な曲と組み合わせられます。

さて、「われは満ち足れり」です。この舞台は、「ルカによる福音書第2章第25節」(Gospel according to Luke 2: 25) です。エルサレム (Jerusalem) にシメオン (Simeon) という名の人がいました。この人は信仰深い人でイスラエル (Israel) が慰められるのを待ち望んでいました。彼には聖霊が彼に宿っていたとされ、「預言者シメオン (Prophet Simeon)」、「聖シメオン (Holy Simeon)」、「老シメオン (Old Simeon)」といわれていました。

救世主を待望していたシメオンは、イエスの誕生をきいてかけつけ幼子を抱きかかえ「われは満ち足れり」と言ったことがルカによる福音書に記述されています。この場面から、シメオンは「抱神者シメオン」(Simeon the Godbearer) とも呼ばれるようになりました。「自身の行いではなく、恵みによって満たされた」と宣言する言葉です。

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初めに言葉があった その32 Bernard Sanders

サンダース上院議員(Senator Bernard Sanders)はヴァモント(Vermont)という小さな州の出身です。1941年生まれ。大統領候補としては年配です。健康状態はどうなのでしょうか。次の予備選挙はニュー・ハンプシャー州(New Hampshire)で明日2月9日です。ヴァモントはニュー・ハンプシャーの北隣の州ですから当然、サンダース候補が優位といわれます。ニュー・ハンプシャーの南はマサチューセッツ州です。クリントン候補はニュー・ハンプシャー州の予備選挙のあとのマサチューセッツ州での選挙運動に力をいれることになります。

サンダース候補の経歴は興味があります。若い頃から公民権運動にかかわり、非暴力主義に心酔し人種平等にも賛同してきたようです。彼の選挙公約は、主として経済政策、特に収入や富の不平等に関心があります。最低賃金の上昇、公立大学の授業料の無償化、投機的取引への課税、所得が250,000ドル以上の収入者に対する課税、企業に対する家族休暇、育児や病気の休暇の保障などヨーロッパ諸国の休暇制度の導入をうたっています。シリアからの難民の引き受けも支持しています。ウオール街 (Wall Street) など一部の富裕層と政治の癒着を問題視して有権者を取り込もうとしています。若者や中間層を意識した公約です。

なんとなく大衆から受けそうな政策なのですが、合衆国の人々は自分は中間層の上の人間だという自負が高いのです。低所得者を支えているのだという自負も持っています。ですからサンダース候補の主張に賛同はするが投票は別、という気分なのです。経済や政治において国が強くならなければ市民生活に保障はないと考えるのです。アメリカの財政赤字は今も多額です。2014会計年度の財政赤字は最悪期の3分の1に減少したとはいえ、Sanders候補が公約する国民皆保険制度を導入できるほど税収入の増加が見込まれるのか、という悲観的な意見もあります。
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Nasir Bagh refugee camp near Peshawar, Pakistan. 1985.

Nasir Bagh refugee camp near Peshawar, Pakistan. 1985.

A general view shows a street after clashes between Free Syrian Army fighters and forces loyal to Syria's President Bashar Al-Assad, in Salah Edinne district, in the centre of Aleppo August 9, 2012. (Zohra Bensemra/Reuters)

A general view shows a street after clashes between Free Syrian Army fighters and forces loyal to Syria’s President Bashar Al-Assad, in Salah Edinne district, in the centre of Aleppo August 9, 2012. (Zohra Bensemra/Reuters)

初めに言葉があった その30 「Clinton won, but did she?」

アイオワ州での党員集会(Causus)の結果は、激戦であったことを物語ります。とりわけ民主党のクリントン候補(Hillary Clinton)はサンダース候補( Bernard Sanders)にたったの.2%という僅差で勝利したといわれます。New York Timesの見出しに「Clinton won, but did she?」というのがありました。「.2%は誤差ではないか」と勝利?を揶揄するフレーズです。

こうした大統領選挙の運動で興味あることは、2月から7月にかけて順に党員集会が開かれるということです。民主、共和両党とも候補者を1人に絞るのが党員集会で予備選挙とも呼ばれます。緒戦で勝利した候補はその後の党員集会で有利になるはずです。党員集会の最大のヤマ場は「スーパーチューズデー」(Super Tuesday)と呼ばれる3月第1週の火曜日です。今年は11州で党員集会が開かれます。その結果によって、ほぼ候補者が一本化されることが予想されます。

大衆は勝ち馬に乗る傾向があります。この6か月の間、候補者を絞っていくというのが、いわばアメリカの草の根の選挙運動です。両党の全国党大会は8月末から9月の上旬に開かれます。そこで大統領候補者が決まることになっています。

同じ月の同じ日に党員集会をやらないところに特徴があります。この時間のづれは11月の本選挙でも見られます。合衆国の本土には、四つの時間帯があります。東から順に東部時間、中部時間、山岳部時間、太平洋時間です。投票は東部から始まり、一時間遅れて順に続きます。開票も同じです。ですから東海岸で開票結果が出始めても、西海岸ではまだ投票が続くのです。人々は開票結果を見ながらどちらに投票するかということになります。
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初めに言葉があった その29 「Caucus」

アイオワ州での党員集会(Caucus)が始まり、アメリカの大統領選挙が始まりました。党員集会は予備選挙とも呼ばれています。大統領候補を決める代議員を選ぶ集会のことです。大統領を選ぶ道のりは長く厳しいようです。候補者も家族も支持者も大変だろうと察します。まるで二年間のマラソンレースのようです。候補として名乗りをあげますが、途中でほとんどの候補が脱落していきます。

私の家族も大統領選挙運動に関わったことがあります。1988年の選挙では共和党のジョージ・ブッシュ(George H. Bush)と民主党のマイケル・デュカキス(Michael S. Dukakis)が党大会で指名され争いました。この選挙では次女がウィスコンシン大学在学中にデュカキス陣営の運動員として応援しました。今は、合衆国は高校生も選挙運動をやっています。

デュカキスが敗れたのには理由があります。ブッシュは第二次大戦中に海軍に入隊し、魚雷搭載の爆撃機の乗員として参加します。日本軍の対空砲火を浴びて撃墜されますが救助されます。他方、デュカキスは陸軍に入隊し韓国で2年間駐留した経験があります。一般のアメリカ人にとってはこの二人の軍歴を比べて投票したはずです。大統領になるためにはこうした過去の経歴も大事なのです。

現在、名乗りを上げているほとんどの候補者は上下両院の議員とか州知事です。弁護士資格の肩書きも優位になります。さらに出身民族や宗教なども候補者資格の要素となります。通常、アフリカ系とかアイリッシュ系、カトリックの人々はアメリカ社会ではマイノリティ(minority)です。オバマ大統領(Barack Obama)やケネディ大統領(John Kennedy)などはそうですが、当時はマイノリティのハンディを克服するほどのカリスマ的な資質とマイノリティに対する好意的な状況が、国中にあったものと考えられます。

アイオワの次の党員集会は2月9日、東部のニュー・ハンプシャー州(New Hampshire)で予定されています。
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初めに言葉があった その28 「お米の匂いがする、、」

本を読むとき、テレビを観るとき、周りの人と対話するとき、講演を聴くとき、あらゆる日常の営みでなにか心に響くメッセージを感じるときがあります。それを言葉で表してみると、実に尊い思い出となります。

一つの私的なエピソードを紹介します。長男がまだ4歳くらいのときです。当時私は札幌で両親と同居しておりました。あるとき、親戚の結婚式があり、両親は孫 (長男) を連れて静岡に出かけました。美保の松原で景色をみているとき、父親がどうしてクロマツだけが生えているのかとつぶやいたのだそうです。それを聞いていた孫が、「おじいちゃん、クロマツは海に、アカマツは山に生えるんだよ、」 といったのだそうです。

クロマツが耐潮性が強く海岸線付近に多く生育するのに対して、アカマツはどちらかといえば内陸に産します。アカマツ林は、マツタケを育てる林でもあります。アカマツとマツタケは相利共生の関係であり、マツタケが生えるような環境の方が生えない環境のものより寿命が長いともいわれています。そいういえば、八ヶ岳山麓にアカマツの大規模な群落が見られます。八ヶ岳登山の楽しみです。

「北海道にはアカマツしかないのにどうして、孫はクロマツのことを知っていたのかね、、、、」と首を捻っていました。両親はこの孫のエピソードをあちらこちらで吹聴していたきらいがあります。孫は本が大好きでした。片っ端から読み聞かせられたことを記憶していたようです。

「三つ子の魂、百まで」といいますが、父はこのクロマツにまつわる孫の言葉を96歳になるまで思い起こしていたのを覚えております。9年前に他界した父。孫は46歳の父親になって二人の息子を育てています。

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初めに言葉があった その27 「Good Samaritan doctrine」

三年前の暮れ近くに、弟が亡くなりました。訳あって一人暮らしを余儀なくされていて路上で発見され病院に担ぎ込まれました。内臓疾患がもとでそのまま逝ってしまいました。5年間で両親と兄弟の葬儀を執り行いました。なにか夢ではないかと狼狽える「hang-ups」を体験した時でした。

大勢の人々、特に高齢者の方々が一人暮らしをしています。私にも札幌で親戚の者がそうした生活をしています。時々電話で消息を確かめて激励しています。そして私か連れ合いにも確実に一人暮らしの現実がやってきます。

誰もが遅かれ早かれ成熟し、身体と精神の老化の時がやってきます。それに備えることが、「今ここで」生きることの意味といえます。時には二つのことがあるといわれます。それは、毎日の暦をめくるときに、「ああ、もう一年が経ったか」と感じる時間です。もう一つは、「今年は充実した」とか「いろいろな苦しいことが多かった」と感じる時です。「大切な時、決定的な瞬間」といったような質的な時、あるいは人生に奥行き感じさせる時です。

ある人がエルサレム (Jerusalem) からエリコ (Jerico) へ下って行く途中、強盗に襲われます。殴りつけられ倒れたところに金持ちや聖職者が通りますが、皆立ち去ります。そこに、異邦人として人々から避けられていたサマリア人 (Samaritan) がたまたま通り憐れに思い、自分のろばに乗せ宿屋に連れて行って介抱します。立ち去るときに宿屋の主人にお金を渡し介護を依頼します。

サマリア人は、「ああ良いことをした、気持がいいな、」と誇ったでしょうか。「元気になってくれればいいな、、」と案じたでしょうか。どうも後者のような気がするのです。このエピソードは「ルカによる福音書10:29−37」に登場します。

窮地の人を救うために無償で善意の行いをしたならば、たとえ失敗しても結果の責任は問わないことを Good Samaritan doctrine とか Good Samaritan Law(善きサマリア人の原則)といいます。子供の折檻、学校でのいじめを見て見ぬふりをすること、医療において過誤責任を問うこと、業務過失死が問われかねないなど、この善きサマリア人の話しはもっと理解されて然るべきです。

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初めに言葉があった その26 「We all have our hang-ups!」

漫画「Peanuts」のもう一人というか、もう一匹の主人公はビーグル犬のSnoopyです。彼の名前は「snoop」(うろうろ探す)という単語に由来するようです。ですがなかなかどうして、擬人化され哲学者めいた名言を呟いています。Snoopyは人間の言葉を喋りませんが、作者のSchulzを介して自分の思いや感情を言わしめます。

Snoopyは忠実で純真であり、想像力に富む温厚な性格の犬です。時々、白昼夢でブツブツ言いながらまるで大学生になったり、第一次大戦中の英雄的なパイロットのようなペルソナに扮装します。飼い主チャーリー・ブラウンの名前は覚えることができず、「round-headed kid」(丸い頭の男の子)というように呼んでいます。それでも忠誠心と愛着が旺盛な犬として描かれています。

さて、「We all have our hang-ups!」というフレーズです。「hang-ups」がキーワードですが、この意味は、情動的な不安や葛藤のことです。負け試合を終えるとチームメイトがチャーリーの下手くそなプレイを詰るのです。帰り道にチャーリー・ブラウンと一緒に歩きながら彼を慰めます。いじめにはくじけないで戦うのだと。そして「We all have our hang-ups!」(誰にでも心に困ったことはあるもんだよ!)と呟くのです。

Snoopyはさらに言います。
「Are you saying you are down? You may need a sense of humor in your life.」
  気が滅入るだって?きみの生活にはユーモアがたりないのかも…

「Keep looking up.. That’s the secret of life..」
  上を見続けること、それが生きることのコツなんだ 

チャーリー・ブラウンは飼い主としてSnoopyを幸せにしようと懸命なのですが、それができないのがもどかしいのです。ですがSnoopyは言います。
「Don’t worry about it. I was already happy.」
「チャーリーと一緒にいることに勝る幸せなんかはない」。なんとも主人を信じきる思いやりの深い犬です。
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初めに言葉があった その25 「Good Grief,,,,,」

今回の言葉は、人の名前、それも漫画の主人公に発せられるフレーズです。私が英語に夢中になりかけたきっかけは、なんと漫画との出会いです。私を魅了した漫画に「ピーナッツ(Peanuts)」があります。チャーリー・ブラウン(Charlie Brown)が主人公です。1960年代に世界中を風靡するような人気を確立します。作者はチャールズ・シュルツ(Charles M. Schulz)です。2000年に亡くなりました。

この漫画の魅力、それは子ども同士の友情や悩み、動物への親近感、社会問題への子どもの純粋な皮肉や批判が大人も子どもにも共感されることです。漫画の台詞は中学の英語で十分理解できます。私が英語が好きになったのは「風」という詩とともに「ピーナッツ」のお陰だと自信をもっていえます。

漫画の題名です。Peanutsとは、俗には「つまらない者」という意味です。あえて漫画の題名にPeanutsを選んだのは、シュルツの深い意図があったものと思われます。「ピーナッツ」では、できのよい子供は登場しません。皆ダメで困っている、心の悩みを持つ子供たちです。葛藤をどうやって乗り越えるか考えています。「Good grief,,,,,」という台詞がしばしば見られます。「やれやれ、困ったもんだ、あきれるわ、、、」という意味です。にもかかわらず登場人物や犬、毛布との関わりを暖かい目で見つめる視点が一貫したテーマとなっています。

さて、主人公チャーリー・ブラウンです。彼はユニークな仲間で囲まれています。飼い犬の「スヌーピー(Snoopy)」は、周りの大人や子どもをときに冷ややかに観察し、しばしば自分の小屋の屋根でねそべっては思いをはせる哲学者のような存在です。趣味は変装。スヌーピーはチャーリーの無二の友人です。

女の子でお茶目なのがルーシー(Lucy)。チャーリーの尻をたたき、「もっと元気をだしなさい!」と叫んではチャーリーをおどおどさせます。ガミガミ屋だったり、意地悪のところもあるのです。根はいいのですが、、、いつも小さな「安心毛布(security blanket)」を持ち歩いているのがライナス(Linus)。毛布がないと落ち着きません。実は、犬のスヌーピーも安心毛布が好きで、ライナスはこれを奪われることもあって、どたばた劇を演じます。いつも持ち歩くことで、一緒にいる安心感を得ています。お母さんの代わりにいつも一緒にいる存在が毛布です。まるで人格があるかのようです。

次の仲間はシュレーダー(Schroeder)。彼はベートーヴェン(Beethoven)を愛する小さな音楽家です。チャーリーの野球チームではキャッチャーを務めます。ルーシーに好かれてるんですが、当の本人は迷惑気味です。

最後にチャーリーです。彼は子ども達の野球チームでは選手兼監督を務めています。野球チームは負けてばかり。飛球をぽろりとやったり、トンネルをしては仲間を地団駄させます。そんなときだけは「間抜け!」「のろま!」などと野次られます。でも人望だけは凄いのです。面倒見がよく、お人好しなのです。アメリカでは憎めない人のことを「チャーリー・ブラウン」と呼ぶこともある位です。是非手にしていただきたい漫画です。英語も分かりやすく、味わいのある会話が登場します。
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1995 - Charlie Brown appears in a 'Peanuts' cartoon drawn by Charles Schulz in this handout provided Tuesday, Dec. 14, 1999. Schulz, 77, announced Tuesday that his last new daily strip will appear Jan. 3 and his last new Sunday strip will appear Feb. 13. Older strips will run for an indefinite period afterward. The cartoonist has colon cancer, and says he wants to focus on his health. Schulz draws and letters every panel himself. His contract prohibits anyone else from drawing the strip. (AP Photo/United Media)

1995 – Charlie Brown appears in a ‘Peanuts’ cartoon drawn by Charles Schulz in this handout provided Tuesday, Dec. 14, 1999. Schulz, 77, announced Tuesday that his last new daily strip will appear Jan. 3 and his last new Sunday strip will appear Feb. 13. Older strips will run for an indefinite period afterward. The cartoonist has colon cancer, and says he wants to focus on his health. Schulz draws and letters every panel himself. His contract prohibits anyone else from drawing the strip. (AP Photo/United Media)

初めに言葉があった その24 「民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった」

今の日本の政治について、私たちは、「一体どうなっているのか、日本はどうなるのか」という問を投げかけています。このいい知れない政治の不安に怯えたり、呆れたり、諦めたくなるような気分にもなります。かつては積極的に政治に参加していて、挫折や幻滅を味わったことで投票から離脱する人も大勢います。

「民の心は鈍り」とは、政争に明け暮れる為政者のことであり、もうけ主義だけに走る企業家であり、回りの人々や話題に無関心になった大衆のことです。一体なんのために、どのように生きるかについて無頓着になった人々です。

「耳は遠くなり」とは、難聴のことではありません。聞く耳をもたないこと、大事なことを聞こうとしない態度です。なにが大事でなにがそうでないかを聞き分けることが難しくなることです。

「目は閉じてしまった」とは、ものごとを真正面から見ない態度です。大事なものを見分けられないことです。心眼という題の落語があります。目の不自由な男が、夢の中で目が見えることによって自分の妻の優しさを失いかける話です。そして、「やっぱり目は不自由なことのほうがええ、そのほうがよーく見える」と述懐するのです。

政権が変わっても、企業と政治家の癒着が続いています。大臣室での口利きや金銭のやりとりも行われています。いつの時代においても、古典的な賄賂と汚職が横行し、これなしでは商いはうまくいかないようです。「職務を辞するのは国会審議に悪影響を与えないため」というのは、自分の行為は悪くはなかったといったニュアンスが感じられます。虫唾が走る思いです。そういえば、藤沢周平や佐伯泰英の時代小説の主題は政治とカネを中心とした利権争いです。

厭世的な気分になりがちなのが今の政治の有りようかもしれません。それでも私たちは批判的な精神を失ってはなりません。

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