音楽の楽しみ その11 合唱曲の数々  「カヴァレリア・ルスティカーナ」

男声合唱団のど素人にもかかわらず、一度だけ歌劇 (オペラ)に出演したことがあるのです。それは「カヴァレリア・ルスティカーナ (Cavalleria Rusticana) 」というピエトロ・マスカーニ (Pietro Mascagni) が作曲したものです。この歌劇は、シチリア (Sicilia) の田舎を舞台とした貧しい人々の暮らしぶり、三角関係のもつれから起きる男女の愛憎が主題となっています。華やかな舞台、衣装をまとった姿、大げさな演技、、、、ではなく、私は舞台裏で歌う出演?でした。用意されたテレビ画面には指揮者が写り、それに合わせて歌うというものです。

この歌劇では、幕間の休憩の後に演奏される間奏曲 (intermezzo) が良く知られています。物語が盛り上がり、いったん興奮を静めるかのようにオーケストラによる間奏曲が流れるのです。この間、主演者らは休憩をとります。歌劇のリハーサルを始めて経験し、オーケストラボックスでの演奏、舞台装置の複雑さ等に驚きました。

歌劇ですが、何世紀もの間イタリア歌劇が正統派歌劇の形式だとされてきました。特に18世紀においてもなお、イタリア音楽こそが最高のものであるという考えで、どこの宮廷でもイタリア人音楽家をこぞって重用したようです。その代表がジョアキーノ・ロッシーニ (Gioachino Rossini) 。「セビリアの理髪師 (Barber of Seville )」や「ウィリアム・テル (William Tell) 」、「アルジェのイタリア女 (Italian Girl in Algiers)」などで知られています。イタリアが生んだ歌劇の作曲家にジャコモ・プッチーニ (Giacomo Puccini) もいます。

2010年8月にトスカーナの州都フィレンツェ (Firenze-Florence) を訪ねる機会がありました。ロッシーニの像があちこちにありました。あとでわけを聞くと彼は晩年はフィレンツェで過ごしたということでした。メディチ (Lorenzo de’ Medici) 、ダ・ヴィンチ (Leonardo da Vinci)、ボッティチェッリ(Sandro Botticelli) も活躍したところです。

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音楽の楽しみ その10 合唱曲の数々 「巡礼の合唱」

男声合唱をやったことのある方が必ず歌うレパートリーに「巡礼の合唱: Pilgerchor」 があります。この曲は、「タンホイザー(Tannhaeuser) 」に登場する有名な合唱曲です。作曲はドイツの作曲家リヒャルト・ワーグナー(Richard Wagner)です。生まれはライプツィヒ (Leipzig)。この街は多くの作曲家や作家を生んだところといわれます。メンデルスゾーン (Felix Mendelssohn)もこの地の生まれ。ゲヴァントハウス管弦楽団 (Gewandhausorchester Leipzig) もあります。

歌劇タンホイザーですが、快楽の世界に溺れた中世の騎士であり吟遊詩人であるタンホイザーは、禁断の地で官能の時を過ごしていました。やがて人々は彼を国から追放せよと罵倒し、タンホイザーはローマへの巡礼に向かいます。その帰り、巡礼者の中にタンホイザーの姿を探すエリーザベト (Elizabeth)がいます。巡礼の列にはタンホイザーはいません。この歌劇は、エリーザベトとタンホイザーの愛や死、そして救済という概念が中心で、この作品を鑑賞するうえで大事な要素となっています。

ワーグナーは、後に「メンデルスゾーンなどはユダヤ人だから真の芸術の創造はできない」といった過激な発言をしたことも記録されています。それ故に、ヒトラーがワーグナーの信奉者(Wagnerian)であったことと相まって、はるか後にワーグナーの作品はナチスに利用されることとなります。

ワーグナーは楽劇(music drama)の王ともいわれます。歌劇や歌い手や舞台装置が中心ですが、楽劇は台本を重視し、台本にそった音楽の役割がはっきりしていて、音楽をより劇的に表現する楽曲といわれています。

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音楽の楽しみ その9 合唱曲の数々 「ラ・ボエーム(La Boheme)」

北大での生活が落ち着いた頃、僅かな小遣いをはたいて中古のレコードを買いました。当時はLPとかSPというレコードの時代です。一番最初に手にしたのLPでした。「ラ・ボエーム 」というなんとも甘美で切なさに満ちたオペラ(歌劇)です。ジャコモ・プッチーニ (Giacomo Puccini) の作曲した4幕オペラで、最も演奏されるイタリアオペラの一つといわれています。

主役はお針子のミミ (Mimi)と詩人のロドルフォ(Rudolfa)。二人はヨーロッパではジプシーと呼ばれていたボヘミアン(Bohemian)でパリの場末に住んでいます。ミミを歌っていたのはアントニエッタ・ステッラ (Antonietta Stella) というイタリア人のソプラノです。

ロドルフォのアリア「冷たい手を」、ミミのアリア「私の名はミミ」などの曲が知られています。以下ロドルフォとミミの二重奏の情景と台詞をWikipediaからの引用します。

ミミがカンテラの火を借りに来たのだが、めまいがして床に倒れ込む。ロドルフォに介抱されて落ち着いたミミは火を借りて礼を言い、立ち去る。しかし、彼女は鍵を落としたといって戻ってくるが、戸口で風が火を吹き消してしまう。再度火を付けようと、近寄ったロドルフォの持つ火もまた風で消えてしまう。しかたなく二人は暗闇で鍵を探す。ロドルフォが先に見つけるが、彼はそれを隠しミミに近寄る。そして彼女の手を取り、はっとするミミに自分のことを詩人らしく語って聞かせる「冷たい手を」。続いてミミも自己紹介をする「私の名はミミ」。

プッチーニはイタリア中部、トスカーナ地方 (Toscana) の生まれ。「ラ・ボエーム」に加えて「マノン・レスコー (Manon Lescaut)」、「トスカ (Tosca)」、「蝶々夫人 (Madama Butterfly 」でも知られています。クラシック音楽やオペラの初心者にとっても、プッチーニの作品は親しみやすく魅力的です。

アントニエッタ・ステッラがジャケットに載っていたのを忘れません。そして安い蓄音機で聴いたものです。オペラとか歌劇の中で歌われる合唱が身近になった曲、それが「ラ・ボエーム」です。

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音楽の楽しみ その9 合唱曲の数々「戦場にかける橋」

アメリカ軍による日本本土への初空襲は1942年4月18日といわれます。首都東京への本格的な空襲は1944年11月24日に始まり、1945年3月10日の下町空襲へと続きます。勉誠出版の東京空襲写真集によりますと、この日の空襲では低高度から1600余トンの焼夷弾が投下され、95,000人を超える人々が亡くなりました。一日の死者としては原爆を超えて最大とあります。東京大空襲・戦災資料センターや江戸東京博物館に行きますとその惨状が伝わってきます。

戦争の悲惨さや不条理さが取り上げられています。この体験が風化しないようにすることの難しさもいろいろと語られています。映画は戦争を語り継ぐものとしてその役割を果たしています。そして映画音楽もその一翼を担っています。

第二次大戦のタイ(Thail) とビルマ (Burma) を舞台として、戦争の非情さと人間の愚かさを描く不朽の名作といわれるのが「戦場にかける橋」(The Bridge on The River Kwai)です。舞台は両国の国境近くにある日本軍の捕虜収容所とクワイ河 ( River Kwai) です。連合軍捕虜を使って国境に流れるクワイ河に鉄橋を架ける計画が進められます。ニコルソン (Nicholson)英軍大佐(アレック・ギネス: Alec Guinness)はジュネーヴ協定を盾にして、捕虜収容所長の斉藤大佐(早川雪洲)と対立します。彼は最初、橋造り作業を拒否するのです。収容所にいたアメリカ人の海軍少佐と偽る捕虜(ウイリアム・ホールデン:William Holden)は脱走を試み、やがて完成する橋の爆破に加わります。

橋の完成によって捕虜となり誇りを失っていた兵士の意気が上がります。戦いに負けて捕虜になった者が自分たちで造った橋の完成で勝利の気分を味わいます。ところが映画のお終いでは、鉄橋の破壊を命じられた潜入部隊によって一番列車が通る橋が、無残にも爆破されます。その悲惨な光景を見ていた士官は呆然として「愚かしいことだ、信じられない、、」と叫ぶのです。

この映画のテーマ音楽が「クワイ河マーチ」です。数ある映画音楽の中でも最も親しまれている作品の1つとされます。もともとは「ボギー大佐 (Colonel Bogey)」と呼ばれていたのをこの映画で使ったようです。イギリス軍兵士が口笛を吹きながら歩くこの行進曲は、兵士の士気を鼓舞します。この状況での音楽は、「美的な価値の追求」といったものではなく、「帰属意識を高める」役割を果たしています。これも音楽が有する特徴といえましょう。

1957年の映画ですが、今に伝えるメッセージで一杯です。機会がありましたらご覧ください。

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音楽の楽しみ その8 合唱曲の数々 北海道大学男声合唱団

北海道大学に入学してまずは勉強しようかと意気込みました。ですがなにか授業は高校の延長のような雰囲気でした。英語は特にそうでした。かすかに新鮮だったのは、「君たちは英英辞典を使わないと、、」という川村という教授の言葉でした。

中央ローンという芝生と小川の広場があります。休講が時々あるとそこでのんびりしました。今のように補講をやるなどの緊張感はありません。「男声合唱団にでも入るか」という気分になりました。

北大合唱団ですが、結構歴史があるのです。大正4年、大学の前身であった東北帝国大学農科大学時代に ポール・ローランド (Paul Roland) という英語教師が「農科大学グリークラブ」を発足させ演奏会を開いたのが先駆けといわれています。今年は創部95年目にあたります。

男声合唱団の呼称はグリークラブ (glee club) といいます。音楽ジャンルの「グリー」とは無伴奏でホモフォニー (homophony) と呼ばれる複数の声部が和声を組み立てる音楽です。少し付け加えますと、賛美歌やコラール (Choral) を聴いていてわかるのですが、リズムが非常に似通っていることがあります。これはホモリズム (homorhythm) といいます。こうした音楽を聴いていると落ち着きを感じるのは、ホモリズムのせいだということです。

北大合唱団は原則として練習は毎週一回、狭い部室でやりました。文字通り男ばかりの部活です。男声合唱を4年間やりますと、楽譜の読み方、歌い方、他の声部を聴きながら自分の歌い方を調整できるようになります。男声合唱はテノール(1, 2)、バリトン、ベースの4声部から成ります。私の所属はベース。従って、メロディはほとんど歌うことがありません。大半の曲を歌うときは、他の声部をいわば支えるような役割となります。

夏は合宿がありました。秋に開かれる定期演奏会に備えるのです。それと全日本合唱連盟主催の大学合唱コンクールに出場するためです。定期演奏会では、日本音楽著作権協会との交渉、プログラムに載せる広告集め、チケット作り、ポスター貼りなどを分担します。演奏会が近づくと各自が割り当てられたチケットを売り歩きました。

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音楽の楽しみ その7  合唱曲の数々 「戦場のピアニスト (The Pianist)」

音楽と権力、音楽とプロパガンダ、そして音楽の普遍的な価値のようなことを映画を通して考えます。「戦場のピアニスト (The Pianist)」という名作です。監督したのはローマン・ポランスキー (Roman Polanski ) 。この映画も音楽が主要なキャストとなっています。ショパン (Frederic Chopin) などの曲が流れます。、戦時中ポランスキーはホロコスト(Holocaust) を経験し肉親をアウシュビッツ (Auschwitz) で亡くします。

1930年代後半。舞台はポーランド (Poland)のワルシャワ (Warsaw)です。ユダヤ人であるシュピルマン (Wladyslaw Szpilman) はピアニストとして活躍していました。しかし1939年9月、ナチス  (Nazi)はポーランド侵攻を開始、シュピルマンが働くラジオ局は破壊されます。そこから脱出したシュピルマンは混乱の中で友人の妹ドロタ (Dorota) と出会います。

ポーランドの戦況は悪化します。ワルシャワはドイツ軍に占領され、親衛隊と秩序警察による過激な弾圧が始まり、ユダヤ人はダビデの星の腕章をつけることが義務付けられます。そして1940年後半には、ワルシャワ・ゲットー (Warsaw Ghetto) に押し込められます。ある日、シュピルマンとその家族はその他多くのユダヤ人と共に親衛隊の命令で、トレブリンカ (Treblinka) の絶滅収容所 (Extermination camp) 行きの列車に乗せられます。シュピルマンだけは知り合いのユダヤ人ゲットー警察署長の機転で救われその場を逃れます。家族との永久の別れです。

シュピルマンは、ゲットー内で強制労働を課せられます。ここでシュピルマンは生き残ったユダヤ人たちが蜂起の準備をしていることを知ります。仲間の配慮で倉庫番や食料調達の仕事に回されます。シュピルマンは蜂起への協力を志願し、食料調達の立場を利用してゲットーへの武器の持ち込みを手伝うのです。そんなある日、食料調達のため街に出かけたシュピルマンは市場で知人女性のヤニナ (Janina Bogucki)を見かけ、彼女を頼ってゲットーの外に脱出することを決意します。

ゲットーを脱出したシュピルマンは、反ナチス地下活動組織に挺身するヤニナとその夫アンドレ (Andrzej Bogucki)に匿われて、ゲットーのすぐそばの建物の一室に隠れ住みます。ほどなくワルシャワ・ゲットー蜂起 (Warsaw Ghetto Uprising) が起こり、シュピルマンは部屋の窓からレジスタンスとドイツ軍との激しい交戦を目の当たりにします。だが蜂起は鎮圧され、ゲットー内の大半の人が殺されてワルシャワは報復として完膚なきまで破壊されるのです。

ある日、廃墟の中で食べ物をあさっていたシュピルマンは缶詰を発見します。何とか開けようと悪戦苦闘していたところにドイツ軍将校ホーゼンフェルト (Wilm Hosenfeld) に物音で見つかってしまいます。ホーゼンフェルトはシュピルマンを尋問し、ピアニストであることを知ると何かを演奏するように命じます。ショパンのバラード一番ト単調 (Chopin’s Ballade No.1 G Minor) を弾くと、その見事なピアノの腕前にホーゼンフェルトは、密かにシュピルマンに食料を差し入れます。包みの中にはライ麦パンと共に缶切りが添えられているというプロットです。

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音楽の楽しみ その6 合唱曲の数々 「音楽は国の統治になにを及ぼしたか」

果たして音楽は国を造り国を変える力を有していたのかを考えます。国歌のない国はありません。国歌にしろ行進曲にしろ、国威の発揚に音楽は欠かせない要素です。それだけに国歌の存在は国旗と同じようなシンボルとしての役割を果たしています。

1967年に制作された映画「誇り高き戦場 (Counterpoint)」は、音楽が政治にどのような影響を及ぼしたのか、あるいは音楽と権力とは独立した活動だったのかを考えさせてくれる作品です。監督は「野のユリ: Lilies of the Field」のラルフ・ネルソン (Ralph Nelson) です。

第二次大戦中のヨーロッパ。アメリカ人指揮者のエヴァンス(Lionel Evance) は、慰問団として管弦楽団をひきいてベルギー (Belgium) を訪れます。一行が演奏会を開いた夜ナチスドイツ軍の総反撃によって全員捕虜にされてしまいます。そしてルクセンブルグ (Luxemburg) のドイツ軍司令部に送られます。司令部は楽団員の処刑を命じますが、エバンズの演奏に心酔していたシラー将軍(General Schiller)はそれを中止させます。

そしてシラーは、司令部内でエヴァンスに演奏を命じます。しかしエヴァンスは敵国のために演奏することをいさぎよしとせず、断り続けます。そのため楽団員は全員地下に閉じ込められてしまいます。映画の終わりでは、音楽の価値を理解していたシラーの取り計らいで全員脱出するというストーリーです。

音楽とは権力や戦争、あるいは民族の憎悪を生み出すこととは無縁であったはずなのですが、残念ながら利用されるという歴史を経てきました。音楽はナチスによってプロパガンダに利用されました。日本の軍部も八紘一宇の思想と運動において、音楽を駆使して国威の発揚につとめました。音楽によって民族主義は大いに高揚されたといえます。

「音楽ほど普遍的で、人間の行動に深く影響し、操作的に働く文化的な活動はない」といわれます。戦争中のできごとを通して、音楽が権力に及ぼした大きな役割も忘れてはならないことです。

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音楽の楽しみ その5 合唱曲の数々 「山に祈る」

山よ  お前のふところは    山の男のふるさとよ
        うれしい時は山へ行く   さびしくなれば尾根歩き
   満天の星 凍る夜気、山々はくろぐろと雪に埋もれた小屋を包む (山の歌から)

今も登山ブームが続きます。北アルプスは特に人気があるようです。山ボーイとか山ガールには60歳〜70歳台の人達も多く、遭難者全体の中で35%も占めているといわれます。ヘリと山岳救助隊員の活躍も残念ながら報道されます

長野県警察のサイトを見ますと、滑落や冬山遭難の事例が掲載されています。バックカントリーやスキー場コース外の滑走で、道に迷う遭難が多発しています。冬季の単独登山は、ルート判断を一人で行うだけでなく、体調不良や負傷、気象が急変するなどのトラブルが発生したら大変です。パーティを組んだ登山より危険のリスクが高まります。私は冬山登山はしません。体力と気力が萎えています。

1959年に長野県警察は遭難者の遺族たちのメモを集めた「山に祈る―遭難者の母親らの手記」という小冊子を発行して遭難防止を訴えました。 折しもこの頃は安保闘争などで世の中が騒然としていた時です。激しい政争の中で多くの若者が登山に出掛け、憩いを求めたようです。9ヶ月の短い間に3件の事故で4人の若者が命を落とします。何れも墜落事故といわれます。

合唱組曲「山に祈る」の作曲は清水脩。一遭難者が書き残した最後の手記と、我が子を亡くした母の悲しみを、母の朗読と合唱歌で綴っています。清水は「親しみやすく誰もが口ずさめる平易な旋律を心掛けた」と回想しています。

主人公の元気な姿から死にいたる筋に合わせて、明るい曲調から次第に暗い曲調へと移っていきます。
手の指、凍傷で、思うことの千分の一も書けず。
    全身ふるえ、ねむい。なぜ 山へ登るのか、山がそこにあるから。

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音楽の楽しみ その4  合唱曲の数々 「月光とピエロ」

「月光とピエロ」 という合唱組曲を取り上げます。作詞者は堀口大學。彼は大正4年に外交官である父親と共にスペイン (Spain) の首都マドリッド (Madrid) に赴いたようです。そのとき彼は23歳。そこで9歳年上で女流画家で詩人でもあるマリー・ローランサン (Marie Laurencin) と出会い交遊を深めていったようです。しかし彼女との恋は成就することはありません。

大學は「月光とピエロ」で自分を道化師 (ピエロ: pierrot) と宣言したようです。彼はピエロのなんたるかも承知していたようです。馬鹿にされながら観客を笑わせ、そこには悲しみを持つ存在として描かれるのがピエロとかクラウン (clown) です。「叶わぬ恋をする自分は所詮ピエロだ」という思いのようです。

月の光の照る辻に
    ピエロさびしく立ちにけり
      ピエロの姿白ければ
       月の光に濡れにけり

「月光とピエロ」を曲にしたのは清水脩です。この曲が発表されたのは1948年。戦後間もないすさんだ世相や渇いた青春時代にピエロという仮想の人物に自分を投影するかのように、多くの青年の心を揺さぶった「合唱組曲」です。「秋のピエロ」はもう半世紀を経ましたが、男声においてのみ表現しうる音程と音感を醸しだしています。曲調は高く低く、長調から短調へ、時に斉唱となり、大學の詩の中に包み込まれている愛や孤独、寂しさ、はかなさなどの情感を見事に表現しています。男声合唱の最高峰に位置する作品とされています。

合唱組曲というのは、いくつかの小品を組み合わせて、ひとつの組曲となっているものです。一ステージで一組曲を演奏するというスタイルは、今ではすっかり一般的になりました。清水は全日本合唱連盟の設立に関わっています。合唱の作曲家としては、この人の右に出る者はいないでしょう。次に紹介する「山に祈る」など、その作曲活動は目覚ましいものです。

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音楽の楽しみ その3 合唱曲の数々 「仰げば尊し」

音楽との出会いです。終戦間近のとき、樺太から母は私を含む三人の子供を連れて親戚を頼って美幌に引き揚げてきました。三人は5歳、3歳、1歳です。やがて美幌小学校へ入学しました。1年生の時の担任は「山本みかる」という方です。なぜこの先生を忘れないのか。それは単に最初の先生だったからというだけではありません。彼女は私の名前をきちんと覚え、とても優しいという印象が残っているからです。それと私の母のようにふくよかな面立ちの先生でした。高校生のとき、この先生は亡くなられたことを人づてに聞きました。

小学校3年生の担任は「横山エンタツ」先生でした。本名を書くのは憚るのであだ名とします。あまり良い印象を持っていなかったからです。私はいわばクラスではガキの仲間でした。エンタツ先生は我々のようなガキを嫌い、女の子をえこひいきしてました。それも比較的恵まれた家庭の女の子ばかりをです。無性に腹が立ちました。子どもなりに、こうした教師の感性はすぐ伝わります。不登校ならぬ不勉強がこうじて、その頃の成績は惨憺たるものでした。

1952年の3月に十勝沖大地震が起きました。学校の建物に大きなヒビがが走りました。その年の8月に大火が起こり、住んでいた鉄道官舎が燃えているのを学校の2階から眺めました。かつての木造二階建ての学校は、すっかり様変わりしています。

美幌小学校から名寄南小学校へ転校します。そのときの音楽の先生に「近藤艶子」先生がおりました。私が廊下で力道山の真似をしたプロレスをしているときに、「ついていらっしゃい、、」と音楽室に連れていった先生です。全くの音楽文盲状態の私に音符や楽譜の読み方を教えてくれました。まるっきり歌い方など知りません。合唱に導いてくれたのがこの艶子先生です。艶子先生に出会わなかったら、音楽との出会いも男声合唱の魅力も味わうことがなかったでしょう。艶子先生に再会したのは30年前。いまも旭川市にご健在です。「先生、お元気でピアノを子供に教えておられますか?」

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音楽の楽しみ その2 合唱曲の数々  「多田武彦と北原白秋」

北海道大学男声合唱団にいたとき歌った曲に「柳河風俗詩」があります。作者は北原白秋です。なぜは「柳川」ではなく「柳河」と表記されたかの経緯はわかりません。

もうし、もうし、柳河じや、柳河じや。
   銅の鳥居を見やしやんせ。
    欄干橋をみやしやんせ。
     馭者は喇叭の音をやめて、
      赤い夕日に手をかざす。

白秋の生家は、代々屋号を「古問屋」とか「油屋」という海産物問屋でしたが、白秋の父の代になると、柳川地方でも有名な酒造業者にもなります。しかし、酒蔵が大火で全焼し、その後商売が傾きます。次第に白秋は雑誌『明星』などを濫読し、やがて上京して本格的に詩壇で頭角を上げていきます。

「柳河風俗詩」には、古い言葉がでてきます。それに柳川付近の方言も使っています。「柳河風俗詩」は詩集「思ひ出」の一部です。「あざみのはえた その家は ふるいむかしのノスカイヤ、水に映ったそのかげは 母の形見の小手鞠を 赤い毛糸でくくるのぢゃ」という歌詞もでてきます。ノスカイヤとはお女郎屋のことです。

この曲を作ったのは多田武彦という人です。世間ではほとんど知られていませんが、男声合唱の分野では超一流の作曲家です。多田は、京都大学在学中に男声合唱団の指揮者として活躍します。第1曲『柳河』は、全日本合唱コンクール課題曲の佳作となります。全曲初演は多田が24歳の時のこととあります。「柳河風俗詩」の初演は京都大学の学生集会所内の食堂だったという記録があります。多田が作曲の指導を受けたのは、日本の合唱曲作曲者の第一人者といわれた清水脩です。

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音楽の楽しみ その1 合唱曲の数々  「柳河風俗詩と柳川」

これから暫く、私が過去に歌った合唱曲にまつわる音楽のエピソードを文章化し、音楽の足跡を振り返ることにします。相当にこだわる話題となります。

通信制高校で働いた三年目の卒業式が福岡県の田川郡にある本校であり、連れ合いと出向きました。校長という職の冥利は卒業式の告辞を述べることです。北原白秋が近くにある柳川の出身であることを知っていたので、白秋の詩を題材として卒業生や参列者に語りました。素原稿を練るのに一週間ほどかけました。取り上げた詩は「からたちの花」です。ミカン科の落葉低木からたちは春に白い花を咲かせます。

からたちの花が咲いたよ。 白い白い花が咲いたよ。
  からたちのとげはいたいよ。 青い青い針のとげだよ。

楚々としたからたちの花を白秋はなんのてらいもなく歌ったようです。私はこの白秋の詩をつくる姿勢、つまりありのまま自然を見つめて文章化することに白秋の人柄がでていると感じました。卒業生には朝早く起きて、昼間は一生懸命働き、夜は早く寝るといった平凡ながら規則正しい生活の大切さを語りました。

卒業式の翌日、念願だった柳川を訪れました。立花藩12万石の城下町として古い歴史を持つ街です。水郷「柳川」としても知られています。白秋はこの街の出身です。ここに白秋生誕百年を記念した記念館があります。記念館は北原家の広大な旧跡地の一隅に建てられています。ここには詩聖ともいわれる白秋の遺品やパネルなどが多数展示されています。建物は、壁面に平瓦を並べて貼り瓦の目地に漆喰をかまぼこ型に盛り付けて塗る工法で造られた独特の風合いを出しています。この工法は「なまこ壁」と呼ばれています。

えもいわれぬ風情のあるたたずまいでした。

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初めに言葉があった その52 デフレからの脱却  その12 「インフレーションからスタグフレーションへ」

我が家でいえば、年金額は下がり物価が上昇する現象が起こっています。雇用や賃金が減少する中で、物価の下落ではなく物価の上昇が発生する状況です。収入が減るうえ貨幣や預貯金の実質価値まで低下するような時代です。多くの年金生活者はこのような現実に直面しているはずです。この現象は「スタグフレーション (stagflation) 」というのだそうです。「Stagnation」とは停頓という意味の単語です。それと「Inflation(インフレーション) 」を組み合わせた造語のようです。

経済学者でノーベル賞受賞者であるポール・クルーグマン (Paul  Krugman) は「日本では今(2015年)、急速な円安のマイナス面が表面化し、物価が上昇している。それに対して賃金の上昇が追いついていないために、スタグフレーションに陥りつつある」と指摘しています。円安のマイナスの影響で物価はすでに上昇しています。この理由は農産物などの輸入価格が上昇するからです。原油価格の下落は物価を押し下げているようですが、、、物価だけが上昇するのは好ましいことではありません。賃金は年に3〜4%上がり、物価は年に2%上がるのが好ましいと一般的にいわれています。収入が頓挫するのでは、消費を控えなければなりません。

「ぜいたくは敵なり」「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」「欲しがりません、死ぬまでは、、」

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初めに言葉があった その51 デフレからの脱却  その11 「翻弄される通貨」

識者を前にして、厚顔無恥にも最も身近なお金とか通貨のことを話題を取り上げています。度素人は当たり前のことばかり書いております。

2011年3月の大規模地震災害で福島の原発がメルトダウンを起こします。この大惨事による保険金の支払い、企業の損出穴埋め、復興の需要のために巨額の資金が必要となりました。投資家はこ海外資産を処分して日本に資金を還流させようとしました。復興による株価の上昇を期待したのです。そのため一気に円高が進みます。震災後には歴代での最安値である1ドル=77円をつけます。このように円はアメリカの景気や大災害などによって左右される「翻弄される通貨」のような有様です。

2016年2月28日の円相場は一ドル=113円となっています。かつて一ドル=360円は超円安で、今は113円でも円安といわれています。素朴な疑問ですが、一体円安や円高というのはどんな基準があるのかということです。

今、政府は物価の2%上昇を目指しています。このように円安がインフレを誘導する大きな要因であることは確かです。安部政権下で構成された役員からなる日銀は、アベノミックスの推進役を果たしています。日銀の独立性は一体どうなったのか、という疑問も沸きます。

100円の大台の打診はいつごろになるか、ということが言われています。現実的には106円台は桜が咲く前に実現するだろうという見方もあります。足元の株安や円高はアベノミクスの終焉を示唆する兆候だと指摘するアナリストもいます。この予想にはアメリカの影響もありそうです。例えば、民主党大統領候補のヒラリー・クリントン (Hillary Clinton) は、日本政府は円安を誘導しているとして批判しています。

また原点に戻るような疑問なのですが、一体インフレーションという通貨の膨張は何のために、誰のためにの経済現象なのかということです。我が家でいえば、年金額は下がり物価が上昇するスタグフレーション (stagflation) が起きているといえそうです。

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初めに言葉があった その50 デフレからの脱却  その11 「1ドル=90円」

私が米ドルを買おうとしたもう一つの理由は、外国為替市場が円安に向かい、一ドル=100円くらいになったら一ドル=90円で買っておいたドルを売ろうとしたことです。実に短絡な発想です。退職を機に、自分が知らない分野のことを少し勉強してみたくなりました。経済とか景気とかといった未知の世界です。私は、政府のインフレとデフレ政策が円高や円安を誘導するといった仕組みを知りませんでした。市場が決めるのだろうと思っていたのです。アベノミックスの前のことです。

現在は円安が続いているといわれます。為替市場が円安に向かうと、日本国内はインフレに向かいます。繰り返しますが、1ドル=90円の相場で1万ドルは90万円です。それを購入したとします。1ドル=100円になるとこれが100万円になります。皆が差額の10万円を得たとしますと、円安に誘導されるので物の価格が上昇します。すなわちインフレが起こります。今は円安のせいで外国人観光客の来日が続いています。財布に一万円札をぎっしり詰め込んだ中国人らしき人がテレビで写っています。これがインフレ状況かどうかはわかりません。

2007年頃から米国の住宅価格の上昇に陰りがでて、低所得者向けのローンに焦げ付きが見られるようになりました。このサブプライム・ローン(subprime lending) の信用がなくなり、大量に証券を保有していたリーマン・ブラザーズが2008年9月に破たんします(Bankruptcy of Lehman Brothers)。なぜ低所得者がローンの支払いができなくなったのかの原因はまだ理解できておりません。

ただ、銀行や証券会社の破産など、不動産投資に対する警戒感のせいでしょうか、日本はサブプライム・ローン関連債権などにはあまり手を出していなかったようで、リーマン・ショックの直接的な影響は軽微だったといわれます。ですがショックを境に世界的な経済の冷え込みによって、国内における消費の落ち込みやら金融不安で急速な円高ドル安が進みます。米国市場への依存が強い輸出産業がダメージを受け、結果的に日本経済の大幅な景気の後退にもつながります。

このあたりまでの景気のからくりや外国為替市場の動向は、ようやくわかるようになりました。
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初めに言葉があった その49 デフレからの脱却  その10 「一ドル=360円」

暫くインフレとデフレのことを話題にしています。この二つの現象に直結するのは基軸通貨である米ドルと円の相場です。外国為替について私は、たいしたことではないのですが三度の経験をします。

最初の経験は、1972年の沖縄の本土復帰のときです。幼児教育を始めるようにとの指示で1970年に那覇へ家族を連れて赴任しました。一ドル=360円のときです。このとき沖縄はドルが使われていました。そして復帰の1972年、一ドル=300円と設定されました。固定相場です。高度経済成長の頃です。当時の首相は佐藤栄作です。

復帰前にドルでの預貯金を持っていたほとんどの沖縄の人は、この変換レートによって損をしたのです。沖縄キリスト教短期大学の学長がしきりに嘆いていたのを覚えています。一ドルで60円も損をしたのです。今からすれば、超円安です。円の価値が低いインフレーションの時代です。さらに1973年10月に起こった第一次石油ショックにより一ドルは280円台に急騰しました。

第二の経験は、国際ロータリークラブより奨学育英資金を頂戴したときです。一年間の資金は19,000ドルでした。1978年に渡米したのですが、そのときのレートは確か一ドル=175円位で推移していました。このとき、円で奨学資金を貰っていたら、ドルを買うとして大分目減りしたはずです。

ドル/円の相場は、1976年10月まで米国の景気拡大を背景として日本の輸出が顕著な伸びを示し、経常黒字が拡大したことから円高が進みました。アメリカにおける日本製の小型自動車の輸入が増大し、周りの人の中にも日本車を購入する者が増えていきました。1985年9月にニューヨークで先進五か国の蔵相らが集まって為替レートの安定化に関する会議が開かれます。当時、アメリカは対日貿易が大幅に赤字でした。そのためアメリカは円高ドル安に誘導する必要がありました。これが「プラザ合意」 (Plaza Accord) です。アメリカが「プラザ合意」を目論んだのは赤字の是正のためです。1年後にはドルの価値は下がり150円台で取引されるようになります。

第三の経験は、円高が続いたころです。1995年4月には1ドル=79円という値がつきました。それから10年後の2005年に退職したときに得た僅かの円で、1ドル90円でドルを買うことにしました。まだ円高といえる頃です。当時の首相は小泉純一郎でした。なぜドルを買おうとしたかですが、3人の子供と孫たちはアメリカで仕事をし生活していました。特に孫の誕生日が近くなるとプレゼントを贈るのですが、彼らが何を欲しているのか、たとえ服であってもそのサイズはなにか、ということで悩みました。そこでドルを送るのが一番手っ取り早いと思いました。

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初めに言葉があった その47 デフレからの脱却  その9 「終活」

四文字熟語が多いなと感じていましたが二文字熟語も多いのですね。シュウカツという言葉をきいていたら「就活」ではなく「終活」だったので私は頭をかきました。2010年頃からこの言葉が出回ったようです。この単語を知らなかっただけです。ちなみに「終活ジャパン協会」というサイトも見てみました。

人生でタチが悪いことの一つは、「自分は明日は死ぬことはないだろう」と思い込んでいることでしょう。七十代でも八十代の人もそう思っている人が大半です。「今自分は健康だから」、「毎日健康に留意しているから」、「病気したことがないから」、「家系は皆長寿だから」、、、ですが確実に鬼籍に向かっています。

「終活」はなぜ必要なのでしょうか。残される者への心遣いでしょうか。その他、自分の体と財産のことでしょう。入院したら延命措置をどうするか、献体したほうがよいか、葬式の宗派や墓はどうしてもらうか、一体誰に相続させるか、誰が手続きするかなどなどあります。「就活」は一生を決めかねない出来事です。それに比べて「終活」はエンディングにあたっての備えですからたいしたことではないといえるでしょう。

幸い私にはこれといった財産はありません。残された者は苦労しないはずです。住み家は連れ合いが相続し、僅かの預金は三人の子供で分割するように伝えてあります。簡単なエンディング・ノート (ending note)は長男らに伝えてあります。

インフレーションと終活ということです。これからはしばらく葬儀屋さんの商売も忙しくなるようです。ですが葬儀費用を抑えようとするいろいろな工夫がされています。かつてのような豪華で高価な葬儀は市井ではあまり見られません。気軽な「プチ終活」も人気があります。もはや冠婚葬祭に関しては恥も外聞も気にする時代でなくなりました。実質婚も家族葬も年々盛んです。ウエディングもエンディングでも「インフレはもったいないことだ」という雰囲気です。私も終活はデフレでよいと考えます。静かに送り送られるのがいいのではないでしょうか。

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初めに言葉があった その46 デフレからの脱却  その8 「「患者のための薬局ビジョン?」

日本薬剤師会によると75歳以上の高齢者だけでも残薬は年間およそ475億円分に上ると推計されています。薬は飲まないことにこしたことはないのですが、、、これほどの薬が無駄になって医療費に反映されていると考えると苦々しくなります。国民の医療費に占める薬局調剤医療費は14.2%だそうで、その伸びは11年で372%以上、国民医療費での比率にして3倍強というのです。いかに薬剤の処方が増えているかを物語ります。高齢化の進行によって薬を必要とする人が増えているという理由だけの数字ではありません。

医薬分業が始まったのは1974年。これを機に病院と薬局の経営が別となりました。ただ薬局は道を挟むなど分かれて立地することを義務付けられていて「門前薬局」が立ち並ぶことになりました。沢山の薬局の看板を見ながら、果たして経営は成り立っているのかとさえ思ってしまいます。厚生労働省は2015年10月に「患者のための薬局ビジョン〜門前からかかりつけ、そして地域へ」という方針を打ち出しています。これを読みますと「かかりつけ薬剤師・薬局が持つべき機能」として、服薬情報の一元的・継続的な把握とか、服薬情報の一元的・ 継続的な把握とそれに基づく薬学的管理・指導とか、かかりつけ医との連携により地域における総合的な医療・介護サービスを提供する、などとあります。

連れ合いには、ホームドクターがいます。いつもクリニックの隣にある「かかりつけ薬局」で薬をもらいます。この薬局は (1) 連れ合いの薬や体質の情報を一元的に管理している、(2) 連れ合い宅を訪ねて副作用や飲み残しがないか確認しドクターに報告している、(3) 医師に処方の変更を提案している、かといえば全くそんなことはありません。こうした実情を改善しようとするのが「患者のための薬局ビジョン」らしいのです。

厚生労働省のこのビジョンによれば、患者が選んだ「かかりつけ薬局」が、ホームドクターと連携して患者の服薬状況の全体を把握するよう促すことで、医療の質を高め医療費の削減につなげようと意図しています。「果たしてうまくいくのかな、、」という疑問が沸いてきます。
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初めに言葉があった その45 デフレからの脱却  その7 残薬はどうしてでるのか

私は幸いにしてこのかた薬を定期的に飲んだことはありません。70歳を過ぎてのちょっとした誇りです。連れ合いは長年、食後に服用しています。それも一つや二つではありません。ドバーッとした量です。丁寧に箱に詰めた複数の薬を食卓に広げます。服用後は空になった箱にまた薬を詰めるという作業です。これで食事が終わりです。なにか儀式のようです。

彼女は定期的にかかりつけの医院に出かけては薬を処方してもらいます。三週間に一度くらいです。「二ヶ月分を出してくれればいいのに、、」とブツブツいっています。だんだん出掛けるのが億劫になるようです。薬を飲んでいると精神的に安心するのでしょうか、、、一二度飲み忘れたとしても症状が進行するものでしょうか? 少しずつ薬は減らして欲しいと思います。プラセボ (placebo) を与えて、本物との違いを調べて欲しいものだとも感じます。多分、違いはでないのではないでしょうか。

今、残薬問題が深刻化しています。「飲み忘れ」や「飲み残し」が服用者の70%近くを占めているという数字があります。特に高齢者の飲み忘れがひどいようです。飲み忘れによって体調が良い、と感じたときは薬をやめて欲しいものです。かかりつけの医師も患者の健康状態を把握して、「薬の処方はもうやめましょう」といってもらいたいのです。そして、もっと外にでましょうとか、車をやめて歩きましょうとか、出かけて買い物は楽しみましょうとけしかけるのはどうでしょうか。高齢者もそうした後押しの言葉で体調に自信がでてくるはずです。

過度に薬に頼るのは、薬がないと不安に駆られるからだろうと察します。患者に「薬の量を減らしましょう」といっても効果があるとは思われません。なにせ、薬中毒のような状態にあるからです。そこで、医師は思いきって予備患者のような高齢者には薬を減らす決断をしてもらいたいものです。そして、点数を稼ぐのをなんとしても自粛してもらいたい。医師の倫理に期待したいものです。
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初めに言葉があった その44 デフレからの脱却  その6 「AD/HDは作られた病」

“注意欠陥多動障害(Attention Deficit/Hyperactive Disorder: AD/HD) の父”といわれるのが、アイゼンバーグ(Leon Eisenberg)という児童精神科医です。臨床心理学者でもあります。2009年に亡くなるまで、アメリカにおける児童精神医学界で活躍した人です。特にアメリカ精神医学会が発行している「精神障害の診断と統計の手引き(DSM)」や世界保健機関によるInternational Statistical Classification of Diseases and Related Health Problems(ICD-10)の作成にも貢献しました。

2013年5月にアイゼンバーグが「AD/HDは作られた病であることをAD/HDの父が死ぬ前に認める」という記事がでました。アイゼンバーグが亡くなってから4年後のことです。アイゼンバーグは、AD/HDの研究や過剰な診断と相まって薬の売上を増加させた、と述懐したとあります。注意欠陥多動障害もまたインフレを起こしていたのです。

アイゼンバーグは言います。「実際に精神障害の症状を示す子供は存在するものの、過剰な診断と製薬会社の影響とによってAD/HDの患者の数が急増している。」 AD/HD患者の数が急増しているのは、AD/HDは過小評価されて、小児科医、小児精神科医、保護者、教師たちに思い込ませた製薬会社の力と、それまでは正常と考えられていた多くの子供がAD/HDと診断されたことによるものであるという衝撃的な発言です。

アイゼンバーグは、アメリカでは、製薬会社と医者との良好な関係によって子供たちが流行のようにAD/HDと診断され、薬物治療を受けている」ことに警告したのです。彼は、「AD/HDとは虚構の疾病である (AD/HD is a fictious disease.)というのです。一つの疑問ですが、なぜ、著名な研究者が死ぬ前に過剰な診断と薬の処方の増加に警告しなかったのかということです。

何事も恣意的に引き起こされることは恐ろしいことです。輪転機を回してやみくもに紙幣を印刷することもそうです。いくらデフレからの脱却とはいえ、給料も上がらず物価が2%上昇してお金の価値が下がっては若年労働者や定年退職者には堪えます。診断のインフレとは、正常を疾病として薬の処方が増え、教育サービスが増え、障害年金が増え、製薬企業の利潤が増えることです。そしてなによりも恐ろしいことは、子供を薬漬けにすることです。双極性障害(躁うつ病)(bipolar disorders) で薬漬けになり命を絶った高校生を知っています。
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