アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その50 パリ条約

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北アメリカにおける軍事的な評決は1782年のイギリス–アメリカ和平予備条約(Anglo-American peace treaty) に反映され、それは1783年のパリ条約(Treaty of Paris)に盛り込まれます。ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)、ジョン・アダムズ(John Adams)、ジョン・ジェイ(John Jay)、ヘンリー・ローレンズ(Henry Laurens)がアメリカ側委員を務めました。この条約により、イギリスは西側のミシシッピ川を含むおおまかな境界線を持つアメリカ合衆国の独立を承認します。イギリスはカナダを保持しましたが、東フロリダと西フロリダはスペインに割譲します。また、アメリカ人のイギリス人に対する私的債務の支払い、アメリカ人のニューファンドランド漁業権、大陸議会から各州への忠誠者の公正な扱いを支持する勧告などの条項が挿入されます。

Treaty of Paris ©Public Domain

 イギリスに忠誠を示す多くの人々は新天地に残りますが、約8万人もの保守派のイギリス人はカナダ、イギリス、イギリス領西インド諸島に移住します。その多くはイギリス兵として従軍し、アメリカ各州から追放された者たちでした。戦時中や戦後、忠誠を示すイギリス人はアメリカ各州から危険な敵として厳しく扱われました。彼らは一般に市民権を奪われ、しばしば罰金を科され、財産を没収されることもしばしばありました。その最も危険な者は、通常、死刑を宣告されました。イギリス政府は、4,000人以上の亡命者に財産の損失を補償し、およそ330万ポンドを支払いました。また、土地や年金の支給、再起を図るための任用も行いました。アメリカに残ったあまり忠誠的でない保守派の人々は、イギリスからの独立を受け入れ、一世代を経た後にはアメリカの愛国者と見分けがつかないほどになります。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その49 フランスの参戦

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 1777年、バーゴイン将軍(Gen. John Burgoyne)率いるイギリス軍は、ニューヨーク州アルバニーを目標にカナダから南下していきます。バーゴインは7月5日にタイコンデロガ砦を占領しますが、アルバニーに近づくと、ホレイショ・ゲイツ将軍(Generals Horatio Gates)とベネディクト・アーノルド将軍(Benedict Arnold)が率いるアメリカ軍に二度も敗北し、1777年10月17日、サラトガ(Saratoga)で降伏を余儀なくされます。その年の秋にニューヨークからチェサピーク湾(Chesapeake Bay)に上陸したハウは、9月11日にブランディワイン・クリーク(Brandywine Creek)でワシントン軍を破り、9月25日にはアメリカの首都フィラデルフィア(Philadelphia)を占拠します。

Independence Hall, Philadelphia(library of Congress)

 10月4日にペンシルベニア州ジャーマンタウン(Germantown)でまずまずの成功を収めた後、ワシントンは冬の間、11,000人の部隊をペンシルベニア州バレーフォージ(Valley Forge)に集結させます。バレーフォージの環境は荒涼としており、食料も不足していましたが、プロイセン人(Prussian)のフリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・スチューベン男爵(Baron Friedrich Wilhelm von Steuben)が、アメリカ軍に作戦や武器の効率的な使用法などの貴重な訓練を施します。1778年6月28日、ニュージャージー州モンマス(Monmouth)現在のフリーホールド(Freehold)でのワシントンの攻撃の成功に、フォン・スチューベンの援助は大きく貢献しました。この戦いの後、北部のイギリス軍は主にニューヨーク市とその周辺に留まることになります。

 フランスは1776年から密かにアメリカに対して財政的、物質的援助を行っていましたが、1778年に艦隊と軍隊の準備を始め、6月についにイギリスに対して宣戦布告をします。アメリカの北方での行動はほぼ膠着状態にあったため、フランスの主な貢献は南方で行われ、イギリス領サバンナの包囲やヨークタウンの決定的な包囲などの作戦に参加しました。コーンウォリスは1780年8月16日にサウスカロライナ州カムデン(Camden)でゲイツ率いる軍隊を撃破しますが、10月7日にサウスカロライナ州キングズマウンテン(Kings Mountain)、1781年1月17日にサウスカロライナ州カウペンズ (Cowpens)で大きな打撃を受けます。

 コーンウォリスは1781年3月15日にノースカロライナ州ギルフォード・コートハウス(Guilford Courthouse)で大勝した後、ヴァジニア州に入り、ヨークタウンに基地を置いて他のイギリス軍と合流します。しかし、ワシントン軍とフランスのロシャンボー伯爵(Count de Rochambeau)が率いる軍隊はヨークタウンを包囲し、1781年10月19日にコーンウォリスと7,000人以上の軍隊を降伏させます。

 その後、アメリカでは陸上での戦闘は停止しますが、公海での戦争は続きました。1775年に大陸海軍が創設されたが、アメリカ軍の海での活動は小さな武装攻撃に終始し、1780年以降の海戦は主にイギリスとアメリカのヨーロッパの同盟国との間で戦われました。それでもアメリカの武装攻撃はイギリス諸島に集中し、戦争末期には1,500隻のイギリス商船と12,000人の船員を捕獲していきます。1780年以降、スペインとオランダはイギリス諸島周辺の海域の大部分を支配するようになり、イギリス海軍の大部分はヨーロッパに留め置かれることを余儀なくされます。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その48 チャールズ・コーンウォリス卿

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ジョージ・ワシントン

こうしてアメリカ独立戦争は、植民地問題をめぐるイギリス帝国内の内紛として始まりましたが、1778年にフランス、1779年にスペインが参戦したことにより、国際紛争となります。イギリスと戦争中であったオランダは、アメリカに対して財政支援を行い、独立を公式に承認していきます。植民地でのアメリカ人は州の民兵と大陸軍を編成し、農民を中心に常時約2万人の兵士が戦いました。これに対してイギリス軍は、訓練された信頼できる職業軍人で構成され、約42,000人の正規軍と、約30,000人のヘッセン(Hessian)からのドイツ傭兵で補っていました。

タイコンデロガ要塞(Wikipedia)

 レキシントンとコンコードでの戦闘の後、反乱軍はボストン包囲を開始しますが、アメリカのヘンリー・ノックス将軍(Gen. Henry Knox)がタイコンデロガ要塞(Fort Ticonderoga)から捕獲した大砲を持って到着し、1776年3月17日にゲージ将軍(Gen. Gage)の後任ウィリアム・ハウ将軍(Gen. William Howe)をボストンから退却させることで終了します。リチャード・モンゴメリー将軍(Gen. Richard Montgomery)率いるアメリカ軍は、1775年秋にカナダに侵攻し、モントリオールを占領し、ケベックへの攻撃を開始しますが失敗しモンゴメリーはそこで戦死します。アメリカ軍は春にイギリスの援軍が到着するまでケベックを包囲し、その後タイコンデロガ砦に退却します。

  イギリス政府は、ハウ将軍の弟リチャード・ハウ(Lord Howe)提督を大艦隊でニューヨークに派遣し、アメリカ人と交渉し、彼らが服従すれば恩赦を保証する権限を与えます。アメリカ人がこの和平の申し出を拒否すると、ハウ将軍はロングアイランドに上陸し、8月27日にワシントンが率いる軍を破り、マンハッタン (Manhattan)に退却させます。ハウ将軍はワシントンを北に引き寄せ、10月28日にホワイトプレーンズ( White Plains)近くのチャタートンヒル(Chatterton Hill)で彼の軍隊を破ます。ワシントンがマンハッタンに残した守備隊を襲撃して捕虜と物資を奪取します。

 チャールズ・コーンウォリス卿 (Lord Charles Cornwallis)は、ワシントンのもう一つの守備隊であるフォートリー(Fort Lee)を占領し、アメリカ軍をニュージャージーからデラウェア川西岸に追いやり、ニュージャージーの前哨基地で冬の間、兵舎を確保します。クリスマスの夜、ワシントンはこっそりとデラウェアを横断し、トレントン(Trenton)のコーンウォリスの守備隊を攻撃し、1,000人近くを捕虜とします。コーンウォリスはすぐにトレントンを奪還しますが、ワシントンは脱出し、プリンストン(Princeton)でイギリスの援軍を撃破します。ワシントンのトレントン-プリンストン作戦は独立への意気を鼓舞し、独立のための戦争を継続させていきます。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その47 レキシントン・コンコード

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1775年4月19日、イギリス軍のトーマス・ゲージ将軍(Gen. Thomas Gage)がマサチューセッツ州コンコード(Concord)にあるアメリカ反乱軍の拠点を破壊するためにボストンから軍を派遣します。そしてレキシントンとコンコード(Lexington and Concord)で植民地の民兵(militia)とイギリス軍との間で戦闘が起こります。この衝突は、5月にフィラデルフィアで開催された第2回大陸会議に報告されました。植民地の指導者たちの多くは、まだイギリスとの和解を望んでいましたが、このニュースは代表者たちをより急進的な行動へと駆り立てました。

 大陸が戦争状態になるような気配となります。主にディキンソン(Dickinson)の主張によりイギリス国民に向けた更なるアピールが行われる一方で、大陸議会は軍隊を調達し、武器をとる理由と必要性に関する宣言を採択し、国内調達と外交問題に対処する委員会を任命します。1775年8月にはイギリス国王は反乱を宣言し、その年の終わりにはすべての植民地貿易が禁止されました。それでも大陸軍司令官ジョージ・ワシントン(Gen. George Washington)は、イギリス軍を大臣軍(ministerial forces)と呼び、内戦であって国家を分裂する戦争ではないと主張しました。

 1776年1月、トマス・ペイン(Thomas Paine)の不遜な小冊子「コモンセンス」の出版は、突然楽観的な展望を破り、独立を話題とします。この小冊子は10万以上の部数に達し、「アメリカの独立」という戦いの目的を明らかにし、植民地人の戦意を鼓舞します。ペインは、アメリカがイギリスのジョージ3世の臣民であろうとする限り、自由は勝ち取れない、専制者ジョージ3世の奴隷となるか、独立するかのいずれかしかなく、独立によってのみ自由になれるのは「常識」(Common Sense) である、と主張したのです。

 ペインの雄弁で直接的な言葉は、人々の思いを代弁していました。植民地の人々にこれほど影響を与えた小冊子は、かつてありませんでした。大陸議会がフランスとの同盟を緊急に秘密裏に交渉する一方で、保守派が解決を望む地方で権力闘争が勃発しました。

 1774年11月の総選挙でノース公が圧倒的多数を占めたイギリスでは、世論が硬直化し、大陸との和解への希望が薄れていきました。イギリスの強硬姿勢に直面し、植民地の権利の定義にこだわる人々には他の手段がなくなります。ジョン・アダムスによれば約3分の1相当数の植民地出身者が、あらゆる不利を覚悟しながらイギリス王室への忠誠を望んではいましたが、少数派となっていきました。イギリス軍が集結した場所では、軍は忠誠心のある人々の支持を得ますが、軍が移動すると人々のイギリスへの忠誠心は弱体化を露呈していきます。

Minutemen in Concord

 国内での最も劇的な革命運動はペンシルベニアで起こります。フィラデルフィアを中心に国内に同盟者を持つ強力な急進派が、独立そのものをめぐる論争の過程で権力を掌握したのです。1776年の春、独立を求める世論が植民地を席巻します。第二回の大陸議会は、植民地が独自の政府を樹立することを勧告し、独立宣言の起草案を作る委員会を設置します。

 この起草案は、トーマス・ジェファソン(Thomas Jefferson)によって書かれ、委員会で修正されて出来上がります。起草案2つの部分から成り、前文では、自然権に基づく合衆国の主張と平等原則を掲げ、後文では、イギリス議会に対する長文の不満でありました。7月2日、議会は独立を決議し、7月4日には独立宣言を採択します。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その47 レキシントン・コンコード

 1775年4月19日、イギリス軍のトーマス・ゲージ将軍(Gen. Thomas Gage)がマサチューセッツ州コンコード(Concord)にあるアメリカ反乱軍の拠点を破壊するためにボストンから軍を派遣します。そしてレキシントンとコンコード(Lexington and Concord)で植民地の民兵(militia)とイギリス軍との間で戦闘が起こります。この衝突は、5月にフィラデルフィアで開催された第2回大陸会議に報告されました。植民地の指導者たちの多くは、まだイギリスとの和解を望んでいましたが、このニュースは代表者たちをより急進的な行動へと駆り立てました。

 大陸が戦争状態になるような気配となります。主にディキンソン(Dickinson)の主張によりイギリス国民に向けた更なるアピールが行われる一方で、大陸議会は軍隊を調達し、武器をとる理由と必要性に関する宣言を採択し、国内調達と外交問題に対処する委員会を任命します。1775年8月にはイギリス国王は反乱を宣言し、その年の終わりにはすべての植民地貿易が禁止されました。それでも大陸軍司令官ジョージ・ワシントン(Gen. George Washington)は、イギリス軍を大臣軍(ministerial forces)と呼び、内戦であって国家を分裂する戦争ではないと主張しました。

 1776年1月、トマス・ペイン(Thomas Paine)の不遜な小冊子「コモンセンス」の出版は、突然楽観的な展望を破り、独立を話題とします。この小冊子は10万以上の部数に達し、「アメリカの独立」という戦いの目的を明らかにし、植民地人の戦意を鼓舞します。ペインは、アメリカがイギリスのジョージ3世の臣民であろうとする限り、自由は勝ち取れない、専制者ジョージ3世の奴隷となるか、独立するかのいずれかしかなく、独立によってのみ自由になれるのは「常識」(Common Sense) である、と主張したのです。

 ペインの雄弁で直接的な言葉は、人々の思いを代弁していました。植民地の人々にこれほど影響を与えた小冊子は、かつてありませんでした。大陸議会がフランスとの同盟を緊急に秘密裏に交渉する一方で、保守派が解決を望む地方で権力闘争が勃発しました。

 1774年11月の総選挙でノース公が圧倒的多数を占めたイギリスでは、世論が硬直化し、大陸との和解への希望が薄れていきました。イギリスの強硬姿勢に直面し、植民地の権利の定義にこだわる人々には他の手段がなくなります。ジョン・アダムスによれば約3分の1相当数の植民地出身者が、あらゆる不利を覚悟しながらイギリス王室への忠誠を望んではいましたが、少数派となっていきました。イギリス軍が集結した場所では、軍は忠誠心のある人々の支持を得ますが、軍が移動すると人々のイギリスへの忠誠心は弱体化を露呈していきます。

 国内での最も劇的な革命運動はペンシルベニアで起こります。フィラデルフィアを中心に国内に同盟者を持つ強力な急進派が、独立そのものをめぐる論争の過程で権力を掌握したのです。1776年の春、独立を求める世論が植民地を席巻します。第二回の大陸議会は、植民地が独自の政府を樹立することを勧告し、独立宣言の起草案を作る委員会を設置します。

 この起草案は、トーマス・ジェファソン(Thomas Jefferson)によって書かれ、委員会で修正されて出来上がります。起草案2つの部分から成り、前文では、自然権に基づく合衆国の主張と平等原則を掲げ、後文では、イギリス議会に対する長文の不満でありました。7月2日、議会は独立を決議し、7月4日には独立宣言を採択します。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その46 イギリスに対する抗議

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大陸会議の目的は、イギリス政府に圧力をかけ、植民地のあらゆる不満を解消し、かつての調和を取り戻すことにありました。そこで議会は、輸入をしないこと、あまり消費をしないこと、米の収穫や輸出などに関して、綿密で段階的な経済圧力計画を作ることでした。ニューイングランドやヴァジニアの代表の中には、独立を視野に入れて発言する者もいましたが、大多数の代表は協議した措置を国王やイギリス国民へ訴えることによって、今後こうした会議を開く必要がないことを期待し散会します。同時にイギリスへの訴えが失敗した場合には、翌年の春に第二回目の議会を招集するという決議もします。

 大陸会議で達成された団結の裏には、植民地社会における深い分裂がありました。1760年代半ば、ニューヨークの北部では土地暴動で混乱し、ニュージャージーの一部でも暴動が発生します。さらにひどい混乱はノースカロライナとサウスカロライナの奥地で起こり、辺境の人々は、自分たちは課税の対象であるが代表されていないと感じながら、議会の保護がないままほっとかれます。

 1771年にノースカロライナのアラマンス・クリーク(Alamance Creek)で起こった投石による暴動は、レギュレーターの反乱(Regulator Insurrection)として知られ、その終結後、首謀者は反逆罪とされて処刑されます。都市部ではこうした深刻な混乱はありませんでしたが、経済的機会や明確な地位の不平等に対する激しい社会的緊張と憤りが見られるようになります。

 ニューヨークの地方政治は、王室と繋がるデランシー家(DeLanceys)と、そのライバルであるリビングストン家(Livingstons)の二大勢力間の激しい対立によって引き裂かれます。イギリスとの関係を巡る政争は、これらの派閥の国内での地位に影響を与え、やがてデランシー家を衰退させていきます。もう一つの現象は、バプテストを筆頭とする政権への反対を示す宗教派の急速な台頭です。彼らは政治的な主張はしないのですが、その説教のスタイルは、宗教的な反対だけでなく政治への参加を促す信仰を表明するものとなりました。

 こうした争いや騒動には、これといった整合性はありませんでしたが、植民地社会の指導者の多くは、イギリスに対する抗議であっても、破壊的な立場に立つことには慎重でした。抗議活動が革命的な方向に進むと、国内での影響が大きくなることを懸念したからです。ですが破壊的な要素を秘めた主義や主張は、後戻りすることのできない可能性があると考えられました。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その45 大陸議会の開催

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植民地政府へのイギリスの介入は、植民地の他の各地を脅かす可能性があり、団結して行動することによって対抗できるというのが広く一般的な見方でした。植民地間の多くの協議の結果、大陸議会(Continental Congress)が設立され、1774年9月にフィラデルフィア(Philadelphia)で会合が開かれます。ジョージア州を除くすべての植民地議会は、代表団を派遣します。ヴァジニア州の代表団の提案はトーマス・ジェファソン(Thomas Jefferson)が起草し、後に『A Summary View of the Rights of British America (1774)』として出版されます。

 ジェファソンは、植民地の立法権の自律性を主張し、アメリカ人の権利の根拠について極めて個人主義的な見解を打ち出します。アメリカ植民地やその他のイギリス帝国の構成国は、王の下に統合された別の国家であり、したがって王のみに服従し議会には服従しないという考えは、ジェームズ・ウィルソン(James Wilson)やジョン・アダムス(John Adams)をはじめとする他の代表者にも共通し、イギリス議会に強い影響を及ぼします。

 大陸議会で審議されたことは、各植民地が1票ずつ投票するか、それとも人口との比率で計算した富の額によって投票するかということでした。植民地毎の投票という決定は、富も人口も十分に把握できないという現実的な理由から提案されたのです。個々の植民地は、その規模に関係なくある程度の自治権を保持し、それは直ちに主権や特権に反映されるというものです。マサチューセッツ州の影響を受け、議会は次にマサチューセッツ州サフォーク郡(Suffolk county)で示されたサフォーク決議案(Suffolk Resolves)を採択し、初めて自然権を公式の植民地論に採用するのです。すべての抗議は不文律(common law)と憲法上の権利に基づいていました。しかし、こうした決定はさておいて、世間では対立を警戒する慎重なムードも漂っていました。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その44 ボストン茶会事件

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植民地人とイギリス当局とのもう一つの深刻な争いはニューヨークで起こります。ニューヨーク議会は、軍隊の宿営地に関するイギリスの要求をすべて拒否します。双方で妥協が成立する前に、イギリス議会は植民地議会を停止させると脅します。このエピソードは、議会が宣言法の言葉、すなわち「いかなる場合においても植民地を拘束し、立法する権限を有する」という条項を援用しようとするものでした。これまで、イギリス議会は、王室からの訓令を除いて、アメリカの植民地における憲法の運用に介入したことはなかったのです。

 1773年、ノース公爵が東インド会社(East India Company)をある困難から救おうとしたときにも、イギリスの植民地経済への介入は起こります。紅茶法(Tea Act)は、インドで紅茶を生産していた同社に、植民地での流通を独占させるものでした。同社は、商人による競売での販売制度を廃止し、自社の代理店を通じて茶葉を販売することを計画します。仲買人のコストを削減することで、広く買われている粗悪な密輸茶を安く売りさばくためでありました。この計画は当然ながら植民地の商人たちに影響を与え、多くの植民地人は、この法律はアメリカ人に合法的に輸入された茶を買わせ、その税金を払わせようとする陰謀であると非難しました。課税された茶の樽を拒否すると脅したのはボストンだけではありませんでした。その拒否は最も劇的で挑発的な行動となります。

 同年12月16日、ボストン市民がモホーク族(Mohawk)に偽装して停泊中の船に乗り込み、1万ポンド相当の茶を港に投棄した事件は、「ボストン茶会事件(Boston Tea Party)」として一般に知られています。イギリスの世論は憤慨し、イギリス議会のアメリカの盟友たちは困惑します。他の都市のアメリカ商人も混乱します。1774年の春、イギリス議会はほとんど反対もなく、マサチューセッツを秩序とイギリス主義の規律に従わせるための一連の措置を可決します。ボストン港は閉鎖され、マサチューセッツ州政府法では、議会は初めて植民地憲章を実際に変更し、1691年に設立された選挙制の議会を任命制に置き換え、知事と議会に大きな権限を付与します。

 急進的な思想家の集まりであったタウンミーティングは禁止されます。さらに事態を悪化させたのは、議会はカナダ統治のためのケベック法(Quebec Act)も可決したことです。ニューイングランドの敬虔なカルヴァン主義者(Calvinism) たちが恐れたように、フランス系住民のためにローマ・カトリック教の布教も認めていきます。さらに、南部カナダは行政上の理由からミシシッピ渓谷に連結され、アメリカ西部開拓の支配の可能性を永久に封じ込めようとしました。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 

その43 不平等な扱いとボストン虐殺事件

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議会への代表権をめぐる論争での両陣営の立場は、使われている言葉にも表れています。議会主権の原則は、父権的な言葉で表現され、イギリス人は自分たちを親とし、植民地の人々を子どもと呼びました。社会の安定のためにイギリス議会の言い分を受け入れる植民地の保守主義派(Tories)も、このような用語を使いました。こうした観点から、子どもが親に反抗するのが不自然であるように、植民地の不服従は不自然なのであるという主張でした。これに対して植民地主義者たちは、権利という言葉で反論しました。彼らは、イギリス議会は植民地においては、イギリスでできないことは植民地でも何もできないのだと考えました。なぜなら、アメリカ人はイギリス人のすべての慣習法上の権利によって保護されているからであると主張します。

 植民地で開かれた1774年9月の第一回議会では、その最初の行動の一つとして、植民地にはイギリスの慣習法を適用する権利があることを確認しました。イギリスの慣習法は「コモン・ロー」(Common law)と呼ばれ、中世から国王裁判所で蓄積された判例を基に、国内の共通の法として体系化されたものです。「国王と言えども法に従うべきである」という原則に立つものです。

 ヴァジニア州のリチャード・ブランド(Richard Bland)は、1764年に発表した『罷免された大佐』(Colonel Dismounted)の中で、権利とは平等であることだと主張しました。彼は、植民地時代の不満の根源に言及しています。アメリカ人は不平等な扱いを受けており、それに憤慨しているだけでなく、自分たちの事案を自分たちで処理できなくなることを恐れていました。植民地の人々は、1761年にボストンで援助令状(writs of assistance)(基本的には一般捜査令状)が敷かれたことに法的不平等を感じます。というのはイギリスでは2つの有名な事件において「一般捜査令状」が非合法とされたからでした。タウンゼントは、1767年に植民地における援助令状を明確に合法化します。ディキンソン(Dickinson)は「農民からの手紙」 (Letters from a Farmer)の中でこの問題を取り上げています。

 1770年初頭、ノース公爵(Lord North)が首相に就任すると、ジョージ3世(George III)はついに、自分と議会の双方に働きかけることのできる大臣を見つけます。それ以来、イギリス政府は安定を取り戻し始めます。1770年、アメリカの不輸入政策に直面し、タウンゼント関税(Townshend tariffs)は、象徴的な理由で残されていた紅茶税を除き、すべて撤廃されます。ニューイングランドの海岸線では、税関職員が地元の陪審員の支持を得られず、植民地人が反抗する事件が頻発しますが、比較的平穏な状態が戻ります。これらの事件は他の植民地からの共感は得られませんでしたが、ボストンに駐留するイギリス正規軍の増員を要求するほど深刻でした。

 最も激しい衝突は、タウンゼント税が廃止される直前にボストンで起こります。暴徒の嫌がらせに脅かされたイギリスの小隊が発砲し、5人を殺害した事件は、まもなく「ボストン虐殺事件(Boston Massacre)」として知られるようになります。兵士たちは殺人の罪に問われ、市民裁判にかけられますが、発砲した兵士8人と隊長は裁判にかけられ兵士2人が軽い罪に問われたほか全員無罪となります。ジョン・アダムス(John Adams)が被告の弁護を担当し、穏健な判決に導きます。彼は後に合衆国第二代目の大統領となります。

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その42 憲法上の相違

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 1760年代は、本国からの独立を望む植民地出身者はほとんどおらず、独立を想像することすらできませんでした。ただディキンソン(John Dickinson)は自分のエッセイの中で、明らかに苦しみながらも誠実に独立の可能性をほのめかしていました。植民地における激しい議論は、時に感情的にはなりましたが、政治機構を変えようとするものではなく、法解釈をめぐる議論でありました。植民地側の主張の核心は、イギリスの臣民として、イギリス内の臣民と同じ特権を受ける権利があるということでした。植民地人は、憲法上、自分たちの同意なしに課税されることはなく、課税を決定するイギリス議会にも代表者がいなかったため、イギリス本国の政治に同意していなかったのです。

 マサチューセッツ湾直轄植民地の法律家で政治活動家のジェームズ・オーティス(James Otis)は、2つの長い小冊子の中で、このような但し書きをつけて、すべての主権を議会に譲渡しました。しかし、議会が植民地に対する合法的な立法権を持っているかどうかについて疑問を持つ者も現れ始めます。1760年代後半には、フィラデルフィアに住むスコットランド移民の弁護士ジェームズ・ウィルソン(James Wilson)が、このテーマで小論を執筆し疑念を表明します。

Charles Townshend

 タウンゼンド諸法(Townshend round of duties)の目的は、植民地からの税収増をもって現地の総督と判事の俸給に当て、植民地のルールから総督や判事を独立させること、法の徹底による貿易統制をより効果的に推進できる体制を整えること、本国の国内法に応じようとしないニューヨーク植民地を処罰すること、本国議会が植民地に対する課税権を有するというものでした。しかし、植民地の人々は、イギリス内の臣民と同じ特権を受ける権利があることを主張し、タウンゼンド諸法に強く反対するのです。

 1770年にタウンゼント諸法(Townsend round of duties)が廃止されたため、ウィルソンはこの小論を非公開とし、1774年に新たな問題が発生した際に「英国議会の立法権の性質と範囲に関する考察」として発表します。この中で彼は、議会の合法的な主権はイギリスの海岸で止まっているのだという植民地で集めていた意見を全面的に表明していくのです。

 議会への代表権に関する植民地の訴えに対するイギリスの公式回答は次のような内容です。すなわち植民地は、投票権を持たない大多数のイギリス国民が投票権を持つ人々によって代表されているのと同じ意味で、植民地人も議会において事実上代表されているというものでした。これに対してオーティスは、イギリス国民の大多数が投票権を持っていないのであれば、彼らが投票権を持つべきだ、とからかいます。何度か提案された植民地からの議員という提案は、時間と距離の問題、そして植民地の人々にとって植民地の議員は十分な影響力を持ち得ないという理由から、解決策にはなり得ませんでした。

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その41 印紙税法の廃止

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印紙税法の廃止に歓喜した植民地の人々は大いに喜び、大砲の音を鳴らし、宣言法は面目を保つための粉飾であるので無視しようと叫びました。しかし、ジョン・アダムス(John Adams)は、『正典と封建法に関する論文』の中で、議会がこのような権力観で武装し、再び植民地に課税しようとすることを警告します。1767年、イギリスでウィリアム・ピット(William Pitt)が率いる内閣でチャールズ・タウンゼント(Charles Townshend)が大蔵大臣に就任すると、このような懸念が起こります。問題は、イギリスの財政負担が軽減されていないことでありました。

 タウンゼントは、植民地時代の外税と内税の区別を文字通りに解釈し、鉛、ガラス、塗料、紙、家庭の主要飲料である茶など、さまざまな必需品に外税が課されていきます。その結果、植民地の人々は、イギリスは植民地を従属的な地位おこうとする長期的な展望を持っていると考えます。彼らはそれを新たな「奴隷制」と呼ぶようになります。実はグレンヴィルの政策は、慎重に検討されたパッケージとして設計されていたのでした。グレンヴィルには、いくつかの整理法案を除いて、印紙税法後に植民地に対するさらなる計画はありませんでした。グレンヴィルの後継者たちは、当初の印紙税法の延長線上ではなく、印紙税が廃止されたことを理由にさらなる措置を講じようと画策していきます。

John Dickinson (Wikipediaより)

 しかし、植民地の人々はイギリス製品の禁輸運動を行うなどして抵抗します。ペンシルベニアでは、弁護士で立法者でもあったジョン・ディキンソン(John Dickinson)が一連のエッセイを書き、1767年と1768年に『ペンシルベニアの農民からの手紙』(Letters From a Farmer in Pennsylvania)として発表し、全植民地的に名声を博し、植民地の統一した反対運動を形成する上で大きな影響を及ぼしました。イギリス議会への抗議運動になるがディキンソンは、イギリス議会が帝国全体に関わる最高権力者であることには同意しますが、植民地の内政に関する権力は否定し、植民地の忠誠心の基本は上位者への服従ではなく、対等の関係にあることを冷静にほのめかします。

 植民地人が意見で一致することは、行動で一致するよりも簡単なことでした。多くの駆け引きと交渉の末、徐々にイギリス製品に対する広範な非輸入政策が実施されるようになります。こうした際の合意形成は容易ではなく、時には非協力的な言いがかりをつけられ緊張が起こりました。また、この非輸入政策は、新たに設置された地方委員会によって執行されねばならなかったので、公務の経験があまりない地方出身者が新たな権限を持つことになります。その結果、一部の植民地では、内政干渉に対する不満の声が多く聞かれるようになります。こうした状況は、後にさらなる措置が必要となるにつれて、植民地政治の将来に影響を及ぼすことが明白となっていきます。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 

その40 印紙税法

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植民地の多くの土地所有者は、公式に流通が停止された紙幣の復活という大盤振る舞いの恩恵を受けました。しかし、重商主義政策の一環として、1765年にイギリスは北米植民地にアメリカ駐屯軍費の一部を負担させるため,イギリス議会が同地発行の新聞,証書などに最高10ポンドの印紙を貼ることにした印紙税法を制定します。この印紙税法は植民地の経済活動の重要な部分を打撃し、貿易取引に影響を与えます。また、植民地で最も明晰で影響力のある弁護士、ジャーナリスト、銀行家の多くに影響を与えます。さらに、イギリス議会が植民地に対して直接賦課した最初の「内国税」でありました。内国税というのは、本来イギリス国内でさまざまなモノやサービスに課せられる税のことです。それを植民地にも持ち込もうとするのです。

 しかし、こうした印紙税法は暴動を引き起こします。イギリスも植民地もこうした騒ぎになるとは誰も予想していませんでした。ボストンなどの町では暴動が起き、任命された切手販売人は職を辞することを余儀なくされ、合法的な取引はほとんど停止してしまいます。1765年夏、いくつかの植民地はニューヨークの会議に代表団を送ります。そこで印紙税は、選ばれた代表を通じてのみ課税されるというイギリス人の権利を侵害するものとして非難され、あわせてイギリス製品の禁輸措置という提案が採択されます。

 イギリス本国政府による印紙法の押しつけに対する反対運動は、植民地の抵抗運動を一段と強めていきます。さらにこうした抗議運動が植民地の枠を越えて拡がり、植民地13州の議会が連帯して印紙法会議を開催します。そこで、「代表なくして課税なし」というイギリス議会の原則に照らし、植民地代表のいないイギリス議会には植民地への課税することはできないと決議し、印紙法の撤廃をイギリス政府に請願します。

 イギリス内閣の交代は、課税政策の変更を促します。イギリス議会は植民地の無法状態に怒りを表すのですが、イギリス商人はイギリスの輸入の禁止を懸念していまた。グレンヴィルの後を継いだロッキンガム侯爵(Marquis of Rockingham)は、植民地の抗議に同調するためではなく、国内の理由から印紙税を廃止するように説得し、1766年に印紙法の廃止が可決されます。しかし同日、議会は宣言法(Declaratory Act)も可決します。宣言法は、議会が「いかなる場合においても植民地を統治し、立法する権限を有する」と宣言したのです。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その39 税と通貨を巡る議論

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1763年にイギリス首相に就任したジョージ・グレンヴィル(George Grenville)は、すぐに植民地での歳入を増やすことで国防費を賄おうと考えます。最初の措置は、1764年のプランテーション法、通常「歳入法(Revenue)」または「砂糖法」と呼ばれるもので、輸入された外国産糖蜜の関税をわずか3ペンスに引き下げる一方、精製糖への高い関税と外国のラム酒の禁止を関連づけたものでした。この政策は、イギリスの財務省のニーズと西インド諸島のプランターおよびニュー イングランドの蒸留業者のニーズのバランスを慎重に考慮したものでした。

 この関税措置は実施されませんでしたが、政府はイギリス人将校を配置した税関のシステムを構築し、副提督裁判所(vice-admiralty court)まで設立します。この裁判所はノバスコシア州(Nova Scotia)のハリファックス(Halifax) に置かれ、ほとんど審理される案件はありませんでしたが、原則的には地元の陪審員による裁判なので、イギリスの大事な特権を脅かすものではありました。植民地のボストンは、憲法上の理由から税の増収には反対します。こうした不安の声も聞かれましたが、植民地は概してこうしたイギリスの措置を容認しました。

 次にイギリス議会は、通貨法(1764年)を制定し、フレンチ・インディアン戦争中から残存する多くの紙幣を流通からほかすことで、植民地経済の展望に影響を与えます。この措置は、経済成長を制限するためではなく、不適正と思われる通貨を回収するために行われたものですが、戦後の困難な時期に流通通貨を著しく減少させます。このような状況はイギリス政府の対処能力の問題であることを示すものでした。

 グレンヴィルの次なる政策は、法的文書、新聞広告、船舶積荷証券など、さまざまな取引に適用される印紙税の徴収でした。植民地は正式に相談を受けますが、代替案を提示することはありませんでした。ロンドンでは、正式な異議申し立てを行った後、植民地は以前の税金と同様に新しい税金を受け入れるだろうと考えていました。ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)も同意見でした。しかし、印紙税法(Stamp Act)(1765年)は、それまでの議会のどんな措置よりも強い打撃を与えます。一部の諜報員がすでに指摘していたように、戦後の経済的困難のため、植民地は準備資金が不足していました。特にヴァジニア州の資金不足は深刻で、議会議長で州財務長官のジョン・ロビンソン(John Robinson)は、通貨法によって公式に流通が停止された紙幣を流通させて再分配します。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その38 イギリスのカナダ獲得

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帝国間の大戦でイギリスがフランスに勝利したのは、非常に大きな犠牲の上に成り立っていました。戦前は年間650万ポンド近くあったイギリス政府の支出は、戦争中は年間約1,450万ポンドに増加します。その結果、イギリスの税負担はおそらく史上最高となり、その多くは政治的に影響力のある地主階級が負担することになります。さらに、カナダという広大な領地を獲得し、諸先住民族に対しても、南と西のスペイン人に対してもイギリスの領土を保持するため、植民地の防衛費はいつまでも続くと予想されました。さらに議会は、マサチューセッツに戦費の補償として多額の資金を与えることを決議しました。そのため、イギリス世論としては、将来的な支払いの負担の一部をそれまで軽い課税と軽い統治のもとにあった植民者自身に転嫁することが合理的であると考えたのです。

 戦争の長期化によって、イギリスは広がっていた緩んだ経済状況を強化する必要がありました。戦争の過程でそうした必要性が確認されたとすれば、戦争終結はその好機となったはずでした。カナダを獲得したことで、ロンドンの政治家は、フランス占領の脅威から解放された未開拓の西方領土に責任を持つ必要がありました。イギリスはすぐに、先住民との関係全般を管理するようになります。

 1763年のイギリス王室の公布により、アパラチア山脈(Appalachian Mountains)にイギリス植民地からの入植の境界を示す線が引かれ、その先はイギリスが任命した役人を通じて厳密に先住民との貿易を行うことができるとされます。この布告は、先住民の権利を尊重したものでしたが、酋長ポンティアックを中心とする反乱の防止には間に合いませんでした。

 また、ロンドンからすれば、軍隊の駐屯の少ない西部で毛皮蒐集を住民に任せることは、経済的にも商業的にも合理的でありました。しかし、イギリス植民地からの入植の限界を示す布告は、2つの理由でイギリスの植民地主義者たちを困惑させます。それは、西部の土地への入植と投機の可能性に制限が設けられたこと、そして西部の支配権を植民地の手から引き離すことだからです。植民地の野心家たちは、この公布によって自分たちの運命を左右するような権利が失われたと考えます。

 実際、イギリス政府は、西部開拓の停止が植民地の人々の恨みを買うことを大きく見くびったのです。それがアメリカ独立戦争に至る12年間の危機を引き起こした要因の一つとなります。先住民族が大陸の内陸部に自分たちのための土地を確保しようとする努力は、イギリスの政策立案者にとっては、依然として利権を守るチャンスがあったかもしれません。ですが勝利したアメリカ合衆国を相手にすると全く効果がなくなります。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その37 インディアン市民権法と新宗教の勃興

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南北戦争後の急激な資本主義の発展のなかで、牧畜業者、鉱山業者、森林業者、鉄道業者、土地投機業者、そして農民は、部族の保留地の土地と資源に目をつけて保留地そのものを解体しようとしていました。他方、人道主義的な改革家は、インディアン部族の組織と部族文化を薄め、彼らを農民や市民として文明化し、白人市民社会に同化させることを目指しました。この経済的欲求と文明化のイデオロギーが合致して、1887年に一般土地割り当てのドーズ法(Dawes Severalty Act)が制定されます。それは、保留地の一部を先住民個人に単純所有地として割り当て、余剰地を耕作者に解放することと規定したものでした。同法によって先住民に割り当てられた総面積の数倍もの土地が白人に割り当てられました。軍事力による土地収奪から、法により土地奪取へと転換するものでした。

 その後の修正立法措置で割り当て地そのものにも賃貸制が導入されて、保留地の土地は急速に部族の手から白人の手に移りました。その結果、1887年に1億5800万エーカーであった保留地は1900年には7780万エーカーに、1934年には4900万エーカーに減少しました。1924年のインディアン市民権法(Indian Citizenship Act) によって、先住民に合衆国の市民権が与えられますが、白人市民と完全に平等になったわけではありませんでした。土地と文化を奪われつつあった西部の諸部族は、救済を宗教にもとめ、ゴーストダンス(Ghost Dance)やサンダンス(Sun Dance)、ペヨーテ信仰(Peyotism)が流行していきます。

 ゴーストダンスとは、先住民族の間におこった千年王国論的な宗教運動で、1870年にネバダ州の先住民パイユート(Paiute)のウォボカ(Wovoka)という予言者によって始められたものです。サンダンスとは、自然復活と和平祈願の最大の儀式で「聖なるパイプ」と煙草が用いられます。先住民は、煙草を吹かすことで「大いなる神秘」と会話するといわれます。ペヨーテ信仰は、伝統的なアメリカ先住民の信仰とキリスト教の混交に基づくもので、今もアメリカ、カナダ、メキシコにて最も広く根付いている土着の宗教といわれます。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その36 リトルビッグホーンの戦い

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 フォールン・ティンバーズの戦いとは、合衆国軍よる北西部領土侵略に対抗して、諸部族が大同盟を組んで挑んだインディアン戦争のことです。この戦いは、1812年戦争といわる英米戦争の際にショーニー(Shawnee)部族長テクシム(Tecumseh)によって受け継がれ、彼は部族の大同団結を提唱しますが、大望を果たせず、ハリソン将軍( William Harrison)に敗れ戦死します。

 同じ頃南部ではチェロキー族(Cherokee)などが文明化政策を受け入れて農業化や文明化への道を歩み、黒人奴隷制度も導入します。しかし、アンドリュー・ジャクソン軍(Andrew Jackson)と戦って敗れ広大な領土を奪われます。こうしてミシシッピー川以東における優位を確立した政府は、1830年にインディアン強制移住法(Indian Removal Act)を制定し、ミシシッピー川以東の諸部族に同川以西への移住を強制します。諸部族は多大の犠牲者を出しながら長い「涙の旅路」(Trail of Tears)を辿ります。

 セミノール族(Seminole)は強制移住に抵抗し黒人と結束しますが敗北します。「涙の旅路」とは、1838年にチェロキー族を、後にオクラホマ州(Oklahoma)となる地域のインディアン居留地に強制移動(Population transfer)させたときのことを指します。17,000名のチェロキー族のうち、移動途中で4,000名以上が亡くなったといわれます。

 1840年代の急激な領土膨張とゴールドラッシュ(gold rush)によって、南西部や大平原、グレートベイスン(Great Basin)や太平洋沿岸の諸部族は、押し寄せる移民者の群れと合衆国軍に始めて向き合うことになります。ゴールドラッシュとは、新しく金が発見された地へ、金脈を探し当てて一攫千金を狙う採掘者が殺到することです。コマンチ(Comanche)、アパッチ(Apache)、ナバホ(Navajo)、シャイアン(Cheyenne)、スー(Sioux)、アラパホ(Arapaho)などの部族は果敢な抵抗を開始します。

 南北戦争がおきると部族間のみならず、部族内が敵味方に分かれて戦う悲劇を強いられます。戦争中、スー族の討伐やサンドクリーク(Sandcreek)の虐殺など大平原部族への圧力が高まります。サンドクリークの虐殺とは、1864年11月にコロラド地方で、政府軍が無抵抗のシャイアン族とアラパホ族インディアンの村に対して行った無差別虐殺です。

 南北戦争後の1870年代をピークとして合衆国軍と諸部族との最後の決戦が西半分の各地で展開されます。諸部族は、1866年のフェッターマン大尉(William Fetterman)以下81名を殲滅し、1876年にカスター連隊(George Custer)を殲滅するなどの戦果を上げます。リトルビッグホーンの戦い(Battle of the Little Bighorn)でカスターは率いていた「第七騎兵隊」とともにスー族やシャイアン族に敗れるのです。しかし、軍事力の格段の違いで部族は戦いを継続できず、保留地に封じ込められます。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その35 ポンティアックの反乱

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やがて先住民族と白人の対立は避けられなくなります。入植の初期には、先住民族とヨーロッパ人が協力することもありました。例えば、プリマス植民地の入植者をスクワント族(Squanto)が援助したり、ヴァジニア州のジョン・ロルフ(John Rolfe)がパウハタン族(Powhatan)の娘ポカホンタス(Pocahontas)と半公式結婚をしたようにです。アメリカ先住民は、新しい環境で生き残るための技術を入植者に教え、入植者からは金属製の道具、ヨーロッパの布地、そして特に銃器を紹介されそれらをすぐに採用していきます。

 先住民族は、ヨーロッパ人の2つの利点である共通の書き言葉の所有や近代的な交換システムに対応すること慣れていなかったので、植民地の役人による先住民族からの土地の購入は、しばしば狡猾な土地の収奪になりがちでした。アメリカ先住民族と公平に接するよう特に努力したウィリアム・ペン(William Penn)とロジャー・ウィリアムス(Roger Williams)は、稀で例外的人物でした。

 先住民の関与が植民地主義者に与えた影響は、特にカナダをめぐるイギリスとフランス間の争いで顕著でした。フランスは毛皮を五大湖周辺に定住するヒューロン族(Huron)に依存していましたが、ニューヨーク西部とオンタリオ南部に拠点を置くイロコイ族(Iroquois)連合はヒューロン族(Huron)を制圧し、サスケハノック族(Susquehannocks)やデラウェア族(Delaware)といったヒューロン族の同盟者をペンシルベニア州へと追いやることに成功しします。この行為により、毛皮貿易の一部がフランスのモントリオール(Montreal)とケベック市(Quebec)からイギリスのオルバニー(Albany)とニューヨークに流失し、イギリスはイロコイに借りを作ることになります。

 ヨーロッパと先住民族の同盟は、ルイジアナ(Lousiana)でフランスの影響を受けたチョクトー族(Choctaws)が、フロリダでスペインの支援を受けたアパラチア族(Apalachees)とジョージアでイギリスの支援を受けたチェロキー族(Cherokees)と戦う方法にも影響を及ぼします。

 フランス・インディアン戦争(French and Indian War)は、植民地の人々の軍事的経験と自己の存在の自覚を強化しただけではあるません。先住民族であるレッド・ジャケット(Red Jacket)やジョセフ・ブラント(Joseph Brant)など、2、3カ国語を操り、先住民族とヨーロッパの競争相手との間で交渉できる指導者を輩出することになります。しかし、クライマックスとなるイギリスとフランス間の闘争は、先住民族にとって災いの始まりでありました。

 イギリスが着実に軍事的成功を収め、カナダからフランスを追放すると、先住民族はもはや、ロンドンとパリのどちらの王を支持しても、西方への入植を抑制するという外交カードを使うことができなくなります。このことを知った先住民族の中には、これ以上の侵攻に対して団結して抵抗しようと考える者も出てきます。1763年、オタワの酋長ポンティアック(Pontiac)が起こした反乱(Pontiac Rebellion)がその例です。後にヨーロッパ、そしてアメリカの権力に対して先住民族が協力して挑戦したように、この反乱だけでは終わりませんでした。

 ポンティアックの反乱は、フランス・インディアン戦争に続く五大湖地域でのイギリスの支配に不満を持った先住民族の緩い連合によって、1763年に開始されました。多くの先住民族がイギリスの兵士と入植者をこの地域から追い出すために参加しました。

アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その34 先住民族の反応

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北アメリカの支配をめぐる争いの主役は、もちろんアメリカの先住民族です。現代の歴史家はおうおうにして、アメリカ先住民とヨーロッパ人の出会いを、「新世界の発見者」が「未開人」の住む「荒野」を見つけるというような古いレンズでとらえがちです。そうではなく、異なる文化が相互作用し、より良い武器を持ったヨーロッパ人が最終的に現地の人々を征服する、というストーリーを描きます。その筋書きはお互いが相手から慣習や技術を取り入れ、協調するというものではありませんでした。

 イギリスの政策は、スペインやフランスの北アメリカ植民地支配とは大きく異なっていました。南西部に広く分布するスペインの帝国は、散在する駐屯地と伝道所に依存して、先住民族を支配下において利用しやすいように占有することに成功しました。カナダでは、フランス人は自分たちの側の先住民族を毛皮の収集者として扱い、広大な森林を事実上所有することにしました。イギリスの植民地は、やがてその強みを発揮し、先住民族の所有地から確保した広大な土地を独占的に耕作するために、農業従事者の移住を奨励するようになります。

 こうしてイギリスの植民地の役人は土地の購入から始めましたが、このような取引は、天然資源の集団または個人の「所有権」という概念そのものが異質である先住民族にとって不利に働くものでした。先住民族の代表者は必ずしも土地の所有者ではなかったのですが、「売買」が成立した後、先住民族は自分たちが狩猟や漁業の権利を放棄したことに驚き、入植者は先住民族の文化が認めない無条件の支配権を持つようになったのです。

 先住民族と白人との戦争は、クリストファー・コロンブスの上陸に始まるものです。「豊かで安い土地」を求めて白人入植者が西進するようになると、当然そこに住む先住民族との摩擦が起こります。住み慣れた領土を追われそうになり、先住民族は激しく抵抗していくです。

アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その33 パリ条約

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 1763年のパリ条約(Treaty of Paris)で、イギリスはカナダ全土、東西フロリダ、アメリカ大陸のミシシッピ川以東の全領土、カリブ海(Caribbean)のセントビンセント (St. Vincent)、トバゴ(Tobago)、ドミニカ(Dominic)を領有することになります。当時、このようなイギリスの勝利は史上最大級のものと考えられました。アメリカにおけるイギリス帝国を樹立しただけでなく、領土が大きく拡大したのです。

 しかし、この戦争に勝利したことで、イギリスは帝国の最も強力な物質的接着剤のようなものを失っていきます。それは、イギリス帝国のニーズとアメリカの植民地のニーズとが異なるため、両者に深刻な対立が生じていくのです。経済的に強力になり、文化的に区別され、政治的に着実に独立しつつある植民地は、最終的にはイギリスの帝国主義に反旗を翻すことになるのです。

 イギリスは北アメリカのヌーベルフランス(Nouvelle-France)と呼ばれていた地域で、東はニューファンドランド島(Newfoundland)から西のロッキー山脈(Rocky Mountains)まで、北はハドソン湾(Hudson Bay)から南のメキシコ湾までに大半を委譲されます。さらにイギリスは、スペイン領フロリダ、西インド諸島(West Indies)のいくつかの島、西アフリカ海岸のセネガル(Senegal)植民地、インドにおけるフランス交易地に対する優越性を獲得します。

 イギリス・フランス間の紛争は、1754年から1756年の間にイギリスがフランスの北アメリカ植民地を攻撃して、フランス商船を数百隻を拿捕したことで始まりました。これは「七年戦争」と呼ばれました。1763年2月、七年戦争の終結に際してイギリスとフランス、スペインとの間に協定が結ばれ、これによって、フランスはカナダとルイジアナをイギリスに割譲して、若干の島々と権益のほかには北アメリカ大陸における領土と覇権を失います。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その32 イギリスの勝利

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フランスは、アメリカにおけるイギリス植民地の人口において15対1で優勢で、彼ら自身を保全するために十分な備えをしていました。彼らはイギリスよりもアメリカに大きな軍事組織を持っていて、その軍隊はよりよく訓練されました。彼らはイギリス人よりも先住民族との間で軍事同盟を結ぶことに成功していました。

 最初の戦の遭遇はフランスの攻撃からでした。ジョージ・ワシントン(George Washington)はネセシティ砦(Fort Necessity)で、優勢なフランス軍に降伏し、モノンガヒラ川(Monongahela River)ではエドワード・ブラドック将軍(Gen. Edward Braddock)の全滅、オスウェゴ(Oswego)とウィリアム・ヘンリー砦(Fort William Henry)でのフランスの勝利は、イギリスにとって戦争が短期間で失敗したものかのように見えました。しかし、こうした敗北があったにせよ、イギリス軍はアメリカへ兵員と物資の供給を増やすことができました。 1758年までに、軍隊の規模は最終的に満足できる水準に達し、イギリスはより大きな戦略を実行し始めることになりました。

 イギリス軍は、セントローレンス(St. Lawrence)の支配権を獲得するための陸海軍と、タイコンデロガ砦(Fort Ticonderoga)を狙った大規模な陸軍を派遣してシャンプレーン湖(Lake Champlain)のフランス軍を排除する作戦でした。ただ、フランス軍に対するタイコンデロガ砦での最初の遠征は惨敗でした。ジェームズ・アバクロンビー将軍(Gen. James Abercrombie)は、軍隊が適切に配置される前に、15,000人のイギリス軍と植民地軍を率いてフランス軍に対して攻撃します。セントローレンスの鍵であるルイバーグ(Louisburg)へのイギリス軍の急襲は成功します。 1758年7月、ジェフリー・アマースト卿(Lord Jeffrey Amherst) は海軍の攻撃を主導し、彼の兵隊は小さな舟艇で海岸に上陸し海岸堡を確立し、ルイバーグの砦を占領しました。

 イギリスは土地を開拓し農業を行う農業植であったのに対し、フランスの北米植民は先住民との毛皮交易が当初の目的でした。フランス人の支配は、交易路となる河川の「線」や交易所、宣教師の基地、軍事要塞など「点」が中心でした。人口の面でも農地を広げ面的支配を意図するイギリス人はフランス人を圧倒していました。フランスは、藍、サトウキビ、タバコ、綿花などの商品作物の生産地として、また自国製品の輸出先としても植民地を必要としていました。イギリスは海上権確保を目指していました。

 1759年、数ヶ月にわたる散発的な戦闘の後、ジェームズ・ウルフ(James Wolfe)が率いる軍隊がモンカルム侯爵(marquis de Montcalm)の率いるフランス軍からケベック(Quebec)を奪取します。これがおそらく戦争の転機となります。1760年の秋には、イギリスはモントリオール(Montreal)を占領し、アメリカ大陸のすべてを実質的に支配することになります。イギリスが他の地域の国々を破るのにさらに2年を要したのですが、アメリカ大陸の支配権争いは決着していきます。

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