アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その21 自給農業から商業農業へ

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アメリカ各地は、次第に自給農業に依存することが少なくなり、世界市場向けの製品の栽培と製造に依存するようになります。当初は個人のニーズにしか対応していなかった土地が、経済活動の基本的な源泉となりました。独立した土地所有の農民は、特にニューイングランドと中西部植民地に多くいましたが、1750年までに開拓された土地のほとんどは、換金作物(cash crop)の栽培へと転換していきます。ニューイングランドはその土地を輸出用の肉製品の生産のために利用していきます。中部植民地は穀物の主要な生産地でした。1700年までに、フィラデルフィア(Philadelphia) は年間9,450トンを超える小麦と18,000トン以上の小麦粉を輸出しました。もちろん、南部植民地は換金作物の栽培へと密接につながります。

 サウスカロライナは、イギリスからの補助金によって、米と藍の生産に目を向けました。ノースカロライナはサウスカロライナほど市場経済を志向していませんでしたが、それでもなお、海軍物資の主要な供給地となりました。ヴァジニア州とメリーランド州は、次第にタバコの生産とそれを購入するロンドンの商人による経済的依存度を高めていきます。多くの場合、土地の一部を小麦の栽培に転用することで農業を多様化しようとした農民は無視されていきます。商人は世界のタバコの価格を完全に握るのですが、それがやがては無残な結果となります。18世紀の間、ヴァジニア州とメリーランド州の土壌は、合理的な単作システムと相まってタバコを収益性の高いものとし、十分な生産性を維持しました。

葉タバコの生産

 アメリカが自給農業から商業農業へと進化するにつれて、影響力のある商業階層がほぼすべての植民地でその存在を高めました。ボストンはニューイングランドのエリート商人の中心地であり、経済社会を支配しただけでなく、社会的および政治的権力を発揮しました。ニューヨークのジェームズ・デ・ランシー(James De Lancey)やフィリップ・リビングストン(Philip Livingston)、フィラデルフィアのジョセフ・ギャロウェイ(Joseph Galloway)、ロバート・モリス(Robert Morris)、トーマス・ウォートン(Thomas Wharton)などの商人は、職業の範囲をはるかに超えた影響力を発揮しました。

  チャールストンでは、ピンクニー(Pinckney)、ラトレッジ(Rutledge)、およびローンズ(Lowndes)の各家が、その港を通過する貿易の多くを支配していきました。強力な商人階級が存在しなかったヴァジニア州でさえ、経済的および政治的権力を持っていたのは、商人と農民の職業を最もよく組み合わさった商業農民でした。こうしてコロニーは、その商業的重要性が高まっていきます。 1700年から10年間に、植民地から毎年約265,000ポンドがイギリスに輸出され、アメリカはイギリスからほぼ同じ量を輸入しました。1760年から1770年の10年間で、その数字は、イギリスに毎年輸出される商品の1,000,000ポンド以上、イギリスから毎年輸入される1,760,000ポンドにまで上昇しました。

「注釈」 アメリカが世界の農業国として発展した基礎は、地政学的に農業に向いた国土が広がること、植民地時代の小麦やトウモロコシ、タバコの生産にあります。それらを消費国へ輸出する港にも恵まれていました。いわゆるサプライチェーンを確保していたのです。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その17 植民地行政の変化

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イギリスとアメリカとの地理的距離、アメリカ人の王室の役人に及ぼす強力な圧力、そして大規模な官僚機構が抱える非効率性は、王室の権力を弱めていきました。それによって、植民地の問題に対する地方の指導者への支持が高まっていきます。18世紀になると植民地議会は議会の権限を支配し、課税と防衛に影響を与える立法の主要な責任を果たし、最終的には王室の役人への給与を決めることになりました。

 州の指導者はまた、知事の権限にも介入するようになりました。知事は規則上では地方公務員の任命を管理し続けるのですが、実際にはほとんどの場合、地方の州の指導者の勧告に自動的に従うようになりました。同様に、王権の代理人である知事評議会は、ロンドンの王立政府の利益よりも下院の指導者の利益を反映する傾向になり、評議会は著名な州の指導者によって支配されるようになりました。

 こうして18世紀半ばまでに、アメリカにおけるほとんどの行政権力は、王室の役人ではなく、州の役人の手に集中していきました。こうした州の指導者は、例外なく彼ら構成員の利益をどの王室の役人よりも忠実に大事にしていきました。ですが当時の州の統治は、現代の基準からすれば、到底民主的なものではなかったようです。 一般的に指導者の社会的名声や行政力は、経済的地位によって決定される傾向がありました。植民地時代のアメリカの経済的資源は、ヨーロッパほど不均衡ではありませんでしたが、比較的少数の人々の手によって支配されていました。

Chesapeake Bay

 ヴァジニア州とメリーランド州のチェサピーク湾(Chesapeake Bay)社会、特にブルーリッジ山脈(Blue Ridge Mountains) の東の地域では、農業生産者が植民地の経済生活のほぼすべての面で支配するようになりました。これらの生産者には、少数の著名な商人と弁護士が加わり、地方政府の最も重要な機関である郡裁判所と州議会の2つを支配しました。自由な成人男性の大部分、すなわち80パーセントから90パーセントの男性が行政のプロセスに参加できたにも関わらず、少数の裕福な人々の手に並外れた権力が集中したのは驚きです。それでもチェサピーク社会の一般市民、およびほとんどの植民地の市民は、彼らが「より良い」と考えていた人々に権限を委ねました。

 権力を少数の人々の手に集中させることを可能にした社会倫理は、とても民主的なものとはいえませんでしたが、少なくともヴァジニア州とメリーランド州では、これらの社会の人々が、指導者に不満を持っていたという証拠はほとんど残っていません。一般的に人々は、地元の役人が行政を担うものであると信じていたようです。

 カロライナ州では、米と藍の生産者である小さな集団が富の多くを独占していました。ヴァジニア州やメリーランド州と同様に、生産者は社会的なエリート集団を構成するようになりました。原則として、カロライナでは、ヴァジニア州とメリーランド州のような寡頭制のような責任ある統治の伝統を持っていなかったため、生産者が不在地主や知事になる傾向がありました。こうした者は、生産現場や政治的責任から離れて、活気溢れる貿易の中心地となっていたチャールストン(Charleston)で過ごすことが多かったようです。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その13 カロライナへの入植

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イギリス帝国は1629年の当初に勅許をだして、カロライナ(Carolina)の領土に助成金を拠出していました。イギリスの基準から並外れた富と権力を持った8名の男性が、実質的にこのカロライナを植民地化し始めたのは1663年でした。所有者はカロライナの温暖な気候で絹を栽培しようとしましたが、この貴重な商品を生産するためのあらゆる試みは失敗します。さらに入植者をカロライナに引き付けることは困難であることがわかってきます。

Map of Carolina

 先住民族との一連の激しい争が鎮静化した後、人口が大幅に増加し始めたのは1718年になってからでした。入植のパタンは2つありました。ノースカロライナ(North Carolina) は、複雑な海岸線によってヨーロッパとカリブ海(Caribbean)の貿易から大部分が切り離されていましたが、中小規模の農場のコロニーは発展しました。サウスカロライナ(South Carolina) は、カリブ海とヨーロッパの両方と密接な関係が生まれ、米を生産し1742年以降は世界市場向けに藍 (indigo)を生産しました。

 ノースカロライナとサウスカロライナへの初期の入植者は、主に西インド(West Indian)の植民地からやってきました。しかし、この移住のパタンは、ノースカロライナ州ではそれほど特徴的ではありませんでした。ノースカロライナ州では、多くのヴァジニア州民が自然に南部へ移住してきたのです。

1669年にアンソニー・クーパー(Anthony Cooper)、後のシャフツベリー卿(Lord Shaftesbury) が哲学者ジョン・ロック(John Locke)の助言を受けて起草した基本憲法は、カロライナで最初の政府の枠組みとなります。しかし、制約が多く封建的な内容のためにほとんど効果がありませんでした。基本憲法は1693年に放棄され、土地所有者の権限を弱め、州議会の権限を高める枠組みにとって代わられました。 1729年、主に所有者が権利を守ろうと要求した問題に対処できなかったため、カロライナはノースカロライナとサウスカロライナという別々の直轄植民地に分離しました。

 1663年に、がアメリカ大陸における新しい植民地を始めるための土地勅許を与え、それがノースカロライナの領域を規定していまする。チャールズ二世はその地を、「カロライナ」と命名します。チャールズのラテン語名はカロラス(Carolus)です。

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