南部では、復興期は無秩序を伴いながらも再建しようとしました。南部の白人は、アフリカ系アメリカ人を無視しようとし、市民権をほとんど拡大せず、社会的平等を断固拒否していました。他方、アフリカ系アメリカ人は完全な自由と、何よりも自分たちの土地を欲していました。必然的に両者の間に衝突が頻発しました。暴動に発展したものもあり、アフリカ系アメリカ人の指導者個人に対するテロ行為が目立ちました。
こうした混乱の中で、南部の白人と黒人は、農場を再び稼働させ、生計を立てる方法を模索し始めていきます。実際、再建時代の最も重要な出来事は、大々的に宣伝された政治的な争いではなく、南部社会で起こったゆっくりとした、ほとんど気づかないほどの変化でありました。アフリカ系アメリカ人は合法的に結婚できるようになり、従来型の安定した家族単位を築きました。彼らは静かに白人教会から離脱し、独自の宗教組織、黒人教会を形成し、それがアフリカ系アメリカ人社会の中心的存在となっていきます。土地もお金もないため、ほとんどの自由民は白人の主人のために働き続けなければなりませんでした。しかし、彼らはギャングとなったり、奴隷のように農園主によって看守されて暮らすことを嫌悪するようになりました。
南部の大部分では、小作は次第に労働の仕組みとして受け入れられるようになります。資本不足の農園主は、現金での賃金を支払う必要がないため、この制度を好みました。アフリカ系アメリカ人は、借りた土地に個々の小屋で住むことができ、何を植えるか、どのように耕すかについてある程度の自由があったので、この制度を好みました。しかし、再建時代を通じて、この地域全体は絶望的に貧しく、1860年代後半に相次いだ凶作と1870年代の農産物問題は、白人と黒人の双方に打撃を与えます。
「もはや奴隷ではなくなった」黒人は依然として農場の労働力として重要でした。債務や契約で拘束されている場合を除き、どの農場で働くか、どこを生活の場とするかの選択する権利を持っていました。1877年に連邦軍が南部を撤退し「再建」の時代が終わると、様々な形で黒人差別が合法化されていくことになります。差別は陰に陽に根強く残ります。それが1960年代の公民権運動まで続きます。