アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その39 税と通貨を巡る議論

注目

1763年にイギリス首相に就任したジョージ・グレンヴィル(George Grenville)は、すぐに植民地での歳入を増やすことで国防費を賄おうと考えます。最初の措置は、1764年のプランテーション法、通常「歳入法(Revenue)」または「砂糖法」と呼ばれるもので、輸入された外国産糖蜜の関税をわずか3ペンスに引き下げる一方、精製糖への高い関税と外国のラム酒の禁止を関連づけたものでした。この政策は、イギリスの財務省のニーズと西インド諸島のプランターおよびニュー イングランドの蒸留業者のニーズのバランスを慎重に考慮したものでした。

George Grenville

 この関税措置は実施されませんでしたが、政府はイギリス人将校を配置した税関のシステムを構築し、副提督裁判所(vice-admiralty court)まで設立します。この裁判所はノバスコシア州(Nova Scotia)のハリファックス(Halifax) に置かれ、ほとんど審理される案件はありませんでしたが、原則的には地元の陪審員による裁判なので、イギリスの大事な特権を脅かすものではありました。植民地のボストンは、憲法上の理由から税の増収には反対します。こうした不安の声も聞かれましたが、植民地は概してこうしたイギリスの措置を容認しました。

 次にイギリス議会は、通貨法(1764年)を制定し、フレンチ・インディアン戦争中から残存する多くの紙幣を流通からほかすことで、植民地経済の展望に影響を与えます。この措置は、経済成長を制限するためではなく、不適正と思われる通貨を回収するために行われたものですが、戦後の困難な時期に流通通貨を著しく減少させます。このような状況はイギリス政府の対処能力の問題であることを示すものでした。

 グレンヴィルの次なる政策は、法的文書、新聞広告、船舶積荷証券など、さまざまな取引に適用される印紙税の徴収でした。植民地は正式に相談を受けますが、代替案を提示することはありませんでした。ロンドンでは、正式な異議申し立てを行った後、植民地は以前の税金と同様に新しい税金を受け入れるだろうと考えていました。ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)も同意見でした。しかし、印紙税法(Stamp Act)(1765年)は、それまでの議会のどんな措置よりも強い打撃を与えます。一部の諜報員がすでに指摘していたように、戦後の経済的困難のため、植民地は準備資金が不足していました。特にヴァジニア州の資金不足は深刻で、議会議長で州財務長官のジョン・ロビンソン(John Robinson)は、通貨法によって公式に流通が停止された紙幣を流通させて再分配します。

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アメリカ合衆国建国の歴史 その38 砂糖法と通貨法

入植者にさらに深刻な影響を及ぼしたのは、イギリスの新たな歳入財政政策でした。イギリス政府は、拡大する帝国を支えるため、もっと多くの資金を必要とすると同時に、国内では納税者の不満の増大に直面していました。植民地が自らの防衛の費用を負担することは、政府にとって十分に妥当な政策だと考えられました。イギリス議会が新たに税金を徴収することによって、植民地の自治を圧迫していきます。

Sugar Act

課税の第一歩として、1733年の糖蜜法(Molasses Act)に代わって、1764年に砂糖法 (Sugar Act)が制定されます。糖蜜法とは、アメリカ植民地に対して外国領産糖蜜・砂糖の輸入に課した高額な関税法のことです。これに代わる砂糖法は、外国製ラムの輸入を違法とし、あらゆる地域から入る糖蜜に控えめな関税を課し、またワイン、絹、コーヒーなど多くのぜいたく品に課税することを定めました。イギリス政府は糖蜜法を精力的に執行します。税関吏は、職務の効果を上げることを命じられます。アメリカ海域を航行する英国の軍艦は密輸業者を捕獲するよう指示され、イギリスの役人は、「家宅捜索令状」によって、疑わしい施設を捜索することができました。

Sugar Cane

砂糖法が課した関税とその執行のための措置は、いずれもニューイングランドの商人たち仰天させます。彼らは、たとえ少額であっても関税を払えば、事業に壊滅的な影響が及ぶと主張します。商人、議会、そして町民会が、この法律に抗議していきます。植民地の弁護士は、「代表なき課税」(Taxation without representation)に対して抗議します。イギリス議会への代表権がないのにイギリスの国税を課税することは不合理と主張します。この「代表なき課税」というスローガンは、多くのアメリカ人に、母国によって抑圧されているという実感を与えていきます。

その後、1764年に、イギリス議会は「今後、国王陛下の植民地で発行される紙の信用証券を貨幣とすることを禁じるため」に、通貨法(Currency law)を制定します。アメリカの13植民地すべての通貨制度を完全に支配しようとするのです。通貨法はジョージ3世の治世中にイギリス政府によって可決された最も影響力のあるものといわれました。