アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その24 植民地時代の知的文化の発展

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 アメリカが生んだ科学の天才は、ペンシルベニア州のジョン・バートラム(John Bartram)でした。彼は、新大陸で重要な植物データを収集し分類します。 1744年に設立されたアメリカ人文科学協会(American Philosophical Society)は、アメリカの優れた学術団体として知られていました。アメリカで最初のプラネタリウムを建設した天文学者はデビッド・リッテンハウス(David Rittenhouse)でした。ニューヨーク州副知事のカドウォールーダー・コールデン(Cadwallader Colden)は、植物学者および人類学者としての業績が、おそらく政治家としての業績を上回っていたといわれます。

 社会改革の多くの分野のパイオニアであり、植民地時代のアメリカの物理学者の第一人者の一人であるベンジャミン・ラッシュ(Benjamin Rush)は、人文科学協会の有力な会員の1人でした。人文科学協会の創設者の一人にベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)がいました。彼は、電気の流れに関する実験で主要な理論的進歩を発表した数少ない科学者の一人となりました。他に熱効率のよいストーブの製造とか避雷針の開発などの応用研究でも知られています。

Benjamin Franklin

 アメリカ独立宣言の起草委員の一人であったベンジャミン・フランクリンの名言はいろいろあります。「どんな愚かな者でも他人の短所を指摘できる。そして、たいていの愚かな者がそれをやりたがる」、「時間を浪費するな、人生は時間の積み重ねなのだから」、「 知識への投資がいつの世でも最高の利子を生む」、「友人はゆっくり選べ、変えるにはさらにゆっくりとやれ」、「生きるために食べろ、食べるために生きるな」、「財布が軽けりゃ、心は重い」 次の言葉は含蓄があります。「もし財布の中身を頭につぎこんだら、誰も盗むことはできない。知識への投資がいつの世でも最高の利子を生む」という名言です。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その22 「救済された」移民

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20世紀初期の歴史学者、フレデリック・ターナー(Frederick  Turner)は、彼が1893年に著した「フロンティア・テーゼ」(Frontier Thesis)で、「アメリカの民主主義は自由な土地の豊富さの結果である」と主張しています。この主張は、長年真剣に討議され修正はされてきましたが、豊富な処女地開拓や労働者の不足が原因で、初期の植民地時代おける法制や制約が緩和されていたというのがターナーの主張です。イギリスの新世界における「プランテーション」の成功への最も簡単な道が、輸出作物の栽培にあることが明らかになると、農業労働に対する絶え間ない需要が生まれ、奴隷制を除いて、厳格な階層的な社会秩序が危うくなることになります。

 すべての植民地では、国王、所有者、または公認企業によって直接統治されているかどうかにかかわらず、入植者を引き付けることが不可欠でした。知事が最も豊富に提供したのは土地で、そのため時には数百以上の宗教的なコミュニティに多額の助成金が交付されていきます。時には、連れてきた家族ごとに非常に「頭割の権利」という文字通り一人当たりシステムで裕福な男性に土地が割り当てられました。イギリス人や他のヨーロッパ人は農場を完全に購入する手段を持っていなかったので、大規模な土地を与えられた者とって、農場の単純な売却は賃貸よりも一般的ではありませんでした。

 しかし、個人事業主によって必要な仕組みが整備され、それが労働力の移動を容易にしました。年季奉公として知られている契約労働の仕組みもありました。その下で、新移住者は、通常は7年間の土地所有者とのサービス期間でサインし、大西洋を渡って連れてきた船長への乗船賃の返済の見返りとして彼らを働かせるのでした。そのような移民は「救済された者」(redemptioners)とか「贖われた者」と呼ばれていました。

 契約期間が終わりになると、年季奉公は多くの場合、まだ未開拓の地域にある50エーカー以上の土地の所有権である「自由会費」で植民地自体から報われることになります。この幾分聖書に書かれてあるような移民の前資本主義システムは、熟練労働者の供給に追加された経済的および社会的ツールである見習いとか徒弟のようなものでした。見習い制度とは、使用人が思春期前の少年を職人になるように「縛り付け」、自分の家に連れて行き、そこで代理親として少年に技術を教えることでした。 女の子は、将来母親となるように「家政婦」とされました。年季奉公と見習いを監督するのが使用人の任務でありました。使用人によって寛大であるか、厳しいかは異なりました。労働が厳しいときは、逃亡する逃亡するのが一般的でした。厳しい雇い主が多くいたのは間違いありません。

John Punch

ヴァジニアに連れて来られた最初のアフリカ人などは、年季奉公として働いていたようです。 1640年代に植民地で最初の黒人奴隷となったジョン・パンチ(John Punch)のことです。パンチは二人の仲間とともにメリーランドに逃亡しますが、捕らえられ裁判にかけられます。彼らは異なる判決を受けまが、パンチは終身の奴隷となり、他の二人は期限付きの年季奉公という判決となりました。

注釈」 DNAの検査結果により、元大統領のバラク・オバマ(Barack Obama)は、ジョン・パンチの12代目の子孫といわれます。1950年にノーベル平和賞を受賞したアメリカの政治外交家ラフフ・バンチ(Ralph Bunche)もパンチの父方の子孫といわれます。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その16 王室任命の知事と権限

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イギリスの王室統治機構に加えて、アメリカにはイギリスの重商主義帝国の権威を代表し、植民地の内政の監督責任を持つ多くの王室の役人がいました。しかし、アメリカ諸州の政治における王権の弱点は顕著でした。一部の地域、特に17世紀のニューイングランドの企業植民地やその他の植民地では、王室に責任のある知事がおらず、王権を行使することはありませんでした。これらの植民地に王室の知事がいないことは、貿易規制の施行に特に悪影響を及ぼしました。

 実際、ニューイングランドの政治的および商業的活動に対する王室の統治の欠如から、貿易委員会は1684年にマサチューセッツ湾憲章を覆し、マサチューセッツを他のニューイングランド植民地およびニューヨークとともに、ニューイングランド自治領に統合するようにしました。植民した人々が1688年のイギリスの名誉革命(Glorious Revolution) の混乱に乗じて自治領統治計画を覆すことに成功すると、王室はその利益を守るためにマサチューセッツに王室知事を設置することになりました。

Massachusetts Colony

 王室任命の知事がいる植民地の数は1650年の1つから1760年に8つに増えました。王室は、その政策が確実に実施されるようにする仕組みを備えていました。枢密院(Privy Council)は、アメリカの各王立知事に、州の権限の範囲を細かく定義する一連の指示を出しました。州知事は、州議会をいつ召集するかを決定し、議会を閉会し、または解散し、議会によって可決された法律を拒否する権限を有することになっていました。植民地の統治以外の場でも知事の権限は大きいものがありました。

 ほとんどの直轄植民地では、州知事は植民地議会の上院の構成、財務長官、司法長官、およびすべての植民地裁判官などの重要な地方公務員を任命できました。さらに、知事は地方行政機関に対して多大な権限も持っていました。地方行政の主要な公務員であった郡裁判所の役人は、ほとんどの直轄植民地の知事によって任命されました。したがって、知事はアメリカのすべての行政機関を直接的、間接的に統治することができたのです。

 大英帝国は、北アメリカ大陸の植民地化と統治のために、保護貿易主義をとり、さまざまな行政機構の整備をはかります。しかし、次第にその支配は複雑化し、やがてほころびが出始めます。

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