アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その19 黒人奴隷と移民の増大

注目

アメリカ植民地の地方行政自治の浸透は、当然ながらイギリス帝国内における自治の傾向を反映したものでした。1650年の植民地の人口は約52,000人でした。1700年は約250,000人となり、1760年には170万に近づいていきました。 ヴァジニア州は1700年の約54,000人から1760年には約340,000人に増加しました。

 ペンシルベニア州は1681年の約500人の入植者で始まり、1760年までに少なくとも25万人となりました。さらにアメリカの他の都市も成長し始めました。1765年までにボストンは15,000人に達します。ニューヨークは16,000〜17,000人、植民地で最大の都市であるフィラデルフィア(Philadelphia)は約20,000人でした。

 人口増加の一部は、奴隷として連れて来られたアフリカ人移民の結果でした。17世紀には、奴隷の人口はごく少数でした。18世紀半ばまでに南部の入植者は、自分たちの農園によって生み出された利益は、奴隷労働に必要な比較的大きな初期投資を賄えることを知ります。それによって奴隷貿易の量は著しく増加しました。ヴァジニア州では、奴隷人口は1670年の約2,000人から1715年にはおそらく23,000人に跳ね上がり、アメリカ独立戦争の前夜には150,000人に達しました。サウスカロライナの奴隷人口はさらに劇的な増加でした。1700年には、およそ2,500人以下の黒人がいましたが、1765年までに80,000〜90,000人になり、人口比では黒人は白人を約2対1と上回っていました。

Slave Trade

 アメリカ大陸に自発的に移住してきた人々を惹き付けた魅力の1つは、安価な耕作地を手に入れることができることでした。開拓者の西部への移住では、17世紀初頭にはアメリカ全土が開拓地であり、18世紀までには開拓地は海岸線から15〜320 kmの範囲にありました。これはアメリカがさらに発展する歴史の大きな特徴です。1629年から1640年までに、イギリスのピューリタンがアメリカに大量に移住してきました。17世紀を通して、移民のほとんどはイギリス人でした。

 しかし、18世紀から20世紀になると、主にドイツ、プファルツ州(Palatinate)のラインラント(Rhineland)からの人の波がアメリカにやって来ました。1770年までに225,000人から250,000人のドイツ人がアメリカに移住し、その70%以上が中部植民地に定住しました。寛大な土地政策と宗教的寛容の精神が彼らの生活をより快適にしたといわれます。現在も中西部といわれるウィスコンシン、ミシガン、イリノイ、アイオワ、オハイオ、インディアナにはこうした人々の子孫が住んでいます。

Immigrants from Ireland

 1713年以降に大規模に始まり、アメリカ独立戦争を過ぎても続いたスコットランドーアイルランド系アメリカ人とアイルランド系移民の人口は、より均等に分布していました。1750年までに、この両方の人々は、ほぼすべての植民地の西部で見られるようになりました。しかし、ヨーロッパ人がより大きな経済的機会を求めたあらゆる地帯での独立と自給自足の探求という行為は、土地を占有する先住民族との悲劇的な紛争につながりました。ほぼすべての場合、ヨーロッパ人は、土着生活や固有の文化を主張する先住民族を尊重せず、大陸の先住民族を辺境の地へ追いやることになります。

注釈」 今もアメリカでは奴隷制の責任を問う声が広がっています。2008年に下院で、2009年に上院で奴隷制や人種隔離への謝罪を決議しています。奴隷貿易の港だったサウスカロライナ州チャールストンは2018年6月に市として奴隷取引に関与した過去を謝罪しました。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その18 タウンミーティング

注目

チェサピーク社会とカロライナ社会の西部地域には、独自の特徴がありました。統治の伝統は少なく、土地と富の蓄積はそれほど顕著ではなく、社会的階層制はそれほど堅固ではありませんでした。一部の地域では、東部における規制や統治機構に対抗し、それが紛争につながります。ノースカロライナ州とサウスカロライナ州の両方で、東部の支配階級のエリートによる無反応な姿勢に対して、武装した争いが噴出しました。しかし、18世紀の中盤になると多くの人々が富と社会的名声を蓄積し、ノースカロライナ州とサウスカロライナ州は東部の州と同様に発展していきます。

Town meeting

 ニューイングランドの社会はより多様であり、統治機構は南部の機構に比べて寡頭的ではありませんでした。ニューイングランドでは、タウンミーティング(Town meeting) といった市民参加の行政が、郡(county)裁判所の狭い基盤を超えて、州政府への関わりを拡大するのに役立ちました。州議会の議員を選出したタウンミーティングは、ほぼすべての自由な成人男性に開かれていました。それにもかかわらず、比較的少数の男性グループがニューイングランドの州政府を支配しました。南部と同様に、高い職業的地位と社会的名声のある男性は、それぞれの植民地の指導的地位に深くつながっていました。ニューイングランドでは、商人、弁護士、そして少ないながら聖職者が社会的および政治的エリートの大部分を占めていました。

 中部植民地における社会的および統治的な仕組みは、他のどの地域よりも多様でした。ニューヨークにおいて地主(manor)や大地主が持っていた広範な統治の仕組みは、多くの場合、非常に封建的な制度となっていました。大きな邸宅の入居者は、しばしば邸宅の大土地所有者からの影響を逃れることが不可能であることを理解していきます。司法行政、代表者の選挙、税金の徴収は、しばしば邸宅内で行われました。結果として、大土地所有者は、途方もないほどの経済的および政治的権限を行使しました。

 1766年、ニューヨーク市北方の田園地帯で、リビングストン家(Livingston)の荘園を中心に小作人の暴動が拡がりました。この大きな反乱は、大地主に向けられた短期間での爆発であり、中産階級の間で広まった不満の兆候でした。対照的に、ペンシルベニア州の統治機構は、アメリカの他のどの植民地よりも開放的かつ双方向的でした。一院制の立法府は、強力な知事評議会によって科せられた制約から解放され、ペンシルベニアが王立と所有者からの影響から比較的独立していきました。この事実は、初期のクエーカー教徒の入植者の寛容で比較的平等主義的な特徴、その後の多数のヨーロッパ人の移民と相まって、ペンシルベニアの社会的および統治的機構を他のどの植民地よりも民主的なものとしましたが、同時に派閥も形成することになりました。

注釈」 タウンミーティングの伝統は、今も小さな街で見られます。予算とか税金、学校経営、道路や下水整備、ゴミ処理、警察、消防、公園管理、職員の採用など地元の課題が町民の参加で話し合われます。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その17 植民地行政の変化

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イギリスとアメリカとの地理的距離、アメリカ人の王室の役人に及ぼす強力な圧力、そして大規模な官僚機構が抱える非効率性は、王室の権力を弱めていきました。それによって、植民地の問題に対する地方の指導者への支持が高まっていきます。18世紀になると植民地議会は議会の権限を支配し、課税と防衛に影響を与える立法の主要な責任を果たし、最終的には王室の役人への給与を決めることになりました。

 州の指導者はまた、知事の権限にも介入するようになりました。知事は規則上では地方公務員の任命を管理し続けるのですが、実際にはほとんどの場合、地方の州の指導者の勧告に自動的に従うようになりました。同様に、王権の代理人である知事評議会は、ロンドンの王立政府の利益よりも下院の指導者の利益を反映する傾向になり、評議会は著名な州の指導者によって支配されるようになりました。

 こうして18世紀半ばまでに、アメリカにおけるほとんどの行政権力は、王室の役人ではなく、州の役人の手に集中していきました。こうした州の指導者は、例外なく彼ら構成員の利益をどの王室の役人よりも忠実に大事にしていきました。ですが当時の州の統治は、現代の基準からすれば、到底民主的なものではなかったようです。 一般的に指導者の社会的名声や行政力は、経済的地位によって決定される傾向がありました。植民地時代のアメリカの経済的資源は、ヨーロッパほど不均衡ではありませんでしたが、比較的少数の人々の手によって支配されていました。

Chesapeake Bay

 ヴァジニア州とメリーランド州のチェサピーク湾(Chesapeake Bay)社会、特にブルーリッジ山脈(Blue Ridge Mountains) の東の地域では、農業生産者が植民地の経済生活のほぼすべての面で支配するようになりました。これらの生産者には、少数の著名な商人と弁護士が加わり、地方政府の最も重要な機関である郡裁判所と州議会の2つを支配しました。自由な成人男性の大部分、すなわち80パーセントから90パーセントの男性が行政のプロセスに参加できたにも関わらず、少数の裕福な人々の手に並外れた権力が集中したのは驚きです。それでもチェサピーク社会の一般市民、およびほとんどの植民地の市民は、彼らが「より良い」と考えていた人々に権限を委ねました。

 権力を少数の人々の手に集中させることを可能にした社会倫理は、とても民主的なものとはいえませんでしたが、少なくともヴァジニア州とメリーランド州では、これらの社会の人々が、指導者に不満を持っていたという証拠はほとんど残っていません。一般的に人々は、地元の役人が行政を担うものであると信じていたようです。

 カロライナ州では、米と藍の生産者である小さな集団が富の多くを独占していました。ヴァジニア州やメリーランド州と同様に、生産者は社会的なエリート集団を構成するようになりました。原則として、カロライナでは、ヴァジニア州とメリーランド州のような寡頭制のような責任ある統治の伝統を持っていなかったため、生産者が不在地主や知事になる傾向がありました。こうした者は、生産現場や政治的責任から離れて、活気溢れる貿易の中心地となっていたチャールストン(Charleston)で過ごすことが多かったようです。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その16 王室任命の知事と権限

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イギリスの王室統治機構に加えて、アメリカにはイギリスの重商主義帝国の権威を代表し、植民地の内政の監督責任を持つ多くの王室の役人がいました。しかし、アメリカ諸州の政治における王権の弱点は顕著でした。一部の地域、特に17世紀のニューイングランドの企業植民地やその他の植民地では、王室に責任のある知事がおらず、王権を行使することはありませんでした。これらの植民地に王室の知事がいないことは、貿易規制の施行に特に悪影響を及ぼしました。

 実際、ニューイングランドの政治的および商業的活動に対する王室の統治の欠如から、貿易委員会は1684年にマサチューセッツ湾憲章を覆し、マサチューセッツを他のニューイングランド植民地およびニューヨークとともに、ニューイングランド自治領に統合するようにしました。植民した人々が1688年のイギリスの名誉革命(Glorious Revolution) の混乱に乗じて自治領統治計画を覆すことに成功すると、王室はその利益を守るためにマサチューセッツに王室知事を設置することになりました。

Massachusetts Colony

 王室任命の知事がいる植民地の数は1650年の1つから1760年に8つに増えました。王室は、その政策が確実に実施されるようにする仕組みを備えていました。枢密院(Privy Council)は、アメリカの各王立知事に、州の権限の範囲を細かく定義する一連の指示を出しました。州知事は、州議会をいつ召集するかを決定し、議会を閉会し、または解散し、議会によって可決された法律を拒否する権限を有することになっていました。植民地の統治以外の場でも知事の権限は大きいものがありました。

 ほとんどの直轄植民地では、州知事は植民地議会の上院の構成、財務長官、司法長官、およびすべての植民地裁判官などの重要な地方公務員を任命できました。さらに、知事は地方行政機関に対して多大な権限も持っていました。地方行政の主要な公務員であった郡裁判所の役人は、ほとんどの直轄植民地の知事によって任命されました。したがって、知事はアメリカのすべての行政機関を直接的、間接的に統治することができたのです。

 大英帝国は、北アメリカ大陸の植民地化と統治のために、保護貿易主義をとり、さまざまな行政機構の整備をはかります。しかし、次第にその支配は複雑化し、やがてほころびが出始めます。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その15 保護貿易主義と航海条例

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アメリカ植民地に対するイギリスの政策は、必然的に国内政治の影響を受けました。 17世紀と18世紀のイギリスの政治は決して安定していなかったので、当時のイギリスの植民地政策が明確で一貫して発展しなかったことは驚くべきことではありませんでした。植民地化の前半世紀の間、植民地自体が非常に混乱していたため、イギリスが賢い植民地政策を確立することはさらに困難でした。

 政策目的の多様性と植民地の統治構造のために、イギリスがヴァジニア、メリーランド、マサチューセッツ、コネチカット、ロードアイランドが、帝国の全体的な計画にどのような役割を果たすかを予測することはほぼ不可能でした。しかし、1660年までにイギリスは帝国にとって高い利益をもたらす方策で再編成するための最初の一歩を踏み出します。すなわち、1660年に航海条例(Navigation Acts)が成立し、1651年にはその条例を一過的ながら修正し追加したことです。

 航海条例によってイギリス本土、またはイギリスの植民地に向かう商品は、原産地に関係なく、イギリス船でのみ出荷すること、それらの船員の4分の3はイギリス人であると規定しました。また、砂糖、綿、タバコなどの「特定物品」はイギリスにのみ出荷され、他の国との貿易は禁止されていました。この規定は、ヴァジニア州とメリーランド州に特に大きな打撃を与えることになります。これらの2つの植民地は、イギリスのタバコ市場を独占し、他の場所でタバコを販売することを禁じられていました。

 1660年の航海条例は、イギリスの商業帝国全体を保護するには不十分であることが判明し、その後、他の航海条例が可決され貿易システムが強化されました。 1663年に議会は、植民地に向かうヨーロッパの商品を運ぶすべての船舶が関税を支払うように、最初にイギリスの港を通過することを要求する法律を可決しました。貿易商が特定の物品を沿岸貿易で植民地から別の植民地に輸送し、それから外国に運ぶことを防ぐために、1673年に議会は、貿易商がそれらの商品がイギリスだけに運ばれることの保証金を支払うことを要求しました。

Anglo-Dutch Wars

 さらに、1696年に議会はイギリスの重商主義政策を監督するために貿易委員会を設立し、植民地総督が貿易規制の施行を保証する枠組みを設置し、航海条例に違反した人々を起訴するためにアメリカに次席的な裁判所を設置します。 全体として、こうしたイギリスへの統合を求める施策は成功しますが、他方でかなりの植民地貿易がイギリスの規制を回避していきます。それにもかかわらず、イギリスが17世紀後半から18世紀半ばまでに、アメリカの植民地により大きな商業的、および政治的秩序を確立することに部分的に成功したことは明らかです。

 航海条例は、広義には「貿易および航海条例」とも呼ばれ、他国間および自国の植民地でのイギリスの船舶、海運、貿易、および商取引を開発、促進、および規制する一連のイギリス法です。この法律は植民地貿易への外国人の参加を制限しました。やがてオランダなどとの衝突が起こります。英蘭戦争(Anglo-Dutch War)です。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その14 ジョージアのサバンナ

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博愛主義者の集まりであるフリーメイソン(Freemason)という友愛結社の会員であったイギリス人軍人のジェームズ・オグルソープ (James Oglethorpe)は、負債のために苦しんでいた人々の移住先を築こうと、ジョージア(Georgia)植民地のサバンナ(Savannah)にやってきます。オグルソープの計画は、投獄された債務者をジョージアに移送し、そこで彼らを労働によって更生させて、そのことによって所有者は利益を上げることができました。実際にジョージアに定住した人々や貧しい債務者でなかった多くの人々は、非常に制約の多い経済的および社会的システムに遭遇します。

Old Savannah

 オグレソープと彼のパートナーは、個々の土地所有の規模を500エーカー(約200ヘクタール)に限定し、奴隷制を禁止し、ラム酒の飲酒を禁止し、相続制度によって大規模な土地の蓄積を制限しました。こうした規則は考え方としては高潔でしたが、進取の気性に富んだ入植者と所有者との間にかなりの緊張を生み出しました。さらに、経済は植民地を更に発展させようとする人々の期待に応えていきませんでした。ジョージア州の絹生産は、カロライナ州と同様に収益性の高い作物とはなりませんでした。

 入植者は植民地の政治組織にも不満を持っていました。 土地の所有者は、理想となるような実験を綿密に実施することには主たる関心を持っていましたが、地元に自治組織をつくらせようとはしませんでした。 所有者の政策に対する抗議が高まるにつれ、1752年の王室が植民地の支配権を握ります。 その後、入植者が不満を持っていた奴隷制度を廃止しようとする制限が解除されました。

 フリーメイソンとは、中世のイギリスで生まれ、もともと石工職人(mason)から成る団体であったようです。その名残として、石工の道具であった直角定規とコンパスがシンボルマークとして描かれています。当時、建築学や職人の社会的地位は高かったようです。やがて建築に関係のない貴族、紳士、知識人が加入し組織が拡大します。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その10 ニューアムステルダム

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ニューネーデルラント (New Netherland) は、1624年にオランダ西インド会社(West India Company)によってオレンジ砦(Fort Orange)、現在のアルバニー(Albany) に設立されます。その設立は、17世紀前半のオランダの拡大プログラムの1つにしかすぎませんでした。 1664年、イギリス人はニューネーデルラントの植民地を占領し、チャールズ二世(Charles II)の兄弟であるヨーク公爵(Duke of York)が、ジェームズ(James)という名を改名したニューヨーク(New York)を統治下におきました。毎年、王への贈呈していた40匹のビーバーの毛皮の見返りに、ヨーク公爵と彼の知事理事会は、植民地の支配に強大な裁量が与えられました。

1650年代のニューアムステルダム

 ヨーク公爵への助成金は代議員会では協議しましたが、公爵は代議員会を召集することを法的に義務付けられておらず、実際には1683年まで召集しませんでした。植民地に対する公爵の関心は主に経済的であり、政治的なものではなかったのですが、彼はニューヨークから経済的利益を得るための努力は無駄であることがわかります。先住民族やいろいろな侵入者もどきは、ニューヨークにおいて脱税に成功し、ヨーク公爵や代議員を苛立たせました。実のところオランダ人は、1673年にニューヨークを奪還し1年以上治めるという事態となりました。

 1685年2月、ヨーク公爵は自分自身がニューヨークの所有者であるだけでなく、イングランドの王となっていることも知ります。これにより、ニューヨークの地位は私有化された土地から直轄植民地に変わります。 1688年にニューイングランドとニュージャージーの植民地とともにニューヨークの植民地がニューイングランドの自治権の一部になっていくように、王室による統合化の政策は加速されていきます。 1691年、ロングアイランドに住むドイツの商人であるジェイコブ・ライスラー(Jacob Leisler) は、副知事のフランシス・ニコルソン(Francis Nicholson)の支配に対する反乱を成功させます。 小さな貴族支配階級のエリートへの不満と、植民地をニューイングランド自治領に統合させようとした政府への嫌悪によって生まれた反乱は、王立支配の崩壊を早めることになります。

New Amsterdam

ヨーロッパ人の入植は、オランダ人の毛皮取引商、ヤン・ロドリゲス(Jan Rodriguez)が1614年にマンハッタン(Manhattan)の南端に毛皮貿易のために建てた植民地が始まりとされます。これが後に「ニューアムステルダム」(New Amsterdam)と呼ばれるようになります。

この地図の右方向が北側で、今のニューヨークのマンハッタンのあたりです。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その9 ロジャー・ウィリアムズとロードアイランド

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東海岸(East Coast)とはアメリカの大西洋岸のことです。マサチューセッツ湾植民地の権威主義的な傾向にもかかわらず、そこでは恐らく他の植民地では見られないようなコミュニティの精神が醸成していきました。マサチューセッツ州の住民が清教徒の道徳の真の原則から逸脱していることを隣人に知らしめたように、その精神が、隣人のニーズに添ったものであるように訴えていきました。マサチューセッツ州での生活は、それまでの正統派主義に反対する人々にとっては困難でしたが、社会でゆき渡ってきたコンセンサスの中で生活する人々の賛同や共同体の感覚が次第に浸透していきます。

Rhode Island

 同時に多くのニューイングランド人はマサチューセッツの支配層によって押しつけられる正統派主義の中で生きることを拒否し、コネチカット(Connecticut)とロードアイランド(Rhode Island) が彼らの不満のはけ口として開拓されていきます。 1633年にマサチューセッツ湾に到着したトーマス・フッカー牧師(Rev. Thomas Hooker)は、すぐに教会員の入国に関する植民地の制限政策と植民地の指導者の寡頭的権力が望ましくないと考えます。マサチューセッツの宗教的および政治的施策に対する嫌悪感と新しい土地を開拓したいという願望に動機付けられて、フッカーと彼の仲間は1635年にコネチカット渓谷 (Connecticut Valley)に移動し始めます。そうして1636年までに、ハートフォード(Hartford)、ウィンザー(Windsor)、とウェザーズフォード(Wethersford)の街が造られていきます。 1638年にニューヘブン(New Haven)に別の植民地が設立され、1662年にコネチカットとロードアイランドが1つの憲章の下で合併していきます。

 ロードアイランドの創設に密接に関わったロジャー・ウィリアムズ(Roger Williams)は、植民地で確立されていた正統派主義に服従しないため、マサチューセッツから追放されます。アン・ハッチンソン(Anne Hutchinson)という女性の聖職者もそうでした。ウィリアムズやハッチンソンの見解は、いくつかの重要な点でマサチューセッツの支配層の見解と相対立していました。信仰を告白し、それにより教会の会員になる資格があるという厳格な教義は、最終的に誰もが教会の会員となるということを認めませんでした。

Roger Williams

 ウィリアムズはやがて教会がその会衆の純粋さを保証できないことを認識することになり、彼は純粋さを基準とした会員の認定をやめ、代わりにコミュニティのほぼすべての人教会の会員資格を認めるようにしました。さらに、ウィリアムズは明らかにイギリス国教会からの分離・独立の立場をとり、ピューリタン教会はイングランド国教会内にとどまっている限り、純粋さを達成することはできないと説教します。最も重要なことは、ウィリアムズやハッチンソンは、マサチューセッツの指導者が先住民族から土地を購入せずに、土地を占領することに公然と異議を唱えたことです。

 しかし、ウィリアムズらの主張は受け容れられず、彼は1636年に自ら信じる摂理(Providence)のためにマサチューセッツ湾から撤退することを余儀なくされます。1639年、マサチューセッツの正統派主義の反対者であるウィリアム・コディントン(William Coddington)は、ニューポート (Newport.)に会衆を定住させます。4年後、牧師のサミュエル・ゴートン(Samuel Gorton)も、支配的な寡頭制に異議を唱えたためにマサチューセッツ湾から追放され、シャウーメット(Shawomet)、後にワーウィック(Warwick)と改名される地帯に移住します。1644年、これら3つのコミュニティは、ポーツマスの4番目のコミュニティとして1つの憲章の下で合流し、ナラガンセット湾(Narragansett Bay)のプロビデンス・プランテーション(Providence Plantation)と呼ばれる入植地を形成していきます。

Narragansett Bay

 ニューハンプシャー(New Hampshire)とメイン (Maine)の初期の入植者もマサチューセッツ湾の政府によって支配されていました。ニューハンプシャーは1692年にマサチューセッツから完全に分離されますが、1741年になって初めて独自の王立知事が任命されました。メイン州は1820年までマサチューセッツ州の管轄下に入ります。ロードアイランド州はアメリカでもっとも小さい州で鳥取県より少し小さく、その愛称「リトルローディ」(Little Rhody)は、「良いものの包みは小さい」という諺を表しています。

注釈:ロードアイランド州は静かな海岸線や田園地方でも知られ、州都プロビデンスにはアメリカ名門8大学の総称アイヴィーリーグ(Ivy League)の一つであるブラウン大学(Brown University)があります。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 はじめに

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この記事は、アメリカ合衆国(アメリカ)建国の歴史を植民地時代を中心に153回にわたり民族、文化、宗教、芸術、科学、政治、経済などについて多角的に振り返るものです。アメリカは、創成期である植民地時代から独立に至る時代を通しての諸文化がその後にも大切に育まれてきた独自の原理をもっていたといわれます。それと同時に、異なる背景を有する人々から構成される国なるが故に、しばしば互いに矛盾した位相を示してきました。

 ヨーロッパ各地からの初期の移民により、18世紀半ばまでに8つの個別のヨーロッパ系アメリカの文化が北アメリカ大陸の南部と東部の周辺で確立してきたといわれます。何世代もの間、これらの異なる文化の発生地域は、お互いに驚くほど孤立して発達し、特徴的な価値観や慣行、方言、理想などを定着させました。個人主義を信奉する地域もあれば、ユートピア的な社会改革を熱心に支持する地域もありました。また神の意志によって自ら導かれていると信じる地域もあれば、良心と探求の自由を擁護する地域もありました。著述家でジャーナリストのコリン・ウッダード(Colin Woodard)は、アメリカはこうした歴史的・文化的な成り立ちが異なる11種類の「国」(ネーション: nation)で構成されていると主張しています。興味ある仮説と思われます。

 初期移民の子孫で、かつてはアメリカ社会の主流といわれたホワイト・アングロ・サクソン・プロテスタント(White Anglo-Saxon Protestants: WASP)のアイデンティテイを抱く地域もあれば、民族、宗教的な多元主義を標榜する地域もありました。平等と民主的参加を尊重する地域もあれば、伝統的な帰属的な秩序への敬意を重視する地域もありました。これらのどこもが今日、創設当時の理想のいくつかを保持し続けています。短い歴史のアメリカですが、多民族国家が有する多文化の発展は、世界史のなかで特異な存在といえると思われます。それが本著を考えるきっかけとなっています。

 1776年の独立宣言によってUnited States of America(USA)と称するようになりました。独立連邦連合体であって、まだ一つの国家ではありませんでした。1787年の合衆国憲法が制定されて一つの国家、アメリカ合衆国となります。この場合でも、アメリカは二重国家制、連邦制をとり、各州stateは一定の範囲で国家として機能することを認められ、その点では、アメリカ合州国と呼んでも差し支えないようです。

 アメリカは建国期より19世紀末までアメリカ大陸に発展することに邁進し、広く国際政治に介入することを控えてきました。その代表がモンロー主義(Monroe Doctrine)で、相互不干渉という孤立主義的でした。アメリカは大洋の向こうにある国々と軍事的なかかわりを持つ必要が薄かったからでした。 また、移民国家であるアメリカに不必要な内紛が起こらないようにするためでもあったからです。

 19世紀末に米西戦争(Spanish–American War)を契機に世界の列強となったアメリカは、第一次大戦、第二次大戦を経て超大国となり、政治、経済、軍事、文化の面で強い発言力を持つようになります。しかし、1960年、70年代に内は人種紛争、外にベトナム戦争と言う挫折を経験し、されに冷戦の終焉により、アメリカは世界の一国として、相対的な地位が下がるのです。その経過を以下の章で説明することにします。

この記事を書くために参考にした文献はEncyclopaedia Britannica、Wikipedia、世界大百科事典、世界史用語集、アメリカ黒人の歴史、などいろいろあります。人名、国名、地名、歴史的な出来事などの固有名詞は主にカタカナ表記とし、英語表記を添えています。中にはフランス語やドイツ語も使っています。各章の中では最初に出てくる固有名詞には英語表記を使い、その後に出てくる同じ名詞はカタカナ表記とします。ご理解ください。

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お金の価値 その十三 インフレーションとハイパーインフレーション

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ハイパーインフレーション(hyper inflation)は、物価上昇率が非常に高い状況、さらにその上昇率が加速していく状況のことです。数値による定義は様々ですが、フリードリッヒ・ケーガン(Friedrich Kagan)という経済学者は、ハイパーインフレーションを「月間50パーセントの以上のインフレ率」と定義しました。また、別の学者は、「3年間で累積100%以上の物価上昇」とも定義しています。

インフレーションとは、「膨らんだ状態」という意味です、アメリカの南北戦争時に戦費調達の臨時処置として発行した紙幣の通称が「グリーンバックス」(greenbacks)です。紙幣の裏面が緑色であったのでこう呼ばれました。この紙幣の発行量の膨張に伴って、物価が著しく騰貴したことからインフレーションという用語が定着したといわれます

物価が上昇すると、通貨の流通速度が増します。通貨の購買力が急速に低下するので、誰も通貨をあまり長く持たないで、すぐ使った方がよいという世相になります。明日になると同じ通貨で買えるものが減ってしまうので、賃金は月払いではなく日払いを求めるといった状況も生まれます。現在の日本では、お金をすぐ使わないで貯金しておこう状態です。インフレーションではなくデフレなのです。

アイザワ投資大学より引用

最も一般的なインフレーションの尺度は消費者物価指数(CPI; Consumer Price Index)と呼ばれます。消費者物価指数とは、全国の世帯が購入する財やサービスの価格の変動を測定する経済指標のことです。消費者物価指数は次の簡単な式で表せます。
消費者物価指数(CPI)=(比較時の費用/基準時の費用)×100

例として、一年前に300万円だった物価が今年は315万円になったとしますと、300万円/315万円×100で、消費者物価指数は105となります。

多少のインフレーションは望ましいことであると主張したのが、イギリスの経済学者ケインズ(John Keynes)です。彼は、インフレーションは名目収益を増やすことになり、債務返済を容易にすることで、投資の促進に役立つといいます。その一つの例は、アメリカで1974年に、多額の学生ローンを抱えて大学を卒業した人々は、カーター(James Carter)政権の1970年代後半のインフレーションに感謝したといわれます。というのは、ローンの返済額は名目で固定されていたので、インフレーションによって名目賃金が多かれ少なかれ増えたために、返済が楽になったのです。私も日本育英会、今の日本学生支援機構から借りたローンの返済で同じ経験をした一人です。住宅ローンを固定金利で持っていた庶民が、適度のインフレーションを期待するのと同じことです。

ケインズは、消費を直接的に増やす財政支出政策が最も効果があると主張した学者です。彼の有効需要創出の理論を提唱します。有効需要とは、貨幣の支出に伴って市場に現れる需要のことです。ケインズはは不況時は政府が財政出動し、過剰な生産に応えられるように有効需要を創り出すべきと説いたのです。彼の理論が、大恐慌に苦しむアメリカのルーズベルト大統領(Franklin Roosevelt)によるニューディール政策(New Deal)の強力な後ろ盾となったのは有名です。ニューディール政策により、大規模なダム・道路建設工事などの公共事業をとおして失業者に仕事を与えました。

John M. Keynes

インフレーションとは、物の価格の上昇による貨幣の購買力の低下を意味します。ほとんどの西側諸国や日本はわずかなインフレーションを望んでおり、年間目標を約2%に設定しています。その理由は、消費と企業活動を奨励するという考えからです。ケインズが予測したように、供給が需要に追いつかないときは、供給を促すための投資が必要だという論理です。

後述するドイツ、ワイマール共和国政府は、物の価格の上昇は、紙幣をもっと印刷するだけでこの問題が解決すると把握していたようです。当時の通貨であるドイツマルクに対する対外的信認がなくなり、金融市場での借り入れがほぼ不可能になったため、紙幣の発行と経済不況は悪循環となっていきます。紙幣の印刷の問題は、適度なインフレーションか、制御不能なインフレーションにつながりかねないということです。ドイツマルクに対する対外的信認とは、賠償支払いをドイツマルクで果たそうとしたドイツに対して、フランスなどが「マルクでは駄目だ、ループルとかポンドで払え」ということです。というわけでどの国も、次稿で紹介するワイマールのような事態にならないように通貨の発行や信認に注意を払っているのは当然です。
(投稿日時 2024年10月30日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州デラウェア州・The First State

注目

デラウェア州(Delaware)の紹介です。合衆国の建国に関わった13植民地のうちで最初に憲法を批准したのがデラウェア州です。1787年のことです。ナンバープレートには「First State」とか「Centennial State」と誇るように記されています。デラウェア族が住んでいたことからこの州名がつけられます。

License Plate of Delaware


デラウェアですが東はニュージャージー州、北はペンシルバニア州、西はメリーランド州と接しています。東海岸のチェサピーク湾(Chesapeake Bay)とデラウェア湾に面し、ロードアイランド州(Rhode Island)に次いで2番目に面積が小さい州です。州都はドーバー(Dover)です。

デラウェア州における先住民の歴史に少し触れます。デラウェア州は、ヘンローペン岬(Cape Henlopen)からロングアイランド(Long Island)西部までの大西洋岸を占領したアルゴンキン語(Algonquian)を話す北米インディアンの連合でした。植民地化される前は、彼らは特にデラウェア川流域に集中しており、この流域にちなんで連合が名付けられました。しかし、デラウェア族は伝統的に自分たちを「本物の人々」(real people)を意味するレナペ(Lenape)とかレニ・レナペ(Lenni Lenape)と呼んでいました。

Map of Delaware

伝統的に、デラウェア州は主に農業に依存しており、狩猟と漁業も経済への重要な要素でした。夏の農村地域には数百人が住んでいて、冬には小さな家族の集団が僅かの領土を旅して狩りをしていした。デラウェア州の人々は、母系に基づく3つの氏族のいずれかのメンバーでした。ロングハウス(longhouse)と呼ばれるグループが自治コミュニティの中核を形成していました。

デラウェア族はウィリアム・ペン(William Penn)に最も友好的なアメリカ先住民でした。ペンは宗教家でクエーカー教徒であり後にペンシルベニア植民地総督を務めた人物です。デラウェア族は悪名高いウォーキング・パーチェス(Walking Purchase)という条約によって報酬を得ます。この条約の文書は署名がないか、承認していないが、あるいはあからさまな偽造であったといわれています。条約は、レナペ族の土地を収奪し、イロコイ族(Iroquois)に割り当てられた土地への定住を強制するものでした。やがてヨーロッパの植民者に侵略され、1690 年以降はイロコイ族に支配された彼らは段階的に西に流れ、オハイオ州のサスケハナ川(Susquehanna)、アレゲニー川(Allegheny)、マスキンガム川 (Muskingum)、インディアナ州のホワイト川(White River)に逗留します。

Fort Delaware

60年間の避難生活を経て、オハイオ川の向こうに住むデラウェア州の人々は部族同盟を再燃させ、イロコイ族からの独立を主張し、進入してくる入植者に抵抗していきます。彼らはフレンチ・インディアン戦争(Frenchi-Indian War)でイギリスの将軍エドワード・ブラドック(Edward Braddock)を破り、当初は独立戦争では北軍を支援するのです。1795年のグリーンビル条約(Treaty of Greenville) で、彼らはオハイオ州の土地を譲渡し種族の多くは散り散りになります。1835年までに一部はカンザスに再び集ますが、ほとんどは186 年にオクラホマ州に移されます。21世紀初頭のデラウェア州の子孫の数は16,900人以上でした。

Delaware Beach

デラウェア最初の白人定住地は、1638年にスウェーデン人がフォート・クリスティーナ(Fort Christina)、現在のウィルミントン(Wilmington)に築きます。1655年にニュー・スウェーデン(New Sweden)は、ニュー・アムステルダムのオランダ軍(Dutch of New Amsterdam)に、1664年にはイギリス軍に占領されてしまいます。その後、デラウェアは1682年にウィリアム・ペンに割譲されるまでニューヨークの一部でした。

1704年に独自の議会が認められたものの、1776年まではペンシルベニア州が統治していました。1787年に合衆国憲法を批准した最初の州であり、全米で2番目に小さいのですが、人口密度は最も高い州の一つとなっています。主要産業は化学製造業で、次いで食品加工業となっています。デラウェア州で最も重要な交通幹線はチェサピーク・デラウェア運河(Chesapeake Delaware Canal)で、外洋航路のために水深が深くなり、フィラデルフィア(Philadelphia)とボルチモア(Baltimore)間の水路が短縮されます。

State Park of Delaware

デラウェア州で有名なのは、大財閥企業デュポン・ド・ヌムール社(DePont de Nemours)であす。フランスの貴族ピエール・デュポン(Pierre DePont)が州最大の都市ウィルミントンに火薬工場を作り、やがてアメリカ有数の化学企業となります。ついでに「Pierre」とはギリシャ語で「石」という意味です。英語ではPeter、スペイン後ではPedroと発音されます。

この州には多くの法人が登録されています。法人税が安いため籍だけを置く会社が多いというのです。アメリカならではの話題です。
(投稿日時 2024年2月28日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州アラスカ州・The Last Frontier

注目

アメリカ本土やカナダから大勢の観光客が訪れるのがアラスカ州(Alaska)です。西南のアラスカへクルージングでやってくるのです。300万以上の湖が点在し、動物も植物も手つかずの大自然のままです。ナンバープレートには「The Last Frontier」(最後の秘境)とあります。「North to the Future」というフレーズのもあります。かつては「The Great Land」とも呼ばれたようです。灰色熊のグリズリー(grizzly bear)が描かれていて、私には喉から手が出そうな一枚です。まだ持っていないのです。

アラスカはシーフード(sea food)の宝庫といわれます。大陸の森林からの栄養分はアラスカ周辺の海を汚染のない豊かな漁場に育てました。大量に発生した植物性プランクトンとそれを食べる動物性プランクトンは、小さな魚と甲殻類の餌となります。さらにそれらが大きな魚や海洋哺乳類、海鳥の餌になるように、アラスカの海では豊かな生態系が長年にわたり培われてきました。2017年の統計によれば、アメリカ全土で水揚げされる水産物の65%をアラスカから、特にサーモンに至っては実に98%がアラスカから生産供給されています。日本が輸入しているシーフードのうち、65%はアラスカ産といわれます。アラスカは、SDGsが採択されるずっと前から、 目標14「海の豊かさを守ろう」を採択しています。アラスカはサステイナブル(sustainable)な漁業を行っているのです。

アラスカという名前は、ウナンガクス語(アリュート語)(Unangax -Aleut)の「alaxsxa」または「aalaxsxix」に由来するといわれます。アラスカは広大な面積を持ち、その物理的な特徴も実に多様といわれます。アンカレッジ(Anchorage)北部のアラスカ山脈には、北米大陸最高峰の標高6190メートルのデナリ山(マッキンリー山)(Denali) (Mount McKinley)がそびえています。州のほぼ3分の1が北極圏内にあり、アラスカの約5分の4は永久凍土で覆われています。樹木のない広大な北極圏の平原のツンドラ(Tundra)は州面積の約半分を占めます。しかも、グリーンランド(Greenland)と南極大陸を除けば世界最大の氷河が広がっています。

Map of Alaska

アラスカ州の南側は、地球上で最も活発な地震帯のひとつである環太平洋地震帯となっています。アラスカには130以上の活火山があり、そのほとんどはアリューシャン列島(Aleutian Islands)と隣接するアラスカ半島にあるといわれます。1964年3月27日にアラスカ中南部で発生したのがアラスカ地震(Alaska earthquake)で、その規模はマグニチュード9.2といわれます。1906年のサンフランシスコ地震の少なくとも2倍のエネルギーが放出されたと記録されています。人口が過疎のため犠牲者は131人といわれます。コディアック島(Kodiak Island)からプリンス・ウィリアム湾(Prince William Sound)にかけて、局地的に25メートルの高さまで地塊が突き上げられた大規模な地震だったといわれます。

アラスカは面積においてアメリカ最大の州です。それに引きかえ、最も人口過少の州です。州都はジュノー(Juneau)。1906年までは、シトカ(Sitka)が州都でした。 最大の都市はアンカレッジです。かつてアンカレッジは日本からヨーロッパやアメリカに飛ぶときは最短距離の航路にあたりました。航空機の性能で給油のために立ち寄った懐かしいところです。給油の間、ターミナルで待つのは過去の話となりました。最近では2008年の大統領選挙で共和党の副大統領候補に州知事だったMs Sara Palinが指名されました。

Alaska bears

ロシアの軍艦、聖ピーター号(St. Peter)に乗ったビタス・ペーリング(Vitus Bering)が1741年7月15日、現在のシトカあたりの陸地を発見したといわれます。その後アメリカは1867年にロシアから720万ドルで購入した歴史があります。当時の国務長官スワード(William H. Seward)はロシアからの買い取りを提案したのです。当時は「巨大な冷蔵庫を買った」とか「スワードの愚行(Seward’s Folly)」と蔑称されるなどと非難されたとか。今で言えばアメリカはロシアから安い買いものをしたものです。領土は決して売ったりするものではないのです。地下資源、森林、漁業資源などが豊かなところです。それにもましてアメリカにとっては国防、軍事上の重要な位置にあるのがアラスカです。そのためか、大地の65%が連邦政府の管理にあります。ほとんどが不毛の地ですから、埋蔵量が豊富な原油の採掘地帯以外は誰も所有しないのです。1968年に油田が発見され、1977年トランス・アラスカ・パイプライン(Trans Alaska Pipeline)が完成すると原油生産による収入で人口が増加に転じ、インフラ整備が進みます。

人口比率として白人が70%。その大半はアイルランド(Ireland)、ノルウェー(Norway)からの移民とされています。以外と少ないのがネイティブ・アメリカンやアラスカ・ネイティブ(通称イヌイット-Inuit)で15.6%を占めています。原油の採掘については、今もアラスカ・ネイティブの間で開発容認派と反対派の賛否両論で部族村落が対立しているといわれています。
(投稿日時 2024年2月6日)

ナンバープレートから見えるアメリカの州アイオワ州・American Heartland

注目

アイオワ州(Iowa)のナンバープレートには、穀物を保存するサイロや納屋が背景に印刷されています。トウモロコシと小麦の生産で有名なアイオワが今回の話題です。北はミネソタ州(Minnesota)、東はウィスコンシン州(Wisconsin)及びイリノイ州(Illinois)、南はミズーリ州(Missouri)、そして西はネブラスカ州(Nebraska)及びサウスダコタ州(South Dakota)に囲まれています。州都で最大の都市はデモイン(Des Moines)です。

アイオワ州のナンバープレート

2024年の合衆国大統領選挙を控え、各地で党員集会(Caucus)が開かれます。アイオワ州は、共和党が党員集会を最初に開くことで注目される州でます。2024年1月15日に党員集会が開かれトランプが圧勝しています。この集会とは、政党の大統領候補を決定するための地区レベルによる党員の会議のことです。アイオワ州はなんとなく地味な印象を受けがちですが、政治的には伝統的に民主党と共和党が競うところです。

アイオワには、東がミシシッピ川(Mississippi River)、そして西はミズーリ川(Missouri River)が流れています。豊かな農産物などがこの川を使って運ばれています。アイオワは結構なだらかな丘陵が折り重なって農作物の生産に適しています。

Corn fields

アイオワはヨーロッパからの多くの民族を惹き付けたようです。1800年代にスウェーデン人、ノルウェー人、デンマーク人、オランダ人、およびブリテン諸島(Britain Islands) からの多くの移住者がやってきて農業に携わります。ドイツ人は最大の集団であり、あらゆる郡に入植していきます。特にミシシッピ川沿いが多く大多数は農夫になりましたが、また職人や商店主になった者も多かったようです。さらにある者は新聞を編集し、教師となり、銀行を経営したりして発展します。

アメリカの中西部(Midwest)は「コーンベルト」(Corn Belt)と呼ばれトウモロコシの一大生産地です。アイオワはその中で生産量が全米でトップを誇ります。車でどこまで走っても穀倉地帯が広がります。大豆、豚の生産量も全米第一位となっています。従って、穀物市場の金融や流通、そしてバイオテクノロジー研究開発などでも盛んな州です。

Map of Iowa

アイオワのあたりは、「アメリカの心臓部」(American Heartland)とも呼ばれて、恐らく世界一の穀倉地帯であります。アメリカは工業国ではありますが、なんといっても主役は農業です。トウモロコシと小麦の生産高からは、アメリカは農業国と呼ぶにふさわしいといえます。Heartlandとは「とても大切な地」という意味にもとれます。後に触れますが、カンザス州のプレートにも同じフレーズがあります。

アメリカの小学校では、アメリカの探検と開拓の歴史を学びます。そこに登場するのは、フランスからきたジャック・マークエット(Jacques Marquette)とルイス・ジョリエ(Louis Jolliet) という探検家です。この二人が中西部を探検したのは1670年代の頃です。マークエットはもともとフランスの宣教師でした。一方、ジョリエはカナダ、ケベック生まれのフランス人でした。この二人の探検家は一緒に主にミシシッピ川とその支流を使いアイオワ、ウィスコンシン、ミシガン、イリノイなどを調べメキシコ湾にも到達します。ジョリエの貢献は、彼の名前を付けた町の存在に現れています。

ロバート・ウォラー(Robert Waller)の小説に登場する屋根付き橋のローズマン・ブリッジ(Roseman Bridge)は、アイオワ州のマディソン郡(Madison County)のウィンターセット(Winterset)にあります。また、1989 年に公開されたケヴィン・コスナー(Kevin Costner)主演の映画『フィールド・オブ・ドリームス』(Field of Dreams)で描かれた野球場も同様にアイオワが舞台でした。
(投稿日時 2024年2月3日)

【風物詩】積極的差別是正措置(Affirmative Action) その二 日本の教育界における男女定員制

格差是正のためにマイノリティに割り当てを行う手法の一つに「クオータ制(quota)」があります。「quota」とは、ラテン語に由来する英語で「一定程度の割り当て、取り分」(a proportional part or share)といった意味です。日本では輸入の枠を設けるクオータ制度を使って、国内の産業を守っています。企業にも一定の枠で障害者を雇用しなければならない仕組みがあります。

No discrimination!

深刻なクオータ制や男女差別制は、教育界に存在します。全国の公⽴⾼校で唯⼀都⽴⾼校だけが⼊試で男⼥別定員制を設けていることで、女子生徒にとって不利になっている現状が大きな話題となっています。男⼥の合格最低点に差が生じ、⼥⼦のほうが⾼くなる傾向があることが理由とされています。都立高校全日制普通科の男女別合格者は、2021年度の入試は、51.9%が男子枠、48.1%が女子枠を設けていました。これがクオータ制です。しかし、性別で二分して異なる基準を設けることは、科学的妥当性に乏しいと多くの識者はいいます。世間の大きな批判を受けて、都教育委員会は男女定員制を是正するようです。

男女の合格ライン

複数の私立医科大学の入試で、女子の合格基準を男子より厳しく設定したり、点数を操作していたことが発覚した問題があります。医学部医学科の一般入試で、女子受験者の得点を一律に減点し、合格者数を抑えていたことが関係者の話で判明しました。 女子だけに不利な操作は、受験者側に一切の説明がないまま2011年頃から続いていたのです。

2018年8月、文部科学省は医学部がある全国の大学に緊急調査を実施します。その結果、私立の9大学で女子差別や年齢差別などの不適切な入試が確認されます。問題の指摘された私立医科大学のへの私学助成金はいずれもカットされます。2011~2018年度に受験した女性13人が「性別を理由に差別された」として、慰謝料など計約5500万円の損害賠償を求めた集団訴訟で、東京地裁は、大学に対して13人に計約805万円を支払うように命じる判決を出しています。

【話の泉ー笑い】その二十五 ピーナッツと親愛なる友人たちへ

今回で【ピーナッツ】のシリーズは終わりです。2000年1月3日、『ピーナッツ』最後の日刊コミックが発行されます。そのストリップには、シュルツが読者に宛てたメモと、タイプライターを前にしたスヌーピーが犬小屋の上に座って深く考え込んでいる絵が描かれています。翌日からは、再放送のパッケージが発刊されます。シュルツは体調不良で1月3日以降に連載されるストリップを5本描いていました。その最初のものは1月9日に掲載されます。

Wonderful Peanuts!

2000年2月13日、シュルツは亡くなります。その日、ピーナッツ史上最後の新しいストリップが新聞に掲載されます。3コマで、チャーリー・ブラウンが電話に出るところから始まり、相手はスヌーピーを呼んでいると思われる人物です。チャーリー・ブラウンは 『いや、彼は手紙を書いていると思います 』と答えます。次のコマでは、スヌーピーがタイプライターの前に座り、”Dear Friends “宛ての手紙の冒頭が描かれています。最後のコマは、大きな青空を背景に、過去に描かれた10枚の絵が配置されています。その下には、シュルツから読者へのメッセージがあります。その内容は次のような言葉です。

Snoopy hit home run!

『親愛なる友人たちへ
私は幸いにして50年近くもチャーリー・ブラウンとその仲間たちを描いてきました。これは、私の子どもの頃の夢を実現するものでした。しかし、残念なことに、私はもう毎日漫画を描くことができなくなってしまいました。私の家族は「ピーナッツ」を他の人に続けてもらいたくないと言っているので、引退を決意することとしました。長い間、編集者の方々の献身さ、そしてコミック・ストリップの読者が私に寄せてくれた素晴らしい激励と愛情に感謝しています。チャーリー・ブラウン、スヌーピー、ライナス、ルーシー、……彼らを忘れることはできないでしょう。  チャールズ・シュルツ{署名}』

【話の泉ー笑い】その七 エスニックジョーク その3 スターリンとソ連

ソ連邦解体後のロシアは言論が統制され表現の自由も制限されているといわれます。おおっぴらに政府に対する不満は言えません。そこで人々は不満を「アネクドート」に変え、うっぷんを晴らしていたようです。当時の政治状況などを知っているとジョークの意味が分かってきます。アネクドートとは、主にソビエト連邦で発達した政治的風刺を持つジョーク、小咄です。アネクドートの語源は、ギリシア語のアネクドトン、「公にならなかったもの」とWikipediaにあります。

Joseph Stalin

ソビエト連邦は憲法で「言論の自由」を謳っていましたが、現実には反社会主義活動にはチェーカー→KGBのような秘密警察による弾圧が常に行われてきた言論統制社会でありました。「アネクドート」の語源の通りこのような風刺的ジョークもソ連崩壊まではおおっぴらに語られるものではなく、地下で語り継がれてきたと言われています。そのような圧政社会であったからこそ、不満のはけ口として皮肉めいたジョークが多く作られることになったと考えられます。しかしながらロシア・ソビエト連邦社会主義共和国刑法第58条違反(反革命罪)と見なされる可能性があり、10年の懲役、あるいは最悪の場合は死刑に処される可能性さえあったようです。つまり「命がけの危険なスポーツ」的な楽しみ方をされていたといわれます。

ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)の時代には、体制批判を含むアネクドート、すなわち「政治的アネクドート」を語ることは、極めて危険であったようです。それでも面白可笑しい小話は瞬く間に人々の間に広まります。ロシアにおけるユーモアは開放感をもつ文化として、またエリート層に対する対抗と冷やかしの手段として花開いていくのです。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その34 『Cornhusker State』とネブラスカ州

ネブラスカ(Nebraska)はいろいろな思い出があります。 ネブラスカ大学の友人を訪ねたときのことです。デトロイト国際空港の入国審査場で審査官が家内におきまりの「どこへ行くのか?」と尋ねます。家内は「ネブラスカへ、、、」審査官「ネブラスカでなにをするのか?」、家内「観光です」、審査官は首を傾げて「ネブラスカへ観光へ行く日本人は初めてだ、、」というのです。どうも審査官はネブラスカは田舎か僻地だと思っていたらしいのです。

Corn Husker

州の東側には広大な草原、西側には壮大な崖や峰、東西間には砂丘など、どこへ行っても素晴らしい景色を堪能できます。ロデオ発祥の地であり、開拓者時代のランドマークがあり、西部開拓時代に入植者たちが通った歴史的な脇道が交差する州です。州都はリンカーン(Lincoln)で、最大の都市は州の東端にあるオマハ市(Omaha)です。広大な平原は、トウモロコシ畑が広がっています。州の愛称はコーンハスカー(トウモロコシの皮をむく人)『Cornhusker State』となっています。

Coach Tom Osborn

リンカーンにあるネブラスカ大学(University of Nebraska-Lincoln)にある自然史博物館(University of Nebraska, Morrill Hall) は恐竜の化石や開拓時代の道具、ネブラスカのインディアンの生活などを紹介するところで必見です。この博物館は、主に子ども達が社会見学で学べるような設備を用意しています。

アメリカ合衆国建国の歴史 その146 スペイン支配の終焉と第一次フィリピン共和国

300年以上にわたるスペインによる植民地支配の間、フィリピンでは準宗教的な反乱が頻発していましたが、19世紀末のホセ・リサール(José Rizal)らの著作によって、より広範なフィリピン独立運動が活性化していきます。スペインは植民地政府の改革に消極的で、1896年に武力反乱が起きます。1896年12月30日、革命ではなく改革を主張したリサールは扇動罪で銃殺されます。彼の殉教は、若き将軍エミリオ・アギナルド(Emilio Aguinaldo)が率いる革命に拍車をかけることになります。

他方、キューバでもスペイン支配からの独立を目指す動きがありました。1898年3月、ハバナでUSSメインが破壊されたのを受けて、アメリカはスペインに最後通牒を送り、アメリカの仲裁を受け入れてキューバの支配を放棄するように要求します。スペインとの戦争の可能性に備えて、海軍次官のセオドア・ルーズベルトは香港のアメリカ・アジア戦線に警戒態勢を命じます。4月に宣戦布告されると、香港から出撃したジョージ・デューイ提督(Commodore George Dewey)は5月1日朝、マニラ湾でスペイン艦隊を撃破します。ですが3ヵ月後に地上軍が到着するまでマニラを占領することができませんでした。

他方、6月12日にフィリピン人は独立を宣言し、アギナルドを大統領とする臨時共和制を宣言します。このように太平洋のアメリカの反対側では、アメリカ反帝国主義者同盟が結成され始めます。この組織は、アメリカのフィリピンへの関与に反対し、あらゆる政治的分野から支持を集め、大衆運動へと発展していきます。そのメンバーには、社会改革者のジェーン・アダムス(Jane Addams)、実業家のアンドリュー・カーネギー(Andrew Carnegie)、哲学者のウィリアム・ジェームズ(William James)、作家のマーク・トウェイン(Mark Twain)など、著名な人物が名を連ねていました。

Emilio Aguinaldo

8月13日、マニラは無血の「戦い」の末に陥落します。スペインのフェルミン・ハウデネス知事(Fermín Jaudenes)は、自分の名誉を守るために模擬的な抵抗の後、降伏するよう密かに準備していました。アメリカ軍はマニラを手に入れますが、フィリピンの反乱軍はマニラの残りの地域を支配していました。12月にスペインとアメリカの代表が署名したパリ条約(1898年)により、フィリピンの主権はスペインからアメリカに移ります。しかし、マニラを除く全島を実質的に支配していた新生フィリピン共和国の指導者たちは、アメリカの主権を認めませんでした。一方、アメリカはフィリピンの独立を否定し、紛争は避けられない見通しとなります。

1899年2月4日夜、マニラ近郊で銃声が響きます。朝になってみると、無謀ともいえる勇敢な戦いをしてきたフィリピン人が、ことごとく敗れていきました。戦闘が続く中、アギナルドが対米宣戦布告を行います。アメリカでは依然として反帝国主義的な感情が強かったのですが2月6日、アメリカ上院は米西戦争を終結させる条約を一票差で批准します。アメリカの援軍は直ちにフィリピンに送られます。フィリピン人の中で最も優秀な指揮官であったアントニオ・ルナ(Antonio Luna)は、その軍事作戦を任されますが、アギナルドの嫉妬と不信に大きく妨げられたようで,アメリカ占領を受け入れる「自治派」によってルナは殺害されます。3月31日に反乱軍の首都マロロス(Malolos)はアメリカ軍に占領されます。

ホセ・リサール像

1900年3月、アメリカ大統領ウィリアム・マッキンリー(William McKinley)は、フィリピンに民政を樹立するため、第2回フィリピン委員会を招集します。このとき、アギナルドのフィリピン共和国の存在は都合よく無視します。4月7日、マッキンリーは委員会のウィリアム・タフト(William H. Taft)議長に、「彼らが設立しようとしている政府は、我々の満足や理論的見解の表明のためではなく、フィリピン諸島の人々の幸福、平和、繁栄のために作られていることを肝に銘じるように」と指示します。フィリピンの独立について明確な記述はありませんが、この指示は後にしばしば独立を支持するものとして引用されます。

アメリカ合衆国建国の歴史 その115 アラスカの購入と西部開拓と金鉱

1867年、国務長官ウイリアム・スワード(Secretary of State Seward) が議会を説得して、ロシアからアラスカを720万ドルで購入し、アメリカは大陸進出を完了します。その後、西部開拓は急速に進み、ミシシッピー以西に住むアメリカ国民の割合は、1880年の約22パーセントから1900年には27パーセントに増加します。世紀を通じて新しい州が加わり、1900年にはアメリカ本土でまだ州認定を待っている準州は3つだけとなりました。オクラホマ、アリゾナ、ニューメキシコの3州です。

Alaska

1890年、国勢調査局(Bureau of the Census)は、西部開拓の最前線を示す連続した線がもはや引けないと指摘します。西部への人口移動は続いていたものの、フロンティアは過去のものとなっていきました。農場から都市への人々の移動により、より正確に将来の傾向を予測することができるようになりました。1880年、国勢調査局によりますと、アメリカ国民の約28パーセントが都市と指定された地域に住んでいましたが、1900年には40パーセントに上昇します。この統計から、アメリカでは農村の勢力が衰退し、工業化社会が始まったことが読み取れます。

William Seward

エイブラハム・リンカンは、かつて西部を “国家の宝庫 “と表現しました。カリフォルニアで金が発見されてからの30年間、探鉱者たちは西部のすべての州や土地で金や銀を発見します。南北戦争後の時代には、本当に豊かな大発見はほとんどありませんでした。その中でも最も重要なのは、ネバダ州西部コムストックロード(Comstock Lode)での非常に豊かな銀の発見です。銀は1859年に初めて発見されますが、その後より広範囲に開発されていきます。1874年には、サウスダコタ州のブラックヒルズ(Black Hills) で、1891年には、コロラド州のクリプルクリーク(Cripple Creek)で金が発見されます。

金や銀が発見されると、すぐに鉱山町ができ、探鉱者たちの生活や娯楽を満たしていきます。鉱脈のほとんどが地表に近いところにあれば、探鉱者たちはすぐにそれを採掘して立ち去り、そこには良き時代を思い起こすようなゴーストタウンが残ります。鉱脈が深ければ、必要な機械を購入する資本を持つ組織的なグループが地下の富を採掘するために動き出し、鉱山の町は地元の産業の中心地として安定を取り戻していきます。鉱山の町は、最初は鉱夫のニーズを満たすために発展し、後に余剰生産物を西部の他の地域に輸出するために拡大した農業地域の商業の中心地として、確固たる地位を築いた例もあります

アメリカ合衆国建国の歴史 その107 在職任期法と弾劾決議

アンドリュ・ジョンソン大統領や北部の民主党員、および南部の白人は、共和党の再建計画に拍車をかけました。大統領は1866年8月にフィラデルフィアで開催された全国連合大会(National Union Convention)で新しい政党を組織しようとします。 8月から9月には、大統領は自分の政策を広め、共和党の指導者を攻撃するために、北部や西部の多くの都市を訪れます。大統領の強い要請により、テネシー州を除く南部のすべての州が圧倒的多数で修正第14 条を拒否します。

1866年秋の選挙で勝利した議会の共和党員は、1866年から1867年の会期中に、南部を再建するためのより厳しい第二の計画作りに動きます。過激派の共和党員と穏健派の共和党員の間の長く激しい論争の後、党指導者は最終的に1867年の第一次再建法に関して、妥協案を作成します。3つの補則的なレ再建法へと拡大され、明確化されます。こうしてこの法律は、大統領が南部で構築した政権を一掃するのです。

Andrew Johnson

この法律は、旧南軍を連邦軍の支配下に戻し、新しい憲法制定会議の選挙を要求し、採択された憲法に、アフリカ系アメリカ人の選挙権と元南軍指導者の公職からの追放を要求するのです。この法律の下で、旧アメリカ連合国のすべての州に新しい政府が樹立されたのです。ただし、テネシー州は既に再連邦への復帰が認められていました。そして1868年7月までに、議会はアラバマ、アーカンソー、フロリダ、ルイジアナ、ノースカロライナ、サウスカロライナから上院議員と下院議員を選出することに同意します。1870年7月までに、残りの南部諸州も同様に再編され、連邦へ編入されていきます。

議会の共和党員はジョンソン大統領に疑問を呈し、彼が度重なる拒否権を可決した再建法を大統領が施行すること疑い、可能な限り彼の権限を剥奪しようとします。議会は大統領の軍事命令はすべて軍の将軍であるユリシーズ・グラントを通じて発令することを要求します。それによって軍に対する大統領の統制を制限しようとします。そして、在職任期法(Tenure of Office Act)によって、任命される役員を解任する大統領の権利を制限します。

ジョンソン大統領は、南部で急進的な法律の執行を阻止するためにできる限りのことをし続けるのですが、共和党のより極端なメンバーは大統領の弾劾を要求します。大統領が1868年2月に急進的な陸軍長官エドウィン・スタントン(Edwin M. Stanton)を内閣から解任する決定を下します。しかし、その解任は明らかに在職任期法に反していたため、共和党の弾劾手続きの口実となります。下院は大統領の弾劾に投票し、長引く裁判の後、上院はわずか1票差でジョンソンは大統領の座を保つことができます。

アメリカ合衆国建国の歴史 その75 芸術と出版界

Stephen Foster

アメリカ国内では、ノア・ウェブスター(Noah Webster)の『An American Dictionary of the English Language』(1828年)が、かつてのキングズ・イングリッシュ(King’s English)に取り入れるべき何百もの地方由来の単語を掲載しました。1783年に出版されたウェブスターの青い背表紙の「スペラー」(Speller)、ジェディディア・モース(Jedidiah Morse)の地理の教科書、ウィリアム・マクガフィー (William H. McGuffey)の「エクレクティック・リーダーズ」(Electric Reader)は、19世紀のアメリカの学校で定番のものとなっていきました。

大衆文学では、セバ・スミス(Seba Smith)、ジョセフ・ボールドウィンJoseph G. Baldwin、ジョンソン・フーパー(Johnson J. Hooper)、アルテマス・ワード (Artemus Ward)などの作家が、辺境のほら話(tall tales)や田舎の方言を題材にしたユーモラスな作品を発表しました。成長する都市では、新しい大衆娯楽が生まれ、人種差別をあからさまにした吟遊詩人ショーが行われ、スティーブン・フォスター(Stephen Foster) のバラッドのようなものが作曲されました。P.T.バーナム(P.T. Barnum)の「博物館」やサーカスも中流階級の観客を楽しませ、識字率の向上は、ジェームズ・ベネッ(James G, Bennett)が開拓したニューヨーク・ヘラルド紙(New York Herald)の政治や国際ニュースにスポーツ、犯罪、ゴシップ、トリビアを加えた新しいタイプの大衆ジャーナリズムを支えました。ハーパーズ・ウィークリー』(Harper’s Weekly)、『フランク・レスリーズ・イラストレイテッド・ニュースペーパー』(Frank LeslieHarper’s Illustrated Newspaper)、サラ・ヘイル(Sarah J. Hale)が編集した『ゴーディーズ・レディーズ・ブック』(Godey’s Lady’s Book)などの大衆誌も、女性の願いを汲んで、新興の都市アメリカで大活躍しました。これらは、内外からは低俗と言われながらも、ウォルト・ホイットマン(Walt Whitman)が『草の葉』Leaves of Grass(1855年)で声高に歌った生命力を反映し、民主的文化の隆盛をもたらます。

Walt Whitman

アメリカ合衆国建国の歴史 その52 パリ条約–1783年

北アメリカにおける軍事的な評決は、1782年のイギリス–アメリカ和平予備条約(Anglo-American Peace Treaty) に反映され、それは1783年のパリ条約(Treaty of Paris)に盛り込まれます。ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)、ジョン・アダムズ(John Adams)、ジョン・ジェイ(John Jay)、ヘンリー・ローレンズ(Henry Laurens)がアメリカ側委員を務めました。この条約により、イギリスは西側のミシシッピ川を含むおおまかな境界線を持つアメリカ合衆国の独立を承認します。イギリスはカナダを保持しましたが、東フロリダと西フロリダはスペインに割譲します。また、アメリカ人のイギリス人に対する私的債務の支払い、アメリカ人のニューファンドランド(Newfoundland)漁業へのアクセス、大陸議会から各州への忠誠者の公正な扱いを支持する勧告などの条項が盛り込まれます。

Treaty of Paris-1783


アメリカ大陸の割譲

イギリスに忠誠を示す多くの人々は新天地に残りますが、約8万人もの保守派のイギリス人はカナダ、イギリス、イギリス領西インド諸島に移住します。その多くはイギリス兵として従軍し、アメリカ各州から追放された者たちでありました。戦時中や戦後、忠誠的なイギリス人はアメリカ各州から危険な敵として厳しく扱われました。彼らは一般に市民権を奪われ、しばしば罰金を科され、財産を没収されることもしばしばありました。その最も危険な者は、通常、死刑を宣告されるほどでした。イギリス政府は、4,000人以上の亡命者に財産の損失を補償し、およそ330万ポンドを支払いました。また、土地や年金の支給、再起を図るための任用も行いました。アメリカに残ったあまり忠誠的でない保守派の人々は、イギリスからの独立を受け入れ、一世代を経た後にはアメリカの愛国者と見分けがつかないほどになりました。

ウクライナの歴史から学ぶ その十六 ロシアによるウクライナ侵略

Wheat Field in Ukraine

本稿は、「ウクライナの歴史から学ぶ」の最後の話題です。マイダン革命に対して、ロシアは猛反発し、ウクライナ領のクリミア半島のロシアによる併合と親ロ派武装勢力によるドンバス(Donbass)地方での不安と緊張が高まります。これがクリミア戦争の下敷きとなります。ドンバスは、ウクライナの東南部に位置する地方で石炭の産地です。2014年5月にポロシェンコ(Petro Poroshenko)が大統領に選ばれます。彼は人民の反乱を集結するために武力の行使を正当化します。ポロシェンコはEUへの加盟を模索しながら、国民の50%以上の賛成を獲得します。彼は東ウクライナでの市民の内戦を鎮めようとし、ロシア連邦との修復も計ろうとします。

Sunflowers in Ukraine

ウクライナにおけるオレンジ革命やマイダン運動の余波で、2014年3月初旬からロシアを後ろ盾とする反政府の分離主義グループが、ウクライナのドネツィク州(Donetsk)とルハーンシク州(Luhansk)(ドンバス)で抗議行動を起こします。これらのデモ活動はロシアによるクリミアの併合を受けてのもので、ウクライナ南部と東部におよぶ広域な親露派の同時抗議の一環でありました。これが激化してドネツィク人民共和国(Donetsk People’s Republic)とルハンシク人民共和国(People’s Republic of Lugansk)を自称する分離主義勢力とウクライナ政府側との武力衝突に発展します。これがドンバス戦争(War in Donbass)です。当初の抗議行動は、主にウクライナ新政府に対する国内不満を表明するものでしたが、ロシアが親露派を利用してウクライナに対する組織的な政治活動および軍事行動を開始した事案とされています。

キーウからの避難民

2019年に実施された大統領選挙では、ヨーロッパとの統合路線を訴える一方でロシアとの対話も重視する姿勢も示したウォロディミル・ゼレンスキー(Volodymyr Zelenskyy)が73%の得票率で対露強硬派として知られた現職大統領のポロシェンコを破り当選します。その後、停戦協定が結ばれては協定違反の武力衝突が繰り返されます。2021年秋にはロシアがウクライナ国境への軍の集結を開始し、ドネツィク人民共和国とルハンシク人民共和国を国家承認したうえで、2022年2月24日にロシアがウクライナへの侵略を開始し現在に至っています。

成田滋のアバター

綜合的な教育の支援ひろば

ナンバープレートを通してのアメリカの州 その十八 コネチカット州 Constitution State

コネチカット(Connecticut)。なんとも良い響きの名前です。ナンバープレートには「Constitution State」とあります。最初の憲法の素案を作った州というところです。合衆国の北東部、北大西洋岸は、どこかで紹介しました、ニュー・イングランド(New England) と呼ばれていますね。ここに小さな州がいくつかあります。その内の一つがコネチカット州です。首都はハートフォード(Hartford)となっています。東にはロードアイランド州(Rhode Island)、北にはマサチューセッツ州(Massachussets)、西にはニューヨーク州(New York)と隣接しています。

Map of Conneticut

コネチカットは英国の統治時代、13の植民地の一つでした。1639年に植民地としては最初の「基本法規」(Fundamental Orders)というのを制定します。これはやがてコネチカットで最初の憲法となります。この憲法は合衆国の初代憲法に大きな影響を与えます。コネチカットは英国から独立を宣言する最初の13州の一つとなります。

ヨーロッパからの植民はオランダから来たといわれます。ピューリタン(聖教徒-Puritan)の人々です。やがてアイルランド、イングランド、フランス、ドイツ、ポーランド、イタリア、ポルトガルなどから移民が押し寄せます。その後プエルトリコなどからも人々がやってきます。その中で、ポーランド系やアイリッシュ系の人々が多いのが特徴となっています。

Harbor of Hartford

産業ですが、農業はもとより酪農、製造業、漁業も盛んな州です。ロブスターや貝も知られています。ジェット機エンジン、ヘリコプターや航空機の部品、素材産業、原子力潜水艦の建造と関連の軍事産業、精密機械、化学薬品の製造が盛んです。企業ではスポーツ放送のESPN、ボーイング(Boeing)とエアバス(Airbus)のエンジンを開発するゼネラル・エレクトリック(GE)、シコルスキーヘリコプター(Sikorsky)の本社などがあります。

囲碁にまつわる言葉 その29 【手談】

囲碁は互いの読み合いの文化です。相手の応手を考え三手や十手先まで読むのです。これはまさに戦そのものです。敵を知ることによって、戦術を考えるのです。どこが弱いか、強いかを探します。真正面から攻めず陽動作戦も採り入れます。どこが主戦場であるかを見極めるのです。

手談の布石

—–【手談】——–
盤上に打たれた石が相手に何かを語りかけているかのように感じるところから、囲碁が「手談」といわれる由縁です。

左下の【手談】は次のような無言の会話です。
・黒1 「下辺に白の模様を作られるのはいやです」
・白2 「いや、模様は作りません。左辺に地を作りますので、三三に入って生きてください」
・黒3 「隅で閉じ込められるのいやです。中央に出ます」
・白4 「分かりました。では下辺に地を作らせて貰います」
・黒5 「では、白2を頂戴します」

囲碁にまつわる言葉 その28 【坐隠】

「坐隠談叢―囲碁全史」という本が新樹社から1955年に発行されます。この本は、10,800円というのですから驚きです。囲碁ファンには堪らないものでしょうが、私には手がでません。金額はともかく、内容が理解できるかどうかです。

—–【坐隠】——–
中国の逸話集に「世説新語」というのがあるそうです。六朝時代の南朝宋時代に編集され、貴族・文人・僧侶などの逸話が集められています。[坐隠]とは、囲碁に夢中になって、盤にのめり込むような姿で座っている様子です。いかにも隠遁者に通じるもので、そうした人々の別称となっています。

囲碁にまつわる言葉 その22 【長考】

碁の大会では時計を使い、大会を円滑に進めようとします。時計のお陰で高段者同士でも一局一時間くらいで終わります。長考するのは次のような状態の時です。
1. 局面で次の一手がわからない時
2. 次の一手でそのあとの展開が全く異なるため迷っている時
3. 有利になりそうになり、読み切ろうとしている時
4. 不利を意識し対応に苦慮している時

1の場合は、良い手を打つのはあまり期待できません。2~4も同様で、着手そのものは平凡なことになりがちです。素晴らしい手は、割合短時間で瞬間的に閃く傾向にあります。棋士は、素晴らしい手を見つけようとして長考するとはいえないようです。

—–【長考】——–
最善手を模索するためにできるだけ多くの選択肢を考慮する様です。「長考に耽る」「長考に沈む」などの姿です。思考型のゲームにおいては、ゲームの目的に適った行為です。トランプや麻雀ではこのようなことはありません。「長考」とは「読み」とも呼ばれ、何手や何十手先の着手を考える行為です。どのような選択肢によって、どのような結果になるかを考える行為です。名人による長考がときに伝説となることがあります。

他方、「長考に耽る」のは、事前に相手の出方を予想できていなかったためともいえる姿ともいえます。「長考」は実際には、迷いに費やす時間のほうが圧倒的に多いのです。この場合は、「長考」は窮余の策に過ぎず、けっして胸を張れる行為ではありません。慣用句に「下手の考え、休むに似たり」と揶揄する言い方もあります。時間を浪費するだけで、なんの効果もないく、相手が考え続けることあざける言い方です。

囲碁にまつわる言葉 その15 【大局観】

碁老連だよりには、「ボケ防止のための囲碁大会」のための八王子全市の町会、団地自治会、及び老人会などに回覧用チラシ約13,000枚を配付して啓発運動を展開したとあります。特に級位者の参加者が非常に少なかったので、その対策を考えていたようです。本来なら、囲碁人口としては一番多いはずなのは級位者の人たちです。しかし、級位者は碁を打つ機会がなかったようです。その理由を、会長の熊沢正一氏は次ぎのように述べています。
1 現在、町会や団地内の囲碁部では参加者が有段者中心となっており、このクラスになると敬遠されるようだ
2 町会や団地内で碁を打っていても、若い人たちはどんどん昇格するが老人は取り残されてしまいがちなので、厭になってやめてしまう者が多い
3 以前は各地で老人同好者が集まり、碁会を開いていたようだが、最近ではゲートボールに走る者が多い
4 勤務先の職場で碁を打っていた人たちは、退職後、教授値では碁の相手がみつからない
5 碁会所では、級位者は相手に選ばれないので、気落ちしてしまい永続しない

以上のような分析は、今の八王子囲碁連盟の現状にもあてはまります。

大局観

—–【大局観】——– 
囲碁、将棋、チェスなどのボードゲームで、的確な形勢判断を行う能力が大局観です。部分的なことに囚われずに全局的な視点から判断するということです。囲碁は他のゲームに比べて大局観で次の一手を決める割合が高いのです。常に全体を見て総合的に判断できる人が囲碁の強い人といわれます。

大局観を育てるためには、5つの要諦があるといわれます。1つは、方針となる理念・信条を確認すること、2つには、方向を示す具体的目標であるビジョンを描くこと、3つには、ビジョン達成の行く手を阻む変化を適確に予見し、精査すること、4つには、目標達成のために必要な戦略を練り上げていくこと、そして5つには、状況によってシナリオからはずれた場合、何らかの対応策を用意すること、といわれます。

大局観を育てるには、「鳥の目」、「魚の目」、「虫の目」といわれる3つの目をも持つことだともいわれます。鳥の目とは、高所から広い範囲を見渡すこと、すなわち「鳥瞰」することです。マクロな視点ともいわれます。次ぎに魚の目というのは、物事の流れや変化といった「動き」を捉える視点のことです。虫の目とは、細部に注目するミクロな視点でみる、ということです。物事の全体を見るという用語に「俯瞰する」とか「俯瞰像」がありあます。大局観と同義です。英語で大局観は「perspective、strategy 、tactics」ということになります。

囲碁にまつわる言葉 その13 【タケフ】

大会開催を案内すると、次のような質問が寄せられます。それに対して碁老連会長だった熊崎正一氏は次のように答えています。

質問1:「碁会所では初段(免状所持)で打っているが、同好会では二段で加入していおります。大会申し込みは初段でよろしいでしょうか」
熊崎会長:会員ですから当然二段で参加して頂きます。初段での参加は認められません。
質問2「現在碁会所では2級でうっているが、会社の囲碁部では日本棋院より初段の免状を頂戴しております。大会ではどちらで参加したらよいでしょうか。」
熊崎会長:どちらでも結構です。ご自分の判断で決めて下さい。
熊崎会長:以上のような照会は、同好会に加入された場合、数多く見られる現象ですが、老人の集まりですから「勝負にこだわらないで、碁を楽しむことに重点をおいてください」と申し上げております。
熊崎会長:碁老連関係の会員は、町の囲碁界より段位が甘いようです。それは、若い人たちと張り合っても所詮無理な話で,老人は老人同士、気楽にやりましょうという環境がそうさせているのでしょう。

—–【タケフ】——–
石を分断する手筋に「出切り」があります。相手の石を連結させない手です。それを防ぐのが【タケフ】です。漢字では「竹節」、中国では双関となります。連結した二子が平行に並んでいる形で、確実な連絡形として用いられます。出切りを防ぐのです。形が竹の節に似ていることから「竹節」となりました。

囲碁にまつわる言葉 その7 【一目置く】

平成3年の碁老連ニュースには、日本棋院が発行していた「囲碁新聞」の「ボケ防止と囲碁」という記事を掲載し始めます。もちろん棋院より記事の転載許可を得ています。東大医学部教授の折茂肇氏と石倉昇七段の共同執筆です。脳の老化の仕組みとか、病的な老化や生理的な老化、といったことが解説されています。囲碁の効用のなかで、「碁を打っているとぼけない」というのが決め台詞のようです。

—–【一目置く】——–

一目置くライオン


「大辞林」によれば、【一目置く】とは、「自分より優れていることを認めて敬意を払う、一歩譲る」とあります。一目置くは囲碁から生まれた言葉で、一目は一個の碁石のことです。囲碁ではハンディとして、弱い方が先に石を一目置いてから対局を始めます。 通常の対局では「弱い方が先に石を置く」のです。なぜかと言いますと、盤上ゲームは基本的に先手の方が有利だからです。そこから、【一目置く】は、相手の実力を認め敬意を払う意味となります。

「一目置く」の強調した言い方には、「一目も二目も置く」という表現があります。注意すべきことというか、意外なことは「一目置く」は自分より目上の人に対しては使わないということです。「一目置く」には「相手を評価する」という意味も含まれているので、基本は目上の人が目下の人に対して使う言葉となります。世間での「一目置く」の使い方は逆のような感じがします。

囲碁にまつわる言葉 その4【玄人と素人】

八碁連の会長は長年にわたり1年任期が続きました。それだけ会長になれる沢山の人材がいたのか、はたまた2年、3年の任期では弊害が起こるのではないかという懸念があったからでしょうか。しかし、1年任期では相応の仕事ができるのかという疑問が生まれます。私の短い経験からしますと1年任期では中期的な仕事はできないという結論です。
 
政界をみますと、菅総理大臣も1年で退陣を表明しました。以前、宇野宗佑、羽田孜という首相はたったの2か月で辞めました。細川護熙も9か月という短命の首相でした。権力闘争や連合や連立といった内部における意見の対立によって、国民が期待する成果を挙げることができませんでした。

—–【玄人と素人】——–

素人と玄人の標識


玄人(くろうと)・素人(しろうと) という言葉です。黒石と白石から生まれた言葉が玄人であり素人です。「黒うと」「白うと」という表記はありません。でもおかしいな、という疑問が生まれます。対局するとき、碁の強い人が白を持ち、弱い人が黒を持ちます。もって平安時代では強い人が黒を持って対局をしていたといわれます。玄人とは、その道に熟達した人、特別の能力を究めた人です。そのために大いなる「苦労をした人」かもしれません。語呂合わせの印象もありますが、、、、

「玄」という漢字には〈黒い〉とか 〈微妙で深遠な理〉 という意味があります。老荘の道徳における微妙な道ともいわれます。他方「素」 の漢字には,〈色をつけてない〉 〈加工や装飾していない〉 という意味があります。「素のまま」とか「素っぴん」という用語がそれを表しています。

懐かしのキネマ その117 【日曜洋画劇場と淀川長治】

そろそろ「懐かしのキネマ」のネタも切れようとしています。どうして自分は映画が好きになったのか考えています。振り返れば、それなりに理由が浮かんできます。そしてその原因や背景、人との出会いなども心に浮かんできます。それを記すことにします。

小さい時、北海道の美幌に進駐軍がやってきました。チューインガムやチョコレートをねだりました。それは初めての「外人」との出会いでした。アメリカの軍人です。親父が美幌駅で働いていたとき、将校が宿泊する列車が停まっていて、ときどき将校からレーション(ration)と呼ばれる食料などの配給品が入った缶詰を貰ってきました。アメリカ軍の野戦食です。甘い物が少ない時代でしたのでその美味しいことといったらありませんでした。

父の転勤で美幌から名寄に移りました。名寄中学校では始めて英語を習いました。今の子どものように幼稚園から英語を勉強するなんて考えられない頃です。幸い私は良い先生に出会いました。この先生の名前は藤田??。髭と眉が濃く声はバリトンでした。藤田先生の発音は、まるで真っ白の紙に滴が垂れるように、私の耳には実に新鮮でズンズンと伝わってきました。使った教科書は「Jack and Betty」。不思議と文章がスラスラと頭に入りました。

淀川長治

父が転勤で稚内駅勤務となったときです。市の突端ノシャップ岬に米軍の電波基地がありました。一度そこに稚内中学の英語の先生に連れられて基地に入りました。そこで出された黒い飲み物の味を覚えています。コカコーラでした。そこで出会った軍人さんとペンパル(pen pal)となりました。この方は退役してからウィスコンシン州のオコノモウォック(Oconomowoc)という街にあったカトリックの神学校を修了し神父となります。彼はその後、横浜の教会で宣教のために働きます。私がこの神父の活動を知ったのは2005年でした。今もFacebookでやりとりしています。

稚内にいたとき始めて洋画をみました。父親に連れられて観たのが「戦場に架ける橋」です。実は私の父親も大の洋画好きでした。稚内高校で合唱団に入り、NHK唱歌ラジオコンクールの予選に出場するために旭川に行ったとき、スカラ座という映画館で友達と観たのが「八十日間世界一周」という作品です。なぜか、その映画で執事役で出演したカンチンフラス(Cantinfla) というメキシコ人喜劇俳優が今も記憶に残っています。

外国に憧れるようになったきっかけの一つが、中学生のときヨーロッパの地理を学んだことです。イギリスやフランス、ドイツの白地図をノートに書く時間がありました。フランス、ブルターニュ半島(Bretagne)の形を今も覚えています。第二次世界大戦でのD-デイ(D-Day)のとき連合国軍の上陸拠点に近いところです。地理の勉強は世界の地図や地形、首都などを覚えるのにとても役立つものです。普仏戦争での敗戦によってプロイセン(Prussia)の領土となったアルザス(Alsace)の学校で、フランス語に基づく愛国心を描いた「最後の授業」という短編小説があります。アルフォンス・ドーデ(Alphonse Daudet)の作品で、これを読んでフランスとドイツの歴史を学んだことも懐かしい思い出です。いつかはこうした国を訪ねたいという願望をかき立ててくれたものです。

水野晴朗

映画といえばテレビの影響を忘れることができません。『日曜洋画劇場』、『ゴールデン洋画劇場』、『金曜ロードショー』などの番組です。『日曜洋画劇場』の冒頭では淀川長治が「ハイ皆さん、こんばんは」から始まり、解説の締め括りに「さよなら、さよなら、さよなら」で終わるあれです。『水曜ロードショー』や『金曜ロードショー』番組では、水野晴朗が「いやぁ、映画って本当にいいもんですね~」という決め台詞がありました。『シェーン』(Shane)を観たのはこの番組のお陰です。

最近、ビデオ・オン・デマンドで戦前や戦後の名作映画を観ることができるようになりました。Youtubeでも広告なしで観ることができます。ただ、近年は昔作られたような名作に接する機会がないような気がします。莫大な制作費や興行上の必要性から,ほかの芸術に比較して産業としての性格が著しく強いのが映画です。テレビに押され固定の映画劇場が少なくなり、映画産業が下降しているのは時代の流れといえるようです。それでも「アナと雪の女王」や「鬼滅の刃」の記録的なヒットは意外でした。

懐かしのキネマ インターミッション 映画と英語との出会い

その2 「The Sound of Music」

父は国鉄に勤めていました。そのため転勤は2年毎にあります。名寄の次は、最北端の稚内への移動です。稚内に米軍のレーダー基地があってそこに米兵が駐屯していました。英語の先生に連れられて始めて基地に入りました。そこでやったのはバラックのペンキ塗りのアルバイトです。それが終わると、飲み物が振る舞われました。得体のしれない黒い色のおかしな味をした液体です。今思えば、コカコーラでした。米兵は中学校の体育館やグランドでバスケットや野球の練習をしていました。なんと背の高い人種なんだろう、と思いました。稚内ではもう一つの出来事があります。始めて「洋画」を観たのです。【戦場に架ける橋】というのです。それからは親に隠れての「洋画浸り」の「不良」となりました。

The Trapp Family

時代は経て1964年の頃の札幌です。洋画好きな私に忘れられない思い出があります。【The Sound of Music】を名寄中学校で一緒だった女性と札幌劇場で観たときです。なるべく字幕を見ず、台詞に神経を集中させました。その頃、駅前通りには路面電車が走っていていました。苗穂方面に向かう電車の停留所前にパーラーIshidayaがありました。映画の興奮を冷ますためにIshidayaに入り、しばらくしてから彼女を駅まで見送りました。

懐かしのキネマ その34 歌手で俳優の共演

1959年に製作された西部劇に【リオ・ブラボー】(Rio Bravo)があります。メキシコとの国境に近いテキサス(Texas)の町で保安官のチャンス(Chance)(ジョン・ウェイン: John Wayne)は、殺人犯の身柄を確保します。このあたりの勢力家で殺人犯の兄が、保安官に弟の身柄を移動させないよう部下に命じて駅馬車の車輪を壊し街を封鎖します。チャンスは連邦保安官が来るまで、わずかな味方とともに殺人犯一味と戦うことになります。

チャンスの部下とは、以前は早撃ちながら、アルコール依存症の保安官補デュード(Dudo)、片脚が不自由で毒舌な年寄りの牢屋番スタンピー(Stumpy)、幌馬車の護衛としてやってきた早撃ちの若者コロラド(Colorado) です。コロラドは狙撃された隊長の仇討ちでチャンスに加勢するのです。女賭博師で踊り子のフェザーズ(Feathers)はやがてチャンスの正義感にほだされて恋心を抱いていきます。リオ・ブラボー

【リオ・ブラボー】に二人の歌手が出演しています。ディーン・マーティン(Dean Martin)とリッキー・ネルソン(Ricky Nelson) です。マーティンは人気絶大な歌手、ネルソンは、ロックンロール歌手でした。保安官事務所で連邦保安官の到着を待ちながら、二人で「ライフルと愛馬」(My Rifle, My Pony and Me) を歌うシーンがあります。これは替え歌ではなく、正真正銘の二人の歌声です。さらに孤立した保安官事務所に流れてくるのが、敵が一晩中トランペットで流す「皆殺しの歌」(DE GUELLO)です。この2曲を作ったのはディミトリ・ティオムキン (Dimitri Tiomkin) です。ロシアのサンクトペテルブルク音楽院(St. Petersburg Conservatory) で学び、アメリカに帰化した後、数々の映画主題歌を作曲していきます。「真昼の決闘」(High Noon)、「OK牧場の決斗」(Gunfight at the O.K. Corral)、「アラモ」(The Alamo)、「ローハイド」(Rawhide)、ジャイアンツ」(Giants)などクラシック音楽に基づいた正統的な曲で知られています。

アメリカの文化 その7 スクールバス

アメリカの道路は右側通行。欧米各国やお隣韓国もそうです。琉球も本土復帰前は右側通行でした。英国は日本と同じ左側通行です。日本の運転免許証でなぜかカリフォルニア州やハワイ州、グアム、そしてドイツとスイスでも運転できます。どうしてなのかまだ分かりません。

アメリカでは信号が赤であっても、交差点で一番右側の車線を走っている場合は、左側から車が来なく、歩行者がいないときは右折することができます。右折禁止になっていない交差点で、止まったままになっているとクラクションを鳴らされます。日本はその点、厳格に「赤は停まる、青で進む」という精神が徹底していますね。

踏切がある道路では、トラックやバスなどの大型車を除いて、踏切を横断する際の一時停止は不要です。踏切の手前で一時停止してしまうと追突事故の恐れがあるため、踏切を通過する際は減速せずにそのまま通過するのです。線路といっても貨物車や汽車は一時間に一本通るかどうかです。一時停止は無意味なのです。

本題のスクールバスの話題です。スクールバスは全州で黄色で統一されています。このバスが停車してSTOPという標識とランプが点灯している場合、STOPのランプが消えるまで後続車も必ず停車しなければなりません。片側二車線でも停まるのです。このとき対向車も停まらなければなりません。スクールバスを追い抜くことは重大な違反になります。児童生徒の飛び出し防止のためです。スクールバスは追突や事故から子ども防ぐために、安全基準に基づいた頑丈な車体となっています。

スクールバスは、1886年頃スクール馬車が作られたことに始まるといわれます。国が広大なので、このバスは都会であろうと、ど田舎であろうと走っています。スクールバスは授業開始の前、授業終了後と部活が終わる時間の3回走ります。社会見学や遠足などにもこのルバスが使われます。スクールバスを運営する会社は全米でいくつかあります。

アメリカの文化 その5 セイント・パトリックス・デイ

アメリカの代表的な祭りの一つにセイント・パトリックス・デイ(St. Patrick’s Day)があります。毎年3月17日となっています。ニューヨーク(New York) やボストン(Boston)、ウィスコンシンなど、アイルランド系移民の多い地域や都市で盛大に祝われます。ウィスコンシン州のニューロンドン(New London)という小さな街は、アイリッシュ系が多く、この期間中だけ町名が「ニューダブリン」(New Dublin)に変更されるほどの思い入れです。人口はたったの人口7,300人です。ダブリンはアイルランドの首都ですね。人口は139万人です。

セイント・パトリックス・デイには、いたるところで三つ葉のクローバーのデザインを目にします。これは「シャムロック」(shamrock) と呼ばれ、アイルランドの国花となっています。聖パトリックという伝道師が、がこのシャムロックをエンブレムとして用いて三位一体(Trinity)を説き、キリスト教を広めたと言われています。三位一体とは、父なる神c(God)、その子イエス(Jesus) 、そして精霊(Holy Spirit) のことです。

セイント・パトリックス・デイで有名なのは、ハウスの噴水が真緑になるのです。シカゴ川の水も真緑になります。この日のお祝いはただ事でないことがわかります。もう一つの伝統は、毎年アイルランドの首相からアメリカ大統領にシャムロックが贈られることです。実に興味あることです。ユーモアすら感じます。

アメリカでは、セイント・パトリックス・デイに食べるものといえば、コーンビーフ( Corned beef)とキャベツの付け合わせです。本場のアイルランドでは、「シェファーズ・パイ」(Shepherd’s Pie)です。羊の肉を使います。シェパードとは羊飼いのことです。それに「ラムシチュー」(Lamb stew)で「 Irish stew」とも呼ばれるようです。私はいただいたことがありません。なぜ「コーンビーフとキャベツ」がセント・パトリックス・デイに食べられるものという通説が広まったのでしょうかね?手ごろに用意できる食べ物だからでしょう。緑色のビールが食卓に並ぶのかもしれません。

旅のエピソード その9 「ワインと運転」

北島と南島から成るのがニュージーランド(New Zealand) です。年間の旅行者が240万人以上という観光立国です。友人を訪ねて北島の南端近くにあるパーマストン(Palmerston) という町へ行きました。その友人はインド系の研究者で、兵庫教育大学で客員研究員としてお世話した方です。

休日を利用して車で北島の最南端に位置する首都ウェリントン(Wellington)の観光に出かけました。落ち着いた港町です。観光後、カーフェリーで南島にわたり、クライストチャーチ(Christchurch)にある約140年の歴史を誇るカンタベリー大学(University of Canterbury)を訪れました。2011年の大地震が起こる前です。23人の日本人も亡くなる出来事でした。

クライストチャーチでホエールウオッチング(whale watching) ができるという情報を得ました。1泊がてら鯨が出るという湾のある町に車をとばしました。観光船に乗ると数頭の鯨が湾を回遊しているのが見えます。説明では年中この湾に住み着いているそうで、地元の人は親しみをこめて鯨に名前までつけています。

帰りのドライブは快適でした。ブドウ畑が道の両側に広がります。ワインを飲みたくなる光景です。休憩がてらワイナリーに立ち寄りますと、旅行者らしき一行8名がワインを楽しんでいます。店の人に聞くと看板を指してくれました。それには次のように書いてあります。「運転手はグラス2杯までは飲んでよい」。なんと粋な計らいなのだろうと感心しました。帰り道に車から降りて、満天の星空に浮かぶ南十字星(Southern Cross) に家内とで見とれました。

クリスマス・アドベント その18 The Twelve Days of Christmas

この曲のタイトルにある12日間とは、クリスマスの12月25日から1月6日までの降誕節のことです。1月6日は顕現祭(Epiphany)と呼ばれ、イエス・キリストが神性を人々の前で表したことを記念するキリスト教の祭日を指します。ルーテル教会でも、伝統的にこの日が祝われています。バッハ(Johann Sebastian Bach)のクリスマス・オラトリオ(Christmas Oratorio)の第6部が、この日の讃美の音楽となっています。ところでオラトリオとは、独唱・合唱・管弦楽から構成される大規模な楽曲を指します。オペラとは異なり、歌手が舞台で演技をすることはありません。

The Twelve Days of Christmas” は、ヨーロッパに16世紀頃から伝わるクリスマス・キャロルの一つです。1780年にイングランドで作られた詩が基となり、やがて1909年に民謡であった旋律にイギリスの作曲家フレデリック・オースチン(Frederic Austin) が編曲します。曲の特徴としては、12番までの歌詞のついた一種の童謡歌であることです。一定の旋律をもった2行以上からなる詩の単位(stanza)が歌い上げられ、それと共に1番ごとに積み上げられる歌詞(cumulative song)となって曲が長くなります。

Cumulative songsはグループで歌うときが多いようです。韻律によってStanzaは決まっており、歌詞も覚えやすいので子どもたちが好んで歌うことができます。 英語の歌詞は韻を踏んでいることが分かります。鳥の名前がでてくるのは、愛と平和を象徴するキジバトに示されています。キジバトのつがいは仲がよいので夫婦の愛の模範とされています。

12番のうちの1番、2番、3番だけの歌詞 (Lyrics) を紹介しておきます。歌詞の最後の部分は、贈り物として捧げる品が増えていくことがわかります。歌詞でいう12日の最初の日は12月25日です。そして1月5日の夜をもって待降節–アドベント・クリスマスは終わりとなります。

 On the first day of Christmas, my true love sent to me
 A partridge in a pear tree.
   On the second day of Christmas, my true love sent to me
  Two turtle doves and a partridge in a pear tree.
    On the third day of Christmas, my true love sent to me
   Three french hens, two turtle doves and a partridge in a pear tree.

クリスマス・アドベント その19 ”Ave Verum Corpus”

”Ave Verum Corpus”は、アヴェ・ベルム・コルプスという題名がつきます。この曲はカトリック教会で用いられる聖体賛美歌といわれます。Ave Verum Corpusはラテン語ですが、”Ave”はおめでとう、 ”Verum”とは誠の、”Corpus”は御身 といういう意味です。

この曲は、モーツアルト(Wolfgangus Amadeus Mozart)から オーストリアの都市バーデン(Baden)教区教会のオルガニストで聖歌隊指揮者であったマートン・シュトル(Marton Schutol)への贈り物といわれます。シュトルはモーツアルトの崇拝者で、彼の曲を聖歌隊ではしばしば歌っていたといわれます。

”Ave Verum Corpus”はモテット(Mottets)といわれる楽曲で、中世からルネッサンス(Renaissance)にかけて成立したミサ曲以外の世俗的なポリフォニー(polyphony)といわれる多声部の宗教曲です。モテットとカンタータ(Cantata)の違いですが、モテットは短い曲で器楽が独奏する部分がなく、絶えず伴奏として演奏されます。他方カンタータは主題にそって長い演奏が続き、独立した器楽の声部が合唱や朗唱に混じって随所に登場します。

”Ave Verum Corpus”ですが、最初は短い前奏で始まり、合唱はニ長調で、途中でへ長調、そしてニ短調へと変わり、最後はニ長調へと転調されます。たった四行のラテン語の歌詞、しかも46小節という短い曲ではありますが、柔らかい旋律と絶妙な転調によって、信仰が純化されるような味わいの響きを持ちます。モーツァルト晩年の傑作の一つといわれます。

クリスマス・アドベント その12 ”O Holy Night”

O Holy Nightの作曲者はアドルフ・アダン(Adolphe C. Adam)というフランス人です。我が国では「オー・ホーリーナイト」と呼ばれています。アダンは1800年代の中盤に活躍し多くの曲を作ったといわれます。中でもこの”O Holy Night” (Cantique de Noel–クリスマス賛歌)というクリスマス・キャロルは特に知られています。

“O Holy Night”ですが、作曲は1847年。フランス南部の街、ロクマラ(Roquemaure)にある教会のオルガンが修復され、その祝いとして教区の司祭が詩人プラシド・カポー(Placide Cappeau)にクリスマスの詩を依頼します。カポーは”Midnight, Christians”という題を付け、それにアダンが旋律をつけたのです。当時、この曲はラジオで放送され広く人々に口ずさまれるようになったといわれます。アダンはバレー音楽(ballet)であるジゼル(Giselle)をはじめ39ものオペラも作曲した人でもあります。

その後、”O Holy Night” はソプラノ(soprano)やテノール(tenor)で歌われることが多くなりました。それは当時、ユニテリアン教会(Uniterian church)の牧師であったジョン・ドワイト(John S. Dwight)がカポーの原詩 “Cantique de Noel” をもとにして、フランス語と英語でイエスの誕生と救いについて親しみのある歌詞をつけたからです。

曲は静かな音程で始まり、やがて次第に興奮が高まるような音階となり、最後は極めて高い音階で歌われます。誕生劇が ”聖なる夜かな” という歌詞と共に最高潮に達します。荘厳な曲でもあります。

この曲は多くの人気歌手によって歌われています。例えばマライア・キャリ(Mariah Carey)、ビング・クロスビ(Bing Crosby)、ホットニ・ヒューストン(Whitney Houston)、マハリア・ジャクソン(Mahalia Jackson)といった歌手です。

O holy night! The stars are brightly shining,
It is the night of our dear Saviour’s birth.
Long lay the world in sin and error pining,
‘Til He appear’d and the soul felt its worth.
A thrill of hope the weary world rejoices,
For yonder breaks a new and glorious morn.
Fall on your knees! O hear the angel voices!
O night divine, O night when Christ was born;
O night divine, O night, O night Divine.