ヨーロッパの一部の保守派評論家は、「政治的正しさ」と多文化主義は、ユダヤ・キリスト教的価値観(Judeo-Christian values)を弱体化させることを最終目的とした陰謀の一部であると主張しています。この理論は、政治的正しさはフランクフルト学派(Frankfurt School)の批判理論に由来し、その支持者たちが「文化マルクス主義」と呼ぶ陰謀の一部であると主張しています。ちなみに、フランクフルト学派とは、ヘーゲル(Georg Hegel)の弁証法とフロイト(Sigmund Freud) の精神分析理論をマルクス主義と融合させてマルクス主義の問題点の克服と進化を試みた学派といわれます。2001年、保守派評論家のパトリック・ブキャナン(Patrick Buchanan)は著書『西洋の死』(The Death of West)の中で、「政治的正しさは文化マルクス主義である」と述べ、「そのトレードマークは不寛容である」と述べています。
「ドイツ国民に告ぐ(Reden an die deutsche Nation)」という有名な講演をしたのがヨハン・ゴットリープ・フィヒテ(Johann Gottlieb Fichte)です。この講演では、フランス文化に対するドイツ国民文化の優秀さを説き、また、ドイツ国民の統一、ドイツ人の内的自由、商業上の独立を主張し、ドイツ国民精神を発揚しドイツの解放戦争を準備する力となったといわれます。彼の国家哲学には、ドイツ民族の独自性を強調する側面があり、後のナショナリズムの発展に影響を与えたとされています。フィヒテは「ユダヤ人から身を守るには、彼等のために約束の地を手に入れてやり、全員をそこに送り込むしかない」とも講演しています。この思想は後のドイツのナショナリズムに大きな影響を与えたとされます。政治学者の今野元は、著書「ドイツ・ナショナリズム:「普遍」対「固有」の二千年史」で 「ドイツ・ナショナリズムとは、ドイツへの帰属意識を前提に、ドイツ的なものの維持・発展を望む思想」と指摘しています。
もう一人のドイツの哲学者にゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルGeorg Wilhelm Friedrich Hegelがいます。彼の哲学も後のドイツ観念論に大きな影響を与えましす。ヘーゲルは国家を「理念の実現」と捉え、歴史を通じて国家が発展していくという思想を展開しました。一部の解釈では、これがナチズムの全体主義的な国家観に利用されたといわれます。ある解釈ではユダヤ人に対する否定的な見解が含まれていると指摘されています。
終わりにカール・シュミット(Carl Schmitt) という20世紀の法哲学や政治哲学のことです。1933年からナチスに協力し、ナチスの反ユダヤ的な法学理論を支えナチス政権下で活動します。第二次世界大戦後に逮捕され、ニュルンベルク裁判(Nuremberg Military Tribunals)で尋問を受けますが不起訴となります。
1918年にホイジンガはアメリカ紀行を綴った「America: A Dutch Historian’s Vision from Far and Near」という本を書いています。ホイジンガはこの旅行体験をふまえて、アメリカにはピュエリリズムの特徴に関する「文明、哲学、人間関係、公の言論、社会的価値など、ありとあらゆる種類の検討材料」が揃っていると観察します。「ヨーロッパでは子どもっぽいといわれることが、アメリカではナイーヴ〔素朴〕なことである場合がたくさんあると観察し、真のナイーヴさはピュエリリズムの非難を免れるというのです。まだまだ、アメリカには「遊び」の真面目さ、厳粛さ、神聖さを伴ったフェアなものが見られると主張します。遊びには秩序(ルール)を守る心の余裕が必要であるが、アメリカにその余裕が見られるというのです。この見方には異論もあろうかと思われます。
4月6日、ドイツ、オーストリア、フランス、イギリス、イタリア、ロシアの代表がマッキンリー大統領(William McKinley)を訪れ、人道の名のもとにキューバへの武力介入を控えるよう懇願してきます。マッキンリーは、もし介入が行われるなら、それは人類の利益のためであると断言します。ローマ教皇レオ13世(Pope Leo XIII)による仲介の努力も同様に無駄でした。他方、スペインは3月27日のマッキンリーの条件を受け入れる方向で進んでいました。ウッドフォード公使(Minister Woodford)がマッキンリーに、時間と忍耐があれば、スペインはアメリカとキューバの反乱軍の双方に受け入れられる解決策を講じることができると進言するほどでした
南北戦争後間もなく、改革者たちは先住部族が最終的にアメリカ社会に同化できるようなプログラムを採用することを提唱します。1869年、改革派はグラント大統領と議会を説得し、政府と先住部族との関係を監督する非政治的なインディアン委員会(Board of Indian Commissioners)を設立します。しかし、この委員会は政治的な反対にあい、ほとんど成果をあげることができませんでした。改革者たちは次に、農民として定住生活をする準備ができていると思われる部族の各家族の長に、特定のエーカーの土地の所有権を与えるという法案を提案しました。議会はこの提案に反対しますが、土地を欲しがる西部の人々が、このように土地を分配すれば、膨大な余剰地が生まれ、公有地に追加できると考えます。
イギリスとの最初のトラブルは、1861年11月、チャールズ・ウィルクス大佐(Capt. Charles Wilkes)が英国の蒸気船トレント(Trent)を停船させ、ヨーロッパに向かう2人の南軍使節、ジェームズ・メイソン(James M. Mason)とジョン・スライデル(John Slidell)を強制的に連行したときでした。最終的に二人は解放されたのですが、ロンドンのパーマストン卿(Lord Palmerston)の政府との外交的断絶だけは防ぐことができました。
サムター要塞の占領後、両軍は直ちに軍隊の調達と編成を開始します。1861年7月21日、南軍の首都リッチモンドに向かって行進していた約3万の北軍は、マナサス(Manassas)で止められ、トーマス・ジャクソン将軍(Gen. Thomas Jackson)とP・ボーレガード将軍(Gen. P.G.T. Beauregard)率いる南軍によってワシントンDCに追い返されます。敗戦のショックは北軍に活気を与え、北軍は50万人の増員を要求します。ジョージ・マッケラン将軍(Gen. George McClellan)は、北軍のポトマック軍(Army of the Potomac)を訓練する任務が与えられます。
ミシシッピ州のジェファソン・デイビス(Jefferson Davis)を首長に、ここにアメリカ連合国(Confederate States of America)が誕生し、独自の本部と部局を設置し、独自の通貨を発行し、独自の税金を上げ、独自の旗を掲げました。いろいろな敵対行為が勃発し、ヴァジニア州が連邦政府を脱退した後の1861年5月に新政府は首都をリッチモンド(Richmond)に移しました。アメリカ連合国の軍隊は南軍と呼ばれます。
こうした南部の既成事実に直面したリンカンは、就任時にあらゆる方法で南部を和解させる準備をしていましたが、1 つの条件を除いて、合衆国が分裂する可能性があるとは考えていませんでした。彼の決意が試されたのは、次のことでした。すなわち、ロバート・アンダーソン少佐(Maj. Robert Anderson)の指揮下にある連邦軍のサウスカロライナ州のサムター要塞(Fort Sumter)の存在のことです。要塞は、当時まだ連邦政府の管理下にあった南部で数少ない軍事施設の 1 つでした。
1686年4月9日、ピエモンテを治めていたサヴォイア公(Duke of Savoy)は新たな布告を発し、ワルドー派に対し8日以内に武装を解除し、街を退去するよう命じます。ワルドー派の人々はその後6週間にわたって勇敢に戦いましたが、2,000人のワルドー派が殺害されます。さらに多くの信者がトレント公会議(Council of Trent)のカトリック神学(Catholic theology)を受け入れ改宗します。さらに8,000人が投獄され、その半数以上が意図的に課せられた飢餓または病気により6か月以内に死亡していきます。
1893年、29人のワルドー派入植者からなる小グループが牧師のチャールズ・アルバート・トロン(Dr. Charles Albert Tron)に率いられて、イタリアからノースカロライナの新天地に移住することにします。 彼らはイタリアから鉄道でフランスに渡り、その後蒸気船ザーンダム号(Zaandam)に乗ってニューヨークに向かいます。彼らは故郷の思い出と郷愁を抱きながら、豊かで肥沃な農地への期待を持ちます。ニューヨークから列車でノースカロライナへ向かいます。1893年5月29日に目的地のノースカロライナ州に到着します。1893年6月に18人の新しい入植者グループが、1893年8月に別の14人グループが、1893年11月に 161人のグループがバーク郡に到着します。しかし、彼らの豊かな農場と繁栄への夢は、寒い冬と貧しい家屋、岩の多い土壌という現実によって打ち砕かれます。
そうした試練は、彼らの神への強い信仰、勤勉、そして忍耐によってこれらの障害は克服され、ノースカロライナ州にコミュニティが設立されるのです。それが現在のヴァルデイズなのです。ヴァルデイズでは毎年夏に「From This Day Forward」という野外劇(outdoor drama)が催されます。ワルドー派の人々の長い迫害や辛い信仰生活など苦難の歴史を演じる内容です。
イギリスがアメリカの海軍を保護するという立場から、フランスとの仮想的な海軍戦争が続きます。1798年に外交的な解決交渉にあたるアメリカの委員に対してフランス側は賄賂を求める事件が発覚します。これはXYZ事件(XYZ Affair)と呼ばれました。これによってアメリカでは反フランスという国民感情が高まります。その年の後半、議会の連邦主義者の過半数が外国人・扇動法(Alien and Sedition Acts)を可決します。これは、親フランス活動の疑いのある外国人に厳しい民事制約を課し、政府を批判したアメリカ市民に罰則を科し、憲法修正第1条で謳う報道の自由の保証を破棄する内容でした。
ジョン・アダムズは、第2代大統領務めアメリカ海軍の創設者としても知られています。イギリスとのパリ条約締結では交渉の主役となった人物です。妻のアビゲイル・アダムズ(Abigail S. Adams)はファーストレディとして、女性の権利の向上を訴え、奴隷制度には反対するなど当時としては極めて進歩的な考えの持ち主であったといわれます。