アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その14 『ジェームス・クック』とハワイ

もともとハワイの原住民は、漁業と農業に非常に長けていました。18世紀後半になると、彼らの共同体は酋長と司祭によって定められた厳格な法

Captain James Cook

体系を持つ複雑なものへと発展していきます。彼らは、古代ギリシャのオリンポス山(Mount Olympus)の神々に似た性格と力を持つ神々を崇拝し恐れていたのです。

外国人がハワイに来るようになったのは、1778年にイギリスのキャプテン、ジェームス・クック(Capt. James Cook)がハワイを訪れてからです。その後40年間、ヨーロッパとアメリカの探検家、冒険家、捕獲者、捕鯨船が新鮮な物資を求めてハワイ諸島に立ち寄りました。これらの接触は島の人々に大きな影響を与えることになります。たとえば、東洋と西洋から病気が持ち込まれ、それまで病気とは無縁だった島民に免疫のない病気が入ってきます。コレラ、はしか、性病、結核などの病気は、一時島民の人口を大きく減少させます。

Immersion School

ハワイの公用語は英語とハワイ語の2つです。ハワイ語は、1990年代前半には、ごく一部のハワイ先住民にしか話されず、ほぼ消滅していました。しかし、ハワイ語イマージョンスクール(immersion schools)の設立により、ハワイ語を話す新しい世代が生まれ、現在では幼稚園から大学院までハワイ語での教育が行われています。また、ハワイ語は地名や通りの名前、歌の中にも残っています。また、ハワイに住む人の多くは、ハワイアン・クレオール英語(Hawaiian Creole English)と呼ばれるものを話すことができます。一般的にピジン(pidgin)と呼ばれるハワイアン・クレオール英語は、ハワイのプランテーションキャンプ(plantation camps)という多言語環境の中で作り出された英語の方言です。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その13 『Aloha State』とハワイ州

ハワイ州(Hawaii)のニックネームは、 アロハの州(Aloha State)とかパイナップルの州(Pineapple State)と呼ばれています。ハワイは、マーク・トウェイン(Mark Twain)によって「どの海にも停泊している最も美しい島々の艦隊」と評されました。ハワイという名前は、ポリネシア人(Polynesians)の祖先が住んでいたライアテア(Raiatea)の旧名、ハワイキ(Hawaiki)に由来すると考えられています。人々のハワイへの移住は、4世紀から7世紀にかけてマルケサス諸島(Marquesas Islands)から北西に移動したポリネシア人によって行われます。その後、9世紀から10世紀にかけてタヒチ(Tahiti)から移住してきた第2次移民が続いたと人類学者は考えています。1970年代に始まったハワイでのカヌーや伝統的な航海術の復活は、そのことを示唆しています。しかし、ハワイとポリネシアの人々の間には、言語や文化において類似性があるのですが、ハワイ文化が独自の特徴を持つに至ったのは興味あることです。

Tahitians

ハワイは経済的に活発で、農業や製造業が盛んです。海洋学、地球物理学、天文学、衛星通信、生物医学の研究開発など、国内および国際的に重要な活動を行っています。「太平洋の十字路」(Crossroads of the Pacific)とも呼ばれるハワイ州は、アメリカのグローバルな防衛システムにとって戦略的に重要であり、太平洋盆地の交通の要所としての役割を担っています。また、文化の中心地であり観光のメッカでもあります。

ポリネシア群島

ハワイ州の面積は、西のクレ島(Kure Island)から東のハワイ島(Hawaii Island)まで2,400kmの三日月状に伸びる8つの島と124の小島を形成する火山列島の頂部で構成されています。それぞれの火山は、太平洋プレートの通過時に、太平洋中央部の地下にある地球の上部マントルが上昇し、地殻を溶かす領域を通過し、噴出したマグマが地殻に質量を加えてできたものといわれます。

Polynesian Cultural Center

火山活動は、マウナロア(Mauna Loa)、キラウェア(Kilauea)海山の活火山を除いて休止状態になっています。マウナロアとキラウェアは、最大の島ビッグアイランド(Big Island)と呼ばれるハワイ島の最東端にあり、壮大な噴火と溶岩流が時々起こっています。ハワイで最も高い山は、ハワイ島のマウナ・ケア(Mauna Kea)とマウナロアで、それぞれ海抜4,205メートル、4,169メートルに達しています。マウナ・ケア山頂付近は天候が安定し、空気が澄んでいることもあり、世界11ヶ国の研究機関が合計13基の天文台を設置しています。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その12 『Peach State』とジョージア州 

ジョージア(Georgia)は想い出の多い州です。私と家族が建国200年(Bicentennial)の翌年、1977年6月に始めてアメリカに渡ったとき、3か月ではありましたが暮らしたところです。ステイトボロ(Stateboro)という小さな街です。国際ローターリー財団(Rotary International Foundation)から奨学金を得て、英語の研修でこの街にあるGeorgia Southern Collegeで学びました。財団はこの小さなリベラルアーツの大学を50名の奨学生の研修場所として指定したのです。当時の大統領はジョージア出身の民主党員であったジミー・カーター(James “Jimmy” Carter)でした。まだ建国200年の余波が感じられた頃です。州のニックネームは「Peach State」、ジョージアは桃の産地です。

Map of Georgia

南部アトランタ(Atlanta) はジョージア州(Georgia)最大の都市であり州都です。コカコーラやCNN、保険会社アフラック(Aflac)の本社などがあることでも知られています。ここはまた映画の舞台でもあります。「風と共に去りぬ」(Gone with the Wind)を書いたマーガレット・ミッチェル(Margaret M. Mitchell)の博物館-The Margaret Mitchell House-がダウンタウンにあります。

Gone with the Wind

アトランタではマーチン・ルーサー・キング牧師(Rev. Martin Luther King Jr) が牧会していたエベネゼル・バプティスト教会(Ebenezer Baptist Church)、そして師の功績を称えるThe King Center博物館は必ず立ち寄るべきところです。アメリカ史において最も選れた人物の一人で、その偉業を讃え1月第3月曜日をキング牧師記念日(King Day)として国民の祝日となっています。

Martin Luther King Center

ジョージアのもう一つのニックネームは「The Goober State」です。Gooberとはなんのことはない「ピーナツ(peanut)」の古めかしい言葉です。ピーナツはジョージア州の公式な農産物となっています。州内中部と南部に広がった農場でピーナッツ、トウモロコシ、大豆を生産している。ピカン(pecan)では世界一の生産量を誇ります。住んでいたアパートの前に大きなピカンの木があって、実がたわわになっていました。

ステイトボロから東に車で2時間のところにサバンナ市(Savannah)があります。昔は綿花の輸出港であり、奴隷貿易の拠点でありました。歴史的な町並みや建築物が再建され、観光都市としても栄えています。ステイトボロから北西に向かうとオーガスタ(Augusta)があります。マスターズ・トーナメント(Masters Tournament)が開催される街でもあります。毎年4月2週目の日曜日が最終日です。ジャック・ニクラス(Jack Nicklaus)は最多優勝の6回、US Openで4回優勝し、「帝王(the great)」の名に相応しい活躍をしました。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その11 『Sunshine State』とフロリダ州

フロリダ州(Florida)のナンバープレートには『Sunshine State』とあります。フロリダとは「燦々と太陽が一杯」となります。文字通り温暖な州です。特に冬は、各地から避寒客がやってきます。極寒の中西部では、「フロリダに行ってくる」というフレーズは周りの人からは羨ましがられるのです。ディズニー・ワールド(Disney World)には、タイフーン・ラグーン(Typhoon Lagoon)、マジック・キングダム(Magic Kingdom),アニマルキングダム(Animal Kingdom),エプコットセンター(Epcot Center)など、どれをとっても娯楽の粋を集めては多くの観光客を集める世界一の娯楽施設です。その広さはJR山手線内の約1.5倍というのですから、まさに桁外れです。2023年3月で設立50周年を迎え、記念催しがあるようです。

Map of Florida

フロリダは亜熱帯の柑橘類であるグレープフルーツ、オレンジ、野菜の産地です。ジュース生産も盛んな州です。フロリダがオレンジの州(Orange State)とも呼ばれる由縁です。また豊富な漁猟資源でも知られています。特産のエビやカキでも有名です。北米最大の湿原地帯がエバグレーズ(Everglades National Park)国立公園です。国立公園として園内のほとんどが保護されています。開発は一切行われず、環境には優しいのですが、道路が不整備で観光には決して優しくないという珍しい国立公園です。

フロリダ州といえばケープカナベラル・ケネディ宇宙センター(Cape Canaveral Kennedy Space Center)も忘れることができません。現在、月に人を送るアルテミス計画(Artemis)が進んでいます。2022年12月11日に無人のアルテミスI試験機が月の周回軌道を終えて戻ってきました。アルテミスIIは2024年に始めて女性や有色のアメリカ人を乗せて月面着陸を目指します。アルテミスとは、ギリシャ神話の最高神ゼウス(Zeus)とタイタン(Titan)神族レト(Leto)の娘の名で貞潔や狩猟、月の女神とも呼ばれています。

Hurricane Ian

フロリダの州都はタラハシー(Tallahassee)。「古い町」を意味するマスコギ語族(Muskogean)の言葉に由来しています。フロリダ州立大学(Florida State University)が位置しています。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その10 『First State』とデラウェア州

合衆国大西洋岸中部に位置するデラウェア(Delaware)は、アメリカで二番目に面積が小さい州です。南北に細長く千葉県と同じ位の面積で州都はドーバー(Dover)です。建国に関わった13植民地のうちで最初に批准した州であることから「First State」としても知られています。Delawareとは、イギリスのヴァジニア植民地時代、初代の総督であったデ・ラ・ウエア(De La Warr)に由来します。同地に先住していたインディアンの「デラウェア族」から由来したという説もあります。

デラウェア州地図

1900年代初頭から独自の会社法と裁判制度により、法人の設立に最適な州として知られ、アメリカ上場企業の50%、フォーチュン(Fortune)500企業の64%、会社数で100万社に及ぶ企業が設立準拠地ないし本社を置くという特異な州です。かといって、デラウェア州はタックスヘイブン(tax haven)ではありません。デラウェア州の会社法の中核をなすデラウェア州一般会社法(Delaware General Corporation Law)投資家を保護するための重要な義務をいくつか定めているほかは、企業の経営に柔軟性をもたせるような内容といわれます。出資者の最善の利益のために行使されるように、出資者を重要な点に関して手厚く保護していることによって、デラウェア州を企業の設立地とするに値するようにしています。

デラウェアの運河

デラウェア州で有名なのは、大財閥企業デュポン・ド・ヌムール社 (DuPont de Nemours)です。フランスの貴族ピエール・デュポン (Pierre S. du Pont) が州最大の都市ウィルミントン(Wilmington)に火薬工場を作り、やがてアメリカ有数の化学企業となります。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その9 『Constitution State』とコネティカット州

州都ハートフォード(Hartford)での特別支援教育の学会で訪ねたことのある州です。合衆国北東部にあるニューイングランド地方では最南の州がコネティカット州(Connecticut)です。Connecticutとはモヒガン族(Mohegan) の言葉で、「長い川が流れる土地」という意味です。イギリスから最初に独立した13州のうちの一つで歴史のある州です。そこで愛称が「Constitution State」、又の愛称は「ナツメグの州」(Nutmeg State)となっています。1787年の合衆国憲法制定会議において、コネチカットが重要な役割を果たしたということから付けられたようです。コネティカット州の北隣りがマサチューセッツ州です。

古い製粉工場

最初に入植したヨーロッパ人はオランダ人貿易商で海洋探検家のエイドリアン・ブロック(Adriaen Block)です。1614年に探検した後、コネチカット川(Connecticut River)を遡り、現在のハートフォード、ダッチポイント(Hartford Dutch Point)に砦を築きます、「希望の家」(オランダ語: Huis van Hoop)と呼んだといわれます。その後、マサチューセッツ湾植民地住民で清教徒であったジョン・ウィンスロップ(John Winthrop) が、1635年にコネチカット川河口のオールドセイブルック(Old Saybrook) に新植民地を設立する許可を得ます。これが後にコネチカット州をつくり上げることになる3植民地の始まりとなります。ウィンスロップはその後、マサチューセッツ湾植民地知事となります。

コロニアル風の住宅

19世紀になって、繊維工場の立地によって工業化が進みます。ジェットエンジン、ヘリコプター、原子力潜水艦、ベアリングなどの工業生産が盛んです。伝統的な産業は金融業であり、ハートフォードには保険会社が集中し、フェアフィールド郡のヘッジファンド(hedge fund)も有名です。ヘッジファンドとは、金融派生商品など複数の金融商品に分散化させて、高い運用収益を得ようとする代替投資の一つです。「お金持ちだけが買える投資信託のようなもの」とも揶揄されています。ゼネラル・エレクトリック(GE)やゼロックス(Xerox)などの本社があります。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その8 『Mountain State』とコロラド州

学会があって一度コロラド(Colorad)州都のデンヴァー(Denver)を訪ねたことがあります。アメリカの独立宣言発布100年目に州として昇格したので、百年記念の州(Centennial State)と呼ばれています。Coloradとはスペイン語で『赤らんだ』という意味でもともとはコロラド川(Colorado River)を指していたといわれます。州の南北にはロッキー山脈(Rocky Mountains) が貫いており、州全体の平均標高が全米で一番高いところです。 「山の州」(Mountain State)という愛称も使われます。デンヴァーは標高1,600Mのところにあるので、「マイルハイシティ」(Mile High City)という愛称がついています。

コロラド州には石油、天然ガス、ウラン、石炭を産出し、モリブデン(molybdenum)の世界一の鉱山があります。モリブデンは潤滑油、エンジンオイルの添加物、電子基板、癌の診断に用いられる物質です。西側斜面の南西部で著名なのはグランド・メサ(Grand Mesa)です。メサ・ヴェルデ国立公園 (Mesa Verde National Park) は、コロラド州南西部に位置するプエブロ・インディアンの(Pueblo indian)のアナサジ族(Anasazi tribe)の残した断崖をくりぬいた一連の集落遺跡群で、世界遺産となっています。

レッド・ロックス・パーク野外劇場(Red Rocks Park & Amphitheater)は、古代の岩石と夕焼けを背景にした野外舞台で、デンヴァーの中心部から南西に 30 分程の場所にあります。この野外劇は多くのレジェンドが演奏したところです。沢山のハイキングトレイルがあり、家族で散策を楽しむこともできる観光地です。

メサ・ヴェルデ国立公園

コロラド州西部に位置する街、グレンウッド・スプリングス(Glenwood Springs)の一帯は、地熱と温泉で知られています。この地には遊牧部族であるユート族(Ute)が頻繁に行き交い、狩猟を行っていました。このあたりはユート族の言語で「大いなる薬」を意味する「Yampah」と呼ばれていました。ヨーロッパ人の入植後も、グレンウッド・スプリングスはその初期から温泉町として発展してきたようです。山に挟まれた狭い谷間という地理的条件によって、歩行者や自転車にとって天然の環境のようで、スポーツの後は温泉浴というわけです。

Glenwood Hot Springs

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その7 『日系アメリカ人の歴史』とカリフォルニア

州都サクラメント(Sacramento)はサンフランシスコから北東に車で1時間半ほどのところにあります。途中、葡萄とワインの生産地ナパバレー(Napa Valley)とソノマカウンティ(Sonoma County)を通ります。1848年に金が発見され、世界中から人々が押し寄せました。その中心になったのがこの街で、いまでも旧市街に「ゴールドラッシュ・サクラメント」(Goldrush Sacramento)という当時の町並みを残している一角があります。メキシコとの国境にあるサンディエゴ(San Diego)は気候に恵まれたカリフォルニアの中でも更に温暖で、1年のうちほとんどの日が晴天。治安の良さもあって「アメリカ人が住みたい街」の上位に挙げられる人気の都市です。南欧風の街並みが美しく、これも人気の一つです。

日米開戦・太平洋戦争の勃発によって、西海岸付近に住んでいた約12万人の日系アメリカ人は敵性外国人とされ土地や財産を没収され、7州10か所の強制収容所に収容されます。これら大戦前の移民の出身地は、圧倒的に山陽地方の山口県・広島県・岡山県、および九州地方北部です。その理由として、かつては「山陽道は旅人の往来が多く、他所への移住に抵抗感が少ない地域であるから」といわれました。「この地方は中世以来、近代日本の軍事、旧日本海軍、現在の海上自衛隊の活動が顕著で、鎖国が解かれてから、再び出国ラッシュとなったから」と云う説もあるほどです。このためか、以前は「アメリカ日系人の標準語は広島弁である」とまで言われました。

米陸軍第442連隊戦闘団

戦後、日系人は戦時中にヨーロッパ戦線で活躍した日系アメリカ人部隊であった陸軍第442連隊戦闘団・第100歩兵大隊の存在や、日系アメリカ人議員の努力で、その地位と名誉を回復していきます。1988年には強制収容所での不当な扱いに対して補償法案を通過させ、生存者への金銭的補償を勝ちとります。それに尽力したのがダニエル・イノウエ(Danial Inoue)、ノーマン・ミネタ(Norman Mineta)といった政治家です。一般に、日系人は経済的には平均より恵まれているといわれますが、グラス・シーリング「見えない天井」という人種差別問題が残されています。

作家石川好の「ストロベリー・ロード」という作品は、高校卒業と同時に、先行渡米していた実兄を頼り兄の勤めていたカリフォルニアのイチゴ農園で働きながらカレッジで学んだ4年間の在米体験記です。同じく「ストロベリー・ボーイ」はカリフォルニアのイチゴ農場が舞台で、壊れた奇妙な日本語をあやつる愛すべき日系人、メキシコからの密入国者、得体の知れない東南アジア人が登場し、アメリカは夢と希望とそして幻滅の代名詞であるといったことが書かれています。カリフォルニアでは、今もサクラメント近郊等にかなりの割合で日系農場主が存在しています。

ストロベリー・ロード

日系人社会はおよそ1世と生まれた2世、そして戦後から1980年代までの戦後移民に大別することができます。1世は、資源に乏しく貧しい日本で生活苦にあった貧困層がやむを得ず移住せざるを得なかったような経済難民です。苦労して現在の地位を築き上げてきた功労者となりました。他の移民集団と同様にリトル・トーキョー(Little Tokyo) に代表されるエスニック・タウン(Ethnic town)を形成する傾向があります。2世以降は父祖の地としての日本に興味はあるものの、それ以上の感情は持たず、思考や行動はアメリカ人的といわれます。ただ2世は1世の親と生地という2つの文化に自己を引き裂かれるというアイデンティティ・クライシス(Identity Crisis)を経験するといわれます。日系アメリカ人文学のテーマとして描かれることが多いようです。上述した作家石川好はその典型といえるでしょう。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その6『Granite State』とカリフォルニア州 

合衆国の州のうちでは最大の人口を誇るのがカリフォルニア州(California)です。愛称は「花崗岩の州」(Granite State)、又は「黄金の州」(Goldden State)、州都はサクラメント(Sacramento)です。日本に近い州なので私はこれまで何度も行きました。この州はなにかと一番、あるいは世界的に有名なものが多いところです。例えば大統領選の選挙人数でカリフォルニアは最多の55人です。ロサンゼルスはハリウッドを抱えるなど、エンターテイメント産業の世界的中心地です。ベイエリア(Bay Area)にはシリコンバレー(Silicon Valley)が含まれ、全米で最も経済的に進んだ地域の一つとなっています。

Half Dome and Climbers

1846年にアメリカ-メキシコ戦争が起こります。この戦いに勝利したアメリカは、メキシコの領土であったカリフォルニアを手に入れます。アジアやメキシコに近いため、最も移民が多い州です。移民はそれぞれの居住区に固まる傾向が強く、「民族のサラダボウル」という形容がぴたりです。チャイナタウン(Chinatown)、コリアンタウン(Koreantown)、リトルトーキョー(Littletokyo)、リトルサイゴン(Littlesaigon)、リトルインディア(Littleindia)などが有名です。なかでも隣接したメキシコからの移民が多く、その中心はなんといってもサンディエゴ(San Diego)でしょう。

カリフォルニア州が1つの国家であるとすると、GDPではイタリアに匹敵します。合衆国のGDPの13 %を占めていて、このGDP額は世界の国と比較しても9位となっています。日本人に最も馴染みのあるのがサンフランシスコ(San Francisco)。サンフランシスコといえば、1937年に完工したのがゴールデン・ゲート・ブリッジ(Golden Gate Bridge)です。オレンジ色に塗られ歩行者や自転車も通ることができるので、湾を見下ろすパノラマのような景色が観光客に人気があります。私もここを一度往復で走ったことがあります。

世界一高い木が、オレゴン州(Oregon)との境に位置するレッドウッド国立公園(Red Wool National Park)にあります。「ハイペリオン」(Hyperion)と名付けられたセコイアメスギ(metasequoia)の木は高さ115.61メートル、直径4.6メートルです。樹齢は実に600~800年といわれます。「ハイペリオン」とはギリシャ神話に登場する巨人の名です。この木に近づくことが正式に禁止され、違反すると約65万円の罰金が科されるという代物です。デスバレー(Death Valley)という地帯は、1913年7月に世界最高の気温56.7°Cを記録したといわれます。文字通り「死の谷」と呼ばれ、州中部にあるモハーヴェ砂(Mojave Desert)の北に位置しています。

John Muir and Yosemite

3年前にヨセミテ国立公園(Yosemite National Park)で家族13人が集まって夏の休暇を楽しみました。この国立公園はサンフランシスコから車で約3時間半のところに位置しています。そそり立つ白い花崗岩の絶壁のセンチネルドーム(Centinel Dorm)、ハーフドーム(Half Dorm)はそれぞれ渓谷の底から約1,160メートル、1,470メートルの高さの壮大な岩山です。そこを流れ落ちる多くの巨大な滝、谷や木々の間を流れる澄んだ大小の川、樹齢2000年、80mを超える巨大なセコイアジャイアントセコイア(Giant Sequoia)の巨木の林など、生物学的な多様性が世界的に知られています。

世界一といえば、大学の質もカリフォルニアはその代表です。スタンフォード大学(Stanford University)、カリフォルニア大学バークレー校(University of California, Berkley)、カリフォルニア工科大学(California Institute of Technology)などです。どれも超難関の大学です。特に大学院教育や研究がすぐれ、多くのノーベル賞学者を輩出しています。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その5『Bear State』とアーカンソー州

私はアーカンソー(Arkansas)を旅したことがありません。州名は、クアポー族 (Quapaw) の「下流の人々の土地」を意味する「アカカズ(akakaze)に由来するとあります。州の北はミズーリ州(Missouri)に接し、東はテネシー州(Tennessee)とミシシッピ州(Mississippi)に、西はオクラホマ州(Oklahoma)とテキサス州(Texas)に、南はルイジアナ州(Louisiana)に接しています。昔は熊が沢山生息していたことから、『クマの州』(Bear State)と愛称がついたようです。又の愛称は「チャンスの地」(Land of Opportunity)です。

Lake in Arkansas

州の人口構成ですが、約80%が白人、約16%が黒人、約7%がヒスパニック、約1%がアジア人となっています。南部にありながら、歴史的にこの地域にはヨーロッパからの白人の入植者が移住したため、今でも白人が多い構成の要因になっているといわれます。もともとはルイジアナを支配していたフランスから購入したのがアーカンソーです。やがて白人の農園経営者がミシシッピ沖積平原に沿ったアーカンソー・デルタ(Arkansas Delta)に入って綿花を栽培していきます。そのためアフリカ人奴隷が最も多い地域となったところです。デルタというのは、ミシッシピー川の低地帯のことで、米作も大規模に行われているといわれます。

Delta in Arkansas

州都はリトルロック(Little Rock)で、人種差別撤廃を求めた事件で知られています。リトルロック・ナイン(Little Rock Nine)と呼ばれたアフリカ系アメリカ人生徒を保護するために、連邦政府が1957年9月25日に1,000名の空挺師団を派遣し、9人の生徒を高校に入学するのを護衛するように命じた事件です。合衆国裁判所が人種統合を行うよう命令を出すきかけとなった事件でもあります。そして、1959年秋までにリトルロック市の高校は完全に人種差別を撤廃することになります。これがアメリカ全土での大きな公民権運動を促すリトルロック高校事件です。

アーカンソーはブルース、ジャズ、フォーク音楽発祥の地でもあります。ヘレナ(Helenaにあるデルタ・カルチュラル・センター(Delta Cultural Center)では、地域の歴史が詳しく紹介されています。この地域は、ジョニー・キャッシュやシスター・ロゼッタ・サープなど、全米に知られているミュージシャンの故郷といわれます。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その4 『Grand Canyon State』とアリゾナ州

一度、兵庫教育大学の院生を引率してアリゾナ(Arizona)の州都フェニックス市(Phoenix)にある学校を視察したことがあります。このあたりはアメリカで夏は最も暑い地帯といわれます。そのせいか、フェニックスの愛称は「太陽の谷」(Valley of the Sun)と呼ばれるほどです。フェニックス近辺には有名なグランド・キャニオン国立公園(Grand Canyon National Park)があります。砂漠の中心にありながらも全米有数の工業都市でもあります。州の愛称はグランドキャニオンの州(Grand Canyon State)とかアパッチの州(Apache State)といわれます。

Walking at Sedona

訪ねた場所は、高校と連携する職業訓練施設でした。そこは,麻薬や銃を保持して逮捕された高校生が学んでいました。学校の粋な計らいで、教官の立ち会いで、保護観察にありながら自宅からこの施設に通う生徒と会話することができました。一人の黒人生徒は、将来は大工になりたいというのです。フェニックスには成人の教育および職業訓練を提供している10校のコミュニティーカレッジと2つの技術訓練センターがあるとのことです。

Holy Cross Chapel at Sedona

アリゾナ州立大学で学位をとり、ハワイ大学マノア本校(University of Hawaii at Manoa)で教授をしている友人から、州立大学の先生を紹介してもらい、教員養成プログラムに接することができました。この友人は、「フェニックスに行ったら是非、セドーナ(Sedona)を訪ねるように」とも言われました。土曜日に2台の車で出掛けることにしました。2時間半のドライブで、周り一面赤い岩、切り立つ峡谷、松の緑を見ながら”レッドロック・カントリー”(Red Rock Country)と呼ばれる岩山に囲まれた緑多い美しい街に着きました。セドーナは地球の磁力が集中していて強いエネルギーを持つポイント「ボルテックス」(Vortex)があると言われ、癒しを求めて多くの旅行者が訪れます。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その3 『Last Frontier』とアラスカ州

1970年代まで、日本からヨーロッパやアメリカ本土に行くときの経由地はアラスカ(Alaska)のアンカレッジ(Anchorage)でした。給油するためです。私は一度、空港のターミナルの窓から外を眺めただけで本土を踏んだことがありません。アラスカのニックネームは「Last Frontier」(最後の開拓地)といわれます。

Alaskan wilderness

映画『アラスカ魂』をご存知でしょうか。この映画の原題は「North to Alaska」といいます。1900年のゴールドラッシュ(Goldrush)の舞台がアラスカです。金鉱権利争奪戦と三度に亘る猛烈な格闘や、三角関係恋の駆け引きが繰り広げられる娯楽映画です。主演はジョン・ウェイン(John Wayne)でした。

Aurora in Alaska

1867年にクリミア戦争(Crimean War)の中立国であったアメリカは、ロシア帝国から1平方kmあたり5ドルという価格でアラスカを購入します。この交渉をまとめたのは国務長官であったウィリアム・スワード(William Sward)です。この取引でスワードは当時のアメリカ国民から「スワードの愚行」「巨大な冷蔵庫を買った男」などと非難されたとか。その後金や石油などの豊かな資源が発見され、さらに国防上重要な地帯となりアラスカの購入は高い評価を受けます。1959年、アメリカの49番目の州に昇格します。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その2 『Heart of Dixie』とアラバマ州

最初の州はアラバマ州(Alabama)です。州名は、チョクトー族 (Choctaw)の酋長タスカルーサ(Tascalusa)から由来し、「黒い戦士」という意味だそうです。愛称は、『南部の中心』(Heart of Dixie)です。Dixieとは南という意味です。Dixieland Jazzは文字通り南部生まれのジャズのことです。

Dixieland Jazz

アラバマ州はディープ・サウス(Deep South)と呼ばれる地帯にあります。合衆国の南部に位置しています。一度アメリカの貧しいといわれる所の州の小学校を訪ねようと考えていました。アラバマ大学の知人を知り合い、そこでタスカルーサ(Tuscaloosa)という街にある学校へ行きました。タスカルーサにはアラバマ大学が本部キャンパスを構えています。この大学のフットボールチームは全米でも一、二位を争う強豪です。人口の比率では白人と黒人が拮抗しています。

タスカルーサ市内の小学校を訪ねたときのエピソードです。身なりが貧しい子どもが目立ちました。補助教師が子どもの学習の手伝いをしています。この人は教師の免許状なして採用されたとのこと。個々の子どもの習熟度が違うので、個別の指導が欠かせません。補助教師がどうしても必要なのです。教室にはパソコンなども見当たりません。子どもは積極的に挙手して教師に質問はしません。そのせいで教室内は静かで活気が感じられません。

Louis Amstrong

アラバマ州は人種差別の撤廃を求める公民権運動(Civil Right Movement)で知られたところです。セルマ(Selma)とモンゴメリー(Montgomery)は歴史上重要な街として、アメリカ最古かつ最大の都市の一つといわれます。1965 年、この公民権運動が進展する出来事となったデモ行進が、セルマからモンゴメリーまでの道のりで行われました。この道は、後にアメリカ公民権トレイル(Civil Rights Trail)と呼ばれるようになります。セルマは行進の出発地点です。そのきっかけをつくったのが、ローザ・パークス(Rosa Parks)という女性です。白人優先席のバスに坐り運転手から黒人席に移動するように言われますが、それを拒否したため逮捕されたことが公民権運動のデモ行進につながります。バスの乗車をボイコットして歩くという抗議運動です。

アラバマ物語

1962年に製作されたアメリカ映画『アラバマ物語』(To Kill a Mockingbird) があります。人種差別が根強く残る1930年代のアメリカ南部で、白人女性への性的暴行容疑で逮捕された黒人青年の事件を担当する弁護士アティカス・フィンチ(Atticus Finch)の物語です。弁護士役を演じたのが名優グレゴリー・ペック(Gregory Peck)でした。「Mockingbird」はマネシツグミと呼ばれ、口まねをする鳥として知られています。この映画を観ないとタイトルの意味がわかりません。

アメリカ合衆国を州の愛称から巡る その1 『人種のサラダボウル』とアメリカ

アメリカ合衆国の州を愛称を探して旅していきます。私が訪れた州にはいろいろな思い入れがあります。多くの州を旅して得たことたは科学研究費を使って、各州の学校の特徴とか課題を調べることができ、そのついでに歴史を学んだりしたことです。日本では特別支援教育の黎明期であった頃で、アメリカの多様な教育事情を知るのに絶好の機会でした。ついでに観光地を立ち寄ったこともあります。ですが、全ての州を訪問したわけではありません。小説や映画で知った州にも力を込めて書いていきます。家族はマサチューセッツ州とウィスコンシン州に住んでいます。私はウィスコンシン大学から学位を貰っているので特にこの二つの州には特に思い入れがありますので注目していきます。

Salada Bowl, USA

旅の途中でいろいろなエピソードがありました。学会に出掛ける機内で発表原稿を必死に暗記しているとき、女性のアテンダントが「グッドラック」といって白いフキンに包んだワインをくれたことがあります。

真冬のワシントンDCから極寒のミネアポリス行きに乗ったときです。男性アテンダントが「当機はこれからハワイのホノルルへ向かいます」とアナウンスしました。乗客は拍手で大喜びです。するとアテンダントはすまして言います。「機長はミネアポリスに向かうのだそうです」。こうしたジョークはアメリカ人は大好きです。ひんしゅくをかうことはありません。

Salada

ところで、人種がそれぞれに共存し合って国を構成している状態を指す表現に「人種のサラダボウル」と「人種のるつぼ」という表現があります。前者は、それぞれが混ざり合わずに、独立した形で共存している状態。それぞれの文化を持ちながら各人種が同じ地域に住む姿です。後者はブラジルなど南米大陸の国などで見られるように、外からやって来た白人と先住民の混血が進んだ状態でこれを「人種のるつぼ」と呼ばれます。

「人種のサラダボウル」がどのようにして発展し、また問題を抱えているかを考えながらアルファベッド順に各州を巡り歩くことにします。

アメリカ合衆国建国の歴史 その153 アメリカの分断の背景

アメリカは、創設期の諸文化が大切に育まれてきた独自の原理をもっていましたが、しばしば互いに矛盾したものでありました。18世紀半ばまでに8つの個別のヨーロッパ系アメリカの文化が北アメリカ大陸の南部と東部の周辺で確立しました。何世代もの間、これらの異なる文化の発生地域は、お互いに驚くほど孤立して発達し、特徴的な価値感や慣行、方言、理想などを定着させました。個人主義を信奉する地域もあれば、ユートピア的な社会改革を熱心に支持する地域もありました。また神の意志によって自ら導かれていると信じる地域もあれば、良心と探求の自由を擁護する地域もありました。

ホワイト・アングロ・サクソン・プロテスタント(White Anglo-Saxson Protestants: WASP)のアイデンティテイを抱く地域もあれば、民族、宗教的な多元主義を標榜する地域もありました。平等と民主的参加を尊重する地域もあれば、伝統的な帰属的な秩序への敬意を重視する地域もありました。これらのどこもが今日、創設当時の理想のいくつかを保持し続けています。

脱ワスプのTシャーツ

アメリカの最も基礎的で永続的な分裂は、共和党支持州と民主党支持州、保守とリベラル、労働者と資本家、黒人と白人、信仰心の厚い人々と世俗的な人々の間にあるのではありません。むしろアメリカの分裂は、合衆国が11の地域的なネーションの全体または一部で構成されている連邦であり、それらのいくつかは、お互いを理解していないという事実によるものです。これらのネーションは州境も国境もお構いなしなのです。カリフォルニア、テキサス、イリノイ、ペンシルヴェニア内をまたがっているかと思えば、合衆国のフロンティアを超えてカナダやメキシコへと広がっているのです。

6つのネーションが一緒になってイギリス支配から解放しました。ただ、同じ英語話者の競争相手によって4つのネーションには、南北戦争で敗北したものの、屈服したわけではありませんでした。19世紀の後半にはアメリカの辺境に住む人々が集まって2つのネーションが西部で建設されます。文化多元主義で定義されるものもあれば、フランス、スペイン、アングロサクソンの文化遺産によって特徴づけられるものもあります。

WASP Logo

ネーションが融合し、ある種の統一されたアメリカ文化を形成したという兆候を探すのは難しいといわれます。それどころか、1960年以来、これらネーションの裂け目は次第に広がり、結果的に文化的葛藤や憲法論争を激化させ、国家統合の警告する訴えがこれまでにないほど繰り返されているのが今日のアメリカの姿です。南北戦争、ベトナム戦争、公民権運動、ジェンダー論争などを見ればそれがわかります。

アメリカ合衆国建国の歴史 その152 ミッドランドや大アパラチアやレフトコースト

現在の中西部にあたる「ミッドランド」(Midland)は、政府の規制に反対する傾向があります。この地域はイギリスのクエーカー教徒(Quaker)が入植したところで、「アメリカのハートランド」(America’s heartland)と呼ばれる文化を生んだ温かなミドルクラスの社会といわれます。政治的意見は穏健で、政府の規制には眉をひそめがちだといわれます。ミッドランドには、ニュージャージー、ペンシルベニア、オハイオ、インディアナ、イリノイ、ミズーリ、アイオワ、カンザス、ネブラスカ各州のそれぞれ一部が含まれます。人種的に多様なミッドランドを「アメリカの偉大なるスイング地域」(America’s Great Swing Region)と呼ばれています。

11 Nations

保守的な「大アパラチア」(Greater Appalachia)といわれる地域は、最も保守的なプロテスタント教会が多く、アパラチア地方に由来を持ちます。北アイルランド、イングランド北部、スコットランドのローランド地方(Roland)といった国境紛争で荒廃した地域から来た入植者たちが築いた所で、「レッドネック」と呼ばれる白人の肉体労働者たちが住む土地です。山の住民が移住して自分たちの宗教を持ち込んだ場所を起源とする教会もあります。政治的には、この地方選出の公職者のほとんどは決定的に保守的とされます。

Midland

リベラルなのが「レフトコースト」(Left Coast)と呼ばれる太平洋西岸の地域です。レフトコーストはカリフォルニア、ワシントン、オレゴンの各州です。ニューイングランド地方と中西部のアパラチア地方の出身者たちが入植したところがレフトコーストで、ヤンキーダムのユートピア志向的な気質と、大アパラチアの自己表現や探究心」のハイブリッドの所といわれています。このようにミッドランドや大アパラチアやレフトコーストといったネーションの文化をよくよく眺めると、アメリカの政治と文化の分断が、興味深い形で浮き彫りになってきます。

アメリカ合衆国建国の歴史 その151 ヤンキーダムやニュー・ネザーランド

アメリカが、地理ではなく政治的信条で分断されていることは、新型コロナウイルスのパンデミックへの対応でも見てとれます。すべての州に適用される連邦政府の対策がないので、各州知事が連携して危機に立ち向かうための計画を作っています。連邦政府は各州の自由と責任に委ねるという方針なのです。

Dutch Colonies


ニューヨーク市以北の北東部からミシガン、ウィスコンシン、ミネソタ各州まで広がる「ヤンキーダム」(Yankeedom)は、教育、知的な功績、地域社会のエンパワーメント、圧政を防ぐための市民の政治参加を重んじています。ヤンキーダムは教育を重視し、政府による規制に賛成する傾向があります。ヤンキーダムの人たちには「ユートピア志向的な傾向」があるともいわれます。このエリアは、急進的なプロテスタントであるカルバン派の信者が入植した地域です。

New Netherland


ニューヨーク市を含む「ニュー・ネザーランド」(New Netherland)には、「唯物主義」の文化があります。商業的な文化が色濃いニュー・ネザーランドは、唯物主義的な傾向があり、民族や宗教の多様性にきわめて寛容で、探究の自由と道義心を断固として守り抜くという精神があるともいわれます。本国オランダの基盤である「宗教的自制心の自由を保ち享受する」という信仰精神や多元的共存性の富の尊重、文化的および宗教的寛容さの影響であろうといわれます。オランダの影響は、ロードアイランドからデラウェアにかけての地域で、今日でもオランダ語の地名として残っていることからもうかがえます。

アメリカ合衆国建国の歴史 その150 11種類のネーション(nation)で構成されるアメリカ

これまでアメリカ合衆国の歴史を調べてきました。これから数回にわたりアメリカ現代史で、特に政治にかかわる話題を取り上げることとします。著述家でジャーナリストのコリン・ウッダード(Colin Woodard)は、アメリカは歴史的・文化的な成り立ちが異なる11種類の「国」(ネーション: nation)で構成されていると主張しています。この論点は、「American Nations: A History of the Eleven Rival Regional Cultures in North America」という著作に表れています。

Colin Woodard


合衆国は、確かに50の州からなる国です。しかし、実は共通の文化、民族的起源、言語、歴史的経験を持つ「ネーション」で構成されているというのです。ネーションとは、共通の文化、民族的起源、言語、歴史的経験、工芸品、シンボルを共有しているか、あるいは共有すると信じている人々の集団のことです。決して一つのアメリカがあるのではなく、いくつかのアメリカがあり、そのそれぞれのネーションが何世紀も前から独自の価値感を持ってきたという分析です。

11 nations

アメリカの歴史では、同じようなパタンでネーションが互いに反目し合っているのを確認できるといわれます。大統領選挙の際の政党や候補者の主張がそれに表れます。そこでは、アメリカ市民の政治的な選好は煎じ詰めれば、アメリカの市民生活の鍵概念である「自由」をいかに推進するかをめぐる二つの考えに必ず帰着してきたといわれます。

アメリカ合衆国建国の歴史 その149 米比戦争と第二次世界大戦におけるアギナルドの役割

1899年2月4日夜、マニラを取り囲んでいたアメリカ軍とフィリピン軍との間で、避けられない衝突が始まります。2月5日の朝、勇敢に戦ってきたフィリピン人は、すべての地点で敗退してしまいます。戦闘が進行する中、アギナルドがアメリカに対して宣戦布告を行い、アメリカは直ちにフィリピンに援軍を送ります。フィリピン政府は北へ逃れていきます。1899年11月になるとフィリピン人たちはゲリラ戦に打って出るのです。

3年にわたる高い代償を払った戦闘の後、1901年3月23日、フレデリック・ファンストン将軍(Frederick Funston)の率いる大胆な作戦により、アギナルドがルソン島(Luzon)北部のパラナン(Palanan)の秘密司令部で捕えられ、反乱はついに終結します。アギナルドがアメリカへの忠誠を誓い、アメリカ政府から年金を支給され私生活へと引退します。

Elpidio Quirino

1935年、独立に向けてフィリピン連邦政府が設立された。アギナルドは大統領選に出馬しますが、決定的な敗北を喫します。1941年12月に日本軍がフィリピンに侵攻するまで、彼は私生活に戻ります。しかし、日本軍はアギナルドを反米の道具として利用しようとします。彼は演説をし、反米記事に署名します。1942年初めには、当時コレヒドール島(Corregidor Island)で日本軍に抵抗していた米軍守備隊のダグラス・マッカーサー元帥(Gen. Douglas MacArthur)に降伏するようラジオで呼びかけます。同軍は1942年5月に降伏しますが、マッカーサーはすでに退却したあとでした。

Douglasn Macarthur

1944年末にアメリカ軍がフィリピンに戻り、1945年にマニラを奪還した後、アギナルドは逮捕されます。日本軍との協力で告発された者たちは、大統領恩赦で釈放されるまで数カ月間投獄されます。1950年、エルピディオ・キリノ大統領(Elpidio Quirino)によってアギナルドは国家評議会のメンバーに任命されます。晩年は退役軍人問題、フィリピンのナショナリズムと民主主義の促進、フィリピンとアメリカの関係改善に力を注ぎます。

アメリカ合衆国建国の歴史 その148 フィリピン独立のための闘い

アギナルド(Aguinaldo)は中国人とタガログ人(Tagalog)の両親から生まれます。マニラのサン・フアン・デ・レトラン・カレッジ(San Juan de Letran College)に通いますが、母親が経営する農場を手伝うために早々と退学します。1896年8月、彼はカビテ・ビエホ(Cavite Viejo)、現在のカウィット(Kawit)、カビテ市(Cavite cityKawit)に隣接の市長となり、スペインと激しく戦い成功した革命団体カティプナン(Katipunan)の地元リーダーとなります。1897年12月、彼はスペイン総督とビアク・ナ・バトー協定(Pact of Biac-na-Bato)と呼ばれる協定に調印します。アギナルドがフィリピンを離れ、永久に亡命する条件は、スペインから多額の金銭の報酬と自由な改革を約束することでありました。香港とシンガポールに滞在していた彼は、アメリカ領事とジョージ・デューイ提督(George Dewey)の代表者とともに、スペインとの戦争でアメリカを支援するためにフィリピンに戻る準備をします。

フィリピン革命軍

1898年5月19日、アギナルドがフィリピンに帰国し、スペインとの闘争の再開を宣言します。1898年6月12日にスペインからの独立を宣言したフィリピン人は、アギナルドを大統領とする暫定共和国を宣言し、9月には革命議会が開かれ、フィリピンの独立が批准されます。しかし、1898年12月10日に締結されたパリ条約により、フィリピンはプエルトリコ、グアムとともにスペインからアメリカに割譲されることになります。

Marcelo Hilario del Pilar

アメリカ合衆国建国の歴史 その147 フィリピン共和国のゲリラの活動

フィリピン政府は北へ向かって逃走していきます。1899年11月、フィリピン人はゲリラ戦に打って出ますが、その結果、壊滅的な打撃を受けることになりました。反乱の主要な作戦はルソン島で行われましたが、その際、アメリカ軍は先住民のマカベベ(Macabebe)偵察兵の多大な援助を受けます。彼らは、以前スペイン政権に仕えていましたが、その後アメリカに忠誠心を移します。組織的な反乱は、1901年3月23日、フレデリック・ファンストン(Frederick Funston)アメリカ軍大将によるアギナルド(Emilio Aguinaldo)の捕獲で事実上終結します。ファンストンは、捕虜となった使者からアギナルドの秘密司令部の場所を知ると、自らルソン島北部の山岳地帯に大胆な作戦を展開します。一握りの将校とともに捕虜のふりをし反乱軍に変装したマカベベ斥候の隊列の護衛のもとで行軍します。援軍を待っていたアギナルドが先頭部隊を迎えると、降伏を要求されて唖然とさせられるのです。ファンストン到着後、アギナルドが「これは冗談ではないのか」叫ぶのですが、マニラへ連行されていきます。

Mariano Ponce

アギナルドがアメリカに忠誠を誓い、敵対行為の終結を求めますが、ゲリラ活動は衰えることなく続けられます。アメリカ兵士への虐殺に怒ったジェイコブ・スミス(Jacob F. Smith)准将は、無差別の残虐行為で報復し、軍法会議にかけられ退役を余儀なくされます。1902年4月16日、フィリピンのミゲル・マルバール(Miguel Malvar)将軍がサマール(Samar)島で降伏した後、アメリカ市民政府は残ったゲリラを単なる盗賊とみなしますが、戦闘は継続されました。シメオン・オラ(Simeón Ola)率いる約千人のゲリラは1903年後半まで敗北せず、マニラ南方のバタンガス州(Batangas)ではマカリオ・サカイ (Macario Sakay)が指揮する部隊が1906年後半まで捕虜になるまで抵抗します。

宮崎滔天

アメリカ軍に対する最後の組織的抵抗は、1904年から1906年にかけてサマール島で行われました。そこでは、平和になった村々を焼き払うという反乱軍の戦術が、彼ら自身の敗北につながりました。ミンダナオ島(Mindanao)のモロ族(Moro)の反乱は1913年まで散発的に続きますが、アメリカはフィリピンを明らかに支配し、1946年まで島々の領有を維持することになります。

アメリカとの戦争に突入したフィリピン共和国政府のアギナルドは、武器の支援を日本に期待します。1899年6月、革命派のマリアーノ・ポンセ(Mariano Ponce)らの代表団を日本に送り、日本政府から武器・弾薬の調達を受けるべく工作を行います。

アメリカ合衆国建国の歴史 その146 スペイン支配の終焉と第一次フィリピン共和国

300年以上にわたるスペインによる植民地支配の間、フィリピンでは準宗教的な反乱が頻発していましたが、19世紀末のホセ・リサール(José Rizal)らの著作によって、より広範なフィリピン独立運動が活性化していきます。スペインは植民地政府の改革に消極的で、1896年に武力反乱が起きます。1896年12月30日、革命ではなく改革を主張したリサールは扇動罪で銃殺されます。彼の殉教は、若き将軍エミリオ・アギナルド(Emilio Aguinaldo)が率いる革命に拍車をかけることになります。

他方、キューバでもスペイン支配からの独立を目指す動きがありました。1898年3月、ハバナでUSSメインが破壊されたのを受けて、アメリカはスペインに最後通牒を送り、アメリカの仲裁を受け入れてキューバの支配を放棄するように要求します。スペインとの戦争の可能性に備えて、海軍次官のセオドア・ルーズベルトは香港のアメリカ・アジア戦線に警戒態勢を命じます。4月に宣戦布告されると、香港から出撃したジョージ・デューイ提督(Commodore George Dewey)は5月1日朝、マニラ湾でスペイン艦隊を撃破します。ですが3ヵ月後に地上軍が到着するまでマニラを占領することができませんでした。

他方、6月12日にフィリピン人は独立を宣言し、アギナルドを大統領とする臨時共和制を宣言します。このように太平洋のアメリカの反対側では、アメリカ反帝国主義者同盟が結成され始めます。この組織は、アメリカのフィリピンへの関与に反対し、あらゆる政治的分野から支持を集め、大衆運動へと発展していきます。そのメンバーには、社会改革者のジェーン・アダムス(Jane Addams)、実業家のアンドリュー・カーネギー(Andrew Carnegie)、哲学者のウィリアム・ジェームズ(William James)、作家のマーク・トウェイン(Mark Twain)など、著名な人物が名を連ねていました。

Emilio Aguinaldo

8月13日、マニラは無血の「戦い」の末に陥落します。スペインのフェルミン・ハウデネス知事(Fermín Jaudenes)は、自分の名誉を守るために模擬的な抵抗の後、降伏するよう密かに準備していました。アメリカ軍はマニラを手に入れますが、フィリピンの反乱軍はマニラの残りの地域を支配していました。12月にスペインとアメリカの代表が署名したパリ条約(1898年)により、フィリピンの主権はスペインからアメリカに移ります。しかし、マニラを除く全島を実質的に支配していた新生フィリピン共和国の指導者たちは、アメリカの主権を認めませんでした。一方、アメリカはフィリピンの独立を否定し、紛争は避けられない見通しとなります。

1899年2月4日夜、マニラ近郊で銃声が響きます。朝になってみると、無謀ともいえる勇敢な戦いをしてきたフィリピン人が、ことごとく敗れていきました。戦闘が続く中、アギナルドが対米宣戦布告を行います。アメリカでは依然として反帝国主義的な感情が強かったのですが2月6日、アメリカ上院は米西戦争を終結させる条約を一票差で批准します。アメリカの援軍は直ちにフィリピンに送られます。フィリピン人の中で最も優秀な指揮官であったアントニオ・ルナ(Antonio Luna)は、その軍事作戦を任されますが、アギナルドの嫉妬と不信に大きく妨げられたようで,アメリカ占領を受け入れる「自治派」によってルナは殺害されます。3月31日に反乱軍の首都マロロス(Malolos)はアメリカ軍に占領されます。

ホセ・リサール像

1900年3月、アメリカ大統領ウィリアム・マッキンリー(William McKinley)は、フィリピンに民政を樹立するため、第2回フィリピン委員会を招集します。このとき、アギナルドのフィリピン共和国の存在は都合よく無視します。4月7日、マッキンリーは委員会のウィリアム・タフト(William H. Taft)議長に、「彼らが設立しようとしている政府は、我々の満足や理論的見解の表明のためではなく、フィリピン諸島の人々の幸福、平和、繁栄のために作られていることを肝に銘じるように」と指示します。フィリピンの独立について明確な記述はありませんが、この指示は後にしばしば独立を支持するものとして引用されます。

アメリカ合衆国建国の歴史 その145 米比戦争の開始と結果

米比戦争 (Philippine–American War) の開始2日前に、マニラ郊外でアメリカ軍とアギナルドの反乱軍との間で戦闘が始まります。ここに本格的な米比戦争が始まります。その後3年間、フィリピン人はアメリカの支配に対してゲリラ戦を展開します。戦闘が終わるまでに、約2万人のフィリピン軍と20万人の民間人が死亡します。アメリカ人の死者は4,300人と推定されていますが、その圧倒的多数は病気によるものといわれます。

米西戦争 (Apanish–American War) は短期間であり、資源と人命の両方において比較的安価であったといわれますが、両国の歴史における重要な転機となります。スペインにとって、この戦争は直ちに悲惨な結果をもたらしますが、その後、スペイン人の生活は、知的にも物質的にも目覚しい復興を遂げていきます。サルバドール・デ・マダリアガ(Salvador de Madariaga)がその代表作『スペイン:近代史』(Spain: Modern History)の中で次のように書いています。

「スペインはこれまでのような海外での冒険の時代は終わり、これからは自分の未来は自国にあると感じる。何世紀にもわたって世界の果てを彷徨ってきた彼女の目は、ついに自国の領土に向けられたのである。」

スペインはその後20年間、農業、鉱物資源の開発、工業、交通の分野で大きな進展を遂げます。また、「1898年世代」(Generation of 1898)と呼ばれる優秀な思想家や作家が誕生し、スペインはヨーロッパで何世紀にもわたって享受してこなかった知的、文学的地位を獲得することになるのです。

戦勝国のアメリカにとって、その結果は全く異なるものでした。アメリカは、この戦争で世界の大国となります。アメリカは、カリブ海と太平洋にまたがる島国を領有し、戦争によって併合が早まったハワイもその一つでありました。経済的な動機は、戦争勃発にはほとんど関与しませんでしたが、平和の形成には明らかに貢献します。カリブ海、極東アジア、そしてその間の海域での足がかりの獲得は、海外市場へのアクセスを確保するための半世紀にわたる暫定的で断続的な探求のクライマックスとなります。

パナマ運河

米西戦争により、太平洋と大西洋はアメリカが建設した運河でパナマ地峡(Isthmus of Panama)を貫通します。この戦争は、アメリカ海軍への熱意を刺激し、アメリカ海軍は世界の戦艦の中で5、6番目から2番目へと成長します。戦争への備えが不十分で、敵の攻撃による犠牲者よりも、被爆や病気による犠牲者の方がはるかに多かったアメリカ陸軍の抜本的な改革を促したのです。また、アメリカ初の世界志向の大統領、セオドア・ルーズベルト(Theodore Roosevelt)の経歴も上がりました。戦争終結から数年のうちに、アメリカはカリブ海をアメリカの湖とし、オープンドア政策(Open Door policy)などの極東政治に主導的な役割を果たし、ヨーロッパ情勢に決定的な役割を果たす準備を推進していくのです。

Theodore Roosevelt

アメリカ合衆国建国の歴史 その144 和平交渉

戦争は事実上終わります。7月18日、スペイン政府はフランスに和平交渉を要請します。しかし、戦闘が終わる前に、ネルソン・マイルズ将軍(Gen. Nelson A. Miles)が指揮する別のアメリカ軍遠征軍がプエルトリコを占領します。ワシントンでの休戦交渉は、1898年8月12日の議定書調印をもって終了します。この協定は敵対行為を終了させるとともに、スペインがキューバに対するすべての権限を放棄し、プエルトリコとラドロン諸島の無名の島をアメリカに割譲することを約束するものでした。フィリピンでは、スペインは、島々の最終的な処分を決定する平和条約が締結されるまで、アメリカがマニラ市と港を占拠することに同意します。和平委員会は10月1日までにパリで会合することになっていました。

マッキンリー大統領とその助言者たちが直面していた大きな問題は、フィリピンにおいてスペインに何を要求するかでありました。マッキンリーがキューバへの介入を提案したとき、地球の裏側にあるフィリピンを手に入れることなど考えてもいなかったことは確かです。また、多くの議会議員や一般市民が、この戦争の結果をそのように考えていたという根拠もありません。しかし、デューイがマニラで劇的な勝利を収めたことで、潜在的な戦略的重要性がにわかに注目されるようになります。ルーズベルトと友人のヘンリー・ロッジ(Henry C. Lodge)上院議員は、アルフレッド・マハン大佐(Capt. Alfred T. Mahan)のシーパワー(海上権力)理論の信奉者で、マニラ湾に極東におけるアメリカの影響力を大きく高める前哨基地があると考えたのです。

Alfred T. Mahan

ヨーロッパ諸国の中国での侵略は、多くのビジネスマンにとってアメリカ市場を脅かすものと思われ、マニラは中国におけるアメリカの利益を守るための拠点として彼らにアピールしていたのです。プロテスタント教会の指導者たちは、マニラでの楽勝をフィリピンでの布教活動への神の召しととらえます。さらに、日英両政府は、アメリカがこの島を保持することを歓迎することを明らかにします。スペインの支配が回復すれば、キューバが救われたときと同じような混乱が起こるだけと考えられました。さらに、フィリピンの人々は自治を成功させるために必要な教育、訓練、経験を持っていないと信じられていました。この考えは、1898年6月にエミリオ・アギナルド(Emilio Aguinaldo)率いるグループがフィリピンを暫定共和国にすると宣言したにもかかわらず根強く、現地の現実を無視していました。アギナルド軍は、マニラ以外の群島をほぼ完全に支配していたのです。

Emilio Aguinaldo

様々な熟慮とアメリカの民衆感情の評価に揺さぶられ、マッキンリーは、アメリカがフィリピンのおよそ7,000の島々と700万人の住民を支配する必要があると決断します。この要求は、アメリカがフィリピンの公共建築と公共事業のために名目上2,000万ドルをスペインに支払うという条件で、しぶしぶスペインを同意させます。1898年12月10日に調印されたパリ条約は、この条件にそうものでした。スペインはキューバを放棄し、フィリピン、プエルトリコ、グアムをアメリカに割譲します。この条約はアメリカ上院で強く反対されますが、1899年2月6日、一票差で承認されるのです。

アメリカ合衆国建国の歴史 その143 スペイン艦隊の壊滅

1898年2月25日、ハバナ港でのUSSメイン号の破壊からわずか10日後、本格的な敵対行為の開始よりもずっと以前にジョージ・デューイ提督率いるアメリカ・アジア戦隊は警戒態勢に入り、香港に向かうよう命じられます。4月25日にアメリカが宣戦布告をすると、デューイはフィリピン海域にいたスペイン艦隊を捕獲または撃破するよう命じられます。アメリカ海軍は十分な訓練と供給を受けていましたが、これは主にデューイをアジア戦隊の司令官に抜擢した若い海軍次官補セオドア・ルーズベルト(Theodore Roosevelt)の精力的な努力によるものでした。デューイの艦隊は、4隻の防護巡洋艦(USSオリンピア(旗艦)、USSボストン、USSローリー、USSボルチモア)、砲艦USSコンコードとUSSペトル、武装収入カッターUSSヒューマッカロク、現地購入のイギリス補給船2隻から構成されていました。デューイは4月27日に香港の北東にあるミルズ湾( Mirs Bay)に軍を集結し、その3日後にフィリピンのルソン島沖に到着します。

Reina Christina号

スペイン海軍提督パトリシオ・モントホ(Patricio Montojo)は自分の艦隊をカビテ(Cavite)の東側に東西に並べて停泊させ、北側に向けて陣を張ります。彼の艦隊は彼の旗艦である巡洋艦レイナ・クリスティーナ(Reina Cristina)、曳航された古い木造蒸気船であるカスティージャ(Castilla)、保護巡洋艦イスラ・デ・クバ(Isla de Cuba)とイスラ・デ・ルソン(Isla de Luzon)、砲艦ドン・ファン・デ・オーストリア(Don Juan de Austria)、他数隻で構成されていました。また、モントホはカビテ付近で6門の砲を備えた陸上砲台を支援します。

4月30日夜、デューイはマニラ湾に入る広い水路であるボカグランデ(Boca Grand)に入ったが、このあたりは、コレヒドール島(Corregidor Island)の北側にある主要海路であるボカチカ(Boca Chica)よりあまり使われていませんでした。これによって彼はボカチカを監視していたコレヒドール島のスペイン軍の砲台を避けることができます。デューイはUSSオリンピアで先導して水路の機雷に対する懸念に対処し、真夜中に小さな要塞島であるエル・フレイレ(El Fraile)を通過しますが、ここから2発の砲弾が発射されます。彼はまたカビテ(Cavite)の砲台から砲撃を受けます。

Don-Juan-de-Austria号

デューイは南側にスペイン艦隊を見ると、補給艦とUSSヒューマッカロクに湾に出るように命じ、USSオリンピア、USSボルチモア、USSローリー、USSペトル、USSコンコード、USSボストンと350メートル間隔で列をなして進軍します。午前5時40分頃、スペイン軍から約5,000メートル以内に入った時、デューイはUSSオリンピアのチャールズ・グリッドリー(Charles Gridley)少佐に”グリドレー、準備ができたら撃ってよし”という命令を下します。

アメリカ艦船はスペイン戦線に沿って東から西に繰り返し通過し、左舷砲台を降ろして徐々に距離を1,829メートルに縮めます。午前7時、スペインの旗艦が近距離で交戦しようとしますが、アメリカの砲撃で追い返されます。スペイン艦隊は非常に苦しい状態となりますが、その深刻さはアメリカ軍司令官には十分に伝わりませんでした。午前7時35分、デューイは撤退して部下たちに朝食を与え、指揮官たちの協議を行います。午前11時16分に戦闘が再開すると、スペイン艦隊のレイナ・クリスティーナとカスティーヤは炎上します。こうして残りの作戦はカビテの海岸砲台を沈黙せることでした。スペインの小型船を破壊して戦意を喪失させる任務はUSSペトロールにまかされます。デューイはカビテを占領しその守備隊を捕虜とし、マニラ(Manila)を占領するための陸軍の到着を待ちます。

アメリカ合衆国建国の歴史 その142 スペイン領のフィリピンでの戦い

こうして始まったアメリカとスペインの戦争は、哀れなほど一方的なものでした。スペインは、前述のように、強大な国との戦争に備えることができていませんでした。アメリカ軍も同様に準備不足ではありましたが、戦争の帰趨は海軍力に大きく左右され、この点においてアメリカは完全に相手を圧倒していました。スペインは、アメリカの北大西洋戦隊を支える4隻の新戦艦であるインディアナ、アイオワ、マサチューセッツ、オレゴンに匹敵するものは何も持っていませんでした。フィリピンにおけるスペインの旧式な敵対勢力よりさらに優れていたのは、ジョージ・デューイ提督(George Dewey)のアジア戦隊の巡洋艦でした。海軍次官補セオドア・ルーズベルト(Theodore Roosevelt)の情熱や熱意により、アメリカ艦は戦闘演習と射撃訓練を行い、燃料と弾薬を十分に供給されていました。将校と兵士たちは勝利に自信に満ち、スペイン兵士は敗北する運命にあることを悟っていました。

Spanish War in Santiago

最初の一戦は、1898年5月1日、マニラ湾(Manila Bay)にて始まります。ルーズベルトが指揮官に選んだデューイは夜明け前に戦隊を率いて湾に入り、朝方の交戦で停泊していたスペイン船を艦砲射撃で破壊します。アメリカ人の死傷者はわずか7人の軽傷者でした。デューイは湾の支配を続けながら、マニラ市を占領するために軍隊を派遣します。7月末までにウェスリー・メリット(Maj. Wesley Merritt) が率いる約1万1千人のアメリカ軍がフィリピンに到着し、8月13日にマニラを占領します。

その一方で、キューバにも注目が集まります。宣戦布告と同時に、パスクアル・セルベラ・イ・トペテ提督(Pascual Cervera y Topete)が指揮する装甲巡洋艦4隻と駆逐艦3隻からなるスペイン艦隊は、カーボベルデ諸島(Cape Verde Islands)から西へ向かって航行していました。その所在は5月下旬にキューバ南岸のサンチャゴ港(Santiago’s harbour)に到着するまで不明でした。ウィリアム・サンプソン少将(William T. Sampson)率いる北大西洋戦隊とウィンフィールド・シュリー提督(Winfield S. Schley)が率いるいわゆる飛行戦隊は、サンチャゴ港の入り口を封鎖します。

Spanish War in Cuba

ルーズベルトの「ラフ・ライダーズ」連隊と第9・10騎兵隊のバッファロー兵を含む正規軍と志願兵がタンパ(Tampa)に上陸し、サンチャゴ(Santiago)の東のキューバ沿岸に上陸します。アメリカの目的は、セルベラ(Cervera)を陸軍と海軍の間に閉じ込め降伏させるか、出てきて戦わせることでした。7月1日、エル・カニー(El Caney)とサン・フアン・ヒル(San Juan Hill)の戦いではラフ・ライダーズが活躍し、ルーズベルトが戦争の英雄であるという大衆のイメージに貢献します。

アメリカ軍はサンティアゴの外郭防御を突破します。しかし、サンティアゴの守備は非常に不安定で、マラリアなどの病気も蔓延していたため、司令官ウィリアム・シャフター(William R. Shafter)は撤退して増援を待つことを検討します。7月3日、ハバナからの命令を受けたセルベラは、部隊を率いてサンチャゴ港を出港し、海岸沿いを西に脱出しようとしたため、撤退案は撤回されます。その後の戦闘で、アメリカ艦隊の激しい砲火を受け、セルベラの船はすべて焼失または沈没します。アメリカ側の損害は軽微で、2週間後サンチャゴ市はシャフターに降伏します。

アメリカ合衆国建国の歴史 その141 スペイン政府のジレンマ

スペイン政府は、残酷なジレンマに陥ります。スペイン政府は、アメリカとの戦争に備えて陸軍や海軍の準備をしておらず、スペイン国民にキューバを放棄する理由を伝えていませんでした。戦争とは確実に災いを意味します。キューバの降伏は、政府、あるいは王政の転覆を意味するかもしれませんでした。スペインは目の前の藁にすがるしかありませんでした。他方では、ヨーロッパの主要な政府からの支援を求めていました。イギリスを除けば、主要な政府はスペインに同情的でしたが、口先だけの支持しか与えようとはしませんでした。

4月6日、ドイツ、オーストリア、フランス、イギリス、イタリア、ロシアの代表がマッキンリーを訪れ、人道の名のもとにキューバへの武力介入を控えるよう懇願してきます。マッキンリーは、もし介入が行われるなら、それは人類の利益のためであると断言します。ローマ教皇レオ13世(Pope Leo XIII)による仲介の努力も同様に無駄でした。一方、スペインは3月27日のマッキンリーの条件を受け入れる方向で進んでいました。ウッドフォード公使(Minister Woodford)がマッキンリーに、時間と忍耐があれば、スペインはアメリカとキューバの反乱軍の双方に受け入れられる解決策を講じることができると進言するほどでした。

スペインはキューバでの再集権化政策を廃止しようと考えます。アメリカの調停を受け入れる代わりに、自治プログラムの下で選出されるキューバ人民委員会を通じて島の平和を求めるというものです。スペインは当初、武装勢力からの申請があった場合のみ休戦を認めるとしていましたが、4月9日に自らの判断で休戦を宣言します。しかしスペインは、マッキンリーがキューバの平和と秩序を回復するために不可欠と考えた独立を依然として認めようとしません。

スペイン無敵艦隊

マッキンリー大統領は、議会内の戦争派とこれまで一貫して取ってきた立場、すなわちキューバで受け入れ可能な解決策が見つからない場合、アメリカの介入につながるという主張を譲り、スペインの新しい譲歩を報告し4月11日の特別メッセージで議会に「キューバの戦争は止めなければならない」と勧告を出します。大統領は議会に対し、「スペイン政府とキューバ国民の間の敵対行為の完全かつ最終的な終結を確保するために」アメリカの軍隊を使用する権限を求めます。これに対して議会は、4月20日に「キューバ国民は自由であり独立した存在であり、当然そうあるべきである」と力強く宣言します。議会は、スペインがキューバに対する権限を放棄し、軍隊をキューバから撤退させることを要求し、大統領がその要求を実行するためにアメリカの陸軍と海軍を派遣することを承認します。

エリザベス一世

コロラド州の上院議員ヘンリー・テラー (Henry M. Teller)が提案した第4の決議は、アメリカがキューバを領有することを放棄するものでした。大統領は、現存するが実体のない反乱政府を承認することを盛り込もうとする上院の試みを退けるのです。反乱政府を承認することは、戦争遂行と戦後の平和維持の両方において、アメリカの妨げになると考えたからであり、平和維持はアメリカの責任であると予見していました。決議案署名の知らせを受けたスペイン政府は、直ちに国交を断絶し、4月24日にアメリカに宣戦布告します。合衆国議会も4月25日に宣戦布告を行い、その効力は4月21日に遡及するというものでした。

アメリカ合衆国建国の歴史 その140 アメリカの介入

1897年の秋、スペインの新政府は反乱軍に譲歩を申し出ます。それは、ウェイラー将軍(General Weyler)を呼び戻し、再集中政策を放棄し、キューバに選挙で選ばれたコルテス(Cortes: 議会)を認め、限られた自治権を与えるというものでした。しかし、この譲歩は遅すぎました。反乱軍の指導者たちは、もはや完全な独立以外に道はないと叫びます。キューバでは戦争が続き、アメリカは介入寸前まで追い込まれる事件が相次ぎます。12月にはハバナ(Havana)でも暴動が起こり、アメリカ国民と財産の安全を守るために戦艦メイン(Maine)がハバナの港に派遣されることになります。

USS Maine

1898年2月9日、ニューヨーク・ジャーナル紙は、ワシントンのスペイン公使エンリケ・ローム(Enrique Dupuy de Lôme)からの私信を掲載し、マッキンリーを「弱腰で人気取り」と評し、スペインの改革計画に対する誠意に反するものと非難します。ロームは直ちに解任され、スペイン政府は謝罪します。この事件は、6日後に大きな反響を呼びます。2月15日の夜、ハバナに停泊していたメイン号(USS Maine)が大爆発を起こして沈没し、乗組員260人以上が犠牲になるのです。しかし、この事故の原因は究明されませんでした。アメリカ海軍の調査委員会は、最初の爆発は船体の外側、おそらく機雷か魚雷によるもので、戦艦の前部弾倉に着火したことを示す有力な証拠を発見します。スペイン政府はその責任を仲裁に委ねることを申し出たが、ニューヨーク・ジャーナル紙をはじめとする低俗で扇情的な誇張表現を用いたイエロー・ジャーナリズム の扇動に乗せられ、アメリカ国民はスペインの責任を疑うことなく認めるのです。「メイン号を忘れるな、スペイン地獄へ」(Remember the Maine, to hell with Spain!)というのが、アメリカ国民の叫びでした。

US-Spain War

介入を求める声は、議会では共和党、民主党の双方からでます。ただし共和党のマーク・ハンナ(Mark Hanna)上院議員やトーマス・リード(Thomas B. Reed)下院議長らは反対します。介入は国内でも根強くなっていきました。アメリカの経済界は、全般的に介入と戦争に反対していました。しかし、3月17日、キューバ視察から帰国したばかりのバーモント州選出のレッドフィールド・プロクター(Redfield Proctor)上院議員が上院で行った演説をきっかけに、こうした反対運動は沈静化します。プロクター上院議員は、戦争で荒廃したキューバを視察し、和解地での苦しみと死、その他の地域の荒廃、スペインが反乱を鎮圧できないでいることなど、淡々とした言葉で説明しました。3月19日付の『ウォールストリート・ジャーナル』紙は、この演説を「ウォール街の多くの人々を改心させた」と評価するほどでした。宗教指導者たちは、介入を宗教的、人道的な義務であるとして介入を求める声に賛同します。

スペインが勝利でも譲歩でも戦争を終わらせることができないことが明らかになると、介入を求める民衆の圧力は強まります。マッキンリー の対応は、3月27日にスペインに最後通牒を送ることでした。マッキンリーは、スペインに実質的に和解を放棄し、休戦を宣言して反乱軍との和平交渉においてアメリカの仲介を受け入れるように伝えます。しかし、彼は別の書簡の中で、キューバの独立以外は認めないことを明言します。

アメリカ合衆国建国の歴史 その139 米西戦争の背景

アメリカの外交政策についてです。1898年に起きたアメリカとスペインの間の紛争である米西戦争(Spanish–American War)により、アメリカ大陸におけるスペインの植民地支配から、アメリカは西太平洋とラテンアメリカの領土獲得を目指します。この戦争は、1895年2月に始まったスペインからの独立を目指すキューバ紛争に端を発しています。キューバ紛争は、アメリカのキューバへの推定5000万ドルの投資に損害を与え、通常年間1億ドルとされるアメリカのキューバ港との貿易をほぼ停止させます。キューバの反乱軍側では、戦争は主に財産に対して行われ、サトウキビと製糖工場の破壊につながります。アメリカの金銭的利益よりも重要なのは、アメリカの人道的感情に訴えかけることにありました。

スペイン人指揮官バレリアーノ・ニコラウ(Valeriano Nicolau)は「虐殺者」の異名を持ち、キューバ人を大都市周辺のいわゆる「再集中地域」に集め、逃亡した者は敵として扱いました。スペイン当局は、和解者のための住居、食料、衛生、医療を十分に用意せず、何千人もの人々がほったらかされ、飢え、病気で亡くなります。このような状況は、ジョセフ・ピューリッツァー(Joseph Pulitzer)の「ニューヨーク・ワールド」(New York World)や、ウィリアム・ハースト(William R. Hearst) が当時創刊した「ニューヨーク・ジャーナル」 (New York Journal) などの新聞でセンセーショナルに報じられ、アメリカ国民に向けて生々しく紹介されます。

Yellow Journalism

独立を目指す植民地の人々に対するアメリカの伝統的な同情心に、苦しむキューバ人に対する人道的配慮が加わっていきます。他方、アメリカは、反乱軍への砲撃を防ぐための近海パトロールや、アメリカ国籍を取得した後、反乱に参加してスペイン当局に逮捕されたキューバ人からの援助の要請に直面することになります。

Uncle Sam

戦争を止め、キューバの独立を保証するための介入を求める民衆の声は、アメリカ議会でも支持されるようになります。1896年の春、上院と下院は同時決議で、キューバの反乱軍に交戦権を与えるべきであると宣言します。この議会意見の表明を無視したのがグローバー・クリーブランド大統領(Grover Cleveland)でです。彼は戦争が長引けば介入が必要になるかもしれないと議会への最終メッセージを送り介入に反対します。次ぎに大統領となったマッキンリーはスペインとの宥和政策を支持します。しかし、マッキンリーは新任の駐スペイン公使スチュワート・ウッドフォード(Stewart L. Woodford)への指示や議会への最初のメッセージで、アメリカは血生臭い闘争をいつまでも傍観することはできないと明言するのです。

アメリカ合衆国建国の歴史 その138 経済の回復

1897 年 3 月 4 日の就任直後、マッキンリー大統領(McKinley)は再び関税を改定すべ多くの品目が自由リストから除外し、輸入関税は全般的にそれまでの最高水準に引き上げられました。さらに金本位制(Gold Standard Act) の維持は1896年の共和党の最大のアピールポイントでしたが、1900年3月になってようやく議会は金本位制法を制定し、財務省には最低1億5000万ドルの金準備を維持することを義務づけ、その最低額を守るために必要であれば債券の発行を許可することになります。

1900年当時、金の十分な供給は現実的な問題ではなくなり、このような措置はほとんど期待はずれのものとなります。1893年以降、アメリカでの金の生産量は着実に増加し、1899年までにアメリカの供給量に加えられた金の年間価値は、1881年から1892年までのどの年よりも2倍になりました。この新しい金の供給源の中心は、カナダ・ユーコン準州クロンダイク地方(Klondike)で、1896年の夏にここで重要な金鉱床が発見されます。

Dawson City

1898年には不況は一段落し、農産物価格と農産物輸出量は再び安定的に上昇し、西部の農民は当面の苦労を忘れ、経済の見通しに自信を取り戻したように見えました。産業界では、反トラスト法にもかかわらず、企業結合の動きが再開され、ニューヨークのJ.P.モルガン(J.P. Morgan) をはじめとする大手銀行が必要な資本を提供し、その見返りとして、大資本が設立した企業の経営に大きな影響力を持つことになっていきます。

アメリカ合衆国建国の歴史 その137 中間選挙とウィリアム・ブライアン

クリーブランドが党内を掌握できていないことは、議会が銀から関税に目を向けたときに明らかになりました。下院では、大統領の意向に沿って関税率を下方修正する法案が可決されました。しかし、上院では、法案は元の法案とは似ても似つかないほど変更され、いくつかの項目については、マッキンリー関税法よりも高い関税が課されることになりました。1894年8月にようやく関税率の引き下げが可決されましたが、クリーブランドは非常に不満で署名を拒否し、彼の署名なしに法律となった。この法律には所得税の規定がありましたが、1895年に最高裁判所(Supreme Court)によって違憲とされました。

1894年の中間選挙では、共和党が議会の両院を制覇します。このことは、不況が続くことによる不満の表れでした。また、民主党の大統領と共和党の議会では、1896年の選挙を前にして、国内法の制定が滞ることが確実となりました。

William Bryan

セントルイスで開催された共和党大会で、共和党はオハイオ州知事のウィリアム・マッキンリー(William McKinley) を大統領候補に選出します。彼は南北戦争で連邦軍に従軍した経験があり、オハイオ州知事としての実績は、1890年の不人気な関税との関連性を相殺することになります。しかし、マッキンリーの最も親しい友人であり、クリーブランドの裕福な実業家であるマーク・ハンナ(Mark Hanna)が、候補者指名を勝ち取るために最も効果的な支援を表明します。

シカゴで開かれた民主党大会は、異様な盛り上がりを見せました。クリーブランドの金融政策に敵対するグループが大会を支配し、自党の大統領の政権を賞賛する決議を拒否するという前代未聞の行動に出たのです。党綱領の討論会では、ウィリアム・ブライアン(William J. Bryan) が銀と農民の利益を雄弁に擁護し、長い喝采を浴びただけでなく、党の大統領候補に指名されたのです。ブライアンは、ネブラスカ州選出の元下院議員で、36歳という史上最年少で主要政党の大統領候補となります。

Bryan House in Lincoln

ブライアンは精力的に選挙戦を展開します。大統領候補が初めて全国津々浦々の民衆に訴え、一時は勝利するかと思われました。保守派は、ブライアンは危険なデマゴーグであり、選挙戦を繁栄をもたらす健全な経済システムの擁護者と国家の財政的安定を損なう無謀な改革を支持する不誠実な急進派との対立者であると応戦します。このような主張によって、共和党は自分たちの利益が脅かされることを恐れる実業家たちから多額の選挙資金を調達することに成功します。こうした選挙資金をもとに、共和党は流れを変え、決定的な勝利を収めることになります。南部以外では、ブライアンは西部のシルバー・ステートとカンザス、ネブラスカを制しただけでした。

アメリカ合衆国建国の歴史 その136 アメリカで最も不人気な大統領

1893年3月、スチーブン・クリーブランド(Stephen Grover Cleveland)が2期目の大統領に就任したとき、アメリカは金融恐慌の瀬戸際にありました。6年間続いたミシシッピ西部の不況、マッキンリー関税法の施行による外国貿易の衰退、民間債務の異常な高止まりなど、不穏な情勢にありました。しかし、最も注目されたのは、連邦財務省の金準備高であった。政府債務を金で償還するためには、最低1億ドルの準備金が必要だと考えられていました。1893年4月21日、金準備高がこの金額を下回ると、心理的な影響は広範囲に及びます。投資家は保有金を金に換えることを急ぎ、銀行や証券会社は苦境に立たされ、多くの企業や金融機関が破綻しました。物価は下がり、雇用は減り、深刻な経済不況が3年以上続きます。

この災害の原因は多岐にわたり、複雑でしたが、金準備高に注目すると、財務省の金供給量の回復という一点に関心が集中しがちでありました。財務省の資金流出の主な原因は、大量の銀を購入する義務にあると広く信じられていました。そのためには、シャーマン銀買入法(Sherman Silver Purchase Act)を廃止することが必要であるとされました。

この問題は、経済的なものであると同時に、政治的なものでありました。この問題は両党を二分するものでしたが、銀政策の提唱者の多くは民主党でした。しかし、クリーブランドは、長い間、銀買い入れ政策に反対しており、この危機に際して、財務省を保護するために不可欠な措置として、シャーマン銀買入法の廃止を決意します。そして彼は1893年8月7日に議会を招集し特別会議を開きます。

新議会は、上下両院とも民主党が過半数を占め、マッキンリー関税の撤廃を支持していました。銀貨の増刷を支持する議員が民主党議員の半数以上を占めていたため、銀の問題に関しては議論になりませんでした。クリーブランドは、議会で廃止を強行することは至難の業でありましたが、あらゆる権力を行使して目的を達成した。シャーマン銀貨購入法は、10月末に銀貨鋳造の補償規定がない法案で廃止された。クリーブランドは、個人的には大勝利を収めるのですが、党内は分裂し、国内ではその世代で最も不人気な大統領となりました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その135 民衆党( People’s Party)の結成

好景気の崩壊と農産物の価格下落により、多くの農民は政治的な救済を求めるようになります。この不満は、1888年と1890年に、農民同盟(Farmers’ Alliances)と呼ばれる地方政治団体を通じて表明され、西部の一部と南部で急速に広まります。南部では、南北戦争後、農園制度から小作料徴収制度への移行により、経済問題が深刻化しました。この同盟は地方で勝利を収め、1890年の共和党の退潮に貢献します。1891年、同盟の指導者たちは民衆党( People’s Party)を結成します。

People’s Party

民衆党の人々-ポピュリストは全国的な政党になることを目指し、労働者や改革派全般からの支持を集めたいと考えていました。しかし、実際には、その短い生涯を通じて、ほぼ完全に西側農民の政党でしかありませんでした。南部の農民は、白人の票が分散し、それによって黒人が政権を握ることを恐れ、民主党を支持します。ポピュリストは、銀貨の無制限鋳造による流通通貨の増加、段階的所得税、鉄道の政府所有、収入のための関税、連邦上院議員の直接選挙など、政治的民主主義の強化と農民が企業や工業と同等の経済力を持つための措置を要求します。1892年、ポピュリストはアイオワ州のジェームス・ウィーバー(James B. Weaver)を大統領候補に指名します。

1892年の大統領選挙で二大政党が指名したのは、1888年の選挙と同じでした。ハリソン(Harrison)とクリーブランド(Cleveland)です。マッキンリー関税の不評がクリーブランドに有利に働き、西部での不満が共和党に大きく傾いていきます。選挙戦の初めから民主党の勝利が確実視されていましたが、クリーブランドは南部の諸州だけでなく、ニューヨークやイリノイといった北部の重要な諸州でも勝利を収めます。選挙人の得票数は、ハリソン145票に対してクリーブランドは277票でした。ウィーバーは西部4州で、うち3州は重要な銀鉱を有する州を制しますが22票を獲得したに過ぎませんでした。

アメリカ合衆国建国の歴史 その134 Soonersと呼ばれる抜けがけ

1887年の夏、ミシシッピ川西岸地域では不作と高騰した地価の崩壊により経済的・精神的不況が襲い、共和党は政治的災難に見舞われることになります。西部ブームは1870年代後半に始まり、ミシシッピ川を越えた未開拓の農地への移住の流れは、アイオワやミネソタのそれまで未開拓だった地域への入植を促します。開拓地は文字通りロッキー山脈 (Rocky Mountains)の東側の大平原へと押しやられていくのです。

Land_Rush_Oklahoma

西部開拓は、この地域に敷設された鉄道によって促進されます。また、平原地帯の主要作物である小麦の価格と海外市場にも支えられました。1877年から1886年までの10年間、平原の農民は異常なまでの降雨に恵まれ、気候条件が変わり、平原に十分な降雨をもたらすために雨帯が西に移動したと多くの人が考えるようになります。その結果、平原に十分な雨量がもたらされるようになりました。このような幻想に誘われ、入植者たちは農場を整備するために借金を重ね、小さな町の指導者たちは飛躍的な発展を夢見て、やがて必要となると思われる公共施設の建設のために公債発行を許可していくのです。

Sooners

その夢が崩れ去ったのは1887年のことです。この年は、1月に平原が猛吹雪に見舞われ、数千頭の牛が死に、放牧地での牧畜業は壊滅的な打撃を受けます。翌年の夏は乾燥した暑い夏となり、農作物は不作となり、さらに小麦の価格が下落し始めました。1887年の乾燥した夏を皮切りに、10年周期で少雨と猛暑が続くようになります。1887年の秋には、平原からの移住が始まり、5年後にはかつて農業が盛んだったカンザス州西部やネブラスカ州の地域は、ほぼ過疎化していきます。平原の東側の農業地帯は、直接の被害は少なかったのですが、農家は農産物価格の下落に苦しめられます。

平原の惨状に苦悩と挫折を感じつつも、肥沃な土地への誘惑は強いものでした。1889年4月、現在のオクラホマ州中央部に入植地が開かれると、10万人ともいわれる熱心な入植者たちが殺到し、所有の特権を求めて家屋を建てていてきます。

アメリカ合衆国建国の歴史 その133 銀とマッキンリーの関税の問題

連邦議会は、反トラスト法を可決してから2週間足らずで、シャーマン銀購入法(Sherman Silver Purchase Act)を制定しました。この法律は、財務長官が毎月13万キログラムの銀を市場価格で購入することを義務付けるものでした。この法律は、1878年のブランド・アリソン法(Bland–Allison Act)に取って代わり、政府の毎月の銀購入量を事実上50%以上増加させるものでした。この法律は、銀価格の下落に危機感を抱いた鉱山主や、インフレ対策に常に好意的で生産物の価格下落に苦しんでいた西部の農民からの圧力に応えて採択されたものでした。

マッキンリー関税法の風刺画

共和党の指導者の多くは、銀の購入量を増やすという提案に冷淡でした。自分たちが最も関心のある保護関税の上方修正という措置に対する西側の票を確保するためにのみ、この提案を受け入れました。これは、1890年10月の中間選挙の1ヶ月前に議会で可決されたマッキンリー関税法(McKinley Tariff Act)で達成されます。この関税法は、農産物を保護対象品目に加えることで、農民の関心を高めるものでした。また、砂糖など一部の農産物は自由品目に指定され、国内の砂糖栽培農家には1ポンド2セントの補助金が支払われることになります。しかし、この法律の中心的な特徴は、関税表の全般的な引き上げであり、その多くは一般消費財に適用されるものでした。

マッキンリーの関税政策

この新関税は、すぐに議会選挙の争点になります。農産物価格の下落に歯止めをかけることはできなかったのですが、農民が購入する多くの品目の価格はほとんど即座に上昇します。西部と南部の農業地帯ではすでに不満が渦巻き、マッキンリーの関税は農民の憤りをさらに高めることになります。選挙の結果は、共和党は大敗し下院の勢力はほぼ半分になります。

アメリカ合衆国建国の歴史 その132 ハリソン政権

選挙において共和党は第51回連邦議会の両院を支配します。しかし、下院での差は非常に小さく、議論を呼ぶような法案を通過させることができるかどうかは不安視されました。この難関を突破したのは、メイン州のトーマス・リード(Thomas B. Reed)という下院議長でした。リードは、わざと遅らせるような動議を認めず、前例に反して議場にいる議員を全員出席とみなします。そのため、点呼に応じた議員が過半数に満たなかったにもかかわらず、定足数に達していると判断することもありました。このような下院の鉄則により、彼はリード将軍と呼ばれるようになりました。1890年の夏から初秋にかけて、共和党が3つの議論を呼ぶ法案を可決できたのは、彼の確固たる下院支配があったからだといわれます。3つの議論とは、寡占、銀、そして関税を扱ったものでした。

議会-Senate

これらの法案の最初の寡占の議論とは、州間または外国との貿易を制限するあらゆる組み合わせを違法とするものでした。この法律は、シャーマン反トラスト法(Sherman Antitrust Act)として知られ、その著者のジョン・シャーマンにちなんで命名されました。この法律は、それまでの10年間に顕著であった産業独占の発展に対する国民の不満が高まっていることを示すものでありました。

下院-House of Representative

シャーマン法が産業界の独占を打破するために使われるようになるまでには、10年以上の歳月が必要でした。1894年に連邦政府が、ストライキ中の鉄道組合に対して、州際通商の制限を理由に差止命令を発動し、1895年に最高裁がこの差止命令を支持したのです。実際、上院司法委員会の委員長であったバーモント州のジョージ・エドマンズ(George F. Edmunds)が、組合は法の意味における取引制限の組み合わせであると確信し、1890年に上院がこの法案を可決したといわれます。シャーマン法が独占の拡大を抑制すると期待した人々にとって、その結果は期待外れでありました。しかし、州際通商法からわずか3年後にこの法律が成立したことは、産業界の巨大企業を効果的に規制するために、国民が州都から首都ワシントンへ注目することになった一つの証左でした。

アメリカ合衆国建国の歴史 その131 州間通商法

この法律は、鉄道会社による不当な差別を防ぐために作られたもので、輸送量と利益をプールすることを禁止し、鉄道会社が短距離輸送の料金を長距離輸送の料金より高くすることを違法とします。道路がその料金を公表することを義務づけ、この法律の施行を監督する州際通商委員会が設立されます。委員会の裁定は、連邦裁判所の審査を受けることになり、その裁定は法律の範囲を限定するという傾向がありました。しかし、この法律によって、当時の新しい経済問題に対処できるのは連邦政府だけであるという認識が広まったことを示すものとなります。

Benjamin Harrison

クリーブランドが1887年の年次メッセージで関税の引き下げを訴えたことで、1888年の大統領選挙では関税が中心的な争点になることが確実となりました。民主党はクリーブランドを再指名しますが、クリーブランドは関税引き下げを公然と主張したため、再選の可能性が低くなったと考えられました。共和党は例年通り候補者選びに難航します。ブレインが出馬を拒否し、党内には他に有力な支持者がいなかったのです。共和党は、多くの候補者の中から、南北戦争の連邦軍大将で、ウィリアム・ヘンリー・ハリソン(William Henry Harrison)大統領の孫であるインディアナ州のベンジャミン・ハリソン(Benjamin Harrison)を指名し、ハリソンは指名を受けます。

民主党と共和党の違い

クリーブランドは、誠実で勇敢な人物として尊敬を集めていましたが、彼もハリソンも有権者の熱狂的な支持を得ることはありませんでした。この選挙戦の特徴は、選挙結果を左右するために巨額の資金が使われたことです。これは新しい現象ではありませんでしたが、不利な州を支援するために費用が投入されます。こうしてビジネスと政治のリーダーの同盟関係が明らかになったことは、これまでにはなかった現象です。結果は、またしても大接戦でした。クリーブランドは約10万票の得票を得ましたが、共和党は1884年に失ったニューヨークとインディアナの2州を獲得し、選挙人団ではハリソンが233対168の差で勝利しました。こうしてハリソンが第23代の大統領となります。

アメリカ合衆国建国の歴史 その130 歳入超過と関税

民間年金法案が相次いで提出されたのは、財務省の黒字が拡大したことも一因でした。南北戦争以来、毎年、歳入が歳出を上回っていたため、様々な目的のために公的資金を充当することが提案されます。この黒字は、歳入超過の主な原因である関税に注目されるようになります。1883年、議会は関税を見直し、ある品目では関税を引き上げ、ある品目では関税を引き下げるという変更を何度も行っいますが、歳入はほとんど減りませんでした。クリーブランドは、この余剰金が非常に大きな問題であると考えます。余剰金は、本来なら流通させることができるはずのお金を財務省にため込み、政府の無謀な支出を助長するものだと考えたのです。

Stephen Cleveland

他の多くの民主党員と同様、彼は高い保護関税を嫌っていました。クリーブランドは、議会がこの問題に果敢に取り組むことを2年間待ち続けるのですが、1887年の年次教書のすべてをこの問題の議論と関税引き下げのアピールに費やすという、異例の戦術をとります。その後、下院はクリーブランドの考えに概ね沿った法案を可決しますが、上院はこれを否決します。関税は1888年の大統領選挙における主要な争点となります。

1877年以降、何10万人もの農業入植者が西方の平原に移り住み、それまで放牧地を支配していた牧畜業者と土地の支配権をめぐって争うようになりました。平原への人口流入の圧力は、入植に適した耕作地の供給が減少していることに注意を促し、西部に農民を待ち受ける広大な土地の貯蔵庫がなくなる日を予見させたのでした。また、何100万エーカーもの西部の土地が投機目的で所有されていること、さらにこうしたっよよよ土地が疑わしい手段で取得されたこと、あるいはその土地が与えられたときに負債を返済しない鉄道会社がまだ所有しているという事実にも関心が寄せられました。

クリーブランドは就任早々、これらの土地の一部が鉄道会社、投機家、牧畜業者、製材業者によって不正に取得されたという証拠を突きつけられます。そこでクリーブランドは調査を命じ、1年以上にわたって土地局の捜査官が西部を調べ、不正や義務の不履行の証拠を発見します。クリーブランドは毅然として行動し、大統領命令と裁判によって、彼は81,000,000エーカー以上の土地を国有地とすることに成功します。

Grate Plain

しかし、多くの地域で一社が鉄道輸送を独占していたため、鉄道会社の多くは、多くの顧客が不公平で差別的であると感じる経営を行っていました。1884年以前には、それまでの10年間のグレンジャー法(Granger laws)という鉄道会社による様々な不正行為を禁止する州法の効果がないことは明らかとなり、政治団体は救済を連邦政府に求めることになります。このとき、西部の農業団体は、自分たちも鉄道会社による差別の犠牲者であると考える東部の有力な実業家たちと手を結んでいきます。この強力な政治的同盟は、1884年に両党の国政綱領に鉄道規制を盛り込むよう説得し、1887年に連邦議会で州間通商法(Interstate Commerce Act)を制定させることになります

アメリカ合衆国建国の歴史 その129 クリーブランド政権の始まり

民主党の大統領候補者であるニューヨークのスティーブン・クリーブランド知事(Stephen Cleveland)は、多くの点でブレーンの対極にある候補でした。彼は政治家としては比較的新参者でした。1881年にバッファロー市長(Buffalo)に、1882年にはニューヨーク州知事に選ばれます。彼は、正直さ、勇気、堅い意志、自立性といった保守的な行政で評判となります。「公職は公の信頼である」という言葉を信じる人々にとって、彼の経歴は魅力的な候補者として認められます。1884年当時、こうした貴重な経歴を持つクリーブランドは、少数の優れた共和党員の支持と通常は共和党の候補者を支持する全国発行の雑誌の支持をも獲得していきます。

1880年と同様、選挙運動には公共政策の問題がほとんどなく、関税という永年の問題が両党の違いをはっきりさせていました。クリーブランドは南北戦争に従軍しておらず、共和党はこの事実と民主党の南部勢力を利用して、クリーブランドに対する断片的な偏見を喚起することに力を注ぎます。選挙戦の最中、クリーブランドが独身で私生児の父親であることが明らかになります。この軽率な行動は、共和党の候補者ブレインにも財界と癒着した疑獄事件とともに、互いに中傷しあう泥仕合の様相を呈します。

共和党のシンボル

選挙は非常に接近しました。投票日の夜には、結果はニューヨーク州の票次第であることが明らかになりますが、週明けになろクリーブランドが100万票以上のうち1,100票ほどの僅差でニューヨーク州を制し、第22代の大統領に選出されたことが認定されます。

クリーブランドは、四半世紀前のジェームズ・ブキャナン(James Buchanan)以来の民主党大統領となります。クリーブランドが獲得した選挙人の3分の2以上は南部または国境の州からであり、彼の当選は一つの時代の終わりと考えれました。南部が再び国政の運営に大きな発言力を持つことを期待できる新しい政治時代の始まりを意味するものであったとも思われました。クリーブランドは政治家としての経歴が浅いため、民主党の指導者たちとは限られた人脈しかありませんでした。彼は三権分立という憲法の原則を文字通り受け入れており、1885年12月の最初の議会メッセージの冒頭で、「各部門間の権力の分立」への献身を表明します。これは大統領としてのリーダーシップを否定するように思われましたが、クリーブランドが、行政府に属する権限を強力に擁護するつもりであることが明確になります。

合衆国議事堂

クリーブランドは、金融面に関するあらゆる事柄に保守的で、公費の無駄遣いには断固として反対します。そのため、連邦議会が可決した連邦退役軍人が連邦政府に対して請求した賠償金を補償するための何百もの法案について、可能な限り精査します。法案が根拠のないものであると判断した場合、彼はその法案に拒否権を発動します。クリーブランドこの種の民間法案の成立を阻止するために拒否権を広範に行使した最初の大統領となります。

アメリカ合衆国建国の歴史 その128 ガーフィールドとアーサー政権

ガーフィールドは共和党の二大派閥であるスタルワート派(Stalwarts)、ハーフブリード派(Half-Breeds)とはあまり関係がありませんでしたが、大統領に就任すると、ハーフブリードのジェイムズ・ブレイン(James G. Blaine)を国務長官に任命してスタルワート派を動揺させます。さらに彼は、ニューヨークの税関長にしある人物を任命します。同州出身の二人の上院議員コンクリング(Conkling)とトーマス・プラット(Thomas Platt)はこうした人事に不満で、ニューヨークの議会での再選を期待して上院の席を辞任しますが失敗します。

この党内抗争の悲劇的なクライマックスは、1881年7月2日、ガーフィールド大統領がワシントンD.C.で、失意によって精神錯乱した求職者とスターウォート支持者によって狙撃されたことでした。ガーフィールドは2か月間治療を受けますが9月19日に死去し、チェスター・アーサー(Chester A. Arthur)副大統領が後を継ぎます。

Chester Arthur

アーサーが大統領に就任したことは、広く世間を騒がせます。アーサーは副大統領になるまで公職に就いておらず、党内ではスタルワート派と密接な関係をもっていました。そのため、他の党派と同様、公務員制度改革に敵対すると考えられ、彼の副大統領就任はヘイズ大統領に対する意図的な反撃であると一般に見なされていました。ガーフィールド内閣の閣僚は直ちに辞表を提出しますが、アーサーは彼らに当面は留任するよう要請します。しかし、1882年4月中旬に1人を除いてすべての閣僚が交代します。

アーサー大統領は迅速にかつての政治的友人らとは距離を置き、批評家や国民を驚かせます。1881年12月、アーサーは議会に対する初の年頭教書で、連邦公務員の任命を党派的統制から排除する法案を適格に承認することを発表します。1883年1月、議会はペンドルトン公務員法(Pendleton Civil Service Act)を可決し、アーサーはこれに署名します。この法律は、公務員委員会を設立し、特定のカテゴリーの役職への任命は試問に基づいて行われ、任命された者はその役職に無期限で就くことができることを規定したものでした。

Democrat emblem

1884年の大統領選挙では、アーサー政権は、彼の就任を疑問を抱いていた多くの人々の尊敬を集めていました。しかし、党の指導者たちから強い支持を得ることはできませんでした。共和党の最有力候補は、長年にわたって権勢を誇っていたブレインで、彼は党派的な精神が強すぎるとか、何年も前の下院議長時代に汚職の嫌疑をかけられたという反対意見もありましたが、大統領候補の指名選挙において第4回の投票で指名されます。