アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その37 インディアン市民権法と新宗教の勃興

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南北戦争後の急激な資本主義の発展のなかで、牧畜業者、鉱山業者、森林業者、鉄道業者、土地投機業者、そして農民は、部族の保留地の土地と資源に目をつけて保留地そのものを解体しようとしていました。他方、人道主義的な改革家は、インディアン部族の組織と部族文化を薄め、彼らを農民や市民として文明化し、白人市民社会に同化させることを目指しました。この経済的欲求と文明化のイデオロギーが合致して、1887年に一般土地割り当てのドーズ法(Dawes Severalty Act)が制定されます。それは、保留地の一部を先住民個人に単純所有地として割り当て、余剰地を耕作者に解放することと規定したものでした。同法によって先住民に割り当てられた総面積の数倍もの土地が白人に割り当てられました。軍事力による土地収奪から、法により土地奪取へと転換するものでした。

 その後の修正立法措置で割り当て地そのものにも賃貸制が導入されて、保留地の土地は急速に部族の手から白人の手に移りました。その結果、1887年に1億5800万エーカーであった保留地は1900年には7780万エーカーに、1934年には4900万エーカーに減少しました。1924年のインディアン市民権法(Indian Citizenship Act) によって、先住民に合衆国の市民権が与えられますが、白人市民と完全に平等になったわけではありませんでした。土地と文化を奪われつつあった西部の諸部族は、救済を宗教にもとめ、ゴーストダンス(Ghost Dance)やサンダンス(Sun Dance)、ペヨーテ信仰(Peyotism)が流行していきます。

 ゴーストダンスとは、先住民族の間におこった千年王国論的な宗教運動で、1870年にネバダ州の先住民パイユート(Paiute)のウォボカ(Wovoka)という予言者によって始められたものです。サンダンスとは、自然復活と和平祈願の最大の儀式で「聖なるパイプ」と煙草が用いられます。先住民は、煙草を吹かすことで「大いなる神秘」と会話するといわれます。ペヨーテ信仰は、伝統的なアメリカ先住民の信仰とキリスト教の混交に基づくもので、今もアメリカ、カナダ、メキシコにて最も広く根付いている土着の宗教といわれます。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その36 リトルビッグホーンの戦い

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 フォールン・ティンバーズの戦いとは、合衆国軍よる北西部領土侵略に対抗して、諸部族が大同盟を組んで挑んだインディアン戦争のことです。この戦いは、1812年戦争といわる英米戦争の際にショーニー(Shawnee)部族長テクシム(Tecumseh)によって受け継がれ、彼は部族の大同団結を提唱しますが、大望を果たせず、ハリソン将軍( William Harrison)に敗れ戦死します。

 同じ頃南部ではチェロキー族(Cherokee)などが文明化政策を受け入れて農業化や文明化への道を歩み、黒人奴隷制度も導入します。しかし、アンドリュー・ジャクソン軍(Andrew Jackson)と戦って敗れ広大な領土を奪われます。こうしてミシシッピー川以東における優位を確立した政府は、1830年にインディアン強制移住法(Indian Removal Act)を制定し、ミシシッピー川以東の諸部族に同川以西への移住を強制します。諸部族は多大の犠牲者を出しながら長い「涙の旅路」(Trail of Tears)を辿ります。

 セミノール族(Seminole)は強制移住に抵抗し黒人と結束しますが敗北します。「涙の旅路」とは、1838年にチェロキー族を、後にオクラホマ州(Oklahoma)となる地域のインディアン居留地に強制移動(Population transfer)させたときのことを指します。17,000名のチェロキー族のうち、移動途中で4,000名以上が亡くなったといわれます。

 1840年代の急激な領土膨張とゴールドラッシュ(gold rush)によって、南西部や大平原、グレートベイスン(Great Basin)や太平洋沿岸の諸部族は、押し寄せる移民者の群れと合衆国軍に始めて向き合うことになります。ゴールドラッシュとは、新しく金が発見された地へ、金脈を探し当てて一攫千金を狙う採掘者が殺到することです。コマンチ(Comanche)、アパッチ(Apache)、ナバホ(Navajo)、シャイアン(Cheyenne)、スー(Sioux)、アラパホ(Arapaho)などの部族は果敢な抵抗を開始します。

 南北戦争がおきると部族間のみならず、部族内が敵味方に分かれて戦う悲劇を強いられます。戦争中、スー族の討伐やサンドクリーク(Sandcreek)の虐殺など大平原部族への圧力が高まります。サンドクリークの虐殺とは、1864年11月にコロラド地方で、政府軍が無抵抗のシャイアン族とアラパホ族インディアンの村に対して行った無差別虐殺です。

 南北戦争後の1870年代をピークとして合衆国軍と諸部族との最後の決戦が西半分の各地で展開されます。諸部族は、1866年のフェッターマン大尉(William Fetterman)以下81名を殲滅し、1876年にカスター連隊(George Custer)を殲滅するなどの戦果を上げます。リトルビッグホーンの戦い(Battle of the Little Bighorn)でカスターは率いていた「第七騎兵隊」とともにスー族やシャイアン族に敗れるのです。しかし、軍事力の格段の違いで部族は戦いを継続できず、保留地に封じ込められます。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その35 ポンティアックの反乱

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やがて先住民族と白人の対立は避けられなくなります。入植の初期には、先住民族とヨーロッパ人が協力することもありました。例えば、プリマス植民地の入植者をスクワント族(Squanto)が援助したり、ヴァジニア州のジョン・ロルフ(John Rolfe)がパウハタン族(Powhatan)の娘ポカホンタス(Pocahontas)と半公式結婚をしたようにです。アメリカ先住民は、新しい環境で生き残るための技術を入植者に教え、入植者からは金属製の道具、ヨーロッパの布地、そして特に銃器を紹介されそれらをすぐに採用していきます。

 先住民族は、ヨーロッパ人の2つの利点である共通の書き言葉の所有や近代的な交換システムに対応すること慣れていなかったので、植民地の役人による先住民族からの土地の購入は、しばしば狡猾な土地の収奪になりがちでした。アメリカ先住民族と公平に接するよう特に努力したウィリアム・ペン(William Penn)とロジャー・ウィリアムス(Roger Williams)は、稀で例外的人物でした。

 先住民の関与が植民地主義者に与えた影響は、特にカナダをめぐるイギリスとフランス間の争いで顕著でした。フランスは毛皮を五大湖周辺に定住するヒューロン族(Huron)に依存していましたが、ニューヨーク西部とオンタリオ南部に拠点を置くイロコイ族(Iroquois)連合はヒューロン族(Huron)を制圧し、サスケハノック族(Susquehannocks)やデラウェア族(Delaware)といったヒューロン族の同盟者をペンシルベニア州へと追いやることに成功しします。この行為により、毛皮貿易の一部がフランスのモントリオール(Montreal)とケベック市(Quebec)からイギリスのオルバニー(Albany)とニューヨークに流失し、イギリスはイロコイに借りを作ることになります。

 ヨーロッパと先住民族の同盟は、ルイジアナ(Lousiana)でフランスの影響を受けたチョクトー族(Choctaws)が、フロリダでスペインの支援を受けたアパラチア族(Apalachees)とジョージアでイギリスの支援を受けたチェロキー族(Cherokees)と戦う方法にも影響を及ぼします。

 フランス・インディアン戦争(French and Indian War)は、植民地の人々の軍事的経験と自己の存在の自覚を強化しただけではあるません。先住民族であるレッド・ジャケット(Red Jacket)やジョセフ・ブラント(Joseph Brant)など、2、3カ国語を操り、先住民族とヨーロッパの競争相手との間で交渉できる指導者を輩出することになります。しかし、クライマックスとなるイギリスとフランス間の闘争は、先住民族にとって災いの始まりでありました。

 イギリスが着実に軍事的成功を収め、カナダからフランスを追放すると、先住民族はもはや、ロンドンとパリのどちらの王を支持しても、西方への入植を抑制するという外交カードを使うことができなくなります。このことを知った先住民族の中には、これ以上の侵攻に対して団結して抵抗しようと考える者も出てきます。1763年、オタワの酋長ポンティアック(Pontiac)が起こした反乱(Pontiac Rebellion)がその例です。後にヨーロッパ、そしてアメリカの権力に対して先住民族が協力して挑戦したように、この反乱だけでは終わりませんでした。

 ポンティアックの反乱は、フランス・インディアン戦争に続く五大湖地域でのイギリスの支配に不満を持った先住民族の緩い連合によって、1763年に開始されました。多くの先住民族がイギリスの兵士と入植者をこの地域から追い出すために参加しました。

アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その34 先住民族の反応

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北アメリカの支配をめぐる争いの主役は、もちろんアメリカの先住民族です。現代の歴史家はおうおうにして、アメリカ先住民とヨーロッパ人の出会いを、「新世界の発見者」が「未開人」の住む「荒野」を見つけるというような古いレンズでとらえがちです。そうではなく、異なる文化が相互作用し、より良い武器を持ったヨーロッパ人が最終的に現地の人々を征服する、というストーリーを描きます。その筋書きはお互いが相手から慣習や技術を取り入れ、協調するというものではありませんでした。

 イギリスの政策は、スペインやフランスの北アメリカ植民地支配とは大きく異なっていました。南西部に広く分布するスペインの帝国は、散在する駐屯地と伝道所に依存して、先住民族を支配下において利用しやすいように占有することに成功しました。カナダでは、フランス人は自分たちの側の先住民族を毛皮の収集者として扱い、広大な森林を事実上所有することにしました。イギリスの植民地は、やがてその強みを発揮し、先住民族の所有地から確保した広大な土地を独占的に耕作するために、農業従事者の移住を奨励するようになります。

 こうしてイギリスの植民地の役人は土地の購入から始めましたが、このような取引は、天然資源の集団または個人の「所有権」という概念そのものが異質である先住民族にとって不利に働くものでした。先住民族の代表者は必ずしも土地の所有者ではなかったのですが、「売買」が成立した後、先住民族は自分たちが狩猟や漁業の権利を放棄したことに驚き、入植者は先住民族の文化が認めない無条件の支配権を持つようになったのです。

 先住民族と白人との戦争は、クリストファー・コロンブスの上陸に始まるものです。「豊かで安い土地」を求めて白人入植者が西進するようになると、当然そこに住む先住民族との摩擦が起こります。住み慣れた領土を追われそうになり、先住民族は激しく抵抗していくです。

アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その33 パリ条約

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 1763年のパリ条約(Treaty of Paris)で、イギリスはカナダ全土、東西フロリダ、アメリカ大陸のミシシッピ川以東の全領土、カリブ海(Caribbean)のセントビンセント (St. Vincent)、トバゴ(Tobago)、ドミニカ(Dominic)を領有することになります。当時、このようなイギリスの勝利は史上最大級のものと考えられました。アメリカにおけるイギリス帝国を樹立しただけでなく、領土が大きく拡大したのです。

 しかし、この戦争に勝利したことで、イギリスは帝国の最も強力な物質的接着剤のようなものを失っていきます。それは、イギリス帝国のニーズとアメリカの植民地のニーズとが異なるため、両者に深刻な対立が生じていくのです。経済的に強力になり、文化的に区別され、政治的に着実に独立しつつある植民地は、最終的にはイギリスの帝国主義に反旗を翻すことになるのです。

 イギリスは北アメリカのヌーベルフランス(Nouvelle-France)と呼ばれていた地域で、東はニューファンドランド島(Newfoundland)から西のロッキー山脈(Rocky Mountains)まで、北はハドソン湾(Hudson Bay)から南のメキシコ湾までに大半を委譲されます。さらにイギリスは、スペイン領フロリダ、西インド諸島(West Indies)のいくつかの島、西アフリカ海岸のセネガル(Senegal)植民地、インドにおけるフランス交易地に対する優越性を獲得します。

 イギリス・フランス間の紛争は、1754年から1756年の間にイギリスがフランスの北アメリカ植民地を攻撃して、フランス商船を数百隻を拿捕したことで始まりました。これは「七年戦争」と呼ばれました。1763年2月、七年戦争の終結に際してイギリスとフランス、スペインとの間に協定が結ばれ、これによって、フランスはカナダとルイジアナをイギリスに割譲して、若干の島々と権益のほかには北アメリカ大陸における領土と覇権を失います。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その32 イギリスの勝利

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フランスは、アメリカにおけるイギリス植民地の人口において15対1で優勢で、彼ら自身を保全するために十分な備えをしていました。彼らはイギリスよりもアメリカに大きな軍事組織を持っていて、その軍隊はよりよく訓練されました。彼らはイギリス人よりも先住民族との間で軍事同盟を結ぶことに成功していました。

 最初の戦の遭遇はフランスの攻撃からでした。ジョージ・ワシントン(George Washington)はネセシティ砦(Fort Necessity)で、優勢なフランス軍に降伏し、モノンガヒラ川(Monongahela River)ではエドワード・ブラドック将軍(Gen. Edward Braddock)の全滅、オスウェゴ(Oswego)とウィリアム・ヘンリー砦(Fort William Henry)でのフランスの勝利は、イギリスにとって戦争が短期間で失敗したものかのように見えました。しかし、こうした敗北があったにせよ、イギリス軍はアメリカへ兵員と物資の供給を増やすことができました。 1758年までに、軍隊の規模は最終的に満足できる水準に達し、イギリスはより大きな戦略を実行し始めることになりました。

 イギリス軍は、セントローレンス(St. Lawrence)の支配権を獲得するための陸海軍と、タイコンデロガ砦(Fort Ticonderoga)を狙った大規模な陸軍を派遣してシャンプレーン湖(Lake Champlain)のフランス軍を排除する作戦でした。ただ、フランス軍に対するタイコンデロガ砦での最初の遠征は惨敗でした。ジェームズ・アバクロンビー将軍(Gen. James Abercrombie)は、軍隊が適切に配置される前に、15,000人のイギリス軍と植民地軍を率いてフランス軍に対して攻撃します。セントローレンスの鍵であるルイバーグ(Louisburg)へのイギリス軍の急襲は成功します。 1758年7月、ジェフリー・アマースト卿(Lord Jeffrey Amherst) は海軍の攻撃を主導し、彼の兵隊は小さな舟艇で海岸に上陸し海岸堡を確立し、ルイバーグの砦を占領しました。

 イギリスは土地を開拓し農業を行う農業植であったのに対し、フランスの北米植民は先住民との毛皮交易が当初の目的でした。フランス人の支配は、交易路となる河川の「線」や交易所、宣教師の基地、軍事要塞など「点」が中心でした。人口の面でも農地を広げ面的支配を意図するイギリス人はフランス人を圧倒していました。フランスは、藍、サトウキビ、タバコ、綿花などの商品作物の生産地として、また自国製品の輸出先としても植民地を必要としていました。イギリスは海上権確保を目指していました。

 1759年、数ヶ月にわたる散発的な戦闘の後、ジェームズ・ウルフ(James Wolfe)が率いる軍隊がモンカルム侯爵(marquis de Montcalm)の率いるフランス軍からケベック(Quebec)を奪取します。これがおそらく戦争の転機となります。1760年の秋には、イギリスはモントリオール(Montreal)を占領し、アメリカ大陸のすべてを実質的に支配することになります。イギリスが他の地域の国々を破るのにさらに2年を要したのですが、アメリカ大陸の支配権争いは決着していきます。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その32 イギリスの勝利

フランスは、アメリカにおけるイギリス植民地の人口において、15対1で優勢であったにもかかわらず、フランス人は彼ら自身を保全するために十分な備えをしていました。彼らはイギリスよりもアメリカに大きな軍事組織を持っていて、その軍隊はよりよく訓練されました。彼らはイギリス人よりも先住民族との間で軍事同盟を結ぶことに成功していました。

 最初の戦の遭遇はフランスの攻撃からでした。ジョージ・ワシントン(George Washington)のネセシティ砦(Fort Necessity)で、優勢なフランス軍に降伏し、モノンガヒラ川(Monongahela River)でのエドワード・ブラドック将軍(Gen. Edward Braddock)の全滅、オスウェゴ(Oswego)とウィリアム・ヘンリー砦(Fort William Henry)でのフランスの勝利は、イギリスにとって戦争が短期間で失敗したものかのように見えました。しかし、こうした敗北があったにせよ、イギリス軍はアメリカへ兵員と物資の供給を増やすことができました。 1758年までに、軍隊の規模は最終的に満足できる水準に達し、イギリスはより大きな戦略を実行し始めることになりました。

 イギリス軍は、セントローレンス(St. Lawrence)の支配権を獲得するための陸海軍と、タイコンデロガ砦(Fort Ticonderoga)を狙った大規模な陸軍を派遣してシャンプレーン湖(Lake Champlain)のフランス軍を排除することが含まれていました。ただ、フランス軍に対するタイコンデロガ砦での最初の遠征は惨敗でした。ジェームズ・アバクロンビー将軍(Gen. James Abercrombie)は、軍隊が適切に配置される前に、15,000人のイギリス軍と植民地軍を率いてフランス軍に対して攻撃したのです。セントローレンスの鍵であるルイバーグ(Louisburg)へのイギリス軍の急襲は成功します。 1758年7月、ジェフリー・アマースト卿(Lord Jeffrey Amherst) は海軍の攻撃を主導し、彼の兵隊は小さな舟艇で海岸に上陸し海岸堡を確立し、ルイバーグの砦を占領しました。

 イギリスは土地を開拓し農業を行う農業植民であったのに対し、フランスの北米植民は先住民との毛皮交易が当初の目的でした。フランス人の支配は、交易路となる河川の「線」や交易所、宣教師の基地、軍事要塞など「点」が中心でした。人口の面でも農地を広げ面的支配を意図するイギリス人はフランス人を圧倒していました。

 フランスは、藍、サトウキビ、タバコ、綿花などの商品作物の生産地として、また自国製品の輸出先としても植民地を必要としていました。イギリスは海上権確保を目指していました。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その31 イギリスとフランスの角逐

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大陸の植民地は、多くの点でヨーロッパの国々から隔離されていましたが、それにもかかわらず、海外からの外交的および軍事的圧力に絶えずさらされ​​ていました。特に、スペインとフランスは常に近くにあり、アメリカ本土での商業的および領土的利権を増やすために、アメリカにおけるイギリスの弱さの兆候を虎視眈々と待っていました。

 帝国間の第一次世界大戦、またはアメリカ人に知られているフレンチ・インディアン戦争(French and Indian War)は、この世紀におけるヨーロッパの主要国間の戦争のもう一つのラウンドでした。最初はウィリアム王戦争(King William’s War)(1689–97年)、次にアン女王戦争(Queen Anne’s War)(1702–13年)、そして後にジョージ王戦争(King George’s War)(1744–48年)で、イギリス人とフランス人は戦いました。先住民族の支配、アメリカ大陸の北にある領土の所有、北西部の貿易へのアクセス、西インド諸島の商業的優位性を保つためにです。

 両国間の争いでは、フランスはスペインに助けられていました。スペインは、イギリスの植民地のすぐ南と西、およびカリブ海に独自の領土を持っていたため、イギリスの拡大を制限するためにフランスと協力することが自分たちの利益であることに気づきました。こうした争いの集大成は、1754年にヨーロッパの大戦で起こりました。アメリカでのイギリスとフランスの間の長い争いは、主にアメリカ大陸という地方の問題でありました。アメリカの入植者はイギリスのために戦ってはいましたが、帝国同士の大戦では、アメリカへはイギリス軍のかなりの支援がありました。ウィリアム・ピット(William Pitt)の下でのイギリスの戦略は、彼らの同盟国であるプロイセン(Prussia)をヨーロッパでの戦闘の矢面に立たせることで、それによってイギリスがアメリカに軍隊を集中させることができるのでした。

 17世紀後半から19世紀初頭まで1世紀以上にわたって断続的に戦われたイギリスとフランスとの間の戦争が「イギリス・フランス植民地戦争」(Anglo-French colonial wars) です。100年戦争ともいわれます。重商主義政策を推進するイギリスと自国の商工業の保護・振興を図るフランスとの植民地をめぐる攻防です。100年戦争で活躍した人物に、フランスの軍人で国民的ヒロイン、カトリック教会における聖人のジャンヌ・ダルク(Jehanne Darc)がいます。「オルレアンの乙女」(Maid of Orleans)とも呼ばれました。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その30 信仰復興運動(リバイバル)

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 「信仰復興運動」とか「大覚醒運動」(Great Awakening)として総称される一連の宗教的リバイバル(revival)は、1730年代と40年代に植民地を席巻します。その衝撃は、1720年代にオランダ改革派教会の牧師であるセオドア・フレリングハイゼン(Theodore Frelinghuysen)が説教を始めた中部の植民地で最初に起こります。

 1730年代初頭のニューイングランドでは、おそらく18世紀で最も学識のある神学者のジョナサン・エドワーズ(Jonathan Edwards)らが、宗教的な熱狂という大衆伝道にかかわっていました。1740年代後半までに、大衆伝道は南部植民地にまで拡大し、サミュエル・デイヴィス(Samuel Davies)やジョージ・ホワイトフィールド(George Whitefield)などの巡回説教者が、特に地方の田舎で大きな影響力を及ぼしました。

 信仰復興運動は、社会の世俗化の進展や、アメリカ社会の主要な教会の商業主義、唯物論的性質に対する反発を示しています。改心を救いの道の第一歩とし、自分の罪深さを認めたすべての人に改宗の経験を味わわせようとするのです。こうした大覚醒運動の指導者は、意図的に、あるいは無意識のうちに、カルヴァン主義(Calvinism)の神学を大衆的なものとしていきました。カルヴァン主義とは、すべての上にある神の主権を強調する神学体系、およびクリスチャン生活の実践の教えのことです。

 信仰復興運動における説教者の多くの狙いは、人間の罪深い生活の結果への恐れと神の全能性への敬意を聴衆に鼓舞することでした。神の凶暴さという感覚によって、世俗性の拒絶と信仰への復帰が恵みをもたらし、怒る神からの恐ろしい罰から逃れることができる、という目に見えない約束によって人々は慰められることを強調したことです。

 信仰復興運動のもう一つの側面は、大衆迎合的なプロパガンダによる全体主義的な性格です。おびたただしい数の大衆を巻き込みながら、巨大化していく運動であったことです。プロパガンダとは主義とは思想の宣伝です。プロパガンダで危険なことは、主義や主張が詭弁に充ちることです。ふわっとした雰囲気にとりこまれていく大衆の思考停止の姿が信仰復興運動にあったことです。

 同時に信仰復興運動がうたう神学の考え方には、ある矛盾した性質がありました。信仰復興運動のほとんどの指導者はカルヴァン主義神学の主要な信条の一つである予定説(Predestination)を強調していたことです。この予定説は、人間が自発的な信仰の行為によって自身の努力によって救いを達成することができるという教義とは決定的に対立するものでした。

 さらに、完全な信仰への復帰と神の全能性を強調することは、啓蒙思想(Enlightenment thought)とは対立する考え方でした。啓蒙思想は、信仰についての大きな疑問を呈するとともに、人間の日常の営為における神の役割は少ないということを主張するものでした。他方、アメリカの信仰復興運動の主要人物の一人であるエドワーズ(Jonathan Edwards)は宗教を合理的に理解しようとして、ジョン・ロック(John Locke)やアイザック・ニュートン(Isaac Newton)などの考えを明確に援用しました。

 ここで重要なのは、信仰復興運動によって促進された福音主義の宗教的礼拝のスタイルが、疑問視された教会の宗派の多く、特にバプテスト派とメソジスト派の宗教的教義をアメリカ国民へより理解しやすくするのに役立ったことです。教会の会員数の拡大は、黒人だけでなくヨーロッパ系の人々にも拡大し、福音派プロテスタントの典礼形式は、アフリカやアメリカで行われるの宗教的礼拝の合同(syncretism)を促進することになりました。

 現代アメリカの最も著名なキリスト教の福音伝道師にビリー・グラハム(Billy Graham)がいます。アメリカの伝道師と呼ばれ、20世紀中ごろのリバイバル運動の主力となった一人です。日本では東京福音クルセードなどを主宰した本田弘慈牧師が有名です。クルセード(crusade)とは十字軍を意味する言葉ですが、アメリカの福音主義者の間で大衆伝道の意味で用いられた信仰復興運動のことです。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その29 ドイツからの移民と再洗礼派

アメリカのプロテスタントも移民によって多様化していきます。18世紀初頭に数千人のドイツ人が到着したことで、特にペンシルベニア州西部に、メノナイト(Mennonites)、モラヴィア兄弟(Moravians)、シュウェンクフェルダース教会(Schwenkfelders Church)などのドイツの敬虔主義(German pietism)がもたらされます。シュウェンクフェルダース教会とは、カスパー・シュウェンクフェルドCaspar Schwenkfeld von Ossig)が創設し、宗教改革の教えに根ざした小さなキリスト教団体です。当時ヨーロッパでは敬虔主義のキリスト教徒はさまざまな迫害を受けていました。それが新大陸への移民を促進したのです。

Schwenkfelders Church

 新たに再洗礼派(Anabaptists)の教徒もドイツの州から到着し、新しい土地にバプテスト教会の基盤を広げます。 1687年以降に新たな迫害から逃れたフランスのユグノー(Huguenots)は、パッチワークキルトのようなアメリカのキリスト教会にカルヴァン主義(Calvinism)というブランドを加えていきます。ただ、ユグノーは、1650年代にすでにアメリカ大陸に到来していました。

 ユダヤ人は1654年に当時のオランダからニューアムステルダム、現在のニューヨークに到着し、オランダ西インド会社(Dutch West India Company)から亡命を許可されました。当初ピーター・ストイフェサント(Peter Stuyvesant)知事は、ブラジル北部からニューアムステルダムに恒久的な入植を目指し、パスポート無しのユダヤ人を受け容れませんでした。クエーカー教徒、ルター派、および「教皇主義者」に対する寛大さの前例になると杞憂したからでした。しかし、1763年までに、ユダヤの会堂(synagogues)はニューヨーク、フィラデルフィア、ニューポート(New Port)、ロードアイランド (Rhode Island)、サバンナ(Savannah)、およびユダヤ人の商人の小さなコミュニティが存在する港湾都市に設立されていきました。

 1740年代のアメリカ植民地における宗教生活は、すでに独特の色彩を帯びていました。物質的な繁栄が進むと建国当時の苦労が薄れてゆき、当初の信仰への熱意は冷めていきます。こうした中で、信仰への揺り戻しが起こります。これがリバイバル(Revival)と呼ばれる信仰覚醒運動です。

 再洗礼派の教えは、幼児洗礼を否定し、成人の信仰告白に基づく成人洗礼を認めるのです。ルターと並んで宗教改革の初期の立役者の一人、スイス人のフルドリッヒ・ツヴィングリ (Huldrych Zwingli)は再洗礼派の先駆者といわれます。

アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その28 教会の多様性と教派の誕生

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マサチューセッツの植民地が開かれた最初の数年間は、教義をどのように解釈するかについての清教徒の意見の不一致、分裂、亡命、そして新しい植民地の設立につながっていきました。ロードアイランドやコネチカットのように、清教徒主義に反対する人々が近隣の「荒野」の地に移動して新たに始めることができたのはアメリカだけでした。このような経験は最初から宗教の多様性を奨励することになりました。霊的体験を重んじるクエーカー教徒とか「魔女(witches)」と呼ばれたような人々を罰するという厳しい慣習は、17世紀の終わりまでにはなくなりました。ジョージ・フォックス(George Fox)はクエーカー教の指導者でした。

George Fox

 寛容は成長の遅い植物のようなもので、植民地時代の早い段階で、寛容という種をまきがなされました。メリーランド州の創設者であり、生まれつきのカトリックカルバート家(Calvert family)は、1649年の寛容法(Toleration Act)にそって、教区民や他の非聖公会教徒に自由を拡大しました。ローマカトリック教会で、最初の「アメリカ人」の司教となったのがジョン・キャロル(John Carroll)でした。

 19世紀にななると、ドイツ、アイルランド、イタリア、ポーランドからの大幅な移民がやってきて、アメリカのカトリックは独自は「メルティングポット(melting pot)」となっていきます。ペンシルベニア州は、ウィリアム・ペンのクエーカー教徒の信仰を共有する抑圧された人々のコミュニティではなく、一般的な兄弟愛のモデルとなる「連邦(commonwealth)」となります。ジョージアは、ラム酒と奴隷制の両方を禁止し、債務者に再度の機会を与えるという理想主義的で宗教的な考えで設立されましたが、どちらの禁止も長くは続きませんでした。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その27 教会の世俗化と民主化

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アメリカ人の良心を形成する上で、宗教が果たした役割は、時には誇張され、今も重要ことといえます。植民地時代の最初の世紀において、集落が形成されたニューイングランドでは強く宗教が影響を及ぼしました。教会は少しずつ世俗化され民主化されていきますが、強い原動力となりました。ピルグリムファーザーズ(Pilgrim Fathers)が1620年にメイフラワー・コンパクト(Mayflower Compact)に署名し、「市民団体の政治」を決意し、はっきりと宗教的繋がりを政治的コミュニティの基盤にしました。しかし、もともとメイフラワー号の乗客リストにはライデン分離主義者(Leiden Separatist)の非会員、つまり「変わり者」と言われた人々がいて、1691年にマサチューセッツに吸収されるまでプリマス植民地での権利の着実な拡大を求めていました。

 清教徒は、ジョン・ウィンスロップ(John Winthrop) がコミュニティ設立の際の説教で、コミュニティを「キリスト教の慈善のモデル」、「丘の上の都市」と呼んで地上における天国にしようとしました。このテーマは、さまざまな形でアメリカの歴史の隅々にいきわたっています。マサチューセッツ州における清教徒主義という伝統的なイメージは、抑圧的で権威的なものですが、見落とされているのは、ウィンスロップと彼の信奉者の間で共有された愛と信仰によって結ばれるべきであるというコンセンサスです。皆が同意したことは正しいというのです。それは信者の間で自らが選んだ神政体制ともいうべきものでした。

 しかし、神政的モデルは、参政権が認められていなかった教会の非会員には適用されず、会員を維持する上ですぐに問題が発生しました。自分たちに救いをもたらす「回心」という個人的な経験をした人だけが、教会の正会員になり、子どもたちに洗礼を授けることができました。しかし、第一世代が亡くなったとき、それらの子でもたちの多くは、回心を個人的に証することができなかったので、自分の子孫だけを教会に連れていくだけでした。

 非会員は、最終的に1662年のハーフウェイ誓約(Half-Way Covenant)によって礼拝に出席することを許可されましたが、メンバーシップとしての完全な権利を享受していませんでした。そのような明らかな神学的な屁理屈は、コロニーが拡大し分散することを示しています。会衆がさまざまな町に広がり、他の信仰の崇拝者を呼び込み続けていくにつれ、清教徒の教義の硬直性は、風によって曲がるような有様となりました。

 ジョン・ウィンスロップは、説教者として新世界に移民してきたピューリタン植民者は神との間に神聖なる社会を創るという特別の盟約があると訴えます。1630年4月に初代のマサチューセッツ湾植民地知事にばれた政治家でもあります。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その26 高等教育の発展

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植民地時代のアメリカ人が、高い水準の伝統的な文化的な業績を達成できなかったのですが、彼らは少なくとも世界のほとんどの国に劣らないほど、自らの文化を広めることに成功しました。新聞や年鑑は、ヨーロッパの哲学者によって作成された百科全書(encyclopedia)とは同じ知的レベルではありませんが、おそらくヨーロッパのどの文化媒体よりも幅広い聴衆を持っていました。

Harvard University

 ニューイングランドの植民地は、人口増加に追いつくことができなかったのですが、公教育の分野に力を注ぐことになりました。ニューイングランド以外では、教育は子どもたちを私立学校に通わせる余裕のある人々の保護下にありましたが、私立ながら授業料のかからない「チャリティースクール」(charity schools)とか、比較的授業料が安い「アカデミー」(academy)の存在により、アメリカの中産階級の子どもたちが学習する場となりました。

高等教育が広がっていきます。その主要なものとして、ハーヴァード大学(Harvard University)(1636)、ウィリアムとメアリー大学(William and Mary University)(1693)、エール大学(Yale University)(1701)、プリンストン大学(Princeton University)(1747)、ペンシルベニア大学(Pennsylvania University)(1755年以来の大学)、キングスカレッジ(King’s College)(1754年、現在はコロンビア大学(Columbia University))、ロードアイランド大学(Rhode Island College)(1764年、現在はブラウン大学(Brown University)、クイーンズカレッジ(Queen’s College)(1766年、現在はラトガーズ大学(Rutgers University)、およびダートマス大学(Dartmouth College)(1769年)が創設されます。こうした大学は、極めて優れた教育機関となります。こうした大学の特徴として、ほとんどが特定の宗教的な背景がありました。例えば、ハーヴァード大学は会衆派牧師(Congregational ministers)の養成機関であり、プリンストン大学は長老派教会(Presbyterian Church)の庇護のもとで設立されます。

Dartmouth College

注釈」 合衆国の有名な大学は、1600年代後半から1700年代にリベラルアーツ(liberal arts)のカレッジとして発足し、その後総合大学と発展していきます。それもキリスト教会の聖職者を養成する神学校から出発したのが特徴です。

 

アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その24 植民地時代の知的文化の発展

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 アメリカが生んだ科学の天才は、ペンシルベニア州のジョン・バートラム(John Bartram)でした。彼は、新大陸で重要な植物データを収集し分類します。 1744年に設立されたアメリカ人文科学協会(American Philosophical Society)は、アメリカの優れた学術団体として知られていました。アメリカで最初のプラネタリウムを建設した天文学者はデビッド・リッテンハウス(David Rittenhouse)でした。ニューヨーク州副知事のカドウォールーダー・コールデン(Cadwallader Colden)は、植物学者および人類学者としての業績が、おそらく政治家としての業績を上回っていたといわれます。

 社会改革の多くの分野のパイオニアであり、植民地時代のアメリカの物理学者の第一人者の一人であるベンジャミン・ラッシュ(Benjamin Rush)は、人文科学協会の有力な会員の1人でした。人文科学協会の創設者の一人にベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)がいました。彼は、電気の流れに関する実験で主要な理論的進歩を発表した数少ない科学者の一人となりました。他に熱効率のよいストーブの製造とか避雷針の開発などの応用研究でも知られています。

 アメリカ独立宣言の起草委員の一人であったベンジャミン・フランクリンの名言はいろいろあります。「どんな愚かな者でも他人の短所を指摘できる。そして、たいていの愚かな者がそれをやりたがる」、「時間を浪費するな、人生は時間の積み重ねなのだから」、「 知識への投資がいつの世でも最高の利子を生む」、「友人はゆっくり選べ、変えるにはさらにゆっくりとやれ」、「生きるために食べろ、食べるために生きるな」、「財布が軽けりゃ、心は重い」 次の言葉は含蓄があります。「もし財布の中身を頭につぎこんだら、誰も盗むことはできない。知識への投資がいつの世でも最高の利子を生む」という名言です。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その25 文化的媒体と新聞

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科学以外の分野でのアメリカの文化的成果は、植民時代ではそれほど目覚ましくはありませんでした。アメリカ文学では、少なくとも伝統的なヨーロッパの形式のものはほとんど存在していませんでした。文学で最も重要なものは、フィクションでも形而上学でもありませんでしたが、ロバート・ビバリー(Robert Beverley)の著作による「歴史とヴァジニア州の現在の状態」(The History and Present State of Virginia)やウィリアム・バード(William Byrd)の「分岐点の歴史」(History of the Dividing Line)です。こうした書物は1841年まで公開されませんでした。

アメリカで最も重要な文化的媒体は、書物ではなく新聞でした。高額な印刷の費用では、最も重要なニュースを除いて書物での伝達は無理でした。したがって、求人広告や作物価格の報告などのより重要な情報が優先され、地元のゴシップや広範な投機的ニュースは後回しとなりました。新聞の次に、年鑑(almanac) はアメリカで最も人気のある文学形式であり、1739年に刊行されたベンジャミン・フランクリンの「貧しいリチャードの暦」(Poor Richard’s Almanack)は、この種の範疇で最も有名になりました。 1741年になって、フランクリンのGeneral Magazineが発行され、文芸雑誌がアメリカで始めて登場しました。しかし、18世紀のこうした雑誌のほとんどは購読者を引き付けることができず、わずか数年の発行でほぼすべて廃刊となりました。ワシントンD.C.にある議会図書館(Library of Congress)には、貴重な雑誌として貯蔵されています。

Library of Congress

南部植民地、特にチャールストンは、他の地域よりも住民のための立派な劇場を設立することに関心を持っているようでした。しかし、どの植民地でもヨーロッパの優れた劇場には追いついていませんでした。 ニューイングランドでは、ピューリタンの影響が演劇活動を広げる障害となり、国際的な都市となったフィラデルフィアでさえ、クエーカー教徒によって長い間、舞台芸術の発展が阻害されていました。

注釈」 議会図書館は、世界中から膨大な資料を集めた世界最大の図書館です。現在は、インターネット技術を駆使した電子図書館事業を推進しています。

 

アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その23 「抜け駆けした者」と不法占拠

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ニューイングランドの気候と地形の厳しさの中で、人々の経済的自立への道は貿易、船舶、漁業、または手工業へと向かいました。しかし、キリスト教に関連した第一世代の宗教的な入植者が亡くなると、個人経営による自給農業への渇望はますます強くなりました。その過程で、タウンシップによる土地の共同所有は、小さく割り当てられた家族の庭や、中世のコミュニティのスタイルである一般的な放牧地と果樹園を経営しながら、徐々にフェンスで囲んだ農場を持つようになりました。

 利用可能な土地が提供され、それによって自分の生き方を求めることは魅力的なことでした。土地の所有という特権が市民に与えられたため、革命が始まる直前になると、非常に多くの男性入植者が選挙権を獲得していきました。

 奴隷制はタバコなどの作物の大規模栽培の屋台骨となり、南部植民地で最も堅固に根づいていきました。同時に、小さな面積の土地しか持たない白人もそれらのコロニーに住んでいました。さらに、小規模な奴隷制が北部に移植され、黒人は主に家事労働や未熟練労働に就くことになりました。アメリカでは自由と奴隷制の境界線はまだはっきりと描かれていませんでした。

 不安定ながら、土地を取得するための一つの方法は、単に「居座る」ことでした。 入植地の西端では、植民地の管理者は、海岸郡の所有者に役に立つ不法占拠者を警察の権限を使用して追放することはできませんでした。 不法占拠者は、自分たちを無法者と見なすどころか、大きな危険と困難を伴う新しい土地を開拓するための仕事をしていると信じていました。こうして土地に居座ることは、アメリカの初期の歴史を通して西部開拓の恒常的な姿となりました。

 オクラホマ準州は土地獲得レースを通じて開拓されます。1889年には数千人が未開地に向かう劇的な最初のレースに参加しました。各レースはピストルショットで一斉に未開地へ走ります。号砲を待たず抜け駆けした者はスーナーズ(Sooners)と呼ばれました。

 

アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その22 「救済された」移民

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20世紀初期の歴史学者、フレデリック・ターナー(Frederick  Turner)は、彼が1893年に著した「フロンティア・テーゼ」(Frontier Thesis)で、「アメリカの民主主義は自由な土地の豊富さの結果である」と主張しています。この主張は、長年真剣に討議され修正はされてきましたが、豊富な処女地開拓や労働者の不足が原因で、初期の植民地時代おける法制や制約が緩和されていたというのがターナーの主張です。イギリスの新世界における「プランテーション」の成功への最も簡単な道が、輸出作物の栽培にあることが明らかになると、農業労働に対する絶え間ない需要が生まれ、奴隷制を除いて、厳格な階層的な社会秩序が危うくなることになります。

 すべての植民地では、国王、所有者、または公認企業によって直接統治されているかどうかにかかわらず、入植者を引き付けることが不可欠でした。知事が最も豊富に提供したのは土地で、そのため時には数百以上の宗教的なコミュニティに多額の助成金が交付されていきます。時には、連れてきた家族ごとに非常に「頭割の権利」という文字通り一人当たりシステムで裕福な男性に土地が割り当てられました。イギリス人や他のヨーロッパ人は農場を完全に購入する手段を持っていなかったので、大規模な土地を与えられた者とって、農場の単純な売却は賃貸よりも一般的ではありませんでした。

 しかし、個人事業主によって必要な仕組みが整備され、それが労働力の移動を容易にしました。年季奉公として知られている契約労働の仕組みもありました。その下で、新移住者は、通常は7年間の土地所有者とのサービス期間でサインし、大西洋を渡って連れてきた船長への乗船賃の返済の見返りとして彼らを働かせるのでした。そのような移民は「救済された者」(redemptioners)とか「贖われた者」と呼ばれていました。

 契約期間が終わりになると、年季奉公は多くの場合、まだ未開拓の地域にある50エーカー以上の土地の所有権である「自由会費」で植民地自体から報われることになります。この幾分聖書に書かれてあるような移民の前資本主義システムは、熟練労働者の供給に追加された経済的および社会的ツールである見習いとか徒弟のようなものでした。見習い制度とは、使用人が思春期前の少年を職人になるように「縛り付け」、自分の家に連れて行き、そこで代理親として少年に技術を教えることでした。 女の子は、将来母親となるように「家政婦」とされました。年季奉公と見習いを監督するのが使用人の任務でありました。使用人によって寛大であるか、厳しいかは異なりました。労働が厳しいときは、逃亡する逃亡するのが一般的でした。厳しい雇い主が多くいたのは間違いありません。

ヴァジニアに連れて来られた最初のアフリカ人などは、年季奉公として働いていたようです。 1640年代に植民地で最初の黒人奴隷となったジョン・パンチ(John Punch)のことです。パンチは二人の仲間とともにメリーランドに逃亡しますが、捕らえられ裁判にかけられます。彼らは異なる判決を受けまが、パンチは終身の奴隷となり、他の二人は期限付きの年季奉公という判決となりました。

注釈」 DNAの検査結果により、元大統領のバラク・オバマ(Barack Obama)は、ジョン・パンチの12代目の子孫といわれます。1950年にノーベル平和賞を受賞したアメリカの政治外交家ラフフ・バンチ(Ralph Bunche)もパンチの父方の子孫といわれます。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その21 自給農業から商業農業へ

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アメリカ各地は、次第に自給農業に依存することが少なくなり、世界市場向けの製品の栽培と製造に依存するようになります。当初は個人のニーズにしか対応していなかった土地が、経済活動の基本的な源泉となりました。独立した土地所有の農民は、特にニューイングランドと中西部植民地に多くいましたが、1750年までに開拓された土地のほとんどは、換金作物(cash crop)の栽培へと転換していきます。ニューイングランドはその土地を輸出用の肉製品の生産のために利用していきます。中部植民地は穀物の主要な生産地でした。1700年までに、フィラデルフィア(Philadelphia) は年間9,450トンを超える小麦と18,000トン以上の小麦粉を輸出しました。もちろん、南部植民地は換金作物の栽培へと密接につながります。

 サウスカロライナは、イギリスからの補助金によって、米と藍の生産に目を向けました。ノースカロライナはサウスカロライナほど市場経済を志向していませんでしたが、それでもなお、海軍物資の主要な供給地となりました。ヴァジニア州とメリーランド州は、次第にタバコの生産とそれを購入するロンドンの商人による経済的依存度を高めていきます。多くの場合、土地の一部を小麦の栽培に転用することで農業を多様化しようとした農民は無視されていきます。商人は世界のタバコの価格を完全に握るのですが、それがやがては無残な結果となります。18世紀の間、ヴァジニア州とメリーランド州の土壌は、合理的な単作システムと相まってタバコを収益性の高いものとし、十分な生産性を維持しました。

葉タバコの生産

 アメリカが自給農業から商業農業へと進化するにつれて、影響力のある商業階層がほぼすべての植民地でその存在を高めました。ボストンはニューイングランドのエリート商人の中心地であり、経済社会を支配しただけでなく、社会的および政治的権力を発揮しました。ニューヨークのジェームズ・デ・ランシー(James De Lancey)やフィリップ・リビングストン(Philip Livingston)、フィラデルフィアのジョセフ・ギャロウェイ(Joseph Galloway)、ロバート・モリス(Robert Morris)、トーマス・ウォートン(Thomas Wharton)などの商人は、職業の範囲をはるかに超えた影響力を発揮しました。

  チャールストンでは、ピンクニー(Pinckney)、ラトレッジ(Rutledge)、およびローンズ(Lowndes)の各家が、その港を通過する貿易の多くを支配していきました。強力な商人階級が存在しなかったヴァジニア州でさえ、経済的および政治的権力を持っていたのは、商人と農民の職業を最もよく組み合わさった商業農民でした。こうしてコロニーは、その商業的重要性が高まっていきます。 1700年から10年間に、植民地から毎年約265,000ポンドがイギリスに輸出され、アメリカはイギリスからほぼ同じ量を輸入しました。1760年から1770年の10年間で、その数字は、イギリスに毎年輸出される商品の1,000,000ポンド以上、イギリスから毎年輸入される1,760,000ポンドにまで上昇しました。

「注釈」 アメリカが世界の農業国として発展した基礎は、地政学的に農業に向いた国土が広がること、植民地時代の小麦やトウモロコシ、タバコの生産にあります。それらを消費国へ輸出する港にも恵まれていました。いわゆるサプライチェーンを確保していたのです。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その20 割譲と領土の拡大

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合衆国の形成期には、人口増加、居住地域の増大、領土の拡大がほぼ並行して進みます。1790年の第一回国勢調査では約223万キロの領土となり、1863年にルイジアナ州(Louisiana)を買収しほぼ2倍の国土となります。さらに1819年にはフロリダ(Florida)を買収し、1830年のインディアン移住法(Indian Removal Act)によりインディアンを強制的に西部に移住させると、1836年のメキシコ領テキサス(Texas)でのテキサス共和国樹立し1845年のアメリカへの併合を決めます。

イギリスとアメリカによって共同で占有されていたオレゴン・カントリー(Oregon Country)の割譲による1846年のオレゴン条約(Oregon Treaty)の締結、および米墨戦争によるメキシコ割譲により、領土は西海岸にまで達します。1845年にテキサス、翌年のオレゴンの併合に続き、1848年にはカリフォルニア(California)、ネヴァダ(Nevada)、ユタ(Utah)、アリゾナ(Arizona)の大部分、コロラドの一部、ワイオミング(Wyoming)、ニューメキシコ(New Mexico)を含む北アメリカ大陸の南西部がメキシコから割譲されて、領土は大陸の三分の二に増大します。

テキサス共和国の誕生

 1853年、メキシコ担当大臣ジェームズ・ガズデン(James Gadsden)によるアリゾナ州南部およびニューメキシコ州購入で大陸部の領土拡張は完了します。1790年には、393万人の住民のほとんどが大西洋岸に居住し、植民は東部海岸から内陸に向かって400キロくらいまで進みます。その一部はさらに西方のオハイオ、カナダ、ミシシッピ川(Mississippi )水系オハイオ川の支流のひとつであるカンバーランド川(Cumberland River)まで広がっていきます。ニューヨーク州のエルマイラ(Elmira)、ビンガムトン(Binghamton)に人々が居住し始め、ミシガン州デトロイト、マキナック(Mackinac)、ウィスコンシン州グリーンベイ(Green Bay)、プレーリー・ド・シン(Prairie du Chien)、インディアナ州ビンセンス(Vincennes)にも開拓地が置かれます。後にアラスカとハワイも1959年に州に昇格します。

 アメリカの領土拡大政策は成功していきます。1867年にアメリカがロシア帝国から720万ドルでアラスカ(Alaska)を購入したのもその一例です。当時アメリカでは「巨大な保冷庫を購入した」という非難が起こったようです。しかし、後日油田の発見や軍事的な重要性が認識されてアメリカは安い買い物をしたのです。領土は国家主権の基礎にあるものです。我が国の北方四島の返還交渉やウクライナのロシアへの抵抗がそれを例証しています。

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アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史  その19 黒人奴隷と移民の増大

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アメリカ植民地の地方行政自治の浸透は、当然ながらイギリス帝国内における自治の傾向を反映したものでした。1650年の植民地の人口は約52,000人でした。1700年は約250,000人となり、1760年には170万に近づいていきました。 ヴァジニア州は1700年の約54,000人から1760年には約340,000人に増加しました。

 ペンシルベニア州は1681年の約500人の入植者で始まり、1760年までに少なくとも25万人となりました。さらにアメリカの他の都市も成長し始めました。1765年までにボストンは15,000人に達します。ニューヨークは16,000〜17,000人、植民地で最大の都市であるフィラデルフィア(Philadelphia)は約20,000人でした。

 人口増加の一部は、奴隷として連れて来られたアフリカ人移民の結果でした。17世紀には、奴隷の人口はごく少数でした。18世紀半ばまでに南部の入植者は、自分たちの農園によって生み出された利益は、奴隷労働に必要な比較的大きな初期投資を賄えることを知ります。それによって奴隷貿易の量は著しく増加しました。ヴァジニア州では、奴隷人口は1670年の約2,000人から1715年にはおそらく23,000人に跳ね上がり、アメリカ独立戦争の前夜には150,000人に達しました。サウスカロライナの奴隷人口はさらに劇的な増加でした。1700年には、およそ2,500人以下の黒人がいましたが、1765年までに80,000〜90,000人になり、人口比では黒人は白人を約2対1と上回っていました。

 アメリカ大陸に自発的に移住してきた人々を惹き付けた魅力の1つは、安価な耕作地を手に入れることができることでした。開拓者の西部への移住では、17世紀初頭にはアメリカ全土が開拓地であり、18世紀までには開拓地は海岸線から15〜320 kmの範囲にありました。これはアメリカがさらに発展する歴史の大きな特徴です。1629年から1640年までに、イギリスのピューリタンがアメリカに大量に移住してきました。17世紀を通して、移民のほとんどはイギリス人でした。

 しかし、18世紀から20世紀になると、主にドイツ、プファルツ州(Palatinate)のラインラント(Rhineland)からの人の波がアメリカにやって来ました。1770年までに225,000人から250,000人のドイツ人がアメリカに移住し、その70%以上が中部植民地に定住しました。寛大な土地政策と宗教的寛容の精神が彼らの生活をより快適にしたといわれます。現在も中西部といわれるウィスコンシン、ミシガン、イリノイ、アイオワ、オハイオ、インディアナにはこうした人々の子孫が住んでいます。

 1713年以降に大規模に始まり、アメリカ独立戦争を過ぎても続いたスコットランドーアイルランド系アメリカ人とアイルランド系移民の人口は、より均等に分布していました。1750年までに、この両方の人々は、ほぼすべての植民地の西部で見られるようになりました。しかし、ヨーロッパ人がより大きな経済的機会を求めたあらゆる地帯での独立と自給自足の探求という行為は、土地を占有する先住民族との悲劇的な紛争につながりました。ほぼすべての場合、ヨーロッパ人は、土着生活や固有の文化を主張する先住民族を尊重せず、大陸の先住民族を辺境の地へ追いやることになります。

注釈」 今もアメリカでは奴隷制の責任を問う声が広がっています。2008年に下院で、2009年に上院で奴隷制や人種隔離への謝罪を決議しています。奴隷貿易の港だったサウスカロライナ州チャールストンは2018年6月に市として奴隷取引に関与した過去を謝罪しました。

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