このシリーズも200回目となりました。近衛秀麿を取り上げます。学習院大学を卒業後、東京大学文学部に入る近衛は、日本の音楽史上忘れてはならない作曲家、指揮者でしょう。1898年生まれです。1915年から16年まで近衛は山田耕筰に作曲法を学びます。1923年にヨーロッパに留学し、パリではヴィンセント・ダンディ(Vincent d’Indy)という作曲家で指揮者に学びます。ベルリンではマックス・フォン・シリングス(Max von Schillings)に作曲法を、指揮法はエーリヒ・クライバー(Erich Kleiber)に学びます。
山田は1886年,東京に生まれます。少年時代に両親を亡なくしたため,イギリス人宣教師と結婚した姉夫婦のもとで育てられます。この義理の兄が東洋英和学校の教師として赴任していたジョージ・ガントレット(George E. Gauntlett)で、彼から音楽を教わるのです。東京音楽学校の声楽科を卒業後,実業家の岩崎小弥太の援助を受けて,24歳からドイツのベルリンの音楽院に留学し,伝統的なドイツ音楽の作曲を学びます。和声法、対位法、音楽形式、管弦楽法など、西洋古典音楽の正統的な作曲技法の修得です。東京音楽学校には作曲科すら開設されていなかった時期です。
1901年、文部省派遣留学生として、ドイツのライプツィヒ王立音楽院(Hochschule fur Musik und Theater Felix Mendelssohn Bartholdy Leipzig)に入学します。そこでピアノや対位法を学びます。音楽院に入った2か月後に肺結核により、1年後には帰国を余儀なくされます。そしてわずか23歳にて夭折します。文部省中学唱歌となる「荒城の月」、「箱根八里」は特に有名です。その他、「花」、「お正月」、「鳩ぽっぽ」、「雪やこんこん」などがあります。
この教会にカナダ製の最初のパイプオルガンが設置されたのが1890年。英国ウェールズから東洋英和学校の教師として赴任していたジョージ・ガントレット(George E. Gauntlett)が初代の聖歌隊長、オルガニストとなります。彼はオルガン技師でもありました。妻は山田耕筰の姉の山田恒子でした。その後、岡野貞一を本郷教会のオルガニストとして指名するのです。
中世ルネッサンス音楽に戻り、しばらく西洋の音楽家から離れることにします。ヨハネス・オケゲム(Johannes Ockeghem)は、中世ルネッサンス音楽を席巻したといわれるフランドル楽派(Franco-Flemish school)の作曲家です。すでにこのブログで取り上げてきたデュファイ(Guillaume du Fay)やジョスカン・デ・プレ(Josquin des Pres)と同じく15世紀の半ばに活躍した作曲家といわれます。
しかし国際色豊かなウィーンよりもハンガリーの作曲家としての自分を意識すべきだという、同じハンガリーの作曲家ドホナーニ(Ernst von Dohnanyi)の助言に従い、翌年ブダペスト王立音楽院(Royal Academy of Music,)、後のリスト音楽院に入学します。1903年にシュトラウス(Richard Strauss)から強い影響を受けて、1848年に起こったハンガリー独立戦争を題材にした交響詩「コッシュート」を作曲します。ハンガリー独立運動の英雄コシュート(Kossuth Lajos)への賛歌であったため世論を騒がせたといわれます。
エネスクの器楽曲では技巧に彩られた多彩な旋律が伸びやかに演奏されます。ルバート(rubato)というテンポにとらわれず、自由に感情表現を行う演奏の仕方を駆使して作曲します。祖国ルーマニアの音楽を題材にした作品も多く創作しています。「パルランド・ルパード」(Parlando rubato)というルーマニアの民族的哀歌の旋律は全作品を通じて現れ、その装飾的な音の動きはエネスクの特徴の一つといわれます。「Balada pentru vioara」、「Rumanian Rhapsody」、「Legende」、「Oedipe」などの作品にそれが伺えます。
多くの歌劇のなかで「セビリアの理髪師」(The Barber of Seville)、「セミラーミデ」(Semiramide)、「アルジェの女」(The Italian Woman in Algiers)、「シンデレラ」(Cinderella)、「泥棒かささぎ」(La gazza ladra) などが有名です。なかでも「ウイリアム・テル」(William Tell)は劇的な歌劇として、序曲が広く演奏されています。