心に残る名曲 その百六十八 ヘンリー・マンシーニ 「Exodus」

ヘンリー・マンシーニ(Henry Mancini)のもともとの名は「Enrico Mancini」。名前のとおりイタリア系アメリカ人です。1924年にオハイオ州のクリーブランド(Cleveland)で生まれます。高校を卒業後、スウィング・ジャズの代名詞といわれたベニー・グッドマン(Benny Goodman)の勧めでニューヨークへ行き、ジュリアード音楽院(Juilliard School) に進学します。「ジュリアード」といえば全米屈指の音楽大学です。

第二次世界大戦では空軍に所属し、マーチングバンドでも活躍します。グレン・ミラー(Glenn Miller)の誘いでミラーのバンドに入り、ピアニストと編曲者として活躍します。マンシーニの楽想のスタイルは、ジャズの要素を交えながらも、オーケストラによる抒情や哀愁に満ちたメロディで知られています。

「ロベレ将軍」から

1954年の映画「The Glenn Miller Story 」のテーマ曲から1961年の映画「 Breakfast at Tiffany’s 」の主題曲「Moon River」、1962年の「Days of Wine and Roses」、イスラエル建国の歴史映画「Exodus」、 1963年の「Charade」、20世紀後半を代表するコメディ映画の大ヒット「Pink Panther」、そして、少し毛色が変わりますが、サスペンス・テレビ映画「刑事コロンボ」(Columbo)のテーマ曲も作ります。

心に残る名曲 その百六十七 モーリス・ジャール 「Lara’s Theme」

古今の映画には必ずテーマとなる音楽ーサウンドトラックがついています。それが映画の一つの楽しみとなります。モーリス・ジャール(Maurice Jarre)という作曲家もいろいろの作品を残しています。

1924年、フランスのリオン (Lyon)で生まれます。ジャールが注目されたのは、1962年のイギリスの歴史映画「アラビアのロレンス」(Lawrence of Arabia)の音楽を担当したときです。デヴィッド・リーン(David Lean)が監督をつとめました。初期のジャールの映画音楽は、映画作家であった同じくフランス人のジョルジュ・フランジュ(Georges Franju)とのコラボレーションとなったことで知られています。

その後、「史上最大の作戦」(The Longest Day)、 1965年の「ドクトル・ジバゴ」(Doctor Zhivago)の「ララのテーマ」(Lara’s Theme)、1984年の「インドへの道」(A Passage to India)をはじめ、150余りの映画音楽を作曲していきます。アカデミー賞作曲賞には9回ノミネートされ、3回受賞しています。2005年のヨーロッパ映画賞で、音楽家として初となる世界的貢献賞を授与される有名な作曲家です。

心に残る名曲 その百六十六  ディミトリー・ティオムキン 「High Noon」

作曲家、ディミトリー・ティオムキン(Dimitri Tiomkin)は、ハリウッド映画音楽に偉大な功績を残した人です。マックス・スタイナー(Max Steiner)、ミクロス・ロージャ(Miklos Rozsa)とならぶ作曲家でもあります。

ロシア帝国領ウクライナ(Ukraine)のクレメンチューク(Kremenchuk)で生まれ、サンクトペテルブルク音楽院(St. Petersburg Conservatory)で教育を受けます。音楽院では、ピアノをブルメンフェルド(Felix Blumenfeld)やヴェンゲロヴァ(Isabelle Vengerova) という教師から、作曲はグラズノフ(Alexander Glazunov)から学びます。やがてロシア革命によって音楽人生が脅かされると判断し、両親とともにドイツに移ります。1921年から1923年までベルリン(Berlin)に、そして1924年から1925年までパリ(Paris)に滞在します。1925年にアメリカに移住し1937年に市民権を取得します。

彼は育ちから東欧の音楽の影響を受けますが、フランク・キャプラ監督(Frank Capra)の「失はれた地平線」(Lost Horizon)(1937年)、「我が家の楽園」(You Can’t Take It with You)(1938年)、「スミス都へ行く」(Mr. Smith Goes to Washington)(1939年)、「素晴らしき哉、人生!」(t’s a Wonderful Life)(1946年)のような典型的なアメリカ映画の音楽を作曲していきます。キャプラ監督の作品は、風刺的な喜劇が多いのですが、それ以後はヒューマニズムに満ちた作風で一時代を画します。

代表作にアカデミー作曲賞・アカデミー歌曲賞を受賞したフレッド・ジンネマン監督(Fred Zinneman)の「真昼の決闘」(High Noon)(1952年)があります。ジョン・ウェイン主演の「紅の翼」(The High And The Mighty)(1954年)でも再びアカデミー作曲賞を受賞します。その後もクラシック音楽に基づいた映画音楽を作曲していきます。「ジャイアンツ」(Giant)(1956年)、「友情ある説得」(Friendly Persuasion)(1956年)、「OK牧場の決斗」(Gunfight at the OK Corral )(1957年)、「老人と海」(The Old Man and Sea)(1958年)、「リオ・ブラボー」(Rio Bravo)(1959年)、「アラモ」(The Alamo)(1960年)、「北京の55日」(55 Days at Peking)(1963年)、「ローマ帝国の滅亡」(The Fall of the Roman Empire)(1964年)などです。どれも懐かしい、もう一度観たいものばかりです。

心に残る名曲 その百六十五 リチャード・ロジャーズ 「The King and I」

映画音楽の世界で活躍した作曲家と歌の数々を紹介します。リチャード・ロジャーズ(Richard Rogers)はアメリカの映画音楽家です。ドイツ系のユダヤ人で、父親はニューヨークで内科の医師をしていたようです。元の姓はAbrahams。それをRogersと改姓します。同じユダヤ系であった脚本家で作詞家のオスカー・ハマーシュタイン(Oscar Hammerstein)とコンビで多くのミュージカル音楽を作曲していきます。

コロンビア大学(Columbia University)で学んでからジュリアード音楽院(Juilliard School)で作曲法などを学びます。1943年に最初のミュージカル、オクラホマ(Oklahoma!)を作曲します。この曲は南部の人種差別を取り上げた作品です。それからもハマーシュタインと一緒に数々の作品を作ります。

1945年のブロードウエイ・ミュージカルの回転木馬(carousel) 、1956年の王様と私(The King and I)、1958年の南太平洋(South Pacific)、そして1965年のサウンド・オブ・ミュージック(The Sound of Music)などです。その音楽に対して、ピューリッツアー賞(Pulitzer Prize)、エミー賞(Emmy Awards)、グラミー賞(Grammy Awards)、アカデミー賞(Academy Awards)など50以上の賞を受けます。

心に残る名曲 その百六十四  バート・バカラック 「That’s What Friends Are For」

バート・バカラック(Burt Bacharach) は米国の音楽家、作曲家、編曲家、ピアニスト、音楽プロデューサーです。1928年5月にミズーリ州(Missouri)カンザスシティ(Kansas City)に生まれ、ニューヨーク市クイーンズ区(Queens)で育ちます。ドイツ系ユダヤ人の血をひきます。モントリオール(Montreal)にあるマギル大学(McGill University)のシュリッヒ音楽学部(Shulich School of Music)、ニューヨークのマネス音楽院(Mannes School of Music)、サンタバーバラ(Santa Barbara)のMusic Academy of the Westで学びます。

1957年に作詞家のハル・デヴィッド(Hal David)という作詞家と出会い、由来二人のコンビで多くのヒット曲を発表していきます。 2006年の時点において、米国で70曲のトップ40、英国で52曲のトップ40という実績があります。バカラックのアカデミックな作曲技法は、ダリウス・ミヨー(Darius Milhaud)、ヘンリー・カウエル(Henry Cowell)といったクラシック音楽の作曲家に師事したことにあるようです。

バカラックは稀代のメロディー・メーカーといわれます。映画音楽でも数々の楽曲を作っています。特にジョージ・ロイヒル (George Roy Hill) 監督の映画「明日に向って撃て」(Butch Cassidy and the Sundance Kid) の主題歌「雨にぬれても 」(Raindrops Keep fallin’ On My Head) はアカデミー主題歌賞を受賞しています。編曲においては、ジャズを出発点としてボサノヴァ(Bossa Nova)の影響が曲風に反映しているようです。「雨にぬれても 」を聴くとそう感じます。モダンな和声と複雑なリズムパターンはバカラックスタイルといわれます。親しみやすいメロディーが随所に感じられます。バカラックの音楽が大衆から人気を得ている由縁です。「That’s What Friends Are For」ではエルトン・ジョンやスティビー・ワンダー(Stevie Wonder)らも歌っています。

That’s What Friends Are For

Keep smiling, keep shining
Knowing you can always count on me, for sure
That’s what friends are for
For good times and bad times
I’ll be on your side forever more
That’s what friends are for

心に残る名曲 その百六十三  エルトン・ジョン 「Your Song」

出生名はレジナルド・ドワイト(Reginald Kenneth Dwight)。エルトン・ジョン(Elton John)は4歳の頃からピアノを弾き始めたようです。その頃から彼は聴いたどんなメロディーも演奏することができたといわれます。彼のピアノ教師によると聴いただけのヘンデルの楽曲を完璧に弾くことができたということです。彼が影響を受けた人物にバッハ(Johann S. Bach)やショパン(Frederic Chopin)がいます。ソングライターでギタリストであったジム・リーブス(Jim Reeves)などがいます。ゴスペル音楽からも影響を受けたといわれます。

エルトン・ジョンの1990年代は非常に苦難の時期だったようです、薬物とアルコール依存症、過食症の治療のため入院し矯正施設への入居を経て復帰します。1992年に発表されたアルバム「ザ・ワン」(The One)は、彼のドラッグや酒への依存を克服して復活を告げる作品といわれています。その間、1980年代から1990年代初めにかけて多くの友人や知人などをエイズで亡くします。1992年以降、シングルの収益で設立したエイズ患者救援者団体、「エルトン・ジョン・エイズ基金」(Elton John AIDS Foundation)に寄付していきます。この団体の本部はアトランタ市(Atlanta)にあります。

1994年には、作詞家、ティム・ライス(Time Rice)と共にディズニー映画「ライオン・キング」(Lion King)の音楽を担当します。このアニメ映画の中で、世界で最も売れたサウンドトラックとなっているのが「愛を感じて」(Can You Feel the Love Tonight)です。この曲はグラミー賞(Grammy Awards)最優秀ポップ男性ボーカル賞とアカデミー歌曲賞を受賞するなど高い評価を受けます。19 98年にはナイトの爵位を授与されます。2000年にはミュージカル「アイーダ」の作曲でトニー賞作曲賞も受けます。

数々の曲を作っては歌っています。「Your Song」、「Goodbye Yellow Brick Road Lyrics」、「Don’t Go Breaking My Heart 」などクラッシックのバラードをして稀代の歌手、作曲家としての評価を樹立していきます。とりわけ、1997年9月のダイアナ元妃 (Diana, Princess of Wales)の葬儀では追悼歌「Goodbye England’s rose」を歌い、そのCD「Candle in the Wind」は全米、全英で3,300万枚の史上最高の売り上げとなった曲です。

心に残る名曲 その百六十二 ジェイムズ・ポール・マッカートニ 「Hey Jude」

ポール・マッカートニ(James Paul McCartney)は、いうまでもなくビートルズ(The Beatles)の一員。中心的な歌手であり作曲家です。沢山の曲を作ります。作品では、名義はジョン・レノンとポール・マッカートニとなっていますが、マッカートニがほぼ単独で作詞作曲し、レノンは作詞の一部を手伝ったといわれます。「Hey Jude」もそうです。リード・ボーカルおよびピアノ、後半のリフレイン部分のオーケストラの指揮もマッカートニが担当したようです。

ギネス世界記録(Guinness World Records)によれば、「ポピュラー音楽史上最も成功した作曲家」として掲載されています。ところでギネス世界記録と認証されるためには、六つの基準を満たす必要があります。その第一は「客観的に計測可能であること」とあります。はたして、マッカートニは「史上最も成功した作曲家」ということのために、どのようにして計測されたのでしょうか。多分、レコードやCDの売れ上げではないでしょうか。世界一の売り上げ、130億円を稼いだ最も富裕な作曲家ということでしょう。まあ、、そんなことは蛇足でありますが、、、他方で、マッカートニは国際的な慈善事業にも関わっています。動物愛護、アザラシ狩禁止、地雷除去、貧困絶滅、菜食主義(vegitarianism)運動などです。

1970年にビートルズは解散します。その後ソリストとして活動し何度も来日しては演奏会を開いています。彼の名前は、James Paul McCartneyですから、ジェイムズ・マッカートニと呼ぶべきなのでしょうが、なぜか洗礼名のポール(Paul)を使って呼ばれています。それから、作品である「Hey Jude」の”Jude”は男性名です。女性名のJudice の愛称ではないか、という人もいますが、歌詞を調べると男性のJudeに対して「Judeよ、彼女を受け入れてやれば良い関係ができるよ、」と諭す歌となっています。1965年の「Yesterday」、1970年リリースの「Let It Be」、「Blackbird/We Can Work It Out」、「Lady Madonna」、「Back in the USSR」、「Michelle」など懐かしい曲です。

心に残る名曲 その百六十一 ジョン・レノン 「Imagine」

現代のイギリスの作曲家や歌手のことです。ジョン・レノン(John Ono Lennon)は1940年、リバプール(Liverpool)生まれのイギリスの歌手、シンガーソングライターです。平和運動家でもありました。十代のときは、スキッフル(skiffle)というジャズやブルース、カントリーミュージックの影響を受けた歌を歌います。やがてビートルズ(The Beatles)を結成し、1960年代の世界的なバンドとして活躍したことは良く知られています。商業的にも史上最も成功したバンドでした。レノンはポール・マッカートニー(Paul McCartney) と一緒に作曲したことでも有名です。

ビートルズにはジョージ・ハリスン(George Harrison)、リンゴ−・スター(Ringo Starr)もいました。1970年に解散されるまで各地でその活動は絶大な人気を博しました。解散後、レノンはソリストとして独立し、ヨーコオノと共にPlastic Ono Bandを結成します。1980年12月のニューヨークはマンハッタン(Manhattan)のアパートで殺されます。

1960年代、ビートルズは音楽と若者文化の発展に大きく貢献したグループといえます。ポップ・カルチャーを広め、ロック・ミュージック、ロックを目指す人々を多大な影響をもたらします。独立した後、レノンの曲は、シンプルな和声の進行と個性的な歌詞に特徴づけられていきます。退廃的であり反戦的なところも歌詞からうかがえます。その他、「Give Peace a Chance」、「Working Class Hero」、「Stand By Me」、「Love」、「Watching The Wheels」など沢山の歌を作曲しています。以下は「Imagine」の歌詞です。

Imagine there’s no Heaven
 It’s easy if you try
  No Hell below us
   Above us only sky
  Imagine all the people
   Living for today…

心に残る名曲 その百六十 アンドルー・ウェバー 「Evita」

これまではクラッシック音楽を主としてとり上げて紹介してきました。趣向をかえて、現代の作曲家、シンガーソングライターなどを紹介していきます。「オペラ座の怪人」(The Phantom of the Opera)、「キャッツ」(Cats)、「エビータ」(Evita)、「Jesus Christ Superstar 」などのミュージカル作品で知られるイングランドの作曲家アンドルー・ウェバー(Andrew Lloyd Webber)のことです。

1948年にロンドンで生まれの作曲家で劇場演出家です。エレキギターを使ったロック調の音楽は、20世紀のイギリスとアメリカのミュージカルを再興させた音楽家といわれます。ウェバーはオックスフォードあるマグダレーンカレッジ(Magdalen College)で学びます。そこでライス(Tim Rice)という作詞家と出会い音楽を作っていきます。

1971年に有名なロックオペラである「Jesus Christ Superstar」を作ります。古典音楽とロック音楽と融合の作品ですが、大きな論争を巻き起こします。それだけ画期的な作品であったということです。次ぎに1978年に作った「Evita」のことです。アルゼンチン(Argentina)のエヴァ・ペロン(Eva Peron)は私生児として生まれながら女優となり、フアン・ ペロン(Juan Peron)大統領と結婚し、ファーストレディとなった後は政治にも介入するようになります。

「Evita」はロンドンにて最も選れた音楽賞としてオリバー賞(Olivier Award)やニューヨークにおいて七つの部門でトニー賞(Tony Awards)を受けます。“You Must Love Me”がアカデミー歌曲賞を受賞します。“Don’t Cry For Me Argentina“とともに マドンナ(Madonna Louise Ciccone)が歌っています。

心に残る名曲  その百五十九 ベンジャミン・ブリトゥン 「青少年のための管弦楽入門」

ブリトゥン、ベンジャミン(Edward Benjamin Britten)は1913年生まれのイギリスの作曲家・指揮者・ピアニストです。17世紀バロック期のヘンリー・パーセル(Henry Purcell)以来の傑出したオペラを作った作曲家といわれます。

12歳で作曲を始めた経歴があります。作品としてオペラ「ピーター・グライムズ」(Peter Grimes)や「シンプル・シンフォニー」(Simple Symphony)、代表作としては、死者のためのミサ曲「戦争レクイエム」(War Requiem)が有名です。パーセルの劇付随音楽『アブデラザール』(Abdelazar) からの主題を引用した「青少年のための管弦楽入門」(The Young Person’s Guide to the Orchestra)はよく知られています。

「青少年のための管弦楽入門」は「アブデラザール」のアンサンブルからなる主題提示部、変奏とフーガからなる展開部、再現部、結尾部の4つから構成されています。題名からわかるように、親しみやすいメロディを前面に出した平明な音楽となっているのが特徴です。

心に残る名曲  その百五十八 グスタフ・ホルスト 「惑星」

グスタフ・ホルスト(Gustav Holst)は1874年生まれのイギリスの作曲家です。スウェーデン・バルト系(Swedish-Baltic)移民の家系の出で、十代のころからすでに作曲を試みていたという記録があります。1893年、ロンドンの王立音楽院(Royal Academy of Music)に入学して正式にスタンフォード(Charles Stanford)に作曲法を学びます。王立音楽院ではトロンボーンも学び、卒業後はオーケストラ奏者として生計を立てていたようです。この学生時代にヴォーン・ウィリアムズ(Ralph Vaughan Williams)と知り合います。

Composer Gustav Holst ROYALTY FREE PICTURE FROM CD ACQUIRED BY PICTURE LIBRARY

1905年にロンドンのセントポール女学院(St Paul’s School)の音楽科主任として生涯その職に留まります。若い頃からヒンズー(Hinduism)の文学や哲学に興味を抱き、やがて翻訳では満足できずにロンドン大学でサンスクリット語(Sanskrit)を学び、自ら解釈したといわれます。そのためか、彼の書く作品は東洋的な雰囲気やイングランド各地の民謡の色彩が濃いことが特徴とされます。

ホルストの最も知られた作品は、管弦楽のための組曲「惑星」(The Planets) 作品32です。それぞれにローマ神話に登場する神々にも相当する惑星の名が付けられています。総じて合唱のための曲を多く残しています。オペラや歌曲・ピアノ曲なども多数作っていますが、主に管弦楽曲や吹奏楽曲、弦楽合奏曲が広く知られています。また、吹奏楽曲などでも知られている作曲家です。イギリス人たちからは “パーセル(Henry Purcell)の再来” と評価された作曲家です。 

組曲「惑星」は 7楽章から成る大編成の管弦楽のために書かれた組曲です。最後の「海王星」では舞台裏に配置された女声合唱が使われます。“I Vow to Thee, My Country”もお楽しみください。

心に残る名曲 その百五十七 ジョン・フィールド 「ノクターン」

大英帝国の音楽家というと日本ではあまり馴染みがない、と勘違いをしておりました。調べてみると多士済々なのです。その一人、ジョン・フィールド(John Field)はアイルランド(Irland)の作曲家でピアニストです。生まれは1782年。音楽家の家に生まれ、初めは祖父に音楽を学びます。9歳でジョルダーニ(Tommaso Giordani)に師事します。1793年にロンドンに移り、クレメンティ(Muzio Clementi)に師事しウィーンを経てロシアへ赴きます。

1812年から1836年に書いた18曲の夜想曲といわれるノクターン(nocturne)は古典的な形式を離れ、流麗な旋律と自由な伴奏の考え方により、ノクターンというジャンルの先駆的な手法を示したといわれます。ほかに7つのピアノ協奏曲や幻想曲、ポロネーズがあります。

フィールドの活動は夜想曲の発展に貢献し、後のショパン(Frederic Chopin)に影響を与えたことです。ロシアでの演奏が好評で各地で演奏します。グリンカ(Mikhail Glinka)を指導するなどロシア音楽の発展に大きく寄与したともいわれます。

心に残る名曲  その百五十六 エドワード・エルガー 「Lux Christi」

並み居る英国の作曲家の中でエドワード・エルガー(Edward Elgar)が最もポピュラーではないでしょうか。なんといっても「Pomp & Circumstance Marchi in D Major」は誰もが一度や二度は聴いたことがある曲です。父はオルガン奏者で楽譜の販売業者であったといわれます。エルガーは15歳のとき学校をやめて法律事務所で働きます。しかし、バスーン(bassoon)をやヴァイオリンを弾くという才能の持ち主でした。正式な音楽教育を受けたことがないのも珍しい経歴です

カトリック信者であったエルガーはやがて教会のオルガン奏者となったり軍楽隊長となります。その頃から作曲活動をはじめ、オラトリオ(oratorio)のなかの合唱曲「Lux Christi」、「Dream of Gerontinus」とか「Enigma Variations」という管弦楽曲を作曲します。さらに宗教オラトリオの「The Kingdom」、「The Apostles」などによって作曲家としの地位を確立していきます。バーミンガム大学(University of Birmingham)の初代音楽教授となり、その間チェロ協奏曲(Cello Concerto E minor)、ヴァイオリン協奏曲(Violin Concerto)などを作曲し1924年には王立音楽長となり男爵(Sir)の称号を受けます。

ところでプロムス(The Proms)はBBCが主催する「史上最大のクラシック音楽演奏会」と云われます。誰もが安い料金で音楽を楽しむ機会として、毎年夏に8週間にわたり開催されます。会場は、ロイヤル・アルバート・ホール(Royal Albert Hall)やそれに隣接する公園です。入場料は700円から14,000円くらいです。Promsとは「聴衆がブラブラ歩くこと(promenading)」とか「そぞろ歩き」(promenade)という単語に由来します。プロムナードという単語も生まれています。

心に残る名曲  その百五十五 ヴォーン・ウィリアムズ 「海の歌」

英国音楽のルネッサンスを築き上げたといわれる音楽家です。ヴォーン・ウィリアムズ(Ralph Vaughan Williams)は1872年生まれ。1890年に王立音楽大学(Royal College of Music)に入り、1899年までそこで学びます。その後ケンブリッジ大学(University of Cambridge)でも音楽を研究します。修業期間中はフランスのラヴェル(Maurice Ravel)にも師事しています。修業年限が長かった理由はわかりません。オルガン奏者やトロンボーン奏者としても活躍します。

やがてイギリス讃美歌集(The English Hymnals)を編集したりしながら、30歳の頃から歌曲の作曲活動を始めます。さらにアメリカの詩人、ホイットマン(Walter Whitman)のテキストから交響曲第一番「海の交響曲」や第二番「ロンドン交響曲」を作ります。「海の歌」、トマスタリス(Thomas Tallis)による「ファンタジア」とか「ヒバリの飛翔」(The Lark Ascending)なども世に送り出します。シェイクスピア(William Shakespeare)に基づく「恋するジョン卿」(Sir John in Love)も知られています。オペラはどれも注目されなかったのですが「仮面舞踏」(Job, A Masque for Dancing)はしばしば演奏されたといわれます。

第一次大戦後は、彼は王立音楽大学の初代の音楽教師として任命されます。1934年には論文、国民的音楽(National Music and Other Essays)のなかで ”芸術は慈悲と同じく家庭から出発すべき” といった論調を展開します。音楽の形式は多様で、交響曲、歌曲、オペラ、合唱曲などに及びます。

心に残る名曲  その百五十四 ヒューバート・パリー 「Jerusalem」

ヒューバート・パリー(Charles Hubert Parry)の作曲活動は1880年代に始まります。合唱曲をはじめ5つの交響曲,交響組曲などで知られたイギリスの作曲家です。リヒヤルト・ワーグナー(Richalt Wagner)と個人的に親しく、ロンドンにおけるワーグナーの再来とも云われていたようです。しかし作曲家としては、バッハ(Johann Bach)やブラームス(Johannes Brahms)に傾倒していた作風がでているようです。それはブラームスの明快な和声、構成を基にしつつも、力強く全音階を満ちているからです。

その旋律様式は、エルガー(Edward Elgar)やヴォーン・ウィリアムズ(Ralph Vaughan Williams)に大きな影響を及ぼしたようです。オックスフォード大学(University of Oxford)の音楽学部の教授として1900年から1908年まで務めます。 教師や学校管理者としてあまりの激務のために、その間の作曲活動は妨げられようです。

1916年3月にパリーは「Jerusalem」という合唱曲を作ります。この曲は、詩人で画家であったブレーク(William Blake)の歌詞に付けたものです。事実上のイングランドの国歌として現在のイギリスでは非常によく知られています。その才能、エネルギーとカリスマ性によって、イギリスの文化的生活の中心に音楽を据えることに大きな貢献をなしたといわれます。
「Jerusalem」は次のような歌詞で始まります。
「And did those feet in ancient time, walk upon Englands mountains green, and was the holy Lamb of God n Englands pleasant pastures seen!」

心に残る名曲  その百五十三 スタンフォード 「イーブニング・サーヴィス 」

チャールズ・スタンフォード(Charles Stanford)は、1852年生まれのアイルランドの作曲家です。幼いときから作曲し、その才能はすでに開花していたといわれます。

ケンブリッジ(Cambridge)のトリニティ・カレッジ(Trinity College)で学びます。1873から92年まで同カレッジのオルガン奏者や大学音楽協会の指揮者となります。1882年、29歳で王立音楽大学創設メンバーの一員として教授に就任します。その後生涯にわたって同大学の作曲科で教鞭をとります。1887年からはケンブリッジ大学(University of Cambridge)の音楽科教授も兼任します。

グスタフ・ホルスト(Gustav Holst)やリーフ・ヴォーンウイリアムズ(Ralph Vaughan Williams)らのすぐれた弟子を育てます。イギリス音楽の再興を果たし、ナイトの称号を与えられます。「イーブニング・サーヴィス」「闇を照らせ」「今こそ主よ、僕を去らせたまわん」という曲をお楽しみください。

作品はドイツロマン派の様式を備えています。職人的ともいえる作曲技法で、アイルランドやイングランドの民族的な色彩を反映する曲を作ります。作品は交響曲、協奏曲、宗教曲、歌曲などにまたがります。

心に残る名曲  その百五十二  ヘンリー・パーセル 「Fairest Isle」

近世から現代にいたる英国の作曲家の音楽をしばらく取り上げることにします。最初はヘンリー・パーセル(Henry Purcell)です。生まれたのは1659年ですから、ピューリタン革命(Puritan Revolution)に引き続く王政復古の時代にあたります。チューダー王朝(Tudor dynasty)といわれる時代です。フランスの絶対王政、ドイツは30年戦争の直後の疲弊のまっただ中という状況にあって、イギリスは大陸の疲弊をよそに近代化へと発展していく時期です。

パーセルはイタリアやフランス音楽の影響を受けつつ、バロック時代における独自の音楽を生み出した最も優秀なイギリス人の作曲家の1人として評価されています。若くして才能をあらわし、ウェストミンスター寺院(Westminster Abbey)のオルガン奏者、王室礼拝堂のオルガン奏者などを歴任していきます。パーセルは、作曲家としての初期には宗教音楽家として数多くの宗教的声楽曲を作曲していきます。特にイギリス国教会の聖歌であるアンセム(Anthem)とよばれる形式で多くの独唱曲や合唱曲を作曲します。こうして宗教的声楽曲というジャンルにまで高めていきます。「Come, Ye Sons of Art (Ode for Queen Mary)」とか「Fairest Isle」という器楽と声楽の演奏はそうです。

パーセルの音楽に影響を与えた背景には、文豪シェークスピア(William Shakespeare)、哲学者ベーコン(Francis Bacon)などの活躍により、イギリスの人文科学が一つの頂点を迎えたことがあるといわれます。演劇という表現形式が開花した時代で、音楽が劇と融合していきます。劇音楽、とくにオペラの分野との競演が進みます。こうした演劇の上演は、イギリスにおいては「劇伴」としての器楽曲の隆盛につながっていきます。リュート(Lute)、ヴィオラ・ダ・ガンバ(viol)、リコーダー(recorder)といった楽器の合奏による室内楽や舞曲が広く演奏されるようになります。「組曲2番プレリュード」はその一つです。

パーセルは持ち味である繊細な和音づけをたくみに利用して、力強さ、華やかさといった表現に加えて不安や悲しみといった複雑な感情までも音楽で細部に描き出していきます。

心に残る名曲 その百五十一  ヘンデル オラトリオ(Oratorio)

英国国教会(Churchi of England)のための教会音楽は、私的な礼拝のためだけでなく、イギリスの国家的行事のための式典用のがあります。こうした音楽はウエストミンスター寺院(Westminster Abbey)やセントポール大聖堂(St Paul’s Cathedral)で演奏される教会音楽であると同時に、公的な音楽としての性格を強く持つということです。

もともとヘンデルはルーテル教会の信徒でした。ヘンデルの教会音楽は、ローマカトリック教会、ルーテル教会、英国国教会に共通しています。その特徴は、総じて壮大、華麗、重厚さをあわせ持ち、情緒に偏ることのない普遍的なエートスを反映するものとして位置づけられます。これがオペラや受難曲(passion)といった教会音楽とは異なる点です。

バッハやモーツアルトの受難曲はドイツの敬虔主義による情動的なイメージが強いといわれます。詩の語りに重点をおいた叙唱、レチタティーボ(recitativo)を用いたり,抒情的表現の独唱、アリア(aria)、さらにドイツ語の歌詞と単純な旋律の宗教歌、コラール(choral)が使われます。

心に残る名曲 その百五十 ヘンデル メサイア (Messiah HWV 56)

メサイア(Messiah)は1741 年にヘンデル(George Frideric Handel)によって作られた英語によるオラトリオ(Oratorio)です。通常「Messiah (HWV 56)」と呼ばれています。「Messiah」とは救世主という意味です。この曲の基となったのは、英国国教会(Church of England)およびピューリタン(Puritan)の両者で翻訳されたキングジェームズ版聖書(King James Version)と旧訳聖書の詩篇を基にした合同祈祷書(Book of Common Prayers)からチャールズ・ジェネンズ(Charles Jennens)という作詞家が要約したテキストです。

1712年以来ロンドンで生活したヘンデルは、イタリア歌劇小作品によって作曲家としての名声を得ていきます。1730年代になり、時代の変化とともにイギリス・オラトリオの作品を作っていきます。メサイアは1742年にダブリン(Dublin)で初演されます。翌年、ロンドンでも演奏されます。評価は高くはなかったのですが徐々に認められて、やがて世界的に知られるようになり、最も著名な曲としての地位を得ることになります。

オラトリオは歌劇とは似てはいますが、劇的な筋書きとか登場人物の独唱やせりふはありません。ジェネンズは、メサイアの構成を福音書から引用します。第一部は預言者イザヤ(Isaiah)や羊飼いの告知などからなります。第二部はキリスト(Christ)の受難を語り、はりつけ、そして「神をほめたたえよ」というハレルヤ・コーラス(Hallelujah Chorus)に続きます。そして第三部は死からの蘇りと救世主のもたらした救いと永遠の命を讃える歌詞となっています

心に残る名曲  その百四十九 アルカデルト 「 Ave Maria」

ジャック・アルカデルト(Jacques Arcadelt)という作曲家と作品の紹介です。生まれは今のベルギーといわれますが、生地や経歴が不明なことが多い作曲家です。アルカデルトは若くしてイタリアに赴き、フィレンツェ(Florence)やローマ(Rome)で活動します。フィレンツェではメディチ家(Medici)と親交をもったようです。1531年に最初の曲であるモテット(motet)やマドリガル(madorigal)をドイツにて出版します。1540年にパウロ三世(Paul III)の治世下、ローマのシスティナ礼拝堂(Cappella Sistina)聖歌隊の隊員となり,同地でミケランジェロ(Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni)と親交を結びます。その後フランスに移り,フランス国王の宮廷礼拝堂などで活躍します。

アルカデルトの本領は世俗歌曲–マドリガルやシャンソンにあります。同時代のフランドル楽派(Flemish school)の作曲家たちと同じく,作品は活動地イタリアの地域性を反映させるものとなります。宗教作品も多いのですが,世俗的な声楽作品を得意とし,充実した和声感に満たされた模倣書法を示す200曲のマドリガルやその様式に類似した120曲のシャンソンを作っています。

同時代のイタリア人作曲であるフェスタ(Costanzo Festa)やヴェルデロット(Philippe Verdelot)とともにイタリアの世俗音楽の発展に寄与します。その影響を受けたひとりがパレストリーナ(Giovanni Pierluigi da Palestrina)といわれます。 有名な「アヴェ・マリア」(Ave Maria)をお聴きください。