日本にやって来て活躍した外国人 その三十一 バーナード・ベッテルハイム

ベッテルハイム(Bernard J. Bettelheim)は英国国教会より日本に派遣されたキリスト教宣教師兼医師です。沖縄群島にやってきた最初のプロテスタント宣教師でもあります。英国国教会が組織した宣教団体は、「Loochoo Naval Mission」といいます。LoochooとはRyukyu(琉球)を表しています。ベッテルハイムは派遣のリーダーとして1843年から1861年の間、琉球にて活動します。

ベッテルハイムの生い立ちなどに触れます。彼はスロヴァキア(Slovak)首都ブラチスラヴァ(Bratislava)にユダヤ系の子として生まれます。9歳の時にはすでにドイツ語、フランス語、ヘブライ語で詩を書いていたといわれます。ユダヤ教の聖職者ラビ(rabbi)となるべく教育を受けますが、12歳で学校をやめ、ハンガリー国内で学んだ後、最後にイタリアのヴェネト州(Vèneto)のパドヴァ(Padova)で医学を学ます。その後はエジプトとトルコへ渡り、1840年にトルコのスミルナ(Smyrna)でキリスト教に改宗します。そして、イギリスへ渡り英国国教会の牧師から洗礼を受けイギリス国籍を取得します。

1846年4月に香港から琉球王国に到着し、那覇の護国寺を拠点に8年間滞在します。同行していたのは中国人の通訳です。ベッテルハイムの琉球伝道は、難破した英国軍人に暖かく接した琉球人への感謝からだとされています。しかし、彼の琉球王国での宣教活動は困難だったようです。これは琉球を支配していた薩摩藩と江戸幕府のキリシタン禁教政策のためです。

琉球側はベッテルハイムへ退去を要請しますが、布教活動は黙認され比較的自由に行動することができます。その間、医療活動も行います。ハンセン氏病患者にも接したという記録があります。宣教では、一人の洗礼者も育てることができなかったようです

1854年6月にマシュー・ペリーが来琉した時、ベッテルハイムは琉球の言語と文化についての知識からペリーのもとで働きます。そのとき琉米修好条約を締結しました。条約の内容は、アメリカ人の厚遇、必要物資や薪水の供給、難破船員の生命財産の保護、アメリカ人墓地の保護、水先案内人の件などを規定するものでした。ベッテルハイムはそのまま艦隊とともにアメリカに渡ります。アメリカではシカゴやニューヨークにおいて長老派牧師として活躍し、南北戦争(Civil War)では北軍の軍医として活躍するという波乱の生涯をおくります。

日本にやって来て活躍した外国人 その三十 ハンナ・リデル

近代日本の夜明けの時代、英国人の聖公会女性宣教師がやってきます。その一人に、英国聖公会の宣教団体の1 つである英国聖公会宣教会(Church Missionary Society: CMS) のハンナ・リデル (Hannah Riddell)がいます。前回紹介したコンウォール・リー(Mary Helena Cornwall Legh)も同じ教会に所属していました。

そしてもう一人はリデルの姪で CMS の宣教師として来日したエダ・ライト(Ada Hannah Wright、1870-1950)です。ハンナ・リデルは、熊本の本妙寺で物乞いするハンセン病患者の悲惨な状況を見て、自らの全財産を処分し、回春病院を建てることになります。

彼女の業績は、ハンセン病患者の悲惨さに対して人々の関心を集めたことです。そして政財界の人々を動かします。当時の日本は、性や結婚には厳しい倫理観によって、分離政策をとっていました。彼女は数回草津を訪れ、1913 年回春病院の米原馨児という司祭を派遣し、光塩会を設立します。これは後の草津聖バルナバ教会です。また 1927年には、軽症のハンセン病患者で聖公会信徒の青木恵哉を沖縄に派遣します。彼は伊江島を拠点とし、洞窟や山に隠れている患者を発見し、食べ物や衣服を与え共に礼拝しました。

こうした日本聖公会の努力によって、今帰仁村の近くにある屋我地島を基にして1938年に国頭愛楽園、現国立療養所沖縄愛楽園が誕生したのです。「母さま」と呼ばれ敬愛されたリデルは、1932年に76 歳で永眠します。

姪のエダ・ライトがリデルに代わって病院を継ぎます。開戦時にはライトはスパイ活動の疑いをかけられ、特高の取調を受けたりします。1941 年に46 年存続した回春病院は閉鎖され、患者は国立療養所(恵楓園)に移されました。その後ライトは国外追放となりますが、1948 年再来日し80歳の1950 年に永眠します。

日本にやって来て活躍した外国人 その二十九 メアリー・コンウォール・リー

コンウォール・リー(Mary Helena Cornwall Leigh)は、英国国教会(英国聖公会)の福音宣布教会(Society for the Propagation of the Gospel in Foreign Parts: SPG)が派遣する宣教師として来日します。東京を中心に8年間伝道活動に従事し、その後多くの施設を立ち上げ、ハンセン病(Hansen’s disease)患者のための生活や教育、医療に尽力したイギリス人女性です。

生地は英国のカンタベリー(Cantebury)で、父親は陸軍中佐、本家は男爵の家柄で一族専用の礼拝堂、司祭を有していたという裕福な家系です。十代で司祭によって感化されハンセン病者に奉仕しようと決心したようです。二十代のときロイヤル・カレッジ・オブ・アート(Royal College of Art)で水彩画を学んでいます。

リーは東京・神奈川・千葉で8年間の伝道活動に従事します。草津の光塩会の宿澤薫の要請を受けて1915年に草津を視察し、草津湯の沢で奉仕することを決心します。1916年に、病者の人間回復とその生活を支える「聖バルナバミッション」(St. Barnabas Mission)を立ち上げます。リーは私財を投じ、また内外からの献金を用いて、聖バルナバ教会、病者のための聖バルナバホーム、幼稚園・小学校、さらに聖バルナバ医院を設立し、その運営に尽力します。1,000人を超えるハンセン病者にキリスト教を伝えるとともに、一人ひとりの人格や人権を重んじる救済事業を展開します。後に「ハンセン病者のマザーテレサ(Mother Teresa)」と賞賛されます。

少し時間を戻します。草津には千年以上前から湯治の人が訪れていた温泉です。1869年の江戸の大火以来、ハンセン病患者の来訪が増えてきたといわれます。1887年以来ハンセン病の人々は草津の湯之沢に移住させられます。全国から温泉の効能を頼りにハンセン病者が集まり共同体を形成していたのです。内科医師のアーヴィン・ベルツ(Erwin von Balz)が温泉の効果を宣伝したのはその頃です。

日本にやって来て活躍した外国人 その二十八 ヴィレム・カッテンディーケ

オランダからやってきて活躍した人の話題が続きます。オランダの海軍軍人で後に政治家となったヴィレム・カッテンディーケ(Willem Johan van Kattendijke)のことです。1857年にペリーの黒船を見た徳川幕府はオランダに黒船のような軍艦を発注します。カッテンディーケは、完成したJapan(ヤパン)号を回送し、その艦長として大西洋、インド洋をまわり1857年に長崎に入港します。たった48.8mの木造艦で、やがて幕府の練習艦となります。

カッテンディーケは幕府が開いた長崎海軍伝習所の教官となり、2年に渡って勝海舟、榎本武揚らなどの幕臣に精力的に航海術・砲術・測量術などの近代海軍の教育を行います。特に勝海舟の能力を高く評価したといわれます。勝海舟は西洋式の海軍士官養成機関・海軍工廠である神戸海軍操練所を設立します。後に回想録『長崎海軍伝習所の日々』を著し、長崎の自然・風景や人々の風習や行事、日本人の態度などを記しています。薩摩藩11代藩主の島津斉彬、佐賀藩10代藩主の鍋島閑叟らの人物像なども記録します。島津や鍋島はアームストロング砲や蒸気船などに高い関心をもっていた人物です。

因みにヤパン号はやがて咸臨丸となり、1860年に勝海舟を船長とし、ジョン万次郎ら98名の日本人の遣米使節団一行が太平洋を横断してアメリカまで渡ります。カッテンディーケは帰国後は1861年にオランダ海軍大臣となり、一時は外務大臣も兼任します。オランダと日本の関係は医学のみならず、軍備、航海術、天文技術などに及びます。明治維新に拘わる日蘭関係、あるいはオランダの果たした役割は重要だったといえましょう。

日本にやって来て活躍した外国人 その二十七 ポンペ・ファン・メールデルフォールト

オランダ海軍の二等軍医にポンペ・ファン・メールデルフォールト(Johannes Pompe van Meerdervoort)がいます。響きが良いせいか、親しみを込めて一般に「ポンペ」と呼ばれるオランダ人医師です。ユトレヒト(Utrecht)陸軍軍医学校で医学を学び軍医となります。幕末の1857年に来日し、オランダ医学を伝えた功績者です。

当時、蘭医学は禁じられていました。将軍侍医で幕府の軍医であった松本良順は、他藩からきていた医師を自分の弟子としてポンペの講義を受けせます。多くの医師や幕臣以外の者も学べる塾がやがて手狭となると、松本は医学校建設を決意します。

ポンペは松本の奔走により作られた医学伝習所の開設にたずさわります。日本で初めて基礎的な科目から系統だった本格的な蘭方医の養成を始めます。医学伝習所は日本初の組織立ったオランダ医学の学校といわれます。ポンペは長崎で5年間にわたり医学を教えます。オランダ語や科学の基礎知識のない者に、言葉の壁を乗り越えて根気よく基礎から教えたポンペの努力と苦労が伝わってきます。解剖実習や臨床講義まで本格的な医学教育を行っていきます。ポンペが使ったカリキュラムは自分の受けたユトレヒト陸軍軍医学校に類似していたようです。

松本がこの伝習所にいたころコレラが大流行し、自らも感染した折、その治療でポンペが見せた患者への身分にかかわらず接したことに松本は心をうたれたようです。こうして江戸時代の身分制度に大きな影響を与えていきます。滞在した5年間に14,530人もの患者を治療し、外国人によるコレラや梅毒の蔓延を阻止するために奔走します。こうして長崎の町の人々はポンペに次第に信頼と尊敬を寄せるようになっていきます。ポンペの熱望していた西洋式の養生所の建設が近づきます。

1861年9月に養生所が長崎港を見おろす小島郷の丘に完成します。養生所は医学所に付置された日本で最初の124ベッドを持った西洋式附属病院であり、長崎大学医学部の前身となります。

日本にやって来て活躍した外国人 その二十六  ハインリッヒ・ナウマン

ドイツの地質学者にハインリッヒ・ナウマン(Heinrich E. Naumann)がいます。1875年に明治政府の招きで来日し、やがて東大で地質学の初代教授となります。ところで、中学校の理科の教科書に登場するのが「フォッサマグナ」(Fossa Magna)です。新潟県の糸魚川―静岡構造線と呼ばれる大断層というか、日本の中央部にできた陥没帯を示す言葉です。日本中の地質調査を実施し日本列島の成り立ちを明らかにし、この巨大な地溝帯を発見しフォッサマグナと命名したのがナウマンです。フォッサとは溝とか穴という意味です。ラテン語マグヌス (Magnus) の女性形がマグナ (Magna) 「偉大な」と組み合わせ、フォッサマグナとは「偉大な溝」という意味だそうです。

日本列島はかつて、ユーラシア大陸の一部分で、そこから分離する際、列島そのものが刀のように折れてしまったというのです。折れた部分は海になりその後長い時間をかけて海に新しい土砂が堆積し、日本列島は再び一つになったという仮説です。ナウマンの功績は、つくば市にある国の調査機関、地質調査所の設立に尽力し、設立後は、調査の責任者として日本列島の地質調査に従事し、日本初の本格的な地質図を完成させたことです。

次ぎに「ナウマンゾウ」の話です。浜松・長野、瀬戸内海などでゾウの歯や角らしき化石が発見されます。江戸時代までには竜骨・竜歯などと言われていて、漢方薬にもなっていたようです。当時の日本人には哺乳類の化石に精通している者はなく、その正体が不明だったのです。ナウマンはゾウの化石であることを見極めるのです。やがて、こうした化石となったゾウのことを、後世で「ナウマンゾウ」と呼ぶようになります。氷河期のゾウですが、マンモスとの違いは「毛の長さ」ではないかと思われます。生息する時代と場所とがそれぞれ異なっていたのだろうと察します。

日本にやって来て活躍した外国人 その二十五  ヘンリー・フォールズ

イギリスはスコットランド(Scotland)の宣教師兼医師にヘンリー・フォールズ(Henry Faulds)がいます。1868年にグラスゴー大学(University of Glasgow)を卒業、アンダーソン・カレッジ(Anderson College)で医学を学び医師となります。1871年長老派(Presbyterian)スコットランド教会の医療宣教師としてインドに渡り、その後1873年医療伝道団の一員として来日します。

外国人の居留地だった築地に住み、そこに築地病院を建て、布教をしながら外科・眼科診療に当たります。この病院は後の聖路加病院に発展していきます。目の不自由な人のための支援や医学を学ぶ学生を指導するなど1886年に帰国するまで12年もの間、幅広い活動をします。

フォールズは、日本人が本人の証明のために証文などに拇印を押す習慣に興味を示します。モースの大森貝塚発掘の手伝いをしながら、出土した縄文土器の表面に付いていた指紋から「土器の作者を特定出来るのではないか」と指紋の研究を始めていきます。そして数千の指紋を集め、指紋は個人によってすべて異なること、指紋は、身体の成長や歳月の経過よって自然変化を生じることなく「万人不同」であり、個人の識別や個人の特定に役に立つと主張します。

1880年10月、英国の科学雑誌「ネイチャー(Nature)」に日本から科学的指紋法に関する論文を投稿し、指紋による犯罪者の個人識別の可能性を発表します。この論文は科学的指紋法に関する世界最初の論文といわれます。その中で早くも犯罪者の個人識別の経験を発表し、また指紋の遺伝関係にも言及しています。フォールズは帰国後にさらに本格的な研究を始め、指紋を5つの基本パターンに分類し、また指紋の遺伝関係なども調べていきます。

1901年になってロンドン警視庁(Scotland Yard)が「ヘンリー式指紋法」(Henry Fingerprint Method)を全面的採用し、科学的犯罪捜査は飛躍的な進歩を遂げていきます。この指紋法は後に世界中に普及し、現在でもなお個人の特定や犯罪捜査の基本として有効な手段となっています。日本の警視庁は個人識別の手法として、DNA型情報のデータベース化を始動しています。しかし、DNA型鑑定よりも指紋鑑定の方が、速度や正確さ、コスト面において優れているといわれます。

日本にやって来て活躍した外国人 その二十四  ウォルター・ウェストン

日本近代登山の父と称されているウォルター・ウェストン(Walter Weston)の足跡です。ケンブリッジ大学(University of Cambridge)の構成校の一つクレア・カレッジ(Clare Collegec)で学びます。 1887年 にMA(Master of Arts)を取得後、同大学のリドレー・ホール(Ridley Hall)神学校でイギリス国教会の司祭としての按手を受けます。国教会とは聖公会(Anglican-Episcopal Church)のことです。イギリス聖公会の教会伝道協会より派遣されて1888年に神戸に着き、長崎や熊本を経て神戸へ移り、ユニオン教会(Union Church)のチャプレン(chaplain)になります。

ウェストンにはイギリス時代から登山の趣味がありました。マッターホルン(Matterhorn)の登頂など登山経験が豊富だった彼は日本に来てから飛騨山脈、木曽山脈、赤石山脈を巡り、1890年に富士山へ登り今日の日本アルプスへの第一歩を踏み出します。富士の積雪期登山を敢行し、夏には針ノ木峠、笠ヶ岳、前穂高岳を単独で登るという計画を立てます。笠ヶ岳は麓の住民の反対によって挫折しますが、次なる目標の前穂高岳に意欲を燃やします。このときの案内役が地元猟師の上條嘉門次です。そして1893年に二人で標高3,080mの前穂高岳に登頂します。

上條嘉門次のことです。当時はまだ詳しい地図がなく、山中に宿泊施設もありませんでした。山に精通した案内人を雇うことが、登山活動に必須でした。登山案内人という職業はありませんでした。上條嘉門次は、魚やカモシカ、雷鳥を撃つのを生業としながら、上高地の山々を歩いていたようです。ウェストンは山麓の村に住む嘉門次を知り、こうして上高地に分け入って行きます。

時代が明治になると測量の役人がやってくるようになり、嘉門次は山の案内役兼下働きとして手伝うこともあったといいます。ほとんど上高地に常駐しながら、梓川の古い流路の低地に明神岳からの湧水がたまってできた明神池近くに自分の小屋を造り、1年を通して暮らすようになります。

ウェストンは日本人未踏の山も数々登頂し、1896年『日本アルプスの登山と探検(Mountaineering and Exploration in the Japanese Alps』をイギリスで出版します。明治政府がイギリスより大阪造幣寮に招聘した化学兼冶金技師のゴーランド(William Gowland)が命名した「日本アルプス」の名を内外に広めます。ゴーランドは1878年07月に槍ヶ岳に登頂したことが記録されています。嘉門次の存在なくしてウェストンの活躍はありえなかったといわれます。気になる日本での布教活動については、あまり分かっておりません。

日本にやって来て活躍した外国人 その二十三  ベイズル・チェンバレン

日本言語学の父と呼ばれたイギリス人にベイズル・チェンバレン(Basil H. Chamberlain)がいます。言語学者で俳句を英訳した最初の人物の一人であり、日本についての事典「Things Japanese」や「口語日本語ハンドブック」などの著作で知られ、19世紀後半~20世紀初頭の最も有名な日本研究家の一人といわれます。

チェンバレンは1873年、23歳で来日し海軍兵学寮、後の海軍兵学校で英語を教えます。東京芝の清竜寺に住み、日本語の勉強を開始します。まず日本語の古典を学ぶために元浜松藩士に英語を教え,この藩士からは日本語と古今集を学びます。その頃、東京、横浜を中心としたイギリスやアメリカ人などの研究団体である日本アジア協会(Asiatic Society of Japan)が設立されます。駐日イギリス公使館のアーネスト・サトウ(Ernest M. Satow)やウィリアム・アストン(William G. Ashton)ら日本に関心のある者が中心となり、日本研究が盛んに行われていました。チェンバレンもそれに加わり、1877年に「枕詞、および言いかけ考」から始まって、「日本古代の詩歌」「英訳古事記」などを発表し出版されることになります。

古い日本の研究論文を続々と発表するチェンバレンの研究が認められ、1886年に森有礼の推薦で帝国大学日本語学および博言学(後の言語学)の初代教授に就任します。その後は、幕臣だった鈴木庸正という人から「万葉集」「枕草子」について教えを受けて、日本語への学問的な関心を深め,狂言や謡曲と研究を広げ、天璋院に仕え女流歌人であった橘東世子から和歌を学びます。天璋院は島津藩出身で、徳川家定の正室だった女性です。チェンバレンは39年間に渡り日本に滞在し、金田一京助ら日本の言語学者らを育てながら研究を重ねていきます。

チェンバレンはアイヌ語の研究も開始し、「アイヌ語の研究より見たる日本の言語・神話および地名」を発表、北海道へ行ってアイヌの風俗や言語の調査も行います。琉球へ渡り、琉球研究を論文にまとめたりします。ところで、小泉八雲はチェンバレンの薫陶を受け、二人は交遊があり往復書簡が残されています。やがて日本人や文化に対する姿勢の違いから次第に疎遠になっていったようです。チェンバレンの門下生の一人に、歌人で国文学者の佐佐木信綱がいます。

日本にやって来て活躍した外国人 その二十二 アーヴィン・ベルツ

ドイツ出身の内科医、アーヴィン・ベルツ(Erwin von Balz)は、お雇い外国人のうち、日本で一番知られた医学者だろうと思われます。1875年、現・東大医学部の前身東京医学校の教師として招聘され、その後29年に渡って日本に滞在し多くの優秀な門下生を育てます。

ドイツ南西部シュトゥットガルト(Stuttgart)近郊に生まれます。基礎医学を独テュービンゲン大学(Eberhard Karls Universität Tübingen)で学び,臨床医学はライプツィヒ大学(Universität Leipzig)を最優秀の成績で卒業します。さらにテュービンゲン大学で内科学を学びます。

来日のきっかけは 1875 年に大学病院に入院した日本人留学生の診察をしたことといわれます。小さい時から,ベルツは東洋や日本に関心があったようです。東京医学校では、1876年から1902年まで教鞭をとります。1882 年にはベルツの最初の教科書『内科病論』を出版。細胞病理学に基づく病変の解説,ジフテリアの抗血清療法の研究をします。ドイツで始まったハンセン病(Hansen’s disease)患者の強制隔離政策には批判的で,「冷酷な論理で問題を解決すると恐ろしい結果を招く、人類の名において抗議する」と述べています。ベルツはハンセン病の感染力が弱いことを現場の経験から知っていたようです。

また、日本人の身体的特徴の研究や脚気、寄生虫病などの治療・予防にあたります。明治天皇、大正天皇の主治医であり、伊藤博文とは親友でありました。また、ベルツが残した日記などには、明治時代の日本が行った西洋文明輸入に際する姿勢に対しての批判や警告が多く含まれています。ベルツは言います。「日本で根付いて成長できるように種をまくつもりだった。この樹は適切に育てれば,いつも新鮮で美しい実を結ぶ。しかし日本は成果を摘み取ることで満足し,この成果を生み出した精神を理解できていない」。ベルツは、学術の発展の素地となる文化を育てることが必要だというのです。この言葉は医学を志す者に響くものです。

他方で失われていく日本の文化・伝統を守るため多くの日本画、美術品、伝統工芸品や民具などを蒐集し保存に努めます。それらのほとんどが母国ドイツのシュトゥットガルトのリンデン民族学博物館 (Linden-Museum Stuttgart)に収められているそうです。学校での検便、臨海学校、「温泉は体にいい」ことだと言います。公衆衛生面での防疫事業の基礎を築くために尽力し、近代日本の黎明期に西洋医学を導入した優れた教師でもありました。草津温泉に数回訪れ、温泉を分析し、正しい入浴法を指導すると共に「草津は高原の保養地として最も適地である。草津には優れた温泉のほか、日本でも最上の山と空気と全く理想的な飲料水がある」として高く評価しています。

日本にやって来て活躍した外国人 その二十一 エドワード・モース

小学校だったか中学校だったかは忘れましたが、貝塚のことがでてくると、エドワード・モース(Edward S. Morse)が大森貝塚を発見したということを習います。私は北海道は美幌に住んでおりました。網走の近くにも貝塚がありました。昔のゴミ捨て場です。

モースの生まれ故郷はメイン(Maine)州ポートランド(Portland)です。モースは学校嫌いで「問題児」であったようです。高校中退を繰り返し、製図工として鉄道会社に就職します。そんなモースでも貝の収集とそのコレクションは、ニューイングランド地方(New England)の学者たちに一目をおかれる存在だったようです。独学で生物学などを学び、やがてハーヴァード大学Harvard University)の比較動物学博物館(Museum of Comparative Zoology)に学生助手として採用されるまでになります。

1877年6月、シャミセン貝の研究を目的に初来日します。横浜に上陸後、新橋へと向かう開通したばかりの蒸気機関車の車窓から貝殻のむき出しになった地層を偶然見つけます。さっそく発掘すると土器や石器が出土し、縄文時代後期の遺跡であるであることを発見します。後に大森貝塚と名付けられます。そして「お雇い外国人」として、東京大学理学部の初代動物学教授に就任するのです。

日本中を旅して、日本人の生活の様子をスケッチし、生活用具や陶器を収集します。3度にわたって日本を訪れた彼は、日本の庶民の暮らしに魅せられ、多彩な品々を「記録」としてアメリカに持ち帰えります。3万点に及ぶ民具はマサチューセッツ州(Massachusette)のセーラム(Salem)にあるピーボディー・エセックス博物館(Peabody Essex Museum)に収められています。そのコレクションには現在日本にも存在しない貴重な民具もあるようです。

モースは江戸の風趣が残る東京の下町の散策をこよなく愛したようです。彼の日記『日本その日その日』(Japan Day by Day)には、明治維新を経て近代への幕開けとなった日本――文明開化の華やかさとはうらはらに、いまだ江戸の暮らしが続いていた庶民の日常が克明に記されています。英語で日本を紹介した書物としては卓越した評価を受けたといわれます。モースは後にイェール大学(Yale University)より理学博士の名誉学位を授与されます。

日本にやって来て活躍した外国人 その二十  エドウィン・ダン

北海道の開拓に尽力した外国人の一人がエドウィン・ダン(Edwin Dun)です。オハイオ州(Ohio)のマイアミ大学(Miami University)を卒業後、父や叔父の牧場で獣医学、競走馬・肉牛の飼育などを学びます。ケプロン(Horace Capron)の推薦を受け1873年北海道開拓の技術者として来日します。北海道の開拓には牧畜や農業が重要であると見通し、その筋の専門家を招いた明治政府の先見の明には感心します。

ダンは函館に赴任して近代農畜産の技術指導に当たります。後に札幌に移り複数の牧場建設に当り、牛・豚・羊などの飼育からバター、チーズ、ハム、ソーセージの作り方を指導していきます。日本初の西洋式競馬である中島競馬場はエドウィンの設計に基づいて建設されたものです。この競馬場の建設は北海道における西洋競馬の定着に大きく寄与し、さらに馬産の面においても馬の品質改良、設備や技術の向上に大きく貢献していきます。

農業分野においては、一人で馬を操る農機具や耕耘機、ソリなどを作り、洋式の大型農具を用いて農作業を行う技術を普及させたことも特筆されます。エン麦や玉ネギ、小麦、亜麻、甜菜の試験栽培にも取り組みます。今やこうした作物は北海道の代表的な農産物となりました。札幌郊外につくった真駒内牧牛場における水の安定供給のために用水路をつくり、のちに水田の灌漑用水としても利用されます。こうして稲作の定着や普及に大きく貢献していきます。

日本にやって来て活躍した外国人 その十九  ジョシュア・コンドル

品川区の五反田にある旧島津家本邸であった清泉女子大学本館や、台東区池之端にある旧岩崎邸庭園は、見事な西洋建築の建物です。イギリスの建築家ジョシュア・コンドル(Josiah Conder)の設計による建物です。ロンドン大学(University of London)で学び、ビクトリア時代の芸術的なゴシック建築の権威、バージェス(William Burges)の設計事務所で腕を磨きます。そして明治10年、日本政府の招聘を受け24歳で来日します。

やがて現・東京大学工学部建築学科の前身、工部大学校の教授となります。工部省に属して上野の博物館や鹿鳴館など政府関係の諸施設を設計していきます。明治23年にはコンドルは三菱の顧問になり、丸の内にロンドンのような近代的ビジネス街を建設することになります。工部大学校時代の教え子を招き、三菱の管事らとで丸の内オフィス街の基本構想し、約15メートルの三階建て赤煉瓦造りとし、その上に急勾配のスレート葺き屋根を付けることになります。三菱一号館は明治27年に竣工し、以後、二号館、三号館と続き、一丁倫敦と呼ばれるロンドン風のオフィス街が形成されていきます。三菱一号館は、老朽化のために昭和43年に解体されましたが、平成22年にコンドルの原設計に則って復元されます。明治期の設計図や解体時の実測図の精査に加え、各種文献、写真、保存部材が使われたといわれます。

コンドルはその後、神田のニコライ堂、横浜山手教会、港区三田の三井家迎賓館(現綱町三井倶楽部)、北区古河虎之助邸(現古河庭園)などを手掛け、岩崎家ないし三菱関係のものも数多くの建物を設計します。

日本の近代建築に果たしたコンドルの足跡は図りしれませんが、その最大の功績は工部大学校での教育・人材育成といわれます。日本銀行本館や東京駅、奈良ホテル本館、みずほ銀行京都中央支店、大阪市中央公会堂などを設計した辰野金吾、赤坂の迎賓館、奈良国立博物館本館、京都国立博物館特別展示館、鳥取の仁風館などを設計した片山東熊、慶応義塾大学図書館や長崎造船所の迎賓館「占勝閣」を手掛けた曽根達蔵などそうそうたる建築家を育てていきます。

日本にやって来て活躍した外国人 その十六 ヨーゼフ・ローゼンシュトック

日本で活躍した外国人にポーランド人が何度も登場します。今回もそうです。日本のクラッシク音楽界で忘れてはならない指揮者がいます。ポーランドに生まれ、ドイツとアメリカ、日本で活動した指揮者のヨーゼフ・ローゼンシュトック(Joseph Rosenstock)です。私もラジオから流れる音楽演奏のときに、この指揮者の名前が放送されていたのをよく覚えています。

最初にローゼンシュトックを紹介するならば、NHK交響楽団の基礎を創り上げたユダヤ系の指揮者ということです。彼は、後に「斎藤メソッド」のモデルとなった指揮者の一人ともいわれます。「斎藤メソッド」とは、指揮者で音楽教育者として活躍した音楽家の齋藤秀雄の指導法のことです。日本のクラシック音楽を伸ばすためには、科学的根拠に基づく子どもたちへの早期教育のように基礎知識を施すしかないと主張した音楽家です。弟子の一人に小澤征爾がいます。

今や日本を代表するのはNHK交響楽団ですが、その前身は、新交響楽団と呼ばれ近衛秀麿が育ててきました。後任となる常任指揮者の候補に挙がったのがローゼンシュトックです。1936年頃のことです。ヨーロッパにおけるナチス・ドイツの台頭により、ユダヤ系の音楽家や芸術家はヨーロッパを離れて、安全な国へ移住しようとしていました。招聘を受けてローゼンシュトックはシベリア鉄道を経由して、1936年8月日本にやってきます。新交響楽団による歓迎演奏会を開いた後、同交響楽団の170回から第232回までのすべての定期演奏会を一人で指揮します。

ローゼンシュトックは、新響の楽員に基本的な奏法を中心とする厳しいトレーニングを徹底的に課したようです。楽員をして「過酷」と言わしめつつ、半アマチュア気分が抜けていなかった楽員の力量を向上させます。戦後は、日本を離れ、ニューヨークなどで演奏します。そして1951年5月にアメリカの音楽使節として再来日します。新交響楽団は日本交響楽団と改名し、さらにNHK交響楽団となっていきます。やがてローゼンシュトックはNHKから名誉指揮者の称号を贈られます。

日本にやって来て活躍した外国人 その十六  マクシミリアン・コルベ

Encyclopedia Britannicaから引用します。1894年、ポーランド(Poland)のツズンスカ・ボラ(Zdunska Wola)に生まれます。信心深いポーランド家庭で育ったコルベ(Maksymilian Kolbe)は、少年の頃から通う教会内部の柱に常に聖母マリアの姿を見ていたといわれます。そしてイエズス会(Societas Iesu)付属の学校に通います。

1910年、彼は修練院に入ることを許され、翌年の1911年に初誓願をたて、マキシミリアンの名前を与えられます。1912年、彼はクラクフ(Krakow)に送られ、そしてローマへの留学生に選ばれます。ローマで彼は哲学、神学、数学および物理学を学びます。1915年に教皇庁立であるグレゴリアン大学(Pontifical Gregorian University)で哲学の博士号を、そして1919年に教皇庁立聖ボナベントゥラ大学(Pontifical Bonaventura University)で神学の博士号を取得します。

やがて日本の地に宣教師として赴きカトリック信仰の布教を終生の願いとするようになります。当初は中国での布教活動を考えていたコルベ神父ですが、阿片戦争(Opium War)など、政情の不安定さを心配した友人の提案で上海を経て日本に向かうことになります。

1930年4月長崎に上陸したコルベ神父は、翌月には大浦天主堂下の西洋館に聖母の騎士修道院を開き、印刷事業を開始します。カトリック司祭であった早坂久之助司教に『無原罪の聖母の騎士』の出版許可を願います。司教はコルベが哲学博士号を持っていることを知ると、教区の大浦神学校で哲学を教えることを条件に出版を許可します。1931年に「無原罪の聖母の騎士」日本語版を一万部発行し翌年には聖母の騎士修道院を設立します。神学校で教鞭をとりながら聖母の騎士誌の発行と布教活動に専念します。

1938年にポーランドに戻ると、カトリック教会出版部の責任者となります。カトリックのラジオ局も立ち上げます。しかし、1941年にコルベ神父は、ユダヤ人や地下運動を支援したというかどでワルシャワ(Warsaw)で逮捕され、その後アウシュビッツ(Auschwitz)強制収容所に収監されます。囚人の身代わりを申し出て1941年8月に亡くなります。アウシュビッツにおけるコルベ神父の態度は長く言い伝えられています。

日本にやって来て活躍した外国人 その十五  お雇い外国人のこと

これまで14人の「日本にやって来て活躍した外国人」を紹介してきました。さらに紹介していきますが、一旦休憩して「お雇い外国人」のことに触れてみます。日本の近代化において、「お雇い外国人」と呼ばれた宣教師、技術者、外交官、役人、商人、芸術家、ジャーナリスト、学者等の果たした貢献は、形容し難いほどすぐれたものです。私の出身、北海道開拓の歴史を振り返りますと、大学の開校、鉄道の敷設、道路建設、農業技術の普及、水産加工の伝播、アイヌ文化の研究などで活躍した外国人のことを忘れるわけにはいきません。

私個人、北海道大学の教養部時代にHerr Orpitzというドイツ人からドイツ語を学ぶことができました。ドイツ語の授業のことです。札幌の郊外に手稲山という低い山あります。Orpitz先生は、山のことを「Berg」という説明がありました。私はBergとはヨーロッパのアルプスのような高い山だと思ったので、「Hugelではないでしょうか」と反論しました。 Orpitz先生は、手稲山はBergであるという答えでした。今も忘れられない授業の思い出です。

明治当初、ヨーロッパに派遣されていた留学生は、日本の「近代化」の必要性を感じて帰国します。そして、積極的にアメリカやヨーロッパ諸国から様々な分野の専門家を日本に招くことを政府に進言します。当時の日本人にとっての近代化とは西洋化のことであったのはやむを得ないことでした。1868年から1898年くらいまでの間にイギリスから6,177人、アメリカから2,764人、ドイツから913人、フランスから619人、イタリアから45人の先生や技術者の「お雇い外国人」を招くのです。開拓が必要だった北海道から日本全国にわたり、こうした外国人は日本のあらゆる分野で献身的に活躍するのです。

主にイギリスからは鉄道開発、電信、公共土木事業、建築、海軍制を、アメリカからは外交、学校制度、近代農事事業・牧畜、北海道開拓などを、ドイツからは医学、大学設立、法律など、フランスからは陸軍制、法律を、イタリアからは絵画や彫刻といった芸術がもたらされます。キリスト教の布教のために医学や農学、工学を専門とする人々もやってきました。教育や福祉の発展に寄与した人々のことも忘れることができません。日本を海外に紹介するため取材に訪れたジャーナリストは、やがて日本文化をヨーロッパに紹介し、日本学という学問分野を紹介していきます。

日本にやって来て活躍した外国人 その十四 ゼノ修道士

広島県福山市沼隈町に社会福祉法人「ゼノ少年牧場」があります。障がいのある子どもたちの楽園をつくろうとゼノ・ゼブロフスキー(Zenon Zebrowsk)が呼びかけてできた施設です。ゼノは、ポーランド出身のカトリックの修道士です。後に「蟻の街の神父」として知られ、戦後、戦災孤児や恵まれない人々の救援活動に力を入れます。日本人から「ゼノ神父」と呼ばれていたようです。実際は司祭(神父)ではなくコンベンツァル聖フランシスコ修道会(Ordo Fratrum Minorum Conventualium)の修道士です。

ゼノは1925年5月に聖フランシスコ修道会に入会し、1928年に修道誓願を立てゼノ修道士となります。1930年4にマキシミリアン・コルベ(Maksymilian Kolbe)神父ら共に来日します。長崎でコルベ神父らとともに、布教誌「聖母の騎士」の出版と普及に力を入れます。ゼノ修道士は全国各地に赴いていきます。長崎市で活動を続けていたとき被爆します。

戦後は戦災孤児や恵まれない人々の救援活動に尽くし、東京は浅草の「蟻の街」の名で知られるバタヤ街で支援活動を行います。口癖は「ゼノ死ヌヒマナイネ」。愛嬌のある白ひげ顔とユーモラスな人柄で、宗派を問わず多くの人に親しまれたようです。献身的な社会福祉活動に、1969年に勲四等瑞宝章、1979年に吉川英治文化賞が贈られます。1981年2月に来日したポーランド出身教皇ヨハネ・パウロ2世(John Paul II)は、ゼノ修道士の入院先を訪問します。そして教皇はポーランド語で語りかけ、長年の活動に敬意を表します。

ゼノ修道士に影響を受けた女性で、貧者への献身的な活動に身を投じて若くして散った「アリの街のマリア」と呼ばれた北原玲子がいます。ゼノ修道士を介して隅田川の言問橋周辺、現在の隅田公園の界隈にあった通称「蟻の町」のことを知ります。「蟻の町」とは廃品回収業者の居住地のことです。自らが汗を流して貧者と共に労働をし生活し助け合うことを実践していきます。ゼノ修道士や彼女らの行動によって1951年5月に「蟻の街の教会」が建てられます。教会を拠点として、「蟻の町」の子どもたちの教育環境は段々と整えられていくのです。

日本にやって来て活躍した外国人 その十三 マシュー・ペリー

横須賀は久里浜海岸にペリー(Matthew Perry)提督上陸の碑があります。1852年11月にペリーは、東インド艦隊司令長官に就任し、日本開国へ向けて交渉するようにとの指令を与えられます。合衆国大統領ミラード・フィルモア(Millard Fillmore)の親書を携えてバージニア州(Virginia)ノーフォーク(Norfolk)を出航します。

1853年7月8日(嘉永6年)、浦賀に艦隊は入港します。7月14日、幕府側が指定した久里浜に護衛を引き連れ上陸します。浦賀奉行であった戸田氏栄と海防掛であった井戸弘道に大統領の親書を手渡します。浦賀では具体的な協議は執り行われず開国の要求をします。ペリーは、幕府から翌年まで回答の猶予を求められ、食料など艦隊の事情もあって琉球へ寄港します。

1854年2月に、ペリーは旗艦サスケハナ号(Susquehanna)など7隻の軍艦を率いて現在の横浜市の沖に停泊し、早期の条約締結を求めます。サスケハナ号は「黒船」という呼ばれます。木造の船体に塗られた防水・腐食防止用のピッチが黒色だったからです。3月31日に神奈川で全12ヶ条からなる日米和親条約を締結します。下田と函館を開港し、アメリカは食料や燃料などの物資供給を受けることができるなどが定められます。日米和親条約は後に不平等条約と呼ばれるように、アメリカの都合のよい条約内容となっています。

日米和親条約の目的です。アメリカは太平洋航路を開拓し、東アジアとの貿易の拡充を狙っていました。そこで燃料の補給のため、日本の港が必要だったのです。そしてもうひとつの理由として、アメリカが北太平洋で捕鯨をおこなっていたことがあります。産業革命によりアメリカ国内では機械の潤滑油やランプなどに使用するクジラの油が大量に必要だったのです。

日本にやって来て活躍した外国人 その十二  ジェームス・ヘボン 

明治時代、宣教師で医者として活躍したヘボン(James C. Hepburn) は、ヘップバーンと呼ばれるべき人です。当時の人は、親しみをこめてか聞き違えて「ヘボン」と呼んだのだろうと察します。ペンシルヴァニア州(Pennsylvania)で生まれ、やがてプリンストン大学(Princeton University)で修士号を、その後1836年にペンシルヴァニア大学(University of Pennsylvania)で医学博士号を取得し、クリニックを開業します。

ヘボンは長老派教会(Presbyterian Mission)の医学宣教師として中国を目指します。しかし、阿片戦争(Opium War)などにより上海などの街は閉ざされて外国人の入国ができなくなります。シンガポールで2年間布教活動を行い、1845年にニューヨークに戻り再び医院を開業します。1859年に長崎に到着するや横浜に居を移し、1861年4月、宗興寺に神奈川施療所を設けて医療活動を開始します。横浜近代医学の歴史が始まったといわれます。ヘボンはアメリカ公使のタウンゼント・ハリス(Townsend Harris)のお抱え医師ともなります。

妻クララ(Clara)とともにヘボン塾(Hepburn School)を開設します。この学校はやがて明治学院大学へと発展していきます。ヘボン塾からは、ジャーナリストで政治家となる沼間守一、洋学者で軍人となる古屋佐久左衛門、第20代内閣総理大臣となる高橋是清らが育っていきます。日本語の英語辞典を作るという功績も残します。

ヘボンの専門は脳外科であったようですが、当時眼病が多かった横浜などはその治療で名声を博したようです。横浜の近代医学の歴史はヘボン診療所によって始まったといわれ、横浜市立大学はその功績を称えています。ヘボン塾の卒業生らによってフェリス女学院の母体ができることになります。

日本にやって来て活躍した外国人 その十一 ウイリアム・クラーク

北海道開拓の歴史で、「この人をおいて他になし」といわれるのがウイリアム・クラーク(William S. Clark)です。北海道開拓時代に活躍した「お雇い外国人」の1人です。札幌農学校の初代教頭でもありました。北海道の人々、道産子は「クラーク博士」と親しみと尊敬を込めて呼んでいます。

マサチューセッツ農科大学(Massachusetts Agricultural College)の第三代学長であったクラーク博士は、1876年7月に来日します。この農科大学は、現在はマサチューセッツ大学アマースト校(University of Massachusetts Amherst)と改称されています。日本に滞在していたのは1877年4月までの約8ヶ月と短い期間でありました。その間、諸科学を統合した全人的な言語中心のカリキュラム(Liberal Arts)を導入します。キリスト教を土台としたピューリタン教育(Puritanや、英語での自然科学教育を行うのです。

ウィリストン神学校(Williston Seminary)で基礎教育(Liberal Arts)を受け、1844年にアマースト大学に入学します。そこでギリシア文字協会(Phi Beta Kappa)と呼ばれる教育・法律・医学などの専門職に就くことを目的とする団体会員となります。1848年に同大学卒業後、1850年までウィリストン神学校で化学を教えます。化学と植物学を学ぶべく、ドイツのゲッティンゲン大学(Georg-August-Universität Göttingen)へ留学し、1852年に同大学で化学の博士号を取得します。

帰国後、クラーク博士は母校アマースト大学で教鞭をとります。同大学初の日本人留学生に、後に同志社大学の創始者となる新島襄がいました。明治政府は、新島襄の紹介により、クラーク博士に札幌農学校教頭として招聘するのです。赴任したのは1876年7月でありました。

クラーク博士はマサチューセッツ農科大学のカリキュラムをほぼそのまま札幌農学校に移植して、諸科学を統合した全人的な言語中心のカリキュラムを導入します。明治政府は欧米の大学と遜色ないカリキュラムを採る札幌農学校に、国内で初めて学士の称号を授与する権限を与えます。