ウクライナの歴史から学ぶ その四 キーウ・ルーシ公国

ペチェネグが10世紀から11世紀にかけて南ウクライナを統治しますが、ダッタン人(Polovtsian) によって征服されます。こうした遊牧騎馬民族の侵略により、クリミア半島のケルソネソス・タウリケといったギリシャ植民地は脅かされます。スラブ人やバルカン人は草原地帯を占拠し、今の西部や中央部、南ベラルーシを占領し、やがて北部、北東部へ侵攻し、モスクワを中心とするロシア帝国の礎を築いていきます。東スラブ人は農業や畜産を営み、衣料、陶器作りを営みながら、植民地を要塞化して、重要な商業や政治の中心地としていきます。その例はドニプロ川の西岸に造られたキーウ(Kiev)です。キーウ公国は9世紀に始まります。

世界遺産 ペチェールスカ大修道院

この公国はキーウ・ルーシ(Kiev-Rus)と呼ばれ、バリヤーク(Varangians)出身の公を宗主とします。ルーシは国際貿易を促進し、ドニプロ川によってバルト海から東ローマ帝国といわれるビザンチンを結んで発展します。その戦略的拠点となったのがキーウです。こうした征服者はやがてスラブ化し、ビザンチンからキリスト教を受け容れていきます。ウラジミール一世(Vladimir I)はバリヤークの王ではなく、スラブ公となります。首都のキーウは、東方正教会の統治化になり、スラブ公は、コンスタンチノープルの総司教によって任命されます。ウラジミール一世の息子、ヤロスラブ(Yaroslav)の治世下で、建築、美術、音楽、旧教会スラブ語(Old Church Slavonic)などが広がり、文学や芸術が発展していきます。ヤロスラブは、ヨーロッパ諸公との姻戚を広げ、友好関係を結んでいきます。さらに現在のベラルーシ、その中心であるポラック(Pololsk)は非常に発展していく地帯となります。ノヴォゴロド(Novgorod)も同様に発展し、やがて北東にあるウラジミール・スーズダル(Ulagimir-Suzdal)という都市が形成され、12世紀からはロストフ・スーズダル(Rostov- Suzdal)公国となります。後にモスクワ(Moscow)へと発展し、後のロシア連邦の中心都市となります。


ボルイン地方(Volhynia)のボルドミヤ(Volodymyr II Monomak)とドニエストル川(Donestre River)の沿岸にガリツィア(Galicia)という2つの公国がありました。ボルドミヤのロマン公(Prince Roman)は、両国を統合し、ガリツィア・ボルドミヤ公国を創始します。そのとき造られた新しい都市がリビュ(Lviv)です。リビュはポーランド、ビザンチン、ハンガリーとの貿易で栄え、大きな富を蓄えていきます。こうして、ウクライナ領内には、ルーシとガリツィア・ボルドミヤ公国が発展し、重要な大都市圏となります。このように11世紀から12世紀にかけて2つの公国は西方や北方へと拡大していきますが、1240〜1241年のモンゴル・タタール(Mongol-Tatar)遊牧騎馬民族の侵略によって滅びます。このモンゴル遊牧政権は「Tatar Golden Horde」と呼ばれ、別名「ジョチ・ウルス」と名乗ります。ローマ帝国終焉の1340年までさまざまな角逐が続きます。

ペチェールスカ大修道院

リトアニア(Lithuania)は14世紀末までに東方と南方に急速に勢力を拡大し、現在のベラルーシ全域、ウクライナ全域、ポーランドの一部、ロシアの一部を領土とする、ヨーロッパ最大の国家となっていきます。その勢力は、ウクライナ全土におよび、その勢力は草原地帯から黒海にまで及んでいきます。ウクライナ人とベラルーシ人による東スラヴ系のルテニア(Ruthenian)は自治を維持していました。ルテニアは、西ウクライナのウクライナ人の古称です。ウクライナ人は東方正教会へと帰依していきます。1386年にポーランド・リトアニア両王朝は合体し、ウクライナはポーランド人進出の舞台となります。ポーランド国境は、広大で人口が希薄なウクライナを東進していきます。農民は新たな領主により賦役を課せられ、東南方へと逃れる農民も多く、このような逃亡農民がやがてコサック(Cossacks)となります。コサックとはトルコ語で「自由人」とか「無法者」という意味です。コサックの脱出地はドニェプル川下流の広大な無人の原野で、そこにザポリージャ(Zaporizhazia)という開拓地が生まれます。

16世紀初頭、ポーランドの諸公やモスクワの大公はタタール民族の侵入を防ぐために、コサックを屯田兵化します。16世紀末にはザポリージャ・コサック(Zaporizhzhya Cossacks)もドン・コサック(Don Cossacks)も土地を所有し定住生活に入ります。1569年、ポーランドとリトアニアは合体し、ウクライナはリトアニアから分離されポーランドへ編入されます。

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ウクライナの歴史から学ぶ その三 民族の流入

紀元前7世紀から6世紀になると、多くのギリシャ植民地(Greek Colony)が黒海北岸、クリミア半島(Crimean Peninsula)、アゾフ海岸 (Sea of Azov) 沿いにつくられます。こうした地帯はギリシャの軍事上の前哨地帯となり、やがてローマ帝国(Roman Empire) の統治下となります。紀元前1世紀ころ、草原の後背地はキンメリア人(Cimmerians)やスキタイ人(Scythians)、サルマート人(Sarmatians)によって占領されます。こうした民族はイラン人(Iranian)の祖先で、ギリシャ植民地とともに商業や文化を発展させていきます。

紀元後200年頃、民族の大移動が始まり、バルト海(Baltic)地帯からゴート人(Goths)がウクライナに流入し定住します。ゴート人はサルマート人を追放しますが、375年にアジアの遊牧民フン族(Hun)によって追われます。5〜6世紀にかけてブルガリア人(Bulgars)やアヴァール人(Avars)というコーカサス(Caucasus)民族によってフン族は征服されます。やがてゲルマン民族(Germanic)の移動とともに、5世紀から6世紀にかけてカルパティア山脈(Carpathians)地帯に住んでいたスラブ(Slavic)民族の西への移動が始まります。その一部はバルカン半島へと向かいます。バルカン半島の西部や南部に移動するスラブ人の他に、別のスラブ人は今のウクライナの西部や中央地域の森林・草原地帯や南部ベラルーシ(Belarus)を占領していきます。

クリミア半島の正教会寺院

7世紀から9世紀にかけて、ウクライナの草原地帯にテュルク系民族のバザール(Turkic Khazar)商業帝国が誕生します。ボルガ川(Volga River) 下流の中央地帯です。9世紀になるとマジャル人(Magyars)と呼ばれるハンガリア民族によってバザール帝国は駆逐されます。8世紀から9世紀にかけて、ペチェネグ(Pechenegs)というカスピ海(Caspian Sea)北の草原から黒海北の草原で形成された遊牧民の部族が支配しますが、10世紀になるとダッタン人(Polovtsian)にとって代わります。遊牧農耕民族の侵入がありますが、ビザンチン帝国(Byzantine Empire)の庇護下でクリミア半島南端のケルソネソス・タウリケ(Tauric Chersonese)といったギリシア植民都市は維持されます。ビザンチン帝国とは首都をコンスタンティノープル(Constantinople)とする東ローマ帝国のことです。

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ウクライナの歴史から学ぶ その二 地名と地理

ウクライナという名称は「辺境」を意味するクライ(Krai)という語から由来し、12世紀頃から使われるようになります。先史時代から今日までのウクライナは、地理的に北西から南東に向かって三つの重要な土壌帯に分かれています。北西部の砂質のポドゾル(podzol)という強酸性土壌地帯、中央部のチェルノゼム(chernozem)という黒色草原土地帯、そして南東部の栗色土・含塩土地帯です。中央部の草原土地帯はウクライナ全土の48%を占め、黒土は最高16%までの腐植土を含み、その土の厚さは1.5mから2mで世界有数の肥沃な土壌となっています。それ故、小麦の生産が盛んです。

Ukraine on Europe outline map with borders. Political map with Black Sea region and territory of Russia, Crimea, Belarus, Poland and other countries. Earth silhouette isolated on white background.

以上、3つの地帯の地理についてです。ポドゾル土壌地帯は黒海(Black Sea)の北側地帯です。現代の地中海(Mediterranean)の軍事・海防力地域となっています。チェルノゼム黒色草原地帯は、広大な草原(Steppe)で東側から中央部へと広がり、ドニプロ川(Dnieper River)に沿ってヨーロッパへの玄関口となり、ウクライナの穀倉地帯となっています。トリッピリア文化(Trypillya)という東ヨーロッパの考古文化が紀元前3世紀位まで栄えたところです。この草原地帯は、何世紀にもわたり、軍事衝突の場となり、同時に文化の交流の場ともなります。栗色土・含塩土地帯は、中央アジアからの騎馬遊牧民族がやってきたところです。ここから北部、中央ヨーロッパへと河川が通じています。

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ウクライナの歴史から学ぶ その一 はじめに

今般、世界情勢の中心となっているウクライナ(Ukraine)は、私たちにとって別の世界の国ではありません。日本とも深い繋がりがあります。ウクライナ国の生い立ちや発展の過程は、地政学上の位置により多民族の交流、近隣諸国からの侵略や戦争などによる誠に激動の歴史です。ここではブリタニカ国際百科事典(Encyclopædia Britannica)や平凡社の世界百科事典からの資料などを通して、ウクライナの歴史を振り返ることにします。本稿では、正確を期すために最初に登場する国名や地名、氏名その他文化や宗教などの固有名詞はすべて英語でも表記します。これまでロシア語読みによる表記でキエフなどとして使われていた地名は、本稿では「キーウ」のようにウクライナ語読みによる表記とします。

Map of Ukraine

1991年12月のソビエト連邦(ソ連邦)(Soviet Union)の崩壊に至る前には、ロシア(Russia)もウクライナもソ連邦を構成する15の共和国の1つでありました。人口や経済的重要度において旧ソ連邦中、ロシアに続いて第二位です。ロシアを除けば、国土面積ではヨーロッパ最大で、人口はドイツ、イギリス、フランス、イタリアに次いでいます。

ウクライナの西部諸州では、ロシア系住民は10%以下、東部や南部諸州では10%〜50%を占めます。クリミア半島では70%に及ぶといわれています。ウクライナ西部は、かつてオーストリア(Austria)・ハンガリー(Hungary)帝国に帰属し、宗教もローマカトリック教会(Roman Catholic Church)、東方正教会(Greek Orthodox Church)、超正統派ユダヤ教(Hasidism)、イスラム教(Islam)の影響が残っていて、ロシアからの独立志向が強い地域であります。

これから考察していきますが、ロシアはウクライナに対して「同じルーツを持つ国」という意識を強く持っていています。様々な根深い要素があって今やウクライナはロシアの侵攻を受けています。その経過をこれから詳しく調べることにします。

本稿では、ウクライナの歴史を次のような目次で辿っていくこととします。
・地名と地理
・民族の流入
・キーウ・ルーシ公国
・リトアニアとポーランドの統治
・宗教的な発展
・ウクライナのコサック
・ロシア皇帝とレーニンの登場
・ウクライナのルネッサンス
・第一次世界大戦とロシア革命
・第二次世界大戦とスターリン
・ペレストロイカ
・オレンジ革命とマイダン革命
・ロシアによるウクライナ侵攻

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ナンバープレートを通してのアメリカの州  その五十九  ヴァージン諸島

この稿をもちまして、「ナンバープレートを通してのアメリカの州」の紹介は終わりです。ご笑覧やコメントをありがとうございます。

ヴァージン諸島(Virgin Islands of the United States)は、西インド諸島にあるアメリカ合衆国の自治領です。40位の島々はほとんどが無人島です。住民がおり、一般の観光客が訪れる主要な島はセント・トーマス島(Saint Thomas)、セント・クロイ島(Saint Croix)、セント・ジョン島(Saint John)の3島で、主都はセント・トーマス島のシャーロット・アマリー(Charlotte Amalie)となっています。シャーロット・アマリーは、デンマークの王妃の名前にちなみます。なおヴァージン諸島の東側はイギリス領ヴァージン諸島となっています。

1493年11月、クリストファー・コロンブスは最初にセント・クロイ島に到達し、サンタ・クルース(Saint Crus)と名付けて上陸します。その後、セント・トーマス島、セント・ジョン島と命名していきます。1625年には、イギリス、フランス、オランダ、スペイン、デンマークがセント・クロイ島に入植し農業を始めます。しかし、収穫は少なく、病気と過酷な奴隷制度により、わずかなカリブ族(Caribbean)しか生き残らなかったという記録があります。

1733年にデンマークはフランスよりセント・クロイ島を買収し領有権を得ます。その後、デンマーク領西インド諸島 (Dansk Vestindien) と称し、デンマーク国王に任命された総督によって統治される体制となります。その後、1764年に自由港として公認され、西インド諸島における交易の中心地として栄えます。

デンマーク統治下の各島では、インディアン奴隷がいなくなったため、アフリカ人奴隷が初めて島に連れて来られます。デンマーク統治下の各島では、こうした奴隷を使ってサトウキビとタバコ農園が経営されます。後にコーヒーや砂糖も生産されるようになります。

やがてデンマークは、植民地としての関心を失い、20世紀初頭にアメリカ合衆国が買収します。すなわち、第一次世界大戦が勃発すると、合衆国はパナマ運河をドイツ軍から防衛するためにこの地を求め、1917年にデンマークから 2,500 万ドルで購入します。それにより、島民は合衆国の市民権と自治政府、投票権を得ます。しかし未編入領域であるため、現在もアメリカ領ヴァージン諸島の人々は合衆国の大統領には投票できません。

ナンバープレートを通してのアメリカの州  その五十八  北マリアナ諸島(Northern Mariana Islands)

サイパン島(Saipan Island)やテニアン島(Tinian Island)、ロタ島(Rota Island)などの14の島から成るアメリカ合衆国の自治領が北マリアナ諸島 (Commonwealth of the Northern Mariana)です。主都はサイパン島(Saipan)のススペ(Susupe)となっています。グアム島と北マリアナ諸島は別の行政区となっています。

 マリアナ諸島には、先住民のチャモロ人(Chamorro)とカロリニアン人(Carolinian) の2つの民族がいます。チャモロ人は東南アジア方面から、カロリニアン人はカロリン諸島から渡って来たとされています。1521年にフェルディナンド・マゼラン(Ferdinand Magellan) がこの島々を発見します。マゼラン隊はこの島に立ち寄った直後にチャモロ人といざこざを起こし、報復行為として彼らを虐殺したという記録があります。

 北マリアナ諸島の歴史です。1565年には、スペインがサイパンの領有を宣言し、以後約300年に渡りスペインの統治が続きます。1898年に米西戦争でスペインが敗れたためサイパンをドイツに売り渡します。1914年に第一次世界大戦が勃発し、連合国側についた日本軍はドイツ領マリアナ諸島に侵攻し実効支配します。その後発足した国際連盟において、マリアナ諸島は日本の委任統治領と認められ、サイパン島を中心に日本人による殖産興業が進められていきます。

 プランテーションにおける労働力、港湾荷役労働者、貿易商として、主に沖縄県出身者や台湾、朝鮮からの移民が定住していきます。サトウキビやコーヒーなど農産物が栽培され、ススペはその集散地となると共に、南洋群島有数の貿易港として発達していきます。太平洋戦争末期の1944年6月に連合国軍がサイパンに上陸し、アメリカ軍の軍政下に置かれます。

­Old Shrine Gate

 カロリニアン文化はチャモロに比べると「自分たちはカロリニアン人である」という民族としての独自性が強いといわれ、今でも伝統舞踊、機織りや工芸、カヌー作り、海洋技術といった古来の伝統文化を受け継いでいます。

ナンバープレートを通してのアメリカの州  その五十七 グアム–Gateway to Micronesia

グアム(Guam)は、太平洋にあるマリアナ諸島南端の島でアメリカ合衆国の準州となっています。1898年のアメリカとスペインの間で勃発した米西戦争によって合衆国の海外領土となります。主都はアガーニャ(Hagatna)で、公用語は英語、チャモロ語です。

 大航海時代の1521年に、ポルトガル出身のスペインの航海者マゼラン(Ferdinand Magellan)がヨーロッパ人として初めてグアム島に到着します。マゼランの探検は、ヨーロッパからアフリカ南岸を経てインドへ航海したポルトガル人ヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gam)の影響を受けています。ガマの大航海によってポルトガルは当時の海上帝国を築いたといわれます。

 グアムの現地の人々、チャモロ族(Chamorro) は、約3500年前にグアムにやって来たようです。ミクロネシア(Micronesia)のマリアナ諸島(Mariana Islands)の先住民といわれます。スペインがグアムを植民地化したのは1668年です。16世紀から18世紀にかけてグアムは、大型帆船にとってスペインとフィリピンを結ぶ大事な寄港地となります。

 1944年にアメリカ軍が日本軍を追放し、アメリカの統治化となります。それ以降、この島の経済は、巨大な空軍基地からの投資によって潤います。観光業、農業、漁業が主要な経済基盤ですが、近年は観光業が産業の大部分を占めています。

 チャモロ文化の中にはチャモロ語の他、チャモロ料理、チャモロ音楽、チャモロダンスなどがありますが、代表的な遺物といえば「ラッテ・ストーン」(Latte Stones)です。グアムやサイパンなどの北マリアナ諸島に残されている巨大石柱群です。ラッテ・ストーンの遺跡が島々にあります。大昔、チャモロ族が柱の上に家を建て、そこを人々の集会所にしたという説や、人々の埋葬の場所としていたという説もあります。後者の証拠として、動物の骨、魚、壺などが発見されたことです。

 チャモロ料理の代表的なものは、レッドライスやケラグエン(Shrimp Kelaguen)とか、ココナッツミルクを使った料理も多くあります。甘さ・辛さ・酸っぱさのいずれかが濃厚に現れているのがチャモロ料理の特徴です。大家族社会であるグアムでは、各料理は大量に作って各自で分ける大皿料理スタイルが主流となっています。バーベキューとともにローカルのパーティーには必ず登場するのが大皿料理です。

主都アガーニャには、チャモロ・ビレッジ(Chamorro Village) があります。チャモロ文化を紹介するために作られた街です。スペインの植民地時代に持ち込まれた赤レンガの屋根に白壁の建物が並び、チャモロ料理のお店やお土産物屋が揃っています。是非立ち寄りたいところです。

横井庄一氏の帰国

 1972年1月に、28年間に及ぶグアム島のジャングルで生きていた横井庄一氏が発見されました。満57歳で日本に帰還したのは大きな話題となりました。

 

ナンバープレートを通してのアメリカの州  その五十六 プエルト・リコ–Island of Enchantment

カリブ海(Caribbean Sea)に浮かぶ複数の島で構成されるプエルト・リコ(Puerto Rico)は、「富める港」という意味だそうです。かつてはスペインの植民地でしたが、現在はアメリカ合衆国の自治領となっています。マイアミから飛行機でわずか 2 時間のところにあります。鹿児島県と同じ面積です。西に80キロの海峡を隔ててハイチ(Haiti)、ドミニカ(Dominica)共和国があります。他のカリブ海の島々に比べて奴隷制が拡大しなかったので、白人の割合が多いのがプエルトリコです。主都はサンフアン(San Juan)です。

 1493年にコロンブス(Columbus)が島に上陸します。そしてサンファン・バウティス島と名付けます。先住民族はインディヘナ(Indígena)、またはインディオ(Indio)と呼ばれています。やがて奴隷として連れてこられたアフリカ系黒人、ヨーロッパ系白人、中国人などの血が混ざっていきます。インディオはスペイン系征服者たちにより長年呼ばれてきたために階級的劣位者あるいは卑俗な民というニュアンスで用いられることが多いようです。現在はスペイン系が約76%を占め、通称プエルトリカン(Puerto Rican)と呼ばれます。

 1898年にアメリカ合衆国とスペイン帝国の間で起きた争いは米西戦争と呼ばれます。パリ講和条約によって敗れたスペインはプエルト・リコをアメリカに渡し、1917年には住民もアメリカ市民としての権利を得ます。そして1952年、憲法によりアメリカの自由連合州として内政自治権を獲得して以来、アメリカとの半独立関係を保持しています。

 プエルト・リコは知事を合衆国大統領が任命する直轄領となります。アメリカ合衆国の領土となったプエルト・リコでは主権を求める完全独立派、アメリカ合衆国を構成する一州への51番目の州昇格派、現状のまま自治権の拡大を求める自治権拡大派が対立しています。しかし、独立派は少数となっています。

ナンバープレートを通してのアメリカの州  その五十五 ワシントンD.C. コロンビア特別区–Taxation without Representation

 プレートには「Taxation without Representation」とあります。このフレーズですが、ワシントンD.C.は他の州とは違って、住民には連邦上院や下院への議員を選ぶ権利がありません。にも関わらず高い住民税を払っています。これまで何度も議会に抗議したり訴訟を起こして、選挙権の獲得運動がありました。しかしいまだに実現していません。そこでD.C.はナンバープレートに抗議のフレーズを入れているのです。「税金払えど選挙権なし」という意味が込められています。他の州には、このような主張を込めたものは見当たりません。興味あるナンバープレートです。

 ワシントンD.C.は計画都市です。1791年に都市建設計画のコンペに当選し、基本計画案を作成したのはピエール・シャルル・ランファン(Pierre Charles L’Enfant)というフランス生まれの建築家・技師です。ランファンはバロック様式を基に基本計画を作成しし、環状交差路から放射状に広い街路が伸びて、開かれた空間と景観作りを最大限に重視したといわれます。

ワシントンD.C.(Wikipediaより)

 ヴァジニア州やメリーランド州などと隣接するこの街は世界の政治の中心の一つです。国権の最高機関である大統領府(White House)、連邦議会議事堂(Capitol)、連邦最高裁判所(Supreme Court)や中央官庁などの行政機関が集まるほか、国立公文書館、日本銀行にあたる連邦準備制度理事会(FRB)、世界銀行(WB)や国際通貨基金(IMF)の本部、各国の大使館などが置かれています。

 街の中心はナショナル・モール(National Mall)と呼ばれています。モールの中心にはワシントン記念塔があります。モールの両端にはリンカーン記念館と連邦議会議事堂が鎮座しています。スミソニアン協会(Smithsonian Institution) が運営する多くの博物館や美術館がモール内にあります。どれも質・量ともに世界一であります。加えて、多くの国立記念建造物や碑が建てられています。例えば、第二次世界大戦記念碑、朝鮮戦争戦没者慰霊碑、硫黄島記念碑、ベトナム戦争戦没者慰霊碑、アルバート・アインシュタイン記念碑など数えられないほどです。

 スミソニアンの博物館の中でも最も来場者が多いのが国立自然史博物館といわれます。子ども達に人気なのが国立航空宇宙博物館でしょう。いつも家族連れや団体で一杯です。。このほかに国立アメリカ歴史博物館、国立アメリカ・インディアン博物館、国立アフリカ美術館、ハーシュホーン博物館と彫刻の庭、芸術産業館などです。是非訪ねていただきたいのはユダヤ人の虐待とその歴史を遺品や写真などで紹介するホロコスト博物館です。どの館も安い入場料あるいは無料で見学できます。午前と午後に一つずつ見学しても一週間はゆうにかかります。

 モールのすぐ南にタイダル・ベイスン(Tidal Basin)という池があります。ここにはかって日本から贈られた桜並木があります。3月末は花見客で一杯となる合衆国で有数の桜の名所となっています。今年の桜のピークは4月1日と予想されています。日本とアメリカの友好の歴史を物語る場所でもあります。

ナンバープレートを通してのアメリカの州  その五十四 ワイオミング州–Equal Rights

車のナンバープレートに印字される州のモットーを取り上げてきました。このモットーからそれぞれの州の歴史や特徴が分かってきます。今回はワイオミング(Wyoming)州です。北にモンタナ州、東にサウスダコタ州とネブラスカ州、南にコロラド州、西にユタ州とアイダホ州と境をなしています。州都はシャイアン市(Cheyenne)です。全米で最も人口が少ない州都でもあります。

 ワイオミング(Wyoming)とはインディアンの言葉で「大平原」を意味するそうです。州の東側3分の1はハイプレーンズと西側3分の2はロッキー山脈東部の山岳地帯と丘陵の牧草地帯が広がります。州の主要な産業は鉱業と農業。鉱業ではウラニウム、天然ガス、メタンガス、農業では小麦や大麦、馬草、サトウキビが主たるものです。

ワイオミング州のエンブレム

 イエローストーン国立公園(Yellowstone National Park)がこの州の北西部に広がります。年間600万人が訪れます。合衆国で最古の国立公園で、シンボルになっている間欠泉や温泉の見所で有名です。同じく最初の国定記念物として指定されているのが、デビルスタワー(Devil’s Tower)です。アメリカ先住民族から神聖視される岩山で登ることができます。

Shane(Wikipediaより)

 州のモットーは、「Equality State」という少々地味な名称です。1869年に合衆国の地方議会で最初に女性に参政権 (Suffrage) が認められます。ほどなくして1870年2月に、エスター・モリス(Ester H. Morris)が州判事に任命されます。ララミー(Laramie)という街で、参政権によって最初に投票したのは、ルイザ・スエイン(Mrs. Louisa Swain)です。1894年には、エステル・リール(Estelle Reel)がアメリカで最初の州教育長官(State Superintendent of Public Instruction)になります。さらに、1924年にネリー・ロス(Nellie T. Ross) が合衆国で最初の女性知事として選ばれます。男女同権を意味するのが「Equality 」です。

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ナンバープレートを通してのアメリカの州  その五十三 ワシントン州 「ヒマラヤ杉に降る雪」(Snow Falling on Cedars)

この小説の作家はグッターソン(David Guterson)というアメリカ人です。これを今回は紹介します。小説の舞台はワシントン州北西部の小さな湾のジュアン・デ・フカ(Strait of Juan de Fuca)に浮かぶ、人口5千の移民の島サンペデロ島(San Piedro)です。1954年12月、日系アメリカ人漁師のカブオ・ミヤモトは、同僚カール・ハイン(Carl Heine)を殺害したとして第一級殺人容疑で罪に問われます。カールは強い絆で結ばれる人々の中で慕われていた漁師でありました。カールの死体は漁網の中で発見され、彼の腕時計は午後1時47分を指していました。島全体を包む吹雪の中、戦争後の反日感情が広がっている時代です。

Ishmael & Hatsue

裁判を取材するのは、元海兵隊軍人であるイシュマエル・チェンバース(Ishmael Chambers)です。彼は、地元新聞サンペデロレビュー紙(San Piedro Review)の記者です。戦争中は激戦地タラワ島(Tarawa Island)で同胞の死に遭遇しています。幼い頃、イシュマエルは、高校時代にハツエという日系女性と同級で、ヒマラヤ杉の洞で愛を育くみます。青い目のイシュマエルと黒髪の美しいハツエは、密かに情を交わす関係にあったのです。しかし、二人の関係は太平洋戦争の勃発と共に打ち砕かれてしまいます。

 検察側は、刑事のモーガン(Art Moran)と検察官のフックス(Alvin Hooks)です。カブオを擁護するのはグッダモドソン(Nels Gudmondsson)という老練弁護士です。何人かの証人の中でカブオが犯人であると主張するのがカールの母親のエッタ(Etta) で、人種差別や偏見の強い人物です。

 裁判では、他に検死官(coroner)のワリー(Horace Whaley)やカールにイチゴを売る老人のジャーゲンセン(Ole Jurgensen)らです。裁判ではイチゴ畑が争点ともなります。この畑はもともとカールが持ち主でした。この土地に住んでいたのはミヤモトという一家で、ハイン家の人々にイチゴを売っていました。カブオとカールは幼馴染みでした。カブオの父親は、広いイチゴ畑を購入したいとハイン家に持ちかけます。しかし、エッタは反対しますが、カールは売ることに賛成します。支払いは10年間払いというものでした。最後の支払いが近づいた頃、真珠湾攻撃により大戦が勃発します。島に住んでいた日系人は強制収容所行きとなります。

 1944年、カールの父親は心臓麻痺で亡くなります。エッタはジャーゲンセンにいちご畑を売却します。カブオが収容所から解放されて帰ると、エッタが土地を他人に売ったことを知り、酷く怒ります。ジャーゲンセンが脳卒中で倒れると、カブオが土地を買い戻そうとする前に、カールは土地を購入したいと申し出ていたのです。裁判ではこうした土地を巡る家族や住民の間の確執が、カブオに対する殺人の容疑の背景となります

 記者のイシュマエルは、カブオの容疑を晴らす可能性の高い証拠をつかみます。しかし、カブオの妻であり彼自身の幼馴染のハツエとの間の過去の恋愛関係に対する感傷の想いが断ち切れないでいます。また、日系アメリカ人への厳しい偏見と大戦という厳しい出来事によって、成就できなかった自分達の関係についてイシュマエル自身は心が整理できないでいます。彼がつかんだカブオが犯人でないという証拠をどのように扱うべきかで悩んでいたのです。

 イシュマエルはポイントホワイト (Point White) という灯台付近で、午前1時42分頃、カールが釣りをしていたこと、丁度その頃、付近に大きな貨物船が通りかかったことをつかみます。カールの時計が指していたのは1時47分でした。カールの小舟が貨物船の航跡を受けて沈没したことを知ったのです。カールは小舟のマストに登り、灯を降ろそうとしたとき、貨物船の波で倒れてきたマストに頭を打ち、海に投げ出されたことも判明します。幼馴染のハツエにふられたイシュマエルは、カブオへの容疑が晴れる証拠をつかんでいたのです。

 カブオは無罪として釈放されます。カブオと結婚していたハツエは、昔の恋人だったイシュマエルに、無実の証言をしてくれたことに感謝するのです。イシュマエルは、自分の不可解な感情が無神論者であったためだと考えるのです。

ナンバープレートを通してのアメリカの州  その五十二 ルイジアナ州—-クレオール

ルイジアナ州の特徴ある文化のことです。クレオール(Creole)と呼ばれる人々と文化です。クレオールとは、フランス人・スペイン人とアフリカ先住民を先祖に持ち、ルイジアナ買収以前にルイジアナで生まれた人々とその子孫、また彼らと関わりのある事物のことです。文化人類学では、人種を問わず植民地で生まれた者をクレオールと呼んでいます。フランスやスペインからの移住者は祖国で受けた教育や財産のほかに、料理人達も連れてきたので、独特の食文化も発展したともいわれます。

 クレオールの原義は「育てられた人々」という意味だそうです。もとは16世紀に新大陸で生まれた純粋のスペイン人を指します。やがて他国出身者でも新大陸に定着した者を指すようになります。アフリカからの奴隷として連れてこられた黒人と区別するために、新大陸で生まれた黒人もクレオールと呼ばれました。

 アメリカでは、ルイジアナ地方に植民したフランス人やスペイン人、及びその血を純粋に受け継ぐ者もクレオールと呼ばれます。後に1755年のフレンチ・インディアン戦争(French-Indian War)でフランス領カナダのノバスコティア地方(Nova Scotia)を追われてきたケージャン(Cajun) と本来の植民者を区別する言葉として用いられました。しかし、クレオールという言葉はしばしば誤用され、フランス系やスペイン系と黒人との混血を意味するようになります。アメリカ人が大量に進出し、クレオールは次第に少数派となりますが、自己保存的な努力によって、文化的優越を守ろうと務めてきたといわれます。

Creole Family

 我が国でもクレオール文化は盛んに研究されています。その背景としてはヨーロッパを相対化する脱ヨーロッパ中心主義的な思想があるからだといわれます。多文化研究の潮流は今も続いています。例えばクレオールの民族音楽についてです。フランスやスペインによる植民地支配のルイジアナの農園から生まれます。その音楽の特徴は、アフリカ由来の切分法とよばれるシンコペーション(syncopation)のきいたリズム、スペイン語のハバネラ・アクセント(Habanera accent)、フランス由来の四角になって踊る歴史的なダンスのテンポにあります。

ナンバープレートを通してのアメリカの州  その五十一 ワシントン州–Evergreen State

ワシントン州(Washington)の最大都市はシアトル(Seattle)、州都はオリンピア(Olympia)です。このあたりは West Coast(西海岸)とも呼ばれています。日本人にはなじみのある州です。

 入り江と呼ばれるフィヨルド群(Fjord)からなるピュージェット湾(Puget)の東部には、シアトル、タコマ(Tacoma)、エヴェレット(Everett)などの大都市が連なります。プロ野球のマリナーズ(Mariners)の本拠地、マイクロソフト(Microsoft)の本社も近くにあります。航空機会社のボーイング(Boeing)の本社と工場があります。

ワシントン州のエンブレム

 州都オリンピアは兵庫県の田舎町、加東市とも姉妹都市です。誠に不釣り合いです(^^) シアトルから生まれたのがStarbacks珈琲ですね。これを始めて飲んだときは、そのコクと香りに驚いたものです。ワシントン州は製材、製紙業のほか、アルミニウム、食品加工が盛んでもあります。大豆、トウモロコシ、ジャガイモなどの栽培でも知られています。

 ワシントン州の歴史ですが、日本との関係が深いのをご存じですか。戦前、日本から沢山の移民がこの地にやってきたのです。戦前、戦後、日系アメリカ人は辛い生活を余儀なくさせられます。そのことを記した小説に「Snow Falling on Cedars–ヒマラヤ杉に降る雪」 というのがあります。舞台は戦前で、ワシントン州の島における日系アメリカ人に対する人種差別を題材としています。この小説は、1995年にウイリアム・フォークナー賞(Faulkner Awards)をもらいます。この賞はアメリカの主要な文学賞の一つで、毎年優れた小説作品に贈られます。フォークナー(William C. Faulkner)はアメリカを代表する小説家です。

 ワシントン州は雨が多いところです。松などの常緑樹が多いみごとな森林が発達しています。全米有数の林業の州です。ナンバープレートには「Evergreen State」とあります。Evergreenとは松の木のことで、別名クリスマスツリー(Christmas Tree)とも呼ばれます。

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ナーンバープレートを通してのアメリカの州 その五十 ルイジアナ州–Sportman’s Paradise

ルイジアナ州(Louisiana)の名は、フランス王ルイ14世(Louis XIV) にちなんでつけられています。1541年にスペイン人の探検家、デ・ソト(Hernando de Soto) がやってきます。1682年にはフランス人、ラ・サール(Sieur de La Salle) がルイジアナ一帯をフランス領と宣言します。さらに、1803年にアメリカがルイジアナをフランスから購入します。これによりミシシッピー川(Mississippi River)の航行権を確保し、将来における西部への拡大や発展を可能にします。

ルイジアナ州のエンブレム

 1803年にアメリカはフランスからニューオーリンズを含むルイジアナ領を購入します。1809年から1810年に欠けて、西インド諸島から10万人の人々がニューオーリンズへ渡ってきます。大多数は、フランス領であったハイチからで、フランス語を使う人々でした。そのうち3千人は奴隷から解放されて者だったようです。

 ルイジアナ州はミシシッピー川河口の三角洲を中心とする低平な州で湿地が多いところです。ルイジアナの州都はベイトンルージュ(Baton Rouge)、最大の都市はニューオーリンズ市(New Orleans)です。メキシコ湾に通じる重要な港湾都市で、工業都市・観光都市としても発展しています。

 「ビッグイージー(Big Easy)」という愛称で知られるのがニューオーリンズです。ジャズ、クレオール料理、南部なまり、多文化のルーツ、そして世界的に知られるのがマディ・グラ(Mardi Gras Festival)です。ニューオーリンズのフレンチ・クオーター(French Quarter)と呼ばれる地区には、今なおフランス植民地帝国時代の雰囲気を残していて、大勢の観光客を招いています。2005年8月にハリーケーン・カトリーナ(Hurricane Katrina)がフロリダ州の南部先端に上陸、ニューオーリンズ市は、フレンチ・クオーターなど陸上面積の8割が水没しました。今はすっかり復旧し賑わいを取り戻しています。

 ルイジアナは元々フランスの植民地でした。ルイジアナの南部に永住した人々はケイジャン(Cajun)と呼ばれました。もともとは祖先がカナダ南東部のノバスコシア(Nova Scotia)のアカディア地方(Acadia)に移住してきたフランス人の直系で、英国人によってノバスコシアから追放されルイジアナにやってきたのです。今も、一部の住民が話すフランス語はケイジャン・フレンチ(Cajun French)と呼ばれています。

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ナンバープレートを通してのアメリカの州 その四十九 ネバダ州–The Silver State

ネバダ州(Nevada)は、西にカリフォルニア州、北にオレゴン州、東にユタ州、南にニューメキシコ州に囲まれています。州都はカーソンシティ(Carson City)。最大の街はラスベガス(Las Vegas)となっています。

 ネバダという名前は、雪をかぶった山々という意味の「Sierra Nevada」から由来すると言われます。北部は砂漠地帯、南部や渓谷と山となっています。ラスベガスの北104キロのところに原爆実験場があります。戦後はしばしば新聞紙上でこの地での原爆実験の記事が写真入りで載りました。

Map of Nevata

 1776年、ネバダにスペインの探検家がやってきます。独立宣言が発表された年です。以来、この地はスペインの領土となり、その後スペインの植民地支配から独立したメキシコの領土になります。1846年にアメリカとメキシコの戦(Mexican War)が起こります。 その結果、メキシコは、ニューメキシコ,ユタ,ネバダ,アリゾナ,カリフォルニアの領土を1,500万ドルでアメリカに割譲します。

ネバダ州のエンブレム

 ネバダ州の一部のカウンティ(county) では、合衆国では唯一、売春が合法となっています。ラスベガスのカジノは多くの観光客を惹きつけています。これが大きな産業ともなっています。他の産業としては金や銀の採掘です。世界でも有数の金の算出となっています。

デスバレー国立公園(Death Valley National Park) の砂丘は公園の中で最も有名で、見やすい観光スポットです。デスバレーの中央に位置しています。この砂丘区は三種類の砂丘を含みます。新月形、線形、星形です。砂丘は古代の湖床で、海抜マイナス80メートルとなっていす。

ナンバープレートを通してのアメリカの州  その四十八 テネシー州–Volunteer State

テネシー州(Tennessee) は州境でケンタッキー州、ミズーリ州、ヴァージニア州など8つの州と接しています。最大の都市はメンフィス(Memphis)ですが、州都はナッシュビル(Nashville )となっています。「チュチュトレイン」(Choo Choo Train)のチャタヌガ(Chattanooga)もこの州にあります。アパラチア山脈(Appalachian Mountains)を中心とするグレート・スモーキー山脈国立公園(Great Smoky Mountains National Park) はハイカーが押し寄せるところです。産業では、タバコ、綿花、そして大豆などの農産物が有名です。

Map of Tennessee

 ニューディール期(New Deal)のTVA(テネシー川流域開発公社)によって、多数の巨大なダムが建設されます。テネシー州はもともと遅れた農業州で南部なまりと密造酒に代表されるヒルビリー(hillbilly)地域といわれていました。ヒルビリーとは泥臭さとか田舎者といった意味です。TVAのお陰で農業の近代化や工業化が進みます。

 テネシーはカントリー・ウエスタン(Country music)の発祥の地です。エルヴィス・プレスリー(Elvis Presley)もここの出身。彼が主に音楽活動を行ったのがメンフィスです。70代以上の方にはテネシー・ワルツ(Tennessee Waltz)が懐かしでしょう。ナッシュビルにも沢山の南部のライブを楽しめるところがあります。その響きはBluegrassと呼ばれるアコースティック音楽のジャンルです。演奏にはギター、マンドリン、フィドル(ヴァイオリン)、ギターなどの楽器が使われます。アパラチア南部に入植したスコッチ・アイリッシュ(Scotch Irish) といわれる北アイルランドやスコットランドから移住した人たちの伝承音楽をベースにしているようです。

テネシー州のエンブレム

 Bluegrassはアップテンポの曲が多く、楽器には速弾きなどの即興演奏(インプロヴァイズ)もあります。もちろん、ブルース感を表現する弾き方やハーモニーにも特徴があります。ナッシュビルへ行く機会がありましたら必ず本場のBluegrassを楽しむべきです。

 テネシー州のナンバープレートには「Volunteer State」とあります。1800代のBattle of New Orleansに人々が駆けつけて応援したことに由来しています。この戦いでイギリス軍を破り、ルイジアナやテネシーがイギリスの植民地支配から解放されていきます。

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ナンバープレートを通してのアメリカの州  その四十七 ペンシルベニア州–Amishとキルト

復習ですが、アーミッシュ(Amish)とはキリスト教徒の一派で、聖書の教えを忠実に実践しようとする人々のことです。政教分離を唱え、政治的な宣誓や戦争を拒否します。良心的兵役拒否という姿勢です。質素で簡素な生活を信条とする人々(plaine people)とも呼ばれています。

 今回はアーミッシュの人々によって作られるキルトの話題です。アーミッシュ・キルトは日本でも知られ人気の高い飾り物です。アーミッシュが、無地の布をパッチワークしつくるアーミッシュ・キルト(Amish Quilts)は、 鮮やかな色合いと幾何学模様から生まれるデザイン、細やかなステッチが特徴です。聖書の解釈に従って質素な生活規範を守り続けるグループが製作する深い味わいを感じさせてくれるのがアーミッシュキルトです。謙遜・控えめであることを重視している人々は、決まった色の無地の布を用いた衣服を着用し、この布のみを使用したキルトが、アーミッシュの生き方を表現するものとなっています。

 アーミッシュ・キルトは、布地を有効に利用し、余った布や端布をつないで作ったのが始まりと言われています。当時は布の利用に主眼がおかれたため、デザインなどのモチーフなどを込めた制作は行われなかったようです。生活のまわりにある植物の色、農場の土の色、そして空の青などを基調としているので地味ながら深く重厚な雰囲気を感じさせてくれるのがキルトです。

Amish quilts

 誕生する子どものために特別につくられる子ども用寝台、キルトも単色の布が用いられて配色やシンメトリー、モチーフに心を配り丹念に縫い合わされ、豊かなキルティングが施されるのも特徴です。キルトは、表地に薄い綿をかませ、重ねた状態で縫ったものです。三枚目の生地で綿を挟む場合も多い。綿の厚みで陰影の表情がうまれます。結婚を控える娘に持たせるために作られるベッドカバーなどはこうしたキルトの代表といわれます。

ナンバープレートを通してのアメリカの州  その四十六 ペンシルベニア州–Amishと子どもの教育

本稿はアーミッシュの子ども達の教育についてです。子どもはコミュニティの中にある一部屋の教室で8年間学びます。これはワンルーム・スクール・ハウス(One room school house)と呼ばれています。二部屋の教室もあります。学ぶのは聖書の読み書き、英語、ドイツ語、算数、歌唱などに限られています。教師は未婚の女性がなります。教員免許は持っていません。学びで大切なことは、両親らから教えられる農作業、家畜の世話などの実地体験です。子どもは大学に入ることはありません。高等教育は、アーミッシュの人々の考え方や生き方を乱す世俗のものであると考えるからです。

Amish School

 教育年限が8年間であることについて、ウィスコンシン州に住んでいたジョナス・ヨーダ(Jonas Yoder)ら3名のアーミッシュがマディソンの近くにあるニューグレラス(New Glarus)高等学校への子どもの就学を拒否してウィスコンシン州教育委員会を相手に裁判を起こした有名な事例があります。これはWisconsin v. Jonas Yoder裁判と呼ばれます。初審はグリーン・カウンティ(Green County)裁判所で開かれ、原告の敗訴となり5ドルの罰金が科せられます。二審の州最高裁では、一転してヨーダー側の勝訴となります。それを不服としてウィスコンシン州教育委員会は、連邦最高裁判所に上告します。保護者には子どもに高等教育を受けさせる義務があるという主張です。

 それに対して、ヨーダら保護者が、高等学校における就学義務について「アーミッシュの子ども達を信仰に反する態度・目的や価値といった点で世俗の影響にさらし、アーミッシュの子どもの宗教的発達と、アーミッシュの信仰による共同体での生き方の統合を、発達の決定的段階である青年期に本質的に阻害され、親および子どもの両方にとって高等学校教育がアーミッシュの基本的な教義と慣習に反する」と訴えたのです。アメリカでは、小学校が5年、中学校が3年、高校が4年の12年間が義務教育で無償となっています。ただし、アーミッシュは、子ども達の読み書きや算術などの基本的な技術を学ぶために公立学校に通うことに反対したのでありませんでした。

 アーミッシュ共同体外での高等学校段階での就学義務によって、子ども達を「人間の成長にとって極めて重要な意味をもつ青年期に、物理的、情緒的にからアーミッシュの共同体から連れ去ってしまう」という理由です。ウィスコンシン州はアーミッシュによる義務教育法の適用免除要求を拒否しますが、連邦最高裁判所は、1972年5月15日に州がアーミッシュの家族と子どもの宗教的権利を侵害したと判決を下します。最高裁のバーガー(Warren Burger)首席判事は、法廷意見においてアーミッシュはその共同体における生活のために、十分に適切な教育を子ども達に与えていると主張します。さらに、学校では人間に必要なものの半分しか得ることができない、アーミッシュは学校教育に全て委ねるのではなく、家庭や農場での実践を通して、良き市民を育ててきた長い実績があることを評価されたのです。この判事は共同体では低い犯罪率や社会保障給付の辞退を論拠として、アーミッシュは稀なほど子どもの教育に成功しているとも述べるのです。

 この最高裁判決において、少数の反対意見をダグラスという判事(William Douglas)が述べています。憲法の修正第1条の言論や表現、結社、宗教の自由、さらに修正第14条にある市民の広範な権利は保障されるべきであること、しかし、コミュニティにおける8年の教育で十分であるという主張は、果たして子どもの幸福を保障するものかは疑問であるとします。保護者の訴えは子どもの訴えではないという主張です。子どもの意見を聞くべきであるというのです。

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ナンバープレートを通してのアメリカの州  その四十五 ペンシルベニア州–Amishとバギー

アーミッシュの移動手段は、歩くことかバギー(buggy)と呼ばれる軽馬車を使うことです。馬車は黒か黄色に塗られて、買い物、荷物運び、礼拝などの集まりなどに使われます。自動車といった発明品は使わないという主義です。近代的な農機具を制限することで、土地所有の欲望を抑え、次世代のための労働の場を確保しています。結果として良い土壌と品質の高い作物を収穫しています。

 アーミッシュの人々にも近代化や科学技術の影響が伝わっています。彼らの伝統的な生業といえば、農業や酪農が中心でしたが、現在はスキルを獲得し、工場やレストランなどを経営したり、製造業や商業施設で働く人々が多いことです。重油を使って農耕機械を動かし、木工作業を行い、ガスを使ってビニールハウスを暖めたりしています。電気を購入することはしないようです。

 アーミッシュ女性の手作りによるキルト(quilts)は有名で多くの観光客に喜ばれる品です。自分たちの衣服などに使う無地の布地、空の青、聞きの植物の緑、大地の茶や黒といった傾向の色を好んだことで、全体に深みを感じさせるパタンが伝統的です。キルトを販売し収入を得ることもアーミッシュ生活の変化を示すようです。女性にとって洗濯は重労働です。乾燥機は用いず、旧式な洗濯機をジーゼルエンジンやガスで動かします。アーミッシュのグループによっては手動の装置しか使いません。脱水はローラーに挟んで絞るのです。

ナンバープレートを通してのアメリカの州  その四十四 ペンシルベニア州–Amishの文化と生活

アーミッシュには、(Ordnung)という戒律のような信仰告白があり、生き方の指針として次の教えを大切にしています。それは洗礼、人類愛、絶対平和、近代文明への非協調、聖書に従順といったことです。謙虚さ、家族、共同体、世俗社会からの独立などを大切にし、原則として人生の快楽を求めることは禁止されています。こうした教義からアーミッシュが、質素でつつましい人々(plain and simple people)と呼ばれる所以です。聖書の講釈においては厳格主義を貫きます。自由な解釈を許さないという立場です。ここで私どもが誤解していけないことは、アーミッシュはカルト集団とか禁欲的な集団ではないということです。良き農業者となることを喜びとする穏やかな人々です。

 教会生活のことです。教会堂という建物を持たず、隔週の日曜日に持ち回りでそれぞれの家庭で礼拝が執り行われます。大きな会衆が集まるときは、納屋を使うこともあります。このことからハウス・アーミッシュとも呼ばれます。歌われる聖歌は、16世紀のヨーロッパで迫害を受けていた再洗礼派によって作られたものです。無伴奏でユニゾン(単声)で歌います。礼拝を主宰する家では、いろいろな準備をし、礼拝後の昼食を振る舞います。その仕事は女性が受け持ちます。

 アーミッシュ生活や文化の特徴は、服装などに表れます。質素な生地を使い自分たちで裁縫した服を着ます。男性や少年は、つばの広い黒い帽子をかぶり、吊り紐のついた黒いズボン、黒い靴下と黒い靴をはきます。女性や少女は、ボネット(bonnets)と呼ばれる白い帽子をかぶり、長いドレスと袖なしのマント(capes)、黒い靴下に黒い靴をはきます。ボタンは使わずフックを用いた自家製の服です。男性は、結婚すると顎髭を伸ばします。口髭は禁止されません。女性は髪を刈らずに後頭部で束ね、イアリングなどの飾りを身につけることは許されません。アーミッシュは、結婚すると生涯添い遂げます。離婚という概念がありません。

 隣人が総出で手伝う納屋の棟上げ(barn raising)がアーミッシュの伝統です。近隣から大勢のアーミッシュが集まって、納屋や家を建てるのです。女性達は、手伝う男達の食事づくりに専念します。アーミッシュの人々は写真を撮られるのを避けます。人々の姿は後姿か横顔が分かる位の写りとなっています。家の中でも家族や祖先の写真を飾ることはしません。

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