アメリカ合衆国建国の歴史 その8 マサチューセッツの独立や分離主義の萌芽

マサチューセッツ湾植民地のクエーカー(Quaker)は、清教徒と同じように主に宗教的拘束から解放されたいとしてアメリカへ航海をしました。ジョージ・フォックス(George Fox)はクエーカー指導者の一人です。クエーカーは、清教徒と異なりイギリス国教会から自分たちが分離することを望んでいました。彼らは模範を示すことによって、教会を改革することを望んでいました。それにもかかわらず、マサチューセッツ湾植民地の指導者たちが何度も直面している問題の1つは、イギリス国教会の汚職疑惑であり、自分たちは国教会から独立したいという独立や分離主義の思想を支持する傾向にありました。

George Fox

このような正統的な清教徒の教義からの逸脱を示唆する思想が広まるにつれて、分離の考えを支持する人々はすぐに改宗を求められるか、コロニーから追放されました。マサチューセッツ湾企業の指導者たちは、彼らの植民地が新世界における寛容の前哨基地になることを決して意図していませんでした。むしろ、彼らは植民地を「荒野のシオン」(Zion in the wilderness)という純粋さと正統性のモデルとしようと考え、すべての背教者(backsliders)が即座に改宗されるべきと主張していました。

植民地の市民による行政は、こうした権威主義的な精神によって統治されていきました。マサチューセッツ湾の初代総督であるジョン・ウィンスロップ(John Winthrop)らは、総督の義務は、彼らの構成員の直接の代表として行動するのではなく、どのような措置が最善の利益になるかを独自に決定することであると信じていました。1629年の当初の憲章は、植民地のすべての権力を会社の少数の株主のみで構成される一般裁判所に与えました。ヨーロッパからの人々がマサチューセッツに入植すると、入植者は多くの権利が剥奪されることを知りこの規定に抗議し、参政権(franchise) を拡大してすべての信徒を含むように主張します。これらの「自由人」は、知事と評議会のために、年に一度、一般裁判所で投票する権利を与えられました。 1629年の憲章は技術的には植民地に影響を与えるすべての問題を決定する権限を一般裁判所に与えましたが、支配階級であるエリートの会員は当初、入植者の数が多いという理由で、一般裁判所の自由人が立法過程に参加することを拒否しました。数によっては裁判所の決定を非効率的にするからだと考えたのです。

John Winthrop, the First Governor of Massachusetts

1634年、一般裁判所は新しい代表者の選出方法を採択します。これによりそれぞれの植民地の自由な人々から代表者が選出されますが。こうして立法に責任を持つ人々が、一般裁判所の2人または3人の代表者と代理人を選ぶことができるようになります。より小さくより権威のある小グループとより大きな代理人のグループの間には常に緊張が生まれました。1644年、この継続的な緊張を反映し、2つのグループは公式に一般裁判所の別々の部屋で討議し、互いに拒否権を持つようになりました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その7 マサチューセッツの清教徒

当時、人々が定めた憲章はありませんでした。マサチューセッツ州(Massachusetts)のプリマス・プランテーション(Plimoth Plantation)の創設者らは、ヴァジニア州の創設者と同様に、入植地に資金を提供して利益を追求する支援者からの民間投資に依存していました。プリマスの集落の中核は、オランダのライデン(Leiden)にあるイギリスの入植者が住んでいた飛び地からやってきました。これらのイギリス国教会からの分離を主張する人々は、真の教会は牧師の指導の下での自発的な社会であり、教会の教義の解釈は、個人の考えにあると信じていました。マサチューセッツ湾の入植者とは異なり、こうした清教徒(Puritans)はイギリス国教会を内部から改革するのではなく、国教会から独立することを選択していきます。

Plymouth Plantation

プリマスに入植の最初の年1620年に、清教徒であった入植者のほぼ半数が病気で亡くなりました。しかし、それ以来、イギリスの投資家からの支援が減少したにもかかわらず、入植者の健康と経済的地位は改善していきます。清教徒たちはすぐに周囲のほとんどの先住民族と講和し、入植地を襲撃から守る費用と時間から解放され、強力で安定した経済基盤の構築に時間を費やすことができました。彼らの主要な経済活動である農業、漁業、貿易はどれも彼らに贅沢な生活を約束するものではありませんでしたが、マサチューセッツの清教徒はわずか5年後に自給自足していきます。

清教徒はプリマスでは常に少数派でしたが、それでも、入植の最初の40年間は入植地を統治していました。 1620年にメイフラワー号二世号 (Mayflower II)を下船する前に、ウィリアム・ブラッドフォード(William Bradford)が率いる清教徒の一行は、乗船したすべての成人男性に、ブラッドフォードらによって起草された誓約に服従することの署名を要求しました。このメイフラワーコンパクト(Mayflower Compact)と呼ばれる誓約は、後にアメリカの民主主義を推進する重要な文書として評価されますが、誓約は双方向的な取り決めではなく、清教徒は服従を約束しますが、彼らに希望を約束すものではありませんでした。

Plimoth-Plantation and People

やがてほぼすべての男性住民が州議会の議員と知事に投票することを認められますが、入植地は、少なくとも最初の40年間、少数の男性による統治化にありました。 1660年以降、プリマスの人々は教徒と市民の両方の立場で、徐々に意識を高め、1691年までにプリマス入植地がマサチューセッツ湾(Massachusetts Bay) に併合されたとき、プリマスの入植者は粛々と規律正しく振る舞いました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その6 メリーランドにおけるコロニー

ヴァジニア州の北部に隣接するメリーランド州(Maryland) は、会社組織ではなく1人の所有者によって支配された最初のイギリスの植民地でした。ボルティモア卿(Lord Baltimore)と呼ばれたジョージ・カルバート(George Calvert)は、1632年に王室から土地の付与を受ける前に、多くの植民地化計画に投資していました。カルバートには、土地の付与に伴うかなりの権限が与えられました。彼はイギリスの法律から逸脱しない範囲で、植民地の貿易と政治システムを支配していました。カルバートの息子セシリウス・カルバート(Cecilius Calvert)は父親の死でプロジェクトを引き継ぎ、ポトマック川(Potomac)のセントメアリーズ(St. Mary’s)での定住を推進しました。メリーランドの入植者は、ヴァジニアの一部を与えられ、最初から控えめな方法で定住を維持することができました。しかし、ヴァジニア州と同様に、メリーランド州の17世紀初頭の入植地(コロニー) は不安定で、洗練されていませんでした。入植地は圧倒的に若い独身男性で構成されており、その多くは年季奉公であり、荒れ地での生活の厳しさを和らげる強い家族の形成ができず、不安な状態でした。

State of Maryland

コロニーでは、少なくとも2つの目的を果たすことでした。第一はローマ・カトリック教徒(Roman Catholic)であるボルチモアは、カトリック教徒が平和に暮らせる植民地を見つけたいと渇望していました。第二は植民地が彼に可能な限り大きな利益をもたらすことも熱望していたことです。当初から、プロテスタントはカトリック教徒を上回っていましたが、少数の著名なカトリック教徒は植民地の土地の過度のシェア持つ傾向がありました。土地政策に執着していましたが、ボルチモアはおおむね善良で公正な管理者でした。

Annapolis

しかし、ウィリアム3世(William III)とメアリー2世 (Mary II)がイギリス王位に就いた後、カルバート家の植民地の支配権は奪われ、王室に委ねられました。その後まもなく、王室はイギリス国教会が植民地の宗教になると布告します。 1715年にはカルバート家がカトリックから改宗し、イギリス国教会を受け入れた後、植民地は政府固有の統治下になります。

アメリカ合衆国建国の歴史 その5 ヴァジニアにおけるタバコ栽培

ジェイムズタウンにおける企業連合に属するヴァジニア会社の経営者は、もともと富裕な貿易商人や武器商人であり、さらに新しい投資先を探すのに熱心でした。1607年の設立認可によるヴァジニア・コロニー(Virginia Colony) における最初に2年間は、経営が困難な状態でした。それというのは入植者の協力が得られにくかったことと慢性的な資本の投資や供給不足が原因でした。

1607年の設立認可は、ヴァジニア会社の投資者を増やしていきます。取締役の努力によって短期的な投資が増えることになります。しかし、大抵の入植者は、その土地の先住民族が自分たちの生活を保障してくれるものと期待しました。先住民族はそれを頑なに拒否したために、会社経営はなんらの利益を生むことなく投資家も衰退していきます。

Colony in Virginia

イギリス国王は1612年に新たな認可状を発布し、ヴァジニア会社が投資を促すための宝くじの発行を認めます。破産しかかった会社を救うためです。同年、ジョン・ロルフ(John Rolfe)は始めて高い品質の穀物栽培にとりかかり、それがタバコの生産につながっていきます。トマス・デール卿(Sir Thomas Dale)がやってきて、1611年に初代の総督となります。ヴァジニアは次第に統制がとれて、地域が安定していきます。当然、高い代償を払ってのことでした。デールは「権威、道徳、規律」(Laws Divine, Morall, and Martial)という法を定め、入植者の生活に規律を求めます。ヴァジニアの住民は子どもも女性も軍の階級が与えられ、それにそった義務を果たさなければならないというものです。こうしたルールに反した者には重い罰則が科せられました。首とかかとを縛られること、むち打ち、そして犯罪人を乗せる船での労役でした。入植者はこうした法律に逆らうことは会社への中傷とみなされ、そうした行為は死を宣告されるようなものでした。

デールの布告は、ヴァジニアにおける植民地政策に規律をもたらしますが、新しい入植者を増やすことには役立ちませんでした。ヴァジニアに自費でやってくる入植者を惹き付けるために会社は20ヘクタールの入植地を与えるとします。自費で来れない者には7年後には20ヘクタールの土地を与えることとします。同時に、ヴァジニアの新しい総督となったジョージ・ヤードリー卿(Sir George Yeardley)は、1619年に代表者を選ぶ選挙を施行すると発表し、その議会組織は、ほとんどヴァジニア会社の取締役会に似たようなものでしたが、後にその組織は権限を拡張し、植民地の自治のための原動力になっていきます。

タバコ畑

こうした改革の導入にもかかわらず、1619年から1624年は、ヴァジニア会社の未来に致命的な年となります。伝染病、先住民族との絶え間ない戦闘、および内部の論争により、植民地で重い試練が襲います。1624年に、王室は結局、ヴァジニア会社による許認可権を撤回し、植民地を王室のコントロールの下のおきます。この政策は長期的には重要な結果をもたらすのですが、王室のヴァジニアへの介入は、植民地に急速な変容をもたらすことはありませんでした。植民地の経済と政治はそれまでどおり続きはします。1624年の王室の権限の将来が不確かではありましたが、議会は、依然として機能はしていました。1629年までに議会は公式に承認されます。王室は、タバコの生産と輸出を続けるヴァジニア移住者の決定にいやいやながら黙認します。1630年までに、ヴァジニア植民地は大きく発展はしませんでしたが、王室の援助を受けることなく存続することができるようになります。

アメリカ合衆国建国の歴史 その4 植民地化の争い-イギリス

イギリスもスペインやポルトガルの植民地の成功に続こうと新大陸における植民地化を試みます。1497年にイギリスは、ジョン・キャボット(John Cabot)がノヴァ・スコシア(Nova Scotia)へ航海したことを理由に、アメリカ大陸に机上の国有化を宣言するのです。しかし、それを裏付けるような方策や野望はありませんでした。イギリスは新大陸における国土の拡大ではなく、商業や貿易上の展開に関心がありました。1554年にマスコビー社(Muscovy Company)を設立すると、イギリスの航海者、マーチン・フロビシャー(Martin Frobisher)は1576年から三度にわたり北アメリカ大陸の北方を通って極東への航路(Northwest Passage) の発見を試みます。

1577年にはフランシス・ドレーク卿(Sir Francis Drake)は、世界一周の航海に出ます。そして南アメリカの西海岸をまわります。一年後イギリス帝国の愛国者であったハンフリー・ギルバート卿(Sir Humphrey Gilbert)はアメリカ大陸の植民地化を目指して活躍します。ギルバートの努力は、限られた成功に終わり1583年には5隻の船と260名の乗組員ともに北大西洋で遭難します。ギルバートの航海の失敗に続き、新しい航海者が現れます。ウオルター・ラレイ卿(Sir Walter Raleigh)は南アメリカ航路ではなく北アメリカ航路を開拓し新大陸にやってきます。

Sir Francis Drake

ラレイは今のヴァジニア(Virginia) 沿岸を植民地化する基礎を築き、ロアノーク島(Roanoke Island) を最初の移住地とします。しかし、このコロニー(植民集落)は1587年に原因不明で廃棄されてしまいます。しかし、アメリカ大陸を植民地化しようとする試みは続きます。ロアノーク島でのコロニーに続き、1607年にはジェイムズタウン(Jamestown)にコロニーをつくるやいなや、イギリスの扇動家らは、アメリカ大陸が開拓によって容易に富の増大をもたらすと国民に宣伝していきます。イギリスの地理学者であるリチャード・ハクルート(Richard Hakluyt)さえもらが、スペインの植民地政策は限定されており、イギリスのアメリカ大陸での植民地は短期間のうちに商業的な反映をもたらすはずだと主張します。

Jamestown Colony

イギリスは他にも植民地化を進めようとする理由がありました。それはアメリカ大陸から東アジアへのルートが開けるのではないかという予測でした。イギリスの帝国主義者等は新大陸においてスペインの拡大を阻止する必要があると考えます。アメリカを植民地とするのは適当であると考え、イギリス人は宗教的な迫害から人々を解放しようと考えていきます。

イギリスの中産階級や下層階級の人々は、新大陸は無償、あるいは低価格で土地を獲得し、商業活動を容易に行えるとも考えていきます。宗教からの解放や自由な商業活動という開拓への動機は、確かに歴史学者の関心を集めるのですが、植民地化政策が始まるとともに、なぜかこうした動機は高まることはありませんでした。

アメリカ合衆国建国の歴史 その3 植民地化の争い-ポルトガルやフランス

アメリカ大陸におけるイギリスの植民地化政策は、ヨーロッパ人による開拓の序章に過ぎません。1418年にポルトガル人 (Portuguese) が、北アフリカのモロッコ(Morocco)西方、大西洋上にあるポルトサント島 (Porto Santo) へ航海し、それが開拓政策の始まりといわれます。1487年にはポルトガル人は、アフリカの西海岸沿いに位置するモーリタニア(Mauritania)のアルギン(Arguin)、シエラレオ(Sierra Leone)、エルミナ(El Mina)などに交易の拠点をおきます。1497年にはヴァスコダ・ガマ(Vasco da Gama)がアフリカ南端の喜望峰(Cape of Good Hope)を通り、アフリカの東海岸に到達します。その後、ポルトガルはインドにおける商業圏を築くことになります。1500年には、ペドロ・カブラル(Pedro Alvares Cabral )は、ブラジル(Brazil) を経由してインド洋に達します。ポルトガル人はこうして新大陸へも進出していきます。

Vasco da Gama

航海や探検におけるポルトガル人の活躍に続いて、コロンブスのアメリカ大陸への航海後、スペイン人も急速に航海を始めていきます。カリブ海(Caribbean Sea)をはじめ、新スペイン(New Spain)やペルー(Peru)などを征服し、ヨーロッパ諸国の新大陸への関心や羨望を大いに高めます。

フランスは、ヨーロッパにおける戦いでは自国の領土を保全していきますが、スペインやポルトガルのように海外への進出は遅れをとっていました。16世紀初頭になると、フランスの船乗りはニューファンドランド(Newfoundland)に拠点をつくります。1534年にはジャック・カルティエ(Jacques Cartier)は、セントローレンス湾(Gulf of St. Lawrence)の探検に乗り出します。1543年までに、フランスは新大陸での植民地化を断念していきます。16世紀の後半になると、フランスはフロリダ(Florida)やブラジルに植民地をつくろうと試みます。しかし、いずれも失敗に終わり16世紀はスペインとポルトガルの二カ国が新大陸における植民地づくりに傾注します。

アメリカ合衆国建国の歴史 その2 先住民族の生活と文化

先住民族の生活様式は各地域における食糧資源によって決定されます。各地域の物質文化も食料、その他の資源に応じて違いがありました。魚や海の哺乳類は、大陸の沿岸に住む人々の食料となり、どんぐりなどはカリフォルニア先住民族の定番の食料となりました。アメリカバイソン(bison)やバッファロー(buffalo)等、平原に住む動物はそこに定住する先住民族の食料となりました。狩猟や釣りは中西部や東部の先住民族の暮らしの支えとなり、南西部の先住民族は、主としてトウモロコシを食料とし魚や動物は代用食となりました。こうした食料の調達により、釣りや狩猟、植え付けと果実の採取にょって、食料獲得の技術を促していきます。

Adobe

食糧や資源はそれぞれの地域の資源という文化に依存します。先住民族は人力や犬ぞり、筏、小舟、カヌーなどで物を運びました。16世紀初頭にスペイン人がもたらした馬は、先住民族もすぐに取り入れ、大平原におけるバッファローの捕獲に活躍します。

Tepees

先住民族の諸文化は家の形によっても識別されます。たとえは、エスキモー(Eskimos)はドーム型の氷の家(igloos) 、大平原やプレーリー(prairie)の先住民族は土や毛皮で造った小屋やテント(tepees)、一部の南西部の先住民族ープエブロ(Pueblo) は平屋根の多層式の家屋(Adobe)、更には衣類、工芸、武器、さらに種族の経済的、社会的、宗教的な習慣も各部族によって異なっていきます。

Eskimos

アメリカ合衆国建国の歴史 その1 クリストファー・コロンブスと先住民族

これから20数回にわたり、アメリカ合衆国{米国)の歴史を民族、文化、宗教、芸術、政治というように多面的な角度から復習することとします。参考にした文献はEncyclopædia Britannicaです。

アメリカ大陸(北米大陸)はクリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)の航海以前に何度かにわたって発見されていたようです。コロンブスが上陸した時、彼は「新大陸 (New World)を発見した」と思ったかもしれません、アジア系のモンゴロイド(Mongoloid)から派生してきた人種が住んでいたといわれます。こうした人々は2万年から3万5千年前に定住し、その後アジア大陸からベーリング海峡(Bering Strait)を通ってアメリカ大陸に移住してきます。ヨーロッパ人が最初に到達する以前にこうした先住民族は一般にインディアン(Indians)と呼ばれ、大陸の様々な地に定住していました。

Christopher Columbus

コロンブス以前からアメリカ大陸に先住民族が定住していたことは動かぬ事実ですから、世界史の上で始めてこの大陸を発見した人物はコロンブスでないことは言うまでもありません。 先住民族らから、「アメリカ大陸の発見はヨーロッパ中心主義に基づいた的外れの見方である」と批判されてきたのも理解できます。

Native Americans

コロンブスがやって来る前には、現在のアメリカ大陸に1,500万人の先住民族がいたといわれます。先住民族が米国の歴史において、どのような役割や影響を及ぼしたかは興味ある話題です。先住民族は多様な部族から成り、その文化や生活においてさまざまな違いがあります。新大陸にやってきたヨーロッパ人がもたらした文明は、やがて先住民族の暮らしや文化によって影響を受けていきます。彼らの食事や香料、物作り、作物作り、戦いの技法、言語、民謡、など民族の独特な文化の注入が、ヨーロッパからの征服者にいろいろな影響を与えていきます。長く続いた白人による西部開拓は、先住民族の激しい抵抗を誘発し、後に合衆国における最も悲劇的な歴史を記すことになります。

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ウクライナの歴史から学ぶ その十六 ロシアによるウクライナ侵略

Wheat Field in Ukraine

本稿は、「ウクライナの歴史から学ぶ」の最後の話題です。マイダン革命に対して、ロシアは猛反発し、ウクライナ領のクリミア半島のロシアによる併合と親ロ派武装勢力によるドンバス(Donbass)地方での不安と緊張が高まります。これがクリミア戦争の下敷きとなります。ドンバスは、ウクライナの東南部に位置する地方で石炭の産地です。2014年5月にポロシェンコ(Petro Poroshenko)が大統領に選ばれます。彼は人民の反乱を集結するために武力の行使を正当化します。ポロシェンコはEUへの加盟を模索しながら、国民の50%以上の賛成を獲得します。彼は東ウクライナでの市民の内戦を鎮めようとし、ロシア連邦との修復も計ろうとします。

Sunflowers in Ukraine

ウクライナにおけるオレンジ革命やマイダン運動の余波で、2014年3月初旬からロシアを後ろ盾とする反政府の分離主義グループが、ウクライナのドネツィク州(Donetsk)とルハーンシク州(Luhansk)(ドンバス)で抗議行動を起こします。これらのデモ活動はロシアによるクリミアの併合を受けてのもので、ウクライナ南部と東部におよぶ広域な親露派の同時抗議の一環でありました。これが激化してドネツィク人民共和国(Donetsk People’s Republic)とルハンシク人民共和国(People’s Republic of Lugansk)を自称する分離主義勢力とウクライナ政府側との武力衝突に発展します。これがドンバス戦争(War in Donbass)です。当初の抗議行動は、主にウクライナ新政府に対する国内不満を表明するものでしたが、ロシアが親露派を利用してウクライナに対する組織的な政治活動および軍事行動を開始した事案とされています。

キーウからの避難民

2019年に実施された大統領選挙では、ヨーロッパとの統合路線を訴える一方でロシアとの対話も重視する姿勢も示したウォロディミル・ゼレンスキー(Volodymyr Zelenskyy)が73%の得票率で対露強硬派として知られた現職大統領のポロシェンコを破り当選します。その後、停戦協定が結ばれては協定違反の武力衝突が繰り返されます。2021年秋にはロシアがウクライナ国境への軍の集結を開始し、ドネツィク人民共和国とルハンシク人民共和国を国家承認したうえで、2022年2月24日にロシアがウクライナへの侵略を開始し現在に至っています。

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ウクライナの歴史から学ぶ その十五 オレンジ革命とマイダン革命

ウクライナ語の地位向上,特に教育現場におけるウクライナ語使用の拡大,ウクライナ語の公用語化,ウクライナ語出版物の増大などの要求が生まれ、さらに歴史の見直し作業も進みます。1989年に入って,2つの民間団体が形成されます。「シェフチェンコ名称母語協会」と「ナロードニイ・ルーフ」です。後者は「」ペレストロイカを支持するウクライナ民衆運動」の略語でルーフとは「民衆運動」の意味です。ここに結集した反体制派や体制内改革派の活動をベースに、モスクワでの保守派による1991年8月クーデタ(Coup detat)の失敗直後,ウクライナは8月24日独立を宣言します。同年12月1日の国民投票で9割以上の賛成により独立宣言は承認され,同月初代大統領にクラフチューク(Leonid Kravchuk)が就任します。同年末のロシアを中心とする独立国家共同体(CIS)の発足に参加します。

Maidan Revolution

1994年の大統領選挙ではクラフチュークは、CIS諸国との経済的統合を推進しますが、軍事的、政治的統合はしないと表明したクチマ(Leonid Kuchma)が大統領に当選します。クチマ大統領は、「戦略的な国家目標は、EU加盟によるヨーロッパとの統合にあり、ロシアとの経済的な協力は経済発展寄与のためである」と発表します。2013年にヤヌコビッチ(Viktor Yanukovych)大統領がロシアとの経済協力を目指すために、ウクライナヨーロッパ連合の結成を延期すると首都キーウなどで大規模な大衆のデモが起こります。

Ukraine woman with flag

2004年11月に、ロシアとの関係を重要視する与党代表で首相のヴィクトル・ヤヌコビッチ(Viktor Yanukovych) と、ヨーロッパへの帰属を唱える野党代表で前首相のヴィクトル・ユシチェンコ(Viktor Juscenko)との激しい選挙運動が行われます。ヤヌコビッチが当選すると、その選挙で不正があったとして抗議運動が起こります。野党支持者がシンボルカラーとして、リボンや旗、マフラーなどオレンジ色の物を使用したことからオレンジ革命(Orange Revolution)と呼ばれています。2014年に、首都キーウでヤヌコヴィチ大統領側のウクライナ政府側と欧州連合(EU)と良好関係を築こうとした民衆との暴力的衝突が起こります。ヤヌコヴィチ大統領が失脚し、隣国ロシアへ亡命することになります。この暴力的騒乱がマイダン革命(Maidan Revolution)とか尊厳の革命(Revolution of Dignity)と呼ばれます。マイダンとはウクライナ語で「広場」という意味です。

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ウクライナの歴史から学ぶ その十四 ウクライナ人と白系ロシア人

既に述べてきた「緑のウクライナ」の建設のために、極東には大勢のウクライナ人が入植しました。旧ロシア帝国からの亡命者を大雑把に総称して「白系ロシア人」(White Russians) と称していましたが、諸民族の出身者も多くいました。特に、ソ連による弾圧のひどかったウクライナ人やポーランド人、アシュケナジム(Ashkenazi)と呼ばれたユダヤ人は旧満州や樺太に亡命してきます。もちろん、旧ロシア帝国国民も多くいました。ウクライナ人やポーランド人は、日本では通用しにくいウクライナ語やポーランド語を用いる代わりに、より通じやすいロシア語を用いたのです。そのために日本では「白系ロシア人」はロシア人であると誤解されます。

白系ロシア人

「白系ロシア人」の多くはウクライナ人であったことを忘れるべきではありません。日本に亡命してきたウクライナ人のことです。洋菓子メーカー・モロゾフの創業者フョードル・モロゾフ(Fedor Morozoff)、大横綱大鵬の父、マルキャン・ボリシコ(Markiahn Vorisiko)も革命後、日本に亡命し樺太で酪農などを営んだウクライナ人です。プロ野球で大投手として活躍したヴィクトル・スタルヒン(Victor Starffin)なども著名な白系ロシア人です。

Victor Starffin

1986年4月26日にキーウの北西、ベラルーシ国境近くにあるチョルノービリ(Chernobyl)原子力発電所で事故が起こります。放射性物質による汚染はウクライナだけでなく、隣のベラルーシ共和国、ロシア共和国領内にも拡大します。被曝の影響による全世界の癌死者数は2万人から6万人ともいわれています。1986年以来,ペレストロイカ(Perestroika)の下で,ウクライナでは知識人・作家を中心に民族運動が活発になります。それまで起こってきた民族運動に続いて「第3のウクライナ化」と呼ばれます。少し振り返りますが、「第1のウクライナ化」運動は1800年代、「第2のウクライナ化」運動は1960年に起こりました。

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ウクライナの歴史から学ぶ その十三 コルホーズとウクライナ

ホロドモール–大飢饉

1932年から1933年にかけてウクライナ人が住んでいた各地域で人為的なホロドモール(Holodomor)と呼ばれ大飢饉が起きます。ウクライナで収穫される小麦は貴重な外貨獲得の手段でした。重工業化を進めるスターリンは、ウクイナのコルホーズ(集団農業) (Kolkhoz)に過剰な穀物徴収を課します。その結果、現地の農民が食べるものは残らず、約400万人もの人々が死亡したといわれる大飢饉です。自営農家(クラーク:Kulak)と認定されたウクライナ農民たちはソ連政府によるコルホーズ化により家畜や農地を奪われます。クラークとは、「共産主義に反対して個人で富を蓄える農民」とわれました。それでも農民は各地で根強く抵抗しますが抗し切れず、最終的に自営農地や家畜などの資産はコルホーズに接収されます。2006年に当時のウクライナ大統領ユシチェンコ(Viktor Yushchenko)によって「ホロドモールはジェノサイド(大量虐殺)であった」とし、ホロドモールを否定した者を刑事罰に処するとします。

ホロドモール飢饉

1941年6月の独ソ戦の勃発にスターリン体制からの解放という希望がウクライナに生まれます。ウクライナ民族主義者組織(OUN)はドイツ軍の占領下でウクライナ独立を宣言しますが、ドイツ軍はそれを認めず、ウクライナを植民地とし、ウクライナ人を劣等人種として数十万人のウクライナ人を東方労働者として強制的にドイツに送ります。さらにウクライナ・パルチザン蜂起軍 (UPA)を組織し、ドイツ軍とゲリラ戦を展開します。

ドイツ軍の撤退のあと、蜂起軍は反ソ独立を掲げてソビエト軍と戦争を継続しますが、1950年半ばまでに鎮圧されます。第二次大戦で、ウクライナでは少なくとも民間人390万人を含めて550万人の死者がでて、そのうち90万人はユダヤ人といわれます。第二次大戦によってガリツィアはウクライナに併合されます。その直後から農業の集団化が強行されます。その地で優勢であったウクライナ・カトリック教会は非合法化され、ガリツィアから約50万人の人々がシベリヤに流刑となります。戦後、ウクライナ共和国は白ロシア共和国とともに国際連合(UN)に加盟します。これは、1945年のヤルタ会談(Yalta Conference)によるものでした。ヤルタ会談とは、クリミア半島の保養地ヤルタで戦後処理の基本方針について協議した会談です。

1954年には、ウクライナ・コサックのポーランドからの独立戦争勝利を祝い,クリミア半島はロシア共和国からウクライナに移譲されます。そして1956年以降、多くの粛清されたウクライナ人の名誉回復が行われます。1960年代になると若い世代の作家や詩人らによってウクライナ化を求める声が上がります。1963年から共産党第一書記シェレスト(Petro Shelest)は、これを支持しますが後に民族主義者として批判され失脚します。

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ウクライナの歴史から学ぶ その十二 レーニンのウクライナ政策

1919年12月、レーニンはウクライナの労働者や農民に公開状を送り、ロシア、ウクライナ両人民の平等性を承認するとともに、両者の同盟条約を提案します。この同盟はロシアへの併合に他なりませんでした。1922年12月の第一回ソ連邦ソビエト大会で、ソビエト社会主義共和国であるロシア、白ロシア(今のベラルーシ)、ウクライナ、ザカフカースの間の連邦結成案が可決され、1923年に憲法を発表し、ここにソビエト連邦を構成することになります。これによりウクライナ・ソビエト社会主義共和国が誕生します。この頃、戦時の共産主義から転換し市場経済などを容認し生産力向上を目指したネップ(NEP)と呼ばれる経済政策が施行されます。

Vladimir Lenin

1920年代から1930年代にかけて、ウクライナの党や政府公式路線としてウクライナ化が採用されます。シュムスキー(Oleksii Shumsky)ら党の指導者により,学校教育のウクライナ化,党や政府へのウクライナ人の登用,ウクライナ語出版物の増大などがはかられ,多くの詩人や作家が輩出し,ウクライナ科学アカデミーを中心にウクライナ史などの研究も精力的に行われます。ウクライナの文化生活は一種のルネサンスを迎えます。

Lenin and Stalin

ウクライナではウクライナ化が推進され、1923年の言語法ではウクライナ語をロシア語の上位におくことを宣言します。多くのウクライナ人亡命者は、ウクライナ化運動を推進するために帰国を始めます。しかし,1930年代になるとウクライナ化政策は180度の転換を示します。1921年に成立していたウクライナ独立正教会も解散に追い込まれます。その罪状は民族主義というものでした。1928年、スターリンはネップを放棄するとともにウクライナ化政策を停止します。ロシア語を第二公用語ともします。その後10年間、ウクライナ化を指導した政治家、知識人、文化人は民族主義者とか反逆者の汚名を着せられ逮捕され流刑となったり粛清されて、ロシア化の時代が再開します。1934年、ウクライナの首都はハリキウからキーウへ移されます。

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ウクライナの歴史から学ぶ その十一 第一次世界大戦とロシア革命

1905年の血の日曜日事件のことです。ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクで行われた労働者による王朝への平和的な請願行進に対し、動員された軍隊が発砲し、多数の死傷者が出ます。これによって始まったロシア第一革命以後、ウクライナ語の新聞や書物の出版が認められるようになります。かつてのロシアでは、東ガリツィアの住民もルテニア人もロシア国籍でありました。しかし、帝政ロシアは第一次大戦で敗北し、革命に巻き込まれていきます。

白軍兵士

ウクライナは統一と独立を達成する機会がやってくると考えます。ウクライナ民族会議が1917年4月にキーウで開かれ、ラーダ(評議会)においてグルシェスキーを議長に選出し、ラーダはグルシェスキーを大統領とするウクライナ自治共和国の成立を宣言します。11月20日、ラーダは自由選挙によるウクライナ憲法制定会議の招集を発表します。

これに対抗して、ロシア共産党政府はハリキウ(Kharkiv)にウクライナ・ロシア政府をつくります。1918年1月にラーダは重ねて「自由と主権」をもつウクライナ共和国を宣言します。1918年11月には、リビュでは武装したウクライナ人が西ウクライナ共和国の独立を宣言します。しかし、ポーランド軍がリビュを陥れたので、この共和国はスタニスラフ(Stanislav)へ撤退します。1919年1月、二つのウクライナの統一が宣言されます。しかし、赤軍は再度キーウを占領します。フリスチャン・ラコフスキー(Frischan Rakovsky)がキーウでウクライナ・ソビエト社会主義共和国政府を結成します。

赤軍と白軍兵士

1919年5月、東ガリツィア全域はポーランドに占領され、夏にはアントン・デニーキン(Anton Denikin)という白軍の司令官がモスクワへ進攻します。デニーキンはウクライナ・ポーランドの独立を完全に否定し、それらの勢力との連合を拒んだため、結局は赤軍により白軍は撃破されます。その結果、赤軍がウクライナ全土を掌握します。

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ウクライナの歴史から学ぶ その十 ウクライナのポグロム

Pogrom in Ukraine

やがて愛国主義者の間で対立が始まります。アントノビッチは、専制ロシアと貴族制ポーランドに挟まれたウクライナは真の民主政治を代表しているとし、クリッシュは、コサックは民主的というよりは、無政府的であると主張します。1876年、ロシアは再び学校教育、新聞、書物の印刷にウクライナ語を用いることを禁止します。1876年以降、リビュはウクライナ民族運動の中心となります。リビュはウクライナ南西部ガリツィア地方の中心地です。東ガリツィアは、農村の住民の多くはルーシ人、別名ルテニア人でした。アントノビッチの弟子、ミハイル・グルシェスキー(Mikhail Gruchesky)は「ウクライナ・ルーシの歴史」という書物を出版し、その中でキーウ・ルーシこそがウクライナ・ルーシであると主張します。さらにモスクワの周辺は、ロシア諸国家の中心に過ぎないとも叫びます。

Jewish in Pogrom

1881年頃、オデーサ(Odessa)などユダヤ人入植者への不当な待遇が起きてきます。この不満が拡大し、ウクライナとロシア南部で広範囲に反ユダヤ暴動が始まります。やがて集団的な略奪や虐殺行為に発展し、この行為はポグロム(Pogrom)といわれます。ポグロムとはロシア語で「破滅させる、暴力的に破壊する」という意味です。ポグロムは、1881年のロシア皇帝アレクサンドル二世暗殺の衝撃が直接の契機とされますが、農奴解放後の農民の土地不足や貧困、激化する階級対立、ロシア人の宗教的偏見が土台となり、ユダヤ人がスケープゴートとされた悲劇ともいわれます。

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ウクライナの歴史から学ぶ その九 ウクライナのルネッサンス

ウクライナの民族主義が文芸復興–ルネッサンス(Renaissance)により台頭します。ウクライナはロシアの一部族とか小さなロシア人(Little Russians)とみなされていました。ウクライナの良心を喚起したのは画家で詩人のタラス・シェヴェチェンコ(Taras Shevchenko)です。その詩の内容は、民謡のバラードやロマン主義的なコサックの栄光を謳ったものです。そして、ウクライナの自由で民主的な社会を求め、その後の政治思想に大きな影響をもたらしていきます。

Zhovkva Castle in Lviv

1798年に、詩人・作家であるイヴァン・コトリャレーウシキー(Ivan Kotliarevsky)が、ウクライナ語の口語で書かれたパロディー叙事詩「エネイーダ」(Eheida)を刊行します。この書物は、近代ウクライナ文学の基盤となり、後に「ウクライナ学大事典」とも呼ばれていきます。1846年、ウクライナの愛国主義者がキーウで秘密結社、キュリロス・メトディオス協会(Brotherhood of Saints Cyril and Methodius)を結成します。その指導者は、歴史家のニコライ・コストマロフ(Nikolay Kostomarov)、パンテレイモン・クリッシュ(Pantelejmon Kulisch)やウクライナを代表する詩人で前述したタラス・シェフチンコらです。彼らは社会運動家で農民の啓蒙と革命運動への組織化を促進するナロードニキ(Narodniks)とも呼ばれました。

Renaissance in Ukraine

1861年、クリッシュやウラジミール・アントノビッチ(Vladimir Antonovich)は、ペテルブルグ(St. Petersburg)でウクライナ語の定期刊行誌「オスノバ」(Osnova)を発刊します。オスノバとは「出発」という意味です。1863年には、ロシア王朝内務大臣のピョートル・ヴァルフ(Pyotr Valuev)は、ウクライナ語の出版物や演劇活動などを禁止します。学校教育でもウクライナ語の使用は禁止となります。しかし、農民の間における運動や1853年のクリミア戦争の敗北により、ロシアの影響が弱体化します。それでも農民からの土地略奪や過重な賦役は、農民を苦しめます。

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ウクライナの歴史から学ぶ その八 ロシア皇帝とレーニンの登場

ロシアは1775年、コサックの本拠を襲いコサックを武装解除し、ロシア・ウクライナを三分割します。1793年のポーランド分割でウクライナは再び統合されます。然してウクライナの政治的自治権ばかりか、その名称さえも消滅します。1764年から1781年に、エカチェリーナ2世(Yekaterina II) は中央ウクライナをロシア帝国に編入します。その頃になるとコサック族やその本拠であったシーチは滅亡しています。1783年にクリミア半島を併合し、ロシア人によって ノヴォロシア(Novorossiya)という街が造られます。ノヴォロシアとは「新しいロシア」という意味です。

Ukrainian Ukraine Flag Danube Swamp Ukrainian Flag

ロシア皇帝ツァーリ (Tsarist) の支配が及び、ロシア化が進み、ウクライナ語の使用は禁止され、ウクライナの国民性は封印されていきます。現在のウクライナの西側は、ロシアとオーストリアのハプスブルグ王家 (Habsburg)の支配に置かれ、1795年のポーランド・リトアニア公国の消滅まで続くのです。ハプスブルグ家は、神聖ローマ帝国皇帝に選ばれた名門で、オーストリアを領有しカール五世(Karl V)のとき、スペイン王をかねて「日の沈まない世界帝国」と呼ばれるほど、ヨーロッパ最大の勢力となります。

Green Ukraine

19世紀になると、ロシア帝国の奥地にウクライナ人の移民が始まります。1897年の統計によれば、223,000人のウクライナ人がシベリアへ、 102,000人が中央アジアへ移民しています。レーニン(Vladmir Lenin)が率いた左派のボルシェビキ(Bolsheviks) が極東共和国を建設しようとします。1906年のシベリア鉄道の開通によって、その後10年間に1,600万人のウクライナ人が極東へ植民します。アムール川(Amur River)から太平洋岸までのロシア極東におけるウクライナ人の植民地は、「緑のウクライナ」(Green Ukraine)と呼ばれるようになります。しかし、「緑のウクライナ」と呼ばれる国家の建設運動は失敗します。

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ウクライナの歴史から学ぶ その七 ウクライナのコサック

15世紀になるとウクライナに新しい軍事社会が起こります。トルコ・カザック系のコサック(Cossacks)です。ウクライナの南部草原地帯を開拓してきます。コサックは、主として狩猟や漁業、養蜂などを営みます。コサックは、冒険人とか自由人と称しながらも賦役が課せられていました。彼らは戦士としての誇りから農奴という扱いを受けたくないという信念を持っていました。ザポリージャ(Zaporozhia)という開拓地に逃れてきたコサックは、領主からみれば反逆者のような存在で、領主はコサックに隷従を強いていき、コサックの反感をかっていきます。こうした反目には、領主、代官、地方長官がほとんどローマカトリック教徒であるという宗教的な敵愾心から生まれるものでした。こうして次第に民族の分離運動が起こります。

Cossacks

ローマ・カトリック教会とギリシャ正教会の合同によって、ウクライナ人は三つの宗教集団に分かれます。ラテン語の典礼を行うポーランド人のローマ・カトリック教徒、東方カトリックとよばれる合同派カトリック教徒、そしてギリシャ正教徒です。1578年からポーランド軍に服従するコサックの小常備軍がつくられます。コサックを従属させるために、ポーランドは草原地帯にクダーク(Kudak)要塞を構築します。コサックの将軍ボダン・フメリニッキ(Bohdan Khmelnytsky)は領袖として、数千人にコサック兵を率いてクダーク要塞を破壊し、ポーランド軍を破ります。その間、領主、カトリック僧侶、ユダヤ人の虐殺が行われます。

Bohdan Khmelnytsky

フメリニッキらは、キーウ、チェルコブフ、ブラック地方の公国側の人々をギリシャ正教徒に帰依させる協定を結びます。これに対して、ポーランド側や地方貴族らも反対します。貴族層はポーランド国境内に自治のウクライナ公国が成立することに反対し、コサックはポーランド人領主が復帰することにも不満でありました。フメリニッキが率いるコサックのラーダ(Rada)と呼ばれる評議会は、シーチ(Sich)に軍事、行政の本拠を置きます。やがてコサックは劣勢に陥るにつれて、評議会は1652年にロマノフ朝(Romanov Dynasty)の二代目アレクセイ一世(Aleksei I)に保護を求めることを決めます。アレクセイ一世はキーウ・ルーシを奪還する好機と捉え、1653年にロシアはフメリニッキの要請を受けてポーランドに宣戦します。ロシア・ポーランド戦争は、スウェーデン人(Swedish)の侵入により複雑化し、1656年に休戦となります。

フメリニッキの死後、イワン・ヴィゴフスキー(Iwan Vygovsky)がコサックの領袖となり、1658年、ポーランド、リトアニア、ウクライナによる連邦国家の結成が調印されます。ウクライナはドニプロ川を境にポーランド・ウクライナとロシア・ウクライナに分割されます。ヴィゴフスキーは、わずか2年間の首長でしたが、彼はウクライナを自立させるために大規模な戦争、新しい条約の締結、モスクワとワルシャワの外交作戦などを遂行していきます。

次ぎにコサックの領袖となったのは、ペトロ・ドロシェーンコ(Petro Doroshenko)です。彼は、ウクライナをオスマン帝国の属国となる構想を抱きます。そして1668年、スルタン(Sultan)のメフメット四世(Mehmed IV)はウクライナを保護下におきます。1672年、オスマン軍はポーランドに進攻し、ドニプロ川右岸のポーランド・ウクライナはオスマン帝国の宗主権下に入ります。ポーランドのヤン三世(Jan III Sobieski)は1683年のオスマン帝国による第二次ウィーン包囲(Vienna Siege)で勝利し、1688年、ポーランド・ウクライナからトルコ人を駆逐して英雄として名を馳せます。

ウクライナの歴史から学ぶ その六 宗教的な発展

リトアニアとポーランドにおけるウクライナ人の社会的な地位が次第に低下するにつれ、ルテニア貴族へも波及していきます。ローマ・カトリック教会が次第にウクライナに浸透するにつれ、ギリシャ東方正教会に対して、治世や法的な優越性を示していきます。外側からの圧力や規制によって、ルーシー・カトリック教会(東方カトリック教会)は次第に衰えていきます。16世紀中盤から、カトリック教会と活力を取り戻したポーランドにおけるイエズス会、そしてプロテスタント教会が、ルーシー・カトリック教会を脅かしたのです。

ウクライナ東方カトリック教会


ルーシー・カトリック教会の再興を期して16世紀の終わり頃、教会は結集し始めます。1580年には、コンスタンチン・オストロズキ皇太子( Konstantyn Ostrozky)が西ウクライナのヴォルィーニ(Volhynia)地帯やオストロ(Ostroh)等の街を建設し、そこを文化の中心にしようとします。学校や出版社をつくり、当時の有名な学者を招聘したりします。その成果はスラヴ語(Slavonic)による聖書の出版として現れます。リビュや近郊の街では信徒や市民によって教会が維持され、学校を運営し出版を行い慈善活動もやっていました。こうした人々は、しばしば正教会の階級制度と対立し、制度の改革を要求していきます。

マロン典礼カトリック教会

1596年10月にはベラルーシ南西部にあるブレスト・リトフスク(Brest-Litovsk)において急進的な宗教改革が起こります。キーウ近郊の大司教らがローマ・カトリック教会とギリシャ正教会の合同を発表します。この行為によって東方カトリック教会は、ローマ教皇権の承認、ギリシャ正教会やスラヴ語による典礼の維持により、地方教会の自治や伝統的な教理、そして聖職者の婚姻を認めていきます。こうして教会の合同によりローマ・カトリック教会との対等な地位を得ていきます。

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ウクライナの歴史から学ぶ その五 リトアニアとポーランドの統治

3世紀にわたるリトアニアとポーランドの統治17世紀中頃のウクライナは大きな変容を遂げていきます。キーウ公国に端を発する王侯による支配階級の一族は、リトアニアとポーランド統治によって特権を得ていきます。東方正教会やルテニア言語によって、ポーランド文化化(Polonization)がルテニア貴族の間に浸透していきます。これは、イエズス会(Jesuits) の学校やローマ・カトリックの影響によるものです。

ウクライナ西部の街や周辺での貿易が盛んになり、中産階級(burghers)が社会的な階層となってきます。ギルト組織や宗教や民族という2つの階級に分かれていきます。13世紀以来、ポーランド人、アルメニア人、ゲルマン人、ユダヤ人(Jewish)が都会に定住するとともに、ウクライナ人は少数派となっていきます。

中産階級は、ウクライナ社会で主だった役割を発揮しますが、法律上の不平等から非カトリック教徒にとってはマグデブルク法(Magdeburg Law)によって、地方の自治や政治には限られた参加しかできませんでした。マグデブルク法は、神聖ローマ帝国の初代皇帝のオットー1世(Otto I)により作られた地域の支配者による市や村の統治に関する法律です。

ポーランドの支配下で中産階級は次第に没落していきます。自由な農民は存在はその力が増していき、小作人は農奴への賦役の対応に苦慮していきます。16世紀の終わり頃には、東ウクライナでは農民が反乱を起こし始めます。人口が希薄な地帯がポーランドの領土となり、ヨーロッパの食糧市場の要求にそって、大きな農村地帯が形成されていきます。こうした農業地帯に必要な労働者を惹き付けるために、農民には期限付きながら納税などの賦役が免除されます。

しかし、納税義務が失効し、賦役が再度課せられにつれ、自由を求める農民は荒野といわれていたウクライナの東方や南方の草原地帯へと移動していきます。次第に農民の緊張は悪化していきます。農民はウクライナ人や東方正教会の信徒であり、領土の持ち主はポーランド人やローマカトリック教徒でありました。無人の土地を耕していたのはユダヤ人(Jewish) でした。こうして、社会的な不安を抱いた人々は絆を強めながら、宗教的な角逐に直面していきます。