1898年、米西戦争の結果マリアナ諸島はカロリン諸島(Caroline Islands)とともにドイツ領となり、第一次世界大戦後、日本の国際連盟委任統治領となります。当時は「南洋諸島」と呼ばれた地域です。日本の委任統治下で、サイパン、テニアンではサトウキビ農場の開発に成功します。サイパン島では1934年に砂糖生産のために南洋興発という会社が設立され、砂糖キビを運搬する鉄道も敷設され1944年まで使われます。今も砂糖王公園(Sugar King Park)があります。
グアムにおいて最初に宣教活動をしたのはフランシスコ派のカトリック教会です。イエズス会のディエゴ・ルイス・デ・サン・ビトレス神父(Diego Luis San Vitores)は1668年からグアム島で約4年間、布教に献身し殉教した伝説的な人物です。ビトレスは、グアムの中に会堂を建てます。その最も大きく最も格式が高いのがハガニア大聖堂(The Dulce Nombre de Maria parish)です。場所は、グアムの首都ハガニアにあるスペイン広場の東側に位置しています。1672年にビトレスは、酋長の子どもに洗礼を強行したとして殺害されます。それが契機となり、グアムやマリアナ諸島は、チャモロとスペイン軍の間の戦争が勃発し、それが終結するまでに 20 年以上かかったといわれます。
1493年11月のクリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)による到着以来、スペインやアメリカを始めとするヨーロッパ人によって開発が進められ現在に至っています。スペイン語でプエルトは「港」、リコは「豊かな」(rich port)を意味しヨーロッパ人の到来以前は、この島は先住民のタイノ族(Taíno)によってボリケン (Borikén)、またはボリクアス (Boricuas) と呼ばれていました。ボリケンとは「勇敢なる君主の地」(Land of the Valiant Lord)を意味します。現在のプエルト・リコの名称は、一説にコロンブスがサン・フアンに入港した時に「Qué Puerto Rico!」(なんと美しい港か!)と叫んだことに由来するといわれています。
島内にはいろいろな史跡があります。サン・ファンにあるエル・モロ砦(Castle El Morro)はスペイン軍が、フランス、イギリス、オランダやカリブの海賊達などの敵対勢力から、サン・ファンの街を守るために建てたカリブ最強の砦と言われた要塞です。1539年頃建設が始まり、1790年頃に完成したという記録があります。今は、ユネスコの世界遺産となっています。
合衆国首都のワシントン.(Washington District of Columbia)は、通称ワシントンD.C.と呼ばれています。D.C.は連邦直轄地という特別区で、東海岸のメリーランド州とヴァジニア州に挟まれたポトマック川河畔(Potomac River)に位置しています。各州とは別に、首都としての役割を果たすため、連邦の管轄する区域が与えられていて、合衆国三権機関である大統領官邸(White House)、連邦議会(Capitol)、連邦最高裁判所(Supreme Court)が所在し、多くの連邦省庁が集中しています。いわば日本の霞ヶ関のようなところです。
ワシントンD.C.の設計に携わってのは、ピエール・ランファン(Pierre Charles L’Enfant)というフランス生まれの建築家です。連邦都市建設計画のコンペに当選し、基本計画案を作成した人として知られています。ランファンはジョセフ・ラファイエット(Joseph La Fayette)と共にアメリカ植民地にやってきた移民です。独立戦争ではヨークタウンの戦いなどに一緒に参加してイギリス軍と戦った技師で軍人です。1791年、ランファンはバロック様式を基に基本計画を作成します。開かれた空間と景観作りを最大限に重視し、環状交差路から放射状に広い街路が伸びるという設計となっています。
興味深いのは、バラエティに富んだ建築物がワシントンD.C.にあることです。アメリカ建築家協会が選ぶ2007年の「アメリカ建築傑作選」では、10位までにランクされた建物のうち6つがワシントンD.C.にあることです。ホワイトハウス、ワシントン大聖堂(Washington Cathedral)、トマス・ジェファーソン記念館(Thomas Jefferson Memorial)、連邦議会議事堂、リンカーン記念館(Lincoln Memorial)、ヴェナム戦争戦没者慰霊碑(Vietnam War Veterans Memorial)といった建築物です。どれも第一級の気品を備えています。
ワシントンD.C.には、ジョージ・ワシントン大学(George Washington University)、ジョージタウン大学(Georgetown University)、ハワード大学(Howard University)などもあります。ハワード大学は、全米屈指の名門歴史的黒人大学となっています。白人系やアジア系の学生も入学できる超難関の大学です。現合衆国副大統領のカマラ・ハリス(Kamala D. Harris)も卒業生です。
白人の到来以前、プレーリーに大群をつくって生息していたバイソン(bison)をねらい、18世紀の中頃からフランス人毛皮商人が、フォートララミー(Fort Laramie)と名付けた交易所が作られます。19世紀の中頃、白人の侵入に対するインディアンの怒り高まります。レッドグランド(Red Grand)に率いられたスー族(Sioux)とシャイアン族(Cheyenne)の戦士たちが1876年まで合衆国軍隊と戦うという歴史が残っています。1990年に作られた映画「ダンス・ウイズ・ウルブス」(Dances with Wolves)は、その事実を取り上げた作品です。
Dances with Wolves
ワイオミングには、アメリカでも特に有名な2つの国立公園、イエローストーン国立公園(Yellowstone National Park)とグランドティトン国立公園(Grand Teton National Park)があります。この2つの国立公園は、アウトドア愛好家や冒険家に大人気です。ワイオミング州では広大な美しい大地をクマ、バイソン、エルク(elk)、コヨーテ(coyote)などの野生動物が生息して大事に保護されています。グランドティトン国立公園は、1953年に制作された西部劇映画「シェーン」(Shane)のロケ地となったところです。流れ者シェーンと開拓者一家の交流や悪徳牧場主との戦いを描いた世紀の名作です。
映画「イージー・ライダー」(Easy Rider) は、1960年代後半からアメリカで作られた反体制的な若者の心情を映したアメリカン・ニューシネマ(American New Cinema)というジャンルの作品です。大衆文化やカウンター・カルチャーの先駆けとなった名作ともいわれ、1965年のヴェトナムへの軍事介入によって、閉塞的な状態になったアメリカ社会に若者たちが抵抗していくのです。やがて反戦運動が全国的な広がりをもつようになり、映画や音楽界にも厭戦ムードが込められていきます。
冒頭で主人公らがバイクで疾走するシーンに使われ曲は、ステッペンウルフ(Steppenwolf)というロックバンドが演奏する「あるがままに生きよう」(Born to Be Wild)でした。当時、大衆文化およびカウンターカルチャーでバイク乗りの姿や態度を表現するときに、こうしたロック音楽は効果的であったようです。
ミルウォーキには、ハーレー・ダビッドソン(Harley-Davidson)の本社があります。いわずとしれたオートバイメーカーです。1903年に設立され、歴史的なライバルであるインディアンモーターサイクル(Indian Motor Cycle)と共に世界恐慌を生き延びたアメリカの2大オートバイメーカーの1つです。数々の所有形態、子会社の手配、経済的健全性や製品品質の低下した時期、激しいグローバル競争を乗り越え、世界最大のオートバイメーカーの1つになり、忠実なファンによって広く知られているアイコン的ブランドとなりました。こよなくモーターを愛するファンによって広く知られた象徴的なブランドとなっています。世界各地にオーナークラブやイベントがあります。会社主催のブランドに特化した博物館もあるほどです。
ハーレー・ダビッドソンは、チョッパーモーターサイクル(chopper motor cycle)というスタイルを生み出したカスタマイズのスタイルで知られています。チョッパーモーターとは、元々ついているハンドルなどのパーツを切って加工したり、取り除いたりしたバイクのことです。同社は伝統的に700cc以上の排気量を持つ重量級空冷クルーザーモーターサイクルを販売していましたが、より現代的なVRSC型、およびミドルウェイトのストリートプラットフォームを含む提供の幅を広げてきています。ハーレーダビッドソン社製オートバイ最大の特徴は、大排気量空冷OHV、V型ツインエンジンがもたらす独特の鼓動感と外観であり、これに魅せられた多くのファンがいいます。大きく横に張り出したケースも外見上の特徴です。
マッカーシズムの勃興を促した短期的な理由も指摘されています。ニューディール(New Deal)以降、万年野党の地位に置かれた共和党の党派的な憤まんや、冷戦下の国際緊張の高まり、朝鮮戦争の勃発といった情勢です。ソ連の核開発、中国共産党政権の樹立、ヒス事件(Alger Hiss)やローゼンバーグ事件(Julius and Ethel Rosenberg)といったスパイ事件の相次ぐ摘発で、苛立つ国民の心理に強く訴えます。1952年にマッカーシが再選され、アイゼンハワー(Dwight D. Eisenhower)政権が成立すると、マッカーシは、審査委員会の委員長に就任し、CIA、Voice of America(VOA)、陸軍にいたる政府機関まで赤狩りの手を広げていきます。反共目的とした政敵攻撃を進めたのがマッカーシズムという恐ろしい手法です。
ウィスコンシン州はアメリカのチーズの約4分の1を生産し、チーズ生産量では全米一位です。牛乳生産量ではカリフォルニア州に次いで第二位、一人当たりの牛乳生産量ではカリフォルニア州とバーモント州に続いて第三位。バター生産では全米の約4分の1を生産し第二位です。トウモロコシ、クランベリー、朝鮮人参、スナップインゲン、加工用豆などの生産で全国一位となっています。ウィスコンシン州の農産物生産の重要性は、ウィスコンシン州の四半期デザインに描かれたホルスタイン牛、トウモロコシの穂、チーズの輪に象徴されています。 州は毎年「酪農の国のアリス」(Alice in Dairyland)を選出し、州の農産物を世界に宣伝しています。
Kikkoman
大豆の生産が盛んなのもウィスコンシン州です。1973年に同州のウォルワース(Walworth)にキッコーマンは初の海外工場を建設し、“Made in USA”の醤油が初出荷されます。工場建設にあたっては、地域社会との共存共栄をめざし、現地社員の登用も積極的に行いました。日本で培われた技術で、現地の力で醤油を作り、“世界に通用する味”としました。通用する味とは、経営の現地化を土台にして育まれた恒久的な定着を意味しています。1998年には、カリフォルニア州フォルサム(Folsom)にアメリカ第二工場もオープンし、醤油の出荷量も順調に成長を続けています。
2018年現在、ウィスコンシン州の総人口は約579万人です。第二次世界大戦が終わった1945年以降、常に人口が増え続けています。州名のウィスコンシンはインディアン部族オジブワ族(Ojibwa)の言葉で「赤い石の地」を意味する「Miskwasiniing」がフランス語風になまった言葉が元になっているとされています。州都のマディソン(Madison)は5つの湖の間にある美しい街としてアメリカ国内では有名であり、極めて優れた都市計画のもとに作られています。カリフォルニア大学(University of California)の本校のあるバークリー(Berkley)と比較してリトル・バークリー(Little Berkley)とも呼ばれる大学町です。ウィスコンシン大学マディソン校は生物化学などが有名であり、大学院ランキングブックで社会学部門1位など州立大学としては国内トップクラスとなっています。
ウィスコンシン州の最大の産業は酪農業です。広大な土地と州内を巡る綺麗な水は酪農に適しており、牛乳やチーズは全米でトップの生産量を誇ります。開拓時代にスイスから移り住んだ人たちによって酪農が始まり、とくにチーズは本場スイス顔負けの品質と言われています。この酪農に対する思い入れは非常に強く、NFLの強豪チームであるグリーンベイ・パッカーズ(Green Bay Packers)のファンはチーズの形をした帽子(cheese head)を被って応援するほどです。州の愛称は「America’s Dairyland」。アメリカの酪農地帯と呼ばれています。
州都で最大都市はチャールストン(Charleston)となっています。州第4の都市、モーガンタウン(Morgantown)という治安のよい小都市に、州立総合大学であるウェスト・ヴァジニア大学があります。モーガンタウンはベスト・カレッジタウン(best college town)にランクインしており、生活費や犯罪率が低いエリアとして知られています。
カントリーロードの歌詞の一部です。 Almost heaven, West Virginia Blue Ridge Mountains, Shenandoah River Life is old there, older than the trees Younger than the mountain Growing like a breeze
Country roads, take me home To the place I belong West Virginia, mountain mamma Take me home, country roads
編集者のイシュメルはポイント・ホワイト灯台(Point White lighthouse)にあった海事記録を調べます。そこでカールが死んだ夜、カールが釣りをしていた海域を貨物船SSウエスト・コロナ号(SS West Corona)が、彼の時計が止まるわずか5分前の午前1時42分に通過していたことが判明します。イシュメルは、カールが貨物船の航跡の勢いで海に投げ出された可能性が高いことを知るのです。彼は、ハツエに振られた恋人としての苦い思いを抱えながらも、次ぎのような情報を得るのです。
ワシントン州のとある島を舞台とした『ヒマラヤ杉に降る雪』(Snow Falling on Cedars)という作品を2回にわたって紹介します。ワシントン州は、戦前多くの日本人が移住したところです。この小説は、1995年に第15回 ペン/フォークナー賞(PEN/Faulkner Awards)を受賞したデイヴィッド・グターソン(David Guterson)のベストセラー作品です。日系アメリカ人への厳しい偏見と差別が主題となっています。ワシントン州内のベインブリッジ(Bainbridge Island)という島には、ここに住んでいた日系人276名が強制収容へ送られたこと記憶し、人種差別が今後「二度と起こらないように」と祈念した屋外展示があります。
Snow Falling on Cedars
この小説の荒筋です。1954年、ワシントン州のピュージェット湾(Puget Sound)の北、ファン・デ・フーカ海峡(Strait of Juan de Fuca)に浮かぶサンピエドロ島(San Piedro Island)に住んでいた日系アメリカ人のカブオ・ミヤモトが、島で親しまれていた漁師カール・ハイン(Carl Heine) を殺害したという容疑で第一級殺人罪に問われます。1954年9月16日、カールの死体は網にかかったまま海から引き上げられ、水没した彼の腕時計は1時47分で止まっていました。大戦後の根強い反日感情の中で裁判が行われます。
裁判を取材するのは、唯一の地元紙「サンピエドロ・レビュー」(San Piedro Review)の編集者イシュマエル・チェンバース(Ishmael Chambers)です。彼は元米海兵隊員で、太平洋のタラワの戦い(Battle of Tarawa)で日本軍と戦って片腕を失い、仲間の死に直面していました。彼は日本人への憎しみを抱き、カブオの妻ハツエへとの愛と、カブオが本当に無実なのかどうかという良心とで葛藤するのです。イシュメルがハツエと恋に落ちたのは、高校が一緒の時です。二人は密かに交際し、互いに情を通じ合っていました。
ワシントン州の州都オリンピア(Olympia) という人口は5万人弱の街で、最大都市シアトル(Seattle)の南西約100キロにあます。かつて住んでいた兵庫県の加東市はオリンピアと姉妹提携するという不釣り合いな関係を持っています。念のため、ワシントン州とワシントンD.C.(Disctrict of Columbia)は互いにアメリカ大陸の反対側に位置しています。
初代大統領はじめ8名の大統領を輩出したので、この州の愛称は「Mother of Presidents」と呼ばれるほどです。州都はリッチモンド(Richmond)です。それまでヴァジニアの主都であったウイリアムスバーグに代わって1779年にヴァジニアの州都となります。リッチモンドは、南北戦争当時は南部連合の首都となりますが、激戦のために市街の大部分は破壊されます。リッチモンドは、化学、食品加工などが盛んで、煙草の集散地でもありフィリップ・モリス(Philip Morris)の工場があります。
ヴァジニアは自然にも恵まれた州です。アパラチア山脈(Appalachian Mountains)のシェナンドー国立公園(Shenandoah National Park)は、アメリカメガロポリス(American Megalopolis)からの利用者で賑わう公園です。