アメリカ合衆国建国の歴史 その87 改革運度への賛同

ギャリソン派であろうとなかろうと、奴隷制撤廃派の指導者たちは、自分たちの個人的な不適応を解消するための変人とか、ニューイングランドのエリートとして失いつつある地位を回復するために奴隷制問題を利用した人々として軽蔑されていました。真実はもっと単純なのかもしれません。神経症患者や北部の社会経済的エリートで奴隷制度撤廃論者になった者はほとんどいませんでした。この運動の熱意と宣伝の成功にもかかわらず、多くの北部の人々はこの運動に激しく反発し、自由白人の大多数はそのメッセージに無関心でありました。

1830年代、都市部では暴徒が起こり、資産と地位のある者に率いられて、廃止派の集会を襲撃します。彼らは、アフリカ系アメリカ人やそのシンパの白人の財産や人々に暴力を振るいました。奴隷撤廃運動の指導者たちは、ニューイングランドで育ったこと、カルヴァン主義的な独善主義、高い社会的地位、比較的優れた教育を受けていたことなど、驚くほど似ていたのです。彼らの運動が世俗的、あるいはエリート主義的ではなかったと思われます。ですが一般市民は、アフリカ系アメリカ人を嫌悪し、制度内での進出に良くは思っていませんでした。

Black women

多くの改革運動が存在したからといって、多数のアメリカ人がそれを支持したわけではありません。撤廃運動は世論調査では不利に働きました。一部の改革は他のものより人気がありましたが、概して、どの主要な運動も大衆の支持を得ることはできませんでした。また、これらの活動に実際に参加した人は少なかったことが判明しています。ブルック・ファーム(Brook Farm)やインディアナ州のニュー・ハーモニー(New Harmony)、ニューヨーク州のオネイダ(Oneida)のようなユートピアを標榜するコロニーでは、多くの賛同者を獲得することはできず、他の多くのグループも賛同はしませんでした。これらの改革運動の重要性は、その規模や成果から生まれるものではありません。

In the Cotton Plantation

改革とは、アメリカ生活の不完全さに対する少数の人々の感受性を反映したものです。ある意味で、改革者たちは「良心の声(voices of conscience)」であり、物質主義的な市民に対して、アメリカンドリームがまだ現実になっていないことを思い知らせ、理想と現実の間にある溝を指摘したのでした。

アメリカ合衆国建国の歴史 その86 いろいろな撤廃運動 

制度上での廃止で最も大事だったことは、奴隷制撤廃論です。この運動は、熱烈に主張される一方で、激しく抵抗され、1850年代には、政治的に失敗したようにみえました。しかし、1865年に、内戦という犠牲を払いながらも、憲法改正によってその目的を憲法に挿入するこに成功します。その核心は、3世紀以上にわたってアメリカ人が最善と最悪の顔を持つ「人種」の問題でありました。それがこの時代、アメリカの地域間の対立という力学と絡み合ったとき、その爆発的な潜在力が最大限に浮き彫りになる現象が起こりました。19世紀半ば、改革への衝動がアメリカ国民を団結させる共通のものであったのですが、その衝動が奴隷制度に現れたことで、4年間にわたる南北戦争という血塗られ遂にアメリカ国民は二つに分かれるのです。

William L. Garrison


撤廃運動そのものも多様ではありました。その一端を担っていたのが、ウィリアム・ギャリソン(William L. Garrison)という人物です。彼は「即時主義者(immediatist)」として、奴隷制だけでなく、それを容認する合衆国憲法をも糾弾します。彼の新聞「リベレーター(The Liberator)」は、奴隷制に反対する戦争では妥協しないという約束を宣言していました。ギャリソンの妥協のない論調は、南部だけでなく多くの北部の人々をも激怒させ、あたかもそれが奴隷制撤廃論全般の典型であるかのように扱われた時代が長く続いたのです。しかし、実際はそうではありませんでした。

Frederick Douglass

撤廃論者の反対側には、セオドア・ウェルド(Theodore Weld)、ジェームズ・バーニー(James G. Birney)、ジェリット・スミス(Gerrit Smith)、セオドア・パーカー(Theodore Parker)、ジュリア・ハウ(Julia W. Howe)、ルイス・タッパン(Lewis Tappan)、サーモン・P・チェイス(Salmon P. Chase)、リディア・チャイルド(Lydia M. Child)などがいて、彼らはさまざまな立場で反対論を主張しましたが、ギャリソンよりは融和的な立場にたっていました。ジェームズ・ローウェル(James R. Lowell)は、伝記作家として奴隷撤廃論者の主張は、固定した感情に走るべきではないといいます。そして、ギャリソンとは対照的に「世界は緩やかに癒されていかなければならない」と訴えます。また、デヴィッド・ウォーカー(David Walker)やロバート・フォーテン(Robert Forten)などの自由黒人やフレデリック・ダグラス(Frederick Douglass)などの元奴隷の活動も重要でありました。彼らは、この運動に取り組む明確な理由を持ちながら、白人の同僚たちとより広い人道的動機を共有しようとしました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その85 ユートピア社会主義とトクヴィル

工業化の進展により、何千人もの労働者が、制御できない景気循環の浮沈や雇用者の寛大さに依存するようになります。当時は「多くの人々の生活が少数の人々の手に委ねられている」といわれました。階級間の不均衡が拡大し、経済学者たちの行動に拍車がかかります。ある者は資本主義の永続性を認めながらも、労働組合を通じて従業員の交渉力を高めようとしました。また、私企業のモデルを否定し、競争路線ではなく協調路線での社会の再編成に目を向ける者もでてきました。フーリエ主義(Fourierism)やユートピア社会主義(Utopian socialism)がそうです。

労働改革者の一人、ジョージ・エヴァンス(George Evance)は、労働者の供給量を減らすことによって賃金を上げることを提案します。一部の労働者には公有地から切りとった無料の農場、「ホームスティード」(homesteads)を与えるという提案です。知識人党に属する移民規制の闘士たちの中にも、生粋のアメリカ人の雇用を守るという目的を持っている者がいました。また、シルベスター・グラハム (Sylvester Graham) が提唱した健康的な食生活や、アメリア・ブルーマー(Amelia

Seneca Falls Convention

Bloomer)が提唱した良識ある女性の服装など、周辺問題に焦点を当てた改革者もいました。彼らはいずれもこうした小さな一歩が、人間全体のより合理的で優しい行動へとつながると考えていたのです。

農業改革のような現実的なものから、世界平和のようなユートピア的なものまで、どのような改革運動であれ、アメリカの広大な世界にメッセージを広める手法は似ていました。1841年、トクヴィル(Tocqueville)がアメリカは民主主義が鍵であると指摘したメッセージが広まり、支持者を獲得するために任意の組織が結成されていきます。教会に所属している場合でも、これらの団体は牧師ではなく、専門家が指導するのが普通であり、弁護士の数が際立って多かったようです。次に、こうした団体の新聞による宣伝については、少額の資本と労働で簡単に行うことができました。ある評論家が指摘したように、ほとんどすべてのアメリカ人が、社会の普遍的な改善のための計画をポケットに入れていたといわれ、他のすべてのアメリカ人もそれを知っていたようでした。

セネカ・フォールズ大会

このような運動のうち、2つの運動は南北戦争の時代を超えてもその勢いを保っていました。一つは節酒運動で、モラリズム、効率性、健康といった永続的な価値を呼び起こすものです。飲酒は、過度に摂取するとアルコール依存症になり、社会的コストが発生し、生産性が低下し、身体に害を及ぼす罪と見なされていました。1848年のセネカ・フォールズ大会(Seneca Falls Convention)で初めて全米に知られるようになった女性の権利運動は、男女の役割分担の正当性という普遍的な考えを主張し、根強く浸透していきます。

アメリカ合衆国建国の歴史 その84 千年王国説

1830年から1860年にかけての「自由の発酵」の時代には、18世紀末の人道的衝動と19世紀初頭のリバイバルの鼓動が混在していました。この2つの流れは一緒に流れていました。例えば、米国キリスト教宣教師会を設立した真摯なキリスト教徒は、イエス・キリストによる救いの福音をアジアの「異教徒」に伝えることが自分たちの義務であると信じていました。しかし、中国やインドの貧しい人々の宗教に対する攻撃を受けながらも、病院を設立し、中国人や「ヒンズー教徒」の改宗者の地域での生活を大きく改善します。

千年王国説のエンブレム

千年王国説(Millennialism)という、キリストの再臨を前に、世界はまもなく終わり、罪を清めなければならないという教えは、チャールズ・フィニー(Charles G. Finney)などのリバイバリスト(revivalists) が説いたものです。この教えは、世俗的な完全主義と対峙するものでした。世俗的完全主義とは、世界の仕組みを実現可能な形に変えることによって、あらゆる形の社会や個人の苦しみを取り除くことができるという考えです。それゆえに、さまざまな十字軍と十字軍兵士が誕生したのです。公教育が最も大事でると説いたホレス・マン(Horace Mann)は、マサチューセッツ州教育委員会の教育委員からアンティオキア大学 (Antioch College)の学長になり、学生たちに「人類のために何らかの勝利を収めるまでは、死ぬことを恥と思え」と説きました。

Thomas Perkins

そのような勝利を得るための一つの方法は、運命に翻弄され、社会から見放され、虐待されてきた人々の状態を改善することでした。例えば、サミュエル・ハウ(Samuel Howe)が率いた聴覚障害者への教育運動や、ボストンの企業家トーマス・パーキンス(Thomas Perkins)やジョン・フィッシャー(John D. Fisher)による盲人教育機関の設立があります。パーキンスは、キリスト教のビジネスマンにとって、自分の事業に対する神の祝福に感謝を示すために慈善事業を行うことは良い方法だと考えていたのです。また、ドロシー・ディックス (Dorothea Dix)は、神と科学に対する敬虔な信者であった独立宣言の署名者ベンジャミン・ラッシュ (Benjamin Rush)の先例にならって、精神障害者の酷い扱いを改善するための活動を行っていきます。

アメリカ合衆国建国の歴史 その83 少数政党と改革の時代

この時代、理念政治は大政党ではなく、小政党によって代表されました。反メーソン党(Anti-Mason Party) は、権力者の陰謀とされるものを一掃することを目的としていました。労働者党(Workingmen’s Party)は、「社会正義」を唱えました。ロコフォコ党(Locofocos) は、民主党内外の独占主義者を糾弾し、敵対勢力によって暗くなった会場で最初の会合を開いたときに使ったマッチにちなんで名付けられました。様々な名前の民族主義政党は、ローマ・カトリック教会のあらゆる悪事を告発しました。自由党は、奴隷制の拡大に反対します。これらの政党は、本来の有権者に加え、多くの有権者を惹きつけるような幅広いアピールをすることができなかったため、どれもはかないものとなりました。民主党とホイッグ党は、その日和見主義にもかかわらず、また日和見主義であるがゆえに、アメリカの有権者の現実的な精神をよく反映して繁栄していきました。

Anti-Mason poster

1830年から1850年にかけての時代を歴史家は「改革の時代」と呼びました。ドルの追求が熱狂的になり、それを国の真の宗教と呼ぶ人もいた時代です。何万人ものアメリカ人が精神的、世俗的な向上を目指す様々な運動に参加していきました。なぜ、前世紀末に改革運動が起こったのかについては、まだ意見が一致していません。プロテスタント福音主義の暴走、イギリスやアメリカ社会全体を覆う改革精神、啓蒙主義の完璧主義的な教えに対する遅れ、19世紀の資本主義の特徴である世界的な通信革命など、いくつかの説明が挙げられますが、いずれも決定的なものではありません。

女性の権利、平和主義、禁酒運動、刑務所改革、借金による投獄の廃止、死刑廃止、労働者階級の待遇改善、国民皆教育制度、私有財産を捨てた共同体の組織化、精神異常者や先天性障害者の待遇改善、個人の再生などが、この時代の熱狂的な人々を刺激するさまざまな改革運動を北アメリカで同時に盛んにした原因でありました。

女性参政権運動

アメリカ人の生活で最も奇妙なことは、経済的な飢餓と精神的な努力の組み合わせです。どちらも、未来はコントロールし、改善することができるという確信の上に成り立っていました。辺境での生活は過酷だったのですが、人間の状態は必ず良い方向に変化するという強い信念がありました。かつてカルヴァン主義が予言したように、人間の本性は永久に短所の溝にはまってはいないという確信です。

アメリカ合衆国建国の歴史 その82 主要な政党の結成

1800年代の時代の大政党は、手段ではなく、人の勝利を得るために作られたといえます。政党が誕生すると、その指導者たちは当然ながら、有権者に理念の優先を納得させようとしました。しかし、元連邦党員が最初はほぼ同数の新党に集まり、国内改善や国立銀行などの問題で対立していた人々がジャクソンの後ろで団結できたことは注目に値します。しかし、時間の経過とともに、各政党はそれぞれ特徴的で対立する政治的な政策と結びつけるようになっていきます。

1840年代になると、ホイッグ(Whig)とクレイらの人民共和党の下院議員は、対立する者として結集し投票するようになりました。ホイッグスは弱い行政府、新しい合衆国銀行、高い関税、州への土地収入の分配、恐慌の影響を緩和するための救済法、連邦議会の議席再配分などに賛成し、民主党は反対しました。ホイッグスは反対票を投じ、民主党は独立国庫、積極的な外交政策、拡張主義を承認します。これらの問題は、議会で主要政党を二分したように、有権者を二分しうる重要な課題でありました。確かに、ジャクソン派が、アフリカ系アメリカ人や奴隷廃止論者に対して懲罰的な措置をとったり、アメリカ先住民の権利を保護する条約を無視して南部のインディアン部族を追放したり、その他の強硬な手段をとろうとしたことは重要でした。しかし、これらの違いは、民主党とホイッグがイデオロギー的に分裂し、前者だけが無産者の利益を何とか代弁しているということではありませんでした。

1828年の高率関税に対するサウスカロライナの激しい反対運動で勃発した危機によって、これまでの党派は簡単に崩壊していきました。ジャクソンは、カルホーンの無効化政策、つまり州が関税などの連邦法を無効化する権利に断固反対し、民主党内外で広く支持されていました。この危機に対するクレイの解決策である妥協関税は、ジャクソンとのイデオロギーの対立ではなく、クレイの調停能力、戦術的な巧みさによる政治的優位を示すものと考えられました。

連邦第二銀行

ジャクソン派は、第二合衆国銀行との戦いを、西部、債務者農民、貧しい人々一般を抑圧する貴族の怪物との戦いとして考えていました。1832年のジャクソンの大統領再選は、銀行戦争に関する民主党の解釈に民衆が同意したことの表れと理解されました。最近の調べによりますと、ジャクソンの大勝は前例がなく、民主党の成功は他の要因によるものであった可能性があることが明らかになっています。第二銀行については、多くの西部人、多くの農民、そして民主党の政治家でさえ、主にジャクソンの怒りを買わないために反対したことを認めていましました。

連邦準備制度理事会

ジャクソンが第二銀行とその頭取であったニコラス・ビドル(Nicholas Biddle)を嫌悪する理由は複雑でした。反資本主義のイデオロギーでは、政府資金の貯蔵庫としての準国営銀行を資本家に支配され、利潤追求に熱心な何十もの「ペットバンク」(pet banks)と呼ばれた州立銀行(Pet Banks)や民間銀行に置き換えるというのがジャクソン流の政策でした。こうした、銀行の取締役が民主党の政治家であることのように考えられました。おそらく、民主党とホイッグの実利主義と類似性は、「猟官制度」という政党が互いに官職を分け合うことに最もよく示されていました。ホイッグは、政権を離れている間は、有利な税関やその他のポストを支持者に譲り渡すという民主党の卑劣な政策を非難していましたが、政権に就くと同様の慣行に走ったのです。ただし、興味深いことは、ジャクソン派の任命者が、いわゆる富裕な先任者たちよりも平民的であったことでした。

アメリカ合衆国建国の歴史 その81 アンドリュ・ジャクソン

ジャクソンは、彼の信奉者たちにとっては、人民民主主義の体現者でありました。強い意志と勇気を持った真の自作自演の男である彼は、多くの市民にとって、一方では自然と摂理の広大な力を、他方では人民の威厳を体現した人物であったようです。また、気性が荒いという弱点は、政治的な強みにもなりました。彼を指して、財産と秩序の敵と烙印を押した反対派は、金持ちに対する貧乏人、利権者に対する平民のために立っているとジャクソンの支持者が主張したことに賛成せざるをえませんでした。

Andrew Jackson

ジャクソンの味方は、彼の主要な敵対者と同様に、実際には保守的な社会信条を持つ富裕層でありました。彼は多くの書簡の中で、労働について言及することはほとんどありません。大統領に就任する以前、テネシー州で弁護士として、また実務家として、彼は持たざる者ではなく有力者に、債務者ではなく債権者に味方しました。彼の評判は、政党が人民の政党であり、政権の政策が人民の利益のためになるという信念を広めた識者たちによって大きく持ち上げられました。一部の裕福な批評家によってなされた野蛮な攻撃は、ジャクソンらが民主的であると同時に急進的であるという信念を強めることになりました。

Andrew Jackson

1820年代半ばに誕生したジャクソン派(民主党)は、さまざまな人物や利害関係者が、主に現実的なビジョンによって結びついた緩やかな連合体でありました。オールド・ヒッコリー(Old Hickory)と呼ばれたはジャクソンは素晴らしい候補者であり、彼が大統領に選出されれば、人々に利益をもたらすという2つの信念を抱いていました。候補者としての優秀さは、彼が何の政治的理念も持っていないように見えたことに由来しています。この時代、国政レベルでは明確な政党は存在していませんでした。ジャクソン、ヘンリー・クレイ(Henry Clay)、ジョン・カルフーン(John C. Calhoun)、ジョン・アダムス(John Adams)、ウィリアム・クロフォード(William H. Crawford)の5人は、大統領候補として、尊敬するジェファソンの党に属する「共和党員」を自称していました。国民共和党はアダムスとクレイの支持母体であり、1834年に誕生したホイッグス(Whigs)は何よりもジャクソン打倒のための党でありました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その80 政治の民主化

1820年代から1830年代にかけて、アメリカの政治はますます民主化されていきます。それまで任命制であった地方や州の役職は、選挙制になります。ほとんどの州で選挙権に対する財産権やその他の制限が緩和されたり廃止されたため、選挙権は拡大します。不動産所有者以外の者の選挙権を奪っていた自由所有権の要件は、1820年までにほぼすべての州で廃止され、納税者の資格も、徐々にではありましたが撤廃されます。

多くの州では、それまでの音声投票に代わって印刷投票が採用され、無記名投票も普及しました。1800年には2つの州だけが大統領選挙人の一般選出を規定していましたが、1832年にはサウスカロライナ州だけが依然として立法府にその決定を委ねていました。党の指名を行う機関として、立法府や議会の党員集会(caucuses)での選挙で選ばれた代議員からなる大会が次第に増えていきました。党員集会における選挙によって、秘密裏に会合する派閥(cliques)よる候補者指名制度は、民主的に選出された団体による公開の候補者指名制度にとって代わられていきます。

予備選挙と党員集会

このような民主的な変化は、アンドリュ・ジャクソン(Andrew Jackson)とその信奉者たちによって引き起こされたものではありません。かつてはそう信じられていたのですが、、、ニューヨークやミシシッピーなどの州では、ジャクソン派(Jacksonians)の反対を押し切って行われた改革もあります。政治的民主主義の普及を恐れる人々は、どの地域にもいましたが、1830年代にはそのような懸念を公に表明しようとする者はほとんどいなくなりました。ジャクソン派は、自分たちだけが民主主義の擁護者であり、上流階級の敵対勢力と死闘を繰り広げているという印象を効果的に定着させようとしました。このようなプロパガンダの正確さは、地域の状況によって異なるものでした。19世紀初頭の大きな政治改革は、実際には、どの派閥や政党によっても構想されませんでした。問題は、こうした改革が本当にアメリカにおける民主主義の勝利を意味するのかということでした。

党員集会

小さな派閥や自分たちの立場を固める「集票マシン」が、以前は党員集会を支配していたのですが、やがて民主的に選出された指名大会へと変わっていきます。1830年代には、ヨーロッパ系の一般人がほとんどの州で選挙権を持つようになりますが、指名プロセスは依然として人々の手許に及ばないものでした。さらに重要なことは、各州で競合する派閥や政党が採用する政策は、一般有権者にはほとんど関係のないものでした。

州政治を実質的に動かしていた代表と「連合」の立法計画は、主として政党の信奉者に報い、政権を維持するために作られたものでした。各州の政党は、庶民のためと言いながらも、銀行や交通事業の独占権を内部関係者に与えるような平凡な法案を支持するのが特徴でした。アメリカの政党が高邁な政治理念を掲げる組織ではなく、現実的な集票連合となったのは、この時代に制定された別の一連の改革が大きな要因でありました。選挙制度の改革は、州内の有力な得票者数で州庁を分割する従来の比例代表制とは対照的に、小選挙区の勝者または複数得票者に報いるもので、「単一課題」とか「イデオロギー」政党の可能性を阻み、多人数への対応を試みる政党を強化するものとなりました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その79  富と貧困

著名なフランスの政治思想家で法律家であるアレクシス・トクヴィル(Alexis de Tocqueville)は、同時代の多くの観察者と同じように、アメリカ社会は驚くほど平等主義的であると信じていました。結社による社会活動が盛んなことにも、トクヴィルはアメリカを旅行して驚嘆しています。フランスでは、結社はたいてい特権集団であり、自由な職業活動の敵でした。ところが、アメリカでは、結社が自由を促進し、デモクラシーを補完していると観察します。アメリカの富豪の多くは生まれながらにして貧しかったと考えられており、「成り上がり者」(self-made)という言葉はヘンリー・クレイ(Henry Clay)が広めたといわれます。社会は非常に流動的で、財産の急激な増減が顕著であり、頂点に立つことは最も謙虚な者以外には不可能であるとされていました。成功の機会は誰にでも自由に与えられると考えられ、物質的財産は完全に平等に分配されてはいませんでしたが、理論的には、社会的階層の両端には少数の貧者と少数の富者しか存在しないほど公正に分配されていました。

Alexis de Tocqueville

しかし、その実態は大きく違っていました。富裕層は当然ながら少ないのですが、1850年までのアメリカには、全ヨーロッパを上回る数の大富豪がいました。ニューヨーク、ボストン、フィラデルフィアには、それぞれ10万ドル以上の資産を有する者が1,000人ほどいましたが、当時、富裕層の納税者は自分達の資産の大部分を税務調査官に秘密にしていました。当時は、年収が4,000ドル、5,000ドルあれば、贅沢な暮らしができるのですから、まさに巨万の富を所有していたということです。

Democracy in America

一般に、都市に住む1パーセントの富裕層は、東北地方の大都市の富の約2分の1を所有していましたが、人口の大部分はほとんど、あるいは全く富を持っていませんでした。「庶民の時代(Age of the Common Man)」と言われて久しいのですが、やがて富豪は貧しい家ではなく、裕福で名声のある家に生まれることがほとんどとなりました。1830年以降、西部の街でも、貧富の差は激しくなりました。庶民はこの時代に生きてはいましたが、時代を支配していたわけではありませんでした。同時代の人々は、富豪は存在せず、アメリカ人の生活が民主的であると思い違いし、新世界でも旧世界と同様に富、家族、地位が影響力を発揮していることに気づかなかったようです。

アメリカ合衆国建国の歴史 その78  都市の発展と女性の進出

この時代、都市は新旧ともに繁栄し、その人口増加は国全体の目覚しい成長を上回ります。その重要性と影響力は、そこに住む比較的少数の市民をはるかに超えていきました。都市フロンティア(urban frontier) であれ、旧海岸地域であれ、前世紀末の都市は、その周辺地域の富と政治的影響力の中心となりました。世紀半ばに人口が50万人に達したニューヨーク市は、ニューヨーク州ポキプシー(Poughkeepsie)やニュージャージー州ニューアーク(Newark)のような都市とは桁違いの課題に直面していました。

しかし、この時代の変化のパターンは、東部都市でも西部都市でも、古い都市でも新しい都市でも、大都市でも小都市でも驚くほど似ています。その生命線は商業にあり、商人、専門職、地主などのエリートが、町政に経済性を求める古い理想を不本意ながら捨て去っていくのです。そして、新たな問題に対処するために増税が行われ、世紀半ばの都市社会が新たなチャンスを手に入れることができるようになっていきます。港湾の整備、警察の専門化、サービスの拡充、廃棄物の確実な処理、街路の改善、福祉活動の拡大など、これらはすべて改善することが社会的に有益であると確信した資産家たちの政治的手腕と利己心の結果でありました。

都市はまた、教育や知的進歩の中心地ともなりました。「貧困層」や「慈善」学校の汚名から解放され、比較的財政に恵まれた公的教育制度の出現や、技術革命によって可能になった活気ある低価格の新聞「ペニープレス」(penny press)の出現は、最も重要な発展の一つででありました。拡大するアメリカ社会における女性の役割は、相反する考え方によって変化していきます。一方では、解放を後押しする要因も生まれました。例えば、成長する都市では、公立学校で初等教育を受けた少女や若い女性に、事務員や店員として新しい仕事の機会が与えられました。

Dr.Elizabeth Blackwell

さらに公立学校の教師が必要とされたことも、女性の自立への道を開いていきました。より高いレベルでは、マサチューセッツ州サウスハドリー(South Hadley)のマウントホリヨーク(Mount Holyoke)のような女子大学の設立(1837年)や、オハイオ州のオベリン(Oberlin)(1833年)やアンティオキア(Antioch)(1852年)のようなごく少数の男女共学の大学への女性の入学によって、上昇志向のはしごを築くことができたのです。また、近代最初の女性医師とされるエリザベス・ブラックウェル(Elizabeth Blackwell)や、アメリカ女性で初めて宗派を超えた聖職に就いたオリンピア・ブラウン(Olympia Brown)など、稀に専門職に就く女性もいました。

Rev. Olympia Brown

他方、伝統的な教育を受けた上品な家庭の女性たちは、依然として柔らかく艶やかな期待に縛られていました。大衆的なメディアで語られる「女性としての義務」には、夫の財産を守ること、子どもや使用人の宗教的・道徳的教育、装飾品や読み物の適切な選択による高い感性の育成などが含まれていました。「真の女性」とは、多忙な男性が市場の厳しい世界で一日の激務を終えた後に、家庭を静寂と休息の場所とすることが期待されました。そうすることで女性は崇拝されながらも、明らかに非競争的な役割に留まっていました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その77  ユートピア移民のコロニー

次ぎに、新世界に新しい社会を作ろうとした思想家たちのユートピア移民のコロニーにも触れることにします。テネシー州のナショバ(Nashoba)やインディアナ州のニューハーモニー(New Harmony)には、それぞれフランシス・ライト(Frances Wright) とロバート・オーウェン(Robert D. Owen)という2人のイギリス人が入植しました。また、アイオワ州のアマナ(Amana)、ワスプ–テキサス州のニューウルムやニューブラウンフェルス(New Braunfels)には、ドイツ人が計画した入植地(colony)ができました。「明白なる運命」(Manifest Destiny) に代表される物質主義と拡張主義の大胆さが、移民によるアメリカ国民の膨張に一因しているとすれば、これらの共同生活の試みは、アメリカ人の思想を動かしている物質主義的とは違ったものでした。それは、改革の時代における地上の楽園を求めるというパターンに合致するものでもありました。

Robert Owen

北部のアフリカ系アメリカ人のほとんどは、自由以外のものをほとんど持っていませんでした。彼らは、北東部の都市でアイルランドの競争相手の進入に対して戦いを演じてはいました。この2つの集団の間の闘争は、一時的に醜い暴動に発展します。一般社会が自由なアフリカ系アメリカ人に示した敵意は、それほど激しいものではありませんでしたが、同様に絶え間なくみられました。政治、雇用、教育、住宅、宗教、そして墓地までもが差別され、過酷な抑圧体制のなかに置かれました。奴隷と違って、北部の自由なアフリカ系アメリカ人は、自分たちが支配されることを批判し、また請願することができましたが、彼らの状況が悪化し続けるのを防ぐに無駄であることを知っていきます。

Frances Wright

ほとんどのアメリカ人は田舎に住んでいました。機械の進歩によって農業生産は拡大し、農業の商業化が進みますが、独立した農業従事者の生活は世紀半ばまでほとんど変化しませんでした。しかし、一部の農家が発行する機関誌には、「自分たちの努力は社会から評価されていない」と書かれていました。農家の実態は複雑で、多くの農民は、労働に明け暮れ、現金は不足し、余暇はほとんどない生活を送っていました。農民の賃金は微々たるもので、農民の多くは、過酷な労働と現金不足、余暇のない生活を強いられていました。しかし、アメリカでは、自分の土地を持つ農家の割合がヨーロッパよりはるかに多く、世紀半ばになると、農業従事者の生活水準やスタイルが着実に向上していることが、さまざまな事実によって明らかになっていきます。

アメリカ合衆国建国の歴史 その76  移民と人口の増加

アメリカ社会は急速に変化していきます。人口増加率は、ヨーロッパ人にとっては驚くべきものでしたが、前世紀数十年間のアメリカの人口増加のペースは、10年で10分の3から3分の1というのが普通でした。1820年以降、人口増加率は全国一律ではありませんでした。ニューイングランドと南部大西洋岸地域は、人口の増加率は低迷します。ニューイングランドは西部保護地域の優れた農地に入植者を奪われ、南部大西洋岸地域は新参者に提供する経済的場所が少なすぎたからです。

1830年代から1840年代にかけての人口増加の特徴は、移民によるものでした。19世紀の最初の30年間に到着したヨーロッパ人は約25万人でしたが、1830年から1850年にかけてはその10倍となりました。移民は、アイルランド人とドイツ人が圧倒的に多く、彼らは、個人ではなく家族単位で渡航し、豊かな労働、土地、食料、自由、そして兵役のないアメリカ生活の驚くようなチャンスに魅了されたのです。

White Anglo Saxon Protestant

しかし、移民に関する単なる統計は、南北戦争前のアメリカにおける移民の重要な役割のすべてを語ってはいません。技術、政治、偶然性が交錯し、また新たな「大移動」が生まれたのです。1840年代には、大西洋での蒸気輸送が始まり、最後の世代のウィンドジャマー(windjammers)と呼ばれた貨物用帆船が帆走速度を向上させたことで、外洋航路はより頻繁に、規則正しく利用されるようになりました。どん欲なヨーロッパ人がアメリカの呼びかけに応じ、農地を占拠し、都市を建設することが容易になっていきます。アイルランド人の移民は、1845〜1849年のアイルランドのジャガイモ大飢饉によって流れを本流に変えていきます。

他方、ヨーロッパでは、民主主義思想の着実な成長が、フランス、イタリア、ハンガリー、ドイツで1848年の革命を生みます。イタリア、ハンガリー、ドイツ3カ国の革命は残酷にも弾圧され、政治難民が続出します。したがって、革命の後に渡航したドイツ人の多くは、自由な理想、専門的な教育、その他の知的資本をアメリカ西部に持ち込んだ難民でした。アメリカの音楽、教育、ビジネスに対するドイツ人の貢献は、統計で測ることはできないほどです。また、アイルランド人の政治家、警察官、神父がアメリカの都市生活に与えた影響や、アイルランド人全般がアメリカのローマ・カトリックに与えた影響も定量化することは難しいといえます。

Potato Famine

アイルランド人とドイツ人のほか、1850年代に農業不況のあおりを受けて、まだ開拓されていない大平原に新しい土地を求めて移住した何千人ものノルウェー人とスウェーデン人がいました。また、1850年代にカリフォルニアに移住した中国人は、苦境を乗り越えて金鉱で新たな機会を得ようとします。これら移民もまた、アメリカの文化に多大な影響を与えていきます。

アメリカ合衆国建国の歴史 その75 芸術と出版界

Stephen Foster

アメリカ国内では、ノア・ウェブスター(Noah Webster)の『An American Dictionary of the English Language』(1828年)が、かつてのキングズ・イングリッシュ(King’s English)に取り入れるべき何百もの地方由来の単語を掲載しました。1783年に出版されたウェブスターの青い背表紙の「スペラー」(Speller)、ジェディディア・モース(Jedidiah Morse)の地理の教科書、ウィリアム・マクガフィー (William H. McGuffey)の「エクレクティック・リーダーズ」(Electric Reader)は、19世紀のアメリカの学校で定番のものとなっていきました。

大衆文学では、セバ・スミス(Seba Smith)、ジョセフ・ボールドウィンJoseph G. Baldwin、ジョンソン・フーパー(Johnson J. Hooper)、アルテマス・ワード (Artemus Ward)などの作家が、辺境のほら話(tall tales)や田舎の方言を題材にしたユーモラスな作品を発表しました。成長する都市では、新しい大衆娯楽が生まれ、人種差別をあからさまにした吟遊詩人ショーが行われ、スティーブン・フォスター(Stephen Foster) のバラッドのようなものが作曲されました。P.T.バーナム(P.T. Barnum)の「博物館」やサーカスも中流階級の観客を楽しませ、識字率の向上は、ジェームズ・ベネッ(James G, Bennett)が開拓したニューヨーク・ヘラルド紙(New York Herald)の政治や国際ニュースにスポーツ、犯罪、ゴシップ、トリビアを加えた新しいタイプの大衆ジャーナリズムを支えました。ハーパーズ・ウィークリー』(Harper’s Weekly)、『フランク・レスリーズ・イラストレイテッド・ニュースペーパー』(Frank LeslieHarper’s Illustrated Newspaper)、サラ・ヘイル(Sarah J. Hale)が編集した『ゴーディーズ・レディーズ・ブック』(Godey’s Lady’s Book)などの大衆誌も、女性の願いを汲んで、新興の都市アメリカで大活躍しました。これらは、内外からは低俗と言われながらも、ウォルト・ホイットマン(Walt Whitman)が『草の葉』Leaves of Grass(1855年)で声高に歌った生命力を反映し、民主的文化の隆盛をもたらます。

Walt Whitman

アメリカ合衆国建国の歴史 その74 産業革命期の文学界

1861年から1865年にかけてのアメリカの南北戦争(Civil War)前の数十年間、アメリカの文明は旅行者を惹きつけてやみませんでした。何百人もの旅行者が、新しい社会に魅了され、ヨーロッパの人々にアメリカを紹介するために「伝説の共和国(fabled republic)」のあらゆる面について情報を得ようとしてやってきました。旅行者たちが何よりも興味をそそられたのは、アメリカ社会のユニークさでした。旧世界の比較的静的で整然とした文明とは対照的に、アメリカは激動的で、ダイナミックで、絶えず変化し、人々は粗野ですが生命力にあふれ、ものすごい野心と楽観、そして独立心に満ちているようにみえました。多くの教養あるヨーロッパ人は、軽い教育を受けたアメリカの庶民の自己肯定感に驚かされたようです。普通のアメリカ人は、地位や階級を理由に誰かに従うことはしないようにみえました。

Nathaniel Hawthorne

1800年代初頭、イギリスの風刺作家が「世界の至るところで、誰がアメリカの本を読むのか」と問いかけたことがあります。もし、そうした風刺作家が「ハイカルチャー」の枠を超えたところに目を向けていたなら、多くの答えが見つかっただろうと思われます。実際、1815年から1860年の間に、ヘンリー・ロングフェロー(Henry W. Longfellow) やエドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe)の詩、ジェームズ・クーパー(James F. Cooper)の小説、ナサニエル・ホーソーン(Nathaniel Hawthorne) の小説、ラルフ・エマーソン(Ralph W. Emerson)のエッセイなど、今では世界中の英語散文・詩の学習者に知られている伝統的文学作品が溢れんばかりに生み出されたのです。これらはすべて、アメリカらしいテーマを表現し、ナッティ・バンポ (Natty Bumppo)、ヘスター・プリン(Hester Prynne)、エイハブ船長(Captain Ahab)など、今や世界のものとなったアメリカらしい登場人物が描かれています。

Edgar Allan Poe

それはさておき、ナサニエル・ボウディッチ(Nathaniel Bowditch)の『The New American Practical Navigator』(1802年)、マシュー・モーリー(Matthew F. Maury)の『Physical Geography of the Sea』(1855年)、ルイス・クラーク探検隊 (Lewis and Clark Expedition) やアメリカ陸軍工兵隊による西部開拓、そしてアメリカ海軍南極観測隊のチャールズ・ウイルクス(Charles Wilkes)による報告書は、世界中の船長、自然科学者、生物学者、地質学者の机上に置かれることになりました。1860年までには、国際的な科学界はアメリカの知的存在を認めるようになりました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その73 産業革命の黎明期

経済、社会、文化の歴史を相互に切り離すことはできません。アメリカの「工場システム」の創設は、将来への期待、移民に対する一般的に歓迎される寛容さ、労働力の不足に関連する豊富な資源、イノベーションに対する前向きな考えなど、いくつかの特徴的なアメリカの国力における相互作用の結果でした。

たとえば、先駆的な繊維産業は、発明、投資、慈善活動の提携から生まれました。モーゼス・ブラウン(Moses Brown)は後にロードアイランド大学の創設者となり、後にブラウン大学(Brown University)に改名されます。彼の一族は、商売で得た財産の一部を繊維事業に投資しようとしました。ニューイングランドの羊毛と南部の綿を使った繊維事業は、ロードアイランドの急速に流れる川からの水力とを用いことができました。手工芸産業を機械ベースの産業に転換するのに欠けていたのは、機械そのものだけでした。

A machine Invented by Eli Whitney

イギリスで使用され始めていた紡績と織機は、厳重に輸出が禁じられていました。やがて、必要な機械の設計を彼の驚異的な記憶に残した若いイギリスの機械工であるサミュエル・スレーター(Samuel Slater)は、1790年にアメリカに移住するとともにブラウンの野心と彼の機械への関心に気づきます。スレーターはブラウンや他の人々とパートナーシップを結び、重要な設備を再現し、ロードアイランド(RhodeIsland) に大きな織物工場を建設しました。

時には、独学のエンジニアによって考案された地元アメリカ人の独創的な才能も利用が可能でした。その顕著な例は、1780年代に全自動製粉所を建設し、後に蒸気機関を製造する工場を設立したデラウェア州のオリバー・エバンズ (Oliver Evans) でした。もう1人は究極のコネチカットヤンキーであるイーライ・ホイットニー (Eli Whitney) でした。彼は綿繰り機の父であるだけでなく、組み立てラインで交換可能な部品を組み合わせてマスケット銃を大量生産するための工場を建設しました。ホイットニーは、大規模な調達契約によって、協力的なアメリカ陸軍から支援を受けました。産業開発に対する政府の支援はまれでしたが、そうした補助が始まると、たとえ控えめであってもアメリカの産業化にとって重要でした。

1811年にマサチューセッツの町に繊維工場を開設したフランシス・ローウェル(Francis C. Lowell) は、後に彼にちなんで名付けられ、父性主義的なモデル雇用者として画期的な役割を果たしました。スレーターとブラウンは家に住む地元の家族を使って工場に働き手を提供しましたが、ローウェルは地方から若い女性を連れてきて、工場に隣接する寮に入れました。 ほとんどが10代の女性は、農家の娘よりも負担が少ない60時間の労働時間で数ドルを支払われて喜んでいました。彼らの道徳的行動は婦人によって監督され、彼ら自身が宗教的、劇的、音楽的、そして学習グループを組織しました。こうしたアイデアは、イギリスやヨーロッパの他の場所の惨めなプロレタリアとは全く異なり、アメリカの新しい労働力となっていきました。

Labour in the Lowell Cotton Mills

ローウェルの繊維工場は、国内外から視察にくる訪問者を驚かせました。やがて、業界内の競争力がより大きな作業負荷、長時間労働、低賃金によって、当初のようなの牧歌的な性格を失っていきました。 1840年代から1850年代には、ヤンキーの若い女性が当初のような組合を結成してストライキを起こすと、彼らはフランス系カナダ人とアイルランド人の移民に取って代わられます。それでも、初期のニューイングランドにおける産業主義は、アメリカの例外主義を意識したものとなりました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その72 運河と鉄道

運河と鉄道は、外輪船に較べてもアメリカが起源ではありませんでした。イギリスとヨーロッパ大陸の18世紀の運河は、かさばる荷物を低速で安価に移動するための単純ではありましたが便利な手段でした。アメリカ人は、流れる川を接続することによって国の水輸送システムを統合していきます。五大湖とオハイオ-ミシシッピ川の谷がある大西洋に向かう水運です。最も有名な導管であるエリー運河 (Erie Canal)は、ハドソン川と五大湖を接続し、西部とニューヨーク市の港を結んでいました。ペンシルベニア州、メリーランド州、オハイオ州の他の主要な運河は、オハイオ川とその支流を経由してフィラデルフィアとボルチモア(Baltimore) に合流しました。

Erie Canal

運河の建設は1820年代から30年代にかけてますます人気が高まり、州や州と民間の努力の組み合わせによって資金が提供されることもありました。しかし、多くの建設された運河も、賢明でない運営の運河プロジェクトは消滅しました。そのような憂き目にあった州は、運河事業に対してより警戒するようになりました。

運河の開発は、鉄道の成長によって追い抜かれていきました。ミシシッピ川を越えた西部で不可欠な長距離をカバーするのには、鉄道は道路システムに較べてるかに効率的でした。アメリカで最初の鉄道であるボルチモアとオハイオ線の工事は1828年に開始され、大規模で爆発的な建設により、1860年までに国の鉄道網はゼロから50,000 kmに達しました。鉄道網は、急成長するシステムの運用の他に、政治的および経済的に大きな影響を及ぼしました。

Canal boat

ジョン・アダムズ(John Adams) は、「国内海外振興」擁護の最たる政治家でした。連邦政府が支援した高速道路、灯台、浚渫および水路の開墾作業です。どれも商取引を支援するために必要な開発です。強力なナショナリストで経済を近代化する計画、特に産業を保護する関税、国立銀行および運河、港湾と鉄道を推進する内陸部の改良の指導的提唱者、ヘンリー・クレイ (Henry Clay) もいました。クレイは、国内の改善と関税の賦課を通じて、製造品をアメリカの農業製品と交換する産業部門の成長を促進し、それによって国の各分野に利益をもたらすシステムを提案しました。しかし、クレイらの計画に内在するコストと拡大された連邦支配に対する多くの農本主義者の強い反対は、民主党と共和党の間の長い闘争を生み、南北戦争中の共和党における自由民主派(Whig) 経済主義の勝利まで続きました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その71  流通革命

あらゆる面における工業化進展の鍵である輸送の改善は、アメリカでは特に重要でした。発展途上のアメリカ経済の根本的な課題は、国の地理的広がりと貧弱な道路網の状態でした。五大湖、ミシシッピ渓谷、湾岸と大西洋の海岸を単一の国内市場に組み込むという幅広い課題は、航行可能な河川の豊かなネットワークに蒸気船を投入することによって最初に解決されました。

蒸気船


早くも1787年、ジョン・フィッチ(John Fitch) はフィラデルフィアの人々に実用的な蒸気船を公開しました。数年後、彼はニューヨーク市でもその業績は受け入れられました。政府の資金援助がないため、蒸気船の発明を完全に実用化するには民間の支援が必要でありました。その結果、最初の蒸気船の実用化を実現したのはロバート・フルトン(Robert Fulton) でした。彼は、1807年に最初にハドソン川(Hudson River)を外輪船(paddle wheeler) クレルモン号(Clermon)で走らせるための資金を得て、何度も運転していきました。その時点から、内陸では蒸気が王様であり、その最も壮観な船はミシシッピ川の外輪船でした。これは、浅い急流の川で航行ことができる船を作ることに挑戦した海洋技術者のユニークな作品となりました。

Robert Fulton

海洋技術者は、貨物、エンジン、乗客を喫水線の上の平らなオープンデッキに置くように設計します。これにより、「父なる川」(The Father of Waters)と呼ばれた浅瀬の多いミシシッピ川流域の大部分の温暖な気候で航行が可能でした。ミシシッピ川の蒸気船は、アメリカの象徴となっただけでなく、いくつかの法律にも影響を与えました。ギボンズ対オグデン(Gibbons v. Ogden)という係争(1824)で、マーシャル裁判長(Chief Justice Marshall)は、州間を流れる川の交通を規制する連邦政府の排他的権利を認める判決をだします。

潜水艦Nautilus号

「ギボンズ対オグデン」という裁判事例です。アーロン・オグデン (Aaron Ogden)の会社に、ニューヨーク州は州内の水域における蒸気船の独占航海権を与えていました。ところが、連邦法によって航海の許可を受けていたトーマス・ギボンズ(Thomas Gibbons)は、ニューヨーク州法を無視し、ニュージャージー州からニューヨーク州に蒸気船を航海させるビジネスを始めました。そこでオグデンは訴えを提起しますが敗訴します

アメリカ合衆国建国の歴史 その70 アメリカの経済

アメリカ経済は、1812年の米英戦争後の数10年間で驚くべき速度で拡大し成熟しました。西部の急速な成長により、穀物と豚肉の生産のための素晴らしい新しい中心地が生まれ、国のかつての農産物が他の作物に特化できるようになりました。特に繊維製品の新しい製造プロセスは、北東部の「産業革命」を加速させただけでなく、北部の原材料市場を大幅に拡大することで、南部の綿花生産のブームを説明することができました。

18世紀半ばまでに、ヨーロッパ系の南部人は、綿花経済が依存していた奴隷制を、彼らが以前にシステムを保持していた「必要な悪」ではなく「肯定的な善」と見なすようになります。利益を上げる上で綿花は中心的な役割を果たしていきます。産業労働者は、この期間の早い段階で、国の最初の労働組合、さらには労働者の政党を組織しました。自己資本要件が急増する時代に企業形態は繁栄し、投資資本を引き付けるための古くて単純な形態は時代遅れになりました。商取引はますます専門化され、製品の製造における分業は、生産を特徴づけるようになり、ますます洗練された分業を進めていきます。

成長する経済運営は、新興アメリカの政治的紛争と切り離せないものでした。当初の問題は、簡単な信用の分散型システムを望んでいるジェファソン(Jefferson) の共和党が代表農本主義者と、金融市場の安定と利益を求めている投資コミュニティの間の対立でした。ハミルトン(Hamilton)と彼のフェデラリストによって擁護されたこの後者のグループは、政府と民間株主が共同所有する1791年の第一合衆国銀行の設立で最初のラウンドを勝ち取りました。それは政府の財政代理人であり、その本部であるフィラデルフィアに信用システムの重心を置いたのです。信用システムの憲章は1811年に失効し、その後の1812年の米英戦争中に調達と動員を妨げた財政的混乱は、そのような中央集権化の重要性を示しました。したがって、ジェファソンでさえ、1816年にチャーターされた第二合衆国銀行の承認に転換していきます。

第二合衆国銀行

第二合衆国銀行は絶え間ない政治的攻撃に直面しましたが、紛争は、農業と商業的利益の間だけでなく、拡大する信用システムの利益へのアクセスを望んでいる地元の銀行家と銀行の社長のような人々の間でも起こりました。第二合衆国銀行のニコラス・ビドル (Nicholas Biddle) は、トップダウンの管理を通じて銀行業務の規則性と予測可能性を高めたいと考えていました。憲法は合衆国に貨幣をコイン化する独占的な権限を与え、通貨としても機能する紙幣を発行することを許可します。さらに各州による銀行の設立を許可します。しばしば政治的な権限を有する国営銀行は、紙幣の価値と同様に、その価値が大きく変動した土地によって通常担保されている危険なローンに対する調整された検査と保護機能を欠いていました。過剰な憶測、破産、収縮、そしてパニックは避けられない結果でした。

Nicholas Biddle

ビドルの希望は、アメリカ銀行への政府資金の多額の預金が、それが地元の銀行への主要な貸し手になることを可能にし、その強さの立場から、不健全な銀行に責任を取らせるか、または閉鎖させることができることでした。しかし、この考えは、信用を拡大し、その受取人を選択する権利は、重要であり、裕福なエリートだけに限定することは出来ない主張します。こうした立場は、成長する民主主義の精神に反するものでした。この見解の違いは、ビドルとジャクソンの間の古典的な戦いを生み出し、ビドルがアメリカ銀行の再認可を勝ち取ろうとしたこと、ジャクソンの拒否権と政府資金の重要な銀行への移転、そして1837年の恐慌に至りました。1840年代まで連邦政府は、内戦が国の銀行システムを作成する法律が制定されるまで、資金を独立した国庫に置きます。財政政策決定の政治化はアメリカ経済史の主要なテーマであり続けました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その69  国民の不和

国民の団結という旗印と一体感については、説得力のあるような見解とは違った方向を示しています。強力な国家政府を支持する人々を喜ばせた最高裁判所の判決は、反対派を激怒させましたが、マーシャルの私有財産の権利の擁護は、批評家によって財産保有の原則を裏切るものとして解釈されました。

1812年の米英戦争中の先住民族の土地の収奪は、西部の人々は、決しての手放しの祝福とは受けたとってはいませんでした。東部の保守派は地価を高く維持しようとしました。投機的な利益を求める人々は、貧しい不法占拠者に有利な政策に反対しました。政治家は、こうのような勢力均衡の変化を危惧していきます。ビジネスマンは彼ら自身とは違った関心を持つ新しい層に警戒していました。ヨーロッパからの訪問者は、いわゆる「好感情の時代(Era of Good Feelings) 」の間でさえ、アメリカ人は、彼ら自身以外の田舎者を軽蔑するという傾向があると指摘しました。

African American

1819年の経済的困難がもたらす恐慌も、国民の間に不和を生み出しました。混乱の原因は複雑でしたが、その最大の影響は明らかに、犠牲者が互いに混乱を非難する傾向がうまれました。第二合衆国銀行、東部資本家、利己的な投機家、または背信的な政治家など、敵対的または悪意のある利益のいずれかによる主張は、互いの感情を表現していました。

調和が国家政党のレベルで支配しているような場合には、不調和が州内で蔓延します。19世紀初頭のアメリカでは、地方および州の政治は通常、大きな問題ではなく小さな利益の追求が主たる関心でした。 政治の目標がしばしば愚かであるということは、政治的な争いが当然起こることを意味します。あらゆる面で、狡猾な派閥は、権力の獲得や安定のために激しい政治党争を繰り広げました。

Slaves

国の分裂の最も劇的な兆しは、奴隷制、特に新しい領土への広がりをめぐる政治的闘争でした。 1820年のミズーリ妥協(Missouri Compromise)は、少なくとも当面の間、さらなる不和の脅威を和らげることになりました。これにより州間の部分的なバランスは維持されます。ルイジアナ買収は、ミズーリ領土を除いて、奴隷制は36°30’線の南の地域に限定されることになっていました。しかし、この妥協は危機を終わらせることはなく、むしろ延期するだけでした。北部と南部の上院議員の議席が互いに拮抗するという状況は、人々がさまざまな大きな地理的部分における相反する利益を有するのだということを示唆していました。 ニューオーリンズの戦い(Battle of New Orleans)から10年後は、複雑な国民感情が広がる「好感情の時代」ではなかったということです。

アメリカ合衆国建国の歴史 その68 「好感情の時代」

1816年のジェームズ・モンロー(James Monroe)と1824年のジョン・アダムス(John Adams)の大統領選挙までの数年間は、アメリカの歴史で「好感情の時代」(Era of Good Feeling)として長い間知られています。党派抗争が比較的少なかった時代となったからです。このフレーズは、モンローが大統領就任の初めにニューイングランドを訪れたときに、ボストンの編集者によってつけられました。 連邦主義の中心地の人々が、共和党の大勝利だけでなく、連邦党の終焉を決定的な選挙で示した南部大統領の訪問について、このような前向きな言葉で表現したのです。このことは連邦党という政敵が傾いた劇的な証しともいえるものでした。もちろん、過去の部分的で政治的な違いはありましたが。

その後、いろいろな学者は、1812年の米英戦争におけるアメリカの戦略と戦術、戦争の具体的な結果、そして知恵にさえ疑問を投げかけました。しかし、現代のアメリカ人にとって、印象的な海軍の勝利とニューオーリンズでのイギリス軍に対するジャクソンの勝利は、モンローが描くことができた「好感情の時代」という貯水池のようなものを作り出しました。

ナショナリズムのムードを醸したのは、米英戦争後のアメリカの外交政策でした。フロリダは交渉で1819年にスペインから買収されました。その成功は、ジャクソンが外交上の精緻さよりも、外国との国境の不可侵性や、彼を支援する国の明白な準備に無関心であったことによるものでした。モンロー主義(Monroe Doctrine)(1823)は、実際には長い大統領メッセージに挿入されたいくつかのフレーズであり、アメリカはヨーロッパ問題に関与せず、南北アメリカへのヨーロッパの干渉を受け入れないと宣言するものでした。他国への直接の影響はわずかであり、それ自体の市民の感情を測定することは不可能でしたが、旧世界を新世界から警告するという自信に満ちた口調は、国を席巻したナショナリストのムードをよく反映していました。

circa 1902: A caricature of England and Germany responding to the Venezuelan Blockade. Punch – pub. 1902 Original Artist: By Bernard Partridge. (Photo by Hulton Archive/Getty Images)

国内では、マッカロック対メリーランド(McCulloch v. Maryland)やギボンズ対オグデン(Gibbons v. Ogden)などの事件におけるマーシャル裁判長(Chief Justice Marshall)の下での最高裁判所の判決は、州を後回しにし、議会と国力を強化することによってナショナリズムを促進する内容でした。1816年に第二合衆国銀行を認可するという議会の決定は、1812年の米英戦争によって明白となった国の財政的弱さ、および財政的利益への関心によるものでした。南部ジェファソン(Southern Jeffersonians)流民主主義を信奉する厳格な構造主義者が、こうした措置を支持するということが、かなりのナショナリズムの現れといえます。おそらく、新しい国民の統一感の最も明確な兆候は、勝利した共和党で、圧倒的に再選された旗手となったモンローでした。対抗馬がいない選挙はジョージ・ワシントン以来のことで、ニューハンプシャー州の選挙人1人のみがジョン・アダムズ(John Adams)に投票するという結果となりました。しかし、1825年2月第1回投票でアダムズは大統領に選出されます。

アメリカ合衆国建国の歴史 その67 先住民族への対応

若きアメリカは、先住民族、アメリカインディアンをどのように対処するかの課題を抱えていました。ヨークタウン(Yorktown)での勝利は、先住民族問題が避けることのできない課題となったのは過言ではありませんでした。アメリカ政府は、遠くの大陸にある資源へのアクセスのみを求めてきたヨーロッパの帝国の代表者と取引していました。やがて毎年人口が増え、西部のすべてのエーカーを自分たちのものにしていきました。それは、神と歴史の法則のもとで文化的に統合した民族であるとの確信によるものでした。やがて先住民族との妥協の余地はなくなりました。 1776年以前でさえ、アメリカの独立に向けた政策は、先住民族の将来に対する支配力を低下させるものでした。

イギリスと先住民族との間の取り決めに、1763年の布告ライン(The Proclamation Line)というのがあります。この取り決めは、イギリスの広大な北アメリカ領土を組織化し、西部辺境における毛皮取引、入植および土地の購入の規則を定めて、先住民族との関係を安定させるものでした。ケンタッキー・フロンティアのダニエル・ブーン(Daniel Boone)はこの取り決めを破って開拓を推進していきます。ペンシルベニア州とニューヨーク州の西部では、1768年のスタンウィックス砦条約(Treaty of Fort Stanwix)による広大な先住民の土地譲歩にもかかわらず、開拓者がオハイオ渓谷と五大湖への前進を続けていきました。

Tenskwatawa

武力抵抗による成功の望みを持っていた先住民族は、アパラチア山脈からミシシッピ川までのすべての先住民族の団結が必要となりました。この団結は単に達成することができませんでした。ショーニー族(Shawnee)の指導者、テンスクワタワ(Tenskatawa)は、預言者として知られていました。テンスクワタワやその兄テカムセ(Tecumseh)は、ギリス人入植者に対する反乱に関わったポンティアック(Pontiac)が約40年前に行ったように、団結のための運動を試みましたが、成功しませんでした。平和条約に違反して北西部領土に残っているイギリスの貿易商からの武器の形でいくつかの支援を受けましたが、先住民は1811年に起こったティッペカヌークリークの戦い(Battle of Tippecanoe Creek)でアメリカの民兵や兵隊との衝突で勝利を得ることができませんでした。

Battle of Horseshoe Bend

1812年の米英戦争の勃発は、イギリスが勝利した場合には王室による保護があるという、先住民に新たな希望を引き起こしました。テカムセ自身は実際には王立軍の将軍として任命されましたが、1813年のテムズの戦い(Battle of the Thames)で殺され、伝説によれば、彼の死体は解体されて、おぞましい土産として開拓者の間で分けられたという話があります

他方、1814年、アメリカのアンドリュ・ジャクソン将軍(Andrew Jackson)は、ホースシューベンドの戦い(Battle of Horseshoe Bend)で、イギリスが支援した南西部のクリーク族(Creek Indian)を破ります。戦争自体は引き分けで終わり、アメリカの領土は無傷のままでした。その後、小さな例外を除いて、ミシシッピの東では先住民による大きな抵抗はありませんでした。アメリカの輝かしい第1四半期の後、先住民族に開かれていたあらゆる可能性は下降していきます。

アメリカ合衆国建国の歴史 その66 マディソン大統領の外交

次ぎに大統領となったマディソンは外交に専念することを余儀なくされます。イギリスとフランスはどちらもアメリカの海運貿易を非難しますが、特にイギリスは非常に激怒します。これは、イギリス海軍の方が優越であり、イギリスの名誉に対するアメリカ人の侮辱に非常に敏感だったからです。フロリダとカナダにおける領土の膨張主義は、戦争を予想すると共に海軍の増強を求めるものとなります。マディソン自身の目的は、海洋の自由の原則を維持し、アメリカが自らの利益と市民を保護する能力を主張することでした。ヨーロッパの敵対者と公平に対峙しようと努力している時、彼はイギリスとの戦争に引き込まれます。アメリカは1812年6月に下院で79〜49票、上院で19〜13票の投票で戦争支持が可決されました。強力な連邦主義を唱えるニューイングランドの州では、戦争への支持はほとんどありませんでした。

米英戦争

米英戦争(War of 1812)は1812年に始まり、皮肉な結果となります。イギリスはすでに枢密院勅令で攻撃命令を撤回していましたが、宣言の時点でそのニュースはアメリカには届いていませんでした。軍事的にアメリカ人はあらゆる面で貧弱な状況にありました。軍備に対するイデオロギー的な反対によって、最小限の海軍力しか持たないためでした。 1812年、上院がアメリカ銀行の憲章の更新を拒否したことは、銀行に対するイデオロギー的な異議申し立てが原因でした。企業家の感情は政権に対して敵対的でした。このような状況下で、アメリカは2年間の戦争で驚異的な成功を収め、最終的には大西洋、五大湖、シャンプレーン湖(Lake Champlain)での会戦で勝利します。陸では、イギリスの襲撃隊がワシントンD.C.の公共建築物を燃やし、マディソン大統領は首都から逃げだす有様でした。長期的な影響をもたらしたのは、ニューオーリンズの戦いでアンドリュ・ジャクソン(Andrew Jackson)が勝利したことです。1815年2月に勝利してその2週間後、ベルギーにおけるゲント条約(Treaty of Ghent)の調印で平和が達成されます。この戦いによってジャクソンの政治的な評価は大きく高まりました。

米英戦争

こうした経緯からいえることは、この和平合意の最も重要な点は、カナダ国境の境界委員会を設置するという合意でした。それはイギリスとアメリカとのいがみ合いを終わらすものではありませんでしたが、合意は相互信頼の時代の到来を告げるものでした。アメリカの第二の独立戦争と呼ばれることもある1812年の戦争の終結は、歴史的な繰り返しのようでした。この戦争は、イギリスとイギリス国民に対する古い痛みと恨みの感情を和らげることになりました。それでも多くのアメリカ人にとって、イギリスは一種の父方のような感情を持っていました。やがてイギリスとの戦の不安から解放されると、アメリカ人は西部への開拓へと向かうことになります。

アメリカ合衆国建国の歴史 その65 ジェファソンと共和党の進出

アメリカ合衆国の第3代大統領、トマス・ジェファソン(Thomas Jefferson) は、「アメリカ独立宣言」の起草者の一人としても知られています。大統領就任にあたり、ジェファソンは次のような和解を求める演説をします。すなわち「我々はすべて共和主義者であり、我々はすべて連邦主義者です。」彼には恒久的な二大政党制の計画はありませんでした。彼はまた、小さな政府と憲法の厳格な施行に対する強いコミットメントを表明します。これらのすべてのコミットメントは、戦争、外交、および政治的不測の事態の緊急事態によってすぐに試練に立たされることになります。

アメリカ大陸では、ジェファソンは拡大の方針をとります。彼は、ナポレオン1世(Napoleon I )がルイジアナ準州を売りに出し、アメリカでのフランスの野心を放棄することを決定したことの機会をとらえます。スペインは、領土をフランスに譲渡していました。この特別な買収であるルイジアナ買収は、1エーカーあたり数セントの価格で購入され、アメリカの面積を2倍以上に増やすことになります。ジェファソンには、そのような行政権の行使においては、憲法上の制裁はありませんでした。彼は、この領土拡大に関する憲法の幅広い建設的な見解をとりながら、関連する規則を作っていきます。

Monticello

ジェファソンはまた、スペインからフロリダを獲得する機会を求め、科学的および政治的な理由から、メリウェザー・ルイス(Meriwether Lewis)とウィリアム・クラーク(William Clark)を大陸全体の探検隊として派遣しました。この領土拡大には問題がなかったわけではありません。ニューイングランド連邦主義者によって策定された北軍の計画を含む、さまざまな分離主義運動が頻繁に発生します。 1800年にジェファソンによって副大統領に指名されたアーロン・バー(Aaron Burr)はいくつかの西部開拓での謀議を主導しました。バーは1804年に辞して反逆罪に問われますが、1807年に無罪となりました。

最高行政責任者として、ジェファソンは司法のメンバーと衝突しました。その多くはアダムズによる任命者でした。彼の主な反対者の1人は、アダムズが任命したジョン・マーシャル(John Marshall) 裁判長であり、特にマーベリー対マディソン(Case of Marbury v. Madison)(1803)において、最高裁判所は議会の立法について、違憲審査を最初に行使します。この司法審査の権限は有名となります。

University of Virginia

ジェファソンの二期目の任期が始まる頃、ヨーロッパはナポレオン戦争(Napoleonic Wars)に巻き込まれました。アメリカは中立を維持しますが、イギリスとフランスの両方がさまざまな命令を課し、ヨーロッパとのアメリカの貿易を厳しく制限し、新しい規則に違反したとしてアメリカの船舶を没収します。イギリスはまた、アメリカ市民が時々巻き込まれるような事件を起こします。ジェファソンはイギリスとの条約条件に同意できず、アメリカの輸出を全面的に禁輸するイギリスとフランスの両方に「中立的権利」の侵害をやめさせようとします。そして通商禁止法が1807年に議会が制定されます。ニューイングランドでは、禁輸措置が、ニューイングランドの富を破壊するための南部の計画であると指摘します。マディソンが大統領に選出された直後の1809年に、この通商禁止法は廃止されます。

アメリカ合衆国建国の歴史 その64 ジョン・アダムズが大統領に就任

ウィスキー課税への反対とジェイ条約への批判に苦しむワシントンは、3期目の大統領に立候補しないことを決断します。ハミルトンが起草した大統領離任の挨拶で、彼は新党の政治を分裂的で危険であると非難します。しかし、政党はまだ国家の目的を十分に鼓舞することができずにいました、連邦主義者のジョン・アダムズ(John Adams)が第2代の大統領に選出されたとき、大統領候補として2番目に多くの票を獲得した民主=共和党のジェファソン(Jefferson)が副大統領になりました。ヨーロッパと公海での戦争、そして国内での激しい対立は、新政権を苦しめることになりました。

John Adams

イギリスがアメリカの海軍を保護するという立場から、フランスとの仮想的な海軍戦争が続きます。1798年に外交的な解決交渉にあたるアメリカの委員に対してフランス側は賄賂を求める事件が発覚します。これはXYZ事件(XYZ Affair)と呼ばれました。これによってアメリカでは反フランスという国民感情が高まります。その年の後半、議会の連邦主義者の過半数が外国人・扇動法(Alien and Sedition Acts)を可決します。これは、親フランス活動の疑いのある外国人に厳しい民事制約を課し、政府を批判したアメリカ市民に罰則を科し、憲法修正第1条で謳う報道の自由の保証を破棄する内容でした。

この法律によって、共和党支持の編集者が頻繁に起訴され、その一部の者は服役することなります。これらの措置は、次に、マディソンとジェファソンによってそれぞれ起草されたヴァジニア州とケンタッキー州の決議を呼び起こします。連邦権力にとり耐え難いような反対に対して、政府は国家主権を行使するのです。この時期、アメリカは、フランスとの戦争が差し迫っているような状況にありましたが、アダムズは正式な宣戦布告を行わないことを決意し、やがてその方針が功を奏します。


Abigail Adams

予想される戦費を賄うために課されていた税は、ジェイコブ・フライズ(Jacob Fries)が率いるペンシルベニアでの新しい少数組織の反乱などで、多くの不満が持ち上がりました。フライズの反乱は難なく鎮圧されますが、市民の間に横たわる自由から課税に至る広範な意見の不一致がアメリカの政治を二極化させていきます。政治的アイデンティティの基本的な思想は、連邦主義者と共和党員に分かれ、1800年の選挙で、ジェファソンは彼の旧友であり同僚のアダムズに挑戦し、反連邦主義者の反対の立場からの幅広い情報源を利用しました。その結果は、政党間の大統領職をめぐる最初の争いとなり、アメリカの近代史において総選挙の結果によって最初の政権交代が生まれました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その63  1789年〜1816年の連邦政府と党の形成

新憲法の下での最初の選挙は1789年に行われました。ジョージ・ワシントン(George Washington) は全会一致で国の初代大統領に選ばれます。彼の財務長官であるアレクサンダー・ハミルトン(Alexander Hamilton)は、反連邦主義者の古い懸念に代わる明確な計画を提案します。1780年代初頭以来、国債は経済的理由と組合の接着剤として機能するゆえに、国債は「国の祝福」であると信じていたハミルトンは、新しい権力基盤を利用した人物です。彼は、連邦政府が旧大陸会議の債務を減価償却額ではなく額面で返済し、州政府ではなく中央政府に債権者の利益を引き寄せて州債務を引き受けることを推奨します。

Alexander Hamilton

この計画は、戦後の不況の間に大幅な割引で証券を売却した多くの人々や、債務を拒否し、他の州の債務を支払うために課税されることを望まなかった南部の州からの強い反対に会います。国務長官ジェファソン(Secretary of State Jefferson)の努力のおかげで、議会で妥協点に到達します。これにより、南部の州は、南部に近いポトマック(Potomac)に新しい国の首都の場所を修正するという北部の合意と引き換えに、ハミルトンの計画を承認しました。

ハミルトンが次にイングランド銀行(Bank of England)をモデルにしたアメリカ銀行を設立する計画を提案したとき、反対が起こり始めました。多くの人が、憲法はこのような権力を議会に伝えていなかったと主張します。しかし、ハミルトンは、憲法によって明示的に禁止されていないものはすべて黙示的権力の下で許可されているのだとワシントンを説得します。憲法解釈で厳格な構造主義者の考えとは対照的に、「緩い」解釈を取り入れるのです。銀行法は1791年に可決されます。ハミルトンはまた、時期尚早であるとされた初期の産業支援計画を提唱します。1794年に西ペンシルベニアで小規模のウィスキー課税への反対が起こりますが、連邦の収益を上げるウィスキー物品税を課しました。

John Jay

ハミルトンの財政政策に反対する党が議会で結成され始めます。マディソンを中心に、ジェファソンの支援を受けて、すぐに議会を超えて財政政策は人気のある支持者を広げていきます。一方、フランス革命とその後のイギリス、スペイン、オランダに対するフランスの宣戦布告は、アメリカとの忠誠心を分裂させていきます。民主共和党はフランスへの支持を表明するために立ち上がりますが、ハミルトンと彼の支持者である連邦主義者は経済的な理由でイギリスを支持します。ワシントンはヨーロッパでアメリカの中立国を宣言しますが、イギリスとの戦争を防ぐために、ジョン・ジェイ(John Jay)裁判長をロンドンに派遣して条約の締結を交渉します。ジェイ条約(1794年)では、アメリカはわずかな譲歩しか得られず、屈辱的ながらアメリカの海運を保護してもらうことの代償としてイギリス海軍の覇権を受け入れました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その62 「心の宗教」の衰退

熱烈な「心の宗教(Heart religion)」は「頭の宗教(Head religion)」にとって代わられます。西部の主にスコットランド-アイルランドの長老派教会(Scotch-Irish Presbyterian)の牧師には、こうした熱烈な宣教活動は危険な現象であると考えられました。なぜなら、任命された教会指導者は牧師からのより正統的な聖書学を好んでいたからです。さらに、騒々しい悔い改めによって救いを得るという考えは、カルヴァン主義者(Calvinist)の予定説(predestination)を弱体化させるものでした。実際、人々の階層や植民地の境界における混乱は、いくつかの分裂を引き起こしました。

メソジストにはこの種の問題が少なかったようです。その理由は予定説を決して受け入れなかったからでした。そしてもっと重要なことに、その教会組織は民主的であり、初歩的な教育を受けた信徒伝道者は、個々の会衆を率いることから地区や地域の「会議」を主宰し、最終的には教会の会員全体を受け入れることができました。メソジストは、孤立した集落から集落へと伝道し、魂を救い、神の言葉を力強く自由に叫ぶ牧師、または巡回牧師の活躍を通じて、フロンティアの状況に非常にうまく適合しました。

ユニテリアン教会堂-マディソン市

「大覚醒」(リバイバル)の精神は、東にも及び、特にニューイングランド(New England)地方で「第二次大覚醒」と呼ばれるほど盛んになりました。野外伝道集会ほど抑制されたものではありませんが、従来の会衆派教会や長老派教会よりも暖かい集会を強調するものでした。ライマン・ビーチャー(Lyman Beecher)のような大学教育を受けた聖職者は、建国の父たちの一部で見られた神学主義やフランス革命の無神論に対抗するため、大覚醒を推進することを使命としていました。大覚醒はまた、信徒が救いの言葉を広めることに参加することで、信徒の忠誠心を新たに深めることに寄与しました。このような自発的な活動は、各教団に対する税制支援が州ごとに徐々に打ち切られる状態を補って余りあるものとなりました。

建築家Frank Llyod

初期の共和国の時代はまた、特にボストンなどの都市で教育を受けたエリートの間で、ユニテリアン主義(Unitarianism)に具現化されたように、穏やかな形のキリスト教の成長を見ました。ユニテリアンは、慈悲深い神が、人間に与えられた理性を働かせることによって、神の意志を人間に知らせるという考え方です。ユニテリアンの考えでは、イエス・キリストは単に偉大な道徳的教師であるとします。普通のキリスト教徒は、ユニテリアン主義を思想や社会改革に過剰に関心を持ち、罪やサタンの存在にあまりにも甘やかされ、無関心であると考えました。そして1815年までに、アメリカン・プロテスタンティズムの社会構造は、国民文化の中に多くの宗教家によって体系づけられ形成されていきます

アメリカ合衆国建国の歴史 その61 宗教的大覚醒(リバイバル)

独立後の最初の数年間に、宗教は「アメリカ社会」の出現において独特で中心的な役割を果たし、いくつかの重要な歴史的な発展をもたらしました。 1つはイギリスやヨーロッパの宗教上の権威に依存しないアメリカ独自の宗派の創設でした。1789年までにアメリカの英国国教会は、聖公会(Episcopalians)となります。その他に、以前はウェスリアン(Wesleyans)と呼ばれたメソジスト(Methodists)、ローマカトリック教徒、およびさまざまなバプテスト(Baptist)、ルーテル(Lutheran)、オランダ改革派(Dutch Reformed congregations)の会衆が組織を設立していきます。

もう1つの重要な独立後の発展は、特に開拓地における宗教的熱意(enthusiasm)の再燃であり、それが信徒への宗教的活動へと駆り立てたことです。民主主義における多様性の影響を最も強く感じている州では、教会への税制支援を廃止します。さらにこの時期には、啓蒙主義の価値観とアメリカの行動主義を結びつけるリベラルで社会的参与に前向きなキリスト教の宗派が誕生します。

Frontier Revival

1798年から1800年の間に、ケンタッキー州ローガン郡(Logan county)でのジェームズ・マクレディ(James McGready)やジョンとウィリアム・マクギー兄弟(John and William McGee) の指導の下で、大規模な大覚醒–リバイバルから始まり、忽然とした運動の発生がプロテスタントの会衆を震撼させます。これに続いて、 1801年8月6日から13日まで開かれたケインリッジ(Cane Ridge)での巨大な野外伝道大会(Cane Ridge Revival) が開かれ、2万人の人々を集めそこで数千人が「回心する」という現象が起こりました。説教者はバートン・ストーン(Barton Warren Stone)という伝道者でした。

George Whitefield

フロンティア大覚醒(リバイバル)集会は次のような姿でした。すなわち、単なる正統的なキリスト教の信奉から、罪人に対する神の憐れみへの完全な確信への転換は、ほとんど聖書を勉強していない人々にも受け容れることができるような深い感情的な経験でありました。ですからほとんど読み書きができない人も、硫黄と火と恵みの雨を説き、悔い改めた聴衆を興奮の状態に陥れ、泣き叫び、身もだえし、気を失い、公の場から運び出されるという光景が展開されました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その60 社会革命

アメリカの独立革命は大きな社会的激変となり、やがてその影響は緩やに広く拡散していきます。影響は地域によって異なるものでした。自由と平等の原則は、この国の富の多くを築いたアフリカの奴隷制度と激しく対立していました。その間、北部のすべての州で徐々に奴隷制が衰退していきます。さらにヴァジニアの自由主義的な奴隷所有者が、次々に奴隷を解放していきます。しかし、特にサウスカロライナとジョージアでは、ほとんどの奴隷商人にとって、奴隷解放という理想は何の価値もないものでした。奴隷制を敷いていた州全体で、奴隷制度は人種的劣等感という白人至上主義の思想によって強化されるようになったのです。

しかし、奴隷解放の世相となるにつれて、自由な黒人の新しい共同体が生まれ、黒人は積極的に行動し、天文学者のベンジャミン・バネカー(Benjamin Banneker)やアフリカ・メソジスト・エピスコパル教会シオン(African Methodist Episcopal Church Zion) の創設者で宗教家のリチャード・アレン(Richard Allen)など、優れた人物を輩出することになります。1790年代以降、各州が黒人の活動、住居、経済的選択を制限する法律を採択したため、自由な黒人の社会的地位は悪化していきます。一般に、彼らは貧しい地域に住み、教育や機会を与えられず、長きにわたって下層階級になっていきます。

Benjamin Banneker

アメリカ独立革命は、同時に女性の経済的な重要性を劇的に謳い上げます。女性は農場や多くの企業において、なくてはならぬ存在でしたが、独立した地位を獲得することはほとんどありませんでした。戦争によって男性がその地域から狩り出され、女性は労働力としてしばしば大きな責任を負わなければなりませんでした、女性はその役割を立派にやり遂げたのです。共和党の考えは女性の間で広がり、女性の権利、教育、社会における役割についての議論するようになりました。一部の州は、女性が財産の一部を相続し、結婚後にも財産を限定的ながら管理できるように、相続法と財産法を修正しました。しかし、全体として、革命自体は、女性の究極の地位の向上について、緩やかな影響しか及ぼしませんでした。女性を男性と同等の政治的および市民的地位において独立した市民にするというのではなく、共和主義者の母親としての女性の重要性をより認識するという変化に現れていきます。

Richard Allen

アメリカ人は、独立のために慣習上の権利を守ろうとして戦い、慣習となっている法改正の計画はありませんでした。しかし、次第に慣習法の中には、共和制の原則にそぐわないと思われるものが出てきます。その顕著な例が相続法です。新しい州では、古い優先順位で相続するでのではなく、遺留分を平等に分割することを支持していきます。こうした相続は、アメリカ社会が好む平等主義と個人主義の両方の原則に合致するものでした。しかし、刑法の人道化(Humanization of the penal codes)は、19世紀に入ってからアメリカ人の感情やヨーロッパの模範にも触発されますが、徐々にしか進みませんでした。

アメリカ合衆国建国の歴史 その59 憲法草案の議論

憲法草案は、広く反対を呼び起こします。「反連邦主義者」と呼ばれた人々がいました。彼らは、本当は国民主義者でありながら、反対派が巧みに「連邦主義者」という呼称を使ったことからこう呼ばれました。反連邦主義者はヴァジニア、ニューヨーク、マサチューセッツなどの州で強く、経済が比較的順調だったので、多くの人々は反連邦主義者への救済措置はほとんど必要ないと考えていました。反連邦主義者は、新政府が商人や富裕層の手に落ちるのではないか、という恐れを抱いていました。善良な共和主義者の多くは、6年任期の上院の仕組みに寡頭政治を感じていました。権利章典がないことは、中央権力に対する深い恐れを抱かせました。しかし、連邦主義者は、通信、報道、組織、そしてより有利な議論に長けていました。反連邦主義者は、内部に一貫性や統一された目的を持たないという弱点を抱えていました。

Bill of RIghts

憲法草案における議論は、極めて多くの緻密な文献を世に送り出します。その内容の多くは非常に高いレベルにありました。「Publius」というペンネームを使って、ハミルトンとマディソンによって書かれた長く持続的な親連邦主義者の議論は、連邦主義者として新聞に登場しました。これらのエッセイは、連合の弱さを攻撃し、新しい憲法は社会のすべての部門に利点をもたらし、何ら脅かすものはないと主張しました。議論の過程で、彼らは強力なナショナリストの立場から、国家を保護する混合型の政府の考えをより尊重する立場に移りました。マディソンは、多数の利益が互いに対抗しあうことによって、反対者から絶えず迫られる権力の強化を防ぐのだと主張しました。

James Madison

権利章典(Bill of Rights)は、マディソンの外交手腕によって最初の議会を通過し、潜在的な反対派の多くを鎮めることができました。1791年に批准された最初の修正第10条は、アメリカ人が求めてきたイギリスの基本的な慣習法の権利を憲法に取り入れたものです。特記したいのは、それ以上のことが記されたことです。イギリスとは異なり、アメリカは報道の自由と平和的な集会の権利を保証したことです。また、イギリスとは異なり、宗教の独立とその自由な活動に同等の価値のある条項では、教会と国家が正式に分離されるのです。これは、各州が独自の宗教を維持する自由を支持するということでした。

アメリカ合衆国建国の歴史 その58 連邦政府と州政府の権限

現代の法理論では、立法府が国の最も強力な部門であるとされます。そのため、行政府に対しては拒否権が与えられ、審査権を持つ司法制度が確立されます。また、新しい連邦司法は、憲法または連邦法に抵触する州法に対して拒否権を持つことが暗黙の了解となりました。州は、商業活動を奨励する目的で、契約上の義務を損なう法律を制定することを禁じられており、議会は事後法を制定することはできないとされました。

連邦議会の構成

しかし、議会には、近代的な主権国家の基本的な権限が与えられていました。これは連邦共和国であり、合衆国は貴族といったような名誉ある称号を与えることはできないとしました。連邦政府の権力を最終的に拡大するという展望は、憲法の一般的な目的を実現するために「必要かつ適切な」立法を行う権限を連邦議会に与えるという条項に現れています。

州はその民事管轄権を保持しましたが、連邦政府へ政治的重心をおくという明確な方針がありました。その最も基本的な示唆は、政府は、州の権限に関係なく、すべての州全体へ個人として市民に直接行動するという普遍的な理解でした。 憲法の言葉は新しい表記を使うことになります。すなわち「私たちはニューハンプシャー、マサチューセッツなどの人々」ではなく、「私たちはアメリカの人々」という呼び方をすることです。

アメリカ合衆国建国の歴史 その57 憲法制定会議

1787年5月に開催されたフィラデルフィア憲法制定会議(Philadelphia Convention) は、旧議会によって公式に招集され、連邦規約の欠陥を修正することを目的としたものでありました。しかし、ヴァジニア代表が提出したヴァジニア・プランは、修正にとどまらず、既存の連邦制に代わる新しい中央政府の創設を大胆に提案するものでした。こうして会議では、アメリカ合衆国が近代的な意味での国となるのか、それともいくつかの州が提出したニュージャージープランの原則である単一の議会に代表され、自治権を持つ平等な州の弱い連合体として存続するのか、という問題に直面することになりました。7月中旬に、人口に基づく代表制と全州に平等な代表制とする二院制の妥協案が承認され、この決定は事実上有効となりました。最終的な形の中央政府は、さまざまな議論がなされ、国家としての優れた幅広い権限が与えられることになりました。

Continental Congress

憲法草案は、フィラデルフィア会議での議論の後に作られることになります。州の憲法で一般的に見られるよりもはるかに強力な権力分立の原則を具体化するものとなりました。最高行政官は単一の人物となり、複数の行政官も議論されますが却下されます。最高行政官、または大統領は州で決められる選挙人団によって選出されることになりました。議会における選挙で最高行政官を決めるべきとのヴァジニア案も真剣に議論されました。憲法違反に対する最高行政官のへ縛りは、弾劾できるということを念頭におくものでした。ジェームズ・マディソン (James Madison)はこれを非常に重要視していました。

James Madison

議員の選出が州の人口に比例するというヴァジニア案の提案は、上院の各州が平等な代表を出すというように大幅に修正されました。しかし、人口の中で奴隷の人々を数えるかどうかの問題は、深刻な議論となりました。いくつかの論争の後、奴隷制反対勢力は妥協案に賛成し、奴隷の人々の5分の3が代表となるとして数えられることになりました。また、逃亡した奴隷を連れ戻すことを許可する法律「逃亡奴隷」が追加されますが、共和主義者への気兼ねから、奴隷という言葉は使われませんでした。

フィラデルフィア憲法制定会議は、現存する政府を「修正する」のではなく、新しい政府を創設することを意図していました。会議の結果はアメリカ合衆国憲法となって結実します。この会議はアメリカの歴史の中でも中心となる出来事の一つといわれています。

アメリカ合衆国建国の歴史 その56 共和制の課題とシェイズの反乱

比較的保守的であった憲法は、民主化が進む政治の潮流を食い止めることはほとんどできませんでした。それまでのエリート層は新しい政治勢力と闘わなければなりませんでしたが、その過程で、新体制でいかに組織化していくかの方策を学んでいきます。行政権力は弱体化していきま、多くの選挙が毎年行われ、その任期は限られました。立法府は、最近入植し政治経験の少ない新しい議員をすぐに容認していきました。

シェイズの反乱

さらに、新しい州政府は、すべての階層に影響を与える大きな問題に取り組まなければなりませんでした。財政上の必要から、紙幣が発行されました。戦後、いくつかの州で紙幣の発行が再開されますが、紙幣は減価する傾向があり、激しい論争になることが多かったのです。イギリスに忠誠であった人々にどう対応するかについても、戦後の激しい政治論争のテーマとなりました。アレクサンダー・ハミルトン(Alexander Hamilton)のような、財産と権利の回復を求める人々の抗議にもかかわらず、多くの州でこうした忠誠者は追い出され、彼らの財産は差し押さえられ、競売という形で再分配され、投機の機会を提供することになりました。

多くの州は経済的な不況に見舞われていきます。正統派の支配下にあったマサチューセッツ州では、戦後の不況下で厳しい課税が行われ、多くの農民が借金を負わされました。1786年末、借金を返せなくなった農民たちは、独立戦争の将校ダニエル・シェイズ少佐(Capt. Daniel Shays)のもとに、裁判を阻止するために蜂起します。シェイズの反乱は、1787年初頭、州内で挙兵した軍隊によって鎮圧されます。しかし、この反乱は国内の富裕層に恐怖を与えます。さらに、共和制という仕組みは不安定であるという古典的な説を正当化するような出来事でもありました。この出来事は、アナポリスでの予備会議を経て、フィラデルフィアで開催される連合規約の改正会議に代表を送るようにという強い刺激を各州議会に与えることになります。

Captain Daniel Shays

アメリカ合衆国建国の歴史 その55 各州の政治

新しい政府を形成することの難しさは、連邦だけでなく、個々の州にも影響を及ぼしました。各州は、慣習または既存の議会のいずれかで策定された独自の憲法を確立しました。これらの憲法の中で最も民主的なのは、ペンシルベニア州の仮想革命の産物であり、高度に組織化された急進的な派党が革命危機の機会をとらえて権力を持っていきました。参政権は納税者に与えられ、ほぼすべての成人男性が納税していました。西部の郡の人口を取り込むために代表権が改革されました。そして、一院制の立法府が設立されました。憲法への忠誠の誓いは、しばらくの間は政敵や宣誓をしなかったクエーカー教徒を除外しました。他の州の憲法は、伝統的な支配エリートの確固たる政治的優位性を反映していました。

Continental Congress

権力や幅広い参政権と代表権は、財産資格によって制限され、一部の階層の人々のものとなりました。州知事は、場合によっては大富豪である必要がありました。上院議員は裕福であるか、有権者の裕福な部門によって選出されました。しかし、このような条件は不変ではなく、有力な土地持ちのエリートを抱えていたヴァジニア州では、このような制限を設けることはありませんでした。いくつかの州は職務のための宗教的資格を要求しました。政教分離は一般的な概念ではなく、バプテストやクエーカー教徒などの少数派は、マサチューセッツ州とコネチカット州で批判に晒されることになりました。

Democracy or Dictator

エリート層の影響は、この時代の最も重要な変革の一つであり、ほとんど意識されず、意図されることもなく発揮されることになりました。それは、立法機関において人口に比例した代表権を与えるという原則が受け入れられたことにありました。人口の多い地域と財産の多い地域が一致していれば、人口比例代表制は可能であり、魅力的でもありました。人口が多い地域の大商人や地主は、政治的プロセスにおいて何らかの支配力を保持しながら、政治的優位性を発揮し続けることができました。この原則は、新しい連邦憲法の下で、下院と選挙人である有権者の配分を決めることに再び登場することになりました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その54 連邦制度と国家主権について

議会は連合規約を強行する力を持たず、戦時中の債権者への返済がひどく遅れていました。1782年にはメリーランド州、1785年にはペンシルベニア州が、大陸議会が自国民に対して負っている債務を返済する法律を可決したとき、各州の議会の存在理由の一つが崩れ始めていました。輸入品に賦課金を課すことによって歳入を増加させるために、各州が必要な権限を議会に与えるための2つの提案がなされます。いずれも全会一致の同意が得られず、議会の提案は失敗に終わります。輸入税は港で徴収され、港は各州に属し、国の権限が存在しないからです。輸入税を国が取得することは、州主権の概念を超えているという理由からです。この失敗は、連邦議会の弱点であり、連邦規約の下での州間の結びつきの弱点を鋭く指摘するものでした。

連邦規約は、国家主権に対する強い先入観を反映しています。第2条は、個々の州に主権を明示的に留保し、別の規約は、ある州が他の州なしで戦争に入る可能性さえ想定していました。規約は新しい国民国家の創設ではなく、主権者間の条約を表していたため、根本的な改訂は全会一致でのみ行うことができました。その他の主要な改訂には、9つの州の同意が必要でした。しかし、国家主権の原則は人工的な基盤に基づいていました。州が単独で独立を達成することはできなかったはずであり、議会は、州が独自の政府を形成することを推奨することと、集団的独立を宣言することの両方において最初の一歩を踏み出しました。

Statue of Liberty

国内で最も重要なことは、1787年までに議会は新しい領土を組み込むための手順を確立することで、そのためにいくつかの条例を制定したことです。条例の批准を遅らせたのは西部の土地請求をめぐる紛争でした。最終的には、西部の請求権を持つ州、主にニューヨークとヴァジニアがそれらを連邦政府に譲渡します。1787年の北西部条例(Northwest Ordinance) はオハイオバレーの領土の国有化、段階的和解とによる国と新しい州との最終的な承認につながります。また、奴隷制の導入​​も廃止しましたが、既存の奴隷制の存在は除外しませんでした。

Mt. Rushmore National Memorial

各州は常に戦争の困難さに直面するときは、指導性を議会に求めていました。しかし、戦争の危険が過ぎ去ると、不協和によって分離に繋がる危険がありました。議会は、新旧両方の利益を代表し影響力のある議員からの信用を失いました。州はお互いに独自の関税障壁を設定し、彼らの間で争っていました。同一の領地の帰属を巡りペンシルベニアとコネチカットで、競合する入植者の間で仮想の戦争が勃発しました。 1786年までに、情報に通じた者が集まり、連邦が3つ以上の新しいグループに分裂する可能性について話し合っていました。こうした動きは、アメリカ連邦内部での戦争につながる可能性がありました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その53 アメリカ共和制の基礎

アメリカが、強大なイギリスを相手に戦争を成功させることができるかどうかは、全く見通せない状態でした。散在する植民地は、決まった統一性をほとんど持たず、集団行動の経験も浅く、軍隊を創設し維持しなければなりませんでした。大陸議会以外に共通の制度を持たず、大陸の財政の経験もほとんどなかったからです。アメリカ人はフランスの援助なしには戦争に勝つことはできませんでした。フランス王政は、反英ではあってももとは親米ではありませんでした、アメリカ人が戦場で何ができるかを注意深く見守っていたのです。フランスは、アメリカの独立宣言後すぐに武器、衣料、借款の供給を陰ながら始めすが、アメリカとの正式な同盟が結ばれたのは1778年になってからでした。

Minuteman


アメリカの課題の多くは独立の達成後も続き、何年も、あるいは何世代にもわたるアメリカ政治の悩みでした。しかし、他方で植民地には、あまり目立たちませんが貴重な力の源泉がありました。事実上、すべての農民が自分の武器を持っており、一晩で民兵隊(militia)を結成することができました。根本的には、アメリカ人は長年にわたって、主にイギリスの新聞から基本的に同じ情報を受け取っており、それが植民地の新聞に同じ内容で転載されていたからです。その結果、主要な公共問題に関して、極めて広範な民意が形成されるようになりました。もう一つの重要な要因は、アメリカ人が数世代にわたって、選挙で選ばれた議会を通じて自らを統治してきたことです。その結果、議会は委員会政治において高度な経験を積んできていました。

この制度的積み上げ(institutional memory)という要素は、自治の意識を形成する上で非常に重要なものとなりました。人は習慣的な方法に愛着を持つようになりました。特に課題を処理する習慣的な方法である場合、イギリスやヨーロッパ大陸で発表された共和制の理論と同様に、関係者にとって浸透していき、重要なイデオロギーの基礎を形成することになりました。さらに、植民地の視点から見ると植民地の自治は、17世紀半ばにイギリス議会が内戦を戦い、1688年から1689年にかけての名誉革命(Glorious Revolution)によって再確立されたことを学ぶこととなりました。植民地の人々は、自治の考え方がイギリス政府の原則と連続しており、一貫性があるように思えたのでした。

War for Independence

また、自治の経験が植民地の指導者たちに事態の進め方を教えていたことも重要でありました。1774年に大陸議会が開かれたとき、代表者は手続きについて議論する必要はなく、すでにそれを知っていたのでした。最後に、議会の権威は正統性の伝統に根ざして、それまでの選挙法が使われました。有権者はやがて廃止される植民地議会から新しい議会や州の大会へ、さしたる困難もなく賛同することになりました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その52 パリ条約–1783年

北アメリカにおける軍事的な評決は、1782年のイギリス–アメリカ和平予備条約(Anglo-American Peace Treaty) に反映され、それは1783年のパリ条約(Treaty of Paris)に盛り込まれます。ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin)、ジョン・アダムズ(John Adams)、ジョン・ジェイ(John Jay)、ヘンリー・ローレンズ(Henry Laurens)がアメリカ側委員を務めました。この条約により、イギリスは西側のミシシッピ川を含むおおまかな境界線を持つアメリカ合衆国の独立を承認します。イギリスはカナダを保持しましたが、東フロリダと西フロリダはスペインに割譲します。また、アメリカ人のイギリス人に対する私的債務の支払い、アメリカ人のニューファンドランド(Newfoundland)漁業へのアクセス、大陸議会から各州への忠誠者の公正な扱いを支持する勧告などの条項が盛り込まれます。

Treaty of Paris-1783


アメリカ大陸の割譲

イギリスに忠誠を示す多くの人々は新天地に残りますが、約8万人もの保守派のイギリス人はカナダ、イギリス、イギリス領西インド諸島に移住します。その多くはイギリス兵として従軍し、アメリカ各州から追放された者たちでありました。戦時中や戦後、忠誠的なイギリス人はアメリカ各州から危険な敵として厳しく扱われました。彼らは一般に市民権を奪われ、しばしば罰金を科され、財産を没収されることもしばしばありました。その最も危険な者は、通常、死刑を宣告されるほどでした。イギリス政府は、4,000人以上の亡命者に財産の損失を補償し、およそ330万ポンドを支払いました。また、土地や年金の支給、再起を図るための任用も行いました。アメリカに残ったあまり忠誠的でない保守派の人々は、イギリスからの独立を受け入れ、一世代を経た後にはアメリカの愛国者と見分けがつかないほどになりました。

アメリカ合衆国建国の歴史 その51 独立戦争 その2 フランスの参戦

1777年、バーゴイン将軍(Gen. John Burgoyne)率いるイギリス軍は、ニューヨーク州アルバニー(Albany)を目標にカナダから南下していきます。バーゴインは7月5日にタイコンデロガ砦を占領しますが、アルバニーに近づくと、ホレイショ・ゲイツ将軍(Generals Horatio Gates)とベネディクト・アーノルド将軍(Benedict Arnold)が率いるアメリカ軍に二度も敗北し、1777年10月17日、サラトガ(Saratoga)で降伏を余儀なくされます。その年の秋にニューヨークからチェサピーク湾(Chesapeake Bay)に上陸したハウは、9月11日にブランディワイン・クリーク(Brandywine Creek)でワシントン軍を破り、9月25日にはアメリカの首都フィラデルフィアを占拠します。

10月4日にペンシルベニア州ジャーマンタウン(Germantown)でまずまずの成功を収めた後、ワシントンは冬の間、11,000人の部隊をペンシルベニア州バレーフォージ(Valley Forge)に集結させます。バレーフォージの環境は荒涼としており、食料も不足していましたが、プロイセン人(Prussian)のフリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・スチューベン男爵(Baron Friedrich Wilhelm von Steuben)が、アメリカ軍に作戦や武器の効率的な使用法などの貴重な訓練を施します。1778年6月28日、ニュージャージー州モンマス(Monmouth)現在のフリーホールド(Freehold)でのワシントンの攻撃の成功に、フォン・スチューベンの援助は大きく貢献しました。この戦いの後、北部のイギリス軍は主にニューヨーク市とその周辺に留まることになります。

Lord Charles Cornwallis

フランスは1776年から密かにアメリカに対して財政的、物質的援助を行っていましたが、1778年に艦隊と軍隊の準備を始め、6月についにイギリスに対して宣戦布告を行います。アメリカの北方での行動はほぼ膠着状態にあったため、フランスの主な貢献は南方で行われ、イギリス領サバンナの包囲やヨークタウンの決定的な包囲などの作戦に参加しました。コーンウォリスは1780年8月16日にサウスカロライナ州カムデン(Camden)でゲイツ率いる軍隊を撃破しますが、10月7日にサウスカロライナ州キングズマウンテン(Kings Mountain)、1781年1月17日にサウスカロライナ州カウペンズ (Cowpens)で大きな打撃を受けます。コーンウォリスは1781年3月15日にノースカロライナ州ギルフォード・コートハウス(Guilford Courthouse)で大勝した後、ヴァジニア州に入り、ヨークタウンに基地を置いて他のイギリス軍と合流します。しかし、ワシントン軍とフランスのロシャンボー伯爵(Count de Rochambeau)が率いる軍隊はヨークタウン(Yorktown) を包囲し、1781年10月19日にコーンウォリスと7,000人以上の軍隊を降伏させます。

Surrender of Lord Cornwallis

その後、アメリカでは陸上での戦闘は停止しますが、公海での戦争は続きました。1775年に大陸海軍が創設されたが、アメリカ軍の海での活動は小さな武装攻撃に終始し、1780年以降の海戦は主にイギリスとアメリカのヨーロッパの同盟国との間で戦われました。それでもアメリカの武装攻撃はイギリス諸島に集中し、戦争末期には1,500隻のイギリス商船と12,000人の船員を捕獲していきます。1780年以降、スペインとオランダはイギリス諸島周辺の海域の大部分を支配するようになり、イギリス海軍の大部分はヨーロッパに留め置かれることを余儀なくされます。こうして6年余り続いた独立戦争は終結します。

アメリカ合衆国建国の歴史 その50 独立戦争 その1 ジョージ・ワシントン

こうしてアメリカ独立戦争は、植民地問題をめぐるイギリス帝国内の内紛として始ましたが、1778年にフランス、1779年にスペインが参戦したことにより、国際戦争となります。イギリスと戦争中のオランダは、アメリカに対して財政支援を行い、独立を公式に承認していきます。陸上では、アメリカ人は州の民兵と大陸軍を編成し、農民を中心に常時約2万人の兵士が戦っていました。これに対してイギリス軍は、信頼できる訓練された専門家で構成され、約42,000人の正規軍と、約30,000人のヘッセン(Hessian)からのドイツ傭兵で補っていました。

レキシントンとコンコードでの戦闘の後、反乱軍はボストン包囲を開始しますが、アメリカのヘンリー・ノックス将軍(Gen. Henry Knox)がタイコンデロガ要塞(Fort Ticonderoga)から捕獲した大砲を持って到着し、1776年3月17日にゲージ将軍(Gen. Gage)の後任ウィリアム・ハウ将軍(Gen. William Howe)をボストンから退却させることで終了します。リチャード・モンゴメリー将軍(Gen. Richard Montgomery)率いるアメリカ軍は、1775年秋にカナダに侵攻し、モントリオールを占領し、ケベックへの攻撃を開始しますが失敗します。モンゴメリーはそこで戦死します。アメリカ軍は春にイギリスの援軍が到着するまでケベックを包囲し、その後タイコンデロガ砦に退却します。

Minuteman Statue

イギリス政府は、ハウ将軍の弟リチャード・ハウ(Lord Howe)提督を大艦隊でニューヨークに派遣し、アメリカ人と交渉し、彼らが服従すれば恩赦を保証する権限を与えます。アメリカ人がこの和平の申し出を拒否すると、ハウ将軍はロングアイランドに上陸し、8月27日にワシントンが率いる軍を破り、マンハッタン (Manhattan)に退却させます。ハウ将軍はワシントンを北に引き寄せ、10月28日にホワイトプレーンズ( White Plains)近くのチャタートンヒル(Chatterton Hill)で彼の軍隊を破ます。ワシントンがマンハッタンに残した守備隊を襲撃して捕虜と物資を奪取します。

チャールズ・コーンウォリス卿 (Lord Charles Cornwallis)は、ワシントンのもう一つの守備隊であるフォートリー(Fort Lee)を占領し、アメリカ軍をニュージャージーからデラウェア川西岸に追いやり、ニュージャージーの前哨基地で冬の間、兵舎を確保します。クリスマスの夜、ワシントンはこっそりとデラウェアを横断し、トレントン(Trenton)のコーンウォリスの守備隊を攻撃し、1,000人近くを捕虜とします。コーンウォリスはすぐにトレントンを奪還しますが、ワシントンは脱出し、プリンストン(Princeton)でイギリスの援軍を撃破します。ワシントンのトレントンープリンストン作戦は独立への意気を鼓舞し、独立のための戦争を継続させていきます。

大陸を戦争状態にするための準備がなされていきます。主にディキンソン(Dickinson)の主張によりイギリス国民に向けた更なるアピールが行われる一方で、大陸議会は軍隊を結成し、武器をとる理由と必要性に関する宣言を採択し、国内調達と外交問題に対処する委員会を任命しますた。1775年8月にはイギリス国王は反乱を宣言し、その年の終わりにはすべての植民地貿易が禁止されました。それでも大陸軍司令官ジョージ・ワシントン(Gen. George Washington)は、イギリス軍を大臣軍(ministerial forces)と呼び、内戦であって国家を分裂する戦争ではないと主張しました。

そして1776年1月、トマス・ペイン(Thomas Paine)の不遜な小冊子「コモンセンス」の出版は、突然この希望に満ちた展望を打ち砕き、独立を話題とします。ペインの雄弁で直接的な言葉は、人々の言葉にならないような思いを代弁していました。植民地の人々にこれほど影響を与えた小冊子は、かつてありませんでした。大陸議会がフランスとの同盟を緊急に秘密裏に交渉する一方で、保守派が解決を望む地方では権力闘争が勃発しました。

Fort Ticonderoga

1774年11月の総選挙でノース公が圧倒的多数を占めたイギリスでは、世論が硬直化し、大陸との和解への希望が薄れていきました。イギリスの強硬姿勢に直面し、植民地の権利の定義にこだわる人々には他の手段がなくなります。ジョン・アダムスによれば約3分の1相当数の植民地出身者が、あらゆる不利を覚悟しながらイギリス王室への忠誠を望んではいましたが、少数派となっていきました。イギリス軍が集結した場所では、軍は忠誠心のある人々の支持を得ますが、軍が移動すると人々のイギリスへの忠誠心は弱体化を露呈していきます。

国内での最も劇的な革命運動はペンシルベニアで起こります。フィラデルフィアを中心に国内に同盟者を持つ強力な急進派が、独立そのものをめぐる論争の過程で権力を掌握したのである。1776年の春、独立を求める意見が植民地を席巻します。大陸議会は、植民地が独自の政府を樹立することを勧告し、独立宣言の起草案を作る委員会を設置します。

アメリカ合衆国建国の歴史 その49 レキシントン・コンコード

1775年4月19日、イギリス軍のトーマス・ゲージ将軍(Gen. Thomas Gage)がマサチューセッツ州コンコード(Concord)にあるアメリカ反乱軍の基地を破壊するためにボストンから軍を派遣すると、レキシントンとコンコード(Lexington and Concord)でミニットマン(Minuteman)と呼ばれた民兵(militia)とイギリス軍との間で戦闘が起こります。この衝突は、5月にフィラデルフィアで開催された第2回大陸会議に報告されました。植民地の指導者たちの多くは、まだイギリスとの和解を望んでいましたが、このニュースは代表者たちをより急進的な行動へと駆り立てました。

Battle of Lexington-Concord

大陸を戦争状態にするための準備がなされていきます。主にディキンソン(Dickinson)の主張によりイギリス国民に向けた更なるアピールが行われる一方で、大陸議会は軍隊を調達し、武器をとる理由と必要性に関する宣言を採択し、国内調達と外交問題に対処する委員会を任命した。1775年8月にはイギリス国王は反乱を宣言し、その年の終わりにはすべての植民地貿易が禁止されました。それでも大陸軍司令官ジョージ・ワシントン(Gen. George Washington)は、イギリス軍を大臣軍(ministerial forces)と呼び、内戦であって国家を分裂する戦争ではないと主張しました。

そして1776年1月、トマス・ペイン(Thomas Paine)の不遜な小冊子「コモンセンス」の出版は、突然この希望に満ちた展望を打ち砕き、独立を話題とします。ペインの雄弁で直接的な言葉は、人々の言葉にならないような思いを代弁していました。植民地の人々にこれほど影響を与えた小冊子は、かつてありませんでした。大陸議会がフランスとの同盟を緊急に秘密裏に交渉する一方で、保守派が解決を望む地方では権力闘争が勃発しました。

Minuteman Statue

1774年11月の総選挙でノース公が圧倒的多数を占めたイギリスでは、世論が硬直化し、大陸との和解への希望が薄れていきました。イギリスの強硬姿勢に直面し、植民地の権利の定義にこだわる人々には他の手段がなくなります。ジョン・アダムスによれば約3分の1相当数の植民地出身者が、あらゆる不利を覚悟しながらイギリス王室への忠誠を望んではいましたが、少数派となっていきました。イギリス軍が集結した場所では、軍は忠誠心のある人々の支持を得ますが、軍が移動すると人々のイギリスへの忠誠心は弱体化を露呈していきます。

国内での最も劇的な革命運動はペンシルベニアで起こります。フィラデルフィアを中心に国内に同盟者を持つ強力な急進派が、独立そのものをめぐる論争の過程で権力を掌握したのである。1776年の春、独立を求める意見が植民地を席巻します。大陸議会は、植民地が独自の政府を樹立することを勧告し、独立宣言の起草案を作る委員会を設置します。

アメリカ合衆国建国の歴史 その48 イギリスに対する抗議

大陸会議の目的は、イギリス政府に圧力をかけ、植民地のあらゆる不満を解消し、かつての調和を取り戻すことにありました。そこで議会は、不輸入から始まり、不消費に移行し、米の収穫が輸出された後に不輸出で終了するという、綿密で段階的な経済圧力計画を植民地に約束させる協会を設置することになります。ニューイングランドやヴァジニアの代表の中には、独立を視野に入れて発言する者もいましたが、大多数の代表は、協議した措置や国王やイギリス国民への新たな訴えによって、今後こうした会議を開く必要がないことを期待し散会します。しかし、これらの措置が失敗した場合には、翌年の春に第二回目の議会が招集されるという決議もします。

George Washington

大陸会議で達成された団結の裏には、植民地社会における深い分裂がありました。1760年代半ば、ニューヨークの北部では土地暴動で混乱し、ニュージャージーの一部でも暴動が発生します。さらにひどい混乱はノースカロライナとサウスカロライナの奥地で起こり、辺境の人々は、自分たちは課税の対象であるが代表されていないと感じながら、議会の保護がないままほっとかれます。1771年にノースカロライナのアラマンス・クリーク(Alamance Creek)で起こった投石による暴動は、レギュレーターの反乱(Regulator Insurrection)として知られ、その終結後、首謀者は反逆罪とされて処刑されます。都市部ではこうした深刻な混乱はありませんでしたが、経済的機会や明確な地位の不平等に対する激しい社会的緊張と憤りが見られるようになります。

ニューヨークの地方政治は、王室と繋がるデランシー家(DeLanceys)と、そのライバルであるリビングストン家(Livingstons)の二大勢力間の激しい対立によって引き裂かれます。イギリスとの関係を巡る政争は、これらの派閥の国内での地位に影響を与え、やがてデランシー家を衰退させていきます。もう一つの現象は、バプテストを筆頭とする反対宗教派の急速な台頭です。彼らは政治的な主張はしないのですが、その説教のスタイルは、宗教的な反対だけでなく社会的な反対の強い信仰を示唆する内容となりました。

Continental Congress

こうした争いや騒動にこれといった整合性はありませんでしたが、植民地社会の指導者の多くは、イギリスに対する抗議であっても、破壊的な立場をとることには慎重でした。抗議活動が革命的な方向に進むと、国内での影響が大きくなることを懸念したからです。これら破壊的な要素を秘めた主権は、決して回復されない可能性があると考えられました。