アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その76 アメリカの自治領 その五 アメリカ領サモア

Last Updated on 2023年4月28日 by 成田滋

アメリカ合衆国の州に付けられている愛称を取り上げて歴史や地理を辿ってきました。76回の今回で終わりとします。アメリカ領サモア(American Samoa)は、太平洋の南西、ハワイとニュージーランドの中間に位置するサモア群島は紀元1000年以上前から人々が暮らしていましたが、ヨーロッパ人によって発見されたのは18世紀になってからです。主都はパゴパゴ(Pago Pago) 5つの島とローズ環礁(Rose Atoll)など2つの珊瑚礁からなります。

サモアは、ポリネシア文化を体験できる場所といわれ、トゥトゥイラ島(Tutuila Island)、タウ島(Ta’u Islands)オフ島(Ofu Island)の各島の一部は、アメリカンサモア国立公園(National Park of American Samoa)に指定されています。

Market

サモアを巡る列強による争いの歴史です。サモアでのキリスト教宣教活動は、ロンドン宣教師協会(London Missionary Society)のジョン・ウィリアムズ(John Williams)がクック諸島(Cook Islands)とタヒチ(Tahiti)から到着した1830年後半に始まります。 19世紀後半までに、フランス、イギリス、ドイツ、アメリカの船舶は、パゴパゴ港を石炭燃料船と捕鯨のための給油所として評価し、サモアに日常的に停泊していたようです。1839年にアメリカ合衆国の探検隊がこの島々を訪れたという記録もあります。

1889年3月、ドイツ帝国海軍部隊がサモアの村に入り、その際、アメリカ人の財産を破壊します。その後、3隻のアメリカ軍艦がアピア港(Apia)に入港し、そこにいた3隻のドイツ軍艦と交戦する準備をしていました。しかし、交戦する前に台風が来て、アメリカとドイツの軍艦は大破します。そのために両軍はやむなく休戦したとあります。

Samoa

20世紀に入り、国際的な対立は、1899年にドイツとアメリカがサモア諸島を2つに分割する三国間条約によって決着します。 東部の島々はアメリカの領土となり、現在アメリカ領サモアとなっています。西部の島々はドイツ領サモアとして知られるようになります。こうした協議は、1887年のワシントン会議、1889年のベルリン条約、1899年のサモアに関する英独協定の3つです。アメリカは、東部の小さな島々を正式に併合し、そのうちの一つには有名なパゴパゴ港(Pago Pago)があります。アメリカ海軍がサモア東部を所有した後、パゴパゴ湾の既存の捕鯨基地は、アメリカ海軍ツツイラ基地(Tutuila)として拡張されます。

アメリカ領サモアは合衆国議会により自治法 (Organic Act) が制定されていない非自治的領域 (unorganized territory)となっています。1967年7月1日に発効した憲法によって自治政府が成立し、領内の行政執行権は準州知事が、立法権は自治領議会が担っています。住民はアメリカの国籍を持ちますが、市民権はありません。なんとも不思議なことです。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その75 アメリカの自治領 その四 北マリアナ諸島

Last Updated on 2023年4月27日 by 成田滋

北マリアナ諸島(Northern Mariana Islands)は、サイパン島(Saipan)やテニアン島(Tinian)、ロタ島(Rota)などの14の島から成るアメリカ合衆国の自治領です。主都は、サイパン島のススペ(Susupi)です。小笠原諸島の南側に連なるミクロネシア最北端の島や北から南へ15の島が並びます。

Map of Saipan

マリアナ諸島の歴史です。東南アジアから渡って来たチャモロ人(Chamorro)が定住し、古代にはタガ王朝(Taga Dynasty)が成立します。1521年にマゼランがグアム島にやってきます。1668年からカトリックの布教が始まります。当時のスペイン皇后マリアンナ(Mariana)を記念して命名されたのがマリアナ諸島です。1565年には全島がスペインの支配下に入りますが、チャモロ人の反乱は絶えず、スペインーチャモロ戦争が勃発します。1698年には全島民がグアムに強制移住させられるという歴史を辿ります。

戦前のサイパン

1898年、米西戦争の結果マリアナ諸島はカロリン諸島(Caroline Islands)とともにドイツ領となり、第一次世界大戦後、日本の国際連盟委任統治領となります。当時は「南洋諸島」と呼ばれた地域です。日本の委任統治下で、サイパン、テニアンではサトウキビ農場の開発に成功します。サイパン島では1934年に砂糖生産のために南洋興発という会社が設立され、砂糖キビを運搬する鉄道も敷設され1944年まで使われます。今も砂糖王公園(Sugar King Park)があります。

助けられた避難民

太平洋戦争中、サイパン島やテニアン島は住民を巻き込んだ日米の地上戦が展開されました。統治下のパラオ諸島(Palau Islands)に優る繁栄をします。1978年、他のミクロネシア地域から離脱し、自治政府をつくり1986年アメリカの自治領となります。北マリアナ諸島の住民は、アメリカの市民権を有しています。マリンスポーツ、キューバ・ダイビングなど観光が主な産業で日本人旅行者も絶えません。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その74 アメリカの自治領 その三 グアム

Last Updated on 2023年4月26日 by 成田滋

マリアナ諸島(Mariana)の南端に位置し、ミクロネシア(Micronesia) では最大の島がグアム(Guam)です。その大きさは淡路島よりやや小さいようです。南北に細長く、北部は高原で南部は密林に覆われています。1521年に世界一周途上のマゼラン(Magellan) によって発見され、1668年に正式にスペイン領となります。米西戦争の結果、1898年にアメリカ領となります。1941年から3年間は日本軍が占領します。現在は、太平洋の交通の要所で、軍事的、経済的な重要性を有しています。今はアメリカの準州で主都はアガニア(Agana)となっています。住民はチャモロ族(Chamorro)です。

チャモロの家族

グアムにおいて最初に宣教活動をしたのはフランシスコ派のカトリック教会です。イエズス会のディエゴ・ルイス・デ・サン・ビトレス神父(Diego Luis San Vitores)は1668年からグアム島で約4年間、布教に献身し殉教した伝説的な人物です。ビトレスは、グアムの中に会堂を建てます。その最も大きく最も格式が高いのがハガニア大聖堂(The Dulce Nombre de Maria parish)です。場所は、グアムの首都ハガニアにあるスペイン広場の東側に位置しています。1672年にビトレスは、酋長の子どもに洗礼を強行したとして殺害されます。それが契機となり、グアムやマリアナ諸島は、チャモロとスペイン軍の間の戦争が勃発し、それが終結するまでに 20 年以上かかったといわれます。

Map of Guam

隣接する北マリアナ諸島が信託統治を経て1978年に実質的なコモンウェルス(Common Wealth)と呼ばれる準州となります。その動きを受けて、グアムでは1980年代から1990年代前半にかけて、プエルト・リコや北マリアナ諸島と同様の自治のレベルを付与したコモンウェルスに向けた推進運動が起こります。しかし、連邦政府はグアム準州政府の提案したコモンウェルスへの変更を拒否します。運動は徐々にアメリカ本国からの政治的独立、国家としての独立、唯一の独自領土として北マリアナ諸島との連合、あるいは現在合衆国の一州となっているハワイとの連合に軸足を置いているといわれます。日本、アメリカによる統治を経て、現在もアメリカの未編入領土であるグアムは、未だにコロニアリズム的状況(Colonialism)から脱却できていないといえそうです。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その73 アメリカの自治領 その二 プエルト・リコ

Last Updated on 2023年4月25日 by 成田滋

プエルト・リコ(Puerto Rico)は、カリブ海(Caribbean Sea)北東に位置する合衆国の自治的・未編入領域でコモンウェルス(Common Wealth)という政治的地位にあります。プエルト・リコ本島、ビエケス島(Vieques)、クレブラ島(Culebra)、モナ島(Mona)などから成ります。主都はサン・フアン(San Juan)となっています。多くの島から成るプエルト・リコでは、今でも建築、食べ物、音楽、言語にさまざまな形でスペインの伝統が色濃く残っています。英語も広く話されており、島全体でアメリカドルが流通しています。

Map of Puerto Rico

1493年11月のクリストファー・コロンブス(Christopher Columbus)による到着以来、スペインやアメリカを始めとするヨーロッパ人によって開発が進められ現在に至っています。スペイン語でプエルトは「港」、リコは「豊かな」(rich port)を意味しヨーロッパ人の到来以前は、この島は先住民のタイノ族(Taíno)によってボリケン (Borikén)、またはボリクアス (Boricuas) と呼ばれていました。ボリケンとは「勇敢なる君主の地」(Land of the Valiant Lord)を意味します。現在のプエルト・リコの名称は、一説にコロンブスがサン・フアンに入港した時に「Qué Puerto Rico!」(なんと美しい港か!)と叫んだことに由来するといわれています。

El Morro Castle

1898年の米西戦争後、アメリカに併合されてからはポルト・リコ (Port Rico, Rich Port) と地名表記も英語化されますが、プエルト・リコ人の感情に配慮して1932年にプエルト・リコ (Puerto Rico) と表記されるようになりました。スペインではプエルト・リコは「魅力溢れる島」(island of enchantment)と呼ばれます。

パリ条約によって完全にアメリカ合衆国の領土となったプエルト・リコ内では、フォラカー法(Foraker Act)によって1900年7月にプエルト・リコ民政府が成立し、1898年3月に生まれた自治政府は解体されます。プエルト・リコは知事を合衆国大統領が任命する直轄領となりました。このため、プエルト・リコでは主権を求める完全・独立派や合衆国への編入派が今もしのぎを削っています。

島内にはいろいろな史跡があります。サン・ファンにあるエル・モロ砦(Castle El Morro)はスペイン軍が、フランス、イギリス、オランダやカリブの海賊達などの敵対勢力から、サン・ファンの街を守るために建てたカリブ最強の砦と言われた要塞です。1539年頃建設が始まり、1790年頃に完成したという記録があります。今は、ユネスコの世界遺産となっています。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その72 アメリカの自治領 その一 北ヴァージン諸島

Last Updated on 2023年4月24日 by 成田滋

州の愛称をたどってアラバマ州からワイオミング州、そしてワシントンD.C.までやってきました。合衆国の州に準ずる地域、あるいは本土未編入の自治領的な仕組みは、コモンウェルス(Common Wealth)とか、準州と呼ばれます。アメリカでは自治が認められている地域がいくつかあります。北ヴァージン諸島(Virgin Islands)、プエルトリコ(Puerto Rico)、グアム(Guam)、北マリアナ諸島(Northern Mariana)、サモア(Samoa) といった地域です。今回からは、順番にこうしたアメリカの自治領を紹介します。まずは北ヴァージン諸島です。

カリブ海(Caribbean Sea)の東端から東南端にかけて分布する諸島である小アンティル諸島(Lesser Antilles)がヴァージン諸島といわれます。その西側半分は約50の島々からなるアメリカ領で、東側半分は約60の島々からなるイギリス領となっています。アメリカ領とイギリス領に人が住むそれぞれ3つある主な島以外は、ほとんど無人島です。

Virgin Islands in Caribbean Sea

北ヴァージン諸島のような自治領とは、その地域の政治や行政などを主権国家の許可を得ずに行うことができる体制です。国家は主権を持っていますが、自治領は主権は持っていません。主権というのは、「領土・領海・国民・国家体制」などを支配する権限のことを指します。北ヴァージン諸島の人口は102,000人ほどで、サトウキビ栽培を中心に農業従事者が多いのですが、近年は観光への投資が盛んなところとなっています。火山島と珊瑚礁が多く、亜熱帯に属しますが貿易風のおかげでしのぎやすい地帯といわれます。

観光客が訪れる主要な島はセント・トーマス島(Saint Thomas)、セント・クロイ島(Saint Croix)、セント・ジョン島(Saint John)の3島で、主都はセント・トーマス島のシャーロット・アマリー(Charlotte Amalie)です。セント・トーマス島には、ブラックビアーズキャッスル(Blackbeard’s Castle)とか 99 段の階段といった見どころがあります。空中トラムのスカイライド(Skyride)も知られています。セント・クロイ島のクリスチャンステッド(Christiansted)では、デンマークがこの地域に及ぼした影響を18 世紀の建築物の街並みから体感できるといわれます。

Harry Belafonte

北ヴァージン諸島は、少々大袈裟ですが「アメリカの楽園」とかカリプソ音楽(calypso)の発祥地などといわれます。カリプソはカーニバルで発達した音楽ジャンルで、リズムは4分の2拍子となっています。カリプソの歌詞は、島の生活に関連するあらゆる話題に及ぶようです。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その71  ワシントンD.C.

Last Updated on 2023年5月1日 by 成田滋

合衆国首都のワシントン.(Washington District of Columbia)は、通称ワシントンD.C.と呼ばれています。D.C.は連邦直轄地という特別区で、東海岸のメリーランド州とヴァジニア州に挟まれたポトマック川河畔(Potomac River)に位置しています。各州とは別に、首都としての役割を果たすため、連邦の管轄する区域が与えられていて、合衆国三権機関である大統領官邸(White House)、連邦議会(Capitol)、連邦最高裁判所(Supreme Court)が所在し、多くの連邦省庁が集中しています。いわば日本の霞ヶ関のようなところです。

Washington Memorial and Cherry Flowers

ワシントンD.C.には、他にも多くの記念建造物やスミソニアン博物館(Smithsonian Museum)などが立ち並んでいます。172か国の大使館に加え、世界銀行(World Bank)、国際通貨基金 (IMF)、米州機構 (OAS)、米州開発銀行(IDB)、汎アメリカ保健機関 (PAHO) の本部も置かれています。労働組合、学術などロビイストの各種団体本部もこの地に居を構えています。連邦政府の所在地として国際的に強大な政治的影響力を保持する世界的都市で、また金融センターとしても重要な街です。首都としての機能を果たすべく設計された計画都市ともいわれています。

Smithsonian Castle

ワシントンD.C.の設計に携わってのは、ピエール・ランファン(Pierre Charles L’Enfant)というフランス生まれの建築家です。連邦都市建設計画のコンペに当選し、基本計画案を作成した人として知られています。ランファンはジョセフ・ラファイエット(Joseph La Fayette)と共にアメリカ植民地にやってきた移民です。独立戦争ではヨークタウンの戦いなどに一緒に参加してイギリス軍と戦った技師で軍人です。1791年、ランファンはバロック様式を基に基本計画を作成します。開かれた空間と景観作りを最大限に重視し、環状交差路から放射状に広い街路が伸びるという設計となっています。

Washington National Cathedral

興味深いのは、バラエティに富んだ建築物がワシントンD.C.にあることです。アメリカ建築家協会が選ぶ2007年の「アメリカ建築傑作選」では、10位までにランクされた建物のうち6つがワシントンD.C.にあることです。ホワイトハウス、ワシントン大聖堂(Washington Cathedral)、トマス・ジェファーソン記念館(Thomas Jefferson Memorial)、連邦議会議事堂、リンカーン記念館(Lincoln Memorial)、ヴェナム戦争戦没者慰霊碑(Vietnam War Veterans Memorial)といった建築物です。どれも第一級の気品を備えています。

ワシントンD.C.には、ジョージ・ワシントン大学(George Washington University)、ジョージタウン大学(Georgetown University)、ハワード大学(Howard University)などもあります。ハワード大学は、全米屈指の名門歴史的黒人大学となっています。白人系やアジア系の学生も入学できる超難関の大学です。現合衆国副大統領のカマラ・ハリス(Kamala D. Harris)も卒業生です。

Rev. Martin Luther King, Jr.

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その70 『Equality State』とワイオミング州

Last Updated on 2023年4月22日 by 成田滋

アメリカで最も人口が少ないワイオミング州(Wyoming)は、手つかずの自然が非常に多く残っている州でもあります。ワイオミングとはアルゴンキン語族(Algonquian)インディアンの言葉で「大平原」を意味し、州の東側3分の1はハイプレーンズ(High Plain)と呼ばれ、広大なグレートプレーンズの西部にあたる標高の高い平原地帯が広がっています。

Yellowstone National Park

白人の到来以前、プレーリーに大群をつくって生息していたバイソン(bison)をねらい、18世紀の中頃からフランス人毛皮商人が、フォートララミー(Fort Laramie)と名付けた交易所が作られます。19世紀の中頃、白人の侵入に対するインディアンの怒り高まります。レッドグランド(Red Grand)に率いられたスー族(Sioux)とシャイアン族(Cheyenne)の戦士たちが1876年まで合衆国軍隊と戦うという歴史が残っています。1990年に作られた映画「ダンス・ウイズ・ウルブス」(Dances with Wolves)は、その事実を取り上げた作品です。

Dances with Wolves

ワイオミングには、アメリカでも特に有名な2つの国立公園、イエローストーン国立公園(Yellowstone National Park)とグランドティトン国立公園(Grand Teton National Park)があります。この2つの国立公園は、アウトドア愛好家や冒険家に大人気です。ワイオミング州では広大な美しい大地をクマ、バイソン、エルク(elk)、コヨーテ(coyote)などの野生動物が生息して大事に保護されています。グランドティトン国立公園は、1953年に制作された西部劇映画「シェーン」(Shane)のロケ地となったところです。流れ者シェーンと開拓者一家の交流や悪徳牧場主との戦いを描いた世紀の名作です。

イエローストーンには熱湯を噴出する間欠泉や、カラフルな熱水泉が点在しています。間欠泉ではオールドフェイスフル(Old Faithful Geyser)が世界的に有名です。「faithful」とは「忠実に」を意味し、一定間隔で忠実に噴出することを指します。熱水泉ではグランド・プリズマティック・スプリング(Grand Prismatic Spring)が特に人気があります。

Dances with Wolves

州のニックネームは平等の州『Equality State』と少々地味なフレーズです。それには次のような事実があります。すなわち1870年、ララミー(Laramie)という街では女性が初めて陪審員を務め、同年ララミーではメアリー・アトキンソン(Mary Atkinson)が女性初の廷吏となり、同年サウスパスシティ(South Pass City)ではエスター・モリス(Esther Morris)が女性初の治安判事になります。1925年に全米で最初の女性知事としてネリー・ロス(Nellie T. Ross)が就任します。これら女性に与えられた権利の故に、ワイオミング州は「平等の州」と呼ばれるようになりました。

一体、どうしてワイオミング州では女性が活躍するようになったかは不明です。通常、ワイオミングのような田舎の州は農業や酪農に従事する人々が多く、考え方は伝統的で保守的なのです。しかし、女性参政権を主張していたモリスを指導者に選ぶという大らかさが会った州民にあったからだろうと察します。「ワイオミングというアメリカ合衆国で最も若くまた最も裕福な準州の1つが、言葉だけでなく行動で女性に平等な権利を与えた」というのは、エスター・モリスの才能に依ったことも事実のようです。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その69 『Easy Rider』が今に伝えるもの

Last Updated on 2023年4月22日 by 成田滋

ウィスコンシン州の紹介が、ハーレー・ダビッドソンに移り、映画『Easy Rider』へ行き着くという不可解な展開です。舞台は1965年前後のアメリカ社会です。この映画は、アウトローと呼ばれた若者の生き方を通じて、支配的だった白人至上主義、権威主義等によって現実に起きている問題の不可思議さ、残酷さを表現するというコンセプトで作られています。こうした問題提起を行ったアメリカン・ニューシネマと呼ばれる作品群は広く大衆に支持され、現実社会の人権に対する意識の高まりに見事に寄与しています。それでは「Easy Rider」のあらすじです。

ワイアット(Wyatt)とビリー(Billy)は自由奔放な青年です。メキシコからロサンゼルスまでコカインを密輸した後、そのコカインを売って大金を手に入れます。ワイアットの乗るチョッパーバイクの星条旗柄(Stars & Stripes-painted)の燃料タンク内に隠されたプラスチックチューブに現金を詰め込みます。そしてルイジアナ州ニューオーリンズのマルディグラ祭り(Mardi Gras)に間に合うように東へ向かって走ります。チョッパーバイクとは、ヴェトナム戦争によって心が病んでしまった元兵士たちが平和に馴染めず、バイクを盗んで原型がわからないように弄り倒して生まれたスタイルのバイクといわれます。

Steppenwolf

旅の途中、ワイアットとビリーはアリゾナ州の農家でバイクのパンクを修理し、農夫とその家族と食事をするために立ち寄ります。その後、ワイアットはヒッピーのヒッチハイカーを拾い、荒野を走っていくと、大勢の旅人を受け入れているコミューンへとやって来ます。そのコミューンに誘われ、そのまま滞在することになります。リサ(Lisa)とサラ(Sarah) という2人の女性と知り合い、ヒッチハイクのコミューンのメンバーと自由恋愛(free love)を楽しみます。ヒッチハイカーはワイアットにLSDを渡し、「正直な人たち」と共有するように勧めるのです。

その後、ニューメキシコ(New Mexico) でパレードに同乗していた2人は、「無許可パレード」の罪で逮捕され、刑務所に入れられます。そこで2人は、酒に溺れて留置場で一夜を明かした弁護士ジョージ・ハンソン(George Hanson)と知り合います。ワイアットは、アメリカ市民自由連合( American Civil Liberties Union:ACLU)のために働いたことがあるという話をすると、ジョージは2人の出所を助け、ワイアット、ビリーとともにニューオーリンズへ向かうことにします。その夜、キャンプをしながら、ワイアットとビリーはジョージにマリファナ(marijuana)を紹介するのです。アルコール依存症だったジョージは、中毒になってもっと悪い薬物に手を出すことを恐れ試そうとしないのですが、手をだしてしまいます。

Tavan In Lousiana

ルイジアナ州の小さな町の食堂で3人は、アウトローかつ長髪であるためか、地元の人々にじろじろ見られます。店員の女の子たちは、そんな3人を面白がるのですが、地元の男たちや警察官は、彼らを誹謗中傷し嘲笑するのです。3人は騒ぎを起こさずに立ち去り、町の外でキャンプをします。夜中、地元の男たちは寝ている3人を襲い棍棒で殴ります。ビリーが叫び、ナイフを振り回すと、襲撃者たちは立ち去ります。ワイアットとビリーは軽傷を負いますがジョージは撲殺されます。

ニューオーリンズに向かった2人は、ジョージから聞いた娼家を見つけ、そこの娼婦のカレン(Karen)とメアリー(Mary) を連れて、マーディグラ(Mardi Gras)の祭典でパレードが行われる通りを歩き回ります。4人はフレンチ・クオーター(French Quarter)の墓地にたどり着き、そこでヒッチハイカーがワイアットに渡したLSDを吸うのです。

翌朝、田舎道で古いピックアップトラックに乗った地元の男2人に追い抜かれます。トラックの運転手らは、彼らを脅してやるとショットガンを手にします。ビリーとすれ違ったとき、助手席の男が発砲し、ビリーは転倒します。ワイアットがビリーの元へ戻ると、彼は道端に倒れて血まみれです。自分の革ジャンでビリーの傷口を覆い、ワイアットは、Uターンしてきたピックアップに向かって車を走らせます。今度は運転席側の窓からショットガンが再び発射されます。ワイアットのバイクは宙を舞い、バラバラになって炎に包まれます。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その68 『Harley-Davidson』とEasy Rider

Last Updated on 2023年4月20日 by 成田滋

映画「イージー・ライダー」(Easy Rider) は、1960年代後半からアメリカで作られた反体制的な若者の心情を映したアメリカン・ニューシネマ(American New Cinema)というジャンルの作品です。大衆文化やカウンター・カルチャーの先駆けとなった名作ともいわれ、1965年のヴェトナムへの軍事介入によって、閉塞的な状態になったアメリカ社会に若者たちが抵抗していくのです。やがて反戦運動が全国的な広がりをもつようになり、映画や音楽界にも厭戦ムードが込められていきます。

1960年代のアメリカ社会ではアウトロー(Outlow)の乗り物というイメージの強かったのがハーレー・ダビッドソン(Harley-Davidson)です。それに反戦運動が展開するにつれ、徴兵忌避を生み、ヒッピー(Hippy)とかドラッグ(drug)が横行していきます。このようなアウトローの出現が国家権力への静かな抵抗となり、アメリカン・ニューシネマの大きなコンセプトになった考えられます。

冒頭で主人公らがバイクで疾走するシーンに使われ曲は、ステッペンウルフ(Steppenwolf)というロックバンドが演奏する「あるがままに生きよう」(Born to Be Wild)でした。当時、大衆文化およびカウンターカルチャーでバイク乗りの姿や態度を表現するときに、こうしたロック音楽は効果的であったようです。

Easy Rider

「Easy Rider」とは、「仕事をせずにのんびり生きている人」とか、「簡単に落とせそうな女」というアメリカで使われる隠語です。白人主義者たちから差別されても自由を謳歌しながら生きようとする作品です。こうした映画は「ロード・ムービー」(road movie)とよばれ、旅の途中で起こる様々な出来事が展開されるのです。

さて、燃料タンク、ヘルメット、革ジャンの背中に星条旗が貼り付けながら、麻薬の密売に成功し大金を稼いだ2人のバイク乗りが、真のアメリカを発見しようと出発します。「自由を求める旅」ですが、やがてどこにも見付けられないと嘆いていくのです。次回は、「イージー・ライダー」の中味を取り上げます。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その67 『Harley-Davidson』と日本

Last Updated on 2023年4月20日 by 成田滋

ハーレー・ダビッドソンの海外での販売の歴史です。アメリカ以外で継続的に営業している最古のハーレー・ダビッドソンディーラーは、1918年にオーストラリアに設立されます。 日本での販売は1912年に始まり、1929年にはハーレー・ダビッドソンの名前で、同社の工具を使用してライセンス生産します。1935年にライセンスのみならず設備まで買い取ることで国産化の目処が立ち、その際に設立されたのが「三共内燃機株式会社」です。

Easy Rider


翌1936年には社名も三共内燃機から「陸王内燃機」に変更されました。そして「陸王」という新車名で日本でハーレー・ダビッドソンを生産します。陸王内燃機は1949年に業務を停止しますが、翌1950年に昭和飛行機が権利を買い取り「陸王モーターサイクル」として復活します。生産された車名は「陸王グローリー号」です。ロータリーチェンジ式や国産初のスイングアーム式など最新の性能を兼ね備えたモデルで当時は人気を呼びました。

Harley Davidson

やがてスーパーカブで王者に上り詰めていたホンダ、スポーツとデザインに秀でていたヤマハ、最初からコスト・パフォーマンスが優れていたスズキが台頭し、陸王も対抗することが出来ず1959年に生産がストップします。ちなみに陸王という名前の由来は一説では、1927年に作曲された慶應義塾大学の応援歌『若き血』から引用したといわれています。「陸の王者ケイオー」をご存じでしょうか。

1993年の創立90周年から、ハーレー・ダビッドソンは「ライドホーム」(Ride Home)と呼ばれるミルウォーキでの祝賀ライドを行っています。この新しい伝統は5年ごとに続き、ミルウォーキの他のフェスティバル、例えばサマーフェスト、ドイツフェスティバル、フェスタ・イタリアーナなどと同様に、非公式に「ハーレー・ホームカミング・フェスト」(Harley Homecoming Fest)と呼ばれるようになっています。110周年記念式典は、2013年8月29日から31日にかけて開催され、120周年記念は、2023年7月13日から16日まで、ミルウォーキで開かれます。

Road Glide

ハーレー・ダビッドソンミュージアム(Harley-Davidson Museum)はミルウォーキでも有数の観光名所となっています。2011年3月の東日本大震災で流されてブリティッシュコロンビアに漂着した”Night Train”と呼ばれたハーレーも展示されています。入場料は8ドルから20ドルくらいです。それにしてもハーレーのズズーンという鼓動には圧倒されます。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その66 『Harley-Davidson』とウィスコンシン

Last Updated on 2023年4月18日 by 成田滋

ミルウォーキには、ハーレー・ダビッドソン(Harley-Davidson)の本社があります。いわずとしれたオートバイメーカーです。1903年に設立され、歴史的なライバルであるインディアンモーターサイクル(Indian Motor Cycle)と共に世界恐慌を生き延びたアメリカの2大オートバイメーカーの1つです。数々の所有形態、子会社の手配、経済的健全性や製品品質の低下した時期、激しいグローバル競争を乗り越え、世界最大のオートバイメーカーの1つになり、忠実なファンによって広く知られているアイコン的ブランドとなりました。こよなくモーターを愛するファンによって広く知られた象徴的なブランドとなっています。世界各地にオーナークラブやイベントがあります。会社主催のブランドに特化した博物館もあるほどです。

Harley Davidson

ハーレー・ダビッドソンは、チョッパーモーターサイクル(chopper motor cycle)というスタイルを生み出したカスタマイズのスタイルで知られています。チョッパーモーターとは、元々ついているハンドルなどのパーツを切って加工したり、取り除いたりしたバイクのことです。同社は伝統的に700cc以上の排気量を持つ重量級空冷クルーザーモーターサイクルを販売していましたが、より現代的なVRSC型、およびミドルウェイトのストリートプラットフォームを含む提供の幅を広げてきています。ハーレーダビッドソン社製オートバイ最大の特徴は、大排気量空冷OHV、V型ツインエンジンがもたらす独特の鼓動感と外観であり、これに魅せられた多くのファンがいいます。大きく横に張り出したケースも外見上の特徴です。

Harley Davidson Emblem

ハーレー・ダビッドソンはミルウォーキの他にペンシルベニア州ヨーク、ミズーリ州カンザスシティ、ブラジルのマナウス(Manaus)、そしてタイのラヨーン県(Rayong)でオートバイを製造しています。このように、世界中で製品を販売するとともに、ハーレー・ダビッドソンブランドによる商品、例えばアパレル、家庭装飾品、アクセサリー、おもちゃ、オートバイのスケールモデル、ビデオゲームなどのライセンス販売をしています。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その65 『マッカーシズム』とウィスコンシン

Last Updated on 2023年4月17日 by 成田滋

ウィスコンシンは酪農が主たる産業です。その理由は気候と土壌にあります。五大湖の西部に位置するウィスコンシンは、厳しい冬と快適な夏が特徴です。ここは氷河が土壌の大半をえぐり、排水を妨げ多数の湖と広い湿地を形成してきました。冷涼で湿気の多い気候のため、土壌や痩せて作物の成育には適さないのです。南部だけが飼料作物と酪農に適し、北部はジャガイモやライ麦の生育に限られています。ですから理想的な酪農地域を形成しています。クローバーやアルファルファ(alfalfa)という牧草がとれます。これらの飼料作物の貯蔵用の大きなサイロと巨大な畜舎によって、家畜は長い冬を越すことができます。

このような酪農が盛んなことは、共和党員のジョセフ・マッカーシ(Joseph McCarthy)がなぜウィスコンシンから生まれたかを説明できそうです。ゲルマン系の人々やカトリック系の信者が定住し酪農を発展させてきました。こうした人々は伝統的な考え方を持ち、共和党支持の人々です。これがマッカーシズム(McCarthyism)の底流にあるというのが通説です。

Sen. Joseph McCarthy

マッカーシズムの勃興を促した短期的な理由も指摘されています。ニューディール(New Deal)以降、万年野党の地位に置かれた共和党の党派的な憤まんや、冷戦下の国際緊張の高まり、朝鮮戦争の勃発といった情勢です。ソ連の核開発、中国共産党政権の樹立、ヒス事件(Alger Hiss)やローゼンバーグ事件(Julius and Ethel Rosenberg)といったスパイ事件の相次ぐ摘発で、苛立つ国民の心理に強く訴えます。1952年にマッカーシが再選され、アイゼンハワー(Dwight D. Eisenhower)政権が成立すると、マッカーシは、審査委員会の委員長に就任し、CIA、Voice of America(VOA)、陸軍にいたる政府機関まで赤狩りの手を広げていきます。反共目的とした政敵攻撃を進めたのがマッカーシズムという恐ろしい手法です。

Rosenbergs

伝統的に共和党には、反ラディカリズム(Anti-Radicalism)やアメリカ社会の内的一体性を前提として生まれる排外主義的傾向があります。このことは排外主義を煽る「America First」というトランプ現象に現れました。こうした背景がマッカーシズム勃興の根底にあった考える歴史家もいます。アメリカは、今も民主主義や人権の規範について独善的なダブルスタンダード(二重基準)の問題を抱えています。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その64  『Badger』とマディソン

Last Updated on 2023年4月16日 by 成田滋

Badger(アナグマ) というニックネームは、ウィスコンシン州の豊かな鉛鉱山発掘の歴史に由来します。ホーチャンク(Ho-Chunk)をはじめとする先住民族は、数百年前からウィスコンシン州南西部で鉛を採掘していたのです。ウィスコンシン州の歴史での最も古い領土紛争のいくつかは、植民地化したアメリカ人とヨーロッパ人入植者がこの地域に移り住み始めたときに、この鉱物の豊富な領土をめぐって発生したといわれます。1850年頃にアメリカの鉛消費量の半分以上を採掘していたことから、鉛鉱山周辺では坑道に人が住んでいた時代もありました。それは、初期の鉱夫たちが、貧しかったか、忙しかったか、あるいはその両方であったために、鉛の採掘場に家を建てることができなかったからです。ウィスコンシンの厳しい冬を乗り切るために、彼らは鉱山の中で生活していたのです。地中に穴を掘って動物のように暮らす彼らのことを、人々はアナグマ(Badger) と呼んで嘲笑したようです。

Science Hall

マディソンは1960年代から1970年代にかけてカウンター・カルチャー(Counter Culture)の街としても知られました。カウンター・カルチャーとは、ある時代または社会の主流となっている文化に対し、それを否定する人々によって作り出された反主流の文化のことです。この文化運動は、マディソン市内のダウンタウンにあるミフリン通り(Mifflin St)とバセット通り(Basset St)の周辺に集中し、「ミフランド」(Miffland)と呼ばれていました。この地域には学生やカウンター・カルチャーの若者たちが住み、壁画を描き、共同食料品店などを運営していました。ベトナム反戦活動も盛んになり、ミフリン・ストリート・ブロック・パーティー(Mifflin Street Block Party)という反戦抗議集会が常態化します。しかし、共和党のビル・ダイク(Bill Dyke)市長は、ベトナム戦争に抗議する地元の抗議活動を弾圧したため、学生たちから敵対者とみなされました。1960年代後半から1970年代前半にかけて、何千人もの学生や市民が反ベトナム戦争の行進やデモに参加し、次のような暴力的な事件も起きて、マディソンとカリフォルニア大学バークレー(University of California -Berkley)キャンパスは全米の注目を浴びることになりました。
 ・1967年 ダウ・ケミカル社(Dow Chemical Company)に対する学生の抗議行動で74人が負傷
 ・1969年 アフリカ系アメリカ人の学生と教職員の代表権と権利を確保しようとするストライキで、ウィスコンシン州兵が出動
 ・1970年 ウィスコンシン大学エーモリー体育館(Armory Gymnasium)内にあった陸軍ROTC本部が被害を受けた火災発生
 ・1970年 同大スターリング・ホール(Sterling Hall)の陸軍数学研究センター(Army Mathematics Research Center)で起きた爆弾事件でポストドク研究員が殺害

Red Gym

ミフリン・ストリート・ブロック・パーティーの鎮圧のために3日間もかかったことがあり、何百人もの警官の残業代が必要となり、近くの学生寮を含む学生コミュニティを巻き込むことになります。こうした騒動で、当時市会議員だった学生運動家のポール・ソグリン(Paul Soglin)は2度逮捕されます。やがてソグリンはマディソン市長に選ばれ3期にわたり努めます。

ウィスコンシンは社会改良の革新的な政治でも知られています。それはニューディール政策の先駆となるウィスコンシン理念(Wisconsin Idea)の発祥地です。ウィスコンシン理念の提唱や実践について、上院議員であったロバート・ラフォレ(Robert LaFollette)とその一族が果たした役割は大きいものがありました。しかし、彼のあとに上院議員となったのはマッカーシズム(McCarthyism)で悪名高いジョセフ・マッカーシ(Joseph McCarthy)でした。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その63 『キッコーマン』とウィスコンシン州

Last Updated on 2023年4月15日 by 成田滋

ウィスコンシンの土壌と水は農業に最適な環境を作り出していますが、世界最高の乳製品を生産するためには素晴らしい土地や酪農家の献身、酪農の研究と開発などが基礎となっています。ウィスコンシンでつくられる多くの製品は、ウィスコンシン大学などでの研究成果を反映しています。

ウィスコンシン州はアメリカのチーズの約4分の1を生産し、チーズ生産量では全米一位です。牛乳生産量ではカリフォルニア州に次いで第二位、一人当たりの牛乳生産量ではカリフォルニア州とバーモント州に続いて第三位。バター生産では全米の約4分の1を生産し第二位です。トウモロコシ、クランベリー、朝鮮人参、スナップインゲン、加工用豆などの生産で全国一位となっています。ウィスコンシン州の農産物生産の重要性は、ウィスコンシン州の四半期デザインに描かれたホルスタイン牛、トウモロコシの穂、チーズの輪に象徴されています。 州は毎年「酪農の国のアリス」(Alice in Dairyland)を選出し、州の農産物を世界に宣伝しています。

Kikkoman

大豆の生産が盛んなのもウィスコンシン州です。1973年に同州のウォルワース(Walworth)にキッコーマンは初の海外工場を建設し、“Made in USA”の醤油が初出荷されます。工場建設にあたっては、地域社会との共存共栄をめざし、現地社員の登用も積極的に行いました。日本で培われた技術で、現地の力で醤油を作り、“世界に通用する味”としました。通用する味とは、経営の現地化を土台にして育まれた恒久的な定着を意味しています。1998年には、カリフォルニア州フォルサム(Folsom)にアメリカ第二工場もオープンし、醤油の出荷量も順調に成長を続けています。

Kikkoman in Hokkaido

キッコーマンは、ソイソースに代わるいわば代名詞として、アメリカでも定着しています。ただ、キッコーマンのアクセントは「キッコマン」と発音されています。ステーキのために無くてはならないのがソースです。醤油と肉の組み合わせをより容易にするために生まれたのが「テリヤキソース」というわけです。キッコーマンは、1961年にその生産を始めてから現在まで高い人気を維持しており、「TERIYAKI」は、いまではウェブスター(Webster)の辞書にも載っています。大豆のお陰で醤油や豆腐、その他の日本食品が、アメリカ料理の主流に加わりつつあるといっても過言ではありません。

「TERIYAKI」は英語で「glaze-broiled」で「艶を出しの焼き方」という意味です。照り焼きソースはいろいろな種類があるようですが、最近は減塩もの、韓国風のもの、味噌でつくったものなどに人気があるようです。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その62 『ビール』とウィスコンシン州

Last Updated on 2023年4月14日 by 成田滋

ウィスコンシン州は、シカゴの西、五大湖の左にある州です。最大の街はミルウォーキ(Milwaukee)ときけば、ウィスコンシンという州が少しはイメージが湧くかもしれません。1960年代にビールのコマーシャルで「ミュンヘン、サッポロ、ミルウォーキ」というキャッチコピーがありました。ミルウォーキは、世界三大ビール生産地としてミュンヘン、札幌と肩を並べています。

Silo in Wisconsin

2018年現在、ウィスコンシン州の総人口は約579万人です。第二次世界大戦が終わった1945年以降、常に人口が増え続けています。州名のウィスコンシンはインディアン部族オジブワ族(Ojibwa)の言葉で「赤い石の地」を意味する「Miskwasiniing」がフランス語風になまった言葉が元になっているとされています。州都のマディソン(Madison)は5つの湖の間にある美しい街としてアメリカ国内では有名であり、極めて優れた都市計画のもとに作られています。カリフォルニア大学(University of California)の本校のあるバークリー(Berkley)と比較してリトル・バークリー(Little Berkley)とも呼ばれる大学町です。ウィスコンシン大学マディソン校は生物化学などが有名であり、大学院ランキングブックで社会学部門1位など州立大学としては国内トップクラスとなっています。

Leinenkugel beer

ウィスコンシン州の最大の産業は酪農業です。広大な土地と州内を巡る綺麗な水は酪農に適しており、牛乳やチーズは全米でトップの生産量を誇ります。開拓時代にスイスから移り住んだ人たちによって酪農が始まり、とくにチーズは本場スイス顔負けの品質と言われています。この酪農に対する思い入れは非常に強く、NFLの強豪チームであるグリーンベイ・パッカーズ(Green Bay Packers)のファンはチーズの形をした帽子(cheese head)を被って応援するほどです。州の愛称は「America’s Dairyland」。アメリカの酪農地帯と呼ばれています。

ウィスコンシン州では酪農以外にも水に関連する産業が充実しています。豊富な水資源はミシガン湖(Lake Michigan)、スウペリオル湖(Lake Superior)、ミシシッピ川(Mississippi River)、ウィスコンシン川(Wisconsin River)などを通じて州内を巡っています。同州はこの水資源を生かしたビールの生産が盛んなことは前述しました。小麦の生産が盛んなこと、涼しい気候がビールの醸造に好適なためです。他にもウィスコンシン州は小麦と水に恵まれていると同時に、ドイツ系の移民が開拓したことが関係しています。1800年代にドイツ系移民によって伝統的なビール作りが始まり、同州には次々にビール工場が作られました。同州にミラー(Miller)やシュリッツ(Schlitz)などのドイツ系の名前のメーカーが拠点を構えていました。ミラーはクアーズ(Coors)と合併してから本社がなくなりました。

Milwaukee Tool

ミルウォーキには「Milwaukee Tool」という世界シェアNo. 2の建設工具メーカーがあります。プロユーザー向けの高耐久性の電動工具、アクセサリー、手工具を製造する業界屈指の企業となっています。ドイツ系住民がもたらした機械の職人技が現れています。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その62 『The Badger State』とウィスコンシン州

Last Updated on 2023年4月13日 by 成田滋

合衆国を巡り巡ってようやくウィスコンシン(Wisconsin)にやってきました。7回にわたりこの州を紹介いたします。多くの読者の方々には、「一体ウィスコンシンってどこにあるの?」と問われるでしょう。私はこの質問を何度もきいてきました。確かにウィスコンシン州の知名度はいまいちの感があります。ニューヨークやカリフォルニアは思い浮かべることができても、ウィスコンシンの位置を言い当てるのは難しいようです。スイスやオランダなどからの移民やニューヨーク州からの移住者が酪農の技術を身につけてやってきた州です、といってもぴんとこないかもしれません。

Map of Wisconsin

ウィスコンシンとは、インディアン語で〈川の集まる所〉という意味だそうです。五大湖とミシシッピ川(Mississippi River)に挟まれたウィスコンシン州には、さまざまな地形があります。州内は5つの地域に分かれています。北はスペリオル湖に沿って広がるスペリオル湖(Lake Superior)低地。南側のノーザンハイランド(Northern Highland)には、150万エーカー(6,100km2)のチェカメゴン・ニコレット国有林(Chequamegon-Nicolet National Forest)を含む広葉樹と針葉樹の混合林、何千もの氷河湖、州の最高地点であるティムズ・ヒル(Timms Hill)があります。湖は洪積世の大陸氷河によるものです。州中央部の中央平原には、豊かな農地に加え、ウィスコンシン川のデルズ(Dells)のようなユニークな砂岩の地層があります。南東部の東部稜線と低地地域には、ウィスコンシン州の大都市が多くあります。

Corn field and Silo

南西部のウェスタン・アップランド(Western Upland)は、森林と農地が混在する起伏に富んだ地形で、ミシシッピ川に面した断崖絶壁も多く見られます。この地域は、アイオワ、イリノイ、ミネソタの一部も含むドリフトレス・エリア(Driftless Area)の一部です。この地域は、最も新しい氷河期であるウィスコンシン氷河期に氷河に覆われることはなかった処です。全体として、ウィスコンシン州の国土の46%は森林に覆われています。氷河の影響は州全体に残っています。その最も顕著なのは、氷河で削り取られた跡です。氷河が谷を削りながら時間をかけて流れる時、削り取られた岩石・岩屑や土砂などが土手のように堆積します。これはモレーン(moraine)と呼ばれます。でずから稲作などには適さなく、牧草などを植えて酪農が盛んとなったのです。

One Day in Wisconsin

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その61 『Mountain State』とウェスト・ヴァジニア州

Last Updated on 2023年4月12日 by 成田滋

ジョン・デンバー(John Denver)やオリビア・ニュートンジョン(Olivia Newtonjohn)が歌う「カントリーロード」(Country Road)は、ウェスト・ヴァジニア州(West Virginia)を車で通ったときの風景を歌ったものといわれます。1971年に発売され音楽週刊誌のビルボード(Billboard)で全米2位を記録した大ヒット曲です。歌詞(Lyrics)の最初にでてくる”Almost Heaven, West Virginia”はウェスト・ヴァジニア州自慢の人たちが使う言葉のようで、「まるで天国のようなところ」といった按配です。この曲は2014年に州議会により州歌として認定されています。

ウェスト・ヴァジニア州はアパラチア山脈(Appalachian Mountains)に位置し、国内で最も森に包まれる地形が広がっています。州内全域に広がる起伏の多い山々と丘や渓谷に囲まれていることから、山の州(Mountain State)という愛称がついています。「カントリーロード」の歌詞にある「ブルーリッジ山脈(Blue Ridge Mountains)」はアパラチア山脈に含まれ、州の東部からはその姿を眺めることができます。シェナンドー川(Shenandoah River)も一部流れています。

Country Road by John Denver

アパラチア山脈の全域に硝酸カリウムの採れる洞窟があり、弾薬用に開発されます。ヴァジニア州との州境には「硝石トレイル」があり、硝酸カルシウムを豊富に埋蔵する石灰岩は政府に買い上げられました。石灰岩は有益な採石産業も生んでいきます。この石灰は農業と建設用に使われます。そして19世紀後半、瀝青炭という貴重な資源が見つかります。これが国内の産業革命を加速させ、世界中の海軍の蒸気船に使われていきます。現在も多くの他州で発電するためにウェスト・ヴァジニア州の石炭が使われています。このようにウェスト・ヴァジニア州の主要産業は石炭産業です。国内ではワイオミング州に次ぐ第2位の石炭生産州で、国内全生産量の15パーセントを占めています。「カントリーロード」の歌詞にも「Miner’s lady(炭鉱夫の淑女)」という言葉がでてきます。

州都で最大都市はチャールストン(Charleston)となっています。州第4の都市、モーガンタウン(Morgantown)という治安のよい小都市に、州立総合大学であるウェスト・ヴァジニア大学があります。モーガンタウンはベスト・カレッジタウン(best college town)にランクインしており、生活費や犯罪率が低いエリアとして知られています。

Morgantown, WV

カントリーロードの歌詞の一部です。
Almost heaven, West Virginia
Blue Ridge Mountains, Shenandoah River
Life is old there, older than the trees
Younger than the mountain
Growing like a breeze

Country roads, take me home
To the place I belong
West Virginia, mountain mamma
Take me home, country roads

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その60 『ヒマラヤ杉に降る雪』と ワシントン州(その2)

Last Updated on 2023年4月11日 by 成田滋

カブオ・ミヤモトに対する殺人容疑の裁判には、町の検死官ホレス・ウォーリー (Horace Whaley)や、カールにイチゴ畑を売っている老人オーレ・ジャーゲンセン(Ole Jurgensen)も加わります。裁判では、このイチゴ畑が争点となります。この土地はもともとハイン・シニア(Carl Heine Sr.)が所有していたもので、ミヤモト夫妻はハイン家の土地にある家に住み、ハイン・シニアのためにイチゴを摘んでいました。カブオとカールは子どもの頃、仲良しでした。カブオの父親は、やがてハイン・シニアに2.8ヘクタールの農地の購入を持ちかけます。妻のエッタは反対しますが、カールは賛成し支払いは10年払いとなります。

Snow Falling on Cedars

しかし、最後の支払いが終わる前に、真珠湾攻撃で太平洋戦争が勃発し、日本人の血を引く島民はすべて強制収容所に移されることになります。ハツエとその家族であるイマダ夫妻は、カリフォルニア州のマンザナー収容所(Manzanar camp)に収容されることになります。母から反対でハツエはイシュマエルと別れ、マンザナーにいたカブオと結婚するのです。

1944年、ハイン・シニアが心臓発作で亡くなり、エッタ・ハインがジャーゲンセンに土地を売却します。戦争が終わって帰ってきたカブオは、土地の売買を反故にしたエッタを激しく憎みます。ジャーゲンセンが脳卒中で倒れ、農場を売却することになったとき、カブオが到着する数時間前に、カールが土地を買い戻そうと声をかけてくるのです。裁判では、家族間での土地争いの確執がカブオのカール殺人の動機であると主張されるのです。

殺人容疑の裁判

編集者のイシュメルはポイント・ホワイト灯台(Point White lighthouse)にあった海事記録を調べます。そこでカールが死んだ夜、カールが釣りをしていた海域を貨物船SSウエスト・コロナ号(SS West Corona)が、彼の時計が止まるわずか5分前の午前1時42分に通過していたことが判明します。イシュメルは、カールが貨物船の航跡の勢いで海に投げ出された可能性が高いことを知るのです。彼は、ハツエに振られた恋人としての苦い思いを抱えながらも、次ぎのような情報を得るのです。

それは、カールが船漁灯を切るために船のマストに登ったとき、貨物船の波によってマストから叩き落とされて頭を打ち、海に落ちたという結論を裏付ける証拠です。審議の結果、カブオの殺人容疑は晴れるのです。ハツエはカブオと結婚して以来避けていたイシュマエルに感謝し、イシュマエルはハツエへの愛にピリオドをうちます。そして彼の抱いていた不可知論という哲学は、やがて無神論へと変わっていくのです。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その59 『ヒマラヤ杉に降る雪』と ワシントン州(その1)

Last Updated on 2023年4月11日 by 成田滋

ワシントン州のとある島を舞台とした『ヒマラヤ杉に降る雪』(Snow Falling on Cedars)という作品を2回にわたって紹介します。ワシントン州は、戦前多くの日本人が移住したところです。この小説は、1995年に第15回 ペン/フォークナー賞(PEN/Faulkner Awards)を受賞したデイヴィッド・グターソン(David Guterson)のベストセラー作品です。日系アメリカ人への厳しい偏見と差別が主題となっています。ワシントン州内のベインブリッジ(Bainbridge Island)という島には、ここに住んでいた日系人276名が強制収容へ送られたこと記憶し、人種差別が今後「二度と起こらないように」と祈念した屋外展示があります。

Snow Falling on Cedars

この小説の荒筋です。1954年、ワシントン州のピュージェット湾(Puget Sound)の北、ファン・デ・フーカ海峡(Strait of Juan de Fuca)に浮かぶサンピエドロ島(San Piedro Island)に住んでいた日系アメリカ人のカブオ・ミヤモトが、島で親しまれていた漁師カール・ハイン(Carl Heine) を殺害したという容疑で第一級殺人罪に問われます。1954年9月16日、カールの死体は網にかかったまま海から引き上げられ、水没した彼の腕時計は1時47分で止まっていました。大戦後の根強い反日感情の中で裁判が行われます。

裁判を取材するのは、唯一の地元紙「サンピエドロ・レビュー」(San Piedro Review)の編集者イシュマエル・チェンバース(Ishmael Chambers)です。彼は元米海兵隊員で、太平洋のタラワの戦い(Battle of Tarawa)で日本軍と戦って片腕を失い、仲間の死に直面していました。彼は日本人への憎しみを抱き、カブオの妻ハツエへとの愛と、カブオが本当に無実なのかどうかという良心とで葛藤するのです。イシュメルがハツエと恋に落ちたのは、高校が一緒の時です。二人は密かに交際し、互いに情を通じ合っていました。

Carl and Hatsue

検察側には、町の保安官アート・モラン(Art Moran)と検事アルヴィン・フックス(Alvin Hooks)、弁護側は老練なネルス・グドモンドソン(Nels Gudmondsson)です。カールの母エッタ・ハイン(Etta Heine)を含む数人の証人は、カブオが人種的な理由でカールを殺害したと証言します。カブオはかつて日系人部隊第442連隊戦闘団で戦いますが、日本海軍による真珠湾攻撃後、祖先の血筋を理由に偏見を受けてきました。ヨーロッパ戦線で若いドイツ人を殺害したことへの因果応報を感じながら裁判に臨みます。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その58 『Evergreen State』とワシントン州

Last Updated on 2023年4月8日 by 成田滋

ワシントン州(Washington)の気候は変化に富んでいます。オリンピック半島(Olympic Peninsula)の深い森林は世界の中でも雨が多い場所であり、北米大陸で唯一の温帯雨林に囲まれています。州内には常緑樹の森があり、年間を通じて豊富な雨が低木や草の緑を保っているので『Evergreen State』という州の愛称はぴたりといえましょう。 他方、カスケード山脈(Casucade Mountains)以東の半砂漠地域では樹木は稀です。

ワシントン州の州都オリンピア(Olympia) という人口は5万人弱の街で、最大都市シアトル(Seattle)の南西約100キロにあます。かつて住んでいた兵庫県の加東市はオリンピアと姉妹提携するという不釣り合いな関係を持っています。念のため、ワシントン州とワシントンD.C.(Disctrict of Columbia)は互いにアメリカ大陸の反対側に位置しています。

Leavenworth, WA

人口構成白人は約64%、ヒスパニック約14%、アフリカ系アメリカ人は全米でも少なく、アジア人が多い州である。日本人はアジア人全体の0.5%といわれますが、シアトルには全米一の日系企業があり、カリフォルニア、ハワイ、ニューヨークに続き4番目に日本人の数が多い州で、駐在員や家族が多く住んでいます。

ワシントン州の一番高い山、レーニア山(Mount Rainier)はシアトル南東部に垂直にそびえ、他州の最高点のいずれよりも多量の氷河に覆われています。1980年5月18日、セントヘレンズ山(Mount St.Helens)の北東斜面が爆発し、この火山の頂部が大きく壊れた。この噴火で森を平らにし、57人の人命を奪い、コロンビア川とその支流を灰と泥で溢れさせ、ワシントン州やその他周辺の州を灰で覆いのは記憶に新しいところです。

Mt. Rainier


ワシントン州内の重要なビジネスには、ジェット航空機の設計および製造会社のボーイング(Bowing)、マイクロソフト(Microsoft)、アマゾン(Amazon)、任天堂米国法人,スターバックス(Starbucks)、コストコ(Costco)、大型百貨店のノードストローム(Nordstrom)などが本社を置いています。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その57 『Mother of Presidents』とヴァジニア州

Last Updated on 2023年4月7日 by 成田滋

ヴァジニア州(Virginia)はチェサピーク湾(Chesapeake Bay)と大西洋に面し、山麓はピードモンド台地(Piedmont Plateau)が広がります。歴史上特に重要な州です。1607年にイギリスが最初に建設したのがジェームズタウン(Jamestown)、ウイリアムスバーグ(Williamsburg)、ヨークタウン(Yorktown)など開拓初期から独立革命にかけての史跡が極めて多いのが特徴です。

Colonial Williamsburg

北東部は首都ワシントンDCに隣接し、ジョージ・ワシントン(George Washington)ゆかりの史跡、マウントヴァーノン(Mount Vernon)があります。モンティチェロ(Monticello)は、ヴァジニア州シャーロッツビル(Charlottesville)にあり、独立宣言の起草委員および合衆国第3代大統領を務めた、トーマス・ジェファソン(Thomas Jefferson)の邸宅と歴史的なプランテーションがあったところです。

Village in Virginia

初代大統領はじめ8名の大統領を輩出したので、この州の愛称は「Mother of Presidents」と呼ばれるほどです。州都はリッチモンド(Richmond)です。それまでヴァジニアの主都であったウイリアムスバーグに代わって1779年にヴァジニアの州都となります。リッチモンドは、南北戦争当時は南部連合の首都となりますが、激戦のために市街の大部分は破壊されます。リッチモンドは、化学、食品加工などが盛んで、煙草の集散地でもありフィリップ・モリス(Philip Morris)の工場があります。

Map of Virginia

ヴァジニアは自然にも恵まれた州です。アパラチア山脈(Appalachian Mountains)のシェナンドー国立公園(Shenandoah National Park)は、アメリカメガロポリス(American Megalopolis)からの利用者で賑わう公園です。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その56 『Green Mountain State』とヴァマント州

Last Updated on 2023年4月6日 by 成田滋

北はカナダ国境に接するのがヴァマント州(Vermont)です。かつで私は家族と車で州都モントピリア(Montpelier)を訪れたことを思い出します。カナダのモントリオール(Montreal)からの帰りのことです。独立革命のとき、1775年にニューヨーク州ハドソン川峡谷にあったイギリスのタイコンデロガ砦(Fort Ticonderoga)を攻略したのがイーサン・アレン(Ethan Allen)率いる植民地軍「グリーン・マウンテン・ボーイズ」(Green Mountain Boys)です。その活躍が名高く記録されています。その軍名が州の愛称となっています。

Vermont walk

誠に小さな州都で人口は約8千人と、全米の州都の人口の中で最も少ないところです。しかし、歴史的な建築物が並び、絵本に出てくるような街並みが保たれているのが特徴です。小さな街には風情があります。最大の都市はバーリントン(Burlington)ですが、それでも人口は5万に満たないところです。

Berlington

ヴァマント州の名前は,「緑の山地」を意味するフランス語 les Verts Monts から派生したといわれます。州内にグリーン山地があり、州の多くは山岳と森林で占められているので「Green Mountain State」とも呼ばれる所以です。メープルシロップ(Maple syrup)の生産が盛んで、アメリカの35%のシェアを誇り全米一となっています。モース・ファーム(Morse Family Farm)では無料のメープルシロップの試食ができる他、農場と博物館も併設されています。秋に州全体で素晴らしい楓–メープルの紅葉が見られるところとしても有名です。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その55  クレオールと小泉八雲とケージャン

Last Updated on 2023年4月5日 by 成田滋

あらゆる文化の基礎となるのが言語です。クレオール語(creole language)とは、意思疎通ができない異なる言語圏の人々が、自然に作り上げられた言語(ピジン言語–pidgin)が、次の世代で母語として話されるようになった言語のことといわれます。英語でいえば、ユー・イェスタデイ・ノー・カム(You yesterday no come )といった按配の会話です。文法構造などが簡略化されて、単語をつなぐだけでも会話が成立します。ピジン語が、日常生活のあらゆる側面を使われると、やがてそれが人々の中で母国語化するのです。

前稿では、フランスの植民地であるカリブ海に浮かぶマルティニク島でのクレオール化に触れました。クレオールの人々は次第に少数派となりますが、排他的な努力をして彼らの文化的優越性を守ろうと努力してきました。今では社会的な勢力を失いましたが、風俗、食物、建設にその文化は生き残っています。宗主国フランスによる支配と同化に対抗するために、クレオールとしてのアイデンティティの確立を叫んだのは、前述のグリッサンの他にラファエル・コンフィアン(Raphael Confiant) といった作家です。コンフィアンは、クレオール文学を通して文化的な同化に対して次のような警鐘を鳴らしています。
「我々は西洋の価値のフィルターを通して世界を見てきた。」
「自身の世界、自身の日々の営み、固有の価値を「他者」のまなざしで見なければならないとは恐ろしいことである。」

小泉八雲記念館

クレオールと小泉八雲(Lafcadio Hearn)との関係についてです。彼は、日本に来る前にアイルランドからフランス、アメリカ合衆国で働き、やがて西インド諸島の仏領マルティニク島に住み着いたことがあります。マルティニクでは、クレオールの人々と交流し民話を調べ、文化の多様性に魅了されつつ、旺盛な取材、執筆活動を続けます。それが〈クレオール物語〉〈仏領西インド諸島の二年間〉といった著作です。彼は西洋文明の社会に疑問を抱き、「非西欧」への憧れが彼の中で育っていたことがわかる著作といわれています。八雲はいかなる土地にあっても人間は根底において同一であることを疑わなかったようです。それがクレオールの文化に傾倒した理由といえましょう。

Lafcadio Hearn

アメリカ少数文化集団の一つにケージャン(Cajun)があります。ルイジアナ南西部に住むフランス系の住民です。ケージャンの呼称は、アカディア人(Acardia)を意味するフランス語の〈Acadien〉がなまってカジャンとなったものを英語式にしたことから由来します。1604年、最初にカナダ南東部アカディア地方に入植したフランス人が、18世紀に英仏間の植民地戦争のフレンチ・インディアン戦争(French and Indian War)のあおりで、各地を転々とし、ルイジアナの低地帯に住み着きます。そして同地域がアメリカに併合の後も周囲から孤立して独自の文化を保ってきました。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その54 ルイジアナとクレオール

Last Updated on 2023年4月4日 by 成田滋

クレオール(creole)とは、スペイン語でクリオーリョ(creollo)と呼ばれ、その原義は〈良く育てられた〉といわれます。16世紀にはアメリカ新大陸生まれの純粋のスペイン人を指す言葉として用いられました。その後、拡大解釈され、ヨーロッパ以外のさまざまな植民地で生まれたヨーロッパ人、とくにスペイン人の子孫に用いられました。アフリカから連れてこられた黒人と区別するために、新大陸生まれの黒人がクリオーリョと呼ばれることもあったようです。

クレオールは、アメリカ合衆国では、ルイジアナ地方に植民したフランス人やスペイン人、及びその血を純粋に受け継ぐ者を指します。ニューオーリンズを建設した奴隷労働力の上に優美なフランス的文化を育てた人々がクレオールと呼称されています。クレオールという言葉はしばしば誤用されてきたようです。フランス系やスペイン系と黒人との混血を意味するようになります。

Creole

アメリカ南部のルイジアナ州はもとはフランスの植民地でした。そこに黒人奴隷がサトウキビ農園で働き、白人地主と黒人奴隷との間の、あるいは黒人奴隷の間のコミュニケーションのための言葉が生まれました。それがクレオール語と呼ばれるようになりました。アフリカのさまざまな地域から連れてこられた黒人奴隷は、多くの異なった言語集団に属していたため、彼ら自身の共通の言語を持たなかったのです。そして子ども達はクレオール語を習得していきます。しかし、クレオール語は奴隷の言葉として差別の対象ともなります。クレオール語とは特定のものがあるわけではなく、全世界の旧植民地に広く存在するといわれます。

Creoles

植民地においては、そこで生まれのあらゆるもの、たとえば人、物、習慣、文化などすべてがクレオールと呼ばれるようになっていきます。やがて奴隷解放の機運や運動が起こります。それを促したのはフランス人権思想の影響といわれます。こうしてフランス植民地による奴隷制は、フランス自身の思想によって衰退することになります。そのためアフリカからの労働力を期待できなくなります。やがてアジアの植民地であったインド、中国、レバノンなどから貧しい人々が安い労働力として連れてこられます。こうしていっそう、さまざまな文化要素の混交が起こります。これをクレオール化(Creolization)と呼ばれます。クレオール化を提唱したのは、フランスの植民地の1つ、カリブ海に浮かぶ西インド諸島に位置するマルティニク島(Martinique)生まれの詩人・作家・思想家のエドアール・グリッサン(Edouard Glissant)で、彼のコンセプトは言語、文化などの様々な人間社会的な要素の混交現象を指します。

State Park, Louisiana

フランス領マルティニクの首都はフォール・ド・フランス(Fort-de-France)です。この島にもフランス本国と同様に人権の理念が及んでいきます。知識人の間だけでなく、一般市民レベルでもクレオール語は差別の対象となり、フランス語崇拝が広まっていきます。しかし、フランスへの文化的同化現象は起こりませんでした。1950年代から1960年代にフランス植民地の独立が進んだ時にも、マルティニクは同化されるべき植民地の扱いから脱することが出来ず、現在も植民地のままです。自治権が与えられていきますが、独立の問題を先送りにされています。今でも小・中学校ではクレオール語による教育は排除されています。マルティニク島は、アジアやアフリカの植民地に比べ、人口の大部分が他からの移住から成り立っているため、民族主義的地盤が弱いといわれています。フランスへの人口流失が続き、現地の産業は弱小で、フランスへの経済的な依存が続いています。

アメリカ合衆国の州を愛称から巡る その53 『Creole State』とルイジアナ州

Last Updated on 2023年4月3日 by 成田滋

ルイジアナ州(Louisiana)は、アフリカ、フランス、ネイティブアメリカ、カナダ、ハイチ(Haiti)、ヨーロッパ(Europe)など、いくつもの文化が絶妙に混ざり合い、それらが結合して南部のこの州でしか見られない特別な風土や文化を生み出しています。州全体がメキシコ湾大平原の一角を占め、州北部の東境は北米最大のミシシッピ川(Mississippi River)が流れています。ミシシッピ河口部の三角地帯-デルタを中心とした低平な州で湿地帯が多いところです。ルイジアナ州を3回にわたり紹介することにします。

Map of Louisiana

スペインの探検家エルナンド・デ・ソト(Hernando de Soto)がこの地に入ったのが1541年。その後1682年にフランス人ラ・サール(La Salle)がフランス領と宣言し、1714年にフランス人集落を作ります。1803年に1500万ドルでアメリカがフランスより購入します。ルイジアナという地名は、フランス王ルイ14世(Louis XIV)に由来します。この州では、他州で用いられるカウンティ(郡–county)ではなく、キリスト教会の小教区を意味するパリッシュ(parish)を使うという珍しい州です。ルイジアナの州都はバトンルージュ(Baton Rouge)、最大都市はニューオーリンズ(New Orleans)です。

ルイジアナ州の特徴として、クレオール文化(Creolization)に触れなければなりません。この文化は、フランス、スペイン、アフリカおよび先住民文化から色々な要素を取り入れた融合文化であるとされます。クレオール文化は白人クレオールと黒人クレオール両方に属しています。当初クレオールという言葉はフランスまたはスペイン人の子孫で、現地で生まれた白人を指していました。それが後には白人男性が黒人女性との子孫も指すようになり現在に至っています。植民地社会では、ヨーロッパの諸語が正統言語であり、クレオール語は奴隷の「粗野で崩れた方言」とみなされたののもうなずけます。しかし、1970年代以降の地域ナショナリズムの高まりによって、フランス語系クレオール語を中心にクレオール語・クレオール文化復権運動が起こってきます。クレオール語を認知することで多重言語状況を肯定し、それを将来への遺産へつなげようとする運動です。

Southern Cuisine

クレオール文化に並んで、ルイジアナ州の南西部地方に見られるのがケイジャン(Cajun)文化です。ケイジャン文化は、もともとフランス系移民、アメリカ先住民のアタカパス族(Atakapa)、カナダのアカディア(Arcadia)から逃れてきた人々によって形成されます。ラファイエット(Lafayette)という田舎街などに、ケイジャン文化のコミュニティーを見ることができます。人々は湿地の沿岸地帯での漁業や大草原での牧畜で生計を立てています。ケイジャン文化は、素朴な料理とフランス語を話す歴史を特徴としています。

世界的に名が知られるニューオーリンズのことです。「ビッグイージー(Big Easy)」とも呼ばれるこの街は、歴史が豊かで魅力に溢れています。ジャズ、クレオール料理、南部なまり、多文化のルーツ、そしてもちろん世界的に知られたマーディ・グラ・フェスティバル(Mardi Gras Festival)で有名です。カーニバルのお祭りにおいては、マーディ・グラの右に出るものはないといわれます。ところで、なぜこの街が「ビッグイージー」と呼ばれたかです。20世紀初めには、演奏会場の数が多かったたために、ジャズやブルースのミュージシャンのための開催場所として全国的に認められたからであるという説です。 公園での演奏やストリートでのパーティなどで、ビッグイージーは、常に演奏のための憧れのミュージシャンの渇きを受け入れたオープンで支持的な都市、それがニューオーリンズであるというのです。