アメリカの州鳥 その14 ウェストバージニア州の鳥:ショウジョウコウカンチョウ

Last Updated on 2025年1月4日 by 成田滋

ウェストバージニア州(West Virginia)は合衆国東部、首都ワシントンDC(Washington DC)から内陸に入ったところに位置します。州都および最大都市はチャールストン(Charleston)です。北はペンシルバニア州(Pensilvania)、北東はメリーランド州(Maryland)、東南がバージニア州(Virginia)、北西にオハイオ州(Ohio)、西部にケンタッキー州(Kentucky)の5つの異なる州と接しています。産業としては石炭、硝酸、石灰、岩塩などが採掘されています。

ウェストバージニア州は、残念ながら日本ではあまり知られていない州ですが、雄大な自然と治安のよさは知られています。アパラチア山脈(Appalachian Mountains)に位置し、国内で最も荒涼としているといわれる地形が広がっています。州内全域に広がる起伏の多い山々と、丘や渓谷に囲まれていることから、「山岳の州」(Mountain State)という愛称がついています。

絵画のような美しさで人気のあるシェナンドー国立公園(Shenandoah National Park)は、アメリカ南東部で初めて設立された国立公園です。ブルーリッジ山脈(Blue Ridge Mountains)やシェナンドーバレー(Shenandoah Valley)を見渡せる絶景ポイントが 沢山あります。ハイキングコースも豊富で、難易度や地勢がさまざまに異なるコースですが、600 キロメートル以上の鉄道の線路が、ウォーキング、ハイキング、サイクリング、乗馬のためのトレイルに生まれ変わりました。

Northern Cardinal

州の鳥は、ショウジョウコウカンチョウ(Northern Cardinal)です。公園や郊外の庭園でも見られ、餌台にもよく集まります。種子、果実、花、植物の芽、昆虫等を食べますが、ヒマワリやベニバナの種子をよく食べます。オストメスとも特徴的なとがった冠羽があります。オスの頭と下面は深い朱色です。背はにぷい朱色で羽縁がオリーブ色がかった灰色です。尾と翼はにぷい赤色であごと嘴の付け根付近が黒色です。ローマカトリック教会の枢機卿はCardinalと呼ばれます。枢機卿の法衣と帽子が深紅であることからこの鳥に名付けられています。

アメリカの州鳥 その13 ウィスコンシン州の鳥:コマツグミ 

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私と家族にとっての故郷、ウィスコンシン州(Wisconsin)は、東側はミシガン湖(Lake Michigan)に、北東はミシガン州に、西側はミネソタ州(Minnesota)とアイオワ州(Iowa)に、南側はイリノイ州(illinois)に、北側はスペリオル湖(Lake Superior)に接しています。州都はマディソン(Madison)で人口最大の都市はミルウォーキー(Milwaukee)です。愛称は「America’s Dairy Country(酪農の国)」または「The Badger State(バジャー:あなぐま州)」と呼ばれています。バジャーは州のシンボルとなっています

ウィスコンシン州の主要産業は製造業、農業であり、製造業は農業よりはるかに生産高が大きいのですが、ここは農業の州とか酪農の州と見なされています。ウィスコンシンと言えば乳牛の牧畜で有名で酪農祭り等の催しものが多いのが特徴です。チーズやミルク等の酪農製品が名産で、チーズの生産高では国内の約4分の1を生産しており、全米第1位となっています。

ウィスコンシン州にもいろいろな観光地があります。ヨーロッパからの移民が多く、そうした人々が移住して開拓した町がいくつかあります。マディソンの近くのニューグレラス(New Glarus)にはスイス村(Little Switzerland)、ブルーマウンズ(Blue Mounds)という村はにはリトルノルウェー(Little Norway)という記念館があります。ストートン(Stoughton)はノルウェー系の人々の街となっています。五月の第二日曜日はノルウェーの独立記念日となっていて街中が祝います。

Robin

コマツグミの英名は「Robin」といういい響きです。 市街地周辺から山岳地まで広く生息し、ミミズや昆虫、カタツムリなどを捕食します。 樹上、地上、建物などに小枝や草を用いて椀型の巣を作ります。 澄んだ高い声で鳴きます。 胸から体下面全体が赤橙色で、下から見上げると真っ赤な色に見えることがあります。頭部から翼にかけては灰色~黒色をしています。くちばしが黄色で眼の上下に白い縁取りがあります。オスは頭部がはっきりと黒く、のどまで黒くなっています。メスは頭部の色がオスに比べやや薄く、のど元が白っぽい特徴を持っています。

アメリカの州鳥 その12 インディアナ州の鳥 ショウジョウコウカンチョウ

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インディアナ州の州都はインディアナポリス(Indianapolis)です。インディアナ州はミシガン湖(Lake Michigan)とオハイオ川(Ohio River)の間に南北に延びる州です。この州の人々の呼び名はフージャー(Hoosier)といいます。イングランドのカンバーランド(Cumberland)地方の方言で高地人を指すHoozerが語源といわれます。「開拓民」とか「奥地の人」という意味だそうです。恐らくカンバーランドから入植した人々が自分たちをHoosierと呼んでいたから、この名がついたのでしょう。

インディアナはCorn Beltと呼ばれるウモロコシの農場が広がります。トウモロコシは養鶏や養豚の飼料となります。飼料は世界中に輸出されています。アメリカは穀物市場を押さえています。その中心がインディアナということです。大豆、鶏卵、メロン、トマト、ブドウ、タバコ、ハッカの生産も盛んです。インディ500(Indy500)はご存知でしょうか。5月末の戦没将兵追悼記念日であるメモリアルデー(Memorial Day)の前日の日曜日に開かれれるモーターショーです。スピードウエイを805kmを時速360Kで走るのです。

Cardinal

州鳥ですが、前回のイリノイ州と同じショウジョウコウカンチョウ(Cardinal)です。別名はカーディナルといいます。Cardinalは、カトリックの最高聖職者である枢機卿Cardinalis)に由来し、枢機卿は真紅の衣をまといます。「カーディナル(枢機卿)」は「赤」の代名詞となっているのです。合衆国では冬期には、都市公園などでも見られます。アメリカ国民に最も愛されている野鳥の一つで、全長約20㎝。体重は約50g位です。 オスは光沢のある赤色、メスは体が褐色で、冠羽と翼、尾羽は赤みがかっています。 オスは成熟すると共に赤みが増していく実に綺麗な鳥です。

アメリカの州鳥 その11 イリノイ州の鳥 ショウジョウコウカンチョウ

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イリノイ州(Illinois)の州都はスプリングフィールド(Springfield)。金融の世界的な中心シカゴ(Chicago)もイリノイ州に位置しています。東はインディアナ州(Indiana)、南東はケンタッキー州(Kentucky)、西はミズリー州(Missouri)とアイオワ州(Iowa)、北はウィスコンシン州(Wisconsin)、北東にミシガン湖(Lake Michigan)があります。

ミシガン湖とミシシッピー川(Mississippi Rive)を結ぶ運河により水運が効率になります。陸上では合衆国の交通の要所で鉄道網が発達しています。空運の大中心地がシカゴのオヘア空港(O’ Hare)、工業、農業、金融業、運輸、サービス業などの多様性は合衆国経済の縮図となっています。イリノイには「リンカーンの地 (Land of Lincoln)」という州の公式スローガンがあります。イリノイからは、共和党員のアブラハム・リンカーンの他に民主党員のバラク・オバマ(Barack Obama)が合衆国大統領となっています。シカゴのダウンタウンにシカゴ美術館 (Art Institute of Chicago)があります。是非立ち寄りたいところです。

イリノイ州の土壌は分厚い黒土層でおおわれ、農業に適した肥沃な州で知られています。世界有数の穀倉地帯でもあります。農地は州面積の80%を占め、大豆は全米第一位、トウモロコシはアイオワと同じ一、二位を争っています。

Cardinal

イリノイ州の鳥はショウジョウコウカンチョウ(Cardinal)です。アメリカの東部から中部、南部それにメキシコが原産です。カリフォルニア州にも広がり、その分布域を広げています。林縁や低木帯、人家の周りの茂みなどに生息します。体長は20センチ前後でオスは黒い顔をのぞいて全体が赤色で、メスは淡褐色から淡い緑褐色をしています。頭部に尖った冠毛があり、くちばしは円錐形で橙赤色です。いろいろな種類があり18亜種が確認されています。主にメスのフェースマスクの色で区別するそうです。植物の種子や穀物、果実、昆虫などを餌にしています。一年中さえずりますので人々に親しまれている鳥です。

アメリカの州鳥 その10 アリゾナ州の鳥:サボテンミソサザイ

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アリゾナ州(Arizona)は北をユタ州(Utah)、東をニューメキシコ州(New Mexico)、南をメキシコ、西をカリフォルニア州(California)とネバダ州(Nevada)に接しています。もともとはメキシコの一部でしたが、アメリカ・メキシコ戦争の結果、1863年にアリゾナ準州として分離され、後の1912年に48番目の州となります。首都はフェニックス(Phoenix)で、その他にツーソン(Tucson)といった都市もあります。

フェニックスは、20世紀前半からニューディール(New Deal)政策によるコロラド川(Colorado River)の電源開発、多目的ダムであるフーバーダム(Hoover Dam)の開発によって、無尽蔵の電力を供給、軍事産業に関わる航空機産業や電器機械工業が発展し、また観光都市としても発達しています。フェニックスは砂漠のど真ん中に都市が形成されているため、夏の暑さは厳しいこの地ですが、冬は避寒地として人気で多くの人々がやってきます。郊外にあるサンシティ(Sun City)は、退職後の人々が暮らす地域で有名なリタイアメント・コミュニティー(Retirement Community)があります。

アリゾナといえばグランド・キャニオン(Grand Canyon)の右に出るものはありません。コロラド川による浸食作用で削り出された大渓谷です。州のニックネームは”Grand Canyon State”となっています。フェニックスより車で2時間のところにセドナ(Sedona)という観光地があります。グランド・キャニオンに次ぐ観光地で、個性的な形をした赤い砂岩の岩山で知られ、霊性溢れるパワースポットといわれます。兵庫教育大学の院生8名とで学校訪問のついでにセドナを楽しみました。

Cactus Wrens

州鳥のサボテンミソサザイ(Cactus Wren)のことです。羽の色は褐色で黒と白の斑点があります。目の周りが白く、胸も白いのが特徴です。オスとメスは同じ形をしています。。サボテンの生息している乾燥地帯で生活する鳥で、サボテンに留まっても平気です。長くて鋭いクチバシはサボテンに住む昆虫を突いて食べることができます。 また捕食者に襲われたらサボテンに避難したり、巣をサボテンの隙間に作って卵を守ったりします。つがいは生涯寄り添います。早春に繁殖期を迎え、サボテンの隙間に営巣します。 これにより捕食動物は卵を狙って巣に近づくことはできません。

アメリカの州鳥 その9 アラバマ州の鳥:ハシボソキツツキ

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アラバマ州(Alabama)は、合衆国の黒人と白人の間の平等を実現する闘いにおいて、大きな役割を果たしたことでも知られています。マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師(Rev Martin Luther King, Jr)が説教をし、行進をし、歴史を変えたのは他でもないこのアラバマ州です。州都はモンゴメリー市(Montgomery)は、ローザ・パークス(Rosa Parks)という女性が白人男性にバスの座席を譲ることを拒み、人種隔離政策に異議を申し立てことで有名です。

1955年に起こったパークス逮捕事件がバス乗車拒否などの運動に広がり、公民権運動が高まります。この動きでアメリカ合衆国議会により、1964年の公民権法と1965年の選挙権法成立に繋がります。その後も長い間、公民権運動は続きます。人種差別というのは法律とか規制によっては、なかなか払拭できないのです。歴史とか時間というものは、そう容易く作りかえることは難しいのです。2020年も黒人射殺とか逮捕事件が続いています。

アラバマ州のハンツビル(Huntsville)には、宇宙ロケットセンター(U.S. Space & Rocket Center)のあります。アラバマ州の南端は、モービル湾(Mobile Bay)とガルフコースト(Gulf Coast)のビーチがあることでよく知られています。モービルは、アメリカのマーディグラ(Mardi Gras)発祥の地です。マーディグラとはカーニバルのことです。アラバマ州はディープサウス(Deep South)とも呼ばれ、合衆国南部の地理的、文化的な中心州となっています。

Northern Flicker

州鳥のことです。ハシボソキツツキ(Northern Flicker) は、キツツキ科の鳥で、耕地や市街地の公園などにも生息します。主食はアリで粘りけのある舌を使ってアリを引き出します。嘴は長くとんがり、草木の実や甲虫・コオロギなども食べ、ときには空中捕食も行います。巣は枯れ木に穴をあけて作り、白色卵を1-2個産みます。上面は褐色で黒っぼい横縞模様があります。オスの口許には赤い縞が走っています。襟元には黒い三日月の縞がついています。下腹には黒い斑点がある優雅な姿をしています。

アメリカの州鳥 その8 アラスカ州の鳥:カラフトライチョウ

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アリューシャン列島 (Aleutian Islands) を含む北アメリカ大陸北西の端にあり、面積としては合衆国では最大の州です。合衆国本土とはカナダを挟んで飛地になっています。東はカナダ、北は北極海、西と南は太平洋と接し、西のベーリング海 (Bering Sea) を隔ててロシアと海上の国境を有しています。

アメリカ合衆国の一部としてのアラスカ(Alaska) の歴史は1867年に始まります。この年4月、アメリカ国務長官のウィリアム・スワード (William H. Seward) が720万ドルでロシアより購入します。「巨大な冷蔵庫を買った男」などと非難されたのですが、その後豊富な資源が見つかったり、冷戦中はラスカが国防上重要な役割を果たすことになり、現在ではスワードの手腕は高く評価されています。

野生生物の宝庫がアラスカといわれます。ハクトウワシ (Bald eagle)が何百羽も集まり、ムース(moos) が交通渋滞を引き起こし、数百万匹のサケが川で産卵します。1958年7月7日、大統領ドワイト・アイゼンハワー(Dwight D. Eisenhower)はアラスカを連邦に加えることを認めるアラスカ州法にサインし、1959年1月、アラスカは連邦の49番目の州となりました。州の愛称は”The Last Frontier”(最後のフロンティア)となっています。

Willow ptarmigan

カラフトライチョウ (Willow ptarmigan)がアラスカの州鳥となっています。キジ科の鳥です。体長15–17 インチ のライチョウであり、ヤナギの間やツンドラと湿地で生活します。夏は褐色・冬は純白と季節によって羽毛の色が変化するのが特徴です。冬は羽毛の中に空気をたっぷり蓄えて体温を逃さないようにしています。春は黒い羽毛が混じりはじめ、オス個体では目の上には赤色の肉冠が見えます。メスには肉冠はありません。羽毛は軸が2つに分かれその軸に突いた細かい羽毛の密度が高いため、空気をたくさん含むことができるのです。縄張りを大事にする鳥です。

アメリカの州鳥 その7 アーカンソー州の鳥:マネシツグミ

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アーカンソー州 (Arkansas)は大陸の合衆国中西部に広がる堆積平野のグレートプレーンズ(Great Plains)とメキシコ湾岸(Gulf of Mexico)の間にあります。雄大な山の景色と澄みデルタ地域は、アフリカ系アメリカ人からもたらされた楽曲、ブルース(Blues)が生まれ、ジョニー・キャッシュ(Johnny”Cash)のジャズやフォークの発祥の地です。同じくアーカンソー州出身のビル・クリントン(Bill Clinton)元大統領もこの州の出身です。キャッシュとクリントンの功績を称えるスポットは今でも見て回ることができます。アーカンソー州は世界有数の米作地帯でもあります。

アーカンソー州で有名なのは、緑豊かなオザーク山地(Ozarks)と断崖絶壁の間を流れる広大な川です。異常気象でも知られていて。通常年には雷雨、竜巻、雹、雪、氷雨がみられるようです。雷雨は年間60日ほど記録されています。1957年にアーカンソー州のリトルロック(Little Rock)で起こった人種差別騒動が有名で、アメリカ公民権運動における重大事件の一つとなっています。

mockingbirds

アーカンソー州の鳥はマネシツグミ(mockingbirds)です。他の鳥類や哺乳類、物音などを声真似することから「マネシツグミ」と呼ばれます。面白いことです。世界中に広く分布しています。アメリカ大陸では見られるのは「northern mockingbird」です。色は比較的地味でムクドリに似ています。「mocking」とは、「ふざける」、「いらいらさせる」、「あざける」という意味です。

アメリカの州鳥 その6 アイダホ州の鳥: ムジルリツグミ

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アイダホ州(Idaho)は、アメリカ合衆国北西部のロッキー山脈(Rocky Mountains)にある州です。州の北はカナダ国境のブリティッシュコロンビア州(British Columbia)に接し、東はモンタナ州(Montana)とワイオミング州(Wyoming)に、西はワシントン州(Washington) とオレゴン州(Oregon)に、南はネバダ州(Nevada)とユタ州(Utah)に接している内陸の州です。

州の大部分が山岳地帯の州であり、面積では全米50州の中で14位。アメリカ北東部のニューイングランド(New England)地方の面積よりも広く、農業と共に林業、鉱業が盛んな州です。近年は自然を活かした観光業なども州の大きな収入源になっています。州都および最大都市はボイシ(Boise)です。

かつて琉球の那覇市で幼児教育をしていたとき、公設市場で巨大なジャガイモを見ました。袋には
“Idaho Potato”とありました。私がアイダホを知ったきっかけです。ジャガイモは、もともとは南アメリカのアンデス山脈あたりが原産です。コロッケやポテトチップスなどの加工食品にもされ、ビタミンCやカリウムなどの豊富な栄養を含む特徴があります。メークイン、男爵、農林一号などのジャガイモも北海道で栽培されています。

Mountain Bluebird

アイダホ州の鳥は「ムジルリツグミ」(Mountain Bluebird)です。ツグミの仲間です。全長約18cm、翼開長約36cm、体重約29gくらいです。オスは目の覚めるようなうす青い羽根ですが、メスは灰青色の少し地味な姿です。春頃から彼らは求愛活動を始めますが、メスがオスを選ぶ基準は羽根の色でも鳴き声の美しさでもなく、しっかりした巣を持っているかだそうです。ナバホ族(Navajo)の伝説では、朝日をつかさどる妖精の化身とされています。

アメリカの州鳥 その5 アイオワ州の鳥:オウゴンヒワ

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前置きが長くなりました。いよいよ50州の鳥の紹介です。州名はあいうえお順に紹介することにします。最初はアイオワ州(Iowa) の鳥です。アイオワ州はアメリカ大陸、中西部(Midwest)に位置し、「アメリカのハートランド(Heartland–中心地)」と呼ばれています。その州都で人口最大の都市はデモイン(Des Moines)です。「アイオワ」という名前はヨーロッパ人がこの地域を探検した時代に、数多く住んでいたインディアン部族の中のアイオワ族からとられました。

アイオワ州法によって、アメリカ合衆国大統領選挙の前哨戦である大統領候補指名党員選挙(caucus)を全国に先駆けて行うことが定められています。したがって、アイオワ州党員選挙は大統領選挙の初戦として位置付けされ、大統領選挙の際には大きく注目されています。なお、アイオワ州党員選挙にて敗北した候補者が大統領に就任した例は少なく、「アイオワを制する者が大統領選挙を制する」とも言われています。

アイオワ州の北側はミネソタ州(Minnesota)、東側はミシシッピー川(Mississippi River)を挟んでウィスコンシン州(Wisconsin)です。南はミズリー州(Missouri)、西側はネブラスカ州(Nebraska)です。アイオワを探検し開拓を始めたのは1673年にミシシッピ川の探検をしていたケベック出身のフランス人ルイ・ジョリエ(Louis Jolliet)と、彼と行動を共にしたフランス人宣教師ジャック・マーケット(Jacques Marquette)です。アイオワ州は平原が広がり「コーンベルト(corn belt)」と呼ばれてもいます。トウモロコシの生産で全米一なのです。ということは世界一かもしれません。そのような訳で、「世界の食糧の州」とも呼ばれます。

American Goldfinch

アイオワ州の鳥の代表、オウゴンヒワ(American Goldfinch)は、米国中西部、東海岸のニューイングランド(New England)、カナダでみられるスズメ目アトリ科の鳥で、体長は約14cmです。藪、草原、二次林などに生息します。雑草の種子や芽、昆虫などを食べます。枯草などを集めて椀型の巣を造ります。名前が示すとおり、オウゴンヒワオスはとても鮮やかなレモンイエローで美しい。繁殖期のオスの黄色は輝くような黄金色です。この際だった色がこの鳥の英名・和名の由来です。他方、メスは、羽色が全体に茶色、上面はオリーブ褐色で、頭頂の黒色部分がありません。鳴き声は高くチッチッチッととても心地よく響きます。

オウゴンヒワの巣はオーソドックスな形である浅いカップ型の巣を木の又の部分などに作ります。冬になると大きな群れを作り、群れで生活するようになります。生息地域によっては冬になると渡り鳥のように南の地域へと移動するという特徴があります。

アメリカの州鳥 その4 アメリカの自然保護とパークレンジャー

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1872 年に世界ではじめて国立公園制度を成立させます。世界最初の国立公園は、1872 年に第18代合衆国大統領 ユリシーズ・グラント(Ulysses S. Grant)によって指定されたイエローストーン国立公園(Yellowstone National Park)です。1916 年に「風景、自然、史跡、野生動物の保存」を目的として、内務省(Department of the Interior)に国立公園局(National Park Service)が設置されます。アメリカは世界で初めて国立公園制度を取り入れ、有料制で世界最高水準の自然保護システムを確立しているといわれます。大自然はアメリカの財産という考え方があるからでしょう。

国立公園局は 59あるすべての国立公園と399 のエリアを管轄し、多くの国定記念物、さまざまな保護物と歴史的な特徴を管理する責任を持っています。総面積は 34 万k㎡。これは九州を除いた日本の面積に匹敵します。その96%が国有地で、敷地内にある道路、レストランから教会などの建造物に至るまで、当局の厳重な管理下にあります。

国立公園には必ずビジターセンター(visiter center)があります。パークレンジャー(park ranger)が常駐し自然環境の展示やジオラマ、映像上映があり、来場者の知識を深めるのに役立っています。生息する動植物のリストや天気予報など、公園のあらゆる情報を得ることができます。パークレンジャーによるレンジャープログラムのほとんどは無料で実施されており、予約なしで誰でも参加できます。パークレンジャーは、人々を連れてトレイル(trail)を歩きながら、その風景が生まれた経緯や生息動植物、絶滅の危機に瀕している動植物、先住民の言い伝えなどを聞かせてくれる親切さです。パークレンジャーには、常勤職員と臨時職員(seasonal)がいて、特に夏季にビジターセンターに配置される多くの若手職員は学生または大学卒業直後の臨時職員です。どの公園も芝が刈られ、木々は剪定されていて清潔です。

マイカーやレンタカーは駐車場に停めバスを利用します。バスは低公害の液化天然ガス車でCO2 削減、大気汚染などの環境汚染と交通渋滞を減らす施策を展開しています。バスには自転車ラックがあり、車いすや身体の不自由な人も乗降しやすい低床型となっています。自然保護のため国立公園内の宿は数が限られており、部屋は慢性的に不足しています。ヨセミテ(Yosemite)など人気が高い公園は、トップシーズンのキャビンやペンションの客室は1年前に予約で埋まります。

アメリカの州鳥 その3 アメリカの50州と連邦政府

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アメリカ独立宣言当時はデラウェア (Delaware)を初めとして13州でありました。独立戦争後はスペインやフランスなどと領土を割譲、買収、併合を経て、現在は50州となっています。州は連邦と主権を共有しながらも独立した主体となっています。独立宣言に加わった13植民地を起源として各州は連邦を構成していて自律性が非常に高いのが特徴です。日本ような県の国への従属的な関係とは違います。

合衆国憲法においては、連邦政府に授権された権限として、軍事、外交、通貨、通商以外は州および人民に留保されています。教育・福祉・治安(警察)はもちろん、民法・刑法も原則としては州法の管轄となっています。我が国のような地方交付税などはありません。消費税も州によって異なります。州には固有の憲法や州最高裁判所もあり、三権分立が確立されています。各州の行政や基礎自治体の体系もそれぞれ異なり、首長たる知事、議会はもちろんのこと共和制国家としての体裁を持っています。軍隊である州兵を有しています。

連邦政府には運輸省とか教育省があります。学校の運営は州や自治体に責任があります。国立大学はありません。共通の道路交通法規というものもなく、連邦捜査局にも交通取締りの権限はありません。歴史的には連邦政府の権限が強化され相対的に州の地位が低下する傾向があるように感じます。
特に、連邦政府は共同の防衛および一般の福祉に備えるために、租税、関税、輸入税および消費税を賦課し、徴収する権限を有しています。そして、すべての関税、輸入税お よび消費税は、合衆国全土で均一でなければならないことが合衆国憲法第1条8節に定められています。

アメリカの州鳥 その2 アメリカの独立

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アメリカの独立戦争(American War of Independence) は、アメリカ東部沿岸のイギリス領の13植民地と植民地を支配していたイギリスとの戦いです。砂糖、綿花などへの高い関税に反対したり、東インド会社から持ち込まれる安いお茶への植民地商人の怒りが、1773年にボストン港を襲撃しボストン茶会(Boston Tea Party)事件となっていきます。

茶会事件に衝撃を受けたイギリスはボストン港を閉鎖、住民に対して強硬な姿勢を示していきます。ここにおいてアメリカ大陸13州の住民代表者はフィラデルフィア(Philadelphia)で史上初めての大陸会議を開き、植民地の自治権を求めてイギリスに対して反抗します。1775年4月、イギリスの駐屯兵と住民有志による民兵が衝突がレキシントン・コンコードの戦い(Lexington and Concord)となります。

1775年6月に起こったのがバンカーヒル(Battle of Bunker Hill) の戦いです。訓練も経験も乏しい植民地軍の民兵1,500名がバンカーヒルに砦を築き、白兵戦を展開し敗北します。このような民兵はミニットマン(minute man)と呼ばれました。しかし、イギリスの正規軍に大損害を与えます。結果としてアメリカ側の士気を高める結果となった戦です。バンカーヒルはボストン対岸の丘の名前です。

住民代表者は第2次大陸会議を開催、ジョージ・ワシントン(George Washington) を総司令官に任命して大陸軍を結成し、1776年7月4日の大陸会議においてトマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson) が起草し、プロテスタント的思想(protestantism)を盛り込んで近代民主主義の原点となったアメリカ独立宣言 (Declaration of Independence) を発表します。

プロテスタント的思想とは、神の前での人間の平等を強調する考えです。万人は平等につくられ、また、生命、自由および幸福追求を含む譲ることのできない権利を創造主から与えられているという考えです。

アメリカの州鳥 その1 アメリカの州の歴史

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今回から50回にわたって「アメリカの州鳥」という話題を取り上げることにします。私もウィスコンシンなどで色々な鳥を見てきました。四季とりどりの鳥がいて、それが毎日のように本当に身近で見られることです。日本で見かけたことがない鳥も見ました。アメリカ大陸は広いので珍しい鳥がいます。雪解けになると南から北へむかって大群で雁(geese)が飛翔していきます。秋になるとその反対に大群が南に向かいます。群れが毎日何度も何度も上空を飛んでいくのです。季節を感じる風物詩です。

州鳥に触れていく前にアメリカの州の特徴を述べておきます。現在のアメリカは50の州から成ります。それで合衆国と呼ばれています。州はそれぞれの憲法を有していて、自治を有しいわば小さな国家のような形態をとっています。子ども達はアメリカの独立にいたる歴史を必ず学校で習います。そこで学ぶ大事なことは、アメリカの特徴の一つが多民族国家ということです。なぜ多民族国家となっていったかは、植民地時代の「開拓」によって、ヨーロッパ諸国からいろいろな人々が移民してきたこと、黒人奴隷が連れてこられたこと、アジアの国々から移民がやってきたこと、そして原住民(native american)から構成されているからです。

まずヴァージニア(Virginia)やカロライナ(Carolina)にはイギリス人(England)が、ルイジアナ(Lousiana)にはフランス人が(French-Lousiana)植民地を築くなど、この開拓は主にイギリス人とフランス人2つの民族によって行われます。大西洋東海岸のニューヨーク(New York)やニュージャージー(New Jersey)にはオランダ人(Netherland) が、デラウェア(Delaware)にはスウェーデン人(New Sweden)が、フロリダ(Florida)にはスペイン人(Spanish) が、それぞれにアメリカ大陸に植民地を築いていきます。こうして、アメリカ東部には、すでに17世紀半ばに現在のアメリカ文化となっていく欧米文化が移植されていたのです。

アメリカの歴史における宗教の多様性に関する簡単な歴史です。当初の移民はフランスやスペインなどからのカトリック(Catholic)教徒でありましたが、16世紀にヨーロッパでプロテスタント(新教徒)が勃興し、カトリック教会に対する抵抗の宗教改革運動へ発展していきます。続いて宗教戦争が起こり、カトリック教会からの迫害がおこると、清教徒(Puritan)による1620年のメイフラワー号(Mayflower) のマサチューセッツ(Massachusetts)のプリマス(Plymouth)への移民をきっかけとして、新天地を求めた新教徒が相次いで入植します。こうしてカトリックとプロテスタントが共存していくのです。

日本にやって来て活躍した外国人 その五十一 ラフガディオ・ハーン その2

Last Updated on 2025年1月4日 by 成田滋

「日本にやって来て活躍した外国人」のシリーズはこの稿で終わりとなります。
ハーンは1890年8月に島根県松江にやってきます。なぜ松江を選んだのかはわかりません。松江尋常中学校及び師範学校の英語教師となります。その後は熊本第五高等学校をはじめ神戸など、日本の各地の学校や新聞社で働き、1896年には東京帝国大学の講師になっています。退職後の後任は夏目漱石となり、ハーンは早稲田大学に移り教鞭を執ります。

彼の著作には『知られざる日本の面影』 Glimpses of Unfamiliar Japan (1894) ,『心』 Kokoro (96) ,『仏の畑の落穂』 Gleanings in Buddha-Fieldsなどがあります。中でも、日本の伝説に取材した『怪談』 Kwaidan (1904) は最も読まれた作品といえましょう。『怪談』のなかに「耳なし芳一」とか「雪女」、「のっぺらぼう」、「ろくろ首」などがあります。

ハーンの父親はアイルランド出身でした。いわゆるアイリッシュ(Irish)です。アイルランドといえば妖精のイメージが強いところです。アイルランドの詩人で神秘主義的思想家、イエイツ(William B. Yeats)が編纂した「ケルト幻想物語集」(Legends of the Celts) というシリーズには、幽霊、魔女、巨人、取り換え子…など怪談のような話から、日本の妖怪に近いようなお話まで網羅されています。ハーンも小さい時は、こうした物語を聞かされたり、読んだりしていたはずです。「ケルト人(Celt)」とは、ケルト語派の言語が話される国であるアイルランド、スコットランド、マン島(Mann)に住む人々を指します。

アイルランドのウオータフォード(Waterford)という街に「The Lafcadio Hearn Japanese Gardens」というのがあるそうです。以下のURLで調べましたが、気持ちよく散策できるような雰囲気を感じます。アイリッシュの人々も小説家ハーンには、思い入れがあるのでしょう。
https://www.lafcadiohearngardens.com/ 

日本にやって来て活躍した外国人 その五十 ラフガディオ・ハーン その1

Last Updated on 2020年9月11日 by 成田滋

八雲とセツ

山陰へ行かれたときは、松江市にある小泉八雲記念館を是非訪ねて欲しいものです。記念館には第1と第2展示室があり、第1展示室では「その眼が見たもの」「その耳が聞いたもの」「その心に響いたもの」というコンセプトで紹介し、第2展示室では八雲の事績や思考の特色を「再話」「ジャーナリズム」「教育」「いのち」「八雲から広がる世界」などが紹介されています。小泉八雲という名前ですが、「小泉」は妻・セツの姓で、「八雲」は、出雲の国の枕詞が「八雲立つ」なので、そこから拝借したといわれます。

ラフガディオ・ハーン( Patrick Lafcadio Hearn)、1850年6月にギリシャ西部のレフカダ島(Lefkada)で生まれます。父チャールズ(Charles)はアイルランド(Ireland)出身の軍医、母ローザ(Rosa)はギリシャ人でした。アイルランドは当時まだ独立国ではなかったので、ハーンはイギリス国籍でありました。2歳の時にアイルランドに移り、その後イギリスとフランスでカトリックの教育を受けます。16歳の時、遊戯中に左目を失明します。

小泉八雲記念館

19歳でアメリカに単独で移民し、シンシナティ(Cincinnati)でジャーナリストとして文筆が認められようになります。その後、ルイジアナ州(Louisian)ニューオーリンズ(New Orleans)などで旺盛な取材や執筆活動をします。ニューオーリンズ時代に万博で出会った日本文化、ニューヨークで読んだ英訳『古事記』などの影響で来日を決意し、1890年4月に日本の土を踏みます。その時ハーンは39歳でした。

まもなく島根県尋常中学校及び師範学校の英語教師となります。その後は熊本第五高等学校をはじめ神戸など、日本の各地の学校や新聞社で働き、1896年には東京帝国大学の講師になっています。

日本の各地を渡り歩いて,『知られざる日本の面影』(Glimpses of Unfamiliar Japan),『心』 (Kokoro) ,『仏の畑の落穂』 (Gleanings in Buddha-Fields) などで日本の風土と心を紹介していきます。

日本にやって来て活躍した外国人 その四十九 アリス・ベーコン

Last Updated on 2025年1月4日 by 成田滋

アメリカの女子教育者にアリス・ベーコン(Alice M. Bacon) がいます。日本の初めての女子留学生大山捨松、津田梅子の親友で、彼女らの要請で1884年、華族女学校、後の学習院女学校の英語教師として来日します。

捨松はコネチカット州(Connecticut)のニューヘイブン(New Heaven)のベーコン牧師(Rev. Bacon)の家族のもとでホームステイし、ベーコン家の末娘アリス・ベーコンと出会います。捨松は高校卒業後、東部の名門女子大学であるヴァッサーカレッジ (Vassar College)に入学します。捨松は成績優秀で学級委員長を務めるなどして大学生活を送ります。捨松は帰国までに時間があったので、アリスの兄が開いた看護婦養成学校で3ヶ月の訓練を受け看護婦資格も得ました。スイス留学から帰国した大山巌と結婚し積極的な活動を開始しました。世は鹿鳴館時代です。大山巌夫人として捨松は「鹿鳴館の華」と謳われます。

日本の女子教育に強い関心を持っていた捨松は、華族女学校の設立に参加し、津田梅子も華族女学校で教授補として教壇に立ちます。そして、二人の要請に答え、アリス・ベーコンが1888年に華族女学校英語教師として来日します。捨松、梅子、アリスの3人の再会です。

梅子は高校卒業後1889年に再度渡米し、ペンシルベニア州(Pennsylvania)フィラデルフィア(Philadelphia)にあるブリンマーカレッジ(Bryn Mawr College)に入学します。大学を卒業し帰国した梅子は、1900年に女性英語教師育成のための「女子英学塾」を開校します。現在の「津田塾大学」です。捨松は顧問に就任して梅子を支えます。そしてアリスが再来日して「女子英学塾」で教えます。

ベーコンは帰国後はハンプトンHunpton)師範学校校長となりますが、1900年、大山と津田の再度の招聘により東京女子師範学校で後のお茶の水女子大学と女子英学塾、後の津田塾大学の英語教師として赴任します。1902年4月に任期満了で帰国するまで明治期の女子教育に貢献します。彼女の著作は後にルース・ベネディクト(Ruth Benedict)の『菊と刀』(Chrysanthemum and the Sword: Patterns of Japanese Culture) の重要な参考資料になります。

日本にやって来て活躍した外国人 その四十八 ピエール・ロチ

Last Updated on 2025年1月4日 by 成田滋

南フランスはロッシュフォール(Rochefort)出身であるピエール・ロチ(Pierre Loti)を紹介します。海軍大佐で世界中を旅し、1885年、修理のため長崎に停泊した巡洋艦ル・トリオンファント(La Triomphante)号の乗員として来日します。中国に発つまでの約2ヶ月間長崎に滞在し、周旋人を通して17歳のおかねという少女と愛人関係を結びます。十人町の家を借りて1ヵ月ほど共に暮らしその経験を後に「お菊さん(Madame Chrysantheme)」という小説に書き、1887年にフランス国内では最も古い歴史を持つフィガロ紙(Le Figaro)に発表します。

日本の自然や生活様式などを異国情緒たっぷりにリアルに描いたこの作品は、また従順で大人しい日本女性のイメージが強く印象づけられています。日本および日本文化に対する強烈な好奇心をかき立てられたようです。フランスのジャポニズムにも大きな影響を与えます。アメリカのジョン・ロング(John L. Long)はこの日本人女性の話を長崎にいた妹、コレル(Correll)から聞き、短編小説にします。これらがプッチーニ(Giacomo Antonio Puccini)のオペラ『蝶々夫人』の原型になります。

鹿鳴館の時代の真っ只,「お菊さん」の他に「秋の日本」,「ニッポン日記」,「日本の婦人たち」 などの作品を発表します。長期間にわたって日本で暮らした経験のある“親日家”(例えば,ラフカディオ・ハーン)の著作とは大きく異なり,フランス人のロチがはじめて目にする日本の印象が冷えた眼差しで鋭く克明に綴られています。フランス人のエスプリ(esprit)でしょうか、ロチの描く日本人女性の姿はひどく、「意思も感情も表情もない」などと描写しています。また日本を「遅れた野蛮な国」のように書いているのが気になります。

日本の婦人たち」 には,ロチは鹿鳴館についての印象を次のように記しています。
『東京のど真ん中で催された最初のヨーロッパ式舞踏会は,まったくの猿真似であった。そこでは白いモスリンの服を着て,肘の上までの手袋をつけた若い娘たちが,象牙のように白い手帳を指先につまんで椅子の上で作り笑いをし,ついで,未知のわれわれのリズムは,彼女たちの耳にはひどく難しかろうが,オペレッタの曲に合わせて,ほぼ正確な拍子でポルカやワルツを踊るのが見られた。』

『この卑しい物真似は通りがかりの外国人には確かに面白いが,根本的には,この国民には趣味がないこと,国民的誇りが全く欠けていることまで示しているのである。ヨーロッパのいかなる民族も,たとえ天皇の絶対的命令に従うためとはいえ,こんなふうに今日から明日へと,伝統や習慣や衣服を投げ捨てることには肯(がえ)んじないだろう。』

日本にやって来て活躍した外国人 その四十七 テオドール・フォン・レルヒ

Last Updated on 2025年1月4日 by 成田滋

日本にスキーを伝えたのは、オーストリア(Austria)の将校、テオドール・フォン・レルヒ少佐(Theodor von Lerch)です。わが国の軍事視察と軍事教練を目的として来日します。その背景には、1902年1月に起こった八甲田雪中行軍遭難事件があります。陸軍第8師団の歩兵第5連隊が青森市街から八甲田山の田代新湯に向かう雪中行軍の途中で遭難した事件です。訓練に参加した210名中199名が死亡するという史上最悪の遭難事件です。この遭難を教訓に、寒冷地での軍事教練を強化し指導するためにレルヒは招聘されます。

1911年1月にレルヒは高田、現在の上越市の陸軍第13師団の歩兵58連隊に送られます。彼はさっそく雪の中を進む軍事訓練として、兵士たちにスキーを紹介します。彼はオーストリアから持ってきた1組のスキー(Ski)を見本をもとに、訓練用のスキーを製造し、数名の青年将校にスキーの練習を命令します。レルヒがその講師です。

レルヒは1年余りを高田で過ごします。この間、陸軍第13師団において良き理解者に恵まれ、スキーの指導にも熱心に力を注ぎました。訓練用のスキーは一本のステッキを使って操作するものでした。レルヒは、スキーを学んだ将校たちに、越後地方の学校でスキーを教えるように促します。レルヒも民間人にスキーを教えることには大いに乗り気で、特にジャーナリストと教師にスキーを教えます。

日本にやって来て活躍した外国人 その四十六 ルーサー・メイソン

Last Updated on 2025年1月4日 by 成田滋

日本の音楽教育・西洋式音楽の輸入などで基礎を築いた功労者ルーサー・メイソン(Luther W. Mason)を紹介することにします。アメリカ各地で長年音楽の教師を勤め、主に初等音楽教育分野で第一人者となった教育者です。

アメリカに留学した人に伊沢修二がいます。伊沢は幕末の混乱期に、主に理系の洋学を中心にして学を修め、明治政府の文部省に出仕し、愛知師範学校校長となったのちの1875年に24歳で政府から米国留学を命じられます。留学した彼は、主にマサチューセッツ州(Massachusetts)のブリッジウオーター大学(Bridgewater State University)で、アメリカにおける師範教育の在り方を中心に学び、この時、ボストンで音楽教育家として名を成していたメイソンの教えを受けます。

帰国後、伊沢は文部省に進言して「音楽取調掛」の設立を準備し、メイソンを日本に呼び寄せて事業に協力してもらう手はずを整えます。1880年に伊沢を長として音楽取調掛はスタートします。そして、翌年の1881年にメイソンが来日し、足掛け2年間、メイソンは日本における音楽教育の基礎固めに関わることになります。音楽取調掛というのは、後の東京音楽学校=東京芸大音楽学部の担当官のことです。

音楽教員の育成方法や教育プログラムの開発を行い、伊沢とともに『小学唱歌集』の作成にも関わります。また、ピアノとバイエル(Bayer)の『ピアノ奏法入門書』を持ち込み、ピアノ演奏教育の基本も築きます。東京芸術大学には、メイソンがアメリカから持ち込んだピアノが今も記念に残されています。

日本にやって来て活躍した外国人 その四十五 イザベラ・バード

Last Updated on 2025年1月4日 by 成田滋

イギリスの女流作家にイザベラ・バード(Isabella L. Bird)がいます。当時の女性としては珍しい「旅行家」として、世界中を旅した女性でもあります。バードは1831年、イングランド北部ヨークシャー(Yorkshire)で牧師の2人娘の長女として生まれます。1878年、47歳で来日し東京を起点に日光から新潟へ抜け、日本海側から北海道に至る北日本を旅します。このときヘボン博士の紹介で伊藤鶴吉という従者兼通訳の日本人男性一人が同伴します。伊藤には英語能力のほか、英国人で植物学者であったチャールズ・マリーズ(Charles Maries)の植物採集に従事した経験があったからです。

国内旅行にはさまざまな制約がありました。イギリス公使であったハリー・パークス(Harry S. Parkes)の尽力で「外国人内地旅行免状」をもらい旅します。そのような時代にバードはアイヌの一拠点集落である平取をめざして北海道へ、そして関西・伊勢神宮へと旅します。彼女は日本滞在の7カ月で4,500キロ以上を旅したようです。その目的は当時の日本を記録すること、そしてキリスト教伝播の可能性を探ることでありました。

これらの記録を全2巻800ページを超える大著『日本の未踏の地:蝦夷の先住民と日光東照宮・伊勢神宮訪問を含む内地旅行の報告』(Unbeaten Tracks in Japan)として残しています。北海道の旅の目的地を平取に定め、アイヌの長ペンリウク宅で3泊4日滞在し、アイヌの生活や文化を学び知ろうと全力を注ぎ、濃密な記録を書き残します。実はアイヌへのキリスト教伝道とも結びついていたようです。彼女の記録は、まだアイヌ文化の研究が本格化する前の明治時代初期の状況を詳しく紹介したほぼ唯一の貴重な文献となります。彼女の報告の原題は「Unbeaten Tracks in Japan: An Account of Travels in the Interior Including Visits to the Aborigines of Yezo and the Shrines of Nikkō and Ise」とあります。アイヌのことをアボリジニ(Aborigines)と呼んでいるのは興味あります。

バードの旅は時に地元紙にも紹介され、視察の旅であることが読者に伝えられていたといわれます。旅は用意周到に準備・計画され、ルートは目的に従い事前に設定されていました。例えば、日光から会津を抜け、津川から阿賀野川を舟で下って日本海側の新潟に出たのは、開港場であるが故にそこに宣教師がおり、その活動を学び知り新潟のさまざまな実態を明らかにするためだったようです

日本にやって来て活躍した外国人 その四十四  エライザ・シドモア

Last Updated on 2025年1月4日 by 成田滋

アメリカ人で著作家・写真家・地理学者であったエライザ・シドモア(Eliza R. Scidmore) のことです。オハイオ州のオーバリン大学(Oberlin College)に学びます。旅行に関心を抱いたのは、1884年から1922年まで在横浜米国総領事館に外交官として勤務していたジョージ・シドモア(George Scidmore)に因るところが大きかったようです。当時の日本は、西洋からの訪問者に対して門戸を開いたばかりだったので、シドモアはしばしば兄の任務に同行し、一般の旅行者にはアクセスできない地域へも渡航することができました。

19歳のときに初めて「National Republican」紙のコラムを担当し、その後、「New York Times」紙を含むさまざまな新聞に、ワシントンD.C.の社会に関する記事を投稿し、文筆が認められていきます。日本には3度も訪れて合計3年間滞在し、全国を行脚して様々な記録を残します。『ナショナルジオグラフィック』(National Geographic)の紀行作家であり地理学者。女性として初めて米国地理学協会の理事に就任し、東洋研究の第一人者として活躍した。後に、シドモアはナショナル ジオグラフィック協会の理事に選ばれた最初の女性です。

日本に関する記事や著作も残しています。「日本・人力車旅情」(Jinrikisha Days in Japan)を著し、1896年には三陸地震津波の被災地に入って取材し、「The Recent Earthquake Wave on the Coast of Japan」をナショナル・ジオグラフィックの9月号に寄稿しています。この投稿で、彼女は「Tsunami」という言葉を使っています。

日本にやって来て活躍した外国人 その四十三 ポール・ブリュナ

Last Updated on 2025年1月4日 by 成田滋

フランス人の生糸技術者でお雇い外人にポール・ブリュナ(Paul Brunat)がいます。ドローム県(Droma)のブール・ド・ペアージュ(Bourg de Peage)に生まれます。お雇い外国人として、富岡製糸場の設立に携わり 計画、建設、操業の全てに関わった技師です。

1870年に明治政府は、自前で器械製糸工場の設立を決めます。大蔵省の役人だった深谷出身の渋沢栄一らは、フランス人公使、ロシュ (Michel Jules Roches)の紹介で指導者としてブリュナを製糸場建設・運営、指導の責任者として契約します。設立場所としてもともと養蚕業が盛んで東京や横浜に近い群馬・富岡に日本初の器械製糸工場の地として選びます。

ブリュナは、母国フランスから建築家や技師らを招き、さらに日本人工女に器械による繰糸の操作方法を教えるために、フランスから何人かの女性技術者を招き入れます。繰糸機や蒸気機関等を輸入して1872年に操業を開始します。この時に導入された機械は蒸気機関を利用した繭から糸を巻き取る繰糸作業を行うだけのものでした。やがて、この官営富岡製糸工場は日本の殖産興業に大きな貢献をします。

日本にやって来て活躍した外国人 その四十二 ルイ・エミール・ベルタン

Last Updated on 2025年1月4日 by 成田滋

フランスの海軍技術者で日本海軍に招かれフランス人にルイ・エミール・ベルタン(Louis-Emile Bertin)がいます。1886年から1890年の4年間、日本海軍のお雇い外国人としてベルタンは、日本人技術者と船舶設計技師を育て上げ、近代的な軍艦を設計・建造し、海軍の施設を建造します。来日したときは45歳でした。フランス政府にとっては、当時工業化していた日本への影響力を高め、イギリスとドイツの技術を凌駕する機会ととらえていたようです。

ベルタンは、近代的な軍艦を設計して建造し、海軍の施設・呉、佐世保工廠などを建造するのを指揮します。この間に彼が手がけた軍艦に海防艦「松島」「橋立」「厳島」(通称「三景艦」)をはじめとする7隻の主力艦と22隻の水雷艇に及びます。これらは日清戦争における日本艦隊の主力となります。彼の努力は1894年9月の黄海海戦での勝利へとつながります。ベルタンは海防艦と一等巡洋艦建造のための設計を確立しただけではなく、艦隊組織、沿岸防御、大口径砲の製造、鉄鋼や石炭などの材料の使用法も教授しています。

フランスに帰国後は海軍機関学校校長、大将、海軍艦政本部部長を歴任し、在任中にフランス海軍を世界2位の海軍に育て上げます。その功績を記念してフランス海軍にはエミール・ベルタンの名を冠した巡洋艦が生まれます。

日本にやって来て活躍した外国人 その四十一 フランシス・ホール

Last Updated on 2025年1月4日 by 成田滋

私の住む多摩にやってきたことのある幕末期のアメリカ人商人、新聞の通信員、フランシス・ホール(Francis Hall)のことです。あまり知られてはいない外国人です。1822年にコネチカット州(Conneticut)エリントン(Ellington)に生まれた。地方判事の父親ホール(John Hall)はイェール大学(Yale University)出の教育者でもあり、「エリントン・スクール(Ellington School)」という初めての学校を作った人物です。

ホールは父親が作った学校を1838年に卒業し、兄がマサチューセッツ州に開いた本屋を手伝ったのち、1841年にシラキュース(Syracuse)の本屋で働きます。知人の旅行作家が1855年のペリーの日本来航に同行したことに触発され、1859年日本へ冒険旅行に出かけます。

1859年に来日し、ジェームス・ヘボン(James C. Hepburn)らの宣教師家族とともに神奈川宿の成仏寺住みます。1860年に横浜の居留地に移ります。横浜居留地に店を構えていた貿易商社のウォルシュ・ホール商会(Walsh Hall)の友人ジョージ・ホール(George Hall)が1862年に帰国することになり、その後任として同社に参加します。

ホールはニューヨーク・トリビューン紙(Tribune)の通信員も兼ねていて、貿易業の傍ら7年間の日本滞在中に同紙に約70本の記事を送信します。滞在日記も1859年から離日するまで書き続けます。日本で一財産を築き、1866年にアメリカに帰国します。兄のエドワード(Edward Hall)は、1844年にエリントンに「ホール・ファミリー・スクール・フォー・ボーイズ(Hall Family School for Boys)」という男子校を創立します。同校には、ウォルシュ・ホール商会と懇意にしていた岩崎弥太郎の弟・岩崎弥之助が1872年に留学します。その学校の記念図書館建設に当たり、弥之助は2,000ドルを日本コレクション整備のために寄付するという記録が残っています。

日本にやって来て活躍した外国人 その四十  ニコライ・カサートキン

Last Updated on 2025年1月4日 by 成田滋

東京は神田にきたとき、是非訪れて欲しいのが通称「ニコライ堂」です。ロシア正教(Russian Orthodox Church)の宣教師、ニコライ・カサートキン(Ian D. Kasatkin)を紹介することにします。名前はイアンですが、ニコライ(Nikolai)は修道士となって付けられた名前です。イアンは1860年6月に按手を受けて修道士となり名をイアンからニコライと改めます。サンクトペテルブルグ神学大学(St. Petersburg Seminary)の十二聖使徒聖堂で司祭に叙聖され聖ニコライとなります。

聖ニコライが箱館領事館付司祭として渡来したのは1861年です。サンクトペテルブルグ神学大学在学中にゴロウニン(Vasilii Gorovnin)の書いた「日本幽囚記」を読み日本に興味を抱いたと伝えられています。聖ニコライは後に日本での伝道活動が軌道に乗ってくると、正教会において、十二使徒のうちの聖使徒ペトル(ペテロ)と聖使徒パウェル(パウロ)を記憶して祝う祭り、ペトル・パウェル祭の日を日本における伝道方針を定める日とします。

日本ハリストス正教会(Orthodox Church in Japan) を組織後、上京し神田駿河台に本部となる東京復活大聖堂(Holy Resurrection Cathedral in Tokyo)を創建します。通称神田ニコライ堂と呼ばれ、ビザンティン様式の教会建築として有名です。ニコライ堂には苦難の歴史があります。1894年に竣工されますが、高台にあって皇居など東京を見渡せるので、スパイ活動をするのではないかと疑われたのです。

それに先立ち、日本人最初のイコン画家になったのが、山下りんです。帝政ロシアの首都サンクトペテルブルクに留学し、女子修道院にてイコン(Icon) 製作技術を学び、1883年に帰国します。そしてニコライ堂内にイコン画を納めます。 

1904年には日露戦争が勃発しますがニコライ大主教はロシアに帰国しません。反ロシアの機運が高まることによって、聖堂が破壊されるのを恐れたからです。1923年9月1日に関東大震災が起こり、ニコライ堂の鐘楼やドームが破壊され、内部のイコン画などが焼失します。ニコライ堂が再建されたのは1924年です。関東大震災で消失したと思われていた日記-『宣教師ニコライの日記抄』が発見され2007年に日本語版が出版されます。