日本にやって来て活躍した外国人 その三十九  アーネスト・サトウ

Last Updated on 2025年1月4日 by 成田滋

ロンドン生まれのアーネスト・サトウ(Ernest M. Satow)は、ルーテル派(Lutheran)の宗教心篤い家柄で育ちます。ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(University College, London)で学び、在日本英国公使館の一等書記官であったローレンス・オリファント(Laurence Oliphant)が著わした「エルギン卿遣日使節録」を読んで日本に憧れたといわれます。1861年にイギリス外務省の領事部門へ通訳生として入省します。

1862年9月、イギリスの駐日公使館の通訳生として横浜に着任します。初代駐日総領事で同公使であったラザフォード・オルコック(Rutherford Alcock)の下で働きます。当時、横浜の成仏寺で日本語を教えていたアメリカ人宣教師サミュエル・ブラウン(Samuel Brown)や、医師の高岡要らから日本語を学びます。成仏寺は外国人宣教師の宿舎で、ヘボン(James C. Hepburn)も住んでいました。公使館の医師であったウィリアム・ウィリス(William Willis)らと親交を結びます。ウィリスは後に日本に赤十字精神をもたらし、鹿児島大学医学部の前身である医学校兼病院の創設に尽力します。

サトウが初めて日本語通訳としての仕事をしたのは、1867年の5月10日をもって攘夷を行うという将軍徳川家茂が孝明天皇に約束したことを知らせる内容の手紙を翻訳したことといわれます。1863年8月に薩摩藩とイギリスとの間で薩英戦争が起こります。サトウもウィリスとともにアーガス号(Argus)に通訳として乗船します。薩摩藩船・青鷹丸が拿捕されます。その船に、後に大阪経済界の重鎮となる五代友厚や日本の電気通信の父と呼ばれる寺島宗則が乗船していて捕虜となります。

下関戦争では四国艦隊総司令官付きの通訳となり、英・仏・蘭の陸戦隊による下関にあった前田村砲台の破壊に同行します。長州藩との講和交渉では高杉晋作を相手に通訳を務めるという経歴を有します。サトウの日本滞在は1862年から1883年と、駐日公使としての1895年から1900年までの間を併せると25年間となります。アーネスト・サトウは「お雇い外国人」ではありませんでしたが、通訳として外国との折衝にあたります。イギリスは江戸幕府を応援していましたので、サトウの役割も大きかったと思われます。

日本にやって来て活躍した外国人 その三十八 ヴェンセスラウ・デ・モラエス

Last Updated on 2025年1月4日 by 成田滋

ポルトガル人(Portugue)の外交官、海軍軍人、文筆家だったヴェンセスラウ・デ・モラエス(Wenceslau Jose de Sousa de Moraes)の日本での活躍です。日本では余り知られていない文筆家ですが、意外と彼の著作はポルトガルでは関心を呼んだようです。1854年、モラエスはポルトガルの首都リスボン(Lisbon)で生まれます。海軍学校を卒業後、ポルトガル海軍士官となります。ポルトガル領だったマカオの港務局副司令を経て1889年に来日します。

1899年に日本に初めて神戸にポルトガル領事館が開設されると同副領事として赴任し、後に総領事となり1913年まで勤めます。モラエスは神戸在勤中に芸者のおヨネと出会い、ともに暮らすようになります。しかし1912年にヨネが死没すると、総領事の職を辞任してヨネの故郷である徳島市に移住します。さらにヨネの姪である斎藤コハルと暮らすのですが、彼女にも先立たれてしまいます。

『おヨネとコハル』『大日本』『日本精神』『徳島の盆踊り―モラエスの日本随想記』や日本についての著作があり、また日記・書簡など、ポルトガルの新聞や雑誌などに寄稿した文章が多数残されています。すべてポルトガル語であるため、日本ではあまり知られることがなかったようです。著作のほとんどが彼の死後、日本語に訳されて日本礼讃の書として知られるようになります。

「緑、緑、緑一色!…」。モラエスは徳島の最初の印象を作品「徳島の盆踊り」(岡村多希子訳)に書いています。ですがモラエスの徳島での生活は必ずしも楽ではなかったようです。身長180cm以上で、長い髭を延ばした風貌だったこともあり、「とーじんさん」と呼ばれて珍しがられたようです。ドイツのスパイと疑われたり「西洋乞食」と蔑まれたりすることもあったといわれます。

モラエスは1902年から1913年まで、ポルトガル北部の港湾都市ポルト市(Porto)の著名な商業新聞に当時の日本の政治外交から文芸まで細かく紹介します。それらを集録した書籍『Cartas do Japão(日本通信)』全6冊が刊行されます。ポルトガルにて、東洋の国、日本への関心を高めて話題となったといわれます。

日本にやって来て活躍した外国人 その三十七 アーネスト・フェノロサ

Last Updated on 2025年1月4日 by 成田滋

高校の美術の時間では、岡倉天心と並んでアーネスト・フェノロサ(Ernest F. Fenollosa)のことを学びます。彼はマサチューセッツ州(Massachusette)のセイラム(Salem)生まれ、地元の高校を卒業後、ハーバード大学(Harvard University)で哲学、政治経済を学びます。美術が専門ではなかったのですが、ボストン美術館(Museum of Fine Arts, Boston)付属の美術学校で油絵とデッサンを学んだことがあり、美術への関心はあったことが伺われます。

フェノロサは、動物学者エドワード・モース(Edward Morse)の紹介で1878年に来日し、東京大学で哲学、政治学、理財学(経済学)などを講じます。フェノロサの講義を受けた者には岡倉天心、嘉納治五郎らがいます。来日後は日本美術に深い関心を寄せ、助手の岡倉天心とともに古寺の美術品を訪ね、天心とともに東京美術学校の設立に尽力します。1888年天心は欧州の視察体験から、国立美術学校の必要性を痛感し、日本初の芸術教育機関、東京美術学校、現在の東京芸術大学を設立し初代校長となります。フェノロサは副校長に就き、美術史を講義します。

当時の日本では、神仏分離によって神道を押し進める風潮の中で、多年にわたり仏教に虐げられてきたと考えていた神職者や民衆が起こした廃仏毀釈が起こります。それに対して、西洋文化崇拝の時代風潮の中で見捨てられていた日本美術を高く評価し、研究を進め、広く紹介したのがフェノロサです。明治時代における日本の美術研究、美術教育、伝統美術の振興、文化財保護行政などにフェノロサの果たした役割は大きいといえます。

1890年に、ボストン美術館(Museum of Fine Arts Boston)に日本美術部が新設されフェノロサのもとへ「学芸員になって欲しい」と依頼が届きます。折りしも日本政府との契約が満期終了となり同年、ボストン美術館東洋美術部長に就任し、日本美術の紹介に尽力します。1896年に、2度目の来日で東京高等師範学校教授となる。この年、夫人と共に天台寺門宗の総本山三井寺・法明院を訪ねます。フェノロサは法明院の茶室で寝起きしたといわれます。法明院にはフェノロサの墓があります。

日本にやって来て活躍した外国人 その三十六 魯迅 その2

Last Updated on 2025年1月4日 by 成田滋

魯迅には、人間嫌いという側面があったといわれます。嫌悪は他者ばかりでなく、自己を含む面です。同胞の人々を卑俗性ゆえに避けたというのですが、魯迅自身をも嫌悪することにはね返ったのではないかという説です。魯迅が仙台での授業の合間に見た記録映像がありました。ロシアのスパイをしたとして中国人が日本の兵士に銃殺されるシーンで物見遊山で見守る中国人が「万歳!」と歓声を上げるのを見るのです。魯迅は「ああ、何も考えられない!」と嘆き、身体ではなく精神の改造へと転向するのです。魯迅は医学の道をやめて東京へ向かいます。

東京にいた中国人留学生には、立憲君主制を唱える改良派、異民族征服の王朝であった清朝打倒を説く革命派、無政府主義の者など、さまざまなグループがありました。魯迅はどうも革命派に位置していたようです。

1909年に魯迅は帰国し、浙江省の師範学同堂の教員となります。1911年に辛亥革命がおこり、各地で民衆が蜂起し清王朝の支配が終わります。列強の中国大陸への進出により、中国各地で抗日運動も広がっていきます。魯迅は、作家として翻訳家として、文学革命運動を担って祖国の青年に精神を教える立場に変わります。不朽の名作「阿Q正伝」は、ルンペンで愚民の典型である架空の一庶民、阿Qを主人公とした短編小説です。

阿Qは反封建的で半植民地的な中国社会の産んだ人間の一タイプとして描かれます。権威には無抵抗で弱者をいじめる滑稽な人物で、人間のもつ奴隷根性の化身で、そして万人に通じその意味で普遍性を備えた人間としても描かれます。革命に同調し謀反に荷担したとして阿Qは捕らえられ処刑されるのです。「阿Q正伝」は民衆の無知と無自覚を痛烈に告発した作品として知られています。

日本にやって来て活躍した外国人 その三十五 魯迅 その1

Last Updated on 2025年1月4日 by 成田滋

このブログのタイトル「日本にやって来て活躍した外国人」にそうかどうか心配ではありますが、中国の偉大な作家、魯迅を取り上げます。中国で最も早く西洋の技法を用いて小説を書いた作家で、その作品は日本や中国だけでなく、東アジアでも広く愛読されています。

魯迅が生まれたときは、大清国の崩壊していった時代です。清国は古来から対朝鮮関係で占めていた特権的地位を失い、西欧列強や日本に領土を割譲し、賠償金を支払います。これは中国の識者に与えた衝撃は大きく、自国の体制を内部から考え直す視点に立つようになります。魯迅の父は将来息子の一人は西洋へ、一人は日本へやって学問をさせようとします。科挙しか眼中になかった当時の識者の間に変革の気運が起きるのです。

1902年に魯迅は、鉱路学堂という学校の同期生とともに官費留学生として日本に留学します。最初、東京の弘文学院という清国留学生に日本語と普通教育を授けるために設けられた学校に入ります。この学校は、東京高等師範学校校長であった嘉納治五郎が中国人留学生の速成教育のために設けた学校です。魯迅はこの学校の普通科で2年間、日本語のほか算数、理科、地理、歴史などの教育を受けます。

1904年9月、魯迅は国費留学生として仙台医学専門学校、現在の東北大学医学部に入学します。無試験で授業料は免除されました。医学専門学校は全国に5校ありましたが、仙台を選んだのは、「中国留学生のいない学校に行きたい」という理由だったようです。特に解剖学の藤野厳九郎教授は魯迅を丁寧に指導したようです。医学を専攻しながら、同時に西洋の文学や哲学にも心惹かれていきます。ニーチェ(Friedrich W. Nietzsche)、ダーウィン(Charles R. Darwin) のみならず、ゴーゴリ(Nikolai Gogol)、チェーホフ(Anton Chekhov)などロシアの小説を読み、後の生涯に大きな影響を与えていきます。

仙台医学専門学校留学時代の魯迅と藤野厳九郎の関係は、魯迅の短編小説「藤野先生」により伺い知ることができます。仙台医学専門学校の課目は解剖学・組織学・生理学・化学・物理学・倫理学・ドイツ語・体操などで、藤野厳九郎は解剖学を担当していました。藤野厳九郎は教育者として厳しく真面目でした。他方で魯迅のノート添削に丁寧に対応していました。魯迅は、1904年9月から1906年3月までの約1年半しか仙台にいませんでした。

日本にやって来て活躍した外国人 その三十四  エドモンド・モレル

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鎖国時代が終わり、明治政府は積極的にアメリカやヨーロッパ諸国に働きかけて専門家を日本に招き、「近代化」を図っていきます。イギリスからは鉄道開発、電信、公共土木事業、建築、海軍制度を学んでいきます。エドモンド・モレル(Edmund Morel)のことを紹介します。

モレルはキングス・カレッジ・スクール(Kings College School)およびキングス・カレッジ・ロンドン(Kings College London)において学びます。オーストラリアのメルボルン(Melbourne)において土木技術者として8か月、続いてニュージーランドのウェリントン(Wellington)地方の自治体の主任技師として働くという経歴を有します。

モレルは1866年1月から北ボルネオ(Borneo)において、石炭輸送用の鉄道建設に当たります。その後夫人を連れて横浜港に到着します。1870年4月のことです。日本でイギリス公使を18年にわたり務めていたハリー・パークス(Sir Harry Parkes)の推薦によりモレルは、明治政府から建築師長(技術主任)に任命されます。そして鉄道建設を指導をすることになります。

民部大蔵少輔兼会計官権判事であった伊藤博文に、人材育成の機関作成を趣旨とする意見書を提出します。また民部大蔵大輔の大隈重信と相談の上、日本の鉄道の軌間を1,067 mmの狭軌に定めます。さらに、「森林資源の豊富な日本では木材を使った方が良い」と、当初イギリス製の鉄製の物を使用する予定だった枕木を、国産の木製に変更するなど、日本の実情に即した提案を行います。こうして外貨の節約や国内産業の育成に貢献することになります。後にそうした活躍から「日本の鉄道の恩人」と賛えられていきます。

肺を患っていたモレルは、1871年に休職してインドへの転地療養を願い出ます。政府はモレルの功績に応じて5,000円の療養費を与え出国を許可します。日本の鉄道の開業を目前にして1871年11月、横浜において満30歳で没します。モレルの遺志は、副主任のジョン・ダイアック(John Diack)らに受け継がれます。ダイアックは新橋 – 横浜間の鉄道敷設の測量を指導し、1872年に鉄道は開業します。ダイアックは後の東海道本線である京都 – 大阪 – 神戸間の測量や敷設工事も指導します。我が国の鉄道技術の発展は、イギリス人技術者の働きによるところ大であったのです。

日本にやって来て活躍した外国人 その三十三  ヘンリー・ダイアー

Last Updated on 2025年1月4日 by 成田滋

グラスゴー大学 (University of Glasgow)は、スコットランド(Scotland)のグラスゴー市(Glasgow)に本部を置くイギリスの大学です。1451年に設置されました。500年以上の歴史を有する英語圏最古の大学の一つです。1840年に英国で最初に設置された工学部があり、産業革命で大きな役割を果たした人材を送りだした大学です。

中世からカトリック教会の聖職者を輩出し、近世では、蒸気機関の発明や電力単位のワット(W)で知られるジェームズ・ワット(James Watt)、経済学の祖であり国富論を著したアダム・スミス(Adam Smith)、物理学者のウィリアム・トムソン(William Thomson)など歴史上の重要人物も多く輩出している大学です。ヘンリー・ダイアー(Henry Dyer)またグラスゴー大学の出身です。大学の工学部にあたるアンダーソンズ・カレッジ(Anderson College)を卒業します。

ダイアーは日本の産業発展に貢献すべく創設された工部省工学寮工学校(東京大学工学部の前身)に招かれエンジニア教育に従事します。教鞭を執ったダイアーの方針は、専門分野の学力をつけること、実践力を磨くこと、専門職に直接役立たないような教養も学ぶことでありました。工部大学校は1873年に開校し、基礎・教養教育、専門教育、実地教育をそれぞれ2年とする6年制とし、土木学・電信学・機械学・造家学(建築)・化学・冶金学・鉱山学の7学科が設けられます。後に造船学と紡績学の2科が追加されたが、9名の教授陣はすべてイギリス人で占められていました。

グラスゴー大学には世界各国からエリート層が留学して来るようになり、母国で政治家や科学者となって国家に貢献した卒業生も多い。日本からの留学生も帰国後に名声を得たものが多く、著名人としては化学者でタカジアスターゼとアドレナリン(adrenaline)という分泌物からの薬を発明した高峰譲吉、日本のウイスキーの父とよばれた竹鶴政孝などがいます。

日本にやって来て活躍した外国人 その三十二  グイド・フルベッキ

Last Updated on 2025年3月30日 by 成田滋

グイド・フルベッキ(Guido H. Verbeck)は、オランダ出身でアメリカに移民し、日本にキリスト教オランダ改革派宣教師として派遣された法学者・神学者・宣教師であります。

1855年にニューヨーク市(New York)にある長老派のオーバン神学校(Auburn Seminary)に入学します。神学生の時に、サミュエル・ブラウン(Samuel R. Brown)の牧会するサンド・ビーチ教会(Sand Beach Church)で奉仕し、これをきっかけにブラウンと共に日本に宣教することになります。1859年オーバン神学校を卒業する時に、ブラウン、シモンズ(Duane B. Simmons)と一緒に米国オランダ改革派教会の宣教師に選ばれます。長老教会で按手礼を受け改革教会に転籍して、正式に米国オランダ改革派教会の宣教師に任命されます

1859年11月にフルベッキは長崎に上陸します。キリシタン禁制の高札が掲げられており、宣教師として活動することができません。しばらくは私塾で英語などを教え生計を立てていたようです。1862年には、自宅でバイブルクラスを開き、1861年から1862年にかけては佐賀藩の大隈重信と副島種臣がフルベッキの元を訪れ、英語の講義を受けます。

さらに佐賀藩が長崎に英学を学ぶための藩校としてつくった致遠館でフルベッキは大隈重信や副島種臣など多くの指導者を育成します。その後は明治政府に登用され、太政官顧問になります。退官後、1878年には日本基督ユニオン教会で旧約聖書翻訳委員に選ばれ、文語訳聖書の詩篇などの翻訳に携わります。1883年4月大阪で開かれた宣教師会議で「日本におけるプロテスタント宣教の歴史」について講演もします。1886年の明治学院の開学時には、理事と神学部教授に選ばれて、旧約聖書注解と説教学の教授を務めます。1888年には明治学院理事長に就任します。

日本にやって来て活躍した外国人 その三十一 バーナード・ベッテルハイム

Last Updated on 2025年1月4日 by 成田滋

ベッテルハイム(Bernard J. Bettelheim)は英国国教会より日本に派遣されたキリスト教宣教師兼医師です。沖縄群島にやってきた最初のプロテスタント宣教師でもあります。英国国教会が組織した宣教団体は、「Loochoo Naval Mission」といいます。LoochooとはRyukyu(琉球)を表しています。ベッテルハイムは派遣のリーダーとして1843年から1861年の間、琉球にて活動します。

ベッテルハイムの生い立ちなどに触れます。彼はスロヴァキア(Slovak)首都ブラチスラヴァ(Bratislava)にユダヤ系の子として生まれます。9歳の時にはすでにドイツ語、フランス語、ヘブライ語で詩を書いていたといわれます。ユダヤ教の聖職者ラビ(rabbi)となるべく教育を受けますが、12歳で学校をやめ、ハンガリー国内で学んだ後、最後にイタリアのヴェネト州(Vèneto)のパドヴァ(Padova)で医学を学ます。その後はエジプトとトルコへ渡り、1840年にトルコのスミルナ(Smyrna)でキリスト教に改宗します。そして、イギリスへ渡り英国国教会の牧師から洗礼を受けイギリス国籍を取得します。

1846年4月に香港から琉球王国に到着し、那覇の護国寺を拠点に8年間滞在します。同行していたのは中国人の通訳です。ベッテルハイムの琉球伝道は、難破した英国軍人に暖かく接した琉球人への感謝からだとされています。しかし、彼の琉球王国での宣教活動は困難だったようです。これは琉球を支配していた薩摩藩と江戸幕府のキリシタン禁教政策のためです。

琉球側はベッテルハイムへ退去を要請しますが、布教活動は黙認され比較的自由に行動することができます。その間、医療活動も行います。ハンセン氏病患者にも接したという記録があります。宣教では、一人の洗礼者も育てることができなかったようです

1854年6月にマシュー・ペリーが来琉した時、ベッテルハイムは琉球の言語と文化についての知識からペリーのもとで働きます。そのとき琉米修好条約を締結しました。条約の内容は、アメリカ人の厚遇、必要物資や薪水の供給、難破船員の生命財産の保護、アメリカ人墓地の保護、水先案内人の件などを規定するものでした。ベッテルハイムはそのまま艦隊とともにアメリカに渡ります。アメリカではシカゴやニューヨークにおいて長老派牧師として活躍し、南北戦争(Civil War)では北軍の軍医として活躍するという波乱の生涯をおくります。

日本にやって来て活躍した外国人 その三十 ハンナ・リデル

Last Updated on 2025年1月4日 by 成田滋

近代日本の夜明けの時代、英国人の聖公会女性宣教師がやってきます。その一人に、英国聖公会の宣教団体の1 つである英国聖公会宣教会(Church Missionary Society: CMS) のハンナ・リデル (Hannah Riddell)がいます。前回紹介したコンウォール・リー(Mary Helena Cornwall Legh)も同じ教会に所属していました。

そしてもう一人はリデルの姪で CMS の宣教師として来日したエダ・ライト(Ada Hannah Wright、1870-1950)です。ハンナ・リデルは、熊本の本妙寺で物乞いするハンセン病患者の悲惨な状況を見て、自らの全財産を処分し、回春病院を建てることになります。

彼女の業績は、ハンセン病患者の悲惨さに対して人々の関心を集めたことです。そして政財界の人々を動かします。当時の日本は、性や結婚には厳しい倫理観によって、分離政策をとっていました。彼女は数回草津を訪れ、1913 年回春病院の米原馨児という司祭を派遣し、光塩会を設立します。これは後の草津聖バルナバ教会です。また 1927年には、軽症のハンセン病患者で聖公会信徒の青木恵哉を沖縄に派遣します。彼は伊江島を拠点とし、洞窟や山に隠れている患者を発見し、食べ物や衣服を与え共に礼拝しました。

こうした日本聖公会の努力によって、今帰仁村の近くにある屋我地島を基にして1938年に国頭愛楽園、現国立療養所沖縄愛楽園が誕生したのです。「母さま」と呼ばれ敬愛されたリデルは、1932年に76 歳で永眠します。

姪のエダ・ライトがリデルに代わって病院を継ぎます。開戦時にはライトはスパイ活動の疑いをかけられ、特高の取調を受けたりします。1941 年に46 年存続した回春病院は閉鎖され、患者は国立療養所(恵楓園)に移されました。その後ライトは国外追放となりますが、1948 年再来日し80歳の1950 年に永眠します。

日本にやって来て活躍した外国人 その二十九 メアリー・コンウォール・リー

Last Updated on 2025年1月4日 by 成田滋

コンウォール・リー(Mary Helena Cornwall Leigh)は、英国国教会(英国聖公会)の福音宣布教会(Society for the Propagation of the Gospel in Foreign Parts: SPG)が派遣する宣教師として来日します。東京を中心に8年間伝道活動に従事し、その後多くの施設を立ち上げ、ハンセン病(Hansen’s disease)患者のための生活や教育、医療に尽力したイギリス人女性です。

生地は英国のカンタベリー(Cantebury)で、父親は陸軍中佐、本家は男爵の家柄で一族専用の礼拝堂、司祭を有していたという裕福な家系です。十代で司祭によって感化されハンセン病者に奉仕しようと決心したようです。二十代のときロイヤル・カレッジ・オブ・アート(Royal College of Art)で水彩画を学んでいます。

リーは東京・神奈川・千葉で8年間の伝道活動に従事します。草津の光塩会の宿澤薫の要請を受けて1915年に草津を視察し、草津湯の沢で奉仕することを決心します。1916年に、病者の人間回復とその生活を支える「聖バルナバミッション」(St. Barnabas Mission)を立ち上げます。リーは私財を投じ、また内外からの献金を用いて、聖バルナバ教会、病者のための聖バルナバホーム、幼稚園・小学校、さらに聖バルナバ医院を設立し、その運営に尽力します。1,000人を超えるハンセン病者にキリスト教を伝えるとともに、一人ひとりの人格や人権を重んじる救済事業を展開します。後に「ハンセン病者のマザーテレサ(Mother Teresa)」と賞賛されます。

少し時間を戻します。草津には千年以上前から湯治の人が訪れていた温泉です。1869年の江戸の大火以来、ハンセン病患者の来訪が増えてきたといわれます。1887年以来ハンセン病の人々は草津の湯之沢に移住させられます。全国から温泉の効能を頼りにハンセン病者が集まり共同体を形成していたのです。内科医師のアーヴィン・ベルツ(Erwin von Balz)が温泉の効果を宣伝したのはその頃です。

日本にやって来て活躍した外国人 その二十八 ヴィレム・カッテンディーケ

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オランダからやってきて活躍した人の話題が続きます。オランダの海軍軍人で後に政治家となったヴィレム・カッテンディーケ(Willem Johan van Kattendijke)のことです。1857年にペリーの黒船を見た徳川幕府はオランダに黒船のような軍艦を発注します。カッテンディーケは、完成したJapan(ヤパン)号を回送し、その艦長として大西洋、インド洋をまわり1857年に長崎に入港します。たった48.8mの木造艦で、やがて幕府の練習艦となります。

カッテンディーケは幕府が開いた長崎海軍伝習所の教官となり、2年に渡って勝海舟、榎本武揚らなどの幕臣に精力的に航海術・砲術・測量術などの近代海軍の教育を行います。特に勝海舟の能力を高く評価したといわれます。勝海舟は西洋式の海軍士官養成機関・海軍工廠である神戸海軍操練所を設立します。後に回想録『長崎海軍伝習所の日々』を著し、長崎の自然・風景や人々の風習や行事、日本人の態度などを記しています。薩摩藩11代藩主の島津斉彬、佐賀藩10代藩主の鍋島閑叟らの人物像なども記録します。島津や鍋島はアームストロング砲や蒸気船などに高い関心をもっていた人物です。

因みにヤパン号はやがて咸臨丸となり、1860年に勝海舟を船長とし、ジョン万次郎ら98名の日本人の遣米使節団一行が太平洋を横断してアメリカまで渡ります。カッテンディーケは帰国後は1861年にオランダ海軍大臣となり、一時は外務大臣も兼任します。オランダと日本の関係は医学のみならず、軍備、航海術、天文技術などに及びます。明治維新に拘わる日蘭関係、あるいはオランダの果たした役割は重要だったといえましょう。

日本にやって来て活躍した外国人 その二十七 ポンペ・ファン・メールデルフォールト

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オランダ海軍の二等軍医にポンペ・ファン・メールデルフォールト(Johannes Pompe van Meerdervoort)がいます。響きが良いせいか、親しみを込めて一般に「ポンペ」と呼ばれるオランダ人医師です。ユトレヒト(Utrecht)陸軍軍医学校で医学を学び軍医となります。幕末の1857年に来日し、オランダ医学を伝えた功績者です。

当時、蘭医学は禁じられていました。将軍侍医で幕府の軍医であった松本良順は、他藩からきていた医師を自分の弟子としてポンペの講義を受けせます。多くの医師や幕臣以外の者も学べる塾がやがて手狭となると、松本は医学校建設を決意します。

ポンペは松本の奔走により作られた医学伝習所の開設にたずさわります。日本で初めて基礎的な科目から系統だった本格的な蘭方医の養成を始めます。医学伝習所は日本初の組織立ったオランダ医学の学校といわれます。ポンペは長崎で5年間にわたり医学を教えます。オランダ語や科学の基礎知識のない者に、言葉の壁を乗り越えて根気よく基礎から教えたポンペの努力と苦労が伝わってきます。解剖実習や臨床講義まで本格的な医学教育を行っていきます。ポンペが使ったカリキュラムは自分の受けたユトレヒト陸軍軍医学校に類似していたようです。

松本がこの伝習所にいたころコレラが大流行し、自らも感染した折、その治療でポンペが見せた患者への身分にかかわらず接したことに松本は心をうたれたようです。こうして江戸時代の身分制度に大きな影響を与えていきます。滞在した5年間に14,530人もの患者を治療し、外国人によるコレラや梅毒の蔓延を阻止するために奔走します。こうして長崎の町の人々はポンペに次第に信頼と尊敬を寄せるようになっていきます。ポンペの熱望していた西洋式の養生所の建設が近づきます。

1861年9月に養生所が長崎港を見おろす小島郷の丘に完成します。養生所は医学所に付置された日本で最初の124ベッドを持った西洋式附属病院であり、長崎大学医学部の前身となります。

日本にやって来て活躍した外国人 その二十六  ハインリッヒ・ナウマン

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ドイツの地質学者にハインリッヒ・ナウマン(Heinrich E. Naumann)がいます。1875年に明治政府の招きで来日し、やがて東大で地質学の初代教授となります。ところで、中学校の理科の教科書に登場するのが「フォッサマグナ」(Fossa Magna)です。新潟県の糸魚川―静岡構造線と呼ばれる大断層というか、日本の中央部にできた陥没帯を示す言葉です。日本中の地質調査を実施し日本列島の成り立ちを明らかにし、この巨大な地溝帯を発見しフォッサマグナと命名したのがナウマンです。フォッサとは溝とか穴という意味です。ラテン語マグヌス (Magnus) の女性形がマグナ (Magna) 「偉大な」と組み合わせ、フォッサマグナとは「偉大な溝」という意味だそうです。

日本列島はかつて、ユーラシア大陸の一部分で、そこから分離する際、列島そのものが刀のように折れてしまったというのです。折れた部分は海になりその後長い時間をかけて海に新しい土砂が堆積し、日本列島は再び一つになったという仮説です。ナウマンの功績は、つくば市にある国の調査機関、地質調査所の設立に尽力し、設立後は、調査の責任者として日本列島の地質調査に従事し、日本初の本格的な地質図を完成させたことです。

次ぎに「ナウマンゾウ」の話です。浜松・長野、瀬戸内海などでゾウの歯や角らしき化石が発見されます。江戸時代までには竜骨・竜歯などと言われていて、漢方薬にもなっていたようです。当時の日本人には哺乳類の化石に精通している者はなく、その正体が不明だったのです。ナウマンはゾウの化石であることを見極めるのです。やがて、こうした化石となったゾウのことを、後世で「ナウマンゾウ」と呼ぶようになります。氷河期のゾウですが、マンモスとの違いは「毛の長さ」ではないかと思われます。生息する時代と場所とがそれぞれ異なっていたのだろうと察します。

日本にやって来て活躍した外国人 その二十五  ヘンリー・フォールズ

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イギリスはスコットランド(Scotland)の宣教師兼医師にヘンリー・フォールズ(Henry Faulds)がいます。1868年にグラスゴー大学(University of Glasgow)を卒業、アンダーソン・カレッジ(Anderson College)で医学を学び医師となります。1871年長老派(Presbyterian)スコットランド教会の医療宣教師としてインドに渡り、その後1873年医療伝道団の一員として来日します。

外国人の居留地だった築地に住み、そこに築地病院を建て、布教をしながら外科・眼科診療に当たります。この病院は後の聖路加病院に発展していきます。目の不自由な人のための支援や医学を学ぶ学生を指導するなど1886年に帰国するまで12年もの間、幅広い活動をします。

フォールズは、日本人が本人の証明のために証文などに拇印を押す習慣に興味を示します。モースの大森貝塚発掘の手伝いをしながら、出土した縄文土器の表面に付いていた指紋から「土器の作者を特定出来るのではないか」と指紋の研究を始めていきます。そして数千の指紋を集め、指紋は個人によってすべて異なること、指紋は、身体の成長や歳月の経過よって自然変化を生じることなく「万人不同」であり、個人の識別や個人の特定に役に立つと主張します。

1880年10月、英国の科学雑誌「ネイチャー(Nature)」に日本から科学的指紋法に関する論文を投稿し、指紋による犯罪者の個人識別の可能性を発表します。この論文は科学的指紋法に関する世界最初の論文といわれます。その中で早くも犯罪者の個人識別の経験を発表し、また指紋の遺伝関係にも言及しています。フォールズは帰国後にさらに本格的な研究を始め、指紋を5つの基本パターンに分類し、また指紋の遺伝関係なども調べていきます。

1901年になってロンドン警視庁(Scotland Yard)が「ヘンリー式指紋法」(Henry Fingerprint Method)を全面的採用し、科学的犯罪捜査は飛躍的な進歩を遂げていきます。この指紋法は後に世界中に普及し、現在でもなお個人の特定や犯罪捜査の基本として有効な手段となっています。日本の警視庁は個人識別の手法として、DNA型情報のデータベース化を始動しています。しかし、DNA型鑑定よりも指紋鑑定の方が、速度や正確さ、コスト面において優れているといわれます。

日本にやって来て活躍した外国人 その二十四  ウォルター・ウェストン

Last Updated on 2025年1月4日 by 成田滋

日本近代登山の父と称されているウォルター・ウェストン(Walter Weston)の足跡です。ケンブリッジ大学(University of Cambridge)の構成校の一つクレア・カレッジ(Clare Collegec)で学びます。 1887年 にMA(Master of Arts)を取得後、同大学のリドレー・ホール(Ridley Hall)神学校でイギリス国教会の司祭としての按手を受けます。国教会とは聖公会(Anglican-Episcopal Church)のことです。イギリス聖公会の教会伝道協会より派遣されて1888年に神戸に着き、長崎や熊本を経て神戸へ移り、ユニオン教会(Union Church)のチャプレン(chaplain)になります。

ウェストンにはイギリス時代から登山の趣味がありました。マッターホルン(Matterhorn)の登頂など登山経験が豊富だった彼は日本に来てから飛騨山脈、木曽山脈、赤石山脈を巡り、1890年に富士山へ登り今日の日本アルプスへの第一歩を踏み出します。富士の積雪期登山を敢行し、夏には針ノ木峠、笠ヶ岳、前穂高岳を単独で登るという計画を立てます。笠ヶ岳は麓の住民の反対によって挫折しますが、次なる目標の前穂高岳に意欲を燃やします。このときの案内役が地元猟師の上條嘉門次です。そして1893年に二人で標高3,080mの前穂高岳に登頂します。

上條嘉門次のことです。当時はまだ詳しい地図がなく、山中に宿泊施設もありませんでした。山に精通した案内人を雇うことが、登山活動に必須でした。登山案内人という職業はありませんでした。上條嘉門次は、魚やカモシカ、雷鳥を撃つのを生業としながら、上高地の山々を歩いていたようです。ウェストンは山麓の村に住む嘉門次を知り、こうして上高地に分け入って行きます。

時代が明治になると測量の役人がやってくるようになり、嘉門次は山の案内役兼下働きとして手伝うこともあったといいます。ほとんど上高地に常駐しながら、梓川の古い流路の低地に明神岳からの湧水がたまってできた明神池近くに自分の小屋を造り、1年を通して暮らすようになります。

ウェストンは日本人未踏の山も数々登頂し、1896年『日本アルプスの登山と探検(Mountaineering and Exploration in the Japanese Alps』をイギリスで出版します。明治政府がイギリスより大阪造幣寮に招聘した化学兼冶金技師のゴーランド(William Gowland)が命名した「日本アルプス」の名を内外に広めます。ゴーランドは1878年07月に槍ヶ岳に登頂したことが記録されています。嘉門次の存在なくしてウェストンの活躍はありえなかったといわれます。気になる日本での布教活動については、あまり分かっておりません。

日本にやって来て活躍した外国人 その二十三  ベイズル・チェンバレン

Last Updated on 2025年1月4日 by 成田滋

日本言語学の父と呼ばれたイギリス人にベイズル・チェンバレン(Basil H. Chamberlain)がいます。言語学者で俳句を英訳した最初の人物の一人であり、日本についての事典「Things Japanese」や「口語日本語ハンドブック」などの著作で知られ、19世紀後半~20世紀初頭の最も有名な日本研究家の一人といわれます。

チェンバレンは1873年、23歳で来日し海軍兵学寮、後の海軍兵学校で英語を教えます。東京芝の清竜寺に住み、日本語の勉強を開始します。まず日本語の古典を学ぶために元浜松藩士に英語を教え,この藩士からは日本語と古今集を学びます。その頃、東京、横浜を中心としたイギリスやアメリカ人などの研究団体である日本アジア協会(Asiatic Society of Japan)が設立されます。駐日イギリス公使館のアーネスト・サトウ(Ernest M. Satow)やウィリアム・アストン(William G. Ashton)ら日本に関心のある者が中心となり、日本研究が盛んに行われていました。チェンバレンもそれに加わり、1877年に「枕詞、および言いかけ考」から始まって、「日本古代の詩歌」「英訳古事記」などを発表し出版されることになります。

古い日本の研究論文を続々と発表するチェンバレンの研究が認められ、1886年に森有礼の推薦で帝国大学日本語学および博言学(後の言語学)の初代教授に就任します。その後は、幕臣だった鈴木庸正という人から「万葉集」「枕草子」について教えを受けて、日本語への学問的な関心を深め,狂言や謡曲と研究を広げ、天璋院に仕え女流歌人であった橘東世子から和歌を学びます。天璋院は島津藩出身で、徳川家定の正室だった女性です。チェンバレンは39年間に渡り日本に滞在し、金田一京助ら日本の言語学者らを育てながら研究を重ねていきます。

チェンバレンはアイヌ語の研究も開始し、「アイヌ語の研究より見たる日本の言語・神話および地名」を発表、北海道へ行ってアイヌの風俗や言語の調査も行います。琉球へ渡り、琉球研究を論文にまとめたりします。ところで、小泉八雲はチェンバレンの薫陶を受け、二人は交遊があり往復書簡が残されています。やがて日本人や文化に対する姿勢の違いから次第に疎遠になっていったようです。チェンバレンの門下生の一人に、歌人で国文学者の佐佐木信綱がいます。

日本にやって来て活躍した外国人 その二十二 アーヴィン・ベルツ

Last Updated on 2025年1月4日 by 成田滋

ドイツ出身の内科医、アーヴィン・ベルツ(Erwin von Balz)は、お雇い外国人のうち、日本で一番知られた医学者だろうと思われます。1875年、現・東大医学部の前身東京医学校の教師として招聘され、その後29年に渡って日本に滞在し多くの優秀な門下生を育てます。

ドイツ南西部シュトゥットガルト(Stuttgart)近郊に生まれます。基礎医学を独テュービンゲン大学(Eberhard Karls Universität Tübingen)で学び,臨床医学はライプツィヒ大学(Universität Leipzig)を最優秀の成績で卒業します。さらにテュービンゲン大学で内科学を学びます。

来日のきっかけは 1875 年に大学病院に入院した日本人留学生の診察をしたことといわれます。小さい時から,ベルツは東洋や日本に関心があったようです。東京医学校では、1876年から1902年まで教鞭をとります。1882 年にはベルツの最初の教科書『内科病論』を出版。細胞病理学に基づく病変の解説,ジフテリアの抗血清療法の研究をします。ドイツで始まったハンセン病(Hansen’s disease)患者の強制隔離政策には批判的で,「冷酷な論理で問題を解決すると恐ろしい結果を招く、人類の名において抗議する」と述べています。ベルツはハンセン病の感染力が弱いことを現場の経験から知っていたようです。

また、日本人の身体的特徴の研究や脚気、寄生虫病などの治療・予防にあたります。明治天皇、大正天皇の主治医であり、伊藤博文とは親友でありました。また、ベルツが残した日記などには、明治時代の日本が行った西洋文明輸入に際する姿勢に対しての批判や警告が多く含まれています。ベルツは言います。「日本で根付いて成長できるように種をまくつもりだった。この樹は適切に育てれば,いつも新鮮で美しい実を結ぶ。しかし日本は成果を摘み取ることで満足し,この成果を生み出した精神を理解できていない」。ベルツは、学術の発展の素地となる文化を育てることが必要だというのです。この言葉は医学を志す者に響くものです。

他方で失われていく日本の文化・伝統を守るため多くの日本画、美術品、伝統工芸品や民具などを蒐集し保存に努めます。それらのほとんどが母国ドイツのシュトゥットガルトのリンデン民族学博物館 (Linden-Museum Stuttgart)に収められているそうです。学校での検便、臨海学校、「温泉は体にいい」ことだと言います。公衆衛生面での防疫事業の基礎を築くために尽力し、近代日本の黎明期に西洋医学を導入した優れた教師でもありました。草津温泉に数回訪れ、温泉を分析し、正しい入浴法を指導すると共に「草津は高原の保養地として最も適地である。草津には優れた温泉のほか、日本でも最上の山と空気と全く理想的な飲料水がある」として高く評価しています。

日本にやって来て活躍した外国人 その二十一 エドワード・モース

Last Updated on 2025年1月4日 by 成田滋

小学校だったか中学校だったかは忘れましたが、貝塚のことがでてくると、エドワード・モース(Edward S. Morse)が大森貝塚を発見したということを習います。私は北海道は美幌に住んでおりました。網走の近くにも貝塚がありました。昔のゴミ捨て場です。

モースの生まれ故郷はメイン(Maine)州ポートランド(Portland)です。モースは学校嫌いで「問題児」であったようです。高校中退を繰り返し、製図工として鉄道会社に就職します。そんなモースでも貝の収集とそのコレクションは、ニューイングランド地方(New England)の学者たちに一目をおかれる存在だったようです。独学で生物学などを学び、やがてハーヴァード大学Harvard University)の比較動物学博物館(Museum of Comparative Zoology)に学生助手として採用されるまでになります。

1877年6月、シャミセン貝の研究を目的に初来日します。横浜に上陸後、新橋へと向かう開通したばかりの蒸気機関車の車窓から貝殻のむき出しになった地層を偶然見つけます。さっそく発掘すると土器や石器が出土し、縄文時代後期の遺跡であるであることを発見します。後に大森貝塚と名付けられます。そして「お雇い外国人」として、東京大学理学部の初代動物学教授に就任するのです。

日本中を旅して、日本人の生活の様子をスケッチし、生活用具や陶器を収集します。3度にわたって日本を訪れた彼は、日本の庶民の暮らしに魅せられ、多彩な品々を「記録」としてアメリカに持ち帰えります。3万点に及ぶ民具はマサチューセッツ州(Massachusette)のセーラム(Salem)にあるピーボディー・エセックス博物館(Peabody Essex Museum)に収められています。そのコレクションには現在日本にも存在しない貴重な民具もあるようです。

モースは江戸の風趣が残る東京の下町の散策をこよなく愛したようです。彼の日記『日本その日その日』(Japan Day by Day)には、明治維新を経て近代への幕開けとなった日本――文明開化の華やかさとはうらはらに、いまだ江戸の暮らしが続いていた庶民の日常が克明に記されています。英語で日本を紹介した書物としては卓越した評価を受けたといわれます。モースは後にイェール大学(Yale University)より理学博士の名誉学位を授与されます。

日本にやって来て活躍した外国人 その二十  エドウィン・ダン

Last Updated on 2025年1月4日 by 成田滋

北海道の開拓に尽力した外国人の一人がエドウィン・ダン(Edwin Dun)です。オハイオ州(Ohio)のマイアミ大学(Miami University)を卒業後、父や叔父の牧場で獣医学、競走馬・肉牛の飼育などを学びます。ケプロン(Horace Capron)の推薦を受け1873年北海道開拓の技術者として来日します。北海道の開拓には牧畜や農業が重要であると見通し、その筋の専門家を招いた明治政府の先見の明には感心します。

ダンは函館に赴任して近代農畜産の技術指導に当たります。後に札幌に移り複数の牧場建設に当り、牛・豚・羊などの飼育からバター、チーズ、ハム、ソーセージの作り方を指導していきます。日本初の西洋式競馬である中島競馬場はエドウィンの設計に基づいて建設されたものです。この競馬場の建設は北海道における西洋競馬の定着に大きく寄与し、さらに馬産の面においても馬の品質改良、設備や技術の向上に大きく貢献していきます。

農業分野においては、一人で馬を操る農機具や耕耘機、ソリなどを作り、洋式の大型農具を用いて農作業を行う技術を普及させたことも特筆されます。エン麦や玉ネギ、小麦、亜麻、甜菜の試験栽培にも取り組みます。今やこうした作物は北海道の代表的な農産物となりました。札幌郊外につくった真駒内牧牛場における水の安定供給のために用水路をつくり、のちに水田の灌漑用水としても利用されます。こうして稲作の定着や普及に大きく貢献していきます。