キリスト教音楽の旅 その5 典礼的教会と音楽

Last Updated on 2019年3月29日 by 成田滋

典礼的教会(Liturgy church)は、礼拝の普遍性を重んじます。カトリック(Catholic)とは「あまねく」という意味ですから。従って礼拝は公式行事の中心となります。教会は、個々人の信仰を包みつつ、個人の信仰をいわば「止揚」するという考え方に立ます。祈祷、賛美の言葉は思いつきで行ってはならないのです。それらは式文や成文として礼拝式に包含されるのです。

ローマ式典礼には、長い間ラテン語(Latin)が用いられました。ラテン語は西洋文明の古典の根幹にありました。学問の世界でもそうです。従ってラテン語が礼拝で使われていたのは、教会の普遍性を示していたといえます。ローマ教会のミサ(mass)、東方教会の聖体礼儀(divine liturgy)、ルター派の聖餐式(sacrament)、英国国教会の早祷(Matins)、晩祷(Vesper)などの儀式の音楽は式文によって進められます。そこで使われるのは云うまでもなく典礼音楽のことです。

様式的にはローマ教会のグレゴリオ聖歌(Gregorian chant)のような単旋律、無伴奏のものも用いられる音楽は典礼の中で不可欠な要素であり、訓練された聖歌隊の役割が大きいのです。典礼が複雑かつ高度であるため、会衆は受動的になりがちです。そこで典礼の間に会衆の信仰心を励まし、高めるために全員で唱和する讃美歌が選ばれます。

詩篇(Psalm)、賛歌(Praise)、聖体降福式(Benediction)における聖歌、英国国教会のアンセム(anthem)やルター派のカンタータ(cantata)等は聖歌隊の分担となります。こうした音楽も会衆に理解し、歌えるような曲が用いられるのが普通です。

キリスト教音楽の旅 その4 自由教会と音楽

Last Updated on 2019年3月26日 by 成田滋

札幌独立基督教会と内村鑑三(二列目中央)

英国国教会とルター派教会以外のプロテスタント教会は、通常自由教会と呼ばれ、礼拝の形式化を嫌った発生的な理由により、教会暦や礼拝での式文の使用は緩やかです。特に、宗教改革後はカトリックの典礼主義への反発により、礼拝儀式や年間の宗教行事を自由化したり単純化していきます。礼拝で聖書のどの箇所を朗読するかは牧師に任され、それにそった説教や講解が重視されます。

音楽としては会衆による讃美歌歌唱が重視されます。しかし、歌唱は二義的であり礼拝の不可欠な要素ではありません。オルガンは会衆の歌唱を支援するものですが、オルガンを用いない教派もあります。自由教会の会堂に大規模なオルガンを設置されることは珍しいことです。会堂が比較的小さいこともあって、今は電子オルガンが広くゆき渡っています。従って聖歌隊も副次的な存在です。

自由教会の礼拝では信徒が証をすることも珍しくありません。信徒同士が質問をしたりコメントをすることもあります。牧師はそうした対話を奨励し補足したりします。牧師はファシリテータ(facilitator)といういわば対話の促進者となります。

現在の札幌独立基督教会

キリスト教音楽の旅 その3 プロテスタント教会

Last Updated on 2019年3月25日 by 成田滋

プロテスタント教会(protestant church)は、1400年代のルター(Martin Luther)やカルヴァン(Jean Calvin)以来の教会であり、さほど歴史は古くはありません。信徒数はカトリックの半分以下ですが、音楽としては多大な影響と比重を占めています。日本のプロテスタント教会の大勢はカルヴァンの改革派(Reformed church)で、ルター派の福音教会は割合としては少数です。

福音教会もカトリック教会と類似した典礼や礼拝様式を持っています。英国国教会はアングリカン・チャーチ(Anglican Church)とか聖公会といわれ、教義上はプロテスタント,儀礼や礼拝はカトリックという独自の立場をとっています。世界中に38の管区と約4,500万の信徒を有しています。日本聖公会が発足したのは1887年です。

カトリック教会は、聖書以外にも教会の伝統、教皇の権威を重視します。聖職者の祭司的特権も認めています。プロテスタントの各派はいずれも聖書を信仰の基礎に据え、教会の儀式によらず個人の信仰によって救われるという考え方に立ちます。聖職者と信徒との間に根本的な区別は認めません。その考え方を「万人祭司」(universal priesthood)といいます。

教会音楽の形態を分類するとき、典礼的教会と自由教会というように分類すると分かりやすくなります。典礼的教会とは礼拝に一定の式文を用い、その式文は教会歴によって一年間の式音楽が定められています。ローマカトリック、ギリシャ正教、英国国教会、ルター派の教会は、典礼的教会で各日曜主日の礼拝式や結婚式、葬儀に至るまで、その時朗読する聖書箇所、祈り、聖歌や讃美歌などは決められています。式文は簡素化されることもありますが、礼拝を盛大に行うときは式文に添い、音楽は礼拝そのものと不可分となっています。聖歌隊の発達はそうした伝統によっているのです。

キリスト教音楽の旅 その2 カトリックとプロテスタント

Last Updated on 2019年3月21日 by 成田滋

キリスト教音楽を別な角度から分類するとすれば、カトリック教会(Catholic)系、東方教会(Eastern Christianity)系の音楽とプロテスタント教会(Protestant)系音楽ということになります。東方教会の別の呼び名は正教会(Orthodox Church)、あるいはギリシャ正教会(Greek Orthodox Church)ともいわれます。

カトリック教会は、必ずしもその名称や理念が示すように普遍的とか全人類的というものではありません。例えば、1962年から1965年に開かれた第2バチカン公会議(Concilium Vaticanum Secundum))は、公会議史上初めて世界5大陸から参加者が集まり、ようやく普遍公会議というにふさわしいものになったといわれるくらいです。この公会議の大きなテーマは、カトリック教会の教義における現代化とか改革といわれます。

プロテスタント教会は宗教改革やルター派、英国国教会、カルヴァン主義諸派(長老派、改革派、会衆派)、メソジスト派、パブテスト派、自由教会各派(フレンド派、キリストの教会、ホーリネス派、救世軍、ピューリタン派)などがあります。モルモン教会は新興の教会です。以上の教会の英語名は次のようになります。少々退屈な説明となりますが、ご勘弁を。
 ルター派(Lutheran)
 英国国教会(Church of England)
 カルヴァン主義諸派(Calvinism)
 長老派(Presbyterian)
 改革派(Reformed)
 会衆派(Congregational)
 メソジスト派(Methodist)
 パブテスト派(Baptist)
 自由教会各派(Free Church)
 フレンド派(Friend)
 キリストの教会(Church of Christ)
 ホーリネス派(Holiness Church)
 救世軍(Salvation Army)
 ピューリタン派(Puritan)
 独立教会(Independent)
 モルモン教会(Church of Jesus Christ of Latter-day Saints)

ともあれ、カトリック教会は、東方諸教会やプロテスタント教会との合同礼拝や一致(Ecumenism)といったことを促進しています。キリスト教を含む諸宗教間の対話と協力を目指す運動が「Ecumenism」ということです。カトリック教会は、世界的にみて教会音楽の世界でも中心的な役割を果たしているといえましょう。

キリスト教音楽の旅 その1 典礼音楽と大衆的宗教音楽

Last Updated on 2019年3月19日 by 成田滋

私はキリスト教と音楽について専門家ではありませんが、少しはかじっているので、個人的な経験や知識をもとに筆を進めることにします。できるだけ時代考証をしながら正確を期してまいります。

Musical logo, which symbolizes Evangelical music. For music studios that reach out to Christian music.

キリスト教音楽は大きく二つに分類することができそうです。一つは典礼とか礼拝のための音楽、もう一つは大衆的宗教音楽、たとえばラフダ(lauda)と呼ばれる神をたたえる歌やオラトリオ(oratorio)などの大規模な楽曲です。大衆的宗教音楽というのは、筆者の造語です。

典礼は礼拝とか祭礼とも呼ばれ、体系化されたものです。キリスト教会においては、教派や教団によって制定されています。典礼の形式はそれぞれに異なり、奏でられる音楽もさまざまです。こうした典礼音楽は公の礼拝や祈祷でのみ用いられる狭義の音楽です。他方、大衆的宗教音楽というのは、一般に演奏会向けのキリスト教音楽というか、芸術音楽のことです。大衆的宗教音楽の主題は、聖書の記述を拠りどころにしているのが普通です。クリスマス・オラトリオ(Chrismas Oratorio)とかレクイエム(Requiem)などが有名です。

心に残る名曲 その二百八 日本の名曲 多田武彦 「富士山」

Last Updated on 2019年3月14日 by 成田滋

日本の音楽界ではあまり知られてはいませんが、合唱界では多田武彦に「この曲あり」としてしばしば歌われる曲があります。それが「富士山」であり「柳河風俗詩」です。作曲家としては少々異色です。京都大学法学部を卒業し、京都大学男声合唱団の指揮者として活躍します。作曲家清水脩に作曲上の指導を受けます。

多田武彦

草野心平の詩による「富士山」は1956年の作、北原白秋の詩による「柳河風俗詩」は1954年の作で男声合唱の定番となっています。いずれも初演は京都大学男声合唱団によって紹介されます。多田は「詩に寄り添うように」を作曲のモットーにして、合唱曲を500曲あまりを作っています。その作風は抒情性が高く、決して派手ではありませんが、和声を駆使しての日本の近代詩に寄り添うような旋律がつきます。曲の大多数は草野心平や北原白秋の他に、三好達治、伊藤整、中原中也、堀口大學などの近代詩を取り上げています。

多田武彦は、「アンサンブル上達のための練習方法」という冊子を出しています。「アンサンブル」(ensemble)とは、フランス語です。「一緒に」とか「全体」などを意味する単語です。音楽の世界では合奏、重奏、合唱、重唱などを指します。多田は云います。「他のメンバーの良い響きに聴きながらパート練習をやっていくと、やがてパート内に豊かな響きが充満する」と。そのことによって他のパートとの整合性も高まってくるというのです。

心に残る名曲 その二百四五 日本の名曲 小山作之助 「夏は来ぬ」

Last Updated on 2019年3月13日 by 成田滋

1864年といいますと文久3年です。越後国頸城郡潟町村、現在の上越市大潟区潟町に小山作之助は生まれます。 16歳で小学校を卒業した後、夜は漢学塾に通い、1884年に文部省の音楽取調掛に入学します。音楽取調掛はのちに東京音楽学校に改組されます。小山は首席で卒業後、東京師範学校や東京盲唖学校の教師ととなります。

小山作之助

やがて1892年に東京音楽学校の助教授、1897年には教授となります。教え子にはのちに作曲家となる瀧廉太郎がいます。47歳の時には文部省唱歌の編纂委員として作曲活動に入ります。小山の作曲は唱歌、童謡、軍歌、校歌など非常に多岐に亘ります。「夏は来ぬ」は小山の最も知られる曲と言えるでしょう。2007年に日本の歌百選に選ばれます。作詞は歌人で国文学者の佐佐木信綱です。

 卯の花の 匂う垣根に
  時鳥 早も来鳴きて
   忍音 もらす 夏は来ぬ

心に残る名曲 その二百七 日本の名曲 中田喜直 「雪の降る街を」

Last Updated on 2019年3月12日 by 成田滋

現在の東京都渋谷区は、かつて東京府豊多摩郡と呼ばれていました。中田喜直はそこの出身です。父は「早春賦」で知られる作曲家の中田章。喜直は三男でした。やがて「ちいさい秋みつけた」や「めだかの学校」、「夏の思い出」などを作曲し、今日も小中学校の音楽の時間で歌い継がれています。数々の童謡、楽曲を作曲した日本における20世紀を代表する作曲家の一人といえましょう。

まず、「夏の思い出」のことです。作詞は江間章子で、彼女は幼少の頃、岩手山の近くの八幡平市に住んでいたようです。そこは水芭蕉の咲く地域でした。昭和19年頃、たまたま尾瀬を訪れて一面に咲き乱れる水芭蕉を見ます。昭和22年にNHKから依頼されとき、思い浮かんだのが尾瀬の情景で、その印象を綴ったのが「夏の思い出」といわれます。NHKのラジオ番組「ラジオ歌謡」で全国に行き渡り、おかげで尾瀬は有名になったというエピソードもあります。

次ぎに「雪の降る街を」のことです。1952年に発表され大ヒットします。この曲を作詞したのは後に劇作家として活躍する内村直也です。「雪の降る街を」はNHKの「みんなのうた」の1回目に登場し、歌は立川澄人が歌います。高英男の歌唱によりレコードも制作されるとさらに人気が高まります。高英男の甘く高雅な歌い方は聞く者をしびれさせていきます。後に中田は女声合唱、混声合唱に編曲していきます。

歌の出だしは、 「雪の降る街を想い出だけが通りすぎてゆく」、「雪の降る街を足音だけが追いかけてゆく」、「雪の降る街を息吹とともにこみあげてくる」
そして、「温かき幸せのほほえみ」、「緑なす春の日のそよ風」、「新しき光降る鐘の音」と締めくくるのです。雪の暖かさが伝わるような歌詞と旋律です。

心に残る名曲 その二百五 日本の名曲 大中 恩 「サッちゃん」

Last Updated on 2019年3月11日 by 成田滋

父親は『椰子の実』の作曲者である大中寅二です。父が教会のオルガニスト兼合唱指揮者であったことが、大中の音楽への関心を向けます。ただ、教会の聖歌隊にいた女性に憧れたというエピソードも残しています。1942年に東京音楽学校の作曲科入学します。しかし、1943年10月の学徒出陣で海軍に召集されますが、その直前に作った北原白秋作詞の混声合唱曲「わたりどり」は戦場に向かう備えで書いたといわれます。

復員後、1945年に音楽学校卒業し歌曲集、佐藤春夫作詞「五つの抒情歌」、「しぐれに寄する抒情」、三木露風作詞の「ふるみち」を作ります。その後は子どものための音楽作りをライフワークとします。時代を超えて歌い継がれている曲に佐藤義美作詞の「犬のおまわりさん」、阪田寛夫の作詞の「サッちゃん 」、「おなかのへるうた」があります。阪田と大中は従兄弟でした。大中の作風は、歌詩に基づく優しいメロディとリズム、美しい語感をたたえた和声が特徴といわれます。

わたりどり」 北原白秋 作詞
  あの影は渡り鳥、
   あの耀きは雪、
    遠ければ遠いほど空は青うて、
   高ければ高いほど脈立つ山よ、
    ああ、乗鞍嶽、
     あの影は渡り鳥。

うたのおばさん 松田トシ

心に残る名曲 その二百四 清水 脩 「月光とピエロ」

Last Updated on 2019年3月10日 by 成田滋

日本の合唱界に大きな足跡を残したのが清水脩です。1911年に大阪で生まれます。父親は四天王寺で雅楽楽人だったようです。中学の頃から簡単な合唱曲を書いていたという記録があります。

大阪外国語大学に入り、そこでグリークラブの指導者となります。フランス語に精通し、フランス音楽の研究、特にドビュシー(Claude Debussy) の文献を調べます。1937年に東京音楽学校に入学し橋本国彦らに作曲法を学びます。

1939年の第八回音楽コンクールで「花に寄せた舞踏組曲」が第一位となります。戦後は全日本合唱連盟で合唱の指導にあたります。1950年に「インド旋律による4楽章」が芸術賞となり、1954年の最初のオペラ「修善寺物語」が同じく芸術賞を受賞します。

合唱曲は男声合唱が多く堀口大学作詞の組曲「月光とピエロ」、「山に祈る」等があります。著作や訳書も多い作曲家です。

心に残る名曲 その二百三 日本の名曲 平井康三郎の「平城山」 

Last Updated on 2019年3月8日 by 成田滋

1910年高知県で生まれ、1936年に東京音楽学校研究家作曲部を修了します。作品は、器楽、声楽(洋楽・邦楽)と広範囲にわたっています。

東京音楽学校で教鞭をとりながら作曲活動を行い、「平城山」や「スキー」などを作曲します。その後は、文部省教科書編纂委員として音楽教科書編纂等に携わります。また、NHK専属作曲・指揮者、合唱連盟理事、日本音楽著作権協会理事、大阪音楽大学教授等として活躍します。

1965年には「詩と音楽の会」を結成し、日本の新しい歌曲、合唱曲集の創作活動を行っています。小学校や中学校の校歌も数多く手がけたことでも知られています。「さくらさくら」「ゆりかご」は彼の手によって作られます。そうした作曲活動の功績で紫綬褒章、勲四等旭日章、毎日出版文化賞等多数の栄誉を受けています。

心に残る名曲 その二百二 日本の名曲 宮城道雄 「春の海」

Last Updated on 2019年3月7日 by 成田滋

神戸で1894年に生まれた宮城道雄は、やがて邦楽に洋楽的要素をいれた新様式の作品を多数発表し、演奏家としても活躍し大正と昭和の邦楽界に革命的な業績を残した作曲家です。

1902年に失明しますが、生田流箏曲と野川流三弦を伝授されます。既習の曲の反復から脱し、自ら作曲を志していきます。そして処女作となる「水の変態」を発表します。1920年に本居長世とで「新日本音楽」と銘打って新作発表会を開きます。この頃、尺八の中尾都山とともに全国を巡演していきます。

草創期のレコードやラジオ放送にも積極的に参加し、作品と演奏を世に広めます。古典様式の新作曲にも力を入れるとともに、古典音楽の勢力からも高く評価されるようになります。そして1932年には、東京音楽学校の教授まで登りつめます。1933年にはフランスのヴァイオリン奏者シュメ(Renee Chemet)が宮城の箏とで「春の海」を合奏しレコード化していきます。

宮城道雄Renee Chemet

心に残る名曲 その二百一 日本の名曲 草川 信 「ゆりかごの唄」

Last Updated on 2019年3月8日 by 成田滋

草川 信は長野県埴科郡の出身です。長野師範学校附属小学校、現在の信州大学教育学部附属長野小学校で福井直秋に薫陶を受け、旧制長野中学を経て、東京音楽学校に進みます。そこでバイオリンを安藤幸に、ピアノを弘田龍太郎に師事します。

卒業後は渋谷区立小学校訓導や東京府立第三高等女学校教諭などを経験します。そのかたわら、演奏家として活動していきます。その後、雑誌『赤い鳥』に参加し童謡の作曲を手がけるのです。実兄、草川信雄も同校卒業生で今も飯田橋にある富士見町教会オルガニストでありました。富士見町教会といえば植村正久という有名な神学者が初代の主任牧師となった由緒ある教会です。

草川は童謡で広く知られ「ゆりかごの歌」「どこかで春が」「汽車ポッポ」「夕焼小焼」など多数の名曲を残しています。ヴァイオリニストだった影響でしょうか、流れるような旋律が特徴でどれもわらべうた的な雰囲気で抒情的です。

ついでですが、「夕焼け小焼け」の作詞家中村雨紅は八王子市の上恩方というところの出身です。

心に残る名曲 その二百 日本の名曲 近衛秀麿 「越天楽」

Last Updated on 2019年3月5日 by 成田滋

このシリーズも200回目となりました。近衛秀麿を取り上げます。学習院大学を卒業後、東京大学文学部に入る近衛は、日本の音楽史上忘れてはならない作曲家、指揮者でしょう。1898年生まれです。1915年から16年まで近衛は山田耕筰に作曲法を学びます。1923年にヨーロッパに留学し、パリではヴィンセント・ダンディ(Vincent d’Indy)という作曲家で指揮者に学びます。ベルリンではマックス・フォン・シリングス(Max von Schillings)に作曲法を、指揮法はエーリヒ・クライバー(Erich Kleiber)に学びます。

1925年に帰国後は、山田耕筰の日本交響楽協会の結成に加わり、その後新交響楽団を組織します。彼は欧米に12回にわたり出掛け、90あまりの交響楽団を指揮するという珍しい経歴があります。近衛秀麿は日本人として初めてベルリン・フィルを指揮した人でもあります。北原白秋の詩に作曲した「ちんちん千鳥」、雅楽の「越天楽」などが知られています。

日本を代表する指揮者であり、またナチス政権下のドイツ・欧州でユダヤ人演奏家の亡命をサポートしていたという事実が近年話題となっています。その人物が近衛秀麿だというのです。「玉木宏 音楽サスペンス紀行〜亡命オーケストラの謎〜」が放映され、近衛秀麿のヨーロッパにおける第二次大戦まえの行動が描かれています。

心に残る名曲 その百九十九 日本の名曲 大中寅二 「椰子の実」

Last Updated on 2019年3月4日 by 成田滋

大中寅二は1896年生まれの作曲家です。同志社大学経済学科を卒業し、やがて山田耕筰に学びます。1920年からは東京の霊南坂教会のオルガニストを務めます。1925年にドイツに留学し、そこでヴォルフ(Leopold Wolff)に師事して作曲法を習得します。

帰国後は東洋英和女学院短大などで教え、やがて有名となる歌曲「椰子の実」を差曲します。1932年の第一回音楽コンクールの作品部門で入賞します。宗教音楽の分野での作品が多く、「主よ憐れみ給え」、「ヨブ」、「四季の頌」など、20曲あまりのカンタータ(Cantata)を発表しています。カンタータを作曲するというのは、日本の音楽史上、初めてではなかったでしょうか。

大中寅二の息子が大中恩です。作曲家や指揮者として知られています。彼は信時潔に師事します。今も日本の合唱団のレパートリーで重要な位置を占める作曲家です。もっぱら子どもの歌と合唱作品を残します。阪田寛二とのコンビで「サッちゃん」などで知られています。

島崎藤村

椰子の実
 名も知らぬ 遠き島より
  流れ寄る 椰子の実一つ
   故郷の岸を 離れて
    汝はそも 波に幾月 (島崎藤村作)

心に残る名曲 その百九十八 日本の名曲 成田為三と 「歌を忘れたカナリヤ」

Last Updated on 2019年3月1日 by 成田滋

秋田県出身の作曲家成田為三です。生まれは1893年。1914年に東京音楽学校に入学し、山田耕筰に教えを受けます。現在の東京芸術大学です。在学中、ドイツから帰国したばかりの山田耕筰に教えを受けます。1916年にはすでに「浜辺の歌」を作曲するという才能を示します。この曲は、国民的作品として今でも広く歌い続けられています。

成田為三

1917年に同校卒業後、九州の佐賀師範学校教師となりますが、作曲活動を続けるために東京に戻ります。そして1922年にドイツに留学します。留学中は当時ドイツ作曲界の元老と言われるロベルト・カーン(Robert Kahn)に師事し、和声学、対位法、作曲法を学びます。1926年に帰国後、留学中に学んだ対位法の技術をもとにした「対位法初歩」、「和声学」、「楽式」、「楽器編成法」といった理論書を著すのです。為三は、当時の日本にはなかった初等音楽教育での輪唱の普及を提唱し輪唱曲集なども発行します。

歌を忘れたカナリヤ」が「赤い鳥」誌上で発表されます。「赤い鳥」は、1918年に詩人鈴木三重吉が創刊した童話と童謡の児童雑誌です。この雑誌に為三作曲の楽譜の付いた童謡がはじめて翌1919年の5月号に掲載されます。新鮮にして甘美なメロディーが日本中の子どもたちの心をつかんだといわれます。

当初、鈴木三重吉も童謡担当の北原白秋も、童謡に旋律を付けることは考えていなかったようです。ですが5月号の楽譜掲載は大きな反響を呼び、音楽運動としての様相を見せるようになったといわれます。北原白秋の「からたちの花」が発表されたのも「赤い鳥」です。「赤い鳥」によって児童文学運動は一大潮流となるのです。日本の文学史上、先駆的な雑誌になったことがわかります。