1981年に作られた映画「炎のランナー」(Chariots of Fire)の音楽を担当したヴァンゲリスは、1982年にアカデミー賞作曲賞を受賞します。ヴァンゲリスの音楽の特徴としては、旋律はシンプルで美しいことです。それだけに強く印象に残るものとなっています。この楽風は、ギリシャや地中海東部地域に古くから伝わる五音階旋法に基づいているようです。五音階旋法とは「ド」から「ソ」への飛躍とその逆です。この手法を好んで使うことが多いのは「炎のランナー」の序奏部分にそれがよく表れています。ヴァンゲリスはシンセサイザーを使うのも得意としていたようです。
幸いにして、「Blow in the Wind」の歌詞には戦争の空しさと同時に自由への憧れが伝わり、時空や文化を超えた普遍性や預言者のようなメッセージを感じます。「Forever Young」という歌詞には祈りが込められています。誰が歌っても不自然にきこえません。小さな子どもでも年寄りが歌ってもよいようです。「We Are the World」もそうです「正しく、勇気を抱いて強くいきることが若さだ」というのです。Blow in the windとForever young の歌詞です。
How many roads must a man walk down Before you call him a man? How many seas must a white dove sail Before she sleeps in the sand? Yes, ‘n’ how many times must the cannon balls fly Before they’re forever banned? The answer, my friend, is blowin’ in the wind The answer is blowin’ in the wind
May you grow up to be righteous May you grow up to be true May you always know the truth And see the light surrounding you May you always be courageous Stand upright and be strong May you stay forever young Forever young, forever young May you stay forever young.
ディランの歌詞(lyrics)について、「なにを云いたいのかがわからない、独りよがりのただのことば遊びのようだ」と批判する者もいます。例えば、1960年代の半ばに作られた「Just like a woman」の歌詞の出だしは次のようです。
Nobody feels any pain
Tonight as I stand inside the rain
Ev’rybody knows
That Baby’s got new clothes
But lately I see her ribbons and her bows
Have fallen from her curls
ガスリーは、バーや労働者のストライキの時の組合の集会などにかかわって小銭を稼ぎます。若い時の旅で見た貧困は、のちのガスリーの作品に大いに影響を与ます。ガスリーは生涯、社会主義者かつ労働組合活動家であり、デイリー・ワーカー紙(Daily Worker)という小さな新聞で投稿したりします。1940年にガスリーは彼の最も有名な歌「我が祖国」(This land is your land)を書きます。この曲は彼の放浪中の経験にそっています。このメロディーは、1930年頃にカントリー / ブルーグラスのグループであるザ・カーター・ファミリー(The Carter Family)によって歌われ、最もよく知られたゴスペル「世界が燃える時」(When the World’s On Fire)に基づいています。「Oh, My Loving Brother」、「Hard Traveling」、「Dust Bowl Refugee」など彼の歌の多くが労働者階級が直面する姿を描き、やがて人々を惹き付けていきます。
2016年10月、「アメリカ音楽の伝統を継承しつつ、新たな詩的表現を生み出した功績」を評価され、歌手としては初めてノーベル文学賞したのがボブ・ディラン(Bob Dylan)です。1941年5月、ミネソタ州の北にあるダルース(Duluth) で生まれます。アシュケナージ系(Ashkenazim)で旧姓はロバート・ツィマーマン(Robert Allen Zimmerman)といいました。1959年9月、奨学金を得てミネソタ大学に入学するも半年後には授業に出席しなくなります。ミネアポリス(Minneapolis)でフォーク・シンガーとしての活動を始め、この時にボブ・ディラン(Bob Dylan)と名乗り始めます。
「風に吹かれて」(Blowing in the wind)、「時代は変る」(The Times They Are a-Changin)、「ミスター・タンブリン・マン」(Mr. Tambourine Man)、「ライク・ア・ローリング・ストーン」(Like a Rolling Stones)、「見張塔からずっと」(All Along the Watchtower)「天国への扉」(Knockin’ on Heaven’s Door) 他多数の楽曲により、1962年のレコードデビュー以来半世紀以上にわたり多大な影響を人々に与えてきました。現在でも、「ネヴァー・エンディング・ツアー」(Never ending tour)と呼ばれる年間100公演ほどのライブ活動を中心にして活躍しています。グラミー賞やアカデミー賞をはじめ数々の賞を受賞し、ロックの殿堂入りも果たしています。また2008年にはピューリッツァー賞特別賞を受賞し、長年の活動により2012年に大統領自由勲章を受章します。そうした名声の陰でディランは云います。
退役後、1950年にニューヨークから映画産業の中心地ハリウッド(Hollywood)へ移り、映画音楽を手掛けるようになります。やがて200以上の映画音楽を作曲していきます。映画そのものより主題曲のほうが人気があったともいわれるほど親しまれる作品を残します。「十戒」(The Ten Commandments)、「黄金の腕」(The Golden Arm)、「荒野の七人」(The Magnificent Seven)、「大脱走」(The Great Escape)などを作っていきます。
1967年の「モダン・ミリー」(Thoroughly Modern Millie)ではアカデミー作曲賞を受賞します。「荒野の七人」に出演していたのは、Yul Brynner、Steve McQueen、Charles Bronson、Robert Vaughn、Horst Buchholz、James Coburnといったそうそうたる俳優でした。懐かしの男優です。黒澤明の「七人の侍」版というふれ込みでした。
除隊するとニューヨークに戻り、ジュリアード音楽院(Juilliard School of Music)でピアノを学びジャズピアニストとしてナイトクラブで働いたりレコーディングをします。そのときの師匠はレビン(Madame Rosina Lhevinne)という女性です。さらにロスアンジェルスに向かい、ハリウッドのスタジオでピアニストとして働きます。
ニューヨーク大学(New York University)で作曲学や指揮法を学びます。ジュリアード音楽院を卒業後、1934年には当時アメリカ最大のラジオ曲CBSで編曲者として雇われ、CBS交響楽団の指揮者ともなります。その間、自作を含めて多くを制作し録音します。クラシック作品における自作もステレオで録音していきます。交響曲やクラリネット五重奏曲、オペラ「嵐が丘」、さらにはカンタータなどを残すという多彩な才能を発揮します。
1941年にはオーソン・ウエルズ(Orson Welles)作の「市民ケーン」(Citizen Kane)の音楽を担当します。さらにアルフレッド・ヒッチコック(Alfred Hitchcock)作の「サイコ」(Psycho) 、「北北西に進路をとれ」(North by Northwest)、「めまい」(Vertigo)などの映画音楽も作曲して有名になります。
特にイアン・フレミング(Ian Fleming)のスパイ映画、ジェームス・ボンド(James Bond)作品と音楽は知られています。ボンドはイギリス秘密情報部(MI6) の工作員。超人的なスパイです。「ロシアから愛をこめて」(From Russia with Love)、「ドクター・ノオ」(Doctor No)、 「007ゴールドフィンガー」(Goldfinger)、「007サンダーボール作戦」(Thunderball)、「女王陛下の007」(On Her Majesty’s Secret Service)、「007は二度死ぬ」(You Only Live Twice)などの名作のサンドラトラックを作ります。
彼は育ちから東欧の音楽の影響を受けますが、フランク・キャプラ監督(Frank Capra)の「失はれた地平線」(Lost Horizon)(1937年)、「我が家の楽園」(You Can’t Take It with You)(1938年)、「スミス都へ行く」(Mr. Smith Goes to Washington)(1939年)、「素晴らしき哉、人生!」(t’s a Wonderful Life)(1946年)のような典型的なアメリカ映画の音楽を作曲していきます。キャプラ監督の作品は、風刺的な喜劇が多いのですが、それ以後はヒューマニズムに満ちた作風で一時代を画します。
代表作にアカデミー作曲賞・アカデミー歌曲賞を受賞したフレッド・ジンネマン監督(Fred Zinneman)の「真昼の決闘」(High Noon)(1952年)があります。ジョン・ウェイン主演の「紅の翼」(The High And The Mighty)(1954年)でも再びアカデミー作曲賞を受賞します。その後もクラシック音楽に基づいた映画音楽を作曲していきます。「ジャイアンツ」(Giant)(1956年)、「友情ある説得」(Friendly Persuasion)(1956年)、「OK牧場の決斗」(Gunfight at the OK Corral )(1957年)、「老人と海」(The Old Man and Sea)(1958年)、「リオ・ブラボー」(Rio Bravo)(1959年)、「アラモ」(The Alamo)(1960年)、「北京の55日」(55 Days at Peking)(1963年)、「ローマ帝国の滅亡」(The Fall of the Roman Empire)(1964年)などです。どれも懐かしい、もう一度観たいものばかりです。
1945年のブロードウエイ・ミュージカルの回転木馬(carousel) 、1956年の王様と私(The King and I)、1958年の南太平洋(South Pacific)、そして1965年のサウンド・オブ・ミュージック(The Sound of Music)などです。その音楽に対して、ピューリッツアー賞(Pulitzer Prize)、エミー賞(Emmy Awards)、グラミー賞(Grammy Awards)、アカデミー賞(Academy Awards)など50以上の賞を受けます。
バート・バカラック(Burt Bacharach) は米国の音楽家、作曲家、編曲家、ピアニスト、音楽プロデューサーです。1928年5月にミズーリ州(Missouri)カンザスシティ(Kansas City)に生まれ、ニューヨーク市クイーンズ区(Queens)で育ちます。ドイツ系ユダヤ人の血をひきます。モントリオール(Montreal)にあるマギル大学(McGill University)のシュリッヒ音楽学部(Shulich School of Music)、ニューヨークのマネス音楽院(Mannes School of Music)、サンタバーバラ(Santa Barbara)のMusic Academy of the Westで学びます。
バカラックは稀代のメロディー・メーカーといわれます。映画音楽でも数々の楽曲を作っています。特にジョージ・ロイヒル (George Roy Hill) 監督の映画「明日に向って撃て」(Butch Cassidy and the Sundance Kid) の主題歌「雨にぬれても 」(Raindrops Keep fallin’ On My Head) はアカデミー主題歌賞を受賞しています。編曲においては、ジャズを出発点としてボサノヴァ(Bossa Nova)の影響が曲風に反映しているようです。「雨にぬれても 」を聴くとそう感じます。モダンな和声と複雑なリズムパターンはバカラックスタイルといわれます。親しみやすいメロディーが随所に感じられます。バカラックの音楽が大衆から人気を得ている由縁です。「That’s What Friends Are For」ではエルトン・ジョンやスティビー・ワンダー(Stevie Wonder)らも歌っています。
That’s What Friends Are For
Keep smiling, keep shining Knowing you can always count on me, for sure That’s what friends are for For good times and bad times I’ll be on your side forever more That’s what friends are for
出生名はレジナルド・ドワイト(Reginald Kenneth Dwight)。エルトン・ジョン(Elton John)は4歳の頃からピアノを弾き始めたようです。その頃から彼は聴いたどんなメロディーも演奏することができたといわれます。彼のピアノ教師によると聴いただけのヘンデルの楽曲を完璧に弾くことができたということです。彼が影響を受けた人物にバッハ(Johann S. Bach)やショパン(Frederic Chopin)がいます。ソングライターでギタリストであったジム・リーブス(Jim Reeves)などがいます。ゴスペル音楽からも影響を受けたといわれます。
エルトン・ジョンの1990年代は非常に苦難の時期だったようです、薬物とアルコール依存症、過食症の治療のため入院し矯正施設への入居を経て復帰します。1992年に発表されたアルバム「ザ・ワン」(The One)は、彼のドラッグや酒への依存を克服して復活を告げる作品といわれています。その間、1980年代から1990年代初めにかけて多くの友人や知人などをエイズで亡くします。1992年以降、シングルの収益で設立したエイズ患者救援者団体、「エルトン・ジョン・エイズ基金」(Elton John AIDS Foundation)に寄付していきます。この団体の本部はアトランタ市(Atlanta)にあります。
1994年には、作詞家、ティム・ライス(Time Rice)と共にディズニー映画「ライオン・キング」(Lion King)の音楽を担当します。このアニメ映画の中で、世界で最も売れたサウンドトラックとなっているのが「愛を感じて」(Can You Feel the Love Tonight)です。この曲はグラミー賞(Grammy Awards)最優秀ポップ男性ボーカル賞とアカデミー歌曲賞を受賞するなど高い評価を受けます。19 98年にはナイトの爵位を授与されます。2000年にはミュージカル「アイーダ」の作曲でトニー賞作曲賞も受けます。
ポール・マッカートニ(James Paul McCartney)は、いうまでもなくビートルズ(The Beatles)の一員。中心的な歌手であり作曲家です。沢山の曲を作ります。作品では、名義はジョン・レノンとポール・マッカートニとなっていますが、マッカートニがほぼ単独で作詞作曲し、レノンは作詞の一部を手伝ったといわれます。「Hey Jude」もそうです。リード・ボーカルおよびピアノ、後半のリフレイン部分のオーケストラの指揮もマッカートニが担当したようです。
ギネス世界記録(Guinness World Records)によれば、「ポピュラー音楽史上最も成功した作曲家」として掲載されています。ところでギネス世界記録と認証されるためには、六つの基準を満たす必要があります。その第一は「客観的に計測可能であること」とあります。はたして、マッカートニは「史上最も成功した作曲家」ということのために、どのようにして計測されたのでしょうか。多分、レコードやCDの売れ上げではないでしょうか。世界一の売り上げ、130億円を稼いだ最も富裕な作曲家ということでしょう。まあ、、そんなことは蛇足でありますが、、、他方で、マッカートニは国際的な慈善事業にも関わっています。動物愛護、アザラシ狩禁止、地雷除去、貧困絶滅、菜食主義(vegitarianism)運動などです。
1970年にビートルズは解散します。その後ソリストとして活動し何度も来日しては演奏会を開いています。彼の名前は、James Paul McCartneyですから、ジェイムズ・マッカートニと呼ぶべきなのでしょうが、なぜか洗礼名のポール(Paul)を使って呼ばれています。それから、作品である「Hey Jude」の”Jude”は男性名です。女性名のJudice の愛称ではないか、という人もいますが、歌詞を調べると男性のJudeに対して「Judeよ、彼女を受け入れてやれば良い関係ができるよ、」と諭す歌となっています。1965年の「Yesterday」、1970年リリースの「Let It Be」、「Blackbird/We Can Work It Out」、「Lady Madonna」、「Back in the USSR」、「Michelle」など懐かしい曲です。
現代のイギリスの作曲家や歌手のことです。ジョン・レノン(John Ono Lennon)は1940年、リバプール(Liverpool)生まれのイギリスの歌手、シンガーソングライターです。平和運動家でもありました。十代のときは、スキッフル(skiffle)というジャズやブルース、カントリーミュージックの影響を受けた歌を歌います。やがてビートルズ(The Beatles)を結成し、1960年代の世界的なバンドとして活躍したことは良く知られています。商業的にも史上最も成功したバンドでした。レノンはポール・マッカートニー(Paul McCartney) と一緒に作曲したことでも有名です。
ビートルズにはジョージ・ハリスン(George Harrison)、リンゴ−・スター(Ringo Starr)もいました。1970年に解散されるまで各地でその活動は絶大な人気を博しました。解散後、レノンはソリストとして独立し、ヨーコオノと共にPlastic Ono Bandを結成します。1980年12月のニューヨークはマンハッタン(Manhattan)のアパートで殺されます。
これまではクラッシック音楽を主としてとり上げて紹介してきました。趣向をかえて、現代の作曲家、シンガーソングライターなどを紹介していきます。「オペラ座の怪人」(The Phantom of the Opera)、「キャッツ」(Cats)、「エビータ」(Evita)、「Jesus Christ Superstar 」などのミュージカル作品で知られるイングランドの作曲家アンドルー・ウェバー(Andrew Lloyd Webber)のことです。
「Evita」はロンドンにて最も選れた音楽賞としてオリバー賞(Olivier Award)やニューヨークにおいて七つの部門でトニー賞(Tony Awards)を受けます。“You Must Love Me”がアカデミー歌曲賞を受賞します。“Don’t Cry For Me Argentina“とともに マドンナ(Madonna Louise Ciccone)が歌っています。
ブリトゥン、ベンジャミン(Edward Benjamin Britten)は1913年生まれのイギリスの作曲家・指揮者・ピアニストです。17世紀バロック期のヘンリー・パーセル(Henry Purcell)以来の傑出したオペラを作った作曲家といわれます。
12歳で作曲を始めた経歴があります。作品としてオペラ「ピーター・グライムズ」(Peter Grimes)や「シンプル・シンフォニー」(Simple Symphony)、代表作としては、死者のためのミサ曲「戦争レクイエム」(War Requiem)が有名です。パーセルの劇付随音楽『アブデラザール』(Abdelazar) からの主題を引用した「青少年のための管弦楽入門」(The Young Person’s Guide to the Orchestra)はよく知られています。
グスタフ・ホルスト(Gustav Holst)は1874年生まれのイギリスの作曲家です。スウェーデン・バルト系(Swedish-Baltic)移民の家系の出で、十代のころからすでに作曲を試みていたという記録があります。1893年、ロンドンの王立音楽院(Royal Academy of Music)に入学して正式にスタンフォード(Charles Stanford)に作曲法を学びます。王立音楽院ではトロンボーンも学び、卒業後はオーケストラ奏者として生計を立てていたようです。この学生時代にヴォーン・ウィリアムズ(Ralph Vaughan Williams)と知り合います。
並み居る英国の作曲家の中でエドワード・エルガー(Edward Elgar)が最もポピュラーではないでしょうか。なんといっても「Pomp & Circumstance Marchi in D Major」は誰もが一度や二度は聴いたことがある曲です。父はオルガン奏者で楽譜の販売業者であったといわれます。エルガーは15歳のとき学校をやめて法律事務所で働きます。しかし、バスーン(bassoon)をやヴァイオリンを弾くという才能の持ち主でした。正式な音楽教育を受けたことがないのも珍しい経歴です。
カトリック信者であったエルガーはやがて教会のオルガン奏者となったり軍楽隊長となります。その頃から作曲活動をはじめ、オラトリオ(oratorio)のなかの合唱曲「Lux Christi」、「Dream of Gerontinus」とか「Enigma Variations」という管弦楽曲を作曲します。さらに宗教オラトリオの「The Kingdom」、「The Apostles」などによって作曲家としの地位を確立していきます。バーミンガム大学(University of Birmingham)の初代音楽教授となり、その間チェロ協奏曲(Cello Concerto E minor)、ヴァイオリン協奏曲(Violin Concerto)などを作曲し1924年には王立音楽長となり男爵(Sir)の称号を受けます。
ところでプロムス(The Proms)はBBCが主催する「史上最大のクラシック音楽演奏会」と云われます。誰もが安い料金で音楽を楽しむ機会として、毎年夏に8週間にわたり開催されます。会場は、ロイヤル・アルバート・ホール(Royal Albert Hall)やそれに隣接する公園です。入場料は700円から14,000円くらいです。Promsとは「聴衆がブラブラ歩くこと(promenading)」とか「そぞろ歩き」(promenade)という単語に由来します。プロムナードという単語も生まれています。
英国音楽のルネッサンスを築き上げたといわれる音楽家です。ヴォーン・ウィリアムズ(Ralph Vaughan Williams)は1872年生まれ。1890年に王立音楽大学(Royal College of Music)に入り、1899年までそこで学びます。その後ケンブリッジ大学(University of Cambridge)でも音楽を研究します。修業期間中はフランスのラヴェル(Maurice Ravel)にも師事しています。修業年限が長かった理由はわかりません。オルガン奏者やトロンボーン奏者としても活躍します。
やがてイギリス讃美歌集(The English Hymnals)を編集したりしながら、30歳の頃から歌曲の作曲活動を始めます。さらにアメリカの詩人、ホイットマン(Walter Whitman)のテキストから交響曲第一番「海の交響曲」や第二番「ロンドン交響曲」を作ります。「海の歌」、トマスタリス(Thomas Tallis)による「ファンタジア」とか「ヒバリの飛翔」(The Lark Ascending)なども世に送り出します。シェイクスピア(William Shakespeare)に基づく「恋するジョン卿」(Sir John in Love)も知られています。オペラはどれも注目されなかったのですが「仮面舞踏」(Job, A Masque for Dancing)はしばしば演奏されたといわれます。
第一次大戦後は、彼は王立音楽大学の初代の音楽教師として任命されます。1934年には論文、国民的音楽(National Music and Other Essays)のなかで ”芸術は慈悲と同じく家庭から出発すべき” といった論調を展開します。音楽の形式は多様で、交響曲、歌曲、オペラ、合唱曲などに及びます。
その旋律様式は、エルガー(Edward Elgar)やヴォーン・ウィリアムズ(Ralph Vaughan Williams)に大きな影響を及ぼしたようです。オックスフォード大学(University of Oxford)の音楽学部の教授として1900年から1908年まで務めます。 教師や学校管理者としてあまりの激務のために、その間の作曲活動は妨げられようです。
1916年3月にパリーは「Jerusalem」という合唱曲を作ります。この曲は、詩人で画家であったブレーク(William Blake)の歌詞に付けたものです。事実上のイングランドの国歌として現在のイギリスでは非常によく知られています。その才能、エネルギーとカリスマ性によって、イギリスの文化的生活の中心に音楽を据えることに大きな貢献をなしたといわれます。 「Jerusalem」は次のような歌詞で始まります。 「And did those feet in ancient time, walk upon Englands mountains green, and was the holy Lamb of God n Englands pleasant pastures seen!」