心に残る名曲  その百五十三 スタンフォード 「イーブニング・サーヴィス 」

チャールズ・スタンフォード(Charles Stanford)は、1852年生まれのアイルランドの作曲家です。幼いときから作曲し、その才能はすでに開花していたといわれます。

ケンブリッジ(Cambridge)のトリニティ・カレッジ(Trinity College)で学びます。1873から92年まで同カレッジのオルガン奏者や大学音楽協会の指揮者となります。1882年、29歳で王立音楽大学創設メンバーの一員として教授に就任します。その後生涯にわたって同大学の作曲科で教鞭をとります。1887年からはケンブリッジ大学(University of Cambridge)の音楽科教授も兼任します。

グスタフ・ホルスト(Gustav Holst)やリーフ・ヴォーンウイリアムズ(Ralph Vaughan Williams)らのすぐれた弟子を育てます。イギリス音楽の再興を果たし、ナイトの称号を与えられます。「イーブニング・サーヴィス」「闇を照らせ」「今こそ主よ、僕を去らせたまわん」という曲をお楽しみください。

作品はドイツロマン派の様式を備えています。職人的ともいえる作曲技法で、アイルランドやイングランドの民族的な色彩を反映する曲を作ります。作品は交響曲、協奏曲、宗教曲、歌曲などにまたがります。

心に残る名曲  その百五十二  ヘンリー・パーセル 「Fairest Isle」

近世から現代にいたる英国の作曲家の音楽をしばらく取り上げることにします。最初はヘンリー・パーセル(Henry Purcell)です。生まれたのは1659年ですから、ピューリタン革命(Puritan Revolution)に引き続く王政復古の時代にあたります。チューダー王朝(Tudor dynasty)といわれる時代です。フランスの絶対王政、ドイツは30年戦争の直後の疲弊のまっただ中という状況にあって、イギリスは大陸の疲弊をよそに近代化へと発展していく時期です。

パーセルはイタリアやフランス音楽の影響を受けつつ、バロック時代における独自の音楽を生み出した最も優秀なイギリス人の作曲家の1人として評価されています。若くして才能をあらわし、ウェストミンスター寺院(Westminster Abbey)のオルガン奏者、王室礼拝堂のオルガン奏者などを歴任していきます。パーセルは、作曲家としての初期には宗教音楽家として数多くの宗教的声楽曲を作曲していきます。特にイギリス国教会の聖歌であるアンセム(Anthem)とよばれる形式で多くの独唱曲や合唱曲を作曲します。こうして宗教的声楽曲というジャンルにまで高めていきます。「Come, Ye Sons of Art (Ode for Queen Mary)」とか「Fairest Isle」という器楽と声楽の演奏はそうです。

パーセルの音楽に影響を与えた背景には、文豪シェークスピア(William Shakespeare)、哲学者ベーコン(Francis Bacon)などの活躍により、イギリスの人文科学が一つの頂点を迎えたことがあるといわれます。演劇という表現形式が開花した時代で、音楽が劇と融合していきます。劇音楽、とくにオペラの分野との競演が進みます。こうした演劇の上演は、イギリスにおいては「劇伴」としての器楽曲の隆盛につながっていきます。リュート(Lute)、ヴィオラ・ダ・ガンバ(viol)、リコーダー(recorder)といった楽器の合奏による室内楽や舞曲が広く演奏されるようになります。「組曲2番プレリュード」はその一つです。

パーセルは持ち味である繊細な和音づけをたくみに利用して、力強さ、華やかさといった表現に加えて不安や悲しみといった複雑な感情までも音楽で細部に描き出していきます。

心に残る名曲 その百五十一  ヘンデル オラトリオ(Oratorio)

英国国教会(Churchi of England)のための教会音楽は、私的な礼拝のためだけでなく、イギリスの国家的行事のための式典用のがあります。こうした音楽はウエストミンスター寺院(Westminster Abbey)やセントポール大聖堂(St Paul’s Cathedral)で演奏される教会音楽であると同時に、公的な音楽としての性格を強く持つということです。

もともとヘンデルはルーテル教会の信徒でした。ヘンデルの教会音楽は、ローマカトリック教会、ルーテル教会、英国国教会に共通しています。その特徴は、総じて壮大、華麗、重厚さをあわせ持ち、情緒に偏ることのない普遍的なエートスを反映するものとして位置づけられます。これがオペラや受難曲(passion)といった教会音楽とは異なる点です。

バッハやモーツアルトの受難曲はドイツの敬虔主義による情動的なイメージが強いといわれます。詩の語りに重点をおいた叙唱、レチタティーボ(recitativo)を用いたり,抒情的表現の独唱、アリア(aria)、さらにドイツ語の歌詞と単純な旋律の宗教歌、コラール(choral)が使われます。

心に残る名曲 その百五十 ヘンデル メサイア (Messiah HWV 56)

メサイア(Messiah)は1741 年にヘンデル(George Frideric Handel)によって作られた英語によるオラトリオ(Oratorio)です。通常「Messiah (HWV 56)」と呼ばれています。「Messiah」とは救世主という意味です。この曲の基となったのは、英国国教会(Church of England)およびピューリタン(Puritan)の両者で翻訳されたキングジェームズ版聖書(King James Version)と旧訳聖書の詩篇を基にした合同祈祷書(Book of Common Prayers)からチャールズ・ジェネンズ(Charles Jennens)という作詞家が要約したテキストです。

1712年以来ロンドンで生活したヘンデルは、イタリア歌劇小作品によって作曲家としての名声を得ていきます。1730年代になり、時代の変化とともにイギリス・オラトリオの作品を作っていきます。メサイアは1742年にダブリン(Dublin)で初演されます。翌年、ロンドンでも演奏されます。評価は高くはなかったのですが徐々に認められて、やがて世界的に知られるようになり、最も著名な曲としての地位を得ることになります。

オラトリオは歌劇とは似てはいますが、劇的な筋書きとか登場人物の独唱やせりふはありません。ジェネンズは、メサイアの構成を福音書から引用します。第一部は預言者イザヤ(Isaiah)や羊飼いの告知などからなります。第二部はキリスト(Christ)の受難を語り、はりつけ、そして「神をほめたたえよ」というハレルヤ・コーラス(Hallelujah Chorus)に続きます。そして第三部は死からの蘇りと救世主のもたらした救いと永遠の命を讃える歌詞となっています

心に残る名曲  その百四十九 アルカデルト 「 Ave Maria」

ジャック・アルカデルト(Jacques Arcadelt)という作曲家と作品の紹介です。生まれは今のベルギーといわれますが、生地や経歴が不明なことが多い作曲家です。アルカデルトは若くしてイタリアに赴き、フィレンツェ(Florence)やローマ(Rome)で活動します。フィレンツェではメディチ家(Medici)と親交をもったようです。1531年に最初の曲であるモテット(motet)やマドリガル(madorigal)をドイツにて出版します。1540年にパウロ三世(Paul III)の治世下、ローマのシスティナ礼拝堂(Cappella Sistina)聖歌隊の隊員となり,同地でミケランジェロ(Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni)と親交を結びます。その後フランスに移り,フランス国王の宮廷礼拝堂などで活躍します。

アルカデルトの本領は世俗歌曲–マドリガルやシャンソンにあります。同時代のフランドル楽派(Flemish school)の作曲家たちと同じく,作品は活動地イタリアの地域性を反映させるものとなります。宗教作品も多いのですが,世俗的な声楽作品を得意とし,充実した和声感に満たされた模倣書法を示す200曲のマドリガルやその様式に類似した120曲のシャンソンを作っています。

同時代のイタリア人作曲であるフェスタ(Costanzo Festa)やヴェルデロット(Philippe Verdelot)とともにイタリアの世俗音楽の発展に寄与します。その影響を受けたひとりがパレストリーナ(Giovanni Pierluigi da Palestrina)といわれます。 有名な「アヴェ・マリア」(Ave Maria)をお聴きください。

心に残る名曲  その百四十八 モンテヴェルディ 「聖母マリアの夕べの祈り」

中世期、北イタリアのクレモナ(Cremona)に生まれたクラウディオ・モンテヴェルディ(Claudio Monteverdi)の作品について触れます。幼少期はクレモナ大聖堂(Cremona Cathedral)の楽長であったマルカントニオ・インジェネリ(Marcantonio Ingegneri)の元で学びます。

インジェネリという音楽家は、世俗的な精神を込めた教会音楽を作るとともにマドリガル(madrigals)作品で知られています。モンテヴェルディはその薫陶を受け、1582年と1583年に最初の出版譜としてモテット(Motet)と宗教マドリガルを何曲か出しています。1587年には世俗マドリガルの最初の曲集を出版します。

1590年に、マントヴァ(Mantua)のヴィンチェンツォ1世 (Vincenzo I )のゴンザーガ宮廷(Gonzaga Court)にて歌手およびヴィオラ・ダ・ガンバ奏者(Viola da gamba)として仕えはじめ、1602年には宮廷楽長となります。その後40歳まで主にマドリガルの作曲に従事し9巻の曲集を出版します。

モンテヴェルディの作品はルネサンス音楽からバロック音楽への過渡期にあると位置づけられています。その作品はルネサンスとバロックのいずれかあるいは両方に分類されるくらいです。後世からは音楽の様式に変革をもたらした改革者とみなされています。オペラの最初期の作品の一つ「オルフェオ」(The Fable of Orpheus Mantuaz)は、20・21世紀にも頻繁に演奏される最初期のオペラ作品となります。

「オルフェオ」の画期的な点は、その劇的な力と管弦楽器を用いて演奏されたことです。当時ルネサンス音楽の対位法の伝統的なポリフォニーを使った優れた作曲家として出発しますが、やがてモノディ(monody)という新しい弾き語りのスタイルを音楽を取り入れていきます。モノディとは、16世紀終わりにフィレンツェやローマを中心に生まれた音楽様式です。

1632年、モンテヴェルディはカトリック教会の司祭に任命されます。詩篇121の「聖母マリアの夕べの祈り」(Vespro della Beata Vergine)は素晴らしい響きの曲です。

心に残る名曲  その百四十七 ルカ・マレンツィオと宗教マドリガル

イタリア後期ルネサンス音楽の作曲家、ルカ・マレンツィオ(Luca Marenzio)を取り上げます。マドリガルの後期の発展段階において、後日紹介するクラウディオ・モンテヴェルディ(Claudio Monteverdi)による初期バロック音楽への過渡期に先駆けて、おそらく最もすぐれた実践例を残したといわれる作曲家です。甘美な抒情性を漂わせた作風から、アルカデルト(Jacques Arcadelt)のモテット、マドリガル(madrigal)、シャンソン(chanson)になぞらえて、「崇高で優美な白鳥」と評されるほどです。

マレンツィオの経歴に触れることにします。マレンツィオは生まれ故郷のブレシア(Brescia)で聖歌隊員として訓練を受けます。やがてローマにて、ルイギエステ枢機卿(Cardinal Luigi d’Este)に仕えます。1588年にフィレンツェ(Florence)に行き、そこでジョバンニ・バーディ(Giovanni de’ Bardi)という作曲家、作家と一緒に音楽家や詩人の集まりに参加します。

ところでマドリガルは、イタリア発祥の歌唱形式の名称です。マドリガルには、時代も形式も異なった 中世マドリガルとルネサンス・マドリガルがあります。私たちが通常呼んでいるのはルネサンス・マドリガルを指します。マレンツィオは、多くのマドリガルを作曲します。マレンツィオ16世紀を代表する最も著名なイタリアのマドリガル作曲家の一人です。ついでですが、シャンソンは中世からルネサンスにかけて作られたフランス語の歌曲のことです。宗教マドリガルの「Solo e pensoso」「Concerto Vocale」をお聴きください

心に残る名曲  その百四十六  バンショワ 「Cantigas de Santa Maria」

ネーデルラント(Netherland)の作曲家でブルゴーニュ楽派(Burgundian school)初期の一人であったジル・バンショワ(Gilles de Binchois)のことです。前回取り上げたギヨーム・デュファイ(Guillaume du Fay)と同年代の作曲家で、15世紀初頭で最も有名な音楽家の一人といわれます。

バンショワは、15世紀の最も優れた旋律家と評価されてきたのは、作り出された旋律線が歌いやすくて、すこぶる覚えやすいという特徴があるからです。彼の編み出した旋律は、その後も模倣され続け、しミサ曲において素材として後代の作曲家に流用されていきます。バンショワ作品のほとんどは、輪郭が単純明快でしかも福音的なメッセージを伝えるものです。「 日は昇る」(A solis ortus cardine)という中世ルネッサンス アカペラ混声や「聖母マリア頌歌集」(Cantigas de Santa Maria)にもそれが表れています。

中世ルネッサンス アカペラ混声
あなたの非常に柔らかい表情
「悲しい喜びと痛い喜び」 (Triste plaisir et douloureuse joye)

心に残る名曲  その百四十五 ギヨーム・デュファイ 「ミサ ロムアルム」

デュファイ(Guillaume du Fay)はベルギー(Belgium)の首都ブラッセル(Breersels )生まれ。15世紀、ルネサンス期(Renaissance)に活躍したブルゴーニュ楽派 (Burgundian School )の作曲家、音楽家です。音楽の形式および楽想の点で、中世西洋音楽からルネサンス音楽への転換を行なった音楽史上の巨匠といわれます。

デュファイの音楽的な才能は、地元の教会から注目されていたようです。聖歌隊員となり教会は彼の才能を育てていきます。16歳のときカンブレー(Cambrai)近郊のサンジェリー教会(St.Géry Cathedral)で副助祭(benefice)として働き始めます。1426年にイタリアのボローニア(Bologna)に戻り、ローマ教皇特使であるアルマン枢機卿(Cardinal Louis Aleman)の元で仕えます。やがて執事となり1428年に司祭として叙任されます。

聖職者でありましたが、デュファイは旺盛な作曲活動をします。楽風は中世的要素を備え、やがてルネサンス音楽へと成熟しブルゴーニュ楽派の中心的人物となります。ブルゴーニュ楽派とは、ブルゴーニュ公国で活躍した作曲家達のことで、その精華は世俗歌曲にあり、通例3声のポリフォニーが声と楽器で優美に演奏されます。その後期の作品には、ルネサンス音楽の次の時代となるヨーロッパ普遍の音楽様式を確立するフランドル楽派(Flemish school)に通じる要素も見られます。各声部に均衡のとれた 4声ポリフォニー手法を特色とします。「ミサ ロムアルム」(Missa Lohomme)が知られています。後に「ルネサンス音楽におけるバッハ」というように15世紀最大の巨匠とも評価されるほどです。

心に残る名曲  その百四十四 ソルティとシカゴ交響楽団

ギオルグ・ソルティ(Georg Solti)のことです。1912年ハンガリー生まれのイギリス人指揮者でピアニストでもあります。20世紀を代表する指揮者の一人と称されてSirの爵位を有しています。

音楽歴ですが、ブタペスト(Budapest)のリスト音楽院(Liszt Academy of Music)に入学します。もちろん同じ、ハンガリー生まれのフランツ・リスト(Franz Liszt)にちなんだ音楽学校です。

第二次大戦が勃発すると迫害を避けてスイスのツーリッヒ(Zürich)に逃れます。彼自身はユダヤ人だったからです。人種差別から指揮者としての仕事を見つけるのが難しかったようです。それでも1942年にはジュネーブ(Geneva)での国際ピアノコンクールで優勝します。戦後は、ミュンヘン(Munich)にあったババリア州歌劇(Bavarian State Opera)、フランクフルト歌劇場(Frankfurt Opera)、イギリスのコベントガーデンの王立歌劇場(Royal Opera)の指揮者となります。

華々しい活躍の最たることとして、ソルティの業績はシカゴ交響楽団を世界的なオーケストラに育てたことがあります。1969年から22年間にわたり指揮をするのです。1972年にイギリスに帰化しSirの爵位を授けられます。その他、1972年からはパリ管弦楽団(Orchestra of Paris)、パリ歌劇場(Paris Opéra)、ロンドン・フィルハーモニー(London Philharmonic Orchestra)の音楽総監督などを歴任します。

心に残る名曲  その百四十二 フランシスコ・タレガ 「アルハンブラの思い出」

アルハンブラの思い出で知られるスペインの作曲家・ギター奏者がフランシスコ・タレガ(Francisco Tarrega)です。ギターの達人「ヴィルトゥオーソ」(virtuoso)として名を馳せます。ヴィルトゥオーソとはイタリア語の博識とか達人を意味する言葉です。「ギターのサラサーテ(Pablo Sarasate)」との異名も付けられています。二人ともスペイン人であるからです。

「アルハンブラの思い出」(Memories of Alhambra)は、高度なテクニックで演奏されます。この技法は「トレモロ奏法」(tremolo)と呼ばれ、右手の薬指、中指、人差し指で一つの弦を繰り返しすばやく弾くことによりメロディを奏します。親指はバス声部と伴奏の分散和音を弾くのです。単一の高さの音を連続して小刻みに演奏する技法が「トレモロ奏法」です。この奏法によって噴水の流れなどが表現されています。

1874年にマドリッド音楽院(Madrid Conservatory)に進学。豪商の援助のもとに、作曲をエミリオ・アリエータ(Emilio Arrieta)に師事し1870年代末までにギター教師となります。

心に残る名曲  その百四十一 ハチャトリアン 「仮面舞踏会」

アラム・ハチャトゥリアン(Aram Il’ich Khachaturyan)は1903年にロシア帝国支配下にあったグルジア、現在のジョージア(Georgia)生まれの作曲家です。故郷の民族音楽を素材としたリズム感のある作品で有名です。アゼルバイジャン(Azerbaijan)やジョージアなどコーカサス(Caucasus)地方の民族音楽の影響がうかがわれます。代表的な作品に「仮面舞踏会」(Masquerade)やバレエ音楽「ガイーヌ」(Gayne)などがあります。

モスクワで音楽を学び、やがてレーニン賞など多数の賞を受け、自作の指揮者としても活躍します。映画音楽も手がけ、チェコスロバキア国際映画祭個人賞も受賞したこともあるようです。作品の中でも「ガイーヌ」から抜粋した演奏会用組曲がとりわけ演奏機会が多く、中でも「剣の舞」(Sarbere Dance)が、アンコールピースとしてしばしば演奏されます。民族的な伝統を大切にし、独自の価値観とエネルギーに満ちた楽風で、作品が異色の光彩を放っています。

「仮面舞踏会」は後に、ハチャトゥリアン自身の手によって、ワルツ、夜想曲(nocturne)、マズルカ(mazurka)、ロマンス(romance)、ギャロップ(gallop)の5曲を選んでオーケストラ向けの組曲となりました。中でも情熱的でダイナミックスな「ワルツ」は単独でも演奏されることも多い作品です。

アラム・ハチャトリアン

心に残る名曲  その百四十 シベリウス 「トゥオネラの白鳥」

Suomiを代表する作曲家といえばシベリウス(Jean Sibelius)でしょう。Suomiとはフィンランド別名です。民族叙事詩「カレワラ」(Kalevala)に基づいた交響詩集「レンミンカイネン組曲」(4つの伝説曲)は有名です。 

この組曲は、「レンミンカイネンとサーリの娘たち」、「トゥオネラの白鳥」、「トゥオネラのレンミンカイネン」、「レンミンカイネンの帰郷」の4曲から構成されています。組曲といっても便宜上のもので、各曲は別個に出版されました。中でも「トゥオネラの白鳥」(The Swan of Tuonela)は独立して演奏される機会が多いようです。物語の筋を追うのではなく、もっぱら黄泉の国のトゥオネラ川を泳ぐ白鳥のイメージを描いています。

私はフィンランド語(Finnish)は学んでおりませんが、「レンミンカイネン組曲」は以下のように表記するようです。
「レンミンカイネンと島の娘たち」(Lemminkäinen ja Saaren neidot)
「トゥオネラの白鳥」(Tuonelan joutsen)
「トゥオネラのレンミンカイネン」(Lemminkäinen Tuonelassa)
「レンミンカイネンの帰郷」(Lemminkäinen palaa kotienoille)

心に残る名曲  その百三十九 コダイ その2 「ハーリ・ヤーノシュ」

コダイが作曲した管弦楽組曲に「ハーリ・ヤーノシュ」(Hary Janos)があります。同じハンガリー人のガライ・ヤーノシュ(Garay Janos)によって書かれた物語詩「老兵」の主人公の名となっています。

コダイの代表曲といわれる「ハーリ・ヤーノシュ」のことです。ヤーノシュは実在した陶工ですが、オーストリア帝国の支配下にあったハンガリーで、農民兵の一典型として、伝説的人物として描かれています。老いた退役兵ハーリ・ヤーノシュは、故郷の居酒屋で若者たちを相手に兵役時代の話をほらを交えて語るのです。ナポレオンと戦って勝って捕虜にしたとか、オーストリア帝国の皇帝フランツの妃にひと目ぼれされ求婚されたたという話、七つ頭の竜を組み伏せた話などハーリ・ヤーノシュのほら話を楽劇として作曲したといわれます。

「ハーリ・ヤーノシュ」の初演は1926年で後に、ハンガリーのドン・キホーテ(Don Quixote)物語ともいわれます。

心に残る名曲  その百三十八 コダイ その1 民族音楽の重要さ

ゾルタン・コダイ(Kodaly Zoltan)は1882年生まれのハンガリーの作曲家です。民俗音楽学者、教育家、言語学者、哲学者でもあります。両親は熱心なアマチュア音楽家で、父はヴァイオリンを、母はピアノを弾いていたそうです。コダイは子どもの頃からヴァイオリンの学習を始め、聖歌隊で歌いますが、系統的な音楽教育を受けることはありませんでした。
 1900年、コダイは現代語を学ぶためにブダペスト大学(Budapest University) に入学し、同時にブダペストのフランツ・リスト音楽院(Franz Liszt Akademie)で音楽を学び始めます。そこでドイツ人でブラームスの音楽を信奉する保守的な作曲家といわれたハンス・ケスラー(Hans Koessler)に作曲について師事します。
 1905年からコダイは、ハンガリーの北西部の辺境で民謡の収集を始めます。その結果をハンガリー民族学会で発表します。民謡について真摯に取り組んだ初期の研究者として、ハンガリーにおける民俗音楽学の分野における重要人物と称されるようになります。さらに1907年にはフランツ・リスト音楽院の教授に就任します。

ゾルタン・コダイ

心に残る名曲  その百三十七 アルビノーニ 「弦楽とオルガンのためのアダージョ」ニ短調

アルビノーニ(Tomaso Albinoni) ヴェネツィア (Venezia)生まれのバロック音楽の作曲家です。生前はオペラ作曲家として著名だったといわれますが、今日はもっぱら器楽曲の作曲家として記憶されています。音楽事典によりますと、アルビノーニの作曲家としての生前の地位のほかには、裕福なヴェネツィア貴族の家系に生まれたということ以外、ほとんど分かっていないようです。

 アルビノーニの系統立った作品目録を作成したのが、イタリアの音楽学者ジャゾット(Remo Giazotto)です。ジャゾットは、ザクセン国立図書館(Sachsische Landesbibliothek)から受け取ったアルビノーニの自筆譜の断片を編曲し、「ト短調のアダージョ」を出版します。これが「アルビノーニのアダージョ」として親しまれるようになり、ジャゾットの名もアダージョの編曲者としてとりわけ有名になります。

 アルビノーニは50曲ほどのオペラを作曲し、そのうち20曲が1723年から1740年にかけて上演されたが、こんにちでは器楽曲、とりわけオーボエ協奏曲が最も知られているようです。

心に残る名曲  その百三十六 スメタナ 「わが祖国」

スメタナ(Bedrich Smetana)のことについては、「心に残る名曲 その二十四」で少し触れました。彼はチェコ(Czecho)のボヘミア(Bohemia)地方で生まれます。チェコは長らくオーストリア帝国(Austrian Empire)の支配下に置かれていました。スメタナは、チェコの民族主義と独立への願望をかき立て国民楽派という音楽運動を発展させた先駆者です。それ故にチェコ音楽の祖とみなされています。

BEDRICH SMETANA Bedrich Smetana 2 March 1824 – 12 May 1884 Czech composer Credit: Peter Joslin / ArenaPAL

スメタナは1856年から1861年まで、ボヘミアを離れてスウェーデン(Sweeden)のヨーテボリ(Gothenburg)でピアニストおよび指揮者として活動します。やがて代表作となる「わが祖国」(My Country)を1874年から1879年にかけて作曲します。この曲は6つの交響詩です。第1曲「ヴィシェフラド」(Vysehrad)、そして第2曲「モルダウ」(The Moldau)が特に著名です。ヴィシェフラドは、プラハ(Prague)にある丘の城跡のことです。モルダウ川は源流からプラハ市内へと続く重要な川です。上流から下流への情景やプラハの風景が鮮明に描写されています。

  「モルダウ」の印象です。山奥深い水源から雪が溶けて水が集まっていき、森を抜け、そして角笛が響き渡り、村の結婚式の傍を行き過ぎていきます。徐々に水量が増えていき、プラハ市内を悠然と流れ、カレル橋(Karel)のたもとにきます。勇壮な古城を讃えるように華やかな演奏が続きます。親しみやすい旋律が12分間も続きます。チェコの指揮者、ラファエル・クーベリク(Rafael Kubelík)のチェコ・フィルによる演奏は聞き応えがあります。スメタナはオペラ「売られた花嫁」、「弦楽四重奏曲第1番 」などでも知られています。





心に残る名曲  その百三十五 オッフェンバック 「天国と地獄」序曲 

オッフェンバック(Jacques Offenbach)によって作曲されたオペレッタ(Operetta)「地獄のオルフェ」(Overture From Orpheus in the Underworld)の別題が「天国と地獄」(Heaven and Hell)です。オペレッタは喜歌劇とも呼ばれています。

 オッフェンバックは1819年、プロイセン王国(Kingdom of Prussia)のラインラント州(Rheinland)ケルン(Kolon)に生まれます。1833年に、チェロを学ぶためフランスのパリへ出ます。1848年の二月革命を避けドイツに一時帰国しますが、まもなく戻りその後は終生パリで生活したといわれます。

 演奏の傍ら作曲活動を続け、美しいメロディーを次々と生み出すことから、ロッシーニ(Gioachino Antonio Rossini)はオッフェンバックを“シャンゼリゼのモーツァルト(Mozart of Champs-Elysees)と評したといわれます。「天国と地獄」やプロローグとエピローグをもつ3幕のオペラ歌劇「ホフマン物語」は、第二帝政期フランスを代表する文化の一つとして、歴史的にも作品的にも高い評価を得ている作品といわれます。「ホフマン物語」(The Tales of Hoffmann)の中の「ホフマンの舟歌」(Barcarola)は知られています。

心に残る名曲  その百三十四  パッヘルベル 「カノン」

ヨハン・パッヘルベル(Johann Pachelbel)はドイツのオルガン奏者で作曲家です。1773年〜77年までウィーンの聖ステファン大聖堂(St. Stephen’s Cathedral)の次席オルガン奏者となります。その頃、大バッハの父などと知己を得ます。

 

 

 

 

 

作品は多岐にわたっています。コラール変奏曲集(Chorale Variations)、コラール前奏曲(Chorale prelude)をはじめ、70曲に近いコラール曲を作ります。三声の「カノンとジグ」(Kanon und Gigue)ニ長調などの室内楽、トッカータ(Toccata)ホ短調、その他モテット、ミサ、マニフィカートなどの宗教声楽曲もよく知られています。中でも最も親しまれているのがカノン ニ長調(Canon in D Major)でしょう。

パッヘルベルの音楽は技巧的ではなく、北ドイツの代表的なオルガン奏者であるディートリヒ・ブクステフーデ(Dieterich Buxtehude)のような大胆な和声法も用いず、「旋律的・調和的な明快さを強調した、明快で単純な対位法」を好んで用いているといわれます。カノン ニ長調を聴くとなるほどと頷くことができます。

心に残る名曲  その百三十三 リヒテル 「ピアノ協奏曲第一番」

再度、ピアノ協奏曲第一番を取り上げます。演奏者はスヴャトスラフ・リヒテル(Sviatoslav  Richter)です。ドイツ人を父にウクライナ(Ukrayina)で生まれ、主にロシアで活躍したピアニストです。在留ドイツ人として扱われたといわれます。その卓越した演奏技術から20世紀最大のピアニストと称された人です。

 ドイツ人の父の家は代々ドイツルーテル教会に属する商家でした。幼いころに一家はオデッサ(Odessa)に移住します。父親は同地におけてルーテル派の教会である聖パウロ教会で合唱団長や、オルガン奏者を務めていました。また、音楽学校で教師をも務めたようです。
20世紀の最も偉大な巨匠の1人で、おそらくリヒテルの名前を知らないクラシック音楽愛好家はまずいないでしょう。しかし、その圧倒的な知名度にもかかわらず、彼は神秘のヴェールに包まれた謎の多いピアニストだったようです。当時の社会主義国家ソ連のイデオロギーの只中にいた彼は、出国を許されず、鉄のカーテンの西側の地方では、すごいピアニストがいるらしいともっぱら噂だったといいます。
その彼が西側に登場してセンセーショナルな話題を 呼び、衝撃を与えたのが1960年のことです。当時の録音によると、ラフマニノフの代表的な交響曲第一番は、彼が知性と感性と強靭な技巧を併せ持った、稀に見るピアニストであることを示していたという評価がされます。
リヒテルは日本にも何度も訪れて演奏しています。その静と動、強と弱、剛と柔の対比を極端につけた演奏は多くの人の魂を揺さぶり、 強い説得力を持って聴く人に迫ってきたと評価されています。
彼は非常に大きな手の持ち主で、一説によると、鍵盤の12度を上から悠々つかめるほどの、いわば「化け物の手」 を持っていたといわれています。超人伝説を語るエピソードになっています。
チャイコフスキー「ピアノ協奏曲第一番 変ロ短調」