心に残る名曲  その百二十八 ファリャ 「三角帽子」

Last Updated on 2018年11月30日 by 成田滋

スペインやフランスの作曲家を取り上げています。マヌエル・デ・ (Manuel de Falla y Matheu)は1876年生まれで、20世紀のスペインが生んだ音楽家、作曲家です。カタルーニャ(Catalunya)出身の作曲家・音楽学者・音楽理論家であったサバテー(Felipe Pedrell Sabaté)に師事します。サバテーは音楽教師として名高く、ファリャやアルベニス(Isaac Albéniz)などのスペイン人作曲家を育て上げたことから、「スペイン国民楽派の父」とも呼ばれています。

ファリャにスペイン民族音楽への興味を植え付けたファリャはサバテーですが、アンダルシア(Andalucía)のフラメンコ(flamenco)に興味を寄せ、多くの作品においてその影響を示しているといわれます。管弦楽曲で有名な作品に「三角帽子」があります。その第2幕 「粉屋の踊り」の終幕は素晴らしいものです。その他バレエ音楽「恋は魔術師」もあります。晩年にスペイン内戦(Spanish Civil War)でフランコが政権に就くとアルゼンチンに亡命して作曲活動をします。

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心に残る名曲  その百二十八 ファリャ 「三角帽子」

スペインやフランスの作曲家を取り上げています。マヌエル・デ・ファリャ(Manuel de Falla y Matheu)は1876年生まれで、20世紀のスペインが生んだ音楽家、作曲家です。カタルーニャ(Catalunya)出身の作曲家・音楽学者・音楽理論家であったサバテー(Felipe Pedrell Sabaté)に師事します。サバテーは音楽教師として名高く、ファリャやアルベニス(Isaac Albéniz)などのスペイン人作曲家を育て上げたことから、「スペイン国民楽派の父」とも呼ばれています。

ファリャにスペイン民族音楽への興味を植え付けたファリャはサバテーですが、アンダルシア(Andalucía)のフラメンコ(flamenco)に興味を寄せ、多くの作品においてその影響を示しているといわれます。管弦楽曲で有名な作品に「三角帽子」があります。そのの第2幕 粉屋の踊り~終幕の踊りは素晴らしいものです。その他バレエ音楽「恋は魔術師」もあります。晩年にスペイン内戦(Spanish Civil War)でフランコが政権に就くとアルゼンチンに亡命して作曲活動をします。

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心に残る名曲  その百二十七 シャブリエ  「スペイン狂詩曲」

Last Updated on 2018年11月29日 by 成田滋

1882年生まれのシャブリエ(Alexis-Emmanuel Chabrier)は、幼い頃からピアノや作曲に興味を示し、特にピアノの腕前は天才といわれるほどであったといわれます。しかし、父親が弁護士だったので、パリの後期中等教育機関リセ(lycée)で法律を学び、内務省に就職し公務員生活を送ります。傍らポーランド生まれの作曲家でヴァイオリニストであったタノスキ(Alexander Tarnowski)に音楽理論や作曲法を学びます。

Emmanuel Chabrier
Alexis
18 January 1841 ? 13 September 1894
French Romantic composer
Credit: Peter Joslin / ArenaPAL


シャブリエの前半生は公務員であり、作曲家としての活動期間は14年と短く、発表された作品数は限られています。1882年にスペインを訪れ、そこで、「スペイン狂詩曲」(Espana Rhapsody for Orchestra)を作ります。この曲はシャブリエの代表曲です。管弦楽作品やオペレッタなどの作品があり、いずれも独特のリズムに加え、闊達さとユーモアを感じさせてくれます。シャブリエの楽風は、後の作曲家に大きな影響を与えたといわれます。

シャブリエは、フランスの印象派画家モネ(Claude Monet)やマネ(Edouard Manet)と親交があったようで、彼らの絵を所有していたといわれます。楽風も絵画のような華やかさを感じます。

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心に残る名曲  その百二十六 ラロ 「スペイン交響曲」

Last Updated on 2018年11月28日 by 成田滋

ラロ(Victor Antoine Édouard Lalo)は1823年生まれ。フランス人作曲家なのですが、もともとはスペインのバスク(Euskara)の家系であったようです。ラロの作品を聴くと随所にスペイン的な主題が使われていることが分かります。ラロはヴァイオリンおよびヴィオラ奏者でもありました。

 ラロが1874年に作ったヴァイオリン協奏曲第2番にあたる「スペイン交響曲」(Symphonie espagnole)ニ短調は特に有名です。今日では全曲が上演されることなくなりましたが、その序曲はフランス歌劇の序曲集といった盤などにも収められているといわれます。「スペイン交響曲」は彼の代表作と見なされています。

この曲は交響曲といわれていますが、ヴァイオリン独奏と管弦楽のために作曲されたので、交響的協奏曲とも呼ばれます。フランスにおけるスペイン趣味の流行の前触れを告げた作品といわれるほど、スペイン舞踏の旋律とリズムが横溢しています。

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心に残る名曲  その百二十五 ロドリーゴ 「アランフエス協奏曲」

Last Updated on 2018年11月27日 by 成田滋

ホアキン・ロドリーゴ(Joaquín Rodrigo)は幼少の時ジフテリアにかかり視力を失います。8歳でピアノとヴァイオリンの学習を始めます。パリのエコール・ノルマル音楽院(École Normale de Musique de Paris)で、作曲家のデュカス(Paul Abraham Dukas)に師事し、音楽学をモーリス・エマニュエル(Maurice Emmanuel)に師事して、才能を開花していきます。

ロドリーゴ代表作の「アランフェス協奏曲」(Concierto de Aranjuez) は、1939年にパリにおいてクラシック・ギターの独奏と管弦楽のために作曲されます。1940年11月にバルセロナ・フィルハーモニー管弦楽団(Barcelona Philharmonic Orchestra)によりバルセロナにて初演されたといわれます。

この曲の中間楽章「アダージョ」(Adajo)は、その哀愁をたたえ、親しみやすい20世紀のクラシック音楽としては最も有名な楽曲となっています。第二楽章Adagioはギターはもちろんですが、オーボエの独奏も響きます。https://www.youtube.com/watch?v=oVSsnlENCGg

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心に残る名曲  その百二十四 アルベニス 「スペイン組曲」

Last Updated on 2018年11月26日 by 成田滋

アルベニス(Isaac Albeniz)はスペインのカタルーニャ州(Cataluna)で生まれます。カタルーニャはスペイン北東部の地中海岸にあり、交通の要衝として古代から栄えます。独自の歴史・伝統・習慣・言語を持ち、カタルーニャ人としての民族意識を有しているといわれます。中心はバルセロナ(Barcelona)です

 4歳の時にピアノ演奏をするほどの天才児だったといわれます。後にライプツィヒの音楽院で短期間学んだ後、1876年にブリュッセル王立音楽院で学びます。1883年、「スペイン国民楽派の父」と呼ばれ教師で作曲家のフェリペ・ペドレル・サバテー(Felipe Pedrell Sabate)に会い、「スペイン組曲 作品47」などのスペイン音楽の作曲を勧められます。1890年代にはロンドンとパリに住み、主として劇場作品を作曲します。1905年から1909年の間に、最も良く知られた作品であるピアノによる印象を描いた12曲からなるスペイン組曲 第1集 カタルーニャ作品47-2番、グラナダ(Granada)作品47-1番は良く知られています。

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心に残る名曲  その百二十三 マスネ その2 オペラ「タイス」

Last Updated on 2018年11月24日 by 成田滋

マスネ(Jules Emile Massenet)はフランスのロワール県(Loire)の辺鄙な村で生まれます。1848年、家族とともにパリに移り住みます。幼いころから楽才を示し1853年には11歳でパリ国立高等音楽院(Conservatoire national supérieur de musique)へ入学します。

 1862年、カンタータ「ダヴィッド・リッツィオ」(David Rizzio)でローマ賞を受賞し3年をローマで過ごします。マスネは普仏戦争に従軍し、その間作曲活動を中断しますが、1871年に戦争が終わると創作活動に復帰します。長編小説「マノン・レスコー」(Manon Lescaut)に基づく「マノン」(Manon)というオペラを、そして、代表作といわれるオペラ「タイス」(Thaïs)を作曲します。

「タイス」の舞台は、ビザンチン帝国(Byzantine Empire)統治下のエジプト。ローマ神話の愛と美の女神ヴィーナス(Venus)の巫女であるタイス(Thais)と、キリスト教の修道僧アタナエル(Athanael))が主人公です。厳格な禁欲主義者のアタナエルは、妖艶なタイスの存在に心をかき乱されています。彼はタイスをキリスト教に改宗させよう試みます。「タイスの瞑想曲」は、彼の説得をタイスが心の中で瞑想するときの曲です。第二幕・第1場と第2場の間で演奏される余りにも有名な間奏曲です。本来はオーケストラと独奏楽器向けなのですが、室内楽に編曲されてもしばしば演奏されます。

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心に残る名曲  その百二十二 マスネ その1 国民音楽協会

Last Updated on 2018年11月23日 by 成田滋

戦争と平和が音楽や作曲活動にどのような影響を与えてきたかは、興味ある話題です。先日紹介したチャイコフスキーの「序曲1812」はナポレオン軍を破ったロシアの戦勝祝いの曲です。

 フランスは1870年7月から1871年5月までプロイセン(Prussia)とで戦争をします。いわゆる普仏戦争 (Deutsch-Franzosischer Krieg)です。ビスマルク(Otto Eduard Leopold Fürst von Bismarck)が率いるプロイセンがフランスを破ります。フランスはドイツに賠償金 50億フランを支払い,アルザス=ロレーヌ(Alsace-Lorraine)の大部分を割譲するのです。ビスマルクは、それまで小国に分かれていたドイツの統一宣言をベルサイユ宮殿(Versailles)で行います。フランスにとって屈辱的な出来事です。この敗戦を機にフランスの音楽界は変化していきます。

19世紀前半のフランスの音楽界はオペラやバレエが盛んでした。交響曲などの器楽は低調で、多くの作曲家はドイツの音楽を学ぶ姿勢は持っていましたが、敗戦を契機としてフランスの伝統へと回帰することになります。それが1871年のサンサーンス(Charles Camille Saint-Saens)らによる国民音楽協会(Société Nationale de Musique)の設立です。

ナショナリズムの高揚を背景にした「フランスの芸術」を旗印に掲げていくこの運動は、アルス・ガリカ(Ars gallica)とも呼ばれています。「牧神の午後への前奏曲」を作ったドビュッシー(Claude Achille Debussy)やマスネ(Jules Emile Frédéric Massenet)もこの運動に加わり、フランス音楽界に大きなうねりを起こしていきます。

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心に残る名曲  その百二十一  ボロディン 「イーゴリ公」

Last Updated on 2018年11月22日 by 成田滋

ロシアの作曲家ボロディン(Aleksandr Porfir’evich Borodin)は、化学者でもあり薬学者という珍しい経歴を有しています。ペテルブルグ薬科外科アカデミーで薬学と化学を学び,1858年薬学博士号を取得します。1856年にムソルグスキー(Modest Petrovich Mussorgsky)の知遇を得て,1862年バラキレフ(Mily Alekseyevich Balakirev)を知ったことから,五人組といわれたロシア国民楽派に参加、本格的な作曲活動に入ったようです。

 1864年には母校教授となり教育や研究活動をしながら「ピアノ五重奏曲」などの初期秀作を経て1867年に最初の大曲「交響曲第1番」を完成します。後に知り合ったリスト(Franz Liszt)の紹介により,その作品は早くからヨーロッパでも評価を得ます。代表作として、ロシアの民族叙事詩「イーゴリ軍記」による未完のオペラ「イーゴリ公」(Prince Igor)があり、その中の「ダッタン人の踊り」がつとに有名です。https://www.youtube.com/watch?v=Uq984sKqokI

心に残る名曲  その百二十  チャイコフスキー 「序曲1812年」

Last Updated on 2018年11月21日 by 成田滋

「序曲1812年」はナポレオン(Napoleon Bonaparte)率いるフランス軍の侵略とそれに抵抗するロシア軍、そしてフランス軍を退けたロシアの人民の歓びを表した曲です。作曲者はチャイコフスキー(Pyotr Ilyich Tchaikovsky)。1880年に作曲した演奏会用の序曲です。

 ロシアのアレクサンドル1世(Alexander I))が、ナポレオン1世の出した大陸封鎖令に反して、イギリスに対する穀物輸出を続けます。それに対する制裁として、1812年ナポレオンは40万の軍を率いて行ったモスクワへ遠征します。ロシアの文豪トルストイ(Lev Nikolayevich Tolstoy)の「戦争と平和」の題材となった史実です。

この曲名は大序曲「1812年」、荘厳序曲「1812年」、または祝典序曲「1812年」などと呼ばれることもあります。歴史的事件を描くという内容のわかりやすさによって、人々に大いに親しまれる作品となります。曲の中では、フランス国歌「ラ・マルセイエーズ」(La Marseillaise)の旋律をトランペットやホルンで演奏されます。

終章では、鐘の音が響きます。ロシアの勝利を人民に知らせる鐘、神への感謝を表す鐘の音です。全楽器強奏で始まり、ロシア帝国国歌がバスーン、ホルン、トロンボーン、チューバ、低音弦楽器で演奏され大砲も轟きます。

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心に残る名曲  その百十九 グリンカ 「ルスランとリュドミラ」

Last Updated on 2018年11月20日 by 成田滋

グリンカ(Mikhail Ivanovich Glinka)は、国外で広い名声を得た最初のウクライナ系(Ukrain)ロシア人作曲家といわれます。「近代ロシア音楽の父」とか「ロシア国民音楽の父」と呼ばれています。ロシアの民族的基盤に立った音楽の創造を提唱し,チャイコフスキー(P. Tchaikovsky)に深い影響を与えたといわれています。

 グリンカは富裕な貴族で地主の家庭に第生まれ、子ども時代から音楽に興味を持っていたようです。少年のころに体験したナポレオンとの祖国戦争とロシア社会の近代化のための農奴解放令が、彼に民族意識を植えつけていきます。民謡に接することにより、成長してからの彼の音楽に影響を与えたといわれます。

1830年イタリアに行き,オペラの作曲家ドニゼッティ(Gaetano Donizetti)などから音楽理論を学びます。帰国後,ロシア国民音楽の創造に全力を注ぎ,1836年にオペラ「イワン・スサーニン」(Ivan Susanin)を作曲します。ロマノフ王朝の祖、皇帝ミハイル・ロマノフ(Mikhail Feodorovich Romanov)をポーランドの干渉軍から守るため、農夫のイヴァン・スサーニンが自身を犠牲にするという伝説的なエピソードを描いたものです。

1842年にはプーシキン (Sergei Pushkin)の叙事詩によるオペラ第2作「ルスランとリュドミラ」(Ruslan and Ludmilla)を作曲します。全5幕8場から成るオペラです。キエフ(Kiev)大公国大公の娘・リュドミラ姫と騎士・ルスランの婚礼の宴席の途中、魔術師が現われ、リュドミラをさらっていきます。大公は、ルスラン、およびその場にいた姫に恋している若者らに、娘を無事に取り戻した者に娘を与えると宣言するという筋書きです。流れるような旋律が聴衆の記憶に容易に残るような序曲です。

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心に残る名曲  その百十八 Steinway & Sons

Last Updated on 2018年11月19日 by 成田滋

「Steinway & Sons」はドイツ系アメリカのピアノの製作会社です。高品質のピアノの生産で世界の80%のシェアを誇っています。創業者は、Heinrich Englehard Steinwegです。Steinwegは1835年に妻Julianeへ結婚記念として四角いピアノを製作します。1836年にドイツ中央部にあるゼーセン(Seesen)という街の自宅台所で始めてグランドピアノを製作します。そのことで、このピアノは後に「kitchen piano」と呼ばれました。ギルド(Guild)制度が厳しく、自分の工場を持つことが難しかったので自宅で製作したということです。

ギルドとは徒弟制度と称されます。中世のドイツでは厳格な身分制度が存在し、その頂点に立つ親方は職人や徒弟を指導するのです。ギルドに参加できるものは親方資格をもつものに限られていました。工場でしか物を作ることができなかったのです。

三月革命と呼ばれた1848年のドイツ革命は、政治や経済の不安定化をもたらし、ギルドに属さない者の仕事が困難となります。ドイツでの製作や販売が困難になることを予想し、1850年に妻と8人の息子とともにニューヨークにやってきます。1864年にSteinwegは名前を英語風に「Steinway」と変えます。ドイツ語で「weg」は道という意味です。

ニューヨークのマンハッタン(Manhattan)に最初の工場を立ち上げます。それ以来、製造したピアノは高い品質で評判を呼びクイーンズ(Queens)に工場を移します。大多数の従業員はドイツからの移民だったといわれます。Steinwayは高価格のピアノと低価格のピアノを製造しています。後者のピアノのブランドは「Boston」と「Essex」と呼ばれています。現在は、ニューヨークの他にドイツのハンブルグ(Hamburg)にも工場を持っています。ニューヨークからのピアノは主に国内向け、ハンブルグからのピアノは海外に輸出されています。
Steinway & Sonsは創業以来、Steinway一族で経営してきました。しかし、1972年に経営上の問題からCBSに経営権を譲ります。

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心に残る名曲  その百十七 モデスト・ムソルグスキー 「展覧会の絵」

Last Updated on 2018年11月17日 by 成田滋

ムソルグスキー(Modest Petrovich Mussorgsky)は、「ロシア五人組」といわれた作曲家の一人です。6歳から母にピアノを習い、7歳でリストの作品を弾くほど上達したようです。ペテルスブルグ(St. Petersburg)の近衛連隊に入り、軍医で作曲家であったボロディン(Alexander Borodin)と会います。同時にバラキレフ(Mily Balakirev)、キュイ(Cesarius Cui)らの音楽家と会い作曲への意欲に駆り立てられます。

1853年のクリミア戦争(Crimean War)で連合国に敗北後、ロシアの内政は不安定となります。1861年、農奴解放令によってムソルグスキーも経済的な打撃を受け、運輸省に下級官吏として就職します。長続きせず解雇された後、ある音楽好きの貴族に庇護されます。その頃作ったのがオペラ「ボリス・ゴドゥノフ」(Boris Godunov)です。ロシア国家の公称であったロシア・ツァーリ国の皇帝です。

 ムソルグスキーは、ロシア国民楽派の作曲家と言われています。ロシアの民謡の伝統に忠実で、史実や現実生活を題材とした歌劇や諷刺歌曲を書いたからです。初期の交響詩の代表的傑作といわれる管弦楽曲「禿山の一夜」も書きます。

「展覧会の絵」(Pictures at an exhibition)は1874年に作曲されます。友人の画家ハルトマン(Viktor Hartmann)の遺作展で見た10枚の絵画の印象をもとに作られます。ロシア、フランス、イタリア、ポーランドなどさまざまな国の風物が描かれています。「展覧会の絵」の第2、3、5、7曲の前に前奏や間奏にあたる「プロムナード」が添えられています。それは絵と絵との間を歩く情景を表しているといわれています。楽曲は「小人」、「古城」、「卵の殻をつけたひなどりのバレエ」、「鶏の足の上に建っている小屋」、などという構成になっています。

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心に残る名曲  その百十六 モーリス・ラヴェル 「ボレロ」

Last Updated on 2018年11月16日 by 成田滋

モーリス・ラヴェル(Joseph-Maurice Ravel )は、バスク(Euskara)地方の生まれのフランス人作曲家です。好楽家の父の理解で7歳からピアノを学びます。14歳でパリ音楽院(Conservatoire national suprrieur de musique)のピアノ予備科に入学します。1897年にはフォーレ(Gabriel Faure)に師事して作曲法や対位法を学びます。やがて「水の戯れ」というピアノ曲を作ります。この作品からラヴェルは、同じくフランスの大作曲家ドビッシー(Calude Debussy)が作曲した「牧神の午後の前奏曲」からの影響を強く受けていたことがわかります。ピアノ曲として画期的な手法を盛り込んでいたのです。

「水の戯れ」を聴くと上品で典雅、都会的ながら控えめ、どことなく憂愁さが感じられる楽節の組み立てを感じます。そしてリズムも水の流れのように規則的です。1928年にはバレエ曲を作ります。これが代表曲となる「ボレロ(Bolero)」です。「ボレロ」とはスペインの民族舞踏のことです。セビリアのとある酒場で一人の踊り手が舞台で足を鳴らしています。やがて興が乗ってきて、客達も次第に踊りに目を向け、最後には一緒に踊り出すのです。バレエ音楽でそれを基にした同名の管弦楽組曲「ダフニスとクロエ」(Daphnis et Chloe)も作曲しています。

「ボレロ」には三つの特徴があります。第一は、同一リズムが保持されることです。第二は最初から終わりまで一つのだんだんと強くなるクレッシェンド(crescendo)のみであることです。第三は旋律は二つのパタンのみであることです。

以上のような特徴からの印象では、単調な曲のように感じます。しかし、非常に豊かな色彩溢れる音楽なのです。しかも異なった楽器構成でメロディが奏でられます。小太鼓の音で始まり、オーボエ、クラリネット、フルート、サキソフォーンが同じ旋律を順々に演奏していきます。ヴァイオリンはピッチカートの演奏で終始します。演奏形態としては珍しいことです。

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心に残る名曲  その百十五 ヘンデル 「Lascia Chio Pianga」

Last Updated on 2018年11月15日 by 成田滋

このアリアのオリジナルの旋律は、ヘンデル(Georg Friedrich Handel)の1705年のオペラ「アルミーラ」(Almira)の第3幕にサラバンド(Sarabanda)として使用されたのが最初です。ヘンデル19歳のときに書かれた最初のオペラといわれます。サラバンドとは三拍子の荘重な舞曲です。

 1711年にヘンデルはこの旋律の再使用します。それがオペラ「リナルド」(Rinaldo)第2幕に登場する有名なアリア(Aria)「私を泣かせてください」 (Lascia ch’io pianga)です。劇中で、エルサレムのイスラム側の魔法使いの囚われの身になったアルミレーナ(Almirena)が、敵軍の王に求愛されるのですが、愛する十字軍の将軍リナルドへの貞節を守るため「苛酷な運命に涙を流しましょう」と歌うアリアです。恋人を想って自分の悲運を嘆くシーンで歌われます。「抱かせてください、自由の憧れを」と歌っています。アリアとは、オーケストラの伴奏で独唱する叙情的な歌、詠唱のことです。

「リナルド」は11世紀のエルサレム(Jerusalem)を舞台にした叙事詩「解放されたエルサレム」に基づいています。このオペラは大成功をおさめます。

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心に残る名曲  その百十四 サミュエル・バーバー  「弦楽のためのアダージョ」

Last Updated on 2018年11月14日 by 成田滋

アメリカの作曲家にサミュエル・バーバー(Samuel Barber)がいます。1910年3月、ペンシルバニア州(Commonwealth of Pennsylvania)ウェスト・チェスター(West Chester)で生まれます。地元の作曲家だった叔父や歌手だった叔母に激励され,7才から作曲したといわれます。14才で創設後間もないカーティス音楽院(Curtis Institute of Music)へ進み,ピアノ,歌唱法、作曲法を学びます。同院の創設者メアリー・ボック(Mary Bok)から認められ,支援を得て1934年にヨーロッパに渡ります。ロマン派音楽に触れ,ウィーンで指揮法と歌唱法を学びます。

 1935年から1937年にはアメリカ芸術科学アカデミー(American Academy of Arts and Sciences)で学び,1939年から1942年までカーティス音楽院でも教鞭を執ります。自作のヴァイオリン・ソナタ(1928)と「スクール・フォー・スキャンダル」(School for Scandal)(1931)がベアルン(Bearns)賞を受賞したのを受け,バリトン歌手として活動しながら,本格的な作曲活動に入ります。

やがて「交響曲」が,ザルツブルク音楽祭(Salzburger Festspiele)で史上初めての米国人作品として初演され,1938年には「管弦楽のためのエッセイ」(Essay No. 2 for Orchestra)と「弦楽のためのアダージョ」(Adagio for Strings)が、20世紀前半を代表する指揮者トスカニーニ(Arturo Toscanini)からも認められて,国際的な評価を受けます。

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心に残る名曲 その百十三 レスピーギ 「ローマの松」

Last Updated on 2018年11月13日 by 成田滋

長男家族と始めてローマ(Rome)に行ったときです。車で郊外にでると林立する木がそこここに目だちました。長男が松の木だと云いました。そのとき、「ああ、これか、、」と思い当たりました。レスピーギ(Ottorino Respighi)の「ローマの松」のことです。

 イタリアの作曲家・音楽学者・指揮者がオットリーノ・レスピーギです。ボローニャ(Bologna)出身で、小さい頃から、地元の音楽教師だった父親からピアノとヴァイオリンの指導を受けます。1913年からはローマに出て教育者としても活動したようです。ヴァイオリン奏者やヴィオラ奏者として活動しますが、やがて作曲に転向します。サンタ・チェチーリア音楽院(Conservatorio di Musica Santa Cecilia)の作曲科教授に任命され、1923年には同学院の院長に就任して作曲活動を続けます。

近代イタリア音楽における器楽曲の指導的な開拓者の一人としてつとに名高く、「ローマ三部作」と呼ばれる一連の交響詩「ローマの噴水(Fontane di Roma)」、「ローマの松(Pini di Roma)」、「ローマの祭り( Feste Romane)」が広く知られています。

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心に残る名曲  その百十二  リムスキーコルサコフ 「シェーラザード」

Last Updated on 2018年11月12日 by 成田滋

リムスキーコルサコフ (Nikolai Rimsky-Korsakov)は、ロシアの作曲家です。ロシア五人組の一人で、色彩感あふれる管弦楽曲や民族色豊かなオペラを数多く残しています。五人組とは、ミリイ・バラキレフ(Mily Balakirev)、ツェーザリ・キュイ(Cesarius Cui)、モデスト・ムソルグスキー(Modest Mussorgsky) 、アレクサンドル・ボロディン(Alexander Borodin)、そしてリムスキー=コルサコフといった音楽家のことです。

 リムスキーコルサコフは軍人貴族の家庭に生まれます。小さい時より楽才を顕しますが、12歳でサンクトペテルブルク(St Petersburg)の海軍兵学校に入学し、ロシア海軍の艦隊による海外遠征も体験したと記録されています。

ロシアの民謡や文学を題材としながら、華やで簡潔な作風が特徴と言われます。海軍士官としての経験から海の描写を得意としたことでも有名です。交響組曲「シェヘラザード」(Scheherazade)の第1楽章「海とシンドバッドの船」部分では荒れ狂う海と航海の場面が音で描かれています。管弦楽法の大家として知られ、管弦楽の実践理論に関する著作も残すほどの音楽家です。

「シェーラザード」(Scheherazade)とは「千夜一夜物語」、別名「アラビアンナイト」(Arabian Nights)に登場する語り手となる女性の名です。ササン朝(Sassanid)ペルシャのシャフリヤール王(Shahryar)の王妃であり、毎夜、命がけで王に物語を語るという展開となっています。 ササン朝ペルシア(Persia)の文化は、メソポタミア(Mesopotamia)文化、ヘレニズム(Hellenism)文化を吸収したパルティア(Parthian)の文化を継承します。そして古代西アジア文化を形成していきます。さらにイスラーム文化 (Islamic culture)や東、西ヨーロッパ、中国にも大きな影響を与えたといわれます。

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心に残る名曲 その百十一 アントニオ・ヴィヴァルディ 「四季」

Last Updated on 2018年11月9日 by 成田滋

1723年に作曲されたバロック(Baroque)音楽の傑作と云われます。アントニオ・ヴィヴァルディ(Antonio Vivaldi)のこの「四季」(Four Seasons) は、彼の最も有名な曲です。バロックとは、もともと過剰な装飾を持つ建築を批判する用語だったようですが、やがて彫刻や絵画と同じように速度や強弱、音色などに対比があり、劇的な感情の表出を特徴とする音楽と呼ばれるようになります。

 ヴィヴァルディの生い立ちです。父は水の都、ヴェネツィア(Venezia)において理髪業兼音楽家で、後に聖マルコ大聖堂(St. Mark Cathedral)のヴァイオリン奏者となります。ヴィヴァルディもまたこうした恵まれた環境で育ちます。15歳のとき、聖職の道に入り21歳で副助祭、25歳で司祭に任じられます。1703年、ヴェネツィアの女子慈善院ピエタ(Ospedale della Pieta)に勤め、ヴァイオリン、作曲、合奏を教えます。女子生徒たちで組織する合唱団とオーケストラは日曜・祭日には必ず演奏会を開き、その優れた演奏の評判は外国にも知られるほどだったといわれます。

ヴェネツィアの風景画家マルコ・リッチ(Marco Ricci)に感化されたようです。リッチはヴェネツィア風景画法の創始者とももいわれています。「四季」はその影響を受けています。音で絵画を作るのです。ヴェニス育ちのヴィヴァルディからは、イタリアのさんさんとした光陽を思い浮かべるかもしれません。かならずしもそうではありません。「冬」の場合は銀色のようなピッチカート(pizzicato)がヴァイオリンで凍りそうな雨が奏でられます。「夏」の最終章では嵐と雷鳴が響き渡るという塩梅です。

ヴィヴァルディの曲は音色の美しさ、リズムの躍動性、劇的な要素の巧みな構成で知られます。ヴェネツィア音楽の特徴は、ローマの様式が荘重であったのに対し、旋律的で色彩的であり、ヴェネツィア人の気質とされる陽気さが加わります。ヴィヴァルディの作品にはそれが横溢しています。

ヴィヴァルディの曲のテーマは、主要三和音か主音の連続するものが多いのですが、新鮮なリズムが聴衆に印象づけます。彼の影響を最も受けたのがバッハ(J. S. Bach)といわれます。バッハはヴィヴァルディの作品を手本として10曲ほどを編曲しています。そこから新しい協奏曲の形式を学んだといわれます。

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心に残る名曲  その百十 トマス・ルイス・デ・ビクトリア 「アヴェマリア」

Last Updated on 2018年11月8日 by 成田滋

トマス・ルイス・ビクトリア(Tomás Luis de Victoria)は1548年の生まれ。黄金世紀スペインの生んだルネサンス音楽最大の作曲家の一人です。パレストリーナやラッソらと並ぶルネッサンス宗教音楽の大家の一人です。

 少年時代にマドリッド郊外にあるアビラ(Avila)大聖堂の聖歌隊に入ります。フェリペ二世(Felipe II)の奨学金を得てローマに行きイエズス会(Society of Jesus)の会士となります。神学、音楽、ラテン語などを学び、その間パレストリーナの知遇を得たといわれます。イエズス会の修道院で一連の楽長職を務めたのち、1575年に司祭として叙階されます。

1586年にスペインに帰国し、マドリッド(Madrid)のデスカルサス・レアレス女子修道会(Monasterio de las Descalzas Reales)の一員となります。ビクトリアは終生、この修道会にとどまり、司祭・作曲家・歌手・合唱指揮者・オルガニストなどの役割を務めます。

ビクトリアは後期ルネサンス においては最もすぐれた宗教音楽の作曲家といわれます。数多くの評者がビクトリア作品に、「神秘的な烈しさと直接に感情に訴えかけてくるものがある」と云っています。これらの特徴は、ビクトリアの偉大な同時代のイタリア人作曲家、パレストリーナの作品には見当たらないようです。

様式的にみるとビクトリア作品は、多くの同時代の作曲家と同様の凝った対位法は遠ざけて、単純な旋律とホモフォニックな楽想を好んでいるようですが、それでもなお多種多彩なリズムの変化や、驚くほどの明暗の対比を表現しています。旋律の構成や不協和音の使い方はパレストリーナよりもずっと自由のような印象を受けます。

ビクトリアの最も美しく、かつ最も洗練された作品の一つが「死者のためのミサ曲」です。この作品は、皇太后マリアの葬礼のために作曲されたとあります。1編の世俗曲を手懸けなかったほど、独自の作風を備えた楽曲は特筆されます。

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心に残る名曲  その百九 グレゴリオ・アレグリ 「ミゼレーレ」

Last Updated on 2018年11月6日 by 成田滋

アレグリ(Gregorio Allegri)は1582年生まれのイタリアの司祭、歌手、そして作曲家です。聖歌隊の一員として音楽を学びます。やがて誓願をたててアドリア海に面するフェルモ大聖堂(Duomo di Fermo)より聖職禄にあずかります。誓願とは、神に清貧、貞潔、従順の三つの誓いをたて聖職に就くことです。フェルモにおいて数多くのモテットやその他の宗教曲を作曲します。やがてヴァティカン(Vatican)のシスティーナ礼拝堂(Cappella Sistina)聖歌隊にコントラルト(contralto)歌手の地位を得て1629年から没するまでその地位に就きました。コントラルトとはテノールよりも高い音域のことです。

 彼の作品には、5声のための教会コンチェルト、6声のためのモテット集、声のシンフォニア、その他ミサ曲や預言者エレミア(Jeremiah)の哀歌、さらに没後発表された沢山のモテットがあります。教会コンチェルトとは、オルガン伴奏などの楽器伴奏による宗教的声楽曲のことです。モテットは、イタリア初期バロック音楽の影響のもとで通奏低音を伴い、少人数での歌唱で歌われます。

アレグリは弦楽合奏のための作品を作曲した初期の作曲家の一人といわれます。また弦楽四重奏曲の初期における重要な作曲者とも考えられています。システィーナ礼拝堂聖歌隊のために書いた声楽作品は、パレストリーナ様式を受け継いではいますが、単純な様式とはいえ一切の装飾が排除されています。

群を抜いて有名なのが「ミゼレーレ(Miserere mei Deus)」です。アレグリの傑作といわれます。「神よ我を憐れみたまえ」という旧約聖書の詩篇第51篇(Psalm)から採られています。「ミゼレーレ」では、合唱の一方は4声、もう一方は5声からなる二重合唱のために作曲されています。合唱団の片方が聖歌の「ミゼレーレ」の原曲を歌うと、離れたところに位置するもう一つの隊員が、それに合わせて装飾音型で聖句の「講解」を歌います。

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心に残る名曲 その百八 ジョヴァンニ・ダ・パレストリーナ 「教皇マルチェルスのミサ曲」

Last Updated on 2018年11月5日 by 成田滋

16世紀後半、最大の教会音楽家がパレストリーナ(Giovanni Pierluigi da Palestrina)です。パレストリーナは北ヨーロッパのポリフォニー様式の影響下にあった音楽家の世代に属します。イタリアにおけるルネサンスの時期、音楽は今のオランダやベルギー、北フランスのフランドル(Flandre)が中心でありました。ローマ教皇庁の音楽隊にもフランドルの音楽家を招くという有様でもありました。ところが、パレストリーナはイタリア人音楽家として大きな名声を得て教皇庁も無視できない存在となります。やがて、イタリアでポリフォニー様式が支配的地位を得ていく理由は、前述した作曲家ジョスカン・デ・プレ(Josquin Des Prez)の影響によるところが多いといわれます。

 パレストリーナ作品の大部分をなす教会音楽は、均整のとれた構成、静かに流れるおおらかな旋律、荘重で厳粛な典礼性を有しています。グレゴリオ聖歌に次ぐ典礼音楽の模範となっています。作品はミサ曲105曲、モテット375曲、マニフィカート35曲、宗教的マドリガル50曲、世俗的マドリガル90曲に及びます。ほとんどの作品が無伴奏合唱音楽の形態を持ち、4〜5声部が一般的です。

初期の作品は、一般にフランドル楽派の技巧的対位法を駆使しています。中期には歌詞の理解、楽曲の構成に高い統一がみられます。これがパレストリーナの独自の形式となります。後期になるとマドリガルの適用で2重唱の技法が輝かしい響きとなり、ラッソのような主観的で激情的な表現をしません。

パレストリーナの音楽の基礎は、ルネッサンス期の声楽ポリフォニーにおける模倣対位法の技法です。自然に流れる全音階的な美しさで知られます。旋律はきわめて厳格な声部進行の原則を保っています。跳躍も長・短3度、完全4度、5度、8度までとなっています。数多くの教会音楽を作曲し、中でも「教皇マルチェルスのミサ曲」(Missa Papae Marcelli)は彼の代表作とされています。

一種の抑制された静観的な雰囲気は、彼の言葉に対する信仰から発していると思われます。新しい表現の分野や様式を開拓するのではなく、あくまで伝統的な技法によって声楽ポリフォニーの理想を追い求めているかのようです。

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心に残る名曲 その百七 ジョスカン・デ・プレ 「祝福されし聖処女のミサ」

Last Updated on 2018年11月2日 by 成田滋

ルネサンス最盛期のフランスの作曲家、声楽家がジョスカン・デ・プレ(Josquin Des Prez) です。フランドル楽派の音楽形式を確立し、ヨーロッパ中に広げた功績があります。


 デ・プレは1474~79年までミラノのスフォルツァ公(Ludovico Maria Sforza)の聖歌隊の歌手を務めたのち,1486~94年頃までローマ教皇礼拝堂の聖歌隊員となります。1489年にノートル・ダム教会(Notre-Dame)及びサント・メール( Saint Omer)教会、サン・ギラン(Saint Ghislain)教会、1493年にはバス・イトル(Basse Yttre) 教会及びエノーのフラーヌ(Frasnes)教会 、1494年には、カンブレのサン・ゲリ( Saint Gery) 教会の聖職禄を認められており、1494年にはカンブレで実際に聖職に就いた記録が残されています。

1503年にはパトロンであったフェララ (Ferrara)のエステ公エルコレ1世(Ercole I d’Este)の楽長に任ぜられ,その後ハプスブルク家(Haus Habsburg)の皇帝マクシミリアン1世(Maximilian I)の保護を受け,経済的に保障され作曲活動の晩年を送ります。

ミサ曲,モテト,シャンソンなど多くの作品を残しますが,ミサ曲「祝福されし聖処女のミサ」(Missa de beata virgine)、「パンジェ・リングァ」(Pange Lingua)、「平安を与えたまえ」,「ミゼレーレ」(Miserere mei Deus)などが特に有名です。

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心に残る名曲 その百六 オルランド・ディ・ラッソ その2 「マトナの君よ」

Last Updated on 2018年11月1日 by 成田滋

 ラッソの作品約1,200曲の中の一つが「マトナの君よ」(Matona, mia cara)です。フランドル楽派(Flemish School)の伝統である対位法を基礎にとしながら劇的な情緒表現がこの作品に顕著にみられます。フランドル楽派とは、15〜16世紀のルネッサンス期(Renaissance)にヨーロッパで活躍した楽派です。フランドルとは、今のオランダ、ベルギー、そして北フランスを含む低地地方です。この楽派はモテット(Motet)やミサ(Mass)などの教会音楽、さらにシャンソン、マドリガルなどの世俗的な音楽の分野で活躍し、主として声楽ポリフォニー様式によっています。


 モテットはラッソの作品中でもっとも重要なジャンルとなっています。彼の音楽語法のすべてが示されているといわれます。モテットの語源ですが、言葉を意味するフランス語の「Mot」に由来します。モテットは、中世およびルネッサンス時代の最も重要な楽曲形式です。16世紀に完成した「通模倣様式」(through-imitation style)による多声部分による教会用ポリフォニー、いわゆる多声唱曲がモテットです。

 通模倣様式とは、ルネサンス音楽期における作曲技法です。 各声部がまったく均等な関係で模倣を行う多声作曲様式のことです。いずれかの声部が定った旋律を保持し,他の声部がそれに対位する定旋律を歌います。ルネッサンス期のモテットは4声部が一般的ですが、ラテン語による典礼歌詞では4〜6声部の合唱曲が主流となります。ラテン語の宗教詩とフランス語の恋愛詩が一緒になり、宗教的要素と世俗的要素が共存していきます。

 ラッソは、当時のルネッサンス人文主義の影響を受けたようです。ルネッサンスとはギリシアやローマの文化を復興しようとする文化運動で、14世紀頃にイタリアに始まりヨーロッパに広がります。「文芸復興」とも呼ばれます。人文主義運動とも云われます。音楽と言葉の結びつきに強い関心を示し、歌詞に対する絵画的な、あるいは劇的な感情表現を強く打ち出したのがラッソです。「マトナの君よ」は、田舎者の兵士がマドンナをくどく歌です。強弱のメリハリがきき、主旋律が4回繰り返され、毎回どこかの音を変えている複雑な音程です。

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