アメリカ合衆国とニックネームの由来 その11 The Peach State

ジョージア(State of Georgia)は想い出の州です。私と家族が建国二百年(Bicentennial)の翌年、1977年6月に始めてアメリカに渡ったとき、三か月ではありましたが暮らしたところです。ステイトボロ(Stateboro)という小さな街です。国際ローターリー財団から奨学金を得て、英語の研修でこの街にあるGeorgia Southern Collegeで学びました。

財団はこの小さなリベラルアーツの大学を50名の奨学生の研修場所として指定したのです。当時の大統領はジョージア出身の民主党員であったジミー・カーター(James Earl “Jimmy” Carter)でした。まだ建国二百年の余波が感じられた頃です。

温暖な州で、午後3時頃になると決まって雷雨(thunderstorm)がやってきました。ラグビーボールのようなスイカやメロン、そして桃(peach)がトラックで売りに来ます。 後にこの州のニックネームが「桃の州, The Peach State」であることを知りました。「南部のおもてなし」(Southern Hospitality)は母音を強調する喋り方でスローな話し方に表れ、独特な長閑さを感じたものです。

ジョージアの桃の話題です。日本の桃のようにヤワではありません。選果工場ではリンゴのように機械で洗浄され選別され箱詰めされて出荷されます。一口かじるとかなりの歯ごたえがあります。スーパーマーケットでは山のように積まれて売られています。州を代表する果物と指定されています。

ジョージアのもう一つのニックネームは「The Goober State」です。Gooberとはなんのことはない「ピーナツ(peanut)」の古めかしい言葉です。ピーナツはジョージア州の公式な農産物となっています。

ステイトボロから東に一時間走るとサバンナ市(Savannah)があります。昔は綿花の輸出港であり、奴隷貿易の拠点でありました。歴史的な町並みや建築物が再生され、観光都市としても栄えています。ステイトボロから北西に向かうとオーガスタ(Augusta)があります。マスターズ・トーナメント(Masters Tournament)が開催される街でもあります。毎年4月2週目の日曜日が最終日です。ジャック・ニクラス(Jack Nicklaus)は最多優勝の六回、US Openで四回優勝し、「帝王(the great)」の名に相応しい活躍をしました。The World Golf Hall of Fame & Museumには次のようなニクラスを讃えるフレーズがあります。

Nicklaus completed the ultimate champion’s profile by being a gracious loser. He finished second 19 times in majors, but always gave credit to the winner. Win or lose, Jack Nicklaus was the greatest.

アメリカ合衆国とニックネームの由来 Intermission 「親睦会とパトラック」

今は、都市では高低層マンションで生活するのが当たり前となりました。若い人は駅に近い所を選び、高齢者は持ち家の維持や買い物が大変なのでマンションに移りがちになります。このような住環境の変化によって、「向こう三軒両隣」というフレーズは聞かれなくなりました。住民の横の繋がりは疎遠になりがちになっています。

私は昨年、長屋のように40世帯が暮らす自分のアパートで始めて親睦会をお世話しました。この集まりのために幹事のわたしたちがしたことは管理会社から飲み物を提供してもらうこと、組合の管理費から数万円を支出して焼き肉の材料の買い出しをしたり、住居内の全ての子供へお土産を用意することでした。町内会の自主防災組織からは椅子と長テーブルを借りました。

親睦会に参加する世帯は6人分の一品を持参するというものでした。20世帯が参加したので20の料理を楽しむことになりました。いわばバフェスタイルの親睦会です。このような持ち寄りの食事会はパトラック(potluck)と呼ばれます。ポトラックは準備が楽でしかも住民が膳を持ち寄ることで会話がはずむのです。potluckには「あり合わせのもの」という意味もあります。

佐伯泰英の小説「酔いどれ小籐次」にもポトラックの光景が登場します。短く紹介しましょう。江戸は鎌倉河岸の大店から角樽と初鰹が新兵衛長屋に住む主人公の小籐次に届けられます。小籐次が大きな働きをしたそのお礼です。小籐次が近所にお裾分けをしようと鰹をさばいていると、長屋の住人勝五郎が声をかけます。

勝五郎 「酔いどれの旦那、井戸端に長屋中の膳を持ち出して、全員で涼みながら酒を飲むってのはどうだ」
小籐次 「悪くない趣向じゃな、」

新兵衛長屋の空き地に筵が敷かれると、住人が夕餉に用意していた膳を銘々抱えて筵の上に並べ、あちこらこちらに行灯が置かれて蚊遣りが焚かれます。

長屋の住人 「お祭りの縁日のようだな」

そこにすっかり惚けて子供にかえった住人の一人、新兵衛が娘のお麻に連れられてきます。

お麻 「お父っちゃん、鰹よ!
新兵衛 「ととか、ととじゃな、、、、このととうまい、」

無垢の赤子のような新兵衛も長屋のみんなに囲まれて初鰹と酒の相伴に預かるのです。「とと」とは幼児語で魚のことです。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その10 The Sunshine State

日本でも馴染みのある州の一つがフロリダ州です。ニックネームは「The Sunshine State」。一般のアメリカ人にとっても一種、憧れの地です。引退した多くの人々が余生をおくりたいと願う州でもあります。オーランド(Orlando)にあるディスニー・ワールド(Disney World)、ケネディ宇宙センター、デイトナ・ビーチ(Datona Beach)などが有名です。ところが、大西洋とメキシコ湾(Gulf of Mexico)に面するフロリダはしばしばハリケーン(hurricane)にも襲われるところです。

ここ20年位に州を襲ったハリケーンのことです。2004年にフロリダ州は4つの記録的なハリケーンに襲われます。8月のハリケーン・チャーリー(Hurricane Charlie)、9月のハリケーン・フランシス(Hurricane Francis)、同じく9月のハリケーン・アイバン(Hurricane Ivan)および9月25日から26日のハリケーン・ジャンヌ(Hurricane Jeanne)です。この4つのハリケーンによる被災額は450億ドルちといわれました。

さらに、2005年7月のハリケーン・デニス(Hurricane Dennis)は11か月の間で5番目のものとなり、8月のハリケーン・カトリーナ(Hurricane Katrina)はルイジアナ州全域とフロリダ州南部を通過し、9月のハリケーン・リタ(Hurricane Rita)はフロリダ全体を襲います。10月のハリケーン・ウィルマ)Hurricane Wilma)は、被害届出窓口を5年間設けたというほど甚大な被害を及ぼします。観測史上最も強烈なハリケーンの一つとして、フロリダ州の歴史でも2番目に損害額の大きなハリケーンになります。なお、アメリカでは従来はハリケーンに女性の名をつけていましたが、最近では男性名と交互に用いるようになっています。

フロリダの経済は前述しましたが、観光産業、農業、交通産業などです。オレンジ、トマト、いちご、サトウキビが主要な作物となっています。フロリダには先住民族としてティムクワン族(Timucuan)やセミノール族 (Seminole)がジョージア(Georgia)やアラバマ(Alabama)から移住し、湿地帯に定住しています。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その9 The First State

アメリカ建国に関わった13の植民地のうちで、合衆国憲法を1787年12月に最初に批准したのがデラウェア州(The State of Delaware)です。それでこの州のニックネームは「First State」として知られています。その面積はロードアイランド州に次いで全米で二番目に小さい州です。

デラウェア州のもともとの住民はレナペ族(Lenape)ですが、ヨーロッパから植民してきた人々からデラウェア族と呼ばれていたようです。イギリス植民地総督デラウェア(De La Warr)にちなむという説もあります。州都はドーバー(Dover)です。1683年にクエーカー(Quaker)教徒のウィリアム・ペン(William Penn)らの信徒とともに建設した町であり、クエーカー教徒の大規模なコミュニティが存在していたといわれます。州都はドーバー(Dover)です。クエーカーはキリスト友会(Society of Friends)ともいわれ、「信仰的証し」を主要な信念としています。証しには平和や男女・民族の平等、質素な生活、誠実な個人を強調します。

デラウェア州の会社法は極めて著名です。他州に比べ、会社の設立や解散が容易で、多くの判例があるため裁判が予測可能などといった特徴を持ちます。ニューヨーク証券取引所(New York Stock Exchange)で上場している会社の半数以上、フォーチュン500(Fortune 500)に載る会社の63%がデラウェア州の会社法に準拠して設立されていると言われています。例えば、2015年12月にダウ・ケミカル (Dow Chemical )との合併を発表し世界最大の化学製造会社となったデュポン・ヌムール(Pont de Nemours)など機械、繊維、食品加工などの生産業の集積が見られます。その他、IBM、AIU保険会社など多くの有名企業が本社をここにおいています。デラウェアは租税回避地(tax haven)なのです。

州鳥はニワトリ(Blue hen chicken)でブロイラーの生産が盛んです。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その8 The Constitution State

合衆国北東部はニューイングランド地方(New England) と呼ばれています。コネティカット州(State of Connecticut) はその南部に位置する小さな州です。州都はハートフォード (Hartford)。もともとはオランダ人が最初に入植した地といわれます。

「コネチカット」という地名は、テームズ川(Thames River)流域で居住していた先住民族のモヘガン族(Mohegan) の言葉で、「長い川が流れる土地(Quinnehtukqut–long tidal river)」から由来するといわれます。

州の正式なニックネームが作られたのは1959年の議会です。イギリスからの独立を目指し、憲法草案は1638年の「The Fundamental Orders」と呼ばれたコネティカットの立法を基にして作られたといわれます。独立の138年前です。それでニックネームを「The Constitution State」としたというわけです。

コネチカット州の別のニックネームとして「The Nutmeg State」というのがあります「Nutmeg」とは「ナツメグ」のことです。 種子を粉末にして香辛料として使われています。植民地時代から、船員は長い航海のときに、現地より香辛料を運んできたといわれます。胡椒もそうです。「ナツメグ」はコネチカットでも移民によって栽培されヨーロッパに輸出されていたことがわかります。そうした歴史が新しいニックネームを生み出したといわれます。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その7 The Centennial State

コロラド州は「The Centennial State」というニックネームを持っています。アメリカの独立宣言が発布された1776年から100年経った1876年に州として昇格します。それを記念してつけられたのです。「Centennial」とは百年を意味します。「Bicentennial」は二百年。1976年は建国を盛大に祝った年でした。

「Colorado」とはスペイン語で「赤茶けた」という意味です。スペイン人の開拓者がRío Colorado(コロラド川)を「ruddy」、「赤ずんだ川」と呼んでからだそうです。

州の北西端には恐竜の発掘地である国立恐竜モニュメント(Dinosaurs National Monument)があります。州の東には大平原(Great Plain)が広がり、肉牛、羊、鶏の飼育が盛んでトウモロコシ、小麦、牧草、果樹の大規模栽培も行われています。中央から西部にかけて、ロッキー山脈(Rocky Mountains)が南北に走っています。

州都および人口最大都市は、ロッキー山脈の東側にあるデンバー(Denver)です。デンバーの高度は、約1,600メートルとなっているので「Mile-High City」と呼ばれています

コロラド州のニックネームとして、「Colorful Colorado」というのもあります。州全体が美しい景色に彩られているからです。山は勿論、川や平原の美は観光客を魅了してやみません。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その6 The Golden State

日本人にとって最も親しみのある州の一つがカリフォルニア(State of California)です。1846年に勃発したアメリカ-メキシコ戦争 (Mexican-American War)の後、1848年にメキシコはこの地域をアメリカに譲渡します。この戦争によって、さらにメキシコは、ネバダ(Nevada)、ユタ(Utah)と、アリゾナ(Arizona)、ニューメキシコ(New Mexico)、ワイオミング(Wyoming)、コロラド(Colorado)の大半の管理権をアメリカに与えます。アメリカはこれに対し1,500万ドルと債務放棄325万ドルを支払います。こうした措置によってメキシコは国土の 1/3 を失うことになります。

  1848年にカリフォルニアやアイダホ(Idaho)で金が発見されると、ゴールドラッシュ(Gold Rush)が始まります。1848年から1952年にかけて約25万人が押し寄せたという統計があります。さらに1882年頃からは中国人や日本人の移住が始まります。従事したのは主に農業です。日本人は主にロスアンジェルス郡(Los Angeles County)、オレンジ郡(Orange County)、サンタクララ郡(Santa Clara County)に移住します。

1913年頃になりますとカリフォルニア州は、排日土地法を制定し日系1世は土地所有が制限されます。さらに公立学校への日本人学童の入学が拒否され日本人排斥運動が起こります。石川好の「カリフォルニア・ストーリー」や「ストロベリー・ロード」などのノンフィクション小説では人種差別にまつわる日米移民史や日米関係が記されています。

本題のニックネームですが、ゴールドラッシュに始まる人口の増大や農業や鉱業の発展は「The Golden State」を揺るぎないものとしています。州の色は金色、州の鉱石はもちろん金となっています。カリフォルニアの経済は、国と比較したほうがよいほど巨大です。個人所得は合衆国全体を上回り、1965年には工業製品の輸出ではニューヨーク州にとってかわります。航空機、農業、ワイン醸造、映画などの娯楽産業の発展はよく知られているところです。一つの大きな国家のような体をなすのがカリフォルニアです。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その5 The Grand Canyon State

アリゾナといえば大峡谷(Grand Canyon)で知られています。コロラド川(Colorado River)が600万年をかけて削りとった峡谷です。南北に363キロ、東西に6キロから29キロの幅で深さは1.6キロという大地溝帯です。20億年といわれる地球の歴史を雄弁に物語っているようです。毎年500万人の観光客を魅了してやみません。

アリゾナの州都フェニックス(Phoenix)から北へ車で2時間くらいの所にあるセドーナ(Sedona)を訪れたことがあります。セドナは、素晴らしい景観で有名なオーク・クリーク・キャニオン(Oak Creek Canyon) の入り口にあたり、乾燥した砂漠地帯の多いアリゾナ州の中で木々が生い茂る水辺の景色を楽しむこともできます。オーク・クリーク・キャニオンを通り抜ける約20 kmの州道はアリゾナ州最初の「シーニック・ハイウェイ(scenic highway–美しき景観のハイウェイ)」として認定されています。

あたりは赤茶けた岩山が取り囲み、レッドロックの山道を登って行き着くとネイティブ・アメリカンのハバスパイ族(Havaspai)の遺跡が点在しています。彼らはオーク・クリーク・キャニオンで灌漑農耕に従事していた先住民族です。エネルギーや波動を受けとれるところとして先祖から聖地として崇めてきた所です。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その4 The Natural State

アーカンソー州(State of Arkansas)はアメリカ内陸高原を構成するオザク高原(Ozark Mountains)やウォシタ山地 (Ouachita Mountains))のある山岳地帯から、東部のミシシッピ川(Mississippi River)やアーカンソー・デルタ(Arkansas Delta)のある低地帯まで多様な地形を有しています。州都でかつ人口最大の都市は、州中央部に位置するリトルロック市(Little Rock)です。元大統領ビル・クリントン(William “Bill” Clinton)の出身地です。州名の由来ですが、スー族(Sioux)の言葉で「南風の人々」を意味する「アカカズ」(akakaze)からきたという説です。

アーカンソー州で使われる言葉に「オザク(Ozark)があります。 Ozarkという言葉は、Encyclopædia Britannicaによれば、フランス人狩猟業者の拠点であった「Aux Arc」から由来したといわれます。その後「Ozark」は高原に住む人々の特徴ある文化、建築および方言にも呼称として使われています。1700年代にフランス人開拓者に続いて、19世紀以来、多くのスコットランド=アイルランド系(Scottish-Irish)の子孫がこの地域に居住してきます。

この地域の人々は周辺の州の人々よりも互いに共通点が多といわれます。 Ozarkの文化はアパラチア山脈(Appalachian Mountains)や「ディープサウス(Deep South)」あるいはアップランド・サウス(Upland South)の文化に似ているといわれます。 Ozarkの宗教は保守的であり、あるいは個人主義的なアッセンブリーズ・オブ・ゴッド(Assemblies of God)、南部バプテスト連盟(Southern Baptist)、および他のプロテスタント系ペンテコステ運動(Pentecost)が活発だといわれます。通常こうした宗教の考え方は純福音主義(Full Gospel) と呼ばれます。

アーカンソー州のニックネームは「The Natural State」。自然あふれる州といわれます。湖、河川、森に恵まれ、各種の野生動物が5つの国立公園、3つの国立森林公園、52もある州立公園に生息しています。Ozark Mountainsは最初の国立自然保護地域として知られています。

「The Natural State」についてのエピソードがあります。リトルロック市の郊外に世界最大のスーパーマーケットチェーンであり、売上額で世界最大の企業であるウォルマート(Wal-Mart)があります。世界15か国に進出し、日本では西友を子会社化しています。ウォルマートのもう一つの顔は、自然保護地域のために多額の寄附をしていることです。ウォルマートが有する土地の大きさに対して寄附するという行為です。その規模は、コネチカット州(Conneticutte)、ロードアイランド州(Rohde Island)、デラウエア州(Delaware)の大きさに匹敵するといわれます。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その3 The Last Frontier

1960年代まで、アメリカやヨーロッパに行くときは給油するためにアラスカ(Alaska)の アンカレッジ空港(Anchorage)に立ち寄ったものです。航空機の発達により現在はシベリア経由に変更され、アンカレッジ経由の北回りヨーロッパ線は1991年で廃止されます。アラスカの州都はジュノー(Juneau)です。

Alaskaという地名の由来です。アラスカとカムチャツカ(Kamchatka)の間にあるアリューシャン列島(Aleutian Islands)の先住民族、アレウト族(Aleut)、イヌイット(Inuit)、あるいはエスキモー(Eskimo)が使っていた「半島」を意味する「Alakshak」からきているという説です。

1867年3月にアメリカは、ロシア帝国よりアラスカを購入します。当時アラスカ購入の交渉にあたったのは、国務長官であったウィリアム・スワード(William H. Seward)です。720万ドル、今でいう8億円をロシアに支払ったといわれます。アラスカの購入は、議会ではスワードの愚行(Secretary Seward’s folly)と揶揄されたのですが、その後、豊富な天然資源が見つかったり、旧ソ連に対する国防上重要な役割を果たすことが証明され、スワードの業績は高く評価されるようになります。スワードはその後もハワイ(Hawaii)やサモア(Samoa)、グアム(Guam)、プエルトリコ(Puerto Rico)、パナマ(Panama)、フィリピン(Philippines)などの併合を提案していきます。

アラスカは他の地域から遠く離れ、気候や地理が厳しく、合衆国領となってからも開発や人の移住が進みませんでした。そのような理由で、公式なニックネームは「最後のフロンティア(The Last Frontier)」となっています。「The Great Land」とか「The Land of the Midnight Sun」という呼び名もあります。

漁業では鮭が主要な漁獲物で、オヒョウ、鰊、銀だら、蟹なども豊富に獲れます。大きな鮭缶工場もあります。鉱業では石油、天然ガス、銀、銅などで知られ、石油の産出はテキサス州に次いで二番目となっています。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その2 The Cotton State

合衆国の州につけられたニックネームをアルファベット順に紹介することにします。アラバマ州(Alabama) といえばなにを想い浮かべるでしょうか。「公民権運動(Civil Right)」、と答えられる人は相当なアメリカ通です。アラバマ州都はモンゴメリー(Montgomery)。その他の大きな都市と言えばハンツビル(Huntsville)です。NASAの中枢的存在であるマーシャル宇宙飛行センター(Marshall Space Flight Center)で知られています。

Alabamaという名称の由来は、チョクトー族(Choctaw)が使っていたAlabayamule(茂みを切り開く)からきています。州の大半はアラバマ川流域で、北端部にはテネシー川(Tennessee River)が、東端部はチャタフーチ川(Chatahoochee River)が流れています。

温湿暖気候に恵まれ、松などの森林が多く生育しています。南部の中心に位置するので「Heart of Dixie」とも呼ばれています。Dixieとは「南」とか「南部」という意味です。そうです。Dixie Land Jazzの生まれた所です。

州都のモンゴメリーはかつて南北戦争(Civil War)当時、南部連合(Confederate States)の首都でありました。黒人の比率が高く、州全体の26%を占めています。かつてアラバマの中央部は綿花地帯(Cotton Belt)と呼ばれました。そのようなわけで州のニックネームは 「The Cotton State」。ただし、このニックネームは州公認ではありません。その他のニックネームとして「The Yellowhammer State」というのもあります。「Yellowhammer」とはキアオジというホオジロ科の鳥で、文字通り黄色い羽で知られています。南北戦争当時、兵士達の軍服には黄色い線が入っていたといわれます。

もう一つのニックネームに「Stars Fell on Alabama」というのがあります。これは1833年11月12日から13日にかけて巨大な流星群がアラバマ州で目撃されたからです。2002年のライセンスプレートにもこのフレーズが印字されます。

アメリカ合衆国とニックネームの由来 その1 「合州国」

誠に些細なことから始めます。私の小さな誇りは沢山のアメリカの学校を見て回わり、そのお陰で沢山の友人や知人ができたことです。今もクリスマスカードを交換したり、時折メールやフェイスブックで消息を確かめ合っています。中には、お互いに齢を重ねているので、いざ会うとなると果たしてその面影を思い出せるかどうか少々心配ともなります。

三人の子供も結婚し、子育てに仕事に忙しくしています。長男はマサチューセッツ(Commonwealth of Massachusetts)州都のボストン(Boston)の近くで二人の息子を育てています。長女と次女はウィスコンシン(State of Wisconsin)州都のマディソン(Madison)で、それぞれ二人の娘と一人の息子を育てています。そのような訳でアメリカに友人や知人、そして親戚ができたのです。

出張や私的な旅行で沢山の州を訪ねることができました。州といってもほんの一部の町や村を訪れただけです。とても一つひとつの州を理解したとはいえません。手許にアメリカでの生活で手に入れた古いライセンスプレート(license plate)があります。私の趣味の一つはプレートの蒐集です。アメリカでは、プレートの期限が切れるとそれを所有してよいのです。それを一枚一枚手に取ると、各州の特徴や売りがわかります。州のニックネームがついているのが多くデザインも結構凝っているのが面白いところです。

アメリカはその名のとおり州が集まる合衆国です。「合州国」という名称のほうがわかりやすいようです。州は自分の憲法を持ち、最高裁判所があり、連邦政府が出す大統領令に異議を唱えることができます。最近では3月6日にイスラム教徒が大多数を占める7カ国の市民を対象にした入国禁止令に大統領が署名しました。それに対してニューヨーク(New York)やマサチューセッツ、カリフォルニア(California)、ミシガン(Michigan)、ヴァジニア(Virginia)、ハワイ(Hawaii)、ワシントン(Washington)などの州が異議をとなえました。州は、このように自治権を有し、あたかも国のような統治形態をとっているのです。教育行政ももちろん州に責任があります。それだけに、「アメリカの教育は、、、」といった問いに答えるのは至難の業となります。連邦政府の役割とは軍事、外交、そして通貨制度です。

これから数ヶ月にわたり、アメリカ「合州国」のニックネームを辿り、そのいわれや州の歴史を振り返ることにします。

ユダヤ人と私 その41 悪意のこもったジョーク

強制収容所にいた監視者であるカポー(Kapo)や厨房係はユダヤ人の少数者でありました。収容所内では彼らは出世組といわれていたようです。彼らの振る舞いに対して、恨みや妬みに凝り固まっていた多数者である非収容者は、さまざまなガス抜きという心理的反応で応じていたといわれます。それは時に悪意のこもったジョークだったります。例えばこんなジョークが作られたといわれます。

二人の非収容者がおしゃべりをしていて、話題がある男に及びます。男はまさに出世組といわれるカポーでありました。一人が言うのです。

「俺はあの男を知っているぜ。あいつは市で一番大きな銀行の頭取だったんだ。なのにここではカポー風を吹かしやがっている。」

実のところカポーや厨房係は一見、出世組に見えたようですが、親衛隊は定期的に出世組を交代させ、新たな出世組に替えたといいます。収容所の秘密が漏れるのを防ぐために、それまでの出世組は消されていったということです。

女性のカポーもまた仲間から憎まれます。収容所内で親衛隊員に体を与えてまで生きようとします。こうして親衛隊に忠誠を尽くして衣食住の面で特権を与えられ、つかの間の待遇を楽しんだカポーもまた多くのユダヤ人と同じ運命を辿っていきます。よしんば行きながらえたとしても、過酷な仕打ち、たとえば髪を刈り上げられるとか、見せしめに合うといった行為が待っていました。

「ユダヤ人と私」のシリーズはこれで一応お終いとします。

ユダヤ人と私 その40 「スープは底のほうから、、」

強制収容所生活のつかの間の楽しみは誠に貧しいながら,パンと水のようなスープにありつくときだったようです。スープの鍋底には僅かなジャガイモや豆が残っています。時には、ソーセージの切れ端もあったようです。作業現場では親衛隊の下部組織であったカポー(kapo)と呼ばれるユダヤ人の監督が囚人の指揮をとっていました。同じくユダヤ人の非収容者である厨房係がパンきれを渡し、スープを鍋からすくっていたのです。その収容者は「底のほうからお願いします」と懇願したそうです。数粒の豆が皿に入るからです。

Majdenak

フランクルは前回の外科医との笑いの他に、仲間達と他愛のない滑稽な未来図を描いてみせています。誰しも解放されて、ふるさとに残した家族との再会を想い浮かべるという設定です。ふるさとに帰り、あるとき友人宅での夕食に招かれたとします。スープが給仕されるとき、ついうっかりその家の奥さんに作業現場でカポーに言うように「底のほうからお願いします」といってしまうんじゃないかって、、、」

「こうしたユーモアへの意思、ものごとをなんとか洒落のめそうとする試みは、いわばまやかしだ。だとしても、それは生きるためのまやかしだ」というようにフランクルは自虐的らしくいいます。収容所生活は極端なことばかりなので、苦しみの大小は問題ではないということを踏まえたとすると、生きるためにはこのような姿勢もあり得るのだ、とフランクは言います。

「こんな悲惨な状況の中では、誰もが人間性を失ってもおかしくはない。だが極限状態でも人間性を失わなかった者がいた。囚人たちは、時には演芸会を催して音楽を楽しみ、美しい夕焼けに心を奪われた。」

フランクルは、そうした姿を見て、人間には「創造する喜び」と「美や真理、愛などを体験する喜び」があると考えるのです。そして深刻な時ほど笑いが必要だというのです。ユーモアの題材を探し出すことで、現状打破の突破口があるとも言うのです。フランクルは、作曲家マーラー(Gustav Mahler)に心酔していたようです。

「ユーモアは人間だけに与えられた、神的といってもいいほどの崇高な能力である。」

ユダヤ人と私 その39 ヴィクトール・フランクルとユーモア

フランクルの強制収容所の体験記「夜と霧」には生き残った人々、亡くなっていった人々の心理と行動が克明に記されています。その中に人々に生きる力を与えた3つのことが書かれています。 それは日々祈る人、音楽を愛する人、そしてユーモアのセンスを持っているということです。

World War II. Auschwitz concentration camp: pile of glasses.

「部外者にとっては、収容所暮らしで自然や芸術に接することがあったと言うだけでもすでに驚きだろうが、ユーモアすらあったと言えば、もっと驚くだろう。もちろん、それはユーモアの萌芽でしかなく、ほんの数秒あるいは数分しかもたないもであったが、、」

「わたしたちがまだもっていた幻想は、ひとつまたひとつと潰えていった。そうなると、思いもよらない感情がこみあげた。やけくそのユーモアだ!」

「やけくそのユーモアの他もう一つ、わたしたちの心を占めた感情があった。好奇心だ。…ユーモアへの意志、ものごとをなんとか洒落のめそうとする試みは、いわばまやかしだ。だとしても、それは生きるためのまやかしだ。苦しみの大小は問題でないということをふまえたうえで、生きるためにはこのような姿勢もありうるのだ。」

「ひとりの気心の知れた外科医の仲間と建築現場で働いていたとき、わたしはこの仲間に少しずつユーモアを吹き込んだ。毎日、義務として最低ひとつは笑い話を作ろうと。それもいつか解放されふるさとに帰ってから起こるかもしれないことを想定して笑い話を作ろうと。」

「前もって言っておかねばならないが、作業現場では現場監督がやってくると監視兵はあわてて作業スピードを上げさせようとして、動け、動け、と怒鳴って労働者をせきたてた。さて私の話はこうだ。」
「あるときみは昔のようにオペ室で長丁場の胃の手術をしている。突然、オペ室のスタッフが叫びながら飛び込んでくる。「動け、動け、外科医長が来たぞ!」

ユダヤ人と私 その38 ヴィクトール・フランクルと現象学

フランクルの思想の形成には、初期現象学派のマックス・シェーラー(Max Scheler)やブレンターノ(Franz Brentano)といった哲学者の影響があることを前回述べました。この「現象学(phenomenology)」という学問のことです。ブリタニカ国際大百科事典から現象学の定義を引用してみます。

現象学とは、意識のうちで経験されるものとしての諸現象を直接的に探求し記述することで、それら諸現象の因果的説明に関する諸理論は抜きにして、できる限り未吟味の先入見や前提から自由になることである。

なかなか理解するのが手強い考え方です。

フライブルク大学(University of Freiburg)で教鞭をとっていたドイツの哲学者フッサール(Edmund Husserl)は現象学を次のように主張します。

現象学は意識の本質的な諸構造に関する学問であるが、このような現象を展開するためには、諸現象から経験的な科学によって研究される一切の単に事実的な諸事象を一掃することである。さらに、一切の構成的な諸解釈を捨て去ってこれを純粋化するのである。

シェーラーやブレンターノ、そしてフッサールらはドイツ観念論のような思弁による概念構成の哲学を退けます。そして経験的立場からの哲学を主張するのです。さらに、現象を心的現象と物的現象とに分け、この心的現象の根本的な特徴として「志向性Intentionalität)」という概念を導入して、「対象への関係」についての意識の働きに注目します。

いろいろな人々が空間や時間の問題、生活と科学との関係、他者や共同社会、歴史の問題に関して諸々の提言をしています。そのとき大事なのが、事実そのものを先入見なしに、ありのまま見つめ直すことが現象学の考えです。人間の体験の意味を問い直す現象学の根本精神は、現代における人間科学の方法として今日も定着しているといえます。

ユダヤ人と私 その37 ヴィクトール・フランクルとユーモア

1946年に出版されたナチス強制収容所での体験記が「夜と霧」(Man’s Search for Meaning)です。著者はヴィクトール・フランクル(Viktor E.Frankl)。アウシュヴィッツ–ビルケナウ(Auschwitz-Birkenau)から奇跡的に生還したユダヤ人の精神科医師です。
この著書の題名は、「Trotzdem Ja zum Leben sagen: Ein Psychologe erlebt das Konzentrationslager」。日本語訳すると『それでも人生に然りと言う: 一人の心理学者、強制収容所を体験する』となります。1956年にみすず書房から霜山徳爾氏によって翻訳されます。本邦で出版された題名は原題とは異なります。「夜と霧」という題名はナチスが出していた特別命令に由来します。夜陰に乗じ霧に紛れて秘密裏に実行され、ユダヤ人が神隠しのように消えて行く歴史的事実を表現する言い回しだ、といわれています。この著作にもユーモアが登場します。

フランクルの思想の基底は実は、収容所体験以前に培われています。それは高校時代に既にフロイト(Sigmund Freud)への手紙に論文を添付して読んで欲しいと依頼したというエピソードがあります。その原稿は2年後に国際精神分析学会誌に掲載されたというのです。それだけでもフランクの碩学さがうかがえるというものです。

フランクルはウィーン大学(Universität Wien)でアドラー(Alfred Adler)、初期現象学派の一人シェーラー(Max Scheler)、ブレンターノ(Franz Brentano)らの思想に触れていたことです。こうした著名な人々との交流の影響を受け、やがてフランクルは独自の理論を構築していきます。24歳のとき抑うつ症状のある若者のために「青少年相談所」を開設し学生や失業者の相談に応じます。

ウィーン大学病院での臨床体験を経て32歳のとき、ウィーン市内に精神科のクリニックを開業します。1941年にナチスから出頭命令がきますが、一年間の執行猶予がでます。そしてユダヤ人病院の精神科に勤務します。その間、それまで積み上げてきた事例とそれを基にして新しい理論をまとめます。それが後年に出版した「死と愛」という本です。これがデビュー作品といわれます。

ユダヤ人と私 その36 口をふさぐことを知らない人間

ユダヤ人は議論やディベートが好きな民族といわれます。一を語るのに十を言う癖があるといわれます。そのために饒舌を戒める諺が多いようです。討論は一種の芸術であるという人もいますが、饒舌には辟易するものです。

・人はしゃべることは生まれてすぐ覚えるが、黙することはなかなか覚えられない。

沈黙も言葉なのです。この言葉を学ぶと多くの語彙を増やすことができるといわれます。耳を傾けることによって学ぶことが多いということです。黙することは、喋ることよりも苦しいことです。黙することを教えられてこなかったからでしょう。

・口をふさぐことを知らない人間は戸が閉まらない家と変わらない。

口についての警句がユダヤ人の格言に多いのが目だちます。関連して思うのは、都議選中の防衛大臣の「防衛省、自衛隊、防衛大臣、自民党としてもお願いしたい」という放言です。公人意識が完全に不足しています。さらに選挙結果の後、安倍首相は次のように語っていました。

「今後、国政に関しては一時の停滞も許されない。内外に課題は山積している。反省すべき点はしっかりと反省しながら、謙虚に丁寧にしかし、やるべきことはしっかりと前に進めていかなければならない。」

このような殊勝な言葉を並べ、批判をかわそうとする姿勢は情けないことです。反省はいつも口先だけってことを多くの国民は嫌というほど知っています。なぜ敗北したのか、その分析を国民は知りたいのです。心から反省しないから、国政の課題に転嫁するのです。「戸が閉まらない家」というのは、心に隙があり、必ず誰かにかき回されるということです。

黙すること、口をふさぐことは、自分の立場をわきまえる人です。

ユダヤ人と私 その35 ユダヤ人の笑いと知恵の世界

具体的な小咄のことがジョーク(joke)、自虐的で単純な言葉遊びが駄洒落(pun)、人を和ませるような可笑味のことがユーモア(humour)といわれます。こうした笑いを誘う言葉の定義が本題ではありません。ユダヤ人の中で知られている笑いのフレーズから、人間の本質のようなことを考えてみたいのです。

日本語に「諧謔 」があります。ブリタニカ国際大百科事典で調べてみますと、「おもしろさと共感とが混り合った状況を描写すること」とあります。これはユーモアといってよいのだろうと思われます。ユダヤ人が創作したフレーズにもユーモアと才気とか精神といわれるエスプリ(esprit)がたっぷり込められています。

・理想のない教育は、未来のない現在と変わらない。

神が人間をつくり、人間の手に世界を委ねられたときに世界をより良いものにする責任を課せられたと教えられます。ユダヤ教では教えを守るだけでなく、つくりださねばならないといも教えられています。正義が行われる世界をつくるということです。

・エルサレムが滅びたのは教育が悪かったからである。

西暦70年、ローマ軍により市街のほか聖地であるエルサレム神殿も破壊されます。敗退とか滅びとは通常軍事力を指します。このユダヤ人の教えは、力ではなく民の力が不十分であったという反省が込められています。滅びは道徳や倫理の退廃、生活の奢侈や乱れなどもあったようです。すべて民の教育が体を成していなかったという教訓です。

・口よりも耳を高い地位につけよ。

人間は口によって滅びることはありますが、耳によって滅びた者はいません。昨今の国会議員の言動もすべて口による災いと報いです。口は自分を主張します。耳は人々の主張を聞きます。動物に耳や目が二つあり、口は一つであることは敵の攻撃に備え、狩りの時に大事なものはなにかを示唆しています。

ユダヤ人と私  その34 ユダヤ人と笑い

「ヘブル(Hebrew)」の語源を調べると、「ユーラテス川(River Euphrates)の向こうからきた人々」、「一方の側に立つ人」とあります。もともと難民のような者でした。こうした国籍を持たない民族は国家の保護が求められなかったはずです。居住地を求め仕事を得ることは困難を極め、自らの才覚によって生きる術を探さなければなりません。「Hebrew」といわれた人々は、こうして知識と知恵を必要とし学ぶことを尊ぶ民族であることも暗示しています。いろいろな経験をし、いろいろな見方を編みだし生きてきた人々であったはずです。

知識と知恵の源はなんといってもこれはタルムード(Talmud)といえます。タルムードには宗教や法律、哲学や道徳など人生と生活のあらゆる事柄について書かれている、いわばユダヤの知恵の宝庫といわれます。全部で二十巻におよび、12,000ページに及びます。タルムードはラビたちの教えがつまっていて、様々な議論や解説も書かれているといわれます。ラビには権威があるのです。同時に、実は書かれている言葉よりも、その書かれているものをどう考えるかということで、けんけんがくがくと議論することこそがユダヤ人の優秀さの下地になっているともいわれます。

中でもユダヤ人で特徴的な事の一つが、笑い、ユーモア(humour)好きでジョーク好きであることです。明治大学の鈴木健氏によるとユーモアには3つの理論ともいえるものがあります。第一が「優越理論」で余裕を見せる笑いといわれます。他人を笑うのはもちろん、自分自身も笑うという余裕すらあるといわれます。他人を笑うのは易しことです。自分を笑うことによって向上しようとする気概も感じさせてくれるのですから不思議です。社会や制度、政治を笑いによって矯正する働きもあります。

第二は「解消理論」です。これには心的な緊張緩和を促す笑いがあります。ユーモアによって対話を盛り上げたり、その場の緊張と解くことができます。綾小路きみまろの毒舌漫談がそうです。中高年世代の悲哀をユーモラスに語ります。「笑う門には福来る」もそうです。

第三が「不調和理論」は驚きを生みだす笑いとえます。97歳の年寄りと医師との会話です。
医師 「長生きの秘訣はなんですか?」 
 年寄り「死なないことだな。」

 医師 「長生きの秘訣はなんですか?」 
 年寄り「タバコを吸わないこと。」
 医師 「いつタバコを止めたのですか?」
 年寄り「去年だったかな、、」

医師が期待する答えが裏切られ、驚きに中にユーモアを感じるのです。惚けた話で可笑味が伝わります。