認知心理学の面白さ その七 クラーク・ハルとS-O-R理論とは

Last Updated on 2017年2月28日 by 成田滋

認知心理学に関して、一人の心理学者を紹介します。1918年にウィスコンシン大学から学位を授与され、学内でしばらく教鞭を執ったクラーク・ハル(Clark Hull)です。ハルは人間の心や情感などの仕組みをモデル化して、そこから行動を説明するという発想をします。

それはどういうことかといいますと、行動ではないとされてきた心的な現象をデータ化して分析するという方法を考えたのです。心理学における一つの体系的な方法として、目に見える行動ではない人間の内側で起きている心とか感情の働きを分析できると唱えます。これは「方法論的行動主義」と呼ばれ、後の心理学に大きな影響を与える革命的なことといわれます。

行動主義心理学の創始者がジョン・ワトソン(John Watson)とすれば、行動分析学の創始者はバラス・スキナー(Burrhus Skinner)といわれます。この二人に共通することは、一口でいえば「心理学が科学的であるために客観的に観察可能な行動を対象とすべきだ」というテーゼでしょう。これは急進的行動主義(radical behaviourism)と呼ばれます。心理学の目的は、行動の法則を定式化し行動を予測しそれを制御することであるという主張なのです。あまりにも言葉足らずですがそういうことです。

しかし、ハルは「行動の原理」(Principles of Behavior) という著作の中でS-R理論を改良したS-O-R理論(Stimulus-Organism-Response Theory)を提示します。この理論における有機体(Organism)が刺激・反応に影響を与える媒介変数によって、どうして学習効果の個人差や同一刺激に対する反応の個体差が生まれるのか、という疑問に答えることができると提案します。

認知心理学の面白さ その六 マックス・ベルトハイマーとゲシュタルト心理学

Last Updated on 2017年2月27日 by 成田滋

マックス・ベルトハイマー (Max Wertheimer)という心理学者のことです。ベルトハイマーはオーストリア-ハンガリーで生まれたユダヤ系の学者です。第一次大戦でドイツ陸軍に大佐として参加します。終戦後はベルリン大学で知覚の研究に従事します。やがてケーラーやコフカ (Kurt Koffka)とともにゲシュタルト心理学の発展に貢献します。

  ナチスのユダヤ人迫害を知るとベルトハイマーは家族とと共にチェコスロバキア (Czechoslovakia) の首都プラハ(Prague)にあったアメリカ領事館よりビザを取得し、 1933年9月にアメリカに亡命することになります。その後、ニューヨークでNew School for Social Researchという大学でゲシュタルト心理学の研究活動に従事します。

ゲシュタルト心理学では、あるまとまりを一つの形態(gestalt) として人々に印象づけ、それによって人々は判断したりします。そのためにときに実際とは違う認識をするのです。錯視はその一例です。ある若い婦人が老婆の横顔になったりします。「人はゲシュタルトごとの認知を自然に優先してしまう」のです。

こうして脳のクセを知っておくと、錯覚や安易な経験則への依存で失敗をすることがなくなります。「これは合理的な判断だろうか?」と冷静に考えるきっかけになります。ゲシュタルト心理学の果実は、商品のディスプレイとか誌面やウェブサイトのレイアウト、コンピューターのヒューマン・インターフェイス(human interface) など、いろいろな形で応用されています。ヒューマン・インターフェイスは見る側にとって自然に認識されるので目に心地よいのです。個別的な感覚刺激によってではなく、全体的な枠組みー形態によって人は物事を感じるのです。

認知心理学の面白さ その五 ウォルフガング・ケーラーとゲシュタルト心理学

Last Updated on 2017年2月25日 by 成田滋

ナチスのユダヤ人迫害の刃は、徹底していたといえそうです。ウォルフガング・ケーラー(Wolfgang Kohler)はエストニア(Estonia) のタリン (Tallinn)生まれのドイツ人心理学者です。ケーラーはユダヤ系でないのですが、ナチス(Nazi)の支配を逃れてアメリカに亡命した心理学者の一人です。彼はベルリン大学( Humboldt University of Berlin) にいたとき、ナチスによる同僚ユダヤ人教授の排斥に反対したのです。その経緯です。

1933年1月にアドルフ・ヒットラー(Adolf Hitler)に率いられたナチスドイツが政権に就きます。彼の所属する正式な党名は「National Socialist German Workers’ Party」といわれました。俗称はナチス党です。ナチス党はドイツ国内の大学からユダヤ系の教授陣を排斥しはじめます。その中にはアインシュタイン (Albert Einstein)らもいました。ケーラーは、有名な物理学者、マックス・プランク(Max Planck) らとともに1933年5月にヒトラーにユダヤ系教授の迫害や追放を直接抗議します。しかし事態は改善しません。結局ケーラーは1935年にアメリカに亡命しプランクはベルリンに残ります。戦後、マックス・プランク研究所 (Max Planck Institute)  が組織され21世紀最高の物理学研究となりました。

本題の認知心理学とケーラーとの関係です。ケーラーは、もともとは類人猿研究所でチンパンジーを用いた実験を行っていました。チンパンジーが新しい方法で天井から吊り下がったバナナを取ることを観察し、チンパンジーもまた試行によって「洞察学習」をすることをつきとめます。

私たちはものごとをより単純に認識したがったり、過去の経験と結びつけた認識を優先したりするものなのです。例えば、歩くとき色で統一した服を着たり、店舗の中で女性服のように形の似たものをまとめたりします。男女の服が交じることには違和感を持つのです。似ているものをゲシュタルト(gestalt)とか形態と呼びます。さらに、人が過去に経験した状況と似たものに出会うと、過去のものと同じものと認識したりして、解釈に影響を与えます。ある出来事が短い時間のうちに起こると、より関連づける度合いが大きくなるのです。人々が感じることを整理分類して、人の感覚構造を研究するのがゲシュタルト心理学(Gestalt Psychology) です。

認知心理学の面白さ その四 クルト・レビンとT-groups

Last Updated on 2024年5月28日 by 成田滋

認知心理学の面白さ、その二で社会心理学者のフェスティンガー(Leon Festinger) を紹介しました。彼の学術上の成果を引き出したのは指導教官であったクルト・レビン (Kurt Lewin)です。彼もまたユダヤ人の家系です。ポーランドで生まれやがてベルリン大学 (University of Berlin)で学位をとります。

‘I miss the good old days!’

しかし、ナチスの政権掌握によりレビンなどユダヤ人の学者は大学から追放されます。1933年にアメリカに亡命し、その後はスタンフォード大学 (Stanford University) やコーネル大学(Cornell University)、アイオワ大学 (University of Iowa)で研究し始めます。ベルリンに残した家族もアメリカに呼ぼうとしたのですが、母親がユダヤ人収容所で亡くなったことを知ります。

専制型、民主型、放任型といったリーダーシップのスタイルや集団での意思決定の研究を「場の理論」(field approach) 基づいて進めます。我が国で1970年代に盛んにとり入れられたのが集団力学と訳されるグループ・ダイナミックス(group dynamics)の実践で、特にリーダーの養成のアクションリサーチ(action research)として「Training-group」が使われました。企業や団体の指導者訓練で、理論的な考えをまとめた「A Dynamic Theory of Personality」という著作は特に知られています。

レヴィンはゲシュタルト心理学 (Gestalt Psychology)を人間個人だけでなく集団行動にも応用したことで知られています。集団内における個人の行動は、集団のエネルギー場、すなわち集団がどんな性質を有しているのか、どんな成員がいるのかといったことによって影響を受けると考え、これによりグループ・ダイナミックスが生起すると考えのです。ゲシュタルト心理学については、後の心理学者のところで紹介することにします。

認知心理学の面白さ その三 発達心理学とブルーナー

Last Updated on 2017年2月23日 by 成田滋

なぜか日本では認知心理学は好感を持たれる印象を受けます。発達心理の分野でもそうです。その理由は、人特に子供の理性とか理解、記憶などに必要とされる知恵や技能は、保護者や教師、同年代の子供とすごした経験に由来するという理論によるのではないかということです。レフ・ヴィゴツキー (Lev Vigotsky)はそうした立場の心理学者です。人間の発達は文化的、対人的、個人的という三つのレベルにあるとし、特に文化的と対人的を重視するのです。ヴィゴツキーは、子どもは非理性的ながら環境に働きかける力を持って生まれてくる、つまり主体的なものとして生まれ、環境に働きかける能力を持ち、しかも、環境から応答を引き出しそれを内面化して次第に成長するという立場をとります。

本題ですがジェローム・ブルーナー (Jerome Bruner)という発達心理学者は、子供は能動的な体験を通して物事を学ぶび、誰かが指導するとは、単に相手になにかを伝えることではなく、参加するように相手を励ますことだと主張します。ブルーナーはポーランドからのユダヤ系の移民の子としてアメリカで育ち、ハーヴァード大学から学位を得ます。彼の著書「Acts of Meaning」、「The Culture of Education」によりますと、その発達は子供がそれまで習得した情報によって構造化される過程、(scaffolding to describe the way children often build on the information they have already mastered)なのだという考え方です。

ブルーナーは、学習には三つの形があるといいます。第一は経験による学習(action-based)、第二は知覚による学習(image-based)、第三は言葉を通じての学習 (language-based)という考え方です。どれも実体験によること、表象を通した題材、そしてシンボルによる言語化といったことです。

認知心理学の面白さ その二 移民の歴史とレオン・フェスティンガー

Last Updated on 2017年2月22日 by 成田滋

心理学の専門家を調べると、多くの学者はヨーロッパからアメリカへの移民の背景があることがわかります。第二次大戦を前にして、ヨーロッパの政情や社会情勢が研究を妨げていたことがわかります。特にユダヤ系の人々はそうです。科学と同様に心理学や社会学者が新大陸に渡ります。

Clocktower Building University of Otago Dunedin New Zealand

社会心理学者の一人にレオン・フェスティンガー(Leon Festinger) がいます。両親はロシア系のユダヤ人でフェスティンガーはニューヨークで生まれます。アイオワ大学 (University of Iowa)でクルト・レビン(Kurt Lewin)の指導で学位をとり、「認知的不協和」(cognitive dissonance) という理論を発表します。

「認知的不協和」とは難しそうな用語ですが、かいつまんで解説してみます。私たちは日常のルーティンを繰り返しています。それが破られると居心地の悪さを感じます。習慣的な思考のパタンや信念も同じで、ある自分の強力な見解が、明白な反証に出くわすと心の中で耐え難いほどの一貫性の欠如が生まれます。この居心地の悪さを克服する道は、自分も反証を探し信念を貫くことです。

例を挙げれば、自分が新車を買ったとします。ところが友人が別な会社の車を買います。こちらのほうが燃費が少し良いという状況です。このとき心に一種の動揺が襲います。それを鎮めようと自分の車のほうが良いということの理由を探すのです。自分の車のほうが価格や維持費が安いという反証によって相手の優越に対抗しようとするのです。

認知的不協和は日常の中に様々な形で起こるものです。そうしたときの内的な葛藤は自己の信念や理性によって解決することが大事であることを教えてくれます。

認知心理学の面白さ その一 20世紀の心理学

Last Updated on 2017年3月3日 by 成田滋

心理学の歴史は長いのですが、東欧や西欧の人々、特にユダヤ系の人々が心理学の発展を支えてきた経緯が私の興味を引き立ててくれます。このシリーズでは20世紀から遡りながら認知心理学の発展を考えていきます。

20世紀の中葉にかかるとそれまでの心理学界に大きな変化が生まれます。当時の二つの流れであった精神分析的なアプローチと行動主義アプローチが認知心理学の考え方によって脅かされていきます。精神分析の分野では、それに代わるようなモデルは現れませんでした。精神分析の基本的な観念や無意識の研究は、その心理療法にも共通していたといえます。

ROSER 4 (Chip)

しかし、それまでの心理療法に疑問を投げかけたのはアーロン・ベック (Aaron Beck)です。彼はロシア系ユダヤ人の移民の息子でした。精神分析療法は人の無意識を掘り下げ、今生じている疾患を解消しようとします。他方、認知療法は人々が自身の経験をどう知覚しているかを検討することを重視します。ベックの認知療法は、その知覚がどれほど歪んでいるかを人々が認識し、その状況を評価するうえでの最も合理的だ様々な可能性を秘めた考え方を見いだす助けを示します。例えば仕事で地方への転勤話を持ちかけられたとき、「単身赴任はいやだ、家族は反対する。」と否定的な考えを口にしがちです。状況が不安や不幸へと導くとされます。しかし、転勤話をもっと合理的に考える道は、たとえばそれを挑戦の時とか自分の能力を発揮する機会だ、と前向きにとらえるのです。

認知療法は精神科医であるヴィクトール・フランクル(Victor Frankl)などによって発展されます。彼はアウシュビッツ収容所を生き抜き「時代精神の病理学」、「夜と霧」の著作でロゴセラピー (Logotherapy) を提唱します。ロゴセラピーでは、人は実存的に自らの生の意味を追い求めており生活状況の中で「生きる意味」を充実させることが出来るように援助することといわれます。

車社会の風景 その二十三 国鉄とモータリゼーションと路面電車

Last Updated on 2017年2月20日 by 成田滋

「車社会の風景」の最終回です。北海道育ちの私には自動車よりも鉄道に思い出が多くあります。親父が長年国鉄に勤務し、鉄道官舎での生活が続きました。官舎といっても長屋のようなものです。共同浴場には毎日行きました。美幌はそうでした。旭川鉄道管理局の大半が赤字路線となり次々と廃線に追いやられます。相生線が最初です。JR北海道に転換後も、深名線、天北線、名寄線、羽幌線、美幸線が廃止となります。最近では、留萌駅~増毛駅間が廃止となり、やがて留萌線が全線廃線となります。

地方の鉄道の衰退は「モータリゼーション」(motorization) によります。「車社会化」とか「自動車化」と呼ばれる現象です。モータリゼーションにはその下敷きとなった国有鉄道経営の実態があります。赤字経営のため度々運賃が値上げされますが、他方では労使対立による現場の綱紀の乱れやストライキや遵法闘争が起こります。それによって運行の不安定化を招き客の足が遠のくのです。親父は組合との交渉で相当苦労したようです。

こうして、地方における鉄道機関の衰退は加速します。鉄道は路線バスに替わります。タクシー業者は存在するものの、規模が小さく営業時間が短いという実情から日常の足として使用するには不便です。地域の公共交通機関において貴重な収入源となる生徒や学生ですらも、公共交通機関ではなく、身内や知人の車による送迎に頼ることになります。通勤や買い物もそうです。

私がかつて働いていた大学は、兵庫県の真ん中より少し南にありました。公共交通機関はJR加古川線ですが、無人駅から大学までは8キロもあり、1時間に鈍行が2本しか運転しません。学生の円滑な登下校には全く役立ちません。大学は広い無料の駐車場を用意し自動車による通学を認めています。そうでないと学生は集まりません。

このように過度に車社会化の進んだ地域では精力的に道路が整備されたにもかかわらず、通勤や帰宅ラッシュ時、登下校時間帯は道路の混雑が慢性的に発生しています。そのため路面電車が各地で復活しています。

車社会の風景 その二十二 「遊び」と「あそび」

Last Updated on 2017年2月18日 by 成田滋

人の一生は「遊び」に始まり「遊び」に終わります。誰も子供の頃は、ごっこ遊び、ビー玉、面子、パッチをしました。やがてサッカーや野球、スキーなどのスポーツをします。大人になると麻雀やパチンコ、飲酒や喫煙をし、高齢化すると囲碁や将棋で余暇を楽しみます。私は今、囲碁にはまっていて、八王子市内の二つの小学校で子供に囲碁の手解きをし、さらに二つのシニア囲碁クラブをお世話しています。

「遊び」を「あそび」と表記すると別な使われ方となります。それは「ゆとり」となります例えば、私たちが毎日乗る車にも「あそび」が組み込まれています。エンジンのスイッチから、ハンドルやブレーキ、アクセルの「あそび」です。急に曲がったり急に停まらないように、少しのゆとりが設定されています。自転車もそうです。この「あそび」は、命にかかわるほど大事な設計となっています。

ロジェ・カイオワ (Roger Caillois)という人が「遊びと人間」という本を書いています。この本には、「遊び」を面白く分かりやすく説明しています。カイオワは「遊び」は自由な活動であるといいます。誰かに強制されれば、遊びはたちまち魅力的で愉快な楽しみというものを失ってしまうのです。

「遊び」では先に結果が分かってはならないといいます。勝ち負けは時の運であり、やってみなければわからないところに「目眩」や興奮があるのです。「遊び」の中には参加者の創意や工夫があり、こうした自由が必ず参加者になければならないのです。

さらに「遊び」とは仕事とか職業ではないことです。パチンコをして少しは儲けても、それによって財産やお金を貯えても失ってもならないのです。「遊び」を商売とするのはいけないのです。ただ、カルタやビー玉のように参加の間で物が行き交うのは認められます。

おしまいに「遊び」は規則とかルールのある活動のことです。約束ごとに従うのが大事なのです。規則とは、いつ始まっていつ終わるとか、参加者になにかの役割があったりそれを交代するといったルールです。参加者は誰もが支え合っていくことによって遊びが成り立ちます。

車社会の風景 その二十一 自分でメインテナンスを

Last Updated on 2017年2月17日 by 成田滋

アメリカに車検制度はありません。そのせいでしょうか、走っている車には大分くたびれているのを見受けます。車というのは資産でなく、足だと考え走りさえすればよいのですから、自分でメインテナンスしたくなります。彼らは代々、自分で車の整備をやってきたので、その仕方を教わっています。オイルやエレメント、ラジエータ液の交換は初歩的なこと。ブレーキシュー (brake shoe) まで取り替える人もいます。当然ですが、整備の道具はガレージに備えてあります。古いオイルはサービスステーションで捨てることができます。

車の生命線ともいうべきブレーキのことです。ブレーキは「ドラム式ブレーキ」と言い、そこに装着されているブレーキパッドを「ブレーキシュー」と呼びます。ドラムブレーキは、ブレーキパッドをタイヤと一緒に回転するドラムの内側から油圧で押し付けることで減速します。長い間運転したり、高速時に急激にブレーキをかけたりすると摩滅します。このパッドを買って自宅で取り替えたり、ブレーキオイルを交換するというのですから相当のマニアです。この交換作業では二人がかりでやります。一人は運転席でブレーキを踏み空気を抜き、もう一人は車体の下にもぐり油圧ボルトを締めるのです。実に器用です。

自分でこうした作業をすることを「Do It Yourself (DIY)」といいます。自動車に限らず、家の内装や外装、配管、配線まで、できることは自分でやるというのが伝統なのです。ですから工具の種類と数は驚くほどです。ホームセンターの一つ、「Home Depot」という会社は住宅リフォーム、建設資材、工具類を販売しています。その規模は驚くほどです。自分で何かを作るとか修理する能力は非常に高いのは羨ましいことです。

車社会の風景 その二十 「ねずみとり」とワイン

Last Updated on 2017年2月16日 by 成田滋

交通違反の取り締まりはどの国でも似たようなものです。どこかで違反車を待っています。これは通常「ねずみとり」(mousetrap)です。速度の出やすい路線で物陰に隠れて速度測定を計るいわば罠を張る交通取り締まりの俗称です。八王子市内では、間違って車線変更しやすい箇所で警官が堂々と待っています。黄色線で車線変更禁止のところです。これも「ねずみとり」ですね。

高速道路 (Interstate) では、この「ねずみとり」を見たことがありません。ただし、一般道では路肩や道脇で待機して獲物を待つパトカーを何度も見たことがあります。彼らはスピードガンで待ち構えています。

アメリカの話です。酒場(saloon)の駐車場にパトカーが停まっています。しかし、酒場からでてきた者が運転するのを取り締まることはありません。速度違反や事故などを起こさない限りOKなのです。よく小さな街には酒場がありますが、車でないと酒場までこれないのです。いわば商売が成り立たないので警察も大目にみているふしがあります。どうして家で飲まないのか?という疑問ですが、酒場には常連客がいて会話を楽しめるからのようです。

ニュージーランドでのエピソードです。ホエールウオッチング(Whale watching)帰りのドライブは快適でした。葡萄畑が道の両側に広がります。ワインを飲みたくなる光景です。休憩がてらワイナリーに立ち寄りますと、旅行者らしき一行がワインを楽しんでいます。店の人に聞くと看板を指しました。それには次のように書いてあります。「運転手はグラス二杯までは飲んでよい。」 なんと粋な計らいなのだろうと感心しました。

車社会の風景 その十九 前向き駐車

Last Updated on 2017年2月15日 by 成田滋

アメリカで駐車場を見回してみると気付くことに、99%の人が前向きで駐車していることです。「前進しながら駐車する」のが前向き駐車です。前向き駐車は、多くの場合住宅地にある駐車場で義務付けられています。アメリカ人は後ろ向き駐車をする概念が無いのです。逆に日本では大半の人が後ろ向き駐車です。外国人は、ほとんどの車が後ろ向きで駐車場に駐車していることに驚いています。これも文化の違いです。

後ろ向き駐車には次のような事情があります。
第一は、駐車スペースが広く、頭から進入しやすいこと、さらにバックでの出庫に十分なスペースがあるです。第二は後ろ向き駐車には手間がかかります。基本的に面倒なことは嫌いなのがアメリカ人です。第三は、食料品などの買い物量が多いので、カートで運んでトランクに詰め込みやすいのです。第四に、後ろ向き駐車は植栽や建物に排気ガスがかからないからです。第五は後ろ向きの駐車は衝突しやすことです。車や建物を傷めがちです。第六は免許の教習では後ろ向きの駐車練習がないことです。

「郷に入っては郷に従え」。外国では前向き駐車を心掛けるべきです。

車社会の風景 その十八 自転車専用レーンが危ない?

Last Updated on 2017年2月15日 by 成田滋

1月31日の新聞記事からです。都内の各地に自転車専用レーンがつくられています。国土交通省もこの設置を後押ししています。東京オリンピックとパラリンピックが近いことも自転車専用レーン設置の追い風となっています。

ところがこの自転車専用レーンが自転車を運転する人も歩行者にも危ないというのです。自転車専用レーンに車が止まり荷物の積み卸しをするからです。そのために、自転車は歩道や車道に入り歩行や車の運転の妨げになるのです。この荷物の積み卸し停車は、都会の日常化した情けない有様です。

自転車専用レーンは通勤や通学のために利用されるのが期待されます。従って朝は7時から9時まで、夕方の4時から7時までは停駐車禁止といった規則を作る必要があります。反則した人には切符を渡すのです。河川敷や海岸に自転車専用がレーンつくられていますが、今後も自転車専用レーンのさらなる延長と罰則規定を設けることです。

車社会の風景 その十七 コンバーティブル

Last Updated on 2017年2月13日 by 成田滋

1870年代、最初に造られた自動車は蒸気自動車で、基本的にすべて屋根がありませんでした。いわばオープンカー (open car)です。Open carは和製英語です。正しくはコンバーティブル(convertible)となります。

当時の主たる乗りものは馬車でした。やがて幌が付き始めます。自動車も同様で箱型の客室ではなく、後部座席のうしろに幌がつきはじめます。この理由はエンジン出力にまだ制約があったために重量の少ない簡単な幌が採用されたようです。自動車の育ての親はヘンリー・フォード (Henry Ford) 。1908年に最初に発売されたのが「T型フォード」(Ford Model T)という水冷式のものです。

やがてエンジンの性能が上がり必要なだけの馬力とスピードが確保できるようになります。そして車内の居住性にも配慮できるようになり、頑丈なフレームの屋根で被われた箱形が車の主流となります。一般家庭にも自動車が普及することになります。

自動車が普及するにつれて、さまざまな車種が登場します。コンバーティブルもそうです。贅沢品としての車です。雨が少ないカリフォルニアとかハワイ、アリゾナ、ニューメキシコなどでは、真夏に屋根のない車を運転するのはさぞかし爽快なはずです。一種の社会的なステータスを謳歌する気分だろうと察します。

私が始めて乗ったコンバーティブルはホノルル市内です。院生等と学校視察で出掛けたときです。二台のレンタカーに分乗しました。私は通常のセダンを運転し、院生の一人がコンバーティブルを運転しました。学校から宿に戻る途中、スコールがやってきました。私はバックミラーでコンバーティブルを確認していました。院生等は幌を広げようと苦心しているようでした。幌の広げ方やたたみ方をショップで確認しなかたったのがミスでした。しばらく雨の中を苦闘し、ようやく閉じてはしゃぐ様子が伝わりました。

車社会の風景 その十六 Sedonaへの旅

Last Updated on 2017年2月11日 by 成田滋

アリゾナ(Arizona)の州都で最大の都市がフェニックス (Phoenix) です。半導体産業や観光、保養都市として発展しています。この街の学校を5名の院生とで訪問したことがあります。学校の訪問には、必ず誰かの紹介で出掛けます。アメリカもコネが大事な国なのです。アリゾナ州立大学(Arizona State University) で学位をとった友人を頼ってフェニックスの学校区へと出掛けました。この人は今はハワイ大学の教授となっています。名前はCurtis Ho氏です。

さて、仕事は学校視察なのですが、当然ながら週末には日帰りの観光を旅程に組み込みます。フェニックスから車で片道三時間のところにセドーナ(Sedona) があります。もちろんCurtis Ho氏から強く奨められていた観光地です。

一口にセドーナといえば、砂漠と奇岩と峡谷の観光地といえましょう。響きの良いセドーナという名は1800年代後半にやってきた最初のキリスト教会牧師、Theodore C. Schnebly師の夫人であったSedona Schneblyをとったとされます。その経緯はわかりません。

1300年代に最初にセドーナにやってきた放浪者 (Nordic) は、ヤヴァパイ(Yavapai)とかアパッチ(Apache) などの部族です。乾燥した灼熱の岩山を好んで根城にし野生の動物などを食料にしていたようです。テーブル状の台地、メサ (mesa)に住む平和の民と呼ばれるホピ族 (Hopi)、アドビ (Adobe)と呼ばれる日干しレンガで作られた家で知られるプエブロ族(Pueblo)もアリゾナに今も多く住んでいます。

セドーナではヴァーデ峡谷(Verde Valley)に代表され、鉄分を含んだ砂岩でつくられた一大景観を楽しませてくれます。グランド・キャニオン(Grand Canyon) の南部に位置するセドーナには、沢山のハイキングコース、マウンテンバイクのコースがあります。Cathedral Rockという巨大な奇岩の間にそびえるのが1956年に建てられたChapel of the Holy Crossです。

車社会の風景 その十五 高齢者の運転

Last Updated on 2017年2月10日 by 成田滋

アメリカは高齢者の運転が目だちます。日本のように「免許状の返納を!」といったかけ声は聞いたことがありません。「余計なお世話はするな、!」という気分なのです。自分のことは自分で責任をとるという気概が感じられます。

運転していると、ドライバーが高齢者かどうかが大体分かります。大抵は長閑と運転するせいか、スロウなのです。こういう場合は、後ろにつかないことです。何が起こるかわかりません。相手も後ろにつかれないほうが安心するはずです。急いだり、急かしたりしてはいけないのです。

アメリカには高齢運転者標識のシールなどもありません。電車にも高齢者や障害者の優先席のシートもありません。日本はなんて親切で気配りのある国かと感じるときです。しかし、考えてみますとこうした標識がまだまだ必要なところにこの国の未成熟な一面が現れているともいえます。本当に高齢者や障害者を大事にしているのかといえば、混雑する電車内を見渡すと決してそうではありません。中には若者がデンと坐わり、大人が眠ったふりをして坐っています。

車社会の風景 その十四 運転手との対話は大事

Last Updated on 2017年2月9日 by 成田滋

イェロー・キャブ(Yellow cab)はアメリカ代表の一つ。スクールバスと同じ、黄色い車体のです。中はゆったりしているのですが、座席にはテープが貼ったりして、なんとなく汚れているような感じです。ビシッとあつらえた背広をきめているときは、乗ろうか乗るまいか躊躇します。

タクシーの運転手はアフリカ、中近東、中南米、東南アジアの人が多いです。何度も乗りましたが、ほとんどがそうなのです。話しかけると、今日は夜勤だとか、子どもは3人にいるとか、エジプトから移民してきた、などと答えてくれます。表情や話す英語で、ある程度どこから移民してきたかがわかります。「あんたは中国人か?」と聞いてきます。そんな時は「東京からきた田舎者だ」と答えることにしています。こんな会話から運転手も大分心を開いてくれます。「こいつはチップをはずんでくれそうだ、」と感じるのでしょう。そこで私は「おれはビジネスマンではない」といって煙幕をはります。

アメリカやイギリスのタクシーは自動ドアではありません。乗るときも降りるときも自分で開閉します。イギリスのは、なんとなくボックス型のようですが、内部は結構の空間があります。運賃ですが、もし空港からホテルなどに向かう時は、案内所で前もって運賃を聞いておき、運転手と交渉するのがよいでしょう。帰りの空港までのタクシーの運賃はある程度わかっていますから、再度交渉できます。

「あまりお金がないので15ドルで行ってくれないか」と交渉してみてください。このときはわざとたどたどしい英語で尋ねるのはいいようです。「チップをあげるから、」と付け加えると、大抵は「OK, OK」といってメーターを倒してくれます。

車社会の風景 その十三 粋な言葉「兄弟よ、、」

Last Updated on 2017年2月8日 by 成田滋

ニューメキシコ州 (New Mexico) のアルバカーキ(Albuquerque) の学校を訪問したときの話題です。アルバカーキは同州最大の商工業都市。文字通りメキシコと国境を接していて、スペイン文化を色濃く残すオールドタウン (Old Town) が観光客をよんでいます。一帯には多くの文化施設やカフェ、土産物店が軒を並べます。近郊にはアメリカン・インディアンのプエブロインディアン文化センター(Indian Pueblo Cultural Center) もあります。首都サンタフェ(Santa Fe)には日干しレンガであるアドビ(adobe)で造られた白い積層集落が独特のたたずまいをみせています。サンタフェからさらに北へ一時間ほど運転すると最初の原爆 (Little Boy) を製造したロスアラモス国立研究所 (Los Alamos National Laboratory) があります。

アルバカーキといえば、1975年にビル・ゲイツ (William Gates)が同僚と共にマイクロソフト社(Microsoft) を創業したところでもありす。当時は、BASICという言語を開発していました。この街はIT技術でも先端的なところです。2004年6月にはアルバカーキ国際空港内でWi-Fiをとりいれたというのですから相当早い頃です。

さて、先ほどのプエブロインディアン文化センターを訪ねたときです。館内で一行の一人の院生が「パスポートが無い、」といって慌てました。あちこち探しましたが出てきません。仕方なく館内の案内所で、落とし物の届けはないかをきくと、届いていないとの返事。対応してくれたのは明らかにプエブロインディアンの方です。こちらに同情したのか「兄弟よ、パスポートが無かったら、この国に留まってもいんだ」と慰めてくれるのです。「兄弟よ、、」という言葉が心に響きました。

車社会の風景 その十二 長距離バスの運転手と仮眠 

Last Updated on 2017年2月7日 by 成田滋

「バス運転手が仮眠室で眠り込み乗客が8時間閉じ込められる」というニュースがありました。少し可笑しいなと思いました。なぜ乗客は8時間も黙っていたのかということです。恐らく彼らも眠りこけていたのだろうとは察しますが、、

報道によりますと1月21日早朝、広島県呉駅発、大阪駅行きの中国JRバスの乗客から、「運転手が戻ってこない」と110番通報があったというのです。警察官が福山市のサービスエリアに駆けつけ、運転手を探したところ、バスの下部にあるトランクルーム横の仮眠室で、38歳の男性運転手が寝ているところを発見したとのこと。

運転手は走行中に体調が悪くなり、会社には連絡しないまま眠り込んだというのですが、誰でも体調不良はあることです。こうした健康状態が不良のときの対応が不十分だったことがうかがえます。目覚まし時計をセットして仮眠するとか、乗客に説明して休憩させてもらうとか、会社に連絡して指示を待つとか、、、ただ、呉から大阪までの距離はさして長くはありません。運転手の体調管理か規律の緩みの問題だったのでしょう。

車社会の風景 その十一 カーシェアリング

Last Updated on 2017年2月6日 by 成田滋

カーシェアリング (car-sharing)の発祥地はわかりませんが、恐らくはヨーロッパではないかと思われます。なぜなら昔から公共交通機関や自転車が発達していたこと、国土が狭く大気汚染に敏感なことが指摘されます。広大なアメリカでしかも石油の産出国ですから、この地でカーシェアリングが起こったとは考えにくいです。

1978年に始めてアメリカに出掛けたとき、ガソリンは1ガロンが1ドル以下でした。1ガロンは3.79リッターですから、中型車や大型車がバンバン走っていた頃です。私の最初の車は、中古車でしたがシボレー・マリブ (Chevrolet Malibu)。当時は手ごろな値段で中型のファミリーカーといわれていました。でもガソリンを相当食う車「gas-guzzler」でした。

アメリカ人は、車を財産や資産として所有するのではありません。単なる足と考えていますから、車の手入れは杜撰なようです。走っている車は大抵はどこかに傷やへっこみがあります。それと自動車を保有する費用が安いことも車社会を形成する理由です。自動車取得税とか自動車重量税はありません。車検もありません。大抵の家には2台分のガレージがあり、簡単な整備、例えばオイルやエレメントの交換、ラジエータの洗浄などは自分でやりますから、費用があまりかからないのです。カーシェアリングなどの概念が浮かばなかったと考えられます。

ですが、アメリカではレンタカーが発達しました。空港まで自分の車ででかけ、そこで預けて到着地でレンタカーを利用するのです。そして今はカーシェアリングがアメリカの大都会の周辺でも非常に普及しています。アメリカ人の車を利用する意識が変化してきたのです。それにはガソリン代の高騰や交通渋滞、駐車場探しの難しさなどがあるようです。我が国も三大都市圏や政令指定都市でカーシェアリングは都会で非常に盛んになりました。公共交通機関網が張り巡らされているのですが、利用のつど鉄道、バス、タクシー等の乗り換え、運賃という煩雑さの要因がカーシェアリングを押し上げてきたようです。

車社会の風景 その十 複数乗車だけの都心への乗り入れ

Last Updated on 2017年2月4日 by 成田滋

15年ほど前に、カリフォルニア(California)の州都サクラメント(Sacramento) からサンフランシスコ(San Francisco)空港に向かうとき、高速道のInterstateを使いました。引率していた院生と一緒です。標識をみると単独乗車か複数乗車によってレーンが違いました。複数乗車優先のレーンがあって渋滞を緩和する措置のようでした。単独運転を減らすための措置でもあります。

ヴァージニア州(Virginia) のフェアファックス郡(Fairfax County) から高速道でワシントンDCに向かう時も、複数乗車だけの車の乗り入れが許されていました。DCの交通渋滞をなくすこと、排気ガスを減らすことが狙いです。通勤の交通機関, Metro があるのでドライバは駅付近の駐車場に停めてそこから通勤する仕組みです。もう一つ、同じ企業や政府機関に働く人には、公用車の利用を認め3人から5人が集まり、週ごとに運転を交代して通勤することが奨励されていました。

運転手になった人は、家をまわって同乗者をピックアップし帰りも同じよう降ろします。こうした複数乗車、カープール (car pool) は始業時間と終業時間が決まっている人には便利な方法です。最初は面倒だったという声も多数あったようです。それが定着すると多くの人がカープールを利用するようになったといわれます。

首都ワシントンDCからその西にあるダレス国際空港 (Dulles International Airport) までの高速道路, Dulles Toll Road には途中に出入り口がありません。渋滞の心配は全くありません。

車社会の風景 その九 交差点の光景

Last Updated on 2017年2月3日 by 成田滋

我が国のいろいろな法律や制度は、整合性とか均一性を大事にする性質があります。平等を強調し例外を認めないのです。最近は、特区という仕組みを作り地域の活性化に新しい試みを育てるというようになってきています。

私が言いたいのは、車の左折ということです。現在、赤信号では歩行者がいようといまいと左折できません。歩行者がいないときは、左折を認めることを提案したいのです。

歩行者がいなく、右から車がこないのに左折したいドライバーはじっと信号が変わるのを待つのは非合理的ではないかと主張したいのです。すべて信号に頼るのはいかがなものでしょうか。歩行者もそうです。赤信号なのに車が両側から来ないときは渡ってよいはずです。それをきまじめに青信号を待つのは違和感があります。外国ではそんなことは「ありえなーい」のです。歩行者が優先だからです。

次ぎに、交差点で歩行者が足早に渡る光景です。なぜ小走りに急がなければならないかです。ゆっくり落ち着いて渡ることです。歩行者がなによりも優先されるということをドライバーに教育することです。

車社会の風景 その八 信号のない交差点

Last Updated on 2017年2月2日 by 成田滋

ヨーロッパやニュージーランド、オーストラリアなどで気がつくのは円形型のロータリー状交差点があることです。信号はなく、車は右折だけの運行ですから、ぐるぐる回っています。ロータリー交差点は入口の部分で一時停止のサイン(Stop)とか、歩行者を渡らせる信号があります。こうした交差点は環状交差点 (Roundabout) と呼ばれています。

信号のない直角の大きな交差点には、四つ角に一時停止のサイン(Yield)があります。Yieldとは譲り合うという意味です。全ての車が一時停止し、交差点に入った車から順々に通ります。自分はどの車の次に発進するかを判断します。日本でこのYieldの交差点を見たことがありません。交差点での譲り合いという文化が根付いていないからでしょう。

日本はいかなる場合も「停止せよ」、「発進せよ」ということが信号で決められる風土です。ですから左折しようとするとき、右から車が来ない場合も信号の変わるのを待たなければなりません。右側通行のアメリカでは、交差点で左から車が来ないとときや歩行者がいないときだけ右折できるようになっています。歩行者優先は大原則です。

車社会の風景 その七 相乗りの奨励には

Last Updated on 2017年2月1日 by 成田滋

「相乗りなんか面倒だ、、」という文化はどの国にもあります。ましてや見知らぬ人と一緒など、、と敬遠されがちです。同じ地域に住むとか同じ職場で働くといったときは、バスや車で一緒することがあるでしょう。

本来、車内とは個人の唯一の個室のような雰囲気があります。だれにも拘束されず自由な空間というわけです。タバコを吸っても昼寝をしても、本を読んでも、弁当を食べてもいいところです。日本では車は財産の一部と考えられていますから、外側も内側も綺麗に保たれています。靴を脱いで運転する人も結構います。それに対して外国の車は足ですから、車の清掃はあまりしません。汚いことこの上ないです。

この綺麗さを乱されるという不安が相乗りを敬遠する理由の一つです。車は財産とか車内は綺麗にといった意識を変えない限り、相乗りとかカープール (carpool) という文化が根付かないような気がします。車内では飲食しないというのが、カープールの際の当然の礼儀となります。

文化は新しくつくるものです。