木枯らしの季節 その十七 オランダの友人や知人

Last Updated on 2016年11月30日 by 成田滋

2004年にオランダのトゥウェンテ大学 (Universiteit Twente) から兵庫教育大学に客員教授を招き、一年間いろいろとお世話をさせていただきました。Piet Kommersという教授で教育工学という分野の研究者です。Pietという名前はもともと英語のPeter、日本ではペテロと呼ばれます。Kommersは英語のSolicitude、日本語では「憂い」にあたります。私はこれまで多くの外国人研究者の派遣申請をして採用されました。お陰で友人や知人を得た勲章のようなものです。

9c5e098d-c364-4aef-b6cc-fb554da6903d muzikale-omlijsting umn1彼が兵庫教育大学に赴任したとき教授会である工夫をしました。彼はヴァイオリンの奏者でもあったので、モーツアルト (Wolfgang Amadeus Mozart) のソナタ (sonata)を弾いて貰いました。学長が挨拶で「教授会でヴァイオリン演奏を聴くのは初めてだ」と喜んでいました。

トゥウェンテ大学の創立は1961年。当初は工学系の大学でしたが、現在はビジネス、教育、コミュニケーション科学、心理学等、多様な分野の研究をしています。エンスヘーデ (Enschede) というドイツ国境のノルトラインーヴェストファーレン州 (Nordrhein-Westfalen)沿いにあります。私が同僚とトゥウェンテ大学を訪問したのは2005年でした。Kommers教授は私の唯一のオランダ人の友人です。

オランダ系のアメリカ人のことです。ミネソタ大学ツインシティ校 (University of Minnesota, Twincities)の教育心理学教授のアイセルダイク (James Ysseldyke) という研究者です。名前からしてオランダ系です。「dyke」とはオランダ語でダムとか堤防、運河の干拓といった意味です。祖先は恐らく干拓工事などに従事していたのかもしれません。背が高く堂々としています。この教授も1995年に国立特殊教育総合研究所のセミナーで招くことができました。私はウィスコンシン大学時代、彼の著書を教育測定と評価の勉強で使い、そのお陰でミネソタ大学には何度も伺い研究協議ができました。多額の研究費を連邦政府から獲得して研究する姿勢に大きな影響を受けたものです。

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木枯らしの季節 その十六 オランダ領ニューギニアと南進論

Last Updated on 2016年11月29日 by 成田滋

ヨーロッパ諸国、とりわけオランダの東方進出は日本にいろいろな影響を与えました。蘭学は言語、医学、航海技術、造船技術などなど当時としては先端的なことばかりだったはずです。地図の投影法であるメルカトル図法を創案したのは、オランダ人のメルカトル (Gerardus Mercator) です。1569年に彼は1.32×1.98メートルの世界地図を作ったというのです。大航海はこうして可能になりました。択捉島と得撫島をヨーロッパ人では初めて発見したのもオランダの探検家です。オランダが東洋に進出したのは、こうした科学技術に支えられた自由貿易と植民地支配という国家の方針にあります。その前衛となったのがオランダ東インド会社でした。

willem_blaeu_-_nova_totius_terrarum_orbis_geographica_ac_hydrographica_tabula c0011649_6113954 map_of_new_guinea_islandオランダによるインド西海岸の州であるゴア (Goa)、ジャワ島 (Java)、ニューギニア (New Guinea)などの植民地化は海上覇権を確立したことによります。当時の植民地化の考え方は、先住民が居住していてもいずれかの国が「先占する」ことで領土化するという原則です。しかし、20世紀以降、「先占の原則」は認められなくなりました。

領土権は国の方針の根幹に関わることです。「先占の原則」から「どのような民族が住んでいるか」へと変遷し、「領土の購入」という方法も生まれます。戦前、日本は南進論が盛んになり1934年にはオランダ領であったニューギニアを買収しようとする建議が起こります。さらに「委任統治」という方法もできます。1920年には国際連盟によってマリアナ諸島 (Mariana Islands)が日本の委任統治にはいります。それによりサイパン島 (Saipan) を中心に日本人によるサトウキビを中心とする糖業が盛んになります。沖縄から多くの人々が移住した地であります。ですがマリアナの原住民はチャモロ族 (Chamorro) であります。現在はアメリカの自治領(Commonwealth) となっています。

領有権のあるなしにかかわらず、A国がB国の土地に多数住むようになった場合、それを口実に、A国が自国の領土であると主張する可能性は大いにあります。マリアナの地に日本人が多数住むようになそれを口実に日本が終戦まで統治した経緯もこれにあたります。

北方領土問題に戻ります。かつて樺太はロシアと日本人が混住することで、互いに領土権を主張しないというで折り合いがつきました。千島列島のうち国後島や択捉島には日本人が住んでいたのですから日本固有の領土でありました。敗戦によってロシアが実効支配という植民地化時代のような帝国主義的な手法で支配を主張している現状は大いに憂うべきことです。

オランダの東洋進出は太平洋戦争によって終わります。インドネシア独立戦争を経て1949年にオランダはインドネシアの独立を認め、オランダ領だった西ニューギニア (West New Guinea) は1975年にパプアニューギニア (Papua New Guinea)として独立国となります。

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木枯らしの季節 その十五 国防と間諜

Last Updated on 2016年11月28日 by 成田滋

間宮林蔵の北方探査は、今に至る北方領土問題に関わっていると考えられます。それを今回取り上げます。前回記した日露和親条約締結には、林蔵の千島や樺太の調査が役立ったといわれます。林蔵は1806年より択捉島で地図を作成する仕事を始めます。そこには「国防」 というテーマが林蔵にはあったと考えられます。外国との交渉には、島々を正確に地図に表しておかなければならないという危機感があったのです。

赤羽栄一の「間宮林蔵 北方地理学の建設者」という本によると、1807年、林蔵が択捉島にいたとき、ロシア人の一隊が樺太から択捉島の紗那という村を急襲したとあります。北方の国防ということについて林蔵は大きな緊張を強いられたはずです。そして島の特徴や地図の作成が急務であると考えます。こうして林蔵は忍者や間諜のように島々の探検を続けます。

pc140301 cimg1539 nivkh_people間宮海峡の発見から林蔵は、樺太北部に居住していた少数民族のギリヤーク人 (Gilyak)やオロッコ人 (Orokko) から中国大陸の黒竜江 (アムール川)下流地域に清国の会所が存在するという情報を得ます。さらにロシア探検隊の動向を調べるのです。その記録を 「東韃地方紀行」 として幕府に提出します。なおギリヤーク人はニヴフ (Nivkh)ともいわれニヴフ語を使っていました。やがて黒竜江付近で清と南下するロシア帝国との間の紛争が黒竜江を境に起こります。これが1995年まで続いた黒竜江、およびその支流の中にある多くの島や中州の領有権を巡る中ソ国境紛争です。

さて、林蔵はシーボルトが江戸に来たとき最上徳内に紹介されて会っています。この時シーボルトは、林蔵に樺太踏査時の情報提供を依頼しました。その後も手紙によっても林蔵に情報提供を願っています。樺太や千島、黒竜江付近の探査から情報の重要性を林蔵は理解していたはずです。シーボルトの行動に対し林蔵は慎重だったと推察されます。二人とも政府と幕府を代表する間諜、スパイのような役割を果たしていたのです。小谷野敦の「間宮林蔵 隠密説の虚実」という本にこの二人の駆け引きが書かれています。

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木枯らしの季節 その十四 間宮林蔵と川路聖謨

Last Updated on 2016年11月25日 by 成田滋

私は樺太(Sakhalin)の真岡生まれ。真岡は間宮海峡に面する不凍港です。今はホルムスクと呼ばれています。間宮林蔵も真岡を通過し北上して、やがて間宮海峡を発見します。タタール海峡(Straight of Tartary)とも呼ばれています。

data11 bankokuzenzu1816 hokkaidou_1024px_069江戸幕府にとって蝦夷の開拓は北方の国防にかかわる重要な任務でありました。日本とロシア、清の勢力範囲の確認が急務となっていました。そのため蝦夷周辺の樺太や千島列島、さらには黒竜江付近の地図を作成すること必要がありました。特に樺太一帯の詳しい調査が必要となってきました。林蔵は樺太踏査を幕府に願い出ます。

江戸時代、測量技術や移動手段が貧弱でなおかつ北方に関する知識も皆無という当時、林蔵の探検は苦難の連続だったことは容易に想像できます。Britannicaによりますと林蔵は、伊能忠敬を度々訪問し天体観測による緯度、経度の測定法を中心とする測量の最新技法を学んだことが記されています。忠敬は測量技法を林蔵に教えるだけでなく、彼が使用していた最新の測量器具を林蔵に譲り与えます。

江戸幕府の勘定奉行であった川路聖謨 (かわじとしあきら)も林蔵の北方に関する知識を重要視していたようです。聖謨は1853年に阿部正弘に海岸防禦御用掛に任じられ、黒船来航に際し開国を唱えます。また同年、長崎に来航したロシア使節エフィム・プチャーチン (Jevfimij Putjatin) との交渉にも臨みます。そして1855年の日露和親条約締結が林蔵の北方に関する知識に助けられ、日本側が交渉を有利に進めたといわれています。外交交渉の成否は情報の有無が鍵を握るという例であります。

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木枯らしの季節 その十三 シーボルトと高橋景保と情報交換

Last Updated on 2016年11月24日 by 成田滋

北方四島の返還とか竹島、尖閣列島の帰属問題などを考えるとき、昔からいかに領土を巡る緊張やそこに関わった人々の気概が伝わってきます。国の統治や発展のために各国が地政学や地理学、生物学、民俗学、植物学などに強い関心を示してきたかもわかります。江戸時代、遠いオランダからやってきたきたシーボルト (Philipp von Siebold)もその一人です。

sibukawa hazama-s 0d000750000000000シーボルトはドイツの医師で博物学者でありました。文政年間といえば1800年の前半。シーボルトは生物学、民俗学、地理学など多岐に亘る事物を日本で収集しオランダに移送しています。そうした行為は江戸幕府によって禁制されていました。今でいえば国家の機密を漏洩した、という行為です。オランダはシーボルトが日本で収集した情報を非常に重視していたことがわかります。シーボルトは間諜でもあったようです。

少し時間を戻します。シーボルトはオランダ、ドイツ、ロシアの情勢を伝える書物を持参して日本にやってきます。医学のみならず植物、地図などの洋書です。それを江戸幕府のお抱え学者らも関心を示したのは当然です。江戸幕府の天文方奉行で天体観測、測量、天文関連書籍の翻訳をしていたのが高橋作左衛門、本名は高橋景保です。彼は、シーボルトから紹介された地誌並びに洋書を解読して揃えれば幕府のお役に立つと普段から考えていたようです。

高橋景保は、シーボルトがロシア人著述の書籍や新しい世界地図を持っている事を通訳の吉雄忠次郎から聞きます。この書類を入手し解読して幕府に献上したいと熱心にシーボルトに頼みます。しかし、シーボルトは容易に応じません。そこで景保は交換条件を打診します。シーボルトも日本並びに蝦夷地の良い地図であれば提供できると伝えます。地図を異国人へ渡す事が国禁であるのは景保はもちろん承知しています。しかし、彼は交換しなければ貴重な誌書の入手機会を失うと考えたのです。

シーボルトは最上徳内の訪問も受けたといわれています。徳内は蝦夷地や樺太など北方探査を行った探検家です。彼はシーボルトと何度か会見して学術や北方事情などを話題に対談します。日本研究に熱心なシーボルトに協力し、間宮林蔵が調査した樺太の地図を与えたほか、アイヌ語辞典の編纂事情をシーボルトに紹介します。やがて地図などの交換が発覚し、シーボルトが帰国する以前に地図その外が幕府によって押収されます。国禁とされた情報を提供し代償として洋書類を翻訳し役立てようとした気概が大胆な行為につながったと言えるでしょう。

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木枯らしの季節 その十二 風車から帆船へ

Last Updated on 2016年11月23日 by 成田滋

皆越尚子氏の『オランダ雑学事始』には、「オランダ人は ”世界は神が造りたもうたが、オランダはオランダ人が造った”と自負している」と書かれています。国土全体の30%が海面下にあるというのです。干拓に邁進したオランダ人の知恵と努力は、まさにオランダ人がオランダを造ったといえるのでしょう。

300px-kurofune c0188700_1813284 kanrinmaruオランダといえば、そのシンボルが風車です。それはポルダー (polder)と呼ばれる干拓地の造成に活躍します。ゾイデル海(Zuider) の干拓は有名ですが、風車は排水作業などで大きく貢献したといわれます。そのために風のエネルギーを動力に変える風車のメカニズムは様々に研究されてきたとあります。風車の羽根に張る帆布と角度、方向固定のための滑車、動力を伝達のための心棒や歯車がいろいろと工夫され改善されたようです。

こうした技術は、大型帆船の建造に役立ちました。風車はそのまま帆船の不可欠の部品となって使われ船舶技術に応用されたのです。海洋王国オランダを支える技術の原点はこの風車の発明によるようです。帆船はやがて蒸気船に取って代わられます。

最初の頃の蒸気船は外輪船でありました。水深が浅くても走れるため穏やかな河や沿岸を航行するに便利でした。今も観光目的の外輪船は見られます。蒸気機関を備えた汽帆船もが多く造られました。さらにより推進力のある高速のスクリュー船が造られます。

蒸気船が日本を訪れたのは、1853年の黒船来航最初です。黒船に日本人が驚いたことは頷けます。外輪蒸気船のフリゲート艦「サスケハナ (Susquehanna)」など四隻です。その後、オランダで建造され長崎海軍伝習所の練習艦として1857年に就役したのが咸臨丸。蒸気機関を備えた汽帆船でありました。汽帆船からスクリュー船への転換によって大航海の貿易や戦争の様が大いに変わります。このように、オランダの諸技術が後の日本の産業発展に果たした貢献は計り知れないものがあります。

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木枯らしの季節 その十一 寒風とミッフィ

Last Updated on 2016年11月22日 by 成田滋

木枯らしの寒さが真っ最中の話題です。今回は「ふわふわ うさこちゃん」というオランダの童話です。

images tumblr_nc7j49alhb1qa6cy0o1_250-1 img_5651efc580a207e71c5734dc19dc55af152798駐日オランダ大使館のサイトに面白い記述があります。
「日本で最も知られているオランダ人はおそらくミッフィ (Miffy)でしょう。ウサギの女の子、この小さな漫画のウサギはオランダのアーティスト、ディック・ブルーナ (Dick Bruna)により生み出され、老若問わず世界中で愛されています。」

オランダでは、ミッフィのことを「ナインチェ・プラウス」 (Nijntje Pluis) と呼ばれています。 「Nijntje」は、ウサギを意味するオランダ語「konijn」に、可愛いとか小さなという「-tje」を合わせた造語で「Pluis」とはふわふわしたとか毛羽立ったというオランダ語です。

1960年の英語版の出版に際して、「Nijntje Pluis」はミッフィ (Miffy) という名が付けられたと福音館書店のサイトにあります。「ふわふわ うさこちゃん」は石井桃子が翻訳し福音館から発行されます。「ミッフィ・バニー」という名前は講談社から刊行されているものです。ちなみに、福音館は、戦前カナダのメソジスト教会の宣教師が伝道を目的として設立した出版社が前身となっています。

寒さのなかで、暖かい雰囲気を醸し出すミッフィです。
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木枯らしの季節 その十 和蘭陀と日本

Last Updated on 2016年11月21日 by 成田滋

ブリタニカ国際大百科事典(Britannica International Encyclopaedia) を参考にしながら、オランダ (和蘭陀) と日本のつながりを考えます。

1600年3月16日。オランダの商船リーフデ号 (Liefde)が九州は豊後国、臼杵のあたりに漂着します。これが日本とオランダの最初の接触です。リーフデ号はロッテルダム (Rotterdam)にあった世界最初の株式会社といわれる東インド会社 (East India Company) の船で、極東を目指す航海の五隻の船団の一隻でした。一行は太平洋上で暴風雨に遭遇し、うちリーフデ号だけがかろうじて日本に着いたのです。

s1293-05-g07 30751_fullimage_voc_overwinning_560x350_560x350 thmb-001当時大坂にいた徳川家康はリーフデ号の乗組員を保護し、日本滞在を許します。その間、造船術、航海術、天文学、数学などを教授してもらいます。1609年にはオランダの使節が駿府で家康と謁見し、通航と貿易を許可する朱印状を得ます。そして1613年には平戸に商館を設置します。それまでは宗教、文学、制度、法律などのソフトを中国や朝鮮から習得してきたわけですが、江戸時代になるとオランダから様々な科学技術などハードを学び応用していくことになります。

徳川幕府は1633年から1639年にかけて五回にわたり鎖国令を発し、切支丹弾圧を行います。ところがプロテスタント国であったオランダは弾圧を免れ、長崎は出島に商館を移します。ヨーロッパ諸国でオランダは唯一、通航や貿易を許されるのです。鎖国がその後の日本の発展に与えたネガティブな影響は計り知れないほどですが、一本の糸のようなオランダとの接触は、オランダ語を通しての蘭方医学やオランダ語研究に進展していきます。そして解剖図表といわれる「Tabulae Anatomicae」を「解体新書」として翻訳します。

レンブラント (Rembrandt  van Rijn)の「テュルプ博士の解剖学講義」 (The Anatomy Lesson of Dr. Nicolaes Tulp) は1632年に描かれたといわれます。この絵を見ますと、杉田玄白や前野良沢、中川順庵らが講義に加わっていたらどんなに興奮しただろうかと想像します。

オランダの東インド会社のことです。この会社は最盛期に150隻の商船、40隻の軍艦、そして10,000余りの兵員を擁していたといわれます。それが東方貿易を支えていました。軍艦はもちろん商船を守る任務です。商船には大砲を積み、兵員も乗り組んでいたといわれます。

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木枯らしの季節 その九 「和蘭陀」の感謝祭とPieterskerk

Last Updated on 2020年12月6日 by 成田滋

「感謝祭の原形はライデンから」を振り返っています。駐日オランダ大使館のサイトによりますと、オランダは、「森の地」とか「窪地」を意味するHoltlandからきています。Hollandという呼び方もありますが、「西海岸にある“ホラント”と呼ばれる一部の地域の呼称」ともあります。

leiden_pieterskerk_postcard bollenveld-klein san-pedro-y-san-pablo_672-458_resizeオランダの正式国名は「Kingdom of The Netherlands」。「低地の王国」といってもよいでしょう。したがって「Netherlanders」 とは「低い土地の人々」となります。13世紀以降に海面下地帯の干拓を進め、国土の20%が干拓地です。オランダは漢字による当て字で和蘭、和蘭陀と表記されます。ともあれホラントに韻を踏んだ「蘭」が割り当てられたようです。

司馬遼太郎の「街道をゆく〈35〉オランダ紀行」は、興味あることがいろいろと紹介されています。堤防を造り、風車で水をくみ上げてつくられた土地は極めて平坦ですが、司馬はユーモアを交え、この国の平坦さや自転車の普及を表現しています。オランダは農業生産物の世界三大輸出国の1つでもあります。

・「南に下れば八百屋さんの店先に一盛二百円ほどの山はある。」
・オランダ人は茶目っ気がある。海抜101メートルの山を「マウンテン」と読んでいる。」
・ 「トラック一杯の薬よりも、一台の自転車」

アメリカの感謝祭の起源はオランダにあることは既に触れました。ライデンでは毎年、感謝礼拝が行われます。場所は1100年に建てられたSt. Peter’s Churchというゴシック様式 (Gothic)の教会です。この教会はオランダ語では「Pieterskerk」と呼ばれています。Pieterとはペテロ、St. Peterです。kerkはドイツ語のKirche、英語はもちろんChurchにあたります。St. Peter’s Churchには初代のピリグリム・ファーザー(Pilgrim Father)の指導者であったJohn Robinson牧師が埋葬されています。

日本のプロテスタント教会やカトリック教会の神学者によって1987年に刊行された新共同訳聖書では、Peterに「ペテロ」が使われています。ヨハネによる福音書1章42節でイエスはペテロを 「ケファ(Cephas)」、岩のかけら、石という意味で呼んでいます。「私はこの岩の上に私の教会を建てる」という言葉に由来しています。Cephasはアラム語(Aramaic language)という古語だそうです。

木枯らしの季節 その八 感謝祭がアメリカ引き継がれる

Last Updated on 2016年11月18日 by 成田滋

多くのアメリカの人はオランダで感謝祭が始まったことは知りません。巡礼始祖ーピルグリム (Pilgrims)のイングランドからオランダのアムステルダム(Amsterdam)を経由してライデン(Leiden)への移住、ライデンのスペイン軍の包囲からの解放、そして感謝礼拝の挙行といった歴史のことです。

embarkationofthepilgrims3 31b1c1862369c999e9bd7378f9dab925 cape-cod-1100301_960_720_pixabayロンドン市内のカルヴァン派教会の牧師で著作家であったロビンソン(Rev. John Robinson)は1619年頃、35名の会衆、そして無信教の者など66名などとメイフラワー号(Mayflower II)に乗り込みイングランドのスクロービィ(Scrooby)を出発してオランダのアムステルダムとライデンに渡り、そして新大陸のニューヨーク(New York)へと航海します。メイフラワー号がマサチューセッツ(Massachusetts)のケープカッド(Cape Cod)の先端に到着したのは1620年、節季は11月です。ところがこの地が農業に適していないことがわかり、プリマス(Plymouth)付近に開拓地コロニーをつくります。「Plimoth Plantation」です。

新大陸での最初の収穫と感謝祭は1621年であったと記されています。幸い1621年は豊作だったようです。プリマスの辺りに住んでいたWampanoag部族というネイティブアメリカンとの交流が始まり感謝祭に一緒に参加したといわれています。

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木枯らしの季節 その七 ライデンからプリマスへ

Last Updated on 2017年9月4日 by 成田滋

北米における感謝祭(Thanksgiving)は、ヨーロッパ(Europe)のオランダ(Netherland)の歴史に遡ることができます。感謝の日の起源について諸説があるようですが、バングス(Jeremy Bangs)という歴史家でライデン・アメリカンピルグリム博物館長(Leiden American Pilgrim Museum)の仮説が有力なようです。バングスはシカゴ大学を卒業し、ライデン大学 (University of Leiden)からPh.D.を取得します。やがてライデン市立ピルグリム文書館 (Leiden Pilgrim Documents Center of the Leiden Municipal Archives)の主任学芸員となり、その後1997年にライデン・アメリカンピルグリム博物館を創設します。

image506 %e3%83%a1%e3%82%a4%e3%83%95%e3%83%a9%e3%83%af%e3%83%bc%e5%8f%b7 plymouth10バングスによると、1573年から74年にかけてスペイン軍がライデン(Leiden)を陥落させようと包囲した史実が基となっています。スペイン軍の包囲からライデンが解放されたことを記念し、感謝礼拝を執り行ったことが感謝祭に発展したのではないかというのです。この祝いが毎年ライデンで開かれる「10月3日祭」 (Oktober Feest)という祭りです。「10月3日祭」 の伝統がアメリカに移住した巡礼始祖と呼ばれるピルグリム(Pilgrim)によって引き継がれたというのは頷けます。

ピルグリム・ファーザーズ(Pilgrim Fathers)と呼ばれた巡礼始祖を乗せたメイフラワー号 (Mayflower)が イングランド(England)のプリマス (Plymouth)を出帆したのは1620年9月6日。そして11月9日にマサチューセッツ(Massachusetts)、ボストン(Boston) の南に位置するケープカッド(Cape Cod)のあたりに到着します。66日の航海です。しかし、メイフラワー号のピルグリムはもともとニューヨーク(New York)のハドソン川(Hudson River)沿岸を目指していました。そこでケープコッドを離れ南下するのですが、天候が悪くケープコッドに戻ります。ところがケープコッドは塩分を含んだ土地であり、農作物の耕作に不適であるという理由でボストンの東のプリマス(Plymouth)に上陸し、そこにプリマス開拓地(Plimoth Plantation)を定めます。

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木枯らしの季節 その六 最初の感謝祭

Last Updated on 2016年11月16日 by 成田滋

中西部(Midwest)や東海岸のニューイングランド(New England)は紅葉も終わりに近づいています。感謝祭 (Thanksgiving Day)が近づいています。私の最初の感謝祭は1977年。ミルウォーキー(Milwaukee)のルーテル教会のLeRoy Hass牧師さん宅に招かれたときです。この先生は長く関東や上越で宣教活動に励まれておられ、日本語はもちろん達者です。日本語で説教ができるくらいですから、その努力はたいしたものです。奥様のSaraさんは暖かいお母さんタイプ。日本生まれの娘のDeborahさんはウィスコンシン大学で看護学を学んでいました。Deborahとはヘブライ語で蜜蜂という意味です。Hass家は代々靴作り職人だったそうです。

edward-frascino-turkey-with-sign-the-world-will-end-nov-27-new-yorker-cartoon1 h54 59578f678263f71832ae79e247fd013fマディソン(Madison)から東にインターステイト94(Interstate 94)を70分ほど走るとミシガン湖です。晩秋の湖は寒々としています。木枯らしの寒さではなく冷たさそのものです。粉雪が風で舞う日でした。お家はこじんまりした小さ目の造りです。中西部の一軒家には必ず地下があり、子供の遊び部屋やロンドリーとなっています。

アメリカでは11月の第4木曜日、カナダではすでに終わりましたが10月の第2月曜日です。多くの州は感謝祭の翌日の金曜日も祝日扱いとして4連休となります。慈善団体などがホームレスなどの人々に温かい七面鳥料理を振る舞うのも恒例となっています。

感謝祭の夕食は感謝の祈りから始まります。
  O God, when I have food,
    help me to remember the hungry;
  When I have work,
     help me to remember the jobless;
  When I have a home,
     help me to remember those who have no home at all.

会話がはずむ食卓です。ですが成田一家にとっては最初の感謝祭です。周りを見ながら食事するのは緊張するものです。それを解くには少し時間がかかりました。

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木枯らしの季節 その五 為替に変動が

Last Updated on 2016年11月15日 by 成田滋

番狂わせ (Upset)の大統領選挙後は、株や為替に変動があるだろうといわれていました。私は、トランプが勝利したら為替が動きドルを買おうと考えていました。自由貿易主義から保護貿易主義に転換するとアメリカの成長は阻害され、それによりドルが安く、円が高くなるだろうという筋書きです。経済の動向に全く土素人の私ですら理解できそうな展開です。ところが 「トランプ勝利=円高」 というシナリオは吹っ飛んでしまったようです。11月14日は1ドル108円という円安です。輸出産業にはホクホクです。経済現象はそんな単純なものではなさそうです。

%e6%9c%ac%e5%91%bd%e3%81%aetpp%e9%96%a2%e9%80%a3%e9%8a%98%e6%9f%842 map bauer-fertilizer選挙直前、クリントンが3ポイントリードといった報道でした。これは総得票率のことをいったのです。選挙人の獲得は勝者総取り方式 (Winner-take-all)ですから、選挙人の多い州で勝利するかによります。オハイオ(Ohio)、フロリダ(Florida)、ペンシルヴァニア(Pennsylvania)、ノースカロライナ(North Carolina)といった州をトランプは得票数で上回りました。これが勝敗を分けたのです。

選挙人の数は州の人口によって定められています。一票の格差というものは問題になりません。勝者総取り方式を改めよう、といった声はほとんど聞きません。投票日ですが、「11月の第1月曜日の後の火曜日」、1日が火曜日となる日を除く11月の第1火曜日となっています。今年は1日が火曜日だったので11月8日となりました。この投票日は建国直後から定められています。11月としたのは建国時代は農業が主要産業ですから11月が農閑期だったからです。いまもアメリカは農業が主要な産業であることは間違いはありません。

マサチューセッツに住む長男からは、今回の結果に驚いたとのメールが来ています。この選挙結果は自分たちの生活になんの支障もないといっています。いわゆる「No Problem,,」というやつです。ちょっと呑気すぎやしないか、という心配もあります。

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木枯らしの季節 その四 情報収集の貧困さ

Last Updated on 2016年11月18日 by 成田滋

大統領選挙後の話題は尽きません。テレビや新聞に登場する「評論家」、「有識者」はこぞって「こんなはずではなかった、、」と歯切れが悪いコメントです。「トランプさん、どうして勝ったんですか?」と困惑しているかのようです。

20141208201915 18005378_bg2 26b78ca89dbcfeb091c506fb416b3a1eこうした予想はずれは、外国の報道ソースに頼る現地の日本人特派員や日本大使館などから伝わる情報を鵜呑みにしていた結果です。特に責任を問われるのが日本大使館の情報収集の貧困さ。駐米大使は更迭されても仕方ありません。

オハイオ州やミシガン州は工業の盛んなところ、ウィスコンシン州やペンシルバニア州は農業が主要な産業です。いずれも労働者が多いのです。特派員や記者は自分の足で周りの人々の意見を集めなければならなかったのです。

ハイテクが盛んなカリフォルニアは単純労働者の雇用を奪っているといわれます。農業には多数の人出が必要なのです。フロリダも農業が中心の州です。多くの高所得者が退職して暖かい土地で余生を送る州でもあります。65歳以上の人々はトランプに投票しています。南部諸州はカトリック教会やプロテスタント教会の信者が多く、聖書地帯 (Bible Belt)と呼ばれています。伝統的保守主義(Traditional conservatism)が強いのです。

現在のアメリカの経済状況のことを多くの経済学者が「ああだ、こうだ」と指摘しています。日本車の優秀さは30年以上前から認められています。韓国の高い技術や中国の低賃金による生産性はアメリカの脅威となり、多くの雇用を国内で失ってきました。アメリカの劣等産業に従事する労働者は自由貿易に耐えられなくなっているのです。

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木枯らしの季節 その三 ”Stunning Upset”

Last Updated on 2016年11月12日 by 成田滋

大統領選挙後の話題を有力紙や放送局のヘッドライン (Headline)から考えてみました。私の大分錆び付いた英語の勉強にもなります。

Republican vice-presidential nominee Gov. Mike Pence, right, and Democratic vice-presidential nominee Sen. Tim Kaine speak during the vice-presidential debate at Longwood University in Farmville, Va., Tuesday, Oct. 4, 2016. (Andrew Gombert/Pool via AP)

Republican vice-presidential nominee Gov. Mike Pence, right, and Democratic vice-presidential nominee Sen. Tim Kaine speak during the vice-presidential debate at Longwood University in Farmville, Va., Tuesday, Oct. 4, 2016. (Andrew Gombert/Pool via AP)

249902cd-s img_0f23d60eaed166b1481db8676a1dd87139624最初はNew York Times紙です。開票結果の終盤では次のような見出しとなっています。
Trump is closing in on a stunning upset.

“Stunning” とは、「気絶させる」とか「ぼうっとさせる」、「唖然とさせる」という強い調子の単語です。続いて“Upset”が続きますが、「予想を覆す」とか「転覆する」、「気が動転する」という意味です。“Upset”は怒る、という意味で使われることが多いですが、この場合はその意味ではありません。とまれTimes紙の編集等らも開票結果に相当驚いたことが伺えるような表記です。

次にWashington Post紙です。
Clinton, Obama urge backers to accept Trump’s victory.

トランプ(Trump) の勝利を潔く受けとめよう、というニュアンスです。結果が出た以上それに従うのが民主主義というわけです。

ニュース専門放送局であるCNN (Cable News Network)は次のように報じています。
Hillary Clinton lost the election but is winning the popular vote.

クリントン(Clinton) は獲得選挙人数では破れたが一般投票の総得票数では勝ったという意味です。勝者総取り方式(Winner-take-all)という選挙方法では、こうした逆転現象が起こります。2000年の選挙でも民主党候補のゴア(Al Gore)が総得票数で共和党のブッシュ(George Bush)に勝ったのですが、獲得した選挙人数では足りませんでした。

今日のTimes紙の見出しは次のようです。
Clinton and Obama Plead for Unity as Trump Gets to Work.

クリントンとオバマは、新しい大統領の始動のために協力しようと呼びかけています。”Plead”とは擁護するとか弁護するという意味です。

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木枯らしの季節 その二 大統領選挙の主人公

Last Updated on 2016年11月11日 by 成田滋

ウィスコンシン大学時代、奨学金も底をつき、蓄えが少なくなってきたのでいろいろなアルバイトをして糊口を凌ぐことになりました。

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会話といっても実に他愛のない内容です。卑猥な言葉、汚いスラング、人種差別語が混ざる全く歯牙にかけない話題ばかりです。海外から来る院生に対しての羨望や引け目などもあるようでした。

さる10月26日に「常民」という話題を掲載しました。知識人とか文化人とは対極的な生活様式をもつのが「常民」。一般に庶民、民衆という意味です。文化の基底を担う人々の意を込めて柳田国男は「常民」を用いたといわれます。「常民」とは普通の人、エリートでない人という意味です。

今や大卒といっても安泰な地位を維持できるわけではありません。レイオフが待っています。今度の大統領選挙の主人公はこうした「労働者」とか大卒の経歴がありながら仕事を失い木枯らしにさらされるアメリカの多くの「常民」です。「常民」が大富豪を大統領に選ぶところにアメリカという国の不可思議な一面があります。

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木枯らしの季節 その一 山口誓子

Last Updated on 2016年11月10日 by 成田滋

300px-battle_of_sakhalin tomariorutantetu 一段と寒くなってきました。

海に出て木枯らし帰るところなし

この句は詩集「遠星」に所収されている山口誓子の作品です。昭和19年11月に作られたとあります。太平洋戦争は敗戦が濃厚になり、日本軍は特攻とか回天といった命を犠牲にする無残な攻撃を始めます。今のIS (Islamic State)と同じ戦法です。二度と帰ることのない若者の命を歌ったのがこの句といわれます。誓子のぎりぎりの反戦的な態度だったのでしょう。

誓子の作品に「凍港」という樺太の情景を叙情的に詠んだ詩集もあります。
   探梅や遠き昔の汽車にのり
   氷海や月のあかりの荷役そり

200px-yamaguchi_seishi私は樺太の真岡生まれですが、樺太生活や風景になんの記憶もありません。誓子の句から成田家が過ごした樺太という風土の想像を巡らすだけです。

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文化の日を考える その十四 ムーミン谷の人々

Last Updated on 2016年11月9日 by 成田滋

読書の秋、食欲の秋、旅行の秋、運動会や文化祭の秋といった文化が日本にあります。「天高く馬肥ゆる秋」は漢書を原典とする故事とありますが、、秋は馬で敵が襲ってくるから警戒せよという意味だそうです。四季の移ろいを楽しむのは日本人も中国人も同じです。

秋の夜長に読みたい本にムーミン (Moomins) の童話があります。フィンランドの女性イラストレータであり作家であるトーヴェ・ヤンソン(Tove Jansson)の作です。この童話シリーズはスウェーデンとフィンランドで1945年頃から1993年にかけて出版され、世界中で読まれています。童話は九冊の本から成ります。我が国で紹介されたのは1969年頃といわれます。私がムーミンを知ったのはテレビ番組です。

fd68c403474ed85292db3856a0c4a1ea 9780312608897_Web.pdf c52365f8d62eace6899d1b7c266bd335主人公は、MumintrollとかMuumiと呼ばれます。一般にはムーミンと呼ばれる「男の子」です。頬が膨らんで白く丸い体をしていて動物のサイにそっくり。妖精のような生物で人間と呼んでよいかどうか、、、そんなことはどうでもいいのが童話の世界です。

ヤンソンは祖先がボヘミヤ(Bohemia)。今のチェコの中部と西部のあたりを指すようです。自然に恵まれ多様な民族との交流があったところといわれます。ヤンソンはそうした風土の影響を受けて創作活動をしたことがうかがわれます。今もフィンランドはヨーロッパで最も深い森に包まれた国といわれます。

ムーミンの家族らはフィンランドのとある谷、ムーミン谷 (Moominvalley)と呼ばれるところに住んでいます。森があり灯台や小劇場もある村です。とても安全な谷なのですが、いろいろハラハラする冒険を子供たちが引き起こします。

Moomintrollです。好奇心が強くやる事なす事話題となります。誰とも仲良くし、ときに勇ましく振る舞い両親をハラハラさせます。丸高帽子をかぶっているのがMoominpappa。子供のように冒険好きなお父さんです。豊かな教養がありいつもきちんと子どもを諭し、教えを授けています。物事をしっかりと考えて家族を育てます。次ぎにMoominmamma。いつもエプロンをして家庭を安全で暖かいところにする優しいお母さんです。誰かの誕生日を知っていてデザートをつくってやるという気の遣いようです。みんなが幸せになるように願っています。

登場人物には、ときに詩的な台詞や哲学的な発言をさせています。その代表がSnufkin。ハーモニカを吹いては思索する孤独な旅人です。子供には理解できるのかと思われるような台詞を語ります。しかし、人生を簡素に、ものごとを楽天的にとらえ、そこに自分の喜びを探求してムーミン谷の人々から信頼と尊敬を集める哲学者です。子供といえども大人の素養が備わっている、だから大人に向けに語られるような深い意味の言葉は子供にも理解できるのだという信念がヤンソンにはあるようです。

本稿で「文化の日を考える」シリーズは幕とします。

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文化の日を考える その十三 エストニアの文化と民謡

Last Updated on 2016年11月8日 by 成田滋

エストニア(Estonia)はラトビア (Latvia)、リトアニア(Lithuania)とともにバルト三国 (Baltic states)を形成しています。バルト三国といえば意外と我が国とは結びつきが深いところです。日露戦争で1905年2月にバルチック艦隊 (Baltic Fleet) がウラジオストック (Vladivostok) に向けて航海したところ、さらに第二次世界大戦中、杉原千畝氏がリトアニアのカウナス (Kaunas)にあった日本領事館で外務省の訓令に反しておよそ6,000人のユダヤ系難民に通過ビザを発給しその命を救ったことなどが知られています。

sugihara_b aa74d34d75649cc8e17574865a3d5517 _dsc9089ヴァイキング(Viking)の時代から中世を経て今日まで、長い歴史を有しています。中世時代にはドイツ、スウェーデン、ロシアの貿易商らの商人の祖先が定住したところといわれています。エストニアは豊かな自然と相まって多民族が織りなす異教徒の精神とヨーロッパ人の精神の有り様とされる考え方や言動のさま、そのメカニズムを受け継ぎ、現在はEUやNATOの加盟国となっています。

紀元前9000年頃に氷河期が終わるとエストニア人がバルト海(Baltic Sea)の沿岸に定住します。紀元後800年頃までは、エストニアの町や村が形成され自治を始めていきます。古代エストニアから今に至る最も特筆すべき文化は詩と歌にあるといわれます。特にエストニアの伝統音楽とされる民謡(folk song)は同一旋律の多人数による歌唱、斉唱 (unisonまたは monophonic) が特徴です。古代民謡は、「runo-songs」とか「runic songs」と呼ばれ、古代北欧風民謡ともいわれます。

ニューグローヴ世界音楽大事典 (New Grove Dictionary of Music and Musicians)によりますと、「Runo songs」の特徴は、もともと死の悲しみや嘆きを表すことにあります。死者を弔うのが民謡であったようです。エストニアは世界で最も民謡の数が多いことで知られ、その数133,000余りが記録として残されています。豊かな自然に対する畏敬の精神が民謡に示され、エストニアの歴史と文化の源となっているといわれます。木や大地は生命力を象徴し大事に保護されています。森は命の源泉として崇められ、聖なる所、霊が宿るところとされています。

Britannicaによれば、ソ連の占領下ではエストニアの民謡を歌うことは禁止されていたとあります。しかし、1988年9月にタリン近郊の野外コンサート会場「歌の原」に約30万人が集まり独立への機運が高まります。そして1991年に独立を達成します。このことからエストニアの独立は後に「歌による革命」と呼ばれたようです。五年に一度のエストリア最大の祭りでは歌と踊りが「歌の原」で開かれます。エストニアは今も「歌の国、Singing nation」と呼ばれています。

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文化の日を考える その十二 広場と市民と文化

Last Updated on 2016年11月7日 by 成田滋

一度、娘とエストニア(Estonia)の首都タリン(Tallinn)を訪れたことがあります。ヘルシンキからフェリーでバルト海峡を三時間。ソ連崩壊後の1991年に独立を宣言した新しい国です。ドイツ、ロシア、デンマーク、スウェーデンなどに翻弄された独立に至る長い歴史があります。

url beograd-talin-avio-karte imagesタリンの街には古い教会が建ち並び、城壁で囲まれた広場があります。タウンホールといういわば役場が広場の一角にあり、説明書きによるといろいろな集会が開かれたとあります。さらに広場には、商工組合の原点とされるギルトのあった建物があり、政治とは切り離された独自の商行為をしていたことがうかがわれます。その建物は歴史博物館となっています。

広場が文化の形成にどのような役割を果たしたかを考えています。人との出会いの場、それが広場の役割です。「人」と「もの」と「情報」が混じり合うのが広場です。今でいうファーズマーケット(Farmer’s Market)が何世紀にもわたって開かれたところです。「情報」とはものの値段を決めるものです。こうした人々の行動を左右するのが文化の総体ということのようです。

文化を生み出した広場の歴史は、赤の広場 (Red Square)、天安門広場、トラファルガー広場 (Trafalgar Square)、シャルル・ド・ゴール広場(Place Charles-de-Gaulle)など人間のエゴがプンプン臭うようです。魔女狩りが行われ、火あぶりやギロチンなどのみせしめの処刑が行われ、国威高揚のような戦車やミサイルのパレードが繰り出すところです。広場の所産ともいえる文化の一面です。

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文化の日を考える その十一 広場と市民の生活

Last Updated on 2016年11月6日 by 成田滋

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ヘルシンキ市内の大きな広場にやってきます。側にある案内板には、古今、政治も経済も祭りごとなど貴族や庶民の生活は、この空間で繰り広げられたと記されています。議会が開かれ、政治が語られ、裁判も行われ、処刑者へのとりなしの礼拝が行われたとあります。いわば神も市民もこの広場に集まっていたようです。

中世に勃興した自治都市の成立と発展は広場とともにあるようです。広場に立ちながら、しばし広場が市民の生活や文化の形成にどんな役割を果たしたのだろうと考えます。

街の賑わいは広場にあることです。どこの広場もこと食べ物に関しては、例外なく賑わいが演出されています。毎日早朝から市場が広場にできます。近隣の農家が競って新鮮な野菜や果物を山のように並べます。広場は、生活の場。そういえば、マーケット広場とかマーケット通りという地名が必ずといってよいほど大きな街にはあります。ここヘルシンキも、あとで訪れることになるタリン(Talin)も例外でなはありません。広場は食の交流の場のようです。

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文化の日を考える その十 ヘルシンキ・オリンピック

Last Updated on 2016年11月3日 by 成田滋

フィンランドの思い入れの話題です。ヘルシンキの街中に立ったときです。それは北海道の片田舎で小さな私が経験した興奮の瞬間のような時です。ラジオや新聞で初めて文化の祭典、オリンピックに接したのです。

paavonurmi_500 856fd60a03dba893ea4c4b8ece2153d8404683ca 20150727-3-emilこのとき私は10歳。新聞やラジオからのオリンピックの話題はひとつも漏らさず、今も鮮明に記憶にあります。戦後の日本にとって、フィンランドは記憶に残る国です。それは1952年にヘルシンキで開かれた夏季オリンピックです。その前の1948年のロンドン・オリンピックには戦争責任のために日本は参加できませんででした。フィンランドは第二次世界大戦後初の夏季オリンピックへの復帰です。

復興しはじめた日本が国際舞台で再出発する大きな転機となります。聖火を点火したのは、パーヴォ・ヌルミ(Paavo Nurmi)。1920年から1928年の間、オリンピックで陸上の中長距離で合計9個の金メダルを獲得した彼は今も国民的な英雄です。

新聞で大賑わいだったのが、チェコスロヴァキア(Ceskoslovenska)のエミール・ザトペック (Emil Zatopek)です。ヘルシンキでは陸上競技長距離種目で3つの金メダルを獲得したのです。彼はそれまで「人間機関車」というニックネームがつくほどの驚異的なランナーでした。5,000m、10,000m、マラソンでの優勝は前人未踏の偉業となりました。

それにもまして、日本人を驚喜させた活躍が選手がいました。唯一の金メダルを獲得したのが、レスリングバンタム級の石井庄八でした。決勝戦の相手は、優勝確実との下馬評の高いソヴィエトの選手。フィンランドの選手らは雑巾のように叩きつけられたと報じられました。

その他、水泳1,500m自由形の橋爪四郎が銀メダルをとります。彼のライバルは古橋廣之進。「フジヤマのトビウオ」の異名で世界中の水泳界で知られ、1,500mで泳ぐたびに世界新記録を塗り替えてきました。ロンドンオリンピックに出場していれば、金メダル確実といわれました。古橋はヘルシンキ五輪ではすでに峠を越えていました。
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文化の日を考える その九 鰊漬けと馬鈴薯

Last Updated on 2016年11月2日 by 成田滋

ヘルシンキでの二日目の朝。宿の朝食では沢山の種類の鰊漬けが並んでいました。マリネとどう違うのかは分かりませんが、鰊漬けをたらふく食べたのは稚内時代以来のことでした。

81cc6cda1849d5c2562eb78a9468947c-608x456 123c13c9a4da4e853b050c55475f81f8 dee61c9f914f1727efb233ba17a712b2街頭に繰り出しました。時折、地図やガイドブックを手にする地元の人を見かけるだけです。多分田舎から汽車でやってきたかと思われる家族連れなどに出会います。身なりが質素なのと、なんとなく酪農や畑仕事を生業とする風情が感じられる旅人です。ダウンタウンにはこうしたお上りさんやまわりの国からの旅人が行き交っていますが、東洋からの若くて元気の良いギャルの群は見かけません。

通りに面したカフェやレストランは、競うように色鮮やかなパラソルをひろげ、テーブルや椅子を並べて客を迎えています。丁度待ちに待ったつかの間の夏。街のあちこちに広場があります。大道芸人のアクロバットや道化師のパントマイム(pantomime) 、弦楽三重奏をかなでるアマチュア音楽家、そうした芸術を楽しむ通りがかりの人々がいます。

野外のマーケットがあり、数時間前に掘り出したかのように土がべっとりとついている馬鈴薯を人々はせっせと買っています。日本人では米のない食生活が考えられないように、北欧諸国は馬鈴薯なしに食文化は語れないようです。アメリカも馬鈴薯が主食のようなところがあります。

そして白夜という舞台が用意されています。なんとも贅沢な光景です。

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文化の日を考える その八 ヘルシンキの白夜

Last Updated on 2016年11月1日 by 成田滋

1985年7月のことです。タラップを下りるとオランダ (Netherlands) 最大の都市アムステルダム(Amsterdam) の空港でした。乗り換えのためです。初めてのヨーロッパでした。静かな緊張が襲ってきました。田舎者の気分です。それを鎮めようと、空港のカフェに入りました。これからフィンランド(Finland) のヘルシンキ(Helsinki) へ向かうつかの間の待合時間です。田舎者を気づかれまいとして、できるだけのんびりと振る舞おうと気取るさもしい自分を感じました。会計を済ますと金髪の店員が「お金を落としましたよ」と英語で呼び止めてくれた。笑顔が印象的で、なにかこの旅はいいことがありそうな気がしました。

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ヘルシンキで泊まったのはダウンタウンに近い三流ホテル。カウンターには若い女性一人がテキパキと客をさばいています。ここには客の荷物を無理に運ぼうとするいんぎんなホテルボーイなどは宇なせん。部屋に入りテレビをつける。ポルノビデオをやっていました。この類のテレビ番組はアメリカでも見たことがありません。フィンランドとはこれほど性表現が自由な国なのかと考えました。

白夜 (White Nights) というものを始めた経験することになりました。シベリウス (Jean Sibelius) とフィンランディア (Finlandia) のことが思い浮かんできました。なにせ午後11時になっても外は明るいのです。窓からサッカーをする人を眺めながら、睡魔がくるのを待ちました。

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