二文字熟語と取り組む その6 国字と漢字

Last Updated on 2016年5月31日 by 成田滋

201010a3 2010112012505209f jitai-002中国から伝来した漢字ではなく、日本で作られた漢字は国字とか和字、倭字と呼ばれます。漢字の分類法の一つに「会意」があります。2つ以上の漢字を組合せ,両者を合せたものに近い意味と字形をもつ1字の漢字をつくる構成法のことです。「会意」によって作られた漢字を和製漢字とか和字と呼ばれます。この「会意」を意識すると漢字を覚えやすくなります。

「会意」の例ですが「木」であれば林、森、「車」であれば轟といった按配です。その他、凧や凪、凩など、身近なものとしていろいろとあります。「めとる」という漢字は「娶」ですが、「女」を「取」るという具合です。姑という漢字も古いと女が合わさっています。合点がいきます。

漢字の別な会意ですが、神道の神事で神棚や祭壇に供えられる植物が「榊」です。これもなるほどと頷けます。椋、杼、栢、樫、椚、椙、橿など漢字自体が意味を表すものです。

国字はもともとは中国の漢字の字体にならって新たに作られた漢字のこと。その特徴といえば、漢字は通常、音と訓読みがありますが国字には音がないのが通例です。畠、峠、粁、躾、鮨など音のない漢字が多数あります。

次に「国訓」です。漢字が日本語を表記するようになると、次第に漢字には、中国とは異なる意味や用法が現れてきます。それが「国訓」と呼ばれる姿です。「水」を訓で「みず」、「侵」を「おかす」と読ませることです。いわば日本製の字の意味のことです。「愛」とは立ち去るときに後ろ髪がひかれる心情の「いつくしみ」であり、国語では「かなしみ」となります(常用字解 白川静著 )。「杜」という字は「杜甫」という詩人や「杜絶」という熟語がありましたが、日本でモリと呼ばれるようになったのが国訓の例といえます。

二文字熟語と取り組む その5  大きな枡目の漢字

Last Updated on 2016年5月30日 by 成田滋

1nen maxresdefault k1-kuruma1放課後こども教室から学ぶことです。漢字の書き方を覚えるのに低学年は練習帳を使います。練習帳には範の漢字がでてきて、その下に10個の枡があります。枡目の大きさは2センチくらいです。やがて部首を意識できるようにするためでしょうか、十字の区切りが薄くでています。

どの子も何度も書いては消しています。中には声を出して書いている子供もいます。まだ熟語としては学んでいません。「青」、「空」を別々に学ぶのです。どうして「青空」を一緒にしないのかと思案してしまいます。「男」、「女」も別々になっています。画数が違うといっても「男女」を一緒に学ぶ方ほうがよいと思うのですが。

放課後こども教室では、隣あわせで友達と一緒に学んでいることに気がつきます。このほうが張り合いがあるのでしょう。一人での学習は自分の進み具合がわかりにくいこともあります。

宿題を終えると、早速外に飛び出して遊びに熱中する子、囲碁をやりたくて寄ってくる子。彼らは、「さあ、バトルだ」といって対戦相手を見つけます。「バトルってなに?」ときくと「闘うこと」と答えます。漫画やゲームの影響が強いようです。囲碁で大事な礼儀やマナーは二の次といった感じです。

小学一年は80文字、小学二年は160文字と取り組みます。身の回りの漢字が多いこともありますが、漢字に取り組む姿をみると読み書きは問題なく通過するはずです。吸収力が早いです。

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二文字熟語と取り組む その4  部首と漢字

Last Updated on 2016年5月28日 by 成田滋

info33 img019sk2ks-sコピー漢字は、偏(へん)、旁(つくり)、冠(かんむり)、脚(あし)、構(かまえ)、垂(たれ)などさまざまな「部首」で構成されています。たとえば、偏の一つである「さんずい」の漢字には「江」「洋」「汐」「池」「泳」「河」「港」「漁」「湖」「潮」など、水に関連するものが多いことを念頭におくと、理解がいっそう深まります。ちなみに漢字の「漢」も「さんずい」ですが、水とは関係ないように思われます。ですがこの字はもともと中国の「漢水」という川の名前を表す漢字として作られています。水と深く関わりがあることがわかります。ソウル市内にもハンガン、「漢江」が流れています。

「部首が無い漢字はない」ということを聞いて少々驚きました。どんな漢字にも部首はあるというのです。例えば、「上」とか「目」といった簡単な漢字は部首だけで成り立っています。漢字にはこうした部首が214個あるというのですから驚きです。

漢字を覚えるコツは、漢字辞典や漢和辞典を使ってこうした知識を深めることです。漢字の奥深さは部首にあるといえるかもしれません。部首をとおして漢字を探求的に学習することにしましょう。そして手書きができるようになると漢字が、不思議とパタンとして浮かび上がってきます。二字文字熟語も同じ部首から成るものが多いのに気がつきます。今日は、「部首が無い漢字はない」ということを「指摘」する「挨拶」で始めることにします。

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二文字熟語と取り組む その3  読書と漢字

Last Updated on 2016年5月27日 by 成田滋

B000_h27_02 kanji-11 edd006a22759d93681e0d173bb240567これまでなんども言っていることですが、私は毎日文字や数字を1,000字位手書きすることにしています。1,000字というと、このブログの一回分くらいです。ワープロばかり使っていると、新しい表現や熟語を手書きすることができないのです。手書きできない語いはワープロ化しないことにしています。「語彙」はワープロが勝手に画面に出してくれるだけです。私は「語彙」はまだ手書きできません。

ベネッセの「教育情報サイト」をときどき覗くのですが、そこに【漢字を覚えるコツ】とあって、その3には「読書しながら漢字を勉強しよう」というのがあります。私は「小説を読みながら覚える」ことにしています。いつもノートが脇にあって、知らない熟語や表現があると書き留めることにしています。

英単語の学習では、一つひとつ暗記するよりも、覚えたい単語が組み込まれた例文を覚えるほうが忘れにくく、実際に英語を使う場面で活用しやすくなると言われています。これは、文章中の他の単語との関連を一緒に理解できるからです。漢字の学習も同様です。文章の中にある漢字に触れることで、いわば脈絡や状況のなかで漢字を習得できます。誰もが得意な学習の仕方があるでしょうが、読書を通して漢字を学ぶ学習が推奨されます。

知らない漢字が出てきたら、その都度読みや意味を確認したいものです。「わからない漢字はノートに10回書く」などとルールを決めておくのです。読書ですが、漫画は子どもが読みやすいようにひらがなを多用しています。漢字の学習に適している材料かどうかは、わたしには解りません。

昨日の夕刊にあった二文字熟語のクイズは、背、心、濃、条、義、通、電、受が周りにあって、その中に「?」という漢字を入れると熟語ができるかという問題でした。幸い5秒で「?」の漢字がわかりました。ときどきどうしても解らないクイズもあります。

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二文字熟語と取り組む その2  佐伯泰英の時代小説と漢字 

Last Updated on 2016年5月26日 by 成田滋

img_0 iwane_edozoshi_03 200905271007120a8東京の街中、特に文京区、中央区、台東区などを歩く楽しみは堪えられません。文京区は、昔家庭教師をしたり社会教育館でアルバイトをしていたので、史跡を通してある程度の歴史や特徴を知ることができました。「文の京 (ふみのみやこ)」の名前の通り住宅の街ともいえそうです。大学の街でもあります。 孔子廟である湯島聖堂もあります。

中央区は、なんといっても日本橋や京橋など下町として栄えたことが特徴です。神田川、日本橋川、竜閑川、そして隅田川など水運によって栄えた下町です。銀座や築地はや東京湾の側です。銀座は名前のように江戸時代に銀貨幣の鋳造所があったのです。築地は埋立地です。佃島など関西とも通じる地名です。

台東区といえば、江戸時代を通じて、最も古い市街地の一つです。その代表格は浅草でしょう。寛永寺や上野公園、谷中の街並みや墓地も散歩にいいです。旧岩崎邸庭園も落ち着くところです。蔵前や浅草橋地区は人形の街。さらに玩具や衣料品、雑貨関係の卸も多数有ります。

江戸時代の文京区、中央区、台東区を知るには、古地図を調べるのもよいのですが、佐伯泰英の時代小説を読むと今の東京と昔の江戸の違いや変遷を知ることができます。その果実として、今まで書けなかった二字熟語の意味や使い方を学ぶことができます。

「巻紙も 痩せる苦界の 紋日前」という川柳にでてくる「紋日」という熟語は、知らなければ絶対に文章にしたり口にでることがありません。「紋日」とは遊郭において衣服を着替えるお祝いのことのようです。通常は客が費用を出してくれたようです。こうした表現を使えるかは、日本語も英語も全く同じで、この熟語を知っているか否かです。

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二文字熟語と取り組む その1 「放課後子ども教室」と漢字

Last Updated on 2016年5月25日 by 成田滋

o0800066410379335275 yytr khokago私は経済新聞を30年以上も購読しているのですが、経済や金融に強い関心があるわけではありません。ですが定年退職後は時間ができたせいか、経済は国民の生活に直結していること、景気が良くなったり悪くなったりすること、どうして物価が上がるのか、円安になるのか、企業の業績の上昇や下降はどうして起こるのか、貿易収支の黒・赤字などのからくりはなにかといった身近な話題に興味がうまれます。こうして退職後は、頭の体操の一環として投資や為替の動きに注目するようになりました。

今回の話題は、新聞の経済記事に関することではありません。漢字熟語についてです。新聞の夕刊には「熟語作成パズル」というのがあります。二文字熟語を作る問題です。どんな漢字をあてはめると周りを囲むすべての二字熟語ができるか、という問題です。時に難しい問題がでてきます。そのときは、辞書の助けを借りることにしています。思いもよらない熟語があることもあります。まだまだ知らない漢字、特に手書きできない漢字がたくさんあって好奇心がかき立てられます。例えば「天網恢々疎にして漏らさず」の「天網恢々」といった熟語です。

漢字の学習に関連してですが、毎週、月曜日と水曜日に近くの小学校で囲碁を教えています。この活動は「放課後子ども教室」の一環です。教室に行くと、子供達が一生懸命宿題をしています。囲碁を教える前に、宿題をみることにしています。彼らの多くは漢字や九九を学習します。大きな枡目のノートに教室で習った漢字を書いています。一年生から結構難しい漢字を習うのに驚きます。私は、一年生のときどんな漢字を学んだのかは全く覚えていません。宿題をやったという記憶もないのです。

一年生では80字、二年生では160字、そして六年生では181の漢字を学びます。六年間で1,006文字を覚えるというのです。この1,006文字をいろいろと組あせて無数ともいえる熟語を学ぶのですから襟を正す思いです。

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リベラルアーツ教育 その16 「合理的配慮」の「accommodation」

Last Updated on 2016年5月24日 by 成田滋

51RMK3lYG8L._SX347_BO1,204,203,200_ accommodation-clipart-can-stock-photo_csp13195031 img_02先日、「reasonable accommodation」にある「reasonable」とはなにかという話題を取り上げました。http://naritas.jp/wp1/?p=3501 今回はその続きで「accommodation」ということの意味についてです。

スイスの心理学者であり発達心理学者でもあるジャン・ピアジェ (Jean Piaget) は、子供の思考の発達段階を認識論 (Epistemology) からたどり、同化 (assimilation) と調節 (accommodation) という仮説をたてます。どういうことかいいますと、同化とは環境を自分のなかに取り込む働きであり,調節とは自分を環境に合わせて変える働きであるというのです。

 

 

 

 

 

同化は,子供の行為であり、周りの事象を理解し自分の知識へ取り込む働きのこととされます。他方、調節は,子供が環境へ適応するために、子供が学んでいる既存の体系に修正を意味するということです。ここからわかるように「合理的配慮」の「raccommodation」とは子供自身の主体的な環境との関わりを示すことばであることがわかります。つまり、子供が「柔軟な工夫や対応」をする行為といえます。

もっと広く法律や医学、ライフサイエンスなどの分野でも「accommodation」という用語は使われます。例えば、生命保険の領域では、「accommodation」は適応とか利害の調停や和解などとして使われます。 「arrange an accommodation」つまり調停をはかるといった例です。法令では、「収容」とか「便益施設」という意味でも使われます。眼科では遠近調節といった使い方をします。ライフサイエンスでは、順応ということばが使われます。それは「accommodation to urban life」というフレーズに言いあらわされます。

日常生活における「accommodation」の使い方ですが、「It will be an accommodation if you will meet me at the station.」という文章があるとします。これは、「駅まで迎えにきてくれれば有り難い」という意味です。迎える行為が「心地良い対応」とか「便宜をはかってくれること」となります。ニュアンスとしては、迎えにきて貰う側の立場にたつ表現です。

アメリカ障害者法 (Americans with Disabilities Act: ADA) における雇用などに関する「合理的配慮」の概念として、障害のある人々に障害のない人々と同等の対応をすること、あるいは適切な工夫や対応をすることが「reasonable accommodation」であると説明されています。公平と平等という社会的規範のもとで、企業の経済的合理性という妥協も生まれるのは確かです。そのため曖昧で無意識な和解や便宜的な措置がなされる可能性もあります。障害当事者団体が警戒するのが「合理的な措置とか対応」ということなのです。福祉的で恩恵的なイメージが「reasonable accommodations」にもあるということです。

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Delwyn Harnisch 追悼 その二 アメリカ研修から

Last Updated on 2016年5月23日 by 成田滋

visit_union USA_ne_UNLlogo 573f94dcce68c.image2007年2月17日〜26日にネブラスカ、カンザス、アリゾナの学校を視察しました。教育委員会から派遣されていた現役の教員7名を引率した視察旅行です。私は毎年、海外の学校を調べるために院生に呼びかけて参加を促してきました。こうした旅行を快適にし充実させるのは、海外の人脈を頼ることでした。人脈は海外の学会で会った研究者、友人の紹介、ロータリークラブ、フルブライト交流事業の研修で知り合った教育関係者などです。

訪問する学校を事前に決めるには、こうした人脈を使い相手に訪問目的などを伝えます。ほとんどの場合受け入れてくれます。こうした人脈は「Old boy connection」というのですが、アメリカもコネが強いところですからこれを使わないといけません。門前払いを避けるためです。予定していた学校の訪問がキャンセルされたとき、飛び込みで学校を訪問したこともあります。訪問の理由を伝えると校長は「どうぞ、どうぞ」といってくれます。

以下は、今から10年前にDelwyn Harnisch教授がお世話してくれたネブラスカやカンザスの学校を訪問したとき、事前に院生に配布した旅行メモです。今から考えると少々くどいかという印象です。

——————————–

1 持ち物の確認
・パスポートは死んでも忘れない。パスポートの期限を確認すること。
・大きなスーツケースを避けて、スポーツバッグなどにする。
・バッグに名札と目印となるリボンなどをつける。
・英文の名刺を持参する。
・ホテルにスリッパや寝間着はないので持参する。
・学校訪問用の上着とネクタイ
・服装は冬姿 仙台-札幌くらいの寒さと考えれば良い。

2 集合時間と場所
・2月17日午後3時、集合場所は関西空港3階出発ロビーのUnitedのチェックイン周辺
・便に遅れそうになったら、必ずUnitedの係員に連絡すること。万一遅れた時は翌日の便でくること。

3 現地での万一の連絡先–以下の受け入れ者、あるいはホテルに電話すること。
リンカン市 Delwyn L Harnischさん 日本滞在2年
住所 1635 S. 84th St. Lincoln,
自宅電話 (402) 488 xxxx

キャンザスシティ市 Jim Wieseさん 日本滞在25年
住所 5021 NW  66th St. Kansas City,
自宅電話 (816) 746 xxxx

4 ホテル名 なにかあったらメッセージを残すこと。
Chase Suite Hotel  リンカン市
200 S 68th Street Pl, Lincoln, NE
(402) 483-4900

Econo Lodge Kansas City Airport キャンザスシティ市
11300 Northwest Prairieview Road, Kansas City
(816) 464-2816

Comfort Suites Tempe, フェニックス市
1625 S. 52nd St., Tempe, AZ
(480) 446-8080

5 旅行予定
2月17日
午後3時 関西空港3階出発ロビー
午後7時頃 オマハ空港着 レンタカー 約1時間でリンカン市へ
午後9時頃 リンカン市内Chase Suite Hotel着

2月18日
午前9時15分 ルーテル教会のバイブルスタディと礼拝
午後1時 市内中華レストランで旧正月ブランチ
午後 ネブラスカ大学恐竜博物館見学

2月19日
午前中 ネブラスカ大学特殊教育講座の教官と協議
午後  未定
夕食 日本食レストラン

2月20日
午前 リンカン市内小学校
午後 リンカン市内中学校
午後4時 キャンザスシティへ出発、約3時間
午後8時 キャンザスシティ Econo Lodge Hotelにチェックイン

2月21日
午前 キャンザスシティ市内小学校
午後 キャンザスシティ市内中学校

2月22日
午前9時 レンタカー返却 10時54分キャンザスシティ発 デンバー経由
午後15時23分 フェニックス着 レンタカーで Comfort Suite Airport Hotelチェックイン

2月23日
午前 テンペ市内小学校
午後 テンペ市内中学校(高校の可能性もある)

2月24日
休養 グランドキャニオン見学

2月25日
フェニックス発 サンフランシスコ経由 山本さんとシスコでお別れ
2月26日 関西空港

6 航空便名
2月17日 KIXSFO UA886 (16:55-09:20)
2月17日 SFODEN UA862 (10:42-14:04)
2月17日 DENOMA UA1240(15:55-18:16)
2月22日 MICDEN UA5325(10:54-11:41)
2月22日 DENPHX UA1455(13:30-15:23)
2月25日 PHXSFO UA1651(07:25-08:29)
2月25日 SFOKIX UA885 (11:24- 2/26 16:20)
2月26日 関空着  (16:20)

7  その他
1 コミュニケーションのマナーです。
・大きな声でゆっくり尋ねたり答えたりします。発音は気にしない。(松田さんを見習うと良い(^^)
・相手の目をみて、動作は少々きざでも堂々と振る舞いましょう。
・答えははっきり、微笑は控えめに。
・質問を絶えず用意しましょう。
・沈黙は無関心とか無能力者と受け取られます。絶えず質問する姿勢を。

2 運転上のマナーです。
・歩行者がどんな場合でも絶対の優先であることを肝に銘じる。
・譲られたときは、決してthank you のクラクションを鳴らしてはいけない。ましてやハザードランプをつけることも全く不用である。そんな習慣やアメリカにない。
・信号のない交差点で横断しようとする人や歩行者を見たら必ず停まる。
・雨の時や午後3時以降は必ずライトをつける。
・夜交差点で一時停止するとき、ライトは決して消してはいけない。
・右折の場合だけ、歩行者がいないときや左から車が来ないときは赤信号でも右折できる。
・万が一事故の時は、警察がくるのを待つ。交通事故や違反のときだけは絶対に自分の非を認めたり、謝ったりしてはいけない。警察と保険会社が処理してくれる。
・制限速度は必ず守る。パトロールカーが多いので注意すること。
・駐車は必ず頭から停める。バックで決して停めないこと。
・レンタカーの契約書に記載された者以外は運転してはならない。
・お年寄りの運転が多いので、ゆっくり後をついて運転すること。追い越しは禁物。
・ハイウエイでは右側を運転する。追い越し車線は左側である。
・万が一パトカーに捕まったら、「アメリカで始めての運転であること」、「スピードメータがマイルでなくキロだと思った」、「アメ車はすごく運転しやすい」、「日本の道路と違って幅広くついスピードがでた」などと英語をたどたどしく操り、うまくとぼけると許される場合がある。この場合は、相当な演技力を要求される。もし、この演技がばれたら大変なことになる。
・バス停にバスがとまって乗客が乗り降りしていたら、決して追い越してはいけない。特に駐車中の黄色のスクールバスは厳重にこの規則を守ること。
・信号が黄色に変わったなら直進してはならない。
・オールストップの交差点(Yieldの標識がある)に信号はない。この交差点に来たら、必ず停止する。そして最初に交差点に入った車から順に発信する。
・最後に、日本でのマナーは通用しないと思って間違いない。周りの運転手のマナーを見ながら運転すること。

以上です。

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Delwyn Harnisch 追悼 その一

Last Updated on 2016年5月21日 by 成田滋

57CX3747 57CX3750 57CX3733昨日の朝、メールを開くとネブラスカ大学の友人が亡くなったとありました。彼の名前はDelwyn Harnisch。ドイツ系移民の名前の持ち主です。子供四人にもドイツ系の名前をつけていました。小さいときはネブラスカのど田舎にある複式学級で勉強したようです。その後、努力してイリノイ大学の基幹キャンパスであるアーバナ・シャンパン校(University of Illinois at Urbana Champaign) の教授となります。教育測定評価の専門です。日本には1998年にNECの研究所に招かれてS-P表というテストの結果の評価法を広めます。私が彼を知ったのはこの評価法です。その後、私は研究費に応募して彼を兵庫教育大学の客員研究員として3カ月招くことができました。

やがてDelwyn Harnischはネブラスカ大学リンカーン校 (University of Nebraska at Lincoln) から招聘状を貰います。アメリカの大学では、欲しい研究者の収入などを調べているので、現在の待遇以上の条件を提示します。例えば1.5倍の給料をだすとか、これこれしかじかの研究環境を用意するなどです。招聘状をもらう研究者は、提示された待遇、大学の研究設備、同僚となるスタッフの研究状況、子どもの教育環境などを調べ、自分の研究にも家族のためにもプラスになるかなどを考慮します。

Delwyn Harnischは、招聘状をもらったときイリノイ大学に残りたかったそうです。なぜならシカゴやニューヨークなどに近く研究環境として恵まれていたからです。そこで、学部長に会い「1.5倍の給料でネブラスカ大学からオファーがきているが、もしイリノイ大学が今の給料を上げてくれれば、残りたい、」と交渉したというのです。

ところが学部長は「残念ながら予算がないので、給料を上げるわけにはいかない」と言ったのでネブラスカ大学へ移ることにしたのだそうです。このように、さばさばと交渉できるのがアメリカの大学の面白いところです。また学部長も予算やスタッフの給料を決める権限があるのは興味深いことです。

Delwyn Harnischは地元のルーテル教会の熱心な信徒でもありました。公私にわたっていろいろお世話してもらいました。例えば、教員として派遣されている兵庫教育大学の院生を引率してネブラスカのリンカーン市の学校を視察したり、友人を紹介してもらい一緒に研究することができたこと、日本からの研究者を暖かく引き受けてくれたことなどです。その間いろいろなエピソードもあります。次回はそれを紹介します。

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リベラルアーツ教育  その15 リベラルアーツと技の基本

Last Updated on 2016年5月20日 by 成田滋

140124428837240382226 soukan-zu_edo img20090912204543227中世ヨーロッパの学問の科目や16世紀の日本におけるイエズス会のセミナリオで実践された宣教師養成のカリキュラムから、リベラルアーツの源流や発展の足跡を辿ってきました。世界のどの国でも人材の養成には、基礎となる学問をきちんと課していたことがうかがえます。

学問の世界だけでなく、武芸を磨くことでも共通した鍛錬方法があることが解ります。佐伯泰英の時代小説の中で「居眠り磐音ー江戸双紙」を第一巻の「陽炎の辻」から最終巻の「旅立ノ朝」まで読んだのですが、そのなかに剣術と精神の集中の奥深さが随所にでてきます。主人公は坂崎磐音という剣術家です。彼は江戸での修業を終えて豊後関前藩に戻ると罠にはまり、上意によって朋輩をやむなく斬り、関前藩を後にして再度江戸で暮らし始めます。やがて直心影流佐々木道場で佐々木玲圓という師匠のもとで術を磨きます。玲圓が不運の死を遂げると磐音が道場の師範となります。

佐々木道場に槍折れの使い手である小田平助が客分としてやってきます。道場の門番を務めるながら、下半身を鍛えるための槍折れを特技としています。槍折れとは犯罪者を捕縛するための棒を使った捕手術で足腰を鍛えるのです。磐音はこの槍折れを剣術に必要な体力作りの基礎として取り入れるのです。

しかし、道場にやってくる門弟、特に武士は棒折れなどを下士の武芸と蔑み、決して棒術に手をだしません。平助は、棒折れの稽古を弛まず続けると足腰がしっかりしとして、剣術の基となる体の線がぴたりと決まりると手本を示しながら教えをつけるのです。磐音の一人息子、空也も7歳のときから平助に棒折れを学び、13歳でようやく道場入りを認められます。そこから本格的に剣術を学ぶことが許されます。

司祭アレッサンドロ・ヴァリニャーノもまた、セミナリオに入学を認められやってくる若者に規則正しい日課や団体生活をとおして、日本語とラテン語の読み書き、日本の古典の知識、歌唱や器楽演奏を教えるのです。教授陣には禅宗の考え方を規範として教導していきます。宣教活動の基本は日本人の習俗や文化、振る舞い方や態度の理解に始まるという考え方を徹底していきます。ヴァリニャーノの考えが正鵠を射るのは、「将来の専門分野を見定めるための準備とする教育」リベラルアーツをしっかりと身につけていたからといえましょう。

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リベラルアーツ教育  その14 ヴァリニャーノの偉大な貢献

Last Updated on 2016年5月19日 by 成田滋

20151007062203 kakured Ganjin_wajyo_portrait司祭アレッサンドロ・ヴァリニャーノ (Alessandro Valignano) の九州や京都、大阪における宣教活動を「日本巡察記」という著作から振り返っています。ポルトガルやイタリアから大西洋を南下し、喜望峰からインド洋を通り、マラッカ海峡から北上して島原半島に上陸するのです。その航海は「波涛千里洋々と、東にうねり西に寄せ日出ずる国へ」の旅だったろうと察します。バルチック艦隊のようですが、いかんせん帆船で風まかせです。時に遭難しそうになり、港に戻るということもあったようです。

そうした困難を克服して、アジアの東端日本にやってくるのですから、宣教師らの心意気が伝わります。もちろん貿易上の利権争いや植民地化などの覇権争いが陰にはあったろうと察しますが、命がけの航海は重大な使命感がなければなし得ない事業であったはずです。

私がこの著作に惹かれるのは、ヴァリニャーノがいかに日本伝道で苦心し、日本人の会衆を導いていったかということです。異境の地での伝道は冒険です。文化も言語も全く異なる世界で、いかに人々を改宗させるか、その戦略を考えるとき、禅宗の教えに宣教の鍵を見いだすという彼の非凡さには驚くほどです。

日本には、古くから海外から渡来した人々によって文化や宗教がもたらされました。たとえば、百済からやってきて千字文と論語を伝えたとされる王仁、奈良時代に日本への渡海を5回にわたり試み、日本における律宗の開祖とされ、やがて唐招提寺を建立する鑑真、1549年に日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエル (Francisco Xavier) など国の制度の確立や民族の精神性や文化の発展に寄与した人々がいました。

ヴァリニャーノの「日本巡察記」は、江戸幕府によってキリスト教徒がやがて禁教や迫害など、辛い時代を迎えることを予見する比類のない資料価値を有する著作であり、安土桃山時代と江戸時代を研究するうえで不可欠な資料であるのは間違いありません。

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リベラルアーツ教育  その13 セミナリオでの日課とラテン語の学習

Last Updated on 2016年5月18日 by 成田滋

img_0 15eu102_3143 800px-Pcs34560_IMG_1985安土桃山時代、司祭アレッサンドロ・ヴァリニャーノ (Alessandro Valignano) は、イエズス会によって日本に最高監督者として派遣されます。巡察師という職命を受けたヴァリニャーノは、日本伝道という使命を果たすためには、同僚のイエズス会宣教師の態度や行動が極めて大切であることを理解していきます。そして日本人と親交を結ぶにはどのような心得が必要なのかと腐心するのです。やがて、行動の規範とすべき基は禅宗であることにゆき着きます。

さて、ヨーロッパからの宣教師によって指導される若き日本人はセミナリオやコレジオでどのように学んでいたかです。夏の間は4時半に起床し、祈祷してからミサ聖祭に参加します。その後、座敷の清掃です。6時から7時半までは学科の勉強。年少の者は教師の指示でラテン語の単語を学びます。暗誦したかどうかは、読み聞かせによって確認し、宿題も点検されます。年長者は年少者の学習を点検したりします。

9時から11時までは食事と休養です。11時から2時までは日本語の読み書きをし、すでに習得している者は日本文の書状を認めたりします。2時から3時までは唱歌や楽器の演奏を学び、その後休養です。3時から5時までは生徒は再びラテン語の勉強にはいり、文章を書いたり朗読したりします。5時から7時までに夕食をとり休息します。7時から8時まで再びラテン語を復習し、年少者は日本の古典を学びます。8時には夕べの祈りをし就寝となります。

土曜日の午前中は、その週に学んだラテン語や日本語の読み書きなどの復習にあてられ、その後は自由時間となり散髪、入浴、告白の時間となります。日曜日や祝日は別荘か野外で休養したり自由時間を楽しみます。団体生活は規律に従って行われていたことがわかります。

やがてミナリオを修了した者から、伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノが選ばれ、ヴァリニャーノらに率いられて1582年にローマ教皇、スペインとポルトガル両王に謁見することになります。彼らは大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の名代でありました。これが天正遣欧少年使節です。

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リベラルアーツ教育  その12 「日本巡察記」と日本人の風習と形儀

Last Updated on 2016年5月17日 by 成田滋

iiqajtirvN images 20130531094501イエズス会の司祭アレッサンドロ・ヴァリニャーノ (Alessandro Valignano) は、イエズス会が日本に最高監督者として派遣した巡察師です。安土桃山時代のことで、織豊時代ともいわれます。まだ各地に戦国大名が割拠していた時代です。織田信長が存命中は、イエズス会は筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後、畿内などで宣教を許されていました。

宣教活動が可能になったのは、大村純忠、松浦隆信、有馬鎮貴族、大友宗麟、小西行長、高山右近らの切支丹大名から厚い庇護を受けていたからです。しかし、同時にヴァリニャーノはこうした大名から、在日イエズス会宣教師の非日本人的態度について注意を受けていました。そのため、同僚の宣教師を教導するために日本の風習や形儀に関する心得書を著す必要を認めていました。

イエズス会員の間では、日本で仏教の僧侶のような習慣や儀礼を守ることが適切であるかどうかが討議されます。日本の風習はヨーロッパのそれと異なり、日本国内では欧風では無礼にあたることが生じて、順調に伝道できないことがわかってきます。そこで巡察師ヴァリニャーノの名によって日本人自身の手で適当な心得書が作製されるべきことが決められます。

ヴァリニャーノは日本の習俗や習慣を深く調べ、日本の宗教から範例を採用するにあたり禅宗を選びます。禅宗こそが日本の社会ともっとも密接な関係があり、参考とするにもっともふさわしいと考えたのです。他にも、大友宗麟がもともと禅宗に帰依していたことも知っていました。織田信長の時代は禅宗は勢いを失っていましたが、なお、日本での仏教の中で有力な宗派と考え、臨済宗をもって日本のおけるイエズス会の秩序を定める際の規範として選びます。

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リベラルアーツ教育  その11 「日本巡察記」と日本人の宗教的素質

Last Updated on 2016年5月16日 by 成田滋

A-Valignano worldheritage u01-1ローマイエズス会の司祭アレッサンドロ・ヴァリニャーノ (Alessandro Valignano) 「日本巡察記」の二回目です。この書物はイエズス会が日本に最高監督者として派遣したヴァリニャーノのイエズス会総長にあてた日本伝道に関する報告書です。時代は1580年代です。

ヴァリニャーノは、当時の日本人の宗教に対する素質や宗教的な生活を立派に続けていく素質を疑っていません。日本人が宣教師と必要な素養を三つあげます。第一は天分、第二は堅固な根気強さ、第三は徳操と学問です。ヴァリニャーノはこの三つの素養が日本人に備わっていると断言します。短い滞在ながらその観察眼には驚かされるほどです。

特に取り上げたいのは学問についてです。セミナリオやカレジオではラテン語が重視されます。ローマの公用語であり学問で必須の科目でありました。聖書がラテン語で書かれていたからです。日本人にとって極めて新しい言語で、用語が日本語にないこと、文法が日本語とは異なることなど、習得にがはなはだ困難であったにもかかわらず、日本人は非常に鋭敏かつ懸命で思慮深く、よく学ぶ態度に驚嘆した、とヴァリニャーノは記します。子供でも大人と同様に3、4時間も席から離れず熱心に勉強する姿勢にも心がうたれたようです。

日本語の習得が難しいのと同様にラテン語を日本文字で書いて習得し、楽器を奏でたり歌うことを学び、意味が分からなくても容易に暗誦するとも記しています。ヴァリニャーノは、こうした日本人の天性や根気強さ、学問の高い吸収力などを観察しながら、ラテン語文法が日本語で説明され、将来辞書や参考書が作られれば、ラテン語を短期間で習得するのは間違いないとさえ断言しています。

それと同時に、イエズス会の修道士や教会の奉仕する人々とは通訳を介して話をしなければならず、ポルトガル語を話したり理解できる者がいないことを嘆いていました。そこで、ヨーロッパからの司祭達が日本語を学べるようにすることの必要性を感じます。そうした動機によって日本文典と日本とポルトガル語 (葡萄牙) 辞典を作製します。

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リベラルアーツ教育  その10 「日本巡察記」とヴァリニャーノ

Last Updated on 2016年5月14日 by 成田滋

135_201511292200473fd 20090821164253 02_1photo02現在、1579年から三度に渡り来日したイエズス会の司祭アレッサンドロ・ヴァリニャーノ (Alessandro Valignano) 「日本巡察記」を読んでいます。この書物はイエズス会が日本に派遣した最高監督者であったヴァリニャーノが、ローマのイエズス会総長にあてた機密に属する報告書です。

本書は、当時の日本のキリスト教内部の深刻な諸事情や宣教師達の想像を超える苦悩、解決を迫られる日本とヨーロッパの風俗や習慣、文化の違いにいかに順応しなければならなかったという問題、日本人宣教師の養成とその難しさなど、宗教学的にも文化史的にも極めて興味ある日本の切支丹史の内面を描いています。

三度に渡って来日し、巡察師としての職命を帯びるということは、日本が宣教の地として可能性を秘めながらも困難な異教の地であることを知っていたからだと考えられます。巡察師というのは、布教先における宣教師や会衆を指導し、布教事情を調査し報告するために派遣される職名です。ローマと極東の間の通信や連絡は容易なものではなく、報告を作りその回答をローマから得るには数年かかったと思われます。そのために、巡察師の使命は強大な権限が与えられていました。

日本イエズス会布教区の責任者はフランシスコ・カブラル (Francisco Cabral) という司祭でした。日本人の性格について偏見に満ちた見解を持ち、日本文化に対して一貫して否定的であり差別的でありました。やがて日本人信徒と宣教師たちの間に溝ができていきます。カブラルは日本語を不可解な言語として、宣教師たちに習得させようとせず、日本人に対してもラテン語もポルトガル語も習得させようとしなかったとされます。しかし、巡察師ヴァリニャーノは、日本文化の尊重という姿勢をとり、外国人宣教師が日本語と日本人の礼儀作法を学ぶことの重要性を指摘し、カブラルを強く批判して、やがて布教長のカブラルを解任します。

日本のイエズス会は、早くからマカオにあったイエズス会に報告書を送っていたといわれます。ヴァリニャーノ は、大友宗麟、有馬晴信らの切支丹大名や織田信長、豊臣秀吉らに謁見しています。その後、本能寺の変以降、豊臣秀吉の統治下になると日本の教会が不安定な状態に置かれるようになることを察知していきます。それゆえ、重要な文書を国内に留め置くことを避け、マカオで保存する措置をとったことが記録されています。「日本巡察記」はヴァリニャーノが書いた「日本諸事要録」といった報告書の一部であり、将来の布教の方針を決める際の重要な資料となっていきます。

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リベラルアーツ教育  その9 セミナリオから学制へ

Last Updated on 2016年5月13日 by 成田滋

a0123372_8283463 DSC_0310 meiji1500年代のヨーロッパは人文主義 (Humanism) と文芸復興 (Renaissance) の時代といわれます。「普遍的な教養や知識によって、それまでの世界観とされた非人間的な抑圧から人間を解放し、人間性の再興をめざした運動」といわれます。セミナリヨやカレジオでの教育内容も古典教育に力が入れられていました。それはラテン語で書かれた古典と日本の古典を学ぶことでした。「日本キリスト教文化事典」 (原書房) によりますと、1579年、日本にやってきたイエズス会の巡察師ヴァリニャーノは、日本独自の風習が障壁となり布教の難しさを痛感したといわれます。

そこでヴァリニャーノは、日本で宣教師を養成するためには、ヨーロッパの文化を押し付けるのではなく、日本独自の文化を尊重しながら布教する方針を示したようです。例えば、日本文学を学ぶことが必須と考え平家物語などをテキストにして古典を学ばせたといわれます。

日野江城下に開設された有馬のセミナリヨでは、ポルトガルからきた宣教師が、ラテン語などの語学、基督教、天文学 (地理学) などルネサンス期の西欧学問が教えられていたといわれます。

ラテン語は当時のカトリック教会の公用語です。ラテン語は学問のための言語であったので、セミナリヨやコレジヨでは必ず教えられました。音楽と体育も科目となりました。音楽はフルート、オルガンなどの器楽、およびグレゴリオ聖歌 (Gregorian Chant) などポリフォニー (polyphony)やモノフォニ(monophony) などの練習がありました。夏は水泳が奨励され、体力を培ったという記録もあります。

セミナリヨやコレジヨで行われていた教育は、宣教師の養成ではありましたが、日本の近代教育の先取りともいえるものではなかったかと思えるほどです。リベラルアーツ教育そのものです。明治以降、日本がとりいれた西欧式の教育システムはセミナリヨから始まった、といえます。それを示すのが明治五年の「学制」の公布です。その学事奨励書には、法律、政治、天文、医療の言葉がでてきます。

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リベラルアーツ教育  その8 「セミナリオとコレジヨ」

Last Updated on 2016年5月12日 by 成田滋

2b9869137170bb7e76d084431fd981f4 s2-19-seminario imgedb72b1dzik2zj私は、宗教学や神学について全くの素人です。一介の信徒です。ですがリベラルアーツ教育のルーツを調べていくと神学とか哲学という分野にたどりつきます。特に中世のヨーロッパにおける学問では、どのような人を育てそのために何を学ばせるかが教育機関の使命だったようです。その中心は聖職者の養成にありました。それを担っていたのがセミナリヨ(ポルトガル語: seminario、英語: seminary)とコレジヨ(ポルトガル語: seminario、英語: college) です。

日本にキリスト教がもたらされたのは1549年。イエズス会が派遣したザビエル (Francisco de Xavier) らによって布教が始まったとされます。1579年に同じイエズス会のアレッサンドロ・ヴァリニャーノ (Alessandro Valignano) 神父は、日本における布教の成否は、日本人の司祭や修道士を育成することにかかっていると考えます。こうして作られた教育機関がセミナリヨ(初等教育)とコレジオ(高等教育)です。

イエズス会は滋賀の安土城や南島原の日野江城にセミナリオを造ります。切支丹大名だった4万石の城主、有馬晴信は日野江城のセミナリオの建設を奨励します。コレジヨは大分県臼杵市に最初に造られます。コレジヨは、当時は修道院とか修練院を意味する ノビシャド( ポルトガル語: noviciado )と呼ばれていました。

こうして豊後国である府内に開設されたコレジオでは、一般教養の教育と聖職者育成の専門教育の両方が行われ、キリシタンに改宗した士族や布教を志す者に対して、キリスト教、ラテン語、音楽、数学などの講義が行われます。有馬晴信とともに切支丹大名であった大友宗麟はノビシャドの開設に協力します。コレジオの教育は、日本におけるリベラルアーツ教育の先駆けではないかというの私の考えです。
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リベラルアーツ教育 その7 「合理的配慮」の「reasonable」

Last Updated on 2016年5月11日 by 成田滋

o0531041110285641187 url Disability_symbols一般に詩や哲学などの古典、ラテン語 (Lain) やギリシャ語(Greek)などの語学、歴史を学ぶことも教養といわれているようです。誠に雑ぱくな定義でありますが、、こうした分野における知識を蓄積しても日常生活や仕事にはじかに役立つということはありませんが、専門誌や雑誌にでてくる用語を吟味することには、自分の疑問を解くのに大いに参考になります。

この拙いブログでは外来語がでてくるときは、特に英語やドイツ語、ラテン語の綴りを付記することにしています。そのほうが、日本語の意味をより深く知ることの助けになると思うからです。また日本語であっても意味がいろいろと違います。それを外国語、特に英語の場合はラテン語やギリシャ語から由来するものが多数あるので、日本語となっている単語の理解に役立つことが多いのです。同時に日本語訳がはたして確かなのかを考える機会となります。

一体、「合理的配慮」という用語をあてたのは厚生労働省や文部科学省の官僚なのか、あるいは英語学者なのかは分かりません。いずれにせよ、英語のフレーズと日本語訳とを対比しながらその意味を考えていくと、「深く合理的な配慮の意味を伝えない」用語であることに気がつきます。私の疑問が深まるばかりです。

まずは「reasonable」という単語です。辞書を調べると、「reasonable」はラテン語の「ratio」とか「rationabilis」に由来し、その同義語として「mediocris」、「prudent」などとあります。ともあれ「ratio」からrationalという英語が生まれたことが容易に理解できます。「rationabilis」や「justus」からは、適正なという「legitimate」、公平なという「equitable」、細心なという「prudent」という単語もこれにあてはまります。

他方、注意すべきことは、「rationabilis」から、「並の」とか「平凡な」という意味の「mediocris」という派生語もあることです。これは、凡庸なとか平均的なといった「average」、さらにいい加減なとか手頃なといった「tolerable」という単語につながるのです。

このように「合理的ーreasonable」という単語は意味が深いのです。その使い方は日常の事象にあてはめると次の三つにわけられそうです。

1) 〈思考・行動などが〉
適正な,  当然な,  正当な,  筋の通った,  尤も至極な,  妥当な,   応分な,  順当な,  道理をわきまえた,  分別のある
2)  〈物事が〉
無理のない,  手ごろな,  穏当な,  当り前の
3) 〈値段などが〉
いい加減な,  あたぼう,  聞き分けのよい,  話のわかる,  手頃な,  格安な

さて、「reasonable accommodation」を「合理的配慮」としたのは果たして妥当なのかという疑問です。「道理をわきまえ筋の通った」内容か、はたまた「いい加減な聞き分けのよい」内容かどうかです。
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リベラルアーツ教育 その6 「自由七科」

Last Updated on 2016年5月10日 by 成田滋

georg-wilhelm-friedrich-hegel-03 curse-magic-graffiti-eyecatch-01-620x377 73ce447c「Liberal Arts」ということの続きです。「専門分野の枠を超えて共通に求められる知識や思考法などの知的な技法の獲得や、人間としての在り方や生き方に関する深い洞察、現実を正しく理解する力」というのが平成14年2月に中央教育審議会が答申した教養ということの定義です。「専門性につなげる、あるいは専門性にとらわれない幅広い教養や知識」といった人が持つ必要がある実践的な知識・学問の基本のこととあります。

定義はさておき、中世の西欧において必須とされたのが「自由七科」(septem artes liberales) というものです。その内訳ですが、主に言語にかかわる3科目の「三学」(trivium)と数学に関わる4科目の「四科」(quadrivium)の2つに分けられます。三学は文法・修辞学・弁証法(論理学)、四科が算術・幾何・天文・音楽と規定されていました。幾何学は図形の学問であり、天文とは円運動についての学問で現在の地理学に近いと考えられます。ラテン語で「tri」とは三、「quad」とは四、「septem」は七を意味します。この接頭語がついた英語は沢山あります。

哲学(Philosophia)ですが、以上の自由七科を統合しその上位に位置すると考えられました。ギリシャ語(Greek)で英知を意味する「sophia」、愛することを意味する「philo」から成ります。一切の思想的前提を立てない理性の学といわれる哲学は、弁証法によって思考を深めることを教えるものとされました。弁証法とはギリシア語でいう対話「dialektike」です。

哲学はさらに神学の予備学とされたというのですから、なんだかこんがらがってきます。神学は「理性によっては演繹不可能な信仰の保持および神の存在を前提とする」というのです。どうも神学が中世の学問の中心であったようです。ここまで思索してくるとヘーゲル(Georg Hegel) の「弁証法的論理学」とか「止揚」ということの内容、そしてなによりも神学の神髄を学ぶ必要を感じます。

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リベラルアーツ教育 その5 コミュニティ・カレッジ

Last Updated on 2016年5月9日 by 成田滋

iStock_000047714610XLarge large_matc_0 madisonclg_logo我が国のリベラルアーツの雄は国際基督教大学( International Christian University: ICU)といってもよいでしょう。単科大学という性質からみればInternational Christian Collegeと名付けるのが正しいと思われます。ICUはベラルアーツ・カレッジ(liberal arts college)として「平和」、「学術基礎」、「専門知識」を統合しながら、バイリンガリズムによる世界基準の「全人教育」という理想を掲げて1949年に創立されます。「国際的社会人としての教養をもって、神と人とに奉仕する有為の人材を養成し、恒久平和の確立に資することを目的とする」とあります。アメリカの長老派教会 (Presbyterian Church) によって支援され、財界からの寄付を受けて、リベラルアーツ・カレッジの伝統を踏襲しています。

「多様性」はアメリカの大学の特徴です。アメリカの大学はもともとは単科大学であるカレッジ(college)として創設された経緯があります。例えば聖職者を養成し、町や村のリーダーを養成することを主たる目的として定めました。そのために教養を幅広く身につけ、決断力を養い、リーダーシップをとれる人間になる基礎教育をするようになりました。これがリベラルアーツ教育です。そして、リベラルアーツ・カレッジが誕生します。

1636年に創立された牧師養成の機関がハーヴァード大学(Harvard University)です。ハーヴァードはアメリカ最初のカレッジです。やがて新しい専門分野を加えていきながら、大学院レベルの研究に力を入れている総合大学として発展してきました。世界で最も入学が難しいといわれています。

アメリカには州立、私立を含めて4,000以上の大学があります。その大半は小さなカレッジであることをご存じでしょうか。4年制のリベラルアーツの大学です。少人数のコミュニティのゆえ、手厚い指導のもとで幅広い知識を習得できます。美術や音楽のカレッジ、コンピュータ操作、歯科技工、機械、教師養成、軍の士官養成大学などもあります。あえて大きな総合大学を選ばずこうしたカレッジで勉強し、総合大学の大学院へ進む者が多いのがアメリカのカレッジの特徴です。

どうしても職業技術を身につけたい者には、コミュニティ・カレッジ(Community College)、あるいはテクニカル・カレッジを選び最低限の教育や職業訓練を受けることができます。ここで語学研修するのも賢い選択です。コミュニティ・カレッジは中小都市には必ずあります。

リベラルアーツ・カレッジなど多くのアメリカの大学は、できるだけバラエティの富んだ学生たちを入学させようという観点から入学審査を行います。リベラルアーツ・カレッジで有名なところは極めて授業料が高いです。そのため高所得者の子弟が多いのも事実です。そのために大学は多くの奨学金を用意して優秀な学生を集めようとします。大学がどの位の基本財産(Endowment)を有するかが大学発展の大きな要素となります。

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リベラルアーツ教育 その4 学部の廃止や再編を憂う

Last Updated on 2016年5月7日 by 成田滋

220px-Septem-artes-liberales_Herrad-von-Landsberg_Hortus-deliciarum_1180 150416101124-harvard-campus-780x439 logo人文社会科学系の学部がある国立大学の8割が、学部の再編や定員削減などを検討していると報じたのは、2015年7月のNHKの調査です。今、全国の地方にある多くの国立大学は、研究などはそっちのけで改組のために会議やタスクフォースに多大な時間をかけて、改編に奔走しているといえる状況です。

この調査によれば、人文社会科学系の学部がある大学42校のうち、「再編して新たな学部などを設ける」が11校、「具体的な内容は未定だが、再編を検討する」が8校、「定員を減らす学部などがある」が6校、「教育目標を明確にした」が3校、「国の方針を踏まえたものではないが、再編を盛り込んだ」が7校といわれます。

文部科学省の高等教育局長は次のように言います。
「大学は、将来の予想が困難な時代を生きる力を育成しなければならない。そのためには今の組織のままでいいのか。子どもは減少しており、特に教員養成系は教員免許取得を卒業条件としない一部の課程を廃止せざるをえない。人文社会科学系は、専門分野が過度に細分化されて、たこつぼ化している。養成する人材像が不明確で再編成が必要だ。」

こうした文部科学省からの学部の廃止や再編を促す通知に対して、25校が「趣旨は理解できる」と答え、「不本意だが受け入れざるをえない」が2校、「全く受け入れられない」が2校ということです。「全く受け入れられない」という勇気ある表明をしているのは滋賀大学の位田隆一学長です。人文社会科学系学部の改組や廃止を求めた文部科学省の通知に対して、「世界の教育後進国と言われても仕方がないほど嘆かわしい」と手厳しく批判しています。

「人文・社会系学部や教育系学部の廃止や再編成」というのは、国立大学にとって激震ともいえる出来事です。ひいては我が国の大学教育にとってもそうです。それは、自由に考え自由に判断する能力を獲得するには、教養課程の一年半では到底足りないにも関わらず、例えば、即戦力を育てるといううたい文句で、例えば記憶中心の4年間の教育課程で教員を学校に送り出す教育が行われています。6年間の教育課程が必要なのです。「教員養成の高度化」というかけ声はおぞましいほど稚拙な行為といわなければなりません。

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リベラルアーツ教育 その3 高等学校の登場

Last Updated on 2016年5月6日 by 成田滋

Bankara_students_in_1949 220px-The_first_gymnasium_in_Tokyo._Before_1902 images旧制高等学校とは、1894年に高等学校令から1950年まで存在した日本の高等教育機関です。1918年の高等学校令改正により各地で次々に高等学校が増設され、7年制高等学校が出現し大学予科は高等科に改称されていきます。これが略して旧制高校です。

戦前の旧制高校は第一高等学校から始まり、全国で30数校しかありませんでした。リベラルアーツ教育をする場所であったのは明白なのですが、なにぶん数が足りずいわばエリートの育成にならざるを得ませんでした。入学が極めて難しかったのです。

戦後日本の民主主義という新時代にそうしたエリート教育はふさわしくないという考えから、3,700余りの新制高等学校が誕生することになります。ですが新制大学を含め大学入試が知識の記憶がものをいうために、高等学校は再び記憶偏重の教育課程となってしまいます。予備校や塾も大いに繁盛しました。私は貧しかったために、一度も予備校通いや家庭教師についたことはありませんでした。なんとか北大に入れたという幸運者でした。

現在の大学も一般教養として教育している一年半余りの課程は、いわばリベラルアーツ教育ともいうべき重要な役割を持っています。ですが課題も背負っています。リベラルアーツ教育の目標を十分に達成するにはいくつかの考慮すべきことがあります。

第一は、クラスの編成が大規模であることです。現在のようにマイクを使って200人や300人の学生に講義するのでは、知識を注入することで精一杯です。第二は講義よりも演習、演説よりも討論中心のクラス、が望ましいことです。対話という形式をとらず、一方向による講演や講義では担当者の自己主張に終わってしまいます。第三は、あまり専門性に偏らない文明史的なものの見方ができるような講義や演習が大事だと思います。第四は、就職活動に奔走し勉強すべき時間が少ないような有様は改善すべきです。このような状態では、大学は短大に成り下がっているといわざるを得ません。

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リベラルアーツ教育 その2 旧制高等学校

Last Updated on 2016年5月4日 by 成田滋

img20140324135618260 clip_sap-fall007 2010111402-7db44我が国におけるリベラルアーツ教育の足跡は、旧制高等学校の歴史にみることができます。旧制高等学校は1894年に高等学校令から1950年まで存在した日本の高等教育機関です。女学校も中等教育から高等教育を実施して女子教育に貢献します。1918年の高等学校令改正により各地で次々に高等学校が増設され、7年制高等学校が出現し、大学予科は高等科に改称されていきます。これが旧制高校です。

教育内容は現在の大学教養課程に相当します。現在の高等学校と混同されることもありますが、現在の高等学校は旧制の学制においては旧制中学校がそれに相当します。

旧制高校では、帝国大学への予備教育を行う高等中学校本科は高等学校大学予科に名称を改められ、修業年限が2年制から1年延長された3年制となります。専門学部は3年制から4年制に移行します。1894年以降、第一高等学校 (一高)の修学期間は3年となり帝国大学の予科と位置づけられました。仙台の二高、京都の三高、金沢の四高、熊本の五高などもそうです。後に学部は帝国大学へと昇格したり、専門学校として分離されます。

1949年の新制国立大学設置当初から「教養学部」という学部を有するのは、全国の国立大学では東京大学教養学部が唯一のものです。東京大学教養学部の設置は旧制高校の教養主義的な伝統を継承しようとしたことです。北海道大学の教養部は1995年に廃止されてしまいました。

私学のリベラルアーツ・カレッジの雄である国際基督教大学(ICU)ですが、戦後その設立に携わったのは旧帝国大学卒の有力者です。旧制高等学校の伝統を継承しようと設立に尽力した経緯があります。

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リベラルアーツ教育  その1 カレッジと北大教養部時代 

Last Updated on 2016年5月3日 by 成田滋

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Max Weber German sociologist 1864-1920 born in Erfurt educated at universities of Heidelberg Berlin and Gottingen chair of sociology in Vienna 1918 chair of sociology at Munich 1919 one of the founders of sociology best known for his work Die protestantische Ethik und der Geist des Kapitalismus

Max Weber
German sociologist 1864-1920 born in Erfurt educated at universities of Heidelberg Berlin and Gottingen chair of sociology in Vienna 1918 chair of sociology at Munich 1919 one of the founders of sociology best known for his work Die protestantische Ethik und der Geist des Kapitalismus

 

 

 

 

 

 

ご承知かもしれませんが、アメリカではリベラルアーツ教育(Liberal Arts Education :LAE) が今でも盛んです。伝統のある有名な単科大学 (college)が各地に沢山あります。こうしたカレッジから総合大学へと進む学生が大勢います。LAEをきちんと受けている学生を総合大学は受け入れるのです。

LAEとは個人の知性を伸ばし、将来の専門分野を見定めるための準備とする教育のことです。知識を覚え込む普通教育と研究に独自の貢献をするための専門教育の中間に位置することです。教養課程といわれています。しかし、知識を蓄積することが、そのまま教養につながるとはいえないのが学ぶことの難しさです。

私も北海道大学に入学したときは、一年半は教養部に属し、その後法学部へ進みました。文科系では経済学部や文学部、教育学部もあり、同輩はそれぞれ専門分野を選んでいきました。教養部では、知識の詰め込みというよりも、学生に自由に学ばせる雰囲気がありました。休講はしばしばありました。そのおかげでカール・マルクス (Karl Heinrich Marx)だ、マックス・ウエーバー (Max Weber)だといった人物を話題とした議論をしばしば聴きました。河合栄治郎の「学生に与う」とかロジェ・マルタン・デュガール (Roger Martin du Gard) の「チボー家の人々」、阿部次郎の「三太郎の日記」など青春のバイブルといわれた作品、他に内村鑑三の著作を競うように読んだものです。こうした書物に親しむ機会は、学生としての一つの洗礼のようなものでした。

Liberal Artsの語源を調べると、教養がいかなることかが分かります。ラテン語で「Liber」とは書物という意味です。図書館 (library)や図書館司書 (librarian) という用語がここから生まれます。「Liber」のもう一つの意味は「自由」ということです。ヨハネの福音書8章31‐36節に「真理はあなたを自由にする」とあります。聖書によっては”The truth will set you free.” (New International Version)  とか“The truth shall make you free.”(King James Version)とあります。

教養課程とは、学問とはなにか、真理とはなにか、科学とはなにか、職業とはなにか、といった未知の世界を考える時間のことかもしれません。そして将来の専攻を決めていくのです。専攻を考えるためには、幅広い基礎的な知識や教養が求められます。

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音楽の楽しみ 合唱曲の数々 その53 ノルウェーとペイガニズム

Last Updated on 2016年5月2日 by 成田滋

7b31bfb61b8077bb32b99ab659cbf32d scaletowidth maxresdefaultかつて神戸にあった葺合区は生田区と共に、中央区になりました。葺合区にあった聖書学院というところで半年学んだことがあります。この運営はノルウェー (Norway)の福音ルーテル伝道会でした。教文館発行の「日本キリスト教歴史大事典」によりますと、ルーテル伝道会の日本での宣教開始は1949年とあります。

この伝道会の前身は1891年に設立された「ノルウェー・ルーテル中国伝道会」で、この年8名の宣教師を中国に派遣したようです。さらに1900年には、フィンランド(Finland) のルーテル福音教会は、最初の宣教師を日本に派遣し長野県を中心に伝道したという記録もあります。スカンディナヴィアの小さな国から「東の果て」ではあり「日の昇る国」でもある日本に「福音を聞き主を受け入れ信仰の道を歩む体験をする」というスカンディナヴィア人の心意気を感じます。

戦後、中国から引き揚げたノルウェーの宣教師は賀川豊彦の協力を得て、兵庫県西明石を宣教の出発点とします。賀川豊彦は大正・昭和期のキリスト教社会運動家、社会改良家。戦前日本の労働運動、農民運動の指導者として活躍します。神戸のスラム街での無料の巡回診療よって「貧民街の聖者」とも呼ばれました。自伝的小説「死線を越えて」の印税はすべて社会運動につぎ込まれたといわれます。

ノルウェーにキリスト教が入ったきたのは西暦1000年時代といわれます。アイルランド (Ireland)やブリテン(Britain) などへの侵略争いがヴァイキング (Viking) を通してキリスト教がもたらされます。その頃のノルウェーには自然崇拝や多神教の信仰であるペイガニズム (Paganism) がありました。ノルウェー人はノース人 (Norse) とも呼ばれていました。彼らの中にあった信仰に基づく神話が「Norse mythology」です。キリスト教化される前の神話のことです。当初キリスト教はペイガニズムや神話によって退けられてしまいます。やがてアングロ-サクソン (Anglo-Saxons) の宣教師がイングランドやドイツからノルウェーにやってきます。

アングロ人というのは、ドイツ北部よりグレートブリテン島 (Great Britain) に渡ってきた民族、同じくサクソン人はニーダーザクセン地方からの民族です。加えて北海 (North Sea) とバルト海 (Baltic Sea) を分かつユトランド半島 (Jutland) に住んでいたジュート人 (Jutes) がグレートブリテン島に渡ってきますJutland とは「ジュート人が住むところ」という意味です。こうしたアングロ人、サクソン人、ジュート人は先住のケルト系(Celtic) のブリトン人を支配しその文化を駆逐していきます。

アングロ-サクソン人のノルウェーにおける宣教活動は前述した前述したペイガニズムや土着の神話などに阻まれて困難だったようです。しかし、国王オラフ一世 (Olaf I) の改宗により全土にキリスト教が宣撫することになります。

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