音楽の楽しみ その24  合唱曲の数々 「Oh Happy Day」

Last Updated on 2016年3月31日 by 成田滋

オー・ハッピー・デイ (Oh Happy Day) は、著名なゴスペルソングの一つ。ホーキンス (Edwin Hawkins) が1967年に作詞・編曲したものです。もともともは18世紀の賛美歌 (Hymnal)が元となっています。

この曲も高校を舞台とした青春映画「Sister Act 2」で、大変な人気となります。デロリスを演じるのは、もちろんウーピー・ゴールドバーグ(Whoopi Goldberg) 。則にのった演技で魅了します。ジェームス・コバーン (James  Coburn)も学校閉鎖を決める理事長として扮しています。しぶい演技をする懐かしい俳優です。

映画「Sister Act 2」です。社会奉仕先の高校で音楽担当として赴任したデロリスが、聖歌隊の活動を通して子供達を正しい道へ導いていきます。パフォーマンス付きのコーラスなどの場面が随所に登場するのも前作と同じです。

「Oh Happy Day」のメインヴォーカルを務めるのは、Ryan Toby 。ソロでオクターブの声を披露して聴衆を熱狂させます。彼はやがてソウルシンガー、作曲家として活躍します。この曲も大ヒットしますが、決して一過性に終わることなくゴスペルとして定着します。単純明快な歌詞と歌いやすい台詞が魅力です。

「Sister Act 2」の後半には、音楽コンクールがあります。デロリスが指揮する曲は、「Joyful, Joyful」。ベートーヴェン (Ludwig van Beethoven) の交響曲第9番第4楽章が主題となる曲です。この歌がゴスペルソングとして広まるとはベートーヴェンも意外だったでしょう。

Joyful, joyful, we adore thee,
  God of glory, Lord of love
   Hearts unfold like flowers before thee,

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音楽の楽しみ その23  合唱曲の数々 「Nobody knows the trouble I’ve seen」

Last Updated on 2016年3月29日 by 成田滋

Nobody knows the trouble that I’ve seen
 Nobody knows my sorrow
  Nobody knows the trouble that I’ve seen
   Glory Hallelujiah

この曲は、奴隷制度の時代の霊歌です。「誰も私の苦しみを知らない。でも主イエスはしっかりと分かっていてくださる。それゆえ心を強く持って苦しみや悲しみにも耐えていける、そしていつか主イエスの元へ旅立つことができる」という救いと希望のメッセージが込められる黒人霊歌です。

最初にこの曲が世の中に伝わったのが1867年といわれますから、まだ新しいといえます。広く歌われるようになったのは、歌手のマリアン・アンダーソン (Marian Anderson) やサム・クーク (Samuel Cooke)、トランペット奏者のルイ・アームストロング (Louis Armstrong)やハリー・ジェイムス (Harry James) などによって演奏されたことです。 特にアンダーソンのアルトの気高く清澄な旋律はしみじみと心に染み込むようです。1925年にアンダーソンが最初にこの曲をレコーディングして世の中に広まります。黒人のゴスペルグループである「Deep River Boys」が1958年にノールウェイのオスロ(Oslo)で録音されたという記録もあります。

この霊歌には「Glory hallelujah! 主に栄光あれ」という歌詞が何度も登場します。同じフレーズがアメリカ歌曲である「リパブリック賛歌 The Battle Hymn of the Republic」にも使われています。南北戦争 (Civil War) における北軍の行軍曲です。作詞したのは著名な奴隷制度廃止運動家として知られるジュリア・ハウ(Julia Ward Howe)という女性です。彼女はユニテリアン派教会 (American Unitarian Association) に所属し、その夫はなんとパーキンス盲学校 (Perkins School for the Blind) の初代校長サミュエル・ハウ (Samuel Howe)です。
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nobody knows the trouble i ve seen

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音楽の楽しみ その22  合唱曲の数々 「Swing Low, Sweet Chariot」

Last Updated on 2016年3月28日 by 成田滋

Swing low, sweet chariot,
Comin’ for to carry me home;
Swing low, sweet chariot,
Comin’ for to carry me home.

邦題は、冗長なカタカナとなりますが、「スウィング・ロー、スウィート・チャリオット」とあります。黒人奴隷が、「ヨルダン河の向こうの故郷へと馬車で静かに運んでおくれ」という祈りの歌です。この黒人霊歌も北大合唱団のレパートリーでもありました。

もともとチャリオット (Chariot) とは、兵士を乗せる戦闘馬車を指します。ヒッタイト (Hittites)、アッシリア (Assyria)、古代エジプト (Egypt)、古代ローマ時代の戦争で使われました。チャリオットに乗って預言者エリヤ (Prophet Elijah) 天国へ昇る描写が旧約聖書 (Old Testament) にあります。そこには以下のように記述されています。

一台の火の戦車と火の馬とが現われ、このふたりの間を分け隔てエリヤは、たつまきに乗って天へ上って行った。 (列王記下2章11節)

「Swing Low, Sweet Chariot」という曲は、Wikipediaによるとアフリカ系アメリカ人グループである「フィスク・ジュブリー・シンガーズ(Fisk Jubilee Singers)」によってアメリカ各地に広められたとあります。このグループは、テネシー州 (Tennessee) のナッシュビル  (Nashville) にあるフィスク大学 (Fisk University) という黒人系の大学のアカペラ (a cappella) 合唱団で1871年に創設されます。団名にある「jubilee」とは喜び、歓喜という単語です。

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音楽の楽しみ その21  合唱曲の数々 「Black Spirituals」

Last Updated on 2016年3月25日 by 成田滋

合唱曲を紹介していますが、話題が前後してしまいます。既にBlack Musicを少しだけ取り上げております。どうかお許しを。

合唱曲には、霊歌(Spirituals)と呼ばれるジャンルがあります。霊歌は讃美歌より広い意味で使われています。その名称の由来は、新約聖書、エペソ人への手紙 (Ephesians 5:19) に「詩と賛美と霊の歌とによって主に感謝して、、、、」という聖句にあります。ここでは白人や黒人の区別ありません。一般に礼拝用讃美歌は「spiritual song」と呼ばれるようになりました。

今日「spiritual song」の代表が黒人霊歌(ニグロ・スピリチュアル: Negro Spirituals)といわれます。アフリカ大陸から強制的に連行され、奴隷となった黒人たちの生活の中で育まれ口頭で伝えられる歌であるという説のほか、白人の間の宗教歌が黒人に影響を与えて発生したのがNegro Spiritualsだ、という説もあります。今日、「ニグロ」という単語は蔑視的であるとして単独では使われません。そのため、黒人霊歌は「Black Spirituals」と呼ばれるようになりました。

奴隷の中にキリスト教が広まります。その人々の中に生きていた独特の音楽のリズムや旋律と賛美歌が融合したものが黒人霊歌と考えられています。プランテーション讃美歌 (plantation hymnals)とか奴隷の歌 (slave songs)、ゴスペル(Gospel) と呼ばれてきました。ちなみにGospelとは「キリストとその使徒たちの説いた教え」とか「救いと神の王国に関するよき便り」という意味です。

奴隷としての黒人は、新大陸で過酷な労働に生きます。その中で生まれた黒人霊歌は慰めや救いを求める証しとされます。北大男声合唱団で歌った曲の一部を紹介します。こうした曲の主題は旧約聖書の物語からとったものが多いことがわかります。

「スウィング・ロー、スウィート・チャリオット」(Swing Low, Sweet Chariot)
「深き河」(Deep River)
「行け、モーセ」(Go Down Moses)
「アメイジング・グレイス」(Amazing Grace)
「聖者の行進」(When the Saints Go Marching In)
「漕げよマイケル」(Michael Row the Boat Ashore)
「ジェリコの戦い」(Joshua Fit The Battle Of Jericho)
「ロック マイ ソウル」 (Rock My Soul)
「誰も知らない私の悩み」(Nobody Knows the Trouble I’ve Seen)
「クンバヤ  マイ ロード」 (Kumbaya My Lord)

「クンバヤ  マイ ロード」と「深き河」は前回と前々回に紹介しました。次回は「Swing Low, Sweet Chariot」を紹介することにします。

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音楽の楽しみ その20  合唱曲の数々 「深き河」

Last Updated on 2016年3月24日 by 成田滋

Black Musicの「深き河」の歌詞を見ますと、黒人の厳しかった現実と救いへの憧れが描かれています。

 Deep river, my home is over Jordan
  Deep river, Lord,
   I want to cross over into campground

歌詞にある「My home」とは、旧約聖書の出エジプト記3章8節 (Exodus 3:8)にある「乳と蜜の流れる地」、豊かなカナン (Canaan) の地を指します。地中海とガリラヤ湖 (Sea of Galilee) 、ヨルダン川(River Jordan)、死海(Dead Sea) に挟まれた地域一帯の古代の地名で、かつて住み慣れた彼らの故郷アフリカをも示唆しています。Campgroundは、ヨルダン川の西岸、現在のWest Bank のことです。

イスラエルの民族指導者モーゼ (Moses)に率いられた民がエジプトから逃れ、ヨルダン川にたどりつくのは40年目。洗礼者ヨハネ(John the Baptist)はこの川のほとりの荒野で「悔い改め」を人びとに伝え洗礼を授けていたことがヨハネによる福音書1章26節(Gospel according to John 1:26 )にあります。

「深き河」はヨルダン川だけではないようです。ノースカロライナ州 (North Carolina)には、「深き河」と同じ名前の「Deep River」があります。この川は、北部州と南部州の境界を縦断するように流れています。「南北戦争当時、奴隷解放を推進していたクエーカー教徒(Quaker) の組織が存在し、彼らによって「深き河」が作曲されたのではないかという説もあります。

ノースカロライナ州は、奴隷制の維持に賛成する南部諸州の一つとして北軍と戦ったのですが、既に自由な身分を保証されたアフリカ系アメリカ人も数多く存在していました。ですが、その暮らしは差別と搾取のために過酷であったようです。

このDeep Riverは、モーゼがヨルダン川を渡りカナンの地に落ち着いたように、自由と隷属、生と死の境として象徴的に解釈されてきたという川です。

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ca. 1920s-1930s --- Contralto Opera singer Marian Anderson, (1902-1993). Marian Anderson was born in Philadelphia, PA, and was the first African-American singer to sing at the New York Metropolitan Opera. Undated photograph. --- Image by © Bettmann/CORBIS

ca. 1920s-1930s — Contralto Opera singer Marian Anderson, (1902-1993). Marian Anderson was born in Philadelphia, PA, and was the first African-American singer to sing at the New York Metropolitan Opera. Undated photograph. — Image by © Bettmann/CORBIS

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音楽の楽しみ その19  合唱曲の数々 「クンバヤ マイ ロード」 (Kumbaya My Lord)」

Last Updated on 2016年3月23日 by 成田滋

ボースカウトや子供たちの夏のキャンプでは、焚き火を囲んでよく歌われるのが「クンバヤ  マイ ロード」です。もともとはBlack Spirituals の一つで、黒人奴隷が主イエスに救いを求める心情を歌っています。

「Kumbaya My Lord」の由来ですが、アフリカ系アメリカ人なまりの英語で「Come by here My Lord」 (主よ、私の側にきてください)ということからきています。

1927年にロバート・ゴードン (Robert Gordon) というカリフォルニア大学バークレ校 ( University of California at Berkeley) の英語学者がアメリカの民謡を編集しアーカイブ (archive) を作成します。それが「Folk-Songs of America: The Robert Winslow Gordon Collection, 1922」です。アーカイブの中に加えられたのが「Kumbaya My Lord」です。「Kumbaya My Lord」の歌詞ですが、奴隷達の絶望や悲嘆さに神の助けや恩寵を願う内容となっています。ゴードンはこの曲がH. Wylieという女性によって歌われていたのを記録します。それ以来、この霊歌は急速に広がっていきます。

時代が変遷して、1962年頃には、ジョーン・バエズ (Joan Baez) がこの歌を歌い、公民権運動やヴェトナム反戦運動に大きな影響を与えていきます。

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音楽の楽しみ その17  合唱曲の数々 「Shenandoah」

Last Updated on 2016年3月22日 by 成田滋

「シェナンド (Shenandoah)」は19世紀の初めにアメリカで歌われるようになったといわれる民謡です。タイトルの「シェナンド」の語源は、原住民のインディアンであるイロクオイ族 (Iroquois) の酋長 ”Sherando”の名とする説や、大草原を意味する言葉”Skahentowane”に由来するものなど諸説があります。元来はインディアンの間で語られていたシェナンド河 (Shenandoah River) 創造の伝説にある「星々の美しい娘」という意味を持つ言葉だといわれています。

「シェナンド」で歌われる「シェナンド河」は、アメリカのヴァジニア州 (Commonwealth of Virginia) とウェストヴァジニア州(West Virginia) を流れる川で、この川はポトマック川 (Potomac River) の支流であり、ヴァジニア州とメリーランド州 (Maryland)との州境近くでポトマック川に繋がっています。また歌詞に出てくる「ミズーリ川(Missouri River)」はアメリカの中部を流れる川で、ミシシッピ川 (Mississippi River) の最も大きな支流です。

「シェナンド」という合唱曲は多くの合唱団や歌手によって歌われています。たとえば、ロバートショウ合唱団 (Robert Shaw Chorale)やロジェワグナー合唱団 (Roger Wagner Chorale) は有名です。Robert Shawによってロバートショウ合唱団は1948年に結成され、力強くも艶やかな音色の男声合唱で世界中で演奏した合唱団です。ジュリアード音楽院 (Juilliard School) やニューヨークにある他の音楽大学 (conservatories) の卒業生で構成されました。

ロジェワグナー合唱団は、Roger Wagnerによってつくられ、カリフォルニアを中心に活動し、その後世界的な混声合唱団となりました。Wagnerは教会音楽や32年間もカリフォルニア大学ロサンゼルス校 (University of California, Los Angeles: UCLA)において大学教育にも携わり、UCLAの名誉教授の称号を得ています。

この二つの合唱団は1980年代に解散しますが、フォスター (Stephen Foster)の全曲を歌うなど、合唱音楽を世界に広める大きな貢献をします。

Oh Shenandoah, I long to hear you,
Way-hay, you rolling river
Oh Shenandoah, I long to hear you,
Away, we’re bound to go
cross the wide Missouri

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Images for travel story on Harper's Ferry, West Virginia by Sydney Trent. Harper's Ferry. WV from Maryland, Heights.

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音楽の楽しみ その16  合唱曲の数々 グレゴリオ聖歌

Last Updated on 2025年1月3日 by 成田滋

グレゴリオ聖歌 (Gregorian chant ) を取り上げます。もともとグレゴリオ聖歌は西方教会の単旋律聖歌(プレインチャント-plainchant)の中心に位置する聖歌で、ローマカトリック教会で使われる単旋律 (monophonic)、無伴奏の宗教音楽を指します。ミサ (Mass)や聖務日課の祈りの中で男性の聖職者によって歌われていました。グレゴリオ聖歌が男声合唱によって歌われることが多いのはそのためです。

教会の長い歴史では男声および少年合唱によって、また修道会では修道僧や修道女によってグレゴリオ聖歌は歌われてきました。スペインはカタルーニャ州 (Catalunya) のバルセロナ (Barcelona)近郊にあるモンセラート山 (Montserrat) に行ったことがあります。その山の中腹にネディクト会(Benedict) のサンタ・マリア・モンセラート修道院 (Santa Maria Monasterio de Montserrat)があります。そこにも少年聖歌隊 (Escolanía de Montserrat)がありました。

女子修道院(コンヴェント: convent)では、修業生活の一環として、ミサ及び聖務日課で歌うことが認められていました。聖歌隊に加わることは聖職者にのみ許される公的儀式とされていたため、一般の女性は聖歌隊で歌うことは認められていませんでした。しかし、教会の礼拝や音楽への女性の参加が一般的になるにつれ、今日ではグレゴリオ聖歌は女性を加えた混声合唱団によって演奏されることも多くなりました。それでもギリシャ正教会 (Church of Greece) 、あるいは東方正教会では今も男声が正教会聖歌の基本となっています。

現在では、世界の各地で聖歌やクラシックなどの曲を男声合唱団が歌っています。イギリスのキングズシンガーズ (King’s Singers)、アメリカのシャンティクリア (Chanticleer) などの男声合唱団はグレゴリオ聖歌から民謡、ゴスペル、ポピュラー音楽まで幅広く手がけ、カウンターテナー(countertenor) の響きも加えて癒しのブームにも支えられて高い評価を受けています。

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Montserrat

The Monks of Norcia, a group of Benedictine monks in Norcia, Italy. The group's new Gregorian chant CD debuted at No. 1 on Billboard’s classical music chart last week (June 10, 2015). Photo by Christopher McLallen, courtesy of the Monks of Norcia
The Monks of Norcia, a group of Benedictine monks in Norcia, Italy. The group’s new Gregorian chant CD debuted at No. 1 on Billboard’s classical music chart last week (June 10, 2015). Photo by Christopher McLallen, courtesy of the Monks of Norcia

音楽の楽しみ その15  合唱曲の数々 「埴生の宿」

Last Updated on 2016年3月19日 by 成田滋

ここ数年、衛星放送などで名画劇場のような番組をとおして映画を楽しんでいます。そういえば「日曜洋画劇場」の淀川長治、「金曜ロードショー」の水野晴郎らの映画解説が懐かしいです。独特の言い回しで映画をかみくだき視聴者に映画の楽しみかたを伝えていました。そうしたキャラクターがいなくなりました。

映画には必ず音楽が登場します。既に取り上げた「戦場にかける橋」の「クワイ川マーチ」、永遠の名作といわれる「サウンドオブミュージック (Sound of Music)」の「すべての山に登れ (Climb Every Mountain)」、「渚にて (On the Beach)」の「ウォルシング・マチルダ (Waltzing Matilda)」、「ビルマの竪琴」で歌われる「埴生の宿」や「仰げば尊し」などはジーンときます。

音楽は人間と社会にどのような役割を果たしてきたかは、第二次世界大戦を扱った映画から考えてきました。今回は竹山道雄原作の「ビルマの竪琴」を取り上げます。「ビルマの竪琴」が映画化されたのは1956年。監督は市川崑、出演者は安井昌二(水島上等兵)、三國連太郎(井上隊長)、西村晃 浜村純などでした。第二作は同じく市川崑の監督で1985年に制作されます。中井貴一(水島上等兵)石坂浩二(井上隊長)、川谷拓三、小林稔侍らが出演しました。両作品にも北林谷栄が物売りの老婆役で出演しビルマの民衆の逞しさを演じていました。

井上小隊長はかつては音楽専攻で、小隊では隊員に合唱を教えます。やがて合唱が隊の規律と憩いをもたらします。水島上等兵は竪琴で伴奏するのです。戦いの前夜、「埴生の宿」を合唱すると敵陣のイギリスの部隊からも合唱が流れるという場面、僧侶となった水島上等兵が戦友とで捕虜収容所のわきで再会し「埴生の宿」と「仰げば尊し」を竪琴を弾いて別れを告げる場面があります。

「埴生の宿」は、もとはイングランド民謡で原題はHome! Sweet Home! です。

埴生の宿も  我が宿  玉の装ひ  羨まじ
       長閑也や 春の空  花はあるじ  鳥は友
      おお  我が宿よ  たのしとも  たのもしや

土間に筵を敷いて寝るような貧しい小屋 (広辞苑)、それが埴生の宿です。そんな家でも家族が結ばれて暮らしたことを思い、家族を心配し、国に帰りたい気持ちを表現していました。音楽は時に人の生きることの願望や憧れを最も強く伝えてくれる手段です。
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音楽の楽しみ その14  合唱曲の数々 「兵士の合唱」

Last Updated on 2016年3月18日 by 成田滋

男声合唱といえば「兵士の合唱 (Choeur des soldats) 」を忘れることができません。フランスの作曲家チャールズ・グノー (Charles Gounod) が作った全5幕の「ファウスト(Faust)」にでてきまます。「ファウスト」は、全5幕のオペラ。ドイツの文豪ゲーテ(Johann  Goethe) が書いた劇詩「Faust」題材にしているといわれます。

古典音楽はあまり聴かない方でも、どこかで聴いたことのあるメロディーです。まさに喜びに湧く勝利の歌の旋律は単純にして明快です。ヴェルディ (Giuseppe Verdi) の歌劇「トロヴァトーレ (Trovatore)」にも「兵士の合唱、兵士のラッパは高鳴り」がでてきます。

グノーは優れた曲を沢山作っています。れでも良く聴かれる「アヴェ・マリア (Ave Maria)」は有名です。この曲はバッハの「平均律クラヴィーア曲集(BWV846) 」第1曲の前奏曲を伴奏にして、ラテン語の聖句を歌詞に用いた声楽曲です。シューベルト (Franz Schubert)、モーツアルト (Wolfgang Mozart) のアヴェ・マリアと並ぶ名曲です。

グノーは知名度のわりに広く知られている旋律は少ないような気がします。ですが「ロミオとジュリエット (Romeo et Juliette)」、ヴァチカン国歌 (Anthem of Vatican City) なども作曲しています。是非一度お聴きください。

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音楽の楽しみ その13  合唱曲の数々 「狩人の合唱」

Last Updated on 2016年3月17日 by 成田滋

日本で大変人気のある作曲家にウェーバー (Carl von Weber) がいます。中学や高校の音楽鑑賞の時間にしばしば聴かされた曲があります。その一つが「魔弾の射手 (The Freeshooter)」です。序曲(Overture)や合唱がよく知られています。

この曲の舞台は1650年頃のボヘミアです。その地方の民話を題材とし、魔の潜む深い森や封建時代の人々の素朴な生活を描いています。この作品は、「歌劇におけるドイツ・ロマン主義(Romantic school) のを確立した記念碑的作品」と紹介されています。その伸びやかな音楽はその後ワーグナー (Richard Wagner) 、マルシュナー(Heinrich Marschner)、マイアベーア(Giacomo Meyerbee)、さらにやがて「ロシア五人組」の作曲家を育てたグリンカ (Mikhail Glinka)などにも大きな影響を与えたといわれます。

さて、「魔弾の射手」序曲は、荘厳な森の中の静けさの中に四本のホルンによって朝の情景が奏でられます。冒頭にでてくる旋律は、賛美歌285番「主よ御手もて 引かせ給え (Thy way, not mine, O Lord) 」として採用されています。賛美歌はいろいろな曲をアレンジして集められた聖歌集のことです。序曲全体は、穏やかな旋律で満ち、劇的な箇所も交えて聴いていて心地よさが伝わります。

あまたの男声合唱曲の中で「魔弾の射手」に登場する「狩人の合唱 (Huntsmen’s Chorus)」は、最も歌われているものです。

狩人の楽しみと比べられるものはこの世にはない
  狩人にこそ生命の杯はあわだちあふれる
   角笛の響きを聞いて緑に身を横たえ
    藪を抜け 池をこえて 鹿を追うのは
   王者の喜び 男子のあこがれ

狩人のマックス (Max) は恋人アガーテ (Agathe) を得るために百発百中の「魔弾」を手に入れて射撃大会に臨みます。
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音楽の楽しみ その12 合唱曲の数々 「カンタータ」

Last Updated on 2016年3月16日 by 成田滋

今年の「復活祭」、イースター (Easter) は3月27日。春分後、最初の満月のあとの日曜日と定められています。ですから毎年復活祭の日は異なります。このとき教会では特別な音楽が演奏されたり歌われたりします。カンタータ(Cantata-Kantate)もそうです。

カンタータというのは、器楽の伴奏に合わせて演奏される曲のことです。17世紀後半にイタリアで作曲されて広まります。バロック期 (Baroque) の作曲家、アレッサンドロ・スカルラッティ (Alessandro Scarlatti) がその基礎をつくります。やがて18世紀にはドイツにおいて、ルーテル教会などで演奏するために作曲されていきます。そのために、教会カンタータ (church cantata) と呼ばれるようになります。一般に演奏される世俗的なカンタータもあります。

主にプロテスタント教会 (Protestant Church) の礼拝用に書かれたのが教会カンタータです。オーケストラの伴奏による合唱 (コラール: Choral)と独唱(アリア: Aria) が交互に歌われます。合唱は礼拝に集う会衆がみんなで歌うものです。歌詞は聖書から引用されます。

教会カンタータの中でよく知られているのが、「目覚めよと呼ぶ声が聞こえあり (Awake, calls the voice to us) (Wachet auf, ruft uns die Stimme)」として歌われる「カンタータ140番」や「心と口と行いと生きざまもて(Heart and mouth and deed and life) (Herz und Mund und Tat und Leben) 」というカンタータ147番です。合唱と管弦楽の響きは素晴らしいものです。おそらく多くの人は、このいずれかをどこかで必ず聴いています。

数多くのカンタータを作曲したのはヨハン・セバスチャン・バッハ (Johann Sebastian Bach) です。その作品の主題目録番号はBWVと呼ばれています。BWV1から231は教会カンタータ、世俗カンタータ、そしてモテット (mottetto) から成ります。

「聖書の言葉を牧師が説明し、聖書の物語を音楽で再現する」ために、合唱と独唱を組み合わせたカンタータが広まったとされます。特に会衆みんなが歌うことを重んじた宗教改革者として知られるマルチン・ルター (Martin Luther) の考えに沿ったのがカンタータです。

今や多くのプロテスタント教会の通常の礼拝においても、カンタータは部分的ですが演奏されます。北大合唱団でもこの140番を取りあげました。その頃、私はこれが優れた宗教作品であることは理解できませんでした。私は信仰に対する畏敬の念や作曲家の想いへの理解がいかに浅薄であったかということです。

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音楽の楽しみ その11 合唱曲の数々  「カヴァレリア・ルスティカーナ」

Last Updated on 2016年3月15日 by 成田滋

男声合唱団のど素人にもかかわらず、一度だけ歌劇 (オペラ)に出演したことがあるのです。それは「カヴァレリア・ルスティカーナ (Cavalleria Rusticana) 」というピエトロ・マスカーニ (Pietro Mascagni) が作曲したものです。この歌劇は、シチリア (Sicilia) の田舎を舞台とした貧しい人々の暮らしぶり、三角関係のもつれから起きる男女の愛憎が主題となっています。華やかな舞台、衣装をまとった姿、大げさな演技、、、、ではなく、私は舞台裏で歌う出演?でした。用意されたテレビ画面には指揮者が写り、それに合わせて歌うというものです。

この歌劇では、幕間の休憩の後に演奏される間奏曲 (intermezzo) が良く知られています。物語が盛り上がり、いったん興奮を静めるかのようにオーケストラによる間奏曲が流れるのです。この間、主演者らは休憩をとります。歌劇のリハーサルを始めて経験し、オーケストラボックスでの演奏、舞台装置の複雑さ等に驚きました。

歌劇ですが、何世紀もの間イタリア歌劇が正統派歌劇の形式だとされてきました。特に18世紀においてもなお、イタリア音楽こそが最高のものであるという考えで、どこの宮廷でもイタリア人音楽家をこぞって重用したようです。その代表がジョアキーノ・ロッシーニ (Gioachino Rossini) 。「セビリアの理髪師 (Barber of Seville )」や「ウィリアム・テル (William Tell) 」、「アルジェのイタリア女 (Italian Girl in Algiers)」などで知られています。イタリアが生んだ歌劇の作曲家にジャコモ・プッチーニ (Giacomo Puccini) もいます。

2010年8月にトスカーナの州都フィレンツェ (Firenze-Florence) を訪ねる機会がありました。ロッシーニの像があちこちにありました。あとでわけを聞くと彼は晩年はフィレンツェで過ごしたということでした。メディチ (Lorenzo de’ Medici) 、ダ・ヴィンチ (Leonardo da Vinci)、ボッティチェッリ(Sandro Botticelli) も活躍したところです。

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音楽の楽しみ その10 合唱曲の数々 「巡礼の合唱」

Last Updated on 2025年1月3日 by 成田滋

男声合唱をやったことのある方が必ず歌うレパートリーに「巡礼の合唱: Pilgerchor」 があります。この曲は、「タンホイザー(Tannhaeuser) 」に登場する有名な合唱曲です。作曲はドイツの作曲家リヒャルト・ワーグナー(Richard Wagner)です。生まれはライプツィヒ (Leipzig)。この街は多くの作曲家や作家を生んだところといわれます。メンデルスゾーン (Felix Mendelssohn)もこの地の生まれ。ゲヴァントハウス管弦楽団 (Gewandhausorchester Leipzig) もあります。

歌劇タンホイザーですが、快楽の世界に溺れた中世の騎士であり吟遊詩人であるタンホイザーは、禁断の地で官能の時を過ごしていました。やがて人々は彼を国から追放せよと罵倒し、タンホイザーはローマへの巡礼に向かいます。その帰り、巡礼者の中にタンホイザーの姿を探すエリーザベト (Elizabeth)がいます。巡礼の列にはタンホイザーはいません。この歌劇は、エリーザベトとタンホイザーの愛や死、そして救済という概念が中心で、この作品を鑑賞するうえで大事な要素となっています。

ワーグナーは、後に「メンデルスゾーンなどはユダヤ人だから真の芸術の創造はできない」といった過激な発言をしたことも記録されています。それ故に、ヒトラーがワーグナーの信奉者(Wagnerian)であったことと相まって、はるか後にワーグナーの作品はナチスに利用されることとなります。

ワーグナーは楽劇(music drama)の王ともいわれます。歌劇や歌い手や舞台装置が中心ですが、楽劇は台本を重視し、台本にそった音楽の役割がはっきりしていて、音楽をより劇的に表現する楽曲といわれています。

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音楽の楽しみ その9 合唱曲の数々 「ラ・ボエーム(La Boheme)」

Last Updated on 2016年3月12日 by 成田滋

北大での生活が落ち着いた頃、僅かな小遣いをはたいて中古のレコードを買いました。当時はLPとかSPというレコードの時代です。一番最初に手にしたのLPでした。「ラ・ボエーム 」というなんとも甘美で切なさに満ちたオペラ(歌劇)です。ジャコモ・プッチーニ (Giacomo Puccini) の作曲した4幕オペラで、最も演奏されるイタリアオペラの一つといわれています。

主役はお針子のミミ (Mimi)と詩人のロドルフォ(Rudolfa)。二人はヨーロッパではジプシーと呼ばれていたボヘミアン(Bohemian)でパリの場末に住んでいます。ミミを歌っていたのはアントニエッタ・ステッラ (Antonietta Stella) というイタリア人のソプラノです。

ロドルフォのアリア「冷たい手を」、ミミのアリア「私の名はミミ」などの曲が知られています。以下ロドルフォとミミの二重奏の情景と台詞をWikipediaからの引用します。

ミミがカンテラの火を借りに来たのだが、めまいがして床に倒れ込む。ロドルフォに介抱されて落ち着いたミミは火を借りて礼を言い、立ち去る。しかし、彼女は鍵を落としたといって戻ってくるが、戸口で風が火を吹き消してしまう。再度火を付けようと、近寄ったロドルフォの持つ火もまた風で消えてしまう。しかたなく二人は暗闇で鍵を探す。ロドルフォが先に見つけるが、彼はそれを隠しミミに近寄る。そして彼女の手を取り、はっとするミミに自分のことを詩人らしく語って聞かせる「冷たい手を」。続いてミミも自己紹介をする「私の名はミミ」。

プッチーニはイタリア中部、トスカーナ地方 (Toscana) の生まれ。「ラ・ボエーム」に加えて「マノン・レスコー (Manon Lescaut)」、「トスカ (Tosca)」、「蝶々夫人 (Madama Butterfly 」でも知られています。クラシック音楽やオペラの初心者にとっても、プッチーニの作品は親しみやすく魅力的です。

アントニエッタ・ステッラがジャケットに載っていたのを忘れません。そして安い蓄音機で聴いたものです。オペラとか歌劇の中で歌われる合唱が身近になった曲、それが「ラ・ボエーム」です。

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音楽の楽しみ その9 合唱曲の数々「戦場にかける橋」

Last Updated on 2016年3月11日 by 成田滋

アメリカ軍による日本本土への初空襲は1942年4月18日といわれます。首都東京への本格的な空襲は1944年11月24日に始まり、1945年3月10日の下町空襲へと続きます。勉誠出版の東京空襲写真集によりますと、この日の空襲では低高度から1600余トンの焼夷弾が投下され、95,000人を超える人々が亡くなりました。一日の死者としては原爆を超えて最大とあります。東京大空襲・戦災資料センターや江戸東京博物館に行きますとその惨状が伝わってきます。

戦争の悲惨さや不条理さが取り上げられています。この体験が風化しないようにすることの難しさもいろいろと語られています。映画は戦争を語り継ぐものとしてその役割を果たしています。そして映画音楽もその一翼を担っています。

第二次大戦のタイ(Thail) とビルマ (Burma) を舞台として、戦争の非情さと人間の愚かさを描く不朽の名作といわれるのが「戦場にかける橋」(The Bridge on The River Kwai)です。舞台は両国の国境近くにある日本軍の捕虜収容所とクワイ河 ( River Kwai) です。連合軍捕虜を使って国境に流れるクワイ河に鉄橋を架ける計画が進められます。ニコルソン (Nicholson)英軍大佐(アレック・ギネス: Alec Guinness)はジュネーヴ協定を盾にして、捕虜収容所長の斉藤大佐(早川雪洲)と対立します。彼は最初、橋造り作業を拒否するのです。収容所にいたアメリカ人の海軍少佐と偽る捕虜(ウイリアム・ホールデン:William Holden)は脱走を試み、やがて完成する橋の爆破に加わります。

橋の完成によって捕虜となり誇りを失っていた兵士の意気が上がります。戦いに負けて捕虜になった者が自分たちで造った橋の完成で勝利の気分を味わいます。ところが映画のお終いでは、鉄橋の破壊を命じられた潜入部隊によって一番列車が通る橋が、無残にも爆破されます。その悲惨な光景を見ていた士官は呆然として「愚かしいことだ、信じられない、、」と叫ぶのです。

この映画のテーマ音楽が「クワイ河マーチ」です。数ある映画音楽の中でも最も親しまれている作品の1つとされます。もともとは「ボギー大佐 (Colonel Bogey)」と呼ばれていたのをこの映画で使ったようです。イギリス軍兵士が口笛を吹きながら歩くこの行進曲は、兵士の士気を鼓舞します。この状況での音楽は、「美的な価値の追求」といったものではなく、「帰属意識を高める」役割を果たしています。これも音楽が有する特徴といえましょう。

1957年の映画ですが、今に伝えるメッセージで一杯です。機会がありましたらご覧ください。

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音楽の楽しみ その8 合唱曲の数々 北海道大学男声合唱団

Last Updated on 2016年3月10日 by 成田滋

北海道大学に入学してまずは勉強しようかと意気込みました。ですがなにか授業は高校の延長のような雰囲気でした。英語は特にそうでした。かすかに新鮮だったのは、「君たちは英英辞典を使わないと、、」という川村という教授の言葉でした。

中央ローンという芝生と小川の広場があります。休講が時々あるとそこでのんびりしました。今のように補講をやるなどの緊張感はありません。「男声合唱団にでも入るか」という気分になりました。

北大合唱団ですが、結構歴史があるのです。大正4年、大学の前身であった東北帝国大学農科大学時代に ポール・ローランド (Paul Roland) という英語教師が「農科大学グリークラブ」を発足させ演奏会を開いたのが先駆けといわれています。今年は創部95年目にあたります。

男声合唱団の呼称はグリークラブ (glee club) といいます。音楽ジャンルの「グリー」とは無伴奏でホモフォニー (homophony) と呼ばれる複数の声部が和声を組み立てる音楽です。少し付け加えますと、賛美歌やコラール (Choral) を聴いていてわかるのですが、リズムが非常に似通っていることがあります。これはホモリズム (homorhythm) といいます。こうした音楽を聴いていると落ち着きを感じるのは、ホモリズムのせいだということです。

北大合唱団は原則として練習は毎週一回、狭い部室でやりました。文字通り男ばかりの部活です。男声合唱を4年間やりますと、楽譜の読み方、歌い方、他の声部を聴きながら自分の歌い方を調整できるようになります。男声合唱はテノール(1, 2)、バリトン、ベースの4声部から成ります。私の所属はベース。従って、メロディはほとんど歌うことがありません。大半の曲を歌うときは、他の声部をいわば支えるような役割となります。

夏は合宿がありました。秋に開かれる定期演奏会に備えるのです。それと全日本合唱連盟主催の大学合唱コンクールに出場するためです。定期演奏会では、日本音楽著作権協会との交渉、プログラムに載せる広告集め、チケット作り、ポスター貼りなどを分担します。演奏会が近づくと各自が割り当てられたチケットを売り歩きました。

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音楽の楽しみ その7  合唱曲の数々 「戦場のピアニスト (The Pianist)」

Last Updated on 2016年3月9日 by 成田滋

音楽と権力、音楽とプロパガンダ、そして音楽の普遍的な価値のようなことを映画を通して考えます。「戦場のピアニスト (The Pianist)」という名作です。監督したのはローマン・ポランスキー (Roman Polanski ) 。この映画も音楽が主要なキャストとなっています。ショパン (Frederic Chopin) などの曲が流れます。、戦時中ポランスキーはホロコスト(Holocaust) を経験し肉親をアウシュビッツ (Auschwitz) で亡くします。

1930年代後半。舞台はポーランド (Poland)のワルシャワ (Warsaw)です。ユダヤ人であるシュピルマン (Wladyslaw Szpilman) はピアニストとして活躍していました。しかし1939年9月、ナチス  (Nazi)はポーランド侵攻を開始、シュピルマンが働くラジオ局は破壊されます。そこから脱出したシュピルマンは混乱の中で友人の妹ドロタ (Dorota) と出会います。

ポーランドの戦況は悪化します。ワルシャワはドイツ軍に占領され、親衛隊と秩序警察による過激な弾圧が始まり、ユダヤ人はダビデの星の腕章をつけることが義務付けられます。そして1940年後半には、ワルシャワ・ゲットー (Warsaw Ghetto) に押し込められます。ある日、シュピルマンとその家族はその他多くのユダヤ人と共に親衛隊の命令で、トレブリンカ (Treblinka) の絶滅収容所 (Extermination camp) 行きの列車に乗せられます。シュピルマンだけは知り合いのユダヤ人ゲットー警察署長の機転で救われその場を逃れます。家族との永久の別れです。

シュピルマンは、ゲットー内で強制労働を課せられます。ここでシュピルマンは生き残ったユダヤ人たちが蜂起の準備をしていることを知ります。仲間の配慮で倉庫番や食料調達の仕事に回されます。シュピルマンは蜂起への協力を志願し、食料調達の立場を利用してゲットーへの武器の持ち込みを手伝うのです。そんなある日、食料調達のため街に出かけたシュピルマンは市場で知人女性のヤニナ (Janina Bogucki)を見かけ、彼女を頼ってゲットーの外に脱出することを決意します。

ゲットーを脱出したシュピルマンは、反ナチス地下活動組織に挺身するヤニナとその夫アンドレ (Andrzej Bogucki)に匿われて、ゲットーのすぐそばの建物の一室に隠れ住みます。ほどなくワルシャワ・ゲットー蜂起 (Warsaw Ghetto Uprising) が起こり、シュピルマンは部屋の窓からレジスタンスとドイツ軍との激しい交戦を目の当たりにします。だが蜂起は鎮圧され、ゲットー内の大半の人が殺されてワルシャワは報復として完膚なきまで破壊されるのです。

ある日、廃墟の中で食べ物をあさっていたシュピルマンは缶詰を発見します。何とか開けようと悪戦苦闘していたところにドイツ軍将校ホーゼンフェルト (Wilm Hosenfeld) に物音で見つかってしまいます。ホーゼンフェルトはシュピルマンを尋問し、ピアニストであることを知ると何かを演奏するように命じます。ショパンのバラード一番ト単調 (Chopin’s Ballade No.1 G Minor) を弾くと、その見事なピアノの腕前にホーゼンフェルトは、密かにシュピルマンに食料を差し入れます。包みの中にはライ麦パンと共に缶切りが添えられているというプロットです。

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音楽の楽しみ その6 合唱曲の数々 「音楽は国の統治になにを及ぼしたか」

Last Updated on 2016年3月8日 by 成田滋

果たして音楽は国を造り国を変える力を有していたのかを考えます。国歌のない国はありません。国歌にしろ行進曲にしろ、国威の発揚に音楽は欠かせない要素です。それだけに国歌の存在は国旗と同じようなシンボルとしての役割を果たしています。

1967年に制作された映画「誇り高き戦場 (Counterpoint)」は、音楽が政治にどのような影響を及ぼしたのか、あるいは音楽と権力とは独立した活動だったのかを考えさせてくれる作品です。監督は「野のユリ: Lilies of the Field」のラルフ・ネルソン (Ralph Nelson) です。

第二次大戦中のヨーロッパ。アメリカ人指揮者のエヴァンス(Lionel Evance) は、慰問団として管弦楽団をひきいてベルギー (Belgium) を訪れます。一行が演奏会を開いた夜ナチスドイツ軍の総反撃によって全員捕虜にされてしまいます。そしてルクセンブルグ (Luxemburg) のドイツ軍司令部に送られます。司令部は楽団員の処刑を命じますが、エバンズの演奏に心酔していたシラー将軍(General Schiller)はそれを中止させます。

そしてシラーは、司令部内でエヴァンスに演奏を命じます。しかしエヴァンスは敵国のために演奏することをいさぎよしとせず、断り続けます。そのため楽団員は全員地下に閉じ込められてしまいます。映画の終わりでは、音楽の価値を理解していたシラーの取り計らいで全員脱出するというストーリーです。

音楽とは権力や戦争、あるいは民族の憎悪を生み出すこととは無縁であったはずなのですが、残念ながら利用されるという歴史を経てきました。音楽はナチスによってプロパガンダに利用されました。日本の軍部も八紘一宇の思想と運動において、音楽を駆使して国威の発揚につとめました。音楽によって民族主義は大いに高揚されたといえます。

「音楽ほど普遍的で、人間の行動に深く影響し、操作的に働く文化的な活動はない」といわれます。戦争中のできごとを通して、音楽が権力に及ぼした大きな役割も忘れてはならないことです。

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音楽の楽しみ その5 合唱曲の数々 「山に祈る」

Last Updated on 2016年3月7日 by 成田滋

山よ  お前のふところは    山の男のふるさとよ
        うれしい時は山へ行く   さびしくなれば尾根歩き
   満天の星 凍る夜気、山々はくろぐろと雪に埋もれた小屋を包む (山の歌から)

今も登山ブームが続きます。北アルプスは特に人気があるようです。山ボーイとか山ガールには60歳〜70歳台の人達も多く、遭難者全体の中で35%も占めているといわれます。ヘリと山岳救助隊員の活躍も残念ながら報道されます

長野県警察のサイトを見ますと、滑落や冬山遭難の事例が掲載されています。バックカントリーやスキー場コース外の滑走で、道に迷う遭難が多発しています。冬季の単独登山は、ルート判断を一人で行うだけでなく、体調不良や負傷、気象が急変するなどのトラブルが発生したら大変です。パーティを組んだ登山より危険のリスクが高まります。私は冬山登山はしません。体力と気力が萎えています。

1959年に長野県警察は遭難者の遺族たちのメモを集めた「山に祈る―遭難者の母親らの手記」という小冊子を発行して遭難防止を訴えました。 折しもこの頃は安保闘争などで世の中が騒然としていた時です。激しい政争の中で多くの若者が登山に出掛け、憩いを求めたようです。9ヶ月の短い間に3件の事故で4人の若者が命を落とします。何れも墜落事故といわれます。

合唱組曲「山に祈る」の作曲は清水脩。一遭難者が書き残した最後の手記と、我が子を亡くした母の悲しみを、母の朗読と合唱歌で綴っています。清水は「親しみやすく誰もが口ずさめる平易な旋律を心掛けた」と回想しています。

主人公の元気な姿から死にいたる筋に合わせて、明るい曲調から次第に暗い曲調へと移っていきます。
手の指、凍傷で、思うことの千分の一も書けず。
    全身ふるえ、ねむい。なぜ 山へ登るのか、山がそこにあるから。

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清水脩

音楽の楽しみ その4  合唱曲の数々 「月光とピエロ」

Last Updated on 2016年3月5日 by 成田滋

「月光とピエロ」 という合唱組曲を取り上げます。作詞者は堀口大學。彼は大正4年に外交官である父親と共にスペイン (Spain) の首都マドリッド (Madrid) に赴いたようです。そのとき彼は23歳。そこで9歳年上で女流画家で詩人でもあるマリー・ローランサン (Marie Laurencin) と出会い交遊を深めていったようです。しかし彼女との恋は成就することはありません。

大學は「月光とピエロ」で自分を道化師 (ピエロ: pierrot) と宣言したようです。彼はピエロのなんたるかも承知していたようです。馬鹿にされながら観客を笑わせ、そこには悲しみを持つ存在として描かれるのがピエロとかクラウン (clown) です。「叶わぬ恋をする自分は所詮ピエロだ」という思いのようです。

月の光の照る辻に
    ピエロさびしく立ちにけり
      ピエロの姿白ければ
       月の光に濡れにけり

「月光とピエロ」を曲にしたのは清水脩です。この曲が発表されたのは1948年。戦後間もないすさんだ世相や渇いた青春時代にピエロという仮想の人物に自分を投影するかのように、多くの青年の心を揺さぶった「合唱組曲」です。「秋のピエロ」はもう半世紀を経ましたが、男声においてのみ表現しうる音程と音感を醸しだしています。曲調は高く低く、長調から短調へ、時に斉唱となり、大學の詩の中に包み込まれている愛や孤独、寂しさ、はかなさなどの情感を見事に表現しています。男声合唱の最高峰に位置する作品とされています。

合唱組曲というのは、いくつかの小品を組み合わせて、ひとつの組曲となっているものです。一ステージで一組曲を演奏するというスタイルは、今ではすっかり一般的になりました。清水は全日本合唱連盟の設立に関わっています。合唱の作曲家としては、この人の右に出る者はいないでしょう。次に紹介する「山に祈る」など、その作曲活動は目覚ましいものです。

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音楽の楽しみ その3 合唱曲の数々 「仰げば尊し」

Last Updated on 2016年3月4日 by 成田滋

音楽との出会いです。終戦間近のとき、樺太から母は私を含む三人の子供を連れて親戚を頼って美幌に引き揚げてきました。三人は5歳、3歳、1歳です。やがて美幌小学校へ入学しました。1年生の時の担任は「山本みかる」という方です。なぜこの先生を忘れないのか。それは単に最初の先生だったからというだけではありません。彼女は私の名前をきちんと覚え、とても優しいという印象が残っているからです。それと私の母のようにふくよかな面立ちの先生でした。高校生のとき、この先生は亡くなられたことを人づてに聞きました。

小学校3年生の担任は「横山エンタツ」先生でした。本名を書くのは憚るのであだ名とします。あまり良い印象を持っていなかったからです。私はいわばクラスではガキの仲間でした。エンタツ先生は我々のようなガキを嫌い、女の子をえこひいきしてました。それも比較的恵まれた家庭の女の子ばかりをです。無性に腹が立ちました。子どもなりに、こうした教師の感性はすぐ伝わります。不登校ならぬ不勉強がこうじて、その頃の成績は惨憺たるものでした。

1952年の3月に十勝沖大地震が起きました。学校の建物に大きなヒビがが走りました。その年の8月に大火が起こり、住んでいた鉄道官舎が燃えているのを学校の2階から眺めました。かつての木造二階建ての学校は、すっかり様変わりしています。

美幌小学校から名寄南小学校へ転校します。そのときの音楽の先生に「近藤艶子」先生がおりました。私が廊下で力道山の真似をしたプロレスをしているときに、「ついていらっしゃい、、」と音楽室に連れていった先生です。全くの音楽文盲状態の私に音符や楽譜の読み方を教えてくれました。まるっきり歌い方など知りません。合唱に導いてくれたのがこの艶子先生です。艶子先生に出会わなかったら、音楽との出会いも男声合唱の魅力も味わうことがなかったでしょう。艶子先生に再会したのは30年前。いまも旭川市にご健在です。「先生、お元気でピアノを子供に教えておられますか?」

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音楽の楽しみ その2 合唱曲の数々  「多田武彦と北原白秋」

Last Updated on 2016年3月3日 by 成田滋

北海道大学男声合唱団にいたとき歌った曲に「柳河風俗詩」があります。作者は北原白秋です。なぜは「柳川」ではなく「柳河」と表記されたかの経緯はわかりません。

もうし、もうし、柳河じや、柳河じや。
   銅の鳥居を見やしやんせ。
    欄干橋をみやしやんせ。
     馭者は喇叭の音をやめて、
      赤い夕日に手をかざす。

白秋の生家は、代々屋号を「古問屋」とか「油屋」という海産物問屋でしたが、白秋の父の代になると、柳川地方でも有名な酒造業者にもなります。しかし、酒蔵が大火で全焼し、その後商売が傾きます。次第に白秋は雑誌『明星』などを濫読し、やがて上京して本格的に詩壇で頭角を上げていきます。

「柳河風俗詩」には、古い言葉がでてきます。それに柳川付近の方言も使っています。「柳河風俗詩」は詩集「思ひ出」の一部です。「あざみのはえた その家は ふるいむかしのノスカイヤ、水に映ったそのかげは 母の形見の小手鞠を 赤い毛糸でくくるのぢゃ」という歌詞もでてきます。ノスカイヤとはお女郎屋のことです。

この曲を作ったのは多田武彦という人です。世間ではほとんど知られていませんが、男声合唱の分野では超一流の作曲家です。多田は、京都大学在学中に男声合唱団の指揮者として活躍します。第1曲『柳河』は、全日本合唱コンクール課題曲の佳作となります。全曲初演は多田が24歳の時のこととあります。「柳河風俗詩」の初演は京都大学の学生集会所内の食堂だったという記録があります。多田が作曲の指導を受けたのは、日本の合唱曲作曲者の第一人者といわれた清水脩です。

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音楽の楽しみ その1 合唱曲の数々  「柳河風俗詩と柳川」

Last Updated on 2016年3月2日 by 成田滋

これから暫く、私が過去に歌った合唱曲にまつわる音楽のエピソードを文章化し、音楽の足跡を振り返ることにします。相当にこだわる話題となります。

通信制高校で働いた三年目の卒業式が福岡県の田川郡にある本校であり、連れ合いと出向きました。校長という職の冥利は卒業式の告辞を述べることです。北原白秋が近くにある柳川の出身であることを知っていたので、白秋の詩を題材として卒業生や参列者に語りました。素原稿を練るのに一週間ほどかけました。取り上げた詩は「からたちの花」です。ミカン科の落葉低木からたちは春に白い花を咲かせます。

からたちの花が咲いたよ。 白い白い花が咲いたよ。
  からたちのとげはいたいよ。 青い青い針のとげだよ。

楚々としたからたちの花を白秋はなんのてらいもなく歌ったようです。私はこの白秋の詩をつくる姿勢、つまりありのまま自然を見つめて文章化することに白秋の人柄がでていると感じました。卒業生には朝早く起きて、昼間は一生懸命働き、夜は早く寝るといった平凡ながら規則正しい生活の大切さを語りました。

卒業式の翌日、念願だった柳川を訪れました。立花藩12万石の城下町として古い歴史を持つ街です。水郷「柳川」としても知られています。白秋はこの街の出身です。ここに白秋生誕百年を記念した記念館があります。記念館は北原家の広大な旧跡地の一隅に建てられています。ここには詩聖ともいわれる白秋の遺品やパネルなどが多数展示されています。建物は、壁面に平瓦を並べて貼り瓦の目地に漆喰をかまぼこ型に盛り付けて塗る工法で造られた独特の風合いを出しています。この工法は「なまこ壁」と呼ばれています。

えもいわれぬ風情のあるたたずまいでした。

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柳川

初めに言葉があった その52 デフレからの脱却  その12 「インフレーションからスタグフレーションへ」

Last Updated on 2016年3月1日 by 成田滋

我が家でいえば、年金額は下がり物価が上昇する現象が起こっています。雇用や賃金が減少する中で、物価の下落ではなく物価の上昇が発生する状況です。収入が減るうえ貨幣や預貯金の実質価値まで低下するような時代です。多くの年金生活者はこのような現実に直面しているはずです。この現象は「スタグフレーション (stagflation) 」というのだそうです。「Stagnation」とは停頓という意味の単語です。それと「Inflation(インフレーション) 」を組み合わせた造語のようです。

経済学者でノーベル賞受賞者であるポール・クルーグマン (Paul  Krugman) は「日本では今(2015年)、急速な円安のマイナス面が表面化し、物価が上昇している。それに対して賃金の上昇が追いついていないために、スタグフレーションに陥りつつある」と指摘しています。円安のマイナスの影響で物価はすでに上昇しています。この理由は農産物などの輸入価格が上昇するからです。原油価格の下落は物価を押し下げているようですが、、、物価だけが上昇するのは好ましいことではありません。賃金は年に3〜4%上がり、物価は年に2%上がるのが好ましいと一般的にいわれています。収入が頓挫するのでは、消費を控えなければなりません。

「ぜいたくは敵なり」「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」「欲しがりません、死ぬまでは、、」

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