初めに言葉があった その24 「民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった」

Last Updated on 2016年1月30日 by 成田滋

今の日本の政治について、私たちは、「一体どうなっているのか、日本はどうなるのか」という問を投げかけています。このいい知れない政治の不安に怯えたり、呆れたり、諦めたくなるような気分にもなります。かつては積極的に政治に参加していて、挫折や幻滅を味わったことで投票から離脱する人も大勢います。

「民の心は鈍り」とは、政争に明け暮れる為政者のことであり、もうけ主義だけに走る企業家であり、回りの人々や話題に無関心になった大衆のことです。一体なんのために、どのように生きるかについて無頓着になった人々です。

「耳は遠くなり」とは、難聴のことではありません。聞く耳をもたないこと、大事なことを聞こうとしない態度です。なにが大事でなにがそうでないかを聞き分けることが難しくなることです。

「目は閉じてしまった」とは、ものごとを真正面から見ない態度です。大事なものを見分けられないことです。心眼という題の落語があります。目の不自由な男が、夢の中で目が見えることによって自分の妻の優しさを失いかける話です。そして、「やっぱり目は不自由なことのほうがええ、そのほうがよーく見える」と述懐するのです。

政権が変わっても、企業と政治家の癒着が続いています。大臣室での口利きや金銭のやりとりも行われています。いつの時代においても、古典的な賄賂と汚職が横行し、これなしでは商いはうまくいかないようです。「職務を辞するのは国会審議に悪影響を与えないため」というのは、自分の行為は悪くはなかったといったニュアンスが感じられます。虫唾が走る思いです。そういえば、藤沢周平や佐伯泰英の時代小説の主題は政治とカネを中心とした利権争いです。

厭世的な気分になりがちなのが今の政治の有りようかもしれません。それでも私たちは批判的な精神を失ってはなりません。

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初めに言葉があった  その23 「命の水」

Last Updated on 2016年1月29日 by 成田滋

50年前には水を店で買うことはありませんでした。その考え方がなかったのです。水はタダ、安全だと思っていました。確かに水道料は払っていました。蛇口から出る水はタダだったというのは実は間違いでした。

江戸時代、水屋という職業がありました。安い料金と重い水を運ぶので大変な商売だったようです。雨や風、雪、関係無しに1日も休む事ができません。大川といわれた隅田川の上流、神田上水と玉川上水からひっぱって桝という取水口で汲み上げた水を売り歩いていた人がたくさんいたようです。

落語の演目に「水屋の富」があります。千両富に当たった水屋が床下にぼろ手ぬぐいに包んでつっておいて水売りにでかけます。ですが泥棒から狙われるのではないかと、水を売っていても家に帰っても心配で寝られなくなります。案の定、富は盗まれてしまいます。「ああ,これで明日から寝られる」というサゲがきます。

水争いは長い歴史があります。江戸時代もそうです。大阪府域の村々の長きにわたる水争いの歴史もあります。山形の庄内平野は日本一の米。ここにも治水と利水を巡る争いや土地改良の歴史があります。「我田引水」は水争いの種となりました。歴史諫早湾の締め切り干拓を解除するかどうかが大きな問題となり、群馬県の吾妻川の八ッ場ダム建設問題があります。水争いが生まれる背景には、水資源の希少化があります。

地中海に流れ込む世界最長のナイル川も水配分の争いが続いています。スーダン、エチオピア、コンゴ、タンザニア、ケニアなどの流域国と最下流のエジプトとの水紛争です。上流の国は、水力発電、灌漑用水、生活用水など、自由な水利用を求めますが下流のエジプトが反対しているのです。

水は万物の源。水によって全てのものが潤います。水を巡る争いは古より今に至るまで延々と続いています。水の枯渇は世界中で取り上げられている大きな問題です。日本ではダムの建設による下流での水不足も心配されています。兵庫県の平野部には沢山の灌漑用の池が点在しています。空から見るとそれを実感できます。田畑が整然と存在するのはこうした調整池のお陰です。先日の寒波の影響で福岡県では未だに断水が続いているところがあると報道されています。漏水による水瓶の枯渇が原因のようです。

水への考え方は、店で水を買うという行為によって大きく変わりました。もっと美味しい水を飲みたいという私たちの嗜好の変化へ移っていきました。お茶や珈琲をより美味しくいただきたいという欲求も高まりました。美味しさへの憧れは止めることができないようです。

「命の水」とは、です。その意味は渇くことのないものということでしょうか。水は一時の渇きを潤します。やがてまた飲まなければなりません。渇くことのないもの、それは知識であったり智恵であったり、なにか目に見えない大事なことのようです。地上のものは、いわばすべて虚ろな、滅びるものです。しかし、「命の水」は豊かに人の心を満たすものです。それを私たちは追い求めています。

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初めに言葉があった その22 「Who has seen the wind?」

Last Updated on 2016年1月28日 by 成田滋

中学時代に習った英語に、「Who Has Seen the Wind?」(風)という詩があります。中学2年の教科書の表紙の裏にありました。なぜかこの英文の詩がスラスラと暗記できたのを覚えています。まるで白紙に墨汁がたれるように、脳に染みこんでいきました。英語が好きになった一つのきっかけとなりました。今でもこの詩を諳んじることができます。

作詞者はクリスチナ・ロゼッティ(Christina Rossetti)。1872年頃の作といいますからビクトリア王朝(Victorian Era)時代です。産業革命による経済発展の絶頂期の頃です。なぜこのような時期に控えめな詩の表現を使ったかはわかりません。ただ英国国教会の熱心の信者であったこと、肺を患っていて病と闘っていたことにも創作の理由がありそうです。「Sing-Song: A Nursery Rhyme Book」という童謡も発行しています。

この優しい詩を口ずさむと、詩とはどんな形式で構成されるのかがわかります。修辞がちりばめられているのです。 まずは、冒頭で Who has seen the wind? が反復されます。繰り返すことによってテーマを強調するのです。さらに自然の現象を疑問形で書いて、強い反語的な主張をしています。

次に、「Neither I nor you,  Neith you nor I 」という具合に主語の順序を倒置させて主体を強調します。このフレーズでは語尾にあるはずの終止形の動詞句を省き、体言で止めで文体を強調させています。詩のお終いで使われる through と by です。passing through, passing by という現在形の動詞につながる接続詞の使い方は対句といえます。どちらも余韻を残す終わり方です。

Who has seen the wind?
 Neither I nor you:
  But when the leaves hang trembling,
   The wind is passing through.

Who has seen the wind?
 Neither you nor I:
  But when the trees bow down their heads,
   The wind is passing by.

一体誰が風を見たでしょうか
わたしもあなたも見たことはありません
木の葉が揺さぶられるとき
風は通りすぎていくではありませんか

目に見えない空気や風に季節や自然を感じることの素晴らしさを歌った詩です。風は息吹とか霊などを示唆し、見えざる手によって自然は造られ守られていることを示しています。
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初めに言葉があった その21 北原白秋と小椋佳 その3 エルヴィス・プレスリ

Last Updated on 2016年1月27日 by 成田滋

「シクラメンのかおり」は、小椋佳が第一勧業銀行赤坂支店に勤めていた頃の作で、1975年に発売されたとあります。その後浜松支店長となっています。銀行マンでありながら、作詞作曲でも類い希なる感性を発揮していきます。現在、日経の「私の履歴書」で30回にわたって自分の銀行生活や音楽活動を回想しています。

歌詞の冒頭にある「真綿色したシクラメンほど、清しいものはない」は英訳すれば、さしずめ「Nothing is as refreshing as cyclamen」となります。発音は「サイクラメン」です。「、、、ほど、、、なものはない」という表現は、修辞法でいえば反語であります。否定的な代名詞、Nothingが実は肯定的な表現の裏返しの用法で、強い断定を表しています。シクラメンほど清々しく、まぶしく、また寂しい花はない というのです。

話題はかわって、1967年にソングライターであったラシュコウ (Michael Rashkow) は「Mary in the Morning」という曲を作ります。Wikipediaによると、彼は音楽教育を受けた経歴がことがないといわれます。ですが、エルヴィス・プレスリ (Elvis Presley) がこの曲を歌うことによって、一千万枚のレコード発売という記録を生みます。

バラード風のこの「Mary in the Morning」にも「、、、ほど、、、なものはない」がでてきます。「Nothing’s quite as pretty as Mary」(メアリーほど可愛い娘はいない)です。小椋佳はこうした修辞をからプレスリーの曲から引用し、それに白秋の「からたちの花」使われる反復という修辞を下敷きにしたと考えて間違いありません。

「Mary in the Morning」の歌詞 (Lyrics)です。

Nothing’s quite as pretty as Mary in the morning
 When through a sleepy haze I see her lying there
  Soft as the rain that falls on summer flowers
   Warm as the sunlight shining on her golden hair

小椋佳はたくさんの曲を調べ、自分の作風を作り上げていったのです。そうでなければ、傑出した多くの曲を世に送り出すことができなかったはずです。現存する希有のシンガーソングライターといえましょう。
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初めに言葉があった その20 北原白秋と小椋佳 その2 「シクラメンのかおり」

Last Updated on 2016年1月26日 by 成田滋

詩の世界でも誠に素人ながら北原白秋と小椋佳の作詞には共通点があると考える一人です。作品を読み比べるとそれが分かってきます。「からたちの花」が発表されたのは1925年、そして「シクラメンのかおり」は1975年に発売され一躍日本中に広がります。二つの詩には50年の歳月のひらきがあります。しかし、驚くべきほどの共通点があるのです。

二つの詩を比べてみましょう。

からたちの花が咲いたよ 白い白い花が咲いたよ
 からたちのとげはいたいよ 靑い靑い針のとげだよ
  からたちも秋はみのるよ まろいまろい金のたまだよ

真綿色したシクラメンほど 清しいものはない、、、、
 薄紅色のシクラメンほど まぶしいものはない、、、、
   薄紫のシクラメンほど 寂しいものはない、、、、、

白秋は、からたちの花、とげ、そして実を描写します。小椋はシクラメンの色が感情に響くことをいいます。自然と人を一体化しようとする言葉です。二人の詩には、抒情的な雰囲気、清澄さ、溌剌さに溢れています。繰り返しの修辞が使われ、読者の心をくすぶってきます。小椋の作詞には白秋の影響が色濃くでていることがわかります。
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初めに言葉があった その19 北原白秋と小椋佳 その1 柳川

Last Updated on 2016年1月25日 by 成田滋

かつて働いていた通信制高校の本校が福岡の田川にありました。石炭産業で栄えた所です。卒業式の式辞は北原白秋の「からたちの花」をテーマに、白秋の人となりや詩への感性や作り方、そして人生の生き方について述べました。

式が終わり白秋の生家がある柳川市へ向かいました。柳川は長閑な掘割が縦横に流れることから水の都と呼ばれています。旧藩主立花氏の別邸「御花」、鰻料理などを堪能できる街です。北原家は江戸時代から栄えた商家。海産物の問屋をしていたようです。白秋の生家が今は記念館となっています。

ところで白秋記念館というのは神奈川県の三浦市と小田原市にもあります。三浦三崎には「城ヶ島の雨」の詩碑と白秋記念館があります。小田原時代の白秋は鈴木三重吉とともに児童雑誌「赤い鳥」を創刊します。「童謡」という新しいジャンルを開拓した功績を讃え、その創作活動を記念して造られたのが白秋童謡館です。

白秋といえば「待ちぼうけ」「ペチカ」「あめふり」「赤い鳥小鳥」「砂山」「鐘が鳴ります」「かえろかえろと」など多くの童謡の歌詞をつくりました。やがて与謝野鉄幹や晶子、木下杢太郎、石川啄木らと知己を持ちます。雑誌「明星」や「文庫」で発表した詩は、上田敏などによって高く評価され、歌人としての地位を確立します。

「からたちの花」です。この詩に曲をつけたのが山田耕筰です。

からたちの花が咲いたよ。
白い白い花が咲いたよ。

からたちのとげはいたいよ。
靑い靑い針のとげだよ。

からたちは畑の垣根よ。
いつもいつもとほる道だよ。

からたちも秋はみのるよ。
まろいまろい金のたまだよ。

この曲はやがてシンガーソングライター(作詞作曲家)の小椋佳に多大な影響を与えていきます。
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初めに言葉があった その18 「からし種一粒程でもあれば」

Last Updated on 2016年1月23日 by 成田滋

年末から年始にかけて頂戴した喪中の葉書やクリスマスカード、年賀状を見ながら住所を確認し、過ぎし年と2016年を考えています。振り返ると、私はあまり誇りにならないことをやってきたような反省があります。ちょとばかり他の人より学問をする時間が長かったとか、外国語が少しはできるとか、たいしたことのない論文を恥も外聞もなく書いてきたこと、、、。ある人が私に、「もっと優れた研究をするにはどうしたよいでしょうか、教えてください」と懇願してきたとしましょう。実に困ってしまう問いです。「からし種一粒の向上心があれば十分だ、」といってやりたい気持ちになります。

外国では、小さなものが成長して大きな成果を生むことの例として、「からし種」(mastard seed)がよく用いられます。日本の諺には「山椒は小粒でもピリリと辛い」という故事もあります。からし種は極めて小さいですが、味は明確で刺激は強烈です。いくら水を飲んでも口中が焼けるような熱さのときもあります。侮ってはならないのです。

誰しも才能や気質は潜在的に持っています。それをいかに開発していくか、そしてそれを発揮していくかです。「からし種」一粒程でもあれば、それで十分だということは、才能や気質は人に見せたり誇ったりすべきものではないということです。からし種をたくさん撒き散らすように、尊大な態度の人々が大勢います。周りがげんなりしていることに気がつかない人々です。

どんな小さい素質や可能性でも辛抱強く育て、途中で諦めなければ必ず実を結ぶと信じることが大切です。からし種一粒でいいのです。このからし種の喩えはマタイによる福音書17章20節にあります。

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初めに言葉があった その17 「新しい葡萄酒は新しい革袋に」

Last Updated on 2016年1月22日 by 成田滋

前回のブログの続きです。最も歴史の古い酒の一つが葡萄酒とかワインといわれています。メソポタミア (Mesopotamia) 地方で最初に造られたのが紀元前6000年頃といわれますから、その古さはとてつもないくらいです。今日、葡萄酒は世界中で造られ広く飲まれています。

時代が経って、中世のヨーロッパではカトリック教会 (Catholic church) の聖職者を養成する僧院や神学校が葡萄の栽培と葡萄酒の醸造を担います。これには理由がありまして、聖書のなかでキリストが葡萄酒を指して自分の血と称したことから、葡萄酒は礼拝の聖餐式において重要な役割を果たします。信者が司祭や牧師から葡萄酒をいただき飲むのです。このとき使うのは赤葡萄酒です。

葡萄の代表的な産地は中国、イタリア、フランス、アメリカ、ニュージーランド、スペイン、チリなどです。今や世界最大の葡萄の生産国は中国。日本でも山梨県が葡萄の産地ですが、世界的にみてその産出量は微々たるものです。旅行するとオリーブ畑と並んで葡萄畑が丘陵に広がります。名だたる高級なものから、市民が普段の食事中に飲むものまで多くの種類が生産されています。一度、イタリアやスペインに短く滞在したとき、なだらかな丘陵に広がる葡萄畑の眺望を楽しむことができました。もちろん葡萄酒をいただきながらです。

「新しい葡萄酒は新しい革袋に」です。「古い葡萄酒」のほうが高価で尊ばれるのではないかと反論されそうです。ですが、変化や改革ということが生き方において要求されるのが現代です。例の「Change」です。今までと同じような考え方や行動基準、生活習慣にしがみつく生き方をしていてよいのか?ということが問われています。新しい革袋とは、それを受けとめる世の中の新しい仕組みや、回りの人々の変化に対する適応性のことを示唆しています。

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初めに言葉があった その16 「わたしは葡萄の木、あなたがたはその枝である」

Last Updated on 2016年1月21日 by 成田滋

葡萄の発祥の地は、中近東やバルカン半島諸国 (Balkan)、ウクライナ (Ukraine)、グルジア (Georgia)などの東欧といわれます。紀元前3000年ごろには、原産地であるコーカサス地方 (Caucasus) やカスピ海 (Caspian Sea)沿岸で盛んに葡萄が栽培されていたようです。葡萄酒の醸造は早くに始まり、メソポタミア (Mesopotamia) や古代エジプトにおいても葡萄酒は珍重されていたと記録されています。旧約聖書の世界でも葡萄酒が登場します。そしてパンと葡萄酒は聖餐式の主役となります。

中国やヨーロッパ各地にも自生していたともいわれます。確かにイタリアやスペイン、オーストラリア、ニュージーランドなどにもぶどう畑が広がります。南米チリ(Chile)も葡萄の生産が盛んなようです。葡萄に共通していることは、日当たりが良く乾燥した気候とアルカリ性の土地によく育つことです。種類によってはそうでないものもあるようですが、、、、

葡萄は昔から生活に欠かせない果樹であることがわかります。乾燥させて保存食としたり、葡萄酒を造っていたことがその証です。葡萄はその形が人々に親しみやすさの印象を与えます。葡萄畑や園へ行くと姿形が沢山あることがわかります。強い葡萄を台木として接ぎ木をする方法が広がりました。それによって病害に耐えられる種類ができ、その数は100以上あるといわれます。日本の葡萄作りですが、棚式が主流で枝を張ります。ヨーロッパや北米では垣根作りで低い枝となっています。

葡萄がたわわになっている光景は、見るからに豊かさを感じさせてくれます。このように葡萄は、家族のつながりや人々の繁栄を象徴する木とされる所以です。木の幹が主人、そして枝はそれに活かされる家族や弟子のことを指します。幹に連なることによって豊かに実を結ぶようになるのが人生というわけです。

「わたしは葡萄の木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネによる福音書15:5) “I am the vine; you are the branches. “

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初めに言葉があった その14 「それでも人生にイエスと言おう」

Last Updated on 2016年1月20日 by 成田滋

この言葉は、オーストリアの精神医であったヴィクトール・フランクル (Viktor Frankl) の著作からです。フランクルは第二次大戦中、ユダヤ人強制収容所を転々とし、生き残った一人です。我が国では、強制収容所での体験をもとに著した「夜と霧」’Nacht und Nebel) がよく知られています。世界中で翻訳された名作です。今回は、フランクルの「それでも人生にイエス (Ja) と言おう」(trotzdem Ja zum Leben Sagen) という言葉です。

ローマカトリック教会などのミサ(聖体主儀)やプロテスタント教会の聖餐式で唱えられる文句に「主よ憐れんでください」(Kyrie eleison) があります。英語では「Lord, have mercy」と唱えられます。フランクルの著作ではたびたび人生の意味や意義が強調されます。つらい状況に追い込まれ投げ入れられても逃げ出さず、私たちのために命を引き受けて生きることができるというのです。「主よ憐れんでください」と、人知では計り知れない恵みを乞うのです。これが信仰です。

第二次大戦中のユダヤ人収容所では、生きることより、死ぬ方がずっと楽であるといわれていました。でも収容所にいた人たちには自分たちで歌を作り、歌うものもいました。「それでも人生にイエスと言おう」という歌です。明日、何が起こるか分かりません。台風、地震、津波、放射能、病や老い。私達には、苦しみや悲しみが山ほどあります。それでも私達は与えられた人生に「イエス」と言います。与えられた人生を生きていきます。

フランクルが強制収容所にいたとき、連合軍や近くにやってきて、自分たちは解放されるという密かな噂が流れます。それを信じて一日一日生きていた収容者は、いつまでたっても解放されないことを知ると、やがて次々に死んでいったということです。

もう一つ、フランクルが収容所から解放されたあと、勤めていた病院での話です。末期ガンの患者を回診したとき、医師が看護師にモルヒネを注射するようにと指示します。そのとき、患者はフランクルに「宿直の医師や看護師を夜中に起こさないですむので、注射を依頼した」といいます。死の間際でも他人を気遣うさりげない行為にフランクルは感じ入るのです。また、過酷な収容所に入れられた人々の中にも、自分の一かけらのパンを仲間に与えたり、自ら他人の身代わりとなった神父もいたことも記すのです。
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初めに言葉があった その13 我が国の「下流老人」

Last Updated on 2016年1月23日 by 成田滋

「初めに言葉があった その8 「未富先老」http://naritas.jp/wp1/?p=2896 」の拙稿で、中国で使われている熟語の意味について触れました。ところがこの熟語をより詳しく調べてみると、中国の高齢化問題は、程度の差はあれ我が国とも共通した課題であることに気がつきました。

拙稿では次のように書きました。

「(我が国は)終の棲家を得てささやかながらの年金暮らしや介護医療保険制度などによって、「未富先老」という実態はあまり顕在化しなかったようです。」 この説明には事実の誤認がありました。申し訳ありません。

2015年の新語や流行語に「下流老人」があります。「生活保護基準で生活する、あるいはその恐れがある高齢者」をこのように呼ぶのだそうです。その人口は600万から700万人といわれています。これは65歳以上の人々の20%にあたるというのです。低年金の高齢者は1,250万人います。私もその一人ではあります。国民年金の月平均は5万円、厚生年金の月平均は約14万円といわれます。高齢者の20%が預貯金がゼロというのです。

加えて、年金以外でのセイフティネットが弱まっています。息子や孫に頼れない、息子の世代も自分の生活で手一杯である、などが理由です。2015年の総務省統計局の発表では、非正規労働者は19万人増加し1,971万人だそうです。これでは安心して結婚も子供もできません。とてもとても高齢の身内の面倒をみることは困難です。これはもう中国で使われる「失独失能」状態と同じです。

1950年代から1970年代は、急激な経済成長によって皆が豊かになっていけそうになった時代といわれました。1956年の経済白書では「もはや戦後ではない」という言葉が使われるほどでした。確かにマイホームを持ち、子供も二人以上いました。人口の増加や教育の普及は質の高い労働力を供給してきました。しかしながら、こうした高度の経済成長は一回限りのものでした。「富める者が富めば、貧しい者にも自然と富が浸透する」などというのは神話であることもわかってきました。皆が富めるような事態は起きませんでした。今、こうした状況は中国や韓国が経験しているといわれます。

今参議院で、生活保護基準を下回るお年寄りへの三万円臨時給付金のことが論議されています。一回限りの支給です。これと「一億総活躍社会」とはどんな関係なのでしょうか。どうも近づく選挙目当てだ、という指摘が正鵠を射ているようです。「ばらまき」はどの政権でも選挙前になるとやってきました。所得倍増も経済成長も、三本の矢も「一回限り」。それでお終いというわけです。

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初めに言葉があった Intermission 

Last Updated on 2016年1月18日 by 成田滋

今日はアメリカ合衆国では「マーティン・ルーサー・キング、ジュニア・デー」(C, Jr. Day)として連邦の祝祭日となっています。1月の第3月曜日です。キング牧師の栄誉を称え、1986年に祝日として制定されました。

バプテスト教会の牧師であり、公民権運動や平和運動の指導者でした。1968年4月4日、当時39歳という若さで暗殺されました。アメリカではキング牧師の功績を称え、ロナルド・レーガン(Ronald Reagan)政権下の1986年よりキング牧師の誕生日(1月15日)に近い1月第3月曜日と定めました。

しかし、この日が連邦の祝祭日になるまでは、紆余曲折がありました。最初に議員提案された法案は、下院での承認に5票足りなかったとされます。その理由は、個人の功績をたたえる祝日は私人には与えられないという長い伝統がありました。 生前の業績から祝日に制定された故人は二人います。一人は、ジョージ・ワシントン (George Washington) とクリストファー・コロンブス (Christopher Columbus) です。ワシントンの誕生を記念する祝日は、2月第3月曜日のプレジデント・デイ (President Day) 、10月第2月曜日がクリストファー・コロンブス・デイ (Christopher Columbus Day)となっています。コロンブスは明らかに私人だったと思うのですが、、、少々可笑味があります。

紆余曲折にはまだあります。二人の上院議員が、キング牧師はヴェトナム戦争に反対したこと、さらに共産主義者でないか、といった疑念を喧伝したのです。さすがに共産主義者というレッテルは通じませんでした。歌手のスティービ・ワンダー (Stevie Wonder) が1981年に “Happy Birthday” という曲をリリースします。それをきっかけに600万人の署名が集まり、レーガン大統領が署名して祝祭日となりました。

合衆国には10の連邦祝祭日があります。少ない印象がありますが、その他に州ごとに祝日があります。2月12日はリンカーンの誕生日、イースター (復活祭:Easter) などです。イースターは年ごとに違う春のある日曜日となっています。今年は3月27日です。

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Rev. Martin Luther King Jr.

初めに言葉があった  その12 「Government of the people, by the people, for the people」

Last Updated on 2016年1月16日 by 成田滋

先日、一読者から有り難い指摘を受けました。私の記事に誤解があるという内容でした。それは合衆国大統領のリンカーン (Abraham Lincoln) のゲテイスバーグ演説 (Gettysburg Address) と奴隷解放(Emancipation Proclamation) 宣言は別であるという指摘でした。

早速Wikipediaで調べますと、奴隷解放宣言は二部にわかれていることがわかりました。第一部の奴隷解放宣言は1862年9月22日にリンカーン大統領は、奴隷解放 (Emancipation Proclamation) を宣言し、南北戦争中である連邦軍の戦っていた南部連合が支配する地域の奴隷たちの解放を命じたことです。

第二部の奴隷解放宣言は、南北戦争の2年目である1863年1月1日の奴隷解放宣言の発布です (presidential proclamation and executive order) 。リンカーン大統領はこの宣言で、連邦軍から脱退した州の中で、1863年1月時点で連邦側に回帰していない全ての州の奴隷が解放されることを宣言しました。そして1863年11日19日のゲテイスバーグ演説です。

ゲティスバーグ演説は、272語1449字という約2分間のスピーチでになっています。リンカーンの演説の中では最も有名な箇所が演説の最後で締めくくられます。

 ,,,,and that government of the people, by the people, for the
 people, shall not perish from the earth

南北戦争と奴隷解放宣言に関して、年度別に整理すると次のようになります。
・奴隷解放宣言 1862年9月22日
・奴隷解放宣言の発布 1863年1月1日
・ゲテイスバーグ演説 1863年11日19日
・南北戦争の事実上の終結 1865年4月9日

私は、リンカーンがゲテイスバーグ演説の中で奴隷解放を謳っていたと勘違いしました。ご指摘に沿って、「留学を考える その24」の拙稿を修正させていただきました。http://naritas.jp/wp1/?cat=363

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初めに言葉があった その11 「見ないで信じる者は幸いである」

Last Updated on 2016年1月15日 by 成田滋

長男には二人の息子がいます。私の第一と第二の孫です。中学三年と中学一年になりました。マサチューセッツ州 (Commonwealth of Massachusetts) のプリンストン (Princeton) という静かな田舎町に住んでいます。

2007年から2008年にかけて半年間、大阪の豊中市にやってきました。長男が職務を離れた長期休暇であるサバティカルを利用して阪大に研究でやってきたからです。二人は地元の小学校と幼稚園にはいりました。上の孫は会話ができず、一斉授業にもついていけず、毎朝登校を嫌がっていました。日本語を学ぶクラスもありませんでした。下の孫は、幼稚園で意地悪をされたようで、相手を叩いて叱られて帰ってくることもありました。

週末になると、大好きな新幹線や飛行機を見に、新大阪や伊丹へモノレールで出かけていました。とにかく二人とも乗り物には夢中でした。特に新幹線については、データベースができるほど細部にわたって特徴や性能を吸収していきました。

友人家族が兵庫県の赤穂市での潮干狩りに誘ってくれました。「こだま」に乗って相生駅にやってきました。そこは、のぞみやひかりが通過する駅です。プラットフォームで、上りと下りの新幹線がすれ違う光景に目を白黒させていました。轟音に耳をふさぐ姿は滑稽な位でした。

楽しい半年の思い出のつまった豊中を発つ朝でした。玄関前で「プリンストンに帰ったら友達に新幹線の話をしてやるとみんな喜ぶよ、、」といってやりました。「新幹線を説明するときは、ビデオや写真を見せるといいよ、、そのほうがわかりやすいから、Seeing is believingっていうだろう、」

すると孫が、「おじいちゃん、世の中には見ることで信じることにはならないものもあるんだよ、、」というのです。一瞬、ガツンと叩かれたようでクラクラしました。孫は信仰とか信じるということの智識を既に身につけつつあったのです。「見えないものを信じる」姿勢を孫から思い起こされる別れの時でした。「見ずに信じる者は幸いなり」ということばが浮かびました。

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初めに言葉があった その10 「新たに生まれる」

Last Updated on 2016年1月14日 by 成田滋

世の中には、原理原則を後生大事にする人々がいます。例外を認めない、自由な解釈は認めない、忠実に決められたことにそって対応するという考えの人です。「法務大臣というのは二つのことを覚えておけばいい」と放言して辞めさせられた独善的な大臣もいました。誠にお粗末な話題でした。この人も原理主義者なのかもしれません。

ヨハネによる福音書3章1〜15節(Gospel according to St. John)の中にニコデモ(Nicodemus)という人物が登場します。ニコデモは、当時のユダヤ教社会のサンヘドリン(Sanhedrin)という七十人議会の一人でありました。サンヘドリンは、ユダヤ人の最高院で民事、刑事、宗教の裁判を司っていました。このようにニコデモは社会的地位のある人物で、宗教上の形式にこだわる人とされるパリサイ人(Pharisee)でもありました。地位も名誉もあるニコデモが夜、人目を忍んでキリストに会いに来ます。そして小さな論争を挑むのです。

ニコデモ 「年老いてしまって、一体誰が生まれ変われるというのですか?」
キリスト 「その通り、母の胎内に二度と戻ることは出来ません。」
キリスト 「霊的に生まれねばなりません(Born again)」

キリストはニコデモと自由で闊達な議論へと導きます。当然、保守的なニコデモとは対立します。ニコデモは古い自分を捨てて、新しい自分として生きることができない人物でした。

キリストはさらにのニコデモに云います。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。」と語り新しい息吹や精神の意義を説きます。風は目に見えなくとも、音によって風の存在を知るのだと。被造者としての命の息を吹き込まれる必要があるとニコデモに説いていくのです。

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初めに言葉があった その9  「失独失能」

Last Updated on 2016年1月13日 by 成田滋

中国では現在、高齢化、少子化、失能化(生活能力の喪失)、空巣化(老人だけの世帯)という4つの現象が並行して進行しているといわれます。夫婦が子供から独立して生活するのが困難な状態にあるというのが、「失独失能」の意味のようです。

失能化・半失能化した高齢者は2014年時点で4,000万人に達し、高齢者全体の19%に達し、また空巣世帯は高齢者の50%に達しているといわれます。大中都市に限れば70%に達しているとの報告もあります。このように地域ごとの失能化状況の違いも大きく、政府の対応を難しくしているといわれます。

時間が経つにつれて、「一人っ子」政策の負の影響が大きく現れているのが中国で発表されている論文や新聞紙で報じられています。高齢者の中で、特に一人っ子の両親は、子供が結婚して独立したとき、自分たちを世話してくれるだろうという期待を持てなくなっています。子供が複数いたときは、家族に両親とか障害のあるものがいたとしても子供が交代で世話をする習慣がありました。

政府は、こうした急速に進む高齢化社会の需要に対して、公共の介護福祉施設を増設すると同時に、これまでと違う新しい方法で対応する政策を打ち出しています。例えば、コミュニティ力を活かした家庭介護と社会介護の連携、「居家養老」と呼ばれる在宅養老・介護環境の整備などです。

特に、コミュニティ内に高齢者サービス拠点を置いて、高齢者が買物、清掃、付き添い、看護、緊急救護などといった各種サービスを利用しやすいようにするという考えです。また、生涯学習とか娯楽やスポーツ、レクリエーションなどといった高齢者のニーズに応えたコミュニティ内のサービスも振興しようとしています。

コミュニティと家庭の力を活用する養老・介護体系を支えるため、より多くの企業にこの分野に参入促そうと税制上の優遇措置を考えたり、補助金を出すなどにも力を入れています。こうした政策に呼応して、シルバービジネスに関心をもつ企業や経営者が増えてきています。私が指導した中国からの留学生も福祉資格取得養成施設の立ち上げを北京市内で準備しているとの便りが届いています。

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初めに言葉があった その8 「未富先老」

Last Updated on 2016年1月13日 by 成田滋

最近、中国でしばしば使われる四文字熟語に「未富先老」とか「失独失能」があります。こうした熟語に接すると高校時代に取り組んだ漢文の学習を思い出します。

新年早々、中国経済の減速と株価の下落が報道されています。「サーキットブレーカー」の発動などが取りざたされています。政府が株価を操作するかのごとき政策は市場経済といえるのか、とさえ思われます。

中国の経済現象とともに懸念されるのが「高齢化社会」の進行です。60歳以上の人口が総人口の13.3%を占め、前回の調査より3ポイント上昇したと報じられています。上海は中国で最も早く高齢化社会に突入したとも報道されています。60歳以上の人口は2012年に25%、2020年には37%に達する見込みだというのです。そして最大の課題は急増する高齢者の介護問題というのです。これには「一人っ子」政策のツケが回ってきているともいわれます。親を介護する者が少なくなったのです。

ブリタニカ国際大百科事典によりますと、世界保健機構(WHO)や国連から出された報告書に高齢化の定義があります。それによりますと65歳以上の老年人口の比率が総人口の 7%をこえた社会を「高齢化社会」(aging society)、14%をこえると「化」が抜けて「高齢社会」(aged society)というのだそうです。日本では 1970年に 7%をこえ,その後 1995年には 14.5%に達しています。

高齢社会は今日、明日の現象ではありません。総務省は2015年12月の推計人口において、65歳以上の総人口に占める割合が27%、75歳以上が13%を超えたと発表しています。日本の総人口は2006年をピークに減少に転じています。団塊の世代が2015年にすべて65歳以上になるので、この間の高齢者人口の急増を「2015年問題」と呼ぶこともあります。「2015年問題」とは、少子化に伴う若年労働者の減少と、それにカバーする定年年齢の65歳以上への引き上げ、部分就労といったことです。

「未富先老」という熟語の意味を考えてみましょう。文字通り「豊かになる前に高齢化する」ことです。この熟語は中国固有の現象を表すとされます。急激な経済成長によって、一部の階層の人々は豊かになったようですが、大多数の人民は豊かさに取り残され、高齢化後の生活に不安を抱えているというのです。老後の生活に必要な蓄えが不十分であるとか、介護施設を問わず介護スタッフなど高齢者の受け皿が足りないといった不安です。

中国人のGDPは一人あたり約4,000ドルで、日本やイギリス、ドイツ、フランス、スウェーデンなどの発展国が高齢化社会となったとき、人口一人あたりのGDPはすでに1万~3万ドルに達していたといわれます。これが「未富先老」という言葉が生まれた理由です。経済規模が世界2位になった今の中国にはこうした側面もあります。

我が国では「未富先老」という現象はあるのかという問いですが、高度経済成長を契機に、三種の神器とか所得倍増、マイホームなどの社会現象が起こりました。1990年代初頭のバブル景気の崩壊以後も経済成長は安定した成長を続けているといわれます。終の棲家を得てささやかながらの年金暮らしや介護医療保険制度などによって、「未富先老」という実態はあまり顕在化しなかったようです。このあたりの事情はより詳しく調べる必要は感じますが。

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初めに言葉があった その7 「あなたがたは地の塩である」

Last Updated on 2016年1月11日 by 成田滋

昔も今も人々は塩と非常に深い関係を持って生活しています。ドキュメンタリービデオで観たのですが、チベットやブータンに住む人々は、大事な塩を背中にしょってヒマラヤ越えをしています。地殻変動は海水をヒマラヤの大地に閉じ込めたようです。中国では前漢時代より塩の専売が行われ、2000年にわたる皇帝支配の財政基盤となったといわれます。日本でも1997年にようやく塩の専売制が廃止になったというのですから、塩の重要性がわかろうというものです。

古代ローマ時代には兵士への給料として、塩を買うための銀貨が手渡されたいわれます。ラテン語で塩とは 「sal」、塩(salt)の原型です。そこからサラリー(salary)がうまれました。 「sal」に由来する単語として、塩漬けされたサラミ(salami)、塩の効いたサラダ(salad)、健康的な(salutary)などがあります。サラリーマン(salaryman)とはローマ時代の兵士のなごりということです。

わたしたちが生きていく中で塩のない食べ物はありません。醤油と味噌はその代表ですね。味のない漬物なんて考えられません。戦国時代、上杉謙信が、敵将武田信玄の領国の甲斐が塩の不足に苦しんでいるのを知り、塩を送らせたという故事があります。敵の弱みにつけこまず、逆にその苦境に手を差し伸べる美談です。

味を調整をすることを「手塩に掛ける」といいます。「手塩」とは、もともとは食膳に置いて不浄を払うために小皿に盛った少量の塩のことです。そして、手塩で料理の味加減を自分の好みで調えるようになりました。やがてこのフレーズは、「自分で気を配って大切に世話をすること」に使われるようになりました。

自分自身を生かし、同時に他者を生かすことができるとき、わたしたちは初めて地の塩となります。多くの日本人が上杉謙信に好感を持つのは塩の大切さを彼が知っていたからです。少々違和感があるかもしれませんが、私たちもまた、塩だということです。わたしたちは、知らず知らず、それぞれの小さな役割を果たしています。お互いに、どこかで誰かの「地の塩」となっていることを思い起こしたいのです。「地の塩」とは人の模範や鏡としての喩えです。(マタイ福音書5章13節)

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初めに言葉があった その6  「沈黙の春」

Last Updated on 2016年1月9日 by 成田滋

自然には均衡があるといわれます。私たちは、かつてはそんなことを気にしないで生きてきました。「自然は蘇えり復元する力をもっているから、開発の影響なんてちっぽけなことだ、、、」とうそぶくこともありました。人は世界中で勝手な驕りを繰り返してきました。そのツケがまわっています。

我が国にも生息していた珍しい動物が絶滅しました。オオカミもコヨーテもいたといわれます。今の田舎では、イノシシや鹿が里におりてきて木の実や野菜を食べつくしています。畑の周りに電線を張り巡らしてもそれを飛び越える、人の脅し声を流してもそれに慣れて怖がらないのです。動物は人の知恵を出し抜く力を編み出しています。野生動物の連鎖が消えたことによって、特定の動物が繁殖しているのです。

病原菌については、薬品に対する抵抗性の問題がでてきました。ある種の病原体に効く農薬をつくりそれを散布するとします。病原体はほとんど死滅しますが、不思議なことに一部のものが生き残り、ふたたび増殖するのです。そして次世代へ遺伝していきます。

「沈黙の春」(Silent Spring)の作者、レイチェル・カーソン(Rachel Carson)は警鐘を鳴らします。彼女は合衆国連邦漁業局で海洋生物学者として勤務します。アメリカでは、化学物質がつぎつぎと開発され実用化されていましたが、その危険性についてはあまりにも知られることなく、大量に生産され使用されるという状況にありました。なかでもDDTなどの殺虫剤が空中散布されるなど乱暴な実態がありました。

「日本のコメ作りは世界農業のなかで最も多くの人手を要し、最も土地あたりに生産高をあげてきた。つまり本来の自然の姿からいえば、最もはなはだしいバランスの破壊を前提にしている。」このことを彼女が指摘したのは1964年のことです。かつて住んでいた兵庫県でも田圃では殺虫剤がまかれていました。

「沈黙の春」の出版を契機に、一方で化学物製造会社は猛烈に反論し、他方で科学者が彼女の立場を擁護し大きな論争へと発展します。当時のケネディ大統領は、大統領特別委員会の設置を命じます。この委員会から出された結論は、「沈黙の春」とカーソンの立場を支持するものでした。その後アメリカでのDDTの使用は政府の管理下におかれ、やがて使用が全面的に禁止されます。

自然の生態系には「食物連鎖」と「生物濃縮」という「自然の摂理」がはたらいています。彼女は、この「食物連鎖」と「生物濃縮」が失われると環境汚染がジワジワと進むと警告します。

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初めに言葉があった その5 「野のユリはいかにして育つか」

Last Updated on 2016年1月8日 by 成田滋

小寒。図書館へ通う途中、散歩の道すがら、人様の庭の木や花をながめるのが楽しみです。四季折々の変化をみせてくれます。世話をする人々の心が伝わります。ラベンダーの小さな青、ツバキの華麗な赤、冬ばらや梅の一輪、パンジーやビオラ、スズランのようなアセビ、雪中花の水仙、ボケのふくらみ、。四季を通じて花を愛でることのできる幸いを感じます。寒風にさらされながらも、短い日光を浴びて精一杯咲いています。これから大寒を迎えます。

冬の花は夏とは違い、より綺麗にみえるようです。空気が乾き澄んでいるからもしれません。寒さの中の花に「よく咲いているね」、と声をかけたくなります。元気さを与えてくれます。年令のせいでしょうか花を見る目が違ってきているようです。

かつて「野のユリ」(Lilies of the Field)という映画がありました。流浪の黒人青年がアリゾナの砂漠の中で東欧からきた修道女たちと出会い、不思議な手に導かれて、小さな会堂を建てて立ち去っていく、というシナリオでした。野のユリとはなにか。この素朴な青年なのか、信仰に生きる修道女なのか、会堂に十字架や祭壇を寄付する貧しい人々なのか、、ユリは清浄と純粋さと上品さの象徴とされます。

ルカによる福音書12:27(Gospel according to Luke)からの引用です。
「野のユリはいかにして育つかを思え、労せず、紡がざるなり。されど、我汝らに告ぐ、栄華を極めたるソロモンだにその装いこの花の一つにも及ばざりき。」
Consider the lilies, how they grow: they toil not, they spin not; and yet I say unto you that Solomon in all his glory was not arrayed like one of these. King James Version (KJV)

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初めに言葉があった その4 「この子らを世の光に」

Last Updated on 2016年1月7日 by 成田滋

滋賀県湖南市に近江学園という知的障害児等の療育や訓練、そして医療を行う複合的な施設があります。この施設が始まったのは1946年といますから、戦後のドサクサで大量の孤児が路上に溢れていたころです。その子供達を収容することから始まった活動です。この運動に関わったのは糸賀一雄、池田太郎、田村一二という人々です。当時としては先駆的な出来事です。

この三人の精神は、「この子らを世の光に」というフレーズに表れています。「この子らに世の光を」をいうのが当初のモットーだったようです。彼らは「を」と「に」の使い分けによって意味は全く違うこと、「に」を使うとこの子どもたちは憐れみを受ける対象となることに気がついていきます。「を」を使うと子どもは回りの人々に、広く社会に向かって自分の生命という光を放つ素晴らしい人格ということになる、と主張したのです。光輝く存在であるということを「この子らを世の光にする」ということばに込め、それを宣言したのです。

「この子らを世の光に」というフレーズには、実は下地があります。それはマタイによる福音書(The Gospel according to St. Matthew)5:13-16に「あなたがたは地の塩であり、世の光である」という聖句です。ここでの「世」とは「地」とか「闇」ということです。ほっておけば汚染され腐敗するのが「世」であり、「地」や「闇」は光を必要としているというのです。World English Bibleという聖書を見ますと、「あなたがたは地の塩であり、世の光である」を”Ye are the salt of the earth.”Ye are the light of the world.”とあります。「塩」と「光」に定冠詞 ”the” が使われているのは、特別なもの、かけがいのないものであることを示唆しています。

糸賀一雄はその著書のなかで次のように語ります。
「この子らはどんな重い障害をもっていても、だれと取り替えることもできない個性的な自己実現をしているものである。人間と生まれて、その人なりに人間となっていくのである。その自己実現こそが創造であり生産である。私たちの願いは、重症な障害をもったこの子たちも立派な生産者であるということを、認め合える社会をつくろうということである。『この子らに世の光を』あててやろうという哀れみの政策を求めているのではなく、この子らが自ら輝く素材そのものであるから、いよいよ磨きをかけて輝かそうというのである。『この子らを世の光に』である。(「糸賀一雄著作集3」より引用)

「を」と「に」という一字から生まれる文章の意味は、天と地ほどの違いがあります。「この子らは、、、」でも同じ意味となります。

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初めに言葉があった その3 「飾り気ない仕草、優しい言葉」

Last Updated on 2016年1月6日 by 成田滋

二週間あまりの「里帰り」を終えて長女と家族がマディソンへ戻りました。孫と毎日戯れたことを思いおこしながら、ビリビリに破られた障子の張り替えも済ませました。

長女から無事戻ったというメールが届きました。その中に本シリーズの話題に関連するフレーズがありました。短い滞在中に観察し感じた彼女の文章です。それは日本人の態度と言葉です。「機内でも空港でも駅でもバスでも店でも人々の態度と言葉はアメリカと違う」というのです。

家の近くにある、今はあまり見かけなくなってきた小さな八百屋の前を通ったとき、焼き芋の匂いが漂ってきました。長女は懐かしそうに、食べたいというので一包みを求めました。応対したのは七十過ぎの店主です。孫の頭をなでながら、芋を新聞紙に包んで孫に手渡しました。孫は「Hot!、」と大声を上げました。孫と長女と見比べてその店主は「あんたに似ていないな、、」と話しかけてきました。

翌日、散歩がてらまたその店に焼き芋を買いに行きました。店主の奥さんも出てきて「これは私が作った煮豆だよ、」と勧めてくれました。白と黒の煮豆と焼き芋を買って帰りました。長女はこの老夫婦とのやりとりと会話にいたく感じ入ったようでした。飾り気ない仕草、優しい言葉が印象に残ったようです。

帰りの便は日本のJ社だったようです。フライトアテンダントの接待やサービスがアメリカのとは全然違っていたとも書いてありました。「おもてなし」という言葉は英語では「Hospitality」といわれますが、英語圏では家に訪ねてきたお客様に対して使う言葉なのです。しかし、日本では接客のサービス全般に「おもてなし」が使われます。長女はそのことに気がついたようです。

前回、神学者のアウグスティヌス(Augustinus)が、時間の三様態を「記憶、知覚、期待」と云ったことを述べました。長女の八百屋での体験は、「記憶、知覚、期待」という彼女なりの時間意識ではなかったかと思われるのです。普段何気なく過ごしている日常に思いがけない体験と回想があるのだな、と思った次第です。

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初めに言葉があった その2 「すべてのわざには時がある」

Last Updated on 2016年1月5日 by 成田滋

このブログの中心的なテーマの一つが「時」「とき」ということです。この話題をいろいろな角度から考えながら、どう味付けし咀嚼したらよいかと考えるのですが、なかなか手強く難しいです。「時」という概念は古代宗教や古代ギリシャ神話、そして現代の哲学者や科学者が取り組んできました。私たちも「今日という一日を大切にして生きる」というとき、そこには時間があり、それを意識しています。古代ギリシャ人も私たちも同じことを考えながら生きてきました。

広辞苑によりますと時間とは、「空間と共に人間の認識の基礎を成すもの」とあります。「あらゆる出来事の継起する形式で不可逆的な方向を持ち、前後に無限に続き、一切がそのうちに在ると考えられ、空間と共に世界の基本的枠組みを形作る」ともあります。Wikipediaにも「出来事や変化を認識するための基礎的な概念が時間である」という記述があります。

宗教的な立場からの時間の概念です。永遠から生じ、永遠に期するとされ、厳正の時間は有限の仮象である、とあります。神学者のアウグスティヌス(Aurelius Augustinus)は、時間の三様態である「過去、現在、未来」から、時間というのは被造物世界に固有のものであるし、人間の時間意識を「記憶、知覚、期待」と仮定します。「天の下の出来事にはすべて定められた時がある」ということで一応ここでは納めることにします。

私たち人間が経験する具体的な現実、特に意識に直接与えられる事実をとらえているのが時間ということです。普通、人々は時間を時計の文字盤の目盛りによって測ったり、ある感覚が他の感覚の何倍も強いとか弱いとかで示します。悲しみの時は長く、喜びの時は短く感じられるように、わたしたちにとっては具体的な時間とは、かなり主観的な側面があり、さらに等質的とか量的なものではなく、重ねたり比較することもおよそ不可能であることがわかります。

以下、列記した時に関する現象とは、現在といういろいろな出来事の瞬間であることがわかります。たとえば「入学する時」の記憶にある瞬間と「卒業する時」の瞬間が比較されるので、そこに時の意味が回想されます。そうしますと、私たちは、瞬間瞬間をより高みを求めようとし、より深く生きることがよりよく時間を過ごすことになるのではないかと考えるのです。

旧約聖書の伝道の書(Ecclesiastes)3:1-8を引用して本稿を終えます。

「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。生きるる時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、捜すに時があり、失うに時があり、保つに時があり、捨てるに時があり、裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある」

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初めに言葉があった その1 ロゴス(Logos)

Last Updated on 2016年1月5日 by 成田滋

年頭にあたり、「初めに言があった」というフレーズを考えています。英語のアルファベット(alphabet)はギリシャ語から生まれています。ギリシャ語の最初はアルファ(α-alpa)、そしてベータ(β-beta)と続き、最後がオメガ(omega-Ω)です。聖書のヨハネの黙示録1:7(Revelation)に「今いまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。わたしはアルファであり、オメガである。」という有名な聖句があります。

冒頭に引用したのはヨハネによる福音書1:1にでてきます。「初めに言(ロゴス)があった。言は神とともにあり、言は神であった。」(口語訳聖書)という記述です。この箇所は、キリストについて述べたものと講解され、三位一体(Trinity)という教義の成立に関わっています。三位一体説によれば、「ロゴス」とは「父」の言である「子」、つまりイエスを顕すとされます。ロゴスとはキリストの別称なのです。

他方で、思考や理論の論理という「ロゴスの学」、すなわち論理学があります。ギリシャの哲学者アリストテレス(Aristotle)によって綜合された古代のロゴスの学といわれます。ラテン語ではロゴスは「logica」と呼ばれます。論理学は、思考のつながりや推理の仕方、論証の仕方の形式とか法則を極めようとする学問です。弁証法などの理論につながる学問です。論理学は中世においては神学の基礎科目の一つとされ、神学校では幾何学などともに教えられたという記録があります。

アリストテレスは高校の教科書にもでてきます。彼は、人間の本性は「知を愛する」ことだと主張しました。この有りようをギリシャ語ではフィロソフィア(Philosophia)と呼ばれています。フィロ(philo)は「愛する」、ソフィア(sophia)は「知」を意味します。やがて日本ではこの言葉が「哲学」(philosophy)と訳されました。物理学(physics)という言葉も哲学から派生しています。

私たちが使っている英語の単語には、古代ギリシャ語を語源とするものが沢山あります。Logicに関する単語ですが、Psychologyなどに見られる「logy」は英語の大事な接尾辞の一つとなっています。この接尾辞に出会うと、単語の意味が類推できます。「〜学」、「〜説」、「〜論」、「〜話」、「〜科学」などを意味するからです。たとえば 論理(logic)はもとより、 科学技術(technology)、イデオロギー(ideology)、生理学(physiology)、生物学(biology)、腫瘍学(oncology)、そして蛇足ながら類義語の無用な反復(tautology)など枚挙にいとまがありません。ついでながらギリシャ語の「cracy」を接尾辞とする単語には民主主義(democracy)、貴族体制(aristocracy)などもあります。

普段、「論理的に話したり書いたりする」ということをよく言います。三段論法、帰納法と演繹法、仮説検証など私たちが意識しないでも、問題解決の方法として取り入れています。説明や文脈を明確にし結論に導くことです。論理と思弁を重んじることにより、「語られる力ある言葉」にする知的作業といえます。このように論理学は、人間の思考や表現などあらゆる分野において重要な役割を果たしています。

新しい一年も、ロゴスの持つ力を頂戴しながら本欄で書き綴っていきたいです。

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Aristotle