留学を考える その21 ジョージア州—Peach State

Last Updated on 2015年10月31日 by 成田滋

私がアメリカ留学のために国際ロータリー財団主催の英語研修で2か月過ごしたのがジョージア州(Georgia)のステイトボロ(Stateboro)という小さな町です。家族を引き連れての短い滞在でした。各国からの50名くらいの奨学生と一緒に、南部の人々の親切さ(Southern Hospitality)や暖かい気候を満喫しました。そのせいもあってか、私の英語には南部訛りがあるようです(^^)。

南部アトランタ(Atlanta)はジョージア州最大の都市であり州都です。コカコーラやCNN、保険会社アフラック(Aflac)の本社などがあることでも知られています。ここはまた映画の舞台でもあります。「風と共に去りぬ」を書いたマーガレット・ミッチェルの博物館(The Margaret Mitchell House)がダウンタウンにあります。マーチン・ルーサー・キング牧師が説教していたエベネゼル・バプティスト教会(Ebenezer Baptist Church)、そして氏の功績を称えるThe King Center博物館は必ず立ち寄るべきところです。政界ではジミー・カーター大統領(James A. Carter)がでたところです。

大西洋側にサバンナ(Savana)という港町もあります。植民地時代は、サバンナは綿花のヨーロッパへの輸出港でした。今も貯蔵倉庫が建ち並び、多くのレストランなどに改装されています。マスターズ・トーナメントのゴルフ大会が開かれるのがオーガスタ(Augusta)です。メンバーは世界中に約300名、会員になるためには数10年程待たなければならないそうです。

有名な人物を輩出した割には、ライセンスプレートは明るくのどかなものです。プレートには桃がデザインされています。ジョージア州はスイカ、メロンなどの果物が多いのです。特に桃は有名なので「Peach State」桃の州と呼ばれています。

大学ですが、1785年創立の高等教育機関であるジョージア大学(University of Georgia)、ジョージア州立大学(Georgia State University)が知られています。

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留学を考える その20 フロリダ州–Sunshine State

Last Updated on 2015年10月30日 by 成田滋

日本人にもフロリダ州(Florida)はよく知られています。子どもや親にとってはわくわくするところです。その第一は、オーランド(Orlando)にあるディズニー・ワールド(Disney World)です。世界一の娯楽施設です。その広さはJR山手線内の約1.5倍というのですから、まさに桁外れのものです。その敷地内には、4つのテーマパークを中心に、ウォーター・パーク、エンターテイメントエリア、マリーナ、ゴルフ場、牧場、キャンプ場などが配置されています。

タイフーン・ラグーン(Tyhoon Lagoon)、マジック・キングダム(Magic Kingdom)、、、どれをとっても娯楽の粋を集めてそのアイディアを競っています。レストランにはミッキーマウスや小熊のプーさんがテーブルを回って写真を一緒に撮ってくれます。子どもたちはもう大喜びです。夢を子ども達に与えるのがこうしたテーマパークの「テーマ」といえましょう。オーランドにはユニバーサルスタジオ(Universal Studio)もあります。ディズニー・ワールドとあわせて毎年6,000万以上の人々がオーランドを訪れるというのです。

その第二はアメリカ航空宇宙局 (National Aeronautics and Space Administration: NASA) のケネディ宇宙センター(ohn F. Kennedy Space Center)があります。数々のロケットやスペースシャトルが打ち上げられてきたところです。軍事用の偵察衛星や通信衛星、気象衛星、そして惑星探査機の打ち上げにセンターが使われています。

フロリダの州都はタラハシ(Tallahassee)。ライセンスプレートには「Sunshine State」とあります。文字通り太陽の降り注ぐ温暖な州です。特に冬は、各地から避寒客がやってきます。冬、極寒の中西部では、「フロリダに行ってくる」というフレーズは周りの人からは羨ましがられるのです。

フロリダはまた豊富な漁猟資源でも知られています。特産のエビや牡蠣(かき)でも有名です。映画「フォレストガンプ(Forrest Gump)」の終盤で、ベトナムの戦友と再会しエビ捕りにでかけるシーンがあります。柑橘類の果実及びジュース生産も盛んな州です。

フロリダ州の大学です。フロリダ州で最古、最大規模の大学がフロリダ大学(University of Florida)です。1853年に神学校として創立されという興味ある歴史を有しています。フロリダ州立大学(Florida State University)も知られています。
karte_tallahassee  State of FloridaUFCampus  University of FloridaEverglades_National_Park01 Everglades National Park

留学を考える その19 デラウェア州—The First State

Last Updated on 2015年10月29日 by 成田滋

私の趣味の一つはアメリカの自動車のライセンスプレートを蒐集することです。プレートのデザインやモットーが好きなのです。ですがすべての州を回って探したわけではありません。合衆国の歴史について小学校の時から興味があった私にはどうしても取り上げたい州があります。それがデラウエア州(Delaware)です。

デラウェア州は合衆国の歴史では、13の植民地の中で最初に憲法を批准した州として知られています。それによって、ライセンスプレートには「The First State」と書かれています。独立戦争の頃、英国と戦ったのは13の植民地の人々です。独立戦争は合衆国の明暗を分けたドラマチックな戦いです。

デラウエア州は、ロードアイランド州(Rhode Island)に続き二番目に小さい面積の州です。北はペンシルバニア(Pensilvenia)、東はニュージャージー(New Jersey)、西はメリーランド(Maryland)に隣接しています。州都はドーバー(Dover)です。大西洋に面しているので、古くから移民が植民地として開拓してきたところです。

デラウェアに移住してきたのは、スウェーデン人といわれています。それは1638年頃で、デラウェア湾河口に初めての植民地を築きます。ヨーロッパ諸国とは違ってインディアンから土地を買い上げ、この入植地を「ニュー・スウェーデン(New Sweeden」と名付けて開拓地を広げていきます。やがて、オランダからの入植者とのいざこざがあり、スウェーデン人は数に勝るオランダ人から追い出されていきます。

人口の比率ですが、黒人、アイリッシュ、ドイツ、イングリッシュ、そしてイタリアンの順で占めています。意外と多いのはユダヤ系の人々です。沢山のシナゴーグ(Synagogue)が点在する州でもあります。合衆国におけるユダヤ人の活躍は政治、経済、科学、文化で目覚ましいものがあります。

デラウェア州のサイトを調べますと、主要な農業製品としては鶏卵、大豆、酪農製品、そしてコーンとなっています。小さい州ですが、工業では、化学製品、自動車、食品加工、製紙、ゴムやプラスチック製品などが知られています。一般に他の州よりも生産高の割合は高い水準にあります。

大学ですが、デラウェア大学(University of Delaware)の本校がNewarkにあります。デラウェア大学はDover校、Wilmington校,、Lewes校、Georgetown校からなります。創立は1743年に遡る伝統校です。 現在の上院議員で副大統領であるバイデン(Joe Biden)が学んだ大学です。

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留学を考える その18 コネチカット州—Constitution State

Last Updated on 2015年10月28日 by 成田滋

コネチカット(Connecticut)。実にいい響きです。ライセンスプレートには「Constitution State」とあります。最初の憲法の基となった州ということです。合衆国の北東部、北大西洋岸は、前にも紹介したように、ニュー・イングランド(New England)と呼ばれています。ここに小さな州がいくつかあります。その内の一つがコネチカット州です。首都はハートフォード(Hartford)となっています。東にはロードアイランド州(Rhode Island)、北にはマサチューセッツ州(Massachusetts)、西にはニューヨーク州(New York)と隣接しています。

コネチカットは英国の統治時代、13の植民地の一つでした。1639年に植民地としては最初の「基本法規」(Fundamental Orders)というのを制定します。これはやがてコネチカットで最初の憲法となります。この憲法は合衆国の初代憲法に大きな影響を与えます。コネチカットは英国から独立を宣言する最初の13州の一つとなります。

コネチカットへのヨーロッパからの植民はオランダから来たといわれます。ピューリタン(聖教徒)の人々です。やがてアイルランド、イングランド、フランス、ドイツ、ポーランド、イタリア、ポルトガルなどから移民が押し寄せます。その後プエルトリコ(Puerto Rico)などからも人々がやってきます。その中で、ポーランド系やアイリッシュ系の人々が多いのが特徴となっています。

産業ですが、農業はもとより酪農、製造業、漁業も盛んな州です。ロブスターや貝も知られています。ジェット機エンジン、ヘリコプターや航空機の部品、素材産業、原子力潜水艦の建造と関連の軍事産業、精密機械、化学薬品の製造が盛んです。企業ではスポーツ放送のESPN、ボーイングとエアバスのエンジンを開発するゼネラル・エレクトリック(GE)、シコルスキーヘリコプター(Sikorsky Aircraft)本社などがあります。

大学は、1881年創立のコネチカット大学(University of Connecticut)。発足当時は農学の研究と人材養成が主でした。州内にはStamford校、Avery Point Waterbury 校、Torrington校といった分校もあります。

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留学を考える その17 コロラド州—Centennial State

Last Updated on 2015年10月27日 by 成田滋

コロラド(Colorado)は山岳地帯の州です。南北にロッキー山脈(Rocky Mountains)が貫き、州全体の平均標高が合衆国で一番高いところです。州の東側は大平原: グレートプレーンズ(Great Plains)が広がります。州都であり最大の都市はデンバー(Denver)です。

デンバーは標高が約1マイル(約1,600メートル)なので、マイル・ハイ・シティー(Mile High City)の愛称で呼ばれています。 デンバー市内には多くの日系人が住んでいます。その数、約1万4千人。 「ロッキー時報」という日本語の新聞が発行されているのもうなずけます。

コロラド州の商業や経済は多様です。金融センターであるデンバーを中心に、科学研究及びハイテク産業が集中しいます。他の産業は食品加工、輸送設備、機械、化学製品、稀少資源の開発そして観光業となっています。

州都デンバーから車で一時間ほど南に下ると、ロッキーでも一段と高く聳える「パイクスピーク(Pikes Peak)」がみえます。その山麓の台地には、アスペン(Aspen)などの綺麗な街並みが広がります。コロラド・スプリングス(Colorado Springs)も全米で知られる町です。ここは都市の規模に比べて物価が安く、アメリカでも最も住みやすい町の一つとなっています。

この住み心地の良さを支えるのは、巨大な国防総省の施設によってもたらされる経済効果です。空軍士官学校や共同防衛組織があります。ロッキーの山中には、北米航空宇宙防衛軍や軍事衛星による監視や弾道ミサイル防衛を担う戦略基地が掘られています。

私は小さいとき、進駐軍の放送から「コロラドの月(Moonlight on the Colorado)」というアメリカ歌曲をしばしば聞いたことがあります。ネット上で歌詞を調べると次のようにあります。今思えばませた曲を聴いていたものです。

「コロラドの月の夜に
想い出は いやます
恋の日の しのばれて
さびしさに 涙す
むすびし 恋も
あだに 君はいずこぞ
コロラドの 月の夜に
なれも 我をば待てる」

という恋歌です。当時はそんなことを知るべくもありませんでした。そして私がデンバーを訪ねたのは学会発表の1987年です。デンバー大学(University of Denver)の看護学科の准教授の案内で市内の学校を見学しました。この准教授を国立特殊教育総合研究所に案内したことがきっかけでした。最も規模の大きい大学はコロラド大学(University of Colorado-Boulder)です。留学生活をおくるには快適な土地といえます。

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留学を考える その16 カリフォルニア州—The Golden State

Last Updated on 2015年10月26日 by 成田滋

日本人に最も馴染みのある州の一つ、カリフォルニア州(California)は南北に長い形をしていて、北はオレゴン州(Oregon)に東はネバダ州(Nevada)、アリゾナ州(Arizona)に、最南端のサンディエゴ(San Diego)からはメキシコと国境を接しています。長い海岸線や高低差によって、海岸と内陸ではかなり気温や気候が異なります。この気候は地中海性気候といわれています。降雨量が少ないのと急激に人口が増えたために水資源の不足がしばしば取りあげられています。

州都はサクラメント(Sacramento)です。サンフランシスコ(San Fransisco)を北上しブドウ畑が広がるナパ・バレー(Napa Valley)から東へ向かうとサクラメントに着きます。西部開拓時代の街角のOld Townは保存されていて当時の開拓時代の気分を味わえます。

カリフォルニアといえばロサンゼルス(Los Angels)やサンフランシスコ、サンディエゴなどの大都市ですね。ロサンゼルスはハリウッド(Hollywood)を抱え娯楽産業の世界的中心となっています。サンフランシスコを中心とするベイエリア(Bay Area)は、シリコンバレー(Silicon Valley)をはじめ、全米で最も経済的に進んだところです。農業が盛んなのは中部です。サンディエゴは気候が温暖でアメリカで最も住みよい町といわれています。どこもメキシコの雰囲気が横溢しています。

この州はアメリカでも先進的な行政をするところで知られています。例えば、大気汚染などの問題でメーカー等の産業廃棄物処理・排水規制などの法律が制定されていた。また排気ガス規制など環境関連の規制が全米で最も厳しい州といわれています。ところが財政は厳しいのでアーノルド・シュワルツェネッガー(Arnold Schwarzenegger)前知事も頭を痛めました。彼は経済の低迷や私的な出来事で知事を辞任しました。

メキシコからの移民でヒスパニック系の人口は34%を占めています。ですからメキシコ料理はどこででも楽しめます。またイタリア料理、中華料理、ベトナム料理なども美味しいところです。サンフランシスコの中華街は世界一といえる賑やかさです。

カリフォルニアはハワイと並んで、多くの日本人が移住したところです。1920年代の移民を禁じる排日移民法が制定され、太平洋戦争によってさらに差別や隔離政策が進みます。日系人は土地や財産を没収さながらも子どもを教育し、現在の地位を獲得した苦労話が幾多きかれます。私の知人であるチャールズ・コバヤシ氏(Charles Kobayashi)もそうです。苦労して州判事まで上り詰め、今はサクラメントで成長したお子さんやお孫に囲まれて引退生活を楽しんでいます。

カリフォルニア州の大学機関ですが、スタンフォード大学(Stanford University)、カリフォルニア工科大学(California Institute of Technology: Caltech)は私立大学。カリフォルニア大学ロサンゼルス校 (University of California, Los Angeles: UCLA )、カリフォルニア大学バークレー校(University of California, Berkeley)など世界のトップをいく研究で知られるところです。産業や経済、科学技術、、、、なんでも全米一、世界一を誇りたくなるような雰囲気がこの州にはあります。カリフォルニア工科大学のNASAの技術開発に携わるジェット推進研究所 (Jet Propulsion Laboratory: JPL) が知られています。

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留学を考える その15  アリゾナ—Grand Canyon State

Last Updated on 2015年10月25日 by 成田滋

アリゾナ州(Arizona)はニューメキシコ州(New Mexico)、ユタ州(Utah)、ネバダ州(Nevada)、コロラド州(Colorado)、カリフォルニア州(California)と隣接しています。さらに、南はメキシコと長い国境を有しています。今もナバホ(Navaho)、アパッチ(Apache)、ホピ(Hopi)などの部族の居留地が点在しています。サボテンや椰子など砂漠の風景で有名です。州の北部と中央部は松など常緑樹で覆われた高地でもあり、大渓谷(Grand Canyon)の大自然が広がります。地球の裂け目といわれる標高差1.6キロの谷底は観光客を魅了します。

州都はフェニックス(Phoenix)。非常に暑い夏と温暖な冬として知られています。1990年6月に最高気温摂氏50度を記録したこともあるとか。フェニックスから車で北に走ること2時間。セドーナ(Sedona)に着きます。青空を背にそびえ立つ不思議な形の赤い岩山、その前を流れる渓流。数多くのハイキング・トレイル。赤い岩の山は鉄分を多く含んでいます。その独特の景観からセドーナ一帯は「レッド・ロック・カントリー(Red Rock Country」と呼ばれています。セドーナはフェニックスに来たら必ず寄る価値がある所です。

私は、かって兵庫教育大学の大学院生とフェニックスの学校を視察しました。ちょうど客員研究員として招いていたハワイ大学(University of Hawaii)の教授がアリゾナ州立大学(Arizona State University)で研究したことがあったので、セドーナを紹介してくれました。友人からの紹介は心強いものです。アリゾナ大学(University of Arizona)の本部はツーソン(Tucson)にあります。先端技術産業の集積地であるアリゾナバレー(Arizona Valley)において、中核的な役割を果たす機関であり、NASAとの共同研究が活発だといわれています。研究資金が相当あるものと予想されます。

ライセンスプレートには「Grand Canyon State」とあります。最近のものには、「環境を護ろう」(Protect our environment)というフレーズも入っています。

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留学を考える その14 アーカンソー州–Natural State

Last Updated on 2015年10月24日 by 成田滋

私はこの州を訪れたことがないので、この州を紹介しずらいことをお断りしておきます。アーカンソー州といえば、かつてのビル・クリントン(Bill Clinton)大統領の出身地です。合衆国の州に昇格したのは1836年。南北戦争(American Civil War)では南部連合(Confederate States of America)に味方する州となります。通常は南軍と呼ばれ、北軍(Union)と対峙した合衆国でした。

南部と北部における経済・社会・政治には大きな違いがあったといわれます。互いに対立するようになります。南部は農業中心の州で構成され、黒人奴隷労働に依存したプランテーションが盛んでした。とりわけ綿花の生産が盛んで、多くの黒人奴隷が働いていました。綿花はヨーロッパに輸出していました。特にイギリスを中心とした綿花の輸出は南部の利益だったのです。さらに自由貿易を唱え、北部とは大きな対立点でもありました。

他方、北部では急速な工業化が行われており、農業と違って黒人奴隷を労働力として必要としていませんでした。さらに近代化し都市化する北部が人口の面でも政治・経済・文化の面でも南部を圧倒し、やがてアメリカが北部中心の国となっていきます。それとともに奴隷制廃止などに対する南部の抵抗も広がります。そして1861年に南北戦争(American Civil War)が勃発します。戦争は4年間に及びます。

20世紀になると、黒人の人権問題が大きく燃焼し、首都であるリトルロック(Little Rock)などではしばしば白人と黒人の対立が先鋭化していきます。1954年のブラウン対教育委員会裁判(Brown v. Board of Education)によって、それまで行なわれていた公立学校における白人と黒人の分離教育が違憲となります。1957年にリトルロック・セントラル高校の分離教育化が決定すると、当時のアーカンソー州知事は州兵を学校に送って黒人学生の登校を阻止します。アイゼンハワー(Dwight Eisenhower)大統領は遂に陸軍の空挺師団の部隊を派遣し黒人学生を登校させるという事態に発展していきます。

アーカンソー州は別な意味で日本と深いつながりがあります。フルブライト奨学金(Fulbright Fellowships)の創立者フルブライト(James William Fulbright)の出身地だからです。1939年には34歳の若さでアーカンソー大学(University of Arkansas)学長に任命されます。アメリカ合衆国内最年少の学長といわれています。1945年に世界大戦が終わると、上院議員となったフルブライトは、アメリカと世界各国との教育交流の計画を議会に提出します。そして国務省教育文化局(Bureau of Educational and Cultural Affairs)の出資により、フルブライト奨学金を設立します。現在もフルブライト・プログラムとして多くの優秀な若者に奨学金を提供し、日本やアメリカに留学生をおくっています。

アーカンソー大学(University of Arkansas)の旗艦校はフェイエットビル校(Fayetteville)です。フェイエットビル校を含め州内には五つのキャンパスがあります。車のライセンスプレートには「The Natual State」とあります。

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留学を考える その13 アラスカ—The Last Frontier

Last Updated on 2015年10月23日 by 成田滋

昔、羽田からアメリカやヨーロッパへ行く便は、アラスカ(Alaska)最大の都市アンカレッジ(Anchorage)で給油していたものです。アンカレッジはヨーロッパやアメリカに飛ぶときは最短距離の航路にあたりました。給油の間、ターミナルで待つのは過去の話となりました。

アラスカは面積においてアメリカ最大の州です。それに引きかえ、最も人口過少の州です。州都はジュノー(Juneau)。2008年の大統領選挙で共和党の副大統領候補に州知事だったMs. Sara Palinが指名さたのは驚きでした。

アラスカは1867年にロシアから720万ドルで購入した歴史があります。今で言えばアメリカは安い買いものをしました。ですが当時は「巨大な冷蔵庫を買った」などと非難されたとか。地下資源、森林、漁業資源などが豊かなところです。それにもましてアメリカにとっては国防、軍事上の重要な位置にあるのがアラスカです。そのためか、大地の65%が連邦政府の管理にあります。ほとんどが不毛の地ですから、埋蔵量が豊富な原油の採掘地帯以外は誰も所有しないのです。

人口比率として白人が70%。その大半はアイルランド、ノルウエーからの移民とされています。以外と少ないのがネイティブ・アメリカンやアラスカ・ネイティブ、通称イヌイット(Inuit)で15.6%を占めています。原油の採掘については、アラスカ・ネイティブの間で開発容認派と反対派の賛否両論で部族村落が対立していることが多いとされています。

アラスカ大学フェアバンクス校(University of Alaska, Fairbanks)は、アラスカ大学の基幹大学です。豊かな海洋など自然科学を中心に様々な研究が続けられ、スーパーコンピュータ、北極圏の生物,地球や天体物理,先住民の研究は世界的に評価されています。アラスカ大学はアンカレッジ校のほかサウスイースト(Southeast)校で構成されています。

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留学を考える その12 アラバマ– The Heart of Dixie

Last Updated on 2015年10月22日 by 成田滋

しばらく、アメリカの各州を紹介しながら、大学の特徴を記していくことにします。アルファベット順に州を訪ね歩きます。

最初はアラバマ州(Alabama)です。アラバマ州は合衆国の南部に位置します。西はミシシッピ州(Mississippi) 、北はテネシー州(Tennessee)、東はジョージア州(Georgia)と接し、南はフロリダ州(Florida)と境をなしています。州都はモンゴメリー(Montgomery)。他にバーミングハム(Birmingham)や、宇宙ロケットセンターで知られるハンツビル(Huntsville)といった都市もあります。筆者は1994年に調査でタスカルーサ(Tuscaloosa)にあるアラバマ大学(University of Alabama)を訪ねたことがあります。

州の東側はアパラチア高原(Appalachian Plateau)となっていて、鉱物資源が豊富です。ですが主要な産業は農業といえます。生産品は家禽及び卵、牛、植物苗床品目、落花生、綿、トウモロコシ及びモロコシ等の穀物、野菜、大豆、桃となっています。かっては 「綿花の州」(The Cotton State)とういニックネームがこの州についていたほどです。

アラバマ州の歴史で忘れてはならないのが、公民権運動の展開です。黒人差別が厳しい州であったからです。「ジム・クロウ法」(Jim Crow)という人種分離法がつくれていて、交通機関、駅、トイレ、映画館、学校や図書館などの公共機関、ホテル、レストラン、バーなどで白人と有色人種(the colored)を分離することが正当化されていました。

1955年州都モンゴメリーで起こったローザ・パークス(Rosa Parks)逮捕事件が公民権運動の口火を切ったとされます。彼女は当時、白人専用のバスに乗り込んで逮捕されます。これをきっかけに、キング牧師らがモントゴメリー市民に対するバス・ボイコットの運動へ広がります。運動は全米に反響を及ぼし、1956年には合衆国最高裁判所が「バス車内における人種分離(白人専用及び優先座席)を違憲とする判決を出します。そしてようやく、1964年7月に公民権法(Civil Rights Act)が制定され、長年続いてきた法の上での人種差別は終わりを告げます。

アラバマ州の大学ですが、アラバマ大学の本部がタスカルーサにあります。アラバマ大学バーミングハム校、アラバマ大学ハンツビル校があります州立大学は、州内に分校があってリベラルアーツ教育を広く展開し、基幹大学が大学院での研究を担っています。アラバマ大学のフットボールは強豪として知られています。ポール・ベア・ブライアント(Paul “Bear” Bryant)というヘッドコーチのもとで、史上最多の計15回にわたり全米チャンピオンとなっています。1994年に制作された映画、「フォレスト・ガンプ/一期一会」(Forrest Gump)はアラバマ大学フットボール部がモデルとなっています。トム・ハンクス(Tom Hanks)が主演していました。

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留学を考える その11  アーミッシュ その2 メノナイト

Last Updated on 2015年10月20日 by 成田滋

アメリカは多民族の社会である。留学先の大学には、恐らく20か国以上の国からの留学生がいるに違いない。アメリカ人といってもロシア系(Russian)、ドイツ系(German)、スカンジナビア系(Scandinavian)、アフリカ系(African)、中東系(Middle-East)などまるで「人種のるつぼ」(melting pot)である。こうした人々との出会いも留学の貴重な賜物である。

ウイスコンシンにもアーミッシュ(Amish)と呼ばれる主としてドイツ周辺から移民してきたキリスト教徒が住んでいる。ウイスコンシンは、オハイオ(Ohio)、ペンシルベニア(Pennsylvania)、インディアナ州(Indiana)についで、アーミッシュが四番目に多い州である。

前回少し触れたが、アーミッシュとはメノナイト(Mennonite)と呼ばれるキリスト教集団から分かれたグループのことである。メノナイトの一人、ヤコブ・アマン(Jacob Amman)はキリストの教えの純粋さを保つために、メノナイトのグループから離れて一派をつくる。アマンの名前からこの派の人たちのことは、通常アーミッシュと呼ばれる。メノナイトもアーミッシュも基本的信条は同じで、一括りにしてアーミッシュと呼ぶ人もいる。

アメリカに最初に入植してきたのが、オランダにいたメノナイトの一部の人々、清教徒といわれる。1680年代といいるから、メイフラワー号(Mayflower)でやってきたピルグリム・ファーザーズ(Pilgrim Fathers)から60年後くらいである。さらに、スイスやドイツのメノナイト、その後、ロシア革命前後の迫害(Pogrom)を受けたロシアからのメノナイトがアメリカ大陸にやってくる。なお、メノナイトに似た教義や信条を大事にする宗教集団にクエーカー(Quakers)がいる。平和、男女や民族の平等、質素な生活などを強調する福音主義を信奉している。ブリザレン(Brethren)という一派もある。兄弟団教会(Brethren in Christ)と呼ばれていて、田舎での伝道、厳格な聖書の実践、信仰共同体の形成ということに特徴がある。

キリスト教の宗派の多くは神学、信条、聖書解釈、教会の規律、政治や社会への関わり等についての意見の相違によって作られている。メノナイトの信条は聖書の教えに厳格に従うこと、暴力や戦争を禁じ平和を大切にする非暴力主義を信奉することが特徴である。やがて、トルストイ(Leo Tolstoy)、ガンジー(Mohandas Gandhi) ルーサーキング(Martin Luther King Jr.)らの思想と行動に大きな影響を与える。

Wikipediaによれば、18世紀、ドイツからペンシルベニア・ダッチ(Pennsylvania Dutch)と呼ばれるが人々がペンシルベニア州に移民してくる。この中で約2,500名はメノナイト、500名はアーミッシュだったといわれる。アーミッシュはより安い土地である同州のランカスター地方(Lancaster)を選ぶ。そのため、ランカスターは合衆国でアーミッシュが最も集中する郡といわれている。

アーミッシュの信仰のあり方である。彼らは集落に専用の教会堂を持たない。集まりは各家が持ち回りで行い、そこで聖書を読み神に祈る。これは純粋な宗教儀式のみを大事にする習慣によるといわれる。子供の教育だが、地元の公立の学校へ子供を行かせない。すべて村落内で教育する。教師は村落に住む未婚の女性がなり、教育内容はペンシルベニアドイツ語と英語、聖書と算数が教えられる。村落での教育は8年間で、聖書の教えや信仰、神への感謝がしっかりと教えられるようである。

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留学を考える その10 アーミッシュ その1 プレーン・ピープル

Last Updated on 2015年10月19日 by 成田滋

留学というのは、専攻分野だけを学ぶのではない。他文化とか多文化に親しむ絶好の機会でもある。人々と直に対話したり生活様式に触れるには、中小都市のリベラルアーツの大学で学ぶことを勧める。

2014年の夏、久しぶりでウィスコンシンの田舎をドライブした。マディソンから北へ100マイル、160キロにあるスティーブンスポイント(Steavens Point)という町に行くときであった。途中は見渡すばかりのトウモロコシと馬草畑。雨が少なく穀物の価格が高騰していた。巨大な散水機がトウモロコシ畑に水を撒いている。ウィスコンシン川(Wisconsin River)は満々と水が流れていり。だが、それを汲み上げて畑に散布するには足りなく、農家は地下水を汲み上げている。都市部でも地下水に頼っている。そのため地盤の沈下が懸念されているとか。

北上するにつれて、ネイティブアメリカンの地名が標識に現れてくる。彼らの多くは、特別な居留地に住んでいる。民族は棲み分けるのが常。例えば、ノルウエイ系(Norway)、ユダヤ系(Jewish)、アーミッシュ系()、ベトナム系、中国系という具合である。もちろん大多数は混ざり合って住んではいる。大きな街では、少数民族、特にアジア系の人々が棲み分けるのが普通である。司馬遼太郎は、「街道をゆく」というエッセイで、この状態をモザイク状と呼んでいる。民族の融合には何百年という時間がかかるようである。

棲み分けの特徴は、少数民族の文化が継承されることである。言語、習慣、宗教、生活様式がそこに残ることである。マディソンの動物園で孫達と遊んでいるとき、アーミッシュかメノナイト派(Mennonite)と思われる家族の一行に出会った。家族全員が麦わら帽子をかぶり、黒と白の質素な服装をしている。父親は髭をはやし、母親は白いキャップをかぶっている。子どもは5〜6名という構成。キリスト教と共同体に忠実な信条に生きる人々とされ、清貧な生活を旨とするのでプレーン・ピープル(plain people)とも呼ばれている。

夏の週末、野菜の露天マーケットへ行くと、バギー(buggy)と呼ばれる馬車をひいたアーミッシュが野菜やパンを売りに来る。車を使わない習慣を今も続けている。畑仕事は馬が中心である。子どもたちも農作業を手伝う。そういえば動物園で会った家族も全員日焼けしていた。

棲み分けで気になること。それは孤立とか目に見えない偏見を生むのではないかということである。しかし、アーミッシュらしき一行を見ながら家族の強い絆のようなものが伝わってくる。決して孤立しているのではないのだろうと思われる。彼らは孤立を苦とせず、むしろそれを大切にしているようである。なにか、孤高の生活を誇りにしているようにも見受けられる。

アーミッシュは幾分保守的な服装を続け、テレビやラジオを遠ざけ、他の技術は慎重に受け入れるメノナイトと考えられている。アーミッシュは単一の集団ではない。「質素」な生活様式には、伝統的な信仰と習慣に対する批判が起こるにつれて時代遅れだ、といわれることもある。しかし、奴隷制度に対する反対、公的教育に対する抵抗、国家と宗教の分離、良心的兵役拒否など毅然とした信条は実に革新的な姿勢だと思うのである。

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留学を考える その9 感謝祭(Thanksgiving)の由来

Last Updated on 2015年10月18日 by 成田滋

苦しい留学生活にもつかの間の寛げる時がくる。9月に始まった学期に一息つける時である。勉強に相当疲れた頃にやってくるのがThanksgiving(感謝祭)の休暇である。11月の最終木曜日。今年は11月27日である。翌日はBlack Friday。大抵の州ではこの週末は4連休となる。

1598年に今のテキサス州(Texas) のエルパソ(El Paso)でThanksgivingが祝われたといわれる。1619年には、ヴァージニア植民地(Virginia Colony)でThanksgivingが執り行われたという記録がある。1621年には前回少し触れたが、マサチューセッツ(Masachusettes)のプリマス(Plymouth)という港町で収穫に感謝する祝いが開かれた。これが現在のThanksgivingの原型だといわれる。

しかし歴史家には別の主張をする者もいる。1623年の植民地に干ばつが長く続いた。その後に雨が降り、幸い作物を収穫できたことを人々は感謝したという。そして祝いの宴(feast)ではなく感謝の礼拝(worship service)が行われたのが原型だというのである。これもなるほどと頷ける。

11月最終木曜日が国民の祝日となったのは1789年である。そのときの大統領は初代のジョージ・ワシントン(George Washington)。すべての州がThanksgivingを祝日としたのは1863年である。

しかし、国民誰もがThanksgivingを祝うわけではない。1970年以降、一部の先住民族であるネイティブアメリカン(Native American)とその支援者は、この日を「全米哀悼の日」(National Day of Mouring)として抗議の日としている。プリマスにあるプリマスロック(Plymouth Rock)の前で記念式典を開いている。また、この日は「アメリカインディアン遺産記念日(American Indian Heritage Day)」ともされている。伝統文化や言語の遺産を再認識する日としている。Thanksgivingはアメリカにおける人種差別の歴史を振り返る時でもある。

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留学を考える その8 感謝祭と植民地

Last Updated on 2015年10月17日 by 成田滋

Thanksgivingの頃、中西部(Midwest)やボストン(Boston)あたりのNew England地方の気候は誠に寒々としている。木々の葉はすっかり散り、雪が冷たい風に吹かれて舞う。それだけにThanksgivingでは、人々の高揚した雰囲気は格別なものがある。祝いの飾り付けも綺麗だ。家の主人はエプロンを着て張り切っている。留学して初めてのThanksgivingを経験すると「ついにアメリカに来たか、、、」という感慨に襲われるに違いない。

マディソンにいた頃、ミルウォーキー(Milwaukee)に住むかつての宣教師ご一家の晩餐に招かれたことがある。インターステート90(Interstate 90: I-90)を車で飛ばしていった。I-90は、シアトル(Seattle)からボストン(Boston)に至る4,990キロの全米で最も長い州間高速道路である。途中、シカゴ(Chicago)やクリーブランド(Cleveland)、シラキュース(Syracuse)などを通過する。道路際の至るところに「鹿に注意」の看板がでている。

午前中は教会でThanksgivingの礼拝が執り行われる。説教の題となるキーワードは平和、愛、捧げ、喜び、感謝、恵みなどである。例えば詩篇(Psalm)106章の1節では、「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」
“Give thanks to the Lord, for He is good. His love endures forever.” と読み上げられる。

ボストンの南東にある半島は(Cape Cod)と呼ばれる。ヨーロッパからの漁民が鱈を求めてきたところのようである。そこに移民しようとした人々は、砂地で水がないことからケープコッドをあきらめプリマス(Plymouth)のあたりにコロニーをつくったとある。1620年頃、メイフラワー号(Mayflower)でこの地に上陸したのが清教徒と呼ばれる人々である。移民の中には干ばつや飢饉により多数の餓死者がでるほど、苦しい生活を強いられたようである。それだけに豊穣な収穫に対する感謝がThanksgivingにつながったといわれる。

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留学を考える その7 そろそろ感謝祭が

Last Updated on 2015年10月16日 by 成田滋

念願の留学が叶ったとしよう。授業や課題、そしてテストの準備で忙しくてびっくりするに違いない。少し生活が落ち着いた頃、最も喜ばしくも楽しい暦の祝日、感謝祭(Thanksgiving)が近づく。感謝祭は11月の最終曜日、キリストの降誕を祝うクリスマス(Christmas)と並ぶ四日間の休日である。

この祝いを楽しく過ごすには普段から心掛けておくことがある。例えば大学の寮などで生活しているときは、米国人の学生らと親密になっておくことである。彼らは感謝祭の週末には親の元に帰って過ごす。友達づきあいをしておくと、必ず「一緒に家族のところに行かないか、、」と誘ってくれる。

もし普通のアパートを借りていても隣近所の人々と仲良くしておくことだ。一緒にパーティをしたりBBQなどの会合には顔を出して会話することを心掛けておくことが大事だ。またキリスト教会などの礼拝に出席していると、必ず声をかけてくれる。日頃から積極的に自分から活動に飛び込んでおくのである。求めると与えてくれるのである。毎日、独りぼっちで勉強ばかりする生活はいけない。

感謝祭は、人々が最も旅行する時期である。道路も空港も大混雑する。だが市営バスは本数を減らして運行する。学校、官庁、会社、その他の機関も4日間の休みとなる。多くの町や村ではパレードが行われる。子供も大人にも楽しみな行事である。家族や親戚、友人が集まって宴の晩餐を囲む。

感謝祭の料理の中心は七面鳥(turkey)である。そのほか、グランベリーソース(cranberry sauce)、パンプキンパイ(pumpkin pie)、ジャガイモ(potatoes)、スタッフィング(stuffing)、グレービー(gravy)が卓上に並ぶ。マッシュポテトに肉汁、グレイビーをかけたものはアメリカ料理の定番のようだ。鳥肉料理にも欠かせないソースである。

宴の前には、必ず家の主が感謝の祈りを捧げる。そして七面鳥にナイフをいれる。招かれた者は勝手に皿をとって料理に手を伸ばしてはいけない。テレビでは寒さのさなか、フットボールが中継されている。感謝祭が終わるとクリスマスの待降節ーアドベント(Advent)が始まる。皆懸命に勉強に集中する。

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留学を考える その6 米国大学への留学生の増加

Last Updated on 2015年10月15日 by 成田滋

アメリカのシンクタンク(think tank)、国際教育研究所(Institute of International Education: IIE)が発表した2013〜14年度のアメリカの大学や大学院への留学生の統計は興味深い。国際教育研究所はフルブライト財団の支援によるFulbright Programを主宰したり、国内外の留学生を支援する、いわばアメリカにおける国際交流教育の旗艦組織である。

この統計によるとアメリカの大学への留学生の数は、前年度と比較して8.1%増の約88万6千人で、総数は1,107万5千人であるという。アメリカは留学生で支えられているといってよいほどの数字である。率直にいってアメリカの大学への留学はやはり高い人気があるという印象である。

国別の留学生の数だが、第1位は5年連続して中国人で、27万4千人とあり、これは前年の16.5%の伸びで留学生全体の31%を占めた。第二位はインド(Inidia)で10万3千人の6.1%の伸び、第三位は韓国となっている。日本からは1万9千人。前年度より6.2%減っている。この減少は9年連続して続いている。1990年後半が留学生のピークだった頃と較べで半減してしまった。

留学生の増加の伸びでいえば、最高はサウジアラビア(Saudi Arabia)からの留学生の伸びが21%で5万4千人となっている。ブラジル(Brazil)、クエート(Kuwait)からの留学生も大幅に増えている。この理由は国費留学生の増加であるという。

アメリカの大学で留学生が増加する第一の理由は、優れた高等教育を受けられる環境があるからである。留学中に学位を取得すれば、自国に帰ったときその身分が優遇され、地位や高所得が約束されている場合が多い。今もアメリカの大学への留学は大きなステイタスとなっている。

第二は派遣先の国内で、高等教育機関を十分な早さでつくれないなど、人材養成が追いつかず、そのために留学生が増えているという状況である。若者の向学心を満たす教育や研究環境が不十分ということだろう。

第三はアメリカは伝統的に留学生の出身国がどこであれ歓迎するという姿勢をとっていることである。中国やインドだけでなく、アメリカとの外交関係が緊迫した状態にあるイラン、ベネズエラからもたくさんの留学生を迎え入れている。キューバはアメリカとの外交関係が修復しつつあり、留学生の数はふえるであろう。留学生の受け入れは大学にとっては大事な収入源となっている。

だが最近の日経のニュースでは、アメリカの小さな規模のリベラルアーツ大学は国内での学生の減少に悩み、廃止や合併が起こっているようである。私立に比べ授業料が比較的安い州立大学へ進む傾向がある。

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留学を考える その5 リベラルアーツ教育とサービス・ラーニング

Last Updated on 2015年10月14日 by 成田滋

最近の大学におけるリベラルアーツ大学のカリキュラムをみていると、バイリンガルな人材の養成、留学体験による多文化理解、あるいは他文化理解、そしてグローバルな資質の養成などなっている。そのために、多文化理解科目の設置や英語による授業、留学生との交流、留学の推進などを掲げている。一体そんな環境で国際的に活躍できる人材が育つのか?

筆者は、留学とは学位を獲得する修学形態と定義している。英語研修とかホームステイによる異文化体験ということではない。ところが多くの大学が学生を仲介するのは、一週間とか二週間の英語研修である。そのため保護者も我が子のために数十万円の出費を強いられる。学生といえば、全くの海外旅行気分である。事前研修というのがある。小遣いはいくら位とか、パスポートの期限は大丈夫か、英語会話の練習とか、ホームステイの心構えとか、、、、まるで小学生の修学旅行の事前準備のようだ。

最近は語学研修からボランティア体験が脚光を浴びているようだ。大学側もその準備のために相当な努力を強いられている。まずは、ボランティアを受け入れてくれるパートナー機関を探すことから始まる。機関は大学であったり現地のNPO法人であったり、政府関連機関であったりする。ボランティア体験は、主として現地での活動の観察や交流、各種の体験、話し合いなどとなる。

しかし、ボランティア体験だけではグローバルな人材を育てることには限界があることが、ようやく認識されてきた。それはボランティア活動の計画がすべて機関間で周到にお膳立てされ、学生の側の声やニーズが届いていなかったことである。受け身の姿勢からは学ぶことの果実は少ない。そこから「サービス・ラーニング(Service Learning)」という新しい発想が生まれてきた。

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留学を考える その4 国際リベラルアーツ

Last Updated on 2015年10月13日 by 成田滋

「国際リベラルアーツ」という名称は比較的新しい。このカリキュラムであるが、原則英語での授業、国際教養科目の充実などを強調している。また外国人留学生との交流とか留学を義務付けるというのもある。これといって珍しいことではない。国際リベラルアーツは、今日の大学改革、とりわけ国立大学法人に対して求められている再編成の圧力が強まっていることもみのがせない。人文・社会科学系学部再構築は、世界の政治や経済、文化を学べるコースを用意し、国際的に活躍できる人材を育てる拠点にするというのが主流のようである。

なぜこのような様相になってきているかである。それは国の指針「グローバル人材育成戦略」があり、大学はそれに沿って学部を新設しようとしている。我が国を取り巻くグローバル化は急速に進展しているといっても、1990年後半からの海外留学生数の減少、海外勤務を希望しない内向きの学生の増加が報告されてきた。そのため、政府もこのような状況を危惧し「グローバル人材育成推進会議 審議まとめ」を発表した。「高校・大学、企業、政府・行政、保護者等が積極的に若い世代を後押しする環境を社会全体で生み出すことが不可欠」と提言している。これが文部科学省の「スーパーグローバル大学創成支援事業」につながっている。

2014年には、長崎大学が「多文化社会学部」を設置している。「長崎という地域の窓を通して、多文化が触れ合い、せめぎ合い、そして協働する国際社会と向き合う学部」とある。同じく2014年には山梨学院大学が「国際リベラルアーツ学部」をつくっている。専任教官の8割以上が外国人といううたい文句である。だが国際系学部は過当競争に陥りつつある。筆者には大学間の差別化が難しくなっているように思える。そこには学生募集に奔走している姿が映る。大学が新しい学部をつくりグローバル化の牽引役になろとしても、そうたやすく事が運ぶものではないはずである。

ipad_intersectionA5E9A5D5A5A1A5A8A5EDA4CEB4D6A1D6A5A2A5C6A5CDA4CEB3D8C6B2A1D7 システィーナ礼拝堂

留学を考える その3 リベラルアーツ教育と国際基督教大学

Last Updated on 2015年10月12日 by 成田滋

リベラルアーツ教育(Liberal Arts Education)を強調する大学が日本でも増えている。特に「国際リベラルアーツ」を掲げる学部の新設が相次いでいる。こうした学部のカリキュラムを「国際系リベラルアーツ」と呼ぶのだそうだ。我が国のリベラルアーツの雄は国際基督教大学( University: ICU)といえよう。だが大学の性質からみればInternational Christian Collegeと名付けるのが正しい。単科大学であるからだ。

ICUはベラルアーツ・カレッジとして「平和」、「学術基礎」、「専門知識」を統合しながら、バイリンガリズムによる世界基準の「全人教育」という理想を掲げて1949年に創立された。「国際的社会人としての教養をもって、神と人とに奉仕する有為の人材を養成し、恒久平和の確立に資することを目的とする」とある。アメリカの長老派教会によって支援され、財界からの寄付を受けて、リベラルアーツ・カレッジの形式を踏襲している。

ICUはもともと人文科学科、社会科学科、自然科学科の3学科から始まり、その後は教育学科・語学科・国際関係学科の設置で6学科となる。卒業要件単位の組み合わせについて自由度が高く、知識の統合と専門分野を超えた交流が学科間で行われることに特徴がある。これはアメリカ型のベラルアーツ教育を受け継いだものといえる。第二代学長の鵜飼信成はICUを名実ともにベラルアーツ・カレッジとして発展させた。

かつて筆者も北海道大学の教養部で1年半を過ごした。東京大学にも教養学部があった。リベラルアーツ教育が重視されていた。だが、教養部の勉強は高校の延長のような内容であった。目新しいことといえば、ドイツ語とフランス語のいづれかが必須であったことだ。ウィリアム・クラーク(William Clark)や内村鑑三の本を読めたのがよかった。今思えば、筆者も海外で学ぶ機会を得たのは、この教養部時代からなんらかの影響を受けたといえる。

Ukai_Nobushige  鵜飼信成icu 国際基督教大学

留学を考える その2 リベラルアーツの伝統

Last Updated on 2015年10月11日 by 成田滋

一体、なにを学びたいのかをおぼろげながらに考えることから大学選びが始まる。といっても専攻を決めることは若い人にとっては難しい。多くの読者は、周りの人からきいて大学を考え、将来の専攻を決めていくのではないか。専攻を考えるためには、幅広い基礎的な知識や教養が求められる。

ウィスコンシン大学(University of Wisconsin, Madison)とかUCLA(University of California, Los Angeles)とか、ミシガン大学(University of Michigan)、さらにはスタンフォード大学(Stanford University)などの名前を知っているだろう。こうした州立や私立の大学は超難関の研究中心の総合大学である。だが規模は小さくても将来役に立つことを学べる大学はいろいろとある。

「多様性」はアメリカの大学の特徴である。アメリカの大学はもともとは単科大学であるカレッジ(college)として創設された。例えば聖職者を養成し、町や村のリーダーを養成することを主たる目的として定めた。そのために教養を幅広く身につけ、決断力を養い、リーダーシップをとれる人間になる基礎教育をするようになった。これをリベラルアーツ教育(Liberal Arts Education)といい、ここにリベラルアーツ・カレッジ(liberal arts college)が誕生する。1636年に創立した牧師養成の機関がハーバード大学(Harvard University)がそうである。ハーバードはアメリカ最初のカレッジといわれる。やがて新しい専門分野を加えていきながら、大学院レベルの研究に力を入れている総合大学として発展して世界で最も入学が難しい。

アメリカには州立、私立を含めて4,000以上の大学がある。その中心は小さなカレッジであることを知っているだろうか。繰り返すがカレッジとは単科大学のことだ。いわば4年制のリベラルアーツの大学である。少人数のコミュニティのゆえ、手厚い指導のもとで幅広い知識を習得できる。アートや音楽の専門大学や、コンピュータ操作、歯科技工、機械、教師養成、軍の士官養成大学などもある。あえて大きな総合大学を選ばずこうしたカレッジで勉強し、総合大学の大学院へ進む者が多いのがアメリカのカレッジの特徴といえる。どうしても職業技術を身につけたい者には、コミュニティ・カレッジ(Community College)を選び最低限の教育や職業訓練を受けることができる。コミュニティ・カレッジは中小都市には必ずある。語学研修でここを選ぶのもよい考えである。

リベラルアーツ・カレッジなど多くのアメリカの大学は、多様性を重視している。できるだけバラエティの富んだ学生たちを入学させようという観点から入学審査を行う。たとえばエッセイでユニークなことを書いているとか、推薦状の内容が秀でているなど、テストや高校の成績からだけではうかがえない資質を見いだそうとする。総合大学は別として、カレッジではテストや高校の成績が少しくらい低くても、エッセイや推薦状などで自己アピールすれば入学のチャンスを得られる可能性がある。リベラルアーツ・カレッジで有名ところは極めて授業料が高い。そのため高所得者の子弟が多い。

madisonclg_logo_hrz_2c 1ef95d33fb25dbbc56e83717c430aac3 College of Holy Cross, MA