ウィスコンシンで会った人々 その85 放蕩息子噺 「唐茄子屋政談」

Last Updated on 2015年8月31日 by 成田滋

落語にはいろいろな人物が登場する。だが地噺にでてくる人物は別として、あまり真面目で正直者はでてこないことになっている。真面目な者は話芸によって描くには難しい人物なのだろうと察する。

放蕩息子には二種類いるようだ。自堕落で遊びまくり最後は身を持ち崩す者。「お天道様と米の飯はついてくる」というお定まりの捨て台詞を吐く。だが「米の飯はついてこない。」空腹で満たされない人生、家畜にも劣る惨めさ、誰も助けてくれる者のない孤独を味わう。

もう一種類は、放縦の限りを尽くすが、やがて悔い改めまっとうな暮らしに戻る者である。新約聖書ルカの福音書15章にも放蕩息子と父親の話がある。「この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだ」。共通しているのは、現実からの逃避。この現実というのはどこにいっても必ず陰のようについてくる。それに直面し決断するか否かが問われる。

空け/虚けといった放蕩息子のほとんどは商家の若旦那。官許の吉原で道楽をして勘当される。紹介する演目は「唐茄子屋政談」。若旦那の徳三郎。吉原の花魁に入れ浸りで家の金を湯水のように使う。親父も放っておけず、 親族会議の末、道楽をやめなければ勘当だと言い渡される。

「勘当けっこう!」捨て台詞を残して徳三郎は家を飛び出る。その足で花魁のところに転がり込み相談するが金の切れ目だと、体よく追い払われる。

どこにも行く場所がなくなって、叔母の家に顔を出すと 「おまえのおとっつぁんに、むすび一つやってくれるなと言われてるんだから。 まごまごしてると水ぶっかけるよッ」 と、ケンもほろろ。

土用の暑い時分に、三、四日も食わずに水ばかり。つくづく生きているのが嫌になり、身投げの「名所」で知られた吾妻橋から飛び込もうとすると通りかかったのが、本所の達磨横丁で大家をしている叔父。止めようとして顔を見ると甥の徳三郎。

叔父 「なんだ、てめえか。飛び込んじゃいな!」
徳三郎 「アワワ、、、助けてください」
叔父 「てめえは家を出るとき、お天道さまと米の飯はとか言ってたな。 どうだ。ついて回ったか?」
徳三郎 「お天道様はついて回るけど、米の飯はついて回らない」
叔父 「ざまあみやがれ!」

ともかく家に連れて帰り、明日から働かせるからと釘を刺す。翌朝叔父は唐茄子(かぼちゃ)を山のように仕入れてきた。「今日からこれを売るんだ」格好悪いとごねる徳三郎を 「そんなら出てけ。額に汗して働くのがどこが格好悪い」 と叱りつけ、天秤棒を担がせると送りだす。徳三郎、炎天下を、重い天秤棒を肩にふらふら。浅草の田原町まで来ると、石につまづいて倒れ動けない。

見かねた近所の長屋の衆が同情し、 住人に売りさばいてくれ、残った唐茄子は二個。礼を言って、売り声の稽古をしながら歩く。田原町の田んぼに来かかると、 吉原の明かりがぼんやりと見える。後悔と回心の念が広がる。

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ウィスコンシンで会った人々 その84 心中噺 「品川心中」

Last Updated on 2015年8月29日 by 成田滋

心中の別称は情死。広辞苑によると「相愛の男女が一緒に自殺すること」とある。落語にも心中の演目がいくつかあるが、心中を遂げられない、どたばたした劇が展開されることが多いようだ。真剣に思いつめた男女ではない。「品川心中」もそうである。

江戸時代、品川は岡場所。道中奉行から500人の飯盛り女を置くことが許されていた。実際にはその数倍がいたらしい。品川は海のそば、東海道の宿場であった。幕末、品川の女郎屋は尊皇攘夷や倒幕を目指す志士の集まりの場としても栄えた。初代英国領事館が開設されたのも品川。海という地の利が働いたと思われる。今も江戸時代と変わらぬ道幅が「旧東海道」として残っている。

今回紹介するのは「品川心中」である。品川の筆頭女郎に「お染」がいる。歳も歳となりそろそろ「紋日」という移り代え、客寄せの集まりをしなければならない。「紋日」は自分がするのではなく、馴染みの客がしてくれる風習であった。そこでスポンサーを探すが誰も返事をくれない。勝ち気なお染は恥をかくくらいなら死のうと決心する。一人で死ぬのも情けない、誰か心中につきあってくれる者がないかを探すのである。

あれこれと客を物色する。女房子や祖父母がいない者といった心中の条件に合うのが中々いない。そこに貸本屋の金蔵に白羽の矢がとまり、手紙を書く。早速金蔵がやってきて二人は心中の約束をする。金蔵は世話になっている親分にこの世の暇乞いをする。遠い西のほうへ旅に出るという。帰ってくるのは盆の13日とか、頓珍漢なことを言う。

いざ心中の夜、お染に急かされるが金蔵はカミソリで首を切るのを嫌がる。「喉元は急所だからいけねェ」などと喚く。仕方なく二人は桟橋へ行く。風邪をひいているといってためらう金蔵をお染は突き落とす。お染も飛び込もうとするとき、店の若い衆が「紋日の金ができた、、」と知らせにくる。お染は海に向かって「ねェ金さん、あたし金ができたの。死ぬのを少し見合わせるね。いずれあの世でお目に掛かりますから、、、ここで失礼します。」失礼極まりない、、、

金蔵は桟橋の柱に捉まり、一晩中仰向けに浮いている。ところが品川は遠浅。見ると膝までしか水がない。金蔵は欺された自分にも呆れる。

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ウィスコンシンで会った人々 その83 清貧さと人情噺 「井戸の茶碗」

Last Updated on 2015年8月28日 by 成田滋

清廉さ、清明さ、正直さに溢れる人情噺がある。貧しいながら人それぞれの矜持を誇りとする姿は、奥深い笑いをもたらしてくれる。善意に少しも臭さがなく爽やかな話がある。その代表的なものの一つが「井戸の茶碗」という演目である。

茗荷谷に住む紙屑屋で正直者の清兵衛。いつものように流し歩いている。なりは粗末ながら上品な娘に声をかけられる。招かれて裏長屋へ行くと、その父親、千代田卜斎から、くずの他に時代のついた仏像を二百文で引き取ってもらいたいと頼まれる。仏像に目利きがない清兵衛は断るが、結局二百文で引き取り、それ以上で売れた場合は、儲けの半分を持ってくると約束する。

仏像を籠に入れ、街を流していると、若い勤番の高木佐久左衛門に声をかけられる。「カラカラと音がするから、腹籠ごもりの仏像だ。縁起が良い」と言い、清兵衛からその仏像を三百文で買い上げる。

佐久左衛門が仏像を磨いていると、台座がはがれ中から五十両もの小判が出てくる。佐久左衛門は「仏像は買ったが、中の五十両まで買った覚えはない。金で金が買えるわけがない。仏像を売るくらいであるから暮らし向きも逼迫しておられよう。元の持ち主に返したい」といって屑屋の清兵衛探しを始める。

ようやく清兵衛を探し出す。佐久左衛門から事の顛末を聞き、清兵衛は卜斎の元へ五十両を持っていく。卜斎は五十両を前にして、「仏像を売ってしまったのだから、中から何が出てきても私のものではない」と受け取らない。

清兵衛は佐久左衛門へ五十両を持って帰るが、こちらでも受け取るわけにはいかないと突っ返され、困り果ててしまう。裏長屋の家主が仲介役に入り、「千代田様へ二十両、高木様へ二十両、苦労した清兵衛へ十両でどうだろう」と提案する。

しかし、卜斎はこれを断り受け取らない。「二十両の形に何か高木様へ渡したらどうだろうか」という提案を受け、毎日使っていた汚い茶碗を形として、卜斎は二十両を受け取る。

この美談が細川家で話題になり、佐久左衛門が殿様へお目通りを許される。殿様は茶碗も見てみたいと言われる。汚いままでは良くないと、茶碗を一生懸命磨き、殿様へ差し出した。すると、側に仕えていた目利きが「青井戸の茶碗」という新羅か高句麗の産で、一国一城に値すると鑑定する。殿様はその茶碗を三百両で買い上げる。

「このまま千代田様へ返しても絶対に受け取らないであろうから、半分の百五十両を届けて欲しい」と佐久左衛門は清兵衛に頼む。しかし清兵衛は断るが、しぶしぶ卜斎に百五十両を持っていく。卜斎はまたも受け取るわけにはいかないと断る。困り果てた清兵衛を見て、「今までのいきさつで高木様がどのような方かはよく分かっておる。娘は貧しくとも女一通りの事は仕込んである。この娘を嫁にめとって下さるのであれば、支度金として受け取る」と言う。

清兵衛は佐久左衛門の元へ帰り経緯を伝えると、千代田氏の娘であればまずまちがいはないだろうと、嫁にもらうことを決める。

清兵衛 「今は裏長屋で粗末ななりをしている娘ですが、こちらへ連れてきて一生懸命磨けば、見違えるようにおなりですよ」
佐久左衛門 「いや磨くのはよそう、また小判が出るといけない」

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ウィスコンシンで会った人々 その82 親子噺 「抜け雀」

Last Updated on 2015年8月28日 by 成田滋

親子の情を謳った噺も落語の大事な話題となっている。「抜け雀」はその代表作といえる。絵師の親子と芸の秀逸さの話でもある。

旅の途中、若い男が小田原宿に差し掛かる。風体が貧相なせいか、呼び込みの声がかからない。ようやく小さな旅籠の主人に声をかけられ投宿することになる。この男、朝昼晩一升ずつの酒を飲み、昼間はただ寝るだけ。旅籠のかみさんが困って、内金をもらってこいと気弱な亭主の尻をたたく。ところがこの男一銭も持ち合わせていない。主人がきくと、自分は絵師だという。旦那は看板描きと勘違いする。そして「宿値賃のかたに絵を描いてやろうか」と新しい衝立に目をとめる。

衝立に描いたのは五羽の雀。宿の主人はそれを見て
 主人 「これはなんです?」
 侍  「お前の眉の下にあるのはなにか、、」
 主人 「眼です。」
 侍  「これが見えないくらいなら銀紙をはっておけ!」

そして、五羽で五両だと説明する。この衝立は、今度宿賃を払うまで誰にも売るではないと言い聞かせて出立する。

翌日、掃除をしようと二階に上がると雀の鳴き声がする。窓を開けると衝立から雀が飛び出していく。暫くすると、雀が衝立に戻ってくる。この話がひろまり、大勢の客が雀を見ようと押し寄せる。ある大名がこの衝立に二千両の値をつける。

やがて人品の良さそうな侍がやってくる。この男、かつて雀を描いた絵師であった。衝立に鳥籠が描かれ雀は元気にしている。主人から、「ある老人がきて鳥籠と止まり木がないと雀は死んでしまうといって、それを付け加えていった」というのである。それを聞いた侍、
「ご壮健でなによりです。不幸の段、お許しを」
と衝立の前にひれ伏す。きいてみると、鳥籠と止まり木を描いたのは絵師の父親であるという。
 侍 「俺は未熟で、不幸者だ、、」
 主人 「どうして?」
 侍 「衝立を見よ、俺は親父をかごかきにした。」
親子揃って名絵師という噺である。
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もう一席、「親子酒」。ある商家に共に酒好きな大旦那と若旦那の親子がいる。息子の酒癖が非常に悪いということで、父親が心配し、「お前だけに酒を止めろとは言わない。共に禁酒をしよう」と話をする。 息子も承知し、しばらくは何事もなかった。2週間ほど経つと、他に楽しみのない父親は酒が恋しくなる。息子が出かけていたある晩、女房に頼み込み、遂に一杯、二杯、三杯とせびって飲み始める。甘露、甘露と独酌の挙げ句ベロンベロンになる。

気分が良くなっているところへ、息子が帰ってくる。慌てて場を取り繕い、父親は「酔っている姿など見せない」と、息子を迎えるが、帰ってきた息子も同様にしたたかに酔い上機嫌であった。 呆れた父親が「何故酔っているんだ」と問うと、「出入り先の旦那に相手をさせられました。酒は止められませんね」などと言う。父親は
「えらいッ、その意気でまず一杯ッ」
と乗せられて、結局、二人で二升五合をやってしまう。

父親、女房に向かい、
「婆さん、こいつの顔はさっきからいくつにも見える。こんな化け物に身代は渡せない!」
すると息子は、
「俺だって、こんなグルグル回る天井の家なんていりませんよ!」

親子で酒を呑むのが一番幸せな時である。筆者にも父親と一緒に杯を傾けた大切な光景が浮かんでくる。

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ウィスコンシンで会った人々 その81 寿司屋噺

Last Updated on 2015年8月26日 by 成田滋

「転失気」の話題の後に食べ物の噺で、ちと憚るが読んでいただきたい。まあ、食事と「転失気」は因果関係があるのでどうしても落語の演題からはずせない。

古典落語にはいろいろな食べ物が登場する。寿司、鰻、秋刀魚、鯉の洗い、蕎麦、蒲鉾、うどん、雑炊、納豆、卵焼き、おから、おでん、湯豆腐、冷奴、煮付け、天ぷら、たくあん、さらに饅頭や羊かん、せんべいまで登場する。新作落語とか創作落語にもいろいろな食べ物がでてくる。だが「寿司」は「鰻」と並ぶダントツの人気といえよう。江戸といえば寿司。江戸の郷土料理といわれきた。

江戸っ子は刺身が好きであり屋台で売られていた。東京湾の魚介の豊富さが売り物であった。白魚もとれたという。アサリや海苔もとれた。遠浅の干潟を抱えた天然の漁場だったのが江戸前の海、東京湾である。加えて近隣の野田からは、生魚に合う濃口醤油が運ばれていた。

「寿司屋水滸伝」は握りずしを中心とした寿司屋での噺である。ある寿司屋で、唯一の寿司職人がやめると言い出す。亭主は洋食を修行したが、父の店を継ぐために帰ってきた男。粋な寿司商売にはあわない気質であった。再三の説得にもかかわらず、職人はやめてしまう。仕方なく、自分で寿司を握るが、包丁の使い方もままならない。客がそれをみて、「魚を切るなんて素人でも出来る」というと、別の客がその男をたしなめ、自分でトロを切ってみせる。素晴らしい腕前、「トロ切りの政」というプロだ。そしてこの店で働くことになる。

別の客からイカの刺身を注文されるが、政はトロしか切れないというので、客から文句が。そこへ出てきたのが「イカ切りの鉄」という男。この男も雇うことになる。このようにして、それぞれのプロを雇っているうちに厨房が狭くなってしまう。

しかし、長く続かず寿司屋は廃業。洋食屋をはじめる。ある日、カツカレーの注文。客から、「油がきれてなくて肉も固い」との文句。こんなカツカレーに金は払えないとも言い出す。聞けば客は「トンカツの秀」というプロ。逆に金を請求する始末。亭主は「そんな金まで請求した人ははじめだ。何でそんな。」「だから言ったろ、金よこせってんだよ」「トンカツの秀さん、、、そんな。ああ〜なるほど、カツアゲがうまいわけだ」

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ウィスコンシンで会った人々 その80 言葉遊び噺 「転失気」

Last Updated on 2015年8月25日 by 成田滋

言葉遊びというか下ネタ噺の演目である。医者が言う単語の意味がわからないのに、博学多識を自負する和尚を笑う演目である。小僧とのやりとりが絶妙だ。物事を婉曲に表現する粋な言葉を知らないで、赤恥をかくという内容だ。

体調のすぐれない寺の和尚が、往診に訪れた医師から「てんしき」があるかないかを尋ねられる。和尚は「てんしき」が何かわからず、「あったような、ないような、、」と答えてその場をとり繕う。そこに小僧の珍念を呼んで、それとなく尋ねることでなんとか「てんしき」について知ろうとする。

和尚 これ、珍念や、、、
珍念 へぇ、お呼びでございますか?
和尚 ん、今、先生がお見舞いをしてくださいましたな、
珍念 へぇ
和尚 あの折「テンシキはございますか?」と、お尋ねでしたな
珍念 へ、聞ぃておりました
和尚 で、珍念、テンシキを存知おるか?
珍念 知りません
和尚 知りません?確か、前に教えたはずじゃろ
珍念 忘れました、教えてください!

和尚は「ここで『てんしき』について教えてもよいが、それではお前のためにならない」とうそぶき、珍念を医師宅へ調合薬を取りに向かわせる。ついでに近所を回って「てんしきを借りてくる」ように命じる。

ところが聞く人がみな知ったかぶりをして雑貨屋は「珍念さん、棚の上から落ちて割れてしまった」、石屋は「鼠がでてきて壊したので味噌汁の実にして食べてしまった」など、ちんぷんかんぷんな説明をするため、「てんしき」が何であるのか珍念にはわからない。珍念が医者に聞くと、「放屁」「おなら」「屁」だという。それでもわからない珍念に医師は説明する。「てんしき」は「転失気」で、「気を転(まろ)め失う」と中国の医書に出てくるという。珍念納得し、和尚も雑貨屋も石屋も知らないくせに知ったかぶりをしていたことが分かる。

寺に戻った珍念、和尚に仕返しをしようと、「てんしきとは盃のことでした」と話す。和尚も「その通りだ、盃のことだ!”呑酒器”と書くのだ、よく覚えておけ!」と相変わらず知ったかぶり。そして大団円が待っている。

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ウィスコンシンで会った人々 その79 童の知恵噺 「真田小僧」

Last Updated on 2015年8月24日 by 成田滋

以前、「佐々木政談」という演目を紹介した。お白洲遊びをしている子供達の頓智に感心した南町奉行佐々木信濃守と賢しいガキとのやりとである。このガキはやがて近習に取り立てたられるという目出度い噺であった。白洲とは江戸時代の法廷。下段に「砂利敷」が設けられ、原告や被告が座る。砂利が白かったかどうかは不明ではある。

今回紹介するのは「真田小僧」という演目である。こましゃくれた子供が父親から小遣いをせびるためにあの手この手のゴマすり、それでもダメだと分るとおっかさんが父親の留守に男を家に入れたと浮気を匂わせる。その男は白い服をきてサングラスを掛け白い杖をついているというのだ。父親はすっかり欺され、小遣いを渡す。それを受け取ると、「その人はただの按摩さんでした」と言って逃げ出す。

湯から戻ってきた女房に父親が息子に銭を巻き上げられた話をする。知恵のあるのは結構だが、どうせなら真田昌幸の息子、真田幸村のように知恵で父親の絶体絶命のピンチを救うような息子になって欲しい、といって真田六文銭の旗印の由来を語る。

最初の銭を使い果たして玄関に潜んでいた子供は父親の話を一度で覚えて披露する。六文銭とはどういうものか、と父親に尋ねる。父親は銭を6枚並べて説明し始めるが、息子はその銭をかっさらって家から飛び出す。その子に向かって父親が「何に使うのか?」と聞くと息子は「焼き芋を買うんだ」と答える。そこで父親は「あいつも薩摩に落ちた、」というサゲとなる。

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ウィスコンシンで会った人々 その78 童噺 「子別れ」

Last Updated on 2015年8月22日 by 成田滋

古典落語の大作に「子別れ」がある。酒呑み、女房、子供、大工、弔い、神田、長屋、浮気、吉原、女郎、鰻、元の鞘、鎹等々、落語の全ての舞台が揃っている。

神田大工町の長屋に熊五郎が女房、一人息子の亀と暮らしている。腕の良い大工職人なのだが、大酒呑みである。山谷でのある弔いの帰り、その足で精進落だと吉原で遊ぶ。そして数日後長屋に戻ってくる。おかみさんは黙々と手仕事をしている。決まりの悪い熊五郎、そっと入っていくのだが、黙っていたおかみさんが「どこでお浮かれになりましたか?」「お相方の顔も覚えていないですか?」などと嫌みを言う。熊五郎は女郎の惚気話をし始める。とうとう堪忍袋の緒が切れて、おかみさんは離縁状を渡して亀坊と家をでていく。

しばらく女郎と暮らすのだが、金の切れ目が縁の切れ目。さすがに情けなる。そして心機一転。それからは人が変わったように働き出す。別れた女房は近くの長屋で仕立物の内職をして暮らしている。それから三年。

熊五郎は旦那と歩いているとき、亀坊とばったり会う。そして勉強のたしにと五十銭を手渡す。母親にはこのことを云わないようにと念を押し、翌日鰻を一緒に食べる約束をする。母親がまだ一人でいることも知る。亀坊の額に傷があるのを見て、問いただすと母親に仕事をくれる旦那の息子が意地悪して叩いたのだという。熊五郎、抗議もできない自分が情けない。我慢をするように言って聞かせる。

長屋に戻った亀坊の手に五十銭があるのを母親が見つける。なにか悪い料簡でも起こしたのではないかと疑る。亀坊はしばらくがんばり通すのだが、遂に白状する。そして熊五郎がいい身なりをして大工として働いていることも喋る。ぐうたらだった亭主が再婚もせず真面目になったことを聞いた母親の内心は揺れる。

熊五郎と亀坊は一緒に鰻屋に入る。そこに気がきでない母親もやってくる。二人はしばし気まずい会話を交わすのだが、お互いまだ一人身であることを漏らす。

熊坊 「父ちゃん、長屋に戻ってくれよ、、」
熊五郎 「言いにくいのだが、、元の鞘に戻らないか、、」
女房 「異存なんかあるものですか、、この子のためにも」
女房 「、、昔から子は鎹といいますから」

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ウィスコンシンで会った人々 その77 左甚五郎利勝噺 

Last Updated on 2015年8月21日 by 成田滋

落語に「竹の水仙」というのがある。「三井の大黒」、「ねずみ」とともに、伝説的な彫刻職人技を真剣に、また可笑しく取り上げている。天下の宮大工として名高い左甚五郎利勝。左利きであったために左という姓を名乗ったという説もある。もう一つの説は、彫り物を彫らせたら右に出るものがいないというので、それなら左にしようと名前を与えたという説である。日光東照宮の眠り猫を彫ったといわれる。宮大工の名声をほしいままにした人物である。

「竹の水仙」のあらすじである。京へ下る途中、左甚五郎は名前を隠して、三島宿の旅籠に寄る。旅籠の主は佐平。ところが、朝から酒を飲んで管をまいているだけで、宿代も払おうとしない。たまりかねた佐平に追い立てを食うが、甚五郎、平然としたもので、ある日中庭から手頃な竹を一本切ってくると、それから自分の部屋に籠もってなにやら作り始める。

心配した佐平が様子を見にいくと、なんと、見事な竹造りの水仙が仕上がっていた。たまげた佐平に、甚五郎、「この水仙は昼三度夜三度、水を替えると翌朝不思議があらわれる」「売るときは町人なら五十両、侍なら百両。びた一文負けてはならない」と託ける。

これはただ者ではないと、佐平が感嘆していると、なんとその翌朝、水仙の蕾が開き、たちまち見事な花を咲かせたから、一同仰天。そこに通った殿様の目にとまり、三太夫にこの水仙を買い求めるよう指示する。だが三太夫、「たかが水仙が百両とは無礼!たわけ!」といって佐平を面罵する。戻ってきた三太夫に殿は、「竹の水仙を買えないようなら切腹を申しつける!」と言い渡す。それからどたばた劇が始まる。

もう一席。「ねずみ」も彫り物師の噺である。奥州仙台の宿場町。左甚五郎が、宿引きの子供に誘われて「ねずみ屋」という鄙びた宿に泊まる。そこは腰の立たないような宇兵衛と十二歳の子供の二人だけでやっているという貧しい宿だった。

向かいには虎屋という旅籠がある。かつては宇兵衛のものだったが、追い出され今の物置小屋を宿としねずみ屋としている。物置に棲んでいたネズミにちなんだという。これを聞いた左甚五郎は、木片でねずみを彫り上げ、繁盛を願ってそれを店先に置いて帰っていった。するとなんとその木彫りネズミがまるで本物のネズミのように自分で動き回りはじめる。

この噂が広まるやいなや、ねずみ屋に泊まればご利益があるとして部屋に収まり切らないほどの客が入る。それを苦々しく眺めていた虎屋は別の職人に虎の木彫りを彫らせる。そしてねずみと虎の彫り物対決となる。

工匠の代名詞、左甚五郎の一席である。

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ウィスコンシンで会った人々 その76 匠噺 「三井の大黒」

Last Updated on 2015年8月20日 by 成田滋

江戸の古い地図を見ると「神田八丁堀」がある。町人によって鎌倉河岸東端から本町通りと神田の境に堀の長さが約八丁の堀が掘られ,浜町を経て江戸の湊と結んだ。約800m位である。神田と日本橋との境界となっていた堀である。現在は、中央区京橋付近となっている。東京駅八重洲口より東に歩き、宝町、八丁堀を過ぎると浜町堀となって隅田川に入る。この神田八丁堀によって江戸城や数々の大名屋敷をつないだ商行為が盛んになり、神田の職人町が隆盛した。今も鎌倉橋や竜閑橋や日本橋魚市場の跡がある。

「三井の大黒」という演目に匠が登場する。神田八丁堀で大工作業をしているところに半てんを着た男が現れる。そして江戸の大工仕事がやわい、下手だとけちをつける。男は怒った大工たちから寄ってたかって袋だたきにされる。棟梁の政五郎が仲裁して男にたずねると、西の国からきた番匠だ、という。番匠とは大工のこと。男は気に入られ、棟梁の居候となる。この男はぼうっとしたところがあって、箱根を越えるとき自分の名前を忘れたという。そこで若い大工たちに「ポン州」というあだ名を与えられた。「ポン州か。わしゃ、一度ポン州になりたかった。」

板を削る下働きを担当することになったポン州は、みっちりとカンナを砥いだ。ようやく削った2枚の板を重ねると、板はぴったりと重なり、若い大工が力を込めても一向にはがれない。大工達はおかしな仕事をするものだと呆れる。

上方に帰る前に、政五郎は歳の市で売る恵比寿大黒を彫って小遣い稼ぎをしていかないかと勧める。素直に応じたポン州は二階で食事も睡眠も取らず、一心不乱に何かを作る。数日後、ポン州は小僧に手紙を持たせてどこかに使いにやらせ、「湯に行ってくる」と出かける。そこに三井の使いという者が訪ねてきて、政五郎に「こちらに左甚五郎利勝様がおいでとか、、、」といって大黒様を頂戴にやってくる。政五郎はようやく得心する。

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8月19日から考える 元満蒙開拓団員と三里塚闘争

Last Updated on 2015年8月19日 by 成田滋

亡くなった叔父らのことに戻る。彼は樺太の大泊町で駅の助役をしていたときにソ連の捕虜となった。昭和25年頃、厚生省からの連絡によれば、死亡したところはクラスノヤルスク(Krasnoyarsk)である。

クラスノヤルスクはロシア連邦シベリア中部の大都市である。戦後、クラスノヤルスクの北方80キロのエニセイ川(Yenisei)河畔に原爆製造センターが建設される。ロイ・メドヴェージェフ(Roy Medvedev)著「知られざるスターリン」(現代思潮新社)によると、クラスノヤルスクへの鉄道を建設するために囚人収容所が建てられる。囚人の中には懲役25年以上の政治犯、犯罪人、民族闘争を扇動したとして逮捕された民間人も多数いたという。スターリンの思想や行動、原爆製造センター建設の歴史は、メドヴェージェフの本に詳しく書かれている。

叔父は鉄道建設か原爆製造センターの建設に駆り出され、その間に死亡したのかも知れないというのが漠とした思いだが妥当な推理だ。原爆製造センターの所在は最高の軍事機密であったはずである。それゆえ、よしんば叔父が生きていたとしても日本に帰還できたかは疑問である。生前父は、「弟は現地で結婚し、まだ生きているかもしれない」と云っていた。

戦後の引揚者のことである。引揚者とは非戦闘員の呼び名である。全国各地の農村で「引揚者村」と呼ばれた移住用集落がつくられた。割り当てられた所は痩せた土地が多かった。千葉県成田市の三里塚にも引揚げ者村がつくられた。元満蒙開拓団員も三里塚にやってきた。

1966年、佐藤栄作内閣は閣議で成田空港の建設地として三里塚、芝山地区を決定する。それから国の土地強制収容に反対する半世紀及ぶ三里塚闘争が始まる。国策で欺され翻弄された元満蒙開拓団員は粛然として「怨念」のプラッカードを掲げた。土地収用と土地所有権者への補償問題が今も続く。

開拓地には、茨城県つくば市の作谷地区もある。戦後すぐに「西筑波開拓団」を組織し、払い下げられた軍用地や山林などを開拓し始めた。開拓者の多くは、引揚者や復員軍人であった。痩せた土地で栽培できる芝の生産に携わっていく。

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8月18日を考える 見捨てられた人々ー棄民

Last Updated on 2015年8月18日 by 成田滋

長野県と岐阜県境にある恵那山。その東側に阿智村がある。人口6,500人。中央自動車道のそばにある谷間の村である。今は昼神温泉で知られているが、戦前は農村の人口過剰によって、満蒙開拓移民を国内で最も多く送り出した地域といわれる。この村に満州移民史を語る日本で唯一の民間施設「満蒙開拓平和記念館」がある。

「満蒙開拓平和記念館」に残る開拓民募集のポスターから、「楽園幻想」を宣伝文句にしていることが伺われる。ポスターには「北満の沃野へ」という標語がある。国策に誰も抗うことが難しい時代。海外移住というと響きはよいが、阿智村をはじめ全国から北満に移住した人々は戦後、外地に取り残された。移住者を集めるために番付表まで作ったというのだから恐れ入る。

もともと開拓団は関東軍の保護の元に開拓に従事するはずであった。しかし、ソ連の参戦によって兵隊や関係者はいち早く満鉄を利用し、ハルビンや長春、大連などへ撤退し始めた。置き去りにされた開拓団は自力で逃避行をせざるを得なくなった。開拓団の逃避行の有様は、いろいろな記録に残されている。山崎豊子の小説「大地の子」にもある。「棄民」と呼ばれた人々である。満蒙開拓は、八紘一宇、大東亜共栄圏の旗印で生まれた「棄民政策」である。

棄民は満蒙開拓団だけでない。戦前、ブラジル、メキシコ、ドミニカなどの中南米諸国へ移民した人々もそうだ。移民の募集要項を信じて、こうした国々に移住していった。ところが入植地としてあてがわれのは未耕地。開墾作業から始めたという。多くの者は開拓を断念し帰国したが、もはや安住の場所は少なかった。筆者の両親や親戚が昭和の初め、親戚の反対をよそに青森は弘前から移住したのが樺太であった。だが昭和20年、すべての財産を失い「引揚げ者」、あるいは「引揚げ民」として北海道の稚内に上陸した。

女性も国策によって看護婦として満州に送られ、中にはシベリア抑留を強いられた者もいる。ソ連兵に連れ去られ暴行された者もいた。そのドキュメンタリーが放映された。やがて故郷への「ダモイー帰還」がやってくる。だが抑留という過去の経験を親戚や知人が嫌がるのではないかと思い巡らし、帰国は辛いものとなったようだ。「誰も尋ねない、誰にも語れない深い傷を背負った帰還」となった。

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ウィスコンシンで会った人々 その75 匠噺 「浜野矩随」

Last Updated on 2015年8月17日 by 成田滋

江戸時代、名工とか名匠と云われる人々があちこちに大勢いたといわれる。経師職人、大工、絵師,木彫り師などである。経師屋だが、城や大名の屋敷が書画の幅や屏風 、ふすまなどを表装する職人である。表具師ともいわれた。今も東京表具経師内装文化協会というのもある。文字通り表具・経師・内装インテリアという3つの大きな業種部門における人材の育成を大きな目的としている。江戸時代の「匠」の技能を今に伝え普及しようとしている。

古典落語に「浜野矩随」(はまののりゆき)という演目がある。江戸は寛政年間、浜野矩康という腰元彫りの名人がいた。その作を求めて浜野家の前に道具屋が列をなして買い競った。その名人が亡くなって女房と一人息子の矩随が残された。しかし、息子の代になって列がぱたり途絶えた。それは矩随の作が誠に未熟であったからだ。それでも商人の若狭屋は先代のよしみで、どんなものでも1分で買い上げた。

今朝も矩随が若駒を彫って持ち込んできた。眠気のために足1本を彫り落としてしまったという。若狭屋は呆れて言う。「小僧達はこれを見て笑っている。下手な作品を作るくらいなら死んだ方がイイ。これからは縁を切るから5両の金を渡す。今後はここの敷居を二度とまたぐではない。死ぬなら吾妻橋から身を投げよ。」

矩随は家に帰り伊勢詣りに行くからと嘘をついたが、母はお見通しで、若狭屋の一件を聞き出した。母親は「死にたければ死んでも良いが、最期に私に形見を彫って欲しい」と観音様を所望した。矩随は井戸の水を浴び、仕事場に入った。隣では母親が神頼みの念仏を唱えていた。4日目の朝、出来た観音を母親に渡した。感心して見とれ「もう一度若狭屋さんに行って30両びた一文まからないからと見せておいで。それでも、まけろと言ったら好きな所に行っても良いよ。」と息子に言い聞かせた。「その前に、お水を一杯ちょうだい。後の半分をお前もお飲み。ではお行き。」矩随が若狭屋から30両を持って帰ると母は自害している。

浜野矩随はその後、父親に優るとも劣らぬ名彫師になったという噺である。

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8月16日を考える

Last Updated on 2015年8月17日 by 成田滋

今年の戦後70年談話(Statement)の内容と表現のことが話題となっている。アメリカの家族にもこの談話を読むように伝えた。筆者もわが国の戦前の帝国主義と植民地支配が近隣諸国に与えた影響を総理大臣がいかに総括するかに関心を持っていた。日本語と英語の文章を何度も読み返してみた。文章としては官僚らが良く練って作成されたことが伺われる。長い談話であるだけに、冗長さによって内容が損なわれているのが気になる。「誰が、いつ、どこで,なにを、なんのために」日本を戦争へ導いたのかが不明なのである。

かつての大東亜共栄圏、つまり帝国主義や植民地主義の発想に対する痛烈な反省と悔悟は、時代が変遷しても続けることが大事だと思うのである。「歴史は繰り返す」とは幾たび云われてきたことである。「未来志向の戦略的互恵関係とは、既存の現実の自体が如何なるものか顧みることから始まる」のではないかと思うのである。われわれも近隣の国々の人々も今回の70年談話に反省と悔い改めを期待したはずである。

大戦では310万の日本人が亡くなったと報道されている。各地に忠霊碑も建てられた。その数12,000箇所といわれる。だが、半数は廃墟になっているという。そうした中で、一人で忠霊碑を守る人が紹介されていた。「馬鹿でなければこんなことはできない」と、この墓守は述懐する。黙々と芝を刈り庭を手入れする後ろ姿に犠牲者への思いが伝わってくる。

今年は一国会議員が質問中に「八紘一宇」の標語を引用して注目された。広辞苑には「太平洋戦争期におけるわが国の海外進出を正当化するために用いた標語」とある。「八紘」とは世界、「一宇」とは一つの家の屋根という意味であるとWikipediaにある。しばし考えてみると、「安全保障」や「集団的自衛権」の考え方の遠因には、東亜の共同防衛や共存共栄があるように思える。

「八紘一宇」の呪縛から、われわれはもはや解放されていると考えるべきではない。「八紘一宇」をデマゴーグときめてかかるのではなく、その底に潜む論理はなになのかを反芻することが大事だと思うのである。そのことこそが、「謝罪を続ける宿命を背負っている」ということである。

131106962024913412628_DSC_0215  稚内市 氷雪の門IMG_0201 糸満市 平和記念公園

8月15日を考える

Last Updated on 2015年8月28日 by 成田滋

私は1945年8月15日をなにも覚えていない。かつて母親がこの年の8月に樺太の大泊から引揚げ船で稚内に上陸し、親戚を頼って美幌に落ち着いたことを教えられた。弟は1歳、筆者は2歳7か月、兄は4歳であった。父親は抑留され、数年後に帰ってきた。裸一貫となり家族5人の命だけが残った。

美幌では製材所の長屋があてがわれ、生活が始まった。酷い造りの家屋である。誰もが味わった惨めな引揚げ生活である。特に食料難である。母は3人の子供を連れて農作業をやった。食べ物が少なく、一家心中も考えたことがあったと後々述懐していた。それから馬鈴薯、とうきび、カボチャ、、なんでも作ったという。真冬の最中、とぼとぼ歩いて街の銭湯に通った。帰り道、手ぬぐいはカチカチに凍り付いた。

母の話で怖ろしかったのは、樺太からの引揚げ船上でのことである。瀕死の状態の乳飲み子を抱いた一人の母親がその子を海へを投げ入れたのを目撃したというのである。この話を聞いたのは我々兄弟が成人してからである。母親を前にして「俺たちも投げ込まれなくて良かったな、、、」と冗談気味に言い交わした。

「戦後70年 安倍首相談話の全文」(Statement by Prime Minister Shinzo Abe)を読んでいる。「満州事変、国際連盟からの脱退、、、進むべき進路を誤り、戦争への道を進んでいった。そして70年前、日本は敗戦した。」 誰が加害者で誰が被害者となったのか、、為政者の責任は大きい。

国策として送り込まれた満蒙開拓団の悲惨な逃避行に比べて、樺太からの引揚げはまだましな姿だったかもしれない。だが、船上での一人の女性の苦悩や農作業の母親の労苦を偲ぶとき、そこに深い情愛を感ぜずにはおれない。

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ウィスコンシンで会った人々 その74 葬式噺

Last Updated on 2015年8月14日 by 成田滋

貧乏長屋の住人から疎んじられていた卯之助、あだ名は「らくだ」という。あるとき、熊五郎という「らくだ」の兄貴分が訪ねてみると、フグにあたったようで死んでいる。兄貴分は「らくだ」の葬式を出してやろうと考える。そこに屑屋の久六がとおりかかる。熊五郎は、「らくだ」の持物を方付けように久六に依頼するのだが、ろくなものがないので久六は渋る。熊五郎にある考えが浮かぶ。

久六に対して、月番のところへいって長屋の住人から香典を集めるように、と伝える。月番は「らくだが死んだか!」といって喜び、香典を集めを了承して、赤飯を炊こうする。戻ってきた久六に対して、長屋の大家のところへも行って酒と煮染めを持ってくるように伝えろ、と指示する。大家は大の吝嗇、「らくだ」の店賃が大分貯まっているのに料理なんぞ出してたまるものかと剣もほろろに断る。それを熊五郎に伝えた久六、さらに熊五郎から「死骸の置き場に困っている。大家のところに運んできて、”死人(しびと)にかんかん”踊りをさせる」と脅かす。大家は驚かない。本当に死骸が運び込まれると、慌てて酒と料理を届けるという。

さらに久六は八百屋に使いに出させられる。死骸をいれる棺桶代わりに漬け物樽を借りてこいといわれる。八百屋もまた「らくだ」に散々苦しめられていたので、「そうか、フグもよく当ててくれたか、、」といって取り合わない。そこで”死人にかんかん踊り”の話をすると、驚いて「わかった、わかった、何個でも持って行け!」。

香典、酒や肴が集まったところで熊五郎は久六にかけつけ三杯と酒をすすめる。この久六、実は大酒呑み。とうとう酔っぱらって性格が豹変する。そして、酒がなくなると熊五郎に「酒屋にいって酒をもらってこい、もしいやだというなら”死人にかんかん踊り”をやらせるといえ、、」と脅す。攻守ところが変わるのが可笑しい。

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ウィスコンシンで会った人々 その73 夫婦の情愛噺

Last Updated on 2015年8月13日 by 成田滋

山手線田町と品川の間に新しい駅ができる。その名前がいま話題となっている。「芝浜」が一つの候補。新品川などという洒落にもならない駅名はご免だ。車内放送で「次は芝浜、芝浜、財布を忘れないように」と流れると面白い。JR東日本の社長は粋か無粋かが注目である。

芝は金杉に住む魚屋の勝五郎。良い腕をしているのだが怠け者。年越しも近いというのに、相変わらず仕事を休み、ササを食らって寝ているばかり。女房の方はいても立ってもいられなくなり、真夜中に亭主をたたき起こして、このままじゃ年も越せないから魚河岸へ仕入れに行ってくれとせっつく。

勝五郎はしかたなく、芝の浜に出て時間をつぶすことにする。海岸でぼんやりとたばこをふかし、暗い沖合いを眺めているうち、だんだん夜が明けてくる。波打ち際に手を入れると、ボロボロの財布に触る。指で中をさぐると確かに金貨。二分金で四十二両。

こうなると、商売どころではない。当分は遊んで暮らせると、家にとって返し、あっけにとられる女房の尻をたたいて、酒を買ってこさせ、友達とドンチャン騒ぎ。そのまま酔いつぶれて寝てしまう。

不意に女房が起こすので目を覚ます。
女房 「年を越せないから仕入れに行ってくれ」
勝五郎 「金は四十二両もあるじゃねえか」
女房  「どこにそんな金があるの。おまえさん、夢でも見てたんだよ」
勝五郎  「おかしいな、金を拾ったのは夢、酒を飲んで大騒ぎしたのは本当か、、、」

今度はさすがに勝五郎、自分が情けなくなり、それから酒はきっぱりやめて仕事に精を出す。

それから三年。すっかり改心して商売に励んだ勝五郎。得意先もつき、小さいながら店も構えている。大晦日、片付けも全部済まして夫婦水入らずという時、女房が見てもらいたいものがあると出したのは紛れもない、あの時の四十二両の財布だ。

サゲは是非ご自身で確かめて貰いたい。酒と夢と夫婦の情愛が秀逸である。

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ウィスコンシンで会った人々 その72 夢噺

Last Updated on 2015年8月12日 by 成田滋

筆者も毎晩のように夢をみる。現実の体験のようなことが拡がる。観念や心像だが、後悔や願望も現れるようである。去る2015年7月17日に夢が元で話がこじれる笑いを取り上げた。名奉行?までもが夢の話を聞きたいというものである。▽ウィスコンシンで会った人々 その49 名奉行噺 http://naritas.jp/wp1/?p=1992

夢の分析は古代バビロニアにもあったというから驚きである。夢は何かを象徴しているとされる。その元は経験である。従って、夢を分析すれば神経症の治療にも役立つとしたのがユング(Carl Yung)である。

落語に戻る。落語に出てくる夢噺には、多くの場合現実に起こりにくい事象を夢の中で再現しようとする願望が現れている。それは、いつも尻に敷かれている旦那がなんとかして、女房を見返したいとか、酒癖が悪くそれがもとで身を持ち崩すが、たまたま品川の海辺で拾った金で酒宴を開き、目覚めたとき女房から「夢でもみたんじゃないか、、」といわれ、それから立ち直って懸命に働き始める。有名な「芝浜」の一節である。

眠りながら鼻水の提灯をつくっていて、女房に起こされ、「お前さん、いったいどんな夢を見ていたの?」と夢の話をせがまれる旦那。これが「天狗裁き」。夢の中でうなされていた盲目の旦那が「あああ、夢か。。。お竹、おらあもう信心はやめるぜ、、」「どうして?」「目が見えるって妙なものだ。寝ているうちだけ、よぉーく見える」という「景清」。

「欲深き人の心と降る雪は、積もるにつけて道を忘るる」という狂歌を枕にして始まるのが、「夢金」という演目である。船頭の熊蔵が駆け落ちをしようとした扇屋という商家の女を送り届けると、旦那が喜んで五十両の紙包み二つをお礼として差し出す。熊蔵は紙包みを両手で強く握りしめる。「ああ、痛え、、」すべては夢で、目が覚めた熊蔵は自分の大事なモノを強く握りしめていた。

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ウィスコンシンで会った人々 その71 道楽噺

Last Updated on 2015年8月11日 by 成田滋

伊勢屋の若旦那、吉原通いにはまっている。怖いのは親父。湯屋に出掛け帰り際にばったり出会ったのが、貸本屋の善公である。「善公、おまえ他人の声色が上手かったな、わたしの代わりをしておくれ」。若旦那は善公に代役を押し付けて吉原に出掛けようとする。

善公、駄賃として袴をくれるというので断りきれない。言われるままに若旦那の部屋に入り代役を引き受ける。一階に住む大旦那、「おい、倅、今朝がた干物をもらったはすだ。どこに置いたんだ?」善公としてもそんな細かい話は聞いていない。「干物箱でしょう。」「うちに干物箱なんてない。」そんなやりとりで何とか大旦那の追及をかわす。

ひと安心した善公は、若旦那が花魁から受取った手紙を見つける。それを元に若旦那から金をせびろうと考える。ところが手紙に書かれていたのは、善公への悪口雑言である。善公がふんどしを忘れ、その匂いが四方八方までひろがるというのだ。そこで役所がDDTを撒くというのを読んで、「ひでえな、馬鹿だ、カスだなんて。花魁、ひでえよ!!」、大声を張り上げるので、大旦那にすっかりバレてしまる。

そこへ戻ってきたのが若旦那。窓際で声を掛ける。
若旦那 「おい、善公、紙入れ(財布)、紙入れ、忘れちまった、投げてくんな!」
親父 「バカヤロー」
若旦那 「おっ、善公うめえもんだ。親父にそっくりだ」
「干物箱」という演目である。

「唐茄子屋政談」の主人公も道楽で身を持ち崩し苦労する。商家の若旦那、徳兵衛は、道楽が過ぎて勘当され、親戚を頼っても相手にされず、友人からも見放され、吾妻橋から身を投げようとする。そこへ若旦那の叔父が偶然通りかかり、若旦那を押しとどめる。叔父の家で食事をあてがわれた若旦那は、「心を入れ替え、何でも叔父さんの言うことを聞く」と約束する。

翌朝、若旦那は叔父に起こされ、「お前は今日から俺の商売を手伝え。天秤棒をかつぐのだ」と命じられる。叔父の職業は唐茄子、カボチャの行商人であった。若旦那はひとりで慣れない重い荷物をかついで歩くうち転び、カボチャをばらまいてしまい、思わず「人殺しィ!」と叫ぶ。若旦那の叫び声を聞きつけた人々が集まってくる。若旦那の身の上話を聞いた人々は同情し、カボチャを買う。カボチャは残り2個になる。

通りでは、ほかの行商人たちが売り声を張り上げている。若旦那も負けじと声を出そうとするが、勇気が出ない。人気のない田んぼ道で売り声の練習をしているうち、そこが花街の近所であることに気づき、遊女との甘い思い出に浸るうち、売り声が薄墨のようにか細くなるという噺である。

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ウィスコンシンで会った人々 その70 「舞台番」に「湯屋番」噺 

Last Updated on 2015年8月10日 by 成田滋

「舞台番」や「湯屋番」には、うつけ者、お目出度い者が登場するというのが一般である。決して根性が悪いのではないのだが、一本調子なのである。そこがまた可笑しい。今は、舞台小屋も銭湯も数少なくなったが、江戸の情緒はこうした場所に漂う。

「蛙茶番」という一席である。とある商店で、店内に舞台をしつらえ、店員や出入りの商人とで『天竺徳兵衛噺』を演じることになる。くじ引きで配役を決まる。当日になり、巨大なガマガエル役の伊勢屋の若旦那が、仮病を使って休んでしまった。そのため芝居の幕を上げることができず、舞台上で一切を取り仕切る役の頭取、番頭は困り果てる。番頭は丁稚の定吉を代役に仕立てることにする。定吉からは安くない駄賃と休暇を要求される。

番頭は、舞台袖で客の騒ぎをしずめる役の「舞台番」を担当するはずの建具屋の半公がいつまで待ってもやって来ないことに気づく。定吉が迎えに行くと、半公は怒っていて「いい役をやらせてもらえると思ったら、こんな裏方なんかやっちゃいれない」と定吉にこぼす。引き返してきた定吉の報告を聞いた番頭は、「半公が岡惚れしている小間物屋の娘、みい坊の名を使って半次を釣れ。『素人役者なんかより、半ちゃんの粋な舞台番を観たいわ』と言っていた、と半公に吹き込め」と半公のところに再度行かせる。それを聞いた半公はすっかりポーッとして舞台番で登場するが、とんでもないものを客に見せてしまう。

次に「湯屋番」である。吉原通いに夢中になって勘当され、出入りの大工、熊五郎宅の二階に居候中の若旦那。しかし、まったく働かずに遊んでばかりいるので、居候先の評判はすこぶる悪い。とうとうかみさんと口論になり、困った棟梁は若旦那にどこかへ奉公に行くように薦めた。
「奉公ですか? 良いですねぇ、ご飯がいっぱい食べられる」
『それでは、家で殆ど食べさせてないように聞こえるじゃないですか』と文句を言う熊五郎。
「もちろん頂いてますよ、『死なない呪い』程度にね」

何でも、熊五郎の外出中にご飯を食べようとすると、必ず御かみさんが傍に張り付き、給仕と称して嫌がらせをすると言うのだ。
「お櫃のふたを開けるとさ、おひつを濡れたしゃもじでピタピタと叩き、平たくなった上っ面をすっと削いで茶碗に乗せるんだよ。見かけは一杯だよ、だけど中身はガランドウだ、お茶をかけたらすぐ終わり!」

それじゃあ可愛そうだ。何とかすると言い、改めて奉公の話をすると「日本橋に奴湯っていう銭湯があるんだ。あそこで奉公人を募集してるって話だから、行ってみようと思うんだ」

銭湯といえば湯屋番。若旦那は喜び勇んででかけるのだが、そこでの仕事というのは町内での薪集め。火事場などから古材を買ってくるのである。江戸の華といえば火事と喧嘩。木造の長屋が多かった江戸では薪は不自由しなかったようだ。

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ウィスコンシンで会った人々 その69 「家見舞い」噺 

Last Updated on 2015年8月8日 by 成田滋

ある二人組男。この兄貴分が所帯をもち家を建てた。その引越祝いにと、二人の男は水瓶を贈ろうと考える。だが、銭を持たない二人。いろいろ考え、古道具屋なら安いものがあるのではと歩き回る。当然そんな水瓶があるわけがない。

困っていると、ある古道具屋の主人がこの瓶なら金はいらないという。二人は喜ぶが、なぜかその瓶には水がいっぱい張ってある。早速、差し担いで運ぼうとする。

道具屋 「あんた方、それを何に使いなさる?」
二人組男 「水瓶だよ」
道具屋 「そりゃいけねえ。見たらわかりそうなもんだ。おまえさん方、毎朝あれにまたがるだろう」
二人組男 「ん……? 毎朝またがる? 」

よくよく見ると、果たしてそれは紛れもなく、もとの肥瓶であった。しかし、タダという言葉には勝てず、二人はその瓶を引き取る。そんなわけで瓶を手に入れた二人、そのまま渡したらバレるであろうから、まず瓶に水を張り、湯屋に行ってさっぱりして兄イの新宅に瓶を持っていく。

何も知らず、もらった兄イは大喜びし、お礼にと酒を振る舞いご馳走をしてくれる。ご飯に焼き海苔、おしたし、香の物、湯豆腐。うめえ、うめえと食っているうちに、ふと気づいて二人、腰が抜けた。出される料理はどれもその瓶から汲んだ水であつらえられている。

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ウィスコンシンで会った人々 その68 講中噺 

Last Updated on 2015年8月7日 by 成田滋

リーダーを中心に今も昔も団体旅行は盛んである。古くは伊勢詣や熊野詣、金比羅詣りなど信心深い人々。先達というまとめ役を先頭にして何日もかけて無病息災を祈って出掛けた。

相模国、神奈川県の名山に大山がある。丹沢の山々とともに丹沢大山国定公園に属し、日本三百名山や関東百名山の一つで美しい姿をみせている。大山は江戸時代に山岳信仰で盛んになった大山詣りで知られている。江戸からは先達が中心となって講中という相互扶助組織の男達が団体で山に登った。

大山の山頂には大きな石を御神体として祀った阿夫利神社の上社があり、中腹に阿夫利神社下社、大山寺が建っている。大山は別名を「阿夫利山」、「雨降り山」ともいわれる。阿夫利神社には雨乞いの神を祀られている。大山はもともと女人禁制。大山詣りというのは表向きで、大山詣りの後には男たちの楽しみがあった。男だけの大山講になっていた。

講中噺の古典落語の代表が「大山詣り」。ホラ吹きの熊による講中の金沢八景沖における水難遭難報告から、女房連中が一斉に剃髪して尼になるという噺である。途中のエピソードは飛ばすが、主人公のホラ熊が大山詣りから長屋に一人で帰ってくる。そして残された女房達に男連中は全員溺れて死んだと報告する。そして自分は、僧侶になって菩提を弔うためといって坊主頭を見せる。それを見た女達は遭難を信じてしまう。ホラ熊に唆されて尼さんになろうとして剃髪する。

そうとは知らない講中の一行。帰ってみると、長屋中「忌中」の札が張ってある。そして百万遍が聞こえてくる。

ホラ熊 「さ〜ぁ、みなさん、死んで間もないから、亡者が入口あたりで騒いでいる、しっかりお念仏を唱えてくださいよ。」
女房達 「あら、いやだ。うちの旦那だわ。」
男達 「誰がこんな事を。熊の野郎か。お前は決め式で坊主になったのだろう。」
ホラ熊 「ワラジを履いている内は旅の最中だ。腹を立てたら二分ずつ出しな。」
男達 「う〜ぅ。先達さ〜ぁん、、、?」
先達 「これは目出度い事だ。」
男達 「あんたのかみさんも坊主なんだぞ?どこが目出度いんだ?」
先達 「お山は晴天、家へ帰ればみんなが坊主、お毛が(怪我)なくってお目出度い。」

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ウィスコンシンで会った人々 その67 吝嗇噺

Last Updated on 2015年8月6日 by 成田滋

以前、「ドケチ噺」を取り上げた。ケチは吝嗇ともいう。広辞苑には「吝嗇」を過度にもの惜しみをすることとある。度を越した節約ぶり、ケチのことである。かつては、落語では「三ぼう」という言葉があった。どんな観客にも不快を催させない、といわれそれぞれの語尾からとられた。

まずは「泥棒」。落語の中ではどんなに悪く言っても、自ら名乗りでて怒鳴り込んでくる泥棒はいない。次に「けちん坊」。わざわざ金を出して噺を聴き笑いに来る客にケチな人はいない。最後は「つんぼう」。耳の聞こえない者は落語を聴きにこない。今では差別語とされるが、落語の噺なのでお許しをいただこう。

▽吝嗇にまつわる小咄がいろいろとある。ケチの人間を俗に「六日知らず」という。なぜなら一般に日付を勘定するときには、「1日、2日、、」と指を折っていくが、吝嗇家は6日目を勘定しようとすると、一度握った指を開くのが惜しくなってしまうそうだ。

▽ある男の向かい側の家が火事で丸焼けになった。それを知った男は、妻に焼け跡から種火を取って来させようとした。当然、相手は怒る。男はふてくされ、「今度こっちが火事になっても、火の粉もやらん」

▽ある大店の旦那。10人の使用人を雇っていたが、節約のために5人にする。それでも仕事に余裕があるので、その5人も解雇し、夫婦だけで経営を続ける。主人は自分ひとりでも仕事が間に合う、というので妻と離縁し、最後には自分自身もいらない、と自殺してしまう。

▽ケチの親子が散歩をしていると、父親が誤って川に落ちてしまう。泳げない息子は通行人に助けを求めるが、ケチの通行人は「助けはお代次第」という。値段交渉になり、2千円、3千円、4千円と値が釣り上がっていく。沈みかけている父親が叫んでいわく「もう出すな! それ以上出すなら、俺は潜る(または、「それ以上出すぐらいなら、もう死んでしまう」)」

▽店の内壁に釘を打つことになり、主人は丁稚に、隣家からカナヅチを借りてくるよう命じる。丁稚は手ぶらで帰ってきた。隣家の主に「打つのは竹の釘か、金釘か」と聞かれ、丁稚が金釘だ、と答えると、「金と金(金属同士)がぶつかるとカナヅチが擦り減る」と言って貸してくれなかったという。主人は隣人のケチぶりにあきれ果てて、「あんな奴からもう借りるな。うちのカナヅチを使え。」

▽男は「1本の扇子を10年もたせる方法」を考案した、と言い出す。半分だけ広げて5年あおぎ、次の5年でその半分をたたんで、残りの半分を広げて使う、というものだ。男は「始末はしてもケチはしてはいかん」と評し、「わしなら孫子の代まで伝えてみせる。扇子は動かさんと、顔の方を動かす」。

▽うなぎ屋の隣に住んでいる男。飯時になると、うなぎ屋から流れてくるかば焼きを焼く匂いをおかずにして飯を食べていた。それを知ったうなぎ屋が、月末に「匂いは客寄せに使こうてるさかい、代金を支払え」と言って家に乗り込んでくる。

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ウィスコンシンで会った人々 その66 死人噺

Last Updated on 2015年8月5日 by 成田滋

猛暑の時候。少しは涼しくなる話題といきたい。以前「片棒」という演目を紹介した。赤にし屋ケチ兵衛はある時三人の息子のうち一人に店の身代を譲ろうと考え、三人の金銭感覚を試すために自分が死んだらどんな葬式をだしてくれるかを話させる、という演目であった。自分が死んで入れられている棺桶の片棒を自分が担ごう、と申し出るケチの噺である。

長屋に住むのが卯之助。あだ名を「らくだ」という男。そのらくだの長屋に、ある日兄貴分の熊五郎がやってくる。返事がないので入ってみると、何とらくだが死んでいる。フグにあたったらしい。兄弟分の葬儀を出してやりたいが、熊五郎だが金がない。考え込んでいると、上手い具合に屑屋の久六がやってきた。早速、久六を呼んで室内の物を引き取ってもらおうとするが、それまで久六はらくだの家財道具はガラクタばかりを引き取らされたらしく断られる。ますます困る熊五郎。

「月番を呼んでこい」と久六を月番の所に行かせ、長屋から香典を集めてくるよう言いつけさせるの。久六は断るが、仕事道具を取られ、しぶしぶ月番の所へ。「らくだが死んだって? フグもうまくあてやがったか!」と喜ぶ月番。香典の申し出には「一度も祝儀を出してもらったことはない」と断るが、結局「赤飯を炊く代わりに香典を出すよう言って集めてくる」と了承した。

安心した久六だが、らくだ宅に戻ると今度は大家の所に通夜に出す酒と料理を届けさせるよう命令される。ところが、大家は有名なドケチ。そのことを話すと、熊五郎は「断ったらこう言えばいい」と秘策を授ける。死骸を文楽人形のように動かし、久六に歌わせて「かんかんのう」と踊らせる。本当にやると思っていなかった大家、縮み上がってしまい、酒と料理を出すと約束する。

可哀想に、またもや久六は八百屋の所へ「棺桶代わりに使うから、漬物樽を借りてこい」と言い渡される。しぶしぶ行くとやはり八百屋はらくだの死を喜び、申し入れは断わる。久六が「かんかんのう」の話をすると「やってみろ」と言われる。「つい今しがた大家の所で実演してきたばかりだ」と言うと「何個でもいいから持っていけー!」。

これで葬式の準備が整った。久六がらくだ宅に戻ると、大家の所から酒と料理が届いている。熊五郎に勧められ、しぶしぶ酒を飲んだ久六。ところが、久六という男、普段は大人しいが実はものすごい酒乱。呑んでいるうちに久六の性格が豹変する。もう仕事に行ったらと言う熊五郎に暴言を吐き始める。これで立場は逆転、酒が無くなったと半次が言うと、「酒屋へ行ってもらってこい! 断ったらかんかんのうを踊らせてやると言え!!」

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ウィスコンシンで会った人々 その65 親孝行噺

Last Updated on 2015年8月4日 by 成田滋

越後の小さな松山村に、18年間毎日両親の墓参りを欠かさないという百姓がいた。名前は正助。それがお上に聞こえ、褒美を貰うことになる。無欲な正助は、地頭が申し出る褒美に全く関心を示さない。「金を貰えばそれを使って働かなくなる」とか、「土地をもらっても小作人を雇わなければならない」、「新しい服をもらっても着る機会が無い」、、といって断る。地頭も正助の真面目さに少々困惑する。そして正助に云う。「それでは、お前が欲しいものを必ずかなえてやろう」

正助はそこで「18年前に死んだ父親に、夢でもいいからもう一度だけ会いたい」という。困った地頭、思案して「父親は何歳で無くなったのか」ときく。45歳であることがわかる。そして正助も45歳であった。二人は瓜二つの顔をしていたことを聞き出す。しめた、とばかり地頭は家来に鏡を持ってこさせる。松山村には鏡というものがなかった。

正助は鏡を見て「おとっつあん、、、」と感涙にむせぶ。まだ鏡というものを知らない。それを大事に持ち帰り、納屋の古葛籠中にしまっておく。それからは、毎日納屋に通い、とっつあんに会うのである。正助が蔵に出入りするのを不思議がった女房のお光が、正助のいない間、納屋に入って鏡を見つける。それを見て驚く。「何だぁ、この女は?」写った自分を夫の愛人と勘違いし、お光は嫉妬に狂って泣きだす。そして帰ってきた正助とつかみ合いの喧嘩となる。

そこに通りかかった隣村の尼。二人の話に割って入り、二人の言い分をきいてから、「その女に会ってみるべ、、」ということになる。鏡をみると二人にいう。「正さん、お光さん、喧嘩しちゃいかん、お前さんらが喧嘩するんで、この女きまりが悪いって尼さんになって詫びている、、、、」
この演目は「松山鏡」。文楽や志ん生名人の話芸は聞き応えがある。

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ウィスコンシンで会った人々 その64 地噺と「塩原多助一代記」

Last Updated on 2015年8月3日 by 成田滋

この落語シリーズの46で「鰍沢」という地噺を取り上げた。http://naritas.jp/wp1/?p=1969
地噺は笑いを誘うというよりは、語りで聞かせようという落語である。今回は、五代目名人古今亭志ん生が演じる「塩原多助一代記」である。演目のようにかなり長大なストーリーとなっている。落語でしばしば演じられるのは、「多助序」と「青との別れ」である。

塩原多助は実在の人物で、後に「塩原太助」となり江戸で冨をなした人といわれる。そのためか、歌舞伎や浪花節の演目としても脚色されたようである。以下、「多助序」と「青との別れ」である。
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裕福な塩原角右衛門が亡くなる。彼には後妻のお亀がいた。その腹違いの息子、多助が将来家を継ぐはずなのだがお亀には邪魔になり、色と欲に目がくらんで愛人、原丹治と一緒に多助を亡き者にしようと画策する。

ある夜、お亀は多助に隣の元村まで油を届けるように頼む。その途中で多助を殺す手はずをする。多助は愛馬、青を曳いて出掛ける。ところが隣村との境にくると青がどうしても先へと進もうとしない。なんとしても青は動かない。困っているとそこに朋輩の円治郎が通りかかる。事情をきいた円治郎が代わって青を曳いて隣村に向かう。そしての元村の庚申塚で円治郎は丹治にめった切りにされる。青は逃げ帰る。

多助が家に戻るとお亀は驚く。そして多助が円治郎を殺したに違いないとでっち上げる。馬の青が丹治を見ると激しくい鳴くのを多助は見て、丹治が円治郎を殺したことを確信する。多助はもはや塩原家に住まうことは困難だと判断し青と別れ江戸に向かう。

落語は笑うだけでない。会話や仕草といった通常の演出を避けるのが地噺。叙物語をしみじみ聴くことにも楽しみがあると思うのである。「多助序」と「青との別れ」はそれを感じさせてくれる。

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ウィスコンシンで会った人々 その63 富くじ噺

Last Updated on 2015年8月3日 by 成田滋

「富久」という演目は古き良き江戸の風物や庶民の姿を描いている。江戸の華といわれた火事と富くじが舞台である。富くじは、寺社にとっては大切な収入源。あちこちに広がって行ったため、江戸幕府は禁止令を出したほどだ。だが寺社普請のための富くじが再開される。幽霊話にも富くじや博打がでてくる。今も昔も宝くじは廃れることがない。

幇間の久蔵。人間は実直だが大酒のみが玉に瑕。酒の上での失敗で仕事にあぶれている。幇間とは男芸者。年の暮れ、久蔵は深川八幡の富札をなけなしの一分で買う。深川八幡は富岡八幡ともいわれる。札は「松の百十番」。一番富に当たれば千両、二番富でも五百両。ところでWikipediaによれば、一両は今の6〜10万円、一分は1〜4万円といわれる。

久蔵は長屋の大神宮の神棚に札をしまい、「二番富でも当たるように」と柏手をうつ。とある夜更けにまた半鐘の音。今度は久蔵の家がある浅草方向というのだ。久蔵急いで長屋に戻ると既に遅く、家は丸焼け。仕方なく出入り商人の居候になる。

数日後、深川八幡の境内を通ると、ちょうど富くじの抽選。「オレも一枚買ったっけ」と思い出したが、あの札も火事で焼けちまったと、諦め半分で人混みの興奮を見ている。
役人 「一番、松の百十番」
久蔵 「あ、当たったッ」

久蔵は卒倒した。今すぐ金をもらうと二割引かれるが、そんなことはどうでもいい。「冨札をお出し」と役人からせっつかれる。
久蔵  「札は………焼けちまってないッ」

「水屋の富」という演目も富くじが主役である。そして江戸時代に流行った「水屋」が主人公である。玉川上水とか神田上水がつくられたのは江戸時代。これによって水が曳かれた。それでも桶に水を入れて担いで売る「水屋」が多かったといわれる。坂の多いのが江戸の町。重くて安い料金だが、お得意さんが待っているから一日も休めない。

ある水屋が、大事な金をはたいて富くじを買う。それが、幸運にも千両が当たる。「水屋から足が洗える」と大喜びで、手数料の二割を引かれた八百両を持ち帰る。しかし、水屋はお得意さんが待っているので、代わりが見つかるまで辞めることができない。

お宝の八百両の隠し場所にも水屋は困る。持ち歩くわけにもいかず、悩んだ挙句、ボロ布でくるんで縁の下に隠す。やれ安心と商売に出てみるが、周りがすべて泥棒に見える。商売もそこそこに家に戻って、縁の下のお宝を確かめて安心して寝るのだが、今度は泥棒が夢に現れて殺される夢ばかり見る。毎日これの繰り返しで、水屋はもうフラフラ。

水屋が毎晩縁の下を確かめるのを見ていたのが隣の遊び人。何かあるなと縁の下を探して、お宝を見つけそっくり盗んでしまう。戻ってきた水屋、縁の下のお宝が無くなっている。そして一言、「これで苦労が無くなった」。

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ウィスコンシンで会った人々 その62 習い事噺

Last Updated on 2015年8月1日 by 成田滋

人は,余裕がでてくると何か習い事をしたくなる。筆者もそうである。そこで始めたのは囲碁である。結局はものにならないということが多い。どうも真剣味が足りないというところらしい。昇段の決勝戦で何度も敗れた。それ以来、昇段ということを気にしないで、無心に打つことを心掛けている。

習い事を始める男を可笑しく取り上げた演目が「あくび指南」であり「寝床」である。今でいうカルチャーセンターに通う者が主人公である。江戸時代、茶の湯、長唄、常磐津、新内などを習うことが粋とされたようである。「欠伸」の仕方も教えるという長閑な時代だったのだろう。

「あくび指南」だが、町内に変わった看板がかけられる。黒々と「あくび指南所」とある。妙齢の女性が掃き掃除をしている。この女が教えてくれるのだろうと、若い衆はすっかり舞い上がる。いろいろな稽古処があるのだが、あくびの指南は珍しい。金を払って習う指南所なので、なにか有るに違いないと、好奇心の旺盛な男が友達を誘ってでかける。

男達は妙齢の女性が応対してくれると出掛けると、そこに指南役の旦那が現れる。名前は「長息災欠伸」。男たちはガッカリする。指南役がいうには、普段やっているあくびは、「駄あくび」、一文の値打ちもないと云う。そして「あくびという人さまに、失礼なものを風流な芸事にするところに趣があるのだ」と講釈する。男どもには、なんだかわからない。そして夏のあくびの指南が始まる。それを眺めていた同輩が欠伸をし始める。

「寝床」は大店の旦那が主人公である。義太夫を始めた旦那、どうしても習い事の成果を披露したくて、人前で騙りたくなる。店の者達は、旦那のだみ声や唄いに辟易している。最初のお披露目は、お付き合いもあって、近所の長屋連中が仕方なしにやってくる。そしておべんちゃらを振っては、「良かった、良かった、またやってくれ、、」という。それに気をよくした旦那、二回目の講談会をやろうとする。

丁稚が旦那の指示で触れ回る。だが誰一人として参加したいという者はでてこない。「旦那の義太夫をきくと義太熱にやられる」、「酒を飲んで聞かないと、神経がやられる」なんていうのもでてくる。「風邪をひいた」、「成田山へお詣りの約束がある」、「かみさんが臨月だ」、「法事に出す生揚げやがんもどきをたくさん発注されて忙しい」といった口上を述べては断る。

そこで旦那、「今回は店の者に義太夫をきかせる」と宣言する。丁稚や小僧達はこれまた「飲み過ぎた」、「眼から涙が出てとまらない」といって全員仮病をつかってでようとしない。旦那は怒って店の者は全員クビだ、長屋の住人には「店立て」、強制退去という乱暴なことをいいだす。追い出されては大変とばかり、長屋の連中は義太夫を聞きにくることになる。旦那はそれが気にくわない。そして義太夫が開始する。だが、だが神経を麻痺させようとして酒を飲んできた長屋一同、途中から居眠りを始める。

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